夏の間、よく自転車に乗って街まで出かけていた。夏期講習のために駅前の塾までそうやってえっちらおっちら通っていたのだ。うだるような暑さの中必死にペダルを回していたのをよく覚えている。太陽の光が前傾姿勢になっている僕の首をじりじりと焼き付けた。暑いって痛いんだな、ってな感じのことを考えながら坂を上ったり下ったりの毎日。
夏期講習は8月の頭から2週間続くことになっていた。その間、土日を除いて炎天下の中自転車を漕ぐ羽目になる。でも仕方の無いことなのだ。高校3年のこの時期は周りはみんな目を血走らせて参考書とにらめっこしている。そこまで必死になる気には到底なれなかったけど、自分もそうしなければならないような空気が漂っていた。だから進んで塾の申込書にサインしてこうして汗をかいているのだ。
地元はあちこちに田んぼが広がる典型的な田舎だった。周りに背の高い建物は一つも無く、要するに自分を太陽から隠してくれる影も無く、こんな時に地元の過疎っぷりを嘆いていた。嘆くタイミングが違うような気もするがそれは気のせいだ。すれ違う人の数も少なく、たまに出くわせば会釈されたりする。今の日本じゃなかなか見られない光景が平然と広がっているような田舎なのだ。
そんな車や人通りの殆ど無い、目の前に田んぼが広がる道路にぽつんとそのバス停はあった。小さなお寺の前にあって、街へ向かう時いつも目にするそれは風雨に晒されてもうすっかりボロボロになっていた。時刻表も色褪せ何時バスが来るのか分からない、そもそも運行しているのかどうかすら分からない。この街は老人が多いからそこら辺が利用するのだろうか、と朽ち果てた鉄の棒を眺めながら思っていた。
特に気にも留めやしないようなもの。
思い出にも記憶にも残らないようなこと。
でも、その夏だけは違った。
夏期講習初日。変わらない風景をギアが変わらない自転車で通り抜けていく。オンボロのマイバイシクルはギアが錆びついてずっと一番重いやつに入ったままだった。使わなくていい体力を使いながら地面に向けて足を押した。そんな運動を繰り返して寺の杉の木が見えてきた頃、ふといつもと違う風景に気づいた。
最初に目に入ったのは、蛙の髪飾りだった。夏の日差しを受けて少し翠に煌めく長髪。こんなど田舎に似つかわしくない垢抜けた雰囲気で、彼女の周りだけ切り取ってポスターになってるようなそんな印象。溢れる汗を乾かしてくれるありがたい風に髪を靡かせて、制服の彼女はバス停に佇んでいた。
乗る人がいたのか。彼女に最初に抱いた感想はこんな感じだった。次に可愛い子だな、と思った。見ていられたのはほんの数秒間でどこがどう可愛いのかまで考えることなんて出来なかったけど、可愛いということだけは確かだった。
あそこからバスに乗ってどこに行くんだろうな、何しに行くんだろうな。答えの出るわけがない疑問を繰り返しながら自転車を進めていく。存外移動中というのは取留めの無いことを考えがちなのだ。今日はたまたま見慣れない女の子のことだっただけ、それだけのこと。
次の日も彼女はそこにいた。別に期待していたわけじゃあなかったのに翠の髪を確認した瞬間、とくんと心臓が跳ねた。彼女は本を片手に何時来ているのか分からないバスを待っている。昨日と同じように吹く風に、少し読むづらそうにしながらページを捲っていた。
横目でちらりと彼女の持っている本を見ると自分が使っているのと同じ英単語帳のタイトルが目に入った。同い年なのかな。『受験もバッチリ!』の帯が付いているような本を読んでいるのは受験生くらいなものだろう。制服を着ているから現役ってことだろうな。うん、やっぱり同級生だ。ほんの小さな共通点を見つけて、その日は何となくペダルが軽かった。
彼女は定期的にバスに乗ってどこかへ向かっているようだ。3回目に彼女を見かけてその結論に至った。3日も連続で同じ時間に同じバス停で待っているということは、つまりはそういうことだろう。もしかすると自分と同じく夏期講習でも受けに塾に通っているのかもしれない。受験生であることは間違いないからきっとそうだ。
勝手な想像をしながら話しかけるわけでもなくただ前を通り過ぎていく。最近は自転車に乗ってる間ずっと彼女のことを考えている気がする。ストーカーか、僕は。お互いに通行人Aでしかないはずなのに、たくさんいるエキストラの中の一人でしかないはずなのに。よくある青春ストーリーを期待しているのかもしれない。夏、田舎のバス停、女の子、いつか読んだ小説そのままの世界じゃないか。
馬鹿馬鹿しい。
ほら、やっぱり今日も風が吹くだけで僕と彼女の交流なんて生まれやしない。たった数秒、自転車の車輪が何回転かもしないうちに互いの世界は重なって、また離れていく。笑っちゃうようなポエムを思い浮かべながら僕は彼女の顔を横目でちらりと見ていくのだ。それがつまり“見とれている”ということも忘れそうになるくらいに。
しとしとと雨粒がビニール傘ほんのり濡らしていく。お巡りさんに見つからないよう祈りながら自転車を片手運転。この程度の雨なら問題無く走ることが出来るだろうと、鉛色の雲の下を駆けていく。今日は傘をさしながらバスを待っているんだろうか。段々と彼女との邂逅が楽しみになりつつある僕がいた。
でも、その日寺の前にあったのは雨に濡れたバス停だけだった。今までそれが当たり前の光景だったのに僕は酷く落胆してしまった。誰もいないことを確認すると同時に溜息が漏れる。今日だけ来なかったのかもしれないしバスに既に乗っていってしまった可能性もある。分かっているのは本日僕は彼女と会うことができないということだ。
未練がましくじっとバス停を見つめながら通りすぎようとすると、土台のそばに何か落ちているのを見つけた。自転車を止めそれを拾い上げてみる。蛇のキーホルダーだった。リアルなものではなくデフォルメされていて干支のキャラクターとして売っていそうな蛇だ。あの娘の、だろうな多分。
さてどうしたものか。ここに置いたままでもきっと誰も持ち去りはしないだろうが雨の中残しておくのはいささか気が引ける。それにこれはあの娘と繋がりを持つチャンスなんじゃないか? そう思った時には既に僕はキーホルダーをポケットに入れ自転車を漕ぎ出していた。
週末だということをすっかり忘れていた。塾は当然休みだし、あの娘だってそれは同じだろう。いや、塾に通っているというのはこちらの勝手な想像なのだけれども平日と同じ時間に休日も乗っている可能性は低い。
休日の朝。まだまだ寝ていたい気分だけど、どうしようかな。件のキーホルダーを目の前でくるくるさせながら少し悩んでいるとふと蛇の赤い目が合った。……行くだけ行ってみようか。幸い昨日の雨も晴れていたし軽いサイクリングも兼ねてと考えれば悪くない。そう結論付けて、僕は大きく背伸びした。
誰も訪れないバス停の横で僕は手持ち無沙汰に目前の田んぼを眺めていた。やはりというか何というか彼女の姿はどこにも見えず、結局無駄足になってしまった。遅れて来るかもしれないという僅かなの希望を抱いてこうして時間を潰してはいるけど、僕のこの行動は傍から見たら相当気持ち悪いんじゃないだろうか。一度そう考えてしまうと何だか自分が惨めに思えてしまって、今の自分を誰にも見られない内にとすぐにその場を離れた。とんびの鳴き声がまるで僕を笑っているかのように聞こえた。
これほど月曜日が待ち遠しくなるのは初めてだ。ただ落とし物を届けるだけなのに妙に気合が入ってしまったり、渡すシチュエーションを何度も何度も頭の中で繰り返したりしてどうにも落ち着かない夜を過ごした。いつもより早めに起きたことを母親に指摘されて少し恥ずかしくなる。
いつもの道をいつもの速さで、いつもと違う気持ちを胸に街へと向かう。あの杉の木が見えればもう君の姿がそこにあって、僕は自転車を止めてちょっと話しかけるのだ。
それだけのこと。
たったそれだけのことなのに、どうして僕の足はぎこちなくペダルを回し続けているんだろう。このまま加速したらいつものように通り過ぎてしまうじゃないか。心臓があっちこっちに跳ねて、頭がぐるんぐるんしてきた。ここでブレーキをかけるだけでいいんだ。ブレーキをかけてそれで、それで──
──僕は臆病だった。ちらりと後ろに顔を向けるとバスを待つ彼女が見えた。車輪が回転するほど距離は離れていく。君に渡すはずだったキーホルダーは、僕のポケットに入ったまま。明日はきっと、と言い訳することしかできなかった。
時間が経つのはあっという間だった。夏期講習は今日で終わり、もうこんな時間に自転車を走らせる必要も無くなる。今日しかない、今日こそはあの娘に渡さなきゃ。もう言い訳を繰り返すのは嫌だ。ありがちな青春ストーリーが始まらなくったっていい、少しだけでも彼女の日常に僕を登場させたいんだ。大げさすぎるほどそう自分に言い聞かせて僕は家を出た。
最初にエンジン音が聞こえた。次に白い車体が見えた。考えるまでもない、彼女が乗るバスだ。
──何で、何でこのタイミングなんだよ! 出来すぎだろ!
タラップを踏む彼女に追いつけと僕はペダルを踏み込んだ。回転数を上げ吹き出す汗にも構わず一心に前へと進む。車輪と一緒に心の声も加速していく気がした。渡さなきゃいけないものがあるんだ、伝えたい言葉があるんだ、だから。
扉が閉まる音が僕の耳に届いた。肩で息をする僕の横でガラスの向こう側の彼女は窓際の席に座った。確かに目の前に君がいるのに、僕はどうして息を切らしているんだろう。ひたすらに自分が情けなくなった。
バスが少しづつ動き始める。君も僕から離れていく。もう、追いつけない。臆病な僕は追いつこうとすることもできない。
顔を上げると、窓の向こうにこっちを振り向く君の顔が見えた。
初めて目が合った。
君はにっこり微笑んで、軽く頭を下げた。
田舎によくある光景、だけど僕にはそれが特別なことに思えて。
そのままバスはスピードを上げ道の向こうへ行ってしまった。あれはさよならの挨拶、彼女と僕はもうここで会うことはないだろう。伝えたかった言葉はキーホルダーと一緒に僕の手のひらに握り締められた。
夏期講習が終わった後も僕はあのバス停に通い続けた。あれ以来彼女もバスもここに来ることは無かったけど、それでももう一度会いたくて。
夏の青空を眺めながらバス停に佇む日々がしばらく続いた8月最後の日、何も無くなった道路と寺の塀に貼られた廃線のチラシを見つけて僕はそこにいない彼女に向かって小さく“さよなら”と呟いた。いつもと違う夏、違わなかった僕。秋を知らせる少し肌寒い風がチラシを揺らした。
夢を、見た。こことは違う空の下、こことは違う田舎道。僕は自転車を漕いで進んでいく。共通してるのはボロボロのバス停とそこに佇む君だけ。自転車の回転数が上がると同時に君の姿も近くなる。やっぱり風に髪を靡かせて、到着不明のバスを待って君は確かに僕の目の前にいた。
これは夢なんだ。だってほら、軽いブレーキ音といっしょに止まることが出来たから。ポケットからあのキーホルダーを出して君に渡すことが出来たから。現実の僕には出来なかったことだから。
受け取った彼女はあの時のようににっこりと微笑んだ。今度はありがとうの気持ちを込めて、かな。そう思うことにした。
これ以上はもういいだろう。例えここで僕の思いをぶちまけたとしても現実の君には何も届かない。頭の中で呟いたのと同じことだ。全て飲み込んで彼女を背に自転車を漕ぎ出した。名前も知らない、知ることが出来なかったあの娘は今どこにいるんだろうか。どこまで離れてしまったんだろうか。夢にしてはやけに現実味を帯びた風景を眺めながらそう思った。
目が覚めると机の上に置いてあった蛇のキーホルダーは無くなっていた。
夏も終わり、今日から秋になる。
***
──あやや、こんな道の真中でどうなされたんで?
──いえちょっと懐かしくなったというか、待ち合わせというか
──なるほど、これは外の目印とか道標みたいなものなんですね
──概ねその通りです
──で、待ち人来ずと
──あ、もう用は済みましたよ
──ほほう、どんな?
──ちょっと、落とし物を届けてもらったんです
夏期講習は8月の頭から2週間続くことになっていた。その間、土日を除いて炎天下の中自転車を漕ぐ羽目になる。でも仕方の無いことなのだ。高校3年のこの時期は周りはみんな目を血走らせて参考書とにらめっこしている。そこまで必死になる気には到底なれなかったけど、自分もそうしなければならないような空気が漂っていた。だから進んで塾の申込書にサインしてこうして汗をかいているのだ。
地元はあちこちに田んぼが広がる典型的な田舎だった。周りに背の高い建物は一つも無く、要するに自分を太陽から隠してくれる影も無く、こんな時に地元の過疎っぷりを嘆いていた。嘆くタイミングが違うような気もするがそれは気のせいだ。すれ違う人の数も少なく、たまに出くわせば会釈されたりする。今の日本じゃなかなか見られない光景が平然と広がっているような田舎なのだ。
そんな車や人通りの殆ど無い、目の前に田んぼが広がる道路にぽつんとそのバス停はあった。小さなお寺の前にあって、街へ向かう時いつも目にするそれは風雨に晒されてもうすっかりボロボロになっていた。時刻表も色褪せ何時バスが来るのか分からない、そもそも運行しているのかどうかすら分からない。この街は老人が多いからそこら辺が利用するのだろうか、と朽ち果てた鉄の棒を眺めながら思っていた。
特に気にも留めやしないようなもの。
思い出にも記憶にも残らないようなこと。
でも、その夏だけは違った。
夏期講習初日。変わらない風景をギアが変わらない自転車で通り抜けていく。オンボロのマイバイシクルはギアが錆びついてずっと一番重いやつに入ったままだった。使わなくていい体力を使いながら地面に向けて足を押した。そんな運動を繰り返して寺の杉の木が見えてきた頃、ふといつもと違う風景に気づいた。
最初に目に入ったのは、蛙の髪飾りだった。夏の日差しを受けて少し翠に煌めく長髪。こんなど田舎に似つかわしくない垢抜けた雰囲気で、彼女の周りだけ切り取ってポスターになってるようなそんな印象。溢れる汗を乾かしてくれるありがたい風に髪を靡かせて、制服の彼女はバス停に佇んでいた。
乗る人がいたのか。彼女に最初に抱いた感想はこんな感じだった。次に可愛い子だな、と思った。見ていられたのはほんの数秒間でどこがどう可愛いのかまで考えることなんて出来なかったけど、可愛いということだけは確かだった。
あそこからバスに乗ってどこに行くんだろうな、何しに行くんだろうな。答えの出るわけがない疑問を繰り返しながら自転車を進めていく。存外移動中というのは取留めの無いことを考えがちなのだ。今日はたまたま見慣れない女の子のことだっただけ、それだけのこと。
次の日も彼女はそこにいた。別に期待していたわけじゃあなかったのに翠の髪を確認した瞬間、とくんと心臓が跳ねた。彼女は本を片手に何時来ているのか分からないバスを待っている。昨日と同じように吹く風に、少し読むづらそうにしながらページを捲っていた。
横目でちらりと彼女の持っている本を見ると自分が使っているのと同じ英単語帳のタイトルが目に入った。同い年なのかな。『受験もバッチリ!』の帯が付いているような本を読んでいるのは受験生くらいなものだろう。制服を着ているから現役ってことだろうな。うん、やっぱり同級生だ。ほんの小さな共通点を見つけて、その日は何となくペダルが軽かった。
彼女は定期的にバスに乗ってどこかへ向かっているようだ。3回目に彼女を見かけてその結論に至った。3日も連続で同じ時間に同じバス停で待っているということは、つまりはそういうことだろう。もしかすると自分と同じく夏期講習でも受けに塾に通っているのかもしれない。受験生であることは間違いないからきっとそうだ。
勝手な想像をしながら話しかけるわけでもなくただ前を通り過ぎていく。最近は自転車に乗ってる間ずっと彼女のことを考えている気がする。ストーカーか、僕は。お互いに通行人Aでしかないはずなのに、たくさんいるエキストラの中の一人でしかないはずなのに。よくある青春ストーリーを期待しているのかもしれない。夏、田舎のバス停、女の子、いつか読んだ小説そのままの世界じゃないか。
馬鹿馬鹿しい。
ほら、やっぱり今日も風が吹くだけで僕と彼女の交流なんて生まれやしない。たった数秒、自転車の車輪が何回転かもしないうちに互いの世界は重なって、また離れていく。笑っちゃうようなポエムを思い浮かべながら僕は彼女の顔を横目でちらりと見ていくのだ。それがつまり“見とれている”ということも忘れそうになるくらいに。
しとしとと雨粒がビニール傘ほんのり濡らしていく。お巡りさんに見つからないよう祈りながら自転車を片手運転。この程度の雨なら問題無く走ることが出来るだろうと、鉛色の雲の下を駆けていく。今日は傘をさしながらバスを待っているんだろうか。段々と彼女との邂逅が楽しみになりつつある僕がいた。
でも、その日寺の前にあったのは雨に濡れたバス停だけだった。今までそれが当たり前の光景だったのに僕は酷く落胆してしまった。誰もいないことを確認すると同時に溜息が漏れる。今日だけ来なかったのかもしれないしバスに既に乗っていってしまった可能性もある。分かっているのは本日僕は彼女と会うことができないということだ。
未練がましくじっとバス停を見つめながら通りすぎようとすると、土台のそばに何か落ちているのを見つけた。自転車を止めそれを拾い上げてみる。蛇のキーホルダーだった。リアルなものではなくデフォルメされていて干支のキャラクターとして売っていそうな蛇だ。あの娘の、だろうな多分。
さてどうしたものか。ここに置いたままでもきっと誰も持ち去りはしないだろうが雨の中残しておくのはいささか気が引ける。それにこれはあの娘と繋がりを持つチャンスなんじゃないか? そう思った時には既に僕はキーホルダーをポケットに入れ自転車を漕ぎ出していた。
週末だということをすっかり忘れていた。塾は当然休みだし、あの娘だってそれは同じだろう。いや、塾に通っているというのはこちらの勝手な想像なのだけれども平日と同じ時間に休日も乗っている可能性は低い。
休日の朝。まだまだ寝ていたい気分だけど、どうしようかな。件のキーホルダーを目の前でくるくるさせながら少し悩んでいるとふと蛇の赤い目が合った。……行くだけ行ってみようか。幸い昨日の雨も晴れていたし軽いサイクリングも兼ねてと考えれば悪くない。そう結論付けて、僕は大きく背伸びした。
誰も訪れないバス停の横で僕は手持ち無沙汰に目前の田んぼを眺めていた。やはりというか何というか彼女の姿はどこにも見えず、結局無駄足になってしまった。遅れて来るかもしれないという僅かなの希望を抱いてこうして時間を潰してはいるけど、僕のこの行動は傍から見たら相当気持ち悪いんじゃないだろうか。一度そう考えてしまうと何だか自分が惨めに思えてしまって、今の自分を誰にも見られない内にとすぐにその場を離れた。とんびの鳴き声がまるで僕を笑っているかのように聞こえた。
これほど月曜日が待ち遠しくなるのは初めてだ。ただ落とし物を届けるだけなのに妙に気合が入ってしまったり、渡すシチュエーションを何度も何度も頭の中で繰り返したりしてどうにも落ち着かない夜を過ごした。いつもより早めに起きたことを母親に指摘されて少し恥ずかしくなる。
いつもの道をいつもの速さで、いつもと違う気持ちを胸に街へと向かう。あの杉の木が見えればもう君の姿がそこにあって、僕は自転車を止めてちょっと話しかけるのだ。
それだけのこと。
たったそれだけのことなのに、どうして僕の足はぎこちなくペダルを回し続けているんだろう。このまま加速したらいつものように通り過ぎてしまうじゃないか。心臓があっちこっちに跳ねて、頭がぐるんぐるんしてきた。ここでブレーキをかけるだけでいいんだ。ブレーキをかけてそれで、それで──
──僕は臆病だった。ちらりと後ろに顔を向けるとバスを待つ彼女が見えた。車輪が回転するほど距離は離れていく。君に渡すはずだったキーホルダーは、僕のポケットに入ったまま。明日はきっと、と言い訳することしかできなかった。
時間が経つのはあっという間だった。夏期講習は今日で終わり、もうこんな時間に自転車を走らせる必要も無くなる。今日しかない、今日こそはあの娘に渡さなきゃ。もう言い訳を繰り返すのは嫌だ。ありがちな青春ストーリーが始まらなくったっていい、少しだけでも彼女の日常に僕を登場させたいんだ。大げさすぎるほどそう自分に言い聞かせて僕は家を出た。
最初にエンジン音が聞こえた。次に白い車体が見えた。考えるまでもない、彼女が乗るバスだ。
──何で、何でこのタイミングなんだよ! 出来すぎだろ!
タラップを踏む彼女に追いつけと僕はペダルを踏み込んだ。回転数を上げ吹き出す汗にも構わず一心に前へと進む。車輪と一緒に心の声も加速していく気がした。渡さなきゃいけないものがあるんだ、伝えたい言葉があるんだ、だから。
扉が閉まる音が僕の耳に届いた。肩で息をする僕の横でガラスの向こう側の彼女は窓際の席に座った。確かに目の前に君がいるのに、僕はどうして息を切らしているんだろう。ひたすらに自分が情けなくなった。
バスが少しづつ動き始める。君も僕から離れていく。もう、追いつけない。臆病な僕は追いつこうとすることもできない。
顔を上げると、窓の向こうにこっちを振り向く君の顔が見えた。
初めて目が合った。
君はにっこり微笑んで、軽く頭を下げた。
田舎によくある光景、だけど僕にはそれが特別なことに思えて。
そのままバスはスピードを上げ道の向こうへ行ってしまった。あれはさよならの挨拶、彼女と僕はもうここで会うことはないだろう。伝えたかった言葉はキーホルダーと一緒に僕の手のひらに握り締められた。
夏期講習が終わった後も僕はあのバス停に通い続けた。あれ以来彼女もバスもここに来ることは無かったけど、それでももう一度会いたくて。
夏の青空を眺めながらバス停に佇む日々がしばらく続いた8月最後の日、何も無くなった道路と寺の塀に貼られた廃線のチラシを見つけて僕はそこにいない彼女に向かって小さく“さよなら”と呟いた。いつもと違う夏、違わなかった僕。秋を知らせる少し肌寒い風がチラシを揺らした。
夢を、見た。こことは違う空の下、こことは違う田舎道。僕は自転車を漕いで進んでいく。共通してるのはボロボロのバス停とそこに佇む君だけ。自転車の回転数が上がると同時に君の姿も近くなる。やっぱり風に髪を靡かせて、到着不明のバスを待って君は確かに僕の目の前にいた。
これは夢なんだ。だってほら、軽いブレーキ音といっしょに止まることが出来たから。ポケットからあのキーホルダーを出して君に渡すことが出来たから。現実の僕には出来なかったことだから。
受け取った彼女はあの時のようににっこりと微笑んだ。今度はありがとうの気持ちを込めて、かな。そう思うことにした。
これ以上はもういいだろう。例えここで僕の思いをぶちまけたとしても現実の君には何も届かない。頭の中で呟いたのと同じことだ。全て飲み込んで彼女を背に自転車を漕ぎ出した。名前も知らない、知ることが出来なかったあの娘は今どこにいるんだろうか。どこまで離れてしまったんだろうか。夢にしてはやけに現実味を帯びた風景を眺めながらそう思った。
目が覚めると机の上に置いてあった蛇のキーホルダーは無くなっていた。
夏も終わり、今日から秋になる。
***
──あやや、こんな道の真中でどうなされたんで?
──いえちょっと懐かしくなったというか、待ち合わせというか
──なるほど、これは外の目印とか道標みたいなものなんですね
──概ねその通りです
──で、待ち人来ずと
──あ、もう用は済みましたよ
──ほほう、どんな?
──ちょっと、落とし物を届けてもらったんです
私にも、こんな切なくも純粋な感情を持っていた時期が確かにありました……
あぁ、私はいつの間に穢れてしまったんだろう。
懐かしさにひたれるくらいに綺麗で素敵なお話を書いてくれた事に、心から感謝します。
主人公の少年と早苗さんの交わり方が淡く幻想的で素敵でした
聞いたことはないんですけどっ・・・!
それにしても、いい雰囲気ですねぇ。
伝えたい想いがあるのに伝えられない。
これほど、苦しいことはないと思うのです。
そう分かってても伝えられないことって、いくらでもあるんですよね。
ただ最初から最後まで接点持って欲しくなかった。
そのままドラマ形式PVにして欲しいくらい、良い雰囲気が伝わってきました。
こんな青春してみたかったです。
キーホルダーは夢から幻想に手渡されました、と。
物静かで、夏の終わりの匂いがする
こういう話は好きです