雨上がりの朝。食堂。シチュエーションは悪くないはずなのに。
「ね、お姉ちゃん。トマトとザリガニどっちが赤いかな?」
「……」
「お姉ちゃん?」
「……」
「私が選んじゃうよ?」
「……」
「んー」
深度四百。絶対零度。つん、とそっぽを向く姉は不機嫌のかたまりだ。
「ガニィー」
適当に語尾を伸ばしてサラダボウルにザリガニを放り込む。シャキシャキのレタスと輪切りのゆで卵を旺盛にかき乱すハサミが頼もしい。
「おぉ……朝だね、お姉ちゃん」
姉のサラダを貪るザリガニを窓から放ると、ボウルの中の残骸を味噌汁のスタンバイするミキサーへ。
「はい。ごはんよ、お燐」
褐色の液体をジョッキに注いで、窓辺でまどろむお燐の側に置く。ジョッキを前に目を剥いて固まるお燐の頭を撫でて、私は再び姉とのコンタクトを試みる。
「ね、お姉ちゃん。トマトとサンタさんどっちが赤いかな?」
「……」
「お姉ちゃん?」
「……」
「私が選んじゃうよ?」
「……止めておきなさい」
「お姉ちゃんが言うなら」
ぺっ、と年末に捕獲した血色の良いオッサンを窓から捨てる。やって来たときの朗らかな笑顔から一転、聞くに堪えない罵声と共に中指を立てて走り去る、中肉中背のアングロサクソンを微笑ましく見送ると、自分のサラダをガッチリガードしたお空をメッと嗜める。
「だめよお空。ごはんはお行儀良く、ね?」
こくこくと頷くお空は素直な良い子である。
「お姉ちゃんも、壁とお話してないでごはん食べよ?」
「……」
「お姉ちゃん」
「……」
「まただんまり? 見えないんでしょ、私の心? だからお話しよ?」
「……」
執拗につつくも閉じた瞳は頑なだ。
「……もぉ」
への字に曲げられた口元は、いかにも『私、怒ってますっ』と言いたげで非常にカワイイのだが、こうも意思疎通が出来ないと日常が上手く回らない。
「ねーお姉ちゃん?」
「……」
「あのね? 別に嫌がらせしたかった訳じゃないんだよ?」
そう。熟睡中の姉を叩き起こして、どしゃ降りの朝四時に砂糖を買いに走らせた理由に、悪意の類は微塵も含まれない。
「ニガいのは嫌いでしょ? だからほら、美味しい。お姉ちゃんも美味しいし、お店の人も嬉しいよね」
客の喜びは店主の喜び。かの雑貨店は最近流行の二十四時間営業だ。草木も眠るAM二時からの六時間、大型の番線カッターがあれば店は優しく客を迎え入れてくれる。茶も淹れず寝こける店主の不手際に目を瞑るなら、それはそう悪い買い物でもない。深夜の香霖堂は物音を立てぬという条件さえ満たせば、なんと全品100%引きの大盤振る舞いなのだ。巫女や魔女、メイド、庭師などの愛顧を受けて、店舗はそう遠くない未来、他人の手に渡るだろう。
「ほら、甘い。ほら、バンザーイ」
「……」
甘くて美味しいスクロース。だというのに姉の心はほぐれない。
「しりとりしよっか、お姉ちゃん」
そんな時こそ言葉の繋がりだ。愛の伝わらぬ現代社会。絶たれた絆を結びつけるのは言の葉のキャッチボールしかないのである。
「お姉ちゃんからどうぞ」
「……」
「どうぞ?」
「……ノムヒョン」
「ンー……」
語尾が地に落ちる。にべもない。
「はい、お燐。おかわりだよ」
だが一歩前進だ。返球こそ出来なかったものの、ノムヒョンは確かに姉から妹に向けた第一投なのだから。嬉しくないはずがない。お燐のねこまんまをバケツで追加するほどに心が躍る。
「お燐、遠慮しないで。私の気持ち」
幸せのおすそ分けである。お燐にもそれは分かるのだろう。そのしなやかな指先が一際シャープに喉を掻き毟る。
「お姉ちゃんお姉ちゃん」
「……なによ」
コンタクト成立。2%ほどだが愛の伝導率が復旧した。さすがはノムさんである。
「今日は私がお料理するよ」
「……こいしが?」
気だるげに向き直る姉。ため息の混じる返事だが、頬杖に支えられた顔は確かにこちらを向いている。
「あなたお料理はてんでダメじゃない」
「そんなことないよ。そんなことない」
ぷるぷると首を振って否定する。失礼な話だ。たった今目の前でお燐のねこまんまを作ってあげたじゃないか。
「私のサラダは?」
「ゲル状になった」
毛を逆立てたお燐の持つジョッキを指す。
「……こいし、何でもミキサーにかければいいってものじゃないのよ」
「ミキサーは良いよ、お姉ちゃん」
河童の生み出した世界の至宝だ。
「……いいけど、何を作ってくれるのよ」
「何が食べたい?」
「サラダ」
「どうぞ」
手付かずのバケツに突っ込んだ柄杓をジト目の姉に差し出した。
「サラダ?」
「サラダでございます」
恭しく柄杓を献上する。鼻の高さまで持ち上がった液体に姉は顔を顰めた。
「お燐。無理して飲まなくていいのよ」
「ざどりざまぁ……」
「泣かないの。こっちにいらっしゃい」
みぃみぃと姉の膝に乗るお燐。あ、いいなあ、そのサイズ。
「こいし。貴方はマイペース過ぎるの。サラダといい砂糖といい……そもそもどうして朝の四時に砂糖が要るのよ」
「甘くて美味しい」
「それは理由にならないわ」
「お姉ちゃんは甘いもの嫌い?」
「……好きだけど」
「ね?」
甘味が嫌いな乙女はいない。心を閉ざしたとしてもそれくらいは分かるのである。
「お空も甘いの好きよね?」
虫取り網を手にお空に微笑む。
「……こいし。そのアミは?」
「私もペット抱っこしたい」
「普通に呼びなさい。何でも虫取り網で捕獲しようとするんじゃありません」
「おくう! おくう! あぁぁ!」
虫取り網と柄杓を両手に奇声を上げて、グリコのポーズでお空を追い回す。
「こいし!」
「むー。お空、抱っこさせて」
おいでおいでと手招きする。三歩刻みで脳をフォーマットするお空は嬉しげに私の膝に飛び乗った。
「ヨーシヨシヨシ」
ぐりぐり撫でる。愛い奴である。
「まったく……で、お料理だっけ? 本当に作れるの?」
「うん。地上でグルメに教えてもらったの」
「大丈夫なの? グルメは食べる方のプロよ」
「うーん……うん。でも材料が足りないの」
「厨房は見たの?」
「うん、なかった」
厨房の業務用冷蔵庫は昨日のうちに確認済みである。
「でね、お姉ちゃんに材料を集めてもらいたいの」
「……ペットに行ってもらうんじゃだめなの? あなたにも遊び相手のペットをつけたでしょう?」
「お姉ちゃんに行ってほしい」
「どうして? 私は砂糖を買ってきたばかりなんだけど」
「ご苦労様」
「……あなたに夜明け前に叩き起こされて、雨の中砂糖を買いに行かされる気持ちが分かるかしら?」
「わかんない」
首を振る。ねー、とお空の顔を覗き込むと、私の膝の上ですやすやと寝ていた。可愛いので起こす。
「うにゅっ!?」
「お空、砂糖買ってきて」
小銭を渡す。
「こいし!」
「やっぱいいや」
砂糖はたっぷりあるのだ。
「それでお姉ちゃん。足りない材料なんだけど」
「……はいはい」
かったるそうな姉。何かを諦めたらしい。
「えーと――〝吸血鬼の爪〟〝桜の下の骨〟〝月の砂〟〝神湖の漣〟〝飛倉の破片〟――こんだけ」
「……なにその五つの難題」
「ん?」
「……食べられるの?」
「珍味」
「珍しいけど……」
稀少品は美味しい。それは物を味わう器官が脳であるからだ、とは脳のない幼女を愛するメイドの談である。
「誰にレシピを聞いたのよ」
「んー、ユユコ」
「共食いする気かしら……なんて料理なの?」
「ボーダーオブライス」
「眩暈がするわ」
ギリギリ喰えなくもない。そんな意訳の三ツ星ディナーだ。
「で、それらを私一人に集めてこいと言うの?」
「だめ?」
「……だめよ」
「泣いちゃう?」
「泣かないけど……」
「じゃ、お願い」
小銭を渡す。
「こいし、お金で買えないものもあるのよ」
「じゃ、これで」
砂糖を渡す。
「これはあなたのお姉ちゃんが、一生懸命買ってきた砂糖でしょう?」
ぎゅっと袖を握られた。
「泣いてるお姉ちゃんはかわいいよ」
「泣いてませんっ」
「うん。お姉ちゃんには笑って欲しい」
「こいし……」
目の端をこする姉。可愛い。
「それじゃお願い」
「ほ、本当に私一人で行くの?」
「嫌?」
「だ、だって……」
「今日は皆忙しいの。お燐は怨霊の管理があるし、お空は地獄の釜の火力調整。手が空いてるのはお姉ちゃんしかいないの」
「……こいしは?」
「私は微笑んでる」
「……こいしはお姉ちゃんのこときらいなの?」
「大好き」
誰にも渡さない。ずっと一緒にいてほしい。
「お姉ちゃんは私のこと好き?」
「当たり前でしょう……」
「嬉しい」
絶対離さない。私だけを見てほしい。
「お姉ちゃんが行ってくれるともっと嬉しいな」
「こいし……」
「行ってくれる?」
「ん……」
「お風呂を沸かして待ってるよ」
「ぅん……」
「いってらっしゃい!」
「ぅ……うん……」
雨上がりの地上に姉を送り出す。さあパーティの準備だ。
「お燐、お空も。手伝ってね」
今日は忙しくなるだろう。
∇
「お空、砂糖とバニラエッセンスとって」
「うにゅっ」
豆板醤とタイガーバームを渡される。
「ありがと」
よしよしと撫でてやる。
「目標をミキサーに入れてスイッチ。目標をミキサーに入れてスイッチ」
軟骨の砕ける音と共に猛々しくシェイクされた生クリームが見る見る赤く染まっていく。
「あやや」
スゲェ異臭。
「スパイシー」
親指を立てる。後で旧都の橋の下にでも置いてこよう。
「お空、砂糖とバニラエッセンスとって」
「うにゅっ」
プルトニウムとマウスピースを渡される。
「ありがと」
よしよしと撫でてやる。
「目標をミキサーに入れてスイッチ。目標をミキサーに入れて……」
スイッチを押そうとしたところでエントランスから物音がした。
「あ、お姉ちゃんかな」
時計を見れば夜の九時。出発から約十二時間経っている。材料調達に成功したにせよ諦めたにせよ、頃合だろうか。
「お帰りなさい。お風呂にする? ボクシングにする?」
ぺたぺたと厨房を出る。廊下の向こうから人影が近づいてきた。
「お姉ちゃん?」
目もあわせずにすれ違う姉。振り向けば、ぎゅっと握られた手からはぽたぽたと雫が垂れている。一度あがった雨が再び空を覆っているらしい。
「お姉ちゃんお姉ちゃん」
ぱたぱたと姉を追う。俯いた顔は前髪に隠れてその表情は窺えない。無機質に開かれた第三の目だけがいつもと変わらず私を見ていた。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
廊下の角で立ち止まった姉の顔を覗き込む。
「……どうしたのじゃないわよ」
「ん?」
濡れた頬は何によるものか。
「全部知ってるくせに……馬鹿にして」
「してないよ。馬鹿になんてしてない」
「……っ、何が忙しいからお姉ちゃんに行って欲しいよ……最初からそうさせるつもりだったんじゃない……!」
ぎゅっと肩を摑まれた。ブラウスがじっとりと濡れていく。
「吸血鬼も亡霊も! ニートも天パもオンバシラも! 皆歓迎してくれたわ。でも胸のうちでは笑ってた。こいし、あなたのおかげでね!」
「うん。それは私のせい」
「何が『はじめてのおつかい』よ! どうして私が妹の計らいで社会経験を積みに行ったことになってるのよ!」
「ごめんね。そう言ったら皆快諾してくれたの」
苦笑、爆笑、それぞれだったが、皆快く材料の提供を許してくれた。
「そのくせ従者や庭師には話が通ってなくて追い回されるし! 月の主治医には本気で応援された挙句求人雑誌のバックナンバーを持たされるし! 重いのよ!」
「その雑誌はどうしたの?」
「人間大のネズミにくれてやったわよ!」
「おしゃれラットに餌付けすると紅魔館の魔女がうるさいよ」
「そんな名前じゃなかったと思うけど……」
兎も角雑誌は譲ったらしい。
「どうしてそんないじわるをするのよ……。みんなが私のことをだめなお姉さんだって思ってた。こいしにお願いされたから……こいしが喜ぶと思ったから地上にまで行ったのに……」
「うん」
「朝だってそうよ……すごく眠いのに、こいしがどうしてもって言うから……。砂糖も重いし……転んだところを勇儀に見られるし……」
「転んじゃったの?」
「……」
「ごめんね」
肩に置かれた手を握る。
「ごめんね、って……」
「どうしてもお姉ちゃんとパーティがしたかったから。どうしてもご馳走が必要だったから」
「……パーティ?」
「仲直りパーティ」
「仲直り……? 誰と……誰の」
「私とお姉ちゃん」
姉の手をそっと私の胸に重ねた。
「別にけんかなんてしてなかったじゃない……」
「そうだね」
「じゃあ仲直りも何もないでしょう」
「でもお姉ちゃん今泣きそうだった」
「それは……順序が違うわ。パーティのお料理のことでこいしがおかしなことをするからよ」
「うん。だから仲直りパーティ」
「……」
仲直りの難しいところだ。まず和を乱す必要がある。
「ごめんねお姉ちゃん。嫌な思いいっぱいしたよね」
「こいし……」
「ごめんなさい」
帽子を脱いで頭を下げた。帽子に詰まっていたシャンプーの香りは、姉とお揃いのローズだった。
「お姉ちゃんと仲直りしたいな」
「……」
「だめ?」
「だめ……じゃない」
俯いて顔を隠す姉は、少し笑ったようだった。
「……あなたはばかよ」
「ひどい」
空いた手を背中に回される。ぴたりと密着した身体は雨に打たれて冷たかった。
「ケーキの前におフロにしよっか」
姉のブラウスに手をかける。
「こ、こら、こんなところでやめて。自分で脱げるから……」
「一緒にはいりたい」
「い、いいけど……」
「嬉しい」
早速自分の服のボタンを外す。
「ちょ、ちょっとだめよ。服は脱衣所で脱ぐの」
「誰も気付かないよ」
「だめ」
「むぅ……あ、そうだ。その前に材料。お姉ちゃん、お料理の材料は集まった?」
「え、ええ……物は揃ったけど」
「ちょうだい」
愛用の黄色い肩掛けかばんから取り出された稀少品を受け取る。
「お燐、いるー?」
食堂に向けて声をかけると、すぐにお燐が顔を出した。
「あたいに何かご用ですか?」
「うん。厨房にお空がいるから料理に変なもの入れないか見てて。あとこれ。砂糖とバニラエッセンスと一緒にミキサーにかけておいて。十五秒」
「はいな。あ、食堂の飾りつけ、殆ど終わってますけどまだ見ないでくださいね。とっておきがまだなんで」
煮干の詰まったくす球とか、怨霊の詰まった引き出物とか、そのあたりの余計なギミックだろう。
「……朝の砂糖もパーティのために?」
「うん。そう」
「……」
きゅ、と手を握られた。何故か酷く熱を感じた。
「えへへ」
「なに?」
「あったかい」
握られた手に頬をよせる。白い指は雨に濡れてなお、さらさらと流れるようだった。
「そう……私は少し寒いわ」
「大変。早くお風呂だねっ」
くるりと姉の後ろに回り込む。肩越しに覗き込んでブラウスのボタンをぷちぷち外していく。
「だ、だからこいし、自分でできるから……」
「ぷちぷちー」
手を動かしながら、バスルームに向けて胸でぐいぐい背中を押す。やれやれと笑う声。閉じたままの第三の瞳が、ぴくんと一度震えた気がした。
「ね、お姉ちゃん。トマトとザリガニどっちが赤いかな?」
「……」
「お姉ちゃん?」
「……」
「私が選んじゃうよ?」
「……」
「んー」
深度四百。絶対零度。つん、とそっぽを向く姉は不機嫌のかたまりだ。
「ガニィー」
適当に語尾を伸ばしてサラダボウルにザリガニを放り込む。シャキシャキのレタスと輪切りのゆで卵を旺盛にかき乱すハサミが頼もしい。
「おぉ……朝だね、お姉ちゃん」
姉のサラダを貪るザリガニを窓から放ると、ボウルの中の残骸を味噌汁のスタンバイするミキサーへ。
「はい。ごはんよ、お燐」
褐色の液体をジョッキに注いで、窓辺でまどろむお燐の側に置く。ジョッキを前に目を剥いて固まるお燐の頭を撫でて、私は再び姉とのコンタクトを試みる。
「ね、お姉ちゃん。トマトとサンタさんどっちが赤いかな?」
「……」
「お姉ちゃん?」
「……」
「私が選んじゃうよ?」
「……止めておきなさい」
「お姉ちゃんが言うなら」
ぺっ、と年末に捕獲した血色の良いオッサンを窓から捨てる。やって来たときの朗らかな笑顔から一転、聞くに堪えない罵声と共に中指を立てて走り去る、中肉中背のアングロサクソンを微笑ましく見送ると、自分のサラダをガッチリガードしたお空をメッと嗜める。
「だめよお空。ごはんはお行儀良く、ね?」
こくこくと頷くお空は素直な良い子である。
「お姉ちゃんも、壁とお話してないでごはん食べよ?」
「……」
「お姉ちゃん」
「……」
「まただんまり? 見えないんでしょ、私の心? だからお話しよ?」
「……」
執拗につつくも閉じた瞳は頑なだ。
「……もぉ」
への字に曲げられた口元は、いかにも『私、怒ってますっ』と言いたげで非常にカワイイのだが、こうも意思疎通が出来ないと日常が上手く回らない。
「ねーお姉ちゃん?」
「……」
「あのね? 別に嫌がらせしたかった訳じゃないんだよ?」
そう。熟睡中の姉を叩き起こして、どしゃ降りの朝四時に砂糖を買いに走らせた理由に、悪意の類は微塵も含まれない。
「ニガいのは嫌いでしょ? だからほら、美味しい。お姉ちゃんも美味しいし、お店の人も嬉しいよね」
客の喜びは店主の喜び。かの雑貨店は最近流行の二十四時間営業だ。草木も眠るAM二時からの六時間、大型の番線カッターがあれば店は優しく客を迎え入れてくれる。茶も淹れず寝こける店主の不手際に目を瞑るなら、それはそう悪い買い物でもない。深夜の香霖堂は物音を立てぬという条件さえ満たせば、なんと全品100%引きの大盤振る舞いなのだ。巫女や魔女、メイド、庭師などの愛顧を受けて、店舗はそう遠くない未来、他人の手に渡るだろう。
「ほら、甘い。ほら、バンザーイ」
「……」
甘くて美味しいスクロース。だというのに姉の心はほぐれない。
「しりとりしよっか、お姉ちゃん」
そんな時こそ言葉の繋がりだ。愛の伝わらぬ現代社会。絶たれた絆を結びつけるのは言の葉のキャッチボールしかないのである。
「お姉ちゃんからどうぞ」
「……」
「どうぞ?」
「……ノムヒョン」
「ンー……」
語尾が地に落ちる。にべもない。
「はい、お燐。おかわりだよ」
だが一歩前進だ。返球こそ出来なかったものの、ノムヒョンは確かに姉から妹に向けた第一投なのだから。嬉しくないはずがない。お燐のねこまんまをバケツで追加するほどに心が躍る。
「お燐、遠慮しないで。私の気持ち」
幸せのおすそ分けである。お燐にもそれは分かるのだろう。そのしなやかな指先が一際シャープに喉を掻き毟る。
「お姉ちゃんお姉ちゃん」
「……なによ」
コンタクト成立。2%ほどだが愛の伝導率が復旧した。さすがはノムさんである。
「今日は私がお料理するよ」
「……こいしが?」
気だるげに向き直る姉。ため息の混じる返事だが、頬杖に支えられた顔は確かにこちらを向いている。
「あなたお料理はてんでダメじゃない」
「そんなことないよ。そんなことない」
ぷるぷると首を振って否定する。失礼な話だ。たった今目の前でお燐のねこまんまを作ってあげたじゃないか。
「私のサラダは?」
「ゲル状になった」
毛を逆立てたお燐の持つジョッキを指す。
「……こいし、何でもミキサーにかければいいってものじゃないのよ」
「ミキサーは良いよ、お姉ちゃん」
河童の生み出した世界の至宝だ。
「……いいけど、何を作ってくれるのよ」
「何が食べたい?」
「サラダ」
「どうぞ」
手付かずのバケツに突っ込んだ柄杓をジト目の姉に差し出した。
「サラダ?」
「サラダでございます」
恭しく柄杓を献上する。鼻の高さまで持ち上がった液体に姉は顔を顰めた。
「お燐。無理して飲まなくていいのよ」
「ざどりざまぁ……」
「泣かないの。こっちにいらっしゃい」
みぃみぃと姉の膝に乗るお燐。あ、いいなあ、そのサイズ。
「こいし。貴方はマイペース過ぎるの。サラダといい砂糖といい……そもそもどうして朝の四時に砂糖が要るのよ」
「甘くて美味しい」
「それは理由にならないわ」
「お姉ちゃんは甘いもの嫌い?」
「……好きだけど」
「ね?」
甘味が嫌いな乙女はいない。心を閉ざしたとしてもそれくらいは分かるのである。
「お空も甘いの好きよね?」
虫取り網を手にお空に微笑む。
「……こいし。そのアミは?」
「私もペット抱っこしたい」
「普通に呼びなさい。何でも虫取り網で捕獲しようとするんじゃありません」
「おくう! おくう! あぁぁ!」
虫取り網と柄杓を両手に奇声を上げて、グリコのポーズでお空を追い回す。
「こいし!」
「むー。お空、抱っこさせて」
おいでおいでと手招きする。三歩刻みで脳をフォーマットするお空は嬉しげに私の膝に飛び乗った。
「ヨーシヨシヨシ」
ぐりぐり撫でる。愛い奴である。
「まったく……で、お料理だっけ? 本当に作れるの?」
「うん。地上でグルメに教えてもらったの」
「大丈夫なの? グルメは食べる方のプロよ」
「うーん……うん。でも材料が足りないの」
「厨房は見たの?」
「うん、なかった」
厨房の業務用冷蔵庫は昨日のうちに確認済みである。
「でね、お姉ちゃんに材料を集めてもらいたいの」
「……ペットに行ってもらうんじゃだめなの? あなたにも遊び相手のペットをつけたでしょう?」
「お姉ちゃんに行ってほしい」
「どうして? 私は砂糖を買ってきたばかりなんだけど」
「ご苦労様」
「……あなたに夜明け前に叩き起こされて、雨の中砂糖を買いに行かされる気持ちが分かるかしら?」
「わかんない」
首を振る。ねー、とお空の顔を覗き込むと、私の膝の上ですやすやと寝ていた。可愛いので起こす。
「うにゅっ!?」
「お空、砂糖買ってきて」
小銭を渡す。
「こいし!」
「やっぱいいや」
砂糖はたっぷりあるのだ。
「それでお姉ちゃん。足りない材料なんだけど」
「……はいはい」
かったるそうな姉。何かを諦めたらしい。
「えーと――〝吸血鬼の爪〟〝桜の下の骨〟〝月の砂〟〝神湖の漣〟〝飛倉の破片〟――こんだけ」
「……なにその五つの難題」
「ん?」
「……食べられるの?」
「珍味」
「珍しいけど……」
稀少品は美味しい。それは物を味わう器官が脳であるからだ、とは脳のない幼女を愛するメイドの談である。
「誰にレシピを聞いたのよ」
「んー、ユユコ」
「共食いする気かしら……なんて料理なの?」
「ボーダーオブライス」
「眩暈がするわ」
ギリギリ喰えなくもない。そんな意訳の三ツ星ディナーだ。
「で、それらを私一人に集めてこいと言うの?」
「だめ?」
「……だめよ」
「泣いちゃう?」
「泣かないけど……」
「じゃ、お願い」
小銭を渡す。
「こいし、お金で買えないものもあるのよ」
「じゃ、これで」
砂糖を渡す。
「これはあなたのお姉ちゃんが、一生懸命買ってきた砂糖でしょう?」
ぎゅっと袖を握られた。
「泣いてるお姉ちゃんはかわいいよ」
「泣いてませんっ」
「うん。お姉ちゃんには笑って欲しい」
「こいし……」
目の端をこする姉。可愛い。
「それじゃお願い」
「ほ、本当に私一人で行くの?」
「嫌?」
「だ、だって……」
「今日は皆忙しいの。お燐は怨霊の管理があるし、お空は地獄の釜の火力調整。手が空いてるのはお姉ちゃんしかいないの」
「……こいしは?」
「私は微笑んでる」
「……こいしはお姉ちゃんのこときらいなの?」
「大好き」
誰にも渡さない。ずっと一緒にいてほしい。
「お姉ちゃんは私のこと好き?」
「当たり前でしょう……」
「嬉しい」
絶対離さない。私だけを見てほしい。
「お姉ちゃんが行ってくれるともっと嬉しいな」
「こいし……」
「行ってくれる?」
「ん……」
「お風呂を沸かして待ってるよ」
「ぅん……」
「いってらっしゃい!」
「ぅ……うん……」
雨上がりの地上に姉を送り出す。さあパーティの準備だ。
「お燐、お空も。手伝ってね」
今日は忙しくなるだろう。
∇
「お空、砂糖とバニラエッセンスとって」
「うにゅっ」
豆板醤とタイガーバームを渡される。
「ありがと」
よしよしと撫でてやる。
「目標をミキサーに入れてスイッチ。目標をミキサーに入れてスイッチ」
軟骨の砕ける音と共に猛々しくシェイクされた生クリームが見る見る赤く染まっていく。
「あやや」
スゲェ異臭。
「スパイシー」
親指を立てる。後で旧都の橋の下にでも置いてこよう。
「お空、砂糖とバニラエッセンスとって」
「うにゅっ」
プルトニウムとマウスピースを渡される。
「ありがと」
よしよしと撫でてやる。
「目標をミキサーに入れてスイッチ。目標をミキサーに入れて……」
スイッチを押そうとしたところでエントランスから物音がした。
「あ、お姉ちゃんかな」
時計を見れば夜の九時。出発から約十二時間経っている。材料調達に成功したにせよ諦めたにせよ、頃合だろうか。
「お帰りなさい。お風呂にする? ボクシングにする?」
ぺたぺたと厨房を出る。廊下の向こうから人影が近づいてきた。
「お姉ちゃん?」
目もあわせずにすれ違う姉。振り向けば、ぎゅっと握られた手からはぽたぽたと雫が垂れている。一度あがった雨が再び空を覆っているらしい。
「お姉ちゃんお姉ちゃん」
ぱたぱたと姉を追う。俯いた顔は前髪に隠れてその表情は窺えない。無機質に開かれた第三の目だけがいつもと変わらず私を見ていた。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
廊下の角で立ち止まった姉の顔を覗き込む。
「……どうしたのじゃないわよ」
「ん?」
濡れた頬は何によるものか。
「全部知ってるくせに……馬鹿にして」
「してないよ。馬鹿になんてしてない」
「……っ、何が忙しいからお姉ちゃんに行って欲しいよ……最初からそうさせるつもりだったんじゃない……!」
ぎゅっと肩を摑まれた。ブラウスがじっとりと濡れていく。
「吸血鬼も亡霊も! ニートも天パもオンバシラも! 皆歓迎してくれたわ。でも胸のうちでは笑ってた。こいし、あなたのおかげでね!」
「うん。それは私のせい」
「何が『はじめてのおつかい』よ! どうして私が妹の計らいで社会経験を積みに行ったことになってるのよ!」
「ごめんね。そう言ったら皆快諾してくれたの」
苦笑、爆笑、それぞれだったが、皆快く材料の提供を許してくれた。
「そのくせ従者や庭師には話が通ってなくて追い回されるし! 月の主治医には本気で応援された挙句求人雑誌のバックナンバーを持たされるし! 重いのよ!」
「その雑誌はどうしたの?」
「人間大のネズミにくれてやったわよ!」
「おしゃれラットに餌付けすると紅魔館の魔女がうるさいよ」
「そんな名前じゃなかったと思うけど……」
兎も角雑誌は譲ったらしい。
「どうしてそんないじわるをするのよ……。みんなが私のことをだめなお姉さんだって思ってた。こいしにお願いされたから……こいしが喜ぶと思ったから地上にまで行ったのに……」
「うん」
「朝だってそうよ……すごく眠いのに、こいしがどうしてもって言うから……。砂糖も重いし……転んだところを勇儀に見られるし……」
「転んじゃったの?」
「……」
「ごめんね」
肩に置かれた手を握る。
「ごめんね、って……」
「どうしてもお姉ちゃんとパーティがしたかったから。どうしてもご馳走が必要だったから」
「……パーティ?」
「仲直りパーティ」
「仲直り……? 誰と……誰の」
「私とお姉ちゃん」
姉の手をそっと私の胸に重ねた。
「別にけんかなんてしてなかったじゃない……」
「そうだね」
「じゃあ仲直りも何もないでしょう」
「でもお姉ちゃん今泣きそうだった」
「それは……順序が違うわ。パーティのお料理のことでこいしがおかしなことをするからよ」
「うん。だから仲直りパーティ」
「……」
仲直りの難しいところだ。まず和を乱す必要がある。
「ごめんねお姉ちゃん。嫌な思いいっぱいしたよね」
「こいし……」
「ごめんなさい」
帽子を脱いで頭を下げた。帽子に詰まっていたシャンプーの香りは、姉とお揃いのローズだった。
「お姉ちゃんと仲直りしたいな」
「……」
「だめ?」
「だめ……じゃない」
俯いて顔を隠す姉は、少し笑ったようだった。
「……あなたはばかよ」
「ひどい」
空いた手を背中に回される。ぴたりと密着した身体は雨に打たれて冷たかった。
「ケーキの前におフロにしよっか」
姉のブラウスに手をかける。
「こ、こら、こんなところでやめて。自分で脱げるから……」
「一緒にはいりたい」
「い、いいけど……」
「嬉しい」
早速自分の服のボタンを外す。
「ちょ、ちょっとだめよ。服は脱衣所で脱ぐの」
「誰も気付かないよ」
「だめ」
「むぅ……あ、そうだ。その前に材料。お姉ちゃん、お料理の材料は集まった?」
「え、ええ……物は揃ったけど」
「ちょうだい」
愛用の黄色い肩掛けかばんから取り出された稀少品を受け取る。
「お燐、いるー?」
食堂に向けて声をかけると、すぐにお燐が顔を出した。
「あたいに何かご用ですか?」
「うん。厨房にお空がいるから料理に変なもの入れないか見てて。あとこれ。砂糖とバニラエッセンスと一緒にミキサーにかけておいて。十五秒」
「はいな。あ、食堂の飾りつけ、殆ど終わってますけどまだ見ないでくださいね。とっておきがまだなんで」
煮干の詰まったくす球とか、怨霊の詰まった引き出物とか、そのあたりの余計なギミックだろう。
「……朝の砂糖もパーティのために?」
「うん。そう」
「……」
きゅ、と手を握られた。何故か酷く熱を感じた。
「えへへ」
「なに?」
「あったかい」
握られた手に頬をよせる。白い指は雨に濡れてなお、さらさらと流れるようだった。
「そう……私は少し寒いわ」
「大変。早くお風呂だねっ」
くるりと姉の後ろに回り込む。肩越しに覗き込んでブラウスのボタンをぷちぷち外していく。
「だ、だからこいし、自分でできるから……」
「ぷちぷちー」
手を動かしながら、バスルームに向けて胸でぐいぐい背中を押す。やれやれと笑う声。閉じたままの第三の瞳が、ぴくんと一度震えた気がした。
なんとも言えぬ作品でした
さぁ、早急にこの直後のシーンを書くのだ、濃厚になw
創想話ではめったにない「本気で吹く」を体験できたのでこの点数で。
他にもグリコポーズでお空を追い回しているこいしの姿など色々な部分でニヤニヤしました。
いやぁ、面白かったです。
でも面白かった
だが大好きだ
笑っちゃうじゃないですか!
本当にもぅ……フヒ
理不尽な妹君に振り回されることで、快感を覚える日も、そう遠くはないことでしょう
さとりさまがんばれ、もっとがんばれ、超がんばれ
残念ながら、自分の文章力ではこの位しか書けないのが悔やまれます。
次の作品も期待してます。
甚く勉強になりました。
すごいセンスだ
無意識に核が備わり最強に見える
>愛用の黄色い肩掛けかばん
園児が持っているようなかばんを即座に思い浮かべてしまいました。
いつものスモックと合わせて、まさに『はじめてのおつかい』用装備。
貴方のぶっ飛んだ文章で、無意識に暴走するこいしちゃんを書かれると腹筋が幾らあっても足りない・・・w
こいしの台詞と冬扇氏独特の想定外の展開がとてもマッチしていました。
んでもってこいしの身勝手さに笑いより嫌悪感を覚える。
紅魔館の話の時は美鈴が割りを食う部分も多かったんだけどその分美鈴も
やり返していたし、あと美鈴自身がレミリアに心酔しきっててその仕打ちに
喜んでる描写もあったから気にならなかったんだが、このSSのさとりは
頭のおかしいこいしに良いように使われてて不憫としか言いようが無かった。
作者名を見て喜んでページを開いただけに、ちょっと期待外れ。
さとり様まじドヘタレ
でも吹いてしまったので敗北感。
おしゃれラット定着しちゃったのかw
こいしちゃんに言われたら砂糖買いに行く
誰だってそーする
オレだってそーする
文章に何とも言えない味わいがあってとても面白かったです
相変わらずの氏しか描けない独特な世界観が炸裂してて
思わず笑顔になってしまいます
話が合わないと言うより、合わせないようにして、こいしが遊んでるようにしか見えない。
パロディが面白いだけに残念
こうして、また一つ僕のメモ帳からネタが消えていったのであるorz
こいしは好きよ。でもこいしの料理は好きになれない;ww
頑張れ、みんな。いつかこいしも目覚めてくれるよ。今はただひたすらに我慢の時ね。
この一行で……
第三の目を閉じたことで相手の心を慮ることが出来なくなっているのでしょうか?
文章は良い意味で常軌を逸していると感じました。
やっぱり、言い回しが巧い。
でもボーダーオブライスは笑いましたw
前作で余裕たっぷりだったさとりがいじられまくってるあたりは可愛らしくて素敵でした。