車窓から流れる景色を眺めている。
まばたきも忘れたのか眼が乾いて、幽かな痛みに瞼を閉じた。
もう一度眼を開けても見えるのは同じ景色。
どこまでも広がる雪原だけだった。
果ての見えぬ雪景色の中を汽車は走っていた。
はて――何時からこうしているのだろう。
椅子から伝わる振動に体を揺らされながら思い耽る。
「ナズーリン?」
声をかけられ体が強張る。
驚き、だ。自分以外に誰かが居るなんて考えてなかった。
見れば四人がけの席の向かいに、ご主人様が座っていた。
「どうしました、ぼうっとして。疲れたのなら寝ても構いませんよ」
「いや、疲れ――たのかな。少々気が抜けてしまったようだよ」
我ながら言い訳がましい。実際のところ、なんでぼうとしてたのかわからない。
「ふふ、確かに。あんな無防備なあなたは初めて見ました」
彼女の言葉に顔が熱くなるのを感じる。そんな間抜け面を晒していたのか。
流石の私だって恥じる気持ちくらいはある。いくら彼女相手でも、見せたくない姿くらいはある。
「気持ちはわかりますよ。こんな光景、初めて見ますから」
ご主人様は流れる景色に目を向けていた。
何の気なしにその横顔を眺める。
黒いインバネスを纏った姿は異国の旅行者に見えるだろうか。
金髪金眼と日本人離れした容姿を持つ彼女は兎角目立つ。隠すのは難しかった。
なればいっそ目立ってしまえと洋装を纏わせたのだが――効果のほどはわからない。
見慣れた私では正しい判断はしかねるし、第三者に訊ねるわけにもいかないのだから。
――……何故、こうも気が急いているのだろう?
私だって耳や尻尾を隠して、わざわざ慣れぬ和装をしてまで気を遣っている。
そう簡単に見つかる筈はないのだ、こんなに気を張らなくとも…………
「ナズーリン」
肩にご主人様の手が添えられていた。
「すいません、私だけはしゃいでしまって……あなたはそれどころではないですよね。
至らぬ主で、本当になんと言っていいか……追手がかかるやもしれぬと、聞いていたのに」
ああ、そうだった。
私が彼女を説得して、二人で廃寺を飛び出したのだ。
今は私たちを追っているやもしれぬ者たちからの逃避行の最中――である。
廃寺のある山の近く――幻想郷で何やらキナ臭い動きがあると察した私は主を説得した。
丸一昼夜かけての説得で彼女は頷いてくれたのだ。
そうして二人は山を下りて……汽車に飛び乗った。
「……構わないよ。こんな人のいるところにまでは来ないだろう。
きっと私は慣れぬ汽車に疲れているだけさ。存分にはしゃいでくれたまえよ」
つい皮肉めいたことを言ってしまうが、それはいつもの私である証左だった。
そっと、添えられた手を服の上から押し逸らす。
気遣いは無用だよ、ご主人様。
「今は汽車の旅を楽しもうじゃないか」
「……わかりました」
ぎこちなかったが、彼女は笑ってくれた。
それでいい。それがいい。
私はあなたに笑っていて欲しいから連れ出したのだ。
あなたが笑えなくなってしまったらなにもかも台無しだよ。
「なにをするにも初めて尽くめですからね。本音を言わせてもらえば、楽しいですよ。
あなたとお買い物をするなんて――今までは出来ませんでしたから」
「そうだね。でもこれからはずっとそうしなきゃならないよ。
今回みたいに何を買えばいいのかわからなくて私任せ、なんて出来なくなる」
「はは、それは困りました。何分買い物の経験など皆無で……」
「洋装にも慣れて貰わないとね。あなたは――和装が少々似合わない」
「はっきり言ってくれますね。あなただって、その和装は似合ってませんよ?」
「私のこれは変装だからよいのだよ。落ちついたらいつもの洋装に戻っても構わないのだし。
だがあなたはそういうわけにもいかない。西洋人で通すしかないのだからね」
「つくづくこの目立つ姿が恨めしい……」
他愛のない雑談を交わす。
これも、初めてかもしれない。私と彼女が話す時は必要な時だけだった。
あくまで私と彼女は主従であり、それ以外の関係ではなかったのだから。
これからは……そんな関係も変わっていくのだろうか。
遠い昔、私が望んだような……親しい関係に、なれるだろうか。
先のことなどなにもわからない。
この汽車の行く先がどこか知らぬように。
「――……?」
なに――かな。なにか、引っ掛かった、気がする。
……引っ掛かる? なにを考えているんだ、私は。
ここまでは万事上手くいっている。追手の気配もない。
これからのことで考えねばならぬことは山ほどあるが……
口から出任せだったが、本当に慣れぬ汽車に疲れているのだろうか。
いかんな。こんなことではまた彼女に心配をかけてしまう。
目を窓の外へ向ける。
流れゆく雪景色。見入る程ではなかった。
汽車から見る風景というのは――こんなものだったかな。
昔、一度だけ気紛れで乗った時はもっと心躍った景色だったように思う。
「いやぁ速い。牛車には乗ったことがありますが、段違いですね」
「あれは――走るというより、歩く、だからね」
同じ乗り物でも比べるものではないだろう。
ぼんやりとそんなことを考える。
私と違い、ご主人様ははしゃぎっぱなしだった。
「妖怪でもこんなに楽しめるなんて、凄いですねぇ汽車というものは」
「風の噂に聞いたところによると、嫌う妖怪の方が多そうだけどね」
「そうなんですか?」
「狐や狸なんかは、これに挑んでるそうだよ。住処を通る鉄の化物、怖がるなという方が無理さ」
「挑む、って」
「汽車に化けて体当たり。勝ったという話は――聞かないね」
急に会話が途切れた。
目を戻せば悲しそうに俯く主の姿。
「ご主人様?」
「あ、いえ……」
言い淀む。なんだろう、変なことを言ってしまっただろうか。
私の視線に気付き、彼女は慌てて言い繕う。
「その、なんとも……遣る瀬無くなりました」
遣る瀬無く……?
「汽車は――人間の為のものです。こうして妖怪が気紛れに乗ることはあっても、人間の為だけのものです。
人間の為のものなのだから、人間以外はどうしても押し退けられてしまう。軌道から、追い出されてしまう。
だけど、本当は……そんな、悲しいことを起こす為のものではないと思うのです。
簡単に遠くへ行ける汽車は、それまで叶わなかった……夢や、希望を乗せるべきだと――思うのです。
その過程で……誰かの夢や希望を摘むというのは……あまりに悲しい」
彼女らしい物言いだった。
見ず知らずの妖怪に情けをかける慈悲深さ。
私には到底――理解出来ない優しさだ。
こうして逃げ出して来たというのに、変わらないな、彼女は。
『次は――***ステンショ、***ステンショ』
…………?
なんだろう、今の声は。以前乗った時は――あんなもの、あっただろうか?
いや、その前に……なにステンショだって? 聞き取れなかった。
「町が見えますね」
彼女の声に窓に目を向ける。
言葉通り町が見えた。小さな町。
その町もやはり雪化粧に覆われていた。
汽車は徐々に速度を落としていく。
やがて、ステンショが見えてきた。
そうして汽車は停まる。
幾人かが降りていく。雪降る中で彼らの姿はまるで影絵だ。
私は影絵の人が歩み去るのを窓硝子越しに眺めた。
ここはなんという名のステンショなのだろう。
雪がちらついて、看板が読めない。
私たちの住んでいた山から、どれだけ離れられたのだろうか。
「ナズーリン、ここでは降りないのですか?」
「ん――いや……まだ乗ろう。追手を撒くには距離が欲しいところだし」
そう、一歩でも遠くへ。まずはそうしなければならない。
しかし、どれだけ汽車に乗っていたのだったか――
「――そうですか」
汽車は動き出す。
それからは会話もなく、ただ流れる景色を眺め続けていた。
いつの間にか陽は落ちていた。
景色は暗く、遠くなどまるで見えない。
いつ点けられたのか、天井で揺れるランプが照らす窓辺の雪しか見えぬ有様。
それでも窓の外を眺め続けた。
夜道を走る汽車。一寸先しか見えぬ車窓。
それらがどことなく、暗示めいて感じられたからなのか。
「ナズーリン」
何時間ぶりか、ご主人様に声をかけられる。
顔を向けると彼女は何やら包みを差し出していた。
「おなかが空いたでしょう? そろそろ食事にしましょう」
「あ、ああ。ありがとう」
渡された包みを受け取る。弁当のようだが。
「これ、何時買ったんだっけ」
「さっきのステンショで買ったんじゃないですか」
ステンショ、で?
私たちは、汽車から降りなかった。
ずっと席に座ったまま汽車が動くのを待っていた。
いつ、どこで買えたのだ?
「それは」
包みを開ける彼女の姿を眺める。
「見なさい、私だって買い物くらい出来るのですよ」
――――そうだった。
私が金を渡して、彼女が買いに行ったのだ。不安だから私が買いに行くと言ったのに聞かないで。
ただ弁当を買ってくるというだけのことだったのに、得意満面の笑みで戻ってきたのだった。
「でも、やはりまだ心配だよ。汽車の発車に遅れるかと思った」
「ひどいですね、そこまで鈍臭くはないつもりですよ」
「それはどうかな」
軽口を叩いて、包みの中身――握り飯を頬張る。
旅疲れの身にこの塩味はありがたかった。
「おいしいですね」
「そうだね」
添えられていたお新香を齧る。
ぽり。
十分美味いのに、彼女の作る料理が恋しくなってしまうのは我儘だろうか。
やはり旅というのは慣れないな。食事は我が家でなんて、当然のことを強く意識してしまう。
「いずれどこかで……腰を落ち着けたいね」
ぽつりと、本音が漏れてしまう。廃寺での暮らし。捨てたそれが恋しかった。
雪降る凍える夜は、二人で囲炉裏を囲んで鍋をつついていた。
肉食を禁じている彼女に合わせて野菜ばかりの鍋だったが、おいしかった。
たまに、私の為に肉を入れてくれたな。彼女は決してそれを食べなかったけれど。
「――きっと私たちを受け入れてくれる場所が見つかりますよ」
ご主人様らしからぬ楽観的な台詞に目を向ける。
そうだったらいいねと、いつもの皮肉気な台詞を返しそうになるが出来ない。
真摯な言葉に――そんな生返事は返せなかった。
「そこでならまたあなたにごはんを作ってあげられますね」
ふふ、まるで心を読まれているようだね。私の欲しいものなんてお見通しと――――
「…………」
なんだ?
どうして、こんな。
何度目かも――わからない。
「どうしました?」
「う――うん。疲れ――てる、みたいなんだ」
「……ナズーリン?」
「あなたに、ずっと、違和感を感じてしまう」
なにか、ずっとおかしかった。
どうして彼女は、私がなにか疑問を持つと話しかけてくるのだろう。
まるで、本当に心を読まれているかのように。
ご主人様にそんな能力はなかった。仮にあったとしても、彼女の性格上使いはしないだろう。
「思い、出せないんだ」
なにかが、おかしい。
そも、どこから汽車に乗ったのだ?
山を下りて、それから――どうやって汽車まで辿り着いた?
いや、それ以前に、私は、私はどうやって彼女を説得して……
「あ」
手を握られていた。
ご主人様の大きな手が、私の手を包んでいる。
「ナズーリン」
金色の眼に見つめられる。
心配そうに、眉を歪めた――彼女の顔。
「あなたが不安に思うのは当然です。何者に追われるとも知れぬ道行など耐えられるものではない。
ですが私がついています。あなたの傍には私が居る。旅の間くらいは、必ず守ってみせます」
いつも、そうだ。
ご主人様、あなたはいつも私のことばかり考えてくれて、私のことばかり優先してくれて。
あなたは、あなたはもう――戦える体ではないというのに。
「――すまない。あなたに当たってしまうなんて」
「構いません。私は本当にあなたに感謝しているのですよ」
彼女が笑うのが、気配で伝わる。
「こんなにも弱ってしまった私を連れ出してくれて――見捨てないでくれて」
混乱し切った心を融かす優しい声。
「不謹慎ですが、私はこの旅を楽しんでいるのです。あなたと二人で汽車に乗って……
行く先もわからぬ旅でも、あなたが居てくれるから――楽しい」
私の望む言葉を告げてくれるご主人様。
「私は――過去を忘れ、あなたと新しい生を送るのもよいのではないかと――」
――――ああ、そんな都合のいいことを言ってくれる人じゃなかった。
深く、息を吐く。
そっと、添えられた手を外す。
「あなたは誰かな」
「……ナズーリン?」
「やめてくれないか」
語調が強まった。
「その顔で、その声で、私の名を呼んでいいのはご主人様だけだ」
ご主人様は、寅丸星は、逃げ出すような人じゃない。
仮令毘沙門天の配下が彼女を始末する為に来たとしてもその場を一歩も動かないだろう。
そんな彼女が、私の説得如きで逃げ出す筈がないのだ。
向かいに座る女を強く睨む。
ご主人様の姿をした、得体の知れない女を。
女は落ち着き払った声で答えた。
「私は、寅丸星ですよ」
「違う」
答えを、即座に否定する。
「ご主人様は、私には優しくても――決して、自分には優しくなかった」
彼女が廃寺に住み続けていたのは、贖罪だった。
己を罰し続ける為にあの山から一歩も離れなかったのだ。
罪を償う為ですらなく、ただ己の罪に相応しい罰として孤独を選んでいた。
彼女が己を許す筈がない。過去を忘れるなんて、あり得ない。
寅丸星が聖白蓮を忘れるなど、あり得る筈もないのだ。
ふぅと、溜息を吐く音が耳に届いた。
「…………気付かぬままでいたら幸せだったでしょうに」
女は寅丸星の顔で、そんなことを呟く。
「ふ、こんなものが幸せかね。私の知る幸せとは随分違うな」
「気取るのはおやめなさいナズーリン」
緩んでいた顔に険が宿っている。
不正は許さぬと言わんばかりに彼女は語調を強めた。
「少なくとも、こうであったらばとあなたが願ったから私はここに居る」
「――――ご主人様の顔で言うのは卑怯だよ」
ああ、その通りだ。
敢えて目を逸らしていた。
そうせねば、責めることなど出来はしない。
この旅は、あまりにも私に都合がよ過ぎた。
「つまり、これは――私が望んだ世界か」
あの時――博麗大結界が幻想郷を閉じる寸前、否、それよりもずっと前から……私は望んでいた。
毘沙門天に科せられた寅丸星監視の任を放り出し、彼女と共に逃げ出すことを。
きっと、心のどこかで危惧していたのだ。
いずれ甦るやもしれぬ彼女の仲間たち。
私の知らぬ過去を共有する者たちに……私のご主人様を奪われるのではないかと。
だから、逃げ出してしまえば――追手にも、仲間たちにも、彼女は奪われないと――謀った。
結局そんなことは出来ずに終わった。
私たちは博麗大結界に閉じ込められ逃げ出すことなど出来なくなった。
そうこうしている内に危惧してた通りにご主人様の嘗ての仲間は甦り……あの、聖白蓮まで復活した。
故に……また、願ってしまったのだろう。
あの時、一緒に逃げていられたらと。
そしてどういう理屈だか知らないが、私はここに来てしまったというわけだ。
「大筋は理解したよ」
「説明の手間が省けました」
「存外怠け者だね。やはりご主人様とは違う」
願い、ね。
願ったからここに居る、ね。
つまりは、私の一人芝居だったというわけだ。
「なんというか――自分の能力に自信を無くすね。己すら騙せないようじゃ他人を騙すなんて。
存外、今まで騙してきた者たちにはばれていたのかな。だとしたらとんだ道化だね、私は」
「己を騙すのはまた勝手が違うと思いますよ。まぁ、その辺については門外漢です。
専門のあなたに何を言っても釈迦に説法ですが」
「どうだろうね。専門と誇れるようなものではないし」
まぁ――謎解きを進めて、多少は頭がすっきりした。
今は124季の晩春。一連の騒動が終結し一月が過ぎた頃。もう雪など降らぬ季節だ。
幻覚だかなんだか知らぬが、こうして気付いた後も寒いというのは大したものだね。
「そろそろ帰りたいのだが、まだ出られないのかな」
「まだステンショに着いていませんから」
「律儀だねぇ。じゃあ、途中のステンショ。あそこで降りていたら目が覚めていたのかい?」
「わかりませんね。この旅を決定しているのはナズーリン、あなたですから」
「ふぅん――時間があるようだね。じゃあ、謎解きの続きでもしようか」
足を組む――気付けば、私は人間に化けておらず、いつもの洋服を身に纏っていた。
「さて、あなたは……誰かな? 『ご主人様』」
「私は寅丸星ですよ、ナズーリン」
「見破られても演技を続けるというのは、些か見苦しくないかな」
「ひどいですねぇ、あなたが用意した役柄ですのに」
女は微笑む。
「私はあなたの知る寅丸星以外の何者でもないのですよ」
「……恥ずかしいね。私の理想とやらとこう、面と向かうとは」
私の記憶から構築されたご主人様――随分と、こう、美化されてる気がする。
汽車の旅を思い返す。なんというか、まぁ……都合のいい感じに改変されていたな。
理想というか、願望だな。こうだったらよかったのに、なんてのまで含まれているようだ。
「あー、便宜的にご主人様と呼ばせてもらうが、あなたはこれがどういう事態か知っているのかい?」
足を組み直して気を取り直す。
「まぁ――夢、幻、そういった類のものを見続けている。そんなところでしょうか」
「ふむ。今の私もそう考えている。齟齬は無いか――では、原因は?」
「さて……飛倉の破片の魔力か……それとも毘沙門天の宝塔を使ってしまったことによる副作用か。
断じるには材料が多過ぎますね。なんとも言えないとしか」
「ふむ。第三者の意思は介在していないということかな。それは私が知り得る情報だけだ。
私の知らぬ情報が出てこない以上、私以外の誰かが関わっているということはない。
だが望む情報も出てこない。肝心の確信に至る情報が出てこない。私は、それを知らない。
つまりこれは私が望んでいても――私の意思で起こした事態ではないと言える」
「ほう? 第三者が起こしたのでなければ自動的にあなたが起こした事態としか言えないのでは?」
「消去法で行くならね。ただし、私の知識にはこんなことを起こせる存在が無い。
それを消去法に合わせれば、私が起こした事態であってもそれは偶発的だったという結論に至る」
つい、と聞きに回った女を指差す。
「あなたは私の中から出てきた紛い物だ。誰か、この世界を作った誰かの意思は介在していない。
この世界は私の知識と経験のみから作られた夢。同じく私の知らぬものは出てこない。
目覚めることの出来ぬ夢。終着の無い鉄道を走り続ける汽車。果ての無い雪原。
円環だよ。ここは――ナズーリンだけで閉じられてしまった世界だ」
これが結論だ――とは言わなかった。
言えなかった。
「などと決められれば格好よかったのだけどね」
「はい?」
「唯一つ、私の知らぬものが存在するのだよ。見逃せぬ程に大きなものがね」
下ろしていた指を上げる。
上げ切って、天井を指す。
ランプの揺れる天井。しかしそれを指していないことくらい女も気づいているだろう。
「この汽車だ」
焦らすつもりはない。
早々に解答を口にする。
「これだけが私の知っている物と違っている。私の知っている物より洗練されたというか――
より、実用的な感じがする。趣が違うと言えばいいのかな。見た限りの内装のことなのだが」
「つまり、あなたが知っている明治の汽車ではないと?」
「後の時代のものか、それとも異国のものか……知らぬ私には判別できないね」
「わからないものが増えた、と」
女は肩を竦めた。
「振り出しに戻ってしまいましたね」
「そうでも、ないよ」
肩を竦めたまま、女は目を丸くする。
「それもこれも、一度に説明できるのだよ」
かちりと、頭の中で歯車が噛み合った。
うやむやなモノの中からほんの少しではあるが――組み上がるモノが出てきたのだ。
とっかかりとしては十分過ぎる。これを突き詰めていけば自ずと解答に至れる筈。
だから、無駄に考え込まずに告げる。
「あなただよ、ご主人様」
女は肩を戻し――私の視線を真っ直ぐに受け止めた。
「あなたが私の中から出たのなら、あんなミスを犯す筈がない。私の望みに反することをする筈がない。
ご主人様を演じ切れぬ筈がない。私の知らぬものが存在する中でそんなあなたは見逃せない違和感だ。
まるで主体性が無い故に気付かなかった。主体性の無い第三者――そんなものが存在するなら説明がつく。
私の願望に副って作られた世界。しかし主犯は私ではなく、偶発的としか思えぬ程に欠けた起点。
矛盾を呑み込む解答は唯一つ」
本で読んだ探偵のように、私は決定的な一言を選ぶ。
「もう一度問おう」
解答に至る為の問い。
全てを終わらせる一言。
それは数度口にして、見逃されていたものだった。
「あなたは、誰かな」
女は目を閉じ、そっと口を開く。
「……私は寅丸星ですよ」
「繰り返す気かい?」
「他に、答える名が無いのです」
「意味がわからないね」
「そのままですよ。名が無い。名が失われた。あなたがくれた役割しか、残っていません」
「……それでも、わからない」
「説明しようがありませんからね――無理もありません」
かたん、と体に伝わる揺れが変化した。
汽車が速度を落としているのだ。
「ステンショが近づいてきましたね」
また、停まるのか。
女はいいえと答える。
止まるのです。
「そこがあなたの終着です。旅の終わりですよ」
窓の外には――何も見えない。
「私でない私への未練は断てたでしょう? あの時、一緒に逃げていられたらという未練。
こんな形でしかあなたの願いを叶えられなかったのは……申し訳ないと、思います」
女は立ち上がり、私の手を取った。
「さ、ナズーリン。あなたは想いを伝えた私でない私の元へ帰りなさい」
手を引かれ、席から立たせられる。
手を引かれ、乗降口まで連れて行かれる。
「先を……今を見なさいナズーリン。過去に愛した私ではなく今愛する私を見なさい。
想い出はアルバムを開いた時に振り返ればよいのです」
かちゃりと扉が開けられる。
「久しぶりの旅でした。とても――楽しかった」
背を押され、私は汽車から降ろされる――
「さようなら、ナズーリン」
――幻想郷の外れ。
大結界の境目の近くにそれはあった。
私はそこで――歩廊で立ち尽くしている。
まるで、たった今汽車から降りたように駅舎を見据え、軌道に背を向けていた。
ゆっくりと振り返る。当然、そこには汽車の姿などなかった。
そのまま、ぐるりと一周して辺りを見回した。
「ステンショか」
夕焼けに照らされる駅舎。
少し離れたところに改札口が見えた。
ふむと頷き、ぽんと歩廊から飛び降りる。
軌道は草木に覆われているがまだ目視できた。
目で追うと――すとんと途切れている。歩廊が終わるところでぷっつりと切れてしまっていた。
ステンショが機能していないのは見ればわかるが、それ以前の問題だ。
ここには汽車が来ることはできないし、汽車が去ることもできない。
駅舎周りだけが切り離されてぽんと置かれたといった感じだ。
幻想となったステンショが招かれたのか――
もっとも、こんな僻地人間はもとより妖怪も近づかない。
飛倉の欠片回収の任に当たっていた私だからこそ辿り着いたようなものだ。
何時招かれたのか知らないが、相当に長い間誰もここには来ていないようだった。
それを、見上げる駅舎が物語っている。
傷んだ木材、傾いだ看板、崩れたベンチ。
看板の文字は風雨に晒され薄れて消えて、最早なんと書いてあったのかもわからない。
なんという名のステンショなのかも――わからない。
「名無し、か」
手の中には飛倉の欠片。
「……白昼夢、で済ませられそうな出来事だったね」
推測するなら飛倉の欠片が反応したこの駅舎の記憶と私の願望が混じりあの世界を作っていたようだが。
聖輦船。汽車。同じ乗り物――ということで、強く反応したのだろうか。
はたして――それだけだったのか。
このステンショは、私が昔気紛れで一度だけ汽車に乗った時のものに似ている――
そんな、気がした。
「ふむ」
歩廊に飛び乗る。
ここから去るなら、作法は守ろう。
軌道を歩いたり、そこから帰るなんてのは無作法だと思う。
まぁ、仮にも……ご主人様だったから、ね。
見えない汽車に振り返る。
見ようとしても、何も見えはしないけれど。
きっとこの軌道の上を走っていただろう汽車を思い浮かべ――
「素敵な旅が出来たよ――その礼だけはさせてもらおう」
私はぺこりと頭を下げ、無人の改札を抜けた。
こういう雰囲気の作品は好きです。
私も物語の世界に引き込まれてしまいました。
一瞬ぬえちゃんの仕業かと思った
うーん、素晴らしい!
旅行行きたいなぁ。
ステンショというキーワードが
閉じた環の中をぐると巡る。
雪の降る音のように静かな、しかし心に言葉の降り積もる、
そんな素敵なお話でした。拝読できて嬉しく思います。
ナズ星ジャスティス。
100点じゃ足りない。
前半の、つじつまの合わないような合うような何かが抜け落ちているような、
まさに夢のような空気感が素晴らしかったです。
中盤あたりからぬえが化けてるのかと思った。
美しくて、切ないお話でした
こういう情景が書けるほど引出持っているあなたはすごいなぁ。
最後のナズーリンの締めが効いてます。