今日は待ちに待ったお花見の日。
例のごとくお花見会場に指定された博麗神社は準備で大忙しだったけど、忘れ物をしたことに気がついた私は、霊夢さんに断りを入れて守矢神社に戻っていた。
「さてさて、どんな具合かな」
その忘れ物の中身をちょっとだけコップに入れてなめてみる。
「んんっ!」
口いっぱいに広がる梅の強烈な主張。酸味の先に季節はずれな梅の花が見えてしまいそうだ。
とろんとした甘みに続くのは、お酒に弱い私でも仲良くなれる、ゆったりとしたアルコール。いろんな味が口の中で豊かなハーモニーを奏でていて、飲み込んでしまうのが惜しいくらい。
少しずつ少しずつのどの奥へ送って一息ついた私は、そっと忘れ物をなでた。
「上出来じゃないですか」
この忘れ物とは梅酒のビンのこと。下戸の私が大酒飲みばかりの幻想郷の皆さんとお付き合いするには、口当たりが良くて好きな濃さに薄められる梅酒が必要不可欠なのだ。
せっかくだから自分で作ってみようと奮起したのが去年のこと。霊夢さんに教わって仕込んでみたのだが、どうやら大成功のようだった。
「これは霊夢さんに感謝ですね」
今頃、てんてこ舞いになっているはずの彼女に小さく頭を下げる。
私以外、誰もいない部屋の中は西日が差し込んで、うっすらとオレンジに染まっていた。いつもの台所とは違う場所にいるみたいで、ちょっぴり幻想的。夜になるまで眺めていたい欲求にかられるけど、そろそろ出発しないと準備どころか宴会の始まりにまで間に合わなくなってしまう。
用意したリュックに梅酒のビンを突っ込む。手提げカバンという選択肢もあるけど、博麗神社まで長時間飛行するのでバランスの良いリュックの方がいいのだ。
それから途中で抜け出したお詫びとして、サッと揚げたワカサギのから揚げもプラスチック容器に詰めて持って行くことにする。これで準備万端だ。
「では、行くとしますか」
洗面所で軽く身だしなみをチェックとお化粧をしてから外へ出る。
かの有名な黒白盗賊はお花見に会場にいるはずだけど、一応カギは閉めていくことにする。守矢神社は留守ですよ、という印だ。
夕日を反射して淡い橙色に輝く参道をゆっくりと歩く。まだ飛ばない。どこから飛ぼうと同じなのかもしれないが、これは私だけの決まりみたいなもの。神社の玄関である鳥居まで歩く。
守矢神社の鳥居は石造りで、叩くと手のひらに澄んだ響きが返ってくる。あまり大きな声で言えないけど、遠目だと博麗神社のものよりずっと立派に見える自慢の鳥居だ。どこかへ出かけるときは、よほど急いでない限りここから飛ぶことにしている。
「行ってきます」
今は午後の日差しを受けた風から、夕闇をはらんだ風に切り替わる時間。
背後から吹きつける冷たい風を全身にまとわせる。風祝装束が風を吸ってふくらみ、次の瞬間、私は風になっていた。何度経験しようとも、自然に心が躍りだしてしまう一瞬。
何も考えずに飛び出したら、鳥居も守矢神社もあっという間に遠ざかってしまった。服がバサバサと悲鳴を上げている。髪は全て後ろへ流れ、私はインスタントでこひろ娘だ。見せられるおでこじゃないのに、いやん。
これだとちょっと速すぎ。景色を楽しめないし、博麗神社に着いたら愉快な髪型になっていそうで困る。とんでもないスピードで飛び回っている天狗の人たちはどうやってヘアスタイルを保っているのだろうか。今度会ったら聞いてみようかな。
景色の流れ方と顔にかかる風圧がちょうどいい速さに調節して、まだ緑の少ない山の斜面をなぞるように下っていく。ただ下るのはもったいないので、ところどころに咲く山桜のこずえをかすめて少し寄り道。
「そういえば……」
幻想郷では山桜や彼岸桜が主流で、外の世界で一般的だったソメイヨシノは人里に何本かあるだけ。外の世界の桜がソメイヨシノばかりになったせいかな。
『ソメイヨシノなんてけばけばしい色年増だよ。うら若い娘のような山桜には負けるね』
とは前の宴会で酔っ払っていた神奈子さまの弁。はて、神奈子さまはどちらの桜になったつもりだったんだろうか。
私は華々しいソメイヨシノの方が好きなんだけどね。お祭り騒ぎのような外の世界に合ってたし、何よりもゴージャス!
『どちらの桜も甲乙つけがたいわね。でも、ソメイヨシノは江戸時代に人の手で生み出されたの。西行法師が歌に詠んだ桜ではないのよ。そこは注意してね、山の巫女さん』
神奈子さまと一緒に飲んでいた幽々子さんは、そう言って笑いかけてくれた。西行の名を持つ人に言われると、何やら重みがある。あと私の名前を覚えて欲しいな。
妖怪の山の桜は麓とは違って三分咲きから五分咲き。その咲いたばかりの花は、夕日が当たって鮮やかに燃えている。
西の方を見ると、一日の仕事を終えた太陽が山ぎわに沈もうとしていた。周囲の空を焦るように紅く染めるのは、今日最後の輝き。一晩の別れを惜しんで、空を飛ぶ私を照らしてくれる。
「大丈夫。また明日会えるから……なーんて、かっこつけるのは私には似合わないかな」
細目でも茜色の日差しに耐えられなくなったので、視線を上に向ける。春にしては珍しく霞んでいない空には夕焼けが良く似合う。西の空は騒がしいけど、空高く浮かぶ雲はゆったりとした桃色。群青色に差しかかっている東の空は、もう夜の領域だ。
視界の真ん中に焼きついた太陽が消えてきた頃、ねぐらへ向かう鴉の一団が正面から迫ってきた。百羽を超す群れの邪魔にならないように高度を上げる。間違っても下げてはいけない。何が降ってくるか分からないから。
天狗、特に文さんみたいな鴉天狗が可愛がっているおかげで、妖怪の山は鴉の天下だ。外の世界では不気味に感じてしまうかもしれない光景も、毎日のように近くで見ていたらすっかり慣れてしまった。それはもう、鴉に声をかけられるくらいに。
「こんばんはー!」
アホー
先頭を飛ぶ鴉がこちらを向いて鳴いてくれた。幻想郷だと、ただの動物でも私より寿命や知能が上であることなんてざらだ。今だってもし挨拶をしなかったら、鴉天狗の新聞記者に“東風谷早苗は礼儀知らずな娘だ”なんて告げ口をされてしまうかもしれない。ここでは外の常識にとらわれていてはいけないのだ。
夜の使者のごとく、鴉たちは空を漆黒に彩りながら飛んでいく。少しの間だけ群れを見下ろしながら飛んでみた。
「なんだか、初めて飛んだときみたい……」
鴉たちの力強い羽ばたきに刺激されたのか、身体の奥底に眠っていた懐かしい記憶がよみがえる。それは、私が外の世界にいたときの記憶。
『私も飛びたいなぁ』
守矢神社を守る東風谷家に生まれた私は、小さい頃から特別だった。私だけが神奈子さまと諏訪子さまを見ることができたし、口伝の秘術だってすぐに会得できた。氏子さんの中には私を現人神とまで言う人がいたけれど、ただ一つだけ、できなかったことがある。それは、空を飛ぶこと。
二柱が空を飛んでいる姿が羨ましかった。自分も空を飛ぶ仲間に入りたかった。年が上がるにつれて触れるようになった漫画やアニメの主人公たちが、いとも簡単に空を飛んでいるのを見てため息ばかりついてた。
もちろん、何せず指をくわえていたわけではない。頭に竹とんぼをつけてみたし、背中にロケット花火をつけて飛ぼうとした。結果は言うまでもなかったけど。
そこで、二柱に相談してみたら一言だけ、“自分は飛べると信じてみなさい”。信仰の中に生きる神さまらしい助言は、当時の私には理解できなかったけど、とにかく仰る通りに行動してみた。
『私は飛べる!』
毎朝、鏡越しに自分へ向けて念じてみた。両親からは微笑ましい子だと笑われたけど、私は本気だった。
今にしてみれば、中学生になってもそんな子供っぽいことをしている私を、両親はよく笑うだけですましてくれたものだ。二人ともおおらかだったし、もしかしたら現人神と呼ばれていた私を信じていてくれたのかもしれない。どちらにせよ、頭が上がらないことは確かだ。
身体の中で何かが変わったような、そうでないような漠然とした日々が過ぎていった。全てが分かったのは、台風一過で吸い込まれてしまいそうな青空が広がっていた日のこと。
二日ぶりに学校が再開されて、まだ強い風が吹きすさぶ中を歩いて登校していた。ふと、何の気なしに空を仰いで歩いてみたら、足を踏み出した先にアスファルトの感触がない。仰天して足元を見ると、そこは高度一メートル。私は田んぼに挟まれた道の上に浮かんでいたのだ。
人生初の飛行に感動する間もなく、私は台風の落し子にさらわれていた。洗濯機で洗われる服のようにもみくちゃにされながらも、教科書が入ったカバンを投げ捨て、必死にバランスをとっている内に飛ぶコツがつかめてきた。ここでようやく景色に目をやる余裕が出てきた。
眼下には台風にも負けず青々と広がる水田。見上げるだけだったトンビも私より下にいた。
『飛んだ! 私、飛んでるっ!』
ピーヒョロロロ
トンビは突然の闖入者に向けて、少し驚いたように鳴いた。お返しに手を振ってから、視線をゆっくり上げていくと、そこに見えたものはすごいなんてレベルじゃなかった。
『わぁ……』
遠くの岡谷の町並みとその上を通る高速道路。ずっしりとした諏訪湖のほとりには豪快に噴き上がる間欠泉。諏訪の街中にひょっこり現れる高島城。道を走る車。諏訪の地に暮らす人々。そして、私たちの神社。
自分の生まれ育った場所が、こんなにも綺麗だなんて知らなかった。
あの瞬間の私をどのように表現したらよいのだろうか。感情の爆発。身体の中で何かが生まれた……いや、それどころか新しい私に生まれ変わってしまったような感覚だった。
飛べたのが、私の身体に流れている東風谷の血のおかげなのか、はたまた“奇跡を起こす程度の能力”のおかげなのか、そんな疑問はとうに吹き飛んでいた。とにかく飛ぶことと見ることに夢中で、日が傾き始めるまで諏訪の上を飛び回った。
『もっと見たい!』
思う存分はしゃいだ後、新たな世界を求めて東へ向かってみることにした。肌を刺すような冷たい空気も気にせず、富士山に砕かれてしまったという八ヶ岳の山頂を越えてどんどん突き進んだけど、夕闇に包まれた国立天文台の巨大なパラボラアンテナが見えてきたところでギブアップ。朝食のエネルギーだけで一日中飛び回るのは、さすがに無謀だったのだ。
学校指定の靴は片方脱げていたけど、財布が無事だったのでコンビニでお弁当を買ってから、日本で一番空に近い鉄道駅である野辺山駅から電車に乗って帰路についた。しかし、気分良く神社に近い茅野駅で降りたところで、行方不明になった中学生を捜索していた警察官の御用となり、私の小旅行は家に着くよりも早く終了と相成った。
当然、母と神奈子さまに烈火のごとく怒られて、それから力いっぱい抱きしめられた。逆に父はいたずらっ子のように笑って肩を叩いただけで、何のお咎めもなし。諏訪子さまにも同じことをやられたので、ちょっと笑ってしまった。
以上のように、衝撃的な初飛行を経験した私は、暇さえあれば空を飛ぶようになった。空を飛べるのが嬉しくて嬉しくてたまらなく、それと同じくらい何かを見て回るのが楽しくなっていた。飛べるようになって、私の世界が二倍にも十倍にも広がったのだ。
空を飛んでいる間は普通の人からは見えなくなるようで、私は未確認飛行物体として通報されることもなく自由気ままにふらつくことができた。人間のくせに空を飛んでしまう私は幻想に近づきすぎたらしい。ただし、スカートの中にスパッツやタイツをはくくらいの常識は私の中にもちゃんと残っていた。ドロワーズは一回試してやめたけど。
何年かして私は、神奈子さまと諏訪子さまと一緒に幻想郷へ移り住むことになった。詳しい事情は割愛するけど、移住を決心したのは二柱を慕っていたこと以外に、幻想郷というまだ見ぬ世界を飛んで回りたい、という欲望もあったからかもしれない。
「あっ、一番星見っけ」
いつの間にか、私は黄昏に抱かれて人里の上を飛んでいた。鴉の群れと別れてから、少し思い出にひたりすぎちゃったかな。
あれほど輝いていた太陽は山の向こうへと消え、わずかに西の空を藤色に染めるのみ。空の大半は太陽の拘束から解き放たれて藍色に沈み、気の早い星がまたたいている。お月さまはほっそりとした三日月だ。
今は人間と妖怪が最も交わる時間。
人里も妖怪の山も何でもない森の中にも、ちょうちんやあんどん、ガス灯に電灯、魔法の光から正体不明の光源まで、ぽつぽつと色々な種類の光が見えてくる。一つ一つの光が語る言葉は決して強くはないのに、私の心は複雑に揺れ動く。
耳を澄ましてみれば、ゴウゴウとうなる風の音の中にフクロウの鳴き声が混じる。時折響く鐘の音は、きっと命蓮寺のものだろう。
とても心地よい時間が流れていく。
「いいなぁ」
幻想郷に来て良かったと感じる一瞬が、また増えた。
「けど」
どうしたんだろう、今日の私の心は妙に能弁だ。幸せに感じる一方で、不満も感じてしまう、そんな矛盾が私の中で渦を巻いている。しかも、すぐ解決できそうに見えて、何をどうすればいいのか見当もつかなくて、すごくもどかしい。
いいんだけど、どこか物足りない。どこか寂しい気がする。久しぶりに故郷のことを思い出してしまったせいだろうか。
外の世界ではあんなに邪魔だと感じていた電柱が、幻想郷の空になくて物足りない。あんなにうるさいと感じていた車の音が聴こえなくて寂しい。ないものねだりだと分かっていても、それを求めてしまうのはどうしてだろう。私ってそんなに欲張りだったのかな? それとも人間を根っこの方で動かしている何かのせい?
グルグルと回っていた疑問がのどまで押し寄せてきて、大声を出してしまおうと息を吸った瞬間、それは聴こえてきた。
「あ……」
私が求めていた音、心の琴線をかき鳴らす音がどこからともなく風に乗って聴こえてきたのだ。私は一も二もなく風が流れてきた方向へ飛び出していた。
弱くもない風に逆らって飛ぶ。暗く冷たい風と正面からぶつかり合って、顔が凍ってしまいそうだ。でこひろ娘~、なんて冗談を言う余裕もない。ヘビとカエルの髪留めが飛ばされてしまわないよう手で押さえながら全力で飛ぶ。
「見えた!」
薄暗くなった空の下、聴こえてくる音だけを頼りに飛び続けて、やっとシルエットが見えてきた。たぶん魔法の森のあたり、どっさり茂った木々の上すれすれを飛んでいるのは、小柄な女の子。人間だろうか? 妖怪だろうか? はたまた幽霊?
勢いを殺しきれなくて、女の子の横を猛スピードで行き過ぎてしまった。女の子が驚いた顔をして、音が止む。やっぱりこの子が出していたんだ!
大きな杉の木を軸にUターン。急激な方向転換で身体から突き出た胸がグイッと引っ張られる。密かな自慢だった私の胸も、空を飛ぶにはただの重しでしかない。そうか、幻想郷の女の子の胸が平たいのは、飛行するために進化したからなのか。これは大発見。今度、ちゃんとした論文を書いて文さんの新聞に投稿してみようかな。
やっと速度が緩まったので、女の子の横に並んで飛んでみる。音はまた聴こえ始めていて、私も女の子の正体が誰だか分かっていた。
リリカ・プリズムリバー。
あちこちでライブを開いたり、宴会で演奏をしている騒霊プリズムリバー三姉妹の末っ子だ。担当の音は幻想の音だったはず。幻想郷でこんな音を奏でられるのも納得だ。
「あはっ! これ、原付の音じゃないですか!」
楽器も持たず、両手を広げて真っ直ぐ飛ぶリリカさんから流れてきたのは、もう懐かしくなってしまったエンジン音。間違いなく、私の友だちが持っていた原付の。
帰り道が同じだった彼女は、歩きだった私に合わせてわざわざ原付を押して一緒に帰ってくれた。二人でいっぱい話しをしたなぁ。くだらない世間話。学生っぽく真剣な話。話した内容は忘れてしまったけど、今となっては全て大切な宝物だ。
別れ道でさっそうと原付にまたがって去っていく彼女は、すごくかっこよかった。私が空を飛べたように、彼女も世界を見て回る足を持っていたのだから。
私が目をつむって遠ざかっていく背中を思い浮かべていたら、今度はカツカツと響くハイヒールの音がいくつも耳に入ってきた。
「わっ、みんなで遊びに出かけたときのかな? すごいすごい!」
幻想郷では靴箱の奥にしまいがちのハイヒールも、外に世界にいた頃はよく週末にお世話になっていた。特に印象に残っているのは、何人かでおしゃれして松本まで足を伸ばしてみたときのこと。全員示し合わせたかのようにハイヒールで、道を歩くたびにおそろいの音が出てウキウキした。
歩道が青信号のときに出る音楽。クレーンゲームのピコピコ音。私の十八番だった人気歌手の曲。次々に出てくる音は、全て松本へ遊びに行ったときに経験したものだ。ちなみに、カラオケの締めは長野県歌“信濃の国”の合唱になってしまったけど。
松本の音が終わっても、リリカさんから流れてくる音の奔流は止まらない。
耕運機が働く音。街灯の唸る音。車の警笛。テレビから漏れる電子音。紫さんのスペルカードとは違う電車の音。携帯の待ち受け音。まるで統一感のない音たちをリリカさんは魔術師のように操り、初めて聴くような、よく知っているような、不思議な音楽へと昇華させていく。私の中で、幻想郷に移ってから久しく使っていなかった感覚が蘇っていく。
「ああ、もうっ!」
こんなに心をくすぐられて黙っていられるものか。
手は勝手に動き出し、口からは出まかせのハミング。身体はめちゃくちゃな軌道を描いてリリカさんの周囲を飛び回る。風の衣装をまとって踊る私は、さながら神楽を舞っているよう。
吹きすさぶ風の音、不思議な音楽、私の舞。三つが幻想の空に溶けて、あやふやになっていく。ここは本当に幻想郷なのだろうか。外の世界とも違う、とても素敵で居心地の良い空気の中を飛んでいる気がする。
リリカさんも同じ気分なのだろう。演奏に夢中になるあまり、音符が具現化して弾幕となっていた。当たればそこそこ危ないのだろうけど、音楽に合わせて発射される音符はどこへ飛んでいくか何となく予想がついてしまう。私もヘビとカエルの弾幕を出してお返しをしつつ、色とりどりの音符の合間をぬって舞を続ける。
音楽と音符が出されるテンポが次第に速くなり、終焉の足音がだんだんと近くなってきた。私の鼓動は早くなって、息が荒くなっていく。それなのに、気持ちが高ぶるにつれて意識は身体から離れつつあった。なぜ? と問う前に、その瞬間が来た。
「……っ!」
父がパソコンのキーボードを叩いている音。母が掃除機をかけている音。
音だけではなく、二人の後ろ姿が見えて、はじけた。残ったのは幻想郷の風だけ。少し冷たいけど、これも居心地の良いもの。
私とリリカさんはしばしの間、不思議な時間の余韻を味わいながら風の中を漂った。胸の奥から込み上げてきた感情を解き放った恍惚感が、ゆっくりと波が引いていくように身体の中から消えていく。
「どうして……」
そろそろ落ち着いたかな、と思って口を開いたら、一緒に涙腺まで開いてしまった。すぐに視界が歪んで、あふれた涙が頬を伝う。とてもじゃないけど見せられない顔になってしまったので、リリカさんに背を向けさせてもらった。空はすっかり夕闇に染まっているので見えないはずだけど、念のため。
「どうして、幻想郷に存在しない音を出せるんですか?」
「なーんでだろうね~」
気づいてないのか気づいてないふりをしてるのか、リリカさんはうっとりとした声で答えてくれた。
「今日は私だけ支度が遅れちゃって、一人で慌てて博麗神社に向かってたんだよ。そしたらね、里の方から妙な電波が飛んできて、それを受信してたら出ちゃったんだ~」
「感受性が高いんですね」
「それは君もでしょ? これだけたくさんの音を聴いて、覚えていられるのは簡単なことじゃないよ」
感受性が高い? 天然だとはよく言われるけど。どちらにせよ、あまり自覚はない。私は自分の好きなように動いているだけなのだ。
「そうそう、私はリリカ・プリズムリバー。話をするのは初めてかな、外から来た巫女さん。あっ、今から退治するのはやめてね。これから演奏するんだから」
「妖怪退治は異変のときだけですよ。私は東風谷早苗、正式には巫女ではなく風祝です」
とりあえず、背中越しの会話が続いているうちに涙をぬぐっておく。お化粧が落ちちゃうのはもう仕方がない。
「早苗、思い切って聞いちゃうけどさ」
突然、真面目な顔をしたリリカさんが私の目の前に回りこんできた。間一髪、ぬぐっているところは見られなかった。
「外の世界に帰りたくならないの? 自分が生まれた場所ってそれなりに愛着があるはずじゃん。これだけ外の世界の音を振りまいてると、ちょっと心配になってくるよ」
「心配って、どんな感じにですか?」
「ん、一度幻想になった仲間がいなくなっちゃうのは、それなりに寂しいからね」
初めて話をするにしては、ずいぶんと突っ込んだことを聞いてくる人だ。それだけ私が危なっかしく見えたということなのだろうか。なんにせよ、心配してくれる人がいるのは、すごくありがたいことだ。
「そうですね……」
だから、私も真面目に答えなければならない。
「帰りたいかと言われれば、帰りたいですね。私の故郷には会いたい人が大勢いますし、また見てみたい景色もいっぱいありますから」
両親に祖父母、同級生、近所の人! 諏訪には大切な人たちを置いてきてしまった。お別れのあいさつをしたところで、すっぱり忘れることなんてできるはずもない。
諏訪の土地だってそうだ。幻想郷とはまた違ったのどかさがある諏訪は今でも大好きだし、私が飛び回った長野県や山梨県だって大好き。学校の校舎をもっと探索してみたいし、それを友だちとやれるなら、もっと素敵。
「だけど……私は幻想郷も大好きなんですよ。ここで暮らすみんなのことが、どうしようもなく好きなんです。もちろん、プリズムリバー楽団の音楽だって。それに、見て回りたい場所が山ほどあるんです。霧の湖の周りを飛んでみたいし、にとりさんの工房をのぞいてみたいし、地霊殿までもぐってみたいし、毎日が楽しくてたまらないんですよ」
とにかく、幻想郷の好きなところを挙げればきりがない。こんなにすごい場所は一生かかっても楽しみきれないし、見て回れる気もしない。毎日新しい発見があるし、幻想郷に来て良かったと思える瞬間が増えていく。故郷の記憶の上には幻想郷の思い出が乗っかっていて、これがなくなってしまったら、私は寂しくて死んでしまうだろう。
私はもう、桃源郷と呼ぶには妖しすぎるこの不思議世界の虜となってしまったのだ。並大抵の努力ではここを抜け出せそうにないし、今のところ努力するつもりもない。
「今日みたいに故郷のことがものすごく懐かしくなるときはありますけど、たまーにでいいんです。今が楽しいのに、遠いところにあるものにまで手を出すのは贅沢ですよ」
熱くなりすぎちゃったけど、これで私の思いは伝わってくれたかな。
私の演説を聞き終えたリリカさんはしばらく神妙な顔をしていた。でも、納得してくれたのだろう、小さくうなずいて私の知らない曲を一節だけ奏でてくれた。
「天然で能天気だねぇ」
「私はそれでいいんです」
「そっか……じゃあ、今を楽しむためにお花見宴会に行くとしますか」
「はい。たぶん、かなり遅れてると思いますし」
今は妖怪と星の輝きを楽しめる時間。
空全体が黒一色のキャンバスとなり、数え切れないほどの星が瞬いていた。空気が汚れた上に、夜も明るくなってしまった外の世界では見ることができないダイナミックな夜空。背泳ぎみたいにひっくり返って、空を見ながら飛びたくなるけど、ここは我慢我慢。
暗くなった世界の中、かがり火でライトアップされた博麗神社を目指し、二人で飛び続ける。どれくらいの人妖が集まっているのだろう。飛んでいてもかすかに聞こえるほど騒がしい。信仰はともかく、人妖が集まる量は守矢神社よりも多いのではないだろうか。
「ねえねえ、鳥居のところにいるのってさ」
「ええ、ルナサさんにメルランさん。そして、霊夢さんですね」
鳥居の手前で仁王立ちになる三人が見えてきた。霊夢さんは一升瓶を抱えて、離れていても分かるくらい顔が赤くなっている。寄り道しすぎちゃったかなぁ。
「遅いっ!」
「ごめんなさーい!」
でも、本当に飛べてよかった。
幻想には存在しない音による演奏会。素敵なお話でした。
中途半端に詩的で、そこはかとなくウザい。そして『乙女』。これ以上ないくらい完璧な『早苗さん』です。
……個人的に、とても苦手なタイプの女性でもありますが(笑)
なんだかとても貴重な体験でしたので、この点数を。
故郷ってのは良いもんですね。=≡それから離れたところに馴染むということも
やっぱ早苗さん最高だな、現代の女子高生(しかも擦れてない)幻想郷には貴重な存在だw
結婚してぇ~!!
特に、リリカと早苗が弾幕で絡むシーンが好きですね。
暖かい気持ちになりました。このお話みたいに早苗さんには外の世界での思い出も大切に思っていてほしいです。
貴方は前回、とっても楽しい作品を書いてくれたお人ではありませんか!!
なんで今まで気が付かなかったんだ私……
あんなに新作を心待ちにしてたと言うのに。
前作では、プリズムリバーの魅力に骨抜きにされ、今作では早苗さんに萌やし尽くされそうになりと、本当に楽しい時間を与えてくださって感謝です。
次回作も楽しみにしてます。
幻想の音を出せるといいますが、まさかこんなことまで出来るとは。早苗さんが良い感じに感傷に浸れて良かったです。