どうしてこうなったのだろう。
目の前で楽しそうに笑っている美鈴を見て、咲夜はふと疑問に思った。
美鈴は見知らぬ妖怪と楽しそうに話している。
そこに咲夜が入り込む余地なんてなかった。
ほんの少し前まで自分がいた暖かい場所に、今では他人が居座っている。
先程まで自分だけに向けられていた大好きな声と笑顔が、誰かにかすめ盗られる。
それがこんなにも情けなく、悲しい気持ちになるなんて咲夜は初めて知った。
※※※※※
開け放しにしている窓からは暖かい春の日差しと、まだ少し冷たい春風が入って来て、
なんともいえない清らかで心地よい空気が美鈴の部屋を満たしていた。
ときおり風に乗って庭園から運ばれてきた花弁が、窓を通って部屋に入って来る。
それが粉雪の様に部屋の中を舞った後に、とうとう力尽きて床に降ってしまう。
あとで掃除をしなければと思いながらも美鈴は、その光景をまどろみながら楽しんでいた。
美鈴はベッドではなく半分は自作の安楽椅子の上でうとうとしていた。
ただ、その安眠椅子はもはや椅子と言うより、小さなリクライニングベッドと呼んだ方が
しっくりとくるような形と大きさ、そして機能をしていた。
自作の半分は美鈴自身の手によるが、もう半分は工作好きの河童によるものだからだ。
その椅子は元々パチュリーが使っていたもので、彼女が新しい椅子を購入した際に
美鈴がお願いして譲ってもらったものだった。
しかし譲ってもらったはいいが、その椅子はパチュリーの体に合わせて作られたものらしく
美鈴が使うと、かなり窮屈な感じになってしまう。
そのため、美鈴は図書館から日曜大工の本を借り出して、暇を見つけては椅子の調整のために
試行錯誤を繰り返す事になった。
しかし、所詮は素人である美鈴にそんな器用な事が出来る筈もなく、
中途半端に分解したところで元に戻せず、途方にくれてしまうことになった。
そんな時に、鴉天狗を仲介にして工作好きの河童と知り合えたのは幸運だと言えた。
その鴉天狗には仲介料として決して安くはないお酒をいくつか持って行かれたが、
紹介された河童の腕は確かで、ただの安楽椅子を瞬く間にリクライニングベッドへと
改造してしまった。もちろん原型なんてとどめてはいない。例をあげるなら
ほぼ完全な木製だったはずの椅子が、気が付つくと半分は金属になっていた。
美鈴がお礼をしようとすると、その河童は「楽しかったから」の一言で何も欲しなかったが、
後日その河童には、鴉天狗に持って行かれた分より、はるかに高価な老酒を贈っておいた。
美鈴はあまりお酒を飲む方ではないが、意外と良いお酒をたくさん持っている。
それらは全て美鈴達が外の世界にいた頃に手に入れたもので、珍しいだけでなく古く、
なかには持ち主である美鈴自身、どこから手に入れたのか分からないモノまである。
そういったお酒の多くは『いわく』つきの代物で、人間はおろか並の妖怪すら飲めない程に
『酒』として強過ぎる――呑もうとした者を、逆に呑み込んでしまうものだったりする。
もちろん河童に渡したものは古いだけの安全な美酒である。
美鈴が『いわく』つきのお酒を、主人であるレミリア以外に振舞う事は決してない。
美鈴にとってレミリアは忠誠を誓った主人であるが、昔は彼女ら姉妹のお目付役でもあったので、
美鈴はレミリアに対して忠誠や尊敬と同時に、妹や娘に抱くような感情も持ち合わせていた。
そのため、レミリアから誤った呼ばれ方をした時でも、美鈴は当たり前の様に返事が出来てしまう。
(そういえば、お嬢様が一番手の掛った方なんだよなぁ……)
美鈴が昔の事を、主にレミリアの事を、何気なしに思い返していると、
パタンという軽い音がして、開け放していた窓が前触れなく閉じてしまった。
今まで美鈴の長い髪を撫でてくれていた、気持ちのいい春風が急に止んでしまうが、
代わりに聞き慣れた声が美鈴の耳を撫で始める。
「見たところ暇みたいね」
「まだ見ていませんが、忙しそうですね」
美鈴は伸びをしながら、ゆっくりと目を開けて声のした方へと視線を向けた。
いつになくお淑やかに現れた彼女の手には、空っぽの買い物袋が握られている。
美鈴が世話をした中で、一番手の掛らなかった仔犬――咲夜がそこに立っていた。
「せっかくのお休みなのに、お昼寝だなんて美鈴らしいわね」
「特にやる事がないんですよ、暇で死んでしまいそうです」
美鈴の言葉を聞いたとたんに、咲夜の顔が嬉しそうな色になる。
咲夜はよく犬にたとえられているが、もし比喩ではなく本当に犬だったら、
今の咲夜なら耳をぴんと立ちあげて、尻尾も千切れんばかりに振っているだろう。
「それなら、私は貴方の命の恩人になれるかもしれないわね」
「どういう意味ですか?」
「今から人間の里までお使いに行くのだけど、貴方も来ない? という意味よ」
暇で仕方がない美鈴にとって、咲夜の提案はとても魅力的なものだったが、
美鈴には咲夜の誘いに、素直に乗るつもりなんて少しもなかった。
少し意地を張るだけで面白いものが見られる事を、美鈴は知っているからである。
だから美鈴は咲夜とは反対に、耳を立てて尻尾を振るのを我慢して素っ気ない態度をとる。
「う~ん、どうしようかな、まだお昼寝し足りないからなぁ……」
「そうなの……? まだ、お昼寝がしたいの?」
「この頃、なんだか疲れが溜まっているんですよ」
「そっか……なら仕方がないわね……」
嬉しそうにしていた咲夜の顔が、一転して寂しそうで悲しげなものに変わっていく。
元気に振られていた咲夜の尻尾が、力なく垂れて行くのが美鈴には見えた。
おそらくこの様子だと、尻尾だけでなく耳も下がってしまっているに違いなかった。
美鈴はそんな弱々しい咲夜の姿が少し気になった。
いつもの咲夜なら引き下がらず猟犬のみたいに、しつこく喰い下がってくるからだ。
(でも……理由は教えてくれないんだろうな……)
(ただ甘えてくれるだけで、決して私を頼ってはくれない)
美鈴は何も訊かないで予定を切り上げ、早めに咲夜の誘いに乗ることにした。
誰のものであっても沈み込んだ顔を、美鈴はあまり見たくはないのだ。
そしてなにより自分の思い込んだ顔を、咲夜に見せたくもなかった。
「といっても、久々に外出するのも悪くはないですね、ついて行きますよ」
「貴方は休暇中なのだから、無理しなくてもいいのよ……?」
「無理なんかじゃありませんよ。私は行きたいと思ったから付いて行くんです」
「ありがとう……美鈴」
そう言ってほほ笑む咲夜の表情は嬉しいというよりは、安堵に近いものがあった。
美鈴はその事も気になったものの、とりあえず咲夜が笑ってくれたので、
それ以上の追求はせずに安眠椅子から立ち上がり、咲夜に背を向けて出かける準備を始めた。
※※※※※
紅魔館と人間の里を繋ぐ道は人通りが少なく、誰とも擦れ違わないことの方が多い。
そのため周囲は静寂につつまれており、聞こえてくる音も木々が風に吹かれて、
揺れる音や野鳥の鳴き声くらいである。
そんな静かな道を咲夜は美鈴と二人きり歩いていた。
木々の間を走り抜けた春風が勢いもそのままで、二人の間を駆け抜けようとする。
だが、今のところその全てが失敗に終わっていた。
咲夜が自分の腕を、美鈴の腕に抱きつくように絡めて歩いているからである。
美鈴の腕に掴まっている咲夜の表情はその安心感のためか、とろんと緩んでしまっている。
「今日はやけに甘えてきますね」
「たまにはいいでしょ?」
突然美鈴から声をかけられた咲夜は緩んだ顔と、緩みそうになる声を引き締める。
美鈴に締りのないところをあまり見られたくないのだ。
それでいて咲夜は、美鈴の肩を枕にして頭を預けたままで、身体も美鈴に寄りかかっている。
ときおり不便に感じる二人の身長差もこの時だけは、咲夜にとって快適だといえた。
「『たまには』と言うには、少し頻度が高いと思いますよ?」
「きっと気のせいよ、私はそんなには甘えてなんかいないわ」
「咲夜さんがそう言うのなら、そうなのでしょうね」
咲夜は反論しつつも恥ずかしさを紛らわすために、美鈴の服を握る力を強める。
美鈴の主張の正しさを裏付ける行為だが、美鈴はいちいち指摘なんかしてこない。
そんな美鈴の気遣いというか優しさが、咲夜は嬉しかった。
だから咲夜は服を握る力だけでなく、腕を絡める力もぎゅっと強くする。
美鈴の温かさと、奥に芯のある柔らかさが服の上からでも感じられるようになった。
「思えば二人きりで外出するというのも、ずいぶんと久しぶりですね」
「もしお互いの休日が重なったとしても、普通は館内で過ごすもの」
「その言い草だと咲夜さんは一人で外出とか、あまりしないんですか?」
「あまりと言うより、ほとんどしないわね。美鈴だってそうでしょ?」
「確かにこの頃はしていませんが、私は外出するときはしますよ?」
この美鈴の言葉に咲夜の胸に一抹不安と、僅かばかりの好奇心が生まれた。
咲夜はほとんど無意識に美鈴の動向を把握しようとしているが、どうしても把握の出来ない
時間帯もある。それは自分と美鈴の休日が重ならない日のうち美鈴だけが休みの日だ。
美鈴がそんな日には、よく一人で外出をするのを咲夜は知っていた。
咲夜は美鈴がどこに行っているのか知りたかったが、仕事がある以上は後を付けられないし、
面と向かって美鈴から聞き出すほどに、咲夜は大胆でも図太くもなかった。
だから、咲夜は嫌な予感がしたものの、そのことを美鈴に訊いてみることにした。
「そういえば、時々いなくなるときがあるわね、どこに行っているの?」
「その……友達と遊びにいったりしていますね」
咲夜の胸がちくりと痛む。
「……仲がいいのね」
「はい……一緒にいると楽しいです」
咲夜のありきたりな呟きにも、美鈴は顔を少し赤らめながら笑う。
ただ美鈴のその笑顔は、すぐそばでその言葉を発した咲夜ではなく、
この場にはいない『知り合い』に向けられていた。
その笑顔を見上げる咲夜には、美鈴とその知り合いの仲はかなり親しいと直感的に理解した。
それと同時に咲夜は、急に二人だけの時間が壊れてしまったと感じてしまう。
今まで自分だけを見ていてくれた美鈴が、ここにはいない者に笑顔を向けているからだ。
美鈴は誰に対しても人当たりがよく、いつも楽しそうに笑っている。
咲夜はそんな美鈴の笑顔が好きなのだが、それが自分以外に向けられると
胸の奥に小さな針が刺さったような、ちくりとした感覚に襲われることがある。
さすがにレミリア達が相手の場合には、そんな感覚に苛まれることはないのだが、
笑顔の相手が妖精メイド達や、神社での宴会の参加者だと胸が痛くなってしまう。
しかも最初は痛みだけだったのが、時が経つにつれてしだいに羨ましいという感情が
伴うようになってきていたのだが、今回はそれ以上の何かが咲夜の胸の内に湧いてきたのだ。
(これはいけない感情なんだろうな)
頭では分かっていても、心は分かってはくれないようで、
咲夜の胸中でしだいにグチャグチャな感情が、ぐるぐると渦巻きはじめる。
止めようと思っても止まってはくれず、それはむしろ激しくなっていく。
それに合わせる様にして、美鈴の服を握る力が自然と強くなっていった。
美鈴が自分の元からいなくなって――どこかに行ってしまわないようにと。
「咲夜さんどうかしましたか?」
「ううん、なんでもない」
急に黙り込んでしまったのが気になったのだろう、美鈴が声をかけてきたが、
自分だって整理がついていないのだ、咲夜に黙り込んだ理由なんて話せるわけがなかった。
だから、咲夜はてきとうに誤魔化すことにした。
「本当ですか?具合が悪いなら言って下さいよ?」
「大丈夫よ、本当に美鈴は心配性なのね。その内、胃に穴が開くわよ?」
「茶化さないでください、咲夜さん」
「私は茶化してなんかいないわ」
「十分に茶化しています」
「そう言えば『茶化』と『茶葉』って似てない?」
「全然似ていません、まだ『芥子』の方が字的に言えば似ていますよ」
「『芥子』だなんて怖い事を言うのね、美鈴……」
「なんでそうなるんですか?!」
「本気で怒らないで、ただの冗談よ」
「あまりからかわないで下さい……」
気が付くと咲夜は自分が、下らないやり取りを普段の様に楽しんでいることに気が付いた。
単に誤魔化すだけのつもりが、美鈴と話していると胸の内が徐々に
穏やかになっていき、最後にはあの嫌な感情は心のどこかに隠れてしまっていた。
そんな咲夜の頭の上に、軽くこつんと何かが軽く当てられてくる。
そして髪と髪が擦れる音がした後に、視界の端から垂れた紅髪が見えはじめる。
美鈴が咲夜の頭の上に、自分の頭を添えるように重ねてきたのだ。
「でも本当に何かあったら、私を……誰かを頼って下さいよ……?」
「うん……わかった」
咲夜の耳に美鈴の悲しげな声が届いた。
ただ咲夜には、どうして美鈴が悲しんでいるのかが分からなかった。
※※※※※
紅魔館では、紅茶用の茶葉を特定の一店のみで購入している。
というよりも、紅茶用の茶葉を扱っている店が里に一店しかなく、
その店以外ではそもそも手に入らないのだ。
しかも、幻想郷においては紅茶自体がどちらかというと一般的なものではないので、
その店とて品質と品揃え(扱う茶葉の状態・種類は意外と良好)はともかく、
各商品の備蓄量に関してはお世辞にも良いとは言えない。
そのため、せっかく来たのに目当ての葉が無いなんてことも少なくない。
そんな時はダメもとで香霖堂に行くか、八雲の妖怪に依頼することになる。
(どうして咲夜さんは、私を頼ってくれないのだろう)
お茶屋の店先に一人残された美鈴は、目の前の道を行き交う人々を見ながら溜息をつく。
店の奥からは咲夜と店主の話し声が聞こえてくる、交渉でもしているのだろうか。
(咲夜さんが道中に見せたあのクライ表情……何か悩みがあるみたい)
(相談して欲しい……でも、きっとしてくれないんだろうな……)
美鈴は考えれば考えるほどやるせない気持ちになっていく。
咲夜が自分に悩みを打ち明けてくれない。
その事が美鈴の頭の中を占領し、心を曇らせてきたのだ。
それは今でこそ曇っているが、いつ降りはじめてもおかしくはない。
明るい天気の中で一人だけ雨模様になってしまうのも考えものなので、
美鈴は気持ちを紛らわせるために、道行く人々に視線を向けることにした。
そうやって人の動きを観察していると、美鈴はある事に気が付いた。
人流れの向きが均等ではなく、美鈴から見て右側に向かっている人が多く、
左側に向かう足が少ないのだ。何か催し物でもしているのかもしれない。
(催し物といえば、前にお嬢様達が主催したパーティーは意外と好評でしたね)
数日前に紅魔館で不定期のパーティーが開らかれた。
ただそのパーティーは、いつもとは違って終始ノンアルコールですすめられた。
そのことを事前に説明していなかったため、参加者の一部からは不満の声が上がったが、
お酒類の代わりに出した紅茶がそんな彼女らの口を文字通りに塞ぐことになった。
それもそのはずで、その日に出された紅茶はレミリアが秘蔵にしていた茶葉を使って
いれられたもので、そこらのお酒で酔う以上の高揚感が得られるものだったのだ。
そのためパーティーは、いつも通りに盛り上がって大成功をおさめたし、
酔っ払ったゲスト同士が喧嘩したり、物を壊したりだとかの粗相がなかったため
運営側の従者達からすれば、いつもに比べて仕事がはるかに楽で好ましかった。
ノンアルコールで助かったのは何も紅魔館の従者だけではない。
参加者の中にもお酒が苦手な者や飲めない者、飲んではいけない者が
ちらほらといたので、そういった参加者達には今回の趣向は特に好評だった。
美鈴の友達もそのお酒がダメな体質……というか立場だったりする。
だから美鈴は、彼女に自分のお気に入りの紅茶を勧めたところ気だけではなく、
味の好みも合っていたらしく非常に喜ばれ、帰り際には茶葉の銘柄を尋ねられた。
何故このパーティーが普通ならあり得ない、お酒禁止で開かれたかというと、
パーティーの主催者はレミリアだったが、その発案者はフランドールだったからである。
フランドールは姉の酒癖に辟易しており、その原因であるお酒そのものが嫌いになっていた。
そのためフランドールは姉にお願いして、お酒ご法度のパーティーにしてもらったのだ。
いくら妹の頼みとはいえ、レミリアはパーティーで一滴もお酒が飲めなかったのが
物足りなかったらしく、その晩は美鈴の部屋で朝まで飲み明かした。
もちろん美鈴もそれに付き合わせられることになり、フランドールも辟易する
レミリアの酒癖を、出したお酒以上に堪能するはめになってしまった。
その晩に美鈴が、堪能したレミリアの酒癖は笑い・泣き上戸+絡み酒である。
普段、常に澄まし切った顔をしているレミリアも酔っ払ってしまうと、
本人は決して認めようとしないが、妹以上に素直で感情豊かになってしまうのだ。
苦行の中にも楽しみがある、それは酔い潰れたレミリアに膝枕をして看病することで、
いくら彼女の酒癖に悩まされようとも、この至福の時がある限りは我慢し続ける自信が
美鈴にはある。なにしろ、朝までぐてーんとしたレミリアを膝元に寝させられるのだ。
それこそ、その姿を想像しただけで美鈴はニヤけきってしまう。
「一人でにやにやして、どうしたの……?」
咲夜がいつの間にか美鈴の横に立っていた。
その手に握られている買い物袋は、ほとんど膨れていない。
「いや、なんでもありません。それより、その……何かありました?」
「……ほとんど品切れ状態で……茶葉、半分も買えなかった……」
「品切れなら仕方ありませんよ……それに今回は、お嬢様だって分かってくれます」
おそらく先日のパーティーの影響なのだろう。
咲夜もそれを分かっているはずだが、口にしようとはしない。
だから美鈴も直接的に言及しないで、出来るだけ遠まわしな表現を選んだ。
美鈴はそんな咲夜の潔さも好きだが、今日に限ればその姿も痛々しいだけだ。
「でも、お嬢様お気に入りの茶葉も買えなかったのよ……?」
「それは少し問題ですね……ちなみにその茶葉の銘柄は?」
「『祁門』って銘柄よ、他に売っている店は知っている……?」
「銘柄は知っていますが――、売っているところは知らないですね……」
「そっか……とりあえず帰りましょうか……」
その咲夜はひどく落ち込んでいて、今にも降り出しそうなくらいに曇った表情をしている。
美鈴はその様子に、にわか雨のせいでずぶ濡れになった仔犬を想像してしまう。
(こんなになっても、私を頼ってくれないのですね)
美鈴はびしょびしょに濡れた仔犬にすら頼ってもらえない、自分の不甲斐なさを嘆いた。
それは単に嘆くというよりも、もはや自嘲に近いものがあった。
美鈴は咲夜よりも早く泣き出してしまいそうになる。
泣いてはいけないと思いつつも、限界が近づいているのが分かった。
そんな時、美鈴は背後から何者かに抱きつかれた。
名前を呼ばれたかと思うと背中に衝撃が走り、前のめりに転んでしまいそうになる。
なんとか持ち堪えた美鈴の耳には、数日前に聞いたばかりの朗らかな声が届いた。
「あっ、やっぱり美鈴でしたか。何をしているのですか?」
「って星さん、じゃなくて星?」
「美鈴さん、また『さん』づけしようとしましたね、ダメですよ」
「クセなんですよ、そう言う星だって、今私に『さん』づけしましたよ?」
「へっ?そ……そんな事ありません、きっと気のせいです!」
「たしかに私は気が使えますが、そんな風には使いませんよ?」
「そんなつもりで言ったのではありません!!」
美鈴は仲の良い友達――寅丸星と出会った。
※※※※※
(どうして、こんなことになったんだろう……)
咲夜は紅魔館へと続く道をとぼとぼ歩いていた。
行きは美鈴と二人で歩いた道も、帰りの今は咲夜一人で歩いている。
美鈴が「すぐに追いつきますから」とたった一言だけ残し、
里で出会った虎妖怪と二人でどこかに行ってしまったためだ。
手にぶら下げている買い物袋は軽かったが、心は鉛のように重く、
時間を停止させてもないのに、無色無音の世界に一人きりでいた。
地に足がついた感覚がないので、もはや『一人』ですらないのかもしれない。
咲夜は、美鈴が追いついてきてくれる事を期待して、ときおり後ろを振り返っては
儚い期待を裏切られ、溢れてくる切ない感情と、零れそうになる涙を抑え込む。
そんな悲しい行為を、次こそは美鈴が見えると信じて延々と繰り返したが、
結局咲夜は、美鈴が視界に入ってこないまま紅魔館に着いてしまった。
当たり前だが門で迎えてくれたのは、美鈴ではなく他の妖精メイドだった。
紅魔館に帰って来た咲夜は、直接主人の部屋に買い出しの報告をしに行かないで、
いったん自室に戻り洗面台で顔を洗って表情を隠し、水を飲んで心を落ち着かせた。
自室を出た後も遠回りになるのが分かった上で、門の方がよく見えるルートを使って
レミリアの部屋に向い、茶葉が買えなかった事を伝えた。
報告を聞いたレミリアの反応は淡白なもので、咲夜はお咎めを受ける事なく、
「ご苦労様、今日はもう休んでいいわよ」とねぎらいの言葉だけをかけられた。
「早く帰ってきてよ……美鈴」
レミリアの部屋から退室した後、咲夜は自室には帰らず、ずっと美鈴の部屋にいた。
部屋に灯りはついておらず、蒼白く物寂しい月光だけが咲夜を照らしている。
咲夜は窓際に動かした安楽椅子の上にちょこんと座り、窓枠のふちに肘を置いて
そこから見える門が開くのを待っていた。
時刻は既に22時をまわっているというのに、部屋の主が帰ってくる気配はなく、
咲夜が用意した二人分の夕食もすっかり冷めてしまっていて、このままだと
半分どころかその全てが無駄になってしまうことになる。
「今日はもう帰ってこないの……?」
飲みほしたカップに紅茶代わりのコーヒーを注ぐ、前に注いだ時には
もくもくと白い湯気が立っていたのに、今では注がれていく茶色の液体しか見えない。
咲夜はコーヒーに何も入れないで、その苦味を噛み締める様にして一口だけ飲む。
「まだ、あの虎妖怪と一緒にいるの……?」
「虎妖怪というと、星のことですか?」
不意に返ってきた言葉に咲夜は驚き、カップを落としてしまいそうになる。
いったんカップを窓枠のふちに置いてから、咲夜はゆっくりと声のした方を向いた。
そこには当たり前の様に美鈴が立っており、その手には大きめの紙包みがあった。
蒼白い月明かりの中から見る美鈴の姿は、今にも消えてしまいそうなくらいに儚く、
いつもは紅と翠で彩られている美鈴も、月光と夜闇が混ざった藍色で染められていた。
「美…鈴…?」
「ただいま、咲夜さん。すみません、少し遅くなりました」
確かめるように名前を呟いた咲夜に、美鈴はいつもの笑顔で応える。
最後に自分に向けられた悲しげな顔とは、正反対の温かな笑顔だったので、
咲夜は戸惑ったが、少しだけ視線を外して今まで何をしていたのかを尋ねた。
「今までどこにいたの……?」
「咲夜さんと別れてからは、ずっと星と命蓮寺にいました」
「虎妖怪と二人で……二人だけでいたってこと?」
「途中までは二人でいましたが、途中からは星の部下も一緒でした」
そう言いながら美鈴が安楽椅子に腰を掛けようとしてきたので、
咲夜は少しだけ端に寄って、隣に美鈴が座れるだけのスペースを空ける。
安楽椅子がギシリと鈍い音を立てたが、二人とも聞こえないふりをした。
咲夜の隣に座った美鈴は、窓枠のふちに置いてあるカップに手を伸ばし一口だけ飲んで、
苦いですねと呟いた後に、もう片方の手に持っていた包みを渡してきた。
「はい、これがお土産です。といってもお嬢様へのものですけどね」
「これ……もしかして茶葉なの?」
「しかもなんと『祁門』です。いやぁ、探すのに苦労しました」
「どこで手に入れてきたの? あの店以外に茶葉を扱う所はないはずよ」
「それは門外不出の企業秘密です。だから教えられません」
「あいにくだけど、ここは門の内側よ? 外ではないわ」
「そういえばそうですね、失念していました」
そう言って美鈴はまたコーヒーを一口だけ飲んだ後、咲夜にカップを渡してきた。
咲夜はそれを受け取り、同じ様に一口だけ飲んで椅子の側のターンテーブルに置く。
もともとカップが小さめなので、残りはもう半分もない。
「この茶葉、星から分けて貰ったんですよ」
「あの虎妖怪から? 紅茶を嗜む様には見えなかったけど」
「星にこの紅茶を、『祁門』を勧めたのは、私なんです」
「ふ~ん、そうなの」
咲夜は、美鈴と虎妖怪の心温まる交流なんかに興味はなかったし、
会話の中に登場してくることでさえ、正直なところあまりいい気はしない。
それだというのに美鈴は、不必要なほど嬉々とした表情をして彼女の名前を口にする。
咲夜は嫌な感情を消し去るために、また苦味を飲もうとカップに手を伸ばした。
しかし、咲夜の指先が触れたものは、冷たい磁器で出来た硬いカップではなく、
温かい血の通った柔らかな美鈴の指先だった。
咲夜は、その温かさ全てが欲しくなってしまう。
「あの……美鈴? そっちに行ってもいい?」
「こっち……? あぁ、そういうことですか。いいですよ」
咲夜の言葉の意味を理解した美鈴は、くすりと笑ながら両膝を立てて広げる。
美鈴の準備が出来たのを確認した咲夜は、安楽椅子の上を這って移動し、
開いた美鈴の膝の間に、彼女の身体を背もたれにしてちょこんと座る。
そんな咲夜を美鈴は、背後から優しく手を回して包み込んでくれた。
「座り心地はどうですか?不満とか、あります?」
「温かくて落ち着く。強いて言うなら膝の上じゃないのが不満ね」
「膝の上ですか……あぐらをかけば、今でも何とかなるかもしれませんね」
浮き沈みを繰り返していた咲夜の心も、美鈴を独り占め出来たことにより
これ以上にない安らぎと憩いの時を手に入れられそうになる。
しかし、その穏やかになりつつあった咲夜の心に、美鈴から一石が投じられる。
「……やっぱり、私は咲夜さんに謝らなければいけませんね」
美鈴を全身で堪能していた咲夜の耳に、あまり穏やかではない言葉が入ってきた。
その声音には何か覚悟が込められていたのだろう。重くて苦しい響きがあった。
それまで笑っていた美鈴の口から出たものだとは、にわかに信じられなかった。
美鈴の顔が近いこともあり、咲夜はその言葉がより重苦しく感じられ、
耳を塞ぎたくなる衝動に駆られるが、回された美鈴の腕がそれを許そうとはしない。
「……私は茶葉を分けて貰うために、星と二人だけで命蓮寺まで行きましたが、
本当なら咲夜さんにも説明して、お寺まで付いて来てもらうべきだったんです。
だけど、私はそうしないで咲夜さんを一人ぼっちにしてしまった……
咲夜さんをびっくりさせたかったから、あわよくば見直して欲しかったから……
そんな身勝手な考えで、私は意図して咲夜さんを置き去りにしたんです……
本当にごめんなさい……咲夜さん」
美鈴の懺悔を聞いた咲夜は無言のまま、そっと美鈴の腕に自分の手を添える。
背後ですすり泣いている美鈴に慰めの言葉を、救いの言葉を贈りたいのだが、
どんな事をどう言えば、美鈴の心を救えるのか思い浮かばないからだ。
手を添えるだけでは咲夜の想いは伝わらないらしく、美鈴は泣くのをやめない。
だから咲夜は身体の向きを逆にして、美鈴を背もたれにするかたちから、
美鈴と向き合うかたちとなる様に、自分の体勢を変えることにした。
咲夜はまず腰を捻って上半身を反転させた後、下半身も反転させるために、
立てられている美鈴の両足の隙間に、自分の両足を無理矢理に潜り込ませる。
それだけでなく、咲夜は美鈴の腰に腕を回して抱き締め、より身体を密着させようとする。
しかし、咲夜の膝の上に美鈴の腿が乗り上げて、美鈴の重心が少し傾いてしまい、
美鈴の身体も少し後方にのけぞるが、それすら許さない咲夜はさらに身体を近づけて
美鈴の背中を窓に押し付けて固定し、完全にお互いの身体を密着させる。
そのため、ただでさえ身長差があるというのに、美鈴を押し上げる様な体位なので
咲夜の顔は美鈴の胸元あたりまでにしか届かず、咲夜は美鈴と顔を合わせるのに軽く見上げ
なければならなり、とりあえず咲夜は目の前にある美鈴の胸に、顔を埋めてみることにした。
「うん、やっぱりここが一番ね」
「い……いきなり何をするんですか?!」
「それはこっちのセリフよ、なんでいきなり泣き出すの?」
「さっき私が言ったことを……聞いてなかったんですか?」
咲夜は美鈴の胸から顔を出して、頭上にある彼女の顔を見る。
蒼白い月光を背にする美鈴の泣き顔は神秘的で、咲夜は見惚れてしまう。
月光の下に照らされている美鈴の髪は、藍とも紫ともつかない幻想(いろ)に染められていた。
「ちゃんと聞いたわよ。だけど貴方が泣く様なところ、あったかしら?」
「私は咲夜さんを置き去りにしたんですよ? それなのに、へらへら笑いかけて……」
「じゃあ美鈴は、自分に腹が立ったから泣いているのね?」
「確かにそれもあります……けど、本当は私……咲夜さんに……」
ぽたぽたと滴が降ってきて、美鈴を見上げる咲夜の頬を濡らした。
その雨だれのいくつかは狙ったように、咲夜の目元に降ってきて涙腺を刺激する。
刺激されたのはなにも涙腺だけでないらしく、咲夜の口は開き言葉を紡ぎはじめた。
「あのね、美鈴。私、今とても安心しているの。それに気持ちもすごくいいの」
「…………」
「貴方がこんなにも泣いているのに……おかしいよね?」
「…………」
「どうしてだか、お人好しの貴方には分からないでしょう?」
「咲夜……さん?」
ベソをかいていた美鈴が返事をくれたので、いよいよ咲夜の口は止まらなくなる。
今まで抑え込んでいたものが、一気に溢れかえり涙と言葉へ変換されていく。
「それはね、こうやって美鈴を独り占め出来ているからなの」
「私を……ですか……?」
「私はね貴方が、私以外の誰かと一緒にいるだけでダメなの。流石にお嬢様達なら
平気なのだけど、それ以外……宴会の参加者、里の住人、それこそ館内の妖精メイド達が
相手であっても、出来る事なら貴方と一緒にいて欲しくないし、話して欲しくもないの。
だからね……こんな自分勝手な私に対して、そこまで潔癖である必要ないのよ?」
そこまで言うと咲夜は、再び美鈴の胸に顔を埋めて彼女の服を濡らしはじめる。
どうして自分が泣いているのか、咲夜自身にもよく分からなかったが、
とりあえず、一番安心の出来る場所がすぐ側にあったのでそこに飛び込んだのだ。
「本当に無茶苦茶です……咲夜さんは……おかしな人です」
「さっきまでわんわん泣いていたのに、もう泣きやんだの?」
「私そんなにも泣いていましたか? そんなつもりないのですが」
「それはもうお腹をすかせた乳飲み子かと思うくらいにね」
「…そう言う咲夜さんだって、泣いていますよ」
「これのこと? これは貴方がこぼした涙よ、私のではないわ」
「それにしては目や頬が、少々濡れ過ぎていると思いますよ?」
「気のせいよ、気のせい。私は泣いてなんかないもの」
「それに私の胸元がぐっしょり濡れているんですが、身に覚えありませんか?」
「うっ……って、ひゃ?!」
天と地が入れ代ってしまった。
突然の事に何が起きたのかすぐに理解できなくて、陳腐ながら咲夜はそう感じた。
美鈴を抱いて座っていたはずが、気が付けば安楽椅子の上に横たわっていて、
膝の上にいたはずの美鈴は、すぐ隣で寝そべり咲夜に腕枕をしてくれていた。
目の端にはまだ涙が見えているが、じきに乾いてなくなってしまうだろう。
「そろそろ足腰がきつくなってくる頃かな~と思いまして」
「……こうなると私、まるで貴方の抱き枕みたいね」
「抱き枕に腕枕する日が来ようとは、思っていませんでした」
「ベッドに行かなくていいの? 今日はもうここで寝ちゃう?」
「そうですね、もうここで寝ちゃいましょうか」
「ご飯は……朝にまわしましょう。お昼になるかもしれないけど」
「カーテンはどうします? 閉めちゃいますか?」
窓から見える夜空には、少しだけ欠けた蒼白い月が浮かんでいる。
真円ではなく少し欠けている方が、自分達には似合っていると咲夜は感じた。
向き直ると美鈴も同じ事を考えていたのだろうか、咲夜の顔を見るなり
くすりと笑いかけてきた。それが嬉しくて咲夜の頬は緩み、口は下弦をえがいてしまう。
こうなると、どうするかなんて無言のままでも、美鈴に伝わってしまうだろう。
だけど咲夜は、あえて言葉を、想いを紡ぐことにした。
「開けておいてくれない? だって、こんなにも月が綺麗なんだから」
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紅魔館が保育園で
「大きくなったら、めーりん先生と結婚する!」って宣言してる保育園児な咲夜さんを想像してしまったww
ナイスめーさくでした!
「どうしたんじゃ、オババ」
「皆の衆っ、咲夜様じゃっ、咲夜乙女様が現れたぞよーっ!
早く家の中に逃げるんじゃっ! 萌え殺されてしまうぞよーっ」
>暇を見つけては椅子の調整ために→調整のために
>「うんうん、なんでもない」→「ううん、なんでもない」、かな。
>紅魔館で不定期のパーティを開らかれた→パーティが開かれた、又はパーティを開いた、かと。
>レミリアが秘蔵っ子にしていた紅茶→普通、秘蔵っ子は人にしか使いません。単に秘蔵で良いかと。
>お酒禁止で開かれたというと→開かれたかというと、の方が自然じゃないでしょうか。
>済まし切った顔をしている→澄まし切った顔をしている
>新円ではなく少し欠けている方が→真円……もう、ゴールしても、いいよね……
嫉妬する咲夜さんが可愛いすぎて辛い。
赤面お嬢様も見たいぜー
癒される
とでも言って自分をミスディレクションしなくては
ニヤニヤがとまらなくなる作品でした
糖死させる気かよまったく
もっと素直になれよ!下手な見栄張るんじゃねーよぉ!
あとがきのレミさん、有言実行ですね。楽しみにしてますv