紅魔館の地下には、吸血鬼の少女がいる。
さすがに地下に幽閉されているということはなくなったが、生まれついてから495年もの永きに渡り、地下生活を送っていたのだから、フランにとっては地上での生活よりも心地がよかったりするのだ。
がらんとした空間。
地下というにはあまりにも広すぎるうろんとした暗闇の中に、ぽつんと真っ白いベッドが浮かんでいる。
そう、まるで島のような感じだ。暗闇のなかで、その真っ白いベッドは輝きすら放っているように見える。もちろん人間であれば、暗闇のなかではほとんど何も見えないだろうが、吸血鬼ともなれば、闇の中でもくっきりと物の存在を知覚できるのである。
だからひとりきりではあっても、闇の中に沈むことはなかった。
たったひとつのベッドと、数体のお人形と、時折投げこまれてくる玩具さえあれば、それでフランは満足できたのである。
それに――
今は独りではなかった。
最近になってよくここ紅魔館に遊びにくる友人ができたのだ。
古明地こいしである。
「フランちゃん。また遊びにきちゃったよ」
「あなたって、本当に自由人よね。少し羨ましいわ」
「なにを言ってるの。自由じゃない意思なんて無いよ。不自由を作り出しているのもまた意思の力だから、そんな意思は封じこめてしまえばいいの。そうすればあなたは自由。どこにだって行けるし、なんにだってなれる」
「ふうん。でも私にはできなかったな。500年近くもできなかったんだから、たぶんこれからもできないんじゃないかしら」
「あなたの意思は現在にしかないの。過去は思い出、未来は希望。あなたの意思はあなたが現時点において思索することによって支えられている」
「こいしの話はあいかわらず小難しいわね」
「そう? 簡単なことだと思うのだけど」
でも、ま――
と、こいしは言葉を切った。
「わかりやすいお話をしましょうか?」
「そうね。何がわかりやすいかは人それぞれだと思うけど」
「もちろん、フランちゃんにとってのわかりやすいお話だよ」
「たとえばどんな?」
「フランちゃんって吸血鬼だよね」
「ん? そうよ」
何を当たり前のことをと、少々フランは呆れ気味。記憶力が乏しいのだろうかと哀れんだりもした。
「吸血鬼って血を吸うのよね」
「まあそうね」
「でもそれ以外にもお食事の方法があるって聞いたわ?」
少し自信がなさそうな声色だ。あいかわらず表情は柔らかな微笑で何を考えているかわからなかったが。
「そりゃ人間が食べるようなものも食べるけど、それは吸血鬼として必要な食事ではないわね」
「ううん。違うの。そうじゃなくてね。実は吸血鬼は血を吸えないときに、それ以外のもので代替させることがあるのよ」
「へぇ? 自分のことながら知らなかったわ。なんなの?」
「薔薇よ」こいしはかぶっていた帽子を脱いで、そのなかから青い薔薇をとりだした。「薔薇の生気を吸い取って生きる力を奪うのよ」
「ああ、聞いたことあるわね。でもそんな代替手段に頼る必要すらなかったみたいだけど。食事は勝手に運ばれてくるし、困ったことなんてないわ」
「そっか。じゃあこれはいらない?」
「見せて」
こいしの手から、フランの手に。
青い薔薇は手渡された――
「綺麗な青い薔薇。でも青い薔薇って普通は咲かないはずよね」
「これはサブタレイニアン・ローズ。地底に咲く薔薇だから」
「澄んだ青色ね。ガラスのように透明……、まるであなたみたいね」
「気に入ってくれた?」
「うん……」
「そう、よかったわ」
「貰ってもいいの?」
「当然じゃない。そのために持ってきたのよ。産地直送」
「ふうん……」
「どうしたの黙りこくっちゃって。もしかして本当は気に入らなかったとか?」
「いいえ。そんなわけないわ。実をいうとね。私、他人からプレゼントを貰うのってはじめてだったの」
「495年生きてて?」
「495年生きてて。だから、なんと言ったらいいか。どう反応すればいいのかわからないのよ」
「それは困ったわね。表象における顔面操作なんて他人に伝達できるものじゃないわ。そもそもフランちゃんがどう思ってるのか。私にはさっぱり理解できないもの」
「う、うれしかったの!」
慌てたようにフランは言った。
そのまま言わないでおいたら、どんな方向に想像力が働くか、まったく想像の埒外だからだ。こいしの心は手放した風船のようにどこに行くかわからない。
だから、ぎゅっとして……ぎゅっとしたままだ。
「うれしい?」
「うん。ありがと」
「それはよかったわ」
軽い口調である。ほんの少し微笑の度合いがあがった気もするが、ほとんど見分けはつかない。こいしらしい反応だと思う。
「吸う?」
こいしが再び聞いてきた。
まさか血を吸うというわけでもないだろう。人間以外の血を吸ったところでどうにもならないような気もするし、それにこいしの柔肌に疵をつけたくはない――
いや、本能的に少しだけ血を吸いたいなって思ってしまったが、ここは我慢である。
フランは我慢した。
それに文脈から考えて、この青い薔薇のことを言っているに違いないのだ。
「吸わないでおこうかな」
「もしかしてやり方がわからないとか?」
「それもあるけど、なんだかもったいないじゃない」
「フランちゃんが欲しいなら、もっと持ってきてあげるけど」
「そうじゃなくてね……」
恥ずかしくてそれ以上言えない。
はじめてだから特別だったのだ。
閑話休題。
しかし、フランとしてはこれはひとつの試練である。あの尊大不遜のお姉様曰く、何かを与えられたら十倍でも二十倍でもいいから返さなければならないらしい。
それがノーブリスオブリージュ。貴族の令嬢としてのたしなみというもの。
じゃあ監禁495年は令嬢としてどうなんだと思わなくもないが、まあたいしたことではない。
過去は過ぎ去った出来事である。想念など、無意味だ。思い出なんて端から無いのだし、吸血鬼にとってはまばたきをする時間に等しい。
フランはそう思う。
薔薇。青い薔薇。いつかは枯れてしまうだろう。何を返すのが適当かしら。
世の中のことをあまり知らないフランは、良い考えが浮かばない。
ただ――思った。
お返しというからには等価交換が原則なのだろう。
だとすれば、この薔薇がフランの『食事』として提供された以上、同じく『食事』を提供するのが筋というものではないだろうか。
あれ?
「でも、こいしって……」
サードアイを閉じた覚り妖怪である。
覚り妖怪は精神妖怪の一種であって、普段は心を読むことで食事を摂っていると聞いた覚えがある。だとすれば、こいしは――心を読めないこいしは――?
「????」
よくわからなかった。
こいしは謎が多い。やっぱり本人に聞くしかないらしい。
「こいし……、次はいつきてくれるのかしら……」
自由に外に出れない自分のキャラクターが恨めしい。
そう、べつに不自由はしないはずなのだ。レミリアが日傘ひとつで外の世界を出歩くように、フランだってその気になれば飛び出せるはずだ。レミリアから館は自由に歩いてもいいといわれているが、外を出歩くことは禁じられている。
その程度――
その程度の制限。
姉に禁じられたというだけのことで、フランはもう外に出る気を失っている。
三日後。
こいしが再びフランのもとを訪れた。
三日なんて495年の月日を考えれば、虚無に等しい時間のはずなのに。その時間を途方もなく長く感じたのは確かだ。
「ねえ。こいし」
「なあに。フランちゃん」
「あなたって、何を食べてるの?」
「ん?」
「だから私が薔薇の生気を吸うみたいに――、あなたは覚り妖怪として何を食べてるのって聞いてるのよ」
「そんなの聞いてどうするの? フランちゃんは覚り妖怪みたいに心も食べたいとか思ってるの?」
「いや、そうじゃないけど、ちょっとした好奇心よ」
「好奇心か。私は好奇心のかたまりみたいなものだから、よくわかるわ。そうね。たぶん薔薇の名前を食べているのよ」
「薔薇の名前?」
「そう」
「ますます意味がわからなくなったわね。あなたたち覚り妖怪って心を食べる妖怪なんでしょう」
「薔薇の名前っていうのはね……。存在理由みたいなものかな?」
「ふむむ……」
「みんな何かを拠り所にして生きているんだよ。私はそれを食べちゃうの。恐ろしいでしょう?」
「いややっぱりわからないわ」
「そう。べつにわからなくても何も困らないから心配することはないわよ」
「いや困るのよ」
「何が困るのかわかんないなぁ」
「だから、こいしにお礼ができなくなっちゃう」
「ふにゅ? お礼って?」
「薔薇くれたでしょ」
「うん。ああそういうことね。それで交換しようとしているわけか。フランちゃんってかわいらしいね」
「変かしら」
「いいえ。好きよ。そういう考え方」
「あなたはそういうふうには考えないの? 何かをもらったら何かお返しするべきじゃない? もちろん義務感じゃないのよ。ただそうしたいって気持ちがあるからそうするの」
「そういう考え方もあるらしいわね」
「こいしはそういうふうに考えないの?」
「うん。まあ私の場合は違うかな。どうしてかな。ああそう。たぶんほら、あなたってお嬢様じゃない。だから考え方に違いがでるのかも」
「あなたも結構いいところの出自らしいじゃないの」
「相対的な意味でね。フランちゃんのほうがお嬢様。これは客観的に判断可能だから私にも理解できる」
「わかった。じゃあ、そういうことにしてもいいけど、それで?」
「なんとなくだけど、そういうふうにプラスの方向に交換しようとするところが、お嬢様らしいなって思って。いや違うか……普通っぽいなって思ったのよね」
「マイナス方向の交換なんてあるの?」
「そうね。例えば、フランちゃんが私に何かをくれたとするでしょ?」
「うん」
「私が交換したいと思ったら、そうね……例えば、この腕をぽきんと折っちゃうわ」
こいしは袖をまくって色白の腕を見せた。
簡単に折れてしまいそうな腕だ。
ドクンとフランの心臓が跳ねた。
「そんな考え方知らない……」
「まあ、そうだよね。でもこれも一種の交換なんだよ。あなたは私が腕を折ったら……、その綺麗な羽を折ってくれるかしら」
「いやよ」
「うん。それでいいんじゃないかな?」
一瞬だけ見せた迫力は霧散し、またいつものように微笑に戻る。
こいしはやっぱり得体が知れない。
けれど生まれ持った貴族精神、姉に叩きこまれた報恩精神がフランの精神支柱に存在する以上、フランはこいしに何かをしてあげたい。
いや――それはもう、闇の中でただひとつ存在していたベッド、あるいはぬいぐるみ、あるいは玩具のようなものなのかもしれない。
フランはこいしを求めていた。
だからフランは自分のためにお返ししたいと思っていた。そんなのは違うとわかっている。
だけど、もしこいしがずっと会いに来てくれなかったらと思うと――
怖くてたまらない。
「ん。何を怖がってるの?」
「え。別に怖がってなんかないわ」
「そう。それならいいのだけど。ああ、さっき羽を折るとか言ったせいね。あれは冗談よ」
「冗談にしては真に迫っていたというか、本気っぽかったけど」
「フランちゃんは吸血鬼のくせにこわがりなのね。おもしろいな」
「おもしろがられる覚えはないのだけど」
「そう?」
「そうなの」
「でもね。とりあえずこれでわかってもらえたと思うんだけど、私はフランちゃんに何かしてもらうつもりなんて無いんだよ。交換したくないの。自分勝手にしたいのよ。ん? ちょっと違うかな。自由に――そうしたいと思ったからそうするだけなのよ」
「私も自由にそうしたいと思ったからそうしたいだけ」
「ふうん……」
こいしはフランのことをじっと見つめた。
「なによ?」
「純真なんだなって思って」
「馬鹿にしてるでしょ」
「ううん? 違う。かわいいと思っただけ」
「かわいいって言われるの。あまり好きじゃないわ。子どもっぽいもの」
「フランちゃんらしいね」
こいしはフランの頭を優しく撫でた。
それこそ子ども扱いである。しかし、人から撫でられることに慣れてないのか、フランはされるがままだ。ちょっと恥ずかしげに目を伏せて、それでもこいしの手のぬくもりが欲しくて、何か言葉を口にすれば、その時間が消え去ってしまいそうだから、されるがままにしたのである。
「フフ……本当にかわいい。だから私はおなかいっぱいになるのよ」
「ん? どういうこと」
「お食事中」
「お食事?」
「そうだけど」
「これが?」
「そう」
「やっぱり意味がわかんないな」
「交換してるのよ。無意識の領域からマイナス方向に」
「マイナス方向に交換してるってことは、何かを失っているってこと?」
「そうね。無意識の領域から自我を切断しているの。そうすると無意識と自我を繋ぐ『線』のようなものがエネルギーとして私に帰属することになるわ」
「はぁん?」
「わかんないかな?」
こいしはフランの瞳を、ほとんど触れ合いそうな距離から見つめる。
フランはドキドキしてしまう。
「恋なんだよ」こいしは区切るようにゆっくり言った。「恋すれば、それがパワーになるの」
「こいしと最初に会ったとき、ハート型の弾幕を撃ってたけど……。それのこと?」
「まあ似たようなものね」
「でも、それって変よね。だってあなたはエネルギーを放出してるのに。どうしてそれが食事になるのかしら」
「恋のパワーは無限なのよ。……というか、無意識の力は底が知れないってことかな。まあどっちでもいいし、重要なのは私が誰かに恋するってこと」
「もしかして……」
「そう、フランちゃんにも恋しちゃってる」
「私を食事にしてたのね」
「ちょっと違うかな。私は私を食べてるのよ。でもまあ、触媒みたいな感じでいえば、フランちゃんが言ってることも正しいかな」
「ふうん。そう」
「迷惑だった?」
「いいえ」
フランは真っ白い肌をピンク色に染める。
簡単なことである。こいしにとって、フランはいるだけで、満腹になるらしい。だったら常時、フランは食べられているようなものだ。
少し恥ずかしいけれど――
それ以上にうれしかった。
「ねえ。こいし」
「なあに?」
「私も――、あなたみたいに、覚り妖怪式のお食事を経験させてもらってよいかしら」
「それは私に聞くことじゃないわね」
「え?」
「恋はワガママなの。答えは聞かないの」
「わかったわ。じゃあ、私はあなたに恋することにするわ」
「そう。じゃあ、私もいままでどおりあなたに恋することにするわ。答えは聞いてない」
とりあえず、契約の証にキスをしてみた。
ふたりとも自分勝手に気ままに、相手のことなんか微塵も考えず、好きだという感情を爆発させて。
そうしたいからそうしたのである。
ここもうたまらんなあ
こういうことか!こういうことだな!?
こいフラ最高!
なんだかこっちは薄ら寒いや。
でもこの温度差に味があるのかな?
そんな祈りを奉げてしまいそうになる、あやうい関係のこいフラでした。
非常に素敵。
こいしちゃんの言ってることが半分くらいしかわかりません。教養が足りんなぁ自分。
陰と陽とのコントラストに圧倒されました
ええ、もう大好きです。
こいしちゃんは無意識の詩人ですね。>恋のパワーは無限なのよ
この路線大好きです。もっと続きが読みたいです!