――紅い。
紅い夕日が、今日もまた西の空に沈もうとしている。
妹紅なら、この夕日を眺めて血の色だと苦笑を浮かべ――
あの吸血鬼なら、自らの刻限の始まりを告げるこの紅を喜ぶのだろう。
沈む夕日の紅は、世界の何処で眺めても変わらない。
変わっていくのは、それを見つめる者の心の方だ。
そう、それは。
……私が、幻想郷にたどりつく前のことに、なる――
人妖弾幕幻夜 東方永夜抄 ~ Imperishable Night.
Keine Kamishirasawa -歴史喰いの“歴史”-
私には両親の記憶というものが無い。
気が付いた時には、私は今の姿より僅かに幼い程度の姿で、
はっきりとした自我と知恵を持ったまま、山の中で一人立ち尽くしていた。
これが、生まれた時には幼く、親の庇護が無くては生きられぬ人間と妖怪との大きく異なる点だろうか――
勿論、妖怪が生まれた際の状況を統計で調べたわけではないから、私だけがこのような形で生まれてきたということもある。
ともかく、私には両親の記憶も、幼かった子供の頃の記憶というものも無い。
記憶に残る最も古い記憶の頃から――私は慧音という名と、銀の髪を持つこの体。
白沢としての力――歴史を喰らい、創造するこの力。
そして「半獣」という異端の烙印を背負って――私は生きてきた。
私がいたのは、この辺り一帯に広がる長い山脈へと連なっていく山の一つで――
麓には小さな村が一つ、ひっそりと開いていた。
山脈には、人を寄せ付けぬ鬱蒼とした自然と妖怪達が。
麓には、開けた土地と村、人間達が。
互いの領分を侵害せぬよう、顔を突き合わせることも無くそれぞれ暮らしていた。
そんな二つの種が、互いに干渉せぬよう引いた境界線で私が目覚めたのは、一体何の因果だったのだろうか。
白沢は歴史に通じ、そうであるが故に万物に通暁し、森羅万象を知る存在だという。
……そこまで仰々しいかは知らないが――私が、他の者よりは多少、物知りであったのは確かだった。
そうであるがゆえに、悲しいかな――目覚めた時から、私は既に知ってしまっていた。
自分が、妖怪の中にも人間の中にも入り込むことの出来ない存在だと言う事を。
例えどちらか一方と親密になれたとしても、それは刹那の事に過ぎない。
やがては、親愛は嫌悪に変わり、掌を返したような拒絶と絶望感に、打ちのめされるだけ――
私は、この人間と妖怪の境界で、存在を知られぬように生きていくのが似合いなのだ。
私が他者に馴染めない要因は、場所や後天的な人間関係に拠る所ではないから。
そしてそれは、何も此処だけに限ったことではなかった。
例え世界の何処へ行こうとも、私には共存できる誰か、許される「居場所」などはない。
そんなものは、所詮幻想の中の出来事に過ぎない。
何処にいても、弾かれる存在なのならば。
何処にいようと、変わらない。宛も無く世界を放浪しても、此処に居を構えて生活したとしても。
だったら、わざわざ動く必要は無いと私は判断した。
幸い山は森の木々や草木で鬱蒼と茂り、見通しは悪く、道らしい道も無い。
後ろの山脈に済む妖怪達の存在も手伝って、不用意に村の人間達が入り込んでくることも無い。
――考えてみれば、案外理想的な場所だった。
私の、妖としての半身――「白沢」としての力は、歴史を喰らい、創造する力である。
数々の知恵の集約である「歴史」を自在に操るということは、私は生まれついた時から様々な知識を会得していた。
生きるための知識にも勿論、精通していた。
月の殆どを人と同じ姿で過ごすのならば、妖怪よりも人間の生活を参考にするべきだと私は判断した。
そこで、自分自身の力を図る目的も兼ねて、人が暮らす時のように、小屋と衣服、生活のための道具を揃えた。
勿論、人間にも妖怪にも目に付かない場所に居を構える必要があったが――それこそ「白沢」としての真価の見せ所だ。
麓の村は土地が痩せていて、そのためにこの山へ、野性の動物を狩る猟師たちが時折足を運ぶことはあったが、
山脈の妖怪を不必要に刺激せぬよう、狩りは山の低いところで行われていたし、
彼らが長年の狩猟の際に踏み固めて作り上げた獣道の網目から外れた場所を探すのも――
私にとっては造作も無いことだった。
野兎を狩り、時には猪のような大きな獲物を狩っては、誇らしげに村に帰ってく人間達の姿をそっと眺めて。
私は静まり返った山の中で――西の空に落ちる夕日を眺めて過ごすのが、いつの間にか日課の一つになっていた。
夕焼けは、切り立った山脈にも、麓の村にも――この山にも、等しく降り注ぐ。
妖怪も、人間も――その狭間の私にも、分け隔てなく注がれる、紅の輝き。
こんな私でさえ、まるで母のように――紅い腕で、優しく包み込んでくれているようで。
空に浮かぶ夕焼けの紅だけが、私の存在を知り、認めてくれる、たった一つの存在だった。
陽が紅に染まってから、空の果てに沈むまでの僅かな時間。
必ず私は、眺めて過ごした。
そんな風に生きるようになって、何年も過ぎた頃。
煌々と輝く月明かりの元、夜の山の中をこっそりと散歩していた時のことだ。
こんな時間には、酷く不似合いなものが聞こえてきた。
子供の泣き声だった。
声のするほうへ足を向ける。
見た目は少女でも、半獣の私にとって、この山を走破することなど容易い。
程なくして、私は泣き声の元凶を見つける――そこにいたのは、大きな声で泣き叫ぶ数人の人間の子供達。
恐らく大人達の目を盗み、勇み足で山の中を探検して、そして帰り道が判らなくなってしまったのだろう。
この山には狼などは出ないが――それでも子供達にとってみれば、
こんな山の中、光の無い場所に取り残されたのでは怖いに決まっていた。
人間は脆弱な存在だが、例え一食ぐらい食事を抜いたところで、命に別状があるわけではない。
あれだけ泣き叫ぶことが出来るのなら、体力も有り余っているだろう。
村の人間が気付いていないとも思えないから、明日になれば本格的に子供達を捜索にかかり――見つけることが出来るはずだ。
私が、その存在を気取られる危険性を侵してまで、彼らを助ける道理は何処にも無い。
だが。
万物に通じるという私の知識は、同時に彼らを探す村の人々の心境も教えていた。
彼らの不安と焦燥、特に子供達の親の抱く、まるで心が張り裂けてしまいそうなほどの心の焦り――
親というものを知らない私には、あくまで一般的な知識の中の一つでしかない。
しかし、実感を伴わぬ知識の一端でしかないからこそ、想像力は勝手に働いて。
……上手く立ち回れば、大事にならずに済むかも知れない。
逆に捜索が難航し、山の奥にまで踏み込まれて、私の小屋を見つけられるよりはましなはずだ――
一瞬だけ、躊躇した後に――私は思い切って、彼らの前に姿を表わしたのだった。
よほど人の姿が恋しかったのだろう。私の姿を見つけるや否や、飛びつくように駆け寄ってくる。
もう少し成長すれば、こんな山奥に年若い娘が唐突に現れたことに、安堵より不審を抱くのだろうが……。
口々に闇夜の恐怖を訴え――べそをかき、泣きじゃくる子供達をあやして。
その小さな手を引きながら、私と子供達はゆっくりと山を降りていった。
子供達にしては、随分と奥までやってきたもので、眼科に村が見えてくるようになるまでには相当な距離を歩いた。
泣き疲れていた子供達には強行軍を強いることとなった。
特に一番小さな少年は途中で眠ってしまい、今も私の背で規則的な寝息を立てている。
誰かと言葉を交わすこと、こうやって傍にいることさえ、私にとっては全て初めてのことだったが。
得た知識を総動員し、なんとか怪しまれずに済むように子供達を励まし、一歩一歩山を降りていった。
ようやく見えてきた村には、幾つもの松明の火が見える――
やはり村の方でも、子供達がいなくなったことに既に気付いていたらしい。
闇の中、ちらちらとせわしなく動くその輝きは、まるでどちらが迷子なのか判らなくなるほど、上から見ていると落ち着きが無い。
そのことに、ちょっと笑みが零れた。
此処まで来れば充分だろう。何より、もう村が見えているのだ。
あれほど泣き、恐怖していた子供達の目がきらきらと輝いていた。
背中で眠っていた子供も目を覚ましたので降ろしてやると、
他の子供達同様、今にも走り去ってしまいそうな様子で村を見下ろしている。
もう、これ以上付き合う必要は無い――子供達の背中を見ながら、しみじみと実感して。
私はそのまま歴史を操り、まるで蜃気楼のように音を立てず、そっとその場を後にしたのだった。
子供達の記憶は弄らなかった。
あの様に去ってしまえば、狐か狸、もしくは幽霊か何かの仕業と思い、これ以上深く関わることは無いと踏んだのもある。
だが一番の理由は、そう――なんとなく彼らの記憶を弄る事が躊躇われたのだ。
私にとっては初めて誰かと共に過ごした時間であり、誰かに頼られるということも初めての経験だった。
彼らの記憶を弄ってしまえば。
私のこの経験が全て、夢か幻か――現実のものでは無くなる。そんな錯覚に捕われて。
例え向こうは夢や幻の事と、記憶の底に沈めてくれてもかまわない。
ただその頭の片隅に、今日の一夜が確かにあった事を覚えていてほしかった。
そうすれば、この日の出来事の記憶を持つ私だけは、それが現実のことだったと知っていられるから――
小屋に帰り、布団に潜った後も。
あの小さな手の感触を確かめるように、月明かりに自分の手を透かしながら――私は眠れぬ一晩を過ごした。
ところが、その次の日。
私の小屋に、生まれて初めての来客が訪れた。
――昨晩の、子供達だった。
昨日の今日で、よく怖がる事も無く山に入ってきたものだ――それどころか私の小屋を見つけてしまうとは。
人間の子供の持つ予想を上回る行動力の高さに、状況を忘れて思わず感心してしまっていた。
しかし、判らないのは。
彼らは何故、私の小屋を探し、私の元へとやってきたのかだ。
化かされたと思わず、この山の中を懸命に探してきたことには感心するが、彼らが私に何かの用があるとは思えない。
だが現実には、子供達は何かの決意を固めたような真剣な表情で小屋に押し入り、食い入るような表情で私を見つめている。
さて、どうしたものだろうかと考えあぐねていた、その時。
子供達の中でリーダー的な位置にいるのだろう――背の高い少年が、ぶっきらぼうに口を開いた。
「…………あの時」
「……?」
「……あの時、村まで連れてってくれて、その……ありがとう」
……私はきっと、この瞬間。
途轍もなく、間の抜けた表情をしていたに違いない。
「ぽかん」という擬音が聞こえてきそうなほど呆気にとられている私の目の前で、さらに予想外の出来事は続く――
「あの時、お姉ちゃんが助けてくれなかったら……わたしたち、きっと助からなかったから。本当にありがとう」
少年のすぐ傍らにいた利発そうな少女が、こちらは丁寧に頭を下げる。
そして少年少女に続く形で、他の子供達もそれぞれに「ありがとう」「助かった」などと、私に頭を下げてくる。
……まさか、この子供達は。
私にわざわざ、礼を言うために。
そのためだけに、山に再び足を踏み入れたというのだろうか。
こういう時、普通は一体どうすればいいのだろう。
一体、どのような返事を、彼らに返せば良いのだろうか――
言葉を見失い、ただ口を開いて突っ立っている私に。
他の子供達の背に隠れるようにしていた、一際幼い子供――
あの時私が背に負った少年が、意を決したように厳しい表情で私の足元まで近寄ってきた。
まるで親の仇でも取るような緊迫した表情のまま、背中に隠していたものをぐっと差し出す。
「……花……?」
それは、一輪の菫の花。
どこかで摘んできたのだろうか――茎が折れてしまいそうなほど力いっぱい握り、私へと差し出していた。
「……くれるのか、私に……?」
俯いたまま、少年はこくこくと頷く。
その土に汚れた小さな手に、後生大事に握り締めて
耳の先まで真っ赤にしながら、俯いている少年の、小さな姿を見ていると。
……私は、自然と――この精一杯の勇気にどう応えるべきなのかが見えてきていた。
「……ふむ。綺麗な色だな――」
野良仕事を手伝い、黒くなるまで山を駆け巡り、乾いた泥で薄汚れたその小さい手から、そっと菫を受け取って。
「……ありがとう。私は今、とても――嬉しい」
見つめ上げる子供達の眼差しに、花の咲くような微笑みを返した。
その日を境に、私は少しづつ、麓の村の人々と交流を交わすようになっていった。
そもそも、私自身が積極的に関わろうとしなくても、子供達はほぼ毎日山にやってくる。
私の家の近くまで――山の奥深くまで入り込んでは、木々の間を山猿のように駆け巡り、日が暮れるまで遊んでいたのだった。
「この山は、おら達の庭みたいなもんだからな」
子供達の一人が、偉そうにそんな事を言った時には、あの夜の泣きじゃくった姿を思い出して思わず笑ってしまったものだ。
そして子供達を通じて、村の人々とも少しづつ交流を持つようになっていった。
私が何故山に住んでいるのか、村に下りてこないかは、適当に理由を作って誤魔化すしかなかったが――
山で、たった一人で生活するのは大変だろうと、彼らは村で取れた作物を分けてくれた。
村は土地がすっかり痩せていて、野菜も米も、取れる量には限りがあるというのにだ。
そして、そうやって分けてもらった食べ物は、歴史を操って複製したものよりずっと美味しかったことは今でも忘れられない。
だが、彼らの温情に頼り続け、ただで貰い続けることは出来なかった。
そもそも私は、いざとなれば歴史を操り、いくらでも食べ物には不自由することの無い生活ぐらいは出来るのである。
彼らの温情に応えようと、私は人間のようにお金を稼ぐため、生まれて初めて仕事というものにも手を出すようになった。
この強靭な体を使って力仕事に精を出せれば、収入的にも効率の良い働きが出来たのだが、
筋骨隆々の青年ならともかく、まさかこの少女の姿で人三倍の力を存分に振るうわけにもいかない。
機を折り、縄を編み、布を染め――傘を張るなどといった家の中での働き、自然とに集中することとなった。
また、歴史を通じて様々な知識に通じるこの能力を生かし、医師の真似事をしたこともある。
そういった様々な仕事でお金を稼ぎ、時には作った品物を現物そのまま、食べ物などと物々交換して。
そして、その最中に農作業に精を出す村の人間と他愛ない話を交え、茶を出して貰ったりもした。
昔はただ、そっと眺めるだけだった猟師達も、顔を見かければいたって気さくに話が出来るようになった。
そうして仕事の合間に、または仕事休みの日には――子供達が遊ぶのを眺め、彼らにせがまれ私自身もその遊びに参加する。
子供達とへとへとになるまで走り回り、ふと空を見上げれば――空一面を真っ赤に染め上げるほどの夕日が浮かんでいたものだ。
「……少年。あの夕日をどう思う?」
ある日、私に菫の花をくれたあの少年に、こう訪ねてみたことがある。
引っ込み思案らしい少年は、普段はいつも年上の子供の背中に隠れていたが、
こうして私が話しかけると、小さい声ながらも口を開いてくれた。
そしてこの日も、彼は応えてくれた――くいくいと袖を引っ張られてかがみこむと、少年はそっと私の耳元に口を近づけて、
「……そらが燃えてるみたいで、こわいけど……でも、とってもきれいです…………?」
こくこくと頷く。
「……そうか……空が燃える、か。なかなか、面白い解釈をするんだな……お前は」
私は、少年の体をそっと抱きしめ、頭を撫でる。
ぱくぱくと口をあけて硬直したその顔が真っ赤だったのは、夕焼けの照り返しがやけに強かったからだろうか。
少年があの夕焼けに感じた感想は、私のものとは違っている。
だが同時に、私も少年も、あの夕焼けを綺麗だと感じている――
それが、嬉しかった。
「慧音さん、おれだってあの夕焼けは綺麗だと思うぜ? 雲に跳ね返って綺麗じゃんか」
「おらもおらも――夕日の中に立ってる慧音ねえちゃんがきれいだと思う!」
「なっ――こら、いきなり飛びついてくるやつがあるか! 危ないな、まったく!」
背中からいきなり抱きついてきた子供を嗜める。
そして、私の傍に集まってきた子供達と一緒に、私はもう一度夕焼け空を仰いだ。
一人であった頃と同じように、私を暖かく包んでくれる夕日は――心なしか、今の私を喜んでくれている様に見えた――
あの頃の私に接してくれた人間は、みんな夕日のように暖かかった。
決して、感じることの出来ない温もりだと思っていたから。
誰かと、共にいることが――こんなにも楽しいことだったとは、知らなかった。
人間は確かに、妖怪に比べれば脆弱で狡猾で、取るに足らない存在なのかもしれない。
しかし、彼らは力が無いからこそ、他人との繋がりを大事にする。
誰かに分け与えることの出来る、優しさと暖かさを持っている。
こんな暖かい気持ちを誰かに与えることのできる、人間という種族を。
私は、とても素晴らしく、そして愛しいものと感じていた。
あの時。
私にとって、世界は穏やかで暖かく、幸せなものだった。
こんな日々がずっと続けばいいと、心からそう願った。
そんな幻想を――信じていた。
だが、生まれて最初に、知識として私が予見したように。
この穏やかな日々は、決して長く続くものでは、無かった。
事の起こりは、何十年に一度あるか無いかの規模の大地震が、この辺り一体を襲ったことことからだった。
幸いにも、震源は村そのものではなかったから、死者が出る様な惨事には至らなかったが。
ただ運が悪かったことに、その地震と重なるようにして――嵐が上陸してきたのだ。
激しい雨風によって、揺さぶられた山は酷く土が緩み、いつ何処で土砂崩れが起こってもおかしくは無い状態にあった。
私はひとまず、小屋の周りの歴史を操作し、嵐が去るまでおとなしく過ごしていようと決めていた。
小屋は簡素に見えても、相当頑丈に組み合わせて作ってあったし、家の中の空間の「嵐の歴史」はあらかじめ喰らってある。
時折聞こえる風の悲鳴は激しかったものの、私自身は至って落ち着き払っていた。
しかし、この木々さえ薙ぎ倒しそうな暴風と雨の中――
必死の形相で駆け込んできた少年の姿を見たときには、流石に度肝を抜かれた。
全身、池に飛び込んだように水滴が垂れ、まるで濡れ鼠のような酷い格好で、少年は小屋に転がり込んで来たのだ。
一歩外に出れば暴風と豪雨が容赦なく叩きつけてくる中、この家の中だけがひっそりとしている様は充分怪異であったろうに――
それにさえ気付かないほど、少年の表情は必死で、余裕が無かった。
そして。
荒げた息を整える間も無いままに、一気にまくしたてた少年の言葉の内容に。
――この暴風の中、土砂崩れに子供達が巻き込まれたという、少年の言葉を聞いた時――
私の心にも、一切の余裕がなくなっていた。
まるで桶をひっくり返したように降り注ぐ雨と、殴りつけるような風。
雨具も持たずに飛び出した私の着物はあっという間に水を吸い、ずっしりと重くなっている。
しかし、私はそんなことには一切構わず――野生の獣のように、ひたすら山を駆け下りた。
……土砂崩れに巻き込まれた、子供達は。
山の中に住んでいる私の安否を気遣って、大人達の目の隙を盗んで山に忍び入ったという。
――私のせいだ。
――私のせいで、彼らの命が脅かされそうになっているのだ――
私がようやく現場に駆けつけた時、既に村の人々は必死になって崩れた崖を掘り起こそうとしていた。
しかし、崩れた土砂が、まるで小高い山のように積もっている様子を見る限り――子供達の生存は、絶望的に思えた。
この時代には、貧しい村は子供の口を減らすために山に捨てたり、命を絶つことも珍しい話ではなく――
この時代の親達は、現代の親ほど子供の「死」に頓着を示すことは無い。
しかし、それでも。
子供が愛しくない親などいないのだ。
まるで効率的とはいえない様子で、髪の毛を振り乱し――半狂乱になって子供の名を叫び、土を掘り返している。
例え掘り返せたとしても、そこには絶望的な結末しか待っていないだろうに。
それでも子供達の親は、喉が張り裂けそうな声で子供の名を呼び、泣きながら土砂を掘り返す。
私が、彼らと関わることさえなければ――脅かされることの無かったはずの命の名を、呼びながら。
私は迷わなかった。
崩れた土砂を掘り返そうとしている村の人間を纏めて放り投げるように退けて、力を解放する。
そして、土砂が崩れたという「歴史」を、私は喰らった。
あれほど高く積みあがっていた土砂は、その一瞬で影も形も消えうせ――後にはただ、倒れている子供達の姿のみ。
私は、一番近くに倒れていた子供のそばにそっと駆け寄り、手首を握る。
まだ、弱弱しいながらも――しっかりと、脈は残っていた。
他の子供達の歴史も調べる――すると、土砂崩れに巻き込まれた子供達は全員、意識を失っているだけだった。
大きな外傷も、後遺症になるような深刻な怪我も全く無い。せいぜい、軽い打撲と骨折ぐらいのものである。
それは、正に奇跡と呼んでも良い結果だった。
そして、その事に。
……私は、心から安堵して。
だが――まだ気を緩めるには、ほんの少しだけ早すぎた。
一際強く吹きつけた風と雨が、山にさらなる土砂崩れを引き起こさせる。
しかもその規模は、どう見たところで、先刻のあれよりも遥かに大きい。
今度は子供達だけではない――この場にいる全員が、生き埋めになってもおかしくは無い――
畑で取れた作物を、少しばかりおまけしてくれた老婦の顔が。
射取った猪の大きさを、目を輝かせながら――少々誇張げに語った、若者の顔が。
あの晩、恐怖に震え、泣いていた子供達の声が――私の記憶を、駆け抜けていく。
――私は。
彼らを、失いたくない――
雪崩を打って落ちかかってくる巨石は――その真下にいた村人の頭を砕く寸前、霞のように消え去った。
薙ぎ倒された木々が、数人を押し潰しかねない勢いで倒れ――やはり、その直前でふっと消え去る。
足を滑らせ転落しかけた男は寸前、見えない何かの壁に阻まれるように踏みとどまり。
掲げていた松明を消し去らん勢いで風雨が襲い掛かれば、急にその勢いが弱まっていく。
――この時の事を、私は正確に覚えていない。
無我夢中で、力を解き放っていた。
ありとあらゆる、災いの原因となるであろう事象の歴史を――喰って喰って、喰らい続けた。
どれほどの時間が過ぎた後だったのだろう。
気付けば、あれほど喚き叫んでいた風雨がぴたりと止んでいた。
先刻までの荒れぶりが嘘のように、ひっそりと静まり返る山。
どうやら、嵐の「目」に入ったらしい。
地面は引き裂かれ、崖は崩れ――木々が根こそぎ薙ぎ倒された、痛々しいまでの山の姿。
嵐が垣間見せた、自然の猛威――人間では決して抗えぬ、絶対的なまでの力。
だが、しかし。
彼らは目の当たりにしていた。
その絶対的な力に、真正面から拮抗してみせた力の存在を。
村の人々のいた場所だけが、まるで見えない巨人の手で護られたように、不思議な現象が次々と巻き起こっていたのを。
そしてそれが、誰の力によって為されたものかを――彼らはその目で、はっきりと目撃していた。
誰も、言葉を発さない。
誰も、動こうとしない。
手にした松明の火がたてる、じりじりという音が――やけに響いた。
私は黙って、村人達の視線を一身に受けていた。
ずぶ濡れになった着物はべったりと体に張り付き、
銀の長髪は滝に打たれたようにぐっしょりと濡れて、張り付いた頬から水滴を垂らす。
顎から、指先から、着物の端から――ぽたりぽたりと流れる雫を、拭うことも忘れて。
私はただ、ガラス玉を思わせるような村人達の瞳を、真っ直ぐに見つめていた。
すっかり濡れた体は夜の闇に冷え、吐く息は荒く、白い。
だが、本当に冷たさを感じていたのは――体では、無かった。
時間さえ、凍り付いてしまったような中で。
うっすらと開けた雲の切れ間から月が顔を覗かせ、沈黙に凍てついた私達に光を投げかける。
一片の翳りも無い、望月の光が――私の体へと降り注いだ。
私の姿が――変わる。
瞳の色は血を透かしたような紅に染まり、目鼻立ちがくっきりと、大人びたものへと変わっていく。
慎ましやかだった双丘は、襦袢の下からはっきりと判るほど大きくなり、つんと形よく着物を押し上げる。
臀部の辺りに切り込みの入った私の着物――今そこから顔を覗かせたのは、ふさふさとした毛を持った、一本の獣の尾。
そして、皆が目を見張る中で。
月の光を固めたように白く、鋭い二本の角が――筍のように髪の間から伸び、天を衝いた。
――それは。
限りなく、人に似ていながらも――人に在らざる、異形の姿。
「――もの」
私を呼びに来た少年の口から、不意に衝いて出た、その言葉が。
ぞっとするほど、鋭く――人々の耳に、心に響く。
「――ばけもの」
満月が昇る、夜の元で。
「ばけもの――!!」
――幻想の日々は粉々に打ち砕かれ、唐突にその終わりを告げた。
どれだけ酷い傷も、死に至るものでないならやがては癒え、消えていく。
地震に嵐の直撃を受け、酷い傷痕を負った山だったが――大自然の猛威は、同じ自然を死滅させるような類の力ではなかった。
倒れた木々からはまた新たな芽が吹き出し、崩れた崖は風雪に丸くなり、やがてはもとの傾斜に戻っていく。
草花が芽吹き、苗が育ち、山が再生していくのを眺めながら。
私は何をするでもなく、ただ山の景色を眺めていた。
あの日の一件以来、誰も此処を訪れない。
子供達もさることながら――猟師達でさえ、全くその姿を見なくなっていた。
そして私も、あの日から一度も小屋の外に出ていない。
最初から、判りきっていたことだ。
元々、長く続くはずが無かったのだ。
早かれ遅かれ、いつかは――拒絶される日が来ることを、私はとうの昔に予見していただろうに。
だが、全てが破綻して、なお。
私は此処を離れることが出来ないでいた。
そっと眺めたのは、一輪の菫。
長く残るよう、押し花にしておいた――あの日、少年のくれた一輪の菫。
あの時と何も変わっていないはずなのに。
顔を、上げる。
窓の外から、小屋の闇を切り裂くようにして差し込む夕日。
あの日々に見たものと、何一つ変わっていないはずなのに――
何故、こんなにも胸が痛むのだろう。
あの時と、変わっていないことが――こんなにも痛いのだろう。
……何故、私達は。
こんなにも、変わってしまったのだろうか――
ぎしりと痛んだ胸に――涙が滲みそうになった。
互いに腫れ物に触れるような様子で、時間だけが過ぎていく。
だが、それもまた――長く続くものでは無かった。
まるで肌を突き刺すような殺気に、私が慌てて飛び起きた時。
山肌を這い上がってくるように登ってくる松明の炎が、幾つも見て取れた。
それはじりじりと、私の小屋を取り囲むように素早く、容赦なく駆け上がってくる。
炎の揺らめく中に時折きらりと輝いていたのは、鍬や鋤といった農具達。
本来なら畑仕事に使うそれらも、使いようによっては武器になる。
誰かを、殺すことが出来る。
鋼の輝きを手に山を登ってくる村人達の目は、松明の揺らぐ炎を炯々と映し、異様な輝きを放っていた。
そこにあったのは、複数の感情――憎悪と、殺意――そして、恐怖。
私を殺さねば、いつか自分達が殺される。
今はおとなしいが。いつか自分達を殺しにくる――だから殺される前に、殺すしかない。
地獄に吹く風さえ生温く感じるほどのぎらついた感情のうねりが、嵐のように山全体を取り囲んでいた。
――山狩り。
最後に私が見たときよりも、衣服は粗末に――ところどころ頬がこけ、みずぼらしくなった彼らの姿。
その顔に貼り付けている顔は、餓鬼のような形相。
落ち窪んだ眼窩だけが別のモノのように輝き、鍬の、鋤の、刀の柄を。
折れ砕かんばかりに、ぎりぎりと硬く握り締めるその様子は。
あの時、暖かな表情を浮かべていた彼らと同じ生物とはとても思えないほど恐ろしかった。
私は逃げ出した。
小屋も荷物も置いたまま、着の身着のまま小屋を飛び出し。
無我夢中に山を駆け、何とか彼らから逃れようとした。
今宵は満月ではない――私の体は人間のそれだったが、それでも彼らより遥かにその基本性能は高い。
山に慣れた猟師たちにも劣らぬ速さで、道無き道を駆け、枝葉を折り踏み、矢のように木々の間を駆け抜けていく。
だが。
私が、あくまでも「個人」であるのに対して。
村の人間達は「組織」であった。
私が逃げようとする先を巧みに潰し、立ち塞がり。
炎が、じりじりと肌を焼き焦がすように、じわじわとその包囲を縮めていく。
何処を見ても、見えるのは松明の炎。燃え盛る紅色。
紅、紅、紅――私を焼き尽くさんばかりの、紅。
夕日と、あれだけ似ているのに――それは私を拒絶するためだけに焚かれた紅色。
山を降りることは、もう出来ない。
残されていたのは、山をさらに奥へと進み――人間達さえも忌避する、妖怪の領分に逃げ込むことだけ――
私は走った。
必死で逃げ続けた。
村の人間達も、私が山脈側へ逃げ込もうとするのがわかったのだろう――
今まで以上に、暴風のような殺意を吐いて私を追ってきた。
大型の獲物を仕留めるための狩猟用の弓から、間断なく矢が放たれる。
だが、今彼らが狙うのは、山の動物達ではない。
彼らが狙うのは――私。
半獣という名の異端。
日頃の狩りで鍛え上げられた彼らの弓の腕前は、私の身体能力をもってしてもかわすことは容易ではなく。
放たれた矢に木々が軋み、枝は折れ、葉は引き裂かれ――着物のあちこちが裂け、破けていく。
鏃が肌を掠めただけで、私の皮膚は紙切れのように裂け、肉を食い千切られ、焼けるような鋭い痛みが断続的に襲い掛かる。
これが、現実。
この世界で、私が生きるということの結末――
そして、とうとう。
私の、左肩に―― 一本の矢が深々と突き刺さる。
今までとは比べ物にならないほどの痛みに、私は矢を放った相手を見定めんと振り返る。
誰がその矢を放ったか特定することは、さほど難しいことではなかった。
この矢を放ったのは、一人の青年だった。
私を化け物と叫び、地獄の鬼のような形相で村の若者達を率いて、新たな矢を番える。
その青年は、かつて私に菫の花をくれた、あの少年の成長した姿だった。
肩に突き刺さった矢は、大型の動物を狩るときに使う特別な鏃を使っていた。
射抜かれた後も暴れる獲物から、矢が抜けないように特殊な返しがついていて、動けば動くほど鏃は傷に食い込んでいく。
そして、羽根の重みに振り回された鏃は遠慮なく肉を引き裂き、神経に鉛を溶かし込んだような激痛を与え続けるのだ。
その特殊な鏃のせいで、引き抜くことは、諦めるより他に無かった。
仕方なく、矢を中ほどから折ってしまうことで、それ以上の傷の拡大を防ぐ。
それでも、痛みが続くことには変わらない――気を抜けばそのまま、意識さえ引き裂かれそうになる。
だが、それでも私は立ち止まらなかった。
もう村人達の罵声も、持っていた松明の炎も見えなくなっていたが。
山脈の奥へ、突き動かされるように歩き続けて。
――ずっと――考えていた。
あの時の、眼。
――彼らの瞳を支配していた、恐怖。
無理も無い話だと、思う。
私の力は、確かに強大だ。
妖怪の中には、私の力など簡単に跳ね除けるような者も存在するが――
人間達にとってみれば、瞬く間に彼らを血祭りに上げることも造作も無いこの力は、脅威以外の何者でもないだろう。
そして恐らく、彼らがこれほどまでに私を恐れ、憎むのは――
私に、半分は人間としての姿が存在していたからではないのだろうか。
――あの時間、あの瞬間まで、村人達は誰一人として私の正体に気付けなかった。
私の事を人間だと、自分達と同じ存在だと――思いこんでいた。
同じ存在であるからこそ、心を開き、打ち解けていたのだ。
だが、私は彼らとは同じ存在ではなかった。
こんなにも、似ていながら――彼らとは決して共有できない部分があった。
それが――全ての元凶だったのだ。
私の姿が、それこそ身の丈何尺もあるような異形の姿だったなら――最初から恐怖し、距離を置けばいい。
私のこの力に見合うだけの――人とは明らかに違う、異形だったならば。
しかし私は、何食わぬ顔で、人と同じような顔をして。
彼らの警戒心を解き放ち――彼らの中に、潜り込んでいた。
人に似た顔の下で、人と同じ言葉を紡ぎながら――何を考えているのか判らない存在。
しかもそれは、途方も無く物騒な力を持ち合わせているのである。
人間は、弱い。
弱いからこそ、彼らは集団で生活し――自分達と同じモノ同士で、寄り添い合う。
それは、彼らが同じ「弱さ」を共有しあっているから。
弱い場所を見せ合うことで、互いに敵意が無い事を示し――
同じ弱さの形を共有し会うことの連帯感が、仲間としての意識を強めていく。
そして、そうであるからこそ――彼らは陰の可能性に、酷く敏感になる。
隣人が、瞬きをする間にもこちらを殺すことのできる力を持っている。
彼らにとって恐ろしいのはその「力」であり、殺すかもしれない「可能性」なのだ。
例え、その隣人が心穏やかな人物であっても。
どれだけ人格的に高潔な人物であっても――関係無い。
――いつ、こちらの予想を裏切って牙を向くか判らない。
人間じゃないから、自分達とは別の存在だから、信用することなど出来ない。
何せ、その気になれば彼らは、抵抗する暇も無く自分達を殺すことが出来るのだ――
その、潜在的な恐怖。
陰の可能性が疑心暗鬼を生み、やがては「殺さなければ自分達が殺される」という執念に変わっていく。
――あの村人達のように。
それが、人間の弱さ。
最も悲しく、哀れで――醜い、側面の一つ。
……そこまで判っていて。
何故、私は――それでもなお、人間に関わる事を止められなかったのだろう。
何故、人間達に牙を向こうと思わなかったのだろう。
あの時、あの瞬間――私のあの姿を見た全員の歴史を操り、記憶を弄って忘れさせることも出来たというのに。
何故、私はそうしなかったのだろう――
ただでさえ足元が不安定な場所で、考え半分に歩いていたのが仇になった。
気づいた時には、木の根に足を取られ――私は派手に転倒してしまう。
森の腐葉土は柔らかく、怪我をすることは無かったが――代わりに、降りていた夜露に着物が汚れる。
……だが、その泥の汚れが気にならないほど――今の私の格好は、酷い有様だった。
木々の間を走りぬけ、矢で貫かれた着物は最早ぼろのように大きく裂け、血に滲んでいる。
ところどころ露出した肌も、痣や擦り傷が絶えず、矢の掠めた場所も裂傷が酷い。
履いていた筈の草履も、いつの間にかどこかに消えて、むき出しになった足の裏は皮がずるりと裂け、ひりひりと腫れていた。
今更此処に、泥や木の葉の汚れが加わったところで、一体それが何だと言うのだろうか。
――だが。
転んだ拍子、手放してしまったものがあった事に気付いた時。
手にしていた菫の押し花が土に汚れてしまった時の私の慌てぶりは、自分で考えても酷いものだった。
慌てて拾い上げ、汚れを手で払う――幸い、さほど汚れていない。
安心して、ため息が漏れる。
だが、何故私は、こんなものをまだ後生大事に取っているのか。
これをくれた、少年は――先刻、私を殺さんと矢を番えていた。
そのうちの一本は今も、私の肩に突き刺さり、傷口を開いている。
私が半獣でなかったなら、これほどの痛みと出血に、とうに命は尽き果てていたはずである。
この花を見て、逆に人間達への憎悪や殺意を抱いたところで――誰がそれを、咎めることができるだろうか――?
……だと、いうのに。
不思議なもので、どうあっても、これを捨てることなどを、私は考えられなかった。
随分と年月を重ね、少し色褪せた菫の先にあるのは――顔を真っ赤にしていた、あの少年の姿。
そして、あの時感じた「嬉しい」という感情――
……そうか。
そういうことだったのか。
私は、あの時のことが忘れられなかったのだ。
先刻、あれほどの仕打ちを受けながら。
あれほど醜い一面を見せ付けられながら、それだけが人間の全てではないと、誰よりも知っていたから。
残酷な面と同じだけ、美しく、暖かい心も持っている事を、誰よりも知っていたから。
その、心と姿に触れて――救われた私がいたことを、誰よりも知っていたから。
今も、痛む左肩がありながら――それでも、人間達に復讐したいとか、そういう気持ちには慣れなかった。
人間達のそういった「弱さ」が存在することは、仕方が無い。
あの醜い部分があるからこそ、美しく、優しい部分も持ちうるのだから。
その二つを、まとめて――人は人たりえるのだ。
人間と妖怪、その二つの側面を合わせて、私という存在がいるように。
思えば私は、どうしようもないほどに半端者だった。
最初から、妖怪にも人間にもなれぬ存在であると知っていたのに。
妖怪としての誇りと矜持だけで孤独を耐え抜けるほどに、私は強くなく。
人としておとなしくあの場で殺されてやるほど、私は弱くもなかった。
最初から、拒絶と絶望に打ちひしがれる結末があることを知っていたのに。
もし私が、もう少し愚かだったなら――
あの場にいた人間を素直に憎み、復讐を考え、憎悪に身を委ねることもできた。
もし私が、もう少し賢かったなら――
予見したあの内容を忠実に護り、最後まで人間に関わらず、ひっそりと穏やかに、今もあの場所で生きていけた。
中途半端に生まれ。
中途半端に強く。
中途半端に、賢かったから。
私はどちらに溶け込むことも出来ず、かりそめに得ただけのものを失ったことに傷つき。
こうして傷を負い、最初から知っていた通りの結末通りに、拒絶され――山の中を、あてもなく彷徨っている。
……幻想を、信じてしまった。
人間と共に、いつまでも暮らせるという、幻想を。
この世界の何処にも、そんな幻想など存在しないというのに。
私は本当に、中途半端に、愚かだ――
そして私は、それを理解してもなお、半端者だった。
悲しみに暮れるほど、弱くなく――達観してしまえるほど、強くも無い。
涙も、出そうになかった。
だから私は、すっかり乾いてしまった心から湧き上がる衝動に従って――笑った。
自らの情けなさに。
自らの中途半端さに。
こんなにも、どうしようもない私の可笑しな生き様を――私は、笑った。
涙は無い。
そんなものは、もうからからに乾いた心の何処にも見出せない。
ただ、かさかさに乾いた唇から――低く静かに、私は笑った。
もうこれ以上、失うもののない私の未来を――私はいつまでも、笑い続けた。
……それから、どれだけの時間がたったのか。
どれほどの距離を歩いたのか――私は覚えていない。
もう、どうでもよかった。
私自身のことなど、どうでもいい。
突き詰めた答を知ってなお、中途半端な私は、死ぬことも生きるために抗うこともせず、歩き続けるだけだった。
行けども行けども、木々が茂り、光さえ差さない森の中を歩き続けた。
この頃になると、もう体に感覚は殆ど残っていなかった。
棒の様に硬く、汚れた足をつっかえるように前に突き出し、生えている木々にもたれかかるようにして、一歩一歩歩く。
その先に何があるかも知らないし――知ろうという気にさえ、ならなかった。
まるで空を切り裂くように高い山脈の空気は冷え、吐く息は凍えるように白い。
ぞっとするほど冷たくなった体は、矢の食い込んだ左肩だけが、まだ焼けるような痛みを熱さのように訴え続けていた。
もう、私が生きていることを実感できるのは、命を削るこの左肩の傷の痛みだけだった。
流れる血と共に、命さえ流れ出てしまっているかのような錯覚を覚えていたが、それもだんだんと薄れ始めてきている。
いつになったら、終わりが来るのだろう。
いつになったら、私はこの足を止めて楽になれるのだろう。
すっかり鈍くなった頭で――そんな問いを、誰にも会う事無く、一人でのろのろと続けている。
この山脈には、多数の妖怪が住んでいるはずだったが――私は一度も彼らの姿を見て取ることは出来なかった。
取るに足らないような、下級の妖怪でさえ一匹も見ていない。
恐らく彼らは、私の姿を遠巻きに眺めているのだろう。
私の命が尽きた時――その屍を喰らうために。
もう、居場所の無い私には、こんな命などどうでもいいはずのものだというのに。
そう思うと、まだ足が動いた。
血に汚れないよう手に持った菫の押し花に目をやると、引きずるように重い体がまだ動いた。
私の心は、一体何を感じ、何を思っているのだろう。
自分自身の心さえ判らなくなっているほど、私は乾き、壊れる寸前だった。
しかしそれも、やがては限界が訪れる。
張り詰めていた最後の糸が、ぷつんと切れるように。
死に至る傷は、決して癒える事が無い――それを証明するかのように。
私は、その場に崩れる。
一度止まってしまうと、もう一歩も先に進む気ににはならなくなった。
このまま土の中に埋もれて、分解されてしまっても構わない。
いっそ、そうなってしまえば。
屍になり、土に還ってしまえば。
私にも、ようやく居場所というものが出来るのかもしれない。
そう思うと、この死を誘う眠気さえ――とても心地の良いものに感じた。
永遠に目覚めることなど無い眠りに、私は転がり落ちたはずだ。
だとすれば。
今、うっすらと開けた目に映る、見知らぬ天井は一体何なのだろう。
相当深く眠っていたらしく、全身に動きを働きかけても、まるで言う事を聞かない。
まだ半分以上眠っている意識では、まともに考えも纏まらない――
半身を起こすまで、結果として五分以上の時間をかけることとなった。
そしてやはり、寝かされていたのは見知らぬ家の布団――最後に倒れた時とは、別の着物に袖を通され。
そして一番驚いたことは、全身、あれほどあった怪我全てにびっしりと治療が施されていたことだろう。
左肩のあの屋も、鏃を抜かれ、しっかりと包帯が巻かれていて――
「これこれ、まだ起きちゃいかん」
その声に、振り返る。
そこにいたのは、相当な年齢になるだろう老翁。
しかし足腰はしっかりと立ち、枯木のような手はよく動いた。
老翁の体から匂う、この独特の香りは――漢方――
「……この治療は、貴方が……?」
「そうじゃ。……まったく、一体どのような事をすればあれほど体を酷使できるのやら……。
あと少し治療が遅ければ、その左腕――今頃は使い物にならんところだったわい。
それでなくとも、お前さんの全身悲鳴を上げておる。今はゆっくり、体を労わってやらんか」
優しいが、力強く半身を押され、私は再び枕に頭を沈める。
はだけてしまった布団をかけなおす老翁の様子には、恐怖や嫌悪などを欠片も見ることは出来ない。
どうやら、あの村とはまったく無関係の場所に迷い込んだらしい。
この山脈の奥に、人間の集落が存在していたことには驚きだったが――
「普通の人間なら、とうにくたばっておる。見たところ妖怪でも無いようじゃが――はて、これはどういうことじゃのう?」
――は?
私はもう少しで、そのまま鸚鵡返しに聞き返しているところだった。
この老翁は今、何と言ったのだろう?
今、全く何気ない様子で「妖怪」と口にするとは、一体どういう――
「――で、この人間はいつになったら食べていいの?」
「!?」
唐突にかけられた声に、ぎょっとなって振り返った。
この部屋に、老翁以外の誰かの気配を感じることが無かったからだ。
しかし今、部屋の隅の暗がりから聞こえてきた声――そこにいたのは、一人の少女。
金色の髪に、紅い瞳――銀髪の私が言うのも何だが、一瞬鬼子か何かと思った。
だが、そうではない。それどころか、人間でさえなかった。
人の様に服を着て、能天気に老翁に話しかけているが、この「匂い」は間違いなく――妖怪だ。
にもかかわらず。
老翁は、大して気にした様子もなく――妖怪の少女に普通に話しかけていた。
「人は食べちゃいかんと言っておろうに……それにこの娘は人間とは違う生き物じゃぞ」
「そーなのかー」
「ほれ、行った行った。……鶏や牛なら、適当に見繕って喰っても構わんから」
「んー」
老翁の、それでもよくよく考えれば物騒な提案に、少女の妖怪は何か考え込んでいたようだったが。
やがて何も考えていない様子で頷くと、そのままとんとんと部屋を後にしていく――
後には老翁と、完全に呆気に取られた私の姿があるだけだ。
「お前さんを拾ってきたのはあの娘でな。別にいつでも構わんから、一度くらい礼を言っておいてやると――」
「ご……ご老人!?」
「ん……どうした? 何をそんなに驚いておるんじゃ?」
「貴方は自分のやってることが判っているのか!? 今の娘は、人間では無い――妖怪だぞ!?」
「そうじゃな。人肉を喰らうのが好みの宵闇の妖怪――しかも随分と食い意地のはっとる子じゃ」
今日の味噌汁の具は大根だった――まるでそんなことを口にしているかのように、あっさりと言ってのける老翁。
「ご老人……ひょっとして、貴方は妖怪相手にも、医者業を営んでおられるのか……?」
「ふむ……頼まれれば、確かにそうしておるが――ん、どうした布団に突っ伏して?」
こうもあっさりと言われては――返す言葉も見つからない。
「……貴方は、魔界の住人か何かか……?」
「人並み外れてしぶといお前さんにそう言われるとは思わなんだぞ。
まあ、人の世界からやってきたのであれば、お前さんの目に随分と此処は奇異に見えるんじゃろうがな」
――私は、冗談として「魔界」などと口にしただけだったから。
老翁が「人の世界」と口にしたことに驚き、一体どういう意味なのか尋ねようとする。
だが、それよりも一歩早く、老翁は私の心を見透かしたように――口を開いた。
「此処は『幻想郷』――幻想の生き物達が暮らす場所じゃよ」
妖怪と人間が、一つところで共存している。
それは私にとって、完全に夢物語――幻想世界の、話だ。
しかしまさか、この深山にひっそりと存在する里が――人の世界とは異なる、幻想の世界などとは――
老人の言葉だけでは足りず、私は疲れた体に鞭を打って力を解放すると、この「幻想郷」の歴史を調べた。
そして、更なる衝撃に打ちのめされる。
妖怪だけではない。
妖精や精霊といった、正に「幻想の生き物」と呼ぶべき存在が、この幻想郷には無数に存在し。
そして、彼らと人間達が、本当に此処では共存しているのだ。
……私の知る、世界――人間界のそれらとは、全く違う関係を結び。
人間は脆弱ながらも、この幻想郷にとって欠いてならない存在として、駆逐されることも無く共存している――
「……お前さん……その格好から察するに、ひょっとして人の世界を追われてきたのか?」
老翁の言葉に――こくりと頷く。
そんな私を見つめる瞳は、何故だかとても暖かいものを称えていて――
「……そうか……さて、それならばどうしたものかな」
顎をしゃくって、暫くの間考え込む。
「傷が癒えるまで、此処に泊まっておるのは構わんが……ただ飯を食わせるほど、わしも儲かっておらんからな。
……お前さん、何か得意なことのようなものは無いのかな?」
「え……?」
「働くのなら、全く知らん事をやるより、経験があることのほうが馴染みやすいじゃろうに」
働く。
……それは――
「……私は――此処にいて、良いのか……?」
――駄目だと、頭の中で声が響く。
それは、私の正体が人であると思い込んでいるから口に出来る言葉。
もう、私は誰も――傷つけたく無かったから。
「ご老人が、先刻指摘したとおり――私は人間ではない。……満月の夜に、異形の姿となる半獣だ」
人間でも妖怪でもない、狭間の異端。
そんな私が、誰かと共存できるなど――それこそ、幻想でしかないというのに――
私の言葉に、老翁は困ったように首を捻る。
「異形、のぅ……お前さん、満月の夜には理性を失うのか?」
「いや、そういう訳ではないが……」
「では毒を吐き散らすのか? 雷を落し、炎を吐くか?
はたまた、邪悪な疫病を撒き散らすか――ああ、自分で言って何じゃがそれは困る。
患者が増えるのは構わんが、増えすぎると手に負えんからのう」
冗談めいた、どこかずれた様子で――しかし本人は至って真剣に言葉を選び、真面目に悩む老翁の姿。
私を全く怖がらない、その様子。
……これでは。
これではまるで、此処には私の居場所さえ、あると言わんばかりに――
「……何故だ……?」
「ん?」
「何故、私が怖くない……私は、半獣なのだぞ!?」
「怖くないなどと誰が言った。怖いに決まっておろうが」
しれっと、老翁は呟き――
「しかし、お前さんはわしと初対面じゃ――別に敵意を抱くとか、殺したいとかは考えておらんじゃろう?
なら、お前さんはただの重傷患者。わしは医者。面倒を見んで、それこそどうする?」
からからと、笑う。
「……それにな。お前さんが、外で果たしてどのような扱いを受けてきたのか、わしには想像もつかんが……」
そう呟く老人の瞳は、温かい輝きを称えて。
使い込まれて、すっかりごつごつと硬く乾いた掌が、少々不器用に私の頭を撫でる――
「居ることに、いちいち咎めを立てるような狭量な者は――此処には、居らんさ」
……その手は、あの夕日を思わせるような力強さと――暖かさで。
「ただそこに居るだけのことに、一々理由が必要など……随分と不健康な話ではないか。……なぁ?」
何気ない、その言葉。
その言葉を口にさせた、老翁の心は。
……もう二度と、感じることのないものと思っていた、あの頃の人間達の暖かさと同じで――
「――せんせい!」
その時、部屋の中に誰かが駆け込んでくる。
この集落の子供だろうか。なかなか利発そうな顔立ちをした少年だった。
「何じゃ、坊か……入ってくるなと言うておったろう? 此処におるこの娘さんは絶対安静なんじゃぞ」
「ご、ごめんなさい……でも」
よほど息もつかず、此処まで走ってきたのだろう。そこで言葉を切り、俯いて苦しげに肩を上下させる。
老翁が背中をさすってやると、落ち着いてきたのだろうか――それでもひぃひぃと、喉を鳴らしながら。
「お姉さんが倒れてたってところで、こんなものを見つけて――」
少年はそう言って、後ろ手に持っていたものを差し出す。
「これ……お姉さんのものじゃ、ないですか……?」
――ところどころが汚れている、菫の押し花、一輪――
そしてそれを差し出す少年の姿に、あの日の少年の姿が重なって。
かさかさに乾き、凍えていた心に。
――じんと、響いた。
まるで堰が決壊したように。
感情が、溢れ出して――止まらない――
「っ!? お、お姉さん……どこかいたいの!? 大丈夫!?」
俯いて、肩を震わせた私に。
心配そうに少年が歩み寄ろうとして、その肩を老翁がやんわりと止めた。
振り返った少年に、軽く首を――横に振る。
……助かった。
今の、私の顔を――あまり見られたくは、無かったから。
ぎゅっと、握り締めた布団に――ぼつぼつと、大粒の涙が零れ落ちる。
今までせき止めていた想いが決壊するように。
今まで、泣けなかった分――私は、泣いた。
……そう。
あれから、随分と――年月が過ぎていった。
「……?」
ふと、誰かの視線に気付いて、燃えるような夕焼け空から視線を外す。
そのまま横手へと向けると、そこにいたのは、ランドセルを背負った少年だった。
小さな体を、マフラーやらジャンパーでぱんぱんに膨らませ――それでも真っ赤になった鼻の頭を擦っている。
その顔には、見覚えがある。
最近、此処の公園で知り合った子だ。
「そんな格好で、寒くないんですか?」
「ああ、私はこう見えても丈夫だからな――この程度なら、寒いうちには入らんさ」
私は軽く笑って、袖の辺りを少しまくってみせる。
鳥肌は、立たない――冬の景観に合う様、長袖に替えているものの、実は少し暑いくらいだ。
それとは対照的に、私の言葉を聞いた少年は呆れたような表情になり、より一層、ぶるぶると寒そうに体を震わせている。
まあ、今日は今年一番の冷え込みではあるが――雪の降り積もる幻想郷の冬は、彼にとってさぞ辛いものであるに違いない。
手袋に包まれた小さな手をしゃこしゃこと擦りながら、服の間から入り込む隙間風を防ごうと首を縮め、唇を開く。
「また、夕日を眺めていたんですか……?」
「ああ。この公園から見えるのが、この辺りでは一番綺麗だからな」
――あれから、老翁の紹介してくれた仕事先を数箇所ほど転々とした後で。
よくよく考えれば、私のハクタクとしての能力を、此処では隠す必要が無いことに気が付き――
私はこの歴史喰いの能力を利用し、人間の里を護ることで、働きの代わりとすることとした。
別に此処の人間と妖怪達は、互いを激しく憎悪したりはしていないのだが、
それでも力の強すぎる妖怪達の乱痴気騒ぎは、彼らに悪意があろうとなかろうと――少なからず人間に影響を及ぼす。
いつぞやの紅魔館の妖霧騒動などがいい例である。
しかし。
此処に来て尚、人間達との共生を望むとは――私はとことん、人間というものが好きらしい。
こちら側には妖怪も多く、半獣だからと爪弾きにするような者はいなかったが、
私は彼らとともに過ごすことよりも、人間の里で、人間達を護りながら生活することのほうを選んでいた。
「……その、栞。……綺麗ですね」
鼻声で呟く少年の視線の先あったのは――先刻まで読みかけていた本と、間に挟んだ一枚の栞。
「ん……これか?」
抜き取って手渡すと、少年は目の高さにまでそれを持ち上げて――しげしげと眺める。
「……これ……菫の花、ですか……?」
「ああ。……もう随分と、年季物だがな」
あの時、私を見てくれた老翁も――この菫の花を拾ってくれた少年も、既にこの世にはいない。
幻想郷が博麗神社の神主の手によって封じられて、百数十年――つい先日のことに思えるほど、此処での生活は長い。
それでも、この菫の花は――今も大事にしている。
私が、人間という種の優しさに触れて。
人間を、好きになった――大事な思い出だから。
幻想郷が封印されてから、暫くたった後に。
私は一度だけ、博麗神社の者に頼んで(決してあの無重力娘ではなく)、外に出たことがある。
あの後、あの麓の村が一体どうなったのか。
あの子供達が、一体どうしたのか――少し気になったのだ。
何があっても、受け止めるだけの心の余裕が出来たというのもあった。
しかし、振り返って――どうやら私は、信じがたいほどの距離を歩き続けたらしい。
あの山にたどり着くまで、都合三つの山脈をまるまる越えることとなった。
果たして、近現代の街に生まれ変わっているのだろうか。
それとも、今でも片田舎として、辺鄙な暮らしをしているのだろうか――そんな事を考えながら。
だが、最後の山脈を越えた私の目に飛び込んできた光景は、その想像を完膚なきまでに打ち壊すものだった。
村は、跡形もなくなっていた。
近くに出来た都市の開発のために、村は破棄――今ではそこにダムが建設され、遥か水の底に没していたのだ。
あの後、彼らが一体どのような人生を送り。
どのように村を運営し――生きていったのか。
無味乾燥なコンクリートの分厚い壁は、何一つとして、私に語ってくれなかった。
歴史を調べれば、おそらくそれも判ったのだろうが――そこまでして知りたいとも、思わない。
私にとっては、もう――それは過ぎ去った出来事。
今の私は人間と妖怪の狭間で、ひっそりと生きていた慧音ではなく。
幻想郷の知識と歴史の半獣――上白沢慧音だ。
それでも、あの日の菫の花は――こうして姿を変え、形を変えて、今も私の手元にある。
あの頃の記憶を、思い返すことが出来る。
――今も、人間に絶望する事無く、こうして彼らのために何か出来る事を、嬉しく思う。
それを確認できただけでも、赴いた価値はあったのではないだろうか。
……公園で、そのまましばらく少年と、他愛の無い話を続けていたが――とうとう寒さに耐え切れなくなったらしい。
「こっ……これで、失礼しますっ」
がちがちと、歯の根も合わなくなるほど震えた言葉で手短に告げると、腰を上げて一礼する。
そのまま脇目も振らず、一目散に暖かい家へと帰ろうとする彼の背中に――
「少年」
――疑問符を浮かべる、彼に。
私は空を仰ぎ、問いかける。
「少年は――あの夕日を、どう思う?」
少年は、もう沈みそうな夕日に、僅かに目を細め――しばし、考え込んだ後に。
「……綺麗だと……思います。沈んでいくと、こうやって……夜の闇と、夕日の赤がとけあってる所とか」
不思議そうに、私を見つめる少年の――口にした、答えに。
「……そうか――」
口元に、自然と笑みが浮かんでいた。
「なら――私と、同じだな」
此処に来てから――判ったことが一つある。
私は最初、この幻想郷を――幻想の生物と、人間達の共存する世界だと思っていた。
しかし。
それは――厳密には、違っていた。
この幻想郷にいる人間達も、実は外の――人間界の人間達とは異なった、幻想の存在だということ。
やはり、妖怪と人間が共存する――それは「幻想」の中だけのことだったのだ。
外の年号で、明治に差し掛かった頃――幻想郷は、人間界との境界に結界を張り、外との交流を絶った。
だが、私が思うに――幻想郷と人間界に張られている境界線は、結界などではなく。
人々の意識の『差』が、すでに強固な結界となって――
外界の人間が幻想郷を見つける事を不可能にしているのではないだろうか。
妖怪、精霊、死人に吸血鬼――
そういったものが「空想の存在」という認識にすり替えられ――
人間界でそういった存在が薄れていくに従って、この幻想郷に住む妖怪の数は増えている。
空間的には閉塞しているが、種族的には国際的だといってもいい。
恐らく、結界を解いてももう、外の人間達はこの幻想郷を見つけることはできないだろう。
ほかならぬ彼ら自身が、幻想の存在を空想の存在と塗り替えてしまった。
彼らにとって「架空の存在」という認識である限り――此処を見つけることは、出来ない。
……結局。
私の居場所は、やはり無かったのかもしれない。
こうして、幻想郷の中の人間達――
人としての「弱さ」が無い、ある意味私にとって理想的な彼らとしか、私は共にいることが出来なかった。
人間の、人間としての弱さ。
妖怪の、妖怪としての弱さ。
そういった弱さが、私を拒絶する――そして、本来ならばその「弱さ」の無い存在など、いないのだから。
……だが。
今となっては――これで、良かったのかもしれない。
何故なら、今の人間界では――半獣という存在もまた、空想の産物と思われてしまっているから。
歴史が私を「幻想の生物」に押し上げてしまった。
ならば、私は――やはり、この幻想郷こそが「私の居場所」なのだろうから――
だから私は今日もこの幻想郷で、人間のために働きたいと思う。
かつて、人間界の人間達が切り捨てた幻想を。
自らと違う存在さえ認め、共存できるその「可能性」を――私は此処で、護っていきたいと思う。
それが、私が外の人間達にしてやれる、唯一のこと――そして。
幻想郷の人間達にしてやれることの、大事な一つだ。
「……よし」
ぱたりと本を閉じ、すっかり闇の落ちた夜空を見上げる。
今日もまた何処かで――あの風変わりな人間と妖怪達が、弾幕ごっこにいそしんでいるのだろうか。
それとも、輝夜と妹紅が、これで何度目になるだろう――殺しあいをしているのかもしれない。
この幻想郷は、酷く物騒で。
この幻想郷は、酷く――平和だ。
此処に来てから、まるで退屈した覚えが全く無い――まったくもって嘆かわしい。
嘆かわしくも、可笑しい日々。
そんな幻想郷が大好きだ。
今日もまた何処かで、この幻想郷だけが紡ぐおかしな歴史が――刻まれていくのだろう。
だから今日も、私は。
妖怪達が、人間に迷惑をかけないように見張りながら。
今日もまた、何が起こるか判らない幻想の夜に――この身を、躍らせる――
――此処の名は幻想郷。
妖怪と人間――少女達の飛び交う、幻想と弾幕の世界。
そんな所に、居場所を見つけ――私は今日も生きている。
人間と妖怪の相容れない世界、そして幻想郷の存在。意識の差という結界など、いたく感銘を受けました。
滅多なことで100点など入れるものではないと思いつつ、個人的には「滅多なこと」でもあるのでそのまま。
ここで語られている彼女は、私の思い描いていた慧音のイメージとぴったりでした。
「居ることに、いちいち咎めを立てるような狭量な者は――此処には、居らんさ」
この一文、これこそが幻想郷でありますね。
明治の頃に交流を絶ったんなら、存在するんですかね?
まあ、それを差し引いての80点って事で
読んでて最後まで飽きないい作品だったと思います
慧姉さんはこうでなきゃ!
真面目に感動した。
(T_T)
こんな素晴らしい作品と出逢わせてくれたことに感謝です