ヴィクトール=ドラクール=スカーレット。
フランスを中心に、欧州全土でその名を轟かせた吸血鬼の古豪である。
彼の名を恐れるものがいくつもの異名を生み出した。その数だけ彼は恐れられ、事実多くの敵を恐怖のどん底に叩き落してきた。
しかし彼の血も全て凍っているわけではない。
幼い二人の愛娘、レミリアとフランドールの双子の姉妹は、彼にとってなにものにも代えがたい月光だった。
ある日、ヴェクトールは二人の娘を連れ、諸国漫遊の旅に出ることにした。
広い世界を、二人の娘に自分の眼で見てほしかったのである。
ちなみに妹のほうは厄介な能力を持っていたので、封印の上暗示をかけられている。
■ ● ■
故郷を離れ、はや四ヶ月。私はついに東洋の神秘の枢要、中国へと足を踏み入れた。もちろん愛しい二人の娘も一緒だ。
この国は広い国土の大半が辺疆として放置されている。だがそれは土地が見放されたということではない。広すぎる国土を占めるだけの文明と人口が足りなかったということだ。そして満遍なく中国全土を生きるために、いくつもの部族派閥が入り乱れてこの国を支配している。
この国には忘我の念を抱かせてくれるような、偉大な山河が多数存在する。わが故郷にはない風景の数々だ。風土が違えば意識も変わってくるものなのか、この国にある自然の造形はどこか奥の見えない幽遠さを漂わせているように感じられる。
ためにこの国にはとんでもない量の寓話、伝説、神話が語り継がれている……実に四千年を誇るという中華の歴史は、我ら西洋の住人からすればある種の不気味さすら覚えるものだ。
この国でも、いくつかの幻想に出会えることだろう。まぁしかしこれまでの道程でも散々な目にあったが。
私達は旅の途中でギリシャ、ケルト、北欧、ユダヤ、ヒンドゥー、仏と様々な幻想を見てきた。かなり危険な目にあったこともあるが、おおむね娘らには好評である。うぅむ、懐が広いというか、わが子ながら早くも器の大きいところを感じさせてくれる。
さて、この地では何が起こるやら……
「娘たちよ、反対側を見てみなさい。岩山になっているぞ」
「おっきい山……」
「でけぇ」
「この川は長江といって、世界で三番目に長い大河なのだ。それにしてもなんとも雄大なものだな。セーヌ川にこんな光景はない」
「霧が気持ちいいわぁ」
「そうか、そうだな。確かにこのあたりは住みやすそうだ、レミリア。あ、あんまり川辺によるなよ、落ちたら大変だ」
「大丈夫よ。お父様は心配性ね。鈴の音がきっと守ってくれるわ」
「心配なものは心配なのだよレミリア……」
りーん、とレミリアの持つ鈴が鳴る。元の持ち主は妻だが、出立に際してレミリアが持って行くことになったのだ。レミリアはいつもこの鈴をお守り代わりに携えている。
レミリアの双子の妹、フランドールは物憂げに川原の石を蹴りながら私の後ろをついてきた。
「こんなとこ退屈なだけじゃんか。あたしは住みたくないな」
「そうは言うがな、フランドール。退屈をもてあますことも大切だ。残りの長い人生、暇を楽しむ方法を知らねばならないぞ」
「やなこった」
「フ、フランドォルー……」
反抗的な愛娘に涙する私。
今日はこうして川岸を下った後、山あいの農村でも訪ね、一泊の宿を貸してもらうつもりだった。昼起きて夜寝るのははなはだ不健康だが、人間に紛れて旅をするためには偽装しなければならない。
旅に出る前はふかふかのベッドでしか寝たことのない二人だったので、最初はしもべどもに手配させて快適な環境を維持し続けたのだが、二人が二人とも「つまんない」「つまらねぇ」とこぼし、自分から下々のものと同じ食べ物、同じ床、同じ道を行くようになった。そのときなど不覚にも感動してしまったものだ。
同じといっても、普通の人間は血は吸わないが。
今ではすっかり旅程に慣れ、随行させていた供のものも当の昔に追い返している。万が一を考えて護衛は距離を置いて配置させているが、おそらく彼らの出番はなかろう。
平和だし、何より私自身相当に腕が立つからだ。欧州中見渡しても私に匹敵する使い手は一ダースと少し。
そんなわけで、私は今この旅を満喫している。二人の娘の笑顔が一番の楽しみだ。
夕暮れどき、立ち寄った山村は、私たちを快く迎えてくれた。異人というのが珍しいのだろう。
観光目当てであちこちを立ち寄る私たちは、場所によっては拒絶されることもある。だがそれもまた娘たちの社会勉強の一環となるだろう。
この村に宿はなく、村で一番立派な建物――おそらくは神を祀る――を一晩の屋根として貸してくれることになった。私の感覚から言えば牧師に当たるであろう人物にいろいろと挨拶し、信頼に足る人物だと判断したので少しの間娘たちを見ていてもらうことにした。
娘以外で、私のささやかな旅の楽しみのが一つある。
地酒を楽しむことだ。
東洋酒は今までろくに味わったためしがない。ここはひとつ本場の味を堪能させてもらうこととしよう。ぐふふ。
こんな寒村にも酒場はあった。というより一軒大きめの家が自然に人を集めて、自然に酒場になったのかもしれない。
扉をくぐると、中の人間たちが一斉に私を振り向いた。さすがに少々警戒されている。
が、私は落ち着いてにこりと微笑むと、
「今日やってきた旅のものです。話の種に当地の酒を飲んで回っているのですが、この地方の逸品も是非味わわせていただきたい」
などと言って酒場にずかずかと上がりこんでいった。
しばらくするとすっかり村人たちにも打ち解け、私は旅先の話を散々せがまれた。
私は快く今まで見てきた様々な出来事を、時に真剣に、時に冗談めかして語った。内容は全て事実だが、幻想を知らないうえ酒の入っている彼らは半分も本気にしないだろう。
しばらくして、村人の一人がこう言った。
「あんさん、べっぴんな娘っ子つれておらんかったか?」
「ええ、愛しの娘です。可愛いでしょう?」
「ああ、そりゃあもうめんこいもんじゃった」
「そりゃほんとかい、おらも一度見ときゃよかったな」
そんな風に村人たちが娘たちについて色々と話している最中、ちょっと気になる台詞が出てきた。
「しかしそれだと……危なきゃねーか?」
「あー……んだな。こりゃあぶねーべよ」
急に静かな重圧が場にのしかかったように、村人たちの歯切れが悪くなる。
「……どういうことです?」
「いや、なぁ……みんなよぉ。話してもいいか?」
「いいんでねげ」
「んだんだ」
彼らの言葉は訛りが強く、よく分からないが同意したらしい。もともと中国は多数の言語が飛び交っているので混乱しやすい。
「……実はなぁ。この辺りにゃ物の怪がでるんよ」
「物の怪……?」
「おっそろしいもんでよ……ああ、考えただけで身震いすっさ。ここにいる男どもはほとんど一回見たことあんでよ。赤い髪した悪鬼……うええぇ。やめやめ。誰か代わってくれ」
口元を押さえて引っ込む若者。その後ろから老人が私の前に出た。
「よいさ。まぁ大体はそいつの言った通りなんじゃけどな……死肉食らったり生き血吸ったりするらしいべ。女子供は恐れおうて夜中は村が死んだようじゃ。わしらは、ほれ、こうして酒を飲むことが大昔からの掟みたいなもんじゃから起きてはおるがの。これ以上被害が出れば続くか分からんのぅ……」
「被害? それは一体……」
なんとなく背筋にひやりと悪寒が走った。
話し役の老人はいったん視線をはずして躊躇のそぶりを見せた後、続けた。
「……そやつ、初めて村に下りてきたときは鶏を絞めおうたわ。次に来たときは牛を食ろうて家を壊しおった。そん次ゃまだ乳飲み子じゃった劉の女子をかっ食らっていきおった。母親の見とる前でじゃ。ありゃあ恐ろしい。噂じゃ、あの鬼は『中国』ちゅう名前で呼ばれ取るとか何とか――」
ガタッ。
老人の話を最後まで聞かず、私は風をまいて酒場を後にした。
「レミリア! フランドール!」
がっと扉を開け、娘たちのいる部屋へ突っ込む。
中には。
「うるさーい……眠い……」
「うるせぇよ父上」
普通に寝ている娘たちがいた。
私は思わずほっとため息をつく。そしてぷんすかと怒っているフランドールの布団をかけなおしてやる。隣のレミリアも同じように優しくかけなおした。
「……起こしてすまないね。つい、我が愛しの娘たちがどこかに行ってしまうんじゃないかと怖くなったのだよ」
「なんだそりゃ? 父上それでもフランスの大貴族かよ」
「たとえ、どんな貴族でも、どんな王様でも、心を消すことはできないのだよ」
怒った顔もまた可愛い。斜めになった眉毛が妻の面影を思い起こす。
可愛かったので、私は娘の頭を撫でた。さらさらの髪は、撫でているといい気分だ。
「がぁぁ。撫でるな!」
「照れるな。父に甘えてもいいのだぞ」
「誰が! おい姉上、寝たふりしてずるいぞ! 一人だけ逃げるな!」
私はレミリアを見た。
――彼女は寝たふりをしていたわけではなかった。もちろん寝たわけでもない。
毛布の隙間から、じっと壁を眺めていた。いや違う、壁の向こうを眺めている。
彼女が持つ鈴が、リーんとなった。警鐘のように。
そのときにはもう、私にも不気味な妖気が鼻を突くのを感じていた。
「お父様……何かいる」
――赤い髪した悪鬼――ありゃあ恐ろしい――
脳裏に村人の言葉がよぎる。
「二人とも、危険だ。寝ていなさい」
真剣な声で告げる。だがフランドールはうろんな目で私を見返してきた。
「誰がいるって? 父上は何が何なのか知ってるのか?」
隠し事はよくない。嘘はさらによくない。彼女たちは私がそんなことをするといつも怒ったような情けないような目をする。
私はそれが好きではなかった。彼女らの反応ではなく、自分がそうさせているのだという卑劣さが好きではないのだ。
「先ほど村の人たちに噂話を聞いた。悪魔か妖怪か、とにかく凶暴な魔がこの辺りを根城にしているらしい。見立てでは危険な相手だ」
「お父さんはあの人を殺すの?」
レミリアは、相変わらず壁を見ている。この子の力は強い、外も見えているだろう。本当ならフランドールのほうが強いのだが、封印と暗示は強力で彼女の実力は発揮できない。
「私には関係のないことだが、村を襲うようならお前たちにも危険が及ぶ。そうなれば排除する」
「フランスでいつもやってるのと、結局は同じことか……悪いけどおとなしく寝る気にはなれないよ、父上」
フランドールは布団から抜け出すと、いくつかの上着を重ねて着た。
「フランドール! これは遊びではないのだぞ」
「分かってるわ、お父様。でも旅の途中で似たようなことはあったじゃない。いまさらそんなに目くじらを立てないでもらいたいわ」
「レミリア、お前もか……」
振り返ると、いつの間にかフランドールと同じように厚着し、鈴を持ったレミリアがいた。
すでに二人はてくてくと出口へ向かっている。
私はもう一度妖気の出所に目を向けた。一抹の不安が胸に浮かぶ。
娘たちのわがままを聞くのはこれ一回きりにしよう。そう決めると、私は彼女らの前にでて扉を開けた。
厳しい目で夜の異郷を睨みつつ、背後の二人に重々しく告げる。
「よく聞け、我が子よ。この先は戦場である。生死の境界は己の他にあると知れ」
「はい」
「はい」
緊迫した声音が返ってくる。私はゆっくりと歩を進めた。
「決して私から離れないこと。危険だと思ったら何よりも自分の命を優先すること。誓えるのならばこの扉をくぐることを許す」
「誓います」
「誓います」
外は寒かった。
大陸の奥深くに吹きすさぶ夜風は、底冷えする冷気と不気味な轟音をもって、人知れず跋扈する妖怪の遣いであるかのようだった。
フランスを中心に、欧州全土でその名を轟かせた吸血鬼の古豪である。
彼の名を恐れるものがいくつもの異名を生み出した。その数だけ彼は恐れられ、事実多くの敵を恐怖のどん底に叩き落してきた。
しかし彼の血も全て凍っているわけではない。
幼い二人の愛娘、レミリアとフランドールの双子の姉妹は、彼にとってなにものにも代えがたい月光だった。
ある日、ヴェクトールは二人の娘を連れ、諸国漫遊の旅に出ることにした。
広い世界を、二人の娘に自分の眼で見てほしかったのである。
ちなみに妹のほうは厄介な能力を持っていたので、封印の上暗示をかけられている。
■ ● ■
故郷を離れ、はや四ヶ月。私はついに東洋の神秘の枢要、中国へと足を踏み入れた。もちろん愛しい二人の娘も一緒だ。
この国は広い国土の大半が辺疆として放置されている。だがそれは土地が見放されたということではない。広すぎる国土を占めるだけの文明と人口が足りなかったということだ。そして満遍なく中国全土を生きるために、いくつもの部族派閥が入り乱れてこの国を支配している。
この国には忘我の念を抱かせてくれるような、偉大な山河が多数存在する。わが故郷にはない風景の数々だ。風土が違えば意識も変わってくるものなのか、この国にある自然の造形はどこか奥の見えない幽遠さを漂わせているように感じられる。
ためにこの国にはとんでもない量の寓話、伝説、神話が語り継がれている……実に四千年を誇るという中華の歴史は、我ら西洋の住人からすればある種の不気味さすら覚えるものだ。
この国でも、いくつかの幻想に出会えることだろう。まぁしかしこれまでの道程でも散々な目にあったが。
私達は旅の途中でギリシャ、ケルト、北欧、ユダヤ、ヒンドゥー、仏と様々な幻想を見てきた。かなり危険な目にあったこともあるが、おおむね娘らには好評である。うぅむ、懐が広いというか、わが子ながら早くも器の大きいところを感じさせてくれる。
さて、この地では何が起こるやら……
「娘たちよ、反対側を見てみなさい。岩山になっているぞ」
「おっきい山……」
「でけぇ」
「この川は長江といって、世界で三番目に長い大河なのだ。それにしてもなんとも雄大なものだな。セーヌ川にこんな光景はない」
「霧が気持ちいいわぁ」
「そうか、そうだな。確かにこのあたりは住みやすそうだ、レミリア。あ、あんまり川辺によるなよ、落ちたら大変だ」
「大丈夫よ。お父様は心配性ね。鈴の音がきっと守ってくれるわ」
「心配なものは心配なのだよレミリア……」
りーん、とレミリアの持つ鈴が鳴る。元の持ち主は妻だが、出立に際してレミリアが持って行くことになったのだ。レミリアはいつもこの鈴をお守り代わりに携えている。
レミリアの双子の妹、フランドールは物憂げに川原の石を蹴りながら私の後ろをついてきた。
「こんなとこ退屈なだけじゃんか。あたしは住みたくないな」
「そうは言うがな、フランドール。退屈をもてあますことも大切だ。残りの長い人生、暇を楽しむ方法を知らねばならないぞ」
「やなこった」
「フ、フランドォルー……」
反抗的な愛娘に涙する私。
今日はこうして川岸を下った後、山あいの農村でも訪ね、一泊の宿を貸してもらうつもりだった。昼起きて夜寝るのははなはだ不健康だが、人間に紛れて旅をするためには偽装しなければならない。
旅に出る前はふかふかのベッドでしか寝たことのない二人だったので、最初はしもべどもに手配させて快適な環境を維持し続けたのだが、二人が二人とも「つまんない」「つまらねぇ」とこぼし、自分から下々のものと同じ食べ物、同じ床、同じ道を行くようになった。そのときなど不覚にも感動してしまったものだ。
同じといっても、普通の人間は血は吸わないが。
今ではすっかり旅程に慣れ、随行させていた供のものも当の昔に追い返している。万が一を考えて護衛は距離を置いて配置させているが、おそらく彼らの出番はなかろう。
平和だし、何より私自身相当に腕が立つからだ。欧州中見渡しても私に匹敵する使い手は一ダースと少し。
そんなわけで、私は今この旅を満喫している。二人の娘の笑顔が一番の楽しみだ。
夕暮れどき、立ち寄った山村は、私たちを快く迎えてくれた。異人というのが珍しいのだろう。
観光目当てであちこちを立ち寄る私たちは、場所によっては拒絶されることもある。だがそれもまた娘たちの社会勉強の一環となるだろう。
この村に宿はなく、村で一番立派な建物――おそらくは神を祀る――を一晩の屋根として貸してくれることになった。私の感覚から言えば牧師に当たるであろう人物にいろいろと挨拶し、信頼に足る人物だと判断したので少しの間娘たちを見ていてもらうことにした。
娘以外で、私のささやかな旅の楽しみのが一つある。
地酒を楽しむことだ。
東洋酒は今までろくに味わったためしがない。ここはひとつ本場の味を堪能させてもらうこととしよう。ぐふふ。
こんな寒村にも酒場はあった。というより一軒大きめの家が自然に人を集めて、自然に酒場になったのかもしれない。
扉をくぐると、中の人間たちが一斉に私を振り向いた。さすがに少々警戒されている。
が、私は落ち着いてにこりと微笑むと、
「今日やってきた旅のものです。話の種に当地の酒を飲んで回っているのですが、この地方の逸品も是非味わわせていただきたい」
などと言って酒場にずかずかと上がりこんでいった。
しばらくするとすっかり村人たちにも打ち解け、私は旅先の話を散々せがまれた。
私は快く今まで見てきた様々な出来事を、時に真剣に、時に冗談めかして語った。内容は全て事実だが、幻想を知らないうえ酒の入っている彼らは半分も本気にしないだろう。
しばらくして、村人の一人がこう言った。
「あんさん、べっぴんな娘っ子つれておらんかったか?」
「ええ、愛しの娘です。可愛いでしょう?」
「ああ、そりゃあもうめんこいもんじゃった」
「そりゃほんとかい、おらも一度見ときゃよかったな」
そんな風に村人たちが娘たちについて色々と話している最中、ちょっと気になる台詞が出てきた。
「しかしそれだと……危なきゃねーか?」
「あー……んだな。こりゃあぶねーべよ」
急に静かな重圧が場にのしかかったように、村人たちの歯切れが悪くなる。
「……どういうことです?」
「いや、なぁ……みんなよぉ。話してもいいか?」
「いいんでねげ」
「んだんだ」
彼らの言葉は訛りが強く、よく分からないが同意したらしい。もともと中国は多数の言語が飛び交っているので混乱しやすい。
「……実はなぁ。この辺りにゃ物の怪がでるんよ」
「物の怪……?」
「おっそろしいもんでよ……ああ、考えただけで身震いすっさ。ここにいる男どもはほとんど一回見たことあんでよ。赤い髪した悪鬼……うええぇ。やめやめ。誰か代わってくれ」
口元を押さえて引っ込む若者。その後ろから老人が私の前に出た。
「よいさ。まぁ大体はそいつの言った通りなんじゃけどな……死肉食らったり生き血吸ったりするらしいべ。女子供は恐れおうて夜中は村が死んだようじゃ。わしらは、ほれ、こうして酒を飲むことが大昔からの掟みたいなもんじゃから起きてはおるがの。これ以上被害が出れば続くか分からんのぅ……」
「被害? それは一体……」
なんとなく背筋にひやりと悪寒が走った。
話し役の老人はいったん視線をはずして躊躇のそぶりを見せた後、続けた。
「……そやつ、初めて村に下りてきたときは鶏を絞めおうたわ。次に来たときは牛を食ろうて家を壊しおった。そん次ゃまだ乳飲み子じゃった劉の女子をかっ食らっていきおった。母親の見とる前でじゃ。ありゃあ恐ろしい。噂じゃ、あの鬼は『中国』ちゅう名前で呼ばれ取るとか何とか――」
ガタッ。
老人の話を最後まで聞かず、私は風をまいて酒場を後にした。
「レミリア! フランドール!」
がっと扉を開け、娘たちのいる部屋へ突っ込む。
中には。
「うるさーい……眠い……」
「うるせぇよ父上」
普通に寝ている娘たちがいた。
私は思わずほっとため息をつく。そしてぷんすかと怒っているフランドールの布団をかけなおしてやる。隣のレミリアも同じように優しくかけなおした。
「……起こしてすまないね。つい、我が愛しの娘たちがどこかに行ってしまうんじゃないかと怖くなったのだよ」
「なんだそりゃ? 父上それでもフランスの大貴族かよ」
「たとえ、どんな貴族でも、どんな王様でも、心を消すことはできないのだよ」
怒った顔もまた可愛い。斜めになった眉毛が妻の面影を思い起こす。
可愛かったので、私は娘の頭を撫でた。さらさらの髪は、撫でているといい気分だ。
「がぁぁ。撫でるな!」
「照れるな。父に甘えてもいいのだぞ」
「誰が! おい姉上、寝たふりしてずるいぞ! 一人だけ逃げるな!」
私はレミリアを見た。
――彼女は寝たふりをしていたわけではなかった。もちろん寝たわけでもない。
毛布の隙間から、じっと壁を眺めていた。いや違う、壁の向こうを眺めている。
彼女が持つ鈴が、リーんとなった。警鐘のように。
そのときにはもう、私にも不気味な妖気が鼻を突くのを感じていた。
「お父様……何かいる」
――赤い髪した悪鬼――ありゃあ恐ろしい――
脳裏に村人の言葉がよぎる。
「二人とも、危険だ。寝ていなさい」
真剣な声で告げる。だがフランドールはうろんな目で私を見返してきた。
「誰がいるって? 父上は何が何なのか知ってるのか?」
隠し事はよくない。嘘はさらによくない。彼女たちは私がそんなことをするといつも怒ったような情けないような目をする。
私はそれが好きではなかった。彼女らの反応ではなく、自分がそうさせているのだという卑劣さが好きではないのだ。
「先ほど村の人たちに噂話を聞いた。悪魔か妖怪か、とにかく凶暴な魔がこの辺りを根城にしているらしい。見立てでは危険な相手だ」
「お父さんはあの人を殺すの?」
レミリアは、相変わらず壁を見ている。この子の力は強い、外も見えているだろう。本当ならフランドールのほうが強いのだが、封印と暗示は強力で彼女の実力は発揮できない。
「私には関係のないことだが、村を襲うようならお前たちにも危険が及ぶ。そうなれば排除する」
「フランスでいつもやってるのと、結局は同じことか……悪いけどおとなしく寝る気にはなれないよ、父上」
フランドールは布団から抜け出すと、いくつかの上着を重ねて着た。
「フランドール! これは遊びではないのだぞ」
「分かってるわ、お父様。でも旅の途中で似たようなことはあったじゃない。いまさらそんなに目くじらを立てないでもらいたいわ」
「レミリア、お前もか……」
振り返ると、いつの間にかフランドールと同じように厚着し、鈴を持ったレミリアがいた。
すでに二人はてくてくと出口へ向かっている。
私はもう一度妖気の出所に目を向けた。一抹の不安が胸に浮かぶ。
娘たちのわがままを聞くのはこれ一回きりにしよう。そう決めると、私は彼女らの前にでて扉を開けた。
厳しい目で夜の異郷を睨みつつ、背後の二人に重々しく告げる。
「よく聞け、我が子よ。この先は戦場である。生死の境界は己の他にあると知れ」
「はい」
「はい」
緊迫した声音が返ってくる。私はゆっくりと歩を進めた。
「決して私から離れないこと。危険だと思ったら何よりも自分の命を優先すること。誓えるのならばこの扉をくぐることを許す」
「誓います」
「誓います」
外は寒かった。
大陸の奥深くに吹きすさぶ夜風は、底冷えする冷気と不気味な轟音をもって、人知れず跋扈する妖怪の遣いであるかのようだった。
こういう口調のスカーレット姉妹も新鮮ではある、か。割と好きかも。