(そこへ行こうとしていないのが私なのか、だ)
連綿と日々続く思考に終わりは無い。
始まりを終わりの対称と思っているうちはまだまだ本能だ。始まって終わった、は殴られて痛かった、と何の違いも無い。そこにあるのはちっぽけな因果関係で、それらはたまたま繋がっているだけ。
だが、それ故に。大事なのはその繋がりの部分。矮小な因果、『続き』というものそれ自体。
それは始まりから始まっていなくてもいい。終わりに向って終わらなくてもいい。存在一つの始点と終点は、現在から過去へと神格化されて贈られる引き出物。その間。
繋がりと捉えるなら、それはつまり我が友人、誰よりも紅い五百年の最もよく知るところとなるだろう。最速の積極性、見えざる糸同士の引力、今正に接近するその迫力。私のような遅延にすら辿り着いたあの紅さ。
しかしこれこそ対称に対照に、それを隔たりと捉えるなら。
(絶壁。最遅の消極性か。ということは―――)
** 師走某日 木曜? ?
(それををラスタ・ワンと見るか、ベクタ・インフィニットと見るかの違い)
終わらないのであれば思考は何と何に繋がっているのか。それは、思考が更けていく、とでも例えるべき事なのだろうか。だとすれば思考の夜更けはいつ訪れ、思考の日の入りはいつ拝む事ができるのか。
如何程に悩もうとも詮無きものと知りつつも、顔を顰めずにはいられない。
この私の思い巡らす、偽らざる心境という奴である。
知を冠するというのはつまり、知に取り憑かれ、同時に知に依存しているという事だ。
故に、パチュリーという名を、知識(ナリッジ)という冠で括っている私という生き物は、その冠が重石となって、鈍足を強制されることになる。頭でっかちというのはどこまで比喩と捉えるべき言葉だろう。
時々、重石にならない物で己を定義する生命を羨んでみる。
格子の外れた檻、天駆ける靴、浮動する中心点。
顧みて私の定義はといえば、遠く押しやる過去の色。
耐えざる欲求、その向う先を決して直視せずに、けれどなおも縋り付き貪婪に得んとする姿が、深みに嵌る浅薄を思わせる。
充足は次の充足への布石でしかないと知る私は、同様に布石の先に終点が無い事もまた知っているけれど、そんな知識では底なし沼の持つ妖しい魅力をかき消すには至らない。
『点とは看板である』という文をふと思い出す。どういった趣旨の書物であったかは定かでないが、私個人の思考と似通う所がありながら、部分に於いて頷きかねる記述があった事を記憶している。
この文に続けて記されていたあたりがそういう部分であった。
それは点と線に関する事柄だったが、そこに私は著者の決定的な認識の欠如を感じた。点の進化系が線であるという“点”はまだしも、線が点の上位互換であるというくだりには嘆息を禁じえず。
想い起こしつつ実際にも吐息を漏らし、私はか弱げに生えた苗木に目を落とす。
少し力を入れて手を添えただけで、音もなくへし折れてしまいそうな幼い植物である。
それは蒼穹の下、緑の青々と広がる草原の只中にあって、周囲の草花よりもひと回り高い丈を持っている。茎、いずれは幹と呼ばれるであろうその部分は、さらさらと吹く風を受けるとたおやかになびき、私はそこに名家の令嬢の小首を傾げる仕草を見た。枝先に幾つかあって微動する双葉たちは赤子の頭髪を思わせる。
赤子。そう、幾分か詩的に捉えたこの比喩は正解だ、と思うと、苗木が頼りなげに揺れた。首肯とも取れる身じろぎだった。
赤ん坊は産声を上げ、いまだ世界を知らず。
この夢の如き幻想の世界を知らず。この奇跡の如き現実の世界を知らず。
覚醒を知らず。存続を知らず。成長を知らず。停滞を知らず。
朝焼けの眩しさを知らず。昼間の温かさを知らず。夕暮れの寂しさを知らず。夜闇の心細さを知らず。
己を知らず。他を知らず。個を知らず。多を知らず。無を知らず。有を知らず。
能動の侵略を知らず。受動の拒絶を知らず。
過去を知らず。現在を知らず。未来を知らず。さっきを知らず。イマを知らず。あとでを知らず。
瞬間の瞬間を知らず。永遠に永遠を知らず。
知らざることを知らず。知るべきことを知らず。
無知。それすら知らない。知という概念から外れている、『知』の『無い』生命。無知の無知の無知。
私を飾る定冠詞からすれば、この苗木は私から走る対角線の先端に位置する存在であると言えるだろう。
だが概して相反属性同士は誘引し合う性質を持つものであり、今回もその傾向が見られ、類型形成の論理に矛盾を突きつける事はまたしてもかなわなかったわけである。常日頃からそんなものの打破に努めているわけではないが。
するすると考えながら、起き抜けのウォーミングアップはこんなものでいいかな、と思う。同じ思考するにしても、いい加減今するのに相応しいベクトルへと転換するべきだ。
では今私が最優先すべき思考とは何か、という思考だが、これにはさして時を要さない。私にとって自己の定義を終えた後にすべき事とは、つまり状況の把握である。
再び周囲を見回すと、辺りには変わらぬ様子で風にそよぐ緑色の海原と、その遥か高みにて泰然と青空を行く白雲があって、それら、私に認識できる空間範囲内では、違和感を感じさせる何かは存在しないと知れた。
そこで一度目を瞑って天を仰いでから、私はうんざりと首を傾けて脱力し、そのまま振り子運動に任せる。
(ここはどこ、私はパチュリー)
心中で見知らぬ誰か、即ち私が今までに見たことも聞いたことも無いこの空間自体の存在について深く知る、そんな物知りに訊ねてみた。返答を期待するほど無能ではないと自覚しながら。
無意味ではある。が、それが無意味であると再確認する、という意味がある。しかしこの論理を認めると、無意味という言葉は利用できない単なる死語と化してしまう。だからといって、思わず浮かべてしまったものの無価値をあっさりと許すのも癪だ。
だから、今一度心中に問い掛ける。ここは何処だ。
「教えてあげましょうか?」
意に反して、答えがあった。返答を要求したがゆえの願望が生む錯覚や幻覚などでなく、はっきりと耳を打つ、生き物の発した声である、と確信できる。
俯いた顔を持ち上げて辺りを見ると、苗木の傍らに、先程までは無かった色があることに気付く。
紫色だけがあり、それが具象せずに霧のように浮かんでいるかと思うと、縦長に広がって一本の線となる。
線の両端を見て、私はようやく声の主に思い当たった。そこには、真っ赤な少女趣味のリボンが結わえてあったのだ。
線が押し広げられる形で裂け、その隙間から白い手袋に包まれたほっそりとした指先が突き出される様に、やはりこいつか、と私は確信を深めながら、挨拶代わりに問い掛けてみる。
「貴女は・・・誰かしら」
「あら、判ってる事を訊ねるのは時間の無駄じゃない?」
間髪入れず、空間に生じた裂け目から声がした。手、腕に続いて顔面が現れ、紛れも無い美女の相貌の、金色をした二つの瞳が、怪訝そうに睨む私の姿を映している。
「無駄を知るのも私の役目。・・・まぁ、貴女はやっぱり、貴女みたいね。
では改めて・・・何だ、貴女か」
「あらら、ご挨拶ねぇ。まぁ、挨拶だけど。おはようございます、日陰の紫さん」
愚痴るように言った私へ、何が楽しいのか露とも判らない不気味な、それでいて落ち着きを如何なく表現し得る優美な笑顔を向けながら、その人物はゆっくりと、ようやく全身を私の視界に顕した。
道服とフォーマルドレスの間の子のような奇妙な服装をし、今正に己の這い出てきた裂け目からフリル付きの日傘を取り出して差したこいつは、こいつは・・・。
いや。この謎めいた、人間の成人女性を象った妖怪について語るべき術を、私の有する知識の内に持たない。
正直な話、私にはこの妖怪が何者なのか解らない。
私の知ることと言えば、こいつの名、本名仇名二つ名通り名と、有する力の種別程度である。それらにしたところで、私の知識がその全てに及んでいるわけではない。
八雲、紫。『境界』という名の幻想。かつて“仕切り”“仕来り”と呼ばれ、今はもう死に耐え幻想と化した概念。つまりは、この幻想郷の住人だ。
外の世界に、境界は無い。距離という最も実際的で残酷な境界すらも取り払われ、無数の多が普遍の個へと合一してしまったあの世界に、彼女のような生き物は邪魔だったのだろう。今の彼女は、そんな外界にたった一つの結界、夢と現の境界だけを残して、この郷に長く、歴史のように長く住み暮らしているのだという。
だが私は常々その言を疑う。具体的にはその順序を。事実に於いては、全くの逆だったのではないか、と。
境界幻想が打ち砕かれたから彼女が去ったのではなく、彼女から外界が放逐された故に境界が摩滅していったのではないか。
昼夜のべつ幕無し、明暗逆転、生の量産と死の順延、集合無意識の露呈と幻想の無作為な忘却、仮定の結論化と論理の反復進行、あるべきものとあらざるべきものの中和、極大の過密が産む過疎の消滅・・・ヴワルの知識が全てを物語っているように思えるのだ。
生命が見失ってはならない最後の砦、危機感すらも磨り減る。
幻想という研磨剤は品切れて、後には粉塗れの文明の残滓だけがある。
人間という生命存在の、それと関わった普く存在概念との合成体。最後のヒトの死骸だ。
その末路を予見したからこそ、と紫色の狭間は言う。私には、結末を用意したのは、としか思えない。
しかしそんな疑惑についてはもっと暇な時に考えたいものだ、と私は挨拶を返す。
「おはようだか、今晩はだか判らないわ、境の。何か用?」
「用も無いのに呼び出したのは貴女じゃない。順番を間違えないようにね」
「惚けても無駄よ。貴女が私に用があったから、私が此処に居るんでしょ?」
「だから、順番を間違えちゃ駄目。貴女は、時間を無駄にしたくないからって私を呼び出した。ポイントはそこよ」
「お呼びじゃないわ」
「まぁ、私は呼ばれてないけど。貴女が、誰かを呼んでたのは確か。
昼間っから寝てて、その上まともに夢も見てないようなのがいたから、ちょっかい出してみただけ」
八雲は何でもないような口調でとんでもない事を言った。
私が、夢の中で誰かを呼んでいた? 読んでいたの間違いではなく?
真偽を問い質して、その返答の真偽を糾すのも面倒に思えたので、取り敢えず私は八雲の言葉を鵜呑みにする。
ならば、今居るこの奇妙な程美しい草原は、貫けるような蒼穹は、八雲によって彩られた夢の世界なのだろう。そして、ここに私と共にいるこいつもまた、真昼間から寝こけているぐうたら妖怪なのだ。
「・・・判ったわ。もう用は無いから帰っていい。貴女も、たまに早起きするといいんじゃない?」
八雲紫の介入によって形作られた異常なら、八雲紫の退場が解決の早道である筈だ。そう思っての言葉だったが、この得体の知れない妖怪と余り長い時間同席していたくないという願いが少なからずあった。酒席などでならばまだしも、ここは私の夢だ。私は私の作業をしなければならない。
といって、こんな言葉の一つで八雲が起床するとは、それこそ夢にも思っていない。こういう人物は、概して他人の邪魔をする事を好むものだ。何かと言い訳をして、長々と居座る魂胆に相違あるまい。
「そうねぇ。たまのお昼に散歩っていうのも、悪くないかもしれないわ」
騙されてはいけない、と私は内心で苦笑する。この同意は前振りに過ぎず、次に用意した落胆の効果を倍化させるための“溜め”だと判るからだ。
このような先読みは、我が紅い友人との数十年を超える長い付き合いにより培われてきた、私の数少ない後天的な技能である。この紫色とは指折り数えて指が余るほどしか顔を合わせたことはないが、世に長じた怪物という括りにおいてはあの紅もこいつも同種であり、ともすればその言動に一つの類型が見出せるわけだ。
そう、考えていたというのに、
「それじゃ、用も済んだし帰るわね。お邪魔しました」
八雲紫は素っ気無く言って、見る間に狭まって紫色の縦線になり、点線になり、やがて点になって消え、草原と青空を残して、きっぱりとその場から退出していったのである。
ぽかん、と口を開き、ぱちくりと瞬く間に、幻想の境界は正しく夢幻の泡の如くに去ってしまった。
そして私は忘我する隙もなく気付いた。気付かざるを得なかった。
この異様な夢の世界が、未だにもって継続しているということに。
「・・・なるほど」
まだまだ私も甘い。信じられない事に、という言葉を使うに相応しい状態だった。二日続きで未熟を思い知らされるのも、久々の経験である。
引き止めようと声をかける暇すら与えず、八雲紫は帰っていった。彼女が実際に起床して式神とその式神を大いに驚かせたとするならば良し、それは後で伝え聞ければ茶会の話題に使えるものであるが、もしあの言葉が偽りで、今なお己の夢の世界でグッスリと眠っているだけなのだとすると、これは如何にも腹立たしい話だ。
八つ当たろうにも、ここには当たるべき何かが絶望的に足りていない。視界は地平線を空色に区切り、この平和すぎる夢の海原が退屈という退屈に満ち溢れた世界であることを粛々と申し述べているかのようである。それに八つは八雲のことだ。当たり返されるのが落ちというものだろう。
つまりは、この空間こそが本日の異常なのだ。異常とは即ち私、ないしは私の周辺環境を何らかの形で脅かし、私自身の望む活動=読書の進行に遅滞を生じさせ、ここの所の私が深々と吐く息の量を増やしている、奇妙奇怪で、いつも通りの変事を指す。
世は並べて事も無し、異も生し。怪事件の一つや二つが私をどうにかできるものでもないが――いくらなんでも妙である。
異変が起きすぎている。
それも、私の周囲にのみ集中して。
「最近の事件は、図書室で起きるものなのかしらね・・・」
独りごちながらに思う。『独白は常に空振りで、凡退した言葉使いは脱帽するばかり』。
スポーツを喩えに使うのは必ずしも明快ではないが、この文章には少しだけ、不思議なおかしみがある。広く会話は言葉のキャッチボールなどと言うところを、この文において言葉とはスウィング、振り抜くべきバットであると捉えているのだ。
無論、ピッチャーが投げるのはバットなのであろう。滑稽だが、新種の競技と騙し切れれば自然な笑いすら浮かぼうという物だ。
ふ、と笑ってみる。
空寒い。リアクタが存在しないのだから、笑みが空回るのも当然だった。
空しいとはつまりこの感情だ。どこを向いても空しかない。白しかない。
一見すれば蒼と碧、正しく双璧の成す美しき世界である。
規模だけを除けば天を衝く尖塔の如くに見える、この若木だけが唯一の例外だった。
八ツ雲の退場がこの世界の終焉に直結しないのであれば、ここは一体何なのだろう。いや。
本当に、何処かなのだろうか。夢でも、私の知る現実でもない。私の知らない現実。
要するに、“幻想郷の外”なのだろうか。
その可能性が絶無であると断じるには、私はあの八雲紫という妖怪について不吉にも知り過ぎている、と言える。不幸にも知り合い過ぎている、と言える。私程度の知識ですら、必要十分に難なく達してしまっている。
あの境界に、境界は無い。時空という初歩的な境界すら皆無だ。
夢と現の境界は残るべくして残った。それだけが残ることで、最後の結界になることで、相対的にそれが最大最強と化すからだ。
最後の砦、それこそがこの夢郷と外界を隔てる結び目。最終境界、誰が呼んだか博麗大結界である。
幻想郷と外には、実世界の概念として、確実に距離が存在している。だがその境界は既にあやふやであり、幻想郷の内情がその現象を裏付けている。
私や紅い友人が良い例だろう。私は初めからヴワルに生きていたわけではないが、外界からえんやらと野を越え山を越え参上したわけでもない。万魔の城に書架宝物殿あり、と噂伝てに聴き、捜し求めるうちに辿り着いていた。
我が友人レミィに至っては斯様な説明も無用だろう。その存在の根底を規定するルールが嘘偽りでないのならば、こんな所に、自称の信憑性を別としても直系のドラキュラである彼女が現存してよろしくやっていけるというのは、逆説的に単なる冗談にしかならない筈である。親愛なるその妹フランドールも同様だが彼女には実際弱点が無いので除外する。
∵、何故ならば。地理的にあの場、幻想郷は、島国の只中にある。
吸血鬼は海を越えられないのだ。
だから、幻想郷には何処からでも来れる、のだろう。外界には、距離という名の隔絶は無い。来ようと思えば、星の裏側にある島国からでも来れる。
だから、幻想郷から何処へでも行けるのだ、と私が考えてしまうのも無理はあるまい。試行した事も無いが、強ち的外れとも思えなかった。況してあの幻想の境界の手にかかれば、である。
とまれ、私は今居るこの場所を、あの郷から遠く離れた異界であると仮定する心積もりになった。
だが実情、私が現在、一体何をすべきなのか、という事については、まるっきりの見当も付かない。
あの紫色の境界は、何の為に私をここへ呼んだのか?
それも、昨日の出来事によって被害を受け、疲弊してベッドに昏々と眠っている所の私を。
八雲紫は言った。私が何かを呼んでいたと。
もしそれが本当ならば、何故私は、夢の中でそうしていた自分のことを覚えていないのだろう。私にとって夢とは無意識的に起こる恣意の整頓に過ぎず、それを常から面倒で退屈で無駄な時間と思っていることから、この時間はつまらないから誰かどうにかしろ、と無心の内に望んでしまったのかもしれない、とは考えられる。
しかし・・・どうにもこうにも、辻褄の合わない話だ。
もしそんな願いを私が抱いたとして、それを聞き届けた八ツ雲が私を覚醒させる等という親切心を起こすだろうか。反語法を省略して現状に照らし合わせるなら、私の居る此処は私の夢の中であり、無機質に着々と記憶の整理作業が行われている筈なのだから、これもやはりしっくり来ないものがある。眼前には蒼と碧があるだけで、私は自分の夢の中でこんな野原を見たことは一度たりと無い。
では前提を否定せず、八雲紫が気紛れに私の睡眠と覚醒の境界を弄くり、木曜の一日を床に伏せてフイにする運命を塗り替えたのだとすれば、ここは一体何なのだ、という疑問に帰結することになる。
前者では論理の矛盾が瞭然としている。そうであることを自分が望んでいるのだという自認から、これは棄却すべきだろう。
後者は、先の疑問に付随する不明瞭な点を解決することが出来るなら、一先ずは納得してやれないことも無い。
ならば自然、その疑問の解決をこそ優先的に思考するべきである。
そして堂々巡りだ。
八雲紫の、目的。
「・・・無さそう」
一言に尽きる。あのくゆる紫煙に、向かうべき天など考えられなかった。澱みはたゆたう事が本分。向かうところ敵無し、無敵とは本来的にああいった存在のことを指す。どこにも向わないのだから況や、である。
いやしかし、判ぜられそうもない事を敢えて思考してこそ、と言えないこともあるまい。
では仕方ない、と私は仮説を立てる。仮定に仮定を重ねるのは不本意極まるが、いずれも推測の域を出ないのであればそこに質量以外の差異などあろうはずもないのだ。
仮定する。『八雲紫は私に何かをさせたがった』と仮定する。
何か、が何であるかは本人以外に知れる道理もないのだ。それを知ろうと思うのは、原初の海を櫂で掬うのに似る。
撞着と自嘲することも出来たが、それどころではない。舟を漕ぐよりも先に、私は本を読むべきなのだ。
「それはいつまでも正しい ここが何処かはどうでもいい
夢の旅先にここはない それだけで救われる
死なない夢から 生きない夢から 終わり行く現実へと」
醒めない思考の緩やかさに、聞き覚えのない声が染み入る。調子っ外れの歌声だった。
いつの間にか閉じていた両の瞳を開け放ち、私は地平に両断された二色の世界を見る。誰かいるのか、いや、居たのかと新たな疑問を感じ、同時に事態の思わぬ進展を予感して。
「誰?」
今度こそは本当に、一切の予備知識とそこから発した予測を持たずに、純然たる質疑として問い掛ける。
「誰と問うのは誰? それは私 知らないのは私だけ 貴女は知っている
私を知っている自分を知っている 自分が何処に居るのかだけを知らず」
先程と同じ、調子の外れたような、いや、“句読点を抜かしたような”、既成観念を跳躍した喋り方のその声は、決して歌っているのではなかった。最も近い語法に魔術言語の詠唱を想起してしまうような、通り一遍の感情を排除した音声。
それを聴けば、私のような知識の冠でなくとも悟ることが出来ただろう。
その声の主こそが、今この場を支配する異常の中心である、ということに。
「少しだけ違うこと 余りにも適合が多いこと
適切の哀切に 大切な解説 意味は無意味 私が中心 中心が私」
「それは・・・わざと、そう喋っているわけじゃないのね」
聴力がその言語の理解を否定する感覚に耐えながら、私はどこに居るとも知れない声の主に返事をして思う。
もし、私を苛立たせる為にそんな喋り方をしているのだとしたら、外理反動制御や未然衝動復調の魔法を用いてでも矯正してやるところだ。理解可能な一部分だけを摘出するだけで意識の界面が悲鳴を上げるような言語体系を、知識の体現である私が手放しで許すなどとは相当な傲岸不遜の輩でも思うまい。
そうでないことを確信するような物言いができるのは、初歩的に基本的に、声の主の語調に淀みも悪気も含まれていない、要するに敵意を感じない、と少なくとも思えたからだ。
こいつは、自然に喋っている。だが、それは凡庸な言の葉と比べ遥かに高次な力を持った、言霊のアップデート・スタイルのようなものだ。
高次世界言語。ならばそれを用いるこの声の主は、神か悪魔か、いや、悪魔なら友人に二人もいるのだ。
では、神域の存在か? それもまた、似た見地にある知人を思い浮かべられる。
「でも・・・神さん、って感じもしないね」
「理解と理解 そう呼べない旅人の言語
価値を認めずに その価値を測る 神なら人 人なら血」
おかしな抑揚で声が語る。その意味するところから逆算した言葉の羅列だけでは、この存在の意図するところは掴み取れない。
要するに、何を言っているのか全くわからない。
ああ本当に、いい加減にして欲しい。私だって途上の生命存在、いくら知識を冠するとはいえ、今だその知は天蓋にも届かず。その蓋を開けた外へと踏み出すのがいつの日になるかも判らないが、自分の無知を思い知らされるのには飽き飽きである。その無知を全て無化し消去する為の日課を潰してまでの嫌がらせとなると、腹も煮えくり返ろうというものだ。
私は弱化する神経を奮い立たせて意思の疎通を図る。古代文字の解読のように、言葉の意味を選り分ける。
「質問は無駄だってこと? それとも、質問しないのが無駄ってこと?
姿も見えない変な物相手に困っている、ってのは苦情として受け入れてもらえるのかしら」
「知れないことは貴女に 知ることを貴女と
私は見える 貴女には見えている 見えるのが私
夢に無いここは私 碧だけが居たい」
「今のが返答だとして・・・要約すると、あなたはもう、見えているのね」
「真実は隠れない けれど余りにも大きい 開陳は大小の置換 擬態の追放」
「どうにも癪だけど・・・正しいってこと、かな」
当て推量もいいところ、しかしいちいち疑問を感じるには、少々この声の主は興味深すぎるのだ。あからさまに幻想と思しき存在が外界に今もなお在るということだけを見ても、沸き立つ心は止め処無い。
「合ってるのなら、話は早いわ」
気だるげに首を振って周囲を見回していた私は、その一言と共にぴたりと視界を定め、その中心点をジト目で睨む。鬼も怯むと評判(判り辛いかもしれないが皮肉だ)の睥睨。
「この苗木。これが、あなたね」
言い放つ。論拠を糾す返答は無いが、凡そ間違いあるまい。この確信もまた仮定を補強する仮定の産物でしかないのだが、それを確信であると思い込むことが出来るほどには確信できる。トートロジカルな話である。語は生めばいいが、仮定は使い捨てだ。
「そうだと言えるのが貴女 私は訊ねて返す
その碧 伸びる塔よ 私は空へ惹かれていく」
・・・否定はしていないように思える。
「最早ここに碧は無い 私は蒼へ曳かれていく
蒼の向こうに碧よ在れと 在れよ在れ
ただ一人の邦 茫漠 本質の孤独に馴れて久しい」
また、判らない事を言う。が、肯定する意思のような何かは感じた。
「名は無いの?」
「遥か昔か ほんの数瞬の以前
名という定義が薄れゆく 希薄は濃密 然れど冷たく」
「無いのね」
「基底にいる 飽き果てた現の嘘」
「嘘?」
少しずつ、この声の主と私の自我がシンクロしていく。それに応じて意図の繋がりも深まり、言いたい事がわかり始める。糸を手繰るのは苦手なのだけど、無い者をねだる筋合いでも無かった。
「真実は虚偽 虚実の境は取り払われた 歌は失われて 謳歌する生は終わりを告げた」
「“虚構真実(ヒドゥントゥルー)”か。幻想にすらなれない」
「もう夢は見れない 夢に見せない」
「夢見る子供を夢見るのね。
でも・・・おかしいわ。あなたには、こんなに多くの仲間が居るじゃない?」
段々と読み取れるようになった感情を受けて、私は軽く両腕を広げて示す。
彼、もしくは彼女は目前の苗木である。そして、彼は孤独を感じているという。
それは何故なのだろうか。
これだけの威容を誇る草原に囲まれながら、彼はどうして孤立を己が内面に抱えなければならなくなったのか。
「答えは答え 応えて見ると
貴女に見る 見えたから貴女」
「既に提示されている、と。はて。私には一面草の海にしか見えないけれど」
「判らないと否定 判ると否定
識るも知らぬも 不逢坂の関所」
「蝉丸? 木の妖怪にしちゃ、妙な知識持ちね」
「私の望む碧 私の知らない碧 蒼の先にあるの? 空夢の果てに死ぬの?」
「聴いているのはこっちなんだけど」
言いたい事が判る、といっても、普通の言葉として受け取れるようになった、という意味に過ぎない。言葉が普通でも内容が支離滅裂であれば、論旨は当たり前のように混濁する。不安定な妄言を聞かされて、私の口元は喜ばしくない形に歪む。
――ふと気付いた事があって、心中に待ったをかける。
「私の、望む、碧? 貴女の目的のことかしら」
「望みは消えない 失明する退化種 回顧録に記帳する かつて伸びたがった記憶」
「ふぅん。つまり端的に直接的に理解しやすく明文化すると、
あなたは・・・成長したいってことか」
「韜晦よさらば」
「肯いた、でいいわね」
ならば、簡単な話だ。
物理空間と意識概念の双方において一義的に会得できるその願望ならば、他方のそれが一方を充足しうる。
ならば、簡単な話。
それが彼の望みならば、至極簡単自然普通、当ッたり前の鍵の穴。
「あなたを伸ばせば、それで済むってわけ」
「後悔殺し」
「OK――!」
【木曜よ】
首を振り上げ天を仰ぎ、蒼穹を睨んでそう叫ぶと、
私の声音は銅鑼を派手に打ち据えたようながぁぁんという音と共に、
双璧の二色の隅々まで至って、それらを惜しみなく震え上がらせる。
【七層に憂いなく 七国に誓いなく
然るに何れ憂国の徒と成り果てる 阿鼻叫喚の懺悔など
なにとぞ 名に図ぞとて聞こし召す】
目まぐるしく震える景色たちが、灰の篩いにかけられて原色に収まっていく。
ここは双璧の住まう場だから、天地が二色に二分され、蒼は空へ、碧は大地へ。
これほどに七極世界の顕現が視界の変貌を齎さない例を、
私は今まで一度しか見たことがない。あの闇色の紅界を除いて、一度たりと。
振動する世界の中で、私と並び立つように佇んでいる若木だけが、
びくともせず、やはり令嬢のようにただふわりと小首を傾げた。
初めにそれを見たときに感じた事を思い出して、私はああ成る程、と納得する。
意思の伝わりにくい筈である。あれは、そう、生まれて間もない赤子なのだ。
真に上位互換である高等言語体系は下位の存在に理解されない。
だが、それを用いる上位存在は、下位のそれと互換性を持つ系の一部を的確に用い、
その意思を満遍なく伝達することができる。
と言うよりも、出来ないのならば上位存在ではない、ということになる。
アーキテクチャが同一なのであれば理論の種に発展はあっても消滅は少ない。
だから赤子だ。あの若木が迂遠な詩歌の如き言葉遣いをするのは、
その言語を完全に掌握しきっていない、つまり成長を遂げていないからである。
・・・外見で気付け、と言われても反論しがたいが、しかし見た目の判断ほど難しいものは無いのだし。
【降り来る千億の災い 危機解開に紫紺の帳
豊ら限りなき蒼よ碧よ 木陰に紛れて青と化せ
万感を抱く相貌の 何故に喜色を浮かべぬか】
夢の中だか、本当の現実の只中だかは判らないが、
私の力には余計な制御がかかっていないようである。
お陰で起きている時と何ら変わらぬ形式での詠唱が可能・・・だが、
それ故に、逆に心配になってきてしまうのは、少々勘繰りすぎというものだろうか。
此処に於いて、私が魔法を問題無く使用できる。
それはあの八雲紫、境界の紫の思惑を実現させるべく残されたものだ、という考え。
その考えは、正しいのか?
誤誘導――あの“時空走狗(ワンズモノクローム)”が好む手品の技法、
その実体験ではないと、確固たる自信を以って言い切れるのか?
疑惑を胸に感じつつも、私は続けて口を走らせる。
兎にも角にも、既に私の魔法は始まっている。
唱えてしまった魔法を中断するなどという行為は、以下略である。
省略を記述することすらも無駄と感じられるほどに。
【褪せ果てた古都 無味の岩塊に芽吹くは全色の源
東方より来る無と有の境 混沌の初め色 中指で押された車輪】
はっ、と目を見開いて、少し首を振る。
思い出したある事を、頭を振って一時的にでも忘れようとしたのだ。
でもそんな軽い動作で忘れられるものでもなく、
自然と私は考えてしまう。今の、この状況についての考察。
(積極性、消極性)
思考停止を諦めた私は、そのままに口走りながら右手を前へと差し出して、
脱力して下を向く人差し指に力を込めると、そこに毅然と生える若木を指差す。
(二次元表面の縦横)
その指を俊敏に、ひゅっ、と振り上げ空気を割く。
するとそれまで動じる事の無かった若木は、私の指が作る不可視の線に寄り添い、
小刻みに震えながらそこへ絡み付くようにしてぐいぐいと伸び始めた。
その勢いは次第に倍加倍増し、私は過成長の巻き添えを避けるために空へと身を躍らせ離れる。
(繋留と断絶、運命と境界)
瞬時を待たず、私の視界を仕切る地平線が、伸び育つうら若き樹木によって、見る間に断ち割られていく。
これはアオからアオへの侵犯だ。
縦横に走り天地を区分した全ての境を乗り越えて、神域の緑は最新の境界になろうとしている。
(線は点の持つ表現手段、点からなるのではなく、点によってなる)
どこから始まっていても良いと言ったのは確か私だった。どこへも向わなくても良いと。
価値あるべきは持続そのもの。終着点を求めるなとは思わない。
無難な着地を怖れず、また続きを始めれば、と。
(つまり、ここは夢でなく、現実でなく、夢の現実でも、現実の夢でもなく)
【咲き荒れよ 全緑】
私の喉が終節を吹いて打ち震え、七極世界を巨大な緑が突き進む。
最早天高く先端の見えないその緑柱を導管にして、天地の二色が混ざり合う。
蒼が碧に、翠が藍に、二つのアオが、紫の私を中心に入れ替わりつづける。
極限の色分け、ステンドグラスワールド。
私の為の私の魔法、七曜曲解、【七曜極界】。
「始まり 始まり ――」今や超然と聳える大樹の声。
本日は、恐らく木曜。
夜明け、東の地平線から、徐々に二色の海が広がる――。
【 ― グリーンストーム ― 】
その、瞬間。
大地に張った緑色のガラスが、全て、皆一斉に砕け散った。
七色の抽象では何が起きたのか判らないが、恐らくあれは。
あれは――
** 師走某日 木曜 夕
ぱち、と珍しくも目を開けてから起きた。
自己再認よりも先に世界を入力するその感覚は、私としては酷く新鮮なものだった。
意識を引き戻して現状を理解すると、どうやら私はベッドに寝ているらしい、ということが判った。
次に、少し視界を巡らせる。するとそこに友人があった、というと神のようである。
紅い服を着て紅い瞳をして、透き通る肌だけは魔性の白の癖に何故か紅いとしか見えてこないその少女は、ベッド脇のふかふかとしたソファに寝そべり、つまらなそうな顔で私の所有物、当然のようにこれも本を読んでいる。いや、読んでいない。読書するのにあんな凝視は必要ない。
あのソファはメイドが持ち込んだのかなと思いながら、私は口を開く。
「レミィ、その本」
「あれ? やっと起きたの、パチェ。
あんまり酷く扱うと、その内ストか何か起こすんじゃない? 目が」
紅い目は、私の声が一を言い終えるより早くこちらを向き、彼女は十を言い終えた。
私は寸暇、息を呑んでいた。
反応の速さを見て、私がこうしてたった今起床する、という運命を知っていたのだろう、と判る。彼女はそういう生き物だ。
二色に分かたれた最高純度の鋼玉、その片割れたる『魔紅盟主(スカーレット・コランダム)』。運命と結び付く運命にある、須らく魔王なる魔王。
ふ、と息を吐いて平静を装う私は、彼女の眼に怖れたのか、それとも魅せられたのか。何にせよあの紅は危ない色だ。
レミィは本を置いてソファからぽすんと飛び降り、ベッドから身を起こした私の前まで来てから、「椅子」と言った。今度こそ本当に、するとそこに椅子があって、紅い友人は静かに腰掛ける。不思議な現象のようだが、この館そのものも彼女の眷属である事を知る私からすれば、これも一つの日常茶飯事である。どちらもこの部屋に元からある調度品ではない。
「平気よ。貴女のメイドたちと同じ」
「うちのメイドは皆年中デモよ」
「デモン・ストレィションね。紅い紅い」
「灯台デモクラシ」
「大正」
外見では判らないもの、と私が常から思うのは、彼女という友人の存在による所が大きい。
しかし多くの凡庸な魔性との決定的な差異として、彼女の巫山戯る姿は装いでも何でもない、というものがある。
どころか、彼女の場合はそれこそが本性だ。帝王とは欲望だけで全てを動かすことの出来る存在を言うのだから、細やかに己を偽ることも、下々に気遣って分を弁える必要もない。
そして真の従者とは、帝王の無理難題を嫌な顔一つしながらも(ここが大事である)100%、何らの欠落も無く完遂してのけるものだ。だからこそ彼女らは美しく釣り合う。ループザモビール、どちらが吊られているのか、判らなくなるほどに。
では、帝王の友人は、どのような位置にあるべきなのだろうか。『王に並び立つ無し』と本は言うが、さて私には自分がそこまで貴重な、ある種奇跡的な体験をしているのだとも到底思えないのだった。無いなら書けばいいといっても、これまた資料の足りない話である。それではまるで自伝だ。
「そういや、さっきパチェに似た怪しいのが来てたわ。
ほらこれ、お見舞い品。何で年末に葡萄なんて持ってくるのか判らないけど。
葡萄もパチェに似てるわね。外じゃ、年中食べれるのかしら」
「色しか似てないよ。って、レミィは葡萄なんて食べないでしょう?」
「色だけでも、似てるんだから珍しいわね。
パチェに似てる奴なんて・・・まぁ両手じゃ足りないけど」
「羽含めても無理そうだけど。私の両手も貸す?」
「返却期限がいつかによる。葡萄酒が出来るまでは欲しいところかな。
ま、人手が足りないのは恒常的な悩みよね、館主の」
レミィが、物事をズバリと言いザクリと斬りグシャリと叩き伏せるこの友人が、怪しい等という形容詞を使う。
それこそ、両手で数えるほどには存在しない類の生命だ。
およそ十中八九中十ほどの確率で、境界幻想存在のことだろう。
・・・? はて、何故そんなものが私に見舞いを?
「・・・いつの間に私は有名人になったのかしら」
「名前なら昔からあるでしょうに」
「レミィが・・・呼ぶわけないか。病院じゃあるまいしねぇ」
「サナトリウムにしたつもりも、サロンにしたつもりも無いよ」
「ん、サロンにしてるのは貴女じゃない?
いい加減メイドが多くて、顔と名前を一致させるのが面倒になってきた」
「あら、そんな面倒なことしてるの?」
「・・・デモって素敵ね」
にこやかにさり気無く言うレミリア・スカーレットであった。
どれだけ忠誠を尽くし己の全てを擲っても、主がこんななのだからメイドたちも報われない。それとも、報いを求めないのがメイドという職、或いは生き様なのか。つくづくに、真似の出来ない世界だと思う。
「無名といえば、あの小悪魔。わざわざ言うでも無いかもしれないけど、
ここまで貴女を運んできたのは彼女だからね。昨日の事はちゃんと覚えてる?」
「まぁ、フランドールに落し物されたことぐらいは」
「御免なさいね。あいつもまさか落ちるとはって謝ってたから、許してやって」
「あんまりにもあんまりだけど・・・まぁ、いつもの事だしね」
「ん。ありがとう。
さて、それらは兎も角、パチェ?」
「?」
「貴女、どんな夢を見ていたの?」
――急な話題の転換だ、と感じたのも束の間。
瞳に仄かな空気の冷たさと少々の圧力を感じる。
それはまるで“もう一度目が醒めたかのような”感覚であり、直後、私は先程まで見続けていた世界の事を思い出した。
二色の天地。同色の地平線、一時浮かんだ二つ紫。
そして、天衝く神の大樹。
言われてみるまで忘れているというのは、正しく夢の証拠だと思うけれど。
「――別に。いつもと同じかな」
けれど私はそこで、何故だか躊躇った。
確たる理由は見当たらなかったが、レミィにその始終を語って聞かせることが、憚られて仕方が無かったのである。
何故だろう。そこに関わったのが紅でなく紫だったからか。
答えは出そうになかった。
「同じねぇ・・・まぁ、パチェがそう言うなら、それでいいわ」
「なんだか不服そうね。何かあったの?」
「うーん、別に。いつもと同じ、何かはあるわよ。
っていうのも、まぁ、これを読めば判るのかしらね?」
我が友人は珍しく困り顔を作って、スカートのポケットから何やら手紙らしきものを取り出し、私に差し向けて寄越した。紫色の花を象った封印で閉じられている。
「何?」
「だから、何かよ。多分、伝言っぽいもの。
まぁ、あの変なのの事だから、ただの悪戯かもしれないけどねぇ」
「レミィは人の事言えないんじゃない?」
「私が悪戯しないでどうするのよ。
じゃなくて、今はその紙もどうでもいいの。後で読むなり読まずに食べるなりしなさい。
パチェ、何で今私が此処に居ると思う?」
「今まで看病して」
「くれてたわけないって事ぐらいは判ってるわね?」
畳み掛けるようにレミィが言う。
手紙をひょいと枕の脇に置き、少し椅子から腰を浮かせ、布団に手をついて私に詰め寄ってまた言う。
「覚えてるでしょ? 私が今週日曜日に、貴女に言った言葉。
まさか私の言葉を忘れるわけもないでしょう?」
日曜日・・・もう、一昨昨日すら過ぎた昔と言えるし、まだ、一巡りもしていない最近とも言える。月日の巡りは、日進月歩の喩えを生むほどに忙しないものだ。
四日前のレミィの言葉。忘れるわけもないと断言する、その贈り言葉の、内容は。
「ええ、覚えてる――でもレミィ。
未だに、意味が判らないんだけど?」
「覚えてるなら、復唱して御覧」
「んー・・・」
「『パチェ。貴女、そう簡単に新年を迎えられると思っているの?』・・・だったかしらね」
無言で肯くレミィだが――やはり、意味が判らない。
いや、完全な意味で判らないわけではないのだろう。事実、歳末に寄るにつれ、私の周りに異変の発生する頻度が上がってきているのだから、これは晦日も無事に過ごせまい、という確信めいた予感はある。
それでも、何かが足りていない。
いくらレミィが運命を操る力を持ち、来る土曜日、本年の大晦日に巻き起こるであろう、何らかの大異変の予兆を掴み取っているのだとしても、この言葉にはまだ謎が満ち足りすぎている。
焦点はただ一つ――『何故、私にそんな事を言うのか』だ。
「質問は、無駄なんでしょう」
「質問しないのが無駄なのよ。質問が無駄だとわかるだけで無駄じゃないの、質問は」
「じゃあさ、何で私にそんな事を言うの?」
「教えない。というよりも、私には判らない。
判らなくても私には解決できる筈。でも、何度やっても失敗している」
「よく・・・判らないわ。では、レミィには何が判っているわけ?」
「端的に言って・・・私の力で運命を紡ぐ事は出来ない。
因果の中途を梳く事が出来ても、それが何で作られているかを知るには時間が足りないのよ。
だから私は一つだけの真実を会得している。それだけが教えられる唯一よ。
足りない時間を作る咲夜もいない今、私にできるのはこれだけ。
――パチュリー・ノーレッジ。この年末の異変は、全て貴女が解決する」
** 師走某日 木曜 夜
まだ本調子じゃないみたいだし、とレミィが告げて去ってから、私は自分本来の睡眠の為、更に数時間をベッドの上で過ごしてから再び目覚めた。
覚醒までのプロセスをいつも通りにこなした後、すっかり部屋が暗闇に包まれている事に気付くと、私はのっそりとした動きでベッドから這い出て腰掛け、壁面に覗く小窓を見やる。幽かな月光がそこから入っていた。今夜は良く晴れている。差し込むそれを見てそう思いながら、私は今日の出来事について思い返し、考え直してみる。
結局、我が友人の話からは趣旨が読み取れなかった。あれこそ本当の高次言語なのではないかと思うほど。
大晦日、今度の土曜日に、一体何が起こるというのか。彼女の言によれば、私にしか解決する事が出来ないという事なのだが、それは何故なのだろうか。私の能力など、精々が世界を操作する程度だ。概念に特化した超越的な存在である彼女らに、真実の意味でこの世界において実現不能な物事など、一つたりと有り得ないというのに。
それに、時間が足りない、とはどういうことだ?
いやそれよりも、“許諾螺旋”十六夜咲夜が、よりにもよって今、この場に『いない』とは、一体全体どういうことなのだ?
確かに月曜朝挨拶を交わして以来、その姿を見た覚えはないが、そういった巡り合わせが今までに無かったわけでもない。そんな有り触れた出来事よりも、紅魔館に銀色のメイドが居ないという方が圧倒的なレアケースだ。此処の所良く連れ立って神社へ向っていた事と何か関係があるのだろうか? それは、あってはならぬ、ことだと、いうのに――。
遡れば、あの二色の世界。あれは、何だったのだろう。
ふとそこで、先刻レミィに手渡された手紙の存在を思い出す。
後で読もうと思って、枕横に置いたままにした筈――
「あれ・・・」
闇に呑まれ、視界が閉ざされている故に手探りだったが、どうもそれらしき感触に行き当たらない。
私はおもむろに宙へ指を翳し、全指向性のスポットライトを作り出して部屋の中央へ投げる。即席の蛍光灯だが、目をやられては困るので光は微弱なものに抑えて。
暗闇が追い遣られて窓の外へ逃げていく。部屋の明るくなるその様子を見て、私は何故か負債者と取り立て人を想起した。
探し物は、友人が一言で呼び出してそのままの椅子に行儀良く置いてあった。
手に取って、紫色の封印を解くと、中には薄紫の便箋が数枚あった。
秘密を取り立てる名探偵の気分で、それらを取り出す。
そこには、胡散臭いぐらいに綺麗な文字で、こう、書かれていた。
『お疲れ様。ネタばらしは必要だから書かせます。貴女にじゃなく、誰かに。
あれは外の世界だけど、幻想の貴女の夢でもあったの。
裏の裏は表でしょう? そういうこと。
私が幻想と現実の境界を弄ったの。だから半分幻の現実世界ね。
木の赤ん坊はたまたま見つけたんだけど、一人ぼっちで可哀相だったから、
やっぱりたまたま昼から寝てた貴女にお任せしました。一石二鳥。
そういえば、気付いてたかしら。
あの草原、実は砂漠だったのよねぇ。
木の形だけ模した物を、砂漠一杯に敷き詰めてたんだけど、
それって偽物だから、あの赤ん坊には寂しい話だわ。
あの子はね、所謂神木なんだけど、蜃気楼の楽園っていうオカルト。
幻想になりたくても、外の方が許さないの。麗しい話よね。
あと、葡萄って酸っぱくていまいちだけど、美味しいわよ。
それとも、甜瓜の方が良かったかしら。
でも、酸っぱいのしか生ってなかったし、仕方ないわよねぇ。
あの子には甘い実も作りなさいって言っておくわ。
何でも創れるらしいし。農園要らずよ。
また拉致します。お達者で。
りとぅんど ばい うちの狐
ぷろでゅーせっど ばい 八雲の紫色
追伸
というかこっちが本題。
いい加減仕組みはちゃんと判ったの?
まだ判らないならヒント。答えは図書館にあるわ。
ってこれじゃ解答に見えるじゃない。藍、ちゃんと直し』
――文はそこで途切れている。最後のしの字の端が荒々しく切れていて、恐らくそこで鉛筆が圧力に耐えられなくなったのだということが知れた。必要以上に色の濃い字も散見されるし、ここまで書いて怒った式に逃げられでもしたのだろう、式使いの粗いことである。
しかしそんな事よりも内容だ。
どう考えても伝言にも、況して手紙にもなっていない駄弁りの文であるが、気になるところが幾つかある。
それらの殆ども、なるほどそうだったのか、と納得して済ませられるものだ。
だが、ただ一つ。
追伸が、判らない。
いい加減仕組みは判ったのか、とは? 昨今で、あの境界から何か頼まれごとをしたのは、強いて今日の出来事だけだと言えるばかりで、他にそれと思い出せる物は無い。仕組みとは、何の仕組みだ?
ヒント、何に対する? 図書館、普遍のヴワルに、何の為の答えが?
・・・全くあの紫は迷惑に過ぎる。
秘密を暴こうとしたのに、却って謎が増えてしまう。迷惑の程度だけで言えば、我が友人を遥かに上回るではないか。
レミィは周囲を振り回す。傍若無人にかき乱す。だけど、必ず彼女自身も回る。
運命の歯車そのもの。壊れる時も諸共に、何もかも、彼女と運命を共にする。
あの紫はそれよりもずっとタチが悪い。全ての黒幕の癖に、壇上には緞帳としてしか登場しない。何もせず、ただ内側にある者たちの演じる戯曲を見て、時折照明を他所に向けたりするだけの、外枠としての結界。
あんな生き物だからこそ、他人の境界同士を癒着させるような真似ができるのだろう。悪意も善意も無く世界を生み、育て、壊してまた生むような真似が。
レミィの言葉も、この追伸も、まるで意味が判らない。同質の不明瞭。
悩んでも判らないのでは仕方が無い。
判るようになる為、今ある情報を整理する為、今日はもう寝てしまおう。
私の主義には反するが、この晴やかならざる気分を一掃するにはこれしか考えられない。
今日一日だけで普段の何倍も眠っていることになるが、明後日、土曜に何か大事が起こるというのなら、今からそれに備えて寝貯めておくというのも悪くあるまい。肝心なのは、今日、木曜に眠っておく事なのだ、と無理矢理に決め付ける。
寝よう。
私は手紙を畳んで椅子の上に戻し、浮かんだままの明かりを指差して消してから、また横になって布団に潜り込む。
目を閉じて、瞼の裏にある闇を見ながら、少し奇妙な符合に気付いた。
今日は、木曜だった。眠りっぱなしの木曜。
木曜は週の四日目。七分の四は線形の中心、つまり前半と後半を隔てる境である。
そんな日に私は、神の木にして夢現の境界と、運命であるレミィと、境界である八雲紫とに出会ったのだ。ついでに言えば、葡萄は酸味、木曜の味である。
重なる符合は、あの紫の企みによるものなのか、それとも――。
意識の扉が段々と閉まっていく。
今日も疲れる日だった――眠るだけでも疲れるのなら、疲労は何をもって癒すべきなのだろう。
そんなことを考えながら、木曜の思考は更けていく。
どこまでも眠る為に眠った、真ん中の大樹の日が終わる。
――週末まであと二日。
今年の終わりには、何が待ち受ける―――?
<ブギーマジックオーケストラ・二 了>
これほどの言葉、これほどの語彙をただ一筋へと纏め上げるのはまさに至高。
そして生み出される物語は独創にして軽妙。要するに面白い。
次回も胸躍らせ楽しみにさせていただきます。
御馳走様。
読む側の立場としては最後まで読むのが苦痛でした。
無駄に難解な言い回しが多いためだと思います。
こういった「読み物」で書き手の表現したい事を自由に書き連ねる…といった事を
否定するわけでは無いですが「読み手」への配慮が少なすぎるのも問題ありかと。
リンゴは熟れ過ぎて木から落ちただけだし、湯をなみなみと張った風呂桶は人が入ったから溢れただけ。そんな当たり前の繰り返しを口にし続けると、頭はそれを繰り返すのに飽きてしまい、自分も知らないうちに全く別の事を考え始めたりする。
そんな事に一生懸命になるなんて、無駄無駄無意味? はたしてそれはどうかな?
繰り返しになるけれど、リンゴはただ木から落ちただけ、風呂桶は溢れただけ。 もっと言うならアメリカはパンゲアから別れて依頼ただ大西洋を隔ててそこにあっただけだし、卵を垂直にたてる遊びを思いつき、母親から拳骨をくらった餓鬼は原始人類発祥より100万年超、その無駄に永い歴史の内において一匹や二匹ではあるまい。
言の葉は、そんな事の端をただ著すだけに過ぎず。 だがしかし、それを知として全容を識する事は容易な事ではない。
だから知識を啓いた偉人はもてはやされ、歴史に名を残し、そしてそれは、後世に永くその絶対の真理・法則として語り継がれ、我々はその偉業を恩恵として何時でも受け取る事ができるのだ。 有り難いことである。
手近にある書物を紐解いて見てみよう。 しかしその大層なハードカバーに保護されて、えらそうに陳列されて崇めているそれそものには、ただ言の葉が並んでいるだけだったりするのだが・・・。
あ、感想ですか? この期に置いて、言葉はもっぱら必要に無いように思えますが、そうですねぇ。 彼女も美人だと良いな~。 って所ですよw。
まず始めにこの「~木曜結界」に出会い、即座に「華胥~」からこの「~水曜結界」に至るまで、勢いで一気に読破しました。
面白かったSSは数多くあります。が、ここまでの読み応えを感じたSSは氏の作品だけでした。
月曜、火曜、水曜、そして木曜。この木曜が私をともすれば溺死させてしまうほどに深く、その世界に引きずり込みました。どれだけ賞賛の言葉を並べても足りないくらいに深く。
無限大は何処まで行っても無限大ですので、きりがない声をこの辺りで停止させます。
続く金曜、土曜で溺れてしまわないために。
パチュリーっぽいと思うのは、自分が思うパチュリーに多く相似しているからでしょうか。イメージ。
まぁ
ナイスパチュリーでした。
文章造りが私の琴線をかき鳴らしっぱなしでした。
連続もののようですので最後まで探して読みたいと思います。
良いものにめぐり合え感謝しています。