死闘かつ激戦であった。
一歩どころか半歩も引かず、ただ相手を傷つける。
踏み締められた足は畳を咀み、ともすれば反射的に退いてしまう躰を縫い止めていた。
顎先からは、水時計の正確さ脂汗が滴る。
瞳は己の姿を映し、更に敵の姿を映した。
足が細かに震え、攻撃を放つ手には満身の力が込められる。
だが、互いに諦める様子は微塵も無い。
太古より、真の勝負とは地味である。
心気を凝らし、身に染み込ませた鍛錬を信じ、己の痛みを無視して攻撃を放つ。
その様は、だから、動きとしては単純で、派手さの無い、より効果的なものとなる。
華麗に避ける必要は無く、大振りな攻撃を放つ必要もまたないのだ。
「うにににー!」
「ぬぬぬうー!」
――――であるからして、一見すると『互いの頬をつねり合ってる』としか見えないこの二人も、本人たちからすれば真剣極まる勝負なのだった。
うん、地味にとても痛い。
「うぉの!」
気合の声と共に、輝夜は頬っぺたを両手で伸ばした。
妹紅の顔がおたふく状に広がった。
「ふんのぉっ!」
苦痛を堪え、妹紅も負けじと伸ばす。
輝夜のほっぺたの方が広がり具合が良かった。杵つき餅のようにどこまでも伸びる。
互いの攻撃力はそのまま伝わるが、逆に防御は叶わない。
まさにサドンデス、我が身を顧みないララパル―ザ。勝者にも敗者にも消えない青痣を作製する、あまりに恐ろしい状況である。
…………恐ろしいほど馬鹿馬鹿しい、という話もある。
廃屋寸前の和室の中で、肌を変形させるギリギリという音だけが響いた。
華麗かつ華美な弾幕戦と比べると、あまりの地味さ加減に涙すら出てくる光景だった。
「もう、その辺にしませんか?」
横で静かに座していた永琳が、思いついたようにポツリと喋った。
少しばかり特殊な服と相反する、妥当な提案だ。
誰であっても、そう考える。
呻き声が止み、僅かばかりの静寂が漂った。
だが、抓り合った両者の、四つの瞳は薬師を刺していた。
目には炎があった。「退けぬ、退けぬのだっ!」と叫んでいた。
実に傍迷惑なプライドである。
「う~ん、なら、これはどうでしょう?」
薬師は狼狽えることも無く、人差し指を示し提案した。
「私が合図をします。それを機に、同時に手を離すというのは? このままではお互い、退くに退けない様子ですし。一時的な水入りは必要でしょう?」
「…………」
「――――」
むむ。と悩んでいた。
両者とも、チラチラ視線を投げている。
「痛くてたまらないッス」という本音が、瞳の奥で揺れていた。
心の隙に入り込むように、深く考える間を与えず声が響いた。
「異存はありませんね? では行きますよ、さーん、にーい、いーち、ハイっ!」
拍手と共に放たれた言葉は勢い良く、有無を言わさぬ強制力を秘めていた。
びくっ! と、身体が震え、見つめ――
「うにににににににににぃー!」
「ぬぬぬぬぬぬぬぬぬゅうー!」
――攻撃力が激増した。
頬から煙の上がる勢いである。
良く分からない感情が勝ったらしい。
それは一般に、『意地っ張り』と呼ばれてる。
二人の体勢は、だんだんと不自然なほどに捻りの効いたもの変化した。
誰も見た事が無い異世界の組み技とも見えた。
『抓りつつ抓りから逃げている』ので、一定以上は離れられず、身体と腕とを回すことしか出来ないのが原因だ。
「あらあら」
永琳はのほほんと見てた。
頬に手を当て、「困ったわねぇ」と呟いた。
まったく、少しもそう見えない。
永琳の眼前では、二人がブリッジしながら抓り合ってた
なぜこうなったかは、本人たちにも謎である。
永琳はしばらく悩んでみたが、良い考えは浮かばなかった。というよりも、妹紅と輝夜の対戦がヒートアップし、もはや他人の言葉が入り込める余地が無い。
ふあ、と欠伸をし、
「まだなのかしらね……」
窓外を窺った。
別段、見捨てたわけではない、放っておいた方が良いだろうと判断したのだ。
決して、呆れ果て「もう知らないもんね」とそっぽを向いたわけではないのだ、多分。
空では熱気の込もる室内とは対象的な、涼やかな空域が広がっていた。
偽の、作られた夜空とは信じられない広大さ。
これは、八意永琳が『空間をドーピングして』作った世界だった。
我ながらよくやるわね、と永琳は自嘲した。
基本的に完璧主義者である彼女は、手を抜くという作業がまったく出来ない。
『説明しないと絶対に分からない』レベルの精緻な拘りを満載していた。
星の配置は輝夜が地上に堕ちた時のもの、現在とは座軸がズレている。北極星の位置だって少し違う。月は太古と同様の輝きを放ち、芳醇なマナがみっしりと満ちていた。
誰であっても、これが偽ものだとは思わないだろう。
永琳は畳の無事な部分に座り、しなやかな挙措で頬杖をついた。
とりあえず、超新星爆発を起こし、消滅した星を捜してみようかと考える。
「?」
何か、光った。
と思った次の瞬間、爆発的な烈光が網膜を焼いた。
巨大な光弾が、峻烈な線となって過ぎ去った。
同時に大気が不穏にゆらぐ。引き裂かれた夜空が氾濫した。
それは円窓より侵入し、反射的に目を庇った永琳はもちろん、後方の二人にも殺到する。
部屋全体が暴風に揺れた。
びりびりと肌を叩き、襖や障子や掛軸を吹き飛ばし、熱を孕まない爆発が通り抜ける。
上方へ、迷うことなく引かれた光の線は、途切れながら上へと消えた。
衝撃波も、五(いつつ)を数えた後でようやく収まる。
「くっ――」
目を瞬かせ、永琳は事態の把握に全能力をつぎ込んだ。
耳鳴りが止まず、瞼はろくに開かない。身体的に稼動不能過多だが、状況は切迫してる。
閃光にソニックウェーブ、これは普通に考えれば『侵入者』である。
(――まさか、ひょっとして月からの? まだ諦めてなかった!?)
意識に氷水を入れられた。
理性が急速に引き締まる。
――『迎撃準備』が、ガチン、と頭蓋で鳴った――
五世紀を越える日々の中、一刹那たりとも忘れ得なかったそれは、素晴らしいまでの速度で展開する。
脊髄反射レベルで躰は動いた。
馴染んだ武具が手中に顕現、腰溜めに構える。自動的に『戦場薬種千万応錬』を想起、保持薬を迎撃・逃亡・追撃・捕縛・滅殺に区分する。歯の奥に常備した戦薬をかみ砕き、血を沸騰させ目を見開き歯をくいしばり、躰の芯にあったリミッターを破砕する。
(後ろで未だ抓り合っている人たちは、役に立たない)
二人は変わることなく、吹き飛ばされた後も抓り合っていた。
従者を辞めたくなる瞬間である。
(ここは、私が何とかしなければならない!)
目を上げ、足を踏み締め、八意永琳はゆらりと構える。
――決意に応え、天井が破壊音を撒き散らした。
+++
霧雨魔理沙は落ちていた。墜落していた。
堕落ではない。自由加速落下放置中なのだ。
地球上、あまねく全てに作用する力。
星を作り、太陽を作り、銀河を作り、ブラックホールを作り、潮の満ち引きを生じさせるその力――重力が、魔女を捉えて離さなかった。
真垂直に、何にも堰き止められずに落下する。
箒は握られたまま、まったく用を成していない。
「実は掃除用の箒だったんだ!」と悟ったのか、浮かびもしなければ光も出さなかった。
何を今更、であった。
下手な弾幕より破壊力のある魔光を出し、『成長・最適変化』までして、何を言おうか。
落下しているのは、単に箒自身、「もう動きたくねえなあ」と考えているからに他ならない。
朝も早くから働かされ、遂には魔符まで注入だ。
これはもう、労働基準法違反どころではない、箒権問題である。
断固とした姿勢と抗議の必要があるのは誰の目にも明らかだ。ぷんすか。
もう浮かんでやらないモンね。
――落下速度は、留まることなく上昇する。
広がる平原は際限なく大きくなる。
空気は粘りを増し、もはや固体に近い。
『大地』という名の凶器が、容赦も慈悲も躊躇もなく、魔女と箒に振るわれようとしていた。
このままでは墜落死が確実だ。
魔理沙だけではなく、箒だって再起不能(リタイア)だろう。
大地に向かってのカミカゼは、通常、事故や自爆や自殺と呼ばれる。
このままでは死、あるのみだ。
ふ、まったく、仕方ないなあ……
木と枝で作られた無機物が、冷や汗を流しつつそんな負け惜しみを呟いたかどうか知らないが、永遠亭へ激突する五秒前、霊木が光を纏い、変じた形態を復元・縮小、余剰魔力を魔理沙へフィードバッグした。
淡く輝く力が掌に吸い込まれる。
それは魔理沙の中枢にまで染み渡り、どくん! と鼓動をひとつ鳴らした。
目に見えぬ法則が組み上がる。
『空』を変え『今』を変え、霧雨魔理沙が空を飛ぶ。
「!」
瞼が裂帛の勢いで開いた。
内側からの風が衣服を膨張させる。
空中を『蹴って』反転、箒を下に突きつけ、暴流の魔光を吐き出した。
金髪とベチコートは盛大に捲れ上がり、屋根上の塵芥が一斉に吹き飛んだ。
凄まじい落下の速度減少。大気と魔力が反応し、赤い摩擦熱が周囲を躍る。
――だが、それでも尚、魔理沙の纏う位置エネルギーは尋常ではない、このままでは良くて骨折、悪ければ白玉楼へと馳せ参じる必要があった。
文句を言いたげな箒を握りつぶす勢いで振り上げ――
「よいっしょおっ!!」
『永遠亭の屋根を切断した』。
実に見事な一撃であった。
余剰魔力を攻撃力へ変換させ、月製瓦と組柱をまっぷたつに切り裂いた。夜闇に魔力の光芒が閃く。
墜落の勢いは反発力で更に減少し、裂いた屋根は暖かな室内光と人物とを露出させた。
――今回の届け先人が、そこにいた。
魔理沙は自作時計を視認し、拳を握る。
すでに彼女は『ついさっきまで気絶していた事』や『墜落死しそうであった事』は過去の彼方だ。
ねくすとふゅーちゃーなのだ。
「よし! 間に合うぜ!」
落下先では、相変わらず二人が抓り合っていた――――
+++
永琳が息を呑み、魔理沙が笑顔全開で現れ、二人は対戦をやめず――
飴のように引き伸ばされた時間の中で、すべては決着した。
まず、輝夜と妹紅が跳び離れた。両者の本能が、その場にいることを忌避させ、反応したのだ。
景気のいい頬音を響かせて、回避を行なった。瞬時に数メートル以上の間隔が開くが……何と言っても目の前にいるのは憎んでも憎みきれない仇敵、最優先するべき標的なのである。それを脳みそが理解すると二人はピンボールのように反転・帰還。鋭く踏み込み、拳を突き出した。ちょうどクロスカウンターの形である。
一方、永琳は刹那の躊躇を振り切り、侵入者へ万進した。
足許の畳を原材料に還元させ、手にした武具で突く。
空気が螺旋を生じ、月鉄が真っ直ぐに迸った。
――ちょうどその三人の中心点に、魔理沙は轟音を響かせ墜落した。
「よっ、ほっほっ!」
そして気軽なかけ声と共に、左右からの拳を受け止め、額に迫る切先を箒の柄で防ぎ止め、力的均衡を作り出した。
拳の衝撃波は掌で鳴り、月鉄は魔理沙の額の一寸先にて、霊木の半ばまでを抉りながら震えてた。
「……な…」
その言葉は誰のものだったのか、茫然とした瞬隙を縫い、魔理沙はその場で回転する。
拳二つと鉄とを弾き、魔女は堂々と宣言した。
「その場を動くな! 宅急便だっ!」
半ば、犯行声明だ。
鋭い視線で周囲を睨み、懐から手紙を取り出す。
「へい、そこの輝夜!」
「え、はい……?」
薄汚れた衣服を気にせぬまま、尻もちを着いて、輝夜は返事をした。
「お手紙だぜ? ほれ、受け取れ」
「あ、はい……」
まん丸の目で、素直に月屋敷の主人は受け取った。
急転する事態に、思考がついていけない。
お手紙……
と口中で呟く。
聞き慣れないこの単語は、その意味だけは知っていた。
知り合いから知り合いへ、情報を伝える非効率的な伝達手段のことだ。
うん、確かに知っている。
……知っている、筈だ。
横からは、妹紅が意識朦朧とした様子のまま、興味深そうに覗き込んでいた。
瞬きする。
輝夜と同じ疑問を持ったらしい。
小首を傾げ、魔女に問う。
「これって、あんた宛ての手紙なんじゃない?」
「は?」
不敵な笑顔が呆気に取られた。
「え、いや、そんなことは無いハズだぜ? 今日は他の手紙もないし……」
「でも、ほら」
三人で、中央の手紙を覗いた。
そこには、
魔理沙へ
と、乱雑な字が躍ってた。
味わい深過ぎる、止め、跳ね、点を無視した書道は、間違いなく霊夢のものだ。
そこにあるのは『蓬莱山輝夜宛て』として貰ったにも関わらず、『魔理沙宛て』という意味不明の文字だった。
三人は固まる。
妹紅と輝夜は、魔理沙をのっそりと、胡乱気に見た。
アンタ、配達間違ったんじゃないの? と、非常に冷ややかだった。
余計なお世話である。
だが、確かに、これは問題だ。
どういう理由で書いたかは知らないが、これではまだ届けてないことになる――『まだミッションを達成していない』ことになる!
魔女は最速のスピード自家製時計を確かめた。残り時間は十秒だ。
確認するや否や、蛇の素早さで手紙を引っ手繰り、高速で読み上げた。
その内容は――
「っ!」
なんでこんなことをしなきゃならないんだ!? 追加料金を請求するぜ、後で博麗神社を発掘してやる! と呪いの言葉を吐きながら、魔理沙は慌しく封筒内の小袋を破き、中の丸薬を取り出した。
「?」
「ん?」
仲良く首を傾げている妹紅と輝夜、その眼前に丸薬を握った拳を突き出す。
魔理沙の耳には、秒針が動く音がスローモーションで聞こえてた。
驚いた四つの瞳が集まった瞬間を逃さず、魔女は呪言を呟き、薬を着火。ぼわん、と身体に悪そうな煙を拡散させた。
開かれた口と鼻の粘膜に容赦なく付着した煙は、クロロホルムさながらに二人を昏倒させ、ひっくり返す。
輝夜だけは途中で従者たる永琳が抱え、後頭部強打の惨劇を防いだが、もう片方にはそんな親切な者はいない。
少なくともこの場において、では。
上白沢慧音が心配気に駆け寄る様を魔理沙は幻視したが、ともかく、なかなかに良い音を立てて畳へ墜落した。
眉をしかめた苦しそうな表情だが、目は覚めない。
「配達完了、だぜ」
魔理沙は呟く。
秒針がちょうど真上に着き、可憐な鈴音が涼やかに響いた。
魔女は掌中の火を吹き消した。同時に、開いた天井の彼方から三角帽子が着地する。
手紙の中身には、『この丸薬を燻して輝夜に嗅がせるように』との指令があった。関係の無い人間も巻き込んでしまったが、まあ、瑣末事であろう。
『博麗霊夢からの頼まれ事』は成し遂げられたのだ。
エプロンドレスを翻し、箒の上に跨がった。
あちこちから喧騒が聞こえている。すべて霧雨魔理沙を呪う言葉だ。
追っ手が来るのも近い。
急いで逃げ出す必要があるのだ。宅急便屋も楽じゃない。
何故だか満足気な永琳を横目に見つつ、魔女はその場を後にした。