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幻想郷 ―夢幻泡影―
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―――博麗神社。
オレンジ色の空。逢魔ヶ刻の夕闇に揺らぐ、緩慢な世界の移ろい。
彼方の稜線には、真っ赤な真っ赤な、ほおずきみたいに赤い火球が。
それは―――今日という日の最後を飾る、永遠のような刹那の幻想絵巻。
呆……と神社の縁側で、少女は彼岸の花の様に佇む。
彼女の孤影を慰撫するかのように、落日の光洋が―――ゆらゆらと、ゆらゆらと、優しいカーテンを投げかける。
幽玄の境内を満たさんとする、宵闇の蒼暗と西日の緋色の境界は、無限に続く螺旋回廊のように、くるくると絡まりあい、月と太陽のワルツを踊り合う。
虫の音ひとつ聞こえず、吹き抜ける風すらも息を潜めているかのような静寂。
夕暮れ時のひとときにポッカリとあいた空隙。その静止した大気に響く、乾ききった鈴の音のような声。
―――いったいいつまで……続くのかしらね。
虚無を含んだ、気だるい呟き。
八雲 紫は物憂げに、頬にかかった、茜色に染まりゆく金髪を撫でつけた。
何処と無く寂しさを伴う山風は、折角紫が撫で整えた金糸の束を、まるで天女の羽衣のようにはらはらと揺らめかせる。
紫は伏目がちに、ゆっくりと、まっすぐに――堕ちて行く夕日を見上げる。
アメジストの瞳が、悲しい光を反射した。
……眩しい落日。
それは
この隔離郷―――幻想郷が流す、血の涙。
今日という一日は、じきに訪れる夜と共に……死に絶える。
そう、こんな感傷は――気の遠くなるほどの、ありふれた日々の繰り返しによる一時の迷いに過ぎぬ。
永遠の楽園の日常風景。時たま、どうということの無い程度の事件が起こるぐらいで、大して変わり映えのしない日々。
――なのに、実際はまったく同じ日など……一つとして有りはしない。
夜の訪れと共に死した太陽は……明日の朝に昇る太陽とは、別のもの。
―――生と死の、境界。
世界の始まりより存在するかもしれない、永劫の境界に囚われし幻想―――八雲 紫。
彼女は、儚い落日を憐れむかのように、そっと目蓋を閉じた。
閉じた瞼のうちには、透過した陽光が、止め処なく広がり、黄昏の夢を紡ぎ出す。
目を閉じながら、紫は耳に当てた道具から漏れる歌に聞き入っていた。
両耳に入れた柔らかい詮から、白い糸が紫の持つ小さな長方形の匣に伸びていた。
どうやらソレは、幻想郷外からもたらされた――歌を奏でる機械のようだ。
……
……
……
歌は唄われる。
閉じた世界のなかで。
ただ、独り。その道具を所持する者にのみ。
寂しさを癒す為に。心を昂ぶらせる為に。
今は、夕暮れどきの静寂に身を任せ、孤独に瞑想する――八雲 紫の為だけに。
歌詩に込められた想いは……博麗大結界を越えて、紫のこころを優しく揺さぶり、彼女の脳裏に――穢き地上の何処にも存在しないであろう――美しく懐かしい情景を染み込ませた。
―――………。
―――……。
―――…。
影が夕日を遮った。
その影は、黙想する紫の隣に歩み寄り、トスンと彼女が座る縁側に腰をおろした。
―――……?
あたたかい温もりが、紫の腕にそっと触れ、そこからじんわりとした優しさが彼女のこころに伝わっていった。
しばし、無言で寄り添う二人。
「………なにしてるの? 紫」
無言で心を『此処ではない何処か』へと沈め続ける紫。
「―――無視、か。まあいいわ。勝手に座らせて貰うわよ、隣」
今更のように彼女は傍らの少女に問いかけた。だが、はなから碌な答えなど期待していないことは明白。
横目で、押し黙る紫の様子を覗う霊夢。沈黙を守る紫に、更なる問いかけを放つ。
「…ちょっと、きいて…る……」
苛立だしげに口調を荒らげるが、紫に叩き付けられる筈の語句は、尻すぼみに拡散してゆく。
―――美しかった。ただ、其処に在るだけで……時間が停止していくかのような、恐ろしい位に静謐な横顔。
そこには普段おどけた調子で人を煙に撒く、いかがわしくも不敵な表情は無く―――絶対の虚無、非人間的な名状しがたき美があった。
……ごくりと息を呑みこむ音が響く。霊夢はしばらく目線を離せずに、その横顔を見守ることしか出来なかった。
赤日に映える、無限の幻想を宿した紫水晶の瞳。生きている者とは思えない、無機質な白皙の美貌。
霊夢はどこか寂しげな表情を浮かべ、その非現実的な神秘から、目を無理やりに引き剥がす。
すう…と息を吸い込み、いつもの調子で紫に話しかける霊夢。
「ふん、すっかり自分の世界に入っちゃってるみたいね、紫」
………。
「……じゃあ、勝手に話すけど、いいよね? 嫌だって言っても話すけど」
………。
「………あんたが、その馬鹿みたいに長い時間のなかで、いったいどんな物を見てきたのか――私には分からないわ。全然、まったく、これっぽっちも想像もつかないし、する気も無い」
………。
「もしかしたら、物凄く、そう……出来ることなら死んでしまいたくなるような悲しい出来事とかも、あったのかも知れない」
………。
「懐かしい存在が、時を経て……まったく別物になったり、永遠に喪われてしまったことも、あるかも知れない」
…………………。
「もう…どうでもいいいや、て思えてくるのかもね。うつろう人たちや自然を、変わらない境界の外から眺め続けていると」
………。
「ま、どこまでも適当で胡散臭くて、人を舐め腐ったような性格してるあんたには、そんなまともな感傷なんて、さらさら無縁な話だろうけど。アハハ、年がら年中働きもしないで昼寝と宴会ばっかして……面倒なことはぜーんぶ、くたびれた式に任せきり―――あんたは駄目なひとかっての」
………。(ぴくっ)
「ふふっ。でもまあ……そういう所、丸ごとひっくるめて――」
………。
「嫌いじゃないよ、あんたのこと」
……。
「そうそう、この前あんたの所の式……藍だっけ? あいつがなにをトチ狂ったか、月見の宴会の席で……魔理沙の前にドブロク引っ提げながら、酔っ払ってヨタヨタ歩いてきてさ」
……。
「いきなり『テンコー!』とか叫んで、着ている物ぜーんぶほっぽりだしてね? ぴょんぴょん跳ね回って……ぷっ……くく……い、今思い出しても笑えるわ。まさか…あの真面目ぶった狐が、全裸で『テンコー』とか言い出すんだもの。ストレス溜まり過ぎだったんじゃない? あの時あそこに居た奴らみんな、口をあんぐり開けてぶったまげてたわよ。式の式の黒猫なんか『藍さまお願い、正気に戻ってー』とか涙ぐんじゃって。いや、本当受けたわ……あれは」
…。
「それでね? その後……」
なおも喋り続ける少女の言葉を遮るかのように、無言で伸ばされた白くたおやかな繊手。その手の中には……紫の片耳から外された糸付きの耳栓が。
さりげなく自分の耳元に当てられた紫の手を、くすぐったそうに受け入れる霊夢。その様子を見る限り、まんざら悪い気はしていないらしい。
「………曲」
「え? なにが」
「……古い、恋の歌よ。去ってゆく、恋人の背中を抱きしめて、囁かれる、異国のことば。寿命も…棲む世界も違う、人と妖精の物語。切なく……優しい……想いの歌」
「……………」
「聴いて御覧なさいな、貴女も。別に他意は無いわ。ただ……どこまでも人間で在り続けられる………霊夢、貴女に聴いてもらいたいだけ」
「……」
「……」
「……」
「……」
「………いいわ」
「ん」
……
………
…………
どこまでも透き通る歌声に導かれるように、不思議で何処か懐かしい空気が、肩を寄せ合う……人と妖怪の周囲に満ちる。
無機的な匣から演奏される、異郷の歌。しばらく目を閉じながら聴き入っていた霊夢の唇が滑らかに上下し、とうに終わってしまった悲しくも美しい物語に、今…此処に生きる人間が織り成す、変化に富んだ心躍る旋律を滑り込ませた。
―――…………
―――……、………
紫は、その合奏を心静かに聴き届けた。霊夢の歌声に呼び覚まされ、冷たい花崗岩で出来た女神像の美貌に暖かい血が通う。昼と夜の境界が満ちる境内のなかで、固い蕾が花開くように―――紫の、人をおちょくったような、シニカルで胡散臭い―――いつもの魅惑的な微笑が零れ落ちる。
そして、その巫座戯た笑みとは真逆の、清く柔らかな美声で―――紫は目を閉じながら、霊夢の後に続く。
―――…………
―――……、………
―――……………………
匣、霊夢、紫。三者の合奏が博麗神社に響き渡った。決して大きな音では無い三重奏。それらは耳を澄ませて、心を澄ませて――聴こえるかどうかの、儚く優しく美しい歌声。三者三様の物語。
戻らぬ昔の、古き物語。今を生きる物語。未来永劫、変わらぬ物語―――。
……八雲 紫は思う。
今、外界では古き幻想はもはや…止めようが無い程の速度で滅びに瀕している。
ありとあらゆる境界を自在に操作できる筈の自分のちからを以ってしても、この流れは押し止められそうもない。
溢れ出すヒトの悪意から逃げ出すように。
日々、新たに幻想郷入りしてくる様々な存在。
中には自分のように遥かないにしえから、永遠不滅と信じられてきたモノたちも数多い。
たとえば、それは世界に満ちる理。
たとえば、それは人と人とを繋ぐ想い。
たとえば、それは―――
紫は薄く眇めた片目で、傍らに座る少女をいとおしげに見やる。古き幻想曲に耳を傾け、小さなメロディを口ずさみ、空想の世界を飛び続ける楽園の巫女―――博麗 霊夢。
彼女は途轍もない能力を持つ、この自分を恐れるでもなく…ただ無防備に、あるがままに受け入れる。
とりたて、悪意を阻む「抑止力」のような絶対の保障も、存在しないというのに。
なにも気負わず、目を閉じて互いの頭をもたれあう、奇跡のようなこの状況……。
不思議で仕方なかった。
どうしてこの娘は、こんなにも自由で在り続けられるのだろう。
どうして自分は、この娘に倒されて、こんなにもこころ穏やかでいられるのだろう。
………
………
その答えが、今宵のささやかな触れ合いで、少しだけ分かったような気がする。
そう、彼女―――博麗 霊夢は
今は亡き、人間という存在の本来あるべき姿なのだと。
何者にも縛られることなく、自我の枷に囚われることなく。
どこまでも自由な、無重力の不思議な巫女。
きっと
外の人間たちが、とうに喪ってしまった様々な想いの結晶が、
ついぞ得られなかった「こう在りたい」という願いの具現が―――
――――――永遠の少女
「博麗 霊夢」
という人のカタチをした幻想、なのだろう。
……
……
……
ならば、自分の為すべきことは簡単だ。
なにも、迷うことなど……有りはしなかった。
これまでも、そして現在も続けてきたことを、これからも―――続けていくだけだ。
だって、私は―――
―――――――幻想と境界の守護者
「八雲 紫」
幻想郷。
此処は――外界で滅びに瀕した、失ってはならぬ幻想が最後に流れ着く郷。
目に見えるもの、見えないもの。
確かなカタチを持つもの、持たないもの。
それは―――ありとあらゆるものを受け入れる程度の境界線。
境内にて唄われる三重奏に、幻想郷自体が奏でる………月と星と大地の織り成す、風の歌が。
いつも、誰ものすぐ傍らで唄われているのに―――聴こうとしなければ、何者にも聴こえざる歌が加わった。
この優しい夜が永遠に続くことを願う、四重奏《カルテット》。
四者が唄う四つの歌が……ひとつの奇跡的な均衡を持つ結界を形作る。それは、即ち―――
――――――永夜、四重結界。
いつしか夕日は沈み、山々の稜線は薄ぼんやりと輝いていた。
黒い山々に懸かる、黄金色の天地を隔てる境界線を彼方に仰ぎ
幻想と現実の交わる場所で、人と妖怪の垣根を振り捨てて。
博麗神社に満つる、泡沫のような静寂にひっそりと抱かれながら、幻想郷と共に……どこか懐かしい、異郷の歌を唄い続ける人妖たちの黒影は……
まるで―――
ありとあらゆる幻想が、最後に辿り着く……まほろばの夢のように。
酷く――――――美しかった。
幻想、現創、言繰、原騒・・・ありとあらゆるものが闊歩する中で
その顕現の二人は何を思ったのでしょうか・・
要素要素を絡めて一つの答えに行きつく様はとても美しく感じました。
こっそりファンです。これからも頑張ってください。