じゃらん、じゃらじゃら、じゃらん……
博麗神社で滅多に聞くことのない鈴の音が響いた。
「ん……?」
寝ぼけ眼をこすりこすり、博麗霊夢は社務所から顔を出した。音の真偽を確かめようと辺りを見回す。お前さっきまで昼寝をしていたな、と誰かさんなら突っ込むであろう仕草だ。そもそもまず、鳥居の方を見る時点で間違っている。
その反対側。
実入りの少ない賽銭箱が置かれた拝殿の下には、どこかで見たような後ろ姿があった。とんがり帽子にエプロンドレスの白黒っぽい少女。
「何してるの、魔理沙?」
「その様子じゃさっきまで寝てたな、霊夢」
振り向いた魔法使い──霧雨魔理沙は案の定そう言った。
◇ ◆ ◇
夏を間近に控えた幻想郷は、平穏すぎるくらい平穏だった。梅雨の雨もなりを潜めはじめ、太陽は夏本番の位置まであと少しと言ったところ。植物たちは旺盛に葉を伸ばし、鳥獣は活発に動き、妖怪たちもまた騒がしくなる季節。
東の国、人里離れた山の中にある博麗神社にもそんな季節が訪れようとしている。そのはずなのだけど……参拝客がろくすっぽいないわりに、いつも騒がしい境内は少しばかり静かだった。
「そういえば、結構久しぶりね」
「ああ、それなりに久しぶりだぜ」
言いながら魔理沙は霊夢に向き直った。魔法使いらしくわずかに険のある眼が、霊夢を上から下へと観察した。巫女らしい紅白の色合いの衣装は、有職からはかけ離れた巫女らしくないデザインだった。
なにせ、スカートにフリルである。袖の辺りは単衣のような形状を取っているものの、全体のイメージがこれなので赤い紐飾りがリボンに見えてしまいそうだ。露出した肩の白さがまぶしい。
「それが新調した奴か?」
「うん、動きやすくて楽よ。最初作った時はちょっと気になるとこもあったんだけど、あのお店で直して貰ったら丁度良い感じになったわ」
「あのお店? ……ああ、香霖のとこか」
「そうそう。霖之助さんってただの趣味人かと思ってたんだけど、意外と良い腕してるのね」
「香霖はあれで結構いろいろできるぜ。……っていうか霊夢、あいつにそんなこと頼んでたのか?」
魔理沙が少し驚いた様子だったので、霊夢は「ん」と小首を傾げた。魔法使いは被っていた帽子を指して、
「この前、私もこいつの“強化”を頼んだら『うーん、僕は古道具屋を営んでいるつもりなんだけどね。最近は洋裁屋に転職した気分だよ』とか言ってたからな」
「そんなもの“強化”してどうするの? 見たところ帽子以上の機能はないみたいだけど」
「帽子に帽子以上の機能を付けてどうするんだよ。単にお気に入りだから、仕立てを丈夫以上にしただけだ」
「お気に入りね」
「重要だぜ」
そうして二人、軽く笑う。木々に囲まれた神社の大気は夏を目の前にしてもなお静穏だ。ある意味、つかみ所が無いとも言える。四季の流れを映しながら、この場所そのもの空気はいつもいつでも変わらない。常に等しいということではなく、変化を含みつつも本質は不変なのである。巫女についてもまた。
年々歳々花同じくして、歳々年々人同じからず。
そんな言葉があるが。おおよそ博麗霊夢に関しては縁がなさそうだ、と魔理沙は思った。
「ねえ、さっき一体何してたの?」
かけられた声に物思いは中断される。
「ん? ……ああ、あれか。私も色々新調したから、その色々を試す機会に恵まれるようにと験を担いでみただけだ」
「お賽銭は多めにね」
「さぁね。私は別に願い事をしたわけじゃないからな。──そんなことより霊夢」
と、切り返してきた魔理沙の眼は幾分か真剣だった。
「なに?」
対して霊夢は事もなげに返す。別に急ぐ用も無し。梅雨晴れはしばらく続きそうでもあるし。
たっぷり一呼吸分置いてから、魔理沙が言った。
「暇だ」
そう。この頃しばらく博麗神社は恐ろしく暇なのである。退屈している巫女がいれば霊異あり、騒がしいのがこの境内の常。怪奇で珍妙な騒動と隣り合わせ……それが普通だったのに。
暇に飽いて昼寝をしてしまうくらい暇なのである。もっとも、暇じゃなくても昼寝はするけど。
「そんなこと私に言わないでよ。そもそも、いちばん退屈しているのは誰だと思ってるの?」
「なんなら……ちょっとやるか?」
───キン、
魔理沙の周囲で空気が一瞬静止する。足下ににじむ光は魔法陣。再び動き出した空気は微細なプリズムの光をはらんできらめく。
「───、」
霊夢はなにも言わず微笑み、その手には既に玉串があった。左手には当然のごとく御札が扇のように展開している。相変わらずつかみ所のないのほほんとした笑顔。
「私はいいけど、ホントにやるの?」
しかし瞳の奥には、得体の知れない鋭利な光があった。そして魔理沙はそれを同じく笑顔で受け止める。にやりと口の端を上げ、帽子を軽くつまんだ不敵な笑顔。
「…………」
「…………」
「………………」
「………………」
「やめだな」
「そうね」
交わされた言葉で張りつめた空気は霧散する。結束された魔力は箒を召還する力に転換され、集中していた霊力ははじめからなかったように消え失せていた。
「だいいち、なんも担がないでやっても華がないしな、っと」
「帰るの?」
「ああ、どうも間が良くないみたいだしな。急いたところで面白いわけでも無し」
魔法使いを乗せた箒は宙に浮く、重力と慣性を緻密に編まれた法則と乙女心で完璧に制御して。
「そうだ、魔理沙はここんとこずっと何してたの?」
「ちょっと家にガタが来てるところがあってな。ついでだから少し改装してたんだ」
「なるほどね。それなら引き籠もって出てこないわけだわ」
「途中でうっかり出口塞いじゃって、自宅サバイバルを体験できたぜ」
「なによ、それなりに楽しんでいたんじゃない」
「苦楽隣り合わせだぜ?」
まったくのん気な奴だと笑い、魔理沙は箒の先を巡らす。行く先は香霖堂だがそれは告げない。勘の良い霊夢なら言わなくてもわかることだろうから。それに、どうにも乗り気で無いようだからだ。
相変わらず暖簾に腕押しなところは置いておいて、なんというかキレがない。切り返しがいまひとつというか、気が抜けたラムネみたいというか。
……ま、これは嵐の前の静けさって奴かもしれないけどな。
心中でひとりごち、魔理沙は視線を行き先向ける。使い慣れた箒のレスポンスは上々、せっかくだから思いっきり飛ばしてやるか、と思う。
「魔理沙ー!」
上昇をはじめたところで、呼び止める声に振り返る。
閑散とした梅雨晴れの博麗神社。その真ん中で幻想郷唯一の巫女が空にある普通の魔法使いに呼びかけている。
「担ぐのは、縁起と神輿だけで十分よ!」
神輿なんてあの神社にあっただろうか。そんな疑問が立つがどうでも良いこと。
魔理沙はかるく指を振って笑ってみせると、景気づけにいきなり最大出力まで持っていった。箒が引く魔力の光は星界を駆け抜ける彗星のごとく。
◇ ◆ ◇
コンペイトウのような星をまき散らしながら、ほうき星の尾を引いて魔法使いは飛び去っていった、
「どっち相変わらずなんだか」
その姿を見送ってつぶやく。しばらく来ないと思ったら、結局いつもと変わらず騒ぐだけ騒いで行ってしまった。それ自体は別に良いのだけれど。
「どうも……ね」
魔理沙が誰かを前にして「暇だ」と言うことは珍しい。なぜなら、退屈を口にする前に何かしらやり出すか言い出すかするからだ。そんなにいまの私は気抜けているように見えたのかしらね。
思う、がどうにもかったるくて仕様がない。
かったるい……かいなだるい……腕怠い……語源はそうなのだけどこれと言って重労働したわけでも無し。
賽銭箱の前に腰掛け、膝に頬杖を付く。さわさわと風が頬をくすぐった。日に日に近付いてくる空は青い。夏はもうすぐそこまで来ているのに、気持ちは晴れなかった。
巫女だって憂鬱になるのよ。
溜め息こそ吐かないが、霊夢は物憂げな半眼で午後の境内を眺めている。
紅い、何かが───
「え?」
目の前をよぎった。
さっきまでの憂いはどこへやら霊夢はふわりと宙に降り立ち、空を飛びながら辺りを見回す。夕陽にはまだ早い時間。なのに、あれは、夕焼けのように赤よりもずっと紅い色だった。
「───、」
見付けた。
木々が落とす陰と影の間を縫うように、真紅の蝶がひらひらと舞っている。それはほのかに輝いていて、生物的な毒々しさはなくむしろ儚いくらいに澄んだ光だった。
「ああ、そうね」
まばたきするように飛んでいる蝶の側に近付いて、霊夢は唇を緩めた。その姿は、そう、きっと夢。
身体の力を抜いて、ゆるやかにひるがえる。
まるでそうするのを待っていたかのように、蝶もまたひるがえる。
巫女の瞳はやさしく伏せられ、意識はやがて空に。紅い蝶とともに宙に。
大気の中でありながら、水の中を飛ぶように霊夢は太陽の座す天蓋を仰ぎ、指先は弧を描き翅と触れ合う。
参道の中央。
神さまの通るところ。その上で、真紅の蝶と紅白の蝶が踊っていた。天に姿、地に影、中には淡く映る森羅の形。
八紡の結界陣。
既にこの場はひとつの空間(そら)。ひるがえる少女、空に泳ぐ水中飛行。
霊夢は知っていた。
あの蝶は予兆なのだ。いつかも見た気がする。なにか、ちょっと大きなでも意外と普通のことが起きる前に見る淡い予感。きっと紅い何かが来るのかもしれない。
いまは感じる。
いまはわかる。
「 ────」
吐息がわずかに唇からこぼれ、薄く開いた瞳が近付いてくる夏空を思う。指が風を撫で、そこから生まれた流れが剥き出しの肩をくすぐった。
白昼夢のような幻想の中で霊夢は思う。
きっと明日も今日と同じように特別で普通な日だろう。唐突にどっひゃー、と叫んでしまうようなことが起きてしまうかもしれない。
空飛ぶ巫女は幻想と舞いながら、未来の夢を見る。
目覚めた時は忘れている胡蝶の夢を。
初夏の幻想郷はおおむね平穏だった。
これから此処がどんなに賑やかなことになるのか、空飛ぶ巫女はまだ知らない。紅い妖夏はすぐそこまで来ているのだが……。
それはまだ先の話。
お前まったりしすぎやろー、と思わず霊夢に突っ込みたくなりますが、それでこそ霊夢。全てはあるがままに。
きっと、彼女は過去も未来も変わらずこんな感じなのでしょうね。
……っていう感想を書いてから改めて作品を読み返してみたら、『年々歳々~』のあたりでそのへんの事がちゃんと書かれてたし_| ̄|○