晴天というのは見る者の心を爽やかにさせ、負の心を溶かすという効果があると、どこぞの詩人が言った。その詩人は居たのかどうかさえ定かではないが、少なくとも詩人が言ったことは真実だった。何しろ、今この時頭上の曇り一つない水色を見ている霧雨魔理沙は、爽やかそのものの気分だったから。
「綺麗なもんだなー…」彼女は正直にそう思った。雲が欠片も無いと言うことは、これほどの効果を及ぼすものだろうか。それにここ三日ほど曇りが続いていたから、久しぶりに見る青空が懐かしいと感じるものも混じっているかもしれない。まあ、その辺は深く追求しない。こんな良い気分の時は黙って上を見上げるべき、そうだろ?
ちなみに、ただいまの魔理沙は空飛ぶ箒に乗ってかなりの高度まで上昇している。どれくらいかといえば、この高さから落下したら常人ならまず間違いなくぐしゃぐしゃになって死ぬ程。現在箒の後ろには何冊かの本が結わえ付けてあり、これらはついさっき知り合いである図書館の主から借り受けてきたものだ。主は「持ってかないでー」と散々持ち出しを嫌がった(魔理沙が散々破損したり返却日以内に返さなかったりしたせいで)が、一週間後に全冊必ず返却すると約束して、しぶしぶ了承してくれた。
その本のうちの一冊が、今しも箒から落っこちようとしていた。原因は、箒に縛り付けたときのロープの緩み。下の方にある本はまだ落ちそうというわけではなかったが、一番上にある赤い本は不安定に揺れて、まさしく落下寸前。
魔理沙が緩やかに角度を修正した時、とうとう本はロープの縛りを抜けた。音も立てずに本は落下し、魔理沙の箒からはどんどん離れていく。本は最終的に湖や森ではなく、草原の真ん中に落ちた。普通ならどこか壊れても良いようなものなのに落下の衝撃も大して受けず、本はただ草原のど真ん中にぽつんと居る事になった。
そして魔理沙が一冊本が無くなっているのに気付いたのが魔法の森の中にある家に着いてからで、知り合いの図書館主が怒って攻撃魔法を撃ち込んで来る様を連想した。あまりに鮮明に沸いたイメージに魔理沙は肝を冷やし、落とした本を探しに再び出発した。
まあ、最終的に本は見つからずに魔理沙は図書館主から本気で怒られた(攻撃魔法付きで)のだが。
*****
今日も今日とて大盛況だった。冥界の宴会はいつも華やかなのだけれども、今日宴会を開いたところははいつにも増して規模が大きかった。その分騒霊演奏隊である彼女らには都合が良かった。盛り上がれば盛り上がるほど騒がしくなるからであり、彼女らは騒がしいことが大好きだからだ。
そんな楽しい宴会が終わってしまい、盛り上げ役であったプリズムリバー三姉妹も屋敷に帰る真っ最中だった。姉妹仲良く寄り添いながら、家路を一直線。隊形としては、長女と次女が前に出て、三女がその後ろに。
その折、三女のリリカが前方の長女と次女に声を掛けた。
「ねー、お姉ちゃん達ー?」高速で飛んでいるため、リリカの声はやはり普段よりも大きい。「なんか変なの落ちてるよー、あっち」リリカが右方向に指を差し、それを見て長女のルナサと次女のメルランも顔を向けた。
確かに変だった。リリカが指差しているのは草原だったが、その草原のど真ん中に一つだけ赤い点がぽつりとあった。これが夜なら見分けはつかないかもしれないが、昼間の光の下ならばくっきりとしていて見つけやすい。
「行ってみない?」一番好奇心旺盛なメルランが声をあげ、少しの間考えた後、二人の姉妹は頷いた。全員一斉に方向転換し、リリカが見つけた赤い点へと一直線。
高速で空気を切り裂き進み、三人はまもなくその地点まで辿り着いた。
「…あ、見つけた」最初に地面に降りたルナサがそれを見つけ、拾い上げる。他の二人がそれを注視した。
『本?』全員の声がハモッた。まさしくそれは本で、自分の存在を誇示したいのか真紅のような赤い色をしていた。さっきリリカが見つけたのはこれだったのだ。
「にしてもリリカ、よく見つけたね」一旦言葉を区切り、なんとなく納得するようにルナサが言った。「そっか、一番目ざといからかな」
「ルナ姉、目ざといってなにー」頬を膨らませて、姉につっかかる。ルナサは普段はクールな感じでリリカも格好いいとは思うけれど、何故かリリカに対しては時たまからかうような、そんな調子があるのだ。しかも本人は素で言ってくるから頂けない。それに対してリリカは何度もやってきたように、いつものように怒る。何回もからかわれていると不思議と慣れてしまうもので、今はもう怒りの感情も大してあるとは言えない。今回も怒りは形式だけだ。
「ちょっと見せて」ルナサから本を渡してもらい、メルランがぺらぺらと本を軽く読み込む。が、すぐに興味を無くしたのかルナサの手に本を返した。「あんまり興味無いからいいわ、返す」
「どんな内容だったの?」本についていた草切れや埃のようなものを叩き落としながらルナサが尋ねる。本のタイトルは擦り切れて読めなかった。
「あんまり面白く無いわ。思考を抑制するとか権力者の寵愛を得たりとか、変なのばっかり」それを聞いたリリカが、骨折り損かなと少し暗い顔をした。が、ルナサの方は本を二、三ページめくったあと、ひょいと脇に抱え込んだ。
「持って帰るの? ルナ姉」リリカが尋ねて、ルナサはちょっと興味があるところを見つけたからね、と返した。
「じゃあもう帰りましょ。ここに居ても特に良いこともなさそうだし」メルランがぐるりと辺りを見回して、言った。辺りは草一面となっていて、ここまで何もないとむしろ清清しい。
他の二人も頷いて、今度はメルランが一番後ろにつき、空に浮かぶ。そのまま屋敷の方角に向けて移動しはじめた。
ルナサの心の中には、ついさっき見た赤い本の目次部分が浮かび上がっていた。あの中に、どうしても見過ごせない部分があった。そこに書いてあった言葉を見つけたとき、ずっと奥底に眠っていたものにがっちりと心を抱え込まれたことが分かった。
本のかなり後ろの方、『一般には禁忌とされる術の一例』の欄にそれはあった。薄汚れた本のページの中にあの文字を見つけたとき、思わずルナサは唾を飲み込んだ。妹二人に悟られなかったのは幸運としか言い様がない。二人はあれでいて結構鋭いところがあるのだから。
その文字は、『死者の霊を呼び出す術』だった。見つけたとき、ルナサの頭の中に一人の少女が浮かんだ。暗闇の中の電灯の光のように、とても明瞭に。
かつて自分達を騒霊として復活させ、代償か寿命かは分からないが、その自分達よりも先に逝ってしまった、四女のレイラだった。
*****
遥か昔、プリズムリバー伯爵という貴族が居た。彼は数年前に落馬事故で妻を亡くしていたけれど、遺産であり宝でもある四人の娘達に囲まれて、彼らは全員仲睦まじく、とても幸せに暮らしていた。
けれどもその幸せは伯爵が六十という歳を過ぎた頃、唐突に消し飛んだ。
きっかけはある本だった。どこにでもあるようなただの本、何の無害もないもの。伯爵も、伯爵に本を売りつけた行商人もそう思っていた。
伯爵は貿易業を営んでいて、その時もさる東の国で物を仕入れていた際にそれを目にした。表紙がぼろぼろになり、タイトルもろくに読めないような本だったのに、伯爵は一目でそれを気に入った。単純な好奇心か何かの力にひきつけられたからか、何故だか分からないが伯爵はその本が欲しくなったのだ。彼は中身も見ずに商人にこの本を売ってくれと頼んだ。
どんな高値がつけられるか彼は内心冷や冷やしていたが、まさかこんなものに買い手がつくと思っていなかった商人はただ同然の値段で売ってくれた。
そもそも商人でさえその本をどこで手に入れたか覚えていなかった。
伯爵は本を手にした瞬間、心の中で得体の知れない何かが湧き出るのを感じた。
帰りの道筋で本に手をつけるような野暮なことはしなかった。この本は屋敷に帰り、書斎のテーブルにどっかりと腰を下ろし、娘の淹れてくれたコーヒーを飲みながらじっくりと読み込むのだ。頭の中でその情景を思い浮かべると、思わず顔が緩んでしまう。
しかしいざ屋敷に辿りづけばそんな暇はなく、娘達に土産物をせがまれ、夕食を食べ、娘達のチェスやトランプ遊び、それに楽器の音あわせのための観客として付き合わされることとなってしまった。
結局彼が本に手をつけることが出来たのは真夜中近く、邪魔をされたくなかったのでメイドや執事が寝付いてからにした。そのためコーヒーは自分で淹れる羽目になってしまっが、だがまあ、何と言っても重要なのは本の内容なのだ。内容が素晴らしければ自分で淹れたまずいコーヒーやちりちりと迫ってくる眠気もどうでもよくなる。本の中の世界にどっぷり漬かってしまえば良い。
彼は不思議なくらい心が躍るのを感じながら、ゆっくりと本のページを開いた。
心の中の期待が最高潮に高まり、それから急激にしぼんだ。まるで子供のように落胆を隠すことが出来なかった。
なぜならば、何かが書いてあるはずのページには何も書いていなかったからだ。不思議がって三、四ページめくってみても同じことだった。ばらばらと何十枚もめくってみても、全て白紙だった。なるほど、素晴らしいことに自分は薄汚れて落書き帳にすらならない紙の束を喜んで買ってしまったらしい。
伯爵はあまりの苛立ちに本を床に投げつけた。
それからコーヒーをぐいと飲み干す。一体どうして本の中に何も書いていないなんてことがあるんだ? そもそも、どうしてあんな本が欲しくなった? そうだとも、中身が全部真っ白の本なんかどうして自分は買ったんだ?
カップを乱暴にテーブルに降ろして、それから額に手を当てて揉み干す。これにルナサやメルランの肩揉みがついてくれれば一番落ち着くが、贅沢はいってられない。今は深夜で周りには誰も居なく、当然のように娘達は眠っているのだから。
とりあえずは落ち着くことだ。まずは床の本を拾い上げて、もう一度中身を確認する。それからは焼くなり捨てるなりすればいい。そうだ、全くだ。
伯爵は立ち上がると本に近づき、拾い上げる。ふと、不思議なことに気がついた。
この本は手に入れたとき、背表紙や表紙が白かったというのに、今になるとそれらは黒くなっている。――――まあ、光の影響か何かであのときは見間違えたのだろう。本を手に入れることで頭が一杯だったし、無理もない。それに今はデスクの上のランプの灯り以外、照らしてくれるものは何も無い。
伯爵はもう一度本のページをめくった。二枚目をめくり、三枚目をめくり、四枚目で何かの絵が描いてあった。
それは燃えている家だった。いや、家どころの大きさではなく、これは屋敷だ。その屋敷はあちらこちらから火の手があがり、外に逃げ出している人、火だるまになってしまい二階の窓から落下している人、頭がおかしくなったのか屋根の上で踊っている人など、グロテスクなほど本物そっくりだった。ひょっとしたら本物の火事の様子をこの本にスケッチしたのではないかと思えるほどに。
気味が悪くなったが、もう一枚めくる。
それは下水道だった。絵の中の下水道はまさしく絵に描けるほど汚く、そこらじゅうにカビやキッチンでよく見かける黒くて汚らしい生物、それにネズミまでが居る。絵の中央では何かが仰向けになって倒れていて、それは子供だった。死んで何ヶ月も経つのか、体中のあちこちが腐ってしまい、骨が腕や足やぐしゃぐしゃの身体から突き出ている。よく見れば、ネズミにゴキブリが子供の身体にはりついたり腐った体の中から出てきたりしている。
これもまた現場をスケッチしたような出来に、胸が悪くなる。一体作者はどんな気持ちでこんな絵を描いたんだ?
更に一枚めくる。
熟しすぎたトマトのように頭が割れた男が、路上の上で仰向けになって倒れていた。辺りには野次馬が集まってきていて、軽蔑と好奇心の入り混じった目で死体を見物している。
もう一枚。
猫の首が斧で切り飛ばされていた。
もう一枚。
女が断崖絶壁の上から落下していた。
もう一枚。
髪が長く青い少女が何かの道具を片手に穴を埋めていた。穴の中には短髪の少女が放り込まれていて、壊れた人形のようにあちこちの骨が変な角度に折れ曲がっている。
あまりの気味が悪い光景に耐えられなくなって伯爵は本を閉じようとした。だが、腕が動かない。それどころか顔も、足も、どこも言うことを聞かない。ただ機械的に本のページをめくり、目は頭に情報を詰め込んでいた。
今更のように伯爵は恐怖を感じた。全身の力を込めて本を振り捨てようとしたけれど、やはり動かない。
様々なおぞましい光景が目に飛び込んでくる。男が、女が、子供が、老人が、斬られ、燃やされ、食われ、潰され、ありとあらゆる地獄を味わっていた。これほどの虐殺は戦争でも味わえないだろうと思った。
伯爵は唯一思い通りになっている心の中に逃げ込んで、必死に自分を守ろうとした。けれども、じわじわとそれは伯爵の心を侵し、腐らせていた。
何分も何十分も何時間も経ったと思われた頃、ようやく今までとは毛色の違うような絵柄が現れた。
それは悪魔の絵だった。誰しもが思い描く邪悪と暴力と狡猾の象徴で、伯爵も人々の例に漏れなく、それを悪魔だと思った。何十色を混合した果てに出来たような濁ったどす黒い色をした、二本の角。それの口の中では無数の怨霊が蠢き、声にならない悲鳴をあげながら数百数千の目で伯爵を見つめていた。
ページをめくる手が止まり、伯爵の目には、本の中の悪魔が動いた気がした。彼は必死にその考えを否定しようとしたけれど、実際に悪魔は気持ちが悪い動きで、ゆっくりと動いていた。 伯爵は自分の目がおかしくなったと思ったし、その方が良いに違いないとも思った。
ずる、という音が聞こえて、悪魔が本の中からほんの少しはみ出す。頭の触角が最初に出て、次に顔、それから身体が出てくる。自然界の生物の中には決して存在しない異様な姿に、伯爵はただ目を見開き呆然とすることしか出来なかった。
本の中に巣食っていた悪魔は身体半分を外の世界に出すと、ちろちろと黒く長い舌を出しながら、細長い腕で伯爵の頭をがっちりと掴んだ。真っ白な目で伯爵の怯えきった目を覗き込むと、目の色が白から黒へ、黒から赤へ、赤から緑へと変わった。ぐるぐるぐるぐる色彩は変わり続け、最後には虹色に落ち着いた。
伯爵は悪魔が彼に何をしようとするか、悪魔の目を覗き込んで理解した。悪魔の方も、彼の中に渦巻いている怯えを感じ取った。彼は悪魔が口元を歪めて、笑ったような気がした。その際に何体かの怨霊が外界へとはみ出た。
それから、伯爵は彼なりの精一杯の悲鳴をあげた。
伯爵の死体は翌朝発見された。死体というよりも残骸と言った方がいいのかもしれないけれど。
彼の死体を見つけたメイドは、伯爵を起こそうと寝室に向かったがどこにも居ず、書斎に入った時に彼を見つけた。伯爵は惨殺の良い見本のようだったとメイドは供述し、他に表現するとしたら『不器用な子供が人形をばらばらにして、それから直そうとして失敗したような姿』というものだったらしい。そのメイドは当日付けで退職し、一年後には原因不明の熱病で死んだ。伯爵が仕入れてきた本は何回も探されたけれど、とうとう見つかることはなかった。
伯爵の葬式には四姉妹全員が参加し、全員が伯爵の棺に寄り添い泣き崩れていた。あまりに痛々しく悲愴な光景に、何人もの大人が耐えられずに退出した。
葬式が終わって三日後、身寄りが無くなった子供達に、何人もの大人が彼女達を引き取りたいと申し出た。いくら手伝いが居るとしても彼女達だけで屋敷で生活していくには無理があるだろうし、それならばと善意ある人達は名乗り出た。
その申し出を受け入れた四姉妹は夜通し話し合い、互いが行くべき家を決めた。だが、四女のレイラだけが屋敷に残ると言いだした。当然三人は考え直させようとしたが、レイラが一度決めたことはとことん曲げないということを、彼女ら全員が知っていた。
思い出が深すぎるの、とレイラは三人に告げた。この屋敷は離れるのにはあまりにも皆との思い出が多すぎて、ここ以外の場所で生活するなんて考えられない、と。レイラは一番伯爵に甘えていた。いつも伯爵と一緒にいたし、休日には共に乗馬に出かけた。
だからと言って、と長女のルナサが開きかけた口をレイラは手で塞ぎ、ゆっくりと首を横に振った。それは諦念にも似ていた。
やがて三姉妹は折れた。
全員で過ごす最後の夜、絶対にお互いを忘れないようにしようね、ずっと姉妹なんだから、と涙の下で硬く誓った。互いの住所も聞きあって、手紙を出し合おうとも提案した。全員が頷いた。
別れの日、別れる時は笑顔で居ようと全員が決めていたが、全員が涙を抑えることができなかった。馬車の前でリリカはレイラを抱きしめて、意地でも連れて行こうとした。ルナサとメルランが、泣きながらリリカを引き離した。ようやくリリカとレイラが落ち着き、レイラを除いた三人はそれぞれ別の馬車に乗り込んだ。馬車はそれぞれ全て違う方向に向かったが、ルナサも、メルランも、リリカも、レイラも、全員互いの馬車が見えなくなるまで手を振り続けた。
そして彼女達は別れ、何年も、何十年も経った。
週に一度は文通をしていたから、互いの近況はよく分かった。特にリリカは何枚も手紙を書きまくって、姉や妹から文面で叱られたこともある。
ある日レイラが屋敷に戻って手紙を確認すると、メルランとリリカからそれぞれ一通ずつ来ていた。ルナサから来ていないことを不思議がりながら手紙を開封し、理由を知った。
ルナサは先週のうちに亡くなっていた。二人の手紙にそのことが記されていた。ルナサは一人暮らしだったから、近くに亡くなった事を知らせてくれる人が居なかったのだろう。いつかはこういう日がくるものと覚悟はしていたけれど、レイラはやはり泣き崩れた。
それから何年も経った。それぞれの生活も移り変わり、レイラも年老いていった。やがてリリカとメルランも亡くなった。両方とも手紙で来た。両方の知らせにレイラは泣いた。
とうとう一人ぼっちになってしまったのだ。
レイラは部屋にこもって、考え事をすることが多くなった。屋敷のメイドが食事を運んでも、あまり手を付けようとはしなかった。
何日も何週間も経ち、ついに部屋から出てきた痩せこけたレイラはメイド達全員に告げた。
あなた達全員を解雇します、と。メイド達は言い渡されたことの意味が分からなかったが―――まさか、全員を解雇する?―――レイラが本気だということは彼女の目を見て分かった。仕方なく彼女ら彼らは全員屋敷を辞めた。
屋敷の中でも一人きりになり、邪魔するものが居なくなった。レイラは先日商人から仕入れたある道具を使った、とある儀式をする準備を始めた。その道具が彼女の父親の死の原因となった本と同じところで作られたと聞けば、レイラはなんと思うだろうか。しかし幸運か不運か、それを知ることは無かった。
三日経った。
プリズムリバー家の最後の生き残りが住む屋敷は、騒霊屋敷と呼ばれるようになった。夜毎に何かを打ち鳴らす音や、楽器の音が聞こえてくるのだ。近隣の住民達はレイラに苦情を言ったが、レイラはそれに対して曖昧な笑みを返すだけだった。苦情は何回か来て、そのうちに屋敷には誰も寄り付かなくなった。
レイラにとっては別にそれでも良かった。何せ、彼女達が還ってきたのだから。
その屋敷には、在りし日の三姉妹が居た。レイラが買い入れた特殊な種類の本に示してあった儀式を執り行い、生み出したのだ。三姉妹の姿が若いままなのは、レイラがその姿の時の三人に対し、特別な思い入れを持っているからだろう。彼女達を呼び出す決意は部屋の中に篭った時に固めた。メイド達を解雇したのは、儀式をするのに邪魔になるだろうと思ったからだ。
儀式を行った結果として、ルナサ、メルラン、リリカは還ってきた。最初こそ動物のように訳も分からずにただ飛び回っているだけだったが、時間が経ち、彼女達は在りし日の姉達を取り戻すように、言葉を、感情を、様々なものを取り戻していった。
死者の魂を呼び戻すのがどんな意味を持つか、レイラは分かっていた。少なくとも分かっている積もりは在った。代償としてとんでもなく重いものを支払わなければならなくなったとしても、彼女は構わなかった。この世で一番大切なものの一部だけでも、取り戻すことが出来たのだから。
それから何年も経った。屋敷の周りに人が近寄ることは無くなったけれど、レイラはそれでも幸せだった。いつどんな時でも姉達はそばにいてくれたし、クリスマスの時も、誕生日のときも、ハロウィンの時も、楽しい時も、辛いときも、彼女達はいつも一緒に居た。
やがて、自分の死期が近づいてきていることをレイラは理解した。それは目の前の時計を見ているようにはっきりと分かった。彼女は死ぬということを受け入れ、より一層姉達と楽しく生活することに努めた。
最後の日にレイラはベッドの上で、彼女の周りに居るレイラ、メルラン、リリカに別れを告げた。
頷く代わりに三姉妹はそれぞれの行動を取った。ルナサは呆然として、メルランは痛みに耐えるようにとても辛そうな顔をして、リリカは泣き崩れた。
レイラはルナサの顔を掴んで、呆としている顔を無理矢理自分の方へと振り向け、しっかりして、ルナサお姉ちゃんと告げた。あなたが一番上なんだから、皆を引っ張らなくちゃ、と。言うとルナサの目に涙が溜りはじめ、レイラはルナサを抱きしめた。ルナサは暫く彼女の腕の中で泣き、やがて自分でレイラの腕から離れた。
次にレイラはメルランの方を向いて、私が居なくても、二人が寂しがらないように人一倍に騒がしくして欲しい、と頼んだ。メルランはしっかりとレイラの目を見据えて、分かったわ、と答えた。
最後にレイラはリリカを引き寄せて、ルナサと同じくらいかそれ以上に、きつくきつく抱きしめた。まるで母親のようにリリカに大丈夫、大丈夫、大丈夫と繰り返し言い続けた。次第に落ち着いたリリカを離し、 改めてベッドの上で横になって目を瞑った。
一時間後、レイラは老衰で天寿を遂げた。
二時間ほど三人は遺体の前で泣き、それから行動に移した。 レイラの死体を庭に運び、土葬した。土の埋め手は、三人が交代交代でやった。全てが終わってから三人は墓の前で手を合わせ、屋敷の中へと戻って行った。
長い長い年月が流れた。プリズムリバー家は騒霊屋敷として買い手もつかぬまま残り、果てしなく長い長い時間を経て、魔力を持った屋敷は幻想郷に取り込まれた。
三姉妹も生前と変わらぬほどに存在を取り戻し、レイラがそのような種類のものとして呼び出したのか、自然に性質を変えていったのか、三姉妹は騒音を生業とする霊、騒霊という種類の霊となっていた。
彼女らはある日屋敷の地下室でかつて自分達が演奏していた楽器を見つけ、興味本位で演奏してみたところ、三人ともとても気に入った。生前よく音楽を嗜んでいたこともあり、三姉妹はそれぞれ得意な楽器を使って演奏を行うようになった。三姉妹はよく冥界に出入りし、楽器の腕を上げるためにそこかしこで演奏をしていた。
彼女らが冥界を行ったり来たりしている理由は、レイラのことだった。冥界は死人が集まるところ。ならば死んでしまったレイラがここに居ても不思議はないと思ったのだ。結果としてレイラが見つかることはなかったが、かわりに彼女らの演奏は騒ぐのが大好きな冥界の人々の注目の的となった。
かくして騒霊演奏隊は冥界の常連となり、ほとんど毎日何かをして騒ぎ、楽しく暮らしていた。
*****
プリズムリバー家の屋敷は結構埃だらけである。これは三人が毎日手分けして掃除をしても、あまりに屋敷が広すぎて掃除をしきれないからだ。そのため掃除をする箇所は最低限にして、地下室や屋根裏などもともと掃除がしにくいところは最初から諦めている。
そのためか隅っこに埃がたまっている居間でソファに座りながら、ルナサ・プリズムリバーはじっと本のページとにらめっこをしていた。分類は『人の魂を復活させる術』、他の二人は今、キッチンでお菓子作りに勤しんでいる。今日はホットケーキを作るとか言っていたが、ルナサは上の空で大して聞いていなかった。
もしこの本に書いてあることが本当だとすれば、手順に従って儀式を行えば今は亡きレイラの魂を呼び出すことができるかもしれない。うそっぱちならば儀式を行ったとしてもただの骨折り損だ。
別にこの本の内容を信じないで、庭で燃やしてしまうことも出来る。そもそも草原の真ん中にそんな本が落ちていること自体怪しいのだ。誰かの悪戯だと言われても反論はしにくい。
―――だけど、一考の価値はある。ルナサはそう考えて、本をぱたんと閉じた。一応他の二人に話してみて、反応次第によって決めれば良いだろう。
ルナサは本をテーブルの上に置き、お菓子が出来るまでヴァイオリンの手入れをするために、自分の部屋へと向かった。
キッチンでは、姉妹の仲で一番目と二番目にやかましい二人がお菓子作りに勤しむ音が聞こえていた。
「やってみようよ」ホットケーキを摘みながらそう言ったのは、驚くことにリリカだった。
「意外……」ルナサは賛成するなら好奇心旺盛というかむしろその塊であるメルランだと思っていたので、本気で驚いていた。リリカは普段『あんまり意味が無さそう』とか言ってこういうことはやりたがらないタイプなのだ。
「だってさ、レイラが戻ってくるかもしれないんだよ? そしたらまた皆で一緒に過ごせるし、明るく楽しくわいわい騒げるじゃない」
「私もリリカに賛成。姉さん、儀式で何か調達が難しいものとかある?」メルランがさっきまで頬張っていたホットケーキを嚥下して、ルナサに尋ねる。ルナサは、呪文のようなものを詠唱するだけだからそう沢山の道具は必要無いと答えた。
「確か、シェムとかいうのを発するらしい。意味とかは文字がところどころすりきれて読めないけど、肝心のシェムは大丈夫だった―――ここ」本を開いて身を乗り出し、テーブルの向こうの二人に見せる。まじまじとリリカとメルランが見つめ、その様子は何かの数式を解こうとしている子供のようにも見えた。
「……なんか、やたら読みづらいね。メル姉、これなんて読むの?」リリカが眉間に皺を寄せた。メルランが教えようとしたが、ルナサはその前に本を閉じる。
「決まり。じゃあ明日儀式を行おう。演奏の予定も入っていないし」言ってもう一言付け加えた。「儀式の前にシェムを書いた紙を渡すから。あ、リリカには振り仮名付きでね」ルナサの言葉の意味を理解すると、リリカが顔を真っ赤にして姉を睨み付けた。そんなリリカを見て、ルナサが軽く笑う。
「分かった。あと姉さん、一つ聞きたいんだけど…」少し言いにくそうにメルランが聞き、姉が次女のほうへと顔を向けた。「儀式をするのに伴う危険とかって、あるの?」その言葉を聞いた途端、ルナサがしまった、という顔をした。多分大して予想していなかったことに驚いて、説明するのを忘れていたのだろう。
「ごめん、最初に言ってなかった。……実は、この儀式、危険なものなんだ。これは、要するに等価交換みたいなもので、求めるものの価値が高ければ高いほど、危険も伴う。この場合の危険は、自分の魂に付く。より高度な術を行えば、より深く自分の魂を削り取られるって、書いてある。
それで…私達が行おうとしている儀式は、かなり危険度が高い。死者の魂を呼び出すこと自体はそれほど危険じゃないけど、私達はその魂をここに留めさせようとしている。つまり死者を復活させるのと同じようなもの。だから…かなり危険性は高い」
二人の妹はただ黙って、姉の話を聞いているだけだった。
「その負荷が三人それぞれに分かれれば安全かもしれないけれど、一人ひとりに直接全部の負担がかかれば、多分相当まずい。ひょっとしたらだけど、魂が失われて私達が消えてなくなる可能性だってある。メルラン、リリカ、それでもあなたたちはやりたい?
私は確かにこの儀式を行って、レイラを呼び戻したい。けれど、二人が決めたことには従う。もし危険すぎると判断したなら、私はこの本を燃やして、儀式のことも本のことも見なかったことにする。けれどもやりたいと思ったなら、絶対に執り行う。
私はあなたたちを責めたりはしない。後々までひきずったりもしない。だから――――決めて欲しい」
言いながらルナサは、内心自己嫌悪に陥っていた。自分の言ったことを客観的に考えれば考えるほど、嫌悪の度合いは増す。私が言っていることは、自分だけでは決められないからあなたたち二人で決めてと言っているようなものだ。だけど、自分だけならばまだしも、妹二人を危険に晒すことなんて出来ない。それは事実。
リリカ、メルランの顔を見ると、二人とも食べかけのホットケーキの皿に目を落としながら、深く眉間に皺を寄せて考えていた。姉妹というものはこんなちょっとした癖にも関係してくるらしい。
重苦しい沈黙の中、時間が経つ。やがてメルランとリリカが、顔を上げた。同時に小さく、だけどよく通る声で言った。
『やりたい』と。
互いの声を聞いた二人が顔を見合わせ、少し照れくさそうに笑った。こういうところも、やはり姉妹だ。私が同じ質問をされても、こういう風に答えたかもしれない。
そう思ったら、お腹の底から笑いがこみ上げてきた。我慢しきれずにルナサは笑い、それにつられてリリカやメルランも笑った。
暫くの間部屋中が三姉妹の笑い声で満たされ、やがてルナサが笑いすぎて目の端に溜まった涙を拭い、こう言った。
「じゃあ予定通りに、明日の正午に儀式を執り行うから。あとでその準備をするよ。各自心の準備とかをしておいて」
リリカもメルランも、同時にこっくりと頷いた。それを見て、またルナサは笑いの発作に襲われた。
*****
プリズムリバー家は元々貴族の屋敷なだけあって、とても広い。だから空き部屋なんてものはそこらへんにあり、幾つかは物置になっていたりゲストルームとして開放されていたりしたが、その他は掃除もされずただ伽藍としているだけだった。
リリカはそんな空き部屋の一つの中で、ある作業をしていた。姉二人は材料の調達に出ていて、今家に居るのはリリカ一人。
彼女は部屋の中心で円を描くようにゆっくりと動き回り、そうしながら後ろの足元に線を引いていた。やがて線を引き終わると、彼女の前の床には大きな円ができて、中には奇妙な模様が描いてある。この模様もリリカが描いたが、姉からもらった紙を見ながらやったので意味はよく分かっていない。この魔方陣はダビデと呼ぶらしいが、名前が分かったって大した意味も無いだろう。
「こんなとこかなー…」リリカは作業の終わった部屋を見回し、不備が無いかチェックした。小さな間違いでも無いように後で姉達が勝手にチェックするだろうけど、そこらへんはまあ仕方が無い。
しかし、こうして何かの儀式的細工を施した所に居ると、なんだか近寄りがたいような感じがしてくる。ある種の威厳みたいなものだろうか。そういうのが自然と漂ってくるのだ。
まあ――――人一人を復活させる場所だ、それくらいの威厳くらい無くてはいけないだろう。
リリカは部屋の中心を見つめ、そして妹のレイラの事を思った。
遥かな昔、彼女達が離れ離れになったとき、一人だけ屋敷に残った少女。もう居ない人の思い出に満ちた、哀しい場所に残った少女。
レイラと追いかけっこをしたり、お菓子を一緒に作ったり、勉強もした。他の姉妹達がやりそうなことは全部やったし、やらなそうなこともたくさんやった。
リリカはレイラが大好きだった。――――いや、三姉妹皆がレイラのことを大好きだった。
どうして自分達は離れなければならなかったのか。どうして伯爵は死んでしまったのか。今そのことを追求しても何も始まらないというのに、どうしても考えてしまう。理由なんか無かったのに、彼女らが離れなければならなかった理由なんてどこにもなかったのに。
時が経ち、死を経て、自分達三姉妹は再会したけれど、レイラは未だ消えたまま。彼女が居ない穴は、今でもぽっかりと口をあけている。
だから――――取り戻す。レイラが味わえなかった楽しいことを、騒がしいことを、空いてしまった穴を埋め戻すように、自分達の思い出を取り戻すんだ。
それが禁忌と蔑まれようとも、知ったことではない。禁断と罵られても、構わない。
無意識に心の中で、あるイメージを描いていた。イメージの中では西行寺家の庭で、自分達三姉妹と仲良く寄り添いながら演奏する、レイラの姿があった。向こうの縁側では西行寺家の専属庭師兼当主の剣術指南役がお茶をすすり、主である西行寺幽々子はその横でのんきにお団子を食べている。
そんな楽しい空想を、本当のことにするのだ。リリカは例え消滅してしまう危険があったとしても、やりとげようと思った。それほどまでに彼女はレイラのことを大好きだった。彼女を取り戻すためならば、命すら懸けることができた。
「……レイラ、待ってて。もうすぐ、迎えに行く」騒霊姉妹の三女は魔方陣の中央を見つめながら、静かに言った。
決して言葉では言い表すことが出来ないほどの、無数の想いを込めて。
かつて騒霊屋敷と呼ばれていた場所の近辺には何も無い。昔は家々や建物が幾つか並んでいたのだが、何百年と時が経つにつれて倒壊してしまったり別の土地へと移動して行ったため、やがてここには屋敷しか残らなくなったのだ。
周りが野原や森となっていて誰も近くには住んでいないため、日が落ちれば全くの真っ暗になってしまう。そのため夜になれば出来ることも大して無くなってしまい、屋敷に住んでいる三姉妹は楽器の調律など、何かの用事でもない限りとっとと寝てしまう。代わりに朝が早く、知り合いからは姉妹揃ってババ臭いとよく言われる。
そのため、真夜中になっていても屋敷に明かりが灯っているのは少しばかりおかしなことだった。時刻は真夜中近く、騒霊屋敷の居間ではメルランが、時間が経ってぬるくなったホットココアを啜っていた。特に何をするわけでもなく、ソファに身を預けながら、彼女はただ座ったままで居た。メルランの顔は、どこか思いつめたようだった。
余程集中していたのか、それほど頭の中を留守にしていたのか、メルランは部屋のドアが開いたことには気がつかなかった。ルナサが入ってきて彼女に近づくまでの足音にも気がつかなかった。メルランはルナサに声を掛けられ、ようやくすぐ傍に誰か居ることに気がついた。
「こんな夜中に何をしてるの」聞こえた瞬間にメルランはびくっと肩を震わせた。そのときの拍子にカップを落とさなかったのは幸運だった。首を後ろに回して、ルナサの姿を見つける。
「何…って、姉さんこそ何してるの?」
「トイレに起きたら誰かさんがランプつけてたからね。それで見に来たってこと」
「ふーん…」メルランは黙ると、またココアを一口。かなりぬるくなってしまった。淹れなおしてこようか。
ルナサはため息をつくと、メルランの隣に座った。短い時間の沈黙を経て、先に長女のほうが口を開いた。
「怖い?」次女が長女のほうに顔を向けた。
それきりまた沈黙。今度はメルランのほうが先に聞いた。
「…姉さんは怖くないの? 消えるかもしれないのに?」
消える。最悪の結末を一言で言い表せば確かにそうだ。自分達はこの騒霊屋敷から消えて、幻想郷からも消えて、多分冥界でもなく、どこでもないところ。不慮の魂が行ってしまうところへと、あらゆるものの最果てへと連れ去られてしまう。多分その先に、レイラは居ない。
長女は何かに誓うように目を閉じて、ゆっくりと目を開けてから言った。
「確かに怖いよ。もし消えたりしたらメルランやリリカにもう会えないし、ヴァイオリンを弾いたり騒いだりすることも出来なくなる。けれど、やりたいって気持ちのほうが大きい。そう自分では思うよ」
「そう……姉さんは、立派なのね」メルランが零してルナサがそれを聞き。そんなことないと言って笑った。
「立派なんかじゃないよ。私もメルランも、レイラを取り戻したいって気持ちは同じ。私は怖がる気持ちがほんの少し小さくて、メルランはほんの少し大きいだけ。違う?」
メルランが何か言う前にルナサは優しく微笑んで、いつもの余裕たっぷりのメルランはどこに行ったの? と茶化すように言った。普段の姉からはなかなか想像できない態度に、メルランは笑った。
「そうそう、一回笑ってしまえばもう大丈夫だから。さ、夜も遅いし、そろそろ寝よう? 明日に差し支える」
メルランは頷いて、ぐいとココアを飲み干そうとした。結果、むせた。
横を向いてげほげほと咳をする次女の背中をルナサはゆっくりと摩りながら、さっきと同じようにもう一度息をつく。咳が収まってきたところで、ルナサは口を開いた。
「私は、私達三人は一枚の絵だと思ってる。本当はあと一人足りなくて、ところどころ欠けているんだけど、誰もそれを分かっていない。私達自身も大して気にしていないんだから、当然かな」
もう咳が止まっていたメルランは何も言わず、姉の独白を聞いていた。
「今私達に足りないのは、絵から剥がれてしまった欠片。そのままでも完成しているし十分美しいけれど、足りないものが継ぎ合わされればもっと絵は美しくなる。ひょっとしたら…本来の良さが取り戻されるのかも、ね」
「…うん」
不意にルナサが背中から手を離し、立ち上がった。メルランが見上げると、姉はなんとなく苦笑のようなものを浮かべていた。場違いな事を口にした、とでも言いそうな顔をしていた。
「変なこと言ったかな。もう本当に夜も遅いし寝よう。でないと起きたのが夕方なんてことになりかねない」
メルランがくすりと笑って、カップを手に立ち上がる。彼女の顔からは、さっきまでの思いつめた表情は消えていた。少なくとも、一時は。
ランプの火を消し、部屋を出る間際、メルランはルナサに声をかけた。ルナサは振り向き、薄ぼんやりとしか見えない顔に彼女は問いかけた。
上手くいくと思う? と。
ルナサは考え込む顔つきになって、それから答えた。
やってみれば分かることに違いない、と。
*****
その日は生憎の雨だった。屋敷の外では滂沱の如く雨粒が降り注ぎ、まるで地面の上のもの全てを押し流そうとしているみたいだった。時折遠くのほうから雷の音も聞こえてくる。太陽は雲の中に隠れたままで、朝から昼に時刻が変わっても、それは欠片も見えなかった。
内心ルナサは、この悪天候を怖がっていた。他の二人には言えないけれど、窓の外での雷雨が今日行われる儀式の結果を反映しているみたいに思えたからだ。得られるものは一つもなく、待っているのは誰も考え付かないようなおぞましい結末ということだと。
例えば、この本の内容が全てデタラメだとか。例えば、今冥界でそれなりにだけど成功している、騒霊演奏隊の三姉妹が、今日を境にどこからも見当たらなくなるとか。
前者の方はまだ良い。それならばそれでああ残念だったと諦め、多分怒り出すだろう妹達をなだめ、本を捨てて楽器の調律に勤しめばいいのだから。だけど、後者の方はそうはいかない。
今更のように、不安と臆病な心が作り出すイメージが頭の中に浮かぶ。イメージの中で自分は不思議がっている妹達を説き伏せ、何かに追い立てられるように、無理矢理に儀式を中止させていた。
頭を振って、良いことを何も生み出さないイメージを振り払う。いけない、こんなことでは自分らしくないし、二人の妹に気付かれたら何を言われてしまうか分からないし、示しがつかない。
そう、自分はこの儀式を持ちかけた張本人であり、プリズムリバー三姉妹の長女なのだ。ならばそれらしく、呆としているよりもしっかりしていなければならない。
「姉さん、準備出来たわよー」いつもの時のように、暢気に余裕たっぷりな声で隣の部屋からメルランが呼びかけてくる。
ルナサが返事をして向かうと、昨日までがらんとしていた空き部屋は、ものの見事に儀式をするための部屋と変貌していた。床には元から存在していたかのように魔方陣が描かれ、壁の周りには何十本ものロウソクが立てられ、ついでにと言った感じで掃除もされている。
構図のチェックをしていたリリカが顔を上げて、ルナサに声を掛ける。「見た感じ、これで間違いないみたい」
彼女は頷き、懐から三枚の紙を取り出し、そのうち二枚を二人に渡した。この紙には赤い本から書き写した儀式の最中に唱えるシェムが書き記されていて、やり方としてはルナサを最初にして、二番目がメルラン、最後がリリカと、一拍ずつ遅れて詠唱していくことになっている。
部屋の明かりを消し、ドアを閉め、最終的な準備が終わったことを確認する。ルナサ、メルラン、リリカはそれぞれ魔方陣の外側に立った。北側の一番上にルナサ、南東側にメルランが立ち、メルランの向かいにリリカが立つ。魔方陣の円を姉妹の三角形で覆ったような形だ。普段は彼女達から離れることも無い楽器も、今はそれぞれの部屋に置いてある。
その部屋はただ静かで、雨の音がほんの少し耳障り。微小な埃が時たま浮き上がり、神経を研ぎ澄ませた三人にはそれすらも見えた。頭の中に渦巻いていた思考を沈静化させ、姉妹は迷いを捨て、全員手持ちの紙に視線を落とし、今からなすべきこと、言うべきことに全てを集中した。
やがて何分か、何十分かの時間が経った頃、厳かにルナサが口を開く。文字にするにしても言葉にするにも難解な呪文は、しかし淡々と読み上げられ、メルラン、リリカが続く。
「―――――――――――」ゆっくりと、淡々とルナサが言葉を唱え、メルランが少し遅れて、リリカが更に遅れて、シェムを言葉で組み上げていく。
いつまでもそのままの状態が続くと思われた部屋にも、何かの兆しが現れてくる。
明かりが消えているというのに、部屋がうすぼんやりと明るくなる。この部屋のいたるところに小さい光の玉が出現し、童話のように優しく三人を照らす。それぞれが心の中で驚きながらも、シェムを唱える言葉が途切れることは無い。
次の現象は風だった。魔方陣の中央からゆるやかな風が発生し、未だ空気が澱んだ部屋の中をかき乱す。しかし風は光の玉のように穏やかでいることはなくて、徐々に強くなりやがて轟風へと変質していく。
風は更に強さを増し、閉めておいた部屋のドアが無理矢理に開け放たれた。刹那、外界で雷が轟き、不吉な前触れのように三人を雷の冷たい光が照らした。それ自体が殺意を持っているのではないかと思うほど雷は強く、音は大きい。いつのまにか、ルナサはとんでもない量の汗をかいていることに気がついた。全身のいたるところからそれは吹き出している。おそらくメルランとリリカも、同じような状況だろう。光の玉の方は、今にも消し飛びそうな程微かな光を放つだけだった。
儀式は更に剣呑さを増し、風は暴風になり、雷は益々凶暴になる。シェムを全体の半分ぐらいまで詠唱し終えたところで、ルナサは身体が震えることを感じた。病気や寒さから感じる悪寒ではなくて、もっと別な、何かぬるぬるした生き物が胃の中を這いずっているような、そんな気持ちの悪さ。
最初こそは気にしないよう努めていたが、段々と自分自身の震えは大きくなり、それを制御することさえ出来なかった。とても厚く大きい氷の中に包み込まれたようで、極寒に震える感じにもそれは似ていた。
静まり返っていた心の中に、怯えたような声が生まれた。それは僅かに声を震わせ、ルナサに警告していた。
昨日彼女が話した、魂を吸い取り、どこでもないところへと持っていこうとする、あの危険性がやってきたと。
魔方陣の中から、誰もがまともな中では決して居られないところから、荒地のように乾ききったところから。
自分の精神を限界まで鋭くしそれを追い払おうとするが、それは体の中に巣食ったまま外へと出て行こうとしない。シェムを詠唱しながらこれを抑えつけるというのは、あまりにも酷だとしか言い様がなかった。
(レイラ)ルナサは思った。声までが震えている。しっかりしなければいけない。(もし私達がわかるなら、力を貸して)
風によって被っていた帽子が吹き飛ばされた。外の雷は狂犬の如く吼え盛り、魂を吸い取ろうとするものは、じわじわと大きくなる。とうとう穏やかな光の玉は消えうせた。
ルナサはただ、一心不乱にレイラのことを思い描いた。外で走り回り、楽器を共に演奏し、食事をともにし、ともに過ごしたことを。少しでも繋がりを深くしたかった。もし自分が消えてしまうとしても、そうすればレイラと近しいところへと行けるかも知れないと思ったからだ。
そうだ。じゃあメルランとリリカも一緒に連れて行けば良いんだ。そうすれば寂しくなんかなくて皆一緒に楽器を弾いて楽しくたのしくたノシく――――――――――
(―――――――!)ルナサは頭を振り、掻き毟り、今にも心を侵そうとしたものを追い出そうとしかけた。だが残っていた賢明な部分がなんとか止めた。その代わりにシェムの詠唱をほんの少し、ほんの少し早めた。そしてなるべく大きく堅い、心の壁を作った。
二人の様子を窺うと、メルランとリリカも汗びっしょりになりながら、メルランは足をぶるぶる震えさせてしゃがみこみそうになりながら、リリカは今しも倒れそうにふらつきながら、なんとか詠唱についてきているという有様だった。ルナサだけでなく、皆が苦しんでいた。
ここで儀式を止めればどうなるだろう。体の中に巣食っているこれは即座に出て行って、魔方陣の中に戻っていくだろうか。それとも自分達の魂を完全に食らい尽くすまで寄生しているだろうか。
多分後者の方だろう。今ここで儀式を中断するのは危険すぎる。続行しなければいけない。
だけど、もう殆ど限界だ。心が折れるまで、小石一粒分ぐらいの距離しかない。メルランもリリカも、きっと私と同じくらいだ。
(……終わりか)みしみしと音を立てて心の大切な場所が歪んでいく。全てが終わり、心が屈するのをルナサは覚悟した。せめてその後の自分の姿を妹達が見ないことを願った。
瞬間、とてつもない白光が室内に満ちた。音も前触れもなく光は魔方陣から発生し、壁際の全て火が消えたロウソクも、とんでもない速さで開け閉めされているドアも、今しも心の最後を迎えようとしていた三人に対しても、平等に降り注がれた。ルナサは、魂を盗んでいくものがほんの僅かに動きを止めたことを感じた。そればかりでなく、じりじりと後退し始めることも。
―――そうか、きっとこいつはこの光が大嫌いなんだ。
そして気付いた。もうシェムを八割以上詠唱し終わっていたということに。後は最後の一文を唱えきれば、全ての詠唱が終わる。
光は魔方陣から緩慢な動きで浮き上がり、光は―――光を発するものは、最終的に天井近くまで浮き上がっていた。メルランもリリカも、ルナサも、それを見た。シェムを書いた紙を見ながらなので大して長くは見れないけれど、それでも十分だった。
光の中に居る者の存在を確認するには。その中には、確かに何かが、誰かが居た。
ルナサは、メルランは、リリカは、プリズムリバー三姉妹は、長い時間をかけ、魂盗りに苦しめられながらも、それぞれのシェムの詠唱を終えた。リリカが最後にシェムを発し終わったあと、一瞬間だけの沈黙が訪れた。
その沈黙の間に、ルナサは光の中の少女が目を開けたことが分かった。心の中の魂を盗って行くものが、彼らなりの悲鳴を発して彼女の身体から逃げ出したことも分かった。
ぱん、と音を立て、とても――――とても強い光が発せられた。ルナサも、メルランも、リリカも、目の前が真っ白になった。光が部屋の中の全てを飲み込んだ。
ルナサの意識はそこで途切れた。
*****
―――――ねー、ルナサお姉ちゃんー。
―――――どうしたの? レイラ。
―――――…えへへー、えっとね…
―――――ルナ姉にレイラ、なにしてるのー?
―――――そうよ。二人だけでお話なんてずるいずるい。
―――――…あー、まあいいかな。それでレイラ、どうしたの?
―――――あ、いや、えっとぉ…
―――――ほらメルラン、リリカ、レイラ恥ずかしがってるよ? さあさああっちにいって行って。
―――――えぇー…ほらレイラ、がんばって、力を振り絞って! 恥ずかしさなんかに負けちゃダメ!
―――――いや、でも、その、うーん、
―――――ファイトよレイラ! お姉ちゃん応援してる! さあ一字一句漏らさずに全て言うのよ!
―――――あんたたち…
―――――……うん、きめた。私言うよ。
―――――本当!? やったー!
―――――応援した甲斐があったわー。このメルラン・プリズムリバー、もう悔いなんて無いわ!
―――――まあこれらは置いといて、本当にどうしたのレイラ?
―――――……
―――――レイラ?
―――――私…ルナサお姉ちゃんのこと、メルランお姉ちゃんのこと、リリカお姉ちゃんのこと、大好きっ!
―――――…
―――――…
―――――…
―――――えへへ、…言っちゃった…わぁ!?
―――――私も大好き―――!レイラ―――!
―――――ああもうどうしてこんなに可愛い妹に育っちゃったの最高よレイラ! お姉ちゃんも大好きだわ!
―――――く、くるし…
―――――ああもう、ほら二人とも、レイラから離れて。痛がってるでしょ。
―――――ぷはっ…ねえ、ルナサお姉ちゃんはどうなの?
―――――え?
―――――私のこと。
―――――う。えーあーそのー、あれ、きょ、今日は良い天気じゃない?
―――――……嫌い?
―――――わーわーっ、分かったから泣かないで、ね? お姉ちゃんも本当のこと言うから。
―――――…うん。
―――――あ、あー、おほん、れ、レイラのことが…私は…す…えーと…
―――――………
―――――私はレイラのこと好きよー? だからほら、お姉ちゃんと一緒に屋敷の中に入りましょー?
―――――そーそー、ルナ姉こそ恥ずかしがって自分の気持ちを言えないみたいだしねー。
―――――え、え? え? ちょ、お姉ちゃん達―――
―――――な…こら! 返しなさい! レイラは私のなんだから!
―――――…えっ…
―――――言っちゃったねー、ルナ姉ー。ふふふ。
―――――全く、こうでもしないと言えないんだから仕方ないわね。
―――――ふ、二人とも…
―――――…でも、私はルナサお姉ちゃんがそう言ってくれて嬉しいよ。えへへへ。
―――――む…むう…
―――――あ、お父様が呼んでる。戻らないと…
―――――よーしじゃあ屋敷まで競争! 行くよレイラー!
―――――あ、待ってーリリカお姉ちゃんー!
―――――わ、わわ、レイラ、服を掴んだまま走らないで! 危ない!
―――――ルナサお姉ちゃんも一緒に走ろ! 楽しいよー!
―――――皆楽しそうねー、よーし私もー!
*****
冥界の大御所、白玉楼。ここはいつものようにのんびりとしていて、一言で言うなら平和だった。空を見上げれば白い雲がゆるゆると流れていき、庭一面の玉砂利は見事に調和された模様を作り、近くの木に目をやれば、幽々子お気に入りの庭師が丁寧に手入れした様子が窺える。
今日も今日とて幽々子は縁側に腰掛け、お茶を啜りながらの間食を楽しんでいた。ちなみに今日のメニューは柏餅。
三個目の柏餅を頬張っていると、声をかけられる。振り向くと、西行寺家の庭師魂魄妖夢が幽々子の脇に立っていた。
どうしたのか聞けば、いつもここで演奏してくれる騒霊演奏隊が、特別な趣向を凝らしたので宴会日ではないけれど演奏を聴いて欲しいとのことだった。
楽しいことが大好きな幽々子が勿論と了承すると、妖夢は出迎えるために屋敷の入り口の方へと消える。暫く待っていると、演奏隊はやってきた。いつもの如く並んで空中を飛び、音も無く幽々子の前に降りる。
ははあ、と幽々子は得心した。いつもと違うということは、このことか。自然に沸いて出てきた疑問を解消するべく、幽々子は騒霊演奏隊のリーダーであるルナサ・プリズムリバーに問いかける。
「その見慣れない子は誰なの?」その言葉を聞くと、ルナサはまさに待っていました、と言わんばかりの表情をした。普段無表情で感情をあまり出さないルナサとしては、かなり珍しい。彼女にとってそれほどの人物だろうか。
「ほら、出てきて挨拶して」とルナサが促すと、一番後ろに居たその少女はゆっくりと玉砂利を踏みしめながら前に出てくる。脇に退く演奏隊のメンバーのメルランやリリカは、いつも騒いでいる時よりもずっと楽しそうな顔をしていた。
演奏隊の一番前に出てきた大人しそうな少女は、緊張を和らげるためか何度も深呼吸した。やがて意を決したのか、更に一歩前に出てきて、幽々子にこう言った。幽々子もまた、他の騒霊演奏隊と同じく楽しそうな顔で彼女の言葉を聞いていた。
「はじめまして、私、レイラ・プリズムリバーと言います」
webでは本のように行間が詰まっていると(なぜか)読みにくくなりますから…。
中身は…プリズムリバーたちはどうもバックストーリーのおかげで
暗い影が付きまとうので、こういった形で幸せな三姉妹が補完
できてよかったです。
話も面白いし、ハッピーエンドだし、レイラも出るしで自分にとってかなりツボでした
(レイラがでるssはなぜか評価が低いんですよね・・・この作品も含めて良作が多いと思う思うんですけど・・・)