外勤で重労働だから、船頭課もお迎え課も不人気――そんな境遇から意気投合していた同僚にも、あたいの趣味は酔狂だと軽く揶揄されたことがある。
曰く、
「貴女がよく仕事をサボって他所の急流に走ってしまいがちなのは、転覆してしまいそうなほどのスリルが足りないからなのかしら。
ひょっとして、ボスのお説教を受けるかもしれないスリルも一緒に楽しんじゃってる?」
断っておくが、仕事場である三途の静かな流れだって嫌いじゃあない。お客の幽霊との会話を一切邪魔されないところなんかが最高だ。
だが、その起伏のない川を渡すのにゃ船頭の腕は全く関係ないという点が、一級水先案内人を自称するあたいの中に不満をもたらしていることも確かだ。
おかげでオフの日の激流下りで身についた操舵の技術は役不足に終わっているし、舟の繰りを褒められたことも今までなかったわけだから。
とはいえ、あたいの中で川を下る楽しさ自体が色あせることはなかったから、別にいいかと妥協もしていた。
だからこそ、あの新参との一連のやり取りは、本当に胸を熱くさせるものだった。
やはり心のどこかで誰かに認められたいと思っていたんだろう。
その過程で大事な相棒を狙われる破目になってしまったけど、まぁ、売られた喧嘩もこの世の華、ってことで。
~ 村町瀑布 ~
人間の里の水田地帯と境を接する空き地に建立された命蓮寺。
最初は建物一棟しかなかったこの場所にも、時とともに周囲を囲う外壁や内側を飾る庭などが築かれていった。
その庭の片隅には大きな池があり、そこで仏教と関わりの深いハスが、それも多様な種が育てられている。
夏には妖怪の山にある大蝦蟇の池と並んで、ハスの花の名所となることが広く知れ渡っていた。
その前に私はしゃがみ込み、手にしていた底のない柄杓に霊力を込める。すると池から水が重力に反して吸い上げられていく。
霊力で掬い上げた水を湛えた柄杓を、そのまま大きなオニバスの葉の上で傾ける。
何度か繰り返していると、しばらくは水を溜め込みつつも浮いていた葉が、やがて重みに耐え切れなくなって沈んでいく。
その光景にわずかばかりの達成感を覚えるも、それは溜息と共に胸の内から吐き出されていった。
「……もうこれで三日目。何を不吉なことをやっているのよ、私は」
わが敬愛する尼公・聖白蓮が創設した命蓮寺において、ハスの葉を沈めている自分に心の底から嫌悪感を抱く。
だがそれでも柄杓を操る手は止められず、私は他の葉にも池の水を注いでいく。
夜の池はまるで底なし沼のようで、沈んだハスの葉は二度と戻れないかもしれない、そう思ってしまうほどの漆黒を湛えていた。
「ムラサ……かしら? 何をやっているのです?」
「あっ、ひ、聖!」
暗闇に沈むオニバスの葉をじっと見つめていた私は、突然聞こえてきた声を受けて反射的に立ち上がった。
後ろを振り返ると、寝具に身を包んだ聖が首をかしげて立っている。
一番見られたくない人に見つかってしまい、私は大いに動揺した。
「なんでもありませんっ! た、ただ池のハスを眺めていただけで――」
「ムラサ、私の目を見て話して下さい」
「あ……」
聖の顔が次第に引き締められていく。その様子を見て、私は身を震わせた。
叱責を恐れたためではない。聖を悲しませてしまうこと、それこそが何よりも怖かった。
私は何度も口を空回りさせながら、先程自分がしていた行いを告白した。
「そう、ハスを……そうね。貴女の妖異は水難を引き起こすこと。この幻想郷には船がほとんどないから、欲求不満になるのも致し方のないことだわ」
「……申し訳ありません」
自分の節制のなさを心から恥じる。
聖の手で海から解放された後も、結局妖異への欲求からは逃れることはできなかった。
それでも聖が殺生を好まない性質である以上、なるべく命に関わる災禍を避けるのは当然のことと自戒してきた、つもりだった。
「私は、半端者ですね。星や一輪は自分の妖力を上手くコントロールして、仏法具を身に纏ってみせているというのに。
何度抑えこもうとしてもより強い衝動となって返ってきてしまうから、代償行動で気を紛らわせることしかできなかった」
「他者と比べすぎるのはよくないわ、ムラサ。あの子達の妖異は比較的惨憺たるものではなかっただけのこと。
むしろ、貴女こそが一番自分を律することが出来ていると思いますよ」
「ですが! 怖いのです……ここのところ毎晩、この池に来てハスを沈めているのです。そうしないと気が鎮まらないのです!
今まで、こんなことはなかったのに――!?」
肩を丸めてうつむいている私を、聖の両腕が柔らかく包みこんだ。
身体の震えが徐々に治まっていくのを感じながら、私は聖の顔を見上げる。
「ひじ、り」
「ああ、ムラサ。貴女はこの千年近い時の中で、独り妖異への欲求と戦い続けていたのですね。
ごめんなさい。もっと早く、封印されるよりも前に気付いてあげたかったわ。そうすれば何か力になれたでしょうに」
「なっ、聖に非はありません! 法が定める戒律に従うことなど、貴女に帰依した者は皆当然のこととして受け入れていますよ」
「そう、それがいけなかったわ。誰もが妖異への衝動を戒めることに疑問を抱いてこなかったから、それが孕む葛藤が表に出てこなかったのですね。
心身を削ってまで妖異を抑える必要なんてなかったのに」
聖の腕にさらなる力が加わる。
それから聖は自分の額を私のそれに触れさせると、弱々しく笑いかけてきた。
「皆が進んで、他者に迷惑をかけないように自制してきたことを私は誇りに思います。
一方の私はというと、自らのほしいままに破戒僧となり魔道に堕ちた愚か者です。
そんな私が貴女を始めとする気高き者達と共に在るためには、その抱えてきた苦難を知るための洗礼が必要……そうは思いませんか?」
「ひ、聖……何を?」
聖は私から身体を離すとゆっくりと池の上を飛翔し、法力で一際大きな蓮の台を作り出した。
その上で結跏趺坐を組み、私に向き直る。
「貴女の妖異、私が受け止めましょう。人が乗ったこの蓮台は、舟の見立てとしてより相応しいものにはならないでしょうか?
これを沈めることが、少しでも貴女の慰めになればいいのですけど」
「そんな! 聖を沈めるなんてこと、でき、ま……」
悲鳴に近い拒否の言葉はしかし、最後まで勢いが続かず生唾と共に喉の奥に飲み込まれていった。
思ってしまった――沈めたい、と。
理由も与えられてしまった――私の欲求を満たす行いは、聖の堕落を雪ぐことに繋がる、と。
私は己が種族に相応しいような足取りで、聖の座する蓮台の前まで進んでいく。
そして池の水を柄杓に掬い、震える手つきのまま聖の前に突きつける。
柄杓を傾ける直前、精一杯の理性を振り絞って、私は聖の顔を今一度見つめた。
――お願いです、どうか抗って下さい! この腕を振り払っていただければ、すぐにでも我に返れますから。
しかし私の切なる願いもむなしく、聖は穏やかにこちらを見つめ返していた。それはまるで、全てを受け入れる慈母の微笑みに見えた。
自失。
次に我に返ったときには、柄杓の水は空になっていた。代わりに、蓮台の上に水が溜まっている。
その一部は聖の寝具を濡らしてしまっていた。しかし聖は身じろぎ一つせず、ゆっくりと目を閉じる。
――ああ、貴女はいつだって、そうなのですね。封印されたときも自分一人だけが汚れる道を選んでいった。
私は顔を歪めながら、それでも手は柄杓を動かすことをやめられなかった。
聖を乗せる蓮台が次第に池の水で汚されていく。次第にそれは聖自身にも及んでいった。
水の冷たさゆえか、それとも濡れた布の感触がゆえか、聖の眉が僅かにひそめられていく。
空気を求めてあえぐように、口を何度も開閉させる。
もはや自分が舟を沈めることに興奮しているのか、それとも聖を沈めることに戦慄しているのか分からない。
ただ一つ、自分が妖異に溺れていることだけは確かだった。
不意に、聖の身体が傾く。
水を湛えた蓮台がいよいよその重さに耐え切れなくなったのだろう。
達成感が胸を満たしていく。人を乗せた舟を久しぶりに沈めることができた。
でもその人は、今まで会った誰よりも大切な人ではなかっただろうか。
だがその人は、今まで会った誰よりも強く、死とは無縁だったはずだ。
けどその人は、今まで会った誰よりも自らの苦を顧みない人で――
そんなその人を、私はこの身に代えて守ろうと誓ったはずなのに!
「ひじり!」
両手が、しっかりと聖の身体を抱え上げていた。
その足元から離れた蓮台だけがゆっくりと池の中へ沈んでいく。
それを全く気にかけることなく、私は聖を胸に抱いて懺悔の言葉を吐き出した。
「ああ、ごめんなさい、聖。貴女を救うと誓ったのに、私は、どうして、水の中に、閉じ込めようと――」
「ムラサ、ムラサ! 落ち着いて……大丈夫です。私は貴女達に封印を解いてもらい、再びこの地を踏むことができました。
そして今も、貴女のおかげで池に落ちずにすみましたから」
聖は私の腕をゆっくりと解きほぐすと、今度は私の頭をその胸の中にしっかりと収めた。
濡れた服ごしにもぬくもりを感じることができたため、聖がここにいることを確かに自覚する。
落ち着きを取り戻した私に、聖は謝罪の言葉を呟く。
「ごめんなさい、ムラサ。私が浅はかだったわ、貴女が楽になってくれればと思っていたけど、かえって貴女を苦しめてしまいましたね。
……ああ、やはりあの娘達に言ったように、私は既に魔性に堕ち果ててしまっているのでしょう」
悔恨と安堵のためか、胸がつかえて喋れなかった私は必死で首を横に振る。
聖のおかげで水難を起こしたいという欲求は確かに満たされた。私はまたも、聖に救われたのだ。
だから今から言うべきは、聖の思慮を無為にしないための言葉で――
「――いえ、少し取り乱してしまいました。ありがとうございます、聖。おかげさまですっかり気が晴れましたよ。
貴女は妖を飼(やしな)うためにその身を捨てることのできる、尊いお方です。ですから魔性などと卑下なさらないで」
「ムラサ」
私の顔面に貼り付いた笑顔を見て、聖は悲しそうに目を伏せる。
その口が開かれ何かを伝えようとするものの、言葉が紡がれることはなかった。
――ああ、結局聖を悲しませてしまった。
わかっている、聖が盲信されたり神聖視されたりすることを望まない方だということは。
それでも私にとって聖は絶対的な存在だった。
だからその自嘲が正しかったときでも、可能な限り否定の言葉を考え出すだろう。
また、聖の言葉が間違っていると気付けたときでも、聞き入れた結果別種の苦しみを抱えることになったとしても、可能な限り叶えて差し上げたいと思ってしまう。
しばらく二人して押し黙っていたが、やがて聖が先に口を開いた。
「……話は変わりますが、ここのところ皆が熱心に努めてくれたおかげで、この命蓮寺も大分形が整ってきました。
ですから、明日以降しばらくは自由時間を設けようと考えています。
この機会に身を休めるもよし、久しぶりの地上を駆け回るのもまたよし、好きなように過ごして下さい」
「はい」
その言葉は正直ありがたかった。しばらくは聖とまともに顔を合わせられそうもない。
会うたびに悲しそうな顔を向けられたら、きっと耐えられないだろう。
ふらふらと立ち去ろうとする私の背中に、聖が憂いのこもった言葉をかけてくる。
「各地を遊行しているうちに色々な方からお話を伺ったところ、ここ幻想郷はあらゆる妖異を受け入れる場所と聞いています。
ですからきっと、どこかに貴女の妖異をも許容してくれる余地があるでしょう。もしも何か手がかりを見つけたら、すぐに私に教えてね」
「……わかりました。必ず」
私は軽く振り返って会釈し、それから再び歩き出す。
直後に聖の言葉が耳をかすめたが、聞き返す意志が湧かなかったために振り返りはしなかった。
「貴女が道を見出す過程で何が起きてしまったとしても、その責は私も負いましょう」
寝覚めは久しぶりに悪くないものだった。だが、それも聖を沈めかけたことで得た爽快さだと思うと、途端に気が重くなる。
私は冴えた頭を抱えたまま、誰にも見つからないように寝所を抜けた。
音もなく寺を飛び立ち、私は聖を救出すると決めて以来やっていなかった、自作の舟を沈没させるための水場を探すことにした。
恩人にすら手を出してしまうような禁断症状に再び陥る前に、定期的に妖異を発散させる場を作っておかなければならない。
材料となる木を身近で調達できれば好都合なので、妖怪の山と玄武の沢を天秤にかける。
結果、妖怪の山は河童の縄張りがあることを思い、玄武の沢がある魔法の森方面へ向かうことにした。
六角柱の岩で構成された断崖絶壁に挟まれている渓流、それが玄武の沢である。
聞いた話では、最近になって妖怪の山から水が流れ込むようになり、少し水嵩が増したらしい。
なんでも外の世界から大きな湖が移動してきて、そこを水源とする新たな川が生まれ、この玄武の沢に小さな滝を作るようになったそうだ。
その小滝を横目に、私は谷底で手ごろな大木を一本切り倒し、幹をくり抜いていた。
聖に帰依してから地底に封じられるまでは、いつもこうやってきたものだ。
舟を作り、ある程度沖まで乗り出してから、水を注いで沈める。
そんなことを晴れの日も時化の日も繰り返してきたためか、私自身の航海術もそれなりのものとなっていった。
地底に閉じ込められてからも、そこにあった巨大な地底湖に何かを沈め続けてきた。
主な材料は新地獄から廃棄されてくる、三途の船頭達が使い古したボロボロの舟。
それを集めてから知り合いの妖怪――封獣ぬえに使い魔をとり憑かせて操ってもらい、それらに水難をもたらしてきた。
いつだったか、ぬえが方陣を組ませた船団を片っ端から沈没させていたとき、通りかかった地霊殿の主に何をしているのかと訊かれたことがあった。
真っ先にぬえが「侵略者遊戯」と答える傍ら、私が正確な事情を話すと、彼女――古明地さとりは奇異な物を見たような顔を作った。
「貴女は自らの妖異を抑えることに心を砕く、変わった妖怪ですね……全ては人間と妖怪が等しく暮らせる世界を築くために、ですか。
ですが、自らの妖異を厭うことのないようにご注意を。そうしてしまって全く異質な妖異を抱え込み、それに飲み込まれてしまった哀れな子を知っているので」
思い返してみれば彼女から忠告を受けていたようだ。どうやら私は相当歪な存在だったらしい。
閑話休題、たしか私はそれから、普通の妖怪達はどのようにして妖異をなしているのかを訊いたと思う。
なにぶん私は海の一箇所に縛られていた上に、解放されてからは聖の教えを受け続けていたため、普通の妖怪についてあまり詳しくなかった。
「貴女にも予想はついているかもしれませんが、強い人間を襲うのが一番後腐れなく妖異を果たせる手段なのです。勝利するにしろ敗走するにしろ。
……え? どうやって人間を襲っていたか、ですか。それはですね、ここがかつて地獄だった頃は、獄卒の鬼達の管理がずさんだったのです。
だから怨霊や土蜘蛛、鵺に、あまつさえ境界を管理するはずの橋姫までも、地獄から這い出て好き勝手に京(みやこ)を跋扈し、退治されては戻っていました。
是非曲直庁の改革と地上の賢者の介入以降、そのような無茶は行われていませんけどね。皆の気性も随分と丸くなったものです」
製作途中の丸太に腰かけ、崖から沢へ流れ落ちる小滝を眺めながら、私は過去から現在へと意識を移す。
さとりの言葉を参考にするならば、この欲求不満を完全に解消できるのは歯ごたえのある船乗りを相手取ることだろうか。
たしかにこれまでのやり方では、今ひとつ物足りなさを感じていたのも事実だ。
「ぬえは面白がって付き合ってくれたけど、あいつが操る舟を沈めるのには全く苦労しなかったわね。あいつも水からは縁遠い妖怪だから仕方がないけれど。
はぁ……でもこの幻想郷に航海術に優れた者なんているのかしら?
視界の悪い霧の湖に釣り舟はなかったし、そもそも人間は里に隔離されているから水運の必要がない。まして水運を利用するような妖怪なんて……」
結局自作自演しか手がないのかもしれない――と、落胆している私の耳に、どこからともなく歌が届けられてきた。
声の元に当たりをつけて崖の上を仰ぎ見ると、いつの間に現われていたのか妖怪の姿を見つけた。
その鳥のような妖怪は、なにやら崖下の川を見下ろして楽しそうに唄っている。
つられて私もそちらに目をむけ――
そして胸が跳ね上がるのを感じた。
一艘の舟が澪を描いて、木々の陰からゆっくりと姿を現す。船頭は女。気配からすると、少なくとも人間ではないように思われる。
その船頭はところどころ水面から突き出している六角柱の岩を、なんなく避けて進んでいた。
と、妖怪の歌声から愉悦が消え、焦りが混じり出した。必死に叫ぶような声音の歌が、水音をかき消すほどにまで響き渡る。
しかし船頭は全く気にかけることなく、流れの乱れている滝壺を大きく避けるように舟を動かす。
「ちょ、ちょっと待って~! 無視すんな!」
とうとう妖怪は唄うのをやめ、抗議の声を上げた。
するとようやく船頭も妖怪の方に意識を向ける。舟をその場に留めおくことも忘れずに。
「やあ、ウナギ屋台の女将。いや、楽しそうに唄っていたもんだから、邪魔するのも悪いかと思ってね。あたいもちょうどクルージングに忙しかったし」
「ノリが悪いよ! 岩場で唄う妖怪がいたら、その歌声に聴き惚れるのが船乗りのたしなみってもんじゃないの?」
「なんだそれ……って、そうか! お迎え課の戦乙女からそんな話を聞いたことがあったなぁ。ライン川の水難ってやつだね。
ははぁ、とするとその故事にちなんで、本日の売りはローレライの歌声ってわけだ。
商売熱心だねぇ、あたいにゃ真似できんよ……と言ったらボスに怒られるか」
ばつの悪そうに後頭部を掻いていた船頭だが、次第にその眉が不敵に吊り上がっていく。
場に剣呑な空気が生まれたように私は感じた。これから始まるのだろう、ここ幻想郷で頻繁に行われている、美しくも残酷なスペルカード決闘が。
それにしても随分あっさりと始まるものだと思う。この地では妖異と妖異がぶつかりあうことなど、日常茶飯事なのだろうか。
「そゆことよ! いざ籠もて来たれっ、私の可愛い使い魔達! さぁっ、フナッ、ビトをっ! ニンゲンを~さらえぇ!
鳥符『ヒューマンケージ――」
私が考え事をしている間にも事態は転がるように進んでいく。
妖怪は唄いながら啖呵を切ると、数枚束ねられたスペルカードを高々と投げ上げた。
「――ダブル』!」
そこから二羽、鳥形の幽霊のようなものが生まれ、それぞれ妖怪の歌声に導かれて二手に分かれる。
彼らはその後、舟の周囲を旋回しながら行跡に羽根型の弾幕を隙間なく残していった。
「ほうほう、見事な手並み。それじゃああたいもおひねりを弾まないとね」
しかしながら船頭の方はというと、弾幕に取り囲まれたわりには平然としている。
そのまま持っていた櫂をゆっくりと手放すと、懐から四枚スペルカードを取り出し、両手に二枚ずつ分割した。
「死価『プライス・オブ・ライフ』」
宣言と同時に、手の中のカードがそれぞれ銀銭と銅銭の束に変わった。
船頭は貨幣の中央を通している紐のコブを解いてから、妖怪に向かって豪快に投げつける。
ただ当然のことながら、押さえつけていた端がなくなったため、妖怪に至る前に貨幣は無秩序にばら撒かれていく。
「注文は一ツッきり! 『サーチ アンド デストロイ』……オーバー、なんてね」
しかし船頭のジョークめかした命令を受けた途端、落ちていくだけだったそれらがありえない方向に進み始める。
まるで妖怪との距離を無いものにするかのように、標的目がけて収束していった。
「な、なによこれ!?」
それだけではなく投げつけただけの銭束も、妖怪の周囲を公転するかのように一定の距離を保ちながら旋回を始める。
そして行く手を遮るように貨幣を宙に撒いていった。
「あっはっは~。御阿礼のお嬢の書に曰く、『夜雀ハメるにゃトリモチで』
どうだい、ブン屋ですら抜け出せなかった、絡みつく弾幕のトリモチわっ!?」
水の爆ぜる音が船頭の快哉を強引にかき消した。どうやら鳥の撃ち放っていた弾幕が舟の傍に着水したらしい。
衝撃で崩れた体勢を立て直しながら、船頭は少し焦った風に呟く。
「……な~んて、暢気に謳っている場合じゃなかったね。さっさと女将の攻撃範囲から退散しないと」
「あっ、コラ待て逃げるなぁ!」
「じゃあね。歌の続きはまた屋台で聴かせてもらうよ」
船頭は妖怪を見つめたまま、たまに前を振り返りつつ、櫂を力強く漕ぎ出す。
そしてゆっくりと後ずさるように、未だ貨幣に絡まれている妖怪との距離を離していった。
「あーもう! 勝負の白黒はついてないから、来てもオゴリとかは無しだからね……ひゃわっ!」
危ないところを凌いだ妖怪の宣告を受け、船頭は笑顔のまま手を振って返した。
その後妖怪がどういう顛末を迎えたのか、それは私の知るところではなかった。
なぜなら私の関心は、過ぎ去ろうとしている舟に向けられていたから――
災禍を逃れた舟を、船頭は鼻歌交じりに進めていく。私はそれを木の陰から見つめ、話を切り出すきっかけを伺っていた。
目的は当然、あの船頭と正面から渡り合って舟を沈めること。先程の手並みを見るに、充分な歯ごたえがありそうだと感じられた。
「でも……あの船頭は見ず知らずの私との決闘に応じてくれるかしら?」
少し不安もある。そもそも地底の時とは違い、誰かが愛用している舟を沈めようとしているのだ。そうやすやすと合意が得られるとは思えない。
「とにかく、断られることを恐れていては何も始まらないわね。まずは真摯な態度でお願いしてみることにしましょう」
私は腹をくくって飛び出し、忍び寄るように船頭の背中に迫り、口を開こうとする――その直前で船頭が後ろを振り返った。
彼女は驚いている私を見るや、苦笑を浮かべる。
「おやおや、今日のあたいにゃ水難の相でも出ているのかな。セイレーンの次は舟幽霊、立て続けに水魔に襲われるとはねぇ」
「! 私の正体を一目で……」
「仕事柄、霊とつくものは見慣れていてね。幽霊怨霊はもちろん、亡霊騒霊半人半霊、果ては坤の神霊乾の分霊とも縁があるから、大抵見分けがつくのさ」
船頭のその言葉で、私は彼女の素性に何となく察しがついた。
「なるほど、ここ幻想郷でも唯一営まれている水運業がありましたね。すなわち死神による霊魂の彼岸送り。貴女は三途の渡しですか」
「そうさ。人呼んで三途の一級案内人たぁ、この小野塚小町をおいて他にいないよ。そして足元のこいつが相棒、三途のタイタニックさ」
「……まぁ、名前のわりに随分小さな豪華客船ですね」
「ふふん、そうは言ってもあたいが舵を取る以上、図体だけの大船以上に安全で快適な舟旅を約束できるんだけどね。
で、だ。お前さんはアレかい? ちょっと前に此岸で噂になっていた、間欠泉に噴き上げられた空飛ぶ船の関係者?
いや、ほら、なんだか見た目が水兵っぽいからさ」
船頭――小町は私の正体を看破した後でも、不快感を示さず気さくに話しかけてくる。
いい兆候だと思う。あるいは、それほどの脅威ではないと舐められているのかもしれないけど。
「申し遅れました。お察しの通り、空飛ぶ船舶・聖輦船の船長を務めておりました村紗水蜜です。
ですが今や聖輦船は常の役目を改めたため、一介の舟幽霊に戻ってしまいましたけどね」
「それで暇を出されたから、久々に舟でも沈めようと思ってあたいに目を付けたのかな?」
先回りして、笑いながら私の目的を告げてくる小町。その笑顔があまりにも邪気のないものだったため、私は一瞬言葉に詰まる。
ややの間を置き、小町が首をかしげる頃になってようやく、おずおずと切り出した。
「その……よろしいでしょうか? 先程貴女が妖怪から逃れてみせた手腕を見て、なんというか、むらむらと感情が沸き立ったのです。
私の妖異を全力でぶつけてみたい、と。迷惑な話かもしれませんが、お付き合いいただければ――」
「い、良いよ。遊び相手になってあげるさ……くく」
「――!?」
あっさりと小町は同意してきた。しかし、何故か噴き出すのをこらえるように身体を屈めている。
彼女は何とか身体を立て直すと、次第に憮然とした顔になっていく私に向けて、なだめるような声音で謝罪してきた。
「い、いや、笑ったりしてすまなかったね。まさか妖異を仕掛けるのに、そんな下手に出てこられるとは思わなかったからさ」
「……私に限らず、命蓮寺一門はいたずらに妖異を振るうことを慎むよう心がけているのです」
「ふむ、殊勝だねぇ。でもそう窮屈に考えることはないよ。ここ幻想郷は妖異から人為、果ては神威までもが好き勝手にひしめき合う酷い場所なんでね。
さっきの女将みたいに自分の都合で妖異を仕掛けたとしても、大して文句は出ないものさ。
お前さんの目の前にいるのだって、空が蒼いからって理由で暴れるような奴だしねぇ」
小町はおどけて肩をすくめてみせる。
空が蒼いから、ローレライの姓を冠するから、そんな些細な理由でぶつかり合う奔放さに私は呆れの溜息をつくしかない。
だが動機の酷さに目をつむれば、その懐の広さに関しては悪くない気がしてくる。
妖力を自由に発揮できる開放的な楽園――ここは聖の目指した理想郷に近いと思った。
「聖、貴女の仰ったとおり、ここはあらゆる妖異を受け入れてくれるのですね」
小さく呟いてから、私は大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出す。それから顔を上げると片目をすがめて小町に柄杓を突きつけた。
「先程タイタニックと仰いましたが、私にとっては実に縁起の良い名前ですね。何しろ名高い沈没船のものですから。
そのような名前をぶらさげて私の前に現われたこと、嫌というほど後悔させて差し上げますわ!」
「そうそう、そんな調子さ。いい顔をするじゃないか。なに、そっちがどういうつもりであれ、あたいはつつがなく舟を航海させるまでさ!」
私が妖怪らしい悪辣な顔で酷い動機を宣告すると、自称一級の水先案内人は打てば響くように小気味よく応じてきた。
「溺符『ディープヴォーテックス』」
先手、私はスペルカード二枚を柄杓の中に詰め込む。カードは宣言を受けるや大量の水を川から吸い上げ、水竜巻を徐々に築き上げていった。
高々と渦巻くそれを目の当たりにして、小町の顔が次第に青ざめていく。
「――まずい!」
叫ぶや小町は慌てて踵を返し、人間離れした膂力で櫂を振るい、流れに沿って舟を走らせ始めた。
私はその背中と、それから遥か先にかろうじて見える、彼女のゴールに目をやる。
正確に言うならば、ゴールとは川の両側に沿って続いている崖同士を、往来できるように渡してある岩のアーチ。
小町がそこを通り抜けるよりも先に舟を沈められるかどうか、それがこの勝負を始めるにあたって定めたルールである。
「まずは一当て。改めて貴女の技量のほど、試させていただきます」
舟の撃沈に使ってよい手段は全て弾幕。小町も逆に、こちらの攻撃を弾幕にて妨害してくる手はずになっている。
その気配がないことを確認すると、私は空を蹴って飛び立ち、上空から水竜巻を抱えた柄杓を振り下ろした。
逆さまになった渦巻く水は筒状の瀑布となって、頭上から大口を開けて舟を飲み込まんとする。
「間に合え! 舟符『河の流れのよ――」
水の帳に隠されてしまった舟から、小町の叫びがかすかに届いてきた。
しかし、その甲斐はあったのだろうか――轟音と踊る水飛沫と急流が混ざり合う光景を見て、私は不安と一抹の失望とを抱く。
これで、こんな程度で終わってしまったのだろうか――
だが次の瞬間、水煙る景色の奥に颯爽と遠ざかる舟の姿を見つけた。
視界の先で、舟は押し寄せる怒涛に飲まれることなく浮き上がり、勢いを殺さず川下りを敢行し続けていく。
「……凄いわ! 着水後の波を利用して加速するなんて」
思わず賞賛の言葉がこぼれる。だが感心している暇などなかった。足に自信がない私は急いで追いかけなければならないのだ。
すぐに対応策を探し、それから周囲の地形を確かめる。その中で視界の右側に映った、頂上だけが前に突き出した崖に注目した。
そして私は左手で背中の錨を掴み上げる一方、右手でスペルカードを一枚取り出し、二つ折りにして錨の穴に引っ掛ける。
「転覆『道連れアンカー』」
川面から顔を覗かせている岩場の上でカード名を告げると、私は錨を下から振りかぶり、崖の突端目がけて力一杯投擲した。
狙い違わず鋼鉄の錨が突端の側面に深々と突き刺さる。
「さて、旅は道連れ。水先案内、よろしくお務めを。我が無骨な相棒」
投げつけた姿勢を保ちながら、私は伸びきった自分の右腕と、その手の中のありえないくらいに伸ばされたカードを軽く引く。
それから不意に、両足から力を抜いた。
すると身体がカードの縮む力に引かれて浮き上がり、錨が刺さっている突端に向かって勢いよく飛ばされていく。
このまま進めば衝突する手前まで至って、私はカードを通じて錨に霊力を送り込んだ――刹那、突端が内側から水飛沫を上げて崩落していった。
行く手を遮るものを取り除いた私は勢いを削ぐことなく、途中で錨を捕まえてから小町の背を追いかけていった。
「見つけましたよ」
砲弾のように風を切り裂いていく中で、私は眼下に舟の姿を捉えた。再び錨を構え、今度は舟の舳先の手前を狙う。
「おわ! もう来たっ?」
落下する錨の唸り声を聞きつけたのか、小町は間一髪、進行方向を曲げて回避した。結局、錨は川面を切り裂くだけに留まる。
だがそれだけで攻撃を終わらせるつもりはない――私は飛行を解除し、再びカードの縮む勢いに身を任せた。
「なんつぅ移動方法だ!」
「名前がそのまま力を表す、それがスペルカードでしたよね!」
急降下する傍ら、私は柄杓を手に取り、霊力を込めてから振りかぶる。
「させんよ!」
だが小町も指をくわえて待ってはいなかった。スキルカードが変じた銭束の紐の端を噛み千切り、こちらに投げつけてくる。
「『死神の投げ銭』は百発百中! ちょいと距離さえいじってやれば、あとは果報は寝て待てだ」
豪語するとおり、ばらばらに撒かれたかに見えた貨幣の全てが私目がけて飛んでくる。
鳥の妖怪に仕掛けたものと同じだろうか、ならば一度やり過ごす――決断した私は、縮むカードに引きずられるまま川底へ向かった。
貨幣も私を追いかけてくるが、水中に入ったことで勢いが削がれ、そのまま全てが沈んでいく。
それを確認すると私は川から浮上し、みるみる遠ざかる舟の横っ腹目がけて錨を投擲した。
「ふっ!」
しかし相手は櫂を大きく一漕ぎ、舟を急速に前進させる。遅れて空を切った錨はそのまま崖の側面に突き刺さった。
さらに遅れて、カードに引きずられた私もそこに足を付ける。
「点の攻撃はやすやすと避けられますか。ならば――」
私はすぐさまカードの折り目と錨の穴の間に柄杓を挟み入れ、錨を回転させてカードをねじっていく。
限界まで絞ってから、錨を回した方向とは逆向きにひねりを加え、舟の頭上を通り過ぎるように錨を振り放った。
私の拘束から自由になったカードは、ねじられた状態から元に戻るために錨を高速で回転させる。それに合わせて柄杓が周囲に散水を始めた。
「なんだって!?」
今度は錨に引きずられないよう力を加えながら前進していると、下方から小町の驚愕が聞こえてきた。
薄く笑い、戻ってきた錨を捕まえる。それから舟を見下ろすと、どうやら散水を避けきれなかったようで、舟底に水が溜まっていた。
「……『プライス・オブ・ライフ』、一枚残しときゃよかったよ」
「うふふ、確かにあれは足止めには最適に見えましたね」
「四枚投入して鬼神級(ルナティック)にしときゃ確実だからね。今はそれが仇になったけど」
ようやく有効な初撃を加えられたためか、額を拭う小町のぼやきに応じるだけの余裕が出てきた。
柄杓に水を溜めながら空を翔ける一方、私は会話を続ける。
「先程は見事な操舵を拝見させていただきました。『ディープヴォーテックス』は着水後の乱流こそが曲者だというのに、上手く乗りこなしていましたね」
「ああ、タネも仕掛けもあるズルさ。さっきのスペルカードが舟の下から三途の水を吐き出してくれる限り、どんな荒波が来てもバランスを保てるんだ」
「そんな手段が……慣れているのですね」
「激流下りがオフの楽しみなんでね。最近はマンネリ気味だったが、今日はまた一味違いそうでわくわくしている、よっ!」
追撃の気配を察したのか、小町は言葉の切れと同時に櫂をこちらに向けて薙ぎ払った。
迫る四つのつむじ風を相殺するため、私は仕方なく柄杓で水の防壁を築いた。
思わぬ反撃に出足を挫かれたが、私は焦ることなく次の攻撃準備に入る。
なぜなら、これから舟のスピードは徐々に落ちていくことがわかっていたから――
「激流はどうやらここまでのようですわ。ほら、川幅が広がってきました」
「……」
小町も悟ったのだろう。口を閉ざし、広く穏やかになっていく川面に櫂を何度も突き立てる。だがやはり、先程までのような加速は一向に得られないようだ。
後ろからそれを確認した私は、二枚のスペルカードを使って九の錨と十の鎖を召喚した。
「湊符『ファントムシップハーバー』……流れも治まったことですし、貴女の航海もそろそろ終いにしてはどうでしょう? ほら、錨ならこの通り」
十の錨全てに鎖を繋ぎ、それぞれ五ずつ左右に分ける。この複数の点をもって同時に攻撃すれば、すなわち面による制圧となる。
先程は機動力を殺さないことが重要だったが、今の小町に距離を開けられる心配はまずないだろう。
「港から停泊のお誘いか……それじゃあお言葉に甘えて、大口のお客さんでも呼び込むかね」
だが増えた錨を見ても臆することなく、それどころか小町は茶目っ気を含めたウィンクを返してきた。
そしてスペルカード三枚を懐から取り出して舟の上に広げ、それぞれの上に貨幣を六枚ずつ積み上げていく。
「さぁさ死出の体験版だ、今ならロハでお楽しみいただけるよ。死歌『八重霧の渡し』」
「がっ!?」
小町のカード宣言と同時、私は後頭部に衝撃を受けた。
すぐに背後を振り返り、そして呆然となった。
「な、なんなのこれは!」
視界に飛び込み顔のすぐ傍を飛び抜けていったのは、おびただしい数の幽霊だった。
崖の上から、木々の間から、さらには川面から飛び出して、一直線にこちら目がけて集まってくる。
「このっ」
押し寄せてきた幽霊の群れを片手の錨で薙ぎ払うと、儚い彼等は一瞬で霧散した――すぐに元の形に戻ろうとしていたが。
その隙に小町の舟を振り返った私は、驚愕で目を剥く。
「ゆ、幽霊が集まって……渦を巻いている?」
私を通り越していった幽霊達は、小町の舟の周囲を互い違いに旋回していた。霊の密度は非常に濃く、舟は完全に覆い隠されてしまっている。
とにかく周囲の幽霊達も相殺するために、私は錨を前後に半分ずつ投げつけた。
だが、前方の幽霊の渦はある程度切り裂けたものの、錨は全て途中で弾き飛ばされてしまった。傷も周りから幽霊が補充されていき、あっという間に塞がってしまう。
「どうだい、なかなか厄介だろう? こいつらはブン屋の写真機みたいな反則技を受けても、やすやすとは崩れないんだ」
勝ち誇ったような声音を上げて、幽霊の渦はゆっくりと川を下っていく。
それを阻止せんと私は錨を引き連れて飛び上がり、上空から行く手を遮るように振り落とした。
一直線に川を横切るそれらは底に突き刺さり、鎖が鉄格子のようになって舟の前に立ちはだかった。
「応用力があるねぇ。でもムダさ」
「つっ!?」
だが渦巻く幽霊に触れた途端、軽々と鎖は弾き飛ばされてしまう。腕に伝わってきた衝撃に、思わず私は呻きを洩らした。
開いた穴を悠然と潜り抜ける姿を、私は苦々しく見送る。
「貫通力に優れた攻撃を持っていないのが悔やまれるわね。ぬえや星、聖なら……」
光り輝く怒涛を携えた皆の姿を思い浮かべる。あの手の攻撃なら、分厚い幽霊の壁を通り抜けることができるだろうに。
「通り抜ける……術はあるんだけど、ゴールも間近に迫ってきた今、果たして間に合うかどうか……なんて迷っている時間も惜しいか。
もはや賭けに等しいなら、あの高く積み上げられたチップを崩して験を担ぐとしましょう!」
決意するや、新たなスペルカードを左右の手で二枚ずつ取り出し、片手ずつ一束に、それから両手を合わせて四枚を一束にまとめた。
「幽霊『シンカーゴースト』」
宣言と同時、カードから緑色の光が揺らめく海藻のように沸き立ち、私の身体を染め上げていく。
「さて、渚を沖と錯覚させねば、か……ええ、あのとき人間を陽動してみせたように、今回も欺いてみせるわ」
虫の羽音のような唸りを響かせて、私の身体は二つに分かれながら宙に溶けていった。
そのときの小町の顔と言葉を、私は忘れられないだろう。それほどまでに深い動揺を示してくれた。
「きゃん!?」
空気に浸透していった私は幽霊の渦をすり抜けて舟の真横に結像し、その手が柄杓の水を注ぎ入れる。
今まで撒いてきた量よりも遥かに控えめなそれは、しかし舟に積み上げられていた貨幣の塔を倒壊させる。
すると、舟の周りを旋回していた幽霊達があっという間に離れていった。
「これが、死出の六文銭が仕掛けの肝だったのですね。なるほど、確かに幽霊を釣るにはうってつけの品」
「くっ」
私の納得に対する小町の返事は、振るわれた櫂から飛んでくるつむじ風。
至近距離から放たれたそれは瞬時に私の身体を攪拌させ、四散させる。
「そして、川が広がってからあのカードを切った理由は、舟が揺れて六文銭が崩れる心配がなかったから、と。本当に戦い慣れていますね」
だが、ばらばらに散った私は舟の舳先に収束し、何事もなかったかのように再生した。そしてすぐさま水が柄杓から舟へと移される。
「効いてないのかっ? だがこいつなら、『無間の道』!」
小町は慌てて舳先に向かい、私の足元の水面を櫂で切り裂いた。瞬間、間欠泉が私を包み込む。
それから小町は捨て台詞を残して舟を先へ進めていった。
「そこでしばらくじっとしているんだな!」
「これは……足止めの技でしょうか? ふふっ、残念ながら徒労ですわ」
軽くあざけりながら、桜色の奔流の中で私は音を立てながら身体を分割させる。
「逃がしません!」
「馬鹿な!?」
再び私は逃げる舟の舳先に結像し、柄杓を傾けた。そして手の止まった小町を、片目をすがめて見下ろす。
――かかった! 彼女は私を追い払うことに躍起になっている、脇目も振らずに逃走することこそが正解なのに。
『シンカーゴースト』において、柄杓の一振りで撒ける水の量は決して多くない。本来は密閉された空間でこそ真価を発揮するスペルなのだ。
今のような開放された空間では、一つ所に留められなければ効力は拡散してしまう。浅瀬は、重ねて蓄積させなければ深海にはなり得ない。
だから私は、どこにでも瞬時に飛べ、何者にも邪魔されずに柄杓を振るえるという事実をもって、相手に絶望の淵を幻視させる必要があった。
そこに引きずりこめたかに見えた小町だったが、突然私が注いだ水を両手で受け止め、そのまま顔目がけて勢い良く浴びせかけた。
「――っふう! さっぱりした!」
そして唖然としている私に悪戯っぽくウィンクしてみせると、再び力強く櫂を漕ぎ出す。
一瞬その表情に見とれた私は、しばし去り行く舟を見送ってしまう。
正気に返った私は慌てて先回りしようと宙に溶けていく、その直前に小さく呟きながら。
「……大した余裕ですね。逆境を前にして、あんな手段で目を覚まさせるなんて」
「気を欝(ふさ)がなければ、視野を広く持てるってね!」
耳ざとく聞きつけて返答しながら、小町は櫂を振るって舟を強引に横に流した。遅れて、私は直前まで舟のあった場所に出現する。
「なっ、どうして!?」
目を丸くして空振りに終わった柄杓を、それから小町を順に見つめる。
「視野が広がるだけでなく、耳の通りも良くなるもんさ。どうやらお前さんはワープの前後に蚊の羽音みたいな唸りを上げるようだな」
「っ!」
「幽霊の発する幽かな音を聞いてお喋りするのが、仕事上の一番の楽しみなんでね」
全く、これほどの難敵がここ幻想郷に潜んでいるとは思わなかった。
だがそれでこそ沈めたときの達成感も大きいというもの。
決して諦念にとり憑かれない小町に心の中で敬意を示しながらも、私はあくまで挑発を続ける。
「なに、出現位置を予測されても、対処が追いつかないくらいに素早く動けば問題ありませんわ。現に貴女の舟も水っ腹で、動きにくそうに見えますが」
「なんの、こっちも蚊遣りの煙を焚くから問題なしだ! 恨符『未練がましい緊縛霊』」
それを受け流しながら、小町が反撃の狼煙を上げてきた。
彼女の掲げたスペルカード三枚から、先程とは毛色の違う幽霊が大量に生み出された。
「緊縛霊ですって?」
名前の意味するところに警戒した私は、一端小町の舟から退く。
距離をとってから結像し、しつこく追いすがってきた緊縛霊に向けて柄杓を振るった。
「これで相殺……できない!?」
だが青白い霊達は私同様、浴びせかけた水をすり抜けて迫ってくる――
「しまっ……え?」
それだけでなく、霊達は私の身体をも通り抜けていった。
「うわ、これもダメかい」
「っ虚仮脅しを!」
まんまと小町に一杯食わされた私は軽く逆上する。
すぐさま舟へ引き返し、腹立ち紛れに柄杓の水を小町に浴びせかけた。
だが小町は水を受けても微動だにせず、両手で櫂を掴み、その柄を下にして持ち上げる。
そしていきなり饒舌に語りかけてきた。
「舟幽霊は既に一種の妖怪になっているから関係ないが、幽霊ってのは気質の具現なんだ。
そしてこいつらは自分と同じ気質に惹かれる習性があるのさ。例えば陽気な幽霊は陽気な場所に集まり、逆に陰気な場所を避ける」
「お喋りはもう結構ですわ!」
もはや小町の言うことに聞く耳を向けまい、そう決意して彼女の背後に回りこんだ。
後から緊縛霊が纏わりついてきたが、構わず私は柄杓を傾ける。
「つまり幽霊には気質を敏感に捉える程度の能力が備わっていると考えていいだろう。
じゃあ、人間が強い光や大きな音を受けたときのように、幽霊が激しい気質の爆風に晒されたら一体どうなるんだろうねぇ?」
「……」
水が溜まり、舟が軽く沈んでも、小町は喋るのをやめない。その豪胆ぶりに、次第に懸念が募ってくる。
「今のお前さんはスペルの符号のとおり幽霊に近いみたいだから、身をもってそれを体験できそうだな」
「貴女、まさか――」
「吸霊という術があってね。幽霊の気質を活性化させて爆発させるんだよ。こんなふうに、ね!」
言うや小町は櫂の柄を舟底に叩きつけた。
同時に、私の傍の霊達が震えだし、桜色に明滅し、そして耳を突き刺す甲高い音とともに爆ぜた。
「なっぁあああっ!」
瞬間、私の目が焼きつき、耳が割れる。
前後不覚になった私は頭を抱えてうずくまり、そのまま意識が深い闇の底へ沈んでいった。
水にたゆたう心地良さ、静かに繰り返される波の音――
久しく忘れていたそれらを感じながら、私はゆっくりと目を開けた。
「やあ、お目覚めかい?」
「……ここは?」
「あたいの舟の上だよ。ちゃんと水は全部捨てて、舟底は拭いてあるから安心していいさ」
「……そうか、私は負けたのね」
小町の穏やかな声を聞くうちに、次第に現状への理解が広がっていく。私は緊縛霊の活性爆破を間近で受けて、意識を吹き飛ばされたのだった。
凄まじい気質の暴風だったと思う。激しい怒りとも深い悲哀とも感じられたあれは、出来れば二度と味わいたくない。
私はゆっくりと上半身を起こし、身体に異常がないかを確認する。でも服がずぶ濡れになっている以外に、目立った変化はなかった。
「すまんが、ディゾルブスペルになって倒れかかってきたお前さんは避けさせてもらったよ。大した執念だったねぇ。
もしも舟の上に落ちてこられたら、おそらく沈んでいただろう」
「そうですか……ふふっ、それは惜しかったわ」
後ろ頭を掻きながら詫びてくる小町に、私は笑顔を返した。
敗北したというのに意外と気分は晴れやかだった。久しぶりに舟の撃沈に全力を振るえたことで、満足感を得られたのだろう。
悔いは多少残るが、それでも心躍る勝負ができて良かったと思う。
「こう言ってはなんですが、楽しい時間を過ごさせてもらいましたよ。たしかに知人の言ったとおり、手強い誰かを襲うのはいいですね。
今回は残念ながら負けてしまいましたが」
「なんの、スペルカードルールにゃこう謳われているのさ、『勝者は敗者の再戦希望を、積極的に受けるようにする』ってね」
「……では、次も受けてくれるのですか?」
「お前さんが魅力的な水難を用意してくれるなら、喜んで……っと言いたいところだけど、流石に商売道具を気軽に狙ってくれとは言いにくいねぇ。
スペアがあればいいんだけど、生憎と是非曲直庁も財政難だからなぁ」
意外なことに、小町は水難を求めて勝負に応じたらしい。
舟を沈められたがっていた、わけではないだろう。舟を沈められかねない水難を乗り越えることが目的だった、というところだろうか。
とはいえなんと言うか、酔狂だと思った。
「そんなわけだから、ちょいとキツめのペナルティでも考えて、牽制させてもらうとするか」
「ああ、勝者は敗者に何かを要求できるという取り決めもありましたね」
「本当は事前に話し合っておくものなんだけどさ……うーん、しかし難しいな。これから一週間温泉で背中を……そうだ!」
しばらく腕を組んでいた小町だったが、いきなり大声を上げ、こちらに向けてウィンクをしてきた。
「温泉に行きたいってのは震えながらゴール目指しているときに考えてたんだが、どうせならお前さんもさっぱり気持ち良くさせてやろうじゃないか。
そのための準備をしてくるから、先に温泉、間欠泉地下センター入り口に行っててくれるかい?」
「え? ええ、構いませんが」
私は話の流れについていけず、目を瞬かせる。
おそらく、これから温泉に行って何かをさせられるのだろう。しかしそれによって快い気分になれるとはどういう意味だろうか。
たしかにこのずぶ濡れの状態からは早々に逃れたいとは思っている。温泉に向かうというのなら願ったり叶ったりなのだけど。
小町の提案に期待と不安を抱きながら、私は舟から飛び立った。
妖怪の山の麓にある、間欠泉地下センター。
ここは私にとっても感慨深い、始まりの場所だった。ここから間欠泉が噴き出さなければ、私達が地上に出てくることも、聖を救い出すこともなかっただろう。
懐かしみながら今は河童によって改造されてしまった、地下に向かう大穴を見下ろしていると、小町が浮き上がってくる様子が見えた。
「あら、地下に潜っていたのね……って、あれは?」
よく見ると小町は背中に何かを抱えていた。それは彼女の身体よりも大きな、木製の桶に見えた。
「や、待たせたかな~?」
互いに目があったためか、小町が上昇しながら声をかけてくる。
「いえ、特には。ここは懐かしい場所でしたから、色々と昔の思い出に浸って時間を潰していました」
「そうか、それならいいんだが。じゃあ行こうか。あまりここに立っていると、風がその濡れた身体にゃ毒だろうからね」
「ええ、痛み入ります。あの、ところで背中の桶は一体? それが私のやるべきこととどういう関係があるのでしょうか?」
どうしても気になったので、私は小町が担いでいる桶について質問した。どこかで似たような物を見た覚えがある。やはり地下で、だったような。
「ああ、これかい? 地底に色んな桶を持っているのがいてね。その子に手配してくれるように頼んだのさ。
素朴な作りながらもヒノキを贅沢に盛り込んだ、一級品のバスタブさ」
「はぁ、温泉があるのに浴槽、ですか」
「そそ。まぁちょいと待ってくれ、すぐに分かるよ」
色々と疑問を抱えながら、小町の後を追ってしばらく歩くと、岩の間から湯気の立ち上る温泉が見えてくる。
その手前まで至ると、小町は突然浴槽を投げ入れた。桶状のそれは温泉の上でゆらゆらと揺れている。
「外で船長をやっていたらしい幽霊から聞いたんだけど、今や豪華客船にはデッキにプールが付き物だそうだ。
でもま、江戸っ子のあたいとしちゃ露天温泉でもあった方がありがたいんだけどねぇ。
って返したら、舟形の浴槽もあるらしいって答えをくれたんだ。いやぁ、改めて面白いと思ったね。経験豊富な幽霊ってのはさ」
私の疑惑の眼差しをよそに、小町は全く関係なさそうな話題を喋り出す。
それから唐突に私に向き直って浴槽を指差し、そしてウィンクしながら問いかけてきた。
「ところで、この湯船を見てくれ。こいつをどう思う?」
「あ……」
絶句。
次第にその意味するところを理解した私は、大声を上げて笑い出す。
温かい泉に浮かぶ湯の船――こんな見立てがあるなんて、思いもしなかった。
この船にならいくら湯を注ごうと、その結果沈んでしまおうと、誰一人として迷惑はかからないだろう。
「すごく、沈めたいわ」
「そうこなくっちゃね。さて臨時の三助さんよ、要求は一ツッきり。この中で打たせ湯でも浴びせてくれるかい?」
「了解です。ただ、少々張り切りすぎてしまうかもしれませんが、そこはご容赦を」
私は帽子を脱ぎ、おどけた仕草で軽く一礼した。内心では深い感謝の念を抱きつつ。
何しろ小町は私の妖異に付き合ってくれただけでなく、手近な対症療法をも提示してくれたのだから。
寺に戻ったら、昨日は冷たい水に晒してしまった聖のために、償いの意味も込めてその身を温めて差し上げようと思う。
勿論、この恩人のために精魂込めて背中を流す方が先だけど。
私は柄杓に『ディープヴォーテックス』と『グリモワール』のカードを詰めた。そして軽く霊力を込め、温泉から湯を吸い上げてシャワーのように噴出させる。
「お湯の勢いはこのくらいでよろしいでしょうか?」
「んー、妖精級(イージー)よりも弱そうだねぇ。もっと強くても大丈夫さ。しかし便利だねぇ、それ」
「ええ。このような使い方をするのは初めてで、不慣れな点も見受けられるとは思いますけど、精一杯頑張りますわ」
「嬉しいこと言ってくれるねぇ。それじゃあとことんリラックスさせてもらおうかな。勿論、お前さんも好きに楽しんでくれるといいさ」
私達はそこで会話を区切り、互いに自らの服に手をかける。その直前、私は片目を閉じて柄杓を小町に突きつけた。
「今度再戦するときは、大量のお湯をもって湯船に沈めて差し上げましょう」
「……あっはっは、そりゃあ熱いお茶くらい怖い話だ」
曰く、
「貴女がよく仕事をサボって他所の急流に走ってしまいがちなのは、転覆してしまいそうなほどのスリルが足りないからなのかしら。
ひょっとして、ボスのお説教を受けるかもしれないスリルも一緒に楽しんじゃってる?」
断っておくが、仕事場である三途の静かな流れだって嫌いじゃあない。お客の幽霊との会話を一切邪魔されないところなんかが最高だ。
だが、その起伏のない川を渡すのにゃ船頭の腕は全く関係ないという点が、一級水先案内人を自称するあたいの中に不満をもたらしていることも確かだ。
おかげでオフの日の激流下りで身についた操舵の技術は役不足に終わっているし、舟の繰りを褒められたことも今までなかったわけだから。
とはいえ、あたいの中で川を下る楽しさ自体が色あせることはなかったから、別にいいかと妥協もしていた。
だからこそ、あの新参との一連のやり取りは、本当に胸を熱くさせるものだった。
やはり心のどこかで誰かに認められたいと思っていたんだろう。
その過程で大事な相棒を狙われる破目になってしまったけど、まぁ、売られた喧嘩もこの世の華、ってことで。
~ 村町瀑布 ~
人間の里の水田地帯と境を接する空き地に建立された命蓮寺。
最初は建物一棟しかなかったこの場所にも、時とともに周囲を囲う外壁や内側を飾る庭などが築かれていった。
その庭の片隅には大きな池があり、そこで仏教と関わりの深いハスが、それも多様な種が育てられている。
夏には妖怪の山にある大蝦蟇の池と並んで、ハスの花の名所となることが広く知れ渡っていた。
その前に私はしゃがみ込み、手にしていた底のない柄杓に霊力を込める。すると池から水が重力に反して吸い上げられていく。
霊力で掬い上げた水を湛えた柄杓を、そのまま大きなオニバスの葉の上で傾ける。
何度か繰り返していると、しばらくは水を溜め込みつつも浮いていた葉が、やがて重みに耐え切れなくなって沈んでいく。
その光景にわずかばかりの達成感を覚えるも、それは溜息と共に胸の内から吐き出されていった。
「……もうこれで三日目。何を不吉なことをやっているのよ、私は」
わが敬愛する尼公・聖白蓮が創設した命蓮寺において、ハスの葉を沈めている自分に心の底から嫌悪感を抱く。
だがそれでも柄杓を操る手は止められず、私は他の葉にも池の水を注いでいく。
夜の池はまるで底なし沼のようで、沈んだハスの葉は二度と戻れないかもしれない、そう思ってしまうほどの漆黒を湛えていた。
「ムラサ……かしら? 何をやっているのです?」
「あっ、ひ、聖!」
暗闇に沈むオニバスの葉をじっと見つめていた私は、突然聞こえてきた声を受けて反射的に立ち上がった。
後ろを振り返ると、寝具に身を包んだ聖が首をかしげて立っている。
一番見られたくない人に見つかってしまい、私は大いに動揺した。
「なんでもありませんっ! た、ただ池のハスを眺めていただけで――」
「ムラサ、私の目を見て話して下さい」
「あ……」
聖の顔が次第に引き締められていく。その様子を見て、私は身を震わせた。
叱責を恐れたためではない。聖を悲しませてしまうこと、それこそが何よりも怖かった。
私は何度も口を空回りさせながら、先程自分がしていた行いを告白した。
「そう、ハスを……そうね。貴女の妖異は水難を引き起こすこと。この幻想郷には船がほとんどないから、欲求不満になるのも致し方のないことだわ」
「……申し訳ありません」
自分の節制のなさを心から恥じる。
聖の手で海から解放された後も、結局妖異への欲求からは逃れることはできなかった。
それでも聖が殺生を好まない性質である以上、なるべく命に関わる災禍を避けるのは当然のことと自戒してきた、つもりだった。
「私は、半端者ですね。星や一輪は自分の妖力を上手くコントロールして、仏法具を身に纏ってみせているというのに。
何度抑えこもうとしてもより強い衝動となって返ってきてしまうから、代償行動で気を紛らわせることしかできなかった」
「他者と比べすぎるのはよくないわ、ムラサ。あの子達の妖異は比較的惨憺たるものではなかっただけのこと。
むしろ、貴女こそが一番自分を律することが出来ていると思いますよ」
「ですが! 怖いのです……ここのところ毎晩、この池に来てハスを沈めているのです。そうしないと気が鎮まらないのです!
今まで、こんなことはなかったのに――!?」
肩を丸めてうつむいている私を、聖の両腕が柔らかく包みこんだ。
身体の震えが徐々に治まっていくのを感じながら、私は聖の顔を見上げる。
「ひじ、り」
「ああ、ムラサ。貴女はこの千年近い時の中で、独り妖異への欲求と戦い続けていたのですね。
ごめんなさい。もっと早く、封印されるよりも前に気付いてあげたかったわ。そうすれば何か力になれたでしょうに」
「なっ、聖に非はありません! 法が定める戒律に従うことなど、貴女に帰依した者は皆当然のこととして受け入れていますよ」
「そう、それがいけなかったわ。誰もが妖異への衝動を戒めることに疑問を抱いてこなかったから、それが孕む葛藤が表に出てこなかったのですね。
心身を削ってまで妖異を抑える必要なんてなかったのに」
聖の腕にさらなる力が加わる。
それから聖は自分の額を私のそれに触れさせると、弱々しく笑いかけてきた。
「皆が進んで、他者に迷惑をかけないように自制してきたことを私は誇りに思います。
一方の私はというと、自らのほしいままに破戒僧となり魔道に堕ちた愚か者です。
そんな私が貴女を始めとする気高き者達と共に在るためには、その抱えてきた苦難を知るための洗礼が必要……そうは思いませんか?」
「ひ、聖……何を?」
聖は私から身体を離すとゆっくりと池の上を飛翔し、法力で一際大きな蓮の台を作り出した。
その上で結跏趺坐を組み、私に向き直る。
「貴女の妖異、私が受け止めましょう。人が乗ったこの蓮台は、舟の見立てとしてより相応しいものにはならないでしょうか?
これを沈めることが、少しでも貴女の慰めになればいいのですけど」
「そんな! 聖を沈めるなんてこと、でき、ま……」
悲鳴に近い拒否の言葉はしかし、最後まで勢いが続かず生唾と共に喉の奥に飲み込まれていった。
思ってしまった――沈めたい、と。
理由も与えられてしまった――私の欲求を満たす行いは、聖の堕落を雪ぐことに繋がる、と。
私は己が種族に相応しいような足取りで、聖の座する蓮台の前まで進んでいく。
そして池の水を柄杓に掬い、震える手つきのまま聖の前に突きつける。
柄杓を傾ける直前、精一杯の理性を振り絞って、私は聖の顔を今一度見つめた。
――お願いです、どうか抗って下さい! この腕を振り払っていただければ、すぐにでも我に返れますから。
しかし私の切なる願いもむなしく、聖は穏やかにこちらを見つめ返していた。それはまるで、全てを受け入れる慈母の微笑みに見えた。
自失。
次に我に返ったときには、柄杓の水は空になっていた。代わりに、蓮台の上に水が溜まっている。
その一部は聖の寝具を濡らしてしまっていた。しかし聖は身じろぎ一つせず、ゆっくりと目を閉じる。
――ああ、貴女はいつだって、そうなのですね。封印されたときも自分一人だけが汚れる道を選んでいった。
私は顔を歪めながら、それでも手は柄杓を動かすことをやめられなかった。
聖を乗せる蓮台が次第に池の水で汚されていく。次第にそれは聖自身にも及んでいった。
水の冷たさゆえか、それとも濡れた布の感触がゆえか、聖の眉が僅かにひそめられていく。
空気を求めてあえぐように、口を何度も開閉させる。
もはや自分が舟を沈めることに興奮しているのか、それとも聖を沈めることに戦慄しているのか分からない。
ただ一つ、自分が妖異に溺れていることだけは確かだった。
不意に、聖の身体が傾く。
水を湛えた蓮台がいよいよその重さに耐え切れなくなったのだろう。
達成感が胸を満たしていく。人を乗せた舟を久しぶりに沈めることができた。
でもその人は、今まで会った誰よりも大切な人ではなかっただろうか。
だがその人は、今まで会った誰よりも強く、死とは無縁だったはずだ。
けどその人は、今まで会った誰よりも自らの苦を顧みない人で――
そんなその人を、私はこの身に代えて守ろうと誓ったはずなのに!
「ひじり!」
両手が、しっかりと聖の身体を抱え上げていた。
その足元から離れた蓮台だけがゆっくりと池の中へ沈んでいく。
それを全く気にかけることなく、私は聖を胸に抱いて懺悔の言葉を吐き出した。
「ああ、ごめんなさい、聖。貴女を救うと誓ったのに、私は、どうして、水の中に、閉じ込めようと――」
「ムラサ、ムラサ! 落ち着いて……大丈夫です。私は貴女達に封印を解いてもらい、再びこの地を踏むことができました。
そして今も、貴女のおかげで池に落ちずにすみましたから」
聖は私の腕をゆっくりと解きほぐすと、今度は私の頭をその胸の中にしっかりと収めた。
濡れた服ごしにもぬくもりを感じることができたため、聖がここにいることを確かに自覚する。
落ち着きを取り戻した私に、聖は謝罪の言葉を呟く。
「ごめんなさい、ムラサ。私が浅はかだったわ、貴女が楽になってくれればと思っていたけど、かえって貴女を苦しめてしまいましたね。
……ああ、やはりあの娘達に言ったように、私は既に魔性に堕ち果ててしまっているのでしょう」
悔恨と安堵のためか、胸がつかえて喋れなかった私は必死で首を横に振る。
聖のおかげで水難を起こしたいという欲求は確かに満たされた。私はまたも、聖に救われたのだ。
だから今から言うべきは、聖の思慮を無為にしないための言葉で――
「――いえ、少し取り乱してしまいました。ありがとうございます、聖。おかげさまですっかり気が晴れましたよ。
貴女は妖を飼(やしな)うためにその身を捨てることのできる、尊いお方です。ですから魔性などと卑下なさらないで」
「ムラサ」
私の顔面に貼り付いた笑顔を見て、聖は悲しそうに目を伏せる。
その口が開かれ何かを伝えようとするものの、言葉が紡がれることはなかった。
――ああ、結局聖を悲しませてしまった。
わかっている、聖が盲信されたり神聖視されたりすることを望まない方だということは。
それでも私にとって聖は絶対的な存在だった。
だからその自嘲が正しかったときでも、可能な限り否定の言葉を考え出すだろう。
また、聖の言葉が間違っていると気付けたときでも、聞き入れた結果別種の苦しみを抱えることになったとしても、可能な限り叶えて差し上げたいと思ってしまう。
しばらく二人して押し黙っていたが、やがて聖が先に口を開いた。
「……話は変わりますが、ここのところ皆が熱心に努めてくれたおかげで、この命蓮寺も大分形が整ってきました。
ですから、明日以降しばらくは自由時間を設けようと考えています。
この機会に身を休めるもよし、久しぶりの地上を駆け回るのもまたよし、好きなように過ごして下さい」
「はい」
その言葉は正直ありがたかった。しばらくは聖とまともに顔を合わせられそうもない。
会うたびに悲しそうな顔を向けられたら、きっと耐えられないだろう。
ふらふらと立ち去ろうとする私の背中に、聖が憂いのこもった言葉をかけてくる。
「各地を遊行しているうちに色々な方からお話を伺ったところ、ここ幻想郷はあらゆる妖異を受け入れる場所と聞いています。
ですからきっと、どこかに貴女の妖異をも許容してくれる余地があるでしょう。もしも何か手がかりを見つけたら、すぐに私に教えてね」
「……わかりました。必ず」
私は軽く振り返って会釈し、それから再び歩き出す。
直後に聖の言葉が耳をかすめたが、聞き返す意志が湧かなかったために振り返りはしなかった。
「貴女が道を見出す過程で何が起きてしまったとしても、その責は私も負いましょう」
寝覚めは久しぶりに悪くないものだった。だが、それも聖を沈めかけたことで得た爽快さだと思うと、途端に気が重くなる。
私は冴えた頭を抱えたまま、誰にも見つからないように寝所を抜けた。
音もなく寺を飛び立ち、私は聖を救出すると決めて以来やっていなかった、自作の舟を沈没させるための水場を探すことにした。
恩人にすら手を出してしまうような禁断症状に再び陥る前に、定期的に妖異を発散させる場を作っておかなければならない。
材料となる木を身近で調達できれば好都合なので、妖怪の山と玄武の沢を天秤にかける。
結果、妖怪の山は河童の縄張りがあることを思い、玄武の沢がある魔法の森方面へ向かうことにした。
六角柱の岩で構成された断崖絶壁に挟まれている渓流、それが玄武の沢である。
聞いた話では、最近になって妖怪の山から水が流れ込むようになり、少し水嵩が増したらしい。
なんでも外の世界から大きな湖が移動してきて、そこを水源とする新たな川が生まれ、この玄武の沢に小さな滝を作るようになったそうだ。
その小滝を横目に、私は谷底で手ごろな大木を一本切り倒し、幹をくり抜いていた。
聖に帰依してから地底に封じられるまでは、いつもこうやってきたものだ。
舟を作り、ある程度沖まで乗り出してから、水を注いで沈める。
そんなことを晴れの日も時化の日も繰り返してきたためか、私自身の航海術もそれなりのものとなっていった。
地底に閉じ込められてからも、そこにあった巨大な地底湖に何かを沈め続けてきた。
主な材料は新地獄から廃棄されてくる、三途の船頭達が使い古したボロボロの舟。
それを集めてから知り合いの妖怪――封獣ぬえに使い魔をとり憑かせて操ってもらい、それらに水難をもたらしてきた。
いつだったか、ぬえが方陣を組ませた船団を片っ端から沈没させていたとき、通りかかった地霊殿の主に何をしているのかと訊かれたことがあった。
真っ先にぬえが「侵略者遊戯」と答える傍ら、私が正確な事情を話すと、彼女――古明地さとりは奇異な物を見たような顔を作った。
「貴女は自らの妖異を抑えることに心を砕く、変わった妖怪ですね……全ては人間と妖怪が等しく暮らせる世界を築くために、ですか。
ですが、自らの妖異を厭うことのないようにご注意を。そうしてしまって全く異質な妖異を抱え込み、それに飲み込まれてしまった哀れな子を知っているので」
思い返してみれば彼女から忠告を受けていたようだ。どうやら私は相当歪な存在だったらしい。
閑話休題、たしか私はそれから、普通の妖怪達はどのようにして妖異をなしているのかを訊いたと思う。
なにぶん私は海の一箇所に縛られていた上に、解放されてからは聖の教えを受け続けていたため、普通の妖怪についてあまり詳しくなかった。
「貴女にも予想はついているかもしれませんが、強い人間を襲うのが一番後腐れなく妖異を果たせる手段なのです。勝利するにしろ敗走するにしろ。
……え? どうやって人間を襲っていたか、ですか。それはですね、ここがかつて地獄だった頃は、獄卒の鬼達の管理がずさんだったのです。
だから怨霊や土蜘蛛、鵺に、あまつさえ境界を管理するはずの橋姫までも、地獄から這い出て好き勝手に京(みやこ)を跋扈し、退治されては戻っていました。
是非曲直庁の改革と地上の賢者の介入以降、そのような無茶は行われていませんけどね。皆の気性も随分と丸くなったものです」
製作途中の丸太に腰かけ、崖から沢へ流れ落ちる小滝を眺めながら、私は過去から現在へと意識を移す。
さとりの言葉を参考にするならば、この欲求不満を完全に解消できるのは歯ごたえのある船乗りを相手取ることだろうか。
たしかにこれまでのやり方では、今ひとつ物足りなさを感じていたのも事実だ。
「ぬえは面白がって付き合ってくれたけど、あいつが操る舟を沈めるのには全く苦労しなかったわね。あいつも水からは縁遠い妖怪だから仕方がないけれど。
はぁ……でもこの幻想郷に航海術に優れた者なんているのかしら?
視界の悪い霧の湖に釣り舟はなかったし、そもそも人間は里に隔離されているから水運の必要がない。まして水運を利用するような妖怪なんて……」
結局自作自演しか手がないのかもしれない――と、落胆している私の耳に、どこからともなく歌が届けられてきた。
声の元に当たりをつけて崖の上を仰ぎ見ると、いつの間に現われていたのか妖怪の姿を見つけた。
その鳥のような妖怪は、なにやら崖下の川を見下ろして楽しそうに唄っている。
つられて私もそちらに目をむけ――
そして胸が跳ね上がるのを感じた。
一艘の舟が澪を描いて、木々の陰からゆっくりと姿を現す。船頭は女。気配からすると、少なくとも人間ではないように思われる。
その船頭はところどころ水面から突き出している六角柱の岩を、なんなく避けて進んでいた。
と、妖怪の歌声から愉悦が消え、焦りが混じり出した。必死に叫ぶような声音の歌が、水音をかき消すほどにまで響き渡る。
しかし船頭は全く気にかけることなく、流れの乱れている滝壺を大きく避けるように舟を動かす。
「ちょ、ちょっと待って~! 無視すんな!」
とうとう妖怪は唄うのをやめ、抗議の声を上げた。
するとようやく船頭も妖怪の方に意識を向ける。舟をその場に留めおくことも忘れずに。
「やあ、ウナギ屋台の女将。いや、楽しそうに唄っていたもんだから、邪魔するのも悪いかと思ってね。あたいもちょうどクルージングに忙しかったし」
「ノリが悪いよ! 岩場で唄う妖怪がいたら、その歌声に聴き惚れるのが船乗りのたしなみってもんじゃないの?」
「なんだそれ……って、そうか! お迎え課の戦乙女からそんな話を聞いたことがあったなぁ。ライン川の水難ってやつだね。
ははぁ、とするとその故事にちなんで、本日の売りはローレライの歌声ってわけだ。
商売熱心だねぇ、あたいにゃ真似できんよ……と言ったらボスに怒られるか」
ばつの悪そうに後頭部を掻いていた船頭だが、次第にその眉が不敵に吊り上がっていく。
場に剣呑な空気が生まれたように私は感じた。これから始まるのだろう、ここ幻想郷で頻繁に行われている、美しくも残酷なスペルカード決闘が。
それにしても随分あっさりと始まるものだと思う。この地では妖異と妖異がぶつかりあうことなど、日常茶飯事なのだろうか。
「そゆことよ! いざ籠もて来たれっ、私の可愛い使い魔達! さぁっ、フナッ、ビトをっ! ニンゲンを~さらえぇ!
鳥符『ヒューマンケージ――」
私が考え事をしている間にも事態は転がるように進んでいく。
妖怪は唄いながら啖呵を切ると、数枚束ねられたスペルカードを高々と投げ上げた。
「――ダブル』!」
そこから二羽、鳥形の幽霊のようなものが生まれ、それぞれ妖怪の歌声に導かれて二手に分かれる。
彼らはその後、舟の周囲を旋回しながら行跡に羽根型の弾幕を隙間なく残していった。
「ほうほう、見事な手並み。それじゃああたいもおひねりを弾まないとね」
しかしながら船頭の方はというと、弾幕に取り囲まれたわりには平然としている。
そのまま持っていた櫂をゆっくりと手放すと、懐から四枚スペルカードを取り出し、両手に二枚ずつ分割した。
「死価『プライス・オブ・ライフ』」
宣言と同時に、手の中のカードがそれぞれ銀銭と銅銭の束に変わった。
船頭は貨幣の中央を通している紐のコブを解いてから、妖怪に向かって豪快に投げつける。
ただ当然のことながら、押さえつけていた端がなくなったため、妖怪に至る前に貨幣は無秩序にばら撒かれていく。
「注文は一ツッきり! 『サーチ アンド デストロイ』……オーバー、なんてね」
しかし船頭のジョークめかした命令を受けた途端、落ちていくだけだったそれらがありえない方向に進み始める。
まるで妖怪との距離を無いものにするかのように、標的目がけて収束していった。
「な、なによこれ!?」
それだけではなく投げつけただけの銭束も、妖怪の周囲を公転するかのように一定の距離を保ちながら旋回を始める。
そして行く手を遮るように貨幣を宙に撒いていった。
「あっはっは~。御阿礼のお嬢の書に曰く、『夜雀ハメるにゃトリモチで』
どうだい、ブン屋ですら抜け出せなかった、絡みつく弾幕のトリモチわっ!?」
水の爆ぜる音が船頭の快哉を強引にかき消した。どうやら鳥の撃ち放っていた弾幕が舟の傍に着水したらしい。
衝撃で崩れた体勢を立て直しながら、船頭は少し焦った風に呟く。
「……な~んて、暢気に謳っている場合じゃなかったね。さっさと女将の攻撃範囲から退散しないと」
「あっ、コラ待て逃げるなぁ!」
「じゃあね。歌の続きはまた屋台で聴かせてもらうよ」
船頭は妖怪を見つめたまま、たまに前を振り返りつつ、櫂を力強く漕ぎ出す。
そしてゆっくりと後ずさるように、未だ貨幣に絡まれている妖怪との距離を離していった。
「あーもう! 勝負の白黒はついてないから、来てもオゴリとかは無しだからね……ひゃわっ!」
危ないところを凌いだ妖怪の宣告を受け、船頭は笑顔のまま手を振って返した。
その後妖怪がどういう顛末を迎えたのか、それは私の知るところではなかった。
なぜなら私の関心は、過ぎ去ろうとしている舟に向けられていたから――
災禍を逃れた舟を、船頭は鼻歌交じりに進めていく。私はそれを木の陰から見つめ、話を切り出すきっかけを伺っていた。
目的は当然、あの船頭と正面から渡り合って舟を沈めること。先程の手並みを見るに、充分な歯ごたえがありそうだと感じられた。
「でも……あの船頭は見ず知らずの私との決闘に応じてくれるかしら?」
少し不安もある。そもそも地底の時とは違い、誰かが愛用している舟を沈めようとしているのだ。そうやすやすと合意が得られるとは思えない。
「とにかく、断られることを恐れていては何も始まらないわね。まずは真摯な態度でお願いしてみることにしましょう」
私は腹をくくって飛び出し、忍び寄るように船頭の背中に迫り、口を開こうとする――その直前で船頭が後ろを振り返った。
彼女は驚いている私を見るや、苦笑を浮かべる。
「おやおや、今日のあたいにゃ水難の相でも出ているのかな。セイレーンの次は舟幽霊、立て続けに水魔に襲われるとはねぇ」
「! 私の正体を一目で……」
「仕事柄、霊とつくものは見慣れていてね。幽霊怨霊はもちろん、亡霊騒霊半人半霊、果ては坤の神霊乾の分霊とも縁があるから、大抵見分けがつくのさ」
船頭のその言葉で、私は彼女の素性に何となく察しがついた。
「なるほど、ここ幻想郷でも唯一営まれている水運業がありましたね。すなわち死神による霊魂の彼岸送り。貴女は三途の渡しですか」
「そうさ。人呼んで三途の一級案内人たぁ、この小野塚小町をおいて他にいないよ。そして足元のこいつが相棒、三途のタイタニックさ」
「……まぁ、名前のわりに随分小さな豪華客船ですね」
「ふふん、そうは言ってもあたいが舵を取る以上、図体だけの大船以上に安全で快適な舟旅を約束できるんだけどね。
で、だ。お前さんはアレかい? ちょっと前に此岸で噂になっていた、間欠泉に噴き上げられた空飛ぶ船の関係者?
いや、ほら、なんだか見た目が水兵っぽいからさ」
船頭――小町は私の正体を看破した後でも、不快感を示さず気さくに話しかけてくる。
いい兆候だと思う。あるいは、それほどの脅威ではないと舐められているのかもしれないけど。
「申し遅れました。お察しの通り、空飛ぶ船舶・聖輦船の船長を務めておりました村紗水蜜です。
ですが今や聖輦船は常の役目を改めたため、一介の舟幽霊に戻ってしまいましたけどね」
「それで暇を出されたから、久々に舟でも沈めようと思ってあたいに目を付けたのかな?」
先回りして、笑いながら私の目的を告げてくる小町。その笑顔があまりにも邪気のないものだったため、私は一瞬言葉に詰まる。
ややの間を置き、小町が首をかしげる頃になってようやく、おずおずと切り出した。
「その……よろしいでしょうか? 先程貴女が妖怪から逃れてみせた手腕を見て、なんというか、むらむらと感情が沸き立ったのです。
私の妖異を全力でぶつけてみたい、と。迷惑な話かもしれませんが、お付き合いいただければ――」
「い、良いよ。遊び相手になってあげるさ……くく」
「――!?」
あっさりと小町は同意してきた。しかし、何故か噴き出すのをこらえるように身体を屈めている。
彼女は何とか身体を立て直すと、次第に憮然とした顔になっていく私に向けて、なだめるような声音で謝罪してきた。
「い、いや、笑ったりしてすまなかったね。まさか妖異を仕掛けるのに、そんな下手に出てこられるとは思わなかったからさ」
「……私に限らず、命蓮寺一門はいたずらに妖異を振るうことを慎むよう心がけているのです」
「ふむ、殊勝だねぇ。でもそう窮屈に考えることはないよ。ここ幻想郷は妖異から人為、果ては神威までもが好き勝手にひしめき合う酷い場所なんでね。
さっきの女将みたいに自分の都合で妖異を仕掛けたとしても、大して文句は出ないものさ。
お前さんの目の前にいるのだって、空が蒼いからって理由で暴れるような奴だしねぇ」
小町はおどけて肩をすくめてみせる。
空が蒼いから、ローレライの姓を冠するから、そんな些細な理由でぶつかり合う奔放さに私は呆れの溜息をつくしかない。
だが動機の酷さに目をつむれば、その懐の広さに関しては悪くない気がしてくる。
妖力を自由に発揮できる開放的な楽園――ここは聖の目指した理想郷に近いと思った。
「聖、貴女の仰ったとおり、ここはあらゆる妖異を受け入れてくれるのですね」
小さく呟いてから、私は大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出す。それから顔を上げると片目をすがめて小町に柄杓を突きつけた。
「先程タイタニックと仰いましたが、私にとっては実に縁起の良い名前ですね。何しろ名高い沈没船のものですから。
そのような名前をぶらさげて私の前に現われたこと、嫌というほど後悔させて差し上げますわ!」
「そうそう、そんな調子さ。いい顔をするじゃないか。なに、そっちがどういうつもりであれ、あたいはつつがなく舟を航海させるまでさ!」
私が妖怪らしい悪辣な顔で酷い動機を宣告すると、自称一級の水先案内人は打てば響くように小気味よく応じてきた。
「溺符『ディープヴォーテックス』」
先手、私はスペルカード二枚を柄杓の中に詰め込む。カードは宣言を受けるや大量の水を川から吸い上げ、水竜巻を徐々に築き上げていった。
高々と渦巻くそれを目の当たりにして、小町の顔が次第に青ざめていく。
「――まずい!」
叫ぶや小町は慌てて踵を返し、人間離れした膂力で櫂を振るい、流れに沿って舟を走らせ始めた。
私はその背中と、それから遥か先にかろうじて見える、彼女のゴールに目をやる。
正確に言うならば、ゴールとは川の両側に沿って続いている崖同士を、往来できるように渡してある岩のアーチ。
小町がそこを通り抜けるよりも先に舟を沈められるかどうか、それがこの勝負を始めるにあたって定めたルールである。
「まずは一当て。改めて貴女の技量のほど、試させていただきます」
舟の撃沈に使ってよい手段は全て弾幕。小町も逆に、こちらの攻撃を弾幕にて妨害してくる手はずになっている。
その気配がないことを確認すると、私は空を蹴って飛び立ち、上空から水竜巻を抱えた柄杓を振り下ろした。
逆さまになった渦巻く水は筒状の瀑布となって、頭上から大口を開けて舟を飲み込まんとする。
「間に合え! 舟符『河の流れのよ――」
水の帳に隠されてしまった舟から、小町の叫びがかすかに届いてきた。
しかし、その甲斐はあったのだろうか――轟音と踊る水飛沫と急流が混ざり合う光景を見て、私は不安と一抹の失望とを抱く。
これで、こんな程度で終わってしまったのだろうか――
だが次の瞬間、水煙る景色の奥に颯爽と遠ざかる舟の姿を見つけた。
視界の先で、舟は押し寄せる怒涛に飲まれることなく浮き上がり、勢いを殺さず川下りを敢行し続けていく。
「……凄いわ! 着水後の波を利用して加速するなんて」
思わず賞賛の言葉がこぼれる。だが感心している暇などなかった。足に自信がない私は急いで追いかけなければならないのだ。
すぐに対応策を探し、それから周囲の地形を確かめる。その中で視界の右側に映った、頂上だけが前に突き出した崖に注目した。
そして私は左手で背中の錨を掴み上げる一方、右手でスペルカードを一枚取り出し、二つ折りにして錨の穴に引っ掛ける。
「転覆『道連れアンカー』」
川面から顔を覗かせている岩場の上でカード名を告げると、私は錨を下から振りかぶり、崖の突端目がけて力一杯投擲した。
狙い違わず鋼鉄の錨が突端の側面に深々と突き刺さる。
「さて、旅は道連れ。水先案内、よろしくお務めを。我が無骨な相棒」
投げつけた姿勢を保ちながら、私は伸びきった自分の右腕と、その手の中のありえないくらいに伸ばされたカードを軽く引く。
それから不意に、両足から力を抜いた。
すると身体がカードの縮む力に引かれて浮き上がり、錨が刺さっている突端に向かって勢いよく飛ばされていく。
このまま進めば衝突する手前まで至って、私はカードを通じて錨に霊力を送り込んだ――刹那、突端が内側から水飛沫を上げて崩落していった。
行く手を遮るものを取り除いた私は勢いを削ぐことなく、途中で錨を捕まえてから小町の背を追いかけていった。
「見つけましたよ」
砲弾のように風を切り裂いていく中で、私は眼下に舟の姿を捉えた。再び錨を構え、今度は舟の舳先の手前を狙う。
「おわ! もう来たっ?」
落下する錨の唸り声を聞きつけたのか、小町は間一髪、進行方向を曲げて回避した。結局、錨は川面を切り裂くだけに留まる。
だがそれだけで攻撃を終わらせるつもりはない――私は飛行を解除し、再びカードの縮む勢いに身を任せた。
「なんつぅ移動方法だ!」
「名前がそのまま力を表す、それがスペルカードでしたよね!」
急降下する傍ら、私は柄杓を手に取り、霊力を込めてから振りかぶる。
「させんよ!」
だが小町も指をくわえて待ってはいなかった。スキルカードが変じた銭束の紐の端を噛み千切り、こちらに投げつけてくる。
「『死神の投げ銭』は百発百中! ちょいと距離さえいじってやれば、あとは果報は寝て待てだ」
豪語するとおり、ばらばらに撒かれたかに見えた貨幣の全てが私目がけて飛んでくる。
鳥の妖怪に仕掛けたものと同じだろうか、ならば一度やり過ごす――決断した私は、縮むカードに引きずられるまま川底へ向かった。
貨幣も私を追いかけてくるが、水中に入ったことで勢いが削がれ、そのまま全てが沈んでいく。
それを確認すると私は川から浮上し、みるみる遠ざかる舟の横っ腹目がけて錨を投擲した。
「ふっ!」
しかし相手は櫂を大きく一漕ぎ、舟を急速に前進させる。遅れて空を切った錨はそのまま崖の側面に突き刺さった。
さらに遅れて、カードに引きずられた私もそこに足を付ける。
「点の攻撃はやすやすと避けられますか。ならば――」
私はすぐさまカードの折り目と錨の穴の間に柄杓を挟み入れ、錨を回転させてカードをねじっていく。
限界まで絞ってから、錨を回した方向とは逆向きにひねりを加え、舟の頭上を通り過ぎるように錨を振り放った。
私の拘束から自由になったカードは、ねじられた状態から元に戻るために錨を高速で回転させる。それに合わせて柄杓が周囲に散水を始めた。
「なんだって!?」
今度は錨に引きずられないよう力を加えながら前進していると、下方から小町の驚愕が聞こえてきた。
薄く笑い、戻ってきた錨を捕まえる。それから舟を見下ろすと、どうやら散水を避けきれなかったようで、舟底に水が溜まっていた。
「……『プライス・オブ・ライフ』、一枚残しときゃよかったよ」
「うふふ、確かにあれは足止めには最適に見えましたね」
「四枚投入して鬼神級(ルナティック)にしときゃ確実だからね。今はそれが仇になったけど」
ようやく有効な初撃を加えられたためか、額を拭う小町のぼやきに応じるだけの余裕が出てきた。
柄杓に水を溜めながら空を翔ける一方、私は会話を続ける。
「先程は見事な操舵を拝見させていただきました。『ディープヴォーテックス』は着水後の乱流こそが曲者だというのに、上手く乗りこなしていましたね」
「ああ、タネも仕掛けもあるズルさ。さっきのスペルカードが舟の下から三途の水を吐き出してくれる限り、どんな荒波が来てもバランスを保てるんだ」
「そんな手段が……慣れているのですね」
「激流下りがオフの楽しみなんでね。最近はマンネリ気味だったが、今日はまた一味違いそうでわくわくしている、よっ!」
追撃の気配を察したのか、小町は言葉の切れと同時に櫂をこちらに向けて薙ぎ払った。
迫る四つのつむじ風を相殺するため、私は仕方なく柄杓で水の防壁を築いた。
思わぬ反撃に出足を挫かれたが、私は焦ることなく次の攻撃準備に入る。
なぜなら、これから舟のスピードは徐々に落ちていくことがわかっていたから――
「激流はどうやらここまでのようですわ。ほら、川幅が広がってきました」
「……」
小町も悟ったのだろう。口を閉ざし、広く穏やかになっていく川面に櫂を何度も突き立てる。だがやはり、先程までのような加速は一向に得られないようだ。
後ろからそれを確認した私は、二枚のスペルカードを使って九の錨と十の鎖を召喚した。
「湊符『ファントムシップハーバー』……流れも治まったことですし、貴女の航海もそろそろ終いにしてはどうでしょう? ほら、錨ならこの通り」
十の錨全てに鎖を繋ぎ、それぞれ五ずつ左右に分ける。この複数の点をもって同時に攻撃すれば、すなわち面による制圧となる。
先程は機動力を殺さないことが重要だったが、今の小町に距離を開けられる心配はまずないだろう。
「港から停泊のお誘いか……それじゃあお言葉に甘えて、大口のお客さんでも呼び込むかね」
だが増えた錨を見ても臆することなく、それどころか小町は茶目っ気を含めたウィンクを返してきた。
そしてスペルカード三枚を懐から取り出して舟の上に広げ、それぞれの上に貨幣を六枚ずつ積み上げていく。
「さぁさ死出の体験版だ、今ならロハでお楽しみいただけるよ。死歌『八重霧の渡し』」
「がっ!?」
小町のカード宣言と同時、私は後頭部に衝撃を受けた。
すぐに背後を振り返り、そして呆然となった。
「な、なんなのこれは!」
視界に飛び込み顔のすぐ傍を飛び抜けていったのは、おびただしい数の幽霊だった。
崖の上から、木々の間から、さらには川面から飛び出して、一直線にこちら目がけて集まってくる。
「このっ」
押し寄せてきた幽霊の群れを片手の錨で薙ぎ払うと、儚い彼等は一瞬で霧散した――すぐに元の形に戻ろうとしていたが。
その隙に小町の舟を振り返った私は、驚愕で目を剥く。
「ゆ、幽霊が集まって……渦を巻いている?」
私を通り越していった幽霊達は、小町の舟の周囲を互い違いに旋回していた。霊の密度は非常に濃く、舟は完全に覆い隠されてしまっている。
とにかく周囲の幽霊達も相殺するために、私は錨を前後に半分ずつ投げつけた。
だが、前方の幽霊の渦はある程度切り裂けたものの、錨は全て途中で弾き飛ばされてしまった。傷も周りから幽霊が補充されていき、あっという間に塞がってしまう。
「どうだい、なかなか厄介だろう? こいつらはブン屋の写真機みたいな反則技を受けても、やすやすとは崩れないんだ」
勝ち誇ったような声音を上げて、幽霊の渦はゆっくりと川を下っていく。
それを阻止せんと私は錨を引き連れて飛び上がり、上空から行く手を遮るように振り落とした。
一直線に川を横切るそれらは底に突き刺さり、鎖が鉄格子のようになって舟の前に立ちはだかった。
「応用力があるねぇ。でもムダさ」
「つっ!?」
だが渦巻く幽霊に触れた途端、軽々と鎖は弾き飛ばされてしまう。腕に伝わってきた衝撃に、思わず私は呻きを洩らした。
開いた穴を悠然と潜り抜ける姿を、私は苦々しく見送る。
「貫通力に優れた攻撃を持っていないのが悔やまれるわね。ぬえや星、聖なら……」
光り輝く怒涛を携えた皆の姿を思い浮かべる。あの手の攻撃なら、分厚い幽霊の壁を通り抜けることができるだろうに。
「通り抜ける……術はあるんだけど、ゴールも間近に迫ってきた今、果たして間に合うかどうか……なんて迷っている時間も惜しいか。
もはや賭けに等しいなら、あの高く積み上げられたチップを崩して験を担ぐとしましょう!」
決意するや、新たなスペルカードを左右の手で二枚ずつ取り出し、片手ずつ一束に、それから両手を合わせて四枚を一束にまとめた。
「幽霊『シンカーゴースト』」
宣言と同時、カードから緑色の光が揺らめく海藻のように沸き立ち、私の身体を染め上げていく。
「さて、渚を沖と錯覚させねば、か……ええ、あのとき人間を陽動してみせたように、今回も欺いてみせるわ」
虫の羽音のような唸りを響かせて、私の身体は二つに分かれながら宙に溶けていった。
そのときの小町の顔と言葉を、私は忘れられないだろう。それほどまでに深い動揺を示してくれた。
「きゃん!?」
空気に浸透していった私は幽霊の渦をすり抜けて舟の真横に結像し、その手が柄杓の水を注ぎ入れる。
今まで撒いてきた量よりも遥かに控えめなそれは、しかし舟に積み上げられていた貨幣の塔を倒壊させる。
すると、舟の周りを旋回していた幽霊達があっという間に離れていった。
「これが、死出の六文銭が仕掛けの肝だったのですね。なるほど、確かに幽霊を釣るにはうってつけの品」
「くっ」
私の納得に対する小町の返事は、振るわれた櫂から飛んでくるつむじ風。
至近距離から放たれたそれは瞬時に私の身体を攪拌させ、四散させる。
「そして、川が広がってからあのカードを切った理由は、舟が揺れて六文銭が崩れる心配がなかったから、と。本当に戦い慣れていますね」
だが、ばらばらに散った私は舟の舳先に収束し、何事もなかったかのように再生した。そしてすぐさま水が柄杓から舟へと移される。
「効いてないのかっ? だがこいつなら、『無間の道』!」
小町は慌てて舳先に向かい、私の足元の水面を櫂で切り裂いた。瞬間、間欠泉が私を包み込む。
それから小町は捨て台詞を残して舟を先へ進めていった。
「そこでしばらくじっとしているんだな!」
「これは……足止めの技でしょうか? ふふっ、残念ながら徒労ですわ」
軽くあざけりながら、桜色の奔流の中で私は音を立てながら身体を分割させる。
「逃がしません!」
「馬鹿な!?」
再び私は逃げる舟の舳先に結像し、柄杓を傾けた。そして手の止まった小町を、片目をすがめて見下ろす。
――かかった! 彼女は私を追い払うことに躍起になっている、脇目も振らずに逃走することこそが正解なのに。
『シンカーゴースト』において、柄杓の一振りで撒ける水の量は決して多くない。本来は密閉された空間でこそ真価を発揮するスペルなのだ。
今のような開放された空間では、一つ所に留められなければ効力は拡散してしまう。浅瀬は、重ねて蓄積させなければ深海にはなり得ない。
だから私は、どこにでも瞬時に飛べ、何者にも邪魔されずに柄杓を振るえるという事実をもって、相手に絶望の淵を幻視させる必要があった。
そこに引きずりこめたかに見えた小町だったが、突然私が注いだ水を両手で受け止め、そのまま顔目がけて勢い良く浴びせかけた。
「――っふう! さっぱりした!」
そして唖然としている私に悪戯っぽくウィンクしてみせると、再び力強く櫂を漕ぎ出す。
一瞬その表情に見とれた私は、しばし去り行く舟を見送ってしまう。
正気に返った私は慌てて先回りしようと宙に溶けていく、その直前に小さく呟きながら。
「……大した余裕ですね。逆境を前にして、あんな手段で目を覚まさせるなんて」
「気を欝(ふさ)がなければ、視野を広く持てるってね!」
耳ざとく聞きつけて返答しながら、小町は櫂を振るって舟を強引に横に流した。遅れて、私は直前まで舟のあった場所に出現する。
「なっ、どうして!?」
目を丸くして空振りに終わった柄杓を、それから小町を順に見つめる。
「視野が広がるだけでなく、耳の通りも良くなるもんさ。どうやらお前さんはワープの前後に蚊の羽音みたいな唸りを上げるようだな」
「っ!」
「幽霊の発する幽かな音を聞いてお喋りするのが、仕事上の一番の楽しみなんでね」
全く、これほどの難敵がここ幻想郷に潜んでいるとは思わなかった。
だがそれでこそ沈めたときの達成感も大きいというもの。
決して諦念にとり憑かれない小町に心の中で敬意を示しながらも、私はあくまで挑発を続ける。
「なに、出現位置を予測されても、対処が追いつかないくらいに素早く動けば問題ありませんわ。現に貴女の舟も水っ腹で、動きにくそうに見えますが」
「なんの、こっちも蚊遣りの煙を焚くから問題なしだ! 恨符『未練がましい緊縛霊』」
それを受け流しながら、小町が反撃の狼煙を上げてきた。
彼女の掲げたスペルカード三枚から、先程とは毛色の違う幽霊が大量に生み出された。
「緊縛霊ですって?」
名前の意味するところに警戒した私は、一端小町の舟から退く。
距離をとってから結像し、しつこく追いすがってきた緊縛霊に向けて柄杓を振るった。
「これで相殺……できない!?」
だが青白い霊達は私同様、浴びせかけた水をすり抜けて迫ってくる――
「しまっ……え?」
それだけでなく、霊達は私の身体をも通り抜けていった。
「うわ、これもダメかい」
「っ虚仮脅しを!」
まんまと小町に一杯食わされた私は軽く逆上する。
すぐさま舟へ引き返し、腹立ち紛れに柄杓の水を小町に浴びせかけた。
だが小町は水を受けても微動だにせず、両手で櫂を掴み、その柄を下にして持ち上げる。
そしていきなり饒舌に語りかけてきた。
「舟幽霊は既に一種の妖怪になっているから関係ないが、幽霊ってのは気質の具現なんだ。
そしてこいつらは自分と同じ気質に惹かれる習性があるのさ。例えば陽気な幽霊は陽気な場所に集まり、逆に陰気な場所を避ける」
「お喋りはもう結構ですわ!」
もはや小町の言うことに聞く耳を向けまい、そう決意して彼女の背後に回りこんだ。
後から緊縛霊が纏わりついてきたが、構わず私は柄杓を傾ける。
「つまり幽霊には気質を敏感に捉える程度の能力が備わっていると考えていいだろう。
じゃあ、人間が強い光や大きな音を受けたときのように、幽霊が激しい気質の爆風に晒されたら一体どうなるんだろうねぇ?」
「……」
水が溜まり、舟が軽く沈んでも、小町は喋るのをやめない。その豪胆ぶりに、次第に懸念が募ってくる。
「今のお前さんはスペルの符号のとおり幽霊に近いみたいだから、身をもってそれを体験できそうだな」
「貴女、まさか――」
「吸霊という術があってね。幽霊の気質を活性化させて爆発させるんだよ。こんなふうに、ね!」
言うや小町は櫂の柄を舟底に叩きつけた。
同時に、私の傍の霊達が震えだし、桜色に明滅し、そして耳を突き刺す甲高い音とともに爆ぜた。
「なっぁあああっ!」
瞬間、私の目が焼きつき、耳が割れる。
前後不覚になった私は頭を抱えてうずくまり、そのまま意識が深い闇の底へ沈んでいった。
水にたゆたう心地良さ、静かに繰り返される波の音――
久しく忘れていたそれらを感じながら、私はゆっくりと目を開けた。
「やあ、お目覚めかい?」
「……ここは?」
「あたいの舟の上だよ。ちゃんと水は全部捨てて、舟底は拭いてあるから安心していいさ」
「……そうか、私は負けたのね」
小町の穏やかな声を聞くうちに、次第に現状への理解が広がっていく。私は緊縛霊の活性爆破を間近で受けて、意識を吹き飛ばされたのだった。
凄まじい気質の暴風だったと思う。激しい怒りとも深い悲哀とも感じられたあれは、出来れば二度と味わいたくない。
私はゆっくりと上半身を起こし、身体に異常がないかを確認する。でも服がずぶ濡れになっている以外に、目立った変化はなかった。
「すまんが、ディゾルブスペルになって倒れかかってきたお前さんは避けさせてもらったよ。大した執念だったねぇ。
もしも舟の上に落ちてこられたら、おそらく沈んでいただろう」
「そうですか……ふふっ、それは惜しかったわ」
後ろ頭を掻きながら詫びてくる小町に、私は笑顔を返した。
敗北したというのに意外と気分は晴れやかだった。久しぶりに舟の撃沈に全力を振るえたことで、満足感を得られたのだろう。
悔いは多少残るが、それでも心躍る勝負ができて良かったと思う。
「こう言ってはなんですが、楽しい時間を過ごさせてもらいましたよ。たしかに知人の言ったとおり、手強い誰かを襲うのはいいですね。
今回は残念ながら負けてしまいましたが」
「なんの、スペルカードルールにゃこう謳われているのさ、『勝者は敗者の再戦希望を、積極的に受けるようにする』ってね」
「……では、次も受けてくれるのですか?」
「お前さんが魅力的な水難を用意してくれるなら、喜んで……っと言いたいところだけど、流石に商売道具を気軽に狙ってくれとは言いにくいねぇ。
スペアがあればいいんだけど、生憎と是非曲直庁も財政難だからなぁ」
意外なことに、小町は水難を求めて勝負に応じたらしい。
舟を沈められたがっていた、わけではないだろう。舟を沈められかねない水難を乗り越えることが目的だった、というところだろうか。
とはいえなんと言うか、酔狂だと思った。
「そんなわけだから、ちょいとキツめのペナルティでも考えて、牽制させてもらうとするか」
「ああ、勝者は敗者に何かを要求できるという取り決めもありましたね」
「本当は事前に話し合っておくものなんだけどさ……うーん、しかし難しいな。これから一週間温泉で背中を……そうだ!」
しばらく腕を組んでいた小町だったが、いきなり大声を上げ、こちらに向けてウィンクをしてきた。
「温泉に行きたいってのは震えながらゴール目指しているときに考えてたんだが、どうせならお前さんもさっぱり気持ち良くさせてやろうじゃないか。
そのための準備をしてくるから、先に温泉、間欠泉地下センター入り口に行っててくれるかい?」
「え? ええ、構いませんが」
私は話の流れについていけず、目を瞬かせる。
おそらく、これから温泉に行って何かをさせられるのだろう。しかしそれによって快い気分になれるとはどういう意味だろうか。
たしかにこのずぶ濡れの状態からは早々に逃れたいとは思っている。温泉に向かうというのなら願ったり叶ったりなのだけど。
小町の提案に期待と不安を抱きながら、私は舟から飛び立った。
妖怪の山の麓にある、間欠泉地下センター。
ここは私にとっても感慨深い、始まりの場所だった。ここから間欠泉が噴き出さなければ、私達が地上に出てくることも、聖を救い出すこともなかっただろう。
懐かしみながら今は河童によって改造されてしまった、地下に向かう大穴を見下ろしていると、小町が浮き上がってくる様子が見えた。
「あら、地下に潜っていたのね……って、あれは?」
よく見ると小町は背中に何かを抱えていた。それは彼女の身体よりも大きな、木製の桶に見えた。
「や、待たせたかな~?」
互いに目があったためか、小町が上昇しながら声をかけてくる。
「いえ、特には。ここは懐かしい場所でしたから、色々と昔の思い出に浸って時間を潰していました」
「そうか、それならいいんだが。じゃあ行こうか。あまりここに立っていると、風がその濡れた身体にゃ毒だろうからね」
「ええ、痛み入ります。あの、ところで背中の桶は一体? それが私のやるべきこととどういう関係があるのでしょうか?」
どうしても気になったので、私は小町が担いでいる桶について質問した。どこかで似たような物を見た覚えがある。やはり地下で、だったような。
「ああ、これかい? 地底に色んな桶を持っているのがいてね。その子に手配してくれるように頼んだのさ。
素朴な作りながらもヒノキを贅沢に盛り込んだ、一級品のバスタブさ」
「はぁ、温泉があるのに浴槽、ですか」
「そそ。まぁちょいと待ってくれ、すぐに分かるよ」
色々と疑問を抱えながら、小町の後を追ってしばらく歩くと、岩の間から湯気の立ち上る温泉が見えてくる。
その手前まで至ると、小町は突然浴槽を投げ入れた。桶状のそれは温泉の上でゆらゆらと揺れている。
「外で船長をやっていたらしい幽霊から聞いたんだけど、今や豪華客船にはデッキにプールが付き物だそうだ。
でもま、江戸っ子のあたいとしちゃ露天温泉でもあった方がありがたいんだけどねぇ。
って返したら、舟形の浴槽もあるらしいって答えをくれたんだ。いやぁ、改めて面白いと思ったね。経験豊富な幽霊ってのはさ」
私の疑惑の眼差しをよそに、小町は全く関係なさそうな話題を喋り出す。
それから唐突に私に向き直って浴槽を指差し、そしてウィンクしながら問いかけてきた。
「ところで、この湯船を見てくれ。こいつをどう思う?」
「あ……」
絶句。
次第にその意味するところを理解した私は、大声を上げて笑い出す。
温かい泉に浮かぶ湯の船――こんな見立てがあるなんて、思いもしなかった。
この船にならいくら湯を注ごうと、その結果沈んでしまおうと、誰一人として迷惑はかからないだろう。
「すごく、沈めたいわ」
「そうこなくっちゃね。さて臨時の三助さんよ、要求は一ツッきり。この中で打たせ湯でも浴びせてくれるかい?」
「了解です。ただ、少々張り切りすぎてしまうかもしれませんが、そこはご容赦を」
私は帽子を脱ぎ、おどけた仕草で軽く一礼した。内心では深い感謝の念を抱きつつ。
何しろ小町は私の妖異に付き合ってくれただけでなく、手近な対症療法をも提示してくれたのだから。
寺に戻ったら、昨日は冷たい水に晒してしまった聖のために、償いの意味も込めてその身を温めて差し上げようと思う。
勿論、この恩人のために精魂込めて背中を流す方が先だけど。
私は柄杓に『ディープヴォーテックス』と『グリモワール』のカードを詰めた。そして軽く霊力を込め、温泉から湯を吸い上げてシャワーのように噴出させる。
「お湯の勢いはこのくらいでよろしいでしょうか?」
「んー、妖精級(イージー)よりも弱そうだねぇ。もっと強くても大丈夫さ。しかし便利だねぇ、それ」
「ええ。このような使い方をするのは初めてで、不慣れな点も見受けられるとは思いますけど、精一杯頑張りますわ」
「嬉しいこと言ってくれるねぇ。それじゃあとことんリラックスさせてもらおうかな。勿論、お前さんも好きに楽しんでくれるといいさ」
私達はそこで会話を区切り、互いに自らの服に手をかける。その直前、私は片目を閉じて柄杓を小町に突きつけた。
「今度再戦するときは、大量のお湯をもって湯船に沈めて差し上げましょう」
「……あっはっは、そりゃあ熱いお茶くらい怖い話だ」
村紗と小町のキャラも自分のイメージとぴったりでとにかく楽しめました。
文句なし100点を!
何ともみずみずしい少女達ですね
ただ途中がちょっとさっぱりしすぎな気がしないでもなかったかも
小町とムラサのSSというだけで貴重なのに
きっちりバトルも描かれていて、とてもよかったです。
弾幕戦の描写もすばらしい。
しかしムラサもなかなかに悪霊なんですよねぇ。でも性格が良いからこういうジレンマに苛まれる。まぁ、解決法が見つかったから良かったですけどね。
スピーディな戦闘だけでなく戦いの動機や落ちまで安心して読めました。
互いに策を仕掛けては打ち破っていく展開って燃えますよねえ!
熱いバトルの果てに目覚める友情がたまりません。
いい競艇……もとい競争いただきました~