青い海の底が珊瑚の宮殿なら、黒い海の果ては日と月と星の世界。
黒曇りの雲海を、永江衣玖は漂い泳ぐ。天蓋に至らぬよう、下の水面から顔を出さぬよう、中庸に。緋の羽衣のひれを、一生たゆたわせて。
天界のわがまま娘、比那名居天子様は衣玖の日々を憐れみけなす。天地は万古あるも、この身は再び得られず。天空と大地は永久に続くけれど、人生は儚く一回きり。だったら生きる楽しみを知らなくちゃ。偉そうに説いて、緋想の剣で盛大に異変を起こした。衣玖は彼女の身勝手にお灸を据え、後は無視した。
同じ高みの海に暮らしていても、姿勢が違うのだろう。彼女は魚でありながら、ひとの国の生気に憧れる。急流や渦を掻き分け、地上で陽光と雨を浴びる。地震と異常気象で他人に迷惑をかけようが、緋雲で衣玖の仕事に影響を与えようが、お構いなしだ。衣玖は飛行魚の己と、居場所と使命を受け入れている。多分気に入ってもいる。泳ぐことをおかしいと感じない。雷雲の波や氷塊の泡は、ゆりかごのように暖かい。抵抗しなければ護ってくれる。龍神様のお言葉は、水越しの月明かりのように射す。緋の色を監視し、薄明を吸って優雅に流れる。平和だった。
年明け、衣玖には二つの小さな変化があった。
一つは、小型の機械を携行するようになったこと。
昨夏の騒動以降、龍宮の使いの務めは少し減った。緋色の雲が天子様の剣に費やされた結果だろう。気楽で空虚な時間、暇が増えた。衣玖が退屈そうにしていると考えたのだろうか。有頂天住まいを始めた鬼、伊吹萃香が機械を寄越した。腰のポケットに収まる四角い本体と、細い管と耳当て。河童製の携帯用ラジオの試作品だという。送信局の電磁波を拾って、音に直してくれるそうだ。聴きながら飛ぶのもいいんじゃないと、陽気に手渡された。お酒を一杯勧める調子で。彼女の能力で、電波を萃める力が強化されていた。高空でも受信可能なように。貰ったものを使わないのももったいないだろう。たまに道具の先を耳に当てるようになった。
有益な情報は全く聴こえなかった。音が聴こえてくること自体稀だった。別に落胆しなかった。期待していなかったから。幻想郷には、送信局が少ないのだ。放送時間も短い。瞬きを数えるように、適当にボタンを押して局番号を弄った。二一〇。あどけない声の河童が、光学迷彩の仕組みを小難しく語っていた。詰め将棋の問題も出していた。手元に将棋盤がなかった。興味もなかった。四八。新聞記者の天狗が、薬にも毒にもならないニュースを読み上げていた。一〇四。萃香が酔って喋っていた。八割はお酒、二割はお酒の肴の話だった。途中で天子様の声が割り込んできた。私の番組で何やってるのとご立腹だった。どうでもよかった。
特に役には立たないが、重荷になる機械でもなかった。談話や音楽を耳にするだけ、直接は関わらない。関心を持たなくていい。傍観者の衣玖とは相性がよかった。
もう一つは、奇妙な雲を見かけるようになったこと。
青、緑、赤の綿雲が、暗い海を彷徨っていた。大きさは手の平ほど。赤雲を最初に目撃したときは、地震の前兆の緋雲かもしれないと一応危惧した。念のために後を追った。手に掴めた。緋色の雲は身体を通す。別物だとわかったので放置した。遊泳中に顔や脚にぶつかりかけた。衣の盾で受け流した。変わった住民ができたものだ。衣玖は呑気に眺めていた。
冬の末、衣玖はいつものように黒の深海に身を委ねていた。色つきの小雲を避け、無音のラジオを片手で操りながら。
(あら)
ボタンを操作する手が止まった。下の海面に、雲の巨人を発見した。水に溶いた桜色をしていた。緋と言えなくもない。今度こそ災害の前触れか。龍神様のお告げはない。耳当てを外して確認に行こうとした。本体上部のスイッチを長く押して、電源を切る。そこに、質量のある小人雲が飛んできた。衣玖の手首と衝突した。弾みで機械を落とした。
怪しい雲と小型ラジオを追いかけて、衣玖は黒い海を抜けた。
口を円く開きかけた。珍しく驚いた。
廃墟か、要塞か。船が一番近いか。古びた大船舶が、空中で停止していた。白灰の寒空に、一点の影。目立っていた。こんな乗り物、幻想郷にあっただろうか。
「ねえ」
雲の層を貫くような、日向の声がした。甲板で少女が手を振っている。春の蒼天の色の髪を、濃紺の頭巾に包んで。隣にあの巨人雲を従え、三色の綿雲を抱えて。大きく振る手には、
「これ、貴方の?」
私のラジオ。頷いて船の先に降りた。
「すみません、ありがとうございます。落としてしまって」
「お礼なら雲山に言ってあげて。彼が見つけたの」
尼のような格好の娘は、特大の桜雲を示した。巨体は縮まりつつある。修行僧のような険しい顔が見えた。緋雲ではなく、入道だったのか。幻想郷では見ない種族だ。制御する彼女も、恐らく妖怪だろう。礼を述べると、人面雲は波打つ頭を左右に振った。
「大したことじゃないってさ。ちょっと照れてるの。にしても携帯型の電波受信装置があるとは。文明進んでるわね。ここはまだ幻想郷じゃないのかしら」
「いえ、幻想郷内ですよ」
「本当!? 順調ね。ムラサの運航に狂いなし」
少女と入道は微笑を交わして、彼方を見遣った。
口振りから察するに、博麗大結界の外から来たらしい。雲の海に潜ってはいないが、浮遊艇はかなりの高度にある。天界に乗りつけるつもりだろうか。それに、赤や青の色雲を捕まえて何をする気なのだろう。軽く疑問を抱いて、すぐに推理をやめた。衣玖には関係のないことだ。龍神様のご警告もない。代わりに、
「貴方は龍宮の使いでしょう。見たことがあるわ。稀少でいいことありそうだからって、雲山と拝んだの」
彼女の方から話し出した。珍品扱いか、流れ星や四葉のクローバーじゃあるまいし。彼女と入道は揃って目を閉じ、衣玖に願い事をした。うまくいきますように。
「何を上手く行かせたいのかはわかりませんが、私にご利益はありませんよ」
「きっとあるわ。前は叶ったもの」
衣玖の棲む高い海を、彼女は指差した。
「私達も昔はあそこにいたの。入道って、あんまり好かれてなくて。眼力で病気にするとか、死なせるとか。退治されるから雲に紛れてた。居心地は悪くなかったわ。でも、本当は下の世界に行きたかった」
望みと髪色の所為だろうか。天子様と重なって見えた。彼女も、遥かの海を越える魚なのだ。ぎこちない足取りでも、地を踏もうとする。
「龍宮の使いに祈ったらね、姐さんが来て。名前と住む場所をくれたの。雲の山と、雲に居る一輪の花。新しい脚を貰ったみたいだった。仲間もできて、大体愉しく過ごせたわ」
彼女、一輪は誇らしげに笑った。地を歩く海魚は、皆こういう顔をするようだ。遠くに覗く太陽を喜び、積極的に周囲と繋がろうとする。恐れを捨てる。衣玖は彼女達をそれなりに理解するが、羨みはしない。平穏に泳いでいる方が楽だ。けれども何だろう、
「だから絶対に取り戻すの。どこまででも行ってやる」
三色雲を握る彼女の誓いは、眩しかった。衣玖は熱気を読んで、
「まあ、頑張ってくださいな。その雲、上にもありましたよ」
「くも?」
雷雲の海中に、一輪と雲山を案内した。宝の山、ネズミはどこを探してたのかしら。騒ぎながら、二人は謎の雲玉を捕獲していった。大事なものらしい。手を握られてひどく感謝された。
「貴方名前は? 全部済んだらお礼させて」
「衣玖です。永江衣玖」
出航間際、名を教えた。二度と会わないかもしれないけれど。
暦が春になるにつれて、正体不明の雲は姿を消していった。黒、煤、鼠、灰。平時の無彩色の海が帰ってきた。環境に代わり映えがないのはいいことだろう。積もる朝雲に、悠々と紅い身体を浮かべた。
空飛ぶ船の二人組が、どうなったのかは知らない。水の向こうはぼやけている。
耳当てを固定して、ラジオのスイッチを入れた。局番号を滑っていく。砂の音と無音と弦の切れるような音が続いた。二一〇、三七、一〇四。放送頻度の高い局も、黙っている。今朝も全局お休みかもしれない。右のボタンを押しっぱなしにして、目を閉じた。
『――い、うみ』
瞼が持ち上がった。女性の声が一瞬聴こえた。放送中の局を通り過ぎたらしい。反対方向に戻していった。七六八、七六七、次第に響きが鮮明になっていく。温かい声のひとが、赤子をあやすように語っている。
七六三。未使用の局番号が、開拓されていた。
『――は、私は、狭い海の底にいたのかもしれません。水平線も山々も直に見られない、魚になって』
即興の演説だろうか。天狗の報道と違って、草稿を捲る音がしない。話し慣れている。落ち着いて、子守唄のように優しく言葉を生んでいる。
海と魚。自分に向けての手紙の気がした。片や好きに喋り散らし、片や好きに聴き流す。観測者の遊具が、初めて衣玖に呼びかけた。耳に手を置いていた。
『それが封印で、罰なのだと認めました。魚である自分を当然と考え、法の海に沈みました。貴方達を愛したように、魔界を愛して調和しようとしたの』
傍らの「貴方達」に、女性が笑っている。彼女は千年間、魚でいたそうだ。自己と周囲に馴染もうと努めた。場を乱さない、正しい判断だ。
『けれどもある日、光が降り注いだ。手が伸ばされたのです。私は立場を放って、上を目指しました。魚には僅かなひれしかありません。届くはずがなかった。それでも私はもがきました。感情の摩天楼が、ひとの私を押し上げました』
ああ、このひとも魚を辞めた側か。わかっても、集中は途切れなかった。話の温度に惹きつけられた。
『懐かしい笑顔が、法の世界を照らしていました。星、ナズーリン、ムラサ、一輪と雲山。時を経てなお輝く愛情に、私は涙しました』
一輪と雲山。雲探しの尼と入道が、電波の源にいる。一般の聴取者の存在を忘れて、女性はありがとうと繰り返していた。彼女が、一輪の姐さんなのだろう。二人はきっと、上手く行ったのだ。
『貴方。海の淵にいる、貴方。暗さや、諦念や、絶望や、惰性を泳ぐ貴方。そういうものだと決めつけないでください。上や下や、周りを見回してください。光のしるべが立っているかもしれません。色や、繋がりの形で。何もないことは、ないのです。時には抗って、違うことをしてください。素敵なものが得られるでしょう。皆に毘沙門天様の、ご加護がありますように。南無三。ええと、これでいいのかしら。声、変じゃなかった?』
『問題なしです、聖。音割れもノイズもありません』
聖と呼ばれる話者に、快活そうな少女の声が答えた。間を空けて、別の娘が会話席に座った。深呼吸と紙の擦れる音が聴こえる。穏やかな、芯の強そうな声で、
『七六三、命蓮寺放送局おてらじおでは皆様からの投書をお待ちしています。聖へのお悩み相談、ナズーリンと私の失せ人失せ物探索、ムラサの遊覧船の希望航路、一輪と雲山の入道変化注文、お経や音楽のリクエストなど、何でもかみゃいませ、かみっ』
『ご主人様、原稿用意してそれはどうなのだろうね』
刺々しさと幼さの共存した声が冷ややかに呟いた。
『緊張してるんです、前にひとがいない方が不安になるんです』
『これは鬼と天人に聞いた話だが、初回で噛んだ者はその後も確実に噛むらしいよ』
『縁起の悪いこと言わないでくだしゃ、ナズーリン』
『あんた達コーナー名下克上漫才に変えたら?』
言い合いに、一輪の日差しの声が突っ込みを入れた。交替と促して、着席する。雲山もいるのだろうが、沈黙のままだ。
『以上で命蓮寺放送局おてらじお、第一回放送を終了します。また早朝にお会いしましょう。提供は局番号三七、守矢ミラクルケロチャットでした。ねえ雲山、おてらじおって愛称は正直どうなのかしら。神社に対抗してみたけど』
『私の命名にけちつけないでよ』
彼女のぼやきと元気少女の反論が、密教の呪文に溶けていく。大人数の賑やかな番組だった。一輪も雲山も、幻想郷で明るくやっていけるだろう。耳当てを取ろうとしたら、
『衣玖、聴いてる?』
聖の説法よりも真っ直ぐに、己を呼ばれた。
『あの時はありがとう。おかげ様で万事解決、最高の毎日を送ってるわ。何度かお礼に行ったんだけど、雲路に迷って会えなかったの。私達、人里の近くのお寺に住んでるから。暇があったら、一度遊びに来て』
またね。集音機材が取り払われた。
天子様、一輪と雲山、聖。衣玖の知る魚は、海の国を抜けたがる。
衣玖はモノトーンの雲海をひらめく。気流の飛沫を観賞し、羽衣を舞わせる。惰性で泳いでいるのではない。空の海は、快適で趣深いところなのだ。無関心な飛行魚の自分に、満足している。水を透かす朝の日は、朧で柔らかい。
ただ、海面に行きたいなと思う朝もある。雲越しではない、色や繋がりを受け止めたいと。彼女の声は、とても眩しいから。傍観者の、ささやかな気まぐれだ。
緋衣を引いて、雲泳を始めた。水滴や氷の粒の抱擁を遠慮して、幻想の地に向かった。
目的地や道標があるのは、そこそこ幸せなことなのかもしれない。生きている。
下の水面から顔を出したとき、地を走る光の柱を見た。
お酒と桃と、桜の香りがした。
黒曇りの雲海を、永江衣玖は漂い泳ぐ。天蓋に至らぬよう、下の水面から顔を出さぬよう、中庸に。緋の羽衣のひれを、一生たゆたわせて。
天界のわがまま娘、比那名居天子様は衣玖の日々を憐れみけなす。天地は万古あるも、この身は再び得られず。天空と大地は永久に続くけれど、人生は儚く一回きり。だったら生きる楽しみを知らなくちゃ。偉そうに説いて、緋想の剣で盛大に異変を起こした。衣玖は彼女の身勝手にお灸を据え、後は無視した。
同じ高みの海に暮らしていても、姿勢が違うのだろう。彼女は魚でありながら、ひとの国の生気に憧れる。急流や渦を掻き分け、地上で陽光と雨を浴びる。地震と異常気象で他人に迷惑をかけようが、緋雲で衣玖の仕事に影響を与えようが、お構いなしだ。衣玖は飛行魚の己と、居場所と使命を受け入れている。多分気に入ってもいる。泳ぐことをおかしいと感じない。雷雲の波や氷塊の泡は、ゆりかごのように暖かい。抵抗しなければ護ってくれる。龍神様のお言葉は、水越しの月明かりのように射す。緋の色を監視し、薄明を吸って優雅に流れる。平和だった。
年明け、衣玖には二つの小さな変化があった。
一つは、小型の機械を携行するようになったこと。
昨夏の騒動以降、龍宮の使いの務めは少し減った。緋色の雲が天子様の剣に費やされた結果だろう。気楽で空虚な時間、暇が増えた。衣玖が退屈そうにしていると考えたのだろうか。有頂天住まいを始めた鬼、伊吹萃香が機械を寄越した。腰のポケットに収まる四角い本体と、細い管と耳当て。河童製の携帯用ラジオの試作品だという。送信局の電磁波を拾って、音に直してくれるそうだ。聴きながら飛ぶのもいいんじゃないと、陽気に手渡された。お酒を一杯勧める調子で。彼女の能力で、電波を萃める力が強化されていた。高空でも受信可能なように。貰ったものを使わないのももったいないだろう。たまに道具の先を耳に当てるようになった。
有益な情報は全く聴こえなかった。音が聴こえてくること自体稀だった。別に落胆しなかった。期待していなかったから。幻想郷には、送信局が少ないのだ。放送時間も短い。瞬きを数えるように、適当にボタンを押して局番号を弄った。二一〇。あどけない声の河童が、光学迷彩の仕組みを小難しく語っていた。詰め将棋の問題も出していた。手元に将棋盤がなかった。興味もなかった。四八。新聞記者の天狗が、薬にも毒にもならないニュースを読み上げていた。一〇四。萃香が酔って喋っていた。八割はお酒、二割はお酒の肴の話だった。途中で天子様の声が割り込んできた。私の番組で何やってるのとご立腹だった。どうでもよかった。
特に役には立たないが、重荷になる機械でもなかった。談話や音楽を耳にするだけ、直接は関わらない。関心を持たなくていい。傍観者の衣玖とは相性がよかった。
もう一つは、奇妙な雲を見かけるようになったこと。
青、緑、赤の綿雲が、暗い海を彷徨っていた。大きさは手の平ほど。赤雲を最初に目撃したときは、地震の前兆の緋雲かもしれないと一応危惧した。念のために後を追った。手に掴めた。緋色の雲は身体を通す。別物だとわかったので放置した。遊泳中に顔や脚にぶつかりかけた。衣の盾で受け流した。変わった住民ができたものだ。衣玖は呑気に眺めていた。
冬の末、衣玖はいつものように黒の深海に身を委ねていた。色つきの小雲を避け、無音のラジオを片手で操りながら。
(あら)
ボタンを操作する手が止まった。下の海面に、雲の巨人を発見した。水に溶いた桜色をしていた。緋と言えなくもない。今度こそ災害の前触れか。龍神様のお告げはない。耳当てを外して確認に行こうとした。本体上部のスイッチを長く押して、電源を切る。そこに、質量のある小人雲が飛んできた。衣玖の手首と衝突した。弾みで機械を落とした。
怪しい雲と小型ラジオを追いかけて、衣玖は黒い海を抜けた。
口を円く開きかけた。珍しく驚いた。
廃墟か、要塞か。船が一番近いか。古びた大船舶が、空中で停止していた。白灰の寒空に、一点の影。目立っていた。こんな乗り物、幻想郷にあっただろうか。
「ねえ」
雲の層を貫くような、日向の声がした。甲板で少女が手を振っている。春の蒼天の色の髪を、濃紺の頭巾に包んで。隣にあの巨人雲を従え、三色の綿雲を抱えて。大きく振る手には、
「これ、貴方の?」
私のラジオ。頷いて船の先に降りた。
「すみません、ありがとうございます。落としてしまって」
「お礼なら雲山に言ってあげて。彼が見つけたの」
尼のような格好の娘は、特大の桜雲を示した。巨体は縮まりつつある。修行僧のような険しい顔が見えた。緋雲ではなく、入道だったのか。幻想郷では見ない種族だ。制御する彼女も、恐らく妖怪だろう。礼を述べると、人面雲は波打つ頭を左右に振った。
「大したことじゃないってさ。ちょっと照れてるの。にしても携帯型の電波受信装置があるとは。文明進んでるわね。ここはまだ幻想郷じゃないのかしら」
「いえ、幻想郷内ですよ」
「本当!? 順調ね。ムラサの運航に狂いなし」
少女と入道は微笑を交わして、彼方を見遣った。
口振りから察するに、博麗大結界の外から来たらしい。雲の海に潜ってはいないが、浮遊艇はかなりの高度にある。天界に乗りつけるつもりだろうか。それに、赤や青の色雲を捕まえて何をする気なのだろう。軽く疑問を抱いて、すぐに推理をやめた。衣玖には関係のないことだ。龍神様のご警告もない。代わりに、
「貴方は龍宮の使いでしょう。見たことがあるわ。稀少でいいことありそうだからって、雲山と拝んだの」
彼女の方から話し出した。珍品扱いか、流れ星や四葉のクローバーじゃあるまいし。彼女と入道は揃って目を閉じ、衣玖に願い事をした。うまくいきますように。
「何を上手く行かせたいのかはわかりませんが、私にご利益はありませんよ」
「きっとあるわ。前は叶ったもの」
衣玖の棲む高い海を、彼女は指差した。
「私達も昔はあそこにいたの。入道って、あんまり好かれてなくて。眼力で病気にするとか、死なせるとか。退治されるから雲に紛れてた。居心地は悪くなかったわ。でも、本当は下の世界に行きたかった」
望みと髪色の所為だろうか。天子様と重なって見えた。彼女も、遥かの海を越える魚なのだ。ぎこちない足取りでも、地を踏もうとする。
「龍宮の使いに祈ったらね、姐さんが来て。名前と住む場所をくれたの。雲の山と、雲に居る一輪の花。新しい脚を貰ったみたいだった。仲間もできて、大体愉しく過ごせたわ」
彼女、一輪は誇らしげに笑った。地を歩く海魚は、皆こういう顔をするようだ。遠くに覗く太陽を喜び、積極的に周囲と繋がろうとする。恐れを捨てる。衣玖は彼女達をそれなりに理解するが、羨みはしない。平穏に泳いでいる方が楽だ。けれども何だろう、
「だから絶対に取り戻すの。どこまででも行ってやる」
三色雲を握る彼女の誓いは、眩しかった。衣玖は熱気を読んで、
「まあ、頑張ってくださいな。その雲、上にもありましたよ」
「くも?」
雷雲の海中に、一輪と雲山を案内した。宝の山、ネズミはどこを探してたのかしら。騒ぎながら、二人は謎の雲玉を捕獲していった。大事なものらしい。手を握られてひどく感謝された。
「貴方名前は? 全部済んだらお礼させて」
「衣玖です。永江衣玖」
出航間際、名を教えた。二度と会わないかもしれないけれど。
暦が春になるにつれて、正体不明の雲は姿を消していった。黒、煤、鼠、灰。平時の無彩色の海が帰ってきた。環境に代わり映えがないのはいいことだろう。積もる朝雲に、悠々と紅い身体を浮かべた。
空飛ぶ船の二人組が、どうなったのかは知らない。水の向こうはぼやけている。
耳当てを固定して、ラジオのスイッチを入れた。局番号を滑っていく。砂の音と無音と弦の切れるような音が続いた。二一〇、三七、一〇四。放送頻度の高い局も、黙っている。今朝も全局お休みかもしれない。右のボタンを押しっぱなしにして、目を閉じた。
『――い、うみ』
瞼が持ち上がった。女性の声が一瞬聴こえた。放送中の局を通り過ぎたらしい。反対方向に戻していった。七六八、七六七、次第に響きが鮮明になっていく。温かい声のひとが、赤子をあやすように語っている。
七六三。未使用の局番号が、開拓されていた。
『――は、私は、狭い海の底にいたのかもしれません。水平線も山々も直に見られない、魚になって』
即興の演説だろうか。天狗の報道と違って、草稿を捲る音がしない。話し慣れている。落ち着いて、子守唄のように優しく言葉を生んでいる。
海と魚。自分に向けての手紙の気がした。片や好きに喋り散らし、片や好きに聴き流す。観測者の遊具が、初めて衣玖に呼びかけた。耳に手を置いていた。
『それが封印で、罰なのだと認めました。魚である自分を当然と考え、法の海に沈みました。貴方達を愛したように、魔界を愛して調和しようとしたの』
傍らの「貴方達」に、女性が笑っている。彼女は千年間、魚でいたそうだ。自己と周囲に馴染もうと努めた。場を乱さない、正しい判断だ。
『けれどもある日、光が降り注いだ。手が伸ばされたのです。私は立場を放って、上を目指しました。魚には僅かなひれしかありません。届くはずがなかった。それでも私はもがきました。感情の摩天楼が、ひとの私を押し上げました』
ああ、このひとも魚を辞めた側か。わかっても、集中は途切れなかった。話の温度に惹きつけられた。
『懐かしい笑顔が、法の世界を照らしていました。星、ナズーリン、ムラサ、一輪と雲山。時を経てなお輝く愛情に、私は涙しました』
一輪と雲山。雲探しの尼と入道が、電波の源にいる。一般の聴取者の存在を忘れて、女性はありがとうと繰り返していた。彼女が、一輪の姐さんなのだろう。二人はきっと、上手く行ったのだ。
『貴方。海の淵にいる、貴方。暗さや、諦念や、絶望や、惰性を泳ぐ貴方。そういうものだと決めつけないでください。上や下や、周りを見回してください。光のしるべが立っているかもしれません。色や、繋がりの形で。何もないことは、ないのです。時には抗って、違うことをしてください。素敵なものが得られるでしょう。皆に毘沙門天様の、ご加護がありますように。南無三。ええと、これでいいのかしら。声、変じゃなかった?』
『問題なしです、聖。音割れもノイズもありません』
聖と呼ばれる話者に、快活そうな少女の声が答えた。間を空けて、別の娘が会話席に座った。深呼吸と紙の擦れる音が聴こえる。穏やかな、芯の強そうな声で、
『七六三、命蓮寺放送局おてらじおでは皆様からの投書をお待ちしています。聖へのお悩み相談、ナズーリンと私の失せ人失せ物探索、ムラサの遊覧船の希望航路、一輪と雲山の入道変化注文、お経や音楽のリクエストなど、何でもかみゃいませ、かみっ』
『ご主人様、原稿用意してそれはどうなのだろうね』
刺々しさと幼さの共存した声が冷ややかに呟いた。
『緊張してるんです、前にひとがいない方が不安になるんです』
『これは鬼と天人に聞いた話だが、初回で噛んだ者はその後も確実に噛むらしいよ』
『縁起の悪いこと言わないでくだしゃ、ナズーリン』
『あんた達コーナー名下克上漫才に変えたら?』
言い合いに、一輪の日差しの声が突っ込みを入れた。交替と促して、着席する。雲山もいるのだろうが、沈黙のままだ。
『以上で命蓮寺放送局おてらじお、第一回放送を終了します。また早朝にお会いしましょう。提供は局番号三七、守矢ミラクルケロチャットでした。ねえ雲山、おてらじおって愛称は正直どうなのかしら。神社に対抗してみたけど』
『私の命名にけちつけないでよ』
彼女のぼやきと元気少女の反論が、密教の呪文に溶けていく。大人数の賑やかな番組だった。一輪も雲山も、幻想郷で明るくやっていけるだろう。耳当てを取ろうとしたら、
『衣玖、聴いてる?』
聖の説法よりも真っ直ぐに、己を呼ばれた。
『あの時はありがとう。おかげ様で万事解決、最高の毎日を送ってるわ。何度かお礼に行ったんだけど、雲路に迷って会えなかったの。私達、人里の近くのお寺に住んでるから。暇があったら、一度遊びに来て』
またね。集音機材が取り払われた。
天子様、一輪と雲山、聖。衣玖の知る魚は、海の国を抜けたがる。
衣玖はモノトーンの雲海をひらめく。気流の飛沫を観賞し、羽衣を舞わせる。惰性で泳いでいるのではない。空の海は、快適で趣深いところなのだ。無関心な飛行魚の自分に、満足している。水を透かす朝の日は、朧で柔らかい。
ただ、海面に行きたいなと思う朝もある。雲越しではない、色や繋がりを受け止めたいと。彼女の声は、とても眩しいから。傍観者の、ささやかな気まぐれだ。
緋衣を引いて、雲泳を始めた。水滴や氷の粒の抱擁を遠慮して、幻想の地に向かった。
目的地や道標があるのは、そこそこ幸せなことなのかもしれない。生きている。
下の水面から顔を出したとき、地を走る光の柱を見た。
お酒と桃と、桜の香りがした。
ここではないどこかを覗きたくなるときもたまにはある。
思い立ったのならラジオ片手に飛び出すのもまた良し。
そんな傍観者衣玖さんの在り方が素敵でした。
衣玖さんには雲に見えたんですね、あれ
おてらじお聴きたいなあ…
周波数合わせるときの音が集まる感じが好き。うるさくないのもよろしい。
何が良かったかと聞かれると雰囲気としか言いようがない。
詳しく読むと長さの構成や台詞の割合も入ってくるのだろうけど……うまく分からない。
ただ,風景の描写がうまいだけではなく,そこから心が伝わってくるようでした.
ありがとうございます.
何もしなくても、時間を送ってくれるから。
この衣玖さんとラジオの相性が素晴らしく、彼女がラジオを使う一つ一つの動作、描写がとても絵になっていたと思います。
読んでいてその絵が見えた気がして……
走らず歩き、漂い泳ぐ。
良い衣玖さんを見せていただきました。
下克上漫才w
素敵で怠惰な時間を味わえました。
そんな気分にさせてくれるお話でした。
どこかで感じたことがある雰囲気だなと思ったらJET STREMをイメージしてるんでしょうか?まさにあの番組のイメージが上手く東方ネタに合わさって再現出来ていて良かったです。
録音テープ捜し出して聴きながらもう一度読みたいなと思いました。
あの番組タイトルコールはいいですよねw
中高のときはラジオよく聴いていたものです。
こういう何か始まりを感じさせる終わり方は大好きです。
下克上漫才に吹きました
深夜ラジオを聴いているみたいな気になる、快適なSSでした。
今回も引き込まれました
>傍観者衣玖さんの在り方
イメージを崩さず描けていれば、よかったです。そのキャラクターの気持ちになれればなぁと思います。
>おてらじお
>下克上漫才
悪ふざけが過ぎないかと心配していました。実在していたら、聴いてみたいです。
>心が伝わってくる
>心が揺れる
ひとを揺らしたくて、書いているのかもしれません。心に色をつけられると、嬉しくなります。
>衣玖さんとラジオの相性
気に入っていただけたようで、ほっとしました。
何となく、合うかもしれないと感じました。手に任せてみました。
>JET STREAMをイメージしてるんでしょうか?
いいえ。でも、雲海飛行とラジオの空気は、番組の記憶からも無意識に貰っている気がします。
夜更かしのいいお供でした。
いいなあ、こういういい意味でやりたい放題やってるっていうのは。実に楽しそう。幻想郷ならではな、お祭り感覚のラジオなんでしょうね。
それが聖の魔界での話とシンクロして海の中のような作品の雰囲気を醸し出していました。
「実は面倒くさがり」という原作での衣玖さんの性格の設定を踏襲しているのも良かったです。
大空は空気が澄んでいそうですけど、匂いもまた薄そうですね。
とにかく良かったです。
ラジオを聴く衣玖さん、という発想力に脱帽。
雲の中に覆われた衣玖さんの姿と、ラストの雲の海を抜けた先に広がる空のイメージの解放感に心が震えました。
おてらじおのアットホーム感も良い。
綺麗で静かで、心温まる素敵な話でした。
素敵なお話でした。
絶望、怠惰の海を泳いでいると視界が狭くなる、上も下も見えなくなる、あらがえば光が見えるかもしれない、まさにその通りだと思います。
素敵な言葉をありがとうございました。