誰かが泣いている。
一人や二人ではない。大勢の妖怪が泣いていた。
天狗もいる。鬼もいる。河童もいる。
だけどみんな同じ所を見つめて、涙を流している。
なんだろう。感動的な映画でも観ているのかな。
私も倣うように顔をあげた。
ああ、なるほど。
黒縁の額に納められた写真。前に似たようなことをした覚えがある。
一般的にこれは葬式と呼ばれる催しで、写真の中に写っている奴が死んでいるのだ。それが悲しくて、みんな泣いているのだろう。
理解したけど、私は首を傾げた。
額縁は空っぽだ。中には写真なんか入っていない。
だとしたら、これは一体誰のお葬式なんだろう。
目を覚ましたばかりのように、頭の中は混乱している。どうして此処にいるのか。一体何があったのか。正確に思い出すことはできない。
それでも、自分の名前を忘れたりはしなかった。
霊烏路空。みんなからはお空と呼ばれている。
地霊殿で働いている、地獄烏。
まだまだ元気。死ぬ予定無し。
だから何かの間違いだろう。
気になって、隣で涙を拭いていたヤマメに尋ねる。
これは誰のお葬式なの、と。
「決まってるじゃない、お空の葬式よ」
妖怪達に畏まった催しは合わない。だからお葬式だって、人間達がやっているモノとは少し違うらしい。
みんなが集まって、手を合わせたり、死んだ人が好きだったものを棺の中に入れていく。それで死体と一緒に燃やすそうだ。うろ覚えなので、幾つか工程を省いているかもしれない。だけどそんなもの、今は大した問題じゃなかった。
何度も目を凝らす。目をこする。
夢じゃないかと頬もつねった。実に痛い。
「うにゅ……」
どういうことだ。私はまだ生きているのに、他のみんなは空っぽの額を見て泣いている。黒縁の中には一枚の写真も収められておらず、どれだけ見つめてもただの額にしか見えなかった。
だがそんな事よりも気になるのは、私が死んだという話。どういうことだろう。
しばし悩み、ハッとした。
もしかして、今の私は霊体なのか。だから死んだという自覚がなく、誰も私を気に留めていない。記憶の混乱も、そうだとしたら説明がつく。
そっか、私、本当に死んじゃったのか。
自覚がないせいか、そう呟いても実感が湧いてこない。なにせ死んだ経験などないのだ。蓬莱人じゃあるまいし、そんな経験を何度もするわけにはいかない。
それにしたって、もっとこう現実味があってもいいじゃないか。幽霊がリアリティを求めるのも変な話だけど。
どうして自分が死んだのか。それさえも思い出せないなんて。
いや違う。頭の隅に、微かに残滓がこびりついている。
それを手にしたら、何もかも思い出せるような気がした。
だけど手が届かない。
私は一生懸命に唸り、こめかみを指で揉みほぐす。
「何をやっているんですか、あなたは」
「こうしていたら記憶が捻り出せるような気がして」
「馬鹿なことを……」
こっちは必至なのに、馬鹿とは何だ。ちょっとした怒りを携え、顔をあげたところで気がついた。あれ、私って幽霊だったんじゃ?
どうして話かける人がいるんだろう。
「どうしました?」
相手が死神だったなら、まだ納得できたのに。
声をかけてきた妖怪は、死神でも何でもなく、私のご主人様だった。
「あの、さとり様?」
「何です」
「私の姿が見えるんですか?」
眉をひそめ、口をつむぎ、目を閉じた。
呆れているんだと、言葉もないのに察してしまう。
「馬鹿の上塗りみたいな事を言わないで。どうしてあなたの姿が見えなくなるんですか。あの子と違って、死んだわけじゃあるまいし」
冷静な言葉だ。嫌でも理解してしまう。
霊烏路空は本当に死んでしまったんだということ。
そして、さとり様は大して悲しんでいないということ。
だって勇儀やパルスィですら泣いているのに、さとり様だけ涙すら見せていないんだもん。
号泣してほしいとは言わないけれど、せめてちょっとぐらい泣いてくれてもいいのに。
違う、違う。さとり様の方が正しいんだ。
だって、私は死んでいないんだから。泣く必要なんてどこにもない。
あれ、だけどさとり様は私が死んだって言ってるわけで。
あれ? あれ?
「頭から煙が出そうな顔をして、さっきから何ですか」
「いや、あの、これ誰のお葬式ですか? 額は空っぽみたいですし」
「……記憶障害かしら。それに視覚にも問題があるようね。悲しみで気でも狂った?」
物騒なことを呟きながらも、さとり様は素直に教えてくれた。
呆れたように、どこか少しだけ寂しそうに。
「お空の葬式に決まっているでしょう」
唾を飲む。おおよその予想はしていたものの、あらためて言われると実感が違う。
ぼんやりとしていた頭も、いよいよ覚醒し始めてきた。
だけど相変わらず記憶だけはハッキリしない。だからこそ訊かないと。
一番大事なことを。
「だったら、もう一つだけ訊きたいことがあるんですけど」
「何?」
心臓の鼓動が五月蠅い。喉はカラカラに干からび、背筋は棒でも突き刺されたようにピンと張っている。
恐る恐る、口を開いた。
「私は誰ですか?」
さとり様は顔を引きつらせながら、私の額に手をあてた。
そして一通りのチェックをして風邪や病気ではないことを確かめてから、ゆっくりとその名前を口にする。
「お空に決まっているじゃない」
熱を測りたいのはこっちの方だ。
聞いた話によると、私は自分の力に呑まれてしまったらしい。正確には八咫烏様の力なのだけど、それはもう見事なまでの散り際だったという。太陽のように光って、跡形もなく蒸発したんだとか。
そう言われると微かになっていた記憶も俄に蘇り、その時の光景がありありと脳裏に浮かび上がってきた。有象無象を飲み込み、太陽のような光の塊に溶かされていく自分。よくもまぁ、それだけで被害が済んだものだと感心すらしてしまう。
なんでも神様達が食い止めてくれたらしく、さすがに行き過ぎた力を与えたのだと反省しているそうだ。私は別に怨んでないけど、お燐はかなり酷く当たったらしい。遺体もない棺に泣きすがりながら、時折神様達の方を殺意の籠もった視線で睨み付けている。
私は此処にいるのに。試しに話しかけてみようとしたけど、お燐の剣幕は私すらも近寄るのを躊躇うほどだった。後で落ち着いてから話かけてみようかと思うけど、さとり様と同じ反応をされたらどうしよう。
理解不能だ。
お空は死んだ。私はお空だ。そして私は生きている。
なんだろう、これ。馬鹿な私でも、この三つが矛盾していることは分かる。
きっとどれかが間違っているのだろう。
お空は死んでいないのか、私はもう死んでいるのか、それとも私はお空じゃないのか。
葬式の席をこっそり抜けだし、自分の部屋へと戻ってきた。遺品として色々と焼かれてしまったらしく、部屋の中はとても寂しい。だけど壁にはめ込まれた鏡だけは、持ち出すわけにもいかなかったのだろう。
扉を閉め、部屋の中に入る。
これを覗き込めば、全てはハッキリするはずだ。もしも違う人物がそこに映っていたとしたら、どこにも矛盾はなくなる。だけどその場合、新しい問題が浮上してくるのだ。
さあ、私はだあれ?
兎にも角にも、鏡を見れば全てが分かる。震える足を押さえながら、一歩ずつ鏡の前へと近づいていった。
そしてゆっくりと顔をあげて、私は言葉を失う。
お空だった。私はやっぱりお空だったのだ。
さとり様の言葉は正しかった。矛盾は解決していないものの、どこか安堵したような気になっている。それはそうだ。もしもこれが間違っているとしたら、自分は一体なんなのだ。
お空の振りをしているならまだしも、自分をお空だと思いこんでいる。つまりこの意識は全て作り上げられた仮初めのものであり、本物のお空は力に飲み込まれて死んでしまった。
ゾッとする。お空の死が確実なものになることと同じぐらい、自分をお空だと思いこんでいるという説に。
そう考えると、鏡の姿よりもさとり様の言葉の方が有り難い。どれだけ自分が思いこんでいようと、他人の意識まで変えることはできないのだから。
それこそ、ぬえか、こいし様でもない限り。
……ん?
「あれ、こんな所にいたんだ」
部屋の中に入ってきたのはこいし様だった。
両手で掴んでいた何かが、鰻のようにヌラリと抜け出す。そして霧のように消え、何に引っかかっていたのかさえ思い出せなくなっていた。
「どうしたの?」
不思議そうに首を傾げるこいし様。私は念のために、彼女にも同じ質問を投げかけた。
「あの、私が誰に見えます?」
「え、お空じゃないの?」
「じゃあじゃあ、お葬式で死んでいるのは?」
「お空でしょ」
「どっちも私ですよね!」
平気な顔で矛盾を告げるこいし様。
必至な私の声に、こいし様はくすりと笑った。
「うん、どっちもお空だね。でも、あなたは生きてるじゃない」
「そうなんですよ。なのに、みんな私は死んだって!」
「お空は死んでないよ、死んだのはお空」
ますます意味が分からない。私が難しい顔をすればするほど、こいし様の笑顔はより一層濃くなっていった。
「こういう説明とか言い訳みたいなのは苦手だから嫌なんだけど。死んだのはもう一人のお空の方よ」
「もう……一人の?」
双子の姉妹がいたという記憶はない。いや、そもそも葬式の場にいた時よりも前の記憶がなかった。
勿論、地霊殿で過ごした時の記憶はある。さとり様やお燐のことだって忘れていないし、こいし様のことだってしっかりと覚えていた。
ただある日、ぷっつりと記憶が途切れるのだ。ちょうど、私が死んだという日から。
そして記憶が再開するのはあの葬式の場。その間に私が何をしていたのか、まったく思い出すことができない。
「うにゅ。確かに私の記憶は混乱してますけど、ずっと昔からの事は覚えているんですよ。この地霊殿でお空と名乗っているのは私だけです」
「ううん、嘘。あなたはお空の死が悲しすぎるから、強引に記憶を書き換えようとしているだけ。お空はいたよ。いつも、あなたやお燐と一緒に遊んでたじゃない」
こいし様は笑顔だ。でも目は真剣だ。
嘘をついているようには思えない。
だとすれば、本当にお空はもう一人いたの?
思い出せないのは、記憶を消してしまったから?
「思い出してごらんよ。あなた達はお姉ちゃんや私よりもあの子と長く過ごしていたんだから」
「うう……」
朧気だった記憶が、徐々に輪郭を取り戻す。
お燐と私の隣に、誰かいたような気もしてきた。
一緒に遊んでいた、不思議な不思議な女の子。
彼女はさとり様よりも私に懐いていて、お燐が嫉妬するぐらいに仲良しだったのを覚えている。
そうだ、私は忘れていた。
お空はいたんだ。いつも隣に。
「ああ!」
「ようやく、思い出せたのかな?」
「で、でも、お空は八咫烏の力に飲み込まれて死んだって! その力を持ってるのは私のはずなのに……」
こいし様は黙って、私の顔を見つめていた。
数秒の沈黙が、永遠のように思えた。
「神様はあなた達二匹へ均等に力を分け与えた。だから二人とも同じ力を持っていた。だけど、あの子だけが暴走させてしまったんだよ」
「そんな……」
できることなら、制御の仕方を教えてあげればよかった。そうしたら、こんな結末を迎えることはなかっただろうに。
不意に、私の頬を涙がつたった。みんなに遅れてようやく、私は彼女の為に涙を流すことができたのだ。
こいし様は優しく微笑み、私の頭を撫でてくれた。
「あなたが泣いたと知れば、きっとあの子も喜んでくれるよ」
そうあって欲しい。
もう笑顔を見ることはできないけれど。せめてあの世で笑ってもらいたいのだ、あの子には。
「それじゃあ、私はもう行くね」
私を一人にしようと思ったのか、こいし様は部屋から出て行った。
もっと頭を撫でて欲しかったけれど、子供のように愚図るわけにもいかない。そんな私の姿を見れば、きっとあの子は笑うだろう。
めそめそばかりしてられない。
涙を拭いて立ち上がり、扉を開く。
逝ってしまったあの子の為に、私は強くあろうと決めたのだ。
今頃はきっと、ホールで壮大な宴会が催されているのだろう。鬼やら天狗は酒で悲しみを吹き飛ばし、それが最大の供養になると信じて疑わない奴らだ。騒げば騒ぐほど故人も安心できると思っているから、愛されていればいるほど宴は盛大なものとなる。
察するに、あの子はよほど愛されていたらしい。博麗神社の宴会と大差ないほど盛り上がった雰囲気が、ホールの方から伝わってくる。
あの子にはこいし様のような放浪癖があり、それで色々と知り合いがいるのだろう。出来ることなら、私もそう有りたいものだと願ってしまう。
「にゃぁぁぁぁぁぁぁ!」
悲しさを紛らわすような、お燐の鳴き声が聞こえてきた。あの子は三人でいる時だって、いつも私にべったりだった。それほどお燐の事は気にかけていなかったようだけど、知らないところでは仲良くしていたのか。そうでなければ、あれほど悲しんでくれるはずもない。
それにしても、どうしてあの子は私なんかに懐いてくれていたのか。自分で言うのもの何だが、私はあまり頭がよくない。おまけに空気もあまり読めない。言わなくてもいい事を平気で言って、人を傷つけることもしょっちゅうだ。
それなのに、あの子は私を親友のように慕ってくれる。当時はそれを不思議に思っていたけれど、今にして思えば何となく分かる気もする。
あの子はきっと、何も考えていない私だからこそ親しくしてくれたのだろう。打算も計算も考えるほどの知恵がなく、抱いた好意は純粋そのもの。混じりっけなしの好意は、ちょっとだけ捻くれたあの子にとってまさしく太陽のような存在だったに違いない。
お燐はちょっとだけ頭が回り、私よりも色々と考えている。だからあの子はあまり気に入っていなかったようだけど、さとり様なんかは好いているようだ。
だけどまぁ、それも結局は私の主観だ。現に、お燐はああやって悲しみにくれている。多少は頭が回るからといって、演技ができるような器ではない。
「私が死んだら、あれだけ泣いてくれるかな」
死後の世界には興味がないけど、死後の自分には興味をそそられる。果たして、どれだけの人妖が悲しんでくれることだろう。どれだけの連中が集まってくれるのだろう。
そしてさとり様やお燐は、私の死を悲しんでくれるのだろうか。
気になることは山積みだけど、答え合わせは不可能だ。それこそ生前葬でもしない限り、私がこの目で眺めることはできない。
「はぁ……」
「こんな所にいたのね、お空」
「あ、さとり様」
廊下の隅っこ。隠れるようにホールを眺めている私は、まるで宴会に招待されなかった嫌われ者のように見える。
そんな私を心配しているのか、さとり様の顔色は酷く曇っていた。
「急にいなくなるから、何処に行ったのかと心配したのよ」
「あ、ごめんなさい。ちょっとお空の部屋に……」
「ああ、なるほど」
さとり様は私達の仲の良さを知っている。言わずとも、目的を察してくれたのだろう。
「私はてっきり……」
「てっきり?」
「い、いや、何でもないわ。気にしないでちょうだい」
露骨に目を逸らすさとり様。そう言われると、追求したくなるのが性というものだ。
回り込み、真正面からさとり様の顔を見つめる。
「なんですか、さとり様。気になることがあるんなら、この場で全部言ってください」
「別に大したことじゃないのよ。ちょっと、いらぬ想像をしてただけ」
「いらぬ想像?」
逃げ切ることはできないと観念したのか、さとり様は溜息をついて口を開いた。
「ひょっとしたら、あなたが後追い自殺でもするんじゃないかと心配してたのよ」
「え?」
「あなた達は私が嫉妬するぐらいに仲が良かったから。だから、その……あの世で一緒になろうみたいな」
危うく吹き出しそうになった。恋人じゃあるまいし、そこまでの悲恋を演じるつもりもない。
確かに悲しくはある。だけどそれは、自らの命を投げ出すほどの悲しみではない。
大体、死んだからといって一緒になれるわけではないし。あの閻魔のことだ。きっと二人は別々のところに送られて後悔するのがオチだろう。
「大丈夫ですよ、さとり様。死んだりなんかしません」
「そう、ならいいのよ。さっきも変なことを訊いてくるし、ちょっと頭がおかしくなったんじゃないかと心配してたの」
さっきの質問というと、誰が死んだ云々というやつか。なるほど、自分がさとり様でも同じような反応を見せたのかもしれない。
あるいは、本当にちょっとおかしいのだろうか。記憶はやっぱり曖昧なままだし、そのせいか悲しみも希薄すぎる。あの子が死んだとなれば、それこそお燐のように大号泣しててもいいのに。
竹林のお医者さんに診てもらおうか。それとも命蓮寺の尼さんに相談してみようか。
「……あれ?」
「どうしたの?」
私は首を捻った。喉の奥で何かが引っかかっているような、奇妙な感覚だ。
忘れてしまったというよりも、思い出せないという表現が正しい。
確かあったはずなのだ。医者よりも尼よりも、もっと簡単に私の心を暴いてくれるはずの存在が。
それがあるからこそ、さとり様は地下に籠もっているわけで……
「ああ!」
「な、なんです」
「そうだ、そうだ。さとり様に診て貰えばいいんだ」
「?」
自己解決した私の態度に、さとり様は疑問符を浮かべる。
「あの、さとり様。ちょっとお願いがあるんですけど」
「なんですか」
「なんだかお葬式の前あたりから記憶が曖昧なんですよ。だから私に何があったのか、ちょっと心をよんで欲しいなあと」
さとり様は呆れた顔だ。無理もない。
鳥頭とはいえ、まさかちょっとした記憶喪失になってしまうとは。
さしものさとり様とはいえ予想はしていなかっただろう。
肩をすくめ、馬鹿ですね、と呟く。
私は照れ笑いを浮かべた。
「あなたの心がよめるはずもないでしょう」
…………え?
「だけど、記憶に混乱があるのは間違いないようね。悩み事があるなら……といっても、間違いなくあの子の事なんでしょうけど。相談があるのなら聞いてあげるわよ」
何かがおかしい。いや、おかしい箇所は分かっている。
だってさとり様は覚りなのだから、心がよめないはずはない。
そして私はお空なのだから、心がよまれないわけがない。
だとしたら、一体何が間違っているの?
「う、うにゅ……」
私の口癖を聞いた途端、さとり様の顔色が変わった。変なさとり様だ。だって、私はお空なのだから、その口癖を呟いたとしても何の不思議もない。
「お空……あなた……」
厳しい目で、さとり様が私を見つめる。その視線が怖くて、何故か私は目を逸らしてしまった。
「そう。変だ変だとは思っていたけど、そういうことだったのね。なるほど」
今度は、さとり様が勝手に自己解決してしまったようだ。何に納得しているのか。
本来なら訊くべきなのだろうけど、不思議と言葉が出てこない。
「周りではなく、自分を騙したのね」
私は黙る。
「五感などというのは曖昧なもの。当人が思いこめば、視覚も聴覚も簡単に欺ける。あなたは自らを騙すことで、入ってくると情報と出て行く情報にフィルターをかけた。そうなんでしょう、お空?」
私は答えない。
「あなたにはきっと、自分が敬語を使って喋っているように聞こえるんでしょう。そして私のことをさとり様と呼んでいるように聞こえるのでしょう。自分の名前はお空に聞こえるのかしら。額が空っぽだったのは簡単な話。あなたが認識しようとしなかったから」
今になってようやく分かる。覚り妖怪の本当の恐ろしさを。
例え心を読めずとも、彼女達は簡単に他人の心を暴けるのだ。
いや、本当は知っていたのではないか。
だからこそ私は第三の目を……。
「ち、違います!」
「ん、何がかしら?」
自らもさとり様も否定するように、あげた声はホールからの騒音にも負けないぐらい大きい。
「私はさっき、あの人と会いました!」
「あの人? 誰かしら? 名前を言ってくれないと分からないわよ」
言えばいい。こいし様と。
だけど私は何も言えない。
だってそうじゃないか。
もしもこいし様と言ったはずなのに、それがお空と聞こえるのならば。さとり様の言葉が正しいと証明しているようなもの。
それが怖くて、私は再び何も言えなくなる。
「まぁ、誰に会ったのか想像はつくわ。だけど言ったでしょう。五感なんてものは当てにならない。誰もいなかったのに、そこに誰かを作ることぐらい簡単にできる。それこそ無意識を操れるのなら。なんだか釈迦に説法をしている気分ね」
あのこいし様が、私の作り上げた偽物?
そんなはずはない。だってこいし様は間違いなくあそこにいたし、私とちゃんと話してくれた。
「そこで記憶の整合性をとろうとしたのね。だけどあなたは言い訳が下手だから、きっと途中からちぐはぐになったんじゃない?」
「…………そんなことは」
「お燐が泣いているのはお空が死んだから。そしてあなたがそうやって自分を偽っているのは、お空が死んだから。あなたもお燐も、お空のことが大好きだったものね」
それだけは否定することができなかった。
お燐も、私も。お空の事が大好きだった。
だからもしも死んだのだとすれば。
それを認めたくなくて、お空はまだ生きているんだと思いこもうとして。
「自らを偽る生き方は自分を追いつめるだけよ。偽物のお空を作ろうとはしなかったんだから、あなただって本当は理解しているんでしょう?」
もしも自分にそんな能力があるのなら、わざわざ自らを偽る必要なんてない。
作ればいいのだ、想像上のお空を。こいし様を作ったように。
自分をお空だと思いこむよりは、遙かに楽な手法だろう。
なのに、私はそれをしなかった。
当たり前だ。私はお空になりたかったんじゃない。
こいしでいたくなかったのだ。
もしもこいしでいたのなら、偽物なんか作っても空しいだけ。
だから私はこいしを捨てて、お空になろうとした。
お空だったら、こんな状況でも悲しむことはないのだから。
「うう……」
「第三の目は閉ざしてしまった。それはもう取り返すことのできない過去。だけど、本当の目や耳まで閉ざさせるわけにはいかない。例え怨まれることになっても、私はあなたに真実を告げるわ」
ちゃんと立っているのか、それすらも分からなくなってきた。
自分がなんなのか。何を考えているのか。
全てが曖昧になってくる。
「お空は死んだわ」
突きつけられる現実。
だけど私はどうしても認めたくなくて耳を塞いだ。
それでもお姉ちゃんの言葉は容赦なく、私の心にまで届いてくるのだ。
「目を覚ましなさい。私の妹、古明地こいし」
私は走っていた。
地霊殿の廊下を、一人で全速力で。
さとり様は置いてきた。だってさとり様は、嘘ばっかり吐くから。
私がこいし様だなんて、そんな事があるはずない。
だって私はお空なんだから。私がこいし様だったら、お空は死んでしまったことになるじゃない。
落ちこんで悲しかった時も、嫌なことがあって誰かを殺したくなったときも、お空だけは変わらぬ笑顔で私に接してくれた。実の姉すらも敬遠したくなる状態でも、あの子だけは私を見捨てなかった。
お空がいたからこそ、私は第三の目を閉じるだけで済んだのだ。もしもいなかったら、あるいはもうこの世にいなかったのかもしれない。
そんなお空が死んだ。
馬鹿を言え。
あの子が死ぬはずない。
あんな良い子が、どうして死ぬのだ。
死んでいない。
だって、私がお空なんだから。
あの子が死んでいるはずはない!
「っ……はぁ……はぁ……」
息を切らせて、私の部屋に飛び込む。
そういえば、こいし様はどうやってこの部屋を出たのだろう。扉を閉めた覚えはないのに、私が出る時は扉が閉められていたような。
いや、きっと気のせいだ。
混乱しているのだ、私は。
全て思い出せば、きっとさとり様の思い違いだって分かる。
現に、少しだけあの子との思い出も蘇ってきた。
あの子は身だしなみに無頓着で、いつも私が注意していたのだ。元の素材はいいのだから、磨けば光ると何度も口をすっぱくしていた。
それなのにあの子は鏡すら持ち歩かず、部屋にだって……
「あれ?」
おかしい。だとしたら、何でこの部屋には大きな鏡があるのだろう。
あの子の部屋に鏡なんか無かったはずなのに。
嫌な予感がして、クローゼットを開ける。
こいし様の部屋には基本的に何もない。物には執着しないので、部屋の中も空っぽなのだ。
だけど服だけは拘りがあるらしく、クローゼットの中には様々な服が吊されている。
その服が、この部屋のクローゼットには入っていた。
脳が拒絶しても理解する。
ここは、こいし様の部屋だ。
それを私はさっきから、自分の部屋だと言ってきた。
だとしたら、やっぱり。
崩れ落ちる身体を引き留め、強引に立ち上がる。
そうだ。私の記憶は混乱しているのだ。
ちょっとぐらい、部屋を間違えることだってあるだろう。
鏡をみよう。
鏡を見ればきっと、そこにはお空の顔が映っているはずだ。
鏡を見れば、全てが分かる。
だって私はお空なのだから。
さとり様が違うと言っても、お燐が泣いていても、こいし様の姿が見えなくても。
あの子が死んだのだから。
私はお空でないといけないのだ。
そして、鏡を覗き込む。
「ごめんね、お空……」
気が付けば泣いていた。
十二時の鐘が鳴っていないのに、私へかけられた魔法は解けてしまったようだ。
もう、自分自身すらも騙せない。
だから、終わりだ。
お別れを言おう。
大好きだった、あの子に向けて。
「私、こいしだったみたい」
そしてお空は本当の意味で死を迎えた。
>落ちてこんで悲しかった時→落ちこんで、ですね。
そして自分を騙しつづけることなど、出来るはずもない。
こいしちゃんはよく頑張ったほうだよ。
こういう話もありなのかと作者様の発想力と手腕に感動しました。
よい作品をありがとうございました
しかし、もしさとりがいなかったらどうなったことか……。
からくりが分かってからも混乱した。
なんてものを読ませるんだっ
胸がいっぱいになるお話でした。
黙祷……しましょう……
オレは今日そそわに来てよかった
めったにつけない100点置いてきますね
そして、こいしの幸いも。
うーん、ムズカシイ……。
読み易い文章、明快なからくり。ありのままではなく、見たいものを見て聞きたいものを聞くということ。
やはり貴方の発想、そしてそれをすとんとアウトプットできる手腕は感服です。
お空……
天国でお空がこれからも笑っていればいいな……
自分もこんな考えさせる作品を書けるようにないたいです。
私達は納得していないことを無理やり納得させようとする。
いつか納得していなかったってことをも、忘れてしまうかもしれない。
愛したみんなにも、幸せを。
これは心にくる……
こういうのもアリだなぁ。
こいしの能力解釈はもういうのもあるのですね……
期待して読み、期待通りの素晴らしい出来でした。
例え矛盾を含んでも、理論的におかしくても、自分が納得できれば、それが認識する世界になってしまう。
もし、まるで夢の中の出来事のように、矛盾に引っかかりを覚えなければ……こいし様はどうなっていたのでしょう
愛する者を失う悲しみはいかばかりか…自分の感覚を偽るのも無理はなし。全て読んだ自分でさえ、お空が二人いた設定を拭い去れなかったのだから。
「あれ、何故こんなところにいるんだ?早く帰らないとさとり様に怒られるだろう。」
まったくもって創想話は油断できない。
よかったです。
やっぱりそうだったけど
こういう使い方だとは思わなかったです
登場人物の関係が説明だけであっさり感じられたというか…
私の好みですがもっと心理描写が欲しかったな、と。
読み終わってもう一度良く考えてみた
なぜだか涙が出た
こういうのを傑作って呼ぶのでしょうね
私の大好物の八重結界さんのシリアス物でした。
大変面白く読ませていただきました。
特に本文中のさとりの発言から、泣いていないさとりが一番しっかりと
葬式に則り空を”殺している”様な感覚が私には想像出来てとてもとても良かったです。
誤字
お燐はちょっとだけ頭が周り>頭が回り
ですが、素晴らしい…
いるものの、お空の死にこいしがそこまで思いつめる様に違和感を覚える。
また、読者にその「こいしとお空が仲が良かった」との事前情報を与えて
いなかった点もミスリードを誘う手法としてアンフェアに思える。
しかし無意識について独自の解釈を行った点は評価に値するのではないかと思う。
起承転転転結くらいはあったんじゃないかな
お空が二人?死亡?暴走?こいし?とか推察しながら、頭を捻りながら読めた
上手く転がされた感も否めないかも
どちらにせよ楽しく読めました
お疲れ様でした。
作られた世界は砕けたけど、これは早かれ遅かれ、結局は認めないといけないことだったんですよね。
とにかく物語の見せ方は上手いし、ぐいぐい引き込まれてしまう。
でもこいしの能力がミステリのトリックとして便利すぎる気もするなあ。
面白かったですよ
途中までぬえが自分自身を正体不明にしちゃってるんじゃないかとか思ってました。
あと、なんかさとりが京極堂っぽく思えました。
>また、読者にその「こいしとお空が仲が良かった」との事前情報を与えて
>いなかった点もミスリードを誘う手法としてアンフェアに思える。
「どうしてあの子は私なんかに懐いてくれていたのか。自分で言うのもの何だが、私はあまり頭がよくない。おまけに空気もあまり読めない。言わなくてもいい事を平気で言って、人を傷つけることもしょっちゅうだ。
それなのに、あの子は私を親友のように慕ってくれる。当時はそれを不思議に思っていたけれど、今にして思えば何となく分かる気もする。」
「混じりっけなしの好意は、ちょっとだけ捻くれたあの子にとってまさしく太陽のような存在だったに違いない。」
とかまさにそれでは?こいし視点のお空を自分に置きかえて、自身を評価してるって言う。
最初は最後のひっくり返しにただ驚いて、二度目は各人の発言を見ながら納得し、三度目で物語を堪能できた気がする。
真実を明かされて不思議が納得に変わるのがいつもすげえ。
>>入ってくると情報と出て行く情報にフィルターをかけた。
「と」が一個、余計ですね
そして無意識が愛した太陽。
あとがきで100点です。