※このSSは、作品集93の拙作『幻想参景 博麗』の続編になります。
前作URLは http://coolier.sytes.net:8080/sosowa/ssw_l/?mode=read&key=1260511707&log=93 です。
0 死に至る病
「こいしを監禁したいな」
さてどうしたものか、とこいしは思った。
こう言ったのが、見るからに怪しくて変質者としか思えない人間ならば、こいしは無意識の能力を使って脇目も振らず逃げ出すだろう。
しかし、こいしを監禁したいという危険な欲求を持っているのは、金髪で紅い瞳の可愛らしい女の子なのである。
ついでに言えば、その女の子は親しい友人だった。
テーブル上の写真立ての四角い枠の中で、一緒に朗らかな笑みを浮かべているほどの仲である。
「どうしてわたしを監禁したいの?」
こいしはテーブルの上に読んでいた本を置き、友人の方を向いて尋ねた。
それがどんな要求であれ、一応は理由を訊くのが礼儀というものだ。
「んー、だって可愛いし、傍にいたら楽しいからね」
フランドールは自分のベッドに寝そべりながら、片肘を立てて手に頭をのせ、こいしの方を眺めている。
浮かんでいるのは意地悪な微笑み。嗜虐が心をくすぐっている時の表情だ。
こいしは小さく溜息をついた。
「今だって傍にいるでしょ。退屈なの? トランプでもやる?」
「そうじゃなくって、こう、閉じ込めるのがいいの。やることなすことすべて私に監視されててさ。逃げようとしても逃げらない。食事も私があげなきゃ取ることができない。そういうのって素敵だと思わない?」
「うーん、それってまるでペットみたいだね」
「ペット、そうペット! それがいいな。ねぇこいし、私のペットになってよっ」
フランドールは勢い良く起き上がって、こいしの方に身を乗り出した。
いつになくはしゃいでいる。
「フランちゃん、わたしのことなんだと思ってるの?」
「愛玩動物?」
首を傾げながら、フランドールは素晴らしく無邪気に答えた。
なかなかひどい扱いであるが、いつものことなのでこいしは何もいわなかった。
目を閉じて黙考する。
思い浮かべたのは、姉のペットである火焔猫燐のことだ。彼女の生活はいたって気ままだ。好きな時間に起きて地霊殿を練り歩いたり、死体が出れば嬉々としてそれを回収しに行ったり、友人の空と一緒に温泉に入ってうだうだしたり、寝る前にさとりの膝に乗って撫で撫でしてもらったりと、実に悠々自適に時を過ごしている。
「ねぇフランちゃん」
「なに?」
「もしわたしがペットになったら、膝枕してわたしの頭を撫でてくれる?」
「ん? それくらいならいいけど。そんなことしてもらいたいの? 変ってるね」
ならば、なかなか悪くないかもしれない。
こいしは時計をちらりと見ると、読んでいた本を手にとって立ちあがった。
「あれ、どこ行くの?」
「もうそろそろ夜だから、行くね。部屋に帰らないとお姉ちゃんが心配しちゃう」
「えー、じゃあ監禁はー?」
「また今度、お姉ちゃんがこのお館にいない時にね」
扉へ向かいながら、こいしの心は既に部屋で眠るさとりのところにあった。
「また、お姉ちゃんなんだね」
ひどく不満そうな声で、フランドールが後ろから声をかけてきた。
「壊れちゃえばいいのに。こいしのお姉ちゃんなんて」
「とっくの昔から壊れてるよ、うちのお姉ちゃんは。じゃあね」
そっけなくいって、こいしは扉に手をかけた。
「こいし!」
悲痛な声で呼びとめられて、足をとめる。
振り向くと、縋るような目つきで、フランドールが見つめてくる。
「……また明日、来るんだよね?」
寂しくてたまらない。見捨てられるのが怖い。そんな感情が紅い瞳からひしひしと伝わってくる。
「もちろん。ここのところ毎日来てるでしょ? 大丈夫だよ」
こいしは柔和な微笑みを浮かべていう。
こうすると、フランドールが救われたような表情になるのを知っているからだ。
一緒に遊んでいる時は、こいしのことを動物か何かと同じように扱って、困っているのを見て楽しんでいるのに。
去り際になると、途端に弱気になってしまう。そんなフランドールを、こいしはたまらなく可愛らしいと思う。
「また明日ね」
こいしは部屋を出て、扉をゆっくりと閉めた。
ズズン、と重々しい音がした。
堅い鉄扉の表面に手をあて、その冷たさに顔をしかめてから、暗い廊下を歩きだす。
こいしがさとりと一緒に紅魔館に居候を始めてから、今日でちょうど一週間。まず最初にしたのは、この館の住人たちの生活リズムに合わせるため、昼夜を逆転することだった。太陽が昇ると共にベッドに入り、夜が訪れると共に起床する。タダで住まわせてもらう以上、そうするのは当然の礼儀だとさとりは主張したし、こいしもそれに異論はなかった。いつもと違ったリズムで生活するのはなかなか新鮮で、日が沈んでからさとりが目覚めるまでの一時間をこうしてフランドールと一緒に遊んで過ごすのは、こいしにとってかなり楽しいことだった。
「そこまでは、よかったんだけどなぁ……」
三日ほど経って、さとりがとある病気にかかってしまったのだ。
それは時に精神の内奥まで入り込み、孤独を糧に心の襞を食い尽くし、ある達成が非常に困難な条件を満たさない限り、決して治癒を見ることのない深刻な疾患。
寝ている時、そいつは獣のように影をひそめている。しかし一旦さとりが目覚めると、それは容赦なく彼女の精神を荒らしまわり、遂には身体までも蝕んでいく。
目覚めの時、こいしが傍にいれば、その症状は少しだが軽減される。
だから、居てあげなければ。
「お姉ちゃん、起きてる?」
こいしとさとりの寝起きする部屋の扉の前に立ち、ノックして意識の有無を確かめる。
「う………うぅ、こいし、こいしは、どこにっ………」
中から、くぐもったうめき声が聞こえてきた。
こいしは扉を開け、中に入る。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「ああ、こいし! 私はもうだめです。死んでしまいます」
さとりは見る影も無い有様だった。髪はくしゃくしゃ、パジャマは何日も変えていないせいで皺だらけだし、顔も土気色で生気がない。ずっと泣き腫らしていたので目の周りが赤くむくんでいる。何日もベッドから離れられず、食事もろくにとらず、彼女は徐々に憔悴していったのだ。
こいしはベッドのところまで行き、姉の手を握った。
その手は冷たかった。孤独と恐怖に打ち震えていた。
「ねぇ、お姉ちゃん、大丈夫だよ。絶対治る。安心して。わたしがいつまでも傍にいてあげるから」
「うぅ……こいし……燐と、空は……ああ、そう、今はいない……どうして……」
「大丈夫。お燐にもおくうにもそのうち会えるよ。だから、ね、今は安静にして、病気を治そう?」
こいしが精一杯元気付けようと微笑むほどに、それを見るさとりの表情はますます落ち込んでいくようだった。
「ああ………こんなことなら、いっそ……死んでしまいたい……もう、楽に……楽になりたい……」
こいしは、姉をこんなにも苦しめているものの存在を、心の底から憎んだ。
絶対に死なせるもんかと、固く強く決意する。
精神を食い荒らし、時には死にすら至らせてしまう恐るべき病。
その名は。
「…………地霊殿に……帰りたい……」
――ホームシックである。
1 メイドさとり ~2nd job~
ぶっちゃけこいしは割とうんざりしていた。
「ねぇお姉ちゃん、いい加減外に出ようよ……館の外なんて言わないから、せめて部屋の外にさ」
「思えばあの時から……こいしが目を閉じてしまったあの時から……なにか、なにか……ッ」
聞いちゃいねぇ。
そこでこいしは図書館の魔女から借りてきたハードカバーの本を開いた。フランドールの部屋で何とはなしにパラパラめくっていたものである。
ちなみにタイトルは『ご冗談でしょう、フロイ○さん ――サルでもわかる楽しい精神分析療法』というものだ。
「えーっと、まず、被験者の夢に出てくるイメージを片っ端から性的欲」
こいしは本を壁に投げつけた。
なかなか前衛的な音を立てて、本は本としての生命を失った。
こいしの深層にあるイドが枯れ、頭の中でご先祖様がやんやの喝采を始めた。
「うーん、何かいい方法はないかなぁ」
こいしは腕組みをして、再び自虐に陥りだした姉を見ながら思案した。
さとりの様子を見るに、家に帰れない寂しさが心の中で肥大して、ぐるぐると淀んだ渦に巻き込まれているようである。
そんな心の部屋に風を入れて、湿っぽい空気を外に締め出すにはどうすればいいか。
新鮮さ。姉には新鮮さが是非とも必要なのだ。
そこでこいしは名案を思い付いた。外に出なければ心は腐ってしまうが、ただ外に出るだけでは駄目なのである。
「お姉ちゃん、少し待っててね」
そう言い残して、こいしは部屋の外に出た。広い廊下の左右を眺めまわす。
良い具合に、妖精メイドが一匹、とてとてとモップを両手に抱えこちらへ歩いてきた。
少し小さいかもしれないが、まぁなんとかなるだろう。
「もしもしそこな妖精さん」
こいしはハットを片手に取り、それをお腹のあたりにあてて礼儀正しく深々とお辞儀した。
「あ、はい、なんでしょう」
可愛らしい妖精はハタと足を止めた。きょとんとした表情。
変な気持ちがこいしの心をくすぐった。
「こんなことをお願いするのは誠に心苦しいのですが」
「はい?」
「ちょいとひん剥かれて下さいませんか」
「え、ふぁ、らめ、ひぁぁっ」
事を終えた後で、こいしは再び部屋に戻った。
「お姉ちゃん、お風呂入るよ!」
「え、なななななにを」
「いいから! 天使のように可愛い妹が一緒にお風呂入ろうって誘ってるの! これで断ったら姉失格だよ!」
「い、いえ、私は遠慮……ま、待って! 話せばわかる――」
「問答無用!」
こいしはさとりをバスルームまで引っ立て、疾風怒濤の勢いでパジャマを剥ぎ、頭から熱いシャワーを浴びせ、悲鳴を上げている隙に石鹸を泡立て、体をごしごしとこすって汗を落とし、良い香りのするシャンプーとトリートメントで紫色の髪を洗い、湯気が盛大に出ているお湯の中に叩きこんだ。
こいしは実に生き生きとしていた。思うに、不精な姉をお洒落にするという使命感に燃えている時の、妹に敵う存在など皆無に等しい。ここ数日、こいしの精神は姉につられてかなりネガティブな方向へと傾いていたのだが、今は全然違う。彼女は一介の修羅である。心を鬼にして姉をベッドから追い出し、勤労という素晴らしい美徳にありつかせなければならない。そうすれば自分も心おきなくフランドールの部屋でうだうだできるというものだ。輝かしい未来、それをありったけ享受するために、彼女は嬉々として姉を変革していった。
「よし、これでオーケー」
激しくこすったせいで、白い肌に若干赤い痕が残ってしまったが、見なかったことにした。
こいしはバスタオルで姉の体をくるみ、ぽんと寝室へ放り出した。
「さて、お姉ちゃん」
こいしは妖しく微笑み、両手の指をわきわきと動かした。
さとりが怯えた眼をして壁際に引きさがる。
「ふふふ……逃げても無駄だよ」
「なっ、いったいなぜこんなことを」
「メイドになるの。メイドになって働くの。それだけがお姉ちゃんが救われる唯一の道だとわたしは思うの」
「はっ?」
「だから、このメイド服を着て! 頑張って働いてわたしに楽させてね!」
「ひぃい……」
本人の意思などガン無視で、こいしは半裸の姉にメイド服を持ってにじりより――
かくして、受動的消極的なし崩し的に。
古明地さとりは働くことになったわけである。
メイド服を着たさとりは、それはそれでなかなか魅力的だった。
が、安心するのはまだ早い。いくら労働意欲が芽生えた(ことにしておこう)からといって、それを使役せんとする雇用者が現れなければ始まらない。
こいしは姉の手を握って、この館の主であるレミリア・スカーレットの居室の前へと赴いた。
もう諦めたのか、さとりは大人しくされるがままになっている。
「大丈夫だよお姉ちゃん。きっと受け入れてくれるよ。自分を信じて」
「はぁ」
さとりは肯定とも溜息ともとれる相槌をうった。
「じゃ、行こっか」
こいしがドアをノックすると、中から銀髪のメイド長が顔を覗かせた。
「こんばんは! 良い夜ですね!」
こいしは元気に爽やかに挨拶した。
咲夜は目を細めて姉妹を見た。
「こんばんは……いったい何の用かしら?」
「実はですね、姉が就職活動を実施中でして」
「……ああ、なるほど。中へ」
異常に理解の速いメイド長は、それ以上何も聞かず二人を主の居室へと招き入れた。
「んん、咲夜、誰?」
どうやら起きぬけらしく、寝ぼけ眼で髪が若干乱れているレミリアが、入ってきた二人を見て瞳に好奇の色を浮かべた。
吸血鬼はさとりに向かっていう。
「おや……どうしたの。ベッドだけが恋人だと思っていたのだけれど。ああ、私のベッドのほうに鞍替えしようってわけ? 駄目よ、貴女には棺桶がお似合いだわ」
起きぬけでも、皮肉はぽんぽん出るらしい。こいしは睨もうとしたけれど、自分の今の立場を考えて自重した。
「どうやら、メイドとして働きたいということらしいですわ」
「ふうん……まぁそこに座ったら?」
レミリアは部屋の中央にあるテーブルを示した。そこには椅子が二つしかなかったが、瞬きした次の瞬間にはもう一つ増えていた。
こいしは姉の手を引いて席に座る。
レミリアはううんと伸びをした後、いつものナイトキャップを被って同じく席についた。
「咲夜、お茶」
「かしこまりました」
次の瞬間には、ティーセット一式がテーブルの上に現れていた。ポットの口からほくほくと湯気があがり、噛むとさくさく音がしそうなスコーンと、鮮やかな赤い苺のジャム、たおやかなクロテッドクリームの匂いが、こいしの鼻をくすぐった。
いつもながらこの手際の良さには感心する。こいしはちらりと横目で姉を見た。彼女に咲夜と同じことを求めるのは、さすがに無理があるかもしれない。だが、こう見えても一応地霊殿を統べる主なのだ。そんじょそこらの妖精メイドよりは良い働きをするだろう。そう信じたい。
「一応、志望動機を訊いたほうがいいのかしら。割と私はどうでもいいんだけど。あんたが働こうが働くまいが」
それをきいて、こいしは急に不安になった。ここまでかなり強引に引っ張ってきたのだ。当然このような質問に対する返答に関して、二人は何も打ち合わせをしていない。とすればここからは、姉が一人でレミリア・スカーレットを相手にやり合わなければならない。病み上がり(正確には治っているかどうかも怪しいが)の彼女に、そんなことができるだろうか。
こいしが悶々としていると、思いがけず明瞭な声でさとりが答えた。
「先ほど貴女のおっしゃった通り、私はここへ来て病気に罹ってしまいました。ですが、もうこれ以上引きこもってばかりもいられません。宿や食事の恩もありますが、何よりもそちらの方に申し訳が立たない。是非とも、恩返しをさせていただきたいのです」
完璧に余所行きの、礼儀正しい口調だったので、こいしは少なからず驚いた。これほどきっちり物がいえるまで回復しているとは思ってなかったし、そのきりっとした表情は、今までこいしがあまり見たことのないものだったからだ。姉の新たな一面を発見できたようで、こいしはなんだか嬉しかった。
「へぇ……恩返し、ねぇ」
レミリアも驚いたように目を見開いた。
「お給金とか払う気は一切ないけど、それでも?」
「恩返しですから。お金をもらうわけにはいきません」
レミリアは脇に控える咲夜の方に視線を泳がせた。
「だってさ。どうする?」
「お嬢様はよろしいのですか?」
「さっきもいったでしょう。私はどちらでもいい。メイドのことはお前に全部任せてるんだから。咲夜が決めて」
「ならば、採用です。博麗神社での仕事振りを見る限り、家政婦としては優秀でした。ここでの職務にも十分耐えられるでしょう」
こいしはテーブルの下でぐっと手を握った。こんなにうまくいくとは思っていなかった。
「それでは、配属は」
「……あ、咲夜、待った」
レミリアが右手で口元を隠し、何かを思案しながら咲夜を止めた。
「お嬢様?」
「それ、私が決める。配属」
ルビーのような紅い瞳でさとりをじっと見つめ、しばらく経って口元から手をどかした時――そこに浮かんでいたのは、フランドールと同じ、意地の悪いサディストの笑みだった。
こいしは嫌な予感がした。
「そうね。フラン専属のメイドなんかはどうかしら?」
「げっ」
予感的中。
「ん? 何か文句でも?」
レミリアがにやにやと笑いながらこいしに流し目を送ってくる。
「あ、いや、そのう」
「そうそう、貴女はフランのお友達だったわね。でも、貴女は口出しをしては駄目よ。雇ったのはあくまでお姉さんであって、貴女じゃないんだから」
ここへ来て、こいしはレミリアとフランドールが姉妹であることを思い知った。こいしが困っているのを見て楽しんでいるあたり、そっくりである。
助けを求めて咲夜を見たが、彼女は無表情を崩さず、いかなる感情もそこからは読みとれなかった。
なんてことだ。タイミングが悪すぎる。
さっき、フランドールは「こいしのお姉ちゃん爆発しろ」みたいなことをいっていた。
非常にまずい。
ああお姉ちゃん、どうか断って!
この時ばかりは、こいしはさとりに自分の心を読んでほしいと願った。
「わかりました。ではどうすればよいのでしょう?」
しかし、こいしの祈りも空しく、さとりは落ち着いた声で承諾した。
ごめんなさい、お姉ちゃん。
「案内するから、部屋の外で待っていて」と咲夜。
「はい。ありがとうございます。ではこいし、行きましょう」
さとりはこいしの手を引いて、部屋の外へと出た。入ってきた時とはまるで立場が逆である。
「うーん、まずったなぁ。まさかこんなことになるなんて思わなかったよ」
こいしは出てきたばかりのドアに背をあずけ、溜息をついた。
「なにがまずいの?」
「だって相手はあのフランちゃんだよ? ……お姉ちゃんは、あんまり気にしてなさそうだね。さっきまでえぐえぐ泣いてたのに」
こいしはしげしげと姉の顔を眺めた。涙の跡や憔悴の色はシャワーと共に洗いながされ、今のさとりはとてもさっぱりとしていた。その表情さえも、憂いは若干残るものの、ベッドの中で枕カバーと熱い口づけを交わしていた頃と比べたら、雲泥の差と言っても差しつかえない。
「ええ、そうですね」
さとりは落ちつかなげにカチューシャに触れた。
「ようやく目標が見つかった。それがあればだいぶ違います」
「目標?」こいしは首を傾げた。
「レミリア・スカーレットの心を読んだ時、ようやく私がここに招かれた理由が、いいかえれば、なぜあの方が私をここに招いたのかがわかりました」
「あの方って、咲夜さんだよね?」
「そう」
「ふぅん……よくわからないけど、何か秘策があるのね? フランちゃんは一筋縄じゃいかないよ」
「何とか……なるでしょう。心を読めば」
それは疑わしいと思ったが、こいしは何もいわなかった。
ここは一つ、二人を信用してみるのもアリかもしれない。二人というのは、さとりとフランドールのことだ。いくらあのフランドールでも、友人の姉をいきなり壊すなんてことはしないだろう……そう信じたい。
「じゃあ、わたしは部屋に戻ってるね」
「はい。じゃあ、またあとで」
こいしは指をちろちろと振ると、不安を抱えながらも自室へと戻っていった。
※ ※ ※ ※ ※
「ねぇ咲夜、私の魅力はいったい何処にあるのかしら?」
咲夜に髪を梳いてもらいながら、時々こんな質問をする。
カリスマの保持には魅力というものが大きく影響していて、レミリアはそれが失われるのを酷く恐れているものだから、いつも彼女の外見を気にかけてくれる咲夜にそう尋ねずにはいられないのだ。全幅の信頼を置いている従者の、冷ややかながらも力強い肯定の言葉をきいて、初めて自らの持つカリスマ性を再確認できるといっても過言ではない。だからこれは、カリスマを重んずる吸血鬼たる彼女にとっては最重要項目の一つであり、プライドを持ちつづけるための必要不可欠な儀式でもあるのだ。
ちなみに咲夜の返答は毎回違う。よくそんなところから魅力を拾ってくるなと感心せずにはいられないくらい、メイドは主のことを知りつくしていた。あまりにも魅力が多すぎるので、なぜ自分を見た全ての者が鼻血を噴いて卒倒しないんだろうと、常々レミリアは疑問に思っている。
「肩甲骨にあります」
だが今回の返答は予想のナナメ上を行っていた。
「…………け、肩甲骨?」
レミリアは少なからず動揺した。咲夜の考えがまるで読めないのは今に始まったことではないが、主の魅力を一対の硬質な逆三角形ごときに還元してしまうとは、いったいどういう了見なのだろう。
鏡の中の咲夜の顔をうかがったが、そこに浮かぶ表情は至極真面目なものだった。とても冗談をいっているようには見えない。
冗談に見えないのが怖い。
「肩甲骨です」
咲夜は静かにそう断言すると、淡い水色の髪を梳いていた手を止めて、翼の生え際の下にある小さな一対の骨をなぞった。
なぜか悪寒が走った。
「『肩甲骨は翼の名残り』という言葉が示す通り、それは背中という滑らかな平野に存在する美しい丘陵です。お嬢様は翼をすでにお持ちですが、だからといって肩甲骨の存在意義が消えるわけではありません。背骨、鎖骨、膝蓋骨、肋骨など、体の外からでもその存在がわかる骨の中で、肩甲骨は特別に素晴らしい形状を誇っています。緩やかな曲線、程よい隆起、盤石の硬度――礼儀正しく背筋を伸ばした時にこそ浮き出る潔さ。それは何よりも細身の体躯においてこそ真価を発揮します。お見受けするところ、お嬢様は完璧に条件に合った体をお持ちのようです。いえ、この素晴らしい肩甲骨を誇示するために造形されたといっても過言ではないでしょう。本当に、素敵な」
音の出ないマシンガンのように淀みなく語り終え、咲夜はうっとりとした目でレミリアの肩甲骨を眺めている。
どうやら触れてはいけないものに触れてしまったらしい。どこの世界に「鏡よ鏡、この世で一番美しいのはだぁれ?」と尋ねたら「それは奥様の眼鏡です」とわざわざピントをずらして答える鏡があるというのだ。あったら即座に破砕処分だ。レミリアは慌てて会話の方向転換をはかった。
「え、ええっと、その、咲夜、彼女を頼むわね。いくらなんでも死なれちゃ後味悪いから」
「…………」
「さ、咲夜?」
咲夜はなおも数十秒間レミリアの背中に熱い視線を注いでいたが、やがて思いつめたような吐息をもらすと、「御意」と一言だけ言いのこして部屋から出ていった。その頃には、今ならホットケーキが焼けると自負するくらい背中が熱くなっていた。太陽の光もかくやというところである。
レミリアは溜息をついて、鏡の中の自分を眺め、それによく似た外見を持つ妹のことを思った。
そういえば、あの古明地さとりは心を読むことができるのだという。
自分の真意、ご都合主義の遠回しな願望も、見抜かれていたのだろうか。
背中に手を伸ばし、熱湯のような視線を注がれた肩甲骨に触れた。確かに心地よい固さだった。
※ ※ ※ ※ ※
2 邂逅
「信じてもらえないかもしれないけど」咲夜は歩きながら淡々といった。「こんなことを望んだわけじゃないのよ」
「信じません」さとりも同じように淡々といった。「貴女の本心の方は信じますが」
夜を迎えたせいか、俄に活気づいた紅魔館の廊下を、メイド姿の二人は歩いている。初めて着るエプロンドレスに、さとりは正直戸惑いを隠せなかった。こんなに裾がヒラヒラしたスカートは着なれないし、なんだかごわごわしていて如何にも着心地が悪い。すれ違う妖精たちに好奇の目付きでじろじろ見られて、まるで人形劇の人形にでもなった気分だ。こんな服を着ていたんじゃ、普段の家事に差しつかえるのではないかと非常に疑問である。
「不安なようね。大丈夫よ。命の心配なんてする必要ないわ」
きょろきょろと居心地悪そうに見まわしているさまを、フランドール専属のメイドになったことに対する不安と受けとったらしい。咲夜は優しい笑顔をさとりに向けた。
「べ――別に心配しているわけではありません」
顔が赤らむのを感じて、さとりはしどろもどろに視線をそらした。
「妹様は、お嬢様が思っているほど残虐でもないし気が狂っているわけでもないのよ。一度本気で話しあえば、あのお二人もお互いに理解できると思うのだけれど……いかんせんお二人とも意固地でね」
そんなところはそっくりだわ、と咲夜は目を閉じて溜息をついた。
この人は、本当に姉妹のことを考えているな、とさとりは思う。つかみどころのない思考様式を持つ咲夜独特の心象のなかで、スカーレット姉妹への想いは特に明瞭に伝わってくる。少し、レミリアとフランドールのことがうらやましかった。
「その意固地な二人の距離を」さとりは先ほど読みとった咲夜の本心を、声に出して確認する。「なんとかしてもっと縮められないものか……それが貴女の悩みで、私に望んでいることなのですね」
「ええ、まぁ……正直にいうと、それほど期待していないのだけれどね」
曖昧な笑みを咲夜は見せた。そんなことをいったのは、さとりが失敗しても過大な責任を感じないように、という思いやりからのことだった。
「だから貴女も、そんなに無理はしなくていいのよ。普通にフランドール様に接して、お世話をしてくれればそれでいい。ただ、一つ他の業務にはないことをやってもらうことになります」
「彼女の遊び相手になること、ですね」
「ええ、地下での生活は退屈ですからね。最近ではよく外にも出られるようになりましたが、どちらかといえばお部屋で暇をもてあそんでいることの方が多いようです。必然的に、遊び相手になってと頼まれるでしょう。無理難題をいいつけられることもあるかもしれない。もっとも……」
咲夜は横目でさとりをじっと見た。
「『妹』の扱いなら、私よりも貴女のほうが慣れているかもしれないわね」
「さて……それはどうでしょうか」
さとりは半ば自嘲的に微笑んだ。
「どちらかといえば……私が教えてもらいたいくらいです」
狭い、急な階段を下りて、地下に入った。
地下道の光源は等間隔に並ぶ燭台の火だけで、若干のカビ臭さのせいもあってか、どこか薄気味悪い雰囲気が漂っている。
しかしさとりはそれを大して不快には思わなかった。なんせ十日ほど前までは地下で生活していたのだ。むしろ、こんな風に薄気味悪いほうが、地霊殿のことをより強く思い出すことができて良いかもしれない。
事実、彼女はなんとなく「帰ってきた」という気分を味わっていた。
いるべき場所にいるという安心感というか、やすらぎのようなものを感じる。
レミリアが言った棺桶などはさすがに御免だが、案外こういう狭くて暗い場所のほうが合っているのかもしれない。
こいしに言ったら、柔らかな微笑とともに「根暗」と評されそうだけれど。
「あそこよ」
咲夜は前方を指さした。
暗闇の中にぽっかりと二つの燭台の火が浮かびあがり、それに挟まれて、赤錆びた鉄扉が如何にも味気なく佇んでいた。
「では……お願いね」
さとりが頷くのを見ると、咲夜は扉をノックした。
返事などないのが当たり前らしい。応答を待たず、咲夜はゆっくりとノブを引く。
さとりが最初に見たのは、暗闇の中でも鮮やかに煌めく色とりどりの宝石のようなものだった。
スン、と部屋の中の誰かが鼻を嗅ぐ音がする。
「あ」
さとりが思わず声を上げると、幾つものソレはどんどん彼女に近づいて――
「こいしっ!」
「ひゃっ!?」
気がつけば、金髪の可愛らしい少女に抱きすくめられていた。
「来てくれたんだね!(メキャ) 案外早かったな(ボギッ)明日って言ってたのに(グキグキ)もうそんなに時間経ったっけ?(バシィ) それとも私に早く会いたかったの?(ガクッ) しょうがないなぁこいしはもう!(ボトッ……)」
幾つかの不吉な擬音と共に万力のような力で抱きしめられているため、さとりは息ができなくて苦しかった。
明かりに目が慣れていないのか、フランドールは自分が絞め殺そうとしているのがこいしではないことに気付いていないらしい。
「えへへ、苦しい? でも別にいいよね、こいしなんだし。それにペットになってくれないなんて意地悪言うからいけないんだよっ」
さとりの中に、フランドールの暖かい気持ちが流れ込んできた。やたらバイオレンスな愛情表現には多少(大いに)問題があるものの、フランドールはこいしのことが本当に好きなようだ。
それはそうと、河の前に立つ赤い髪の女性が見えてきた。彼女は快活にニカッと笑い、さとりの方に手を差しだした。
「フランドール様」
「え? あれ、咲夜もいるの?」
「非常に微笑ましくて眼福な光景なのですが、そろそろ目を背けたくなるような凄惨な殺人現場に変わりそうですわ」
「何がいいたいの?」
「お放しください」
「ん……うん」
かくして、十六夜咲夜の進言によりさとりは九死に一生を得たわけである。もし優秀なメイド長の慈愛に満ちた行動がなければ、明日の文々。新聞の一面を悲惨な死亡記事が彩ることになっただろう。『地霊殿の主、吸血鬼の妹に殺害さる! 愛情の縺れか?』というような。
「げほっ、げほっ……」
「…………あれ、こいし、じゃ、ない……?」
フランドールの心がみるみる萎むのがわかったが、さとりはさとりで死神の抱擁から逃れるので大変だった。
「咲夜、このヒトは?」
「古明地さとり。今日からフランドール様専属のメイドになります」
「こめいじ? それって……じゃああなたが」
彼女の好奇心が、さとりの第三の目を捉えた。こいしのそれとは違う、きっちりと瞼を開ききった目。
さとりは何とか体勢を立て直し、両の目でフランドールを視界に入れた。
「こ、えほっ、こんばん、は。古明地さとりです」
「……ふぅん。こんばんは」
ぶすっとした声で、フランドールは挨拶を返した。好奇心と入れ替わりに、こいしを独り占めできないことに対するもどかしさと、さとりへの敵意が彼女の心を占める。
彼女がさとりに向けたのは、紛れもない「妬み」という感情だった。
……この人がいるから、こいしは私に時間を割いてくれないんだ。今日だってもっと一緒にいられたはずなのに、こいしは部屋に戻っちゃった。ペットになって、ずっと私の傍にいるのを拒んで、結局この人と一緒にいることを選んだんだ。なんで? この人がこいしのお姉ちゃんだから? お姉ちゃんって、そんなに大切なものなの? 私にはわからない。でもとにかく、こいしにとってはこの人が一番特別なんだ。ずるいずるい。なにもしてないのに、誰かよりも少し早く同じ場所に生まれてきたっていう、ただそれだけの理由で、誰かの心を独り占めできるなんて。
「……そんなことはありません。こいしは決して私のものではないし、私のことを一番に思っているわけでもない。もしそうだったら――」
どんなに良かったことか、とさとりは思う。
フランドールは目を丸くした。
「……私の心を読んだの。読めるんだっけ? こいしと違って」
「ええ」
「へえ……それで、なにが言いたいわけ? あなたのものじゃないとしたら、こいしはいったい誰のものなのよ」
「こいしは誰のものでもありません。肉体はともかく、精神が完全に誰か他人のものになるなんてことは、ありえません」
とくに、こいしの場合は。
こいし自身にすら、どうしようもないことがあるのだから。
「それに……貴女にとってどうなのかはまだわかりませんが、貴女の、お姉さまは……貴女のことを特別だと思っています」
「……それは、お姉さまの心を読んでわかったこと?」
「いえ。ですが、絶対に思っているはずです。妹のことが特別ではない姉は、いません」
測るような視線で、フランドールはさとりの目を見つめてくる。
紅く輝く瞳に気圧されないように、さとりも彼女をじっと見返す。
ふっ、と、フランドールの心の箍が緩んだ。
「ふぅん。まぁ、入りなよ」
そういって、フランドールは扉の奥へと消えた。
どうやら興味を引くことに成功したらしい。
ほっと息をはくさとりの前に、それまで沈黙を守っていた咲夜が立った。
彼女は両手を伸ばし、さとりのあちこちはねた短髪を整え、お仕着せの乱れを整えた。
「あ、あの」
そんなことしなくても自分でできます、とさとりは慌てて止めようとしたが、咲夜は人指し指を一本立て、それを唇にあて軽く微笑むという謎めいた動作で遮った。
「身だしなみには気をつけないと、どんな時でも」
さとりは、何だか自分が咲夜の妹になったような気がした。再び顔が赤くなった。
「それでは、最適の健闘をね」
そう言って、咲夜はさとりの背中をそっと押し出した。
3 そして誰もいなくなった?
部屋に入って、まずさとりはフランドールの居室をぐるりと見まわした。
全体的に小じんまりとしているけれど、なかなか趣味の良い調度品が設えられていた。こげ茶色の味わい深いワードローブに細々とした道具が置いてある化粧台。アーチ型の鏡はぴかぴかに磨きあげられ、洋燈の光に照らされた室内の居心地良さを映し出している。部屋の中央には脚がやや反り返った円形のテーブルがあり、チェアが一つちょこんと腰かけられるのを待っていた。ベッドは部屋の大きさの割には大きめで、淡いピンク色のベッドカバーがきちんと整えられて敷いてあり、今その上にフランドールが寝そべってさとりの事を待っていた。
「いらっしゃい、こいしのお姉ちゃん」
フランドールはからかうように微笑んだ。
さとりが一歩踏み出すと、海のように深い絨毯に足を取られて転びそうになった。やたらとふかふかして、その上でだって眠れそうなほどだ。
「もう、大丈夫? しっかりしてよね」
くすくす、とフランドールは口元に手を当てて笑った。
「どうしたのですか?」
「いや、思い出し笑い。こいしもここに初めて来た時、転びそうになってたなぁって」
さとりは苦笑して、入口とは別にある扉に目をやった。
「あの扉は……キッチンに続いているのですね」
「小さいけどね」
「何か温かい飲み物をいれましょうか。紅茶でも」
「あと甘いもの食べたいなー」
「わかりました」
さとりはキッチンに入り、紅茶を入れる準備をしながら、紅く煌めくフランドールの瞳を思い出した。
フランドールの、さとりに対する嫉妬。それはさとりにとって、不思議と煩わしくないものだった。むしろ、新鮮だったと言ってもいいかもしれない。普段から、侮蔑や畏怖の視線を受けることは多々あれど、純粋に何かにおいて「うらやましい」とか「妬ましい」などと思われることは少なかった。そんなふうに他人から羨ましがられる何かを持っているとさとりは思っていなかったし、それは今でも変わらないのだけれど、そのような感情を向けてきたフランドールに、好意と好奇心が湧きあがってきたことは確かだ。
フランドールについてもっと知りたい。光の届かない無菌状態の地下室で、彼女はどのようなことを考え、変わらない風景から何を見出して、日々を過ごしているのかを。
クッキーと紅茶の用意ができて、さとりは部屋に戻った。
「――あれ?」
誰もいない。
見まわしても、フランドールの姿は見当たらない。
「フラン……」
そこまで言いかけて、彼女のことをどう呼べばいいのかわからないことに思い至った。一応メイドと主人という関係なのだから、ご主人様? それとも普通に「フランドール様」か、咲夜の真似をして「お嬢様」がいいだろうか。が、すぐにそんなことで迷っている場合ではないことに気付いた。
飽きて部屋を出ていったのか。いや、あの重々しい鉄扉が開閉したなら相当の音と振動がするはずだ。キッチンにも来ていない。だから彼女はこの部屋を出ていない。
だとすれば――
「……なるほど」
先ほどの咲夜の言葉を思い出した。
フランドールは普段部屋で暇を持て余していて、常に暇潰しの遊び相手を探している。
これはかくれんぼだ。
「ふふふ……この私にかくれんぼで勝負を挑むとは……良い度胸です」
さとりは不敵に微笑み、茶器やクッキーの乗ったお皿をテーブルの上に置いた。
こう見えても彼女は、地霊殿では「かくれんぼするところにさとりあり」という尊敬と畏怖の言葉と共にペットたちから恐れられた存在である。どれくらい凄いのかといえば、無意識の能力を使ったこいしでさえたちどころに見つけ出してしまう程の腕前である。どうしてこんなに見つけるのが上手いのだろうと長年幾多ものペットたちが頭を悩ませてきたが、ある一匹の火焔猫によってその謎は見事に解明された。こういうことである。『いや、だって……目ぇつむって十数える間も、さとり様の第三の目はひらきっぱなしじゃないか』
ちなみにこいしはこいしで別の見つけ方がある。
「いいでしょう。すぐに貴女の隠れ場所を見破ってあげますわ」
今宵は血が騒ぐ。吸血鬼(ようじょ)狩りの開始である。
ベッドの下。いない。テーブルの下。そもそも隠れられない。ワードローブの中。フランドールの紅いお洋服と下着類。なかなか。開けっぱなしのキッチンへの扉の裏。いたらさすがに気付く。鏡台の裏。そこまでミニマムではない。
「ふぅ……なかなかの腕前ですね。まさかここまでやるとは。褒めてあげましょう」
開始五分。すでにさとりの敗北のムードは濃厚だったが、負け惜しみでそう口にした。
「……おや、これは」
テーブルの上に、写真立てが伏せてあることに気付いた。
手に取って見ると、そこにはフランドールとこいしの笑顔が写り込んでいた。紅魔館の大広間で撮ったものらしい。
フレームから取り出すと、他にも何枚か写真が重ねられていた。フランドールがこの部屋でピースしているもの。とりもちに引っかかって笑っている妖精たち。楚々とカップに紅茶を注ぐ咲夜。ムスッとした顔で本を読んでいる紫色の少女の周りで、荒らぶるポーズを取っているフランドール、こいし、そしてこめかみから蝙蝠の翼の生えた少女。中には赤髪の門番に肩車されているこいしと、さらにそれに肩車されているフランドールの写真という、半ば曲芸染みたものまであった。くすりと笑って、さとりは写真をフレームの中に戻した。知らない間に、こいしは自分で自分の関係を築いていっているようだ。
『ねぇ、負けを認める?』
どこかからフランドールの声が響いてきた。
「いえ、まだです」
さとりは首を振った。
『じゃあ、早く私を見つけてよ。おにさんこちら。手は鳴らしてあげないよ』
「ゲームが違うでしょう。それに、鳴らさなくても大丈夫です。わかりました」
さとりは洋燈に手を伸ばし、燃え盛る炎を消した。
暗い夜が立ち現われる。大容量の館の重圧に押し潰されて、ぎゅうっと血のエキスが凝縮された漆黒が、さとりの視界を奪う。その中でさとりは、正の走行性を持つ虫のように、闇の中で光を探した。
見上げると、燦然と輝く七色の星々が天蓋に一対の翼を描いていた。
「見つけました」
火が灯り、フランドールは笑顔で絨毯の上に着地した。
「あはは、見つかっちゃったね」
「なかなかのものでしょう」
「どうしてわかったの?」
「勘ですよ。これがなかなか頼りになります」
「勘? ……ふぅん、そんなもんかな」
「いいこと教えてあげましょうか」
「なぁに?」
「実は勘こそが、かくれんぼでこいしを見つける唯一の手段です」
こいしが見つからない時、さとりは目を閉じて闇雲に両手を前に伸ばす。
しばらくして目を開けると、いつの間にかこいしがねこのように両腕におさまっている。
そういうものだ。
「え、ほんと? それ」
「本当ですとも。姉の私が言うのだから間違いありません」
「そっか……」
「……あまり邪なこと考えないでくださいね。とくに他人の妹をとっ捕まえて監禁するなんてことは」
「え? なんのことかなー?」
フランドールは無垢を装った笑顔を見せた。
さとりは諦めの溜息をついて、フランドールの両肩に手を置き、椅子に座らせた。
「さぁ召し上がれ。お嬢様」
「お嬢様? うーん、なんかこそばゆいなぁ」
「……でも、私はメイドなのだから」
「今日から毎日遊んでくれるなら、呼び捨てでもいいよ。フランって」
「…………」
「ねぇ、そう呼んで。さとりさん?」
フランドールが上目遣いにこちらを見てくる。
どうやらさとりのことを気に入ったらしい。
これが初日なら、まずまずの出来だろう。
「わかりました……フラン」
さとりはそういって、カップに紅茶を注いだ。
4 長いお茶会
不機嫌そうな紫色の瞳が、こちらをじっと睨んでいた。
さとりは奇妙な居心地の悪さを感じていた。外見の割にはかなり不自然な規模を持つこの図書館に入ってから、すでに十分が経過している。フランドールの部屋の写真に写っていた赤髪の悪魔少女に案内されて、紅茶やお菓子などの振る舞いを受けたのはいいものの、肝心の図書館の主は依然として黙り込んだまま、不審そうにさとりのことを見つめている――もちろん来訪の意図を告げていないので、不審がられるのも当然ではあるのだけれど。
「それで」
ひととおり観察を終えたのか、パチュリー・ノーレッジはさとりをじろじろ見るのをやめ、手元の本に目を落とした。
「いったいなんの用なのかしら。給仕なら間に合っているのだけれど」
「ええ、いや、その……なんとなく」
実は、特に確固たる意志があってここへ来たわけではない。ただ単にこいしが「ねぇ、図書館の魔女に会いなよ。きっと面白いよ」と勧めたから、というだけの理由だった。妹の真意すらつかめないのに、あえて口に出すのは憚られる。
「……物凄い量の本ですね」
さとりは周囲を見回しながらそういった。
「あなたはこれを全て読んでいるのですか?」
「読み終えてないから、今も必死に読んでいるのよ」
パチュリーはカップに手を伸ばし、音も立てずに紅茶を飲んだ。
「貴女の妹から訊いたのだけれど……地霊殿にも、なかなかの量の蔵書があるらしいわね」
不機嫌を装ってはいるものの、話をするのは嫌いではないらしい。初めて会いまみえる種族である覚り妖怪に対しても好奇心はあるようだ。
「ええ。といっても、業務の記録や旧都の歴史を綴ったものを除けば、ここの本棚の五架分にも満たないでしょうが」
「どんな本があるのかしら?」
「そうですね……外の世界では、『心理学』や『精神分析学』と呼ばれているものが多いです」
「それは貴女の趣味? それとも、覚り妖怪にはそれらを学ぶのが必須のことなのかしら」
「趣味、ですね」
へぇ、とパチュリーは面白そうに相槌をうった。
「心が読めるのに、あえて心の動きや精神の傾向を分析する本を読むなんて……興味深いわね。どうしてそんなことをするの?」
「心が読めない人々の本だから、こそ……個々人の『解釈』が、とても面白い。彼らの考えたことが、たとえ心の真の様相からだいぶかけ離れたものであっても、いや、むしろ離れれば離れるほどに、その人独特の思想と精神が、より鮮明に見えてくるのです」
「なるほど。実用的な興味というよりは、創り物の小説を読むような楽しみがあるというわけね」
そこでパチュリーは初めて本から顔を上げ、さとりを再びまじまじと見つめた。
「図らずも、かしら……貴女、なかなか凄いこと言ってるわね」
「何がです?」
「仮にも学問の巨大な一分野となっているものを、『創作』の一言で切って捨ててるようなものよ。もちろん、創作という行為の価値を貶めるわけではないけれど、ある程度の客観的な事実と精密な分析に基づいて組み上げられた思想を、創り物だと断じてしまうのね」
なにやら壮大な話になってきた。そこまで考えたことはないのだが、突きつめればそういうことになるのだろうか。
「……そうですね。こう考えるのはどうでしょう?」
さとりは唇に片手をあて、考え込みながらゆっくりといった。
「『解釈』こそ創作なのです。科学は、何かを解釈することで先へと進展していきました。誰も知らない法則を発見し、理解し、それを利用して新たな何かを生み出す……その発展の源泉にあるのは、いつも何かに意味を与えようとする行為、不可解な現象を自分の理解のうちに取り込もうとする意志でした。そして学問は、自分の出会った法則なり定理なりに、最も個性が強く説得力のある意味づけを行い、それを世に広めることの出来た、一握りの天才たちによって構築されている……学問は、そういった天才たちの創作物だと捉えることが出来るのではないでしょうか」
そういいきって、さとりはカップに手を伸ばし、紅茶で喉をうるおした。パチュリーは、たった今聴いた言葉を吟味するために、口元に手をあてて考えこんでいる。
そこでさとりは、なぜこいしがパチュリーに会えと勧めてきたのか、わかったような気がした。
二人は似ているのだ。外見も、仕草も。
「……なるほどね。かなり強引だけど、理解はできたわ。ところで」
パチュリーは紫色の瞳を悪戯っぽく輝かせた。
「私がこの前貴女の妹に貸した本のことなんだけど」
「えっ」
「彼女に訊いたところ、爽やかな笑顔で『お姉ちゃんのせいで壊れちゃいました!』という返答をいただいたのだけれど、これはどのように『解釈』すればよいのかしら?」
「い、いや、その、あれはですね、こいしが投げ捨てたからというか、ああでも」
元はといえば、さとりがホームシックにかかったから、こいしはパチュリーから本を借り出したわけだ。とすれば、実行犯はこいしだが、間接的にさとりにも責任があるといえるかもしれない。さとりの背中を冷たい汗がつたった。こいしの狙いは、単に似たもの同士を引き合わせようというだけではなく――責任をなすりつけることにもあったのだ。
「ええと、その……ごめんなさい」
心を読むことを忘れて焦りまくったあげく、さとりは結局頭を下げて謝った。
「まぁ、そうね……軽い入門書程度のものだったし、貴女がここで幾らか私の好奇心を満たしてくれれば、それでいいってことにしましょう。本を粗末に扱うのは、どんな場合でもいただけないけれどね」
そもそもあまり責めるつもりはなかったようで、パチュリーはわざとらしく溜息をついて本を閉じた。どちらかといえば、さとりをからかうことが目的だったらしい。
それから、先ほどよりも和やかなムードで会話が進んだ。パチュリーは覚り妖怪や地底での暮らしのことについて知りたがり、さとりは紅魔館の住人たちについての情報を得た。最初はとっつきにくいと感じていたけれど、やはりどこか波長の似通った部分があったようで、もうパチュリーとの間に沈黙の重いとばりが降りることはなかった。
「そういえば」
さとりが現在紅魔館で与えられている仕事について話題が移ったとき、パチュリーはふと思い出したようにいった。
「あの子の部屋の扉を付け替えさせた、と聞いたけれど」
あの子、というのはフランドールのことだ。
「ええ、メイド長の方に頼んで」
「それはまた、どうして?」
「最初にあの部屋を訪ねたとき、ひどく違和感を感じたのです。壁材は暖かい色合いで、家具もカーペットも親しみやすいものばかりなのに――」
鉄扉だけは酷く無機質で、不必要なくらいに重々しかった。
まるで、「閉じ込めている」ことを強調しているみたいに。
「咲夜……レミィは、それについて何も言わなかったのかしら」
さとりから頼まれたとき、咲夜は少しの間思案して、判断を仰ぐためにレミリアの部屋へと向かった。
しばらくして戻ってくると、メイド長は何もいわずに一瞬で扉を木製のものに替えた。
心を読むと、レミリアは同じように少し思案したあとで、あっさりとオーケーを出したようだ。
顔には出さなかったものの、咲夜は内心で嬉しがっていた。
「そう……何十年も前からあの扉のままだったから、私たちの誰もそれがおかしいなんて思わなかったのね」
「ええ。あの子自身も、扉を替えてみて初めて気付いたみたいです。あの扉が、思った以上に自分の心を圧迫していることに」
扉を替えてから、心持ち彼女が部屋の外へ出る頻度が増えたような気がする。正確には、出ることに抵抗がなくなったというべきか。昨日などは、二人で一緒にさとりの居室へ赴き、こいしも交えて楽しい時間を過ごしたくらいだ(こいしとフランドールはさとりをさんざんからかったのだけれど、それでも楽しいことには変わりなかった)。
だから、少なくとも――自分のしたことは間違っていなかったのだと思う。
「なるほど……もしかしたらレミィは、外部からの視点と貴女の性格に賭けたのかもしれないわね」
パチュリーは頷くと、賭けたというよりは「見えた」というほうが正しいのだろうけど、と付け加えた。
「それで、貴女はあの子とレミィのことをどう思うのかしら? それを見極めて二人の距離を縮めるのが、貴女の目的なのでしょう。今のところ、最初の一歩は踏み出せたみたいだけれど」
「そうですね……過去になにがあったか詳しくは知りませんが、お互いに心の中で憎み合っているということはありません。きっかけさえあって二人が本気で和解しようと思えば、わだかまりは簡単に消えてしまうのでしょう。けれど……」
そう、そこから一歩が、なかなか踏み出せないのだ。
自分からいいだしたとはいえ、あくまで他人に任せる形で事を解決しようとしたレミリア。
写真立ての中に、姉の写った写真だけは飾ろうとしなかったフランドール。
咲夜のいったとおり、変に意固地なところはそっくりだから、きっかけを作るのが一番難しいかもしれない。
だから、解決するにはなにか手を考えなくてはならない。そのためには、二人についての情報が必要なのだ。
「いったい、あの二人が距離を置いてしまった理由は、どこにあるのでしょうか?」
「……それは、私の解釈を話しても構わないのかしら」
「お願いします」
「過去に直接的になにかあった、というわけではないわ。姉は地上で、妹は地下で、それぞれの生活を送ってきた。妹様が鉄扉のついた部屋に半ば閉じこめられるように暮らしていたというのも、恐らく二人にとっては納得ずくのこと。だから問題は、二人がほぼ隔絶に近い形で、長い間ろくに会話も交わさずに過ごしてきたということ。気付かないうちに、二人の間にある空気はいつしか壁のように分厚くなって、お互い本気になりあうことを妨げてしまう。直接的な原因がないからこそ、これは簡単に解決される問題ではないし、なかなかに根深いといえるかもしれないわね」
「なるほど……わかりました。ありがとうございます」
「……恩返しにしては少し入れ込み過ぎな気がしないでもないけど、やると決めたのならば程々にね。またいつでも来てくれていいわ」
「はい、それでは」
「ああ、そうそうもう一つ」
立ち上がって去ろうとするさとりをパチュリーは呼び止めた。
「万一のための忠告だけど……他人から話を聞く場合、『解釈』と『情報』の区別はキチンと付けておいたほうがいいわ。たとえ個々人の生み出す多様な物語が好きだといっても、オリジナルが何で、どこからどこまでが他人の主観によって構成されているのか。それをきちんと知ることね。さもなければ――揺らいでしまうわ」
そういったきり、パチュリーは再び本に目を落としてしまった。
5 さとること
「ねぇねぇ、いつになったらこいしを監禁するの許してくれる?」
退屈したのか、フランドールはベッドに腰をかけて両脚をブラブラさせながら、少しの不満を滲ませた声でいった。
なんとはなしに例の写真に見入っていたさとりは、びくっとして顔を上げた。
「はぁ……いえ、許すつもりはないですが、いったいどこに監禁するのですか?」
「んー、そこらへんに適当に。檻はパチュリーか咲夜に頼めば何とかなると思うから」
「まったく……どうしてそんなにこいしを監禁したいのかしら」
「だってさ、お姉さまだって時々絵とか花とか買ったりしてるよ? それって、綺麗なものとか可愛いものとかは、いつでも自分の見られるところに置いておきたいってことだよね。それと同じだよ。お姉さまが絵の良さとか理解できてるとは思わないけどさ。単なる見栄だよ、見栄」
後半は、皮肉まじりにいったものだった。その裏に隠れた心理を読み取って、さとりは少し苦しくなった。お姉さまが、もし私を気に入っているのなら、こんな地下に閉じ込めるなんてことはしない。私はこんなに可愛いのに。どうせ私は疎ましく思われてるんだ。
「それでね、私が檻越しにパンとかシチューとか食べさせてあげるんだ。こいしはあーんって口開けて待ってるの。きっと可愛いと思うんだけど、どうかなあ」
「可愛いのは間違いないですが、それではまるでペットでしょう」
「そう、ペットにするの。首輪とかあったほうが雰囲気出るかな。そういうの、どこで売ってるんだろうね」
だんだん危ない方向へ話が傾いてきたので、さとりは慌てて話を打ち切ろうとした。
「と、とにかく……そんな卑猥なこと、お姉ちゃん許しませんよ」
「えー、ケチんぼ……」
少ししゅんとなって、フランドールは寝転がり、一拍おいてなんで卑猥なんだろうと疑問に思ったが、それを口には出さなかった。
どうやら諦めたようで、さとりはほっとした。
「あっ、じゃあさ、こいしの代わりになんかちょうだいよ。それならいいでしょ?」
さとりがほっとする間もなく、勢いよく起き上がって、フランドールは身を乗り出した。
「何かって……まぁ、何かあげるにはやぶさかではないですが、いったい何が欲しいのですか?」
「うーん、そうだなぁ」
フランドールはきょろきょろと部屋を見まわし、楽しそうに欲しいものを考えている。この部屋にないもの。ワードローブはお気に入りだし、ベッドだって替える気はない。テーブルも、写真立ても、必要なものはわりとなんでもある。扉も、もうあんな重苦しいものではない。それでも、足りないものは……。
「外の……」
いいかけて、彼女はハッと口をつぐんだ。膨らんでいた気分が、みるみるうちに萎んでしまう。
「外の……なんですか?」
「……なんでもない」
フランドールはそうごまかして再び寝転がってしまった。しかしさとりは、フランドールが口の中で窒息させてしまった言葉をちゃんと捉えていた。
気分が沈んでしまって、もう話したくないらしい。それにそろそろ朝で、眠る時間だ。さとりは何もいわずにフランドールの寝巻きをワードローブから出して、ベッドの脇に置いた。
「……また明日。おやすみなさい」
さとりは明かりを消し、木製の扉を通り抜けて部屋を出た。
扉に背をあずけ、フランドールがいいかけた言葉の続きを、胸の中で反芻させる。
外の、夜空が欲しい。
なんて子供っぽい、無邪気な願いだろう。そういう理不尽な願いは、世界で一番親しい人――たとえば家族の誰かにでも聞いてもらえば一番いいのだ。
でもそれが叶わないから、さとりなんかに頼もうとした。
そして突然虚しくなって、やめた。
「夜空か」
さとりは溜息をついて歩き出した。
それなら、さとりでもなんとかできる。
でも、自分が叶えることに意味があるのだろうか?
扉は変わったけれど、それを開くための重みは、まだ変わらないのかもしれない。
「何か迷ってるね? お姉ちゃん」
こいしが隣のベッドに寝そべって、両手をつぼみのように両頬に添えてさとりに尋ねた。就寝前なので、二人とも夜着姿である。
「……わかりますか?」
「バレバレ。お姉ちゃん、他人の心を読むのは得意だけど、自分の心を隠すのはものすごく下手だよ。気付いてる?」
そうまであっさりいわれては、苦笑するしかなかった。
さとりがかつて妖怪たちに嫌われたのも、このへんに理由の一端がうかがえる。他人の心を読んだとき、さとりは自分がそれを「読んだ」ということを隠し通せない。すぐに顔に表れてしまうのだ。ひどく悲しかったり、怯えたり、怒ったり――相手はその表情を見て、さとりに心を読まれたことを知る。
「ちなみに迷ってるときのお姉ちゃんは、鼻の頭に血管が浮き出ています」
「えっ!?」
「ウソです」
にっこりとこいしは笑った。
鼻にあてた手を口元に持っていき、さとりはコホンと空咳をついた。
「その……迷っているのはその通りです」
「フランちゃんのことかな。聞かせてよ。昔、寝る前にしてくれたお伽噺みたいにさ」
さとりは事情を説明した。どうやらこいしも紅魔館の姉妹関係には見当がついていたようで、さしたる反論もなく最後まで説明できた。
「……ふぅん、なるほど。フランちゃんにプレゼントをしてあげたいけど、それをお姉ちゃんがやることに意味があるのか、わからないんだね」
さとりはうなずくと、こいしは「んー」と顎に手をあてて考え込む。
「……もう少し自分勝手になってもいいと思うなぁ」
「え?」
「フランちゃんの部屋の扉を付け替えることを思い付いたのは、お姉ちゃんだよね」
「……ええ」
「それってさ、お姉ちゃんがしたいと思ったことだよね。仕向けたのはあの吸血鬼で、実際に扉を付け替えたのは咲夜さんだけど、それでもお姉ちゃんは自分の意志で、フランちゃんの部屋の扉を替えてあげようと思ったわけだ。それは、ただ単に咲夜さんへの恩返しのためだけにやったことなの? 違うよね? お姉ちゃんは、フランちゃんが可愛いと思ったから、可愛そうだと思ったから、そうしようと決めたんだよね。わたしが大切にしてほしいのはそこだなぁ」
こいしはさとりのほうへ身を乗り出した。
「お姉ちゃんは、フランちゃんに夜空をプレゼントしたいと思う?」
「ええ」
「なら、そうするべきだと思うな」
「……でも、あの子が本当にそれをもらいたいのは、あの子の姉からで」
「レミリアさんのことは、今は関係ないの。これはお姉ちゃんとフランちゃんの問題。誰が仕組んだにしろ、フランちゃんとの関係を築き上げたのは、結局のところお姉ちゃんなんだから。大切なのは、お姉ちゃんがどうしたいかだよ」
お姉ちゃんのそういう気持ちは、フランちゃんにも伝わってると思うな、とこいしは最後に付け足した。
たしかにフランドールは、さとりが扉を付け替えさせたことに感謝していた。口には出さなかったものの、誰かが本気になって自分のことを考えてくれるというのが新鮮で、嬉しかったのだ。
ならば、今度も。もしかしたら伝わるのかもしれない。レミリアの代替にはなりえないけれど、古明地さとりとしてプレゼントすることに新しく意味を見出してくれるかもしれない。
やってみる価値はある。
「……こいし」
「なぁに?」
「一つ、頼まれてくれませんか?」
こいしはうなずき、どこぞの兎のように悪戯っぽく笑った。
「いいけど、高くつくよ?」
夜になり、こいしが持ってきてくれた小箱を抱えて、さとりはいつも通りフランドールの居室に赴いた。
扉を開くと、フランドールが椅子に座ってテーブルに頬杖をつき、ぼんやりと写真を眺めているのが見えた。頭の中に、そこには写っていないはずの姉の姿がちらついている。いつもならば何かしらのさとりに対するいたずらが仕掛けられているのだが、今日はそれもない。まだ昨日のことをひきずっているようだ。
「こんばんは」
とりあえず、扉を閉めて挨拶した。
「ん……うん」
ぼんやりと、フランドールは返事みたいなものを返した。
さとりはテーブルに近づき、小箱をその上に置いた。フランドールはそれを一瞥しただけで、また写真に目を落としてしまった。これがプレゼントだということに思い至らない。
「ねぇ……さとりはさ、こいしを疎ましく思ったことって、あった?」
その質問を、さとりはもう予期していた。
「えぇ、ありますよ。何度も」
「ない」という返答を予想していたフランドールは、驚いて顔を上げた。
「……あるの?」
「誰かが誰かを疎ましく思う。それはごく普通の感情です。程度の差こそあれ、そう思った経験がない者はたぶんいないでしょう。私の場合は……そうですね。一人で読書していて、こいしがまとわりついてくるときなんかは、時々ですがそう感じます」
「でも……ずぅっと疎ましく思い続けることなんてないでしょ? さとりは、こいしのことが好きで……ずっと、何年も、一緒に暮らしてて……っ、喧嘩しても、仲直りするために別の誰かをよこすなんて、そんなこと、しないよね……」
声が揺れる。顔が歪む。一言一言で自分を追い詰めている。フランドールは気付いていた。姉がなんのためにさとりをここへよこしたか。その行為に潜む埋めがたい距離に。
さとりはゆっくりと手を伸ばし、うつむくフランドールの麦のように輝く髪をなでた。
この手は、彼女が一番望んでいるレミリアの手ではない。
だけど。
「レミリアは、貴女と話をすることを望んでいます」
さとりが手を差し伸べることにも、絶対に意味があるはずだ。
「たしかに私をここへよこしたのは、ひどく迂遠で投げやりで、決して褒められることではないでしょう。でもその奥にある彼女の真意も汲んであげるべきです。彼女は貴女と話したいと思っている。でも、原因が何であるにせよ、自分で何かしようと思うのは、彼女のプライドが許さない。レミリアがそういうのにとてもこだわるのは、貴女も知っているでしょう? 誰かに対して常に圧倒的優位を保っていなければならない。さもないと、自分の吸血鬼としてのカリスマが失われることになって――彼女はそれを一番恐れている。そんな葛藤の中で、レミリアは私をここへ来させることを思い付いた。苦し紛れであるにしろ、私に何らかの運命を見て、ここへ送り込んだのは間違いないのです」
フランドールは顔をあげ、濡れた瞳でさとりを捉えた。
影の中に、微かに煌めくものが見える。
「だけど……だけどさ、お姉さまは、私のことを疎ましく思ってるんだよ? そんな状態で、話しても……うまくいくわけないよ。これまでと同じ、ううん、もしかしたら、もっとひどいことになるかもしれないじゃない」
「さっきもいいましたが、誰かが誰かのことを疎ましく思うのは、当たり前のことです。だからそれでレミリアを責めることはできない。同様に、貴女にも姉を疎ましく思うタイミングは確実に訪れます。大切なのは、疎ましいなら疎ましいなりに、感情を剥き出しにして触れ合うこと。避け合うのではなくぶつかり合う。それが最初の大切な一歩です。それに、貴女も本当はレミリアとお話したいのでしょう。お話したいから、泣いているのでしょう。そう思い合っているのなら、きっとうまくいくはずです」
たくさんの、「だけど」、「でも」が、フランドールの口の中で消えていく。
もう自分を追い詰めるのはやめにするべきだ。
「こうするのはどうでしょう。あんな迂遠な方法しか取れない姉を、貴女が叩きなおしてやるのです。プライドやカリスマが妹に優先するなんて馬鹿らしいのなら、それを貴女が壊してあげるのです。今度は思う存分壊していい――レミリアは、貴女にそうされるのなら、きっと許容してくれるでしょう。なぜならそれを許せるのが」
家族というものですから。
さとりは髪留めでフランドールの髪をまとめた。
フランドールはうつむいて写真を見ていたが、やがてそれをテーブルに置いて、さとりを見上げた。
「……ひとつ訊いていい?」
「どうぞ」
「さっきのは全部……お姉さまの心を読んでわかったことなの?」
さとりは微笑んだ。
「ええ。心を読むのは、得意ですから」
それが、さとりにしかできないことだった。
6 夜空を萃めてプラネタリウムを創れ
「それ、なぁに?」
フランドールは、涙をぬぐってさとりにそう尋ねた。沈んだ表情から一転、晴れやかな笑顔に変わっている。
「これはプレゼントです。貴女とレミリアの和解がうまくいくことを祈って、ですね。ちょっと明かりを消しますよ」
「いいけど、なにするの? プレゼント見えなくなっちゃうよ」
「それは、開けてからのお楽しみです」
洋燈が消え、暗闇があたりを支配する。
さとりは手さぐりで小箱に手を伸ばし、蓋を開けた。
「なに――?」
小箱から溢れる光が二人の顔を照らしだした。
一陣の光の風が、音もなく部屋の中を駆け巡った。可愛らしい星の小さな断片が壁や天井にてんやわんやにはりつき、ここぞとばかりにみずからの煌めきを最大限に主張する。星々の囁き交わす声が何もなかった部屋を賑やかに満たし、さながら天体観測会の場に紛れ込んだような錯覚を与えた。
「わぁ……!」
フランドールが感嘆のため息をもらした。紅い瞳には、湖に写る月のようにみずみずしい光をたたえている。
「すごい。魔法?」
「そんなものです。ちょっとしたツテがありまして」
眠る前にこいしに頼んだのは、博麗神社に赴き、そこに居るであろう鬼に夜空を萃めてもらうようお願いすることだった。
地下都市が造られたころ。代わり映えしない景色に嫌気がさした鬼たちは、地上の空の気を萃め、地底にて拡散させることで、旧都に天候の変化をもたらした。だから地底でも雪は積もるし雨も降る。それを成した鬼が、さきの宴会で博麗神社に滞在していることをさとりは知った。それでこの手を思い付いたのである(もちろんタダではなく、見返りとして高い酒が要求され、このあともこいしに何かしてあげなければならないので、高くついたのだが)。
「まさか、本当にやるなんてね……」
感嘆してるのか呆れているのかわからない溜息をついて、フランドールはベッドにコテンと転がった。
「わぁ、すごい……ちゃんと廻るんだ、これ」
「ええ、明かりをつけたら消えてしまいますが。強い光の中では、星たちは輝けませんからね」
「飛べば宇宙まで行けそうだね。どんなところなのかな、宇宙って。お姉さまは行ったことあるみたいだけど」
「頭をぶつけるのでやらないでくださいね。どんなところかは知りませんが……きっと素敵なところなのでしょう」
見上げれば、夜空がすり鉢状に宇宙へ展開しているような錯覚を覚える。
たしかに、飛んでいけそうだと思うのも無理はない。さとりも、これほど立体感のある光景になるとは思っていなかった。だけど、考えてみれば旧都の空も本物の空と見紛うほどなので、こうなるのも予想はできたのだけれど。
喜んでもらえたようで、さとりは嬉しかった。自分の行動は間違っていなかったんだと思う。
「ふふっ」
フランドールも嬉しそうな笑いをもらした。
「すっごいなぁ……本当に叶っちゃうなんて。夜空が私のものになっちゃうくらいならさ、こいしも私のものになれそうだよね。簡単に」
「……だから、それは」
「ねぇさとり。こっち来て?」
フランドールがさとりに片手を伸ばす。
わからないままに言われたとおりにすると、強い力で引っ張られる。
さとりは混乱する。
「え、な」
「昔ね、パチュリーから聞いたことがあるんだけど」
さとりに顔を近づけ、一段と甘くなった声で彼女は囁く。
「吸血鬼って、誰かを『魅了』することができるんだってさ」
冷たい汗が背中を流れる。心を読んではいけないと咄嗟に思う。目を閉じてしまったほうがいいと。怯えてさとりは両目を閉じたけれど、第三の目は変わらずにフランドールを視界に入れてしまう。
「もちろん聞いた話で、試したことはないんだけど……でも成功すれば、その人の体だけじゃなくて、心も、私の思い通りにできるんだってさ。独り占めできるの。すごいよね? それって。さとりは絶対にできないって言ってたけど、できるかもしれないんだよ?」
じわり、じわりとフランドールの心がさとりを浸食する。
逃げようと体を動かすけれど、いつの間にかフランドールにベッドに押し付けられていて、逃げられない。
駄目だ、聴くな。見るな。甘言に騙されてはいけない。絶対にそんなことは無理なのだ。自分の精神は、確実に自分だけのものだ。心の淵には確固たる防壁がある。だからその領域を侵すことなんてできない。絶対に。もしそれができてしまったら――
「試しにさとりでやってみようかな。本当に私のものになるかどうか。ねぇ、いいでしょ?」
人の心が簡単に読めてしまうさとりは、いったいどこからどこまでが彼女自身といえるのだろう?
「私を見て。さとり」
フランドールの瞳の中には、紅く染められたさとりが写り込んでいた。
※ ※ ※ ※ ※
「それで、そのあとお姉ちゃんはどうしたの?」
こいしは努めて平静な顔を作り、咲夜が淹れてくれたココアを飲んでから、フランドールに尋ねた。
「私を突き飛ばして、走って出て行っちゃった。やっぱり嫌だったのかなぁ」
「そりゃあね。貴女に魅了されるなんて嫌でしょうよ。逃げていくのも当たり前だわ」
「うっさいなぁ、お姉さまは黙っててよ。だいたいお姉さま、もしかして咲夜のことも魅了したんじゃないの? じゃなきゃ、お姉さまなんかに咲夜みたいな素敵な人が仕えようなんて思わないわ。ねぇ咲夜、どうなの?」
「私はいつでもお嬢様に魅了されていますわ。特に、お嬢様の肩甲」
「ばっ、馬鹿ねフラン! 魅了なんて使えるわけないじゃない。パチェになに吹き込まれたか知らないけど、自分の力をあまり過信しないほうがいいわ。己の力量を知ることね。常々私が貴女に言い聞かせているように――」
「あーあー、きこえなーい。こいし、お姉さまなんか言ってる?」
「くっ……まぁいいわ。私みたいな立派なレディになるには、フラン、貴女はまだまだ修行が足りないわね」
二人の吸血鬼の皮肉の応酬をぼんやりと聞きながら、こいしはまたマグカップを傾けた。
さとりの行動によって、レミリアとフランドールの関係に変化が生じた。それは、こうして皮肉交じりでありながらも仲良く会話する姉妹を見ていればわかる。以前はこうして同じ部屋に長時間居続けることすらも叶わなかったのだ。それと、フランドールの部屋の写真立てにレミリアを写した写真が追加されていることにもこいしは気付いていた。これはすべて、さとりのおかげなのだ。
そうだ、お姉ちゃんの。
「ねぇこいし。さとりのこと最近見ないけど、どうしたの? もうお仕事やめちゃうの?」
あの夜、さとりは酷く青白い表情で部屋に帰ってきて、そのままバスルームに駆け込んだ。それから胃の内容物を全てもどし、フラフラになってベッドの中にもぐりこんだ。こいしが何を話しかけても返事をせず、震えながらうわ言のように何かを呟き続けている。
最初は理由がわからず、こいしも混乱した。でも今こうしてフランドールからあの夜あったことを聞いて、こいしには全てが理解できた。さとりが何にあれほど打ちのめされたのか、その理由まで。
「うん、元気だよ。ただちょっと、体壊してるだけで」
こいしは本心を隠して、姉妹に向かって微笑んだ。
「ふぅん? ……そうだね、ちょっと体弱そうだもんね、さとりって」
「知り合いに医者がいるから、そこに頼んでみるってのは? なんなら紹介状も書くけど」
「ううん。大丈夫。あれでも一応妖怪なんだから、放っておけば治るよ」
「なかなか冷たいね、こいしって。あ、そうそう、そろそろ私のペットになる?」
「うん、わたしもね、そろそろいいかなって。だけど明日くらいまで待って」
「え、ほんと? わぁい!」
「変わってるのね、貴女……ペットになりたいなんて」
レミリアも、フランドールも、さとりを気遣うようなことを言う。しきりに笑顔で、仲良さそうに。幸せそうに。
だけど、貴女たちの出番はここでおしまい。
姉妹はその後も仲良く紅魔館で暮らしました。めでたしめでたし。
これで全て終わりだ。
ここから先は進ませない。
お姉ちゃんを理解するなんてことは、絶対にさせない。
「じゃあ、わたし、そろそろ部屋に戻るね。ごちそうさま」
さとりは、こいしだけのものだから。こいしだけが、今のさとりを理解してあげられる。その間に入ろうなんて、たとえフランドールでも許さない。
こいしはココアを飲みほし、立ちあがった。
「ああ、そうだ。貴女、彼女によろしく言っておいてくれないかしら……そうね、どうもありがとうって、伝えておいてちょうだい」
レミリアの言葉に、こいしは快くうなずいた。
「うん、わかった」
絶対に伝えないよ。
「じゃあね」
ひらひらと手を振ったところで、こいしは咲夜の射ぬくような視線を感じた。
彼女は探るようなまなざしで、こいしのことを見つめている。
それに対してこいしは皮肉をこめて思いっきり微笑み、部屋を出た。
どうかお幸せに。さすがにそんなことは言わなかったけれど。
今回の出来事で、スカーレット姉妹は共に前へ進むことができた。
でもさとりは違う。さとりは、前に進んだところで心を砕かれ、零よりも前の地点に戻されてしまった。
可愛そうなお姉ちゃん、とこいしはそっと呟き、ほくそ笑む。そう、とても可哀そうだ。あれほど気にかけたフランドールに、恩を仇で返されたのだから。
「全部聞いたよ、お姉ちゃん」
部屋に入り、毛布から顔を出さない姉に向かって、こいしはこみ上げる感情を抑えながら語りかけた。
「……なにをですか」
さとりのかすれた声。
「フランちゃんからね。あの夜のこと聞いたよ。でもわからないんだ。どうしてお姉ちゃん、そんなに怯えているの?」
「……話したく、ありません」
「へぇ、そう。じゃあ勝手に想像しちゃおうかなぁ。お姉ちゃんが怖くなったのは、自分の心がどこからどこまでか、わからなくなったからだよね? お姉ちゃんの信念は、自分ってものが確固としてそこにあって、それを持っているのは他ならないお姉ちゃん自身だって――そう思わなきゃ、覚り妖怪なんてやってられないもんね。でもそれが、フランちゃんがあんなことをしようとしたものだから、揺らいじゃった。どう、当たりかな?」
さとりは何も答えなかったが、こいしは自分が正鵠を射ていることを確信していた。
「わたしにしてみればそんな悩み、今更って感じだけど。今までずっと不思議に思ってたんだ。どうしてお姉ちゃん、怖くないんだろうって。自分の心が常に誰かに侵されているのが、気持悪くないんだろうって。どの考えが自分ので、どの考えが他人のものか、わからなくなっちゃうんだよね。でもお姉ちゃん、それに無自覚だっただけなんだ。だからそんなにショックを受けてるんだね」
こいしはベッドの縁に腰掛ける。
手を伸ばし、毛布を捲ると、くしゃくしゃの髪と赤くなった両の目が見えた。
まるで生気がない。いつかの日に戻ってしまっている。
こいしは同情的な表情を作り、誘うように声を低くした。
「ねぇお姉ちゃん。目を閉じるのって気持ちいいよ。何も考えず、無意識の海に心を浸すのって。きっと味わったことないくらいに。それに、とっても楽だし。だから」
こいしはさとりの目を覗き込む。
「お姉ちゃん、目、閉じよう?」
※ ※ ※ ※ ※
零 旅立ち
「おや。さとりさん、おはようございます」
「……ええ」
「あれ、出ていかれるんですか? 寂しくなりますねぇ。顔色悪そうだけど、大丈夫ですか?」
背の高い門番が心配そうに屈みこむのをかわして、さとりは荷物をいったん下ろした。去る前にもう一度、紅魔館を見ておこうと思ったのだ。
朝の紅魔館は、冬のパリッとした清々しい空気の下にひっそりと佇んでいる。ここで色々あったのが嘘のようだ。
「どうです。なかなか綺麗な建物でしょう。まぁ私としては、建物だけじゃなくて花壇とか植え込みも見てほしいんですが――あれ手入れしているの、私なんですよ」
美鈴がそういうので、さとりは建物から地面に目を向けた。花壇の花は気持ち良く咲きほこり、植え込みの草は濡れてみずみずしく輝いている。
なるほど、たしかに綺麗だ。
呆と眺めていると、館の扉が開き、あまり会いたくないと思っていた人物が出てきたので、さとりは荷物を取って、歩きだした。
「……いたた。なにも突き飛ばすことないじゃない」
不満そうに、こいしは頬を膨らませ、さとりを見た。
さとりは肩で荒い息をしていたが、我にかえると、自分がこいしを突き飛ばしたことを知った。
「あ、ご……ごめんなさい」
「どうしてわたしを突き飛ばしたの? 目を閉じるの、いや?」
正直にいえば、さとりもなぜ自分がそうしたか、わからなかった。
こいしのいうこともわかる。たしかにこいしのように目を閉じてしまえば、もうこんなことで悩まなくて済むだろう。人の心を読むことを放棄して、自分だけの、誰の声も届かない世界に閉じこもってしまえば――それはとても心地良いに違いない。
でもなぜだろう。
それでは決して救われない気がする。こいしも、さとりも。
「わ、わかりません。わかりませんが」
第三の目をおさえ、さとりはなんとか言葉を紡ぐ。
「でも……もっと別の道があるような気がするのです。こいしが選んだのでもなく、私たちがまだ知らないだけの……心構えが、きっと」
「……あるような気がする? そんな曖昧なことに賭けるの? また今度みたいなことがあるかもしれないのに。せっかくわたしが」
その先の言葉を、こいしは飲みこんだ。
なにをいおうとしたのか、さとりにはわからない。
さとりにとって、妹の存在は一番で永遠の謎なのだ。
こいしはしばらく黙っていたが、やがてさとりを見上げ、少し悲しそうに微笑んだ。
「じゃあ、お姉ちゃん。これはわたしからの忠告だけど」
「……なんでしょう」
「ここから出ていったほうがいいよ。ここじゃあきっと、お姉ちゃんの探してるものなんて、見つからないから……わたしはもうちょっとここにいるけど。お姉ちゃんは地霊殿の工事が終わるまで、別のところにいたほうがいい。別の場所で、それを探すの。それだけが、お姉ちゃんが救われる唯一の道だとわたしは思うな」
「……わかりました。こいしも」
「なに?」
「あまり危険なことは、しないでください」
さとりがそういうと、こいしはハットを被りなおし、扉のところまで行った。
「じゃあね、お姉ちゃん……また今度、地霊殿で会おうね」
「あ、咲夜さん。おはようございます」
「おはよう……出ていくのね」
咲夜は、背を向けたままのさとりに声を掛けた。
さとりは振り返れずにいる。
人の心を読んで平気でいられる自信が今のさとりにはない。
「ええ……お世話になりました」
「ありがとう、なんて私には言えないわ。貴女には迷惑を掛けてしまったようだからね。何処か行くあてはあるの?」
これが困ったことに全くない。
だが無用の心配を避けるため、さとりは嘘をついた。
「ええ。あります。大丈夫です」
「本当かしらね……まぁ、どうして出ていくかの理由はきかないわ。でも一つだけ、助言はさせてほしい」
咲夜は後ろから、さとりの両肩に手を置いた。
「博麗神社でのことを思い出して。あのとき、私以外にももう一人、誘ってくれた人がいなかった?」
「……あ――」
ピンクのワンピースを着た兎の姿が脳裏によみがえる。
「一人、というよりは、正確には一匹かしらね。そこへ向かってはどうかしら。苦労するだろうけど……なにも指針がないよりはましでしょう。じゃあ、気をつけて」
「さようなら、また今度、遊びにきてください」
咲夜と美鈴の声に押され、さとりは前に一歩踏み出した。
振り返ると、咲夜の姿はもうそこにはなかった。
何も指針がないよりはまし。咲夜のいう通りだ。ひとまずは永遠亭に向かってみよう。そこで、さとりの求めるものが見つかるかもしれない。
さとりはもう一度紅魔館を見上げ、深々とお辞儀をした。
(To be continued...)
肩甲骨に魅了される咲夜さんが、なんか好きですね。
完結編、楽しみにして待っています。
EXの妹組は怖いなぁ…
次は永遠亭ですねー。そこで終わりかぁ。
てっきり最後に博麗神社に戻ってくるかも、と思ってたけど。
さてさてどうなる。
可愛いだけではなく、その奥にある闇の部分もしっかりと描かれていて、脱帽せざるをえません。
長く待っていて良かった。こんなすばらしい作品を読ませていただけるのなら、次も、何時までも待ちましょう。
ですから、ゆっくりとご自身のペースで頑張ってください。応援しています。
すばらしい作品を、ありがとうございました。
全体的に可愛くてふわふわした雰囲気なだけに奥にうつる暗い部分がより鮮明で。
しかし心が読めるメイドさんは、時を止められるメイドさんの次に優秀そうだ。
後の五・一四(こ・いし)事件で……いや、なんでもない。
それにしてもどちらの姉妹も、もがいてるなあ。
こいしは溺れかけている姉を、自分の場所へ引きずり込むことで救おうとしているのでしょうかね。
めでたしめでたしでは物語は終わってくれない。素晴らしいお話でした。
前作からすっかりファンになりまして心待ちにしてました
応援してます!
続きが楽しみです
悪魔の妹よりも恐ろしい妹がさとりの身近にはいるようで。だけど根底にあるのは多分、姉妹愛なんでしょうね。
紅姉妹の不器用さと、古明地姉妹の歪な関係。存分に堪能させて貰いました。
次回に期待。あとメイド長自重し……なくていいや。もっとやれ。
それ以上にフランちゃんとこいしちゃんが可愛いすぎて生きているのがつらい
東方に対するあなたのさらなる解釈を楽しみにしています。
不安定な心理状態がしっかりと描写されていると思います。
続き、楽しみにしています。
可愛いらしい文章、キャラに生き生きとした心情描写に引き込まれました
次回作も楽しみに待ってます
複雑な心象の錯雑する物語ですが、読み手に混乱を与えず引き込ませる筆力は本当に見事なものです。
作者さまの描く永遠亭の面々が大好きなので、次回作が楽しみで楽しみで仕方ありません!
どこぞの薬屋さんよろしく、死に誘われてまで治療を頼まれかねないんですから。
紅魔館に残ったこいしちゃんがどう行動するのか、実に気になるところです。
良かった。