(憂鬱成分やや多めのストーリーです。そういうのが苦手な方は、ご注意を)
寝転がってパラパラと本のページをめくっていたら、突如、部屋の片隅から胡散臭い雰囲気が漂ってきた。
なので袖から即座にアミュレットを一枚取り出し、そちらに向かって軽く放り投げる。
「こんにち……ぎゃうっ!」
ストライクである。
押入れから顔を出した(自称)賢者の顔面に、我がアミュレットは吸いこまれるようにして直撃した。
自然とガッツポーズが飛び出す。
「こ、これはまた……丁重なご挨拶ねえ。文字通り痛み入るわあ」
張り付いたものを力任せに剥ぎ取ると、その下からは不機嫌極まりない表情が現れた。
「まったく、博麗の巫女は代を追うごとに粗暴になっていくのね」
「用があるなら、玄関から入ってきなさい。その程度の礼儀もわきまえない無法者が、好意的に迎えられるとでも?」
億劫ながらも裾を払って立ち上がり、そのついでに針を投げる。
しかし、それは紫の眉間に刺さる直前、彼女を守るようにして現れた直径1センチのスキマに呑み込まれ、そのまま消滅してしまった。
思わず、舌打ちが漏れる。
「ちっ、じゃないわよ。怒りたいのは、こっちの方! 私は、ぐうたら巫女の尻を叩きに来たのです」
「はあ? なんで、あんたなんかに叱られなきゃいけないのよ」
「言わなきゃ分からないの?」
「分からないから聞いてるんでしょ?」
ふう、と溜息を落とし、紫はゆっくりと首を横に降った。
「あーあ。博麗の巫女は、代を追うごとに怠惰になっていくのね」
「だって、普段はヒマ極まりないんだもん。アンニュイが性根にしみつくのは職業病よ。かえって保険の適用を申請したいぐらいだわ」
「口だけは減らないのねえ、未熟者のくせに」
紫が、手にした扇子を横一文字に薙ぐ。
そのラインに沿って開いたスキマには、人里の公園と思しき風景が映っていた。
「見なさい。今は午後四時、いつもなら寺子屋から解放された小童たちが遊びまわっているはずだと言うのに、ここ数日は完全に無人。
笑顔も歓声も絶え果て、寂しい限り。どうしてこんなことになっているのか、知ってる?」
スキマモニターの映像が切り替わる。
今度は、民家から民家へと忙しく訪ね回る永遠亭の兎たちが見えた。
「今さら見せつけられるまでもない。どうやら疫病が大流行してるらしいわね。無力にして無辜なる子どもたちは、こぞって今、床に臥せっている。卑劣な祟りのせいで……ね」
紫は「あら」と感心したように呟いたが、すぐに目を吊り上げ、怒気をはらむ視線を私に投げかけた。
「流石に腐っても博麗、『異変』に敏いのは結構ですこと……しかし!」
「気づいていたなら、どうしてすぐに解決に向かわない……とでも、言いたそうね」
「……その理由、聞かせてもらいましょうか」
「ふん! 脊髄反射だけで動いていた過去の巫女たちと、この私を一緒にしてもらっては困るわ」
足元に置いたままの本を、指差す。
それは十代目の稗田家当主の筆による『縁起』だ。
この著者は、私が巫女として選ばれた頃にはすでに逝去している。
かなり古くさい記録ではあるが、まあ読み物としてはそれなりに面白かった。
「なるほど、今代の巫女は慎重派か。動く前に、『異変』の原因をあらかじめ知っておこうという腹積もりなのね」
「そうよ。以前にも似たような事例が無かったかどうか、頑張って調べていたの」
「で、お目当ての情報は見つかったのかしら?」
「白々しい」
開かれたページには『博麗霊夢』のプロフィールが記載されている。
私にとっての大先輩であり、同時に、面倒な仕事を増やしてくれた怨敵でもある。
「全ての元凶は、こいつ。遥か昔、彼女は大いなる遺恨を抱えて死んだ。そのせいで、今に生きる私たちが迷惑を蒙っている。そうよね賢者様?」
「かもしれないし、そうじゃないかもしれない」
扇を広げて口元を隠し、紫はお得意の曖昧な笑みを浮かべた。
……しかし彼女の瞳の奥で、一瞬だけ激しく感情が揺れ動いたのを、私は見逃さなかった。
紫は絶対、この『異変』の全貌を知っている。
「ふふ、ちょうどいいところに、ちょうどいい奴が来てくれたものねえ。さあ、今度は私が聞かせてもらう番よ」
「はて、何かしら?」
「これなる『縁起』によれば」
和綴じの本を拾い上げ、もう一度、その内容にざっと目を通す。
「スペルカードルールを考えたのも、それを用いて幻想郷の平和を盤石たらしめたのも、みーんな『霊夢』の業績。
こいつが居なければ、今日の繁栄は無かったに違いないわ。
にも関わらず、阿礼乙女は口汚く……もとい筆汚く、こいつを罵っている。
いわく……身勝手な逆恨みで人里に病魔をはびこらせる、憎むべき絶対悪だとかなんとか。
それに、見てよこのイラスト! こんなにも邪悪な顔、よくもまあ描けたものね! 下手な妖怪よりも、ずっと恐ろしいわ」
紫の鼻先に、「霊夢」の絵姿をつきつける。
「でも……それって、ちょっとおかしくない?
どうして『霊夢』は、自らが守護した楽園に災いを遺し、晩節を汚すような真似をしたの?
阿礼乙女は、その辺りの事情を全く語ることなく、結果論による悪罵のみを書き連ねている。
ああ、不思議だわミステリーだわ。真相が気になるなー」
「さて。ただひとつ、私から言えることがあるとすれば……あいつは、気まぐれが腋をさらして歩いているような存在だった」
「はっ、気まぐれ? そんなもん、博麗代々の伝統気質だわ!」
「おお、言われてみれば。ついでに腋云々もそうよね」
くすぐろうと忍び寄ってきた指に、チョップ。
「いかにもはぐらかす気満々の、適当な答えはやめてちょうだい」
「……いいこと、新米巫女さん。『異変』の専門家に求められるのは、過程ではない。
あくまで、結果なの。素早く『異変』を解決できるか否か、巫女の価値を決めるのはそれだけ……あぎゃあ!」
思いっきり脛を蹴り上げてやったら、ぷるぷる震えながらうずくまってしまった。
ああ、妖怪でも「泣き所」はやっぱり「泣き所」なんだな。
うむうむ、またひとつ勉強になった。
「あんた、健忘症? 私は今までの博麗とは違うって、さっき言ったばっかりでしょ?
ニュージェネレーションにはね、くくくく、ニュージェネレーションらしい戦い方ってがあるのよ。くくっ」
涙目になり、歯軋りしつつこちらを見上げる紫を、逆に見下してやりながら、私は喉の奥で笑う。
「返り討ちとかコンティニューとか、そんな無様な単語は私にゃあ似合わない。
やる以上は……過去のリプレイを参考に、完全なパターンを構築した上で本番に臨む! 私が求めるのは、初見ワンコインの完全勝利のみ!」
袖の中には、まだまだ多くの必殺武器……例えば陰陽玉とか妖怪バスターとか……が蓄えられている。
それらをジャラジャラと鳴らしつつ、私はもう一度、紫に語りかける。
「今のところ、私の勝率は百パーセント。それが二桁以下になるなんて、絶対に許されざるよ!」
「み、見上げた心意気ねぇ」
「だから……ねぇ、教えてちょうだい? あんたの知る『博麗霊夢』の全てを。あんたたち妖怪が見届けた、彼女の本当の歴史を」
「……まったく。歴代サイキョウの巫女だわ、あなた」
その意味するところが『最強』なのか『最凶』なのか『最狂』なのかは知らないがが、とにかく褒め言葉として受け取っておく。
「光栄ね。博麗の巫女は、代を追うごとに完璧になっていくのよ」
紫は、呆れたように肩をすくめた。
「よろしい。その人間らしからぬ傲岸と豪胆に応え、ちょっとだけネタバレしてあげる」
「待ってました! あ、ちょっくらお茶淹れてくるわ。胡麻煎餅、食べる?」
「いいから、そのまま聞きなさい」
強く袖を引かれたので、私は仕方なくその場にあぐらをかいた。
「博麗霊夢。懐かしい名前。数々の輝かしい思い出。あの、誰よりも公平で、誰よりも皆に愛された人間が、如何にして幻想郷の憎まれ役となり下がってしまったのか?」
遠い目。
こんなにも寂しそうな雰囲気を醸す紫を、私は始めて見た。
「原因は色々あるんだろうけど……そもそもの契機は……そうねえ、親友の霧雨魔理沙が『変化』したことだったんじゃないかしら……」
「うららか」という言葉の意味を知りたいなら、辞典の類を引くまでもない。
昼下がりの博麗神社に来てみれば、五感を通じて自ずと知れる。
十年だろうが百年だろうが一日も同然、春夏秋冬いつも変わらず平和な縁側で、博麗霊夢は今日もまた薄い茶を啜っていた。
巫女としての指名を帯びた瞬間から今現在に到るまで、一度として欠かしたことのない日課である。
が、最近になって、ひとつだけ変わったことがある。
(こうして、のんびり日向ぼっこライフを満喫できるのも……あと、どのくらいかしらねえ)
霊夢は、己の「死」について、時おり思いを馳せるようになっていた。
(巫女には、極端に短命な者と、極端に長命なものがいる。そんなセリフを、どっかの誰かが言っていたけど)
霊夢の場合は、どうも後者だったらしい。
彼女は、人里の平均寿命を遥かに超える年数を生きてきた。
その間に解決してきた『異変』の数もまた、指を折って数えるのが面倒になるぐらいだ。
(あの早苗の孫が、今じゃ元気に妖怪退治をエンジョイしているぐらいだもん。そりゃ、私も老けるはずだわ)
かつて博麗神社を地上げしようとした無謀の風祝、東風谷早苗は何十年も昔に死んだ。
彼女は霊夢と似たような生業に就いていたものの、その性格や性質については、色々な意味で霊夢とは正反対なタイプであった。
それは寿命においても、またしかり。
人里で見初めた好男子と電撃的に結婚し、次代の風祝を産んだ直後、早苗は何の前触れもなくコロッと逝ってしまったのだ。
彼女が霊夢と競うようにして『異変』解決に飛び回っていた期間は、実に短いものであった。
(すっごく泣いてたな、神奈子と諏訪子)
己を継ぐ者が産まれたなら、先代は全ての力を譲り渡さなければならない。
例え、そのために寿命が縮んでしまおうとも、躊躇は許されない。
これは、ずっとずっと昔から何度も何度も繰り返されてきたこと。
美しき風祝の潔い代替わりを、自分たち二柱はすでに七十八回見届けてきた。
今回で七十九回目だ。
だが「早苗」という一個の生命は、消え失せてしまったわけではない。
循環する風の流れと同化した彼女は、永遠に御山と共に在り続けるのだ。
やあ楽しきかな目出度きかな、神より出でて人の形と成った東風谷早苗は、我々を安住の地へ運ぶという大任を終えて、再び神へと還ったのだ……
(べろんべろんに酔っ払って、そんな意味不明の戯言を何度も何度も繰り返して。それからまた呑んで、踊って、ぶっ倒れて、なおも無理に笑おうとして。でも結局、喉から飛び出るのは嗚咽ばかりで)
思い出すだけで、陰鬱になる。
普段は余裕たっぷりで、いかにも「神!」という感じの不遜スタイルを決して崩さないやつらが、あの葬儀の一夜だけは、全ての恥と外聞をかなぐり捨てて哀しみ狂っていたのだ。
幸せな結婚生活を開始早々に断ち切られてしまった早苗の夫だって、もちろん悲痛に過ぎる嘆き様を見せてはいたのだが、それでも激情にまかせて天を割ったり地を揺るがしたりする神々に比べれば、まだ慎ましやかな方であった。
そういう類の負の感情が大爆発する様子ほど、霊夢にとって見苦しいものはない。
さらに、そのために生まれてしまった傷跡が、いくら時を経ようと癒されることなく残り続けたりした場合……無重力と無頓着の巫女は、吐き気すら催してしまうのだ。
つい最近、無理矢理に手渡された天狗の新聞のせいで、霊夢は知らなくてもいいことを知ってしまった。
なんでも守矢の社務所内では、早苗の暮らしていた部屋が、彼女の死の直前の有り様を留めたまま、今もなお一切の手入れなしに放置されているらしい。
……で。
数十周忌記念の特別インタビューとやらに、蛇神様が応えていわく。
『不思議よねえ。あれからもうだいぶ月日が流れたって言うのに、こうして台所で……もぐもぐ……つまみ食いをしていると、今でもあの子が、血相を変えて怒鳴り込んで来そうな気がするんだよ。こらっ八坂様! 人の上に立つ神たる者、食事の前には必ず手を洗わなきゃダメです! ……ってね』
手さえ綺麗なら、つまみ食いをしてもいいのかよ!
つーか天狗も天狗だ、インタビューする場所はきちんと選べ!
霊夢は憤激を禁じえなかった。
だがそれ以上に腹立たしいのは、叡智深き神が、悔やんだところでどうしようもないと分かっているはずの過去を未だにメソメソ、悔やみまくっていやがることだ。
在るモノはある。
無いモノはない。
それが全てでしょ? と、霊夢はぼんやり思う。
無いモノは、在るモノと触れ合うことができない。
在るモノは、無いモノと語り合うことができない。
だから、これから無くなろうとするモノが在り続けようとするモノのことを気にする必要はないし、今も在るモノがすでに無いモノのことを考えたって何も始まらないし終わらない。
霊夢の死生観は、いつだって斯様に薄く淡白で、かつ乾いていた。
少女時代から、それはずっと変わらなかった。
スペルカードルールが出来る以前、彼女は勢い余って多くの妖怪を殺してきた。
しかし、それに対する罪悪や自責の念などついぞ持ったことが無い。
またスペルカードルールが完成した後、競技中に起きた不慮の事故のせいで、何度か命に関わる大怪我に見舞われたこともある。
だが、もしそのまま死んでいたとしても、霊夢は誰も恨まなかっただろうし、自分を死なせた相手がそれを負い目と感じることだって決して好まなかっただろう。
(なんか、思い出すだに生傷の絶えない人生だったけど……どうやら、フィナーレは畳の上で迎えられそうね)
自慢の勘も、そろそろ鈍りがちになってきた。
それでも、自分が死ぬ場はこの博麗神社の敷地内をおいて他になく、さらに往生の瞬間がそう遠くない未来にまで差し迫っているということだけは、強く確信していた。
ついでに付け加えれば、自分はきっと……今際の際でさえ、こうして茶碗を握っているのであろうということも。
そうして、珍しく己の末路などに思いを馳せていると。
「おお、霊夢。本日もヒマを持て余すには絶好の日和じゃのう」
聞き覚えのありすぎるしわがれ声が、天から降ってきた。
額の前に手をかざし、三月の陽射しを避けるようにしながら仰ぎ見る。
すると案の定、そこには霧雨魔理沙が浮かんでいた。
『普通じゃない大魔法使い』の名声が盤石となった今でも、箒を股に挟む癖を改めない彼女ではあるが、それでもやはり人間である以上、容姿は枯れ木の如く老いさらばえている。
どういうわけか「寿命」という概念を持たない種族ばかりにまとわりつかれる霊夢にとって、自分と同じ足並みで衰退していく知り合いなんて、もはや魔理沙ぐらいしか残っていない。
自分と魔理沙のうち、どちらが先に『無くなる』のかは、まだ分からない。
しかし残った方もまた、すぐに相手の後を追うことになるだろう。
生じた些細なラグタイム中に、じめじめとカビの生えそうな思い出話に浸る間などは、ほとんど存在しないはずだ。
そのことに思い当たって以降、霊夢は、自分と魔理沙の間柄が急に好ましく感じられるようになった。
魔理沙と一緒に居ると、なんとなく安心する。
他の有象無象に比べて、より気楽、より自然体で過ごせる。
「等速度の時流に身を任せている」。
ただそれだけの一点が、これまで誰に対しても平等だった巫女に、僅かながらも付き合い上の差別意識をもたらしていた。
彼女は人生の黄昏に及んでようやく、「ともだち」を得たのだ。
気がつけば、西の果てに夕陽が消えようとしている。
「予言しておこう。次に私が来た時、きっとお前は驚くぞ。あまりにも驚きすぎて、ぽかんと開け放った口から魂が抜け出ていってしまうかもしれんな」
うひゃひゃ、と悪戯じみた笑みを浮かべ、魔理沙が帰り支度を始める。
今日、彼女と一緒に楽しんだことと言えば、例によって他愛のないお喋りと……後は囲碁を三局ほど。
人里の老舗菓子店が誇る高級羊羹を賭けての勝負だった。
七、八年ぐらい前までは、そういう話の決着は弾幕にて付けるというのが暗黙の了解であったが、近頃のふたりは荒っぽい勝負方法を避けてばかりいる。
どちらも技の冴えについては円熟の極みに達しているものの、それを使いこなすための基礎体力に不安があるため。なるべく消費カロリーの少ない手段を好むようになっていた。
付け加えると、霊夢はもうかつての「腋巫女服」を着てはいない。
この年になってまで、ああいう通気性の良すぎる格好を続けるのは、多くの意味で辛い。
だから今は、白襦袢アンド緋袴というクラシック・スタイルに落ち着いている。
「あーはいはい。せいぜいお口チャックレディと化して用心しておくわ」
「ぬぬぬ。なんじゃいなんじゃい、その態度は。わしの言葉が信じられぬと言うのか」
「だって、あんたってば嘘つきの権威じゃないの。そういう類の言葉を吐いてから、私の期待に応えてくれたことが……今まで一度でもあったかしら?」
「ぐ、ぐむむむ……」
がらり。
霊夢の記憶の扉が、大きく開け放たれる。
そこから現れた大量の幻像は、すべて若き魔理沙の姿ばかり。
(今回だけはお前に花を持たせてやるよ。でもな……次こそは……)
(現在開発中のスペルは、「一撃必殺」がコンセプトだ。こいつが完成した暁には、いくらお前とて……)
(ああ、自分の才能が怖いぜ! このスペルを放ったが最後、お前は弾幕恐怖症にかかって巫女を廃業しちまうかも……)
魔理沙が考案する弾幕は、常にキラキラしていて美しかった。
ものすごく硬く、そして真っ直ぐな意思によって装飾されていた。
……それゆえに、見切るのは簡単だった。
魔理沙が大言壮語を弄すれば弄するほど、霊夢の勝率は高まっていった。
むしろ、調子の悪い時の魔理沙が狙いをつけず適当に放った攻撃の方が、ずっと危険なのだ。
そういうつまらない弾に思いがけず当たってしまった場合は、魔理沙の方が逆に驚きの表情を浮かべるのが常だった。
「……思い起こせば、確かに。私は、お前にゃ到底及ばぬ人間だったのかもしれんのう。とほほー」
「や、やめてちょうだいよ。いきなりしおらしくなるのは」
痛々しく首をうなだれた魔理沙を見て、霊夢は「あ、地雷踏んじゃったかしら」という危惧にとらわれる。
このまま、ローテンションの昔話を始められたのでは、たまったものではない。
過去とは、すなわち「無くなったモノ」に分類される。
現在に「在る」自分たちが、しんみりとした雰囲気で昔をあれこれ振り返るなんて、最高に気味の悪い行為だ。
「ふん、そっちこそ人の心配なぞガラでもない。安心しておけ、わしゃあ何時だって未来に生きておる」
霊夢の心中を察したのか、それともただのカラ元気か、魔理沙はお馴染の黒い三角帽を頭に載せると、さっさと縁側を離れて箒にまたがった。
「とにかく! 今度という今度は絶対なんじゃい!」
「どうでもいいけど、約束の羊羹だけはちゃんと買ってきてね」
「覚えていたらな! いざさらば!」
そして飛び去った箒の軌道には、昔日のまま眩い星屑が散る。
と、まあ。
かくの如く潔い性格ゆえに霊夢との仲が長続きしている魔理沙であるが、そんな彼女でも寄る年波には勝てないのか、少し前に一度だけ、不意に、寂寥感溢れる口調で昔話をぽつぽつ喋りだした日があった。
その思い出とは、聖白蓮に関するものだった。
彼女の魔道研究に多大な協力をしてくれたという超人魔法使いおよび寺の仲間たちは、二十年前に幻想郷から消えた。
その白蓮について、
「あいつがここに居た日々は、私にとって最高の宝物だった」
だの、
「立派に魔法を極めた私の姿を、ひと目なりとも見せてやりたいわい。きっと喜んでくれるだろうなあ」
だの、聞いてもいないことばかりを消え入りそうな声で語って聞かせようとしたので、その時の霊夢は、あまりの居たたまれなさに、つい……
互いの年齢を忘れ、全力で魔理沙を蹴り出してしまった。
そう。
聖白蓮ほどの際立った個性であっても、霊夢はその存在をほぼ忘れかけていた。
魔理沙がふと言及しなければ、恐らくその後、思い出す機会は永遠にやってこなかっただろう。
旅立つ直前、白蓮は博麗神社を訪ね、骨ばった霊夢の手甲に自らのふくよかな掌を重ねた……ような気がする。
それから彼女は、確かこんなことを言っていたはずだ。
『あくまで、この幻想郷の範囲内に限ってではありますが……我々命蓮寺一派の目的は、一応の達成を遂げました。そのヒントとなったのが、他ならぬ貴方の存在です。ありがとう執着を知らぬ巫女よ。あなたの生き様には、仏徒たる我々としても大いに学ぶところがありました』
何故ここまで感謝されているのか、霊夢には全く理解できなかったが、これまで世話になったお礼として便利なリモコン鉢をプレゼントしてくれるそうなので、自然と上機嫌になった。
『さて。幻想郷の外側には、一乗の道を知らずに迷える衆生がまだまだ多く存在します。私たちは、その方たちをも出来るだけ救ってさしあげたい。ここで経験した素晴らしき日々を胸に、新たな旅に出ようと思うのです』
つまり、人々の信仰心を奪い合ってきた敵対勢力が、自分から消えてくれるということだ。
霊夢は純粋なニコニコ顔をたたえつつ、「さっすが! やっぱ大悟に到った聖尼公様は考えることが違うわ! ぜひ、その通りにするべきよ!」と、相手を賞賛した。
『いつか必ず、良い報せをもってこの地に戻ります。それが何年後のことになるかは分かりませんが……願わくば博麗霊夢よ、あなたには平等という理念の最高亀鑑として、いつまでも幻想郷を見守り続けて下されんことを』
そう言い残して、彼女と聖輦船とは遥か空の彼方へと舞い上がっていった。
以後、命蓮寺の一党が幻想郷で目撃されたというニュースは、とんと聞かない。
白蓮の崇高なる目的とやらが、未だ適わないのか。
それとも現在の白蓮は、幻想郷のことなどすっかり忘れてしまっているのか。
いずれにしろ、霊夢にとっては「自分と白蓮の関係が『無いモノ』になった」という事実だけが重要なのだ。
だから白蓮たちの旅路の幸せを祈ったりとか、逆に呪ったりとか、そういう情緒が霊夢の内面に発生することは全く無い。
ちなみに貰ったリモコン鉢は、色々な場所に飛ばして遊んでいるうちに、どこかへ紛失してしまった。
あまつさえ今の霊夢は、それを失くしたということさえ忘失している。
この幻想郷には、次々と人外の輩が流れ込んでくる。
それにつれ、大結界内部に満ちる暢気な空気もまた、年々密度が濃くなってきているような気がする。
しかし、自分がその雰囲気の中に身を置いていられる時間は、そろそろ残り少ない。
「もうすぐ春だってのに、寒いなあ」
魔理沙を見送った後、霊夢は茶器一式を盆に載せ、屋内へ上がりこんだ。
なにやらチクチクした何かが心臓にまとわりついているような気がしたので、夕食も風呂も早めに済ませ、さっさと寝ることにした。
数日が経った。
してやられた、と思った。
再来した魔理沙は、先日の予言通り、霊夢を仰天狼狽させるに十分な「大魔法」をひっさげていたのだ。
「ワァ~! 婆が若返った!」
あまりにも驚きすぎて、以後の言葉を失う。
その暫時の沈黙を打ち破って、魔理沙は勝ち誇る。
「ふはははは! まさか、お前の口からIGS語が聞けるとはな! いやー、苦労した甲斐があったってもんだぜ」
「なんだ、これは」
「ご覧の通りさ。星の魔力を応用した全く新しい術式によって、私は心身共に少女時代へと戻ることができたんだ!」
「放逸」
今、目の前に立っている少女が纏う魔力は、確かに瑞々しいこと無上である。
ここ数十年の魔理沙がずっと失い続けていた気力と気迫が、自信に満ち溢れた笑顔から自然と滲み出している。
そう……これは一時的な、子供だましの目くらましなどではない。
神が定めた生命の法則を、彼女は独力で覆してしまったのである。
「そっか。あんた、とうとうアリスやパチュリーなんかと同類に……」
……こいつは、自分と同じ「人間」。
だから、ずっと自分の傍にぴったりくっついていて、いずれは自分と同じ末路を辿るものだと、勝手に思い込んでいた。
それだけに、今回の「変化」は大きな衝撃であった。
「ええとなんだっけ? 確か、捨食だか捨虫だかいう禁呪を、やっとこさマスターしたわけか」
「おいおい、人の話はちゃんと聞いておけよ! さっきも言っただろ、私が発明したのは、そういう古めかしい子どもだましとは次元が違うんだ」
桃羊羹の包みを広げながら、魔理沙はニヤリと笑う。
「今まで誰も成しえなかった、完全オリジナルの回春魔法なんだぜ!」
まあ、どうせお前に話しても理解できないだろうけどな……と前置きしつつ、魔理沙は己の編み出した大魔法の、果たしてどの辺りが独創的なのかを一方的にまくし立てた。
いわく、
「諸々の仏典によれば、生きている人間と言うのは、それ自体がひとつの宇宙らしい。
その理屈を、私はさらに発展させてみたんだ。
マクロコスモスたる銀河を輝かせているのは、星だ。
ならば、それと相似をなすミクロコスモス……つまり人体だって、星の力を宿せば素晴らしい奇跡が起こせるはずだろ?
以来、私は大気中の星成分を高純度のまま体内に循環させるための技を求め、苦節数十年、実験と失敗を繰り返し……」
釈迦の教えも西洋のアストロノジーも、霊夢にとっては完全に専門外かつ興味外だ。
だから相手の言う事はほとんど聞き流すしかなかったのだが、それでも、魔理沙という魔法使いは「星」というものを深く愛しており、また、その力を最大限にまで引き出すことができた己が誇らしくて仕方がないということだけは、とりあえずよく分かった。
「捨虫程度の魔法、マスターしようと思えば二十代の頃だってできた。
でもさ、昔の誰かさんが用意してくれた道を、そのままスルッと通り抜けるだけなんて……面白くないだろ?
だから私は賭けに出た。
自分が新しい道を切り開くのが先か、それとも、壁にぶち当たって惨めに老衰死するのが先か。
いやー、実にスリル満点な半生だったぜ!」
だが、私は大勝利した!
そう吠えて、魔理沙は拳を天に突き出した。
対して霊夢は、呆気とも敬意ともつかぬ不可思議な感情のせいで、相手の顔をまともに見ることができない。
そんなことをしたら……今のこいつがすさまじい勢いで放つ熱気をまともに受け止めたら、自分のような弱々しい老体は一瞬で蒸発してしまうかもしれない。
なにせ、いつもの縁側に隣り合って座っているこいつは、もう数日前までの魔理沙とは別人なのだ。
いや……別「人」どころか、すでに霊夢とは種族自体が異なってしまっているのかもしれない。
そう思った瞬間、胸が痛くなった。
比喩的、物理的、その両方の意味において。
「く……」
「お? どうした?」
いきなり前かがみになった霊夢に、魔理沙が怪訝な視線を向ける。
「……別に。ただ、あんたがあまりにもガキっぽくはしゃぎたてるから、おかしくて茶が喉につかえただけ」
「ふふふ。そうかそうかおかしいか」
「そうよおかしいわよ。ちょっと前まで、私と同じ皺くちゃババアだったくせに」
「妬くか?」
ほんの少しだけ申し訳なさそうに、魔理沙が霊夢の表情をうかがう。
それからも逃げるように目をそらし、霊夢はつぶやく。
「別に。あんたはあんた。私は私」
「……だな。お前は、そういう女だ」
やたら満足そうに、魔理沙はうなづく。
霊夢は黙ったまま、魔理沙専用と定められた古い茶碗に安煎茶を継ぎ足した。
「どれ!」
茶碗の中身を一息に飲み干した魔理沙は、前に見た時とはうって変わった俊敏な動作で、境内に駆け出た。
そして、ぱちん!と小気味よく指を鳴らせば、どこかに隠れていた箒が疾風の速度で魔理沙の足元に馳せ参じる。
「魔法の偉大さを解せぬ、つまらん巫女なんぞとこれ以上話をしていても無駄だ。私ゃ、そろそろ行くぜ。他の奴らにも、この姿を見せびらかしたいからな」
「待って」
思わずよろけながら、霊夢も縁側を離れる。
「なんだ?」
「もしかして……私の他には、まだ誰にも会ってないの?」
「おう。それがどうした」
「あんたの言う通り、私は魔法のことなんか全然知らないわ。だから正直、あんたのやったことがどれだけ凄いことなのか、いまいちピンとこない」
「ああ。お前がピンときてくれないだろうってことは、私にゃピンときてたけどな」
「じゃ、なんで最初にここに来たわけ?」
「理屈はどうあれ、それでもとにかく……びっくりしただろ? ものすごく」
「そりゃ、まあ。インパクトだけは、あったけど。こんなに驚いたのは、生まれて初めてかもしれないな」
三角帽のつばを人差し指で押し上げ、魔理沙は喜びで爆発しそうな顔を見せつけた。
「その言葉が聞きたかったんだよ」
午後の青空に、ものすごい量の星屑を散らしつつ。
魔理沙は、博麗神社を去った。
残された霊夢は、ひとつ溜息をついてから、縁側の定位置戻ろうとして……
「う、うう」
右手で左胸を押さえ、石畳にうずくまった。
(こりゃ、本格的にお迎えが近いかな)
こうして時おり心臓が痛むようになったのは、だいたい半年前ぐらいからだろうか。
しかし今回の痛みは、今までのものよりずっと大きい。
いつもなら、しばし茶を飲みつつ休憩しているだけで自然に治まり、それからまた境内の掃き掃除や人里への買い物なども可能となるのだが、今日の霊夢は無理をしないことにした。
よたよたと靴を脱ぎ、縁側の戸を閉め切って、そのまま床の間に向かう。
(魔理沙は言った。自分は、未来に生きている……と)
(こうしている間にも、たくさんの『モノ』がこの世から『無くなって』いる。そして近い未来、今度は私もまた『無いモノ』になる)
(神奈子諏訪子じゃないけど……それって、当たり前すぎることなのよね。あの早苗だって死んだ。いくら現人神だとか何とか崇め奉らようと、中身が人間である以上、いつかは死ぬしかない)
(私も死ぬ。人間だから。もしかしたら明日の幻想郷に、私は存在していないかもしれない)
(けれど、魔理沙は違う。のほほんと縁側で惚けている私に付き合いつつも、その陰では未来を掴むための努力をしていたんだ)
(あいつは死なない。人間だったくせに。明日以降の幻想郷を、霧雨魔理沙は元気一杯に生きる)
(ああ、なんだろ。モヤモヤして、気持ち悪い。別にいいのに、私だけが死んだって。私亡き後の魔理沙たちがどうなろうと、知ったこっちゃないわ)
(ここまで同じ道を歩んでいても、ここからそれぞれ『無くなるモノ』と『在り続けるモノ』に分かれた以上は……もうお互い無関係になる。それだけだ)
(うん、それはよく知ってる。しょうがないよね。私はずっと、誰に対してもそうやって割り切りながら生きてきたんだから)
(なのに、どうして今日に限って……)
(こんなに胸が重いの)
(頭が重いの)
(体中が、重い、の……)
嗅ぎ覚えのあるアルコール臭に鼻腔をくすぐられ、霊夢は浅い眠りから覚醒する。
「あれー、珍しいなあ」
フラフラした声につられて、被っていた布団の縁より顔を出す。
いつ見てもほろ酔い加減の子鬼が、枕元に立っていた。
「まだ陽が沈んだばかりなのに、もう寝てるなんて。どっか具合でも悪いのかい?」
「……ついさっきまでは平気の平左だったんだけど。タチの悪い酔っ払いに絡まれたせいで、急激に気分が害された」
「にゃひひひひ。鬼より怖い巫女様の霍乱たぁ、冗談きついなぁおい!」
「家主の許可もなしに入り込む神経の方が、よっぽど洒落にならないわ」
「だって、鰯の頭も柊も飾ってないじゃんこの神社。それすなわち、オールウェイズ鬼さんウェルカムってことでしょ」
軽口を叩きつつも、萃香はその場にそっと座り、己の手を優しく霊夢の額に当てた。
……そして、ほんの僅かながらも眉をひそめた。
「ありゃー、本当にちょっと熱っぽいねえ。健康と頑丈だけが取り得の分際で、生意気な。こういう珍事は、今すぐ鴉天狗に知らせて取材させないと」
「んなことしたら、鴉とまとめて鍋に放り込む。煮る。」
「おお怖い怖い……あー、でも鍋はいいねえ。体が弱っている時ゃ、栄養満点の鍋を食うのが一番だあね」
もし、これが四十年以上も昔だったら。
萃香はきっと、
『ああん? 熱が出たぐらいで何をグッタリしてるわけ? こういう時こそ酒だよ酒! 飲んで騒いで汗をかけば、つまんない病魔なんて即座に退散するわあな』
などと医学の常識に挑戦するような戯言をわめき、すぐさま大勢を「萃めて」強引に宴会を開き、あまつさえ無理矢理にでも、霊夢をその輪の中へ参加させようとしただろう。
また霊夢も霊夢で、なんだかんだと乱痴気騒ぎを楽しんでしまい、しかも翌朝気が付くと本当に熱が下がっていて気分も爽快になったものだが……
今は、まるで違う。
「なるべく消化がいいものを食おう。んー……湯豆腐とか?」
「そんな大層な食材、うちの台所にゃ置いてないわ」
「その程度の品物、ちょいちょいっ!と萃ちまうよ」
「……悪いわね」
「いいってことさ。鬼のように旨い料理を振舞えば、私の株も急上昇ってもんだろ?」
「はっ。永遠の酔っ払い幼女が、包丁なんて握れるのかしら」
「まあ、黙って寝てな。私の鍋なしじゃあ生きていけない体にしてやるから」
大杯を一気に干させるような無茶を、萃香はもう決して強要しない。
萃香のみならず、これまで霊夢と盃を酌み交わした仲の妖怪たちは、こぞって霊夢の健康を気遣ってくれるようになった。
過去に無軌道な跋扈を繰り返し、常々霊夢の頭痛の種となっていた者ほど、現在においては逆に親切極まりない。
(やれやれ。私なんかを長生きさせて、何が面白いのかしら)
そう、怪訝な思いに駆られる時もある。
しかし、そもそも妖怪どもの考え方や価値観など人間に理解できるわけがない。
それに、日常の雑事を誰かに押し付けまくる生き方は大変ラクチンなので、霊夢は基本的に相手のなすがままに任せることにしている。
……ただし親切の途中、例えば「○○年前の××異変じゃ、私も霊夢も頑張ってたよね。ああ、あの頃は楽しかったよなあ」みたいに不埒な過去話が切り出された始めた場合は、その限りではない。
たったそれだけのことで、霊夢は唐突に機嫌を損ね、怒鳴り、相手の好意の一切を拒絶するのである。
(どうせ……私はすぐ『無くなる』のに。ほぼ永久に生き続けるあんたたちにとって、私なんか最初から『無い』も同然なのに)
いかにも酔っ払いらしく耳障りな鼻歌と共に、萃香が台所へと消える。
その背中を見ながら、ふと、霊夢は己の心臓の痛みを思い出す。
(夕食が運ばれてくるまで、もうひと眠りしよう)
そう決めて、再び目をつむる。
ぱさり。
うとうとし始めたばかりの頃、枕元に薄っぺらい何かが置かれた。
その微かな音は、安穏とやり過ごせぬ相手の到来を告げるものだ。
「あややや、起こしてしまいましたか」
「……新聞紙はいらない。押し売りお断り。いつも言ってるでしょ」
鬼の次は、鴉である。
こいつは、少しでも隙を見せるとこうして忍び込んできて、無駄な紙束を勝手に置き去っていくのである。
いつぞやの如く、障子を突き破る勢いで投げ込むような真似だけは流石に自重するようになったが……それでも、迷惑なことには変わりない。
「ご安心を。これは新聞紙ではなく、れっきとした新聞です。幻想郷社会の立派な木鐸です。それに、私は新聞を売りに来たわけではありません。他ならぬ霊夢さんになら、いくらでも無料進呈しますとも」
「一枚だっていらない。タダでもいらない」
「いやね、ものすごい大スクープが飛び込んできましてね。これはもう、いち早く霊夢さんにお知らせしなければ!と、思いまして」
「どうでもいい。さっさと出て行け」
「本日は、素晴らしい特典を用意しています! 我が新聞社とご契約いただいている方に、この新鮮かつ栄養満点な春菊アンド椎茸をプレゼント! さらにはダブルチャンスで、天狗印の豆腐なんかもお付けしようと思いますが」
「それは置いていけ。しかる後、あんたは回れ右。オーケー?」
「いやー、今宵は一段と冷淡さにキレがありますね。いかにも偏屈な寝たきり老人らしい……と言うか、あれ? いくら年寄りとて床に就くのがいささか早くないですか? もしかして、お風邪でも召された……とか」
韜晦的な声色が、急にトーンダウンした。
こんな公害天狗でも、とりあえず人の体調を心配するデリカシーぐらいはあるらしい。
それでもまあ……霊夢という巫女にとって、妖怪とは基本的に公害みたいなものには変わりないのだが。
「あのさ」
「はい?」
「今、うちに萃香が来てるのよね。山の四天王」
サッ、という分かりやすい音と共に、文の顔が青ざめる。
「えっと……どどど、どちらにいらっしゃるって?」
「台所。そこで、粗末な鍋を煮込んでる」
「是非とも相伴にあずかりたく存じ奉る所存を示唆する今日この頃ではありますが、何せ哀しき新聞配達の身、まだまだ仕事がたんと残っておりまして」
「じゃあさ、私の分もどっか別の場所でバラ撒いてきていいよ。九天の滝壺あたりがお勧めかな」
「いやいやいや、本当に霊夢さんの興味をひく内容なんですって。騙されたと思って、一面なりとも是非お読みいただきたいなー、と……」
「萃香ー! あんたにお客さんだよー!」
「これにて失礼っ!」
叫ぶが早いか、文は縁側の戸を開け放って逃げた。
……山の食材が盛られた籠、そして新聞を置き去りにしたまま。
「鴉のくせに脱兎とは、これ如何に……なんちゃってにゃはははー!」
入れ替わりに寝室へ入ってきた萃香は、自分で自分の冗談に大笑いしながら、まず開いたままの戸を閉め、それから新聞には目もくれず、籠の前に屈みこんだ。
「うっひゃー。思ったより早く来てくれたみたいだね。うひゃひゃひゃー!」
「うるさいなあ。そんなつまらないジョークで、よく笑えるもんだわ」
「いんや。今こみ上げてきたのは、それとは別の笑い。あのイカサマ天狗も、ずいぶんと殊勝なことをするようになったもんだと思ってさー」
「何それ。貴重な紙資源をインクで汚しまくった挙句、私の居住スペースに不法投棄しているだけじゃないの」
「んー……そいつぁ、カモフラージュだよ。新聞配達なんて、ここに来るための口実」
「は?」
「そりゃまあ報道部の鴉である以上、新聞を読んでもらいたいという欲はあるだろうさ。でも、今日のあいつが本当に配りたかったのは……」
こっちだよ、と言って、萃香は籠をひっ掴む。
「あんたが能力を使ったせい、でしょ?」
「プラス、あいつの思いやり。ほんと、天狗たぁヒネくれた奴らだよ」
「なんだそりゃ」
「あははー! ま、難しいことは考えなくていいよ。お前はただひたすら、みんなから愛されまくってりゃいいの」
「……ますます意味不明ねえ」
「おー。ここまで質の良い材料を運んでくれるとは、伊吹の萃香の目をもってしても見抜けなんだ」
もしかしたら今の自分は、妖怪たちのペットみたいなものなのかもしれない。
しかし旧地獄の動物が化生したような美少女ならまだしも、自分のような枯れ婆を構うのが、そんなに愉快なものなのだろうか。
まったく長生きすればするほど、こいつらの心理は妖しく・怪しく感じられる。
「ま、出来心と酔狂だけで動いてるからね、あんたたちは」
「お? なんか言った?」
「何も。さ、あんたの愛する霊夢様は、そろそろ空腹よ。自慢の湯豆腐とやら、はよ馳走せい」
「仰せのままに……っと、その前に」
暗くなってきたな、とつぶやいて、萃香は軽く手を振った。
壁掛けのランプに、ほのかな灯りがともる。
「火加減の調節も慣れたもんさ。十分で仕上げて見せるよ」
そしてまた、霊夢は部屋の中にひとり、とり残される。
さあて、この十分間をどうやって過ごそう。
眠るには短く、じっとしているには長い。
(うーん……たまには、いいか)
そろそろと、手が新聞に伸びる。
いつもなら、一文字すら読むことなく押入れに叩き込むところだが。
萃香が言うところの「愛」とやらに免じて、今日ぐらいは、せめて暇つぶしの役に立ててやろう……
酔っ払いの計算は、まるで当てにならない。
鍋を抱えた萃香が実際に戻ったのは、試算を倍した二十分後だった。
「いやー、なんか思ってたより時間かかっちゃったね。でも私は謝らないよ。だって、その分おいしく出来上がったんだもん」
いそいそと卓袱台を用意し、その上に鍋と食器類を並べ始める萃香。
手料理を霊夢に味わってもらえるのが嬉しいらしく、その手つきはやけにせわしない。
「おーい、起きてるかー?」
「一応」
「それなら食べろ、さあ食べろ。ガガガッと食べて、この旨さにむせび泣くが……」
「ねえ」
布団を引っぺがしにかかった萃香の腕を、痩せた指が掴む。
……豪力自慢の鬼ですら一瞬目を丸くするほど、爪先が強く食い込んできた。
「ちょっと、お願いしたいことがあるんだけど、いいかしら?」
乱れた前髪の間から覗く両眼に、萃香は有無を言わせぬ迫力を感じた。
こんな眼をした霊夢と対峙するのは、あの終わらぬ宴会異変の終幕以来かもしれない。
先ほどまでとはうって変わった薄暗い雰囲気に呑まれつつも、萃香は平静を保とうと努める。
「なんだよ、改まってさ」
「……『萃める』ことにかけて、あんたは国士無双。そうよね?」
ちらりと、霊夢の横に広げられた新聞に目をやる。
少女に戻った魔理沙の写真だけで、紙面のほぼ全域が埋め尽くされていた。
どの魔理沙も痛快な笑顔を浮かべている。
吸血鬼とか亡霊嬢とか月の姫とか山の神とか三本足の鴉とか、そういう名うての実力者たちに喧嘩をふっかけては大勝し、笑っている。
前言撤回だ、あのクソ鴉!
余計なことをしやがって!
「萃香、聞いてる?」
「え……あ、ああ、もちろん聞いてるよ」
「あんたに、萃められないものなんてない。そうなのよね? ねっ?」
「うん」
萃香は強く思う。
(嫌だ!)
と。
霊夢だけは……
この、自分を飾ららず気楽な浮遊を続けるだけの巫女だけは……
その種の欲望に憑かれることなんてありえないと、ずっと信じていたのに。
「鬼は、嘘をつかない。嘘をつけない。その私が、断言する。お前の言う事に、間違いはない」
「わあ!」
しかし萃香の願いも虚しく、霊夢は媚びと甘えに満ちた口調で、大いにはしゃぎ始めた。
「じゃあさ……例えば……」
私の体の中に、『若さ』を萃める!
その程度の芸当なんて、お茶の子さいさいよね!
(続く)
でもよくよく考えてみれば、限り有る生の果てに足掻く人間の本性をむき出しにすれば、わりとこんな感じかもしれません。
在るモノはある、無いモノはないとばっさり割り切ってきた霊夢ですが、
いざ自分が「無いモノ」として割り切られようとする番になって、初めて強い抵抗を覚えたということでしょうか。
なんだかどろどろしたことになりそうです・・・
彼女は人生の黄昏に及んでようやく、「ともだち」を得たが、
同時にようやく、自分と「等速度の時流に身を任せている」か否かによる「差別」と、「在る」ことに対しての「執着」が芽生えたんでしょうね。
きっかけはほんの些細な、けれど一世一代をかけた大真面目な、しかし自分本位で自己満足にすぎない、魔理沙の霊夢に対する出し抜きと優越の誇示と、そして興味本位の無神経で無責任極まりない、それでいて悪気のない鴉天狗の、いつも通りの何気ない行動だったとは・・・。
あの霊夢が自分の我を通すために媚びたり甘えたりするなんて、ねぇ。
これは悲劇の予感です。
それにしても冒頭の今代さん、なんだか一味違うし紫を完膚なきまでに叩きのめしてたりしてまじぱねえ。
これが楽園の不敵な巫女ですね、わかります。
>読み物としてはそれなりに白かった。→それなりに面白かった。
>許されざるよ!→許されざることよ!の方が意味が通りやすいかと。
>最高亀鑑→最高の亀鑑、の方が自分的には分かり易いですね、最高機関と勘違いしそうで。
>「放逸」→霊夢がぽかんとしている描写を意図されているなら、「放心」の方がしっくりきます。
掴みは上々ですね。だってこんなにも続きが気になる。冒頭の博麗は何代目ぐらいなんでしょうねぇ。
若返った魔理沙。そのせいで霊夢まで何かが変わってしまったのね。
しかし楽しみだ!物語に引き込まれまくりました!