空に雲はなく透き通る様な月夜に私の心は踊る。
空に浮かぶ水晶は満月なのだろうか?
はたまた満月に至る前? それとも過ぎた後なのかな?
空に向けていた視線を下へと向ければ一面は白い大地。鈴蘭の咲き誇る丘陵。
月の照らし出されたその花弁は月光をその身で跳ね返して白く輝いて見えており幻想的と言うに相応しいだろう。
「久しぶりお月さま」
最近は曇り続きで月を見るのは何日ぶりだろうか?
浮き立つ心に身を任せ、白銀のステージで私は一人舞い続ける。
観客でも居れば、一人人形劇とでも言えるだろうか?
暫しの間、素敵な響きの言葉の感触を味わう。
まぁ、私に踊りの心得なんてないのだけれどね。
踊りと言うには拙い動きを私は一人続ける。吹き抜ける風にひらひらと鈴蘭の花びら揺れ、まるで私の踊りに合わせてくれている様だ。
しかし、一人で舞台の上を舞う人形の足は止る。
そう、大地は白で染まっている様に私の心は驚嘆の色に染まっていた。
私の一人舞台の観客を見つけたからだ。
普段人の訪れる事などないこの場所に人が降り立っている。
私に背を向けながら立つ姿に私は安心した。
もし自己陶酔の真っ最中を見られたとなっては自らの手で服毒を考えなければならなかったところだ。
――月明かりを受けながら立つその姿は、私と比べれば大きいが一般的な人と比べれば小さい部類に入るだろう。
右に結わえられた金の髪は月に当てられ蒼白い光を放ち、翼から垂れる色とりどりの鮮やかな水晶は月の恵みをその身に閉じ込め、淡い光を宿し鈴蘭の純白のキャンバスにステンドグラスを描いた。
七色の翼を背に負い、花畑の外れの方に佇むその姿に私は思わず息を飲んだ。
それほど長い時間を生きて来た訳ではないが今までこれほどまで心惹かれる光景に出会った事はなかった。
「綺麗だなぁ……」
思わず感嘆の言葉が口をついて出てしまう。
シャボン玉を針で突き壊す様に私の声が不粋に辺りに響いた。
私は慌てて自らの口に手を当てたがそれは最早手遅れだった。
無粋な私の針に突つかれたその人影は僅かに身動ぎをし、私の方へ振り向いた。
サイドポニーを揺らして此方を振り返る少女。その瞳に赤色よりも紅い色を宿しているのを私は捉えた。
絡み付くように濃く見るものを逃がさぬ程に深い。けれどもどこか透明感を持つ。
その瞳は私へと向けられる。
あぁ、どうしよう。
思わず声が出てしまっただけで話しかけるつもりなんてなかったのに。
ただただ立ち尽くす私へ穏やかな声が届く。
「今晩は月の綺麗な夜ね」
はじめまして。
そう言って目の前の彼女はスカートの端を軽く持ち上げて挨拶をする。
そんな流れるような動作につられて私も慌てて挨拶を返す。
「えっと、その、なんと言うか……どうも」
しかし、相手の持つ何とも言えない神秘的な雰囲気に呑まれしどろもどろの滑稽な物になってしまった。
散々に思考を巡らした挙げ句やっと言葉に出来たのは何処までも無難なたったの三文字。
いくら何でもこれはないよね……
あまりにも間の抜けた自分に自嘲の笑みが浮かぶ。
彼女はそんな私の様子がおかしかったのか、はたまた私の笑みを好意的に解釈したのか柔らかく笑うのだった。
白い鈴蘭の中に立つ彼女を月明かりが明々と照らしている。花びらに落ちるうっすらとした影が白に深みを与えていた。
私は恥ずかしさを紛らわせるために質問を投げ掛ける。
それにここまできて無視すると言うは流石に気が引けるし。
「貴方は誰?」
「人に尋ねる時は、まず自分から名乗るものよ」
再び少女は小さく笑う。
そういうものなのだろうか?
いや、きっとそうなのだろう。
一つ勉強になったと、その言葉に納得した私は口を開く。
私は――
そこまで声を出したところで、私の顔の前にすっと差し出される人差し指。
たった指一本にも関わらず、私の言葉の言葉の流れを止める堰としては十分だった。
「簡単に自分の名前を教えない方が良いわ、気をつけないと、いつか悪魔に拐われてしまうわよ?」
……狐につままれた気分とでも言うのだろうか。
自分から名乗る様に言っておいて、今度は名前を口に出すなと言う。……一体どうしろと言うのか?
きっと、いいように遊ばれているのだろう。
そう思うと胸の奥から小さな不満が這い出て来る。
「……それじゃあ、貴方はなんて呼べば良いの?」
「私の本当の名前は秘密。此処では私は名前を持たない無名の存在」
白金の髪を軽やかに揺らして、彼女は言葉を紡ぐ。
「だから、貴方が好きなように呼んでくれて構わないわ」
素敵な名前をお願いね。可愛らしいお人形さん。
私の正体を知ってか知らずかは分からないがそんな事を問いながら顔を覗き込んでくる。
思わぬ接近に少し驚く。
彼女はやはり声を殺して笑っていた。やっぱり遊ばれてる……
私の不満は大きく成長する。
ここは一言物申すべきだろう。やや強めに一歩前に出る。
すると彼女の笑いに呼応して揺れ、翼の宝石に反射した淡い光が目に飛び込む。
まるで私を誘惑するかの様なそれは私の深くまで入り込み、私の不満を蒸発させるのだった。
宝石さん。
彼女にはこれしかないだろう。私にはそう思えてならなかった。
「素敵な名前をありがとう。それにしても此処は綺麗なところね……貴方は此処に住んでいるの?」
鈴蘭畑を見渡したかと思えば私の方へ視線を投げ掛てくる。
彼女の体の動きに合わせて翼の宝石がきらきらと光を反射させながら揺れている。
「えぇ、そうよ。此処に住んでいるわ。気に入って貰えたなら嬉しいわ」
誉められて悪い気はしないものだ。鈴蘭達もきっと喜んでいる事だろう。
ふわりと風に揺れる花弁は私の思いを肯定するかの様に頷いて見えた。
「ところで貴方はどうして此処に?」
「ただの散歩……誰にも秘密のね」
だから貴方も私の事は内緒にしといてね。
宝石さんは人差し指を唇に当てるとシーとそっと息を吐くのだった。
まあ内緒と言われても秘密にする以前に、私にはまともに話せる相手がいなかったり……
真剣に考えているところにニコニコとした笑顔が見える。
流石に嫌味じゃないよね……そう信じたい。切実に。
気落ちしている私をおいて、宝石さんはふらふらと花畑の内へと歩き出す。
その足取りがなんだか心配で、私も彼女の横へ寄り添う。
酒にでも酔った様にあっちへこっちへふらふらと千鳥足。
異常な足運びに流石に心配になる。
「……大丈夫?」
私が声をかけるとまるで凍ったように足を上げた状態で静止する。
「花の香りに酔っていたの」
……一言で言おう。意味が分からない。
でも、どこか誇らしげに言うその顔は何処までも真剣でつい笑ってしまった。
その私の様子を見て彼女は笑うのではなく微笑むのだった。
再び歩き出した時の足取りは確かなものだった。
きっと少女なりの冗談だったのだろう。センスについては言及すまい。
私もジョークには自信がないし。
――それにしても不思議だ。私がこんなにも近くにいるのに毒の影響を受けている様子が見られない。
「ねぇ、宝石さん。貴方、身体は何ともないの?」
私の言葉は彼女の足を地面へと縫い付ける。
彼女は何かを考える様に目を瞑り、首を傾ける。
うーん。聞かない方が良かったかな? 沈黙が続くのはいたたまれなかった。
沈黙を破る気の利いた台詞を模索していると、右手のひらにほんのりと温かな感触。
すっと手を握られる。
私の内側から触れるもの全てを融かすように熱く、けれども全てを凍らせる冷たいドロドロとした汚泥の様な空気が流れ出す。
それは私の腕を伝い彼女の腕を害そうと流れて行くのを感じる。
泥水の様な空気はやがて手のひらに到達する。止め度なく溢れ出るそれは絵の具の黒色で私に触れる少女の腕を徐々に彩るに違いなかった。
「えっ! 大丈夫なの!?」
慌てて腕を引き離す私の眼前に、彼女はにこやかな笑みを浮かべつつ手のひらを差し出した。
どういう事!?
白絹の肌は滑らかさを保っており爛れた様子は一切見られない。
「苦味や酸味は本来、身を守るための感覚。でもそれを好む者もいる。」
まぁ、私は好きでも嫌いでもないけどね。
そう言って呆気に取られた私を置いて少女は再び歩み始める。
一体何がどうなっているのだ? 何故毒が効かない? 意味深な言葉の本意は?
自らの能力の範囲外の人物。その登場に私の心は大きく揺れていた。
けれども、それに反して身体は一切の動きはなかった。
「……ねぇ、案内はないのかしら?」
立ち尽くす私の耳は小さく呟く様な、しかしどこか弾む様なその言葉を捉えたのだった。
――少女の横に寄り添い歩く。
気持ち先程より近めに。
案内も何も此処には花以外何もありはしない。壁もなければ塀もない……見所もないけどね。
そんな場所で迷子になる人などいようはずがない。
だから案内というのは彼女なりの誘いなのだろうと判断した。
どうやらそれは正しかった様で上機嫌に私の話を聞いてくれている。
無言の徘徊がどうにも辛かった私はとりあえず思い出した出来事を取留めもなく垂れ流すのだった。
その中でも特に先日起こった花の異変はお気に召した様子だった。
私の語る物語に見た目の歳相応のおとぎ話を聞く子供の様に瞳を輝かせるのは、なんだか嬉しかった。
次は何を話そうか?
もっと楽しんで貰いたくて、もっと聞いて欲しくてそんな事を考えていたところに声がかかった。
「ねぇ、お人形さん」
「なぁに?」
「貴方はどうして此処にいるの?」
「此処に住んでいるから。言ったでしょう」
私の反論にそうじゃないと頭を振るその姿は、どこか儚さを感じさせ再び幻想の世界へと溶け込んでいるかの様に思えてならなかった。
きっと此処へ住むに到った経緯が知りたいのだろう……
別に隠していた訳ではなかった。ただわざわざ自分から話すつもりもなかった。だから言わなかっただけ。
しかし、問われたならば答えよう。
捨てられたから……
これまでの話の様な楽しい話を期待していただろう彼女は、私の返事に哀れみでもなく同情でもない、私の今まで向けられた事のない視線を投げ掛けたのだった。
事実は簡単に手短に伝えた。
彼女は私の話を聞いている時、ただ仮面の様なうっすらとした笑みを浮かべるだけでその裏に潜む心情を読み取る事は叶わなかった。
過去の事は変えようがない。それよりも未来の事だ。
「だから私は人形達を解放してあげたいの!」
誰に話をしても、無理だ、間違っている、止めなさい、と言われてきた夢を語る。
何の根拠もないけれどこの人ならば笑って認めてくれそうな気がしたから。
彼女は私の話に一言も口を挟む事はなかった。ただただ真っ直ぐに私の眼を見つめるだけ。
眼差しには私の言葉の奔流を受け止める確かな堤があって、ついに私の溢れんばかりの熱い言葉は最後の一滴まで流れて行くのだった。
――ふっと息をつき、私は言葉を待つ。
……一度落ち着くと熱く成りすぎた自分がなんだか恥ずかしくなってきて、今にも何処かへ逃げ出したくなる。
まぁ、私の伝えたい事は全て話した。目の前の少女にそれが伝わったのかは分からないが……
「私も一つ、人形の話を知っているわ」
何を思っての言葉かは分からない。
ただ凛と澄んだ声は私の奥を強く握り絞める。
紅い瞳に私の口は縫い付けられたかの様に動く事はなかった。
「あるところに人形がいたの」
言葉は紡がれて行く。断ち切る者は誰もいない。
「その人形はある部屋に置かれる予定だった。けれども、その部屋の主は人形を一度も飾る事もなくおもちゃ箱へと納めた。
何故だか分かる? 理由は簡単その人形が精巧過ぎたから。
部屋に置かれた他の人形は人形と言うよりもぬいぐるみに近かった。
そんな中に一つだけ精巧な人形を並べるのは可笑しいから。
和を乱す。そういう事。
おもちゃ箱の中で人形は嘆くわ。私は一体何なのだろうと。
しかし、その嘆きは誰にも伝わる事はない。
どうしてか?
何故なら人形の顔は笑顔だから。そういう風に作られたから。
きっと……人形は今もたった一人で、おもちゃ箱の中なのでしょうね」
私の心はまるで大嵐の後の川の様だった。
それほど長い話でもなければ、私の知り合いの話でもない。
けれど、たった一つの「人形」という単語が私を大きくかき乱すのだ。
川の行き着く先は使命感の海。
「その人形は今何処に?」
自分でも言葉の裏に棘の様な鋭さを感じた。彼女のせいではないのだし向こうからすればいい迷惑だとは思う……
もしかしたら作り話なのかもしれない。そうも思う。
しかし、胸の奥に渦巻く煮えたぎる感情は自分でも抑えようもできなかった。
「さぁ、分からないわ。外の世界なのか、はたまた幻想郷なのか」
なんという事だ!
そんな事すら分からないなんて……
闇に降り注ぐ月の明かりが酷く暗く思えてならない。
夜風が今まで何とも感じなかったのに何故か今はとても冷たいものの様に感じられた。
「ねぇ、私はそろそろ行かなくてはいけないわ」
私の態度が気に入らなかったのだろうか?
少女の言葉は熱を帯びた私のそれとは違い、どこか冷えたものを感じさせた。
「そうなんだ……」
何処までも透き通った彼女の言葉に心が鎮まり行くのが分かった。
今は宛のない怒りよりも別れを惜しむべきだろう。
平静を取り戻せば急に寂しくなってくる。せっかく知り合えたのにと。
彼女の顔が近付く視界のほとんどが埋まる程に。
そして穏やかなけれど何処か力強さも感じさせる、そんな声が届く。
「貴方の人形解放の夢。私は素晴らしいと思うわ、全ての人形がそれを望んでいるとは思わない。けど自由を望む者もいるよ、きっと」
諭す様にゆっくりと語りかけられる。
初めて理解された私の夢。
誰にも認めて貰えなかった悲願の思い。
この時を……この一人をどれほど望んだ事か……
胸に熱い物がどんどんと込み上げてくる。
それは私の口を伝って外へと飛び出した。
「また……また会いに来てくれる?」
「あら? 次は貴方の番よ」
くるりと金糸をなびかせ月と向き合う少女。
私の夢の最初の理解者。たった一人の理解者。
「じゃあ! 何処に住んでいるの? 私が教えたのだから貴方も教えるのが道理じゃない?」
今にも目の前の人が何処に行きそうな雰囲気に慌ててつつ捲し立てる。
「……そうね、確かにそうかも知れないわ。でも、心配は要らないわ。」
彼女は月の静光を背に負い私と向き合う。
「貴方がもっといろいろな事を経験して、たくさんの事を学んでそして……本当の解放とは何か。真に解放すべき人形とは何か。
それが分かった時にきっとまた会えるわ」
だから、夢を諦めないでね。
そう言って彼女は煌めく翼を広げる。
月の清光に色鮮やかな星々が浮かぶ。
丸いキャンバスの内に輝くその光景を、私は永遠に記憶するだろう。
「秘密の散歩は今日で終わりにするわ。最初で最後ってやつね」
そう呟きながら彼女は飛び立つ。
風に揺られて鈴蘭がたなびく、白い花弁は水面に反射する光の様だ。
ねぇ、お人形さん。
静かな夜に声が響く。
「次にあった時に名前を教えてくれない?」
「あ、もちろん」
……ありがとう。と言う声が私の耳に心地よい。
もう一ついい?
心の指切りは続く。
「また……私とお散歩してくれる?」
答えは決まっていた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
――おもちゃ箱の前に立つ
此処に来るまで如何程の歳月が過ぎただろう。
「今晩は月が綺麗な夜よ、宝石さん」
「そう……夢は叶った? お人形さん?」
「今はまだ、だから叶えに来たの」
「案内……してくれる?」
答えは決まっていた。
誰も手に取る事のない人形。
ならば、それを手に取れるのはやはり同じ人形だけなのだろう。
人形同士の問答、良い雰囲気のお話でした。
諦めない事が大事!!…そう、大事なんです…私も頑張ろうと思いました!
なんていうか、興奮や驚きはしないんだけど、すぅっと惹きこまれて心に溶け込むような感じ…あぁ、上手いこと言えないorz
夢を諦めないことも大事、だけど理解してくれる人も大事ですよね
人形さんと宝石さんのお話、楽しく聞かせて頂きました
そこにメディスンとフランが居るだけで一枚の絵画として完成してしまいそう。
「キャンパス」→作者様が比喩的な表現を意図しているならば、キャンバスかと。
「私の声不粋に」→私の声が不粋に
「言葉の放流」→前後の文脈的には奔流?作者様のセンスならばご容赦を。
最後に本文中に「私の」の使用率が、ちょっと多いような印象を受けました。
良かったです。
おもしろかったです。
フランを人形としたことで、メディスンとの孤独の共通点を作るとは。や、ホントに面白かったです。
「本当の解放とは何か」や「夢を諦めないでね」などの台詞が、どうにも自分の持つフラン像を上滑りしてしまって。フランがその発言をするに至った背景がなかなか見えてこない。
その所為でメディとフランの会話が、深みの欠ける、やや淡々としたものに感じてしまったのが残念。
フランを人形に見立てる発想は巧いですね。ラストのシーンは、短いながら綺麗にまとまっていて読後感も良かった。