Coolier - 新生・東方創想話

さよなら、姉さん。

2010/04/17 14:30:58
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『幽霊楽団、活動無期限休止!』


幻想郷のトップアーティストとして人妖問わぬ人気を誇るプリズムリバー楽団が、この度突然の活動休止を宣言した。メンバーはこの件に関して固く口を閉ざしており、理由などは今の所一切不明である。予定されていたライブがいくつもキャンセルになった事などから、専門家は何らかの事態で活動を休止せざるを得なくなったのではないかと推測している。

*****

「活動再開についても、マネジメントを兼任するリリカ・プリズムリバー氏曰く『コメント出来ない』との事で、一部では事実上の解散ではないかと囁かれ云々――ふむ」
ばさりと鳴らした新聞から顔を上げて、小野塚小町は白いうなじを丸めたそれで軽く叩いた。
「無期限休止、ねぇ」
その視線がするすると滑り、彼岸花の散った冬の小道に佇む儚げな女性にぶつかって止まる。
「その渦中の人が、独りこんな所にお出ましたぁ」
自殺はいかんよ自殺は――小町が言うと、ルナサ・プリズムリバーは緩慢に首を振って答えた。
「違うわ」
「自殺志願者は皆そう言うんだよねぇ」
「だから、違う。私は――……少し、頭を冷やしに来ただけ」
無感動な声でそう言うと、ルナサは再び思考の中に埋没するように俯いた。

再思の道は、小町お気に入りのサボタージュスポットの一つである。この寄る辺なき者の墓所には、時折思い詰めた人間や、外からの迷い人などがやって来る。それらは彼岸花の咲き乱れる秋には特に多く、ここに居れば小町は暇潰しには事欠かなかった。
「お前さんが来るとは思わなかったけどねぇ」
丸めた新聞の両端を持つと、押し込む手の動きに従って新聞が如意棒のように収縮した。手と手が触れ合う所まで縮めたそれを懐に収めて、小町はルナサの隣に立つ古びた墓石に腰掛けた。
「そうそう、この前のライブ行ったよ。大盛況だったじゃないか。ほら、地底の」
そう言うと、ルナサは初めて感情らしきものを顔に浮かべた。
「……ああ、来てくれたの」
その時の事を思い出してか、彼女は薄っすらと笑みを浮かべた。
「よく来たわね、あんな所まで」
「あそこにゃ知り合いが多いからね。連中、早くも次の公演を待ち侘びてたよ」
「……そう」
答えるルナサの顔が翳りを見せる。
「ここに来たのは――その問題かい」
ルナサは困ったように視線を落とした。ふむ、と一つ呟いて、小町は墓石の上でルナサに向き直る。
「差し支えなけりゃ話してみないかね。あたいで良けりゃ力になるよ」
「……ごめんなさい、それは出来ない」
「――そうかい」
予想していた返答ではあったが、残念だ。ならばと小町は対案を出す。
「それじゃあ気晴らしにでも行こうじゃないか。難しい顔して塞いでるだけじゃ見えんものもあるってもんだ。さあさあ」
「え? い、いや私は――」
ルナサの答えを待たず、彼女の手を掴んで墓石から飛び降り、小町は洋々と歩き出した。
「……貴女仕事は?」
諦めたようにルナサが言う。無論小町は動じもしない。
「最近は暇なのさ。閑散期って奴だ。死人が少ないのはあんまりよろしい事じゃないんだが、まあ、お陰でこうして命の洗濯も出来るって訳さ」
嘘ではない。一時の事ではあるが、小町の管轄にはさっぱり客がいないのだ。だからと言ってこれ幸いと職場を離れるような死神は小町ぐらいのものだが。
「貴女の命、その内洗いすぎで擦り切れてしまうんじゃない」
矢張り諦めたようにルナサが呟き――小町は快活な笑い声を上げた。



* * * * *

曇天の下を、行き交う人の流れに乗って二人は当てもなくぶらついた。
人里に遊びに来るようになってから、一体どれほどの時が経っただろうか。
彼らは変わらない。今にも一雨来そうな空の下にあっても、人里はまるで張り合うような活気に満ちている。目的などなくとも、小町はそんな人間達を見るのが好きだった。その往く末を遥か昔から引き受けて来た身には、彼らがただ生きている、それだけの事が例えようもなく美しく、愛おしく思える。無論、そんなこっ恥ずかしい事は殺されたって他人に言う気はないが。
あれやこれやと口を開くのは矢張り小町で、ルナサは時折それに返事を返すばかりだが、小町にはそれでも再思の道で出会った時より随分と表情に色がついたように思えた。ならばそれでいいと小町は思う。押し付けがましい気安さは百も承知だが、それが自分の長所である事はいつか竜宮の使いも保障した所だ。
「てな顛末で、そいつは最後にゃ自分の娘に救われたって訳さ。泣かせる話だろう――ああ、あの店知ってるかい? あそこの天麩羅がまた美味くてねぇ。生憎今日は休業みたいだが」
「――そう、それは残念ね」
ふらふらとあちこちに話題が飛ぶ事などお構いなしの小町に、ルナサもいい加減慣れたような呆れたような笑みを浮かべる。
「お前さんはあまり人里に遊びにゃ来ないのかい?」
「私は――そうね。ライブ以外でここに来る事は殆どないかも知れない」
人里と関わる事が多い比較的多い妖怪にしては珍しい事だと小町は思った。ルナサはともかく、メルランやリリカは喜んで店を冷やかしていそうなものだが。
「そうでもないわ。私達は、何と言うか――そうして人間達との間に線引きをしているのかも知れない」
「線引き?」
「興味がないと言えば嘘になるけれど、それでも私達は騒霊だから。そこは――違えてはいけない一線のような気がして」
ふむ、と小町は唸る。形が似れば似るほど、その境界は曖昧になる。詳しい事は知らないが、彼女らは実在の人間を元として生まれたというのだから、それは尚更の事かも知れない。幽霊楽団と言えばお気楽な連中だと頭から決め付けていたが、存外真面目な所もあるものらしい。
彼女らの気持ちは、なるほど理解出来なくもないが――形の良い顎を一撫でして、小町は別にいいんじゃないか、と言った。
「あたいはそこまで堅く考えなくてもいいと思うよ」
「――そう、かしら」
「そういう線引きなんてもんはさ、すきま妖怪だのうちのボスだの、やりたい連中に任せときゃいいのさ。あたいみたいにこうして線の上をふらふらしてるような奴がいなきゃあ、線だって引く甲斐もないってもんだろ? 大事なのは自分は人間とは違うって意識だ。そいつさえ確と持ってりゃあ、真の意味で一線を越えちまうような事は起こらないさ」
手前勝手な解釈だと言われちまっちゃそれまでだけどね――そう結んで小町はへらりと笑い、「あ、今のボスには内緒で頼むよ」と白々しく付け足した。黙って俯いたルナサはそれを聞いて小さく吹き出し、小町を見上げて言った。
「……不思議な人ね」
「よく言われるよ」
肩をすくめて、小町は辻を曲がった。「ちょいと休憩して行こう。この先に美味しい甘味処があってねぇ」
「……直ぐにでも人里のガイドになれそうね」
「そいつは妙案だ。クビになったら考えようかねぇ」
「呆れた」
苦笑するルナサを見て、小町は矢張り連れ出して正解だったと一人頷いた。


* * * * *

そういやぁ――串に残った最後の団子を口中へ放り込んで、小町は今更ながらに問い掛けた。
「お前さんが一人でいるのは珍しいねぇ」
後ろに短く束ねた金髪が落ち着かないのか、しきりに手櫛をかけながらルナサが「ん」と答えた。幻想郷を騒がす時の人がいつもの姿で人里に出る訳にもいかないので、ルナサはトレードマークの帽子を外して髪型を変え、ついでに小町がつけていたロングマフラーを巻いている。それだけで誰も気付かないのだから、ルナサとしては喜んでいいやら悲しんでいいやら複雑な所だろう。誰もが振り返るような美人ではあるのだが、矢張り傍に居るべき妹達が居ないというのが大きいのかも知れない。或いは、こんな所で性懲りもなく遊んでいる隣の死神に注目が逸れてしまうのか。
「妹達とは、今喧嘩中だから」
「喧嘩?」
小町は鸚鵡返しに聞き返した。「おいおい、まさかそいつが休止の理由じゃないだろね」
「違うわ。それはまた別の理由……というか、そのせいで喧嘩が起きたというか」
「ふむ」
そう言われるとますます気になるが、言えないというのなら仕方がない。皿を下げに来た給仕に茶のお代わりを頼んで、底に残った茶を飲み干した。
「お前さん達も仲違いするんだねぇ」
「……私が悪いのよ」
「うん?」
「休止も喧嘩も、悪いのは皆私。私がこんな事にならなければ――」
「……」
それきりルナサは黙り込んでしまった。場の空気が途端に重くなる。茶を注ぐ給仕が怪訝な顔をしたのに気付いて、小町はにへらと笑って見せた。
「――ルナサ」
「……何」
真正面からルナサを見据えると、彼女の切れ長の双眸がこちらを捉えた。
「その大福、ちょっと貰っていいかね」
ルナサは一瞬ぽかんとした後、呆れ顔で薄く笑った。
「……どうぞ、苺以外ならね」

熱い茶を飲み干して、ルナサがほうと息を吐いた。それを見ながら大きく伸びをして、小町はそろそろ出ようかね、と言った。
暖簾を潜ると、外は春を予感させる日差しが照らしていた。
「……さっきまで曇っていたのに」
「一面の曇天があっという間に晴れ上がる事だってあるもんさ」
小町が言うと、ルナサはその視線を避けるように俯いた。
「逆もまた然り、でしょう」
「……かも知れんね」
小町は肩をすくめて、それでも視線を外さず続けた。
「ま、いずれ当たり前の事さ。曇りがあれば晴れが来る。晴れが過ぎれば雨が降る。人生はその繰り返しだ。そんなら、過ぎる天気より次の晴れの事を考える方がよほど健康的だろうさ」
冬来たりなば春遠からじだと小町は笑う。ルナサはようやく小町を見た。
「……眩しいな、貴女は」
けれど、私に次はあるのかしら――。
消え入るような声で、ルナサがぽつりと呟いた言葉を問い質そうとした時、小町は急に身体を引っ張られた。
「隠れて!」
ルナサが抱き付くようにして、小町を自分ごと路地裏に無理矢理押し込んだ。
「あたたた! 痛いって、お前さん何を――」
「静かに」
「……ああ」
両脇に立て掛けられた建材やガラクタの影から通りを覗いて、小町は状況を理解した。
何事か姦しく言い合いながら通りを歩く少女が二人。ルナサのように変装しているが、あれは――。

「何よ、私が悪いって言うの?」
「そうは言ってないわよ。だけどリリカが――」
「今は名前で呼ばないでってば!」
リリカ・プリズムリバーと思しき少女が、うんざりしたように遮った。対するメルラン・プリズムリバー――だろう、間違いなく――も、彼女には非常に珍しく苛ついた表情をしている。二人ともトレードマークの帽子こそ被ってはいないものの、良く見れば誰にでも解るようなお粗末な変装である。
「二人でやればいいだなんて、あんな状態の姉さんに冗談でも言う事じゃないでしょう」
「私はただ、暫くの間は二人でも仕方がないって言いたかっただけよ! 姉さんこそ、休止しようなんてよく言えたものね。それがルナサ姉さんにとって一番辛い事だって解ってる癖に!」
「それこそ仕方のない事だわ。貴女じゃ私の躁の音を抑えられないもの。貴女、私と二人でコンサートに来てくれた人間達を暴走させる気? 私はそれでも良いけれど」
「それは――!」
二人は遂に足を止め、声を潜める事も忘れて言い争い始めた。ちらりとルナサを見遣ると、彼女は悄然とした表情で二人を見ていた。ここに居ていいものだろうかと小町は思った。ルナサの懊悩の裏側を覗いているようで、酷く居心地が悪い。といって後ろはどん詰まりだし、入り口から出て行けば十中八九ルナサの事も気付かれるだろうから、結局動く事は出来ないのだが。
大体、どうしてそんなに落ち着いていられるのよ――とリリカが言った。殆ど掴み掛からんばかりの勢いである。そんな剣幕にも、メルランは寂しげに笑って答える。
「落ち着いてる訳じゃないわよ。でも――いつか、こうなるんじゃないかと思ってたから」
「……何よそれ……!」
常になく冷静なメルランの口調が、却ってリリカを激昂させたようだった。
「ふざけないでよ! 何それ、訳解んない! こうなると思ってたって、じゃあ、だから何なのよ! このまま黙って成り行きに任せるとでも言うつもり!? だったら勝手にしてよ……私は認めない! 絶対に諦めない! 絶対に――!!」

「いい加減にしろ、この与太郎共が!」

ごちん、と重い物のぶつかるような音が二つ、派手に響いた。
「いっ……」
「……たぁ~……」
リリカとメルランは、頭を押さえてふらふらとしゃがみ込んだ。姉妹の上に影を落として、上白沢慧音は肩で大きく溜息を吐いた。
「全く、真昼間から往来で騒ぐのも騒霊の仕事か? 何を言い争っているのかは知らないが、周りを良く見てみろ」
遠巻きに周りを囲むギャラリーに気付いて、リリカは身体を小さくした。
「……ご、ごめんなさい……」
「あ、そうだ、半獣のセンセー」
額をさすりながらも、メルランは全く堪えた様子がない。
「この辺で姉さん見かけてないかしら? 色々あって、朝から探してるんだけど」
「ルナサの事か? 何を言ってるんだ、彼女なら――」
げ、と小町が呻いた。慧音の視線がこちらを向く。一体いつから気付いていたのだろう。二人は必死のジェスチャーで「黙っていろ」と合図を送った。慧音は刹那困り果てたような顔をして、それから咳払いをしてメルランに向き直った。
「センセー?」
「ああ、いや。すまない、その――なんだ。私の勘違いだったようだ。ほら、お前達は帰って少し頭を冷やせ。私の方でも探しておくから」
「うーん……まあ、そういう事なら他を当たってみるわ。行きましょ、リリカ」
「う、うん」
リリカと対照的に、メルランは切り替えが早いらしい。言うが早いか納得の行かない表情のリリカを引き摺って、メルランはさっさと去っていった。

「やあやあ、助かったよ旦那」
ガラクタをどかしてようやく路地から抜け出した小町に慧音は渋面を向けた。
「誰が旦那だ。全く、教師に嘘を吐かせるとは……余りに切羽詰った様子だったから思わず助けてしまったが、何かやましい事でもしているんじゃないだろうな」
「いやいや。まあ、あたいも良くは知らないんだけどねぇ。喧嘩中なんだとさ。兎に角、この埋め合わせはまたするよ」
「要らないよ。そう言って貴女は人を暇潰しに巻き込むのだから始末が悪い」
「あっはっは、バレたか」
悪びれもなく笑う小町に溜息を吐いて、慧音は続いて路地から脱出したルナサに眼を向けた。
「訳は知らないが大丈夫か? 随分と具合が悪そうだが」
言われてみれば、いつの間にやらルナサは随分と顔色が悪くなったように見える。
「問題ないわ……ありがとう。助かったわ」
律儀にお辞儀をして、ルナサはこちらへ歩み出る。その身体が――唐突に、大きく傾いだ。
「――おぉ!? おいおい、立ちくらみかね……っと」
小町は慌てて彼女を抱き止めて、その異変に気付いた。
荒い呼吸。大粒の汗。どう見ても尋常な様子ではない。
「ルナサ? 本当に大丈夫か?」
慧音が顔を覗き込む。ルナサは大丈夫だと言いたげに口を動かすが、掠れた呼気は言葉の形にならぬまま空気に混ざって消える。笑って済む事態でない事は火を見るより明らかだった。
「慧音」
小町は叫ぶようにして言った。「家に運ぼう。どっちだい」
「あ、ああ。こっちだ!」
答えるや否や駆け出す慧音の後を、ルナサを抱きかかえて小町が続く。慧音の屋敷は幸いすぐ近くにあった。どいたどいたと人垣を押し退けて、一つ二つと辻を曲がると、目指す屋敷が姿を現した。
「お邪魔しますよっと……」
形ばかりの挨拶をして、小町は下駄を脱ぎ散らかして慧音を追う。流石と言うべきか、慧音の家は何処もかしこも綺麗に片付けられていて何かに躓くような心配はなかった。うちも掃除してくれんもんかねぇ――などと場違いな事を呟きつつ、慧音が客間に敷いた布団にルナサをそっと横たえた。

「手荒に運んで悪かったね。大丈夫かい、ルナサ」
慧音が水を取りに行っている間に、枕元に腰を下ろして小町は問い掛けた。ルナサは答えようとするが、矢張り声を出す力もないようだった。
「いいよいいよ、答えなくていい。何、すぐ回復するさ。今はゆっくり休みな」
言いながら、ルナサの額に手を当てようとして止めた。騒霊の体温を計るなど馬鹿げている。宙ぶらりんになった手で、代わりに彼女の髪をそっと梳く。まるで透き通るような手触りだった。
まさか――。
ルナサの金糸からそっと手を離して、小町はそれこそ消え入りそうな呟きを漏らした。眼の前の物静かな騒霊が、まるで融け出す前の雪のように曖昧なものに思えた。



* * * * *

それからおよそ四半刻で、ルナサは呼吸もままならぬほどに苦しんでいた事が嘘のように呆気なく元気を取り戻した。
「ごめんなさい、迷惑をかけたわ」
「いや、それはいいんだが……本当に大丈夫なのか?」
ルナサは心配げに応じる慧音にこくりと頷いて問題ないと答えた。その立ち振る舞いもどこか頼りなく思えたが、元々が儚げな雰囲気の持ち主であるので、それが体調の為であるかは小町には判断がつかなかった。
慧音は少し逡巡する素振りを見せてから、座卓に自ら用意した茶で口を湿らせて言った。
「……もし差し支えなければなんだが、話してはくれないか。これは全くの当て推量だが、お前達が活動を休止するという話、今回の事はあれと無関係ではないんじゃないか? お節介なのは重々理解しているが、眼の前で倒れられては放っておけん。私で良ければ力になるぞ」
自分と全く同じ事を言う慧音に、小町は思わず出掛かった笑いを堪えた。ルナサが迷うような表情をしたのに気付いたからだ。
「……そう、ね。ここまで世話になっておいて、だんまりを決め込む訳にもいかないわね。……小町も、いいかしら」
「お願いするよ」
ルナサは頷き、次に慧音に向けて口を開いた。
「ここには、何か弦楽器は置いてない?」
「ヴァイオリンはないが……三味線で良ければ、お前の後ろの床の間に」
「ああ、それでいいわ」
「ほい」
ルナサが腰を浮かす前に、小町は軽く手をかざして三味線を引き寄せた。
「……とんだ横着者だな」
「まあまあ」
よく言われるが、こんな便利な能力を活用しない手はない。隣のルナサに渡すと、彼女は慣れた手つきでそれを構えた。
「弦楽器なら何でもいけるのかい」
「一応、一通りは」
答えながら、ルナサは撥で弦を弾き始めた。

「……これは」
慧音は深く溜息を吐いた。「凄いじゃないか――と、言う事すら失礼だな。流石と言う他ない、素晴らしい演奏だ。一体何が問題だと言うんだ?」
演奏を終えたルナサに、彼女は惜しみのない賛辞を送った。事実、そう言わしめるに何ら不足のない力量を、ルナサは今事もなげに示してみせた。しかし――小町は。
「……慧音、違うよ。確かに値千金の名演だけどね。今の演奏には、ルナサ・プリズムリバーとして最も必要なものが欠けている」
「何?」
そうだろ――視線と共に、小町はルナサに言葉を投げ掛けた。哀しげにも悔しげにも見える表情で、ルナサはゆるりと首を縦に振る。
「最も必要なもの……?」
生真面目な半獣は顎に片手を添えて沈思の姿勢に入ったが、いくらもせぬ内に「あ」と声を上げた。
「欝の音――か」
「……そう」
少し温度の下がった茶に口をつけてから、ルナサは訥々と言葉を紡ぎ始めた。
「本来私の奏でる音は、精神に響く音。心を静める欝の音色。それが――出なくなった」
「出なく……?」
「そう。簡単に言うと――能力が使えなくなってしまった。私の、欝の音を奏でる能力と、それに付随するあらゆる力が――消えてしまった」

彼女の相棒たるヴァイオリンを召喚する力。手を使わずに楽器を演奏する力。それらと共に、欝の音を操る力が消失してしまったのだとルナサは言った。今の彼女の演奏はプロの奏者顔負けの名演ではあったが、しかしそれはどこまで行っても物理的な「音」に過ぎない。心を直接に揺らす「精神の音」こそが、騒霊ルナサ・プリズムリバーの本領なのである。――それが。
「一体、何がどうしてそんな事になったんだ」
当然の疑問である。慧音の問いに、ルナサは「解らない」と首を振った。
「突然の事だったから。何の予兆もなく、ある日急に使えなくなった」
「……それが、活動休止の理由か」
「――そう。私の能力がなければ、メルランの躁の音を抑える事が出来ないから」
肯定して俯くルナサは、しかしまだ何かを吐き出せていないような表情を隠し切れずにいた。それが自分の思い過ごしであればいいと願いながらも――小町は断定的になる口調を抑えられなかった。
「それだけじゃない。まだあるんだろ――決定的な理由が」
「……解るのね、やっぱり」
「――職業柄ね」
小町は自嘲じみた苦笑を浮かべた。
「すまないが、私にも解るように説明してくれないか」
慧音が弱ったような声を上げた。
「つまりさ」
小町は繕う事をやめて口を開く。「消えちまうんだ。ルナサ・プリズムリバーの――存在そのものが」



* * * * *

眼を覚ますと、涼やかな水色のカーテンごしに日は既に高く昇っていた。どれほどの間主人の為に声を張り上げていたかも解らない目覚まし時計のベルを手探り同然の手つきで止め、もそもそとベッドから這いずり出て、ルナサは「はふぅ」と溜息を吐いた。目蓋が、頭が、全身が重い。まるで鉛の塊になってしまったような倦怠感だ。
他人に最も見られたくない瞬間は何かと問われれば、ルナサは起き抜けのこの時間をこそ挙げるだろう。ルナサは朝には滅法弱い。気持ちよく目覚める朝などというものを体験した事もなければ、一度の目覚まし音ですんなりと起きられた試しもない。これまで幾度となく改善を試みて来たのだが、その結果については疲れ果てた彼女の「もういいか」という呟きが全てを物語っている。
へにゃりとした姿勢のままルナサは「はぁ」と溜息を吐いて、昨日の事を思い返した。

――あれから。
きっと助かる手立てを探してみせる、と息巻いて言ってくれた慧音と対照的に、小町は口数も少なく終始打ち沈んだような表情を変えなかった。そんな気など毛頭ないのだろうが、いつもがいつもであるだけに、彼女の沈んだ姿は二倍も三倍も見ているこちらの気を重くさせる。その原因は無論自分にあるのだろうし、彼女とは深い付き合いなど全くないのだけれど、ルナサはそんな事など棚に上げて、彼女にいつもの笑顔を取り戻してやりたいと強く思った。それは何故かと問われれば――矢張り、楽しかったからなのだろう。たとえ刹那の間でも、ルナサは確かに今の苦しみを忘れる事が出来た。だからこそ、小町にはあの皮肉めいた、そのくせ底抜けに明るい笑顔でいてもらいたい。
しかし――それには。
――そういえば、妹達はもう仲直りをしたのだろうか。小町と慧音には妹達と喧嘩をしたと言ったが、実際には自分の事で対立した二人を抑え切れず、私さえ居なければとルナサが一方的に飛び出して来たというのが真相だ。夕刻になって家へ戻ると、二人は既に帰宅していて、ルナサの姿を見るなり飛びついて来た。普段はちょっと斜に構えている癖に、リリカなどは今にも泣き出さんばかりの勢いで、二人にどれほどの心配を掛けてしまったのか、ルナサは痛いくらいに理解した。

廊下へと続く扉の真鍮製のドアノブを握ると、ひやりとした感触が指先に伝わった。ルナサは思わず離した掌をじっと見つめた。冷たさを感じる。硬い感触だって解る。この感覚が消えてなくなるなど、今でも信じられない。
『お前さん達は、思念から生まれた騒霊だ』
小町の言葉が、ルナサの脳裏に蘇る。
『騒霊に寿命はない。まあ、霊である以上そもそも生きちゃいない訳だから、当たり前の事ではあるけどね。その代わりに――お前さん達は存在がひどく曖昧だ』
それはいつか、彼女の上司にも言われた言葉だった。自分達は楽器を拠り所にしているようで、実は自分達を生み出した人間を拠り所にしている。そして、その人間はもう居ない。拠り所を失ったままの自分達は、非常に不安定な存在なのだと。
「……レイラ」
ルナサは知らず彼女の名を呟いていた。
悲しくはない。レイラ・プリズムリバーは天寿を全うし、笑って最期を遂げた。たとえ紛い物であろうとも、自分達が彼女の笑顔を守ったのだと、ルナサは今でも疑ってはいない。だから、今は――ただ、寂しい。
造物主の為に創られた人形は、造物主の去った庭で一体如何に生きればいいのだろうか。
最近、良く考える。何百年も昔の最後の日から、心に穴が開いたままの自分達は、一体今――何の為に生きているのだろうか。あの日に役目を終えたままの自分達は、慰めるべき彼女を失った自分達は、何が為に存在しているのだろうか。
博麗の巫女は、山の上の巫女は一体何度代変わりしただろう。変化に乏しい妖怪から人間に眼を向ければ、何ら変わりのない日々でも確実に時は流れているのだと気付く。
ルナサは去っていった者達の事を思い出す。変わったものもあれば、変わらないものもある。自分達は――何も変わらない。いつも、いつまでも、ただ機械のように楽器を掻き鳴らし続けているだけだ。騒いでいる時が一番存在を実感出来ると妹達は言う。けれど、それは違うのではないかとルナサは思う。それはきっと――誤魔化しているだけだ。レイラの居ない寂しさを、為すべき事のない虚しさを、ただ騒音と熱狂の内に。
拠り所を失くした霊は、常に消滅してしまう危険を孕んでいると小町は言った。能力の喪失は――恐らく、その前段階なのだと。しかし、だからといってどうすればいいと言うのだろう。レイラはもう、どれだけ希求しても戻っては来ないのだ。
「……」
ルナサは静かに首を振った。一日の始まりにこんな事を考えていては、気が滅入る一方だ。昨日心配を掛けた分まで、今日は明るい所を見せなければ。
そう一人決意して、廊下へ足を踏み出した直後――玄関の方から、何やら騒がしい物音が聞こえて来た。



* * * * *

「……困ったもんだ」
小町は誰にともなく呟いて、木々に包み隠されるように建っている廃墟のような洋館を見上げた。
どうしてここに来てしまったのか、自分でも良く解らない。ここに来ればルナサを助けられるという訳でもあるまいに。
慧音と共にルナサに彼女ら姉妹の生まれた経緯を詳らかに聞き、小町はその状況の、限りなく厳しい事を知った。拠り所を失った騒霊は、遅かれ早かれ暴走するか、消えて失くなる。むしろそんな不安定な状態で、幾百年も形を失わずに居られた事こそが奇跡なのだ。何らかが原因で、ルナサは自己の存在をブレさせてしまったのだろう。一度足を滑らせれば、後は落ちるだけだ。かつてその下にあったレイラという名の足場は失われて久しく、そしてもう二度と復活する事もない。ルナサの個を繋ぎ止めるものは、もうどこにもないのだ。此岸にも――彼岸にも。
「……どうしようもない阿呆だな、あたいも」
ぐずぐずと考えながらも、足だけは前へ進む自分に自嘲する。なに、何とかなるさ。一旦揺らいでしまった騒霊が安定を取り戻した例を小町は知らない。知らないけれど、駄目と決まった訳でもない。
「何とかなる。……いや、してやるさ」
小町は一つ溜息を吐いて、廃洋館の門をくぐった。
曇天が彼女を見下ろしていた。



* * * * *

「たのもー」
大仰な玄関扉をノックして、小町は声を張り上げた。この程度で館の住人が気付いてくれるだろうかと思ったが、館からは直ぐに「はーい」という声が返って来た。この声はリリカだろうか。曲がりなりにも妖怪の一員なのだから、少しはおどろおどろしく出来ないものかと思うが、まあ、訪ねる身としては面倒がないのは良い事だ。気安すぎる住人にせめて反抗するように、両開きの扉は騒霊屋敷らしい軋んだ不快な音を立てた。誰何の声と共にそこからひょいと顔を覗かせたのは、予想の通りリリカ・プリズムリバーである。
「や。暮れの宴会以来だねぇリリカ。ちょいと上がらせて貰ってもいいかね。お前さんの姉さんに少々用事が――」
「うげ、死神っ!?」
「ん?」
うげ、と来た。中々友好的とは言いがたい挨拶だが、はて、自分は何かこの少女の機嫌を損ねるような事をしただろうか。小町が考えている間に、リリカは肩越しに屋敷の中へ大声を投げた。
「姉さん! メルラン姉さん! 敵襲よ、敵襲っ!!」
「は、はぁっ!?」
小町が素っ頓狂な声を上げると同時、メルランが弾丸のように飛び出して来た。
「げっ、死神っ!!」
小町を見るなり、リリカと同じような事を叫ぶ。何が何やら解らない。
「いや、死神だけどさ」
「ルナサ姉さんの魂を奪おうったって、そうはいかないわよ!」
ああ――そういう事か。それは確かに、死期の迫った人物の元へ死神が訪ねてゆけば、そう解釈されても仕方があるまい。
「ストップストップ! 誤解だよ、あらゆる意味で」
小町の仕事は魂狩りではないし、そもそも死即消滅の騒霊は彼岸とは縁のない存在だ。しかし、今の彼女達にそれを説いた所で聞いて貰えるかどうかは甚だ疑わしい。
「あたいは友人としてルナサに会いに来ただけで――」
「姉さんに友達なんか居る訳ないでしょ! 行くわよ姉さん!」
「ええ!」
「……やっぱこうなるかい」
まあいい、いつもの事だ。ざらざらと音を立てて、小町の周囲を無数の古銭が取り囲む。シンプルなのは嫌いではない。そうしなければ頭を冷やせないというのなら、お望み通りに相手になろう。
リリカとメルランの前に、お馴染みのキーボードとトランペットが姿を現す。リリカはその鍵盤を思い切り叩き――彫像のように動きを止めた。
「……あれ……?」
魂の抜けたような声を上げて、リリカは鍵盤を出鱈目に弾く。日差しもまばらな閑庭に、当然のように出鱈目な音が跳ね回った。出鱈目な、聞き慣れた音だけが。
「どうして……?」
リリカはよろよろと後退る。
「幻想の音が出ない……!」
まさか――小町は弾かれたようにメルランを見る。
「ああ……」
そして呻いた。リリカの後方で、メルランもまた蒼白な表情を浮かべていた。相棒のトランペットは宙に虚しく浮かぶのみで、如何なる音も奏ではしない。メルランがぽつりと、何事かを呟いた。その内容を聞き取るまでもなく――小町は躁の音が失われてしまった事を知った。

「……何てこった」
頭の片隅にいつまでも消えなかった最悪の想像が、覆しようのない現実として眼前に結実していた。バラ撒きかけていた小銭を懐に戻して、小町はともかく冷静にあるよう努めた。どうする、一旦出直すか――何もかもが最悪だ。このままここに留まっていては、彼女らが恐慌を起こして、本気でこちらを殺しに来ないとも限らない。考えが纏まるより先に、怯えた仔猫のようなリリカの瞳がこちらを捉えた。
遅かったか――小町は判断の遅れた事を悔やんだ。しかしその直後、彼女の背後で再び不快に軋んだ音を立てて扉が開き、爆発へ向けて際限なく高まりつつあった空気は一瞬にして硬直した。
「小町……?」
扉の向こうで、ルナサが眠たげな瞳を驚きにしばたかせていた。
「姉さ――」
「や、やあルナサ! お早いお目覚めだねぇ。ちょいとお前さんの顔が見たくなってさ、所用のついでに寄らせて貰ったよ」
妹達が余計な事を言う前に、小町は畳み掛けるように言った。ルナサは少し面食らったようだが、「そう」と答えてほんの僅か表情を緩ませた。
「こんなお化け屋敷で悪いけど、入って。寒いでしょう、直ぐにお茶を淹れるわ。リリカ、メルラン、貴女達も――……どうしたの、こんな所で楽器なんて出して」
その一言に、小町は全身に電流が走ったように緊張した。二人の妹は、背中に氷柱を差し込まれたような顔で硬直している。頼むから余計な事を言ってくれるなよ――小町は祈るような気持ちで二人を見た。
「い、いやぁ」
声を上げたのはリリカだった。「妹達としてはさ、姉に寄り付こうとする虫をただで通す訳にはいかないっていうか」
「い――いきなり襲い掛かってくるもんだからびっくりしたよ。愛されてるねぇルナサ」
彼女らの身に起きた事を、ルナサにだけは気付かせる訳にはいかない。少なくともその点においては、小町と二人の意志は共通しているようだった。咄嗟に合わせて小町はあははと笑ったが、誤魔化し切るには浅かったか、ルナサは不思議そうに首を傾げている。
「……ええと、貴女達――」
「そ、そうそうルナサ! 花柄のパジャマとは、意外と可愛らしい寝巻を着るんだねぇ」
「――っ」
ルナサの格好は、ピンクの布地にデフォルメされた花をあしらった柄のパジャマだった。そんな格好でいる事を完全に忘れていたのだろう、ぼっと火が出るように顔を羞恥の色に染めて、ルナサは口の中で何事かもごもごと呟きながら館の奥へ駆け込んで行った。
「……ふぅ」
助かったか、と呟いて小町はリリカとメルランに視線を戻した。ルナサの真面目な性格を利用したようで少し申し訳ない気分だが、この際仕方がない。
「大丈夫だよ、あたいは味方だ。――信じられないかも知れないけどさ」
「……いいよ、信じる」
未だショックの抜け切らない様子だが、リリカは気丈な声でそう言った。
「姉さん、嬉しそうだったから。……ごめんね、勝手に勘違いして」
「いいさ、当然の反応だ。浅慮だったあたいが悪い」
それでもと、リリカとメルランは揃って頭を下げる。
「……入りましょう。ここは――寒いわ」
自らの細い両肩を抱いて、メルランはぶるりと身を振るわせた。その寒気が果たして気温によるものなのか――小町には判断がつかなかった。



* * * * *

洋館の中は意外と清潔さが保たれていた。正確には今も使われている部屋だけだが、正直な所本格的な廃墟を覚悟していたので、それでも随分と安堵した。蜘蛛や蜥蜴達の根城で騒霊とお茶会などというシチュエーションは流石に勘弁願いたいと、自分が死神である事を棚に上げて考えていた小町である。
ルナサの淹れた紅茶で身体を温めながら、客間で一同はしばし歓談した。
「聞いてないよ、小町と一緒に居たなんて」
リリカはむくれたような口調で言う。ルナサは困ったように小町に眼を向けた。
「ちゃんと説明したでしょう? ちょっと友達と一緒だったって言ったじゃない」
「だって姉さんに友達がいるなんて信じられなかったもの」
そう言ったのはメルランである。「てっきり私達に言えないような隠し事があったのかと」
「お、お客様の前でそんな事を言わないで」
ルナサは恥ずかしげにメルランをたしなめるが、今度はリリカがテーブルからずいと身を乗り出した。
「大体、本当に友達なの? 二人が宴会以外で顔合わせてるとこなんて私見た事ないけど。姉さんの事だから、どうせ偶然どこかでサボってた小町に捕まって、そのままなし崩しに暇潰しに巻き込まれただけなんじゃないの?」
「い――いや、それは、その……」
小町は啜っていた紅茶を吹き出しかけた。一から十まで大正解では反論のしようもないだろう。矢張りルナサも言葉を見つけられなかったらしく、「と、友達よ……」と消え入りそうな声で答えた後、「そうよね?」とでも言いたげに、捨てられた子犬のような眼で小町を見た。
「ああ、友達だよ」
そう答えると、ルナサの顔に微かに喜びの色が差したのが小町にも判った。ひょっとして、本当に今まで友達がいなかったのだろうか。まあ、確かに彼女らの世界は姉妹で完結してしまっている。他人の入り込む余地は少ないのだろう。
「リリカ、友達がいないからって僻んじゃ駄目よー」
「ひ、僻んでなんかないわよ! 大体、友達がいないのは姉さんだって一緒じゃない!」
「私は大勢いるわよ? ほら、白玉楼の幽霊達」
「……なんか寂しい姉妹だねぇ」
「う、うるさいなっ! ファンが大勢いるからいいのよ、私達はっ」
「まぁねー」
何だかんだで仲の良い姉妹だと小町は思った。彼女らが早ければ数日後にも消滅してしまうなどと、この光景を見て誰が信じられるだろうか。
どうすればいい。自分に何が出来る。姦しく騒ぐ姉妹の会話に混ざりながら、小町はそればかりを考えていた。


気付けば陽は既に暮れかけていた。
――さて、どう仕掛けようか。休日なので仕事の心配はないのだが、まさかこのまま何もせずに帰るという訳にはいかない。とにかくリリカとメルランに話がしたいが、それにはどうしてもルナサを遠ざける必要がある。
「うーむ」
「どうかした?」
「ああいや、何も」
ルナサに慌てて首を振り、小町は皿の上のクッキーを一つ手に取った。その拍子に、正面に座るメルランと眼が合った。何とか機転を利かしてくれんかね、メルラン――そんな小町の心中の呟きを察したものか否か。メルランは僅かに微笑み、ルナサに向き直って言った。
「ねえ姉さん。折角だから、小町にも夕飯を食べていって貰いましょうよ」
「え?」
「いいね、もうこんな時間だし。姉さん、友達としての株を上げるチャンスだよ、チャンス」
すかさずリリカが同調する。なるほど、そういう事か。
「それは、全く構わないけれど――小町、迷惑じゃないかしら」
「ああ、是非ともお願いしたいねぇ。お前さんの手料理なら楽しみだ」
「そう――大したものは作れないけれど、それでいいなら喜んで。それじゃ、準備してくるわ」
言ってルナサは立ち上がり、広い部屋を横切って廊下の暗がりへと姿を消した。

しん、と客間に静寂が訪れる。まるで緞帳が降り切った後の、人気の失せた舞台のようだ。先ほどまでと何ら変わる事はないはずなのに、薄っすらとした肌寒さすら感じる気がした。
「……悪いね」
何杯目かの紅茶に口をつけてから小町は言った。「助かったよ」
「気にしないで」
メルランの口調からは、先ほどまでは全く見せなかった疲れが感じられた。黙ってカップの水面を眺めているリリカも、憔悴し切った表情を最早隠していない。
「……良く頑張ったな、お前さん達」
或いは他人事のように聞こえるかも知れないが、小町はそう言わずにはいられなかった。彼女達は泣き喚きたかったはずだ。がむしゃらに誰かに縋りたかったはずだ。それでも、ルナサを哀しませたくない一心で、二人は今までいつも通りの自分達を演じ続けて来たのだ。
「……ありがとう」
メルランが笑う。リリカは顔を上げて小町を見た。
「――貴女は、どこまで知ってるの?」
「……多分、大体全部」
「……そっか」
唐突にメルランが片手を挙げ、タクトのように振るった。その瞬間、客間の壁に等間隔に設置された燭台に同時に火が灯る。
「これくらいは――まだ出来るのね」
呟く声には力がない。普段の底抜けに明るいメルランしか知らない小町には、今の彼女はまるで別人のようにすら思われた。

「……嫌だよ」
リリカがぽつりと言った。「消えちゃうの? 私達、皆――……」
「リリカ……」
三女の震える肩を、メルランがそっと抱き寄せる。今の彼女に出来る、それがせめてもの慰めだった。
「……推測に過ぎないが」
前置きしてから小町は口を開いた。言うべきかどうか、ずっと迷っていた事だったが、今の彼女らを見ては黙っていられなかった。
「お前さん達二人の『発症』は、恐らくルナサに引っ張られて起こったものだ」
「……姉さん、に?」
姉妹の視線がこちらを捉える。小町は一言一言、慎重に言葉を選んで続けた。
「お前さん達は、レイラ・プリズムリバーが『三人の姉』を願った末に生まれた存在だ。レイラにとっては、無論お前さん達は一人一人大切な存在だっただろうが、それでもお前さん達は矢張り三人揃ってなきゃ駄目なんだ。だから――お前さん達の自己同一性は、誰か一人でも揺らげば崩れてしまう」
「……私達は――三人で一つ、という事?」
「平たく言えばそういう事だ。一人が転べば、全員が倒れちまう。しかしつまり、そいつは裏を返せば――ルナサさえ助ける事が出来れば、お前さん達もきっと復調するって事になる」
「ほ……本当!?」
リリカが身を乗り出す。
「あくまで推測だが、恐らくはね。……それも、応急処置にゃ過ぎないが。お前さん達の拠り所は――もう失われてるんだから」
「それでもいい!」
リリカは叫ぶように言って、更に身を乗り出した。
「希望があるなら、なんだってやってみせるわ! 教えて小町、姉さんを助けるには一体どうすればいいの!?」
そう。つまる所――それなのだ。
「……解らん」
「え?」
「問題は一体ルナサの身にその存在を揺るがすような何があったのか、てぇ事さ。だが、肝心の本人はそんな事には全く心当たりがないと来た」
「……お手上げという事?」
沈黙を守っていたメルランが問う。
「少なくとも――あたいには。何とか出来るとすれば、お前さん達でどうにか突き止めてもらう他ない」
「私達で……だけど、一体どうすれば?」
「……とにかく、まずはここ最近の記憶を辿ってみる事かね。例えば大切にしていたレイラの遺品を壊しちまったとか、そんな解り易い事だったらいいんだが」
何分ルナサの心の問題だ。これ以上は――どうあがいても小町には解らない。申し訳ない、と小町は紅い頭を垂れた。
「そんな、貴女が謝る事じゃないわ。ありがとう、十分過ぎるくらいよ」
「そうだよ、小町のお陰で希望が見えて来たんだから。本当にありがとう」
「ええ、後は私達で解決してみせる。家族の事だもの、直ぐに解るわ」
「……ああ、そうだね」
小町は、せめて笑って言葉を返した。
違う。――そうではないのだ。小町が頭を下げた本当の理由は――たとえ原因を突き止めたとしても、それで事が解決する保障など何処にもないからだ。今の二人にそれを伝える事だけは、小町にはどうしても出来なかった。

適温をとうに過ぎた紅茶を飲み干して、小町はほうと一息ついた。
「あたいの方でも他の方法を探してみるよ。慧音も今方々を当たってくれてるはずだ。何かあったらあたいか慧音に連絡を寄越してくれりゃあいつでも力になるよ」
「あの人が? どうして?」
リリカが不思議な顔をした。
「ああ、言ってなかったかね。ルナサから話を聞いた時、慧音もその場に居たんだよ」
「へぇ……ちょっと意外だわ。もっと妖怪に冷たい人かと思ってた」
「んなこたーない。お人よしなのさ、あの人は」
「それは貴女もでしょ?」
メルランが笑う。小町は頬を掻いて、あたいはただの野次馬さ――と言った。



* * * * *

それから数日は、平穏に過ぎた。
平穏、というのは――この場合は良い意味ばかりではない。
事態は何一つ改善に向かってはいなかった。次女と三女は未だに異変の原因を見つけられずにいるし、別の方向から解決法を探っている小町と慧音も、それは同じ事であった。慧音は稗田の阿礼乙女に内密で相談を持ち掛けたが、有益な情報は得られなかったと言う。藤原妹紅や八意永琳なども頼って回ったそうだが、その答えはどれも「諦めろ」というもの。しかし彼女らを冷淡だと謗る事は出来ない。小町の方でも結果は同様だったからだ。多くの場合此岸だけでその生死を完結させてしまう騒霊は、殆どの獄卒達にとって縁もゆかりもない存在である。故にそれらについての知識を持つ者を探し出すだけでも一苦労だったが、ようやく探し当てた所で、その結果は誰もが同じ――口を揃えて「諦めろ」と言うだけだった。彼女の上司ですら、助かった例は寡聞にして知らないと首を振った。悩んだ末に、小町は慧音の能力に頼るという方策を考えた。歴史を隠す、或いは創る力の応用だが――結論から言って、これも駄目だった。慧音の力はあくまで歴史に干渉するものであり、個人の心の在り様にまで及ぶものではないからだ。
事態は何ら好転も前進もしていない。ただ、後ろ向きな小康状態であるというだけの話だった。
――いや、そうとすら呼べないかも知れない。ルナサは日に日に、あの日のように唐突に倒れる頻度が増して来ているという。そして――回復するまでの時間が、徐々に長引いて来ているとも。更に悪い事に、その症状は徐々に妹達にも及んで来ているらしい。幸い、今はまだルナサに気付かれてはいないが、それも時間の問題かもしれないという事だった。
あの症状が起こる理由に関しては推測の域を出ないが、徐々に崩壊し消滅しつつある自己に対して、彼女らの魂が拒否反応を起こしているのではないかと小町は考えている。であれば、その頻度が増せば増すほど、長引けば長引くほど、彼女らは消滅に近付いているという事になる。まるで、底無し沼に緩やかに飲み込まれてゆくかのようだ。小町はその岸から声を張り上げるのが精々で、手を伸ばす事すらままならない。
――諦めろ、か。
そんな選択は金輪際有り得ない。有り得ないが――ならばどうすればいいのだろう。結局、全てはそこへ戻ってしまう。小町はわしわしと髪を掻き毟り――、
「……小町!」
「は、はいっ!?」
敬愛すべきボスの声に、反射的に背筋を伸ばした。その姿を見て、四季映姫・ヤマザナドゥはますます呆れたと言わんばかりに溜息を吐いた。
「はいじゃないでしょう。定例会議はとっくに終わっているわよ」
「へ? ……あ、あー……」
周囲を見渡すと、広い会議室に残っているのは着席したままの小町と、机を挟んで仁王立ちしている映姫の二人だけだった。

「しっかりしなさい。緩んでるのは元からだけど、最近は輪をかけて酷いわよ」
「……すみません」
立ち上がって頭を下げると、映姫はきょとんとした顔をしていた。
「四季様?」
「……貴女が素直に頭を下げるなんて、いつ以来かしら」
「……」
映姫が至って真面目な顔で呟いたので、小町は言葉を返すタイミングを見失った。まあいいや、と独白して書類を纏め、がらりと扉を開ける。
「すいません、それじゃあたいは上がりなので」
「……小町、そこは窓なのだけど」
「おおう」
扉から出て行くつもりで、危うく窓から身を投げる所だった。映姫に言われなければ、何の疑問もなく窓枠から身を躍らせて大地にクレーターをこしらえていただろう。流石の小町も、こんな事で是非曲直庁舎の連綿たる歴史に名を残すのは御免である。
「疲れているようね、小町」
「嫌だなぁボス、あたいはこの通り元気溌剌ですよ――……あ」
片手でガッツポーズをしてみせようとした瞬間に、抱えていた書類が床に散乱した。
「……なんちって」
精一杯おどける小町に肩をすくめて、映姫は自ら床にしゃがみ込むと、てきぱきと書類を束ねて差し出した。
「ほら、しっかり持つ」
「……すみません」
明日は槍でも降りそうね――笑うでもなくそう言って、映姫は先に立って会議室の扉を開け、人気の失せた廊下へ抜け出した。小町は小走りに映姫の後に続き、「第八会議室」と記された扉を後ろ手に閉めた。映姫が何事か唱えると、扉はかちりと音を立てて施錠された。

この人は――部下の事情を詮索しようとしない。立ち居振る舞いの全てが凛々しい上司の後姿を眺めながら、小町はぼんやりと考える。知ろうと思えば何であろうと知れるだろうに――いや、だからこそ彼女は決してその力を濫用しない。恐らく、薄々は勘付いているのだろう。明晰な彼女の事だ、それどころかこちらの事情など殆どお見通しかも知れない。それでも映姫は何も言わない。その代わり、小町を咎めるような事もしなかった。
「……ありがとうございます」
遠のく映姫の背中に、呟くように声を掛けた。彼女は立ち止まらなければ、振り返りもしない。それを無言の激励だと都合良く解釈する事にして、小町もまた彼女に背を向けて歩き出した。断じて行えば鬼神もこれを避く――やれるはずだと念じながら。



* * * * *

「気分はどう?」
静寂を裂いて届いたリリカの声に、ルナサは薄っすらと眼を開けた。
「……今は、大丈夫」
答えて上半身を緩慢に起こす。
身体が鈍い。自分の周りだけ大気が重くなったようだ。まだ夢の中に居るような感覚が抜けない。それとも、ここが夢の中なのだろうか。騒霊であるこの身も、幻想郷も、何もかも全てが一夜の夢で、覚めれば弾ける泡沫であったなら。
「……姉さん?」
頭を振って目蓋を抉じ開けると、リリカが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「わっ」
腕を伸ばして抱きすくめると、胸の中でリリカは驚いたような声を上げた。
――嫌だ。
妹達、小町や慧音、自分達の音を聴いてくれる人達。消えて失せるのは自分か、それとも彼女達なのか。いずれにしても――別離の苦しみはもう十二分に味わった。
「ど、どうしたの、姉さん……」
リリカが気遣わしげな声を掛けた。それが嬉しくて、ルナサは尚更強く彼女を抱き締めた。
「ごめんね……」
腕の内から伝わる妹の温もり、それをただ心地良く思うこの心。それを失いたくないと思う事すら、歪な事なのだろうか。
そう思っているのは――きっと自分だけではないのだろう。
いつしかリリカは微かに肩を震わせていた。必死に嗚咽を堪える妹に気付かぬ振りをしたまま、それでも掛けるべき言葉を見つけられずに、ルナサはその髪をただそっと梳いた。
リリカは――優しすぎる。
狡賢く頭の切れる世渡り上手。そういった世間の評価は、実に的を射たものだと思う。だがそれと同時に、彼女が他者の為に惜しみなく涙を流せる優しさを持っている事を、ルナサは誰より良く知っている。それは――きっと、とても疲れる事だ。だからせめて、自分だけは何があろうと彼女を悲しませまいと、ルナサはそう心に決めていた。だというのに――。
「……姉さん」
リリカは震える声で、それでも涙を漏らすまいといじましい努力を続けながら言う。
「諦めないからね。……私は、絶対に、諦めないから」
「……うん」
「何があっても、絶対に助けてみせるから。……だから……今はッ……!」
リリカの細い腕が、身体を強く抱き締め返すのを感じた。
いつの間にか、雨が乱暴に窓を叩いている。いっそ激しく降ればいいとルナサは思った。もっと強く、もっと大きく、滂沱の雨音で全て掻き消して欲しい。愛しい妹の泣き声を、せめて、どうか。



* * * * *

主人公が起死回生の秘策を思い付いた所で、ルナサが眼を覚ました。
小町は少し続きが気になったが、愛用の栞を挟み込んで古びた文庫を閉じた。背凭れ代わりのベッドに頭を預けると、さかさまになったルナサの姿が眼に映った。
「小町……?」
「おはよう」
まだ意識がぼんやりしているのが傍目にも良く解る。ルナサはゆっくりと左右を見渡すと、不思議なものを見るかのように自分の懐に眼を落とした。
「探し物かい?」
「……ううん。何だか、眼が覚める度に別の夢を渡り歩いているような感覚だわ……今も」
「目覚めりゃ眼の前に死神じゃあそう思いたくもなるかねぇ」
小町は呵々と笑ってから、勝手に部屋に入った事を詫びた。ルナサは首を横に振って、リリカと会わなかったかと訊いた。
「リリカかい? 今なら多分メルランとリビングで楽器を弄ってると思うが」
小町は嘘を吐いた。リビングに居るのは事実だが、リリカもメルランもあれ以来楽器には手も触れていないと聞いている。弾けばルナサに発症がバレてしまうという事も無論あるが、二人はそれ以前に、音を鳴らす事自体を忌避しているように見えた。
呼んで来ようかと言うと、ルナサはもう一度首を振った。
「ん、少し知りたかっただけ。それよりごめんなさい、折角来てくれたのだからお茶の一つぐらい用意したいのだけど」
妹達に止められているのだとルナサは言った。おかげでこの部屋に引き篭もり切りだと苦笑して、ベッドを出ようと身を起こした。
「いいよいいよ、寝ててくれ。寝込みに押し入った上にそこまで気を遣わせちゃあ、うちのボスに地獄の底へ叩き込まれちまう」
すまなそうな顔をしたルナサをジェスチャーで押し留めて、小町は捲くれたブランケットを半ば無理矢理に被せた。
「あたいに遠慮なんてするだけ損だよ。二人からも大分辛いらしいって聞いてる、無理しちゃ駄目だ」
「……解ったわ」
少しだけ真面目な口調で言うと、ルナサは渋々ながらも素直に従った。
「……雨」
ベッドの中でこちらに身体を向けながら言う。「濡れなかった?」
「ああ、逃げ切れんかったよ。適当な木の下で待ってりゃ直ぐ止んだから、大した被害はなかったが」
「止んだ……? ――あ」
ルナサは窓から薄く差し込む陽光に少し驚いたような眼を向け、それから恥ずかしげに顔を俯けた。
「駄目ね、まだぼんやりしてるみたい」
「こんな生活じゃ仕方ないさ。……やっぱり、身体の調子は良くならないかね」
「そうね……正直に言って、悪くなる一方だわ」
「……そう、かい。こっちの方も八方手を尽くしてるんだが――すまん、まだ役立ちそうな情報は見付かってなくてね」
小町は緩々と首を振った。先ほどから不景気な顔をしたままのルナサは、更に申し訳なさげな表情になる。
「謝るのは私の方。貴女達に頼り切りで、私はこうなった原因も解らないまま、この部屋から出る事すら――」
「言いっこなしだよそんなこたぁ」
片手をひらひらと振って小町は笑う。「お前さんは養生するのが仕事だ」
「ん……」
身体の限界が来るより先に心労で参ってしまうのではないかというほどにルナサが心を痛めているのがよく判る。小町は精々それを和らげてやる程度の事しか出来ない己に苛立たしさを覚えながら、せめて明るさだけは失くすまいと心中強く言い聞かせた。

会話が途切れた隙に小町は立ち上がり、手近な椅子を引っ張って「借りるよ」と言うが早いかとすんと腰掛けた。
「――おや」
何とはなしに視線を泳がせた小町の眼が、部屋の隅の棚に留まった。革張りのケースに収められたヴァイオリンが四挺、持ち主の気質を表して整然と収められている。
「最近は――弾いてないのかい」
「……ええ。一時は思うさま弾いて気を紛らわそうともしたのだけれど……やっぱり思い出してしまって」
ルナサは悲しげに睫毛を伏せて、弾けば弾くほど今の自分に何の力もないと思い知らされるようで辛いのだと言った。
「……そりゃあそうか。悪いね、嫌な気分にさせちまって――何だかお前さんのヴァイオリンを聴きたくなったもんだから」
「本当に……?」
ルナサは少し驚いたように顔を上げた。「今の私には――何の力も残っていないのに」
「そりゃそうだけどさ、だからって上手く弾けなくなった訳じゃないだろう?」
小町は慧音邸で見せた見事な三味線捌きを脳裏に浮かべる。
「だけど、今の私の音なんて――」
どんどん鬱々としてゆくルナサに、「いやいや」と小町は首を振った。
「……ちょいとお前さん達を否定しちまうような言い方になるけどさ。能力の有無なんてのは、大した問題じゃないんじゃないかねぇ」
「問題じゃない……?」
「だってそうだろう。鬱の音を操るから、躁の音を奏でるから、お前さん達の音楽はここまで人を惹き付けるんだと思うかい? 少なくとも――あたいは違うと思う。そりゃあお前さん達の能力は強力だ。無論舞台を盛り上げる事にも一役買ってるんだろうし、その気になれば、音楽一つで人を操る事だって出来るんだろうさ。だけどそんなものはあくまでオマケだ。いくら強力な能力を持ってたって、めくら滅法に楽器を鳴らしてるだけじゃ誰の心にも届かんさ。人はお前さん達の能力に惹かれてるんじゃない、お前さん達の音楽が真に良いものだから集まるんだ」
小町は居住まいを正してルナサを見遣った。
「リリカが良い例だよ。あいつの音には何ら人の精神に訴えかける力はない。しかし立派に観客を沸かせてるじゃないか。あいつが居なきゃ幽霊楽団は成立しない。そうだろ? そいつは勿論お前さんもメルランも同じ事さ。だけどそれは能力があるからじゃない。聴衆が求めてるのはお前さんの音楽でありメルランの音楽なんだ。能力の有無なんて、ハナから問題じゃないのさ」
「……」
「――と、あたいなんかは思うんだけどねぇ」
少し熱くなりすぎた恥ずかしさを笑いで誤魔化して、しかし視線はルナサから外さなかった。ただべらべらと私見を披瀝したかった訳ではない。能力がないから価値がないなどと、そんな風にだけは思って欲しくなかったのだ。騒霊が弾く事すら止めてしまっては――あまりにも悲しい。
頑なに眼を逸らしていた部屋の隅に、ルナサはようやく顔を向けた。そうだ、弾け。お前さん達は騒霊だ、弾かなくてどうする――。
「……私は――」
その時、静かな空気を割り裂いてノックの音が響いた。

「……はいよ」
身体を起こそうとするルナサに先んじて立ち上がり、小町は扉を開けた。
「ごめんね、お邪魔だった?」
言いながらリリカが部屋に入る。その手には小さめの銀盆が乗っていた。
「お茶淹れて来たよ」
「おお、悪いねぇ」
「気にしないでよ。こんな死神でもお客様はお客様だから」
「言うねぇこのガキンチョは」
リリカは軽く笑って、小奇麗に片付けられた書斎机の上に盆を置こうとした――その時。
前触れもなくその膝が崩れ落ち、盆上の一切合財は派手な音を立てて絨毯の上に散乱した。
「リリカ!」
小町は反射的にリリカを抱き止めた。
「ご――ごめん、あんまり寝てないもんだからさ……すぐ、片付ける、から……」
ふらふらとした足取りで、リリカはルナサの視線を避けるように廊下へ姿を消した。
「リリカ……?」
「お、おいルナサ、寝てなきゃ駄目だよ。リリカはあたいが――」
「……ごめんなさい」
ルナサは弱々しくも跳ね起きて、足をもつれさせながら小町の脇をすり抜けて廊下へ飛び出した。
「ルナサ……!」
小町は叫ぶが、その言葉はルナサの背中を捕まえられずに虚ろに響いた。
「……零れた水は返らんか」
くしゃくしゃと赤髪を掻き回して、小町はルナサの後を追った。
後にはただ、ぶちまけられたポットの下で絨毯がじわじわと黒い染みを拡げてゆくばかりだった。



* * * * *

揺れる地面をルナサは這うように走った。
嫌な予感が膨らんでゆく。心が押し潰されそうに軋む。
まさか。まさか――。
杞憂である事を願いながら、よろめく足取りでリリカを追い、階段を転げ落ちるように下る。階段が終わる頃にはリリカの姿を見失っていたが、一箇所だけ閉まり切らずに揺れている扉が、彼女の居場所を暗に示していた。

「リリカ!」
扉を開け放つや否や、ルナサは殆ど無意識の内に悲痛な叫びを発していた。メルランに抱きかかえられ、荒い息を繰り返すその姿は――まるであの日人里で倒れたルナサそのものだ。
「姉さん……」
こちらを見るメルランの瞳には既に諦念の色がありありと浮かんでいたが、リリカはそれでも力の失せた声で大丈夫だと繰り返した。
「そんな顔しないで……ただの、睡眠不足だから……」
平気である事を示そうとリリカはメルランの腕を抜けて、一歩もせぬ内にがくりと崩れ落ちて再び次女に抱き止められた。
「リリカ」
「大丈夫、大丈夫だから……」
「リリカ、もういいの。――もういいのよ」
悲しげな声で、メルランが諭すように言う。リリカは最後にごめんなさいと呟いて――意識を静かに手放した。
「……そんな……」
ルナサはよろよろと後ずさる。背中が背後の小町にぶつかり、そのままそこに釘付けにされたように動けなくなった。メルランが自分ではなく、小町の方に向けて緩々と首を振った。その仕草の意味する所など、改めて考えるまでもない。
「……私の、せいで――」
満身の力が抜けてゆく。首まで浸かっていた泥沼は、今や果てなき黒い海だった。否、それは最初から沼などではなかったのだ。己の事のみに頭を悩ませて、周囲を見ようともしなかっただけ――。
頭の中身が混ざり切ったように、最早何も解らなくなり――ルナサは静かに地面にくずおれた。



* * * * *

リリカの部屋は、まるで小さな香霖堂とでも言うべき有様だった。
外の世界のもの、珍しいもの、何やら良く判らないオブジェ、そういった珍品奇品が部屋の八割を占領している。半分ぐらいは趣味が混じっていそうな気もするが、恐らくはリリカの能力である幻想の音集めの一環なのだろう。こんな状況でさえなければ、少し鑑賞してみたいものだ。きっとリリカは喜んで解説してくれる事だろう。
ベッドの上にリリカを横たえるメルランを見届けてから、小町はルナサの背を押して扉を開いた。
「リリカは大丈夫だ。部屋に戻ろう、お前さんも随分と酷い顔色をしてるよ」
ルナサは言葉もなく頷いて、人形のような足取りで退出した。

ルナサの部屋に、ノックと共にメルランが顔を出したのは、それから暫くしてからの事だった。
ベッドの上にルナサを認めると、後ろ手に扉を閉めてメルランは開口一番「ごめんなさい、姉さん」と言った。
「……どうして貴女が謝るの」
ルナサの声は自責と悲哀に染まっていた。
「……メルラン。貴女も――なのね」
「……ええ」
頷いて、メルランはもう一度「ごめんなさい」と言った。
「お願いだから、謝らないで。……さっき、小町に全て聞いたわ。頭を下げるのは私の方――ううん、それで済めばどんなにいいか。私は、今まで貴女達にどれほど――」
ルナサがそれ以上を口にしようとするのを、今度はメルランが押し留めた。
「姉さんこそ謝らないで。気付かなかったのは当然よ、そうなるようにしてたんだから。こう言っても、きっと姉さんは思い悩んでしまうだろうけど――気にしないで。姉さんは悪くないわ。ううん、誰も悪くなんかない。こうなってしまったのは――運命なのよ」
「運命……?」
うんめい。その言葉に、小町は柳眉をひそめた。
運命という言葉には、大きく分けて二通りの使途がある。一つは、思わぬ幸運やめぐり合わせに遭遇した時。もう一つは、耐え難い不運や苦しみに襲われた時。そのいずれの場合も――今ある状況を受け入れる為に使う言葉だ。これが運命だったのだ、と。
「メルラン、お前さん――まさか」
「もしも、消滅が避けられないものなら――私は、むしろ今で良かったと思ってる。自分勝手な言い方だけど、姉さんが、リリカが欠けた世界なんて、私は耐えられないから」
「……それは、私も同じよ。だけどメルラン」
「諦めるのはまだ早い、って? 本当にそう思うの……?」
その言葉に――ルナサは絶句した。
「お……おいおいメルラン」
小町は立ち上がり、殊更おどけた調子で言った。「何を言ってんだい、お前さんらしくもないじゃないか。そいつはちょいと達観のしすぎってもんだろう。大丈夫だよ、絶対何とかなるさ。たとえお前さん達に手立てがなくたって、あたいや慧音が絶対に助けてみせる。なぁに、世の中どうにもならない事なんて実の所そうそうありはしないもんさ。それに、お前さん達にだってまだ出来る事は残ってる。消滅が始まった原因さえ突き止めれば――」
「……ありがとう、小町。貴女達には本当に感謝しているわ。でもね――多分解っちゃったのよ」
「え……?」
何の事だい――そう口にするのが何故だか恐ろしく、小町は曖昧な顔のまま言葉を止めた。
「ねえ姉さん、『何の為に生きているのか、ふと考える事がある』――いつか酒の席でそう漏らした事があったわよね。……今も、そうなんでしょう」
メルランは真っ直ぐにルナサを見つめる。その意味を量りかねてか、ルナサは困惑した顔で答えた。
「……ええ。今でも――むしろ最近になるほど考える事が多くなったわ。だけどそれが……」
どうしたの、と言いかけたのだろうか。細く口を開いたまま、ルナサは彫像のように固まった。
「『原因』があるというのなら――きっと、それだと思う」
いっそ冷淡なほど感情を込めない声で、メルランはそう言った。

「そんな――そんな事で」
ルナサは信じられないと――或いは受け入れられないと言うように首を振った。救いを求めてこちらを見るルナサに、小町は否定も肯定も返す事が出来なかった。ただ、その程度の事ですら存在を揺るがすに足るほど、彼女達が不安定な状態である事だけは否定のしようもない。
「何も姉さんだけという訳じゃないわ。私だって考えた。きっとリリカだって同じ……考えずに居られる訳がないもの」
レイラを失って。生きてゆく意味も目的も失って。何十年も、何百年も、気が触れたように音楽を奏で続けるだけ。どんな馬鹿でもいつかは我に返るだろう。その先に口を開けているのは――果てしない虚無感。
「ずっと解ってた。私達はそれから眼を覆うように、耳を塞ぐようにひたすら騒ぎ続けてきただけ。……音楽なんかで、いつまでも誤魔化し切れやしない……いい加減、終わりにする時が来たのよ」
それが今だというだけ――言ってメルランは小町に視線を寄越した。
「私にだって解る。姉さんにも解るはずよ。どうする事も出来ないのよ……そうでしょう、小町」
「……」
真実、それが原因なのだとしたら。
それは――どうしようもない。
彼女らに拠り所を取り戻す事も、原因を取り除く事も、どちらも同じ――レイラ・プリズムリバーを生き返らせるという事に他ならないのだから。
彼女は人としての生を全うし、その魂は再び輪廻の渦に戻った事だろう。ならば彼女であった魂は既に幾度も転生を繰り返している。未だ人間道に留まっているかも知れない。或いは悟りの果てに輪廻の外へと脱したかも知れない。或いは大罪を犯し地獄道へと堕ちたかも知れない。何であれ、それは既に魂を同じくするだけの他人に過ぎない。
人間レイラ・プリズムリバーの魂は――いずれ何処にも在りはしないのだ。
それに気付いた時メルランを襲ったであろう身を切るような絶望の凍えがあっと言う間にルナサを飲み込み、更に勢いを増して小町に襲い掛かった。どうすればいい――どれほど問うて来たかも解らないその言葉に答えを出せる者など、この場に居ようはずもない。
全てが否定され尽くさぬ限り、可能性をゼロと断ずる事は出来ないはずだ。殆ど詭弁に近いそんな反論だけが、小町に許された最後の足場だった。
「……それでも」
それでも、諦めちまえばお仕舞いだよ――。
息が詰まるほどに長い沈黙の後に、小町はようやくそれだけを絞り出した。



* * * * *

「……貴女か」
からからと引き戸を開けて慧音は言った。
「料理中かい。すまんね突然」
小町は薄青色のエプロンに眼を遣って言った。丁度終わった所だと答えて小町を招き入れ、慧音は食事は済ませたのかと訊いた。
「大したものではないが、良ければ貴女も食べてくれ。二人分にはいささか多くて困っていた所だ」
「二人分?」
小首を傾げながら、慧音の後に続いて茶の間に入る。
「あれぇ」
「おや」
先客と小町は同時に声を上げた。続いて、こりゃまた珍しいね――と藤原妹紅が笑った。
「久しぶりだねぇ。何だか大分会ってないように思うけど」
「そうね。ええと……ああ、ほら。確か今代の博麗の巫女の襲名式以来だから――二、三年ぶりか」
そりゃまた、と答えて小町は片眉を上げた。
「時が流れるのは早いもんだねぇ」
「ま、座んなよ。そんなとこに突っ立ってちゃ寒いだろう」
妹紅はしどけなく座卓の前に半身を横たえたまま、その隣を片手で示した。まるで我が家の如きくつろぎ様に、堂々としたもんだと小町はむしろ感心した。呆れたように溜息を吐く慧音の姿からは、最早お馴染みと化した光景である事が容易に伺える。
「で、まだ船頭はクビになってない訳?」
慧音を手伝って皿を並べながら妹紅が訊いた。
「失礼な、この品行方正なあたいのどこにクビを危ぶむ要素があるってんだい。千年来変わらぬ匠の業で並み居る客を千切っては投げ千切っては投げの大活躍だよ。その勇名は山越え海越え千里を駆けて、遠くベネチアのゴンドラ乗り達にまで響いているとかいないとか」
「……変わってないようで何よりだよ」
「そう言うお前さんはどうなんだい」
「え? んー……変わってない、けど」
「けど?」
「……そろそろ人里に腰を落ち着けようかなぁ、なんて思ったり思わなかったり」
「おおぅ」
そいつぁ思い切ったねぇ――と小町は言った。
「ま、決めた訳じゃないけどね。……最近うるさいんだよ、皆して」
「皆お前にここに居て欲しいと思ってるのさ。里に住む理由として、これ以上の事はないじゃないか」
慧音が言った。妹紅は聞いていない振りをして、ごろりと畳に転がった。解りやすい照れ隠しもあったものだと小町は笑う。
「家を建てたら教えとくれよ」
「やだ。隠れ家にされちゃかなわん」
「信用ないねぇ」
「何を今更」
「三つ子の魂なんとやらと言うが、貴女は本当に変わらないな」
慧音がやんちゃな生徒を見るような眼でこちらを見るので、小町は思わず肩をすくめた。

「変わるもんだねぇ……やっぱりさ」
「うん?」
いいや、何でもないさ――と答えて、小町は妹紅を真似て畳に大の字になった。
緩やかに、或いは唐突に。誰も彼もが変わってゆくように思う。悲しくもあり、楽しくもあり。水が高きより低きへ流れるように、それはこの上なく自然な事なのだろう。数代前の求聞史紀では、藤原妹紅は殆ど謎の忍者集団の一員のような扱いだった事を思い出して、小町は笑いを堪えた。彼女がここまで人里の人間達に親しまれるようになるとは、他ならぬ彼女自身が最も想像していなかった事だろう。
死。誕生。代変わり。離別。帰還。色んな事があった。この長い時間の流れの中では、不変を旨とする妖怪達ですらその限りではない。その中で――自分は、小野塚小町は何が変わったのだろうか。
――何も変わらない。時折、自分だけが世界の流れの中から取り残されているような錯覚を感じる事がある。持ち前のマイペースさが問題なのか、それとも度を越えて愚鈍なだけなのか。尤も、現状に不満がある訳でもないので、特に問題を感じてはいないけれど。
それでも、そんな自分だからこそあの姉妹の気持ちは良く解る。変わってゆく世界の中でただいつまでも演奏を続けながら、彼女らは幾度も感じた事だろう。小町が取り残されたと感じたように――レイラに置いて行かれたような気持ちを何度も味わって来たはずだ。
諦めてしまったメルランの気持ちを、小町は否定出来ない。たとえ行き着く先が消滅でも、彼女らにとってそこはきっとレイラの居る世界なのだろう。
「……」
天井を眺めるのにも飽きて、小町は身を起こした。
台所に行っていた慧音が、お待たせしたと言いながら座卓に土鍋を置いた。土鍋から溢れる湯気が食欲をそそる香りを惜しみなく振り撒く。
「おお、おでんかい。美味そうだねぇ」
「熱いからな、気を付けてくれ」
「来た来た。さあ食べようすぐ食べよう。腹が減って死にそうだ」
妹紅が跳ね起きる。兎も角、今は忘れて食べよう。美味い物の一つも食べなければ、頭の働きは鈍くなる一方だ。ぐるぐると回る思考の渦を頭の隅へ押し遣って、小町は箸に手を伸ばした。



* * * * *

「それで」
何か話があるんだろう――食後の茶を一服しながら、慧音がそう切り出した。
「……ああ」
答えて小町は居住まいを正す。
「席を外そうか」
「いいよいいよ」
小町は立ち上がり掛けた妹紅を片手で制した。「例の話だ、知ってるんだろう」
頷いた妹紅が再び着座するのを待ってから、慧音が実はな、と言った。
「貴女が来るまで、私達もその話をしていたんだ」
「大体の事は知ってる訳かい」
「多分ね」
「それで――何か進展はあったのか」
慧音の問いに、小町は曖昧な顔をするしかなかった。
「進展――ねぇ」
あったといえばあったのだろう――無論、悪い方向にだ。それを進展と呼ぶべきか悪化と呼ぶべきかについては一考の余地があるだろうけれど。
兎に角、一人で頭を痛めていても埒が明かない。小町は二人の顔を順に見てから、先刻までの顛末を滔々と語り始めた。

小町が口を閉ざすと、八畳間はしんと静まり返った。
無言のまま、小町は片耳に掛かった紅髪を後ろへ流す。誰もが次に言うべき言葉を見付けられずにいるようだった。
「……それは――不味いな」
ややあって、慧音が口を開いた。
「弱り目に祟り目ではないが、何もかもタイミングが悪すぎる。このままでは――」
「うん」
頷いて小町が後を引き継いだ。「もう長くは持たないだろうね」
『妖怪の寿命はころころ変わるからな。明日死ぬかも知れないし、十万年後かも知れない』
ふいに、遥か昔に誰かに言った言葉を思い出した。
彼女らは――最早瀕死だ。身体ではなく、精神が、心が死に瀕している。
「限界だよ。今すぐにでも何とかしなきゃ駄目だ。……さもなきゃあ」
「しかし一体どうすればいいんだ。稗田家の書籍は調べ尽くしたし、妹紅に頼んで紅魔館にも足を運んで貰ったがそちらも収穫なしだ。大見得を切っておいて情けない限りだが――私にはもう、どうしていいか皆目解らない」
慧音は血を吐くように苦しげな声で頭を振った。一言とて返せずに、小町は片手で額を覆った。
「……もういいんじゃないか」
「妹紅……!」
黙って成り行きを見守っていた妹紅の言葉に、二人は同時に頭を上げた。
「慧音も小町もよくやったよ。だけど私がたとえどれだけ望んでも死ねないように、どうしようもない事ってのはあるだろう。メルランが言った通りだよ。終わりにする時が来たんだ。少なくとも――」
血反吐を吐いて足掻き続けるより。そう信じて諦めれば、せめて最期は安らかに逝けるだろうさ――。
蓬莱人はまるで、懺悔のように深く静かな声で言った。

慧音は――何も言えないようだった。見た目こそ変わらぬものの、彼女も既に気の遠くなるような時間を生きてきた。人間達の傍らで、彼女は一体どれほどの死を見てきたのだろう。それは確かに、渡し守たる小町には遠く及ばない数ではあるだろう。しかしその身に背負って来た悲しみは、所詮水先案内人に過ぎない小町の比ではないはずだ。だから――慧音は何も言えない。誰もが違う形で死を迎える。その善悪を軽々しく判じてしまう事は――きっと、彼女には出来ないのだ。
――小町は。
「……それでも、あたいは嫌だよ」
ぽつりと、呟くような声で言った。
妹紅は困ったように小町を見て、それから溜息を吐いた。
「……真っ当な死神の言う台詞かい、それが」
「何を今更」
言って小町は熱い茶を一息に呷り、焼けた息を吐いた。妹紅は座卓に視線を落として、殆ど独り言のような声で言った。
「……三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることを識らず。生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く――」
「……死に死に死に、死んで死の終わりに冥し」
後を受けた小町を見遣って、妹紅はおもむろに座卓の上に掌を開いた。そこからふわりと、蝶をかたどった炎が舞い上がる。それは火の粉を撒きながらひらひらと舞い、小町の眼前で儚く吹き消えた。
「死は理不尽なもんさ。誰もが生の意味も知らぬままに生き、死の意味も解らずに死ぬ。だがその理不尽は誰もに等しく訪れるもんだ。あいつらだけが特別な訳じゃない。――だったら。まやかしだろうが妄信だろうが、その死を納得して受け入れられたのなら――そいつはせめて幸せな最期だと私は思うよ」
「……」
「小町。あんたがやってるのはもう、あいつらを死のその瞬間まで苦しめる事に他ならない」
「それは――」
違う、とは言い切れなかった。
そうなのかもしれない。ならばそれは、この上なく残酷な拷問だ。だが――それでも。
「……あいつらの死は、魂の死だ。……消滅なんだよ。三途を渡る事もない、輪廻に戻る事もない。綺麗さっぱり消えちまうんだ。その、最期の最期をこんな形で終わらせちまう事が最良だとは、あたいにはどうしても納得出来ない」
「そいつは傍観者の理屈だよ。誰しもそうだ、どこまでも全力で走り続けられる訳じゃない。休憩しようと思う事もあれば、ゴールを諦める事だってある」
「――解ってるさ。あいつらが本当に、心から諦めちまったのなら。……そんなら、あたいもそいつを受け入れるさ。だけどそうじゃない。あいつらはまだ諦め切っちゃいないんだ。きっと――メルランだってそうさ。妹を失って、生きる意味も見失って、仕舞いにゃ音楽まで奪い去られたまま、そいつが天命だと本当に諦め切れてるとはあたいにゃ思えないね。だったら、あたいがここで諦める事は、それこそあいつらを奈落へ突き落とす最後の一押しに他ならない」
「……小町、あんたは――」
「頼む!」
小町は座卓に叩き付けんばかりの勢いで頭を下げた。
「あたい一人じゃ無理だ。この通りだよ……もう少しだけ力を貸してくれ」
二人が息を呑む音が聞こえた。
魂達の語る人生を聞きながら、小町は時折途方もない無力感に襲われる事がある。妹紅がいみじくも指摘した通り、小町はいつも、どこまでも既に終わった物語の傍観者なのだ。彼らに何をしてやりたくとも、小町に出来るのはただ話を聞く事だけだ。だから――もしも。もしもこの手で、結末を変えてやる事が出来るのなら。

「……解った、解ったよ」
深く溜息を吐いて、妹紅が言った。「頭を上げてくれ。いいさ、私もちょいと悲観主義に傾き過ぎてたかもな。私だってあんたと同じだ。助けられるもんなら、助けてやりたい」
「……一から考え直すか。少し茶を淹れて来よう。時間はまだある――とは言えないが、焦るだけでは何にもならんからな」
慧音が立ち上がり、妹紅はどっかとあぐらをかいた。
「……恩に着るよ」
「寒気がするからやめてくれ」
妹紅と慧音は声を揃えてそう言うと、顔を見合わせて笑った。



* * * * *

気付けば時刻は子の刻に近付こうとしていた。
三人は茶の間に座したまま、ひたすらに額を突き合わせていたが――矢張り、状況を打破するに足る妙案は一つとして浮かばぬままだ。
当然の事ではある。小町も慧音も、元より四六時中考えていた事なのだから。
「……むぅ」
小町は無言で唸った。ともすれば転がり出そうになる「駄目だ」という言葉を飲み込んで慧音を見る。その視線に気付いて、慧音は渋面を崩さず妹紅に眼を遣った。妹紅はがしがしと頭を掻いてこちらを伺う。
先ほどから、一体何度これを繰り返しているだろう。八方手詰まりだと――認めない訳にはいかなかった。
「言いたかないが……あたいらだけじゃあ、もう限界かも知れんね」
小町は遂にかぶりを振ってそう言った。考え過ぎでどろどろのゼリー状になってしまった脳みそが頭の動きに従ってたぷたぷと揺れている――そんな錯覚すら覚えて、小町は「いよいよいかん」と呟いた。
「そうは言っても、脈のありそうな奴には既に片っ端から当たったんだろ?」
これ以上一体誰に頼ればいいんだよ――そう言って妹紅は訳もなく天井を見上げた。
「む……」
「ぬぅ」
唸る程度が関の山なのは、小町も慧音も同じであるらしい。白い喉を晒す妹紅を真似て、小町も天井を見上げてみる。何か天啓でも降って来はすまいか、などと埒もない事を考えて、虚しさと焦りがこみ上げた。
「いっそ知り合いを端から集めて会議でも開くかい」
「せめて彼女らの拠り所がレイラでなければ、まだ手の打ちようもあったのだろうが……」
妹紅は乾いた冗談混じりに、慧音は深く沈んだ声で言った。
それらが唐突に――小町の中で混ざり合った。
「……それだ……!」
小町は座卓を揺らして立ち上がった。衝撃で妹紅の湯呑みが倒れ、淹れたばかりの茶が妹紅の胸元にぶちまけられた。
「ぅ熱ッちぃぃい!! こま、小町この馬鹿、リザレクションするかと思っただろ――って何、何か思い付いたのか!?」
「何、本当か!」
慧音が座卓に両手を突いて身を乗り出した。その勢いで倒れた妹紅の湯呑みが転がる。中に残っていた茶が再び身体に掛かり、妹紅は声にならない悲鳴を上げた。
「二人とも、ちょいと頼まれてくれるかね。案と呼べるようなもんじゃないが――」

「……ふむ」
片手を顎に当てて、慧音は閉じていた眼を開いた。
「それが彼女らを救う手段だと言うのなら、無論万難を排して協力するが」
しかし日時はいつなんだ――と慧音は尋ねる。
「明日の夜。そうだな……戌の刻あたりが適当かね。時間がないが頼むよ。その辺りが――恐らく限界だ」
答えて小町は慧音と妹紅を順に見遣った。
「何て言うか、あんたらしい力技だね。まあ、やれる事があるってんなら躊躇う理由はないさ」
「そうだな。下らない事を考えている時間も惜しい。早速分担に取り掛かるとしよう」
二人はそれぞれに頷き、再び三人額を突き合わせての話し合いを始めた。
――必ず助けてやる。
小町は自分に言い聞かせるように独白する。
夜明けは――すぐそこまで忍び寄っていた。



* * * * *

ぎし、と床板の軋む音でリリカは眼を覚ました。
姉さんだろうか。こんな夜中に何処へ行くのだろう――不安に駆られてベッドを抜け出した。
身体が随分と重い。にも関わらず、空気に触れ、物に触れているこの四肢にはまるで他人のものに挿げ替えられたかのような違和感がある。自分を騙し続けるのも――もう限界だ。じわりと染み出してくる整理出来ない感情を拭い去り、リリカはそっと廊下へ出る。廊下の先の暗がりに、姉の美しい金髪が一瞬揺らめいた。そのまま角を曲がって姿を消したルナサを追って、リリカはそっと歩き出した。

ルナサはよろよろとした足取りで階段を下って大広間に降りると、そこに飾られたレイラの肖像画の前で足を止めた。
「……レイラ……」
物音一つない闇の中では、か細い呟きも十分にリリカの耳に届いた。柱の影に身を隠して、リリカはそっとルナサを伺う。採光窓から落ちる月明かりがルナサの細い肩を這い、彼女を優しく見下ろすレイラの肖像を淡く照らしていた。
「……ねぇ、レイラ。私は――そろそろ駄目みたい」
ルナサはむしろ無感動なほど物静かな声でレイラに語りかけた。
「貴女がこの世界を去ってから……ずっと寂しかった。けれど、私はそれでもきっと楽しかったのだと、今になって――何も解らなくなってからそう思うわ。……不思議ね。生きる目的は貴女と共に消えてしまったのに、どうしても諦めようと思えない。……だけど」
まるで膝から倒れ込むようにして、ルナサはそこに跪いた。レイラはもう何処にも居ない事など、リリカもルナサも解っている。しかしそれでも、不確かな神などに祈るよりも――それは余程正しい事のように思えた。
「あの子達まで消えてしまうというのなら――どうかお願い。……私は消えてしまってもいい。メルランと、リリカだけは……せめて、どうか助けてあげて」
何を――言っているのか。リリカは隠れている事も忘れて立ち尽くした。自分達は三人で一つではないか。ルナサの居ない世界など――それこそ、どうして生きて行けばいいというのだろう。だが一方で、自分がルナサでも矢張りそう願ったのではないかとも思った。自分で自分が良く解らないまま、ただ居ても立ってもいられなくなり、リリカは一歩を踏み出した。

「ね――」
「姉さん!」
予想だにせぬ所で姉の声が響き、リリカは反射的に足を止めた。
「……メルラン」
月光浴でもしていたのだろうか。庭に面した窓を乗り越えて、メルランはつかつかとルナサに歩み寄った。
「行儀が悪いわよ。出入りはちゃんと玄関から――」
立ち上がったルナサが言い終える前に、彼女はルナサを強く抱きすくめた。
「メルラン……?」
「……やめてよ」
不安に満ちた声。悲しみに軋む声。それは――リリカが初めて聴くメルランの声だった。
「やめてよ……。私とリリカだけが助かったって、そんなのちっとも嬉しくないわ。姉さんが居なきゃ、私達は何も出来ない! 姉さんが居なきゃ駄目なのよ……!」
「……」
「もういいじゃない……これ以上何を願ったって、苦しみが増すだけだわ。苦しんで、もがいて、その果てにたとえ一人生き延びたとしても、先に待っているのはそれ以上の苦しみだけよ。だったら、私はそんな未来なんて欲しくない。三人一緒に消えてしまえるなら――それでいい」
リリカは――がんと頭を殴られたように絶句した。無意識の内に、力の入らぬ指先が怒りの形に握られている。まるで裏切られたような気分だった。何で。どうして。ぶつけたい思いが多すぎて、上手く言葉にする事も出来ない。姉さんの馬鹿――リリカは今すぐメルランの前に飛び出して、彼女を思うさま罵倒してやりたかった。それをしなかったのは――ルナサがリリカにしたように、そっとメルランの頭を撫でたからだった。
「……嘘でしょう、メルラン」
メルランの肩が――ぴくりと跳ねた。ルナサは子供をあやすようにメルランを優しく抱き締め返す。
「ねぇ、メルラン。本当にそう思ってるの? 私は――生きたいわ。拠り所のない歪な魂でも、目的のない虚ろな生でも……それでも、私はまだ、貴女達と一緒に生きていたい。貴女達が好きだから。貴女達と居たいから。歪んでいたって、みっともなくたって――消えたくない。……貴女は、本当にそれでいいの?」
「……わ」
私は――。
震えるその声に、リリカは気付いた。
――メルランは。この手の掛かる、けれどいつも頼りにしている姉は――泣いているのだ。そんなメルランの姿など、リリカは一度として見た事がなかった。馬鹿みたいに明るく振舞っていても、心の底ではいつも自分を気にかけてくれている。困った事があれば、笑ってなんとかしてくれる。リリカにとって、メルランは矢張り姉で。だから――彼女がこんな風に弱々しい一面を見せるとは、リリカには信じられない事で。
――リリカは知った。自分の前では気丈でも――彼女も矢張り、妹なのだと。
「……消えたくない」
メルランは、ぽつりと言った。
「消えたくない、消えたくないよ……」
「……メルラン」
「皆一緒に生きたいよぉ……」
ルナサにしがみ付いて――メルランは子供のように号泣した。

リリカは、静かにその場を離れた。自分が居ては――メルランは泣けないから。メルランがどれほど自分を想ってくれていたのかを、リリカは今更理解した気がした。
自室の扉を閉めると同時に、堪えていた涙が溢れて来た。拭っても拭っても、それは闇の中で絨毯に染みを拡げてゆく。
もういい、もう十分だ。どうして、私達はレイラと共に死ねなかったのだろう。どうして、レイラは私達を共に消してくれなかったのだろう。神が――神の如き者がもし見ているのなら、どうか助けて欲しいと願った。それが出来ないのならば――せめて、今すぐ私達を霞のように消して欲しい。
東の空が白み始めるまで、リリカはそこに立ち尽くしていた。



* * * * *

意識が戻った時には、陽は既に沈んでいた。
時間の感覚が解らなくなり、ルナサは軽い混乱を覚えたが、眠りに就いたのが陽の昇ってからだった事を思い出し、然らばと納得した。
ベッドから出ようとして、力が入り切らずに絨毯へ倒れ込む。その程度の事にはもう慣れてしまったが、どの道辛いものは辛い。ゆっくりと身を起こした所で、ルナサは視界が霞んでいる事に気付いた。手先は震え、足元はおぼつかない。何より恐ろしいのは――それらの引き起こす苦しみさえ、まるで薄い膜を隔てたように遠く感じられる事だ。
終焉の吐息を耳元に感じる。気力を保っていなければ、手足の先から透けて消え始めそうな気さえする。大海原の真ん中で、波に飲まれまいと必死に板切れにしがみ付いている――そんな表現が似合いだとルナサは思った。どれだけ持ち堪えようが、いずれ海中に没する事は予め決まっている。
次の朝日を眼にする事は最早叶わないだろう。何をする事すら出来なかった事を、ルナサはただ悔しく思う。
せめて、ようやく出来た友人に別れだけは告げたい。椅子の上で小町が寝てはいまいかと辺りを見渡したが、彼女の姿は矢張り何処にも見当たらない。今から会いに行っては迷惑だろうかと考えたが、そもそも彼女が何処に住んでいるのかを知らない事に思い当たって、ルナサは悄然と肩を落とした。しかし、そもそも幻想郷に住んでいる訳ではないようだから、ならば三途の向こうか地獄の底か、いずれ此岸ではあるまい。だとすれば――最早再び会う手立てはない。
小町――ルナサはぽつりと彼女の名を呟いた。
もっと色んな話をしたかった。色んな事を教えて欲しかった。色んな所へ連れて行って欲しかった。再びまみえる時間すらない事を今は悔やむばかりだが、今日までどうにか耐えて来れたのもまた小町のお陰だとルナサは思う。彼女が居なければ。慧音が居なければ。ルナサは或いは――誰よりも早く諦めていたかも知れない。
生きたいと。そう思わせてくれて――ありがとう。
もう会う事も出来なくとも、それだけはどうしても伝えたい。
せめて手紙だけでも書き遺そうとルナサは書斎机に眼を遣り、
「……?」
その上で炎がちろちろと揺れている事に、やっと気が付いた。
霞みがかった視界ではまるで鬼火のように見えたが、近くに寄ってみればそれは単なる蝋燭の灯りである。そしてその傍には、一枚の紙が添えるように置かれていた。
そっと手に取り、靄の掛かった瞳で矯めつ眇めつ眺めるに、それはどうやら誰かが書き置いたもののようだった。
『大広間まで参られたし』
簡潔極まりない文言が毛筆で黒々と、しかし女性らしい小奇麗な筆跡で記されている。豪快なのだか繊細なのだか良く判らないが、誰が書いたものであるのか――それだけはすぐに判った。
そこに――居るのだろうか。



* * * * *

扉を開けると、メルランとリリカが驚いたような顔で立っていた。
「貴女達も?」
「……うん」
大広間へ来いって――と言う三女の顔には、矢張り死相に近い疲労が浮かんでいる。メルランも同様だ。ならば自分も相当に酷い顔をしているのだろう。
「……もう、何をしたって無駄だわ」
メルランの呟きに、ルナサもリリカも言葉を返せず黙り込む。一秒毎に身体を侵し始めた死に、これ以上気付かぬ振りは出来なかった。
三人は寄り添いながら、ゴルゴタの丘へ向かう聖者の如くおぼつかない足取りで歩いた。

大広間に一人佇んでいたのは――矢張り小町だった。
小町はレイラの肖像画を何をするでもなく見上げていた顔をこちらに向けて、来たかい、と言った。
「小町……」
「すまないね、身体はもう殆ど動かんだろうに」
「……それも今日で終わるわ」
メルランが言った。小町は紅髪を掻き揚げて眼を閉じる。
「……かもしれんね」
「……」
「あたいから見ても十分に解るよ。……今更取り繕っても仕方無い」
小町は――遂にそう言った。「むしろ――よくここまで耐えたよ。……尋常な痛苦じゃなかろうにな」
「……貴女のお陰よ」
霞んだ瞳で小町を見て、ルナサは心から言った。
「今までありがとう。――嬉しかったわ」
小町が寝る間も惜しむ程に力を尽くしてくれた事を、ルナサは知っている。それは、結局は無意味な事だったのかも知れないけれど――それでも、少なくともルナサの心だけは、僅かでも救われたのだ。
「ありがとう」
ルナサの隣で、リリカが頭を下げた。
「貴女に助けられたのは私達も同じよ。……ね、姉さん」
「……そうね」
水を向けられて、メルランは静かに頷いた。小町は困ったような顔ではにかみ、嘘でも嬉しいねぇ――と言った。
「本当よ」
「同じさ。結局――あたいは何の役にも立ちゃしなかった。――だけど」
「だけど……?」
「それでも、そう言ってくれるなら――最後に一つだけお願いを聞いちゃくれないかい」
小町はレイラの肖像画から離れるようにして数歩後ろへ下がる。殆ど視力の失せかけているルナサはその時まで気付かなかったが、そこには埃避けの布に覆われて、何か大きなものがあった。何だろうか、というルナサの疑問に答えるように小町が布をするりと取り去る。その下には――いくつもの楽器が整然と置かれていた。ヴァイオリンやトランペットから、一体どうやって運んだものか――恐らくはその能力だろうが――ピアノまでもが並んでいる。
「重ね重ね勝手な事して悪いけど、倉庫から引っ張り出して来たんだよ。調律やらは解らんからそのまんまだけどね」
「小町、何を――」
「一曲――聴かせて欲しいんだよ」


「……無理よ」
長い沈黙を鈍く裂いたのはメルランだった。「こんなぼろぼろの身体で、トランペットなんて吹ける訳がないわ。……ううん。私には――もう何も吹けない。何も弾けない。私は――もう」
死んだも同然よ――魂ごと吐き出すような声でメルランは言った。
「……ごめん。私も、出来ないよ」
俯いていたリリカが――ゆるゆると首を振った。
「……私、何も出来なかった。何とかしてみせるなんて言っておいて、姉さんに隠し通す事すら出来なかった」
小町がメルランからリリカに顔を向ける。リリカは視線を絨毯から離さなかった。
「……怖いよ。弾くのが怖い。ろくに弾けない事なんて解り切ってるけど――それでも、もうこれ以上自分に失望したくないよ……」
「……」
小町は彫像のように押し黙り、その選択を待つようにルナサを見た。
――ルナサは。
ルナサの足は、ゆっくりと――知らず楽器へ向けて歩き出していた。
「姉さん……?」
妹の声が聞こえる。聞こえるが、頭を素通りして何処かへ飛んでゆく。
ルナサは、自分でも何がしたいのか解らなかった。彼女の金色の瞳はただ一点、煤けて傷だらけの、みすぼらしいヴァイオリンに釘付けになっていた。
手に触れる。
そっと抱える。
ひどく――懐かしい気持ちがした。
「……これは」
ルナサはぽつりと呟いた。それは――遥か昔。ルナサに初めて音楽を教えてくれたヴァイオリンだった。
陽炎のようにおぼろげで儚い記憶の中のヴァイオリンと、眼の前のそれが重なった瞬間――ルナサの脳裏を残像のようにかすめる影があった。
「……?」
何か、それはとても大切なもののような気がしてルナサは眼を閉じた。しかし足早に去ってゆくその後姿を捉える事はどうしても出来ずに、結局、ぽっかりと穴の開いたような喪失感だけを覚えて頭を振った。
「……私は――」
言いようのない寂しさと不安に囚われたまま、ルナサは口を開いた。開いたが、その先の言葉が出て来ない。
メルランの気持ちも、リリカの気持ちも痛いほどに解る。だから――ルナサはどうしていいか解らない。小町の為に弾きたいという思いはある。何も出来ないという怖さもある。何より――期待を裏切る事だけはしたくない。しかし、ならばどうすればいいのだろう。メルランの言う通り、自分達は既に死に体だ。こんな状態で演奏など、しようがすまいがいずれ小町を落胆させるに決まっている。だから。ルナサは結局――何を言う事も出来ぬままヴァイオリンを元に戻した。

小町は静かに首を振る。結わえた紅髪が綺麗なカーブを描いて肩に落ちた。
それでいいのかい――と小町は言った。
「本当に、そんなのでいいのかい。お前さん達」
「何が――」
「……騒霊が。騒ぐ事も出来ず、暴れる事も出来ず、木ッ端みたいに消えちまうのは本望なのかって言ってるんだよ」
ルナサは心臓を鷲掴みにされたようだった。消え去る前に、せめて――せめて何か。そう渇望して尚何も為せない己の心をまるで鋭く射抜くように、小町は眼を細めてルナサを見た。
「……貴女には解らないわよ」
肩を震わせて言ったのはメルランだった。
「貴女が何を言おうと、生きていく虚しさを何百年も騙し続けて来た私達の気持ちなんて絶対に理解出来ないわ。……私はね、清々してるわよ。もうこれ以上、演りたくもない音楽を続ける事もない。惨めに生きる事に苦しむ必要もない。嫌いよ……ええそうよ、嫌いなのよ! 音楽なんて大ッ嫌いだわ!」
「ね、姉さん――」
堰を切ったように想いをぶちまける姉を落ち着かせようとして、しかしリリカは二の句を継げずにいるようだった。
リリカは――気付いてしまったのだろう。ルナサもそれは同じだった。
力が出せない、上手く弾けない、期待を裏切る、そうしたものは全て上辺の理由に過ぎない。
そうだ。
怖いから。辛いから。悲しいから。苦しいから――自分達は、ただ音楽から逃げたかったのだ。
メルランの言葉は、そのままルナサの言葉でもある。目的無き生の虚ろに気付いた時から、ルナサにとって音楽は楽しいものではなくなっていた。メルランも、そしてリリカも同じなのだろう。それぞれがそれに気付かぬ振りをし続けて――自分達はここまで来たのだ。
メルランは、積もり歪んだ姉妹の想いを自分達の代わりに吐き出しているだけだ。何も変わらない。三人の心は同じなのだ。こんな――後ろ向きな事でさえ。

――嫌だ。
嫌だ嫌だ厭だ。
自分でも、もう止められないのだろう。メルランの口からはまるで呪詛を吐くようにとめどなく言葉が流れ出る。
「もう沢山よ。辛い事も、苦しい事も、自分に嘘を吐く事も、もう沢山だわ。もう――」
何もかもが嫌なのよ――メルランは小町に向けて叩き付けるように叫んだ。
メルランの――いや、姉妹の怒りが、哀しみが、懊悩が、絶望が、蝋燭のみが僅かに照らす大広間をわんわんと跳ね回った。
その――感情の渦の中で。
「……違うだろ」
怨嗟にも似た言葉の洪水を正面から受け止めて、小町は凛として口を開いた。
「それでも――生きていたいんだろうが」
「な」
何を――と言い切る前に、小町はメルランに続ける。
「解ってないのはお前さん達の方だよ。演りたくないだの、音楽が嫌いだの、それこそ嘘だ。大嘘だよ。お前さん達にとって、音楽はたかがその程度のもんなのかい。吹けば飛んじまうほどの、取るにも足らん薄ッぺらい代物なのかい。……そうじゃないだろ」
思い出せ――と小町は言う。
その言葉は、ルナサの心に何故か大きな波紋を広げた。
「そりゃあな。あたいはお前さん達の苦しみなんざ万分の一も解っちゃあいないんだろうさ。だがね、こちとら伊達に何百年もお前さん達の音楽を聴いちゃあいないんだよ。忘れてるンなら思い出せ。昔のお前らは――三人で演奏してる時が、一番満ち足りた顔をしてただろう」
ルナサの心は過去へ飛ぶ。
右を向こうが左を向こうが、山積するのは苦しい記憶。騙し、誤魔化し、繕い続けた虚ろな人生。
積もり積もったその先に――かつてはあったのだろうか。ただ音楽を奏でていれば幸せだったような、そんな嘘のような日々が。
「そんなものは――単なる貴女の思い込みよ」
「違うね」
小町は乱麻を断つが如くに断じた。メルランが怯んだように言葉を失くす。
「気付いちまったから。考えちまったから。お前らは音楽を純粋なものとして見る事が出来なくなったんだ。思い込んでるのは――そっちの方だよ。……いつまで眼を背けてるつもりだい。音楽はお前らの半身だろうが。嫌った振りで逃げ出して、嫌だ厭だと眼を閉じて――そうやって最期まで自分を否定し続ける気か? お前らは――」
「やめてッ!!」
メルランは叫んだ。いや――声を上げたのは自分かも知れない。
これ以上は耐えられない。楽しい記憶。幸せな記憶。そんなものは、最早あればあるだけ死の苦しみを強くする毒だ。ルナサの両腕の中には、もうメルランとリリカだけが居ればいい。それ以外の全ては――甘く匂う猛毒だ。
「どうして……?」
メルランは声を震わせた。「今更どうしてそんな事を言うの……!? もうやめてよ……貴女の一言一言が私達の苦しみを大きくしているのよ! 今更何を思い出せって言うの? それが何になるって言うのよ! 私達にはもうレイラは居ない、拠り所なんて何処にもない! 昔の事を思い出して、それでレイラが帰って来るの? だったらいくらでも思い出すわよ……だから返してよ。私達にレイラを返してよぉっ!!」
誰も身動き出来なかった。心が直接叫んだような大音声に、誰もがその場に射止められていた。
いや。
小町は――。

「レイラは死んだッ!!」
小町の怒鳴り声が残響を吹き飛ばした。
ルナサが何を思う暇もない。三人に向き直り、小町は挑むように彼女達を睨み付けて、再び吼えるように口を開いた。
「死んだ者は戻らん! 消えたものは消えたままだ! だけどお前らはまだ生きてるだろうが! 拠り所がどうした、生きてく目的がどうした、それで頭を悩ますようならそんな事ァ忘れッちまえ! 生きる虚しさから眼を逸らす為に音楽に逃げてたって? そうじゃあないだろ!」
思い出せ――心を鷲掴みにするような声で、小町は三度そう言った。
「思い出せ! 楽しい時も苦しい時も、音楽はずっとお前らの傍にあったはずだ。だったら――だったらそれこそがレイラの形見だろう。レイラと共にあった音楽を、レイラの遺した音楽を、嫌う事なんざお前らに出来る訳がない! 本当に、心から音楽を愛してたからお前らはそうやってここまで来たんだ! じゃなきゃあ――!」

バン、と大きな音を立てて、玄関の大扉が開いた。
そこに立っていたのは――上白沢慧音。そして――藤原妹紅。
その――後ろには。

「え――」
「そんな中身のない音の為に――ここまで聴衆が集まる訳がないだろう」
開いた玄関に顔を向けて、小町は言った。
――そこには。
博麗の巫女が、いつもと変わらぬおっとりとした笑みを浮かべて立っていた。
その隣で、山の巫女が相変わらずの仏頂面でこちらを見ていた。
何代目かも曖昧な阿礼乙女の後ろでは、黒髪のメイド長と紅髪の門番が吸血鬼姉妹に付き従って立っていた。
魔法使い達が寄り集まっているその近くには亡霊嬢。その脇で三本の刀を背負った庭師がこちらに一礼した。
八雲の妖狐の隣で、その式が最近生えたばかりの四本目の尻尾を振っていた。
後ろの方では永遠亭の連中が妖しげな笑みを浮かべていた。
河童達は不安げな顔で、天狗達は珍しくカメラを構えずこちらを伺っていた。
先日公演したばかりの地底の住人達がそこかしこにいた。
意味もなくふんぞり返る天人の横で、竜宮の使いがこちらに小さく会釈を寄越した。
命蓮寺の統一感のない妖怪達は随分と神妙な顔をしていた。
妖精達がいた。
鬼達がいた。
神様もいた。
――他にも。
他にも、他にも、他にも。
プリズムリバー楽団が関わった人妖達が、宵闇に濡れる庭を端まで埋めていた。
「……ああ……」
呆然と、姉妹は言葉にならない声を発した。
霞む瞳で彼女らの一人一人を見る度に、否も応もなく記憶が蘇る。
白玉楼に初めて招かれた時の事。
太陽の畑で何度も行ったライブの事。
巫女の代が変わる度に祝いの曲を奏して来た事。
人見知りな河童達の為に姿を見せずに演奏してみせた事。
紅魔館に招かれる度に気紛れな主を喜ばせる曲に頭を悩ませていた事。
どれもこれも――楽しかった。満ち足りていた。
そうだ。自分達は、あの時――確かに幸せを感じていた。
迷いもあった。苦しみもあった。けれど、いつもそれに倍する喜びがあった。

一度は下ろした煤だらけのヴァイオリンを、ルナサは再び手に取った。傍らに置かれていた弓をそっと宛がうと、それは不思議な事に、調弦もないままに往時と変わらぬ美しい音色を響かせた。束の間――寒さすら覚えるほどに静かな大広間が、その反響に暖かさを取り戻したように思えた。
何百年もかけてゆっくりと忘れていった、ただただ純粋な喜びを――ルナサは今ようやく思い出せそうな気がした。
――ならば。
指も満足に動かないけれど。立っているだけで精一杯だけれど。
それでも――あの時の気持ちを、もう一度味わう事は出来るだろうか。

ルナサは二人の妹に顔を向けた。彼女らは浮かんだ戸惑いを隠せぬまま、それでもゆっくりとルナサの元へ歩み寄った。
「……ごめん」
ルナサは薄く苦笑して言った。「呆れるくらい惨めだけど、笑えるくらいぼろぼろだけど。……それでも、思い出してしまったから」
「……姉さん」
「私は――弾くわ。貴女達に、それを無理強いする気はないけれど……でも」
出来る事なら――とルナサは続けた。
「私は、貴女達と一緒に弾きたい。最後の最後まで――貴女達と一緒に居たい」
二人は――泣き笑いのような顔をした。
「……仕方ないなぁ」
落書きだらけのピアノの前に腰掛けてリリカは言った。「私達がいないと駄目なんだから、姉さんは」
「……最後ぐらいは、姉孝行しましょうか」
メルランは遠くを見るような表情で古びて汚れたフルートを手に取った。
「……ありがとう」
ルナサは顔を上げた。
妹達を見る。小町を見る。慧音を、妹紅を、大広間に居並んだ聴衆たちを見る。
小町の力だろう、大広間はいつの間にか、数多の人妖を容れて尚余りあるほどの大きさに拡がっていた。
静寂を乱す者は一人とて居ない。

――そこに。

静かな、静かなピアノの音が弾けた。
そっと瞳を閉じれば、静寂と溶け合った暗闇の中でか細く走り始めたその調べだけが唯一確かな存在のように思えた。
震える身体でヴァイオリンを構える。
打ち合わせなど必要ない。傷だらけのヴァイオリン。古びたフルート。落書きだらけのピアノ。三人が初めて手にした楽器。それだけで十分だった。
フルートの繊細な音色が、ピアノのそれに合流する。そこから先は、殆ど無意識のようなものだった。まるで音楽という巨大な装置の部品であるかのように、リリカの、メルランの音色に合わせて、ルナサは考えるより先にヴァイオリンを掻き鳴らしていた。
身体が、腕が、指が勝手に動く。三人の手で音楽が織られてゆく。
そうだ。こんな曲だった。
レイラの誕生日を祝う為に――初めて三人で演奏した曲だ。
一心不乱に弾くにつれて、ルナサは脳裏に少しずつ記憶が蘇ってゆくのを感じた。
レイラが外出する隙を見て、こっそり何度も練習を重ねた事を。時に落ち込み、時に諦めかけながら、三人やっとの思いで形にした事を。不安と緊張に押し潰されそうになりながら、レイラの前で遂に演奏を披露した時の事を。
――そして。
それを聴いて笑顔のまま泣いたレイラの、あの例えようもない美しさを。
眼も当てられないほどに稚拙で粗末な演奏だっただろう。それでも、自分達の音は一人の人間を笑顔にする事が出来た。レイラを喜ばせる為の手段に過ぎなかった音楽を、ルナサはその時初めて――心から好きになれたのだ。
ルナサはそっと眼を開ける。
居並ぶ人妖が視界に映る。
あの時と今では何が違う――ルナサは己に問い掛けた。
笑えるほどに稚拙な演奏。悲しいほどに粗末な演奏。ともかく音を出す、ただそれだけの事で精一杯な自分達。
あの時と今と、一体何が違うというのだろう。
皆の浮かべる笑顔が見たい。感動に染まった表情が見たい。そんな音楽を――もう一度奏でたい。
――そうだ。

それこそが――自分達の原動力だったはずだ。

やっと。
やっと気付いた。ようやく解った。全ては――たったこれだけの事だった。
音楽を嫌っていた。逃げていた。怖れてさえいた。それこそが――姉妹の心に生まれた歪みだったのだ。

ルナサは毅然として顔を上げた。
ああそうだ。今なら言える。
私達は愛している。
私達の音楽を。
音楽と生きる私達を。
それに耳を傾けてくれる全ての人を。

――だから。

「……おいで。私のストラディヴァリウス」

まるでその言葉を待っていたように――ルナサの愛器はふわりと宙に現れた。

ルナサは静かに妹達を振り返る。
宙を舞うトランペット。ひとりでに跳ね回る鍵盤。あるべき光景が、あるべくしてそこにある。
驚きも疑問もそこにはない。ルナサには――姉妹には、ただ深く、ただ大きな喜びだけがあった。
「……メルラン。音楽は――まだ、嫌いなままかしら」
ルナサは訊くまでもない事を訊いた。メルランは悪戯を見咎められた子供のようにばつの悪そうな顔で肩をすくめる。
「……まさか」
「プリズムリバー楽団――再始動だね」
リリカがはにかんだ笑みでそう言った。
ルナサは頷いてそっと肖像画を見遣り、それから再び妹達に向き直った。
「それじゃ――メルラン」
「ええ。一つ――派手に始めましょうか」
立ち込める暗雲を跡形もなく吹き飛ばすようなトランペットを合図に――堅い殻をようやく壊して、幽霊楽団は再び高らかに産声を上げた。



■■■

――夢を見ていた。
遠い昔の夢を。

夢の中で、レイラは楽器を弾きましょう、と言った。
姉さん達はとても演奏が上手かったから、と彼女は笑った。
夢の中の私達は、無感情に喋るだけの人形だった。レイラに笑い返す事もなく、ただ主人の命に従って諾々と楽器を手に取る。それは、生き別れたという彼女の姉達がとても大事にしていたものだった。
何ヶ月も、何年も、気の遠くなるような時間を掛けて、レイラは私達に弾き方を教えた。不完全で歪な被造物である私達は、何を覚えるにも人とは比にならない時を要した。それでもレイラは諦めなかった。
そうして。
楽器の奏で方を覚えてゆく度に。姉妹でよく演奏したのだという曲を弾いてゆく度に。まるで離散した魂が元へ戻るかのように、私達には少しずつ自我が生まれていった。
初めて覚えた感情は、喜びだった。一つ一つ音を鳴らす度に、心が満たされてゆくように思えた。それから――春に草木が芽吹くように、私達の心にはゆっくりと種々の感情が芽生えていった。

楽しい記憶。悲しい記憶。夢の世界は、私に様々な思い出を見せながら移ろい続ける。やがて――私は気付いた。私達の思い出は、いつもレイラと共に、そして音楽と共にあった。私は――私達は忘れていた。いつの間にか空気のようにあって当たり前のように思っていた音楽こそが、まるで奇跡のように私達とレイラを繋いでいたのだ。
夢の世界は走馬灯のように、徐々に早さを増して流れ続ける。私の意志と関わりなく、最後のシーンを映し出す。

見舞う者さえ居ない屋敷の中で、レイラは静かに最期を待っていた。枕元に居るのは私達だけだったが、彼女はそれでも幸せそうに笑った。命の火が急速に萎んでゆくのが私達には解った。その中で、レイラは何かを言おうと口を開く。その喉からは既に声を出す力など失われていたが、私達はそれでも、一言一句聞き漏らすまいと一段彼女の傍へ近寄った。彼女の水気を失くした唇が、赤子に言い聞かすようにゆっくりと、たった三度形を変えた。

「 」、「 」、「 」。

――いきて。

それが――彼女の遺言になった。


夢の世界は、これで仕舞いとでも言うように暗転した。
その暗闇の中で――私はきっと、泣いていた。
私は忘れていた。
――忘れていたのだ。
決して忘れるものかと、彼女の亡骸を抱き締めて、何度も、何度も繰り返したはずなのに。
生きる事に意味など要らなかった。目的など必要なかった。
笑って生きていけたなら。
明日も生きようと思えたのなら。
それだけで――良かったのだ。

暗闇の中に、レイラの気配がした。
姿は見えないけれど――いつもの人懐こい顔で、にこりと笑ったのが解った。

――さよなら、姉さん。

声にならない声で、彼女は確かにそう言った。
夢だ。
全ては夢だけど。
それでも。

さよなら、レイラ。
ありがとう――私達の、何よりも、何よりも愛しい妹。





■■■

「あたまいたい……きもちわるい……」
「大丈夫?」
階段に座り込んで呻くリリカに水を渡して、ルナサはその隣に立った。
「だいじょうぶじゃない……」
そうでしょうねと苦笑しながら、眼下の大広間に数多転がる人妖達に眼を向けた。文字通り死屍累々たる有様である。そのド真ん中で、全ての元凶たる鬼が高いびきを立てていた。
昨日――ルナサ達は万雷の拍手の中で演奏を終えた。そこまでは良かったのだが、その後「何か知らんが酒だー!」と叫んだ伊吹鬼によって、古いながらも楽しい我が家は一瞬にして酒気濛々たる宴会場へと変じてしまった。何処からか無限に出てくる酒の山と酔人達に阻まれてルナサは小町とろくに話す事も出来ず、気付けば屍の一員となって姉妹仲良く緋毛氈の上に転がって朝を迎えていた。
堅い地面で寝たものだから身体の節々が痛い。それでも――宴会をこんなに楽しく思えたのも、本当に久々だった。

「……小町ならまだ大広間にいたよ」
ルナサの心を読んだようにリリカが言った。行ってきなよという妹の勧めに素直に従う事にして、リリカが水を飲み干すのを見届けてからルナサは屍の転がる戦場跡へと降りて行った。
身体を起こしている者は僅かだったので、殊更探し回るまでもなく小町は直ぐに見つかった。
おやお目覚めかいと言って小町は窓枠から腰を上げた。
「気分はどうだい」
「少しお酒が残ってるけど、大した事はないわ。……貴女は随分と平気そうね」
「何、自分のペースを乱さなきゃあそうそうツブれる事もないさ」
それにしては随分と杯を空けていたように見えたが――まあ、何も言うまい。
「……小町」
「礼なら要らないよ」
小町は先回りして言った。「お前さんの可愛い妹達からもう耳にタコが出来るぐらい言われたよ。大した事なんざ何も出来やしなかったってのに大袈裟なもんだ。礼ならあたいなんかより雲の上から土の下まで駆けずり回ってくれた慧音と妹紅に言ってやってくれよ」
それは勿論そのつもりだ。
そのつもりではあるけれども。
「……それでも言わせて貰うわ。本当に――本当にありがとう」
振り返ってみれば、それは確かに簡単な事だったのかも知れない。けれども、どれほど簡単な事であったとしても、それに気付けたのは小町がそこに居てくれたからこそなのだとルナサは信じている。
「私達の魂を救ってくれたのは、他の誰でもない、貴女だわ」
どれほど言い尽くしても足りぬ想いをその一言に込めて、ルナサはじっと小町を見つめた。
「……参ったね、こりゃ」
小町は肩をすくめて、それから困ったように、けれども嬉しそうに破顔した。
つられてルナサも笑う。
ああ――これだ。
その笑顔が見たかったのだ。

「……小町。その」
今度――と言いかけた所で、トランペットが高らかに鳴り響いた。
何事かすわ敵襲かと屍達が次々に跳ね起きる。全くあの子は――とルナサは苦笑を浮かべてそちらへ顔を向けた。
「少し行ってくるわ」
「ん」
ここで聴いてるよ、と小町は言った。そんな簡単な一言が、今は何よりも嬉しい。
メルランは元気が有り余っているようだ。リリカはこめかみを押さえて文句を言うだろうが、体調の事など弾けば直ぐに忘れてしまうだろう。困ったものだと思いながら、ルナサは柄にもなくはやる心を抑え切れなかった。
いや――抑える必要などないのだ。
メルランがいる。リリカがいる。友がいる。自分達の音を聴いてくれる誰かがいる。
弾いて。弾いて。弾いて。生きて。
――それでいいのだと。
傷だらけのヴァイオリンと、傷一つないヴァイオリンを携えて、ルナサは小走りに妹達の元へと向かった。



* * * * *

本当に何とかなっちまうとはね、という声に小町は肩越しに背後を見た。
「やあ、お早いお目覚めだねぇ」
「まぁね。久しぶりに良く寝たよ」
はばかる事なく欠伸を浮かべて妹紅は言った。悪所での寝起きに慣れ切っている彼女は固い床など意にも介さぬようだった。その肩から、血色のいい二人とは正反対に蒼い顔をした慧音がぶら下がっている。
「そっちの先生はグロッキーかい」
「ほどほどにしとけって言ったのに、柄にもなくバカスカ飲むからだよ」
「……ふん、私だって羽目を外したい時ぐらいあるさ」
慧音は兎のように充血した双眸で小町を見た。何とも珍しい姿である。
「お前さんが酒にやられてるのは初めて見るねぇ」
「私も中々見ないよ。こいつが酔うまで呑むのは教え子に面と向かって『つまらない』と言われた時ぐらいさ。最近では――」
「心が裂けるからやめてくれ……」
死神と蓬莱人はけけけと笑う。私だって努力しているんだと慧音は拗ねた子供のように呟いた。
「お前さんの努力を疑う奴なんて居ないさ。……二人が居てくれて良かったよ。本当に――」
「礼なら要らないよ、だっけ?」
小町を真似て、妹紅はにやりと笑った。
「……趣味が悪いね、お前さんも」
「何、ちょいと耳に入っただけさ。礼を言うのは――こっちのほうだよ」
お陰で踏ん切りがついたと妹紅は言った。
「慧音。里へ帰ったらさ、腕の良い大工を紹介してよ」
「本当かっ!?」
慧音は死にかけていたのが嘘のように勢い良く顔を上げた。

小町は――何か大きな、錆び付いたまま動きを止めて久しい歯車が、ぎしぎしと軋みながらゆっくりと回り出したように感じた。
自分は生きているのだと――唐突に、そう思った。
「――小町、どうかしたかい。ぼーっとして」
さてはあんたも酒が残ってるなと言いながら妹紅が空いた手で小町の肩を叩く。否定しようとして、小町はやめた。
「……そうだね。まだ酔ってるのかもしれん」
はしゃぎ続けているトランペットを、ヴァイオリンが優しく宥め始めた。そこに幻想的な音色が加わり、渾然一体となって屋敷を包み込む。
その旋律に、誰もが口を閉ざして耳を傾けているようだった。
小町は、少し顔を上げて。
ありがとうなと呟いた。






ここまで読んで頂いた方に感謝を。

七作目になります。
冬の内に書き上げるはずが、気付けば桜も既に散り……。
思わぬ長編になってしまいましたが、楽しんで頂けましたら幸いです。
Azi
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コメント



0.3560簡易評価
11.100名前が無い程度の能力削除
生きている意味を問われてそれに答えられる人間が六十億の中に果たして何人いるやら。
それでも自分に問いかけずにはいられないのが辛いところです。
ましてプリズムリバー姉妹のように不安定な存在には、なおのこと、この問いが重く響くのでしょう。
でも彼女たちが音楽を愛しているのは確かなわけで。そしてそれを聞いてくれる人たちがいてくれて。
難しいこと考えなくてもそれで十分じゃないかって考えるのは流石に楽観的にすぎるでしょうかね。
緩やかに変わっていく幻想郷に、今日も音楽が鳴り響く。素晴らしいお話でした。
12.100名前が無い程度の能力削除
物語を包む雰囲気や、作中のキャラたちがみんな魅力的でした。
小町を初めとする一人ひとりがそれぞれ問題に思い悩み、
苦悩する姿は読んでいて辛かったですが、最後に救いがあって私の心も救われましたw
他にも色々と言いたい事はたくさんあるのですが、まとまりきらないのでこの辺で。
ともかく100kb以上の執筆お疲れ様でした。そして素晴らしいSSを読ませていただき、ありがとうございました。
次回作も期待してお待ちしてます!
14.100名前が無い程度の能力削除
三姉妹のこの手の話には弱いんだよなぁ……。
15.90名前が無い程度の能力削除
小町かっこいいねぇ。
死神とは思えないぐらい素敵な救出劇でした。
16.100三郎太削除
まっとうな感想は書けませんが、100点を入れたかったので、この一文お目汚しします。
では。
17.100勿忘草削除
“他が為に生きていることの矛盾を力に変えられる”
私の好きなとある曲の一節ですが他人の為に生きることは本当に難しいことだと思わされました。
三姉妹のこの話を長いとは全く思いません。
素晴らしいお話をありがとうございました。
20.100名前が無い程度の能力削除
最高でした!!!
三姉妹の魅力と小町や慧音達の優しさが凄く伝わってきました。
ルナサとメルランとリリカ、それぞれがお互いを思いやり、大切にしている姿に泣きそうになりました。
特に、普段は底抜けに明るくて、余裕たっぷりの微笑みを浮かべてるメルランが、涙を流した場面は心に響きました。
消滅しなくて本当に良かった!!
もうプリズムリバーが愛しくてたまらないw

素敵すぎる物語を有り難うございました。
可能であれば、100万点くらい入れたい気分です。
21.90名前が無い程度の能力削除
良い話でした。
23.100名前が無い程度の能力削除
これはいい話
27.100名前が無い程度の能力削除
姉妹の葛藤に思わず切なくなった
タイトルで悪い予感がしてたけどもやっぱりハッピーエンドっていいなあ
28.100名前が無い程度の能力削除
これはもぅ……涙が出ちまったよ!
よかったぁ……本当によかったぁ…!
29.100名前が無い程度の能力削除
途中で展開が読めてしまったけど、それでも良い話。
登場人物がみんな、非常に魅力的に描かれていました。
“――”の多用がちょっと気になったかな?
素晴らしい作品を読ませていただきありがとうございます。
30.100名前が無い程度の能力削除
この作品を読んでよかったと心から思います。
惜しみない拍手とこの点数を。
終盤の"弾いて。弾いて。弾いて。生きて。"では鬼塚ちひろさんの曲を思い出しました。
主要登場人物7人全ての魅力と小町の清々しい性格が丁寧に描かれていて、特に心理、感覚、天気や温度などの描写が素晴らしかったです。
過去の作品集にも小町が主人公の大長編の名作がありましたが、本当に彼女は主役が似合ういい性格をしていますね。
32.100名前が無い程度の能力削除
久々に感動しました。「自分は何の為に生きるのか」というテーマが三姉妹や小町らを通じて生き生きと掘り下げられていたと感じました。
33.100名前が無い程度の能力削除
ああ、長さが気にならない長編は、誠に良い作品の証明と言えるでしょう。
感動をありがとうございます。
36.100名前が無い程度の能力削除
プリズムリバー姉妹の話はいろいろありますがこれは私の中での空前絶後になるかもです
自分も小町のように人の笑顔を見るために頑張れる、
そんな人になりたいものです
39.100名前が無い程度の能力削除
すばらしい。言いたいことはそれだけです。
題名の台詞が出てきた場面が特に印象に残りました。
51.100名前が無い程度の能力削除
コメ11の人のようないい感想が書けない・・・
だがよかった。ありがとう。
52.100名前が無い程度の能力削除
久々にかっこい小町をみた
55.100名前が無い程度の能力削除
心が洗われた。GJ
56.80名前が無い程度の能力削除
良かったです
これ以上、言葉をうまく紡げません
ただ、良い物語でした
57.100ずわいがに削除
>姉さんに友達なんか居る訳ないでしょ!
ダメだ、吹くwwショック過ぎるわwww

死神である筈の小町がここまで肩入れするとは。いや、死神だからこそ、かな。
生きる意味なんて、「自分の為に」「自分たちの好きなことの為に」と、それだけで十分なんじゃないかな。
妖怪とかは人間よりも下手に長く有り過ぎるせいで、大切なことを見失ってしまいやすいんだろうか。彼女らは本当にラッキーだった。友人に恵まれた、という点で特に。
58.100名前が無い程度の能力削除
プリズムリバー三姉妹は本当に良いですね。
彼女達の音楽に対する姿勢は想像をかき立てるものがありますが、それを生への希求へつなげるとは素晴らしいです。

最後はみんなの前で派手にライブ。これぞプリズムリバー楽団ですね。
59.100名前が無い程度の能力削除
いい話でした
64.100名前が無い程度の能力削除
いいコメントが思い浮かばないけど
とにかく面白かったという事と100点をあげたいと思った
68.100名前が無い程度の能力削除
最後の3人が楽器を持ち替えたところで、
「幽霊楽団 ~ Phantom Ensemble」
が脳内で自動再生されました。鳥肌立ったぜ。
70.80名前が無い程度の能力削除
最後の方の命の入ってきたルナサはとても素敵でした。

王道ストーリーだしもっと濃い文体でも良かったのに気がするけど、
幻想郷だしこんなもんかもしれない。
80.90名前が無い程度の能力削除
すばらしい
90.100名前が無い程度の能力削除
これは…いいなぁ
96.100らいすばーど削除
本当にいい作品を読ませていただきました。
98.無評価名無し削除
うーむ…。これは、いろいろな意味で考えさせ、悩ませてくれますね。いい作品でした。
99.100名無し削除
点数忘れすみません。