昔乗っていた自転車のことを思い出してしまうのだ。
「お化けだぞー」
今日は木陰にさかさまになって現れた。柳の下を選ぶあたり、正しくオバケの作法を守っているといえなくもない。あらかじめ、ピンク色のふくらはぎが枝の下から楽しげにぶらぶらしていなければ。
おまけに真っ昼間である。
ついでに里のはずれである。誰も驚いてはいない。母親に抱かれた赤子がきゃっきゃと喜んでいるくらいだ。
妖怪と人間の関係って、こんなのでいいんでしたっけ、神奈子さま?
「あのねえ。脅かす気ないでしょう、あなた」
カラコロと下駄の歯が土を噛む。小傘は遠慮なく早苗に並んだ。それはかまわないが、人目もある。ぺろんと舌の垂れた唐傘ばかりは畳んでくれないかと、早苗は思う。
「そんなことないよ。今朝はね、森で茸とってた魔法使いを驚かせたばっかりだから、お腹いっぱいなんだわさ」
「へえ。意外です。それ魔理沙さんですよね」
「うん。最初は驚いてくれなかったんだけど、枝に引っかかってスカート脱げちゃってさ。そしたらね、腰ぬかしてやんの! だらしないよねー」
早苗はこめかみを押さえた。魔法使いには、さぞ色々と見えたことだろう。
「どうした早苗ー。具合でも悪いの」
「いえ」
「つわり?」
「地獄すらなまぬるい」
容赦なく九字を切り始めた早苗に、左右の色の違う瞳がびっくり見開いた。
「ななな何怒ってるの」
「自分の胸に聞いてください」
「おめでたいことじゃん! 生まれたら抱かせてね、こう見えても私、赤ん坊をあやすのが昔っから大得意なんだから!」
「黙りなさい。ついでに、子供なんてできてません」
手足を封じてペンタグラムをひとつ、脳天に落としてやったら、目を回してへたり込んだ。
付喪神という言葉は知っていた。有名な百鬼夜行の絵巻も、教科書で見たことがある。古くなったり、使われなくなった道具などに魂が宿るという発想は、外の世界でも知られていた。
もちろん、靴や鍋や歯ブラシが喋るところなんて、実際に出くわしたことはない。早苗には、この世ならぬものを「視る」力はあったけれど、幻想郷に来るまでは、せいぜい夕暮れ時に街角に立っている、陰気な顔の幽霊を見かけるくらいだった。
「早苗ぇ。あの化け傘、また来てるよ」
縁側で洗濯物をたたんでいると、あぐらをかいた神奈子があごをしゃくる。鳥居の上に、茄子みたいな傘が突き出している。
毎度思うが、あの傘と彼女、どちらに心が宿っているのだろう。お化けには学校も試験もない。どこに住んでいるのか、何を食べているのか。
『そんなこと知って、どうするの?』
以前、麓の神社の巫女にちらりそんな疑問を投げたら、本当に信じられないという顔をされたものだ。そんなことを聞く早苗こそ得体が知れないというように。
やれやれと立ち上がり、縁側から庭に降りる。立てかけてあった箒を握った。きっと早苗が通りがかったところで、「うらめしやぁ」と後ろから現れる算段なのだろう。
ワンパターンな登場をするから、慣れて誰も驚かなくなるのではと思うのだが、そこは譲れないところなのか、めげずに同じことを繰り返す。学習能力うんぬんというより、流儀みたいなものなのかもしれない。
『道具ってのはもともと一つの役割のため生まれたものだからね。一途なんだよ。一途じゃない道具なんてそうだな、漬物石くらいしか私は知らないな』
諏訪子にはそうやって煙に巻かれた。そうそう漬物石はダメだね、ありゃろくでなしの浮気者だよ、と大笑いした神奈子もまた、早苗には意味不明だった。神様はたまに理解できないことを言う。漬物石は一本気で控えめな、いい子じゃないですか!
「あ、早苗! うらめしやー」
先に名前を呼んではますます意味がないだろうに。振り向いた早苗の前にふわふわ下りてくる小傘は、唐傘を高く掲げて、メリー・ポピンズのようだった。
「最近よく来ますけど、山の天狗さんたちはよく通してくれますね」
そういえば、いつから気軽に名前を呼ばれるようになったのだろう。
「顔パスだよ! ちぃーっす小傘さんいつもご苦労さまでーす、って敬礼までされるんだから」
鼻を鳴らして得意げだが、間違いなく馬鹿にされているのだろう。
腰をかがめた小傘は、早苗の持つ箒にも挨拶している。これもいつものことである。
げんきー? へー、あーそうなんだ。たいへんだねー。
ちゃぶ台やまな板ともたまに話しているが、この竹箒が一番の「仲良し」らしい。正直これをやられると、掃除のつづきがやりにくくって仕方がない。
春先に起きた宝船騒動の道中、小傘とは行き会った。妖怪とそれを退治する人間の、しごく真っ当な出会いだったはずだ。相容れない距離を弾幕で撃ち合って、それっきりだった。
なのに近頃は、三日とおかず顔をつき合わせている気がする。
朝から雨が降っていた。神様たちはどこかへ出向いて見かけない。里の分社から戻る途中で現れた小傘は、そのまま神社までついてきて、米屋が気まぐれで焼くパンで作るサンドイッチの相伴にあずかり、早苗が巫女服のほつれを直す隣に寝そべって天狗の新聞を読みふけった挙句、部屋で箪笥の整頓をしようとすると横から中身をどんどんベッドの上にぶちまけはじめる。
「くらえおみくじ爆弾」
手近にあった枕をぶつけてやると、「むぎゅ」と呻いてベッドに倒れこんだ。
箪笥も机もベッドも、外の世界から持ち込んだものである。だからこの部屋に居ると早苗は今でも、どちらの世界にいるのか、わからなくなることがある。
「ねえこれなーに?」
起き上がった小傘が指にかけて回しているもの。一瞥して早苗は絶句した。小傘に驚かされたのは、これがはじめてと言っていい。
「ああ、それは……」
どれかの服のポケットにでも入っていたのか。それを見つけるのだから、さすがは付喪神というところだろう。
「自転車のカギですね」
「じてんしゃ?」
「車輪が二つの、人力で動く乗り物ですよ」
しかし、人里で自転車を見たことはない。小傘は大八車みたいなものを想像しているのではあるまいか。
「あっ、この服! 着てみてもいーい?」
今度は早苗の、中学の制服に目をつけた。いよいよ片付けはあきらめるしかなさそうだ。
小傘から受け取ったカギは、年月を感じさせて表面はざらざらしていた。
「いいですよ。でも着られますかねえ」
しかし変わった妖怪である。そして、我ながら寛容な早苗である。
妖怪なんて片っ端から退治すればいいと思っていたこともあった。博麗の神社が妖怪の入り浸る場所になっているから、そうすることで里の人間の歓心をまとめて横取りできるのではと考えた。
そんな神社が、妖怪の山のど真ん中にあるのである。浅はかだった。おまけにこの地には、人の数以上のあやかしが、大手を振って暮らしているのである。
「うー。それはいらないよ。くるしい」
ネクタイまでちゃんとしめてやろうとすると、小傘は首を振っていやいやする。
「駄目ですよ小傘さん。ネクタイをちゃんとしないのは悪い子です。校則違反ですよ」
「こうそく? んー、じゃあゆるめにして」
悪い子でいいから、って。いつも結び目をだらりとさせていたクラスメートのことを、早苗は思い出していた。名前は覚えているが顔はぼやけている。たまに一緒に帰るくらいは仲が良かったはずなのに。
「わぁい。なんだか、兵隊さんみたいだね」
制服そのものは、ずいぶん気に入ったようだ。スカートのプリーツをちょっと持ち上げて、きれいな膝小僧をこすりあわせている。
「なんでしたらそれ、あげましょうか」
はたして洋服箪笥を持っているのだろうか。
「捨てたいの?」
淡々とした声に変わりはなかったが、早苗はドキリと立ちすくむ。小傘は平然として、唐傘を肩にかついで開いたり閉じたり、鏡の前でおかしなポーズをとっている。
「そうじゃなくってね。もうサイズが、あわないの」
「ふーん。そっか。でも、やっぱりいいや。綺麗にとってあるし、持っていてあげなよ」
そして笑う。早苗は、物を大事にするんだね、と。
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「妖怪と友達にはなれるのか」なんて訊いたなら、霊夢にはきっと呆れられるだろう。
魔理沙もきっと笑うだろう。あの二人に笑われることを思うと、早苗は我慢できなかった。
それならずっと、口に出さなければいい。
今日も小傘はやってきて、夕食をともにしている。人を驚かすのを糧としているなどといいながら食べるわ食べる、諏訪子のためとっておいた分の飯まで、勝手にぺろりと平らげている。
遣るかたなく早苗は、しゃもじを握る。
「五穀豊穣・ライスシャワー」
「ごめん、謝るからぶたないで! ああん髪の毛にごはんつぶが」
「ふふ。まあ早苗、そのくらいいいじゃないか」
杯をかたむける神奈子に笑われて、早苗は決まりわるくなる。空の櫃に皿をかさねて、そそくさと腰をあげた。
「あ、雨だ」
小傘が庭へと走り出る。彼女が唐傘をひらいて、はじめて雨だれが聞こえてきた。
帰る気になったのだろう。妖怪なんて気まぐれなもの、小傘も気がつけばいなくなっているのが常だ。
見送る必要もあるまいと、早苗は炊事場で皿を洗う。入れ替わりに、諏訪子の足音が廊下をわたっていく。
「あんたのメシは、もうないよ。全部化け傘が食っちまったからね」
神奈子の声がする。早苗は竈に火をおこし、酒の支度をする。諏訪子は、人肌の燗につけたのが好きだ。
「あっはは」諏訪子が笑う。「ウチも存外、博麗んとこに似てきたね。郷に入ればなんとやらってやつかしら」
神奈子の返答は聞こえない。にわかに、雨音が強まったせいだ。
社務所の横壁についた雨どいが、猫が水を舐めるように鳴りはじめる。
「早苗ー」
火に見入っていたので、いきなり間近に呼びかけられてうろたえた。にこにこと土間へ上がり込んできた小傘には、さいわい気づかれた様子はない。
「帰ったんだと思ってました」
「うん。そのつもりだったんだけどさ。早苗に挨拶してないなって」
そう言いながら、小傘は早苗の横にしゃがんで竈を覗き込む。唐傘からしたたる滴が、床の色をじんわり変えていく。
湿気た薪はやかましく燃え、とくに会話がなくとも早苗は平気だった。焚き付け用の古新聞をおもむろに手にとった小傘が、「あはは」と笑い出す。
「どうしたんです」
「おかしいよね。これ」
「え?」
守矢神社には、天狗たちの書く新聞がいくつも届けられている。紙面をなぞっていた小傘の指がある箇所で立ち止まった。
「ほら。ここんとこ。語尾におかしなオマケがついてるじゃない? これ、人の顔のつもりなのかなあ。笑ってるみたいだけどさ」
そうなのだ。どういう経緯で伝わったのか、独自に芽生えた文化なのかはわからないが、早苗も外の世界でよく見かけていた顔文字というやつ、あれを使う天狗がいるのである。
見つけたときは懐かしくて、思わず何人かに話してみたが、かんばしい反応は戻らなかった。ライバル新聞のことだから文は取り合わないし、霊夢にいたってはそれが顔を模しているとすら気づいていなかったのである。
「でも、かわいいですよね」
早苗はおそるおそる、小傘を窺った。自分ではあまり使わなかったが、友達のメールに出てきたりするのを、ちょっとばかり気に入っていたのだ。
「あは、そう思う? 早苗も? うん。実はかわいいと思ってたんだー。恥ずかしいから、黙ってたけど」
あーくしゅ、と手をにぎられて、上下に振られた。
「ねー」
炎に照らされて、小傘の顔は瞳とおなじく左右で塗り分けられている。早苗はやんわり微笑み返した。うまく笑えていたか、気になった。
ぽこりと鍋で泡が立つ。少しあたためすぎたかと、取り出した徳利を早苗は布巾で拭った。盆において、少し冷ますことにする。その間に火を落とし、沢庵を切る。
かついでいた荷物をひとつ下ろしたかのように、肩が軽い。そんなものを背負っていたつもりなど、まるでないのだが。
「ねえ、小傘さん」
呼びかけたのは、そうしなければ小傘が帰ってしまうと思ったからだ。
「これを置いてきたら、私の部屋へ来て少しお話をしませんか。私たちも、少し呑みましょう」
「え? いいけど――」
小傘は勝手口から顔をさしだして雨を眇める。絶好の脅かし日よりなんだけどな、と唇をとがらせる。
「じゃあここはひとつ、私が小傘さんを脅かしてあげましょうか」
「えー早苗がー? 本職の私をね」
かぜはふりさんあんなこと言ってるけど大丈夫かしらネー? と、上機嫌に瞳を絞って、小傘は抱きかかえた洗い桶に顔をかたむけて話しかけている。
早苗がはじめて買ってもらった自転車は、赤いフレームで籠がなく、補助輪もなくて、幼稚園に入ったばかりでは過ぎたシロモノだったけれど、気に入ったんだからと強情を張って、ついに母を折れさせた。
何度も何度も転びながら、神社の裏で日が暮れるまで、神奈子に見てもらって練習したことを覚えている。
今でも思い出せる。ハンドルの手前にオランダ風車を象った浮き彫りがあり、乗りながら指でこすってその感触を確かめるのが好きだった。
もともとサイズが大きめだったこともあり、小学校に上がってようやく、サドルの高さに背丈が追いついた。
二年生になってクラス替えがあり、早苗にはしばらく、もっぱら男の子とばかり遊んでいた時期があった。ヒーロー物のテレビ番組に夢中になって、ごっこ遊びで野山をかけめぐった。男の子たちの乗っている自転車はみな黒光りして、変速ギアつきで、お目当てのヒーローが描かれたカラフルなカッティングシートが貼られていたりする。うらやましくて、だんだん目移りしていった。
母にねだってみたものの、赤い自転車は浮き彫りのペンキが剥げかけている他に目立った故障もなく、体格にも合っているんだからと取り合ってもらえない。これが壊れないかぎり新しいのは買ってもらえない。いつしか早苗はそう思い込むようになっていた。
荒っぽい乗り方もしてみたが、つくりがシンプルなせいかびくともしない。遠くまで乗っていって、そのまま置いて帰ったこともある。なんと翌日には、自転車は神社の鳥居にもたせかけられていた。奇跡とは、思いもよらぬかたちで起こるものである。
仕方がないので、近所の橋の上から川へとつき落とした。
「ひどいよ! 怖いよ!」
早苗のベッドで膝をかかえた唐傘お化けは、涙目で叫んだ。
「壊れちゃうじゃん!」
「ところがどっこい。これが傷もつかずにピンピンしてまして」
こうなると早苗も意地になる。トンカチで叩く。子供の腕力ではペンキが擦れる程度だ。ライターで炙る。黒い煤がつくが、それだけだ。物置から電動ノコギリを引っ張り出そうとしたけれど重くて持ち上がらず、母に見つかって叱られた。
「でんどうのこぎり、ってそれどうなるの」
「神様ですらばらばらにできる、というそれはそれは恐ろしい……」
「ひぃぃぃ!」
もはや歯の根も合わずガタガタ震えている。ちょっと脅かしすぎたかもしれない。
「気に入ったから……。買ってもらったんじゃないの? なのに心変わりしたの? ねえ……」
『これが自転車です』と、あらかじめ教えるために開いた、古い百科事典のページの挿絵に頬を乗っけて、小傘はうめくように言った。
早苗はゆっくり湯呑みをかたむける。酒はやめて茶にしたのだ。雨の勢いは衰えず、外に面した窓にリズムカルに叩きつけてくる。
「それで、壊れなくってそれからどうしたのさ。諦めたの」
そっぽを向いてむくれる化け傘。早苗は苦笑する。
「ほとんど諦めていたんですが。その矢先にあっさり……」
「壊れたの? 壊したの?」
「事故でした」
夏休みのある日、自転車に乗っていた早苗は、特になんということもない坂の手前で転んで道端の畦に放り出された。石ころや空き缶につまづいた覚えもない。首をかしげながら立ち上がり、靴の泥を払っていると、にぶい金属音がこだました。
目を上げると、パーキングの引きが甘かったせいでバックで坂を下ってきたトラックが、早苗の自転車を巻き込み、民家の塀にぶつかって止まっていた。
「ひょっとしたら、助けられたのかもしれません。前を見ていれば避けられたでしょうけど。そのときはそんなこと、考えもしませんでしたけどね」
それどころか早苗は喜んですらいた。これでようやく、新しい自転車を買ってもらえると、家に戻ってすぐに折り込みチラシで品定めをしていたくらいである。
自転車は警察がいったん預かり、軽トラに乗って神社に戻ってきた。前輪は大きく歪み、片方のペダルは胴体に食い込んで、全体は蝉の抜け殻のようにへしゃげていた。さらに何日かあとに、業者がやってきて引き取る手筈になっていた。
小傘が黙ってベッドから降りて、すたすた歩いて早苗の後ろにある窓を小さく開けた。雨の音が活気づく。
怒ったのだろうか。そのまま帰ってしまうのかもしれない。仕方のないことだと、早苗は乾いた喉に茶を流し込む。
「ですからね。私は、物を大切にするような子じゃなかったんですよ」
ばさりと唐傘がひらく音がする。いつの間にか早苗は、小傘の見つけた自転車のカギを手の中に握りしめている。この部屋は、自転車が壊れた当時、すでに早苗のものだった。パトカーに送ってもらって、ベッドの上で自転車のチラシを読んだ。夕方トラックの音がして、父が部屋にきて自転車が戻ってきたことを告げた。ともかくおまえが無事でよかったと、頭を撫でてくれた。
業者が回収に来る前の日、登校日の学校から戻った早苗は、なんとなく軽トラックの荷台によじ登った。自転車は無残な姿で、ロープで固定されていた。サドルも九十度ひねられ、またがることもできない。そこだけは無傷の中央のフレームを撫でていると、風車の浮き彫りに指が触れた。
よくわからない感情が早苗を縛り上げた。それは確かに悲しみだが、体験したことのない悲しみだった。もう二度と、この自転車に乗って走ることはできない。単純なその事実が心にのしかかり、身動きできなかった。泣きたくても泣けない。汗だけが流れる。砂埃の積もった荷台に落ちる自分と自転車の影を見つめて、長いこと早苗は、ただじっとうずくまっていた。
あの日早苗は確かに、友達をうしなったのである。
「今頃はお化け自転車にでもなって、私を恨んでいるかもしれませんね」
それから早苗は、二度と自分の自転車は持たなかった。買ってやろうと言われても断った。ちょうど風を扱う秘術に目覚めて、その習練に熱を入れ始めたのも一因ではある。
ふっと目の前がうす暗くなった。見慣れた茄子色の唐傘がさしかけられていた。手を掲げたまま前に回りこんだ小傘は、傲然と胸を張って早苗を睨みつけた。
「馬鹿だなー、早苗は」
「え?」
指の腹で目元をぬぐわれて、はじめて涙が出ていたことに気づいた。小傘は、厳しい目つきを崩そうとしない。
「物に心があるなんて、本気で信じてる? そんなわけないじゃない。物は物よ。傘は傘だし、箒は箒なの。そのじてんしゃ……もただの物だわ。心なんて、ない」
「え……」
早苗はぽかんと呆気にとられる。だってそれじゃ、目の前にいるのは。今話しているのは。
「あ、ひょっとして私が箒と話してるから、そう思ったわけ? うふふ、騙されたー。話せるフリをしていただけなんだから。ほんと人間って騙されやすいー」
アッカンベー、と唐傘とおそろいに舌を出し、ひょいと机に飛び乗って、窓を押し開ける。風が渦を巻き、雨粒が頬に降りかかってくる。
「ばーかばーか」
肩口に振り向いた横顔は、それでも困ったように笑っていた。まばたきした次の視界から、小傘の姿は消えていた。
そんなこといったって、現にあなたがいるじゃないの。
結局言いそびれたことを飲み込んで、しばし早苗は開け放した窓から夜を見つめる。部屋の明かりで銀糸のように雨は光り、庭先の紫陽花の青だけが闇の中でにじんでいる。
やがて、腹の底で生まれた熱がふつふつと、泡の立つようにこみあげてくる。胸を埋めて喉をかけあがり口からこぼれると、それは笑いになった。濡れた髪をかきあげて、早苗はひとしきり笑い転げた。それから窓をしめて、机の上を拭くための乾いた布巾をとりに部屋を出た。
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友達のあだ名を考えるのが好きだった。中学のときなど、クラス全員のあだ名をノートに書いたこともある。さすがに、公表はしなかったけれども。
「こがっちとか、いいかな。かさっぺとか。苗字があれだから、たたらん、なんてかわいいよね」
独りでつぶやきながら、アイデアをひとつひとつ手元の紙に書き出してみる。親しくなるならまずは形からと、こだわるのが早苗なのである。
雲間にひさしぶりに青空が覗いて、たまっていた洗濯物が社務所の前ではためいていた。
遠く鳥居の前で、諏訪子がしゃがんで空を眺めている。のんびりと天狗がその上を飛んでいく。
「傘つながりで……カサノヴァ?」
自転車のことを話したおかげで、いろいろと思い出してしまった。こちらの世界に来る前のことを。友達のこと。暮らしていた町のこと。あの日撫でてくれた、父の手の感触。
だから責任をとってもらうしかない。ヒビの入った卵のカラみたいな心のまま、放置されたのではかなわないのだ。いっそ粉々に砕けてしまってもいいから、もっと話をきいてほしい。
「カサブランカ?」
黒色凛々と揮毫して、早苗は筆を上唇と鼻先ではさむ。まだまだひねりが足りないかなぁ。
雨の夜から昨日でまる一週間、小傘は姿をみせなかった。気ままな妖怪のことだからと思いつつ、小さな不安が早苗の奥にこびりついている。嫌われたのかもと怖れている。それならこちらから会いに行ってみようかと思いつつ、いざとなるとどうも気恥ずかしい。
「……うらめしい、です、小傘さん」
雲の流れが早い。すっかり夏の威力を備えた日差しが、まだらに降り注いでくる。諏訪子の姿は見えなくなり、境内は静まり返っていた。
夕方までに雨が降ったなら。早苗は自分を追い込んでみる。雨が一粒でも降ったら、里まで下りなきゃいけない。そう決めた。そうして、枝ぶりの良さげな柳の下とか、人気のない地蔵堂の前とか。ゆっくり歩いてみればいい。
きっと唐傘の影が、早苗の影を包みこんで、気づかれていないと思っている能天気な声が、背中からかかるのだ。
『おどろけー』
<了>
早苗さんが凄くいい感じでした。
それにしても早苗さんのネーミングセンス、やはり幻想入りして正解かと。
「黒色凛々」意味はすごく伝わるのですが、後ろについている「揮毫」から推測して
墨痕淋漓なのかなと。こういう四字熟語があったとしたら余計なお世話でごめんなさい。
早苗さんを気遣って物に心なんてないと言った小傘ちゃんの優しさがいいですね。
スカート脱げて魔理沙の腰を抜かした……まさか穿いてなかった?
浮気物の漬物石。昔絵板で見た色んなオンナの元に転がり込む(撲殺的な意味で)漬物石ストーリーを思い出した。
この2人が、ますます好きに、なりました。
そう、しみじみという表現こそがピッタリの間柄ですね。
悲しい過去を抱いているほど、誰かの痛みがわかる。優しくできる。
早苗さんと小傘ちゃんが惹かれ合うのも、ある意味で必然なのかもしれませんな。
妙にしんみりとさせられた
ほわほわとした気持ちになりました。
なんだか幸せな感じです。優しい人(妖怪?w)の話しは何時だって気持ちがいいですね。
良かったんだ。とても。ここから、友達。
ご馳走様でした
‥で、今回は早苗の回りを大好きな近所のお姉さんに纏わりつく小学生の女の子のような小傘の可愛らしさにノックアウト(死語)でした♪ 早苗さんの相手の仕方というか距離の取り方も素敵です。
そして、後半の自転車のエピソードで「物は物よ。傘は傘だし、箒は箒なの」と自分自身の存在を否定するような事まで言って早苗を慰めようとする小傘の子供らしい、でも真摯な行動が切なくも愛おしかったです。
心優しい妖怪の友達と自由闊達な人間の友達、頼りがいのある神様の家族に囲まれた早苗さんの幻想郷での毎日はますます心豊かなものになっていくのでしょう。
> 親しくなるならまずは形からと、こだわるのが早苗
なるほど、納得です。でもネーミングセンスが八十年代なのはどうかと(笑) あ、幻想入りしているはずのネーミングセンスだから丁度いいのでしょうか?
途端に手放したくなくなるんですよね。単に片付けられないだけともいいますが。
雨と傘が呼び起こすそう旧くはない記憶。素晴らしいお話でした。
小説はこう書かないといけないんだなぁと思わせるような、背筋が引き締まる文章でした。ありがとうございます。
この空気、素晴らしいです。
ああ、「墨痕」ですね! 「なんだっけ、墨……ではじまる単語があったような。……黒?」ってな感じで迷走しておりました(汗)。うろ覚えで身についてなくって、いけませんね。
ここはこのままにしておきますけれど、コチドリさん、ありがとうございます。
お読みくださった皆様に感謝します。コメントひとつひとつにも背筋の引き締まる思いです……こちらこそ。毎度一括の返信で、すみません。
広く深く受け止めてくださって、本当にありがとうございます。
しかし東方キャラでやってるが故にさらに面白くなってる
自分もこういう話が書けたらなぁ
暖かく優しい話でした。
小傘のキャラ立てというか立ち回りの仕方というかも素敵でした。ていうかボク好み。
ストーリー全体に流れる空気が非常に良い話でした。
既に体を失われ、鍵だけが残った自転車が、今この二人を繋ぐ。いいですねえ。
この小傘の呼び方で悶える。死ぬ。
雨降りの後みたいに心が洗われる話でした。
やっぱりこがさなは最高だ!