「それでは、この問題分かる人!」
「はい!」
「はーい」
「はいはいっ!」
「よーし、じゃあ、前から二番目の君!」
「えっとね! えっとね! ここがこうだから……」
慧音の声と、まだ声変わりしていない子供達の声が、寺子屋の中に響く。
慧音は子供が黒板に書いていく答えを、うんうんと頷きながら見ている。
私はと言えば、何もする事が無く、掃除用具を入れる棚に背を預けてその様子を見ているだけだった。
「こうです!」
「うん、正解だ。はい皆、拍手ー」
パチパチパチ。
出来た子は褒めて伸ばす、が慧音の信条なのだそうだ。見ているこちらからすると何か気恥ずかしさというか、くすぐったさを覚える。
が、そういう事を気にしていては教師という仕事は勤まらないんだろうなぁ、とも思う。
「よし、それじゃ今日はお勉強の時間はここまでだ! ここからは――」
「え、おわり!? やった! いつもよりはやい!」
「うそ! もうおわりなの!?」
「やった! じゃあきょうはいっぱいあそべるね!」
「かえろかえろー!」
慧音の言葉を途中でさえぎり、ざわざわとしだす教室。
……あーあ。私は知らないよ。
思った直後、怒号が響き渡った。
「こらー! 人の話は最後まで聞く!」
騒いでいた生徒達が一瞬で静かになる。
「まったく、授業をちゃんと聞いていたかと思ったらすぐこれだ! だめだろう人の話はちゃんと最後まで聞かないと! いいか? そういう事ばかりしてると――」
ううん。これは長くなりそうだ。
ちらりと窓の外の景色を見やる。空の色は、すこし赤みがかり、日暮れが近い事を示していた。
視線を慧音に移す。お説教はまだまだ続いていた。
そろそろ助けてやるか。このままじゃ私も困るしね。
「つまり教育とは――」
「慧音、慧音」
若干脱線気味に思えたお説教を続ける慧音に話しかける。
「そのくらいでよくないか? 日も暮れちゃいそうだし、それに、このままだと私がここにきた意味がなくなって終わるような気がしてさ」
そう言って親指と視線で窓を示す。
慧音も時間の経過に気付いたようで、そうだな、と指を顎にあてて考える仕草をする。
「よし、お説教はここまでだ。たーだーし、今度人の話を最後まで聞かない子は頭突きだからな!」
その言葉で、子供達が縮み上がるのがよく見えた。
飴と鞭、使い分けてるなぁ。
「それで……えっと、何の話だったかな?」
「勉強はそこまでにして。だよ、慧音」
この先生さんは確かに知識もあるのだが、時々こういった天然のボケをかましてくれる。
まあ、それが楽しいといえば楽しいのだが。
「ああ、そうだったそうだった」
言って、ポンと手を叩く。
「えっと、ごほん。さっきの続きだが、勉強はここまでとして、今からは竹林で用心棒をしている妹紅先生に話を聞く時間とする。皆も人里の外の事は知りたいだろうし、妖怪の恐ろしさは知っておくべきだ。だから、質問がある人はどんどん質問するように」
「えっと、まあそんなわけだから、よろしくね」
軽く頭を下げる。すると、
「ねーねー、まよいのちくりんってなんなの? めーろ!?」
「ひとりでさとからでたらよーかいにたべられちゃうってほんと?」
「よーじんぼーってなにそれかっけー!」
「どんなおしごとなんですか?」
「よーじんぼーってことはねーちゃんつえーの? すっげー!」
矢継ぎ早の質問が、私を襲った。
想定していた以上の質問の多さと、多数の高い声の聞き取り辛さから視線で慧音に助けを求める。
笑顔で頷かれた。
頑張れ、って事ね……。手助けはありませんかそうですか。
仕方が無い、と思いなおし、息を吸って、吐く。うん、落ち着いた。
「はい静かに! ……うん、いい子だ。えっと、皆でいっせいに質問しないように。一人ずつ、手を上げて質問してくれると嬉しいかな」
子供達は素直に口を閉ざし、その変わりと言わんばかりに多くの手が天に向かって突き出された。
ちらりと慧音を見ると、感心したような顔でこちらを見ていた。
ま、ちょくちょく慧音の授業を見させられてたから、これくらいはね。
「えっと、それじゃあ、君から」
こうして、私の先生初体験は上々の出だしで始まった。
――――――――――――――――――――――――――――――
「お疲れ様、妹紅」
「ああ、ありがとう慧音」
ねぎらいの言葉に返事を返し、出されたお茶を受け取る。
先生体験を終えた私は、授業を終えた慧音と共に慧音の家に帰ってきていた。
「いやしかし驚いたな。妹紅があそこまでちゃんと子供達をまとめられるとは」
「いやいや。ただの慧音のものまねだよ」
「それでも大したものだよ。今後時々私の代わりに教壇に立ってほしいくらいだ」
「はは、言いすぎだって。それに、私が話せそうなことは今日で全部話しちゃったしね」
言って、我ながらよくあの怒涛の質問攻めを乗り切ったものだと苦笑する。
「……なあ妹紅」
急に神妙な顔持ちになってこちらを見つめてくる慧音。
「何? どうしたの慧音」
何故かその視線に気恥ずかしさを覚えて、お茶を一口すする。
しかしこちらのそんな気を知ってか知らずか、お構い無しに慧音は続ける。
「人里に、住む気は無いか?」
「……」
その言葉に、とっさに返事が出来ない。
口元にまた湯飲みを持って行き、お茶を飲むふうにして時間を稼ぐ。
「今日のおまえの様子なら、寺子屋で私と十分教師をやっていける。おまえが勉強は教えられないというのなら、その部分は私が補おう」
だから、と。
「教師をやって、私と一緒に暮らさないか?」
ずず、と音をさせまた一口すすり、湯飲みを床に置く。
「……ごめん慧音、ちょっと、考えさせて」
「……そうか、分かった」
このやり取りも、もう何度目になるか分からない。
教師が出来るから、という理由が付いてきたのが初めてなだけで、人里で一緒に暮らさないかという誘いは以前から何度もあった。
多分、私と輝夜の殺し合いをやめさせたいんだろう。
慧音が私の事を想ってくれているのは知っている。
でも、でも慧音、違うんだ。いくら輝夜と殺しあっても、私は死なない。むしろ私を殺しうるのは、その存在は……。
「……妹紅? 気に、障ったか?」
慧音が心配そうな顔でこちらをのぞきこんでくる。
考え事をしていたのだが、先の発言を気にしているのと勘違いされたらしい。
「いや、そんな事はないよ。その気持ちは、純粋に嬉しい」
ただ、と続ける。
「それでもやっぱり、私は……」
「ああ、分かったよ。もうこの話は無しだ」
そう言って空中を手刀で切る慧音。
慧音、それは子供向けのジェスチャーだよ……。
「それで妹紅、今夜は泊まっていくんだろう?」
「え? あ、ああ、そうだな……」
唇に右手の親指を当て、ふむ、と考える。
「ごめん。やっぱり今日は帰るよ」
「む。そうか、残念だな。でも、夕飯ぐらいは食べていってくれよ? 教師をやってもらったんだ、それくらいのお礼はさせてくれ」
「ああ、それじゃ、喜んでご馳走になろうかな」
「ふふ、腕によりをかけて作るからな」
そういって腕を捲るポーズをとり、こちらに笑いかける。私も笑い返す。
この時間が、幸せだった。
幸せに、思ってしまった。
「それじゃ、私はもう帰るね」
食事が終わり食後のお茶も頂き、そろそろ夜も深くなってきたのでお暇する事にした。
私はいいと言ったのだけれど、慧音は里の入り口まで送ってくれた。
「ああ。おまえに言っても釈迦に説法かもしれないが、気をつけてな」
「ふふ、ありがとう。おやすみ慧音」
「おやすみ、妹紅」
帰り道、暗い夜道を、私は一人で歩く。
思えば、夜道を怖いと思っていたのはいつの記憶だろうか。
少なくとも私が不死になったあの日には既に夜道で兵士を尾行していたのだから、さらに昔ということになる。
子供時代か……あんまりいい思い出は、無いかな。
そう思いながら、ふと空を見上げる。星の煌く夜空の中、真ん丸い月がこちらを見ていた。
不死になったあの日の事を思い出し、丸い月を見て、私は不意に感傷に浸りたくなった。
近場に腰を下ろせる場所は無いかと探すと、少し先に丁度良い大きさの岩があった。
あの上で、少し休もうか。
岩の上に座り、先ほどの考えを思い出す。えっと、何を考えていたんだったかな。
……そうだ、不死の事だったな。
再び月を見上げ、私が不死となる原因の薬を置いていったあいつの事を想う。
あいつは……父様を貶めた、あいつだけは……!
私が今不死である理由。不死となる事を決意させたその理由。
周囲が明るくなっている事に気づき、いつの間にか背から生えていた炎の羽を消す。
深呼吸して無理やり心を落ち着ける。すると、ふと先の言葉が思い出された。
『教師をやって、私と一緒に暮らさないか?』
背筋が、凍った。
背骨を引き抜かれて、代わりに氷柱を入れられたような。底冷えする恐ろしさだった。
私は、何を考えた? 何を、迷った?
そう。いつもは二つ返事で「ごめん」と返している場面。
それが、それが今日は、迷ってしまった。
一瞬その光景を思い浮かべ、それもいいかな、などと思ってしまった。
幸せを、感じてしまった。
私の体が震え始める。私は自分の体を抱く。怖い。怖い。
だって、世界は孤独なんだ。私にとっては十分な程。
だって、世界は狂ったものなんだ。私にとっては十分な程。
世界は廻り続けて、私を置いてけぼりにする。
私は言う。
「この世界は十分に孤独だよ」
思い浮かべられるのは、今日の夕食。慧音と一緒に笑いながら食べた、あの夕食。
私は言う。
「この世界は、十分に孤独だよ」
彼女も、私を置いていく。
この狂った世界は、必ずいつか私を独りにさせる。
そして私が幸せに感じた時間は、彼女が亡くなってから、間違いなく私を貫く。
今まで何度も経験してきた事だった。誰かと付き合えば、その想い出は私を突き刺すのだ。その付き合いが深いほど、深く、深く……。
事実、今私の胸は貫かれていた。過去、私を育ててくれた人、私の面倒を見てくれた人、私を親友と呼んでくれた人、私を育ての親と呼んでくれた子、私を……。数々の大事な人々の思い出が胸中に蘇り、心の臓を串刺しにしていた。
痛い……痛いよ、慧音。
ついその名前を呼んでしまう自分に気付き、震えが増す。恐怖が体を支配する。これらの私を食い殺さんばかりの胸の想いが、さらに増すというのか。私は、それに耐えられるのか。
「うあ、あああぁぁぁ……」
ついに堪え切れなくなり、私は泣いた。
この世界は十分に孤独だよ。
この世界は十分に狂ってるよ。
世界は廻り続けて、私を置いてけぼりにする。
私は言う。
「この……世界は……」
嗚咽交じりの言葉が続く。
「孤独、過ぎるんだよ、慧音ぇ……」
私の孤独な叫びは夜の闇に溶けて消えた。
頭の上の丸い月だけが、それを見ていた。
――――――――――――――――――――――――――――――
翌朝、私は自室の布団の上で目が覚めた。
上半身を起こし、辺りを見回す。
昨晩、あの後どうやって帰ったのかなんて覚えていなかった。
涙でにじむ視界が竹やぶをとらえた事だけ、おぼろげに覚えていた。
「……っ」
昨夜の事を思い出し、また胸が痛む。
この痛みを忘れるため、人と深く関わらず生きていたはずなのにな……。
どこで変わってしまったんだったか。嘘だ。本当は何故、誰に変えられてしまったのか、よく分かっていた。
慧音……。
あの優しい顔を思い浮かべる。
……駄目だ。もう、慧音には合わないようにしよう。
会えば、私は変わってしまう。宿敵の存在すら忘れ、幸せに浸ってしまう。
きっと私は苦しむだろう。悲しむだろう。泣き喚くかもしれない。
だが慧音と共にいればいつの日か、今別れる以上に恐ろしい痛みが私を襲う。
もう、沢山だった。これ以上なんて、とても増やせない。
このイレモノは、すでに張り裂ける寸前だった。
「ばいばい。慧音」
誰に言うでもなく、自分に誓うために私は呟いた。
昨夜あれだけ流したというのに。目から溢れるそれは、いつまでも私の頬を濡らし続けた。
――――――――――――――――――――――――――――――
あの日から、永遠亭に行く回数が増えた。
あいつも珍しがっていた。ここのところ仕掛けてくる事なんて殆どなかったのにねぇ、と。
しかしその言葉を放ったその顔は何故か嬉しそうで……それが私の苛立ちを加速させた。ありがたかった。
あの瞬間だけは何もかも忘れられるから。怒りに全てを任せて、命を奪い奪われるあの瞬間だけは。
一晩で何十何百の命を散らし、幾十幾百のも命を蘇らせる日々。
あのおせっかいな半獣と出会う前の日々が、戻ってきた。
――――――――――――――――――――――――――――――
その日、外は雨だった。
この天気では持ち前の炎も十全な力を振るう事は出来ない。
またこの数週間、永遠亭に通い詰めで殺し合いを続けていた為、疲労が溜まっていた。
疲労で死ぬ事はないのだが、その疲労が原因で殺し合いに負け越すのは御免だ。
今日は家で大人しくしているか。そう思い私は布団を敷き、まだ昼間であるにもかかわらず眠りに着いた。
コンコン。コンコン。
丁度まどろみ始めた頃、家の扉を叩く音に意識が引き戻される。
上半身を起こし扉を見つめる。
……こんな日に、護衛の依頼か?
あの半獣との関わりを絶つ事とした私だが、護衛の仕事は変わりなく続けていた。
理由はいくつかあるが、最も大きい理由は人恋しさだった。
これ以上幸せを覚えぬよう独りであろうと決めはしたが、それでもやはり独りに耐えられないのも人間だ。
だから刹那的な繋がりを求めた。護衛の仕事は、それには丁度良かった。
一緒に歩いて、相手の話を聞いて、たまに自分も話して。目的地に着いたら、はいおしまい。
きっと自分も相手も、数ヶ月してしまえば忘れてしまうような他愛のない会話。
残らない、その時だけの繋がり。
それでも、それでもその瞬間だけは独りではなくなるから。
……っと、雨の中あんまり待たせちゃ悪いな。
思考を打ち切り、布団から抜け出す。
扉に近づきながら、ノックを続けるその向こうの相手に声を投げる。
「はーい。今行くからちょっとお待ちをー」
ノックが止む。
「妹紅……? いるのか、妹紅?」
心臓が、大きく跳ねた。
この、声は……。
「私だ、慧音だ。よかった、今日はいてくれたんだな」
なんで、とは言わない。分かっていた事だ。
私はまだ彼女に何も告げていないのだから。
いつか言わなければならなかった。その時が、今来たというだけの話。
「突然寺子屋にも私の家にも顔を出さなくなって……心配したんだぞ? この家もいつ来ても留守だったし……」
それはそうだろう。彼女がここに来れる時間、つまり寺子屋のない夜は常に永遠亭に殺し合いに行っていたのだから。
今思えば毎夜永遠亭へ向かうのは、無意識のうちに彼女に会わないようにと考えていたのかもしれない。
「えっと、とりあえず中に入れてくれないか? お前とゆっくり話がした――」
「ごめん」
彼女の言葉が終わらぬうちに、その想いを突き放すように言う。
「……妹紅?」
心配そうな声で私の名前を呼ぶ。
「ごめん。もう、私に構わないでほしいんだ」
「……。何か、あったのか?」
意外にも、冷静な言葉が返ってきた。
もっと激情をぶつけられるものだと思っていたけれども……。
だが賢い彼女の事だ、私が姿を現さなくなった時点でこうなるかもと察していたのかもしれない。
「もうね、ダメなんだよ」
「何の、話だ?」
「私には、重すぎる。永遠の命は、永遠に人であり続ける事は。誰かと共にあり、誰かと幸せな時間を過ごす、そんな『人』である事は、無理なんだよ。私は誰かと共にいられない。必ず置いていかれ、残された想いに貫かれ、孤独に喰われる。『人』として生きるのは、もう耐えられないんだ」
扉の向こうから返事は返らない。
「私は、化け物になるべきだったんだよ。人と関わろうなんて思わず、復讐だけを考える復讐鬼になるべきだった。そうすれば……こんなに、こんなに苦しむ事はなかった!」
「……妹紅」
悲しみを帯びた声。
痛い。痛い。痛い。
「……だから、もう私に構わないでくれ。私を、苦しめないでくれ」
きっとこの言葉は彼女を傷つけるだろう。
私の事を嫌いになってくれれば。そう思って放った言葉だった。
「……辛いのか、妹紅」
確かめるように問いかけてくる。
「……ああ。辛い、辛いんだよ――」
ふとその名を呼びそうになるった口を、両手で押さえる。
「……そうか、分かった」
その言葉は、確かに望んでいた言葉のはずなのに。覚悟していた言葉のはずなのに。
なのに何故、私の目から流れるものは止まらないのか。
会話はそこで途切れた。
こちらにはもう語る言葉は無く、相手にも語れる言葉は無い。
終わった。私と彼女の全てが、今終わった。
私はふらふらと頼りない足取りで部屋の隅に歩いていく。
冷たい壁に背を預け、膝を折り尻をつく。
折った膝を抱え、そこに頭を乗せて、私は目を閉じた。
背にした壁から、雨が降る音が聞こえてくる。
今日はこのまま寝続けようと思った。
寝ている間に、きっとこの冷たさと雨音が全て持って行ってくれるだろう。
涙も、悲しみも、寂しさも、この胸の痛みも。全部、全部。
……持って行ってくれ。
そうして私の意識は、闇に落ちた。
――――――――――――――――――――――――――――――
鳥の鳴く声で目が覚めた。
辺りを見渡すと、既に窓から朝日が差し込んでいた。
疲労が溜まっているとはいえ、ここまで寝続けるとは……。
多分、体の疲労ではなく心の疲労の方が大きな原因だろう。
昨日の事を思い出すと、また私の胸からじわりと何かが溢れ始めた。
そう簡単に無くなるなら苦労は無い、か。
冷たくなった体を動かし、立ち上がる。
変な体勢で寝たためか、体中のあちこちから骨のなる音が聞こえてきた。
ふう、と一息つくと、お腹から情けない音が響いた。
……そういえば、昨日の朝から何も食べてないな。
どんな状況、心境であっても腹は空く。
別に食べなくても死にはしないが、やはり空腹感というのはどうにも耐え難い。
食料の貯蓄はあったかな、と考える。……無い。丁度昨日の朝、最後の燻製を食べきってしまったところだった。
仕方が無い、竹林にでも行って兎か何かでも狩ってこよう。そう思い、入り口まで行き、扉に手を掛けた。
「おお、いい天気だ」
扉を開くと、昨日が嘘のような晴天だった。
しかし雨は中々大降りだったらしく、あちこちに水溜りが出来ているのが見えた。
狩が面倒になりそうだなぁ、などと思いながら家の外に出る。
……。何で。何で?
「おはよう、妹紅。ようやくお前の顔が見れたよ」
「どうして、そこに……」
言葉が、うまく出せない。
視線の先には、家の壁にもたれかかりしゃがみこんでいる彼女。
「ああ。一晩、考えてみたんだけどな……やっぱり私には、お前から離れる事は出来ないみたいなんだ。我侭な、私の一方的な想いだけれど、お前を独りにさせたくはないんだ」
見れば、その衣服は上から下までずぶ濡れだった。
まさか本当に、あの雨の中、ずっと……?
「だから、なあ妹紅。もう一度、私と――」
そう言った彼女の体が傾く。
湿った音がして、水を吸った泥が跳ねる。
「慧音!? 慧音っ!」
名前を叫びながら倒れた慧音を抱き起こす。
「慧音、大丈夫!? ねえ、慧音!」
彼女の目が開く。
「ふふ、妹紅にこうして名前を呼んでもらうのも、久しぶり……だな」
「何言ってるんだよ! そんな場合じゃないだろう!」
見れば、彼女の顔は赤く、その口からは熱のこもった吐息が早い周期で吐き出されていた。
額に手を置いてみる。尋常な熱ではなかった。
いつの間にか、再び彼女の目は閉じられていた。また気を失ってしまったのだ。
「と、とにかく暖めないと!」
腕の中で眠る慧音を抱え、家の中に戻る。
揺らさないよう、丁寧に居間まで運び、囲炉裏の前で床に下ろす。
指を打ち鳴らし、指先に火を点す。その火を囲炉裏の中心へ。木の繊維が爆ぜる音がして薪が燃え始め、炎があがる。
「ごめん。ちょっとの辛抱だから、ここで待っててね」
そう言葉を残し、私は再び家を出る。
ぬかるんだ地面を蹴り、全力で竹林を駆け抜ける。
行き先は決まっていた。この数週間、毎夜通ったあの屋敷だ。
早く、早くあの医者に見せなければ。
しかし走れど走れど、流れる景色は殆ど変わらない。
この竹林はそういうものだと分かってはいるが、それでも変わらぬ風景は焦りを増加させる。
熱にやられながら、それでもこちらを見て名前を呼ぶ慧音の姿が脳裏に浮かぶ。
なんで……なんで私なんかのためにそこまで……っ!
死なせてはいけない。私なんかのために、あんな優しい慧音が死ぬのは間違っている。
大地を蹴る足にさらに力がこもる。周囲の竹が少なくなってきた。もう少しだ。
その門が見え、抜ける。庭も越え、屋敷の入り口まで来て、扉を開く。
まだ昼間であり診療所としても使われる屋敷には、簡単に入る事が出来た。
「おーい! 誰か! 誰かいないのか! 大変なんだ!」
中に向かって叫ぶ。
診療所なんだから入り口に誰かしら置いておけよ……!
確かに、こんな迷いの竹林奥までわざわざ来れるなら急患になるなんてことは無いかもしれないけどさ……。
普段ならどうでもいい事だが、今はその適当さが苛立たしい。
「はーい。えっと、診察の方ですかー?」
廊下の置くから声が聞こえる。あの月兎の声だ。
「あの医者を、永琳を呼んでくれ! 慧音が、慧音が!」
「! あんまり芳しくない状態みたいね。すぐ呼んでくるわ、待ってて!」
言ってすぐさま奥に戻っていった。
診療所としてのあり方はずさんだったが、それでもやはり医者の助手の端くれだった。
慌てた様子ですぐにあの医者を連れて来てくれた。
私の目の前に来た永琳は、私を見ると落ち着いた口調で質問を始めた。
「何か大変な事態なんですって? 患者の容態は? 呼吸は熱はどうだった?」
「呼吸は速くて荒かった、あとかなり熱っぽかった。熱は……このくらいだったと思う」
言って、炎を出す要領で自分の手の温度を調整。永琳に手を差し出す。
永琳が私の手を握り返し、眉をひそめて言う。
「半獣の妖怪とは言え、かなり高いわね……下手したら肺炎になっているかも。どちらにせよ、早く処置しないと危険だわ」
「そ、それじゃ早く私の家に!」
「……」
しかし何故か永琳は口を閉ざしてしまった。
「何やってるんだよ! 早くしないと危険なんでしょ! なら!」
「……それで、いいのね?」
「は? 何が?」
突然の問いかけの意味が分からずに私は聞き返す。
医者はふう、と一息つき、こちらに返事を返す。
「ここ数週間、貴女は毎夜うちに来ていたわね。その前までは殆ど顔を出さないくらいになっていたというのに」
永琳の瞳が私の目を捉える。
その深い瞳は、何もかもを見透かしているように思えた。
「大方、あの半獣との決別を決めたんでしょう。永遠を生きるものにとって、そうでない者とあり続ける事は、恐ろしいほどの毒になるものね」
同じ不老不死の者が、私を見て言う。
思えば、輝夜もこの永琳も、滅多に屋敷から出る事は無かった。
それはやはり、私と同じで……。
「で、どうするの?」
「……だから、何がよ……」
嘘だ。うすうす私はこの医者が何を問うているのか、分かってきてしまっている。
「あら。気付いているんでしょう? まあいいわ。言わないと受け止めてくれないようだし」
目を閉じ、一拍置いて、再び私を睨みつけて言う。
「あの半獣を助けてしまって、いいのね?」
やっぱり、そういうことか。
言葉を返せぬこちらを見据えて医者は続ける。
「貴女に言う必要もないだろうけれど、親しい人との別れは相当な苦痛を伴うわ。そう簡単に、切ったり直したりできるようなものではない。そして彼女を助けたいという事は、再び彼女に情が移っているという事よ。このまま彼女を助ければ、きっと最後。もう貴女は、あの半獣と別れる事は出来ない」
「……あんたは、精神科もできるのかい?」
「ええ。まあこの世の大体の知識は持っているからね」
同じ蓬莱人としての経験もね、と付け加える。
「それで、どうするの?」
再び問うてくる。冷たい言葉で、冷えた視線でこちらを射抜きながら。
「彼女を殺すの? それとも――貴女が死ぬの?」
「え? 師匠、それってどういう――」
「優曇華は黙ってなさい。これは、私達にしか分からない話よ」
「は、はい……」
やはりこの医者は分かっていた。この決断がどういう結末に行き着くのかを。
本人である私と同じか、もしかしたらそれ以上に。
だけど。
それでも、それでも。
見てしまったから。
呼んでしまったから。
彼女のあの顔を、姿を。慧音の、名前を。
「ああ、慧音を助けてやってくれ。私は……その道を選ぶよ」
「……そう、残念ね。姫が寂しがるわ」
「ははっ。それであいつに少しでも復讐できるなら、そんな最後もありかもね」
「口が減らないわね。まあいいわ。それじゃ、急ぎましょうか。助けると決めたからには、医者として全力を尽くすわ」
「ああ、頼む」
見れば、いつの間にか優曇華と呼ばれた月兎がトランクのようなものを抱えていた。
中には薬や機材が詰め込まれているのだろう。
私達は屋敷を後にし、庭に出る。
「患者は貴女の家にいるのよね? 場所は竹林の入り口近くでよかったかしら?」
その問いに、頷きで返す。
「そう。それなら、空を飛んで一旦竹林を出てまた入ったほうが早いわね」
そう言って宙に浮き、すぐさま空を飛び始める永琳。
私と優曇華も慌てて後に続く。
慧音、待っていてくれよ……。
――――――――――――――――――――――――――――――
「……これでよし。とりあえず、一命は取り留めたわ」
永琳と優曇華が、慧音から離れていく。
「もうこれで大丈夫なんだな! 慧音は助かるんだな!?」
掴みかからんばかりの勢いで言い寄る。
「ええ。しばらくは安静にしていないとだけれども」
「よ、よかったぁ……」
安心して腰が抜けてしまった。
起き上がろうとしても起き上がれない。不死の力も、こういったものは治してくれないらしい。
「とりあえず、薬を幾つか置いていくわね。書いてあるとおりに飲ませてくれればいいから。それと、まあ薬だけで大丈夫だとは思うけれど、一週間したら様子を見せに来なさい。様子がよろしくないようなら回復の経過を見て、また次の薬を出すわ」
「ああ分かった。助かったよ、ありがとう」
「まあ、恩を感じているならこれからも姫の遊び相手にでもなってあげて頂戴な」
「あいつへの復讐のことを言っているなら望むところだけれど、多分慧音が止めようとするだろうな」
「そう言うと思ったわ」
そう言って苦笑いを浮かべながら永琳が立ち上がる。優曇華もそれに続く。
「もう行くのか?」
「ええ。治療も済んだしね。ま、最後の人生、せいぜい楽しみなさいな」
「ああ、そうさせてもらうよ」
「?」
優曇華だけが意味が分からないという顔をしていた。
家の前まで二人を見送って、私は家の中に戻る。
寝屋ではなく囲炉裏のある部屋に敷かれた布団では、慧音が静かな寝息を立てていた。
その傍らに腰を下ろし、頭をなでるようにして右手の指を慧音の髪に通す。
さらさらとして気持ちのいい手触りだった。
かつて幸せを感じたあの時間は、守られた。
先ほど、永遠亭で永琳に言われた言葉を思い出す。
『彼女を殺すの? それとも――貴女が死ぬの?』
いいんだ。これで。
その決断に、後悔は無かった。
「……う、んん……」
髪で遊ぶこちらの動きが刺激になったのか、慧音の目が開かれる。
「あれ、妹紅、ここは……うわっ」
体を起こそうとするので、髪を弄っていた右手をおでこまで持っていき、そのまま慧音を抑える。
「安静に、だってさ。酷い熱なんだから、ちゃんと横になってないとダメだよ、慧音」
「む、そうなのか。どうりで少々視界がぼやけると……」
「ほら、布団掛けてあげるから」
「ああ、すまん」
右手が抑えたおでこには、水に濡らした手ぬぐいが置かれていた。
手ぬぐいはぬるくなっており、その役目を果たしていないようだった。
「おでこのこれ、ちょっと変えてくるね」
「すまんな、何から何まで」
「気にしないでよ。私と慧音の仲じゃないか」
言って、手ぬぐいを額から外す。
「ふふ、私達の仲、か。また、そう言ってくれるんだな、妹紅」
昨日の会話が思い出され、急に気恥ずかしくなる。
「あれは、その……ごめん。ちょっと色々あって、参ってた」
「いいさ、人間なんだ。そんな時もあるだろう」
そう言って、こちらに微笑んでくる。
「ありがとう、慧音」
私も笑みを返す。
「気にするな。それこそ、私達の仲、だ」
「それじゃま。お互い様、って事で」
「ああ」
この瞬間が、幸せだった。
続けられる限り、この時間を続けていこうと思った。
そう、終わりが来る、その日までは。
――――――――――――――――――――――――――――――
それから幾年もの月日が流れた。
私は慧音と共に人里に住むことにし、以前の用心棒の仕事以外にも、慧音の補佐として時々教壇にたったりもした。
二人が仕事を終え、帰ってきて、一緒にご飯を食べて、一緒に寝る。
時には村の人の手伝いで田畑の収穫を手伝ったりして、ご飯をご馳走になったりもした。
『人』としての生き方が、そこにはあった。
さらに幾年もの月日が流れた。
人としての日々は続いていた。
毎日同じ事を繰り返しで特にこれと言って大きな事は無いが、それでも幸せだった。
いや、特別な事はあったか。
遠い昔に私を肝試しの標的として襲ってきた巫女や悪魔の犬の葬式が行われた。寿命だった。
あいつらとはさほど深い付き合いも無く、あの肝試しの時と、あとは慧音に誘われてたまに行った宴会で一緒に飲んだ程度だったが、それでもやはり胸はちくりと痛んだ。
数え切れないほどの月日が流れた。
慧音はもう寺子屋には行かず、その仕事は私と、慧音が見つけてきた後任の半妖でこなしている。
慧音は、もう自由に動き回れない体になっていた。
幸せな時間の終わりが、迫っていた。
――――――――――――――――――――――――――――――
その日私は慧音の老病を抑える薬を貰うため、永遠亭に行っていた。
寺子屋での仕事が終わってから向かったので、帰りはかなり遅くなってしまった。
竹林を抜けしばらく歩いていると、遠い昔にどこかで見たような場所があった。
いつか、この世界は孤独だと、狂っていると、胸を裂かれたあの場所だった。
……。後悔は、無い。
あの時と似たような、感傷に浸りたいような気分になり、私はあの日と変わらぬ岩に腰掛けた。
……あっという間だったなぁ。
私と慧音の過ごした時間は、普通の人間の何倍何十倍もの時間だろう。
だが、私が今まで生きてきた時間に比べれば、この月日ですら半分にも満たない。
それに何よりも、幸せな時間というものは早く過ぎてしまうものなのだ。
それは、過去の私の大事な人たちとの経験で分かっていた。
あの人達の姿、思い出が浮かび、また胸中に痛みが生まれる。涙が溢れる。
数百数千もの年が流れた今でも、その想いはあの時と変わらず私を貫いていた。
だが私はしばらくこのまま、この痛みの中にいようと思った。
だって、この痛みを、過去への想いを感じる事も、もう出来なくなってしまうから。
だからせめて今は、今だけは。この痛みを存分に抱きしめたかった。
自らを抱き涙を流す妹紅の頭上。
真ん丸い月と、紅い何かが、彼女を見ていた。
――――――――――――――――――――――――――――――
トントン、と、家の扉が叩かれる音で眼を覚ました。
辺りを見回すと、一面闇。どうやらいつの間にか夜になっていたようだ。
老病で床に伏すようになってからというもの、体力の衰えからか起きていられる時間も著しく少なくなっていた。
しかし、こんな夜中に来客……?
いぶかしみながらも、その相手に声を投げてみる。
「はい、どなたでしょう?」
「私だよ、私。と言っても、覚えちゃいないかねぇ」
その声には聞き覚えがあった。確かあいつは……。
「レミリア。レミリア・スカーレットか」
「おや、まさか覚えていたとは。いやいや流石は知識と歴史の半獣だ」
本当に意外に思ったのか、それともおどけているのか。どちらとも取れるような口調で返してくる。
「それで、こんな真夜中に何用だ?」
「夜中なのは勘弁してくれよ。こちとらそういう種族でね。いやなに、散歩の途中で気になるものを見かけたんで、ちょっと寄ってみただけさ」
「気になる事?」
「まあこんな所で立ち話もなんだ。中に入れてくれるとありがたいんだけどね」
「あ、ああ、分かった」
床から出て、傍らの杖を持ち立ち上がる。
三つの足で折れた腰を運んでいく。足取りは、自分でも驚くほどつたないものだった。
扉の前まで来て、止め木を外し、扉を開く。ただそれだけの事で、私の息は上がっていた。
「はあ、はあ。ふう。さ、入ってくれ」
「……ずいぶんと老いたねえ。辛いなら言ってくれれば勝手に入ったんだけど」
言うと、レミリアの右腕から先がぼろぼろと崩れていき、蝙蝠の群れとなった。
「……そういう事は、先に言ってくれ。第一、礼節なんて気にするような奴ではなかっただろう、お前は」
苦笑して答える。
蝙蝠が再び集まり、右手を元に戻したレミリアが言う。
「いやね、これでもいい年だからねぇ。あの館の主として、そんな無作法な事はできないよ」
「ふふ。以前のお前からは考えられない台詞だな」
「ああ、そうかもしれない」
ふふ、とどちらとも無く笑う。
何か懐かしいな、などと思っていると、突然体が宙に浮いた。
「お運びしますわ、慧音お婆さん」
「何か気持ち悪いな」
「貴族だから老人子供には優しくしてはいるんだけれど、そう言われるとやる気がなくなるわね」
言いながらも、私を抱えて歩いてくれる。
「あそこの布団でいいのかしら?」
「ああ、すまんな」
よっ、という声と共に私の体が布団の上に下ろされる。
私は一息ついて、私の前に座るレミリアに言う。
「何年ぶり、だろうな」
「そうだねぇ、あの巫女達がいなくなってから、思い出すのが辛いとかで宴会も開かれてなかったからねぇ。まあ、数百年以上なのは間違いないわね」
「そうか……もうそんなに、経つのか」
「ええ」
言って、レミリアが目を閉じる。
多分、あのメイドの事を思い出しているのだろう。
「それで、散歩中に何を見たって?」
こんな古い知り合いともいえないような知り合いが尋ねてくるのだ、よほどの事なのだろう。
しかし答えはすぐには帰ってこなかった。
数秒、数十秒がたって、ようやくレミリアの目が見開かれ、こちらを見つめる。
「妹紅、だったかな? お前がよく一緒にいる不老不死のあいつの事なんだけど」
その言葉に、一つ、心臓が大きく脈打った。
「あいつ、死ぬよ」
私は目を瞑る。
一息、深呼吸をして目を開き、レミリアを見て言う。
「やはり、そうか」
「なんだ、知ってたのか」
意外だ、とでも言いたそうな顔で続ける。
「でもまあ、折角来たんだから言わせてくれよ。あいつの心はもう、とっくに限界だ。極限まで空気の詰まった風船のようなものでね。これ以上想いが詰め込まれれば、破裂する。まして今までにあいつが関わった人間は長く生きて百年。その想いが数個あるだけで破裂しそうだというのに、お前と過ごした歴史は千数百年。どう考えても、容量オーバーだ。破裂して、何も残らない」
こんなふうに、と胸の前に両拳をもって行き、その拳を開きながら左右に広げてみせる。
「不老不死、とはよく言ったもので、体は老いず、死ぬ事もない。だがそれだけだ。それだけなんだ。心までは、不老不死にできない。実際、精神は年を取っている。記憶は、思い出は確実に積み重ねられていっている。つまり。心は、死ぬ」
一拍置いて、どこか遠くを見るようにして続ける。
「私の見た彼女の運命は、中々に悲惨なものだったよ。お前が死んで、思い出に想いに食い殺され、彼女の心も死んだ。文字通り、蓬莱の人形となってしまった。何も考えず、何も想わず、ただそこにあるだけの、肉の人形。それだけじゃない。死んでも死んでも生き返る、しかも抵抗もしない肉の塊を妖怪や野生動物が放っておくはずがない。喰われては蘇り、貪られては蘇る、永遠のエサとなっていたよ」
その光景を想像しただけで凄まじい嘔吐感がこみ上げてくる。
あの妹紅が、妹紅が……。妖怪どもの、食料なんかに……!
皺だらけの手を握り締め、磨り減った歯を食いしばる。
予想していた事ではあった。このまま一緒にい続ければ、自分が居なくなったとき、彼女の心はきっと壊れてしまうだろうと。
そんな事はあの日、扉越しの彼女の声で分かっていた。
しかしそれでも、告げられた運命は私の想像をはるかに超えたものだった。
「私も『残された側』だしね。私の場合はたった一人ではあるけれど、共に過ごした年月もほんの数十年だったけれども、それでも、あいつの気持ちは痛いほど良く分かる。だから、まあ、おせっかいを焼きたくなったわけさ。だからここに来た」
そう言って、こちらを見据える。
「とは言っても、その様子じゃ、どうやったら運命を変えられるか、もう分かっているみたいだけどね」
そう、分かっていた。
心に決めていた。私はその道を選ぶと。
あの日、あの雨の日。妹紅の家の前で、彼女の叫びを聞いたときから。
その、方法は……。
「妹紅と私が共に過ごした歴史を、無かった事にする」
「正解」
私の言葉に、レミリアが返す。そこにふざけた様子は全く無かった。
「しかし、勧めに来た私が言うのもなんだけれど、あんたはそれでいいのかい?」
「ああ、いいんだ」
瞳を、まっすぐ見つめ返しながら言う。
「そうかい。もうとっくに決心はついていた、って事か。でも、それならば何故、あいつの運命は……」
そう言って考え込むレミリア。
確かに、言われてみればそうだ。私がその方法をとると決めていたというのに、何故妹紅の運命が、最悪のものに見えたのか。
私も一緒になって考えていると、レミリアがじっとこちらを見ていた。
「……どうした? 私の顔に何かついているか?」
「ああそうか。そういう事だったのか」
「……何の話だ?」
言葉の意味が分からず聞き返す。
「なあ、お前はいつあいつの歴史を改竄しようと思っていた?」
「え、それは……そのうちに、と」
そう、自分の死期が近いというのは分かっている。
だがそれでも、日々妹紅と暮らす日々が楽しくて、幸せで、中々実行できずにいた。
「やっぱりね。教えてあげるわ。今お前の運命を見て分かった。お前の命日は、今夜だよ」
「……そう、だったのか」
恐怖は無かった。
ただ、妹紅と暮らせる日々がもう終わりなのだという事実が悲しかった。
「まあ、最後のお別れがしたいなら手伝ってあげるわ。お前一人じゃ、あいつの歴史を弄った後はどうしようもないだろう?」
「そう言えば、そうだったな……。お願い、できるか?」
「ええ、任せておきなさい」
――――――――――――――――――――――――――――――
がらがらと音がして、入り口の引き戸が開いた。
「ただいまー。あれ、慧音、起きてたんだ」
囲炉裏の火に当たっている私を見て、妹紅が言う。
「ああ、お帰り妹紅。丁度さっき目が覚めてな」
「それはいいけど、横になってなくて大丈夫なの? あんまり無茶しないほうがいいよ」
「ありがとう。でも今日は調子がいいんだ」
「そう? ならいいけど。あ、何か食べる? おかゆでも作ろうか?」
言いながら、台所に行こうとする妹紅。
「いや、大丈夫だ。それよりも、ちょっと話したいことがあるんだ。こっちにきてくれないか?」
「ん? どうしたのなんか改まっちゃって。何か、あった?」
私の真剣味を帯びた言葉に、妹紅も何かを察したようだった。
台所へ行く足を止め。こちらへ来て、囲炉裏をはさんで反対側へ座る。
「妹紅、そっちじゃなく、こっちに来てはくれないか?」
「え? あ、ああ、分かったよ」
再び立ち上がり、囲炉裏を回って私の隣に腰を下ろす。
私はその妹紅の肩に寄りかかる。
「お、おい慧音、大丈夫か!?」
「ああ、大丈夫だよ。こうしていると、安心できるんだ。このままじゃ、駄目か?」
「いやまあ、大丈夫ならそれでいいんだけど……」
そう言って私の老いた体を右手で抱きしめる。
何年月日が流れても、その腕の中は温かいものだった。
「それで? 話って、何?」
私は一度大きく深呼吸をして、言う。
「なあ妹紅。思えば私達が出会ってから、色々な事があったな」
私の言葉に、ぴくりと妹紅の体が動いた。
「と、突然何を言い出すんだよ、慧音」
少し震えた声。
「出会ったばかりのお前は無愛想で、『私に構うな』なんて言っていて」
「慧音? 何、を……」
「あの肝試しの後あたりからだったかなぁ。あの人間達との宴会もあって、ようやくお前が私と話してくれるようになったんだ。お前が何故不老不死であるのかとか、過去に何があったのかとかな」
「……て」
「また何十年か経って、ようやく私の家に通ってくれるようになったっけ。その頃だったかな、あの特別教師を頼んだのは。そういえば、壁越しにお前の叫びを聞いたあの雨の
日も、お前に看病してもらったあの日も、同じ年だったかな」
「……てよ」
「でも、あの事があったから、お前はここに来てくれたんだよな。一緒に寺子屋で子供達に授業をして、帰ってきて、一緒に家事をして、一緒にご飯を食べて、一緒に寝て。色んな所にも、一緒に行ったな。お前がいつか登りたいといっていた妖怪の山にも行った。あの時は天狗に追い返されそうになったけれど、どうにか山頂まで行けたんだったな。あの時お前と見た夕日は、綺麗だった」
「やめてよ!」
妹紅の声が響く。
「もう、やめてよ……。そんな、そんな、お別れみたいな話……嫌だよぅ……」
見れば、妹紅の瞳からは涙が溢れていた。
私はもはや水分の殆ど無い、しなびた手でその涙をすくって言う。
「なあ妹紅。私はこの千と数百年、とても幸せだったよ。お前は、どうだった?」
「幸せ……だったよ……。私、なんかには……もったいない、位に……」
その言葉を、目を閉じて胸のうちで反芻する。
「そうか。よかった。その言葉が聞けて」
言って、妹紅の腕から抜け、肩から体を離す。
「……! 待って! 行かないで! 慧音!」
離れた私の手を握って放さないようにして言う。
母親においていかれそうな子供のように、必死に。ただ、必死に。
「ごめんな、妹紅。お前に、こんな思いをさせてしまって」
言葉に、妹紅の肩がビクリと跳ねた。
「酷いよ……皆、皆私を置いていく……。置いていかれる事が、どんなに辛いか分かってるの!?」
叫ぶ。
大粒の涙を零しながら。
「どうして……どうして皆私を置いてくの! 独りぼっちは嫌なのに……私を――私を独りにしないでっ!」
「ごめんな……ごめん」
私には、謝る事しか出来なかった。
目の前で泣いている少女の叫びに、私は無力だった。
「許してくれ、妹紅」
その言葉で、泣き続ける妹紅の後ろに蝙蝠が集まる。
次の瞬間、それは人の腕となり、妹紅の首筋に打ち下ろされた。
「え……。慧、音……?」
重たい音がして、妹紅が床に倒れる。
中に浮いた腕に、さらに蝙蝠が集まり、形を形成していく。
元の姿に戻ったと同時に、レミリアは口を開いた。
「どこにも傷は無い、だから不老不死でもすぐには目覚めない。それにしても……」
床で気絶した妹紅を見つめて言う。
「痛い、ねぇ……。私の心まで掻き毟られたよ」
言って、宙を見るレミリア。
そう、妹紅の叫びは、私達の心をも裂いていた。
大切な人との、いくつもの別れ。
レミリアは一度だけ、私にいたっては妹紅を無くした事もないというのに、その叫びに心が軋んでいた。
「でも、残念ながらその痛みを感じている時間はない。早く終わらせるんだね」
「ああ、分かっている」
言って、妹紅の歴史を書き換えていく。
彼女との歴史を、彼女が、私や、そうでない誰かと共にあった歴史を。
「しかし大丈夫なのか? 確かお前の力は、今は歴史を作るだけだろう」
「そこは大丈夫だ。年をとってから、白沢状態ならどちらも出来るようになった」
「なった、ね。こうするために、できるようにしたんだろう?」
「さて、な。出来るなら、この力で蓬莱の薬を飲んだ歴史も変えられれば良かったのだが」
「それは無理だろう。不老不死という、世界の理、運命を捻じ曲げる薬なんだ。たかが一介の妖怪の能力でどうこうできるものじゃないさ」
「分かっているよ。なんとなく、言ってみたかっただけだ……」
膨大な歴史の歴史を書き換えるうちに、妹紅の記憶が流れ込んでくる。
気付けば、私は涙を流していた。
無駄だと分かっていても、この不死になってしまった歴史を消して、一人の普通の人間としての生涯を迎えさせてやりたかったのだ。
「なあ、レミリア」
「……何よ」
「この子を、頼めるか?」
「これから先も、って事かしら?」
「ああ」
「……」
困ったように頭を搔いて、言う。
「私もそれほど長く生きられるわけじゃないし、そもそもそんな義理も無い。でもまぁ……最悪の運命を避けさせるぐらいなら、やってあげるわ。残された者の、よしみでね」
「ああ、十分だ」
言っている間に、歴史の書き換えが終わった。
「これで、終わりだ。あとは、頼む」
「ええ、頼まれたわ。……葬式も告げなくて、いいのよね?」
「……ああ」
「そう」
言葉と共に、レミリアは妹紅を抱える。
「そろそろ目覚めてしまうだろうから、行くわ。何か言い残した事はある?」
「何も、無いかな。しいて言うならば、ごめん、かな」
「……ねえ、汚いかもしれないけれど、こいつが過去に関わった、あんた以外の大事な人の記憶を消してしまえば、あんたの記憶はこいつに残ったんじゃないの? そして最悪の事態も避けられたかも」
「……実はな、姑息な事に、改竄をしている最中に少しその考えが脳を掠めたんだ。でも、駄目だった。改竄している時に、見てしまったからな……その記憶を、想いを。私だけが、残るわけにはいかないよ」
「そうかい。どこまでもお人よしだね、あんたは」
「ああ。妹紅もそう言ってくれた」
ふっ、と笑みを浮かべ、レミリアは玄関に向かった。
「じゃあね、半獣。良い夢を」
そう言葉を残すと、外に出て、羽を広げ飛んでいった。
それを見送ると、途端に急激な眠気が襲ってきた。
視界が霞み、暗くなっていく。その歪んだ景色が、傾いていく……。
……ああ、いい夢が、見れそうだ。
――――――――――――――――――――――――――――――
目を覚まし、私は布団から這い出る。
寒い寒い、と呟きながら、指を打ち鳴らし、囲炉裏に火を点す。
そのままの足で台所へ。瓶に張ってあった水で顔を洗う……はずだったのだが、見ると瓶には何も入っていなかった。
……おかしいな、昨日水を汲んだと思ったんだけど。
不思議に思いつつ居間に戻ってみると、囲炉裏の火が消えていた。
点けた筈だよな? と思い囲炉裏を覗いてみると、燃やされるべき薪は既に炭化していた。
やけに早いなと炭を拾い上げてみると、ボロボロとすぐに崩れた。
どうやら、ちゃんとした炭に見えたのは表面だけで、中は殆ど空洞だったようだ。
……虫に食われた? これも昨日とってきたばかりの薪なのに。
どうにもおかしいな……。しかも、このままではちょっと不便だ。
仕方ない。水を汲んで、薪を取ってくるか。
そう思い、手の炭を囲炉裏の中に放り投げ、玄関に向かって歩く。
戸をあけて、外に出る。竹の間から覗く朝日が、まぶしかった。
さて行くか、と思い足を踏み出そうとするが、ふと我が家を振り返る。
いつもと変わらぬ私の家のはずだが……何故か、どこか歴史に取り残されているような気がした。
そろそろ建て替え時なのかなぁ、なんて考えていると、背後から人の気配がする。
「あの、ここが用心棒さんのお宅ですか?」
振り返ると、見た事のない少女が立っていた。
「ああ、そうだよ。永い永い間営業してきた、由緒ある用心棒の家さ」
「わあ、よかった。それらしい人がいないから、てっきり道を間違えたのかと」
「おや、用心棒の依頼かな?」
「ええ。この先の永遠亭まで、ちょっとお願いしたいんです」
その言葉に、私は眉をひそめる。
というのも、その行き先には頻繁に殺し合いをする、憎きあいつがいるからだ。
「あんなところに、何の用だい?」
「いえ、今日人里でお葬式が行われまして。なんでもその関係者さんに招待状を届けて欲しいとかで」
「ふうん、あいつらの知り合い、ね」
殆ど家から姿を出さないあいつらにそんなのがいるものかねぇ、とも思ったが、医者という家業なら命を助けた相手に是非来て欲しいと依頼されることもあったりするのかな、と思いなおす。
「まあいいや、その依頼、受けるよ」
「……え? いえ、それはありがたいんですけれど、その、用心棒の方はどこに?」
「ああ、知らなかったのかい? 私がその用心棒、藤原妹紅その人だよ」
「え? えええぇぇ?」
少女の疑問に満ちた声が、竹林にこだました。
「へぇー、それじゃ、もうずっと用心棒をやって一人で暮らしているの?」
「ああ、もう何千年もの間、ずっとね」
「え? 何千?」
「ちょっと色々あってね。ま、妖怪みたいなもんさ」
竹林で彼女を護衛する最中、少女はしきりに私について知りたがってきた。
どうにも自分と変わらない年背丈に見える私が用心棒なんてやっているのが不思議に思えているようだ。当たり前か。
「何千年かあ……色んな人の護衛をしたんだろうねー。ねえねえ、用心棒を頼んできた人の中に、何か面白い人とかいなかったの?」
興味津々という様子で聞いてくる少女。
肩をすくめて見せて、仕方ないな、と思いつつどんな奴がいたかを思い出していく。
「そうだねぇ……色んな人がいたよ。私を養子と間違える人、私を親友と間違える人、私を育ての親と間違える人、ああ、中には私に教師を頼んだ奴なんてのもいたな」
言って、その人たちの事を思い浮かべようとする。
しかし、名前も、顔も、用心棒の最中に何を話したかも思い出せなかった。
自分で少女に話したこと以外の事は、何一つ。
ま、相当昔の記憶だし、今までに何万人という人の用心棒やってるからなぁ。
「うふふ、何それ。色んな人に間違えられすぎだよ、そんなに珍しい髪の色しているのに」
「はは、そうだな。なんで間違えたんだろうなぁ」
二人で笑いあう。
だが彼女は突然笑うのをやめ、不思議そうにこちらを見つめて言う。
「……お姉さん、泣いてるの?」
「……え?」
言われて頬に手をやると、確かに涙が流れていた。
突然の涙に驚いているのは、目の前の少女よりも私の方だった。
「どこか、痛いの?」
少女が心配そうに問うてくるが、体にも心にも、どこにも異常はない。
しかし、何故か涙だけが、ただただ流れていた。
「おかしいな。どこも痛くも、何も悲しくもないのに……涙が、止まらないや……」
流れる涙に逆らうよう、ふと空を見上げる。
いつもと変わらない仕事、いつもと変わらない日常のはずなのに。
心の真ん中に、何かが足りなかった。
「はい!」
「はーい」
「はいはいっ!」
「よーし、じゃあ、前から二番目の君!」
「えっとね! えっとね! ここがこうだから……」
慧音の声と、まだ声変わりしていない子供達の声が、寺子屋の中に響く。
慧音は子供が黒板に書いていく答えを、うんうんと頷きながら見ている。
私はと言えば、何もする事が無く、掃除用具を入れる棚に背を預けてその様子を見ているだけだった。
「こうです!」
「うん、正解だ。はい皆、拍手ー」
パチパチパチ。
出来た子は褒めて伸ばす、が慧音の信条なのだそうだ。見ているこちらからすると何か気恥ずかしさというか、くすぐったさを覚える。
が、そういう事を気にしていては教師という仕事は勤まらないんだろうなぁ、とも思う。
「よし、それじゃ今日はお勉強の時間はここまでだ! ここからは――」
「え、おわり!? やった! いつもよりはやい!」
「うそ! もうおわりなの!?」
「やった! じゃあきょうはいっぱいあそべるね!」
「かえろかえろー!」
慧音の言葉を途中でさえぎり、ざわざわとしだす教室。
……あーあ。私は知らないよ。
思った直後、怒号が響き渡った。
「こらー! 人の話は最後まで聞く!」
騒いでいた生徒達が一瞬で静かになる。
「まったく、授業をちゃんと聞いていたかと思ったらすぐこれだ! だめだろう人の話はちゃんと最後まで聞かないと! いいか? そういう事ばかりしてると――」
ううん。これは長くなりそうだ。
ちらりと窓の外の景色を見やる。空の色は、すこし赤みがかり、日暮れが近い事を示していた。
視線を慧音に移す。お説教はまだまだ続いていた。
そろそろ助けてやるか。このままじゃ私も困るしね。
「つまり教育とは――」
「慧音、慧音」
若干脱線気味に思えたお説教を続ける慧音に話しかける。
「そのくらいでよくないか? 日も暮れちゃいそうだし、それに、このままだと私がここにきた意味がなくなって終わるような気がしてさ」
そう言って親指と視線で窓を示す。
慧音も時間の経過に気付いたようで、そうだな、と指を顎にあてて考える仕草をする。
「よし、お説教はここまでだ。たーだーし、今度人の話を最後まで聞かない子は頭突きだからな!」
その言葉で、子供達が縮み上がるのがよく見えた。
飴と鞭、使い分けてるなぁ。
「それで……えっと、何の話だったかな?」
「勉強はそこまでにして。だよ、慧音」
この先生さんは確かに知識もあるのだが、時々こういった天然のボケをかましてくれる。
まあ、それが楽しいといえば楽しいのだが。
「ああ、そうだったそうだった」
言って、ポンと手を叩く。
「えっと、ごほん。さっきの続きだが、勉強はここまでとして、今からは竹林で用心棒をしている妹紅先生に話を聞く時間とする。皆も人里の外の事は知りたいだろうし、妖怪の恐ろしさは知っておくべきだ。だから、質問がある人はどんどん質問するように」
「えっと、まあそんなわけだから、よろしくね」
軽く頭を下げる。すると、
「ねーねー、まよいのちくりんってなんなの? めーろ!?」
「ひとりでさとからでたらよーかいにたべられちゃうってほんと?」
「よーじんぼーってなにそれかっけー!」
「どんなおしごとなんですか?」
「よーじんぼーってことはねーちゃんつえーの? すっげー!」
矢継ぎ早の質問が、私を襲った。
想定していた以上の質問の多さと、多数の高い声の聞き取り辛さから視線で慧音に助けを求める。
笑顔で頷かれた。
頑張れ、って事ね……。手助けはありませんかそうですか。
仕方が無い、と思いなおし、息を吸って、吐く。うん、落ち着いた。
「はい静かに! ……うん、いい子だ。えっと、皆でいっせいに質問しないように。一人ずつ、手を上げて質問してくれると嬉しいかな」
子供達は素直に口を閉ざし、その変わりと言わんばかりに多くの手が天に向かって突き出された。
ちらりと慧音を見ると、感心したような顔でこちらを見ていた。
ま、ちょくちょく慧音の授業を見させられてたから、これくらいはね。
「えっと、それじゃあ、君から」
こうして、私の先生初体験は上々の出だしで始まった。
――――――――――――――――――――――――――――――
「お疲れ様、妹紅」
「ああ、ありがとう慧音」
ねぎらいの言葉に返事を返し、出されたお茶を受け取る。
先生体験を終えた私は、授業を終えた慧音と共に慧音の家に帰ってきていた。
「いやしかし驚いたな。妹紅があそこまでちゃんと子供達をまとめられるとは」
「いやいや。ただの慧音のものまねだよ」
「それでも大したものだよ。今後時々私の代わりに教壇に立ってほしいくらいだ」
「はは、言いすぎだって。それに、私が話せそうなことは今日で全部話しちゃったしね」
言って、我ながらよくあの怒涛の質問攻めを乗り切ったものだと苦笑する。
「……なあ妹紅」
急に神妙な顔持ちになってこちらを見つめてくる慧音。
「何? どうしたの慧音」
何故かその視線に気恥ずかしさを覚えて、お茶を一口すする。
しかしこちらのそんな気を知ってか知らずか、お構い無しに慧音は続ける。
「人里に、住む気は無いか?」
「……」
その言葉に、とっさに返事が出来ない。
口元にまた湯飲みを持って行き、お茶を飲むふうにして時間を稼ぐ。
「今日のおまえの様子なら、寺子屋で私と十分教師をやっていける。おまえが勉強は教えられないというのなら、その部分は私が補おう」
だから、と。
「教師をやって、私と一緒に暮らさないか?」
ずず、と音をさせまた一口すすり、湯飲みを床に置く。
「……ごめん慧音、ちょっと、考えさせて」
「……そうか、分かった」
このやり取りも、もう何度目になるか分からない。
教師が出来るから、という理由が付いてきたのが初めてなだけで、人里で一緒に暮らさないかという誘いは以前から何度もあった。
多分、私と輝夜の殺し合いをやめさせたいんだろう。
慧音が私の事を想ってくれているのは知っている。
でも、でも慧音、違うんだ。いくら輝夜と殺しあっても、私は死なない。むしろ私を殺しうるのは、その存在は……。
「……妹紅? 気に、障ったか?」
慧音が心配そうな顔でこちらをのぞきこんでくる。
考え事をしていたのだが、先の発言を気にしているのと勘違いされたらしい。
「いや、そんな事はないよ。その気持ちは、純粋に嬉しい」
ただ、と続ける。
「それでもやっぱり、私は……」
「ああ、分かったよ。もうこの話は無しだ」
そう言って空中を手刀で切る慧音。
慧音、それは子供向けのジェスチャーだよ……。
「それで妹紅、今夜は泊まっていくんだろう?」
「え? あ、ああ、そうだな……」
唇に右手の親指を当て、ふむ、と考える。
「ごめん。やっぱり今日は帰るよ」
「む。そうか、残念だな。でも、夕飯ぐらいは食べていってくれよ? 教師をやってもらったんだ、それくらいのお礼はさせてくれ」
「ああ、それじゃ、喜んでご馳走になろうかな」
「ふふ、腕によりをかけて作るからな」
そういって腕を捲るポーズをとり、こちらに笑いかける。私も笑い返す。
この時間が、幸せだった。
幸せに、思ってしまった。
「それじゃ、私はもう帰るね」
食事が終わり食後のお茶も頂き、そろそろ夜も深くなってきたのでお暇する事にした。
私はいいと言ったのだけれど、慧音は里の入り口まで送ってくれた。
「ああ。おまえに言っても釈迦に説法かもしれないが、気をつけてな」
「ふふ、ありがとう。おやすみ慧音」
「おやすみ、妹紅」
帰り道、暗い夜道を、私は一人で歩く。
思えば、夜道を怖いと思っていたのはいつの記憶だろうか。
少なくとも私が不死になったあの日には既に夜道で兵士を尾行していたのだから、さらに昔ということになる。
子供時代か……あんまりいい思い出は、無いかな。
そう思いながら、ふと空を見上げる。星の煌く夜空の中、真ん丸い月がこちらを見ていた。
不死になったあの日の事を思い出し、丸い月を見て、私は不意に感傷に浸りたくなった。
近場に腰を下ろせる場所は無いかと探すと、少し先に丁度良い大きさの岩があった。
あの上で、少し休もうか。
岩の上に座り、先ほどの考えを思い出す。えっと、何を考えていたんだったかな。
……そうだ、不死の事だったな。
再び月を見上げ、私が不死となる原因の薬を置いていったあいつの事を想う。
あいつは……父様を貶めた、あいつだけは……!
私が今不死である理由。不死となる事を決意させたその理由。
周囲が明るくなっている事に気づき、いつの間にか背から生えていた炎の羽を消す。
深呼吸して無理やり心を落ち着ける。すると、ふと先の言葉が思い出された。
『教師をやって、私と一緒に暮らさないか?』
背筋が、凍った。
背骨を引き抜かれて、代わりに氷柱を入れられたような。底冷えする恐ろしさだった。
私は、何を考えた? 何を、迷った?
そう。いつもは二つ返事で「ごめん」と返している場面。
それが、それが今日は、迷ってしまった。
一瞬その光景を思い浮かべ、それもいいかな、などと思ってしまった。
幸せを、感じてしまった。
私の体が震え始める。私は自分の体を抱く。怖い。怖い。
だって、世界は孤独なんだ。私にとっては十分な程。
だって、世界は狂ったものなんだ。私にとっては十分な程。
世界は廻り続けて、私を置いてけぼりにする。
私は言う。
「この世界は十分に孤独だよ」
思い浮かべられるのは、今日の夕食。慧音と一緒に笑いながら食べた、あの夕食。
私は言う。
「この世界は、十分に孤独だよ」
彼女も、私を置いていく。
この狂った世界は、必ずいつか私を独りにさせる。
そして私が幸せに感じた時間は、彼女が亡くなってから、間違いなく私を貫く。
今まで何度も経験してきた事だった。誰かと付き合えば、その想い出は私を突き刺すのだ。その付き合いが深いほど、深く、深く……。
事実、今私の胸は貫かれていた。過去、私を育ててくれた人、私の面倒を見てくれた人、私を親友と呼んでくれた人、私を育ての親と呼んでくれた子、私を……。数々の大事な人々の思い出が胸中に蘇り、心の臓を串刺しにしていた。
痛い……痛いよ、慧音。
ついその名前を呼んでしまう自分に気付き、震えが増す。恐怖が体を支配する。これらの私を食い殺さんばかりの胸の想いが、さらに増すというのか。私は、それに耐えられるのか。
「うあ、あああぁぁぁ……」
ついに堪え切れなくなり、私は泣いた。
この世界は十分に孤独だよ。
この世界は十分に狂ってるよ。
世界は廻り続けて、私を置いてけぼりにする。
私は言う。
「この……世界は……」
嗚咽交じりの言葉が続く。
「孤独、過ぎるんだよ、慧音ぇ……」
私の孤独な叫びは夜の闇に溶けて消えた。
頭の上の丸い月だけが、それを見ていた。
――――――――――――――――――――――――――――――
翌朝、私は自室の布団の上で目が覚めた。
上半身を起こし、辺りを見回す。
昨晩、あの後どうやって帰ったのかなんて覚えていなかった。
涙でにじむ視界が竹やぶをとらえた事だけ、おぼろげに覚えていた。
「……っ」
昨夜の事を思い出し、また胸が痛む。
この痛みを忘れるため、人と深く関わらず生きていたはずなのにな……。
どこで変わってしまったんだったか。嘘だ。本当は何故、誰に変えられてしまったのか、よく分かっていた。
慧音……。
あの優しい顔を思い浮かべる。
……駄目だ。もう、慧音には合わないようにしよう。
会えば、私は変わってしまう。宿敵の存在すら忘れ、幸せに浸ってしまう。
きっと私は苦しむだろう。悲しむだろう。泣き喚くかもしれない。
だが慧音と共にいればいつの日か、今別れる以上に恐ろしい痛みが私を襲う。
もう、沢山だった。これ以上なんて、とても増やせない。
このイレモノは、すでに張り裂ける寸前だった。
「ばいばい。慧音」
誰に言うでもなく、自分に誓うために私は呟いた。
昨夜あれだけ流したというのに。目から溢れるそれは、いつまでも私の頬を濡らし続けた。
――――――――――――――――――――――――――――――
あの日から、永遠亭に行く回数が増えた。
あいつも珍しがっていた。ここのところ仕掛けてくる事なんて殆どなかったのにねぇ、と。
しかしその言葉を放ったその顔は何故か嬉しそうで……それが私の苛立ちを加速させた。ありがたかった。
あの瞬間だけは何もかも忘れられるから。怒りに全てを任せて、命を奪い奪われるあの瞬間だけは。
一晩で何十何百の命を散らし、幾十幾百のも命を蘇らせる日々。
あのおせっかいな半獣と出会う前の日々が、戻ってきた。
――――――――――――――――――――――――――――――
その日、外は雨だった。
この天気では持ち前の炎も十全な力を振るう事は出来ない。
またこの数週間、永遠亭に通い詰めで殺し合いを続けていた為、疲労が溜まっていた。
疲労で死ぬ事はないのだが、その疲労が原因で殺し合いに負け越すのは御免だ。
今日は家で大人しくしているか。そう思い私は布団を敷き、まだ昼間であるにもかかわらず眠りに着いた。
コンコン。コンコン。
丁度まどろみ始めた頃、家の扉を叩く音に意識が引き戻される。
上半身を起こし扉を見つめる。
……こんな日に、護衛の依頼か?
あの半獣との関わりを絶つ事とした私だが、護衛の仕事は変わりなく続けていた。
理由はいくつかあるが、最も大きい理由は人恋しさだった。
これ以上幸せを覚えぬよう独りであろうと決めはしたが、それでもやはり独りに耐えられないのも人間だ。
だから刹那的な繋がりを求めた。護衛の仕事は、それには丁度良かった。
一緒に歩いて、相手の話を聞いて、たまに自分も話して。目的地に着いたら、はいおしまい。
きっと自分も相手も、数ヶ月してしまえば忘れてしまうような他愛のない会話。
残らない、その時だけの繋がり。
それでも、それでもその瞬間だけは独りではなくなるから。
……っと、雨の中あんまり待たせちゃ悪いな。
思考を打ち切り、布団から抜け出す。
扉に近づきながら、ノックを続けるその向こうの相手に声を投げる。
「はーい。今行くからちょっとお待ちをー」
ノックが止む。
「妹紅……? いるのか、妹紅?」
心臓が、大きく跳ねた。
この、声は……。
「私だ、慧音だ。よかった、今日はいてくれたんだな」
なんで、とは言わない。分かっていた事だ。
私はまだ彼女に何も告げていないのだから。
いつか言わなければならなかった。その時が、今来たというだけの話。
「突然寺子屋にも私の家にも顔を出さなくなって……心配したんだぞ? この家もいつ来ても留守だったし……」
それはそうだろう。彼女がここに来れる時間、つまり寺子屋のない夜は常に永遠亭に殺し合いに行っていたのだから。
今思えば毎夜永遠亭へ向かうのは、無意識のうちに彼女に会わないようにと考えていたのかもしれない。
「えっと、とりあえず中に入れてくれないか? お前とゆっくり話がした――」
「ごめん」
彼女の言葉が終わらぬうちに、その想いを突き放すように言う。
「……妹紅?」
心配そうな声で私の名前を呼ぶ。
「ごめん。もう、私に構わないでほしいんだ」
「……。何か、あったのか?」
意外にも、冷静な言葉が返ってきた。
もっと激情をぶつけられるものだと思っていたけれども……。
だが賢い彼女の事だ、私が姿を現さなくなった時点でこうなるかもと察していたのかもしれない。
「もうね、ダメなんだよ」
「何の、話だ?」
「私には、重すぎる。永遠の命は、永遠に人であり続ける事は。誰かと共にあり、誰かと幸せな時間を過ごす、そんな『人』である事は、無理なんだよ。私は誰かと共にいられない。必ず置いていかれ、残された想いに貫かれ、孤独に喰われる。『人』として生きるのは、もう耐えられないんだ」
扉の向こうから返事は返らない。
「私は、化け物になるべきだったんだよ。人と関わろうなんて思わず、復讐だけを考える復讐鬼になるべきだった。そうすれば……こんなに、こんなに苦しむ事はなかった!」
「……妹紅」
悲しみを帯びた声。
痛い。痛い。痛い。
「……だから、もう私に構わないでくれ。私を、苦しめないでくれ」
きっとこの言葉は彼女を傷つけるだろう。
私の事を嫌いになってくれれば。そう思って放った言葉だった。
「……辛いのか、妹紅」
確かめるように問いかけてくる。
「……ああ。辛い、辛いんだよ――」
ふとその名を呼びそうになるった口を、両手で押さえる。
「……そうか、分かった」
その言葉は、確かに望んでいた言葉のはずなのに。覚悟していた言葉のはずなのに。
なのに何故、私の目から流れるものは止まらないのか。
会話はそこで途切れた。
こちらにはもう語る言葉は無く、相手にも語れる言葉は無い。
終わった。私と彼女の全てが、今終わった。
私はふらふらと頼りない足取りで部屋の隅に歩いていく。
冷たい壁に背を預け、膝を折り尻をつく。
折った膝を抱え、そこに頭を乗せて、私は目を閉じた。
背にした壁から、雨が降る音が聞こえてくる。
今日はこのまま寝続けようと思った。
寝ている間に、きっとこの冷たさと雨音が全て持って行ってくれるだろう。
涙も、悲しみも、寂しさも、この胸の痛みも。全部、全部。
……持って行ってくれ。
そうして私の意識は、闇に落ちた。
――――――――――――――――――――――――――――――
鳥の鳴く声で目が覚めた。
辺りを見渡すと、既に窓から朝日が差し込んでいた。
疲労が溜まっているとはいえ、ここまで寝続けるとは……。
多分、体の疲労ではなく心の疲労の方が大きな原因だろう。
昨日の事を思い出すと、また私の胸からじわりと何かが溢れ始めた。
そう簡単に無くなるなら苦労は無い、か。
冷たくなった体を動かし、立ち上がる。
変な体勢で寝たためか、体中のあちこちから骨のなる音が聞こえてきた。
ふう、と一息つくと、お腹から情けない音が響いた。
……そういえば、昨日の朝から何も食べてないな。
どんな状況、心境であっても腹は空く。
別に食べなくても死にはしないが、やはり空腹感というのはどうにも耐え難い。
食料の貯蓄はあったかな、と考える。……無い。丁度昨日の朝、最後の燻製を食べきってしまったところだった。
仕方が無い、竹林にでも行って兎か何かでも狩ってこよう。そう思い、入り口まで行き、扉に手を掛けた。
「おお、いい天気だ」
扉を開くと、昨日が嘘のような晴天だった。
しかし雨は中々大降りだったらしく、あちこちに水溜りが出来ているのが見えた。
狩が面倒になりそうだなぁ、などと思いながら家の外に出る。
……。何で。何で?
「おはよう、妹紅。ようやくお前の顔が見れたよ」
「どうして、そこに……」
言葉が、うまく出せない。
視線の先には、家の壁にもたれかかりしゃがみこんでいる彼女。
「ああ。一晩、考えてみたんだけどな……やっぱり私には、お前から離れる事は出来ないみたいなんだ。我侭な、私の一方的な想いだけれど、お前を独りにさせたくはないんだ」
見れば、その衣服は上から下までずぶ濡れだった。
まさか本当に、あの雨の中、ずっと……?
「だから、なあ妹紅。もう一度、私と――」
そう言った彼女の体が傾く。
湿った音がして、水を吸った泥が跳ねる。
「慧音!? 慧音っ!」
名前を叫びながら倒れた慧音を抱き起こす。
「慧音、大丈夫!? ねえ、慧音!」
彼女の目が開く。
「ふふ、妹紅にこうして名前を呼んでもらうのも、久しぶり……だな」
「何言ってるんだよ! そんな場合じゃないだろう!」
見れば、彼女の顔は赤く、その口からは熱のこもった吐息が早い周期で吐き出されていた。
額に手を置いてみる。尋常な熱ではなかった。
いつの間にか、再び彼女の目は閉じられていた。また気を失ってしまったのだ。
「と、とにかく暖めないと!」
腕の中で眠る慧音を抱え、家の中に戻る。
揺らさないよう、丁寧に居間まで運び、囲炉裏の前で床に下ろす。
指を打ち鳴らし、指先に火を点す。その火を囲炉裏の中心へ。木の繊維が爆ぜる音がして薪が燃え始め、炎があがる。
「ごめん。ちょっとの辛抱だから、ここで待っててね」
そう言葉を残し、私は再び家を出る。
ぬかるんだ地面を蹴り、全力で竹林を駆け抜ける。
行き先は決まっていた。この数週間、毎夜通ったあの屋敷だ。
早く、早くあの医者に見せなければ。
しかし走れど走れど、流れる景色は殆ど変わらない。
この竹林はそういうものだと分かってはいるが、それでも変わらぬ風景は焦りを増加させる。
熱にやられながら、それでもこちらを見て名前を呼ぶ慧音の姿が脳裏に浮かぶ。
なんで……なんで私なんかのためにそこまで……っ!
死なせてはいけない。私なんかのために、あんな優しい慧音が死ぬのは間違っている。
大地を蹴る足にさらに力がこもる。周囲の竹が少なくなってきた。もう少しだ。
その門が見え、抜ける。庭も越え、屋敷の入り口まで来て、扉を開く。
まだ昼間であり診療所としても使われる屋敷には、簡単に入る事が出来た。
「おーい! 誰か! 誰かいないのか! 大変なんだ!」
中に向かって叫ぶ。
診療所なんだから入り口に誰かしら置いておけよ……!
確かに、こんな迷いの竹林奥までわざわざ来れるなら急患になるなんてことは無いかもしれないけどさ……。
普段ならどうでもいい事だが、今はその適当さが苛立たしい。
「はーい。えっと、診察の方ですかー?」
廊下の置くから声が聞こえる。あの月兎の声だ。
「あの医者を、永琳を呼んでくれ! 慧音が、慧音が!」
「! あんまり芳しくない状態みたいね。すぐ呼んでくるわ、待ってて!」
言ってすぐさま奥に戻っていった。
診療所としてのあり方はずさんだったが、それでもやはり医者の助手の端くれだった。
慌てた様子ですぐにあの医者を連れて来てくれた。
私の目の前に来た永琳は、私を見ると落ち着いた口調で質問を始めた。
「何か大変な事態なんですって? 患者の容態は? 呼吸は熱はどうだった?」
「呼吸は速くて荒かった、あとかなり熱っぽかった。熱は……このくらいだったと思う」
言って、炎を出す要領で自分の手の温度を調整。永琳に手を差し出す。
永琳が私の手を握り返し、眉をひそめて言う。
「半獣の妖怪とは言え、かなり高いわね……下手したら肺炎になっているかも。どちらにせよ、早く処置しないと危険だわ」
「そ、それじゃ早く私の家に!」
「……」
しかし何故か永琳は口を閉ざしてしまった。
「何やってるんだよ! 早くしないと危険なんでしょ! なら!」
「……それで、いいのね?」
「は? 何が?」
突然の問いかけの意味が分からずに私は聞き返す。
医者はふう、と一息つき、こちらに返事を返す。
「ここ数週間、貴女は毎夜うちに来ていたわね。その前までは殆ど顔を出さないくらいになっていたというのに」
永琳の瞳が私の目を捉える。
その深い瞳は、何もかもを見透かしているように思えた。
「大方、あの半獣との決別を決めたんでしょう。永遠を生きるものにとって、そうでない者とあり続ける事は、恐ろしいほどの毒になるものね」
同じ不老不死の者が、私を見て言う。
思えば、輝夜もこの永琳も、滅多に屋敷から出る事は無かった。
それはやはり、私と同じで……。
「で、どうするの?」
「……だから、何がよ……」
嘘だ。うすうす私はこの医者が何を問うているのか、分かってきてしまっている。
「あら。気付いているんでしょう? まあいいわ。言わないと受け止めてくれないようだし」
目を閉じ、一拍置いて、再び私を睨みつけて言う。
「あの半獣を助けてしまって、いいのね?」
やっぱり、そういうことか。
言葉を返せぬこちらを見据えて医者は続ける。
「貴女に言う必要もないだろうけれど、親しい人との別れは相当な苦痛を伴うわ。そう簡単に、切ったり直したりできるようなものではない。そして彼女を助けたいという事は、再び彼女に情が移っているという事よ。このまま彼女を助ければ、きっと最後。もう貴女は、あの半獣と別れる事は出来ない」
「……あんたは、精神科もできるのかい?」
「ええ。まあこの世の大体の知識は持っているからね」
同じ蓬莱人としての経験もね、と付け加える。
「それで、どうするの?」
再び問うてくる。冷たい言葉で、冷えた視線でこちらを射抜きながら。
「彼女を殺すの? それとも――貴女が死ぬの?」
「え? 師匠、それってどういう――」
「優曇華は黙ってなさい。これは、私達にしか分からない話よ」
「は、はい……」
やはりこの医者は分かっていた。この決断がどういう結末に行き着くのかを。
本人である私と同じか、もしかしたらそれ以上に。
だけど。
それでも、それでも。
見てしまったから。
呼んでしまったから。
彼女のあの顔を、姿を。慧音の、名前を。
「ああ、慧音を助けてやってくれ。私は……その道を選ぶよ」
「……そう、残念ね。姫が寂しがるわ」
「ははっ。それであいつに少しでも復讐できるなら、そんな最後もありかもね」
「口が減らないわね。まあいいわ。それじゃ、急ぎましょうか。助けると決めたからには、医者として全力を尽くすわ」
「ああ、頼む」
見れば、いつの間にか優曇華と呼ばれた月兎がトランクのようなものを抱えていた。
中には薬や機材が詰め込まれているのだろう。
私達は屋敷を後にし、庭に出る。
「患者は貴女の家にいるのよね? 場所は竹林の入り口近くでよかったかしら?」
その問いに、頷きで返す。
「そう。それなら、空を飛んで一旦竹林を出てまた入ったほうが早いわね」
そう言って宙に浮き、すぐさま空を飛び始める永琳。
私と優曇華も慌てて後に続く。
慧音、待っていてくれよ……。
――――――――――――――――――――――――――――――
「……これでよし。とりあえず、一命は取り留めたわ」
永琳と優曇華が、慧音から離れていく。
「もうこれで大丈夫なんだな! 慧音は助かるんだな!?」
掴みかからんばかりの勢いで言い寄る。
「ええ。しばらくは安静にしていないとだけれども」
「よ、よかったぁ……」
安心して腰が抜けてしまった。
起き上がろうとしても起き上がれない。不死の力も、こういったものは治してくれないらしい。
「とりあえず、薬を幾つか置いていくわね。書いてあるとおりに飲ませてくれればいいから。それと、まあ薬だけで大丈夫だとは思うけれど、一週間したら様子を見せに来なさい。様子がよろしくないようなら回復の経過を見て、また次の薬を出すわ」
「ああ分かった。助かったよ、ありがとう」
「まあ、恩を感じているならこれからも姫の遊び相手にでもなってあげて頂戴な」
「あいつへの復讐のことを言っているなら望むところだけれど、多分慧音が止めようとするだろうな」
「そう言うと思ったわ」
そう言って苦笑いを浮かべながら永琳が立ち上がる。優曇華もそれに続く。
「もう行くのか?」
「ええ。治療も済んだしね。ま、最後の人生、せいぜい楽しみなさいな」
「ああ、そうさせてもらうよ」
「?」
優曇華だけが意味が分からないという顔をしていた。
家の前まで二人を見送って、私は家の中に戻る。
寝屋ではなく囲炉裏のある部屋に敷かれた布団では、慧音が静かな寝息を立てていた。
その傍らに腰を下ろし、頭をなでるようにして右手の指を慧音の髪に通す。
さらさらとして気持ちのいい手触りだった。
かつて幸せを感じたあの時間は、守られた。
先ほど、永遠亭で永琳に言われた言葉を思い出す。
『彼女を殺すの? それとも――貴女が死ぬの?』
いいんだ。これで。
その決断に、後悔は無かった。
「……う、んん……」
髪で遊ぶこちらの動きが刺激になったのか、慧音の目が開かれる。
「あれ、妹紅、ここは……うわっ」
体を起こそうとするので、髪を弄っていた右手をおでこまで持っていき、そのまま慧音を抑える。
「安静に、だってさ。酷い熱なんだから、ちゃんと横になってないとダメだよ、慧音」
「む、そうなのか。どうりで少々視界がぼやけると……」
「ほら、布団掛けてあげるから」
「ああ、すまん」
右手が抑えたおでこには、水に濡らした手ぬぐいが置かれていた。
手ぬぐいはぬるくなっており、その役目を果たしていないようだった。
「おでこのこれ、ちょっと変えてくるね」
「すまんな、何から何まで」
「気にしないでよ。私と慧音の仲じゃないか」
言って、手ぬぐいを額から外す。
「ふふ、私達の仲、か。また、そう言ってくれるんだな、妹紅」
昨日の会話が思い出され、急に気恥ずかしくなる。
「あれは、その……ごめん。ちょっと色々あって、参ってた」
「いいさ、人間なんだ。そんな時もあるだろう」
そう言って、こちらに微笑んでくる。
「ありがとう、慧音」
私も笑みを返す。
「気にするな。それこそ、私達の仲、だ」
「それじゃま。お互い様、って事で」
「ああ」
この瞬間が、幸せだった。
続けられる限り、この時間を続けていこうと思った。
そう、終わりが来る、その日までは。
――――――――――――――――――――――――――――――
それから幾年もの月日が流れた。
私は慧音と共に人里に住むことにし、以前の用心棒の仕事以外にも、慧音の補佐として時々教壇にたったりもした。
二人が仕事を終え、帰ってきて、一緒にご飯を食べて、一緒に寝る。
時には村の人の手伝いで田畑の収穫を手伝ったりして、ご飯をご馳走になったりもした。
『人』としての生き方が、そこにはあった。
さらに幾年もの月日が流れた。
人としての日々は続いていた。
毎日同じ事を繰り返しで特にこれと言って大きな事は無いが、それでも幸せだった。
いや、特別な事はあったか。
遠い昔に私を肝試しの標的として襲ってきた巫女や悪魔の犬の葬式が行われた。寿命だった。
あいつらとはさほど深い付き合いも無く、あの肝試しの時と、あとは慧音に誘われてたまに行った宴会で一緒に飲んだ程度だったが、それでもやはり胸はちくりと痛んだ。
数え切れないほどの月日が流れた。
慧音はもう寺子屋には行かず、その仕事は私と、慧音が見つけてきた後任の半妖でこなしている。
慧音は、もう自由に動き回れない体になっていた。
幸せな時間の終わりが、迫っていた。
――――――――――――――――――――――――――――――
その日私は慧音の老病を抑える薬を貰うため、永遠亭に行っていた。
寺子屋での仕事が終わってから向かったので、帰りはかなり遅くなってしまった。
竹林を抜けしばらく歩いていると、遠い昔にどこかで見たような場所があった。
いつか、この世界は孤独だと、狂っていると、胸を裂かれたあの場所だった。
……。後悔は、無い。
あの時と似たような、感傷に浸りたいような気分になり、私はあの日と変わらぬ岩に腰掛けた。
……あっという間だったなぁ。
私と慧音の過ごした時間は、普通の人間の何倍何十倍もの時間だろう。
だが、私が今まで生きてきた時間に比べれば、この月日ですら半分にも満たない。
それに何よりも、幸せな時間というものは早く過ぎてしまうものなのだ。
それは、過去の私の大事な人たちとの経験で分かっていた。
あの人達の姿、思い出が浮かび、また胸中に痛みが生まれる。涙が溢れる。
数百数千もの年が流れた今でも、その想いはあの時と変わらず私を貫いていた。
だが私はしばらくこのまま、この痛みの中にいようと思った。
だって、この痛みを、過去への想いを感じる事も、もう出来なくなってしまうから。
だからせめて今は、今だけは。この痛みを存分に抱きしめたかった。
自らを抱き涙を流す妹紅の頭上。
真ん丸い月と、紅い何かが、彼女を見ていた。
――――――――――――――――――――――――――――――
トントン、と、家の扉が叩かれる音で眼を覚ました。
辺りを見回すと、一面闇。どうやらいつの間にか夜になっていたようだ。
老病で床に伏すようになってからというもの、体力の衰えからか起きていられる時間も著しく少なくなっていた。
しかし、こんな夜中に来客……?
いぶかしみながらも、その相手に声を投げてみる。
「はい、どなたでしょう?」
「私だよ、私。と言っても、覚えちゃいないかねぇ」
その声には聞き覚えがあった。確かあいつは……。
「レミリア。レミリア・スカーレットか」
「おや、まさか覚えていたとは。いやいや流石は知識と歴史の半獣だ」
本当に意外に思ったのか、それともおどけているのか。どちらとも取れるような口調で返してくる。
「それで、こんな真夜中に何用だ?」
「夜中なのは勘弁してくれよ。こちとらそういう種族でね。いやなに、散歩の途中で気になるものを見かけたんで、ちょっと寄ってみただけさ」
「気になる事?」
「まあこんな所で立ち話もなんだ。中に入れてくれるとありがたいんだけどね」
「あ、ああ、分かった」
床から出て、傍らの杖を持ち立ち上がる。
三つの足で折れた腰を運んでいく。足取りは、自分でも驚くほどつたないものだった。
扉の前まで来て、止め木を外し、扉を開く。ただそれだけの事で、私の息は上がっていた。
「はあ、はあ。ふう。さ、入ってくれ」
「……ずいぶんと老いたねえ。辛いなら言ってくれれば勝手に入ったんだけど」
言うと、レミリアの右腕から先がぼろぼろと崩れていき、蝙蝠の群れとなった。
「……そういう事は、先に言ってくれ。第一、礼節なんて気にするような奴ではなかっただろう、お前は」
苦笑して答える。
蝙蝠が再び集まり、右手を元に戻したレミリアが言う。
「いやね、これでもいい年だからねぇ。あの館の主として、そんな無作法な事はできないよ」
「ふふ。以前のお前からは考えられない台詞だな」
「ああ、そうかもしれない」
ふふ、とどちらとも無く笑う。
何か懐かしいな、などと思っていると、突然体が宙に浮いた。
「お運びしますわ、慧音お婆さん」
「何か気持ち悪いな」
「貴族だから老人子供には優しくしてはいるんだけれど、そう言われるとやる気がなくなるわね」
言いながらも、私を抱えて歩いてくれる。
「あそこの布団でいいのかしら?」
「ああ、すまんな」
よっ、という声と共に私の体が布団の上に下ろされる。
私は一息ついて、私の前に座るレミリアに言う。
「何年ぶり、だろうな」
「そうだねぇ、あの巫女達がいなくなってから、思い出すのが辛いとかで宴会も開かれてなかったからねぇ。まあ、数百年以上なのは間違いないわね」
「そうか……もうそんなに、経つのか」
「ええ」
言って、レミリアが目を閉じる。
多分、あのメイドの事を思い出しているのだろう。
「それで、散歩中に何を見たって?」
こんな古い知り合いともいえないような知り合いが尋ねてくるのだ、よほどの事なのだろう。
しかし答えはすぐには帰ってこなかった。
数秒、数十秒がたって、ようやくレミリアの目が見開かれ、こちらを見つめる。
「妹紅、だったかな? お前がよく一緒にいる不老不死のあいつの事なんだけど」
その言葉に、一つ、心臓が大きく脈打った。
「あいつ、死ぬよ」
私は目を瞑る。
一息、深呼吸をして目を開き、レミリアを見て言う。
「やはり、そうか」
「なんだ、知ってたのか」
意外だ、とでも言いたそうな顔で続ける。
「でもまあ、折角来たんだから言わせてくれよ。あいつの心はもう、とっくに限界だ。極限まで空気の詰まった風船のようなものでね。これ以上想いが詰め込まれれば、破裂する。まして今までにあいつが関わった人間は長く生きて百年。その想いが数個あるだけで破裂しそうだというのに、お前と過ごした歴史は千数百年。どう考えても、容量オーバーだ。破裂して、何も残らない」
こんなふうに、と胸の前に両拳をもって行き、その拳を開きながら左右に広げてみせる。
「不老不死、とはよく言ったもので、体は老いず、死ぬ事もない。だがそれだけだ。それだけなんだ。心までは、不老不死にできない。実際、精神は年を取っている。記憶は、思い出は確実に積み重ねられていっている。つまり。心は、死ぬ」
一拍置いて、どこか遠くを見るようにして続ける。
「私の見た彼女の運命は、中々に悲惨なものだったよ。お前が死んで、思い出に想いに食い殺され、彼女の心も死んだ。文字通り、蓬莱の人形となってしまった。何も考えず、何も想わず、ただそこにあるだけの、肉の人形。それだけじゃない。死んでも死んでも生き返る、しかも抵抗もしない肉の塊を妖怪や野生動物が放っておくはずがない。喰われては蘇り、貪られては蘇る、永遠のエサとなっていたよ」
その光景を想像しただけで凄まじい嘔吐感がこみ上げてくる。
あの妹紅が、妹紅が……。妖怪どもの、食料なんかに……!
皺だらけの手を握り締め、磨り減った歯を食いしばる。
予想していた事ではあった。このまま一緒にい続ければ、自分が居なくなったとき、彼女の心はきっと壊れてしまうだろうと。
そんな事はあの日、扉越しの彼女の声で分かっていた。
しかしそれでも、告げられた運命は私の想像をはるかに超えたものだった。
「私も『残された側』だしね。私の場合はたった一人ではあるけれど、共に過ごした年月もほんの数十年だったけれども、それでも、あいつの気持ちは痛いほど良く分かる。だから、まあ、おせっかいを焼きたくなったわけさ。だからここに来た」
そう言って、こちらを見据える。
「とは言っても、その様子じゃ、どうやったら運命を変えられるか、もう分かっているみたいだけどね」
そう、分かっていた。
心に決めていた。私はその道を選ぶと。
あの日、あの雨の日。妹紅の家の前で、彼女の叫びを聞いたときから。
その、方法は……。
「妹紅と私が共に過ごした歴史を、無かった事にする」
「正解」
私の言葉に、レミリアが返す。そこにふざけた様子は全く無かった。
「しかし、勧めに来た私が言うのもなんだけれど、あんたはそれでいいのかい?」
「ああ、いいんだ」
瞳を、まっすぐ見つめ返しながら言う。
「そうかい。もうとっくに決心はついていた、って事か。でも、それならば何故、あいつの運命は……」
そう言って考え込むレミリア。
確かに、言われてみればそうだ。私がその方法をとると決めていたというのに、何故妹紅の運命が、最悪のものに見えたのか。
私も一緒になって考えていると、レミリアがじっとこちらを見ていた。
「……どうした? 私の顔に何かついているか?」
「ああそうか。そういう事だったのか」
「……何の話だ?」
言葉の意味が分からず聞き返す。
「なあ、お前はいつあいつの歴史を改竄しようと思っていた?」
「え、それは……そのうちに、と」
そう、自分の死期が近いというのは分かっている。
だがそれでも、日々妹紅と暮らす日々が楽しくて、幸せで、中々実行できずにいた。
「やっぱりね。教えてあげるわ。今お前の運命を見て分かった。お前の命日は、今夜だよ」
「……そう、だったのか」
恐怖は無かった。
ただ、妹紅と暮らせる日々がもう終わりなのだという事実が悲しかった。
「まあ、最後のお別れがしたいなら手伝ってあげるわ。お前一人じゃ、あいつの歴史を弄った後はどうしようもないだろう?」
「そう言えば、そうだったな……。お願い、できるか?」
「ええ、任せておきなさい」
――――――――――――――――――――――――――――――
がらがらと音がして、入り口の引き戸が開いた。
「ただいまー。あれ、慧音、起きてたんだ」
囲炉裏の火に当たっている私を見て、妹紅が言う。
「ああ、お帰り妹紅。丁度さっき目が覚めてな」
「それはいいけど、横になってなくて大丈夫なの? あんまり無茶しないほうがいいよ」
「ありがとう。でも今日は調子がいいんだ」
「そう? ならいいけど。あ、何か食べる? おかゆでも作ろうか?」
言いながら、台所に行こうとする妹紅。
「いや、大丈夫だ。それよりも、ちょっと話したいことがあるんだ。こっちにきてくれないか?」
「ん? どうしたのなんか改まっちゃって。何か、あった?」
私の真剣味を帯びた言葉に、妹紅も何かを察したようだった。
台所へ行く足を止め。こちらへ来て、囲炉裏をはさんで反対側へ座る。
「妹紅、そっちじゃなく、こっちに来てはくれないか?」
「え? あ、ああ、分かったよ」
再び立ち上がり、囲炉裏を回って私の隣に腰を下ろす。
私はその妹紅の肩に寄りかかる。
「お、おい慧音、大丈夫か!?」
「ああ、大丈夫だよ。こうしていると、安心できるんだ。このままじゃ、駄目か?」
「いやまあ、大丈夫ならそれでいいんだけど……」
そう言って私の老いた体を右手で抱きしめる。
何年月日が流れても、その腕の中は温かいものだった。
「それで? 話って、何?」
私は一度大きく深呼吸をして、言う。
「なあ妹紅。思えば私達が出会ってから、色々な事があったな」
私の言葉に、ぴくりと妹紅の体が動いた。
「と、突然何を言い出すんだよ、慧音」
少し震えた声。
「出会ったばかりのお前は無愛想で、『私に構うな』なんて言っていて」
「慧音? 何、を……」
「あの肝試しの後あたりからだったかなぁ。あの人間達との宴会もあって、ようやくお前が私と話してくれるようになったんだ。お前が何故不老不死であるのかとか、過去に何があったのかとかな」
「……て」
「また何十年か経って、ようやく私の家に通ってくれるようになったっけ。その頃だったかな、あの特別教師を頼んだのは。そういえば、壁越しにお前の叫びを聞いたあの雨の
日も、お前に看病してもらったあの日も、同じ年だったかな」
「……てよ」
「でも、あの事があったから、お前はここに来てくれたんだよな。一緒に寺子屋で子供達に授業をして、帰ってきて、一緒に家事をして、一緒にご飯を食べて、一緒に寝て。色んな所にも、一緒に行ったな。お前がいつか登りたいといっていた妖怪の山にも行った。あの時は天狗に追い返されそうになったけれど、どうにか山頂まで行けたんだったな。あの時お前と見た夕日は、綺麗だった」
「やめてよ!」
妹紅の声が響く。
「もう、やめてよ……。そんな、そんな、お別れみたいな話……嫌だよぅ……」
見れば、妹紅の瞳からは涙が溢れていた。
私はもはや水分の殆ど無い、しなびた手でその涙をすくって言う。
「なあ妹紅。私はこの千と数百年、とても幸せだったよ。お前は、どうだった?」
「幸せ……だったよ……。私、なんかには……もったいない、位に……」
その言葉を、目を閉じて胸のうちで反芻する。
「そうか。よかった。その言葉が聞けて」
言って、妹紅の腕から抜け、肩から体を離す。
「……! 待って! 行かないで! 慧音!」
離れた私の手を握って放さないようにして言う。
母親においていかれそうな子供のように、必死に。ただ、必死に。
「ごめんな、妹紅。お前に、こんな思いをさせてしまって」
言葉に、妹紅の肩がビクリと跳ねた。
「酷いよ……皆、皆私を置いていく……。置いていかれる事が、どんなに辛いか分かってるの!?」
叫ぶ。
大粒の涙を零しながら。
「どうして……どうして皆私を置いてくの! 独りぼっちは嫌なのに……私を――私を独りにしないでっ!」
「ごめんな……ごめん」
私には、謝る事しか出来なかった。
目の前で泣いている少女の叫びに、私は無力だった。
「許してくれ、妹紅」
その言葉で、泣き続ける妹紅の後ろに蝙蝠が集まる。
次の瞬間、それは人の腕となり、妹紅の首筋に打ち下ろされた。
「え……。慧、音……?」
重たい音がして、妹紅が床に倒れる。
中に浮いた腕に、さらに蝙蝠が集まり、形を形成していく。
元の姿に戻ったと同時に、レミリアは口を開いた。
「どこにも傷は無い、だから不老不死でもすぐには目覚めない。それにしても……」
床で気絶した妹紅を見つめて言う。
「痛い、ねぇ……。私の心まで掻き毟られたよ」
言って、宙を見るレミリア。
そう、妹紅の叫びは、私達の心をも裂いていた。
大切な人との、いくつもの別れ。
レミリアは一度だけ、私にいたっては妹紅を無くした事もないというのに、その叫びに心が軋んでいた。
「でも、残念ながらその痛みを感じている時間はない。早く終わらせるんだね」
「ああ、分かっている」
言って、妹紅の歴史を書き換えていく。
彼女との歴史を、彼女が、私や、そうでない誰かと共にあった歴史を。
「しかし大丈夫なのか? 確かお前の力は、今は歴史を作るだけだろう」
「そこは大丈夫だ。年をとってから、白沢状態ならどちらも出来るようになった」
「なった、ね。こうするために、できるようにしたんだろう?」
「さて、な。出来るなら、この力で蓬莱の薬を飲んだ歴史も変えられれば良かったのだが」
「それは無理だろう。不老不死という、世界の理、運命を捻じ曲げる薬なんだ。たかが一介の妖怪の能力でどうこうできるものじゃないさ」
「分かっているよ。なんとなく、言ってみたかっただけだ……」
膨大な歴史の歴史を書き換えるうちに、妹紅の記憶が流れ込んでくる。
気付けば、私は涙を流していた。
無駄だと分かっていても、この不死になってしまった歴史を消して、一人の普通の人間としての生涯を迎えさせてやりたかったのだ。
「なあ、レミリア」
「……何よ」
「この子を、頼めるか?」
「これから先も、って事かしら?」
「ああ」
「……」
困ったように頭を搔いて、言う。
「私もそれほど長く生きられるわけじゃないし、そもそもそんな義理も無い。でもまぁ……最悪の運命を避けさせるぐらいなら、やってあげるわ。残された者の、よしみでね」
「ああ、十分だ」
言っている間に、歴史の書き換えが終わった。
「これで、終わりだ。あとは、頼む」
「ええ、頼まれたわ。……葬式も告げなくて、いいのよね?」
「……ああ」
「そう」
言葉と共に、レミリアは妹紅を抱える。
「そろそろ目覚めてしまうだろうから、行くわ。何か言い残した事はある?」
「何も、無いかな。しいて言うならば、ごめん、かな」
「……ねえ、汚いかもしれないけれど、こいつが過去に関わった、あんた以外の大事な人の記憶を消してしまえば、あんたの記憶はこいつに残ったんじゃないの? そして最悪の事態も避けられたかも」
「……実はな、姑息な事に、改竄をしている最中に少しその考えが脳を掠めたんだ。でも、駄目だった。改竄している時に、見てしまったからな……その記憶を、想いを。私だけが、残るわけにはいかないよ」
「そうかい。どこまでもお人よしだね、あんたは」
「ああ。妹紅もそう言ってくれた」
ふっ、と笑みを浮かべ、レミリアは玄関に向かった。
「じゃあね、半獣。良い夢を」
そう言葉を残すと、外に出て、羽を広げ飛んでいった。
それを見送ると、途端に急激な眠気が襲ってきた。
視界が霞み、暗くなっていく。その歪んだ景色が、傾いていく……。
……ああ、いい夢が、見れそうだ。
――――――――――――――――――――――――――――――
目を覚まし、私は布団から這い出る。
寒い寒い、と呟きながら、指を打ち鳴らし、囲炉裏に火を点す。
そのままの足で台所へ。瓶に張ってあった水で顔を洗う……はずだったのだが、見ると瓶には何も入っていなかった。
……おかしいな、昨日水を汲んだと思ったんだけど。
不思議に思いつつ居間に戻ってみると、囲炉裏の火が消えていた。
点けた筈だよな? と思い囲炉裏を覗いてみると、燃やされるべき薪は既に炭化していた。
やけに早いなと炭を拾い上げてみると、ボロボロとすぐに崩れた。
どうやら、ちゃんとした炭に見えたのは表面だけで、中は殆ど空洞だったようだ。
……虫に食われた? これも昨日とってきたばかりの薪なのに。
どうにもおかしいな……。しかも、このままではちょっと不便だ。
仕方ない。水を汲んで、薪を取ってくるか。
そう思い、手の炭を囲炉裏の中に放り投げ、玄関に向かって歩く。
戸をあけて、外に出る。竹の間から覗く朝日が、まぶしかった。
さて行くか、と思い足を踏み出そうとするが、ふと我が家を振り返る。
いつもと変わらぬ私の家のはずだが……何故か、どこか歴史に取り残されているような気がした。
そろそろ建て替え時なのかなぁ、なんて考えていると、背後から人の気配がする。
「あの、ここが用心棒さんのお宅ですか?」
振り返ると、見た事のない少女が立っていた。
「ああ、そうだよ。永い永い間営業してきた、由緒ある用心棒の家さ」
「わあ、よかった。それらしい人がいないから、てっきり道を間違えたのかと」
「おや、用心棒の依頼かな?」
「ええ。この先の永遠亭まで、ちょっとお願いしたいんです」
その言葉に、私は眉をひそめる。
というのも、その行き先には頻繁に殺し合いをする、憎きあいつがいるからだ。
「あんなところに、何の用だい?」
「いえ、今日人里でお葬式が行われまして。なんでもその関係者さんに招待状を届けて欲しいとかで」
「ふうん、あいつらの知り合い、ね」
殆ど家から姿を出さないあいつらにそんなのがいるものかねぇ、とも思ったが、医者という家業なら命を助けた相手に是非来て欲しいと依頼されることもあったりするのかな、と思いなおす。
「まあいいや、その依頼、受けるよ」
「……え? いえ、それはありがたいんですけれど、その、用心棒の方はどこに?」
「ああ、知らなかったのかい? 私がその用心棒、藤原妹紅その人だよ」
「え? えええぇぇ?」
少女の疑問に満ちた声が、竹林にこだました。
「へぇー、それじゃ、もうずっと用心棒をやって一人で暮らしているの?」
「ああ、もう何千年もの間、ずっとね」
「え? 何千?」
「ちょっと色々あってね。ま、妖怪みたいなもんさ」
竹林で彼女を護衛する最中、少女はしきりに私について知りたがってきた。
どうにも自分と変わらない年背丈に見える私が用心棒なんてやっているのが不思議に思えているようだ。当たり前か。
「何千年かあ……色んな人の護衛をしたんだろうねー。ねえねえ、用心棒を頼んできた人の中に、何か面白い人とかいなかったの?」
興味津々という様子で聞いてくる少女。
肩をすくめて見せて、仕方ないな、と思いつつどんな奴がいたかを思い出していく。
「そうだねぇ……色んな人がいたよ。私を養子と間違える人、私を親友と間違える人、私を育ての親と間違える人、ああ、中には私に教師を頼んだ奴なんてのもいたな」
言って、その人たちの事を思い浮かべようとする。
しかし、名前も、顔も、用心棒の最中に何を話したかも思い出せなかった。
自分で少女に話したこと以外の事は、何一つ。
ま、相当昔の記憶だし、今までに何万人という人の用心棒やってるからなぁ。
「うふふ、何それ。色んな人に間違えられすぎだよ、そんなに珍しい髪の色しているのに」
「はは、そうだな。なんで間違えたんだろうなぁ」
二人で笑いあう。
だが彼女は突然笑うのをやめ、不思議そうにこちらを見つめて言う。
「……お姉さん、泣いてるの?」
「……え?」
言われて頬に手をやると、確かに涙が流れていた。
突然の涙に驚いているのは、目の前の少女よりも私の方だった。
「どこか、痛いの?」
少女が心配そうに問うてくるが、体にも心にも、どこにも異常はない。
しかし、何故か涙だけが、ただただ流れていた。
「おかしいな。どこも痛くも、何も悲しくもないのに……涙が、止まらないや……」
流れる涙に逆らうよう、ふと空を見上げる。
いつもと変わらない仕事、いつもと変わらない日常のはずなのに。
心の真ん中に、何かが足りなかった。
自分の記憶を大切な人から消さなくてはならないってのは辛いですね
こんな辛い話を楽しめるわけがないでしょう…!
いや、小説を楽しむ、とかの意味でなら、充分以上に楽しめましたが。
あぁ、他の方法はなかったのかなぁ…。
大切な人との歴史がなくなるってのは、最上級に近い苦しみだと思います。
相手がそのことを自覚できないのが、余計に哀しい。
慧音が不老不死になろうとしたら……妹紅が止めるだろうなぁ…その苦しみをよく知ってるし。
ともかく、良いSSをありがとうございました。
ご評価とコメントありがとう御座います。
ですねえ。不老不死のお話は東方以外の本やゲームでも見かけますが、ハッピーエンドは殆ど無いように思えます。
>13
ご評価と身に余るコメント、ありがとう御座います。
辛いと思って頂けましたら恐悦至極。
他の方法、と言えばなのですが、書いている最中に妹紅は心が壊れたほうが幸せなんじゃないかとも思ってしまいました。
慧音は妹紅の凄惨な運命に耐えられずあの方法を選択しましたが、不老不死として心を持って生き続ける事は幸いかどうか。難しいです。
レミさんの介入は意外でしたなぁ。でも、なるほど、同情と言いますか……なるほど。
慧音がいなくなれば心が死に、慧音の歴史が無ければ心に穴がある状態で永遠を過ごさなければならない。拷問より辛いですね。
ご評価とコメント、ありがとう御座います。
置いていかれた者としての立場の一致から登場させてみましたが、やはりご都合主義間は否めませんよね。
この辺りも自然に見えるような文章が書き込めるよう、努力したく思います。