Coolier - 新生・東方創想話

あなたが……いけないんだ……

2010/04/13 22:49:26
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 ご主人様のためにあるのが、私の唯一の喜びだった。

 正義を貫く毘沙門天様のために生き、そのために死ぬ。
 妖怪である私を信頼し、側に置いてくださったあなた様のためなら。
 今すぐにでも喉笛を掻き切って見せよう。
 あなたの命令であれば、煮えたぎった油でも飲み干して見せよう。
 どれほどの苦痛があろうとも、あなた様の正義の糧となることができるなら、この血をいくら流しても厭わない。こんな汚らしい肉体をどれほど切り刻まれても構わない。
 だからずっと、あなたの側に。

 この私を置いてはくれないだろうか?


 そう、願っていたのに。


 敬愛する毘沙門天様は、私を。
 この私を……




 暖かい縁側に座りながら、そんな昔のことを思い出し。
 手をぎゅっと握り締めたとき。
 忍び足で近づいてくる大きな影が私の視界の隅に映る。
 その影はどんどん大きくなって、私と太陽の間に割って入り。気持ち良い午後の一時を無作法にも妨害してきた。
 このまま前を向いたまま寝たふりでもしてやろうかと思ったが。

「あ、あの? ナ、ナズーリン?」

 おずおず、と。申し訳なさそうに。
 黄色い短髪を揺らしてしゃがみ込み、なんとか私と目を合わせようとする。もう、なんというのだろう。そんな情けない『ご主人様』が両手を合わせて苦笑いするのを見て。
 かちん、と来た。
 なんだこいつは、と。嫌悪感すら覚えた。
 だから私は、にっこりと優しい笑みを浮かべてこうやって返すんだ。

「ん? なんだい? 『ご主人様』? 立派な『ご主人様』であるあなたが私に声をおかけ下さるということは、なにか大きな事件でもあったんだろう?」
「う゛っ!」
「ほら、なんでも言ってくれていいよ。『ご主人様』。あなたの血となり、肉となり、使命のために働くこのナズーリン。忠義を誓い尽くして見せようじゃないか」
「はぅっ!」

 私が親身な態度を見せ、胸に手すら当てて見上げれば。
 顔色を悪くした『ご主人様』が、別な意味でぎゅっと胸あたりの衣服を掴んで、あははははっと乾いた笑い声を上げていた。
 そして、こほんっと。
 大袈裟に前髪すら揺らして咳き込んで、意を決したように口を開く。

「お茶が……切れまして……」
「は?」
「正確に言うなら、使えなくなったといいましょうか」
「ハハッ、何を言っているんだ、昨日行商人から買ったばかりじゃないか。今朝もしっかり戸棚の中にあったはずだよ。私も飲んだからね」
「いえ、ですから、使えなくなってしまって……」
「……何を意味のわからな」

 私はそこで言葉を切った。
 この駄目主人は今、なんと言った。
 なくなった、ではなく、使えなくなった。という言葉を選んだのだ。
 と、いうことは……

「……茶葉を丸ごと零したね?」
「はい、すみません……あ、でも! ちゃんと掃除だけはしてきましたから、後片付けの方は心配をしなくても大丈夫です!」
「……後片付けの『方は』?」

 その言葉使いに嫌な予感がした私は咄嗟に聞き返していた。
 たぶん、どんどん冷めていく感情と共に。
 目つきがきつくなっていくのを実感しながら。

「……あはは、あの、実はですね。もうすぐ、高名な僧侶である聖様がいらっしゃることになっておりまして。お茶もないとあっては……風格が疑われるといいましょうか。毘沙門天様の名が傷つくといいましょうか……」
「つまり、買ってこいと?」
「……はい、できれば……早急に……」

 何が毘沙門天様の名が傷つくだ。
 あの聖とか言う女僧侶に格好が悪いところを見せたくないだけじゃないか。まったくこの駄目寅は、代理の分際でなんと図々しい。
 こんな小さなことのために、この私を使おうなどと。

「法衣は?」
「え?」
「法衣だよ、法衣。私にこのままの格好で人里に下りろというのかい? 耳と尻尾を隠せる服が必要だろう?」
「あ、はい。すぐ準備しますね! ありがとう、ナズーリン!」

 私が断るとでも思っていたのだろうか。
 肯定の意思を示した途端、これだ。
 目元からぱぁっと表情を明るくして、弾むような足取りで奥へと消えていく。さっきの忍び足がまるで嘘のようだ。
 でも、あんな嬉しそうな顔されると。
 あんな可愛らしい表情を見せられると。
 こちらも断りにくい

 わざと断ったときの。世界が終わってしまうような絶望の表情も見物だけどね。

「あ、ナズーリン! 頼みごとついでにまた一つお願いしたいのですが」

 私がそんなことを考えていると、また困った顔のご主人様が。
 廊下に面した部屋の一室から顔だけを出す。

「一つ頼みごとををされるのも二つされるのも一緒だよ」
「あ、そういってくれると助かります! で、では、ちょっと探し物をお願いしたいんですが」
「ふむ、それは私の本職だね。どんなものを探せばいいのか、教えてくれないかい?」

 今、縁側には持ってきてはいないが。
 ダウジングロッドとネズミの嗅覚を使った私の探査能力は特別でね。世界の中に存在するものであれば大方探し出すことができる。
 そんな自慢の能力を使えることに少しだけ胸を躍らせていると。
 ご主人様は、目を伏せて。
 小さな声で、こう言った。

「私の、財布を……」
「……ごぉ~しゅ~じぃ~ん~さぁ~まぁっ!」
「はは、あはははははっ……」
 
 新しい。
 私にとって二人目のご主人様は。
 後ろ頭を掻いて、苦笑いをする情けないヤツで。

「ああもう、ご主人様は救いようのない馬鹿だな」

 私はいつもの台詞を呟いていた。

 
 本当に、どうして。
 こんな毘沙門天代理の下で働けというのか。

 私は曇り始めた空を見上げて、はぁっと息を漏らした。





 


 今、ここに断言しよう。

 聖白蓮は偽善者だ。

 毘沙門天の下につくものならそれは誰でも知っている。
 変わった法衣を着込み、その容姿と法力で人間を騙し続ける偽善者。退治して欲しいと人々が願うのに、彼女は自身の長寿のため、永遠の若さのために妖怪を生かし利用する。人にとっても、妖怪にとっても偽善者でしかない。
 人の良い、温もり溢れる。
 あの表情は仮面でしかないというのに。

「ひ、聖白蓮様! ようこそおいでくださりました! 私は、この寺を管理しております毘沙門天代理、寅丸星でごじゃいまちゅ!」

 ごじゃいまちゅっ、てなんだご主人様よ。
 新種の挨拶か何かか。
 正座をして向き合い、聖が笑っただけでこれなのだから、まったく。そうやって緊張で木製のおもちゃのような硬い動きをするご主人様とは対照的に、客人の聖は口元に手を当てて楽しそうに肩を震わせていた。

「星ちゃん、だからそんな堅苦しい挨拶はいらないと言っているでしょう?」
「い、いえ。やはりお客様に対しては平等に接するべきかと」
「その態度がすでに平等の域を越えているんだがな、ご主人様」
「あら、那津ちゃんもお元気?」
「……今は三人しかいない。できればナズーリンと呼んでくれないか。毘沙門天様から頂いた名前なのでね」

 ナズーリンという名前では目立ちすぎるので、私はナズだけを取り。人前では『那津』というものを本名として利用している。その名前は聖の発案であり、正直その心遣いはありがたいと思う。
 この近くの山にいた妖怪たちの中で最も知的で力の強いご主人様を、毘沙門天の代理として奉り上げ山の治安の回復を図ったのも聖だ。しかし気に食わない。
 私は、この聖という人間がどうしても信じられなかった。
 ご主人様が無防備な笑みを浮かべる、この聖という人間が。
 何故か嫌いでしょうがない。

「こらナズーリン! 聖様の前で失礼じゃないか」
「ふん、どうせ。周辺で暴れている妖怪の情報が欲しいだけなんだろう。毘沙門天の手伝いをするのはいいが、その名を汚すような真似だけはしないようにね」
「ナズーリン!」
「いいのですよ、星。実際そのとおりなのですから。ナズーリンは言い方が直接的なだけ。全然悪いことではないでしょう?」
「それは、そうですが。私たちこそ聖様に依頼をする身であって、やはり部下が失言をするのは私の責任。どうかお心をお静めください」
「もう、真面目なんだから。星は」

 挨拶のときと同じように、正座しながら手をついて丁寧にお辞儀をする。畳に額が触れてしまいそうなくらい下げて、その場でできる限りの仕草で彼女を敬う。
 そんな姿を見ただけで。
 無性に腹が立つ。
 
 確かに相手は高名な僧侶、礼を尽くして然るべき相手。
 だが、毘沙門天の代理ともあろうものが、二度も深々と頭を下げる必要がどこにある。そこまで真摯な対応をしなければいけないものか、と。
 ふつふつと怒りにも似た感情が込み上げてくる。

「ご主人様、そろそろあの話をした方がいいんじゃないかな? 聖も忙しいだろうし」
「あ、そうでした。実はですね」

 ご主人様は、とある船幽霊のことを聖に説明する。
 船の中に水を入れ、沈めてしまう。そんな悪霊が最近頻繁に出没するということを。まあ、当然それは私の情報だ。正直言えば、この小さな地域だけならほぼすべての妖怪や悪霊の事件を把握してしまっている。それを小出しにしてご主人様に伝えるだけ。

「悪霊については退治して欲しいそうです。二度と悪さをしないように」
「わかりました、その依頼私が引き受けたと。依頼人の方にお伝えください」
「ありがとうございます、これで民も安心して漁ができることでしょう」

 もちろん、ご主人様も近場なら妖怪退治を行う。
 だから私は聖に、少し離れた事件の解決を依頼するよう。ご主人様に助言した。始めは聖に苦労をかけるのを嫌がったご主人様だったが、毘沙門天として判断してそう言っているのか、と、問い詰めると。わかった、と。重い唇を動かして了承してくれた。
 これでかなり効率的に平穏を守ることができるはずだ。
 
 聖が、本当に退治するのであれば、ね。

 私は軽く頭を下げて出て行こうとする。そんな聖の背中を見つめながら、天井裏で走り回る同胞を見上げた。





 聖の訪問から、一ヶ月は経っただろうか。

 相変わらず普段の生活の中では呆れるほど駄目なご主人様ではあるが。

 そんなご主人様でも、私を遥かに上回るものを持っている。
 長く暮らす度に当たり前のこととなって薄れてしまうが。
 間違いなく、ご主人様はいままで見てきたどの妖怪よりも優秀だ。

「ナズーリン。この書簡を里の長のところへ、そしてこっちは西の村へ」
「……二箇所を回れと言うのかい?」
「当然です。ナズーリンなら可能でしょう? 里からはまだ妖怪退治の依頼があるのですから、さぼっている時間はありませんよ?」

 書類の管理。
 経理。
 家事。
 そして法術まで。

 集中しているご主人様の手際は見事で、はっきり言って感嘆の声しか漏れない。
 手伝おうとする私自身が邪魔者のように思えてくるほどなのだから。今だって目にも止まらぬ早さで筆を走らせているというのに、字体は完璧。いったいどうやったらこんなことができるのかと不思議に思えてくるほどだ。
 
「それでは行ってくるが、ご主人様。山の近くで無闇に人を襲うはぐれ熊が出たという話があった。それは聞いているかい?」
「ああ、それなら、片付けました。毘沙門天様からいただいた槍を使うまでもありませんでしたし。こう、片手でぽんっと。依頼を終えたという書状を今ナズーリンに届けてもらいますので、はい、完成です! 今夜は熊鍋ですから道草せずに帰ってくるんですよって、どうしたんです? ぼぅっとして」

 なんという手際の良さか……
 そしてさすがこのあたりの妖怪の最高峰、片手で熊をあっさりとは。虎の名を持つことだけはある。

 いや、そんな力より。何より。
 そうやって真剣に仕事をするご主人様の顔は、とても綺麗だ。
 手伝いをしながらついつい視線で追ってしまう。
 いつもこんな凛々しい顔をしていればいいのに、と。
 心の中でつぶやいてしまうほどだ。

「ナズーリン?」
「い、いや、なんでもないよ。熊鍋を思い浮かべてしまっただけさ」
「おやおや、ナズーリンもなかなか食いしん坊ですね」
「ご主人様には劣るがね、じゃあ行ってくるよ」

 そう言って私は、二つの書状を持ち。寺を後にする。
 その道中を飛んでいければいいのだが。
 この山は人間たちの生活の一部でもある。
 どこで見られているかわからないので、顔の前まで隠れる法衣を着込み。早足で山を下るだけ。
 そうやって山を下っている最中に。
 
 茂みから一匹のネズミが飛び出してくる。

 それは野生の野ネズミではなく、言わずと知れた私の同朋。
 情報収集役の一匹だ。
 私はしゃがみ込み、人間がネズミを見て恐る恐る触る仕草を演じながら、そのネズミの声を聞く。
 人間にはちゅーちゅーとしか聞こえない声を聞き。
 私はそのネズミに背を向けて進んだ。

 正義の毘沙門天の使いとして求めていたものの一つ。


 聖が、船幽霊を退治せず。かくまった。


 毘沙門天と。
 毘沙門天代理を裏切ったという、確かな情報だった。
 







 しかし、私はそんな情報など使うつもりはなかった。
 何かあったときの切り札として持っておくだけで。
 それで満足だった。

 満足、だった。



 一緒に暮らしはじめて、何年になるだろう。
 最初は嫌悪していた星との生活も、それなりに楽しめるようになってきた。
 おっちょこちょいで、ドジなご主人様を支える役割が、自分の居場所だと思い始めたのかもしれない。
 普段の生活で見せる、あの何気ない仕草や。
 頼みごとを解決したときの、嬉しそうな顔。
 何故だろう、それを見る時間が多くなっている気がした。
 自分でも知らない間に、ご主人様の側に座っている。そして憎まれ口を言いながら、笑っているんだ。私が。
 
 皮肉をこめた笑い方しかできなかった私が。
 自然に笑っているって、ご主人様が言うんだ。

 可愛い。

 そうやって私をからかう。
 私が笑うたびに、いままでのお返しで。
 何度も、何度も。
 微笑みながら、可愛いって。
 そんなことを繰り返して言う。
 そうやって、馬鹿なことを言うから。
 私はご主人様の横にずっと居たくなる。

 気が付いたら……

 毘沙門天様と同じくらい、もしかしたら、それ以上の想いで。その側に居たくなってしまっていた。


 しかし、だ。
 ご主人様をよく見るようになって。
 理解、してしまった。


 ご主人様は、私に心から笑ってはくれはしない。
 どこか遠慮するようにしか。
 毘沙門天様から預かった品物のように、大事にするだけで。私に心を許してくれていない。
 私の前に薄く、頑丈な壁を作って。
 その先を見せてくれようとしない。
 その壁の先に、立ち入らせてくれない。
 ご主人様の本質がそこにあるというのに……

 私は、諦めきれなかった。
 諦められなかった。
 その壁の先に、ご主人様の影しかないのなら。
 もしかしたら諦められたかもしれなかった。


 でも、いるんだ。
 その壁の先に、もう、誰かいる。
 
 
 聖がいる。


 ご主人様は、笑うんだ。
 本当に屈託のない笑顔で。
 聖が来客したときだけ、まるで恋する女性のように笑う。
 私が壁の外で爪を立てているのに、それに気づいてもくれない。

 その瞳の中には私はいない。
 ただ目の前の女性しか見えていなくて。
 いくら私が声をかけても、私が付け入る場所がない。
 後ろを振り返ってもくれない。

 なんであの笑顔を私には向けてくれないのか。
 何故、もっと私を必要としてくれないのか。
 何故。
 何故――

 私が、弱いからか。
 私が、こんなにも小さく、醜いからか。
 私が、こんなにも意地汚い。馬鹿なネズミだからか。
 
 しょうがないじゃないか。
 どうしようもないじゃないか。
 聖のような美貌を持ってもいない。
 ご主人様を包み込めるような包容力もない。
 
 でも、もう、こんな。
 子供みたいな小さな胸に芽生えてしまったんだ。
 あなたへの想いが。
 どんどんと大きくなっていくんだ。


 あなたが聖に微笑むたびに。
 
 心の中で唇を噛む私がいるんだよ。

 なんで、どうして、と。
 
 あなたの遠慮するような顔を見るたびに、心が抉られるようなんだ。

 だから、私は……



「……ねえねえ、そこのお兄さん? 聖白蓮って人の話を知ってるかな?」



 噂を、流した。
 人間の裏切り者『聖白蓮』の噂を。








 人間の噂とは面白いもの。
 良い噂はそうそう広がらないというのに。
 悪い噂だけは、まるで波紋のように広がっていく。

 その噂はご主人様の耳にも入り、信じることはできないと私の前で怒りをあらわにしていた。聖には妖怪を退治して欲しくないという人が増え、ご主人様の負担は増えたけれど。

「苦労をかけるね、ナズーリン」
「いやいや、仕方のないことさ。聖の噂が消えるまでの辛抱ってところかな」

 なんと腹黒い女だろうか。
 心にもないことを言って、主人を励ます。
 急激に増えた職務の中で。私とご主人様はより多くの時間を過ごすようになった。
 聖も迷惑を掛けてはいけないと寺に近づかなくなり。
 私とご主人様だけの生活が始まった。

 これでいい、と。

 私は思っていた。
 もっと汚らしい言葉でいうなら。
 
 ざあまみろ、と。

 心の中でほくそ笑んでいたに違いない。
 情報操作を利用して、聖をこの場所にいられなくする。
 最低でもそれだけできればいいと思っていたが、効果は上々で。
 私とご主人様の仲を邪魔するものは居なくなった。

 ハハッ、ハハハッ。

 どうだい、この小さな賢者の実力は。
 たった少しだけ情報を操作するだけでこれだ。
 知は力なりとは、よく言ったもの。
 そうだ、これで私はご主人様とずっと、邪魔者なしで一緒に生活できる。
 平穏な生活を――

 そう、私が未来を。
 夢を描いたとき。

 誰かが、門を叩いた。


「……毘沙門天の御使いとお見受けするが」


 人の里の役人らしき人間が三人、訪問し。
 玄関の前で、土下座する。
 ご主人様の前で、必死に訴えるんだ。

「人間の敵、聖白蓮を封じてはくれないか」
「聖を、封じる……?」

 そうだ、そうだ、と。
 男たちは言う。
 船幽霊に殺された人間たち。
 その他、聖が荷担したという妖怪に家族を奪われた者たちは。
 聖を殺すだけでは飽き足らないのだという。

 封印し永遠の苦しみを。

 正義の名の元に。
 悪である聖白蓮に鉄槌を。

 男たちは、ご主人様の前で。
 額を擦り付けて言う。
 恨みを晴らしてくれ、と。
 涙を流して、訴える。

 私は、その場に出て行けなかった。
 法衣がなかったから。
 耳と尻尾がはっきりと現れた。
 妖怪の姿だったから。
 ご主人様を、すぐ側で支えることすらできなかった。

「……わかりました。受けましょう」

 それでもご主人様は笑っていた。
 私は、後ろの廊下の影から隠れていて、一瞬しか見えなかったが。
 確かに、一瞬だけ横を向くご主人様は、笑っていた。
 なのに私は、廊下の壁に体を預け、助言一つすらできず。
 ご主人様に、あんな辛そうな。
 あんな、悲しそうな笑顔をさせてしまった。
 
 ハ……、ハハッ……

 どうして、こうなる。
 なぜ、そこまで……
 単なる噂がどうしてここまで……

 私は、ぺたんっと冷たい廊下の上で座り込み。 
 ご主人様の変わりに涙を流す事しかできなかった。







 せめて、遠くに。
 異国の地に逃げていて欲しい。

 私は願った。
 怖いんだ。
 私の直感が何かを告げる。
 聖をご主人様が封じれば、何か必ず壊れる気がして。
 何かが必ず、終わる気がして。

 だからネズミたちを走らせた。
 聖が逃げる助けになるように、里の人に捕まらないよう。抜け道を案内しろと。

 でも、聖は逃げなかった。
 
 自分に罪があると言い。
 人間たちの前に姿を見せた。
 過去に、妖怪を私利私欲のために使ったことがある、と。
 正直に答えた。

 だから彼女は、私たちの目の前にいる。
 『毘沙門天の御使い』として。
 『その助手の人間の娘、那津』として。
 立会いを命じられた。
 見たこともない、聞いたこともない神社に案内され。
 重々しい雰囲気を纏った術者たちが集う部屋に入る。
 どうやら、立会いを許されたのは。私たちと、周辺の村や町の長だけ。

 聖を実際に封じるのは、ご主人様ではなく別の術者たち。
 白い服を着た、五人の男。
 ご主人様が手を下さなくてすんだのが、唯一の救いだった。
 

 そして、私とご主人様は見た。
 綺麗な、木製の祭壇の前でに連れて来られ。
 縄で全身を固定された、聖と顔を合わせた。

「あら、ごめんなさい。格好悪いとこ見せちゃったかしら」

 連れて来られたときに誰かが殴ったのだろうか。
 聖の顔は少しだけ腫れていた。
 それでもその姿は美しく。
 その身を縛り付ける縄が、酷く無粋に見えた。

 天井から。
 壁から。
 床から。

 まるで蜘蛛の巣にかかった蝶のように、縄で磔にされた聖。
 わずかな抵抗すらもさせないよう、縄には何枚もの呪符が巻きつけられており。その荒縄はその身を切り刻んでしまいそうなほど、食い込んでいた。

「聖……」

 私が不用意に手を伸ばせば。
 床に描かれた白い方陣から稲妻が伸び、用意に指先を弾いていく。
 それを見て、これを作ったと思われる
 術者の一人が慌てて私の肩を掴み。

「那津様! なんと無茶なことを!」

 怒鳴りつけてきた。
 つまり、そういうことだ。
 この結界は、人間なんて簡単に吹き飛ばせるほど。
 それほど強力な術式が込められている。

 そんな術の中央にいる聖がどれほどの苦痛を味わっているか。
 いくら肉体を強化していると言っても平気なはずがないのに。

「那津、大丈夫。心配しなくていいから」

 聖は、笑うんだ。
 私に微笑みかけるんだ。
 誰がこんなことをしたと思っているんだ、あなたは。
 誰のせいでこんな苦しみを受けていると。

 霞み始めた視界の中で、術者の一人が告げる。

「始めます」と

 彼の説明では。
 この術は異空間に彼女を封じるための術で。
 そこから抜け出すことは不可能だという。
 だから妖怪に組する罪人、『聖白蓮』が二度と甦ることはないだろう。

 はっきりとした口調で告げる。

 私は、ただ。
 ご主人様にすがる事しかできなかった。
 術式が進むたびに叫び声を上げる聖の姿を正視できなくて。
 背中に隠れ、震えるだけ。

 しかしご主人様は、その聖の姿をじっと見つめ。
 聖が叫んでも、微動だにしない。
 しかし……

 ぽたりっと。

 ご主人様の右手から、血の雫が落ちた。
 握り締められた拳から、ぽたりっと。
 静かに滴り落ちる。
 
 私がその、床に増え続ける赤い点に目を奪われていると……
 強い光がいきなり部屋全体を覆い。
 一瞬のうちに消えた。

 直後――

 信じられないことなのだが……
 その光の中心にいた聖の体の色薄れ始めた。
 いや、空気の中に解け始めたというべきか。
 まるで、世界が彼女を異物として判断し、消し去ろうとしているように。

 そんな神秘的で残酷な現実の中で。
 術者の男の一人が言う。

「もう彼女は抵抗できないはず、最後に一言ずつ恨み辛みをぶちまけてしまいなさい」と。

 私は、驚愕した。
 人間という種族に、初めて怯えた。

 ここまで……
 ここまで聖の存在を汚しておいて。
 最後に心まで汚そうというのか。
 どうしてここまでできる。
 お前達は、同じ種族ではないのか。
 同じような血と、肉を持つものではないのか。

 怯えて、立ちすくむ私の前で。
 村や町の長たちは、信じられないほどの大声で吐き捨てていく。

 一度は、妖怪を退治して貰い。
 感謝したことすらある人物を。
 まるで別な生き物のように見て、唾すら吐きかけようとする者もいた。

「いってきます。ナズ」

 そんな人間たちの罵声が終わりを告げると。
 私に一度微笑みかけてご主人様が祭壇の方へと歩みを進めた。
 ああ、きっとあのご主人様のことだ。
 泣き崩れて、聖にすがろうとするんだろう。

 そんな姿なんて、いらない。
 見たくもない。
 
 私の我侭が招いた、最悪の結末など。
 誰が凝視したいものか。
 卑しい私の感情は、こんな場面でもその姿を妬ましい物と思ってしまう。

「…………」
「…………」

 何を語り合っているのかしらないが。
 温和な表情で。
 まるで世間話をするように、小さな声で話をする二人。
 それを羨ましいと思う。
 愚か過ぎる自分がいる。

 この後、きっとご主人様は。涙を流して。

「え?」

 何もなかった。
 ご主人様は、涙を流すことも暴れる事もなく。
 安らかな笑みを浮かべたまま、私の側に戻ってきた。

 そして、とんっと。

 私の背中を押す。

「いってらっしゃい」

 優しい言葉で、私を押す。
 私は、そんな言葉に流されるまま。
 乱れきった感情のままで。
 祭壇へと、進んだ。

「こうやってお話したの、どれくらい前だったかしら」

 そこにはもう、消え去ってしまいそうなほど透明になった聖がいて。
 それでも優しく私を見つめていた。
 何事もないように声をかけてきて、私の心をより一層かき乱す。

「人間の癖に、『妖怪』を信じるからこうなるんだ」

 私は吐き捨てるように言った。
 ぐちゃぐちゃになった感情に流されて、今言える最高の悪態をついたつもりだった。
 でも、聖は言うんだ。
 何の迷いもなく、言うんだ。

「人間と妖怪は信じあえる。いつか一緒にお茶を楽しめるような時代がきっと来る」
「こないよ、いつか人間と妖怪は滅ぼし合う。人間同士ですら、疑心暗鬼でこんな仕打ちをするんだ。ありえないよ」
「大丈夫。きっと、星とあなたなら」

 なんでだ、なんで笑う。
 ここにいるんだぞ。

「両方を救ってくれる」

 あなたをその場に追い詰めた奴が。
 目の前にいるって言うのに。
 なんで、だよぉ。

「今まで、ありがとう。ナズーリン」

 ありがとうなんて、言われたら。
 私は、私は……

「あなたが……あなたが悪いんだ…… あなたが聖白蓮じゃなかったら……」

 我慢、できなくなってしまう。
 吐き出したくなってしまう。
 耐え切れなくなってしまう。
 抑えていはずの声が段々と大きくなり。
 手が震え、声も震え。
 目の前で像を結んでいたはずの聖の姿が、滲んでしまう。

「あなたより先に……ご主人様と出会えていたら……きっと……こんなことにならなかった!」

 そしてとうとう、私は告げた。
 咳込み、嗚咽を零しながら。
 その場に座り込みながら、告げた。

「ナズー……リン……? あなた……まさか……っ!」
 
 ああ、そうだよ。わかるだろう、聖。
 私の得意分野は情報収集だ。
 だから、この声だけで。わかるだろう。
 誰がこんな事態を引き起こしたか。
 誰がこんな馬鹿な結末へと導いたか。

「そう……ナズーリン……私はあなたを……」

 消え始め、荒縄が透明な体をすり抜けていく。
 そんな状況で、聖は私に真剣な瞳を向ける。
 無表情のまま縄をすり抜け、最後の力を振り絞るように私に近付いてくる。
 周囲の人間の術者がそれに気づき慌てて動き出すが、祭壇までは十尺以上ある。
 もう、間に合うものか。

 そうだ、聖。
 私を、傷つけてくれ。
 命を奪ったってかまわない。

 もう、嫌なんだ。
 
 辛いんだ。 

 聖が封じられるとわかってからも、微笑みかけてくれるご主人様の優しさが。

 一緒にいられることの幸せが。

 いつか嘘のように消えてしまう気がして。

 怖いんだ。

 ああ、そうだ。その手で壊してくれ。

 その最後の力で私を――


「聖白蓮は……あなたを未来永劫……許すと誓いましょう」


 ゆ……る……す……?

 はっを顔を上げる私に。
 私の頭の上に、消えそうな手を置いて。
 優しい笑みを向けてくる。
 あの包み込むような、母親のような暖かい微笑を。

「ま――! まてっ! 聖っ! 違う、違うんだそれは!」
「星ちゃんと、仲良くね♪」
「違う……そんな、聖……ぐっ!? ひ、ひじりぃっ!」

 聖が消える。
 それをなんとか止めようと私は手を伸ばした。
 しかし、まだこの世に存在する私を結界は拒み。
 また弾き飛ばそうとする。
 でも、そんなこと構うものか。

 例え腕がちぎれ飛んだとしても。
 そんな言葉で分かれるわけにはいかない。
 
 あなたは、私を許しちゃいけないんだ。
 卑怯者とか、愚者とか。
 せめて怨み言を残していくべきなんだ。
 ほら、早く私を罵ってくれ。

 早く。

 早く――

「お願いだ……お願いだよぉ……」

 でも、聖は消えた。
 笑いながら消えた。
 世界に否定されながら、私を許して、消えた。

 駄々をこねる子供のように。
 座り込んで地面を叩いても、もう聖は出てきてくれない。
 
 私を、貶し……

 傷つけてくれない。

「那津様、どうしたのですか! 聖に! 聖に何かされたのですか!」

 聖に触れられてから急に暴れだした私を見て、人間の術者たちは心配そうに覗き込んでくる。涙でぐしゃぐしゃになった私の顔を。心配そうに見てくれる。

 ああ、人間の術者が。

 あは、ハハッ、ニンゲン?

 ハハハハッ、いるじゃないか。私を傷つけてくれる奴が。
 
 私を、壊してくれるヤツが。

「ハハッ、何をされたか? ハハハッ、君たちは馬鹿か? 何もされていないよ。見ていてわからなかったのかい?」

 私はふらふらと立ち上がり、結界との衝突で傷ついた腕を頭に伸ばした。
 そこには法衣に隠されているだけの、決定的な代物がある。
 私が、何であるかの。
 決定的な証拠が。

 私は、うっすらと笑みを口元に残し。
 何のためらいもなく、法衣を脱ぎ捨てる。

「ほら、人間ども! お前たちの大嫌いな妖怪だぞ! ハハッ、どうする? どうしたい? ハハッ、アハハハハハッ!」

 私の本来の姿。
 ネズミの耳と尻尾を持つ。
 妖怪の姿。

 それを晒して私は笑う。
 精一杯、強気で笑う。
 
 さあ、壊せ。
 私を殺せ、と。
 震えながら、精一杯笑う。
 人間にその姿をさらす恐怖に耐えて、目に涙を溜めながら。
 
「あ、ああ……ば、化け物だ……」

 一人の村長の声で、術者たちが動き。
 やっとご主人様の目の色が変わった。
 そんなに必死な顔にならなくてもいいのに。
 どうせもう、手遅れだよ。

 私の周りには人間の術者が三人もいる。
 十分短時間で壊しきることができるだろう。
 
 やった。

 やっと、楽に……

「那津様……聖の呪いでこのようなお姿に……おいたわしや」
「……え?」

 予想外、だった。
 正面にいた術者が、震える手で私に触れてくる。
 哀れんだ目をして、私の耳に。
 尻尾に触れる。

「さわ、るなっ! 妖怪だ! 私は妖怪だといっているだろう! 君たちは馬鹿か! 大馬鹿者か!」

 私は叫ぶ。
 違うと、必死で叫ぶ。
 それでも術者たちは言う。
 悲劇だと。
 自分たちの不注意で、一人の人間が化け物に変わってしまったと。

 私を、被害者だという。

 ハハッ、ハハハハハハッ

 被害者?

 アハハ、アハハハハハハッ

 もう、いい。
 もう、たくさんだ。
 
 私は、狂ったように笑いながら正面の人間を払いのけると、
 まだ効果が残っている結界へと、その身を――

「ナズ……許して」
「あ……」

 トンッ

 私の首根っこに何かがあたる感触だけが。
 その日の最後の記憶に残った。






 そうだ、確かにこの日。

 『何か』が壊れた。

 私という存在が、どこか、壊れてしまった。




 私が気が付いたとき、すでに辺りは暗かった。
 あのまま、半日ほど寝てしまったのか。
 それとも一日以上か。

 時間と、日付の感覚がわからない。
 今理解できるのは、この胸の中に残ったやりきれない想いだけ。思い出しただけで、体が震え、吐き気がするほどの黒い感情。
 咳き込み、掛け布団の上に頭を抑えつけ。
 なんとかそれを押さえても。
 後に残った空っぽの自分に、思わず笑みが零れた。

「……全部、終わらせよう」

 乱れた服を直そうともせず。
 私は、法術の鍛錬所へ足を運んだ。

 今が深夜だとするなら、きっとご主人様はそこにいるはずだから。






 

「おや? ナズーリン起きたのですか?」

 コツっと。
 私の手の先が鍛錬所の木製の戸に触れただけで。
 ご主人様は私がこの場に来たものと悟る。

 さすがだ。
 さすが私の大好きなご主人様。
 
 私は扉を開け放ち、閉めることすらせずに微笑みながらご主人様に近づく。
 そうだ、あくまでもいつもどおり。
 しかし不適に。
 妖しい空気だけを纏って、私は近づいた。

 無駄に広い、静まり返った砲術の鍛錬所の中に。
 囲むように並べられた蝋燭の炎の揺らめきと。
 私の足音だけが残り。
 とん、とん、と私が歩いて空気を揺らすたび。
 部屋の中の影も、揺れる。
 そうやってご主人様の横に並んでから。

 一歩。
 二歩。
 三歩。

 くねる尻尾を見せつけるように、前に出て。

 とんっと。

「あ、こら!」

 身を翻して正面からご主人様に体当たり。
 それを単なる遊びととったか。
 座禅をしていたご主人様は、苦笑しながら私を叱り付けるが。

 違う、遊びなんかじゃないんだ。
 ご主人球。

「……ナズーリン?」

 私は体をぶつけてから、ご主人様の両肩を思いっきりつかんで。
 床へと押し込んだ。
 腰をつけていたせいで、私の不意打ちに耐えられず。
 床へ、背中を打ちつけた。

 私はそのまま馬乗りになり、ご主人様を押さえつけ。
 虚ろな瞳を驚く顔に向けて。
 その唇へと――

「……悪ふざけが過ぎますよ」

 私の唇が、ご主人様の唇に触れる前に。
 すっと。
 腕を払いのけたご主人様の右手が、私の喉に掛かる。
 そこにわずかな力が込められただけで、私の顔は引き離された。

「ふざけてなどないよ。ご主人様。私はいつからか、こうありたいと思ったんだ。あなたを単なる主人だと。毘沙門天の代理だと思えなくなった」
「何を、馬鹿な!」
「ああ、私は馬鹿さ。大馬鹿者さ。たったそれだけの欲望を叶えるために。聖の情報を人間の中に流して邪魔者を消し――」

 ぐるり、と。
 視界が回った。

 掴まれた首を中心に世界が反転し。
 急に背中や、尻尾に激痛が走ったかと思ったら。
 ご主人様が、私の上に馬乗りになっていた。
 首に、右手を掛けたままで。

「それで、あの会話ですか。ナズーリン」
「……やはり、聞こえていたね。ご主人様」

 あの扉の音が聞こえるくらいなのだ。
 ご主人様は私と聖のやり取りを聞いていたはずだと、私は思っていた。
 そしたら、案の定これだ。
 やっぱり、もう私に未来はない。
 手に入るものなんてなにもない。

「そうだよ、私が聖を追い詰め。封じさせる原因を作った。どうだいご主人様、部下に手玉に取られた気分は。大きな猫が、小さなネズミの投げた玉で右往左往する姿は滑稽だったよ。末代まで語りたいほどにね」
「言い残すことはそれだけですか、ナズーリン?」
「――っ!!」

 カチカチッと奥歯が震える。
 もう一言二言、皮肉を言うはずだったのに。
 口が動いてくれない。
 全身の筋肉が収縮し。
 身動き一つとることができない。

 ああ、これが。

 ご主人様の、殺気。
 虎の本性を具現化させた。
 獲物に有無も言わせない、圧倒的な気配。

 さあ、殺せ。

 そんな強がりを言う事すらできない。
 体が震え、ただ臆病な私の心に残ったのは……

「いやだぁ……いやだよぉ……」

 ただ、ご主人様が怖いという感情だけ。
 死ぬとか、そんなんじゃない。
 怖いんだ。
 ご主人様が怖くてたまらない。

 そうやって震える私の首に右腕が強く押し付けられ。
 ご主人様が左肩を。
 いや、左腕を上げる。
 その先の形は、手刀――

 いやだ……

 それが私の顔に迫る。

 いやだ……

 右眼の上に振り下ろされようとしている。
 
 いやだ……

 でも、私の願いを否定するように。
 指先が私の眼球を――

「いやだぁぁぁあああああああああああっ!!!!」

 私は叫んだ。
 目を瞑り、無駄と知りながら叫んだ。
 怖くて、どうしようもないほど、怖くて。
 
 ご主人様に抑えられた喉から、精一杯の声を絞り出す。

 でも、そんなものもう間にあわな――

「……怖かったでしょう?」

 声が聞こえる。
 さっきの、剥き出しの感情が乗った声ではない。
 いつもの、どこか惚けたご主人様の声が。

「下手に強がっていても、迷いがあればそうなります。どうしても生きたいと思って、体が恐怖するんです」
 
 私の右目の直上にある何かが離れていく、
 そんな気配がしておそるおそる目を開けたら。
 ご主人様の左腕がもう、かなり遠くにあった。
 
 助かった。

 そう思った瞬間。
 涙が溢れた。
 自分では泣いている気がしないのに、とめどなく流れてくる。

「私も、怖かったんですよ。ナズーリン。あなたはとても、私には眩しく見えた。でも強く抱き寄せたら壊れてしまいそうで、触れるのが怖かったんです。だからきっと、その恐怖があなたを苦しませた。私に拒絶されているとすら、感じたのかもしれません。ですからあなたは、こんな行動を取ったのですね……ナズーリン」

 こくり、と。

 私は頷く。
 それしかできなかった。
 めちゃくちゃだ。
 なんだこの茶番は。
 
 ご主人様の真意を聞き、私の心は震えた。
 でも、止めを刺された気がした。

 私は、馬鹿か、愚者か、間抜けか。

 やっぱり、私のせいじゃないか。
 私が一人で、誤解して。
 聖を、別な世界へと追いやってしまった。
 
 何も変わらない。
 やっぱり私が――

「そうです。ナズーリンあなたは許されざることをした。聖を慕う妖怪たちの心も、人間たちの心も傷つけた。あなたの責任は重大であるということに違いはありません」

 私が、全部悪い。
 ああ、そうだ。
 やっぱり救いなんてない。
 毘沙門天様の前では粋がって見せたけれど、
 本当の、臆病な私は、自分手で首を切ることなんてできない。
 
 こんな駄目な私がどうやって……
 
 生きていったらいいのだろう。
 どうやって償えばいいのだろう。
 もう、わからない。
 何もわからない。

 私はただ顔を腕で覆い、首を横に振る。
 しかし、首にかけられていた手がいきなり私の背に回り込んで。
 暖かい感触が私を包んで来る。

「迷ってもいいのです、ナズーリン。でも、これだけは信じてください」

 私は、もう何も考えずその温もりだけを求めた。
 必死に、腕を伸ばし背中を掴む。

「私と、聖は、あなたを未来永劫、許すと誓いましょう」

 このとき。
 私は本当に。

 主のためなら命を捨ててもいいと、誓ったのかもしれない。
ちょっと変な病気に思われるかもだけど。
こんな書き方も好きなんです……
pys
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コメント



0.2350簡易評価
5.100名前が無い程度の能力削除
どことなく暗く、面白かったです
10.100名前が無い程度の能力削除
そして 今の命蓮寺があるんですね
やたら人間より人間くさいナズーリンが好きです
15.90mthy削除
とある漫画で、見捨てる善より救う偽善、みたいな言葉があって、たとえ偽善でも、それで救われる存在がいるなら、その偽善は別に責められることじゃないんかなぁ…、とかいうことを思うようになったり。
うん、何が言いたいのか自分でもよくわかりませんが。
辛いけど、良いSSでした。
20.100名前が無い程度の能力削除
こんな話もいいですね
24.80コチドリ削除
人間的な。あまりに人間的な。
25.100名前が無い程度の能力削除
こんなお話をずっとずっと待ってた。
最高です。素晴らしい。
27.100名前が無い程度の能力削除
ナズーリンは汚れ役がすっかり板について…
そういえばユダの裏切りは、エルサレムでへにょったイエスに発破をかけたもののなんだかカリスマが戻らず、成り行き任せで死んじゃった的な説がある。
ユダも根はいい人なんだよとかなんとか
29.90名前が無い程度の能力削除
命蓮寺組はこういう話を想像できる余地があって好きだ。
それを乗り越えて今がある、と考えるとなおさら。
32.100名前が無い程度の能力削除
人間くさいナズーリン可愛い
36.100名前が無い程度の能力削除
ナズーリンってどことなくパルスィと似てる気がしないでもない。
38.100名前が無い程度の能力削除
闇に堕ち、そして救われていくナズーリンの心理描写に感涙させられました。
42.80ずわいがに削除
俺はむしろ妖怪らしいとさえ思いましたね。ナズーリンはどこまでも妖怪であったが故に、こんな悩みを抱えることになったんですから。
人間なら諦めることも出来たでしょうに……
43.100名前が無い程度の能力削除
「欲しく」なっちゃたんだね
妖怪らしくも、恐怖する様は実に人間臭い……生きてるねぇ
45.100名前が無い程度の能力削除
おおぅ。なんとも自分好みなお話。

>後片付け方は心配をしなくて
「の」が抜けてません?

>例を尽くす
礼を尽くすではないかと
46.100名前が無い程度の能力削除
美しい。これは綺麗なナズ星
ナズ星でまとめちゃいけない気もするけど
こんな深い話を待っていた
49.100名前が無い程度の能力削除
醜さと美しさがドロドロに混ざってるような……
うぅむ、なんともコメントし難い。
54.100リペヤー削除
星がかっこいい!
GJでした。

>ご主人球。
ごめんなさい。シリアスなシーンだっただけに吹き出しました。
67.90ばかのひ削除
許すってなにかなあ