以下の点にご注意下さいませ。
・人喰いとややグロ
・無駄に主張が強く出番も多いオリキャラ(視点担当)
なお番外編となっておりますのでこの章なしでもあんまり問題はなかったりします。
上記の点等が苦手な方はあまり無理はなさらずにどうぞ。
――――199X年5月、博麗神社参道
赤茶色の番傘を手にした人影が緩やかな山道を歩いて行く。
勢いを増す雨が山地を打ち、白い飛沫に地相は霞んでいる。空を覆うのは重々しい雨雲だ。一月ばかり先んじて梅雨が到来してしまったかのようである。
人影がまとうのは淡い藤色をした女物の着物で、これだけの激しい雨脚の中泥を踏み進んでいるというのに、そこには一点の汚れも見当たらない。静々とした歩みと相まって、彼女だけがどことなく周囲の風景と位相を異にしてしまっているようにも見える。
彼女が歩いてきたのは人里より数刻ばかり歩いて到る神社への参道である。ただそれと分かるような標の類は道中に一切なく、青々と雨に潤う棚田の合間や、あるいは場所によってはまったく獣道と大差のないような悪路をひたすら行くだけであるから、そうと知らないものからすればたどった先に神社があるなどとは夢にも思わないことだろう。
だから山道の先に見えてきた朱色の鳥居も、やけに忽然と現れるという感じがするのだ。
その鳥居の下で彼女はいったん立ち止まる。額束には達筆とも遅筆ともつかない独特の書体で博麗神社と記されているが、それが誰の手によるものなのかは彼女は知らない。朱塗りが比較的新しいのは里の人間たちが数年周期で朱を入れ直すからである。
羽を休める鳥はいない。
その朱色の境界をするり通り入ると、雨にけぶる石段と風の音を律儀に反映する叢林とが彼女を迎える。
石段の左右に絶え間なく植わっているのは桜の木である。春の頃であれば石段全体が桜に彩られもするだろうが、五月の今にあっては花信の風もなく、桜の木はただ新緑をまとうばかりである。だから全体に様相は仄暗い。
この数百段は下らないであろう石段を上り詰めた先に当の神社は鎮座している。彼女は番傘の影からその方向を見上げた。
そのとき不意に強い風が石段の上から吹き降りて、番傘を吹き飛ばした。乾が坤を叩くかのような、まっすぐ吹き下る風が、隠れていた髪を雨中に乱す。
そして不思議なことにその風が通り過ぎた後、それまで新緑をまとっていた桜たちは今一度その花を春の頃のように開かせ石段を染め上げているのだった。
「雲を降ろしたのね」
番傘を飛ばされたことなど意に関せずといった口調で彼女は呟き、自身の髪と同じ色をした花の階をゆっくりと上っていく。
その背後に黒の蝙蝠傘を手にした小さな人影が降り立った。片方の手には先ほど飛ばされた番傘を携えている。
「雲が降りると花が咲く――ほんと、不思議なところね」
甲高い声で人影は言い、手にした番傘を彼女に差し出した。
「はい、傘。落としたよ」
「分裂してる。器用なことをするのね」
傘をさし直しながら彼女がそう言うと、人影――フランドールはからからと笑い、先を行く彼女の横に並び立った。
「こうしないと外には出られなくてね。私の本体は天狗さんのお話相手。あ、ちなみにこの状態の私は戦力としてはあまりあてにならないからそのつもりで。頭も弱くなっちゃってるし」
「吸血鬼は雨が駄目だって聞いたけど?」
「お姫様、それはいわゆる紳士協定というものですわ。しょせん雨はただの雨。無論のこともしも正式な書面をもって契約がなされたのなら、よほどのことがない限りは私たちはそれに背くことは出来ないけれど、とりあえず現状は魔力で壁でも作っておけばどうとでもなるわ。あと傘」
言いながらフランドールは幾段にも連なった階の頂上を見上げた。和傘と洋傘が階段の合間に並び立つ。
「この先にこの桜を咲かせた張本人がいるってわけね」
「あれがいるのは予定外ねえ……」
「ん? 別人なの? 八雲ってヒトとこの桜を咲かせたヒトは」
「ええ。でもって――結構厄介よ? 気を付けることね」
「あら、言ったじゃない。私は戦力としてはあてにならないって。気を付けるのも頑張るのも、それはお姫様の仕事なのさ。私は八雲ってヒトさえどうにか出来ればそれでいいし、そのためにわざわざこんな危険極まりない代物まで持ってきたんだからね」
赤茶色のなめし皮で装丁のなされた一冊の本がフランドールの手元に現れる。厚みも重量もフランドールの細い腕には些か不釣合いなものとなっている。
「さしずめワイズマンのグリモワール、ってところかしら? 格好いい。うちの図書館の禁書庫にだってここまで物騒なものは置いていないよ」
愛用する玩具を扱うようにして、フランドールはそんなことを言う。そしてどことなく異物めいた存在感を発しながら抱きかかえられた魔導書は、傘で防ぎきれない細かな雨粒を浴びているにもかかわらず一切水に濡れた形跡が見受けられない。
「私がこの『異変』の中に組み込まれるなんて、思いもしなかったわ」
彼女は神社の方を見上げたままため息を一つついた。
「迷惑だった?」
「物みな舞台、人みな役者。だから――早く行きましょう、お嬢さん。面倒なことは早めに済ませてしまうに限るわ」
憂いを孕んだ声で桜色の髪をした女は言い、幼い吸血鬼は少しだけ緊張感をはらんだ声でそれに応じるのだった。
――― 番外編 ―――
なぜルーミアは自分をこの場所へと導いたのだろうか――空気の淀んだ洞窟の内部を歩きつつ、大妖精はそんなことを考えていた。
――『これから向かうのは屠殺場。人間が精肉される場所だよ』
不思議な黒服の少女の言葉を反芻する。自分はそういう場所へと向かっているのだそうだ。当然気乗りはしない。
歩む洞窟の内は空気の重さが外の比ではなく、ある種の粘性のようなものまで感じられる。それが閉塞した空間に万遍なく行き渡っていて、それで大妖精はまったく気分が優れないでいた。
汚い――というのとは少し違うように思う。
――重い
吸い込む者の内から活力めいた何かを奪い去り、かわりに憂鬱を喚起する――そういうようなことを妖精なりの言葉で大妖精は感じている。
その前を行くのは上白沢慧音と、以前湖畔で出会った釣り人である。
洞窟は天井はそれほど高くはない。砂利の音や水滴の音といったものが、やけに大きく反響して感じられる。あまり背丈のない慧音や大妖精はともかく、釣り人は何度か天井から伸びる鍾乳石に頭をぶつけそうになっているようだった。
洞窟内は何かの力でもって照らされているのか、不思議と暗くはない。視界はそれなりに利く。壁面にはそこかしこに呪術めいた意匠が施されていて、最も目立つのは卒塔婆だ。十字架もそれなりの本数を目にした。それ以外にも大妖精の見知らぬ物がたくさんある。
ただそれらはある程度系統立てて並べられているようで、混ざり合ってはいない。どちらかといえば並存しているという感じだ。
地面はそれなりにならされて、段差の類は少ない。誰かが歩くことを前提とした造りになっているのだろう。
そして場の空気の重々しさから気をそらすようにして、大妖精はこの一連の騒動について妖精なりに考え始めていた。
――あのヒト……
幼く見える瞳の奥に、酷く摩耗した光を宿していた少女。
いったい何が、どのような出来事の積み重ねがあの吸血鬼にそういう目をさせていたのかは分からない。
――でも
守りたかったヒトがいたのだとは思う。それはあの鎖の夜に彼女と『接触』した大妖精には分かる。
きっとそれは自分がチルノに対して抱いていた想いとほとんど変わらないことだったのではないかと思う。
ただ一緒にいたかった。
失いたくなかった。
相手の声が自分の耳を震わせてくれないことが寂しくて、当たり前に一緒にいられた日々がひたすらに懐かしい――そういう感覚ならば妖精の身であっても理解はできる。
――何かがあったんだ
仲睦まじそうにしていた相方の魔女――その彼女が今は隣にいない。外の世界に取り残されているのだ。
レミリア・スカーレットが望んでそれをすることはあり得ないだろうし、そもそも彼女は何かを悔いていた。おそらくは何らかの災禍に見舞われ、そうしてあの二人は結界の内と外とで離ればなれとなってしまったのだ。
――けれど
どうしてレミリア・スカーレットはこんな無意味なことをやっているのか――何らかの困難があったであろうことを差し引いても、やはり現在のレミリアの行動律にはまるで理解が及ばない。己の力を見せ付ける――そんなことをする必要がないということはこの場所の空気を肌で感じれば自ずと分かることだろうから、これはそういった示威行為の類ではないはずだ。
無論この場所に踏み込むその直前まで、彼女がそうした考えを抱いていた可能性というのはある。他ならぬ大妖精自身もそうだった。この地に足を踏み入れる直前までは新天地への期待などといった感情は微塵も内にはなく、ただ過大な不安と警戒心ばかりを募らせていた。
危険な場所であったらどうしようか?
神話の世界に登場するような、野蛮な怪物だらけの地であったらどうしようか?
そしてもしそこがそのような地であったのなら、果たしてチルノは何事もなく平穏に暮らせているのだろうか?
そんなようなことばかり考えてしまっていた。
けれどもこの地の土を踏み、そこの空気に触れ、それが単なる杞憂であったのだということは程なく感じ取ることが出来たのだ(大妖精の場合そう理解するのにしばし時間を要したが)。
吸血鬼という種に関して幻想郷はあまり良い記憶を持っているわけではないらしく、レミリアのことを知らない大半の住人たちは――彼女が外来の者であることもあってか――この一連の出来事を無体な侵略行為であると判断しているようである。二度に渡って彼女と接触した経験のある大妖精には彼女がそういう愚かしいことを本気で行うような人物ではないということは明確だったが、そう思うからこそ余計に混乱する部分もある。
やはりいくら考えても、レミリアがこんなことをしなければならなかった理由に思い至らないのである。
「なあ弥助」
無言だった慧音が同行者の名を呼び、それで大妖精の意識はまた暗い洞窟の淀んだ空気の内へと戻る。
「何です?」
チルノからぞんざいな呼称を与えられていた釣り人は、本名を弥助というらしい。身にまとう衣装は中国のそれに近い。
「貴方、ここは何度目だ?」
「正確な数は覚えてませんなあ。ただたまに来ておかないと忘れてしまう。人間は四六時中殊勝なことを考えていられるほど上等な生きもんじゃあないですから。まあもっとも奥の方まで見たのは一回だけです。あれはさすがにそう何度も見たいもんじゃない……そう言っちまうのは手前勝手なことなんでしょうがね。先生は毎年来ているんでしたか」
「慣れるものではないけれどね……」
そもそもなぜ慧音はこんな場所に来ているのだろうか?
今は状況が状況である。人里とやらに留まっておいた方が得策である気はするし、この場に来て人里とやらにとって有益になるような何かが得られるとも考えにくい。
その慧音はかなり思い詰めた表情をしている。それは洞窟に入る前からずっとそうだった。
――でも
似合わない。きっとこの人は快活な笑顔の方が似合っている――そう大妖精は思う。
今の慧音は見ているこちらにまでその内側の痛みが伝わってきそうで、また当人がその痛みを表へ出すまいと無理をしていることも分かるから――
――『気分転換しよっか、センセイ』
今になってやっとルーミアの言葉の意味が理解できた。
苦しかったのだろう。上白沢慧音には、上辺の態度では取り繕うことの出来ない苦悩があった。
――でも、何をそんなに悩んでいたの?
「先生、ここにまつわることは里のもん全員で抱えていくべき記憶だ。先生ばかりが背負うことではないでしょうや」
弥助は弥助なりに慧音の様子には察するものがあるのだろう。不器用な言葉を紡いでいる。あの日の湖のやりとりを考えると、彼はこういう『湿った』話は大の苦手なのだろう。
「弥助……私はね、人間じゃあないんだ」
ぽつりと慧音は呟いた。
「え? そりゃそうでしょう? 先生の中にはお偉い神獣の血が――」
「半分だけなんだ、人間なのは。私は半分なんだ」
「先生?」
「私は人間じゃない。人里にいる資格なんて無い。私は――」
小さな声で慧音は何かを呟いた。その声は洞窟に反響することもなく、弥助の耳に届くこともなく、単なる微細な空気の振動としてあっという間に消えた。
だが空気と縁深い大妖精の耳には、かすかにその言葉が届いていた。
――裏切り者?
慧音はそう言ったのだ。自分は裏切り者であると、小さな声で言った。
そしてその悲しそうな瞳が大妖精を見つめる。
「結局のところ貴女たちが一番優れているんだろうな。人も妖怪も――どう足掻いたって妖精の境地にはたどり着けない。眩しいよ。私たちは貴女たちのように自然ではいられないんだ」
「慧音さん?」
「……行きましょう。そろそろだ」
前方の壁面に変化が生じる。ガラス窓のようなものが左手の壁にはめ込まれているのだ。光の加減でもう少し近付かなければ様相は知れないが、その向こう側には別の空間が広がっているようである。それはどうやら三人がいま来た方角から繋がっているようだから、この通路と並走した別の通路か何かが壁を隔てた隣を通っているのだろう。
ガラス窓らしきものにはところどころ古びた札が貼付されている。それが画然としてあちらの通路とこちらの通路とを隔てているという印象がある。もう少し歩けば、その向こう側が見えてくるだろう。
「あっちは搬入通路ですな。我々が入った入り口とは違うところにそれ専用の入り口がありましてね、それがここいらで合流している」
人間の搬入口、ということだろうか。
「外の世界でもこうして食肉処理場を見学することは出来るのだそうだよ……」
「あっしや知り合いの彦左衛門の旦那あたりはほら、肝っ玉が小さいと言いますか……二十歳の半ばぐらいまで奥は見られなかった。それにそもそも一生奥を見ずに三途を渡っていってしまうのもいる」
――奥……
それは要するに人間が切り身になっていく場面ということなのだろう。それが見ていて気分の良いものではないということぐらいは妖精の身でも分かる。
そして壁の窓と三人の座標が重なる。大妖精の眼に壁の向こう側の光景が飛び込んでくる。
床は平らにならされ、通路であるこちら側にくらべて広い。
――人間だ……
外の世界の衣服をまとった人間たちが、一列に横たえられている。人数は十人、生きているのか死んでいるのかは分からないが、皆眠ったように動かない。
「昔に比して、食人という習慣はほとんど廃れたわ」
幻想郷に住まう妖怪等の数に反し、横たわった人間の数は圧倒的に少ない。だからそれは単純に空腹を満たすためだけに必要とされている類のものではないということなのだろう。
儀式――そんな言葉が大妖精の頭をよぎる。
「それでも――まだ残っているし、完全に潰えることは恐らくないだろう。だから……私たちはここのことを忘れてはいけないんだ。この場所を忘却の彼方へと追いやってしまうのは、それは全くもって気安いことではあるんだろうが、絶対にしてはいけないことなの。いかなる犠牲の上に自分たちは立ち、いかなる歴史が自分たちの生きる時代を象っているのか――平和な、あるいは平和なように感じられるそんな世の中にあってこそ、そういうことを人は知らなければならないのだと思う」
勿論、と慧音はやるせない表情で言う。
「それは私の独り善がりだ。私はだから――典型的な偽善者という奴なんだろうな。今もこうやって自己批判を懺悔の代わりとしている……性質が悪いな。卑怯だ」
「先生、先生は里のために色々よくしてくださっとる。先生に救われた奴だって里にゃあ何人もいる。んな自分を責めるような言葉は止して下さいよ」
釣り人が気遣いの言葉を寄せるが、慧音の表情は晴れない。
「その里を成り立たせているのがこの場所で流れた血だ。人が妖怪と共に生きるということは、必要な犠牲を必要なものとして受け入れていくことを意味する。私たちが幻想郷で生きることを選択している以上――これはどうしようもないことなんだろうな。そしてそれをどうしようもないと思えるからこそ――私はやはり半分ばかり欠けているのよ」
壁の向こうに横たえられた人間たちのその並べられ方は、どことなく偏執的な程にきっちりとしていて、それが誰も動かないことと相まって妙に作り物じみた印象を見る者に与えてくる。人形が大量に並べられているような感じがするのだ。
――でも
決して人形ではない。
あえて言うのなら食材ではあるのだけれど。
中でひと際に大妖精の目を引いたのは、一人の少女だ。十を少し越えたばかりの年だろうか、背丈は大して大妖精と変わらず小さいから周囲に比して目を引かれたのだ。
頬はひどくこけている。顔色は死人のように青い。
サイズが小さく、まるで身体に合っていない薄汚れたTシャツ。それと同じく丈が足りておらず、飾り気も全くない紺の長ズボン。そこからはみ出た腕や足首は、骨が通っているのかどうかすら怪しいくらいに細い。
髪は黒のショートヘアで、いかにも手入れがなされていないという感じがする。たしか人間は放っておくとすぐに髪の毛が傷んでしまうから、それなりに手入れをしなければいけなかったはずだ。
そして何より目を引くのはその身体の各所にある痣や火傷の痕だった。
痣は殴られたものだろう。
火傷は両の腕の中ほどに、まるで斑点のように集まっている。一つ一つは点と言っていいくらいに小さな傷痕だから、何かとても小さな熱源を複数回押し当てられたということなのだろう。
――ひょっとして……たばこ?
たしかそういう名前の嗜好品が人間の間では流行っていたはずである。あれに火を灯して押し当てれば、ちょうどあのぐらいの傷痕になるのではないだろうか?
まず可哀想だと思った。それは偽らざる気持ちである。
もちろんその身体の状態が何を意味するのかは、妖精には理解できない。ただ、それでも彼女が孤独だったということはその様子を見れば分かる。こうなるまで、誰も助けてはくれなかったということなのだ。
右手の中には銀色の鎖の付いたロザリオが握り締められている。
彼女以外にも血を流しているものや衰弱していると思しき者もおり、また一方無傷な者もいる。
ただ、みな一様に眠ったかのように動かない。
そして慧音と釣り人は無言ではあるが、その奥には到底言葉に置き換え得ない複雑な情念が渦巻いているのが空気で分かる。
――慧音さん……
特に彼女は――物凄く辛いのだと思う。伝わってくる空気がどうにも沈痛で、それを感じ取った大妖精の方まで胸の内がきりきりと痛んでくるような気がする。
そうして数分ばかりの間、三人は重苦しい空気の中で並べられた人体を見つめていたのだが、やがて壁の向こうに動きがあった。
白い、死に装束のようなものをまとった者――顔も白布で覆われているので判然としないが、妖怪だろう――が、黒い盆のようなものを手にして横たわる人々の間を歩いて行く。
「状態を確認しているんだ。素材のね」
消え入るような声で隣にいる慧音が言った。
その眼は決して下を向かない。食い入るかのように、壁の向こうを見つめている。釣り人はその後ろで心配そうな視線を慧音に寄せている。
白服からは個性の類は感じられない。無機的な白がそういった要素を内に押し込めているからだろうか、どことなく動きが機械的だ。その手の盆に乗せられているのは、衣類同様に真っ白い椀である。
やがて白服の内の一人が、列の端に横たわった男性の上半身を引き起こし――
――何をしているの?
和紙と思しき紙に包まれた、黒い粉末――懐から取り出したそれを男性の口の中へと移し、用意してあった椀の中の水を流しこんだ。
「あれは――毒だよ」
簡潔な説明が慧音からなされる。
その呼吸は浅く、顔色は青く、肩は小さく震えている。
隔壁に押し当てられる細い指は、越えられない壁に遮られる。暗い洞窟に転がされた人間たちにその手は届かない。
そして黒い粉末が次々と横たえられた人間たちに含まされていく。
「即効性の毒だ。ああして息の根を……いや、そんな表現は止しにしよう」
殺している――と慧音は言い直した。
そして壁の向こうでは毒を飲まされた身体から、白い綿のような物体がぽうっと浮かび上がる。
――幽霊
それは宿っていた身体の上に留まっているようだった。
「生きている、とは魂と魄との双方が一揃えとなり、その二つが強い絆をもって結び付いている状態を言う。その結び付きを反故にする――これが最初の手順だ。こうしておかないととても残酷なことをすることになる。生剥は国津罪、あってはならぬ罪業だ」
「先生」
「なんだ、弥助」
「あの毒は幾らでしたかな」
壁の向こうでは五人死んだ。六人目は殺される最中である。そして七人目はあの痣だらけの少女だ。
「金銭に換算するのが困難な程度には高価だよ。だからよく効く。妖怪だって殺せるかもしれない。人間ならば即死だ。妖怪は――いや、私たちはああして彼らが余計な苦しみを感じずに済むように、高い毒を使う。そしてそれが渡し賃にもなる。だからといってこの場の正当性を主張する気などは毛頭ないが」
そう慧音が大妖精に説明する最中、壁の向こうで六人が死んだ。
死体が六つ、幽霊も六つ――
そして傷だらけの少女の口にも毒が注がれる。どす黒い粉末がその口腔に消える間、大妖精は一言すら発することはできなかった。
「……縛られたか」
他とは違い少女の身体から幽霊は浮かび上がらない。
代わりに現れたのは、彼女とまったく同じ形をした何かであり、それが横たわった彼女の身体をぼんやりとした眼で見下ろしている。
「亡霊ですな」
ひょっとしたら夢を見ていると思っているのかもしれない。
やがて列の端から端まで悉皆息の根を止められ、壁の向こうに十の死体と九つの幽霊と、一体の亡霊とが残される。
別の白服が現れる。今度は複数いる。
何人かが卒塔婆をかざす。するとそこに漂っていた幽霊たちは集まって、そしてそれに誘われてどこかへと連れて行かれた。
少女の亡霊は残されているが、やはり現状認識が追い付いていないのかぼうっとしている。
「クリスチャンだね、あの子は。ロザリオがあるし、卒塔婆への反応が弱い。貴女、無縁塚は知っている?」
「ルーミアさんから少し」
「集めた魂はあそこに連れて行くんだ。そこから先は死神の仕事だ。さっきの毒の価値も含め、そこで渡し賃を払って彼岸へと進む」
別の白服は手押し車のようなものを引いていて、そこに魂の抜けた肉体を乗せると奥へとそれを運んでいった。窓ガラスらしきものはいったん途切れているから、その姿はすぐにこちらからは見えなくなる。少女の遺体は置きっぱなしである。
「亡霊の遺体の取り扱いには――厭な表現だな――細心の注意が必要なんだ。だからああして残されている。この後しかるべき処置が行われるだろう。弥助」
「何です?」
「ここまでで十分。私は少し考えたいことがあるから奥まで行くけれど、貴方はこの子をルーミアの奴のところまで送ってやってくれ。たぶん無縁塚にいるだろうから」
そう言い残すと、慧音は暗い洞窟の奥へと去っていった。
チルノのことやルーミアのことなど、まばらに言葉をかわしつつ大妖精と釣り人は洞窟を戻り、崖に空いた出入り口から外へと出た。
「天気が崩れましたな。こりゃ、しばらくしたらひと雨来る」
空を仰ぎ見て釣り人は言う。
いつの間にか空は曇っていて、小雨がぱらついているのだった。洞窟に入っていたわずかな間に随分と空模様は変化をきたしているようだった。
そして相変わらず辺りの空気は淀んでいるが、それでも洞窟の中ほどではない。
合間をわずかに風が流れていくし、小雨がその淀みを少しずつ中和していくような感覚もある。
そこから再思の道へと通じる森の小道を抜けると、釣り人はこちらですよと言って無縁塚があるであろう方角に歩き出した。
ちなみにあの洞窟はそのまま奥へと進んでいくと、無縁塚の近くに出るようなつくりになっているらしい。幽霊の搬出がどうのこうのと釣り人は言っていたが、大妖精にはいまいち意味が分からなかった。
「あの……弥助さん、でしたっけ」
「はいはい」
「慧音さん、大丈夫なんでしょうか」
身の安全の話ではない。慧音は自分の身は自分で守れるだろう。
そうではなくて、何か思い詰めたふうである彼女を一人にして良いのかという意味合いである。弥助もそれをくみ取ったのか――
「……先生は何度も見ているんですよ、あの場所を。人里の誰よりもたくさん先生はあの場所に通っている。誰よりも、あの場所を記憶している」
そう答え、真面目すぎるんだ、と神妙な口調で続けた。空気の淀みは薄れてきているが、相も変わらず心は晴れない。それは大妖精自身が何か思い詰めているということではなくて――チルノのことは気がかりではあるのだが――周囲の人間の心情をそれとなく彼女が感じ取ってしまっているからに他ならない。
「あの人はさっき自分は半分しか人間でないと、そう言ってましたがね、あっしはむしろ先生は人間すぎると思うんですよ」
「人間すぎる?」
「あっしなんかはね、それが最低な考え方だってのは分かるんですがね、卑怯なもんだから――『外の世界の人間なら喰われてもいい』と、そう思っちまうんですな」
釣り人はいつかの飄々とした態度を潜めている。ちなみに釣り人は三十中ほどであるらしい。そう見えないのは彼が老けこんで見えるからで、老けこんで見えるのはやはりこの状況による部分も大きいのだろう。
少しずつ雨の一粒一粒が膨らんで、大気が濡れていく。降り始めに特有の埃のにおいが辺りを覆っている。
「だがねえ……」
半分独り言のような調子で弥助は呟く。
「やっぱり――そんな道理は何処にもねえよ」
たぶんそれは彼にとって一種のタブーに近しい事柄だったのだろうと大妖精は思う。言葉に、何か言いようのない質量めいたものを感じたからだ。
「結界なんてものを引かれてしまうとね、どうしたってあちらとこちらは別の場所なんだって、ついつい思ってしまうんですよ。外の世界の人々の命って奴を軽く見ちまうんだね。喰われてもいいんだ仕方がないんだと、まあそう自分に言い聞かせるんですな。でもねえ……先生も言っていた通り、結局さっきの人らはあっしらが殺しているのと同じだ。その結果、人里は妖怪の餌場にならずに済んでいるんだ。そういう犠牲の上に、幻想郷のバランスは成り立っていた。それは普段だったら気にするようなことじゃなかったし、上手く目を反らして誤魔化せてもいたし、それに俺はそこまで殊勝な人間じゃあない。恒常的に発生しうる犠牲って奴に、いちいち心を痛めていられない。慣れちまうんだ。鶏や牛だって、さばくことに慣れちまってそれが習慣になってしまえば、気持ち悪いとも可哀そうとも思わなくなる。感謝の情だって薄れちまう」
最悪だとは思いますがね、と弥助は大妖精の方は見ずに言う。そして詫びた。
「……妖精さんにするような話じゃあないですな」
やっぱり人間てのは至らんもんだ、と慙愧の念を滲ませ弥助は言う。
しかしこの釣り人はあの日釣った魚一匹一匹にきちんと手を合わせるようなことをしてもいたのだから、口で言うほどそういう感情を忘れてしまっているのだとも思えなかった。
――それに
仮に今すぐこの外の世界からの人間の供給が絶たれたとして、しかしそのとき妖怪たちは即座に人里を単なる餌場として見るようになるのだろうか?
この場所の人と妖との間には、捻れてはいるが強固な信頼関係がある――大妖精にはそう思えてならない。
現にそうだからこそ人里の住民たちはこの場所から逃げていないのではないだろうか? 上手くいかなくなったから見限る――人と妖との間柄がそんな希薄なものでしかないのなら、とうの昔に幻想郷などという場所は機能不全に陥って無くなってしまっているのではないだろうか?
そんなことをおぼろげながらに大妖精が考えていると、弥助は前方を指さして、このまま行けば無縁塚ですと言った。森に挟まれた殺風景な道の先に小さくひらけた草むらが見えた。
「すみませんでしたね。こんなどうでもいい輩が長々と語っちまって。煩わしかったでしょう?」
足を止めて振り返り、弥助は言う。
「そんなことはないですけど……」
「不躾ですけども、あっしは一足先に帰ります。先生の帰りは遅れると、いちおう小兎姫様にでも報告しておかないと」
「釣り人さんは一人で大丈夫なの?」
「ん? ああ、この釣り竿ね、意外なことに武器にはなるの。でもって――」
釣り人は腰に下げた袋から何かを取り出し、それを大妖精に向かって差し出した。
「ひと雨来そうだから持ってくといい」
「これ――種?」
手の平ほどの大きさをした植物の種である。こんな大きな種を見るのはじめてだった。何か魔法的な処理が施されているのだろうか?
「こっちは先生と宵闇の嬢ちゃんの分。本格的に降り出したら適当に雨水に晒して下さい。傘の代わりになるだろうから」
妖精さんも気を付けてください――そう言うと釣り人は軽く礼をして、再思の道を一人歩いて行った。
空は暗さをさらに増している。雨が来るのだ。
釣り人を少しの間見送ると、大妖精は一つため息をつき、再び無縁塚の方へと歩き始めた。
◇◆◇
――――博麗神社
「まったく、手に負えんじゃじゃ馬だ」
つい先日新しく張り替えた障子戸を開け、紫を担いだ魅魔が入ってきた。
道化のような帽子はどこかへと消え、服もボロボロになっている。一方の紫も気を失っているようだし、髪だの衣類だの乱れきっているから、境内で激しい戦いが繰り広げられたであろうことは明白だった。
「しばらく寝かせておいてやりな」
紫を畳の上に横たえ魅魔は巫女に言った。巫女はうなずいて返す。
「魅魔様は?」
「私もちょっと休ませてもらうよ。些か疲れた」
「分かりました」
疲労感を含みつつも面白そうに魅魔は笑い、雨に濡れた身体を引きずるようにしてどこかへと去っていった。辛勝――だったのだろう。
撃つ、斬る、衝く、放つ、殺す――何をやっても八雲紫には効果がないのだという。その防御がいかような方法によってもたらされているのかは巫女には分からないが、ただ人の身から見れば無敵にさえ思える力にも破る術はあるということなのだろうか。ただどうあれ、容易なことでないというのは明白である。
残された巫女はとりあえず布団を一枚、寝室には霊夢がいるから居間に敷いた。
横たえられた紫はどう見ても眠るのに適した格好はしていないので、とりあえず巫女はその仰々しい服を替えさせようとしたのだが――
「丈が合わないわ……」
白の、晒生地の肌襦袢――自分が寝間着の代わりに用いているそれを試しに着せようとしてみたのだが、少し長さが合っていない。袖や裾が余ってしまうだろう。
――そっか
いつの間にか自分は紫よりも大きくなってしまっていたのだ。改めてそんなことを思い出す。
「まあ、仕方がないか」
替えになるようなものもないから多少の丈余りはどうしようもなく、巫女は諦めて紫のややこしい服をそっと脱がせた。
そんなことをしているうちに目を覚ますのではないかとも思ったけれど、よほど派手にやったのか一向に起きる気配はない。かなり力を消費しているようである。
肌にところどころ残る傷痕は、妖怪の治癒力からすれば大したものでもないのだろうが、それでもやはり人の目より見れば痛々しい。衣擦れした血の跡で肌が汚れてしまっている。
魅魔の言うとおり、いちいちこんなことをしていてはもたないというものだろう。そうまでして儀礼だの手続きだのに重きを置く紫の行動律が巫女にはいまいち理解できないのだった。
湯に浸した布で汚れた身体を拭う。
赤に覆われていた色素の薄い肌が露わになった。
――そういえば
こんなふうに紫の素肌を見る機会など今まで一度もなかった。
巫女にとって八雲紫という存在は、上手く表現することが出来ないけれど、肉体という印象を残していかない存在だった。確かに目の前にいて、それが紫の身体なのだということは分かるのだけど、不思議とそこに実体としての肉が伴っていないかのような――そんな実にあやふやな感覚を巫女は常に抱いていた。
どことなく機械的な雰囲気があったからだろうか。
作りものみたいに綺麗だったからだろうか。
――でも
改めて見る紫の身体は、ただ華奢で無防備な少女のそれだった。
着せ終わった襦袢からのぞく細い鎖骨に、雨に乱れた金の髪。
そういったものが何だかひどく頼りなさそうな印象を巫女に与える。そんな感覚を彼女に対して抱くのは、これが初めてのことだった。
そして比べるようにして、古ぼけた鏡台に映った自分の身体をそれとなく見る。
背の中ほど辺りまで伸びたいかにも東洋人じみた黒い髪と、着古した普通の巫女の装い――紅白の衣装と顔に少しだけ施された白粉をのぞけば、実に地味だ。紫とは随分と違うと思う。
その背はいつの間にか紫よりも少し高くなってしまっている。預かり知らぬ間に、身体だけはとっくに成熟しているのだった。子どもを生み育てるには多分いい頃合いなのだろう。
その身体の変化がやはり寂しい。
昔より大きくなった胸が――それが大事なものなのだということは分かるけれど――少し煩わしく思えてしまう。身体は心の成長なんてちっとも待ってはくれなくて、勝手に大人になってしまうのだ。
でもそれで自分の心がきちんと成熟した女性のそれへと至っているのかと自問してみれば、到底そうだとは言えそうにない。その速度に付いていけていないような気がしてならない。まだまだ子どもじみた気質が抜け切っていないと感じてしまうし、そもそも成熟するとはどういうことなのかということからしてよく分からない。父親以外の男の人は何だか怖いし――そもそも里を離れていると人と会う機会があまりない――、お腹を痛める覚悟などまだない。
宙ぶらりんで中途半端な時間の中に、これといって語るべき要素もなく漫然と居る。少なくともここ最近の神社の暮らしはそういったふうだった。
「……はあ」
神社を去ったらそうも言ってはいられないのだろう。
境界に立つ時間が終わってしまえば、新しい選択を強いられる。齢を重ねれば自然とそういう岐路に立たされるものだ。
人は妖怪とは違う。
いつまでも少女のままではいられない。
でも正直に言うのなら、いま少しだけこの不思議で曖昧な毎日にしがみついていたいような気がして――
「まったく……わがまま言わないの」
苦笑しながら改めて自分に言い聞かせる。
そういう時間はあっという間に過ぎ去っていくものだ。そうしてかけがえのないと感じる今が懐かしいと感じる昔になって、人は齢を重ねる――というような気がおぼろげながらにする。
加えてある思い煩いのようなものがあって、それで今は妖怪の面々とはあまり顔を合わせたくない気分でもあった。
「あーあ……」
巫女は事の始まり以来何度目か分からないため息をついた。
魅魔は去り、紫と霊夢は眠りに就いて、玄爺も裏の池である。降り注ぐ雨の音と相まって、急に一人になったという気がした。
「ほんと、急に天気が崩れたわね」
朝方は綺麗に晴れ渡っていたというのに、今は庭の土も草も桜の葉も、ことごとく濡れそぼって鈍い光を発している。跳ねた白い水滴が色々なものの輪郭線を霞ませている。
「……ねえ、紫」
机に両肘をつき、巫女は傍らに眠る少女に話しかける。返事はない。
「貴女は……どう思っているの?」
巫女が思うのは人喰いというシステムめいたそれについてである。思い煩いとはそれのことだ。
妖怪たちの楽園を維持するために必然的に発生する、外の世界からの犠牲者――それをこの場所を管理する少女がどう思っているのか訊いてみたいという思いが巫女の内にはあった。
ただ、その問いを今の今まで一度も発さず十年以上も巫女をやっていたのは、要するに怖かったからだ。逃げていたのだ。
――『そんなのどうだっていいわ』
そう言われるのが怖かった。
――『価値のない、いてもいなくても変わらない者たちですもの』
そう言われるのが怖くて、それにそうした答えが返ってくることも十分にあり得ることだと思ったから――たずねられなかった。
その言葉を聞いたとき、自分はこの内と外の境たる場所に立っていられるのか、自信が無かったのだ。そうやって見知らぬ誰かを切って捨てられるほど自分は一人で生きてはいないし強くもない。
「……だから訊かないでいたのに」
誤魔化し割り切ろうとしていたというのに――この特殊な状況はそれを許しはしなかった。
人里の出身である自分。
人間としての自分。
人里から離れた地に身を置いてはいるが、里には親しい者もいるし、男手一つで自分を育ててくれた父もいる。人間は自分にとって大切だ。それは当たり前のことである。
だが今の自分はまだ巫女でもある。人と妖の刃境に立つ者だ。だから妖怪たちだって決して嫌いではない。
破天荒で常識の通用しない連中ではあったけれど、一緒にいれば愉快で楽しい面々だった。
――ただ
人間という立ち位置からこの幻想郷という世界を眺めたとき、そこには看過することの難しい瑕疵が存在する。
――人喰い
今この瞬間にも外の世界の誰かがその価値を評定され、かどわかされている。それは紛う事なき事実なのだ。
他方でそれを取り払ってしまった場合、今度は妖怪の都合が立ち行かない。だから――
「仕方がないのよ……」
あれやこれやと理屈をこね、そして考えあぐねて、いつものようにその言葉が口から出る。
人は時代を選べない。
生きる場所も生きる時間も、与えられたものに従う外はなく、変化や変節によりもたらされるふり幅は時代の許容する範囲をはみ出ることはない。
無論妖怪たちの発するあの物騒な物言いそれ自体は、今の時代にあっては笑えぬ冗談や誇張表現の類ではある。幻想郷に暮らす者ならばそれは判断できる。これまでも自分は幾度か異変の解決に失敗し、首謀者の居所に軟禁されたり危なっかしい妖怪の遊び相手をさせられたりということはあったが、それでも命の危険を感じたことはほとんどなかった。
それらの日々の戯れとはまるで相の異なる場所に、薄暗く湿った『人喰い』の事実はある。
「雨のせいかしら」
重ねた手に額を預け目を閉じる。深々と息を吸い、吐く。
考え込んでしまうのは良くない。深慮も憂慮も、結局は何も生み出さない場合が多いではないか。
世界を嫌いになるのは嫌だ。己を取り囲む環境に懐疑的であることは、それがそのまま心を磨耗させることへと繋がる。だから、自分はあの軽やかな妖怪の少女たちのように、憂いも惑いも無しにこの世界と真っ向から向かい合いたかった。
――でも
結局はそんな芯の強さなどは己の内には欠片ほどもなくって、だからこの場所の日常たる時間があの来訪を期に非日常の方向へと枝分かれしたとき――何かが崩れた。心の奥底の箱にずっと仕舞い込んでいたものが、その鍵を壊して外へと放たれてしまった。
そうして解き放たれたそれはたちまちに心中を喰い荒していく。心の土台が虫食いになる。どうにも嫌なことばかりが思い浮かんでしまって、そこから思考が離なくて、それ以外のことを考えようとしても自ずと考えの中心はそこへと帰結し、結局気が沈む。
この場所は――幻想郷は――
「貴女はよくやってくれたと思う」
突然紫の声が背後から聞こえた。
「ゆ、紫? 起きてたの?」
目を閉じていたから気が付かなかった。
声に続いて訪れたのは、背中に触れる衣の感覚だ。白襦袢をまとった紫が、背後からこちらを抱きすくめたのだ。そうやって触れられていると、己の内にある負の思いが気取られてしまうような気がして落ち着かない気分になる。
「紫?」
「貴女は本当によくやってくれた。それなりに優秀でしたわ」
「ちょっと、ちょっと。らしくないってば」
「私だってね、こう見えて感謝はしているの」
そういうことを言われるとむず痒い。特に紫は普段が普段なだけに余計に気恥ずかしいものがある。
「もう、くすぐったいってば」
「ふふ……」
「まったく、いきなりどうしたっていうのよ?」
「いえいえ……まあ」
抱きすくめる紫の腕に力がこもる。
まるで、こちらを逃がすまいとして束縛するかのような――
「最期くらいは優しい言葉をかけてあげるのも悪くないと思ってね」
――え?
首と肩の境目――装束から少し晒されたその柔らかい部分に、何かが喰い込む感覚がある。
一体何が起こっているのか――巫女がそれを認識する前に、それは凄まじい圧力を伴って巫女の肌を突き破った。
「ひっ!?」
血。
白い袴の肩口が赤く染まる。
咬み付かれたのだ。八雲紫が己の肩に歯を立てて――
そして次の瞬間、喰い破られた。右肩と首の境辺りの、柔い肉――それをスキマ妖怪は食い千切ってもっていった。
「あ……え?」
妙な声を上げて倒れ込む。
混乱がある。状況が呑み込めない。
そして危機感は少し遅れて到来し、爆発的な勢いで巫女の中を駆け巡る。
逃げなきゃ――ただ、そう思った。
けれど身体はその思いを行動へと移してはくれず、尻餅をついたままで後ろへと這いずって行くことしかできなかった。
「な、なんで? ゆ、紫?」
「ふふ、やっぱり貴女は人間ですわ」
口から血を滴らせ、巫女の肉の咀嚼を終えたスキマ妖怪は、実にいつもと変わらない笑顔を見せながら言った。
そのいつも通りの笑顔と、滴り襦袢を染める血の赤とが強烈な不協和音となって、それがそのまま巫女の内で恐怖として結実する。
――怖い
逃げなければ――
一刻も早くここから――
この存在の前から――
「あ……」
右の膝から下が、そこに生まれたスキマに捕らえられる。その内にある無数の目が、あからさまな捕食の意思を持って巫女を見ている。
そしてスキマが一気に閉じて、巫女の膝から下は鋏を入れられた紙の様に、実にあっさりと切断されどこかへと消えた。
食べ物を喰い千切って閉じた口がまた食べ物を求め開くのと同じように、スキマが再び開く。びちゃびちゃという肉の咀嚼音と骨のへし折れる音とがその中から聞こえ、そしてそこから血が滲み溢れて畳を穢した。
――厭だ
膝の切断面では、肉の繊維と神経と血管とが千切れ、ほつれ、合間からは白い骨がのぞいている。
立ち上がることが出来ない。立ち上がるための両足が、無い。
食べられてしまった。
――私の身体が……
身体が壊れていく。
身体が奪われていく。
身体が無くなっていく。
「い……」
身体が、喰いものに――
「いやぁあああああああああっ!」
――怖い……
怖い
怖い
怖い
怖い
怖い
怖い
怖い
怖い
怖い
怖い
怖い
怖い
怖い
怖い
――怖い
厭だ
食べられるなんて厭だ
生きたまま――
齧られて――
怖い
誰か――
「お腹も空いてしまったことだし、いい機会ですから貴女の処理も済ませておこうかと思ってね」
「しょ……り?」
それは明らかに、生きた人間に対して用いるはずのない言葉だった。
――そうだ
一体自分は何を考えていたのだろうか?
この娘は妖怪じゃないか。
人を喰うんじゃないか。
そんな存在と今の今まで親しく言葉を交わして――どうかしていたんだ。根本的に間違っていたんだ。
「ああ、やっぱり――人間のそういう顔はとてもいいわ」
からからと笑う一人の少女。ついさっきまで、普通に言葉を交わしていたその存在が、今は無上の恐怖を与えてくる。
「生きたまま喰われるって――イヤよねえ。怖いよねえ。人間は食べられちゃえば、それっきりですものね」
巫女の目の前で紫の首から上がスキマの内へと消える。襦袢に付着した血と相まって、首無し死体が突っ立っているかのように見える。
「それが『いい』のです」
声は左下から聞こえた。
左手の指に紫の首が食らい付いている。
「やっ、やだっ! 離してっ!」
夢中でその顔から指を引き抜こうとする。
だがその抵抗は意味をなさず、人差し指と中指と薬指とが喰いちぎられる。
皮膚の裂ける音と、血を食むふしだらな音――
手は抜けたけれど、その手に指は無い。たったの二本になってしまった。
紫の首が元の位置へと戻る。そしてその口から奪われた三本の指が吐き出され、巫女の袴の上にぼとりと落ちた。
「指はあまり美味しくないねえ」
吐き出された指はどれも歪んでいる。中途半端に咀嚼されたせいで、形がひずんで、肉が削げて、中から突き出た細い骨は歪な形に折れ曲がっている。
ぐちゃぐちゃになったそれは、肉体から乖離した単なる残骸だった。
声にならない悲鳴が喉の中で反響した。
「もう子供も抱けませんわね」
そう言うと紫は静々とした足取りで巫女へと近付く。
「こっ、来ないでっ!」
咀嚼されて死ぬ。
呑み込まれて死ぬ。
消化されて死ぬ。
きっと自分の死体は目も当てられないくらいぐしゃぐしゃになるに違いない。自分は生き餌なのだ。捕まって売りさばかれた魚のように目玉や顔面の肉に至るまでほじくり出されて、あまり味の良くないであろう臓物の類と骨ばかりが残るだけになるのだ。
「お、お父さん……」
助けて、と言おうとした口は紫の手で塞がれる。血がいっぱい流れたから、その分たくさん肺が空気を求めているというのに、息が出来ない。心臓が踊る。それで血流の勢いが増したのか、壊れた身体の各所からぴゅうぴゅうと血が噴き出す。命を繋ぎ止めようと心臓が必死になればなるほど、身体は一歩一歩終わりに近付いて行く。
「そこで親のことを呼んでしまう辺りが人間よ」
柔らかさと凄みが同居した歪な声で、当り前の事実が告げられる。
そして血だらけになった巫女を紫は組み敷いた。抵抗するだけの気力がもう残っていない。そのくせ意識だけは妙に鮮明で、恐怖感だの忌避感だのはちっとも薄れることをしない。
「ご苦労様。もう休んでいいわ」
優しく愛撫するかのようにして紫は巫女の首筋をなぞり、そこに血で紅の施された唇を寄せる。
血の臭いに混じって幽かに甘い匂いがした。
「あ……」
そして紫の歯は容赦なく巫女の首に食い込む。
一瞬の凄まじい圧力の後、声帯を巻き込んで首筋の肉が奪われる。
頸動脈が千切れて血煙が室内に吹きあがった。
――私の血……
天井まで届く、致命的な出血――
――あんなに高く……
馬鹿だった。
自分が間違っていた。
「これで貴女と私の境界は消える」
肉の嚥下される音の後、スキマ妖怪は忌まわしいくらいに可愛らしい笑みを浮かべた。顔も服も真っ赤に染まり、髪には血が絡まり、表情にはどことなく恍惚としたものが見え隠れしている。
「ん~、やっぱり人間はおいしいの」
やけに少女らしい声で八雲紫はそう言った。それを聞く自分は今わの際だ。
「たまにはイイものも食べないとね」
茶化すような口調。
――妖怪なんて
「中々に美味でした。ごちそうさま~」
最低じゃないか。
人間をこんなふうに喰らって、嘲って――最悪だ。
――私は楽園の……
楽園の巫女?
楽園の巫女だって?
笑わせないで欲しい。一体全体、これのどこが楽園なのか。そんなものがどこにあるのか。
するのは血の臭いばかりじゃないか。
弱い奴は喰われて終いじゃないか。
攫って食って嘲って見下してかなぐり捨てて、人の生を一体なんだと思っているのか。
何の了見で攫ってくる? 何を基準に命の価値を決めている? 価値がないなら殺してもいいの? じゃあ価値があるということにどれだけの価値があるっていうのよ。
勝手に決めるな。思い上がっているんじゃない。死んでいい奴なんかいない。いたとしたって、それを決めるのは自分たちではない。
なのに何が大結界だ。何が幻想郷だ。
単に隠遁して引きこもっただけじゃないか。結局ここは広大無辺の世界の中の、たったのひとつ箇所に過ぎないじゃないか。
人を喰って人を喰って人を喰って人を喰って――
その癖呑気に大酒かっ喰らって、ちょっとの深刻さだって滲ませやしないで、ただただ陽気で頽楽的な喧噪ばかり。それで足元に流れる血の赤からは小狡く眼を反らしている。
うんざりだ。
血。
肉。
脂。
上澄みは綺麗でも、深く潜ってみればそんなものが澱のようにぐちゃぐちゃと堆積しているこの世界は、良い場所なの?
美しい、残すだけの価値のある特別な場所なの?
違うんじゃないの?
幻想郷なんて――
――幻想郷なんて……
所詮は――
「目を覚ましなさい」
場の全てが冴え渡るような、そんな凛とした声がして――巫女は覚醒した。
「……あ、あれ?」
いつも通りの室内の情景が、少しだけ眩しさを伴って目に飛び込んでくる。血などはない。
雨の音、風の音。
紫は隣の部屋で静かに眠っているし、自分の身体もきちんとある。
生きている。
――夢?
そういえば痛みの類が全くなかった。
どうやらいつの間にか机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい。午睡の後に特有の鈍い頭痛がする。背は冷や汗に濡れ、すっかり冷えてしまっている。
「まったく、せっかく私が登場したってのに……いつまでうんうん魘されているわけ?」
巫女の対面に一人の少女が行儀良く正座をしていた。
穏やかな色味をしたチェックのスカートと揃いのベスト、そして楚々とした真っ白いシャツ。青々と生い茂る葉のような緑の髪は、背中の辺りまで伸びている。
紫同様に巫女とは縁の深い妖怪であり、また巫女に戦うための術と草花の大切さとを教えた張本人――
「幽――香?」
「師匠と呼びなさい、師匠と」
風見幽香がそこにいた。
* * *
――――魔界
これだけの高さがある建築物を一体どうやって支えているのだろう――公園のベンチに腰をかけ、摩天楼の群れを眺めながら寅丸星が考えているのはそんなことだった。
魔力の管理上の問題からか、魔界では星の世界で言うところの太陽光に相当するものがひどく微弱である。だから街の活気を見るに今は多くの人々の活動する時間帯なのだろうが、星たちから見れば夕暮れ時のようにしか見えない。林立する高層建築も空の色を投影して赤い。ちなみに瘴気でスモッグ状態のときは大半の光が遮断され街全体が薄暗くなる。
エソテリアと呼ばれるこの街は――それが正式な名称であるのかは知らない――中央部に巨大な公園を有していて、それを都の人造物が取り囲む形となっている。
公園自体の面積がかなり広く取られているため、園内でも中心寄りの部分に腰を下ろしている星の場所から出口まではそれなりに距離がある。その間は満遍なく植樹がなされているから、星から見ると木々の中にいきなりビルが生えているようにも見えるのだった。
「セントラルパークという奴だね」
二人分の茶碗と煎餅を盆に乗せ、同行者のナズーリンが戻ってくる。愛用のロッドは皮のカバーをかぶせられて、ベンチに立てかけられている。よく連れている子ネズミたちは今は幻想郷で留守番らしい。
魔界は幻想郷に比べて近代的ではあるが、その根本にあるのは魔法の力だ。だから文化的には幻想郷に通ずるものもあって、公園を行く人々も幻想郷にあっても違和感がなさそうな装いをしている場合が多い。
「ほら、ご主人」
コップの片方を差し出し、お盆はベンチに置いてナズーリンも星の隣りに腰を下ろす。なぜかこの都は煎餅が名物であるらしい。景観とはすこぶる合っていないが、聞くところによるとこの地域は魔界においても田舎として分類されるような辺鄙な場所であるのだそうだ。たしかにここへ到る途中で立ち寄った首都などは人も建物も、そして空間が含有する魔力の量もここ以上に多いものがあった。
「えっと、『魔界神のぽたぽた焼き』? 不思議な名前のお煎餅ですね」
「甘いのだそうだよ? ご主人が梅こぶ茶なんて妙なものをオーダーするからね。のどが渇いたりしない?」
「……まあ渇くでしょうね。うっかりしていました。しょっぱい」
「言わんこっちゃない。相変わらずばっかみたいだね、ご主人は。ほら、これを飲むんだ。まだ口は付けていない」
「そんなこといちいち気にしないってば。でもありがとう」
軽く詫びるとナズーリンの寄こした茶碗を口にやる。
数年に一度、こうしてこの地を訪れ『彼女』の封印の状態を確認することが一種の慣わしとなっていた。
無論現在の星の元にこの地の封印をどうこうするだけの手段は存在しないし、濫りに封印を解きこの地の均衡を乱すようなことがあってはならないのだが、それでも星は『彼女』のことを諦めているわけではない。状況に変化のないことぐらいは確認しておきたいという思いはある。
――いつまで繰り返すやら……
そう思うと少し気鬱に駆られるものがあった。
ただそれはすぐに内に飲み込んで、星は煎餅をかじる。ナズーリンの言うとおり甘く、そして煎餅としては結構柔らかい。嫌いな味ではなかった。
実のところナズーリンはこの魔界行にまつわる星の事情とは、ほぼ関係がない。その彼女がこうして気を利かせて同行してくれているのだから、余計なことでこれ以上気を回させるのは星は嫌だった。
「界多重都市――だったかな」
公園中央の噴水まで歩くと、小型のペンデュラムをぶらつかせながらナズーリンが言った。
皮肉めいた物言いが目立つ割に妙に行儀が良く、色彩の抑えられた装いと合わさってそれがそのまま彼女らしさになっている。
整った横顔の曲線。鋭さと穏やかさが同居する眼差し。その顔がいまだ自分の隣にあることを自分は感謝しなければならないと星は思っている。
「そういう用語があるの?」
「みたいだよ」
魔界には幾つかそのように呼ばれる形式の都が存在しているのだそうだ。エソテリアはそのうちの一つである。
外部からの影響により魔界内部に『通常の魔界とは異なる』理に則した世界が発生することがある。その星たちの世界で言うなら幻想郷と外の世界との関係に相当する複式の境界構造――それをそのまま内包している都市のことをそう呼ぶ。
つまり『彼女』の封印された場所と、エソテリアとは空間的な座標はほぼ一致していると考えてよい。
だから今まさに『彼女』が星の隣りに立っているということもあり得ない話ではないのだ。
ただ星にはそれは絶対に知覚出来ない。そして向こう側からしてもそれは同じことである。
「宝塔の反応はどうだい、ご主人」
星が近づいてきた自転車をよけるのと同時に、噴水の水の色が透明から紫色へと変化する。
休憩を終えた後、封印の状態を確認する作業へと二人は移っていた。ただ首都から魔界入りし、おおよそ一週間ばかり列車を乗り継いできた割には、この作業そのものに要する時間はすこぶる短い。ものの数分で終わってしまう。公園で作業に臨むのは何ということはなく、ここが街の中心だからである。
「特に変化はなし。以前来たときとおんなじですね」
「こちらも特に変わったところはない。毎度のことだがあっという間だ」
ナズーリンがそう言ったところで、噴水は緑色に変化した。
「では明日になったら幻想郷に戻るとしますか。毎度のことだけど、貴女には迷惑をかけるわね」
「それこそ気にするようなことじゃあない。ただねえ……」
かざしたペンデュラムの向こうに、園内を行く人々を見つめている。何か真剣に思索を行っているときの眼差しだ。
「ナズーリン?」
「ねえご主人、しばらく二人でここに滞在しようよ」
しばしの沈黙の後に出てきたのは意外な言葉だった。
「にゃ? 珍しいですね」
「ほら、毎回とんぼ返りというのもつまらないだろう? もちろん遊びに来ているわけじゃないことは知っているけどさ、別に急いで帰らなければならない理由もないし」
「ええ、まあ取り立ててやらねばならないこともありませんが――」
「ならいいじゃないか。私だって毎度長旅に付き合っているんだ、たまにはわがままを言ってもいいはずさ」
「それは構いませんが……ナズーリン」
「何かな?」
「貴女、何か隠していませんか?」
何か態度がおかしい。そこは付き合いが長いから分かる。そして実のところ、そのこと自体は行きの列車の中で既に感じていたことではあった。移動中ということもあってたずねそびれていたのだが、魔界に入って数日たった頃からナズーリンの態度はわずかに変化していた。
「ご主人も妙なところで鋭いねえ」
降参するようにナズーリンは手を挙げる。ペンデュラムがきらりと光った。
「確かにご主人に隠していることはある。それは指摘の通り。ただね、それはいま言ったこととは何の関係もない私個人の事情。貴女と魔界観光と洒落込んでみたいというのは本当のこと。これだけ大きな都なら、掘り出し物もたくさんあるだろうからね」
「なら構わないのですが……」
「すまない、余計な気を回させてしまったかい?」
急にしゅんとした態度をナズーリンは見せる。慌てて星は手を振る。
「な、何でもないならいいのです。ただちょっと心配だっただけで――」
「ま、いったん宿に戻ろうか」
ナズーリンの言葉に、星はそうしましょうと返し噴水から遠ざかる。
風が一吹き、人造石に包囲された森を抜けていく。魔力を大量に孕んだ、魔界に特有の風――
「嘘が上手ね、鼠さん」
その風を退けるように、突然背後からそんな言葉が投げかけられる。その射抜くような声に星は一瞬びくりとした。
特に高圧的であるとか居丈高であるといったことではないけれど、自ずと聞く身に緊張がたぎるような声。そしてそれと同時にそれまでまったく感じていなかった強烈な存在感を、背中が感じ取る。
「でも、後になって事情を知らされた彼女はどう思うかしらね?」
噴水の周囲に設けられたベンチに、一人の小柄な少女が行儀良く腰をかけていた。
控えめにあしらわれたフリルが夕映えする、真っ白なワンピースのドレス。
それを覆う形でまとった、少しだけ丈の短い黒の外套――という表現が魔界の洋風な装いにおいて適切かどうかは星には分からないが――は、ワンピースの胸の部分で黒いリボンを交差させている。それが紐の代わりとなって衣服の左右をつなぐ。外套にもフリルが目立つから、ちょうど薄手のドレスが二枚重ねになっているような状態である。そして腕の先端部と靴下は、胸元とは逆に黒地の上を白のリボンが幾重か交差する形となっているから、そういった白と黒の交わりがこの衣装の特徴となっているのだろう。
髪は深い緑色をして、華奢な肩の辺りで綺麗に切りそろえられている。
――このヒトどこかで?
記憶は定かではないけれど、星は目の前の少女に見覚えがあった。
「いつからそこにいらしたのかな?」
「最初から」
ナズーリンが畏まった様子でたずねると、少女はくすくすと笑みを浮かべた。
その笑顔だけ切り取って見るのなら、それはまったく可憐で可愛らしいのだが、しかし放つ気配は魔界にあって異質な感じがする。それにこれだけの存在感を持ちながら、声をかけられるその時まで星は一切彼女のことに気が付いてはいなかったのだ。それが奇妙で仕方ない。
「盗み見に盗み聞き――趣味がよくないですね」
「失礼。でも、さっき言ったことは本当のこと。彼女には包み隠さず言っておいた方が良いですよ?」
「まあ他ならぬ貴女が言うのなら――従うべきなんでしょうが……」
「ふふっ、真実は事実の中に隠す。セオリーね」
楽しそうに笑うその様は、何だか噂の好きそうな女の子という印象を星に与えている。対するナズーリンはむすっとした面持ちである。
「あ、ところでさ、この服おかしくはないかしら? 魔界にいる間はこれを着ておけと言うから着てみたのですが」
「髪の長さと色が若干合っていない感じはしますが、まああの仰々しい制服を着ているよりかはよっぽどいいと思います。魔界人っぽい」
「私としては少し気恥ずかしいのですが――」
「そう仰る割には結構乗り気で着こなしているように見えるよ……四季映姫様」
「あ!」
変わり者で知られる幻想郷の閻魔――言われてみればその存在感も独特の声質も皆ヤマザザドゥのそれだ。ただ目の前に座る彼女は何だか妙に令嬢然としていて、だから気が付くことができなかったのだ。
「ど、どうして閻魔様がここに――?」
「休暇を利用して、ちょっとした悪巧み中」
悪戯っぽい笑みを映姫は浮かべる。こういう顔も出来るヒトだったのかと星は少し意外に思う。
「まあもう私がやらなければならないことは終わっているけどね」
「例の異変絡み、ですか」
――例の異変?
しかめ面のナズーリンに対し、映姫は笑みを浮かべて返す。
「その通り。ですから貴女が彼女に本当のことを言ってくれないと、私が嘘をつかなくちゃいけなくなる。嘘は悪いことだけど、人に嘘をつくよう強いるのはもっと悪いこと。鼠小僧、御用じゃ」
「はいはい、分かりましたよ。まったく……何となくきな臭いからご主人には関わってほしくないんだがね」
「幻想郷で何かあったのですか?」
「ええ、まあそういう感じ」
渋々といった調子でナズーリンは幻想郷で起きている一連の出来事について星に語った。
「そうですか、幻想郷がそのようなことに……え? ってナズーリン私に黙っている気だったの? それひどい。ちょっと怒ります」
星の言葉にナズーリンはばつの悪そうな顔で悪かったよと言った。
「どうにもおかしな感じがするんだよねえ。だから『代理』たる貴女が関わってほしくないのさ。加えてそこに来て裏で閻魔様が巧み事と来たもんだよ。上位者が動きすぎている」
ナズーリンが挑発的な目線を映姫に向ける。よくやるものだと星は思う。
「というかナズーリン、どうやってそんな情報仕入れたのですか?」
「毘沙門天様だって普段は幻想郷にはいらっしゃらない。世界間での連絡通信手段くらいは持っているよ」
その通信で仕入れた情報の出所をこそ星は知りたかったのだが、結局ききそびれてしまった。
「とりあえず、管理サイドの連中が吸血鬼を自ら呼び寄せたってことまでは知ってます。だからこそおかしいとも思うのですよ」
「なぜかしら?」
「管理サイド――いや、面倒だから八雲紫でいいや。八雲紫が異変を起こす目的で吸血鬼を呼び寄せ、その八雲紫の制御を吸血鬼が脱した。そこまではいいのですが――ならばなぜ未だに『八雲紫が望んだような形で』ことは進行しているのですか? 単なる偶然であるというなら、それはそこまでですが、生憎敵の吸血鬼は本当か嘘かも分からない大仰な力を持っていると聞く」
「何が言いたいのですか?」
「仕組まれているんじゃあないですか、ってことです。管理人としての八雲紫の手腕は信用しても良いと思う。他ならぬ貴女が評価しているんだからね。でもってその彼女が割り出した『今時点で必要とされるファクター』は、即ち大規模な異変という奴だった。少し納得のいかない点はあるし、功を急き過ぎている気もするが、その答えもとりあえずは信用して良いと思う。だから――やはりその可能性を疑ってしまいたくなる」
八雲紫の意思の下を脱したにもかかわらず、吸血鬼は依然として八雲紫に――否、管理人としての八雲紫を信用するのなら幻想郷にとって――都合の良い行動を取っている。ナズーリンの言う違和感というのはそこだろう。そして星はナズーリンの言わんとしていることを察した。
「ナズーリン、貴女吸血鬼と八雲紫の内通を?」
「高名悪名どちらも聞き及んでいる。そのスキマ妖怪なら、それぐらいはやりかねないだろうと思ってね」
「いい線ですが、残念ながら少し違うわ」
ナズーリンの疑念を映姫は苦笑いを浮かべながら否定した。
「紫と吸血鬼の間にはコネクションなどありませんよ。彼女は目下火消しの真っ最中ね」
「そうですか……さすがに考えすぎだったかな」
「そうでもないわ、いい線を行っている。ただ――吸血鬼との間にコネクションがあるのは紫じゃなくて、私だということね」
「え?」
星は映姫の発した言葉の意味が分からず疑問の声をあげる。その隣りでナズーリンは露骨に嫌そうな顔をし、詰問するように言った。
「性質が悪いな……夜摩天がそのような嘘をおつきになるのですか」
「正確に言うなら『私たち』かしらね」
「ふん……ご主人、やはり幻想郷には帰らない方が良いよ。奇術師の演出に組み込まれるのが分かりきっているのに、わざわざステージに上がるなんてばっかみたいだ」
やや演技がかった仕草でナズーリンは大袈裟に嘆いてみせた。映姫は映姫で笑みを崩さない。
「それでいいと思いますよ。客が壇に上がることを拒んだとしても、奇術は滞りなく続く。そういうのは大概サクラが仕込んでありますから」
「貴女たちのような、ですか」
「ええ。あ、噂をすれば何とやらかしら?」
星たちの後方に映姫は目をやる。
振り返るとそこに赤いローブをまとった一人の女性が立っていた。片側で短くアップにしたアイリスの髪がその赤にかかっている。目元はサングラスといっただろうか、それに隠されていて正確な表情はうかがい知れない。
「やっほー、映姫ちゃん。待った?」
発された声はやけに明るく柔らかいもので、何だか表情を隠すサングラスとは合っていないと感じる。よく見るとローブの下は穏やかなピンク色をした徳利首だ。魔界人としてはごく一般的な装いで、公園の風景とよく馴染んでいる。
「私が早く来すぎただけですよ。ご心配なく」
「まったく、サリィちゃんも面倒なことを持ち込むわよねえ。大変だったわよ、貴女の力をグリモワールに落とし込むのは」
「何か会議を招集されたとか?」
「『私´』を置いてきてあるわ。ちなみに今のところは首尾がないのが首尾といったところかしら? 皆々様は忙しない。幻想郷に興味などないようだから、当分目を付けられることはないでしょう。気ままにやってていいんじゃないかしら?」
「そうですか、それは早く紫に教えてあげないと」
交わされる言葉の内容は星にはまったく理解できない。一方ナズーリンはローブの女性をじっと観察し、そして星に耳打ちした。
「ご主人、あれ誰だか分かるかい?」
「流石に分かりますよ。魔界神様でしょう?」
魔界において知らない者のいない存在――その魔界にたびたび訪れている星も当然例外ではない。
「お忍びということなのだろうが……隠すなら目元よりあの髪型だと思うんだがなあ」
「あ、ナズーリンもそう思う? なんか周りの人たちも気が付いているみたいだけど、言った方がいいかしら?」
「地底の方から報告がありましたよ」
映姫がそう続けた。
そして閻魔と魔界神――神綺は、傍らの星たちのことなどお構いなしといった体で、いよいよ不可解な会話を始める。
「さとりちゃんとやら?」
「さとりはもう潜行しているでしょうから、たぶん報告をしてきたのは別のヒトでしょうけどね。それによると、やはりレミリア・スカーレットは『リンクしている』そうです。幸い幻想郷が擬似的に一個世界を構築しているせいでその外部にはそれほど影響は及んでいないようですが」
「その逆かもしれないよ? むしろ世界をネスティングしたせいでかえって力を振るいやすくなったのかも」
「博麗の結界がなければレミリア・スカーレットは無力だったということですか?」
「そうそう。マトリョーシカちゃん状態だから、幻想郷は」
こんにちは、と星とナズーリンに向けて言うと、女性は映姫の隣りに腰を下ろした。背後で噴水の色が赤色に変化する。
「いずれにせよ、押し潰されてしまわなければいいのだけど……映姫ちゃん、貴女も知っているでしょう? 『あれ』は本来干渉され得ぬもの、万物に共通する潜勢態としてあるべきものよ。いや、領域と言った方がいいのかしら? 過度の干渉はそれがそのまま世界の形相の破壊へと繋がりかねないし、だからこそ貴方たちも『観測』に留めているのでしょう」
「樹形図の根元のようなものなのでしょうか。貴女はどうなのです? 貴女なら、『あれ』を意識的に自在に出来るのではないですか?」
「大丈夫だよう。そういうふうには出来ないように色々と多重化してあるから。だからまあ、私はあんまり意味のある存在ではないのよね。名誉教授とか名誉会長とか、そういう感じかな」
楽しそうに笑う神綺を尻目に、星はナズーリンに小声でたずねる。
「ねえ、なに言っているか分かる?」
「分からないこともないが、あまり理解したくない。やっぱりあのヒトたちは恐ろしいよ。とてつもなく物騒な話をしている」
「物騒?」
「馬鹿馬鹿しい喩えだが、この世界が一枚の絵であったとして――何かの画材で持ってそれを修正できるか、とそんなような話をしている。自分で言っていてよく分からないが」
「世界を修正する――画材?」
「ラピス――なんだろうな、この場合」
何か気に障る要因でもあったのだろうか、ナズーリンの浮かべた表情はひどく険しいものがある。
そのしかめっ面とは対照的な柔らかい声がナズーリンを呼び止める。
「ねえねえそこのネズミさん、折り入って貴女に頼みたいことがあるの。聞いてくれる?」
「私に? 失せ物探しかな? 『ペリカン』とか『孤児』とか、そういうのは勘弁願いますよ。貴金属がほしいなら掘り出した方が早いもの」
険を晴らし、若干の軽口も交えつつ、ナズーリンは神綺の呼び止めに応じる。
「そういうのではないけれど……近しいものではあるかもしれないわ」
「ほう?」
「こちらの方でもそれとなく追いかけていたのだけど、うっかり見失っちゃってね。そんな手間のかかるようなことではないと思うからさがしてほしいの。ね?」
「ふむ……まあ断ることはしませんが、ちょっとした条件をお出ししてもよろしいですか?」
ナズーリンが星の方を指す。
「彼女が魔界に滞在するための便宜を図っていただきたい」
「ん、そのぐらいはお安い御用よ」
微笑みながら答える神綺の表情はやはり穏やかで、確かに畏れ多い存在であるということは頭では理解できるのだがどうにも実感が伴わない。やはりそう相手に思わせるには彼女のまとう雰囲気は柔らかすぎるのだ。
――ただ
その方が彼女は楽なのかもしれない、と星は思う。
造物主という元来の立ち位置を踏まえるのなら、彼女の横に並び立てる者はまったく少ない。万感をもって払われる敬意が、孤独の裏返しとなることもある。
その彼女は何か思いついたのか、そうだと言って両手をぽんと胸元で手を合わせた。
「せっかくだから特典も付けましょう。あ、もし見付からなくても無効ってことはないよ?」
「特典?」
「中身はお願い事が終わったときに教えてあげる。でもって、依頼の内容ですが――」
少しだけ声音に魔界の主としての色が混ざる。つまりはそういう立場より発する頼み事ということなのだろう。そしてその間、映姫は何か考え事をするように人差し指でこめかみを突いていた。
「氷と風のデュナミス――貴女に探してほしいのはこの二つ」
またよく分からない言葉が出てきたな、と星は少し途方に暮れたが、ナズーリンは神綺の言わんとしているものが何であるのか察したようだった。
「それはあくまで探索ですか? それとも確保?」
「捜索よ。見付けて在所を教えてくれるだけでいいわ。確保も『抽出』も面倒でしょうから」
「なるほど、それだけなら簡単そう。引き受けましょう。特典とやらも気になるしね」
「ほんと? 助かるわ。娘たちも何人かあっちに行っているだろうから、出会ったらよろしく。あと気をつけて帰ってくるようにって」
「分かりました。あ、そういうことだからご主人、私は幻想郷に帰るけど貴女はここに残っていて」
顔だけ星の方に向けてナズーリンは言う。矢継ぎ早に事が決されてしまい星は少し慌てる。
「わ、私も行きますよ。何かしら干戈を交えることもあるかもしれないわけでしょう?」
「大丈夫だよ、捜すだけだから。ただ宝塔を貸してもらえると心強いかな」
「それは構いませんが……ほんとに大丈夫? 無茶はダメですよ?」
「分かってるってば、ご主人様は心配性がすぎるよ」
「……そろそろ移動した方がいいかしらね」
星が釘を刺し持参していた宝塔を手渡す横で映姫がすっと立ち上がった。
「閻魔様?」
宙を見据え、そして何かを撫でるようにしてその手を伸ばす。
「蝕」
ごく短い音節の後、映姫の背後に人2人分ばかりの直径を有する黒い穴が現れる。魔界の日常を穿つそれは何もない空間に忽然と開いたもので、注視するとその内部は暗色をした格子のようなものが色度や濃度を少しずつ違えながら奥の方まで連なっている。
「ご主人、これは――」
「幻影の類でしょうか?」
周囲の反応を見るに、星たちにしかこの穴は見えてはいないのだろう。公園を行く人々の様子にこれといった変化はない。
「もう繋がってる? 繋がってるなら行きましょうか、映姫ちゃん」
サングラスを外した神綺が穴へと歩み寄る。アイリスの淡い色をした髪が穴から吹き出す風に色を落とす。その横で映姫は人差し指で宙に線を引くような仕草を見せた。
「『通路』か……私たちは片道一週間もかけてここまで来たというのに」
ナズーリンの隣りに、最初に開かれたのとは別の少し小さな穴が開く。こちらの内部は妙な靄のようなものに覆われていて見通しが利かない。あまり潜りたくはない外見はしているが、穴の先は幻想郷に通じているということなのだろう。
「あまりこういう形で力を使いたくはないのですが……その通路は『一人用』です。貴女たちは2人同時に送るには些か霊格が高すぎる」
「ネズミさんは依頼の件をよろしく。虎さんは魔界観光を楽しんでいってね。余裕があれば案内役でも送りましょう」
そう言い残すと神綺と映姫は暗い穴の中へと踏み入り、そのままその向こうへと消えた。それとともに穴自体が収縮して消え去り、二人の痕跡は映姫がナズーリンに残した通路のみとなる。あれだけ強い二人の気配も一瞬にして掻き消えてしまっていた。
「あ、あれ? というかナズーリン、あの穴は幻影の類ではなかったのでしょうか? 確かにそうだと思ったんだけど……」
「深く考えない方がいいよ、ご主人。それよりあの方が遠ざかった以上、この道も長くは繋がっていないだろう。私も行くよ」
ナズーリンが通路へと向き直る。よくあんな場所を通る気になるなと星は思うが、それはナズーリンが四季映姫の力の精度を信用しているということなのだろう。
「気を付けて下さいね。危なそうなら敗走計、危なくなくても敗走計」
「なんだいそりゃあ……ま、ご主人も気を付けなさいよ。ものを食べるときは必ずカカオ成分が入っていないか確認してから食べること」
「たしか魔界にはチョコレートパフェなる世にも素晴らしい食べ物が」
「喰うな。このはらぺこめ」
「食べないよ。でもさっきのお煎餅は美味しかったからまた食べましょう。これ割と命令ね」
そう言って星が笑いかけると、ナズーリンもため息をついて少しだけ相好を和らげてみせる。
「はいはい、わかりましたよ毘沙門天様。じゃあ――行って来るよ」
「いってらっしゃい」
火打石を叩く真似をすると、苦笑いでナズーリンはそれに応える。
そうして映姫たち同様彼女は穴の向こうへと消え、遠ざかる彼女の気配を感じつつエソテリアの公園に星は一人残される。
幻想郷で人里が襲撃を受ける数刻ばかり前のことである。
(番外編2へ続く)
・人喰いとややグロ
・無駄に主張が強く出番も多いオリキャラ(視点担当)
なお番外編となっておりますのでこの章なしでもあんまり問題はなかったりします。
上記の点等が苦手な方はあまり無理はなさらずにどうぞ。
――――199X年5月、博麗神社参道
赤茶色の番傘を手にした人影が緩やかな山道を歩いて行く。
勢いを増す雨が山地を打ち、白い飛沫に地相は霞んでいる。空を覆うのは重々しい雨雲だ。一月ばかり先んじて梅雨が到来してしまったかのようである。
人影がまとうのは淡い藤色をした女物の着物で、これだけの激しい雨脚の中泥を踏み進んでいるというのに、そこには一点の汚れも見当たらない。静々とした歩みと相まって、彼女だけがどことなく周囲の風景と位相を異にしてしまっているようにも見える。
彼女が歩いてきたのは人里より数刻ばかり歩いて到る神社への参道である。ただそれと分かるような標の類は道中に一切なく、青々と雨に潤う棚田の合間や、あるいは場所によってはまったく獣道と大差のないような悪路をひたすら行くだけであるから、そうと知らないものからすればたどった先に神社があるなどとは夢にも思わないことだろう。
だから山道の先に見えてきた朱色の鳥居も、やけに忽然と現れるという感じがするのだ。
その鳥居の下で彼女はいったん立ち止まる。額束には達筆とも遅筆ともつかない独特の書体で博麗神社と記されているが、それが誰の手によるものなのかは彼女は知らない。朱塗りが比較的新しいのは里の人間たちが数年周期で朱を入れ直すからである。
羽を休める鳥はいない。
その朱色の境界をするり通り入ると、雨にけぶる石段と風の音を律儀に反映する叢林とが彼女を迎える。
石段の左右に絶え間なく植わっているのは桜の木である。春の頃であれば石段全体が桜に彩られもするだろうが、五月の今にあっては花信の風もなく、桜の木はただ新緑をまとうばかりである。だから全体に様相は仄暗い。
この数百段は下らないであろう石段を上り詰めた先に当の神社は鎮座している。彼女は番傘の影からその方向を見上げた。
そのとき不意に強い風が石段の上から吹き降りて、番傘を吹き飛ばした。乾が坤を叩くかのような、まっすぐ吹き下る風が、隠れていた髪を雨中に乱す。
そして不思議なことにその風が通り過ぎた後、それまで新緑をまとっていた桜たちは今一度その花を春の頃のように開かせ石段を染め上げているのだった。
「雲を降ろしたのね」
番傘を飛ばされたことなど意に関せずといった口調で彼女は呟き、自身の髪と同じ色をした花の階をゆっくりと上っていく。
その背後に黒の蝙蝠傘を手にした小さな人影が降り立った。片方の手には先ほど飛ばされた番傘を携えている。
「雲が降りると花が咲く――ほんと、不思議なところね」
甲高い声で人影は言い、手にした番傘を彼女に差し出した。
「はい、傘。落としたよ」
「分裂してる。器用なことをするのね」
傘をさし直しながら彼女がそう言うと、人影――フランドールはからからと笑い、先を行く彼女の横に並び立った。
「こうしないと外には出られなくてね。私の本体は天狗さんのお話相手。あ、ちなみにこの状態の私は戦力としてはあまりあてにならないからそのつもりで。頭も弱くなっちゃってるし」
「吸血鬼は雨が駄目だって聞いたけど?」
「お姫様、それはいわゆる紳士協定というものですわ。しょせん雨はただの雨。無論のこともしも正式な書面をもって契約がなされたのなら、よほどのことがない限りは私たちはそれに背くことは出来ないけれど、とりあえず現状は魔力で壁でも作っておけばどうとでもなるわ。あと傘」
言いながらフランドールは幾段にも連なった階の頂上を見上げた。和傘と洋傘が階段の合間に並び立つ。
「この先にこの桜を咲かせた張本人がいるってわけね」
「あれがいるのは予定外ねえ……」
「ん? 別人なの? 八雲ってヒトとこの桜を咲かせたヒトは」
「ええ。でもって――結構厄介よ? 気を付けることね」
「あら、言ったじゃない。私は戦力としてはあてにならないって。気を付けるのも頑張るのも、それはお姫様の仕事なのさ。私は八雲ってヒトさえどうにか出来ればそれでいいし、そのためにわざわざこんな危険極まりない代物まで持ってきたんだからね」
赤茶色のなめし皮で装丁のなされた一冊の本がフランドールの手元に現れる。厚みも重量もフランドールの細い腕には些か不釣合いなものとなっている。
「さしずめワイズマンのグリモワール、ってところかしら? 格好いい。うちの図書館の禁書庫にだってここまで物騒なものは置いていないよ」
愛用する玩具を扱うようにして、フランドールはそんなことを言う。そしてどことなく異物めいた存在感を発しながら抱きかかえられた魔導書は、傘で防ぎきれない細かな雨粒を浴びているにもかかわらず一切水に濡れた形跡が見受けられない。
「私がこの『異変』の中に組み込まれるなんて、思いもしなかったわ」
彼女は神社の方を見上げたままため息を一つついた。
「迷惑だった?」
「物みな舞台、人みな役者。だから――早く行きましょう、お嬢さん。面倒なことは早めに済ませてしまうに限るわ」
憂いを孕んだ声で桜色の髪をした女は言い、幼い吸血鬼は少しだけ緊張感をはらんだ声でそれに応じるのだった。
――― 番外編 ―――
なぜルーミアは自分をこの場所へと導いたのだろうか――空気の淀んだ洞窟の内部を歩きつつ、大妖精はそんなことを考えていた。
――『これから向かうのは屠殺場。人間が精肉される場所だよ』
不思議な黒服の少女の言葉を反芻する。自分はそういう場所へと向かっているのだそうだ。当然気乗りはしない。
歩む洞窟の内は空気の重さが外の比ではなく、ある種の粘性のようなものまで感じられる。それが閉塞した空間に万遍なく行き渡っていて、それで大妖精はまったく気分が優れないでいた。
汚い――というのとは少し違うように思う。
――重い
吸い込む者の内から活力めいた何かを奪い去り、かわりに憂鬱を喚起する――そういうようなことを妖精なりの言葉で大妖精は感じている。
その前を行くのは上白沢慧音と、以前湖畔で出会った釣り人である。
洞窟は天井はそれほど高くはない。砂利の音や水滴の音といったものが、やけに大きく反響して感じられる。あまり背丈のない慧音や大妖精はともかく、釣り人は何度か天井から伸びる鍾乳石に頭をぶつけそうになっているようだった。
洞窟内は何かの力でもって照らされているのか、不思議と暗くはない。視界はそれなりに利く。壁面にはそこかしこに呪術めいた意匠が施されていて、最も目立つのは卒塔婆だ。十字架もそれなりの本数を目にした。それ以外にも大妖精の見知らぬ物がたくさんある。
ただそれらはある程度系統立てて並べられているようで、混ざり合ってはいない。どちらかといえば並存しているという感じだ。
地面はそれなりにならされて、段差の類は少ない。誰かが歩くことを前提とした造りになっているのだろう。
そして場の空気の重々しさから気をそらすようにして、大妖精はこの一連の騒動について妖精なりに考え始めていた。
――あのヒト……
幼く見える瞳の奥に、酷く摩耗した光を宿していた少女。
いったい何が、どのような出来事の積み重ねがあの吸血鬼にそういう目をさせていたのかは分からない。
――でも
守りたかったヒトがいたのだとは思う。それはあの鎖の夜に彼女と『接触』した大妖精には分かる。
きっとそれは自分がチルノに対して抱いていた想いとほとんど変わらないことだったのではないかと思う。
ただ一緒にいたかった。
失いたくなかった。
相手の声が自分の耳を震わせてくれないことが寂しくて、当たり前に一緒にいられた日々がひたすらに懐かしい――そういう感覚ならば妖精の身であっても理解はできる。
――何かがあったんだ
仲睦まじそうにしていた相方の魔女――その彼女が今は隣にいない。外の世界に取り残されているのだ。
レミリア・スカーレットが望んでそれをすることはあり得ないだろうし、そもそも彼女は何かを悔いていた。おそらくは何らかの災禍に見舞われ、そうしてあの二人は結界の内と外とで離ればなれとなってしまったのだ。
――けれど
どうしてレミリア・スカーレットはこんな無意味なことをやっているのか――何らかの困難があったであろうことを差し引いても、やはり現在のレミリアの行動律にはまるで理解が及ばない。己の力を見せ付ける――そんなことをする必要がないということはこの場所の空気を肌で感じれば自ずと分かることだろうから、これはそういった示威行為の類ではないはずだ。
無論この場所に踏み込むその直前まで、彼女がそうした考えを抱いていた可能性というのはある。他ならぬ大妖精自身もそうだった。この地に足を踏み入れる直前までは新天地への期待などといった感情は微塵も内にはなく、ただ過大な不安と警戒心ばかりを募らせていた。
危険な場所であったらどうしようか?
神話の世界に登場するような、野蛮な怪物だらけの地であったらどうしようか?
そしてもしそこがそのような地であったのなら、果たしてチルノは何事もなく平穏に暮らせているのだろうか?
そんなようなことばかり考えてしまっていた。
けれどもこの地の土を踏み、そこの空気に触れ、それが単なる杞憂であったのだということは程なく感じ取ることが出来たのだ(大妖精の場合そう理解するのにしばし時間を要したが)。
吸血鬼という種に関して幻想郷はあまり良い記憶を持っているわけではないらしく、レミリアのことを知らない大半の住人たちは――彼女が外来の者であることもあってか――この一連の出来事を無体な侵略行為であると判断しているようである。二度に渡って彼女と接触した経験のある大妖精には彼女がそういう愚かしいことを本気で行うような人物ではないということは明確だったが、そう思うからこそ余計に混乱する部分もある。
やはりいくら考えても、レミリアがこんなことをしなければならなかった理由に思い至らないのである。
「なあ弥助」
無言だった慧音が同行者の名を呼び、それで大妖精の意識はまた暗い洞窟の淀んだ空気の内へと戻る。
「何です?」
チルノからぞんざいな呼称を与えられていた釣り人は、本名を弥助というらしい。身にまとう衣装は中国のそれに近い。
「貴方、ここは何度目だ?」
「正確な数は覚えてませんなあ。ただたまに来ておかないと忘れてしまう。人間は四六時中殊勝なことを考えていられるほど上等な生きもんじゃあないですから。まあもっとも奥の方まで見たのは一回だけです。あれはさすがにそう何度も見たいもんじゃない……そう言っちまうのは手前勝手なことなんでしょうがね。先生は毎年来ているんでしたか」
「慣れるものではないけれどね……」
そもそもなぜ慧音はこんな場所に来ているのだろうか?
今は状況が状況である。人里とやらに留まっておいた方が得策である気はするし、この場に来て人里とやらにとって有益になるような何かが得られるとも考えにくい。
その慧音はかなり思い詰めた表情をしている。それは洞窟に入る前からずっとそうだった。
――でも
似合わない。きっとこの人は快活な笑顔の方が似合っている――そう大妖精は思う。
今の慧音は見ているこちらにまでその内側の痛みが伝わってきそうで、また当人がその痛みを表へ出すまいと無理をしていることも分かるから――
――『気分転換しよっか、センセイ』
今になってやっとルーミアの言葉の意味が理解できた。
苦しかったのだろう。上白沢慧音には、上辺の態度では取り繕うことの出来ない苦悩があった。
――でも、何をそんなに悩んでいたの?
「先生、ここにまつわることは里のもん全員で抱えていくべき記憶だ。先生ばかりが背負うことではないでしょうや」
弥助は弥助なりに慧音の様子には察するものがあるのだろう。不器用な言葉を紡いでいる。あの日の湖のやりとりを考えると、彼はこういう『湿った』話は大の苦手なのだろう。
「弥助……私はね、人間じゃあないんだ」
ぽつりと慧音は呟いた。
「え? そりゃそうでしょう? 先生の中にはお偉い神獣の血が――」
「半分だけなんだ、人間なのは。私は半分なんだ」
「先生?」
「私は人間じゃない。人里にいる資格なんて無い。私は――」
小さな声で慧音は何かを呟いた。その声は洞窟に反響することもなく、弥助の耳に届くこともなく、単なる微細な空気の振動としてあっという間に消えた。
だが空気と縁深い大妖精の耳には、かすかにその言葉が届いていた。
――裏切り者?
慧音はそう言ったのだ。自分は裏切り者であると、小さな声で言った。
そしてその悲しそうな瞳が大妖精を見つめる。
「結局のところ貴女たちが一番優れているんだろうな。人も妖怪も――どう足掻いたって妖精の境地にはたどり着けない。眩しいよ。私たちは貴女たちのように自然ではいられないんだ」
「慧音さん?」
「……行きましょう。そろそろだ」
前方の壁面に変化が生じる。ガラス窓のようなものが左手の壁にはめ込まれているのだ。光の加減でもう少し近付かなければ様相は知れないが、その向こう側には別の空間が広がっているようである。それはどうやら三人がいま来た方角から繋がっているようだから、この通路と並走した別の通路か何かが壁を隔てた隣を通っているのだろう。
ガラス窓らしきものにはところどころ古びた札が貼付されている。それが画然としてあちらの通路とこちらの通路とを隔てているという印象がある。もう少し歩けば、その向こう側が見えてくるだろう。
「あっちは搬入通路ですな。我々が入った入り口とは違うところにそれ専用の入り口がありましてね、それがここいらで合流している」
人間の搬入口、ということだろうか。
「外の世界でもこうして食肉処理場を見学することは出来るのだそうだよ……」
「あっしや知り合いの彦左衛門の旦那あたりはほら、肝っ玉が小さいと言いますか……二十歳の半ばぐらいまで奥は見られなかった。それにそもそも一生奥を見ずに三途を渡っていってしまうのもいる」
――奥……
それは要するに人間が切り身になっていく場面ということなのだろう。それが見ていて気分の良いものではないということぐらいは妖精の身でも分かる。
そして壁の窓と三人の座標が重なる。大妖精の眼に壁の向こう側の光景が飛び込んでくる。
床は平らにならされ、通路であるこちら側にくらべて広い。
――人間だ……
外の世界の衣服をまとった人間たちが、一列に横たえられている。人数は十人、生きているのか死んでいるのかは分からないが、皆眠ったように動かない。
「昔に比して、食人という習慣はほとんど廃れたわ」
幻想郷に住まう妖怪等の数に反し、横たわった人間の数は圧倒的に少ない。だからそれは単純に空腹を満たすためだけに必要とされている類のものではないということなのだろう。
儀式――そんな言葉が大妖精の頭をよぎる。
「それでも――まだ残っているし、完全に潰えることは恐らくないだろう。だから……私たちはここのことを忘れてはいけないんだ。この場所を忘却の彼方へと追いやってしまうのは、それは全くもって気安いことではあるんだろうが、絶対にしてはいけないことなの。いかなる犠牲の上に自分たちは立ち、いかなる歴史が自分たちの生きる時代を象っているのか――平和な、あるいは平和なように感じられるそんな世の中にあってこそ、そういうことを人は知らなければならないのだと思う」
勿論、と慧音はやるせない表情で言う。
「それは私の独り善がりだ。私はだから――典型的な偽善者という奴なんだろうな。今もこうやって自己批判を懺悔の代わりとしている……性質が悪いな。卑怯だ」
「先生、先生は里のために色々よくしてくださっとる。先生に救われた奴だって里にゃあ何人もいる。んな自分を責めるような言葉は止して下さいよ」
釣り人が気遣いの言葉を寄せるが、慧音の表情は晴れない。
「その里を成り立たせているのがこの場所で流れた血だ。人が妖怪と共に生きるということは、必要な犠牲を必要なものとして受け入れていくことを意味する。私たちが幻想郷で生きることを選択している以上――これはどうしようもないことなんだろうな。そしてそれをどうしようもないと思えるからこそ――私はやはり半分ばかり欠けているのよ」
壁の向こうに横たえられた人間たちのその並べられ方は、どことなく偏執的な程にきっちりとしていて、それが誰も動かないことと相まって妙に作り物じみた印象を見る者に与えてくる。人形が大量に並べられているような感じがするのだ。
――でも
決して人形ではない。
あえて言うのなら食材ではあるのだけれど。
中でひと際に大妖精の目を引いたのは、一人の少女だ。十を少し越えたばかりの年だろうか、背丈は大して大妖精と変わらず小さいから周囲に比して目を引かれたのだ。
頬はひどくこけている。顔色は死人のように青い。
サイズが小さく、まるで身体に合っていない薄汚れたTシャツ。それと同じく丈が足りておらず、飾り気も全くない紺の長ズボン。そこからはみ出た腕や足首は、骨が通っているのかどうかすら怪しいくらいに細い。
髪は黒のショートヘアで、いかにも手入れがなされていないという感じがする。たしか人間は放っておくとすぐに髪の毛が傷んでしまうから、それなりに手入れをしなければいけなかったはずだ。
そして何より目を引くのはその身体の各所にある痣や火傷の痕だった。
痣は殴られたものだろう。
火傷は両の腕の中ほどに、まるで斑点のように集まっている。一つ一つは点と言っていいくらいに小さな傷痕だから、何かとても小さな熱源を複数回押し当てられたということなのだろう。
――ひょっとして……たばこ?
たしかそういう名前の嗜好品が人間の間では流行っていたはずである。あれに火を灯して押し当てれば、ちょうどあのぐらいの傷痕になるのではないだろうか?
まず可哀想だと思った。それは偽らざる気持ちである。
もちろんその身体の状態が何を意味するのかは、妖精には理解できない。ただ、それでも彼女が孤独だったということはその様子を見れば分かる。こうなるまで、誰も助けてはくれなかったということなのだ。
右手の中には銀色の鎖の付いたロザリオが握り締められている。
彼女以外にも血を流しているものや衰弱していると思しき者もおり、また一方無傷な者もいる。
ただ、みな一様に眠ったかのように動かない。
そして慧音と釣り人は無言ではあるが、その奥には到底言葉に置き換え得ない複雑な情念が渦巻いているのが空気で分かる。
――慧音さん……
特に彼女は――物凄く辛いのだと思う。伝わってくる空気がどうにも沈痛で、それを感じ取った大妖精の方まで胸の内がきりきりと痛んでくるような気がする。
そうして数分ばかりの間、三人は重苦しい空気の中で並べられた人体を見つめていたのだが、やがて壁の向こうに動きがあった。
白い、死に装束のようなものをまとった者――顔も白布で覆われているので判然としないが、妖怪だろう――が、黒い盆のようなものを手にして横たわる人々の間を歩いて行く。
「状態を確認しているんだ。素材のね」
消え入るような声で隣にいる慧音が言った。
その眼は決して下を向かない。食い入るかのように、壁の向こうを見つめている。釣り人はその後ろで心配そうな視線を慧音に寄せている。
白服からは個性の類は感じられない。無機的な白がそういった要素を内に押し込めているからだろうか、どことなく動きが機械的だ。その手の盆に乗せられているのは、衣類同様に真っ白い椀である。
やがて白服の内の一人が、列の端に横たわった男性の上半身を引き起こし――
――何をしているの?
和紙と思しき紙に包まれた、黒い粉末――懐から取り出したそれを男性の口の中へと移し、用意してあった椀の中の水を流しこんだ。
「あれは――毒だよ」
簡潔な説明が慧音からなされる。
その呼吸は浅く、顔色は青く、肩は小さく震えている。
隔壁に押し当てられる細い指は、越えられない壁に遮られる。暗い洞窟に転がされた人間たちにその手は届かない。
そして黒い粉末が次々と横たえられた人間たちに含まされていく。
「即効性の毒だ。ああして息の根を……いや、そんな表現は止しにしよう」
殺している――と慧音は言い直した。
そして壁の向こうでは毒を飲まされた身体から、白い綿のような物体がぽうっと浮かび上がる。
――幽霊
それは宿っていた身体の上に留まっているようだった。
「生きている、とは魂と魄との双方が一揃えとなり、その二つが強い絆をもって結び付いている状態を言う。その結び付きを反故にする――これが最初の手順だ。こうしておかないととても残酷なことをすることになる。生剥は国津罪、あってはならぬ罪業だ」
「先生」
「なんだ、弥助」
「あの毒は幾らでしたかな」
壁の向こうでは五人死んだ。六人目は殺される最中である。そして七人目はあの痣だらけの少女だ。
「金銭に換算するのが困難な程度には高価だよ。だからよく効く。妖怪だって殺せるかもしれない。人間ならば即死だ。妖怪は――いや、私たちはああして彼らが余計な苦しみを感じずに済むように、高い毒を使う。そしてそれが渡し賃にもなる。だからといってこの場の正当性を主張する気などは毛頭ないが」
そう慧音が大妖精に説明する最中、壁の向こうで六人が死んだ。
死体が六つ、幽霊も六つ――
そして傷だらけの少女の口にも毒が注がれる。どす黒い粉末がその口腔に消える間、大妖精は一言すら発することはできなかった。
「……縛られたか」
他とは違い少女の身体から幽霊は浮かび上がらない。
代わりに現れたのは、彼女とまったく同じ形をした何かであり、それが横たわった彼女の身体をぼんやりとした眼で見下ろしている。
「亡霊ですな」
ひょっとしたら夢を見ていると思っているのかもしれない。
やがて列の端から端まで悉皆息の根を止められ、壁の向こうに十の死体と九つの幽霊と、一体の亡霊とが残される。
別の白服が現れる。今度は複数いる。
何人かが卒塔婆をかざす。するとそこに漂っていた幽霊たちは集まって、そしてそれに誘われてどこかへと連れて行かれた。
少女の亡霊は残されているが、やはり現状認識が追い付いていないのかぼうっとしている。
「クリスチャンだね、あの子は。ロザリオがあるし、卒塔婆への反応が弱い。貴女、無縁塚は知っている?」
「ルーミアさんから少し」
「集めた魂はあそこに連れて行くんだ。そこから先は死神の仕事だ。さっきの毒の価値も含め、そこで渡し賃を払って彼岸へと進む」
別の白服は手押し車のようなものを引いていて、そこに魂の抜けた肉体を乗せると奥へとそれを運んでいった。窓ガラスらしきものはいったん途切れているから、その姿はすぐにこちらからは見えなくなる。少女の遺体は置きっぱなしである。
「亡霊の遺体の取り扱いには――厭な表現だな――細心の注意が必要なんだ。だからああして残されている。この後しかるべき処置が行われるだろう。弥助」
「何です?」
「ここまでで十分。私は少し考えたいことがあるから奥まで行くけれど、貴方はこの子をルーミアの奴のところまで送ってやってくれ。たぶん無縁塚にいるだろうから」
そう言い残すと、慧音は暗い洞窟の奥へと去っていった。
チルノのことやルーミアのことなど、まばらに言葉をかわしつつ大妖精と釣り人は洞窟を戻り、崖に空いた出入り口から外へと出た。
「天気が崩れましたな。こりゃ、しばらくしたらひと雨来る」
空を仰ぎ見て釣り人は言う。
いつの間にか空は曇っていて、小雨がぱらついているのだった。洞窟に入っていたわずかな間に随分と空模様は変化をきたしているようだった。
そして相変わらず辺りの空気は淀んでいるが、それでも洞窟の中ほどではない。
合間をわずかに風が流れていくし、小雨がその淀みを少しずつ中和していくような感覚もある。
そこから再思の道へと通じる森の小道を抜けると、釣り人はこちらですよと言って無縁塚があるであろう方角に歩き出した。
ちなみにあの洞窟はそのまま奥へと進んでいくと、無縁塚の近くに出るようなつくりになっているらしい。幽霊の搬出がどうのこうのと釣り人は言っていたが、大妖精にはいまいち意味が分からなかった。
「あの……弥助さん、でしたっけ」
「はいはい」
「慧音さん、大丈夫なんでしょうか」
身の安全の話ではない。慧音は自分の身は自分で守れるだろう。
そうではなくて、何か思い詰めたふうである彼女を一人にして良いのかという意味合いである。弥助もそれをくみ取ったのか――
「……先生は何度も見ているんですよ、あの場所を。人里の誰よりもたくさん先生はあの場所に通っている。誰よりも、あの場所を記憶している」
そう答え、真面目すぎるんだ、と神妙な口調で続けた。空気の淀みは薄れてきているが、相も変わらず心は晴れない。それは大妖精自身が何か思い詰めているということではなくて――チルノのことは気がかりではあるのだが――周囲の人間の心情をそれとなく彼女が感じ取ってしまっているからに他ならない。
「あの人はさっき自分は半分しか人間でないと、そう言ってましたがね、あっしはむしろ先生は人間すぎると思うんですよ」
「人間すぎる?」
「あっしなんかはね、それが最低な考え方だってのは分かるんですがね、卑怯なもんだから――『外の世界の人間なら喰われてもいい』と、そう思っちまうんですな」
釣り人はいつかの飄々とした態度を潜めている。ちなみに釣り人は三十中ほどであるらしい。そう見えないのは彼が老けこんで見えるからで、老けこんで見えるのはやはりこの状況による部分も大きいのだろう。
少しずつ雨の一粒一粒が膨らんで、大気が濡れていく。降り始めに特有の埃のにおいが辺りを覆っている。
「だがねえ……」
半分独り言のような調子で弥助は呟く。
「やっぱり――そんな道理は何処にもねえよ」
たぶんそれは彼にとって一種のタブーに近しい事柄だったのだろうと大妖精は思う。言葉に、何か言いようのない質量めいたものを感じたからだ。
「結界なんてものを引かれてしまうとね、どうしたってあちらとこちらは別の場所なんだって、ついつい思ってしまうんですよ。外の世界の人々の命って奴を軽く見ちまうんだね。喰われてもいいんだ仕方がないんだと、まあそう自分に言い聞かせるんですな。でもねえ……先生も言っていた通り、結局さっきの人らはあっしらが殺しているのと同じだ。その結果、人里は妖怪の餌場にならずに済んでいるんだ。そういう犠牲の上に、幻想郷のバランスは成り立っていた。それは普段だったら気にするようなことじゃなかったし、上手く目を反らして誤魔化せてもいたし、それに俺はそこまで殊勝な人間じゃあない。恒常的に発生しうる犠牲って奴に、いちいち心を痛めていられない。慣れちまうんだ。鶏や牛だって、さばくことに慣れちまってそれが習慣になってしまえば、気持ち悪いとも可哀そうとも思わなくなる。感謝の情だって薄れちまう」
最悪だとは思いますがね、と弥助は大妖精の方は見ずに言う。そして詫びた。
「……妖精さんにするような話じゃあないですな」
やっぱり人間てのは至らんもんだ、と慙愧の念を滲ませ弥助は言う。
しかしこの釣り人はあの日釣った魚一匹一匹にきちんと手を合わせるようなことをしてもいたのだから、口で言うほどそういう感情を忘れてしまっているのだとも思えなかった。
――それに
仮に今すぐこの外の世界からの人間の供給が絶たれたとして、しかしそのとき妖怪たちは即座に人里を単なる餌場として見るようになるのだろうか?
この場所の人と妖との間には、捻れてはいるが強固な信頼関係がある――大妖精にはそう思えてならない。
現にそうだからこそ人里の住民たちはこの場所から逃げていないのではないだろうか? 上手くいかなくなったから見限る――人と妖との間柄がそんな希薄なものでしかないのなら、とうの昔に幻想郷などという場所は機能不全に陥って無くなってしまっているのではないだろうか?
そんなことをおぼろげながらに大妖精が考えていると、弥助は前方を指さして、このまま行けば無縁塚ですと言った。森に挟まれた殺風景な道の先に小さくひらけた草むらが見えた。
「すみませんでしたね。こんなどうでもいい輩が長々と語っちまって。煩わしかったでしょう?」
足を止めて振り返り、弥助は言う。
「そんなことはないですけど……」
「不躾ですけども、あっしは一足先に帰ります。先生の帰りは遅れると、いちおう小兎姫様にでも報告しておかないと」
「釣り人さんは一人で大丈夫なの?」
「ん? ああ、この釣り竿ね、意外なことに武器にはなるの。でもって――」
釣り人は腰に下げた袋から何かを取り出し、それを大妖精に向かって差し出した。
「ひと雨来そうだから持ってくといい」
「これ――種?」
手の平ほどの大きさをした植物の種である。こんな大きな種を見るのはじめてだった。何か魔法的な処理が施されているのだろうか?
「こっちは先生と宵闇の嬢ちゃんの分。本格的に降り出したら適当に雨水に晒して下さい。傘の代わりになるだろうから」
妖精さんも気を付けてください――そう言うと釣り人は軽く礼をして、再思の道を一人歩いて行った。
空は暗さをさらに増している。雨が来るのだ。
釣り人を少しの間見送ると、大妖精は一つため息をつき、再び無縁塚の方へと歩き始めた。
◇◆◇
――――博麗神社
「まったく、手に負えんじゃじゃ馬だ」
つい先日新しく張り替えた障子戸を開け、紫を担いだ魅魔が入ってきた。
道化のような帽子はどこかへと消え、服もボロボロになっている。一方の紫も気を失っているようだし、髪だの衣類だの乱れきっているから、境内で激しい戦いが繰り広げられたであろうことは明白だった。
「しばらく寝かせておいてやりな」
紫を畳の上に横たえ魅魔は巫女に言った。巫女はうなずいて返す。
「魅魔様は?」
「私もちょっと休ませてもらうよ。些か疲れた」
「分かりました」
疲労感を含みつつも面白そうに魅魔は笑い、雨に濡れた身体を引きずるようにしてどこかへと去っていった。辛勝――だったのだろう。
撃つ、斬る、衝く、放つ、殺す――何をやっても八雲紫には効果がないのだという。その防御がいかような方法によってもたらされているのかは巫女には分からないが、ただ人の身から見れば無敵にさえ思える力にも破る術はあるということなのだろうか。ただどうあれ、容易なことでないというのは明白である。
残された巫女はとりあえず布団を一枚、寝室には霊夢がいるから居間に敷いた。
横たえられた紫はどう見ても眠るのに適した格好はしていないので、とりあえず巫女はその仰々しい服を替えさせようとしたのだが――
「丈が合わないわ……」
白の、晒生地の肌襦袢――自分が寝間着の代わりに用いているそれを試しに着せようとしてみたのだが、少し長さが合っていない。袖や裾が余ってしまうだろう。
――そっか
いつの間にか自分は紫よりも大きくなってしまっていたのだ。改めてそんなことを思い出す。
「まあ、仕方がないか」
替えになるようなものもないから多少の丈余りはどうしようもなく、巫女は諦めて紫のややこしい服をそっと脱がせた。
そんなことをしているうちに目を覚ますのではないかとも思ったけれど、よほど派手にやったのか一向に起きる気配はない。かなり力を消費しているようである。
肌にところどころ残る傷痕は、妖怪の治癒力からすれば大したものでもないのだろうが、それでもやはり人の目より見れば痛々しい。衣擦れした血の跡で肌が汚れてしまっている。
魅魔の言うとおり、いちいちこんなことをしていてはもたないというものだろう。そうまでして儀礼だの手続きだのに重きを置く紫の行動律が巫女にはいまいち理解できないのだった。
湯に浸した布で汚れた身体を拭う。
赤に覆われていた色素の薄い肌が露わになった。
――そういえば
こんなふうに紫の素肌を見る機会など今まで一度もなかった。
巫女にとって八雲紫という存在は、上手く表現することが出来ないけれど、肉体という印象を残していかない存在だった。確かに目の前にいて、それが紫の身体なのだということは分かるのだけど、不思議とそこに実体としての肉が伴っていないかのような――そんな実にあやふやな感覚を巫女は常に抱いていた。
どことなく機械的な雰囲気があったからだろうか。
作りものみたいに綺麗だったからだろうか。
――でも
改めて見る紫の身体は、ただ華奢で無防備な少女のそれだった。
着せ終わった襦袢からのぞく細い鎖骨に、雨に乱れた金の髪。
そういったものが何だかひどく頼りなさそうな印象を巫女に与える。そんな感覚を彼女に対して抱くのは、これが初めてのことだった。
そして比べるようにして、古ぼけた鏡台に映った自分の身体をそれとなく見る。
背の中ほど辺りまで伸びたいかにも東洋人じみた黒い髪と、着古した普通の巫女の装い――紅白の衣装と顔に少しだけ施された白粉をのぞけば、実に地味だ。紫とは随分と違うと思う。
その背はいつの間にか紫よりも少し高くなってしまっている。預かり知らぬ間に、身体だけはとっくに成熟しているのだった。子どもを生み育てるには多分いい頃合いなのだろう。
その身体の変化がやはり寂しい。
昔より大きくなった胸が――それが大事なものなのだということは分かるけれど――少し煩わしく思えてしまう。身体は心の成長なんてちっとも待ってはくれなくて、勝手に大人になってしまうのだ。
でもそれで自分の心がきちんと成熟した女性のそれへと至っているのかと自問してみれば、到底そうだとは言えそうにない。その速度に付いていけていないような気がしてならない。まだまだ子どもじみた気質が抜け切っていないと感じてしまうし、そもそも成熟するとはどういうことなのかということからしてよく分からない。父親以外の男の人は何だか怖いし――そもそも里を離れていると人と会う機会があまりない――、お腹を痛める覚悟などまだない。
宙ぶらりんで中途半端な時間の中に、これといって語るべき要素もなく漫然と居る。少なくともここ最近の神社の暮らしはそういったふうだった。
「……はあ」
神社を去ったらそうも言ってはいられないのだろう。
境界に立つ時間が終わってしまえば、新しい選択を強いられる。齢を重ねれば自然とそういう岐路に立たされるものだ。
人は妖怪とは違う。
いつまでも少女のままではいられない。
でも正直に言うのなら、いま少しだけこの不思議で曖昧な毎日にしがみついていたいような気がして――
「まったく……わがまま言わないの」
苦笑しながら改めて自分に言い聞かせる。
そういう時間はあっという間に過ぎ去っていくものだ。そうしてかけがえのないと感じる今が懐かしいと感じる昔になって、人は齢を重ねる――というような気がおぼろげながらにする。
加えてある思い煩いのようなものがあって、それで今は妖怪の面々とはあまり顔を合わせたくない気分でもあった。
「あーあ……」
巫女は事の始まり以来何度目か分からないため息をついた。
魅魔は去り、紫と霊夢は眠りに就いて、玄爺も裏の池である。降り注ぐ雨の音と相まって、急に一人になったという気がした。
「ほんと、急に天気が崩れたわね」
朝方は綺麗に晴れ渡っていたというのに、今は庭の土も草も桜の葉も、ことごとく濡れそぼって鈍い光を発している。跳ねた白い水滴が色々なものの輪郭線を霞ませている。
「……ねえ、紫」
机に両肘をつき、巫女は傍らに眠る少女に話しかける。返事はない。
「貴女は……どう思っているの?」
巫女が思うのは人喰いというシステムめいたそれについてである。思い煩いとはそれのことだ。
妖怪たちの楽園を維持するために必然的に発生する、外の世界からの犠牲者――それをこの場所を管理する少女がどう思っているのか訊いてみたいという思いが巫女の内にはあった。
ただ、その問いを今の今まで一度も発さず十年以上も巫女をやっていたのは、要するに怖かったからだ。逃げていたのだ。
――『そんなのどうだっていいわ』
そう言われるのが怖かった。
――『価値のない、いてもいなくても変わらない者たちですもの』
そう言われるのが怖くて、それにそうした答えが返ってくることも十分にあり得ることだと思ったから――たずねられなかった。
その言葉を聞いたとき、自分はこの内と外の境たる場所に立っていられるのか、自信が無かったのだ。そうやって見知らぬ誰かを切って捨てられるほど自分は一人で生きてはいないし強くもない。
「……だから訊かないでいたのに」
誤魔化し割り切ろうとしていたというのに――この特殊な状況はそれを許しはしなかった。
人里の出身である自分。
人間としての自分。
人里から離れた地に身を置いてはいるが、里には親しい者もいるし、男手一つで自分を育ててくれた父もいる。人間は自分にとって大切だ。それは当たり前のことである。
だが今の自分はまだ巫女でもある。人と妖の刃境に立つ者だ。だから妖怪たちだって決して嫌いではない。
破天荒で常識の通用しない連中ではあったけれど、一緒にいれば愉快で楽しい面々だった。
――ただ
人間という立ち位置からこの幻想郷という世界を眺めたとき、そこには看過することの難しい瑕疵が存在する。
――人喰い
今この瞬間にも外の世界の誰かがその価値を評定され、かどわかされている。それは紛う事なき事実なのだ。
他方でそれを取り払ってしまった場合、今度は妖怪の都合が立ち行かない。だから――
「仕方がないのよ……」
あれやこれやと理屈をこね、そして考えあぐねて、いつものようにその言葉が口から出る。
人は時代を選べない。
生きる場所も生きる時間も、与えられたものに従う外はなく、変化や変節によりもたらされるふり幅は時代の許容する範囲をはみ出ることはない。
無論妖怪たちの発するあの物騒な物言いそれ自体は、今の時代にあっては笑えぬ冗談や誇張表現の類ではある。幻想郷に暮らす者ならばそれは判断できる。これまでも自分は幾度か異変の解決に失敗し、首謀者の居所に軟禁されたり危なっかしい妖怪の遊び相手をさせられたりということはあったが、それでも命の危険を感じたことはほとんどなかった。
それらの日々の戯れとはまるで相の異なる場所に、薄暗く湿った『人喰い』の事実はある。
「雨のせいかしら」
重ねた手に額を預け目を閉じる。深々と息を吸い、吐く。
考え込んでしまうのは良くない。深慮も憂慮も、結局は何も生み出さない場合が多いではないか。
世界を嫌いになるのは嫌だ。己を取り囲む環境に懐疑的であることは、それがそのまま心を磨耗させることへと繋がる。だから、自分はあの軽やかな妖怪の少女たちのように、憂いも惑いも無しにこの世界と真っ向から向かい合いたかった。
――でも
結局はそんな芯の強さなどは己の内には欠片ほどもなくって、だからこの場所の日常たる時間があの来訪を期に非日常の方向へと枝分かれしたとき――何かが崩れた。心の奥底の箱にずっと仕舞い込んでいたものが、その鍵を壊して外へと放たれてしまった。
そうして解き放たれたそれはたちまちに心中を喰い荒していく。心の土台が虫食いになる。どうにも嫌なことばかりが思い浮かんでしまって、そこから思考が離なくて、それ以外のことを考えようとしても自ずと考えの中心はそこへと帰結し、結局気が沈む。
この場所は――幻想郷は――
「貴女はよくやってくれたと思う」
突然紫の声が背後から聞こえた。
「ゆ、紫? 起きてたの?」
目を閉じていたから気が付かなかった。
声に続いて訪れたのは、背中に触れる衣の感覚だ。白襦袢をまとった紫が、背後からこちらを抱きすくめたのだ。そうやって触れられていると、己の内にある負の思いが気取られてしまうような気がして落ち着かない気分になる。
「紫?」
「貴女は本当によくやってくれた。それなりに優秀でしたわ」
「ちょっと、ちょっと。らしくないってば」
「私だってね、こう見えて感謝はしているの」
そういうことを言われるとむず痒い。特に紫は普段が普段なだけに余計に気恥ずかしいものがある。
「もう、くすぐったいってば」
「ふふ……」
「まったく、いきなりどうしたっていうのよ?」
「いえいえ……まあ」
抱きすくめる紫の腕に力がこもる。
まるで、こちらを逃がすまいとして束縛するかのような――
「最期くらいは優しい言葉をかけてあげるのも悪くないと思ってね」
――え?
首と肩の境目――装束から少し晒されたその柔らかい部分に、何かが喰い込む感覚がある。
一体何が起こっているのか――巫女がそれを認識する前に、それは凄まじい圧力を伴って巫女の肌を突き破った。
「ひっ!?」
血。
白い袴の肩口が赤く染まる。
咬み付かれたのだ。八雲紫が己の肩に歯を立てて――
そして次の瞬間、喰い破られた。右肩と首の境辺りの、柔い肉――それをスキマ妖怪は食い千切ってもっていった。
「あ……え?」
妙な声を上げて倒れ込む。
混乱がある。状況が呑み込めない。
そして危機感は少し遅れて到来し、爆発的な勢いで巫女の中を駆け巡る。
逃げなきゃ――ただ、そう思った。
けれど身体はその思いを行動へと移してはくれず、尻餅をついたままで後ろへと這いずって行くことしかできなかった。
「な、なんで? ゆ、紫?」
「ふふ、やっぱり貴女は人間ですわ」
口から血を滴らせ、巫女の肉の咀嚼を終えたスキマ妖怪は、実にいつもと変わらない笑顔を見せながら言った。
そのいつも通りの笑顔と、滴り襦袢を染める血の赤とが強烈な不協和音となって、それがそのまま巫女の内で恐怖として結実する。
――怖い
逃げなければ――
一刻も早くここから――
この存在の前から――
「あ……」
右の膝から下が、そこに生まれたスキマに捕らえられる。その内にある無数の目が、あからさまな捕食の意思を持って巫女を見ている。
そしてスキマが一気に閉じて、巫女の膝から下は鋏を入れられた紙の様に、実にあっさりと切断されどこかへと消えた。
食べ物を喰い千切って閉じた口がまた食べ物を求め開くのと同じように、スキマが再び開く。びちゃびちゃという肉の咀嚼音と骨のへし折れる音とがその中から聞こえ、そしてそこから血が滲み溢れて畳を穢した。
――厭だ
膝の切断面では、肉の繊維と神経と血管とが千切れ、ほつれ、合間からは白い骨がのぞいている。
立ち上がることが出来ない。立ち上がるための両足が、無い。
食べられてしまった。
――私の身体が……
身体が壊れていく。
身体が奪われていく。
身体が無くなっていく。
「い……」
身体が、喰いものに――
「いやぁあああああああああっ!」
――怖い……
怖い
怖い
怖い
怖い
怖い
怖い
怖い
怖い
怖い
怖い
怖い
怖い
怖い
怖い
――怖い
厭だ
食べられるなんて厭だ
生きたまま――
齧られて――
怖い
誰か――
「お腹も空いてしまったことだし、いい機会ですから貴女の処理も済ませておこうかと思ってね」
「しょ……り?」
それは明らかに、生きた人間に対して用いるはずのない言葉だった。
――そうだ
一体自分は何を考えていたのだろうか?
この娘は妖怪じゃないか。
人を喰うんじゃないか。
そんな存在と今の今まで親しく言葉を交わして――どうかしていたんだ。根本的に間違っていたんだ。
「ああ、やっぱり――人間のそういう顔はとてもいいわ」
からからと笑う一人の少女。ついさっきまで、普通に言葉を交わしていたその存在が、今は無上の恐怖を与えてくる。
「生きたまま喰われるって――イヤよねえ。怖いよねえ。人間は食べられちゃえば、それっきりですものね」
巫女の目の前で紫の首から上がスキマの内へと消える。襦袢に付着した血と相まって、首無し死体が突っ立っているかのように見える。
「それが『いい』のです」
声は左下から聞こえた。
左手の指に紫の首が食らい付いている。
「やっ、やだっ! 離してっ!」
夢中でその顔から指を引き抜こうとする。
だがその抵抗は意味をなさず、人差し指と中指と薬指とが喰いちぎられる。
皮膚の裂ける音と、血を食むふしだらな音――
手は抜けたけれど、その手に指は無い。たったの二本になってしまった。
紫の首が元の位置へと戻る。そしてその口から奪われた三本の指が吐き出され、巫女の袴の上にぼとりと落ちた。
「指はあまり美味しくないねえ」
吐き出された指はどれも歪んでいる。中途半端に咀嚼されたせいで、形がひずんで、肉が削げて、中から突き出た細い骨は歪な形に折れ曲がっている。
ぐちゃぐちゃになったそれは、肉体から乖離した単なる残骸だった。
声にならない悲鳴が喉の中で反響した。
「もう子供も抱けませんわね」
そう言うと紫は静々とした足取りで巫女へと近付く。
「こっ、来ないでっ!」
咀嚼されて死ぬ。
呑み込まれて死ぬ。
消化されて死ぬ。
きっと自分の死体は目も当てられないくらいぐしゃぐしゃになるに違いない。自分は生き餌なのだ。捕まって売りさばかれた魚のように目玉や顔面の肉に至るまでほじくり出されて、あまり味の良くないであろう臓物の類と骨ばかりが残るだけになるのだ。
「お、お父さん……」
助けて、と言おうとした口は紫の手で塞がれる。血がいっぱい流れたから、その分たくさん肺が空気を求めているというのに、息が出来ない。心臓が踊る。それで血流の勢いが増したのか、壊れた身体の各所からぴゅうぴゅうと血が噴き出す。命を繋ぎ止めようと心臓が必死になればなるほど、身体は一歩一歩終わりに近付いて行く。
「そこで親のことを呼んでしまう辺りが人間よ」
柔らかさと凄みが同居した歪な声で、当り前の事実が告げられる。
そして血だらけになった巫女を紫は組み敷いた。抵抗するだけの気力がもう残っていない。そのくせ意識だけは妙に鮮明で、恐怖感だの忌避感だのはちっとも薄れることをしない。
「ご苦労様。もう休んでいいわ」
優しく愛撫するかのようにして紫は巫女の首筋をなぞり、そこに血で紅の施された唇を寄せる。
血の臭いに混じって幽かに甘い匂いがした。
「あ……」
そして紫の歯は容赦なく巫女の首に食い込む。
一瞬の凄まじい圧力の後、声帯を巻き込んで首筋の肉が奪われる。
頸動脈が千切れて血煙が室内に吹きあがった。
――私の血……
天井まで届く、致命的な出血――
――あんなに高く……
馬鹿だった。
自分が間違っていた。
「これで貴女と私の境界は消える」
肉の嚥下される音の後、スキマ妖怪は忌まわしいくらいに可愛らしい笑みを浮かべた。顔も服も真っ赤に染まり、髪には血が絡まり、表情にはどことなく恍惚としたものが見え隠れしている。
「ん~、やっぱり人間はおいしいの」
やけに少女らしい声で八雲紫はそう言った。それを聞く自分は今わの際だ。
「たまにはイイものも食べないとね」
茶化すような口調。
――妖怪なんて
「中々に美味でした。ごちそうさま~」
最低じゃないか。
人間をこんなふうに喰らって、嘲って――最悪だ。
――私は楽園の……
楽園の巫女?
楽園の巫女だって?
笑わせないで欲しい。一体全体、これのどこが楽園なのか。そんなものがどこにあるのか。
するのは血の臭いばかりじゃないか。
弱い奴は喰われて終いじゃないか。
攫って食って嘲って見下してかなぐり捨てて、人の生を一体なんだと思っているのか。
何の了見で攫ってくる? 何を基準に命の価値を決めている? 価値がないなら殺してもいいの? じゃあ価値があるということにどれだけの価値があるっていうのよ。
勝手に決めるな。思い上がっているんじゃない。死んでいい奴なんかいない。いたとしたって、それを決めるのは自分たちではない。
なのに何が大結界だ。何が幻想郷だ。
単に隠遁して引きこもっただけじゃないか。結局ここは広大無辺の世界の中の、たったのひとつ箇所に過ぎないじゃないか。
人を喰って人を喰って人を喰って人を喰って――
その癖呑気に大酒かっ喰らって、ちょっとの深刻さだって滲ませやしないで、ただただ陽気で頽楽的な喧噪ばかり。それで足元に流れる血の赤からは小狡く眼を反らしている。
うんざりだ。
血。
肉。
脂。
上澄みは綺麗でも、深く潜ってみればそんなものが澱のようにぐちゃぐちゃと堆積しているこの世界は、良い場所なの?
美しい、残すだけの価値のある特別な場所なの?
違うんじゃないの?
幻想郷なんて――
――幻想郷なんて……
所詮は――
「目を覚ましなさい」
場の全てが冴え渡るような、そんな凛とした声がして――巫女は覚醒した。
「……あ、あれ?」
いつも通りの室内の情景が、少しだけ眩しさを伴って目に飛び込んでくる。血などはない。
雨の音、風の音。
紫は隣の部屋で静かに眠っているし、自分の身体もきちんとある。
生きている。
――夢?
そういえば痛みの類が全くなかった。
どうやらいつの間にか机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい。午睡の後に特有の鈍い頭痛がする。背は冷や汗に濡れ、すっかり冷えてしまっている。
「まったく、せっかく私が登場したってのに……いつまでうんうん魘されているわけ?」
巫女の対面に一人の少女が行儀良く正座をしていた。
穏やかな色味をしたチェックのスカートと揃いのベスト、そして楚々とした真っ白いシャツ。青々と生い茂る葉のような緑の髪は、背中の辺りまで伸びている。
紫同様に巫女とは縁の深い妖怪であり、また巫女に戦うための術と草花の大切さとを教えた張本人――
「幽――香?」
「師匠と呼びなさい、師匠と」
風見幽香がそこにいた。
* * *
――――魔界
これだけの高さがある建築物を一体どうやって支えているのだろう――公園のベンチに腰をかけ、摩天楼の群れを眺めながら寅丸星が考えているのはそんなことだった。
魔力の管理上の問題からか、魔界では星の世界で言うところの太陽光に相当するものがひどく微弱である。だから街の活気を見るに今は多くの人々の活動する時間帯なのだろうが、星たちから見れば夕暮れ時のようにしか見えない。林立する高層建築も空の色を投影して赤い。ちなみに瘴気でスモッグ状態のときは大半の光が遮断され街全体が薄暗くなる。
エソテリアと呼ばれるこの街は――それが正式な名称であるのかは知らない――中央部に巨大な公園を有していて、それを都の人造物が取り囲む形となっている。
公園自体の面積がかなり広く取られているため、園内でも中心寄りの部分に腰を下ろしている星の場所から出口まではそれなりに距離がある。その間は満遍なく植樹がなされているから、星から見ると木々の中にいきなりビルが生えているようにも見えるのだった。
「セントラルパークという奴だね」
二人分の茶碗と煎餅を盆に乗せ、同行者のナズーリンが戻ってくる。愛用のロッドは皮のカバーをかぶせられて、ベンチに立てかけられている。よく連れている子ネズミたちは今は幻想郷で留守番らしい。
魔界は幻想郷に比べて近代的ではあるが、その根本にあるのは魔法の力だ。だから文化的には幻想郷に通ずるものもあって、公園を行く人々も幻想郷にあっても違和感がなさそうな装いをしている場合が多い。
「ほら、ご主人」
コップの片方を差し出し、お盆はベンチに置いてナズーリンも星の隣りに腰を下ろす。なぜかこの都は煎餅が名物であるらしい。景観とはすこぶる合っていないが、聞くところによるとこの地域は魔界においても田舎として分類されるような辺鄙な場所であるのだそうだ。たしかにここへ到る途中で立ち寄った首都などは人も建物も、そして空間が含有する魔力の量もここ以上に多いものがあった。
「えっと、『魔界神のぽたぽた焼き』? 不思議な名前のお煎餅ですね」
「甘いのだそうだよ? ご主人が梅こぶ茶なんて妙なものをオーダーするからね。のどが渇いたりしない?」
「……まあ渇くでしょうね。うっかりしていました。しょっぱい」
「言わんこっちゃない。相変わらずばっかみたいだね、ご主人は。ほら、これを飲むんだ。まだ口は付けていない」
「そんなこといちいち気にしないってば。でもありがとう」
軽く詫びるとナズーリンの寄こした茶碗を口にやる。
数年に一度、こうしてこの地を訪れ『彼女』の封印の状態を確認することが一種の慣わしとなっていた。
無論現在の星の元にこの地の封印をどうこうするだけの手段は存在しないし、濫りに封印を解きこの地の均衡を乱すようなことがあってはならないのだが、それでも星は『彼女』のことを諦めているわけではない。状況に変化のないことぐらいは確認しておきたいという思いはある。
――いつまで繰り返すやら……
そう思うと少し気鬱に駆られるものがあった。
ただそれはすぐに内に飲み込んで、星は煎餅をかじる。ナズーリンの言うとおり甘く、そして煎餅としては結構柔らかい。嫌いな味ではなかった。
実のところナズーリンはこの魔界行にまつわる星の事情とは、ほぼ関係がない。その彼女がこうして気を利かせて同行してくれているのだから、余計なことでこれ以上気を回させるのは星は嫌だった。
「界多重都市――だったかな」
公園中央の噴水まで歩くと、小型のペンデュラムをぶらつかせながらナズーリンが言った。
皮肉めいた物言いが目立つ割に妙に行儀が良く、色彩の抑えられた装いと合わさってそれがそのまま彼女らしさになっている。
整った横顔の曲線。鋭さと穏やかさが同居する眼差し。その顔がいまだ自分の隣にあることを自分は感謝しなければならないと星は思っている。
「そういう用語があるの?」
「みたいだよ」
魔界には幾つかそのように呼ばれる形式の都が存在しているのだそうだ。エソテリアはそのうちの一つである。
外部からの影響により魔界内部に『通常の魔界とは異なる』理に則した世界が発生することがある。その星たちの世界で言うなら幻想郷と外の世界との関係に相当する複式の境界構造――それをそのまま内包している都市のことをそう呼ぶ。
つまり『彼女』の封印された場所と、エソテリアとは空間的な座標はほぼ一致していると考えてよい。
だから今まさに『彼女』が星の隣りに立っているということもあり得ない話ではないのだ。
ただ星にはそれは絶対に知覚出来ない。そして向こう側からしてもそれは同じことである。
「宝塔の反応はどうだい、ご主人」
星が近づいてきた自転車をよけるのと同時に、噴水の水の色が透明から紫色へと変化する。
休憩を終えた後、封印の状態を確認する作業へと二人は移っていた。ただ首都から魔界入りし、おおよそ一週間ばかり列車を乗り継いできた割には、この作業そのものに要する時間はすこぶる短い。ものの数分で終わってしまう。公園で作業に臨むのは何ということはなく、ここが街の中心だからである。
「特に変化はなし。以前来たときとおんなじですね」
「こちらも特に変わったところはない。毎度のことだがあっという間だ」
ナズーリンがそう言ったところで、噴水は緑色に変化した。
「では明日になったら幻想郷に戻るとしますか。毎度のことだけど、貴女には迷惑をかけるわね」
「それこそ気にするようなことじゃあない。ただねえ……」
かざしたペンデュラムの向こうに、園内を行く人々を見つめている。何か真剣に思索を行っているときの眼差しだ。
「ナズーリン?」
「ねえご主人、しばらく二人でここに滞在しようよ」
しばしの沈黙の後に出てきたのは意外な言葉だった。
「にゃ? 珍しいですね」
「ほら、毎回とんぼ返りというのもつまらないだろう? もちろん遊びに来ているわけじゃないことは知っているけどさ、別に急いで帰らなければならない理由もないし」
「ええ、まあ取り立ててやらねばならないこともありませんが――」
「ならいいじゃないか。私だって毎度長旅に付き合っているんだ、たまにはわがままを言ってもいいはずさ」
「それは構いませんが……ナズーリン」
「何かな?」
「貴女、何か隠していませんか?」
何か態度がおかしい。そこは付き合いが長いから分かる。そして実のところ、そのこと自体は行きの列車の中で既に感じていたことではあった。移動中ということもあってたずねそびれていたのだが、魔界に入って数日たった頃からナズーリンの態度はわずかに変化していた。
「ご主人も妙なところで鋭いねえ」
降参するようにナズーリンは手を挙げる。ペンデュラムがきらりと光った。
「確かにご主人に隠していることはある。それは指摘の通り。ただね、それはいま言ったこととは何の関係もない私個人の事情。貴女と魔界観光と洒落込んでみたいというのは本当のこと。これだけ大きな都なら、掘り出し物もたくさんあるだろうからね」
「なら構わないのですが……」
「すまない、余計な気を回させてしまったかい?」
急にしゅんとした態度をナズーリンは見せる。慌てて星は手を振る。
「な、何でもないならいいのです。ただちょっと心配だっただけで――」
「ま、いったん宿に戻ろうか」
ナズーリンの言葉に、星はそうしましょうと返し噴水から遠ざかる。
風が一吹き、人造石に包囲された森を抜けていく。魔力を大量に孕んだ、魔界に特有の風――
「嘘が上手ね、鼠さん」
その風を退けるように、突然背後からそんな言葉が投げかけられる。その射抜くような声に星は一瞬びくりとした。
特に高圧的であるとか居丈高であるといったことではないけれど、自ずと聞く身に緊張がたぎるような声。そしてそれと同時にそれまでまったく感じていなかった強烈な存在感を、背中が感じ取る。
「でも、後になって事情を知らされた彼女はどう思うかしらね?」
噴水の周囲に設けられたベンチに、一人の小柄な少女が行儀良く腰をかけていた。
控えめにあしらわれたフリルが夕映えする、真っ白なワンピースのドレス。
それを覆う形でまとった、少しだけ丈の短い黒の外套――という表現が魔界の洋風な装いにおいて適切かどうかは星には分からないが――は、ワンピースの胸の部分で黒いリボンを交差させている。それが紐の代わりとなって衣服の左右をつなぐ。外套にもフリルが目立つから、ちょうど薄手のドレスが二枚重ねになっているような状態である。そして腕の先端部と靴下は、胸元とは逆に黒地の上を白のリボンが幾重か交差する形となっているから、そういった白と黒の交わりがこの衣装の特徴となっているのだろう。
髪は深い緑色をして、華奢な肩の辺りで綺麗に切りそろえられている。
――このヒトどこかで?
記憶は定かではないけれど、星は目の前の少女に見覚えがあった。
「いつからそこにいらしたのかな?」
「最初から」
ナズーリンが畏まった様子でたずねると、少女はくすくすと笑みを浮かべた。
その笑顔だけ切り取って見るのなら、それはまったく可憐で可愛らしいのだが、しかし放つ気配は魔界にあって異質な感じがする。それにこれだけの存在感を持ちながら、声をかけられるその時まで星は一切彼女のことに気が付いてはいなかったのだ。それが奇妙で仕方ない。
「盗み見に盗み聞き――趣味がよくないですね」
「失礼。でも、さっき言ったことは本当のこと。彼女には包み隠さず言っておいた方が良いですよ?」
「まあ他ならぬ貴女が言うのなら――従うべきなんでしょうが……」
「ふふっ、真実は事実の中に隠す。セオリーね」
楽しそうに笑うその様は、何だか噂の好きそうな女の子という印象を星に与えている。対するナズーリンはむすっとした面持ちである。
「あ、ところでさ、この服おかしくはないかしら? 魔界にいる間はこれを着ておけと言うから着てみたのですが」
「髪の長さと色が若干合っていない感じはしますが、まああの仰々しい制服を着ているよりかはよっぽどいいと思います。魔界人っぽい」
「私としては少し気恥ずかしいのですが――」
「そう仰る割には結構乗り気で着こなしているように見えるよ……四季映姫様」
「あ!」
変わり者で知られる幻想郷の閻魔――言われてみればその存在感も独特の声質も皆ヤマザザドゥのそれだ。ただ目の前に座る彼女は何だか妙に令嬢然としていて、だから気が付くことができなかったのだ。
「ど、どうして閻魔様がここに――?」
「休暇を利用して、ちょっとした悪巧み中」
悪戯っぽい笑みを映姫は浮かべる。こういう顔も出来るヒトだったのかと星は少し意外に思う。
「まあもう私がやらなければならないことは終わっているけどね」
「例の異変絡み、ですか」
――例の異変?
しかめ面のナズーリンに対し、映姫は笑みを浮かべて返す。
「その通り。ですから貴女が彼女に本当のことを言ってくれないと、私が嘘をつかなくちゃいけなくなる。嘘は悪いことだけど、人に嘘をつくよう強いるのはもっと悪いこと。鼠小僧、御用じゃ」
「はいはい、分かりましたよ。まったく……何となくきな臭いからご主人には関わってほしくないんだがね」
「幻想郷で何かあったのですか?」
「ええ、まあそういう感じ」
渋々といった調子でナズーリンは幻想郷で起きている一連の出来事について星に語った。
「そうですか、幻想郷がそのようなことに……え? ってナズーリン私に黙っている気だったの? それひどい。ちょっと怒ります」
星の言葉にナズーリンはばつの悪そうな顔で悪かったよと言った。
「どうにもおかしな感じがするんだよねえ。だから『代理』たる貴女が関わってほしくないのさ。加えてそこに来て裏で閻魔様が巧み事と来たもんだよ。上位者が動きすぎている」
ナズーリンが挑発的な目線を映姫に向ける。よくやるものだと星は思う。
「というかナズーリン、どうやってそんな情報仕入れたのですか?」
「毘沙門天様だって普段は幻想郷にはいらっしゃらない。世界間での連絡通信手段くらいは持っているよ」
その通信で仕入れた情報の出所をこそ星は知りたかったのだが、結局ききそびれてしまった。
「とりあえず、管理サイドの連中が吸血鬼を自ら呼び寄せたってことまでは知ってます。だからこそおかしいとも思うのですよ」
「なぜかしら?」
「管理サイド――いや、面倒だから八雲紫でいいや。八雲紫が異変を起こす目的で吸血鬼を呼び寄せ、その八雲紫の制御を吸血鬼が脱した。そこまではいいのですが――ならばなぜ未だに『八雲紫が望んだような形で』ことは進行しているのですか? 単なる偶然であるというなら、それはそこまでですが、生憎敵の吸血鬼は本当か嘘かも分からない大仰な力を持っていると聞く」
「何が言いたいのですか?」
「仕組まれているんじゃあないですか、ってことです。管理人としての八雲紫の手腕は信用しても良いと思う。他ならぬ貴女が評価しているんだからね。でもってその彼女が割り出した『今時点で必要とされるファクター』は、即ち大規模な異変という奴だった。少し納得のいかない点はあるし、功を急き過ぎている気もするが、その答えもとりあえずは信用して良いと思う。だから――やはりその可能性を疑ってしまいたくなる」
八雲紫の意思の下を脱したにもかかわらず、吸血鬼は依然として八雲紫に――否、管理人としての八雲紫を信用するのなら幻想郷にとって――都合の良い行動を取っている。ナズーリンの言う違和感というのはそこだろう。そして星はナズーリンの言わんとしていることを察した。
「ナズーリン、貴女吸血鬼と八雲紫の内通を?」
「高名悪名どちらも聞き及んでいる。そのスキマ妖怪なら、それぐらいはやりかねないだろうと思ってね」
「いい線ですが、残念ながら少し違うわ」
ナズーリンの疑念を映姫は苦笑いを浮かべながら否定した。
「紫と吸血鬼の間にはコネクションなどありませんよ。彼女は目下火消しの真っ最中ね」
「そうですか……さすがに考えすぎだったかな」
「そうでもないわ、いい線を行っている。ただ――吸血鬼との間にコネクションがあるのは紫じゃなくて、私だということね」
「え?」
星は映姫の発した言葉の意味が分からず疑問の声をあげる。その隣りでナズーリンは露骨に嫌そうな顔をし、詰問するように言った。
「性質が悪いな……夜摩天がそのような嘘をおつきになるのですか」
「正確に言うなら『私たち』かしらね」
「ふん……ご主人、やはり幻想郷には帰らない方が良いよ。奇術師の演出に組み込まれるのが分かりきっているのに、わざわざステージに上がるなんてばっかみたいだ」
やや演技がかった仕草でナズーリンは大袈裟に嘆いてみせた。映姫は映姫で笑みを崩さない。
「それでいいと思いますよ。客が壇に上がることを拒んだとしても、奇術は滞りなく続く。そういうのは大概サクラが仕込んでありますから」
「貴女たちのような、ですか」
「ええ。あ、噂をすれば何とやらかしら?」
星たちの後方に映姫は目をやる。
振り返るとそこに赤いローブをまとった一人の女性が立っていた。片側で短くアップにしたアイリスの髪がその赤にかかっている。目元はサングラスといっただろうか、それに隠されていて正確な表情はうかがい知れない。
「やっほー、映姫ちゃん。待った?」
発された声はやけに明るく柔らかいもので、何だか表情を隠すサングラスとは合っていないと感じる。よく見るとローブの下は穏やかなピンク色をした徳利首だ。魔界人としてはごく一般的な装いで、公園の風景とよく馴染んでいる。
「私が早く来すぎただけですよ。ご心配なく」
「まったく、サリィちゃんも面倒なことを持ち込むわよねえ。大変だったわよ、貴女の力をグリモワールに落とし込むのは」
「何か会議を招集されたとか?」
「『私´』を置いてきてあるわ。ちなみに今のところは首尾がないのが首尾といったところかしら? 皆々様は忙しない。幻想郷に興味などないようだから、当分目を付けられることはないでしょう。気ままにやってていいんじゃないかしら?」
「そうですか、それは早く紫に教えてあげないと」
交わされる言葉の内容は星にはまったく理解できない。一方ナズーリンはローブの女性をじっと観察し、そして星に耳打ちした。
「ご主人、あれ誰だか分かるかい?」
「流石に分かりますよ。魔界神様でしょう?」
魔界において知らない者のいない存在――その魔界にたびたび訪れている星も当然例外ではない。
「お忍びということなのだろうが……隠すなら目元よりあの髪型だと思うんだがなあ」
「あ、ナズーリンもそう思う? なんか周りの人たちも気が付いているみたいだけど、言った方がいいかしら?」
「地底の方から報告がありましたよ」
映姫がそう続けた。
そして閻魔と魔界神――神綺は、傍らの星たちのことなどお構いなしといった体で、いよいよ不可解な会話を始める。
「さとりちゃんとやら?」
「さとりはもう潜行しているでしょうから、たぶん報告をしてきたのは別のヒトでしょうけどね。それによると、やはりレミリア・スカーレットは『リンクしている』そうです。幸い幻想郷が擬似的に一個世界を構築しているせいでその外部にはそれほど影響は及んでいないようですが」
「その逆かもしれないよ? むしろ世界をネスティングしたせいでかえって力を振るいやすくなったのかも」
「博麗の結界がなければレミリア・スカーレットは無力だったということですか?」
「そうそう。マトリョーシカちゃん状態だから、幻想郷は」
こんにちは、と星とナズーリンに向けて言うと、女性は映姫の隣りに腰を下ろした。背後で噴水の色が赤色に変化する。
「いずれにせよ、押し潰されてしまわなければいいのだけど……映姫ちゃん、貴女も知っているでしょう? 『あれ』は本来干渉され得ぬもの、万物に共通する潜勢態としてあるべきものよ。いや、領域と言った方がいいのかしら? 過度の干渉はそれがそのまま世界の形相の破壊へと繋がりかねないし、だからこそ貴方たちも『観測』に留めているのでしょう」
「樹形図の根元のようなものなのでしょうか。貴女はどうなのです? 貴女なら、『あれ』を意識的に自在に出来るのではないですか?」
「大丈夫だよう。そういうふうには出来ないように色々と多重化してあるから。だからまあ、私はあんまり意味のある存在ではないのよね。名誉教授とか名誉会長とか、そういう感じかな」
楽しそうに笑う神綺を尻目に、星はナズーリンに小声でたずねる。
「ねえ、なに言っているか分かる?」
「分からないこともないが、あまり理解したくない。やっぱりあのヒトたちは恐ろしいよ。とてつもなく物騒な話をしている」
「物騒?」
「馬鹿馬鹿しい喩えだが、この世界が一枚の絵であったとして――何かの画材で持ってそれを修正できるか、とそんなような話をしている。自分で言っていてよく分からないが」
「世界を修正する――画材?」
「ラピス――なんだろうな、この場合」
何か気に障る要因でもあったのだろうか、ナズーリンの浮かべた表情はひどく険しいものがある。
そのしかめっ面とは対照的な柔らかい声がナズーリンを呼び止める。
「ねえねえそこのネズミさん、折り入って貴女に頼みたいことがあるの。聞いてくれる?」
「私に? 失せ物探しかな? 『ペリカン』とか『孤児』とか、そういうのは勘弁願いますよ。貴金属がほしいなら掘り出した方が早いもの」
険を晴らし、若干の軽口も交えつつ、ナズーリンは神綺の呼び止めに応じる。
「そういうのではないけれど……近しいものではあるかもしれないわ」
「ほう?」
「こちらの方でもそれとなく追いかけていたのだけど、うっかり見失っちゃってね。そんな手間のかかるようなことではないと思うからさがしてほしいの。ね?」
「ふむ……まあ断ることはしませんが、ちょっとした条件をお出ししてもよろしいですか?」
ナズーリンが星の方を指す。
「彼女が魔界に滞在するための便宜を図っていただきたい」
「ん、そのぐらいはお安い御用よ」
微笑みながら答える神綺の表情はやはり穏やかで、確かに畏れ多い存在であるということは頭では理解できるのだがどうにも実感が伴わない。やはりそう相手に思わせるには彼女のまとう雰囲気は柔らかすぎるのだ。
――ただ
その方が彼女は楽なのかもしれない、と星は思う。
造物主という元来の立ち位置を踏まえるのなら、彼女の横に並び立てる者はまったく少ない。万感をもって払われる敬意が、孤独の裏返しとなることもある。
その彼女は何か思いついたのか、そうだと言って両手をぽんと胸元で手を合わせた。
「せっかくだから特典も付けましょう。あ、もし見付からなくても無効ってことはないよ?」
「特典?」
「中身はお願い事が終わったときに教えてあげる。でもって、依頼の内容ですが――」
少しだけ声音に魔界の主としての色が混ざる。つまりはそういう立場より発する頼み事ということなのだろう。そしてその間、映姫は何か考え事をするように人差し指でこめかみを突いていた。
「氷と風のデュナミス――貴女に探してほしいのはこの二つ」
またよく分からない言葉が出てきたな、と星は少し途方に暮れたが、ナズーリンは神綺の言わんとしているものが何であるのか察したようだった。
「それはあくまで探索ですか? それとも確保?」
「捜索よ。見付けて在所を教えてくれるだけでいいわ。確保も『抽出』も面倒でしょうから」
「なるほど、それだけなら簡単そう。引き受けましょう。特典とやらも気になるしね」
「ほんと? 助かるわ。娘たちも何人かあっちに行っているだろうから、出会ったらよろしく。あと気をつけて帰ってくるようにって」
「分かりました。あ、そういうことだからご主人、私は幻想郷に帰るけど貴女はここに残っていて」
顔だけ星の方に向けてナズーリンは言う。矢継ぎ早に事が決されてしまい星は少し慌てる。
「わ、私も行きますよ。何かしら干戈を交えることもあるかもしれないわけでしょう?」
「大丈夫だよ、捜すだけだから。ただ宝塔を貸してもらえると心強いかな」
「それは構いませんが……ほんとに大丈夫? 無茶はダメですよ?」
「分かってるってば、ご主人様は心配性がすぎるよ」
「……そろそろ移動した方がいいかしらね」
星が釘を刺し持参していた宝塔を手渡す横で映姫がすっと立ち上がった。
「閻魔様?」
宙を見据え、そして何かを撫でるようにしてその手を伸ばす。
「蝕」
ごく短い音節の後、映姫の背後に人2人分ばかりの直径を有する黒い穴が現れる。魔界の日常を穿つそれは何もない空間に忽然と開いたもので、注視するとその内部は暗色をした格子のようなものが色度や濃度を少しずつ違えながら奥の方まで連なっている。
「ご主人、これは――」
「幻影の類でしょうか?」
周囲の反応を見るに、星たちにしかこの穴は見えてはいないのだろう。公園を行く人々の様子にこれといった変化はない。
「もう繋がってる? 繋がってるなら行きましょうか、映姫ちゃん」
サングラスを外した神綺が穴へと歩み寄る。アイリスの淡い色をした髪が穴から吹き出す風に色を落とす。その横で映姫は人差し指で宙に線を引くような仕草を見せた。
「『通路』か……私たちは片道一週間もかけてここまで来たというのに」
ナズーリンの隣りに、最初に開かれたのとは別の少し小さな穴が開く。こちらの内部は妙な靄のようなものに覆われていて見通しが利かない。あまり潜りたくはない外見はしているが、穴の先は幻想郷に通じているということなのだろう。
「あまりこういう形で力を使いたくはないのですが……その通路は『一人用』です。貴女たちは2人同時に送るには些か霊格が高すぎる」
「ネズミさんは依頼の件をよろしく。虎さんは魔界観光を楽しんでいってね。余裕があれば案内役でも送りましょう」
そう言い残すと神綺と映姫は暗い穴の中へと踏み入り、そのままその向こうへと消えた。それとともに穴自体が収縮して消え去り、二人の痕跡は映姫がナズーリンに残した通路のみとなる。あれだけ強い二人の気配も一瞬にして掻き消えてしまっていた。
「あ、あれ? というかナズーリン、あの穴は幻影の類ではなかったのでしょうか? 確かにそうだと思ったんだけど……」
「深く考えない方がいいよ、ご主人。それよりあの方が遠ざかった以上、この道も長くは繋がっていないだろう。私も行くよ」
ナズーリンが通路へと向き直る。よくあんな場所を通る気になるなと星は思うが、それはナズーリンが四季映姫の力の精度を信用しているということなのだろう。
「気を付けて下さいね。危なそうなら敗走計、危なくなくても敗走計」
「なんだいそりゃあ……ま、ご主人も気を付けなさいよ。ものを食べるときは必ずカカオ成分が入っていないか確認してから食べること」
「たしか魔界にはチョコレートパフェなる世にも素晴らしい食べ物が」
「喰うな。このはらぺこめ」
「食べないよ。でもさっきのお煎餅は美味しかったからまた食べましょう。これ割と命令ね」
そう言って星が笑いかけると、ナズーリンもため息をついて少しだけ相好を和らげてみせる。
「はいはい、わかりましたよ毘沙門天様。じゃあ――行って来るよ」
「いってらっしゃい」
火打石を叩く真似をすると、苦笑いでナズーリンはそれに応える。
そうして映姫たち同様彼女は穴の向こうへと消え、遠ざかる彼女の気配を感じつつエソテリアの公園に星は一人残される。
幻想郷で人里が襲撃を受ける数刻ばかり前のことである。
(番外編2へ続く)
数か月待ったかいがありました。
点数は読み終わったら入れます。
読み返してて気づいた。オリキャラはあの人ですね分かります。
最近PCから離れてたから気づかなかった。
番外だけど!
お久しぶりです。
今回も面白かったです。
あと一作で追いつける!
白蓮さんの服は「某第一ドールみたいな」って書けば分かりやすいかも……いや、ほんまに。