苦しい……、そう思ったのも束の間、村紗は夢の瀬から現実へと打ち上げられた。ずぶ濡れになった身体をもう一度呑み込もうとする波から辛うじて離れ、乾いた砂浜に勢い良く倒れ込む。塩水を吸った肺が痛み、村紗は思わずむせてしまった。
「あんた、大丈夫?」
余り心配していないような声をかけてくるぬえに笑い返すことも出来ずに村紗は荒い息を繰り返す。
幸い波は高くなく、二人の倒れている場所まで辿り着くことはなかった。しばらくここで休んでから、どうしようか決めればいい。そう考えて目を閉じて……、
「……海?」
幻想郷に、海はない。
ようやくそのことに気がついて、村紗は跳ね起きた。眠気は一瞬で消えてしまった。無理矢理消してしまったのだから、その内ツケが回ってきて、ヒューズが切れたような眠り方をすることになるだろうな、と頭の隅で考える。
「何で、海?」
「私が知りたいよ、そりゃ」面倒くさそうなぬえの返答。「何で海があるかくらい、すぐに答えられるけどさ」
「本当? 教えてくれますか?」
「幻想郷じゃあないからだよ」
簡潔で、分かりやすい答え。だからこそ、村紗は簡単に信じることが出来なかった。昨日は早めに布団に入ったのだ。それで、まぁ昔から稀に見ている溺れる悪夢を見て……、気づいたら、これか。ぬえが何故一緒にいるのか気になるけれど、それ以前に自分が幻想郷の外に来てしまった原因が気になる。
自分の居場所――早い話が、ぬえもそれには含まれる――なんて、幻想郷以外にあり得ないのに。
「見事に、晴れてるね。快晴よ」
「そうですね……」
二人して仰向けに寝ころんで、空を仰いだ。息苦しさは未だに続いていて、しばらくは何もする気になれなかった。もちろんここでこうしていれば迎えが来るだろうなんて甘い考えはないけれど、なんというか、少し自分を大事にしてあげたいな、と。
「幽霊なのに……幽霊だからでしょうか」
「何、独り言?」
「独り言ですよ」
晴れだった。雲一つない青空。ぬえの言っていることは正しい。さすがに見上げ続けるには眩しくて、掴むには遠すぎる太陽だ。
結局、辿り着くことはなかった。星蓮船でも……、無理だった。
かつて、一度だけイカロスの真似事をしたことがあった。船を操って、大空を飛んで、陽の光の中へと。けれど予想通りというか、白蓮に止められてしまって、船は今も高度云々メートルと理解の範疇を飛行し続けている。
別に、太陽の中に突っ込んでいきたかったわけじゃない。そこまで村紗は馬鹿ではないという自信ならある。
「いい加減さ、ここで寝てても始まらないと思うんだ」
「寝ているのはぬえだけです。私は上半身だけ起こしました」
「海があったから?」
「海があったからです。幻想郷じゃないとなると……外の世界、ということに」
「なるだろうねぇ」ぬえが言葉を引き継ぐ。「久々に平和じゃない出来事がお出ましね。平和ボケした妖怪二匹にはちょうど良いんじゃなくて?」
「どうなのかしら……?」くい、と首を傾げる振りをして村紗はぬえを見つめた。
「うぇ」彼女は表情を変な形に歪めた。
「何、うぇ、って」
「うめき声」ぬえは苦笑を漏らして、「昔の村紗からは想像も出来ないほどの笑顔だって思ったら思わず」
失礼だった。それに最後の文章はそのまま聞くと矛盾があるように思えてならない。どうでも良いけれど。
さてどうしようか、と村紗は辺りを見回した。しかしどこまでも普通の浜辺と海だけで、何も特殊なものは見当たらない。例えば船の残骸とか、また例えば打ち上げられた寅柄の妖怪とか。そういうものがないから、やはりここはこの正体不明と何とかするしかなさそうだった。
「トラウマ?」不意にぬえが呟くように訊ねてきた。
「何が?」
「海」
「あぁ……」内容なんて分かっていたことだけれど、敢えて訊ね返した。結果は余り変わらない。少しばかり不快さが減っただけだった。「別に、トラウマという訳じゃ……ない、のかな」
「まぁ、そりゃ嘘だろうけどね」
「何で分かるの?」
「時折悪夢にうなされてるの、知ってるから」
「…………」
村紗は静かに無視した。潮騒が耳に心地良い。
トラウマ、というのは恐らくぬえの言う通り事実で、たとえ耳から入る情報が心地良いものだとしても、それがすべてにおいてのプラスとは限らない。何か言いようのない不安が胸に渦巻く程度だけれど、これは間違いなくトラウマと呼ぶにふさわしいモノだった。
不安……?
そこまで考えて、その言葉が適切でないような気がしてきた。不安ではなくて、何というか、違う……。もっと黒い、
「……黒?」
「? どうしたのさ」
「いや、別に、その、何でもないです」
「ふぅん」
色で表すなら、黒。そういう結論が頭の中に浮かんだのが、今までの経験からして異様な事態だった。
村紗は、黒という色に良い印象を持っていない。
海底の色。
途切れる意識の色。
トラウマの色。
けれどその色は同時に、尊敬する人の纏っている服の色でもあって、苦しい。
船幽霊――退治されるべきそれとしての自分に救いの手を差し伸べてくれた存在と目を合わせる度に疼く心が、辛い。
死んでしまいたい、そう思ったとしても、自分がすでに幽霊であるということに気がついて、すべてが無意味に終わってしまうのだ。
ただひたすらに、ループする思考。自分はこれを今まで何度繰り返してきただろうか?
「どうする? ずっとここでじっとしてようか?」
「ごめんなさい、何か一人で考え込んでいるみたいで」
「みたいで、というか事実ね」
「……すみません」
「調子狂うからさ、謝るの止めようよ」ぬえはやれやれと笑った。白い歯がちらりと覗く。「無意味に謝るのは、結果的に相手を攻撃してるんだよ。それとも、そういう意図で?」
「そういう訳じゃ、ないですけど」
俯いて、否定する。
どうして良いのか分からなくなったとき、人は謝ろうとしてしまうものなのだ。それは幽霊になっても変わらない。元は人間だったのだから。論理的なものでは変えられない程度には、感情的な理論だ。
太陽は頭上高くに昇っている。角度から考えて、季節は夏――幻想郷とは何も変わらない。時刻がどうとか、細かいことは逆に分かるはずもなかった。村紗も、ぬえも寝ていたのだから。
「少し、整理しますか」小さく溜息を吐いてから、村紗は呟く。「ぬえの言う通り、何も変わらないのは事実だし」
「はいはい、キャプテン」
まず――、寝て、起きたら此処にいた。それだけは間違いない。そして、何故此処へと来てしまったのか、とか、帰るにはどうすればいいのか、とか、そういうことを考えるのはこの状況においてナンセンスだ、ということも何となく、思った。
少なくとも、ぬえなら笑ってその話題を放り出すだろう。迷ってしまったのなら、急いで帰る必要なんてない、迷っている間のことを相手は知らないはずなのだから。彼女ならそう言うに違いない。
それから?
それから、何が起きて、何を知りたい?
「村紗は本当に計画性がないよねぇ、キャプテンなのに」くつくつと、妖怪鵺としての怪しい表情で村紗を嘲笑う。「整理も何も、実は何も起きていないんだから思考が停止するのは目に見えてるってのに」
「じゃあ、私は何で混乱しているのかしら」
「海があるから。天空じゃなくて、海、が……ほら、ちょうど良いタイミングで船が来たよ」
背筋を冷や汗が伝う。いつの間にか額に浮かんでいた汗も顎を伝って砂浜へと落ちて、染み込んでいった。
それは、巨大な船だった。村紗が知っている星蓮船のそれより、遙かに大きい。船体は真っ白に赤いラインを引いたシンプルなデザインだったが、それが波を裂いて進む姿はずっと昔に見た記憶を思い出させた。
村紗の船は、もう波に乗らない。空気を裂いて、天空を飛翔するのだ。
それが何故だったか――、
「ちょっと、村紗、大丈夫? そんなにトラウマな訳?」
「いや……、」
これでも心配しているのだろう、ぬえの手ががうずくまった村紗の背中をさする。それでも水滴のように浮かんでは落ちていく脂汗のような何かは止まるところを知らない。
どこか、おかしい。
トラウマとは、少し違う。
身体の深い、深い奥底から何かが突き上げてくるような、得体の知れない感覚。それを、村紗は遠い昔には知っていた。
けれど、今は忘れてしまった感覚。
幻想になった症状。
それは何なのか――、
「ぬえが、おろおろして、どうするんですか……」
「だって、私は分からないじゃん。あんたが苦しんでいるのが何故かなんて、トラウマとか言ったって、それがあるのは村紗の心の中だ」
「それも、そうですね――――――ッ!?」
船にのデッキに上がっている人々を目にした瞬間、世界がひっくり返った。実際は、自分が仰け反って倒れただけ。
すぐに体勢をうつ伏せに変えると胃からこみ上げてきたものがどこか汚いものとして吐き出されそうになって、慌てて口を押さえた。すぐに横からぬえの手が伸びてきて再び背中をさすった。
「ちょっとちょっと、死なないでよ?」
「…………はあっ、はぁ……」
もう死んでますよ、などと冗談で返す余裕はなかった。苦しめられている、というか、自分で自分を苦しめているような印象。
デッキの上で談笑する百名を越える人たちは鵺と船幽霊に気づかない。岸を見てはいるけれど、その視界に砂浜は入っておらず、ただ美しい緑の森しか入ってはいないからだ。下ではなく上を見続ける……精神の豊かな社会の証拠かもしれない。村紗が死んだ時代は、誰も彼もが下を向きながら過ごしていた。
それが、今ではあの笑顔だ。
世の中には美しいものしかないかのような、
汚い世界など見たことがないかのような、
決してそれは真実ではないのに、
笑顔。
そんな人たちが、
そんな人たちに、
そんな人たちを――、
――――沈めてやりたい。
「嫌、嫌だ……、そんなの、」
言葉とは裏腹に、一度気づいてしまった感情は急速な勢いで膨れ上がる。柄杓を持つ手に力が入るのを感じた。
「おーい、村紗ぁ、生きてる?」
「死んでる……、ぬえ、離さないでね」
「うん?」
「絶対に、離さないで」
離さないで、押さえつけていて……。
唐突な言葉に、ぬえは目を白黒させた。ぽかんとした彼女の服の裾をぎゅっと掴んで離さない村紗の背中を、先ほどとは一転、腫れ物でも触るかのような手つきに変わって優しく撫で始めた。
船が、過ぎていく。
波を裂き、
笑顔を乗せて、
沈まずに、去っていく。
どうして……と妖怪の温もりを感じながら村紗は自嘲気味に笑った。口元に歪んだ笑みが浮かぶ。
あの日白蓮に救われて、自分は船幽霊であることを忘れでもしていたのか? それまで自分が何をして生きていた――否、死に続けていたのか、本当に忘れてしまっていた? 自分の象徴としてのこの柄杓は、本来どう使われていたか……忘れていた?
そんなことは、絶対にない。村紗は無言で首を振った。いつの間にか溢れていた涙が頬を伝う。
スペルカードとしての自分の存在だって、この柄杓は水をまき散らしていた。名称だって、記憶から名付けた。
もう二度と船を沈めたりはしない、と。白蓮の目の前で誓ったあの日を、忘れるわけがない。
「ごめんなさい、ごめんなさい聖……」
「村紗、痛い」
「……ぁ、」ぬえの声に目を開けば、無意識に彼女の肌に爪を立てていた。「あの、その……、」
「謝らないでね」
「はい……ごめんなさい」
「だから」ぬえは顔をしかめた。怒っているように見える。「私を心配させないでよ」
そう言って微笑んだぬえにしがみついたまま、村紗はしばらくの間黙って涙を流しつづけた。
何も言わない方が楽だ。
村紗だけでなく、彼女にとっても。
きっとぬえもそれが分かっているから、何も言わないのだ。黙っていれば、何も言わないで済む。黙っていれば、何も言われないで済む。それは逃避だけれど、今はそれで良い。
潮騒が再び、落ち着いた耳へと響いてくる。潮は引き始めていて、此処は潮風もしか当たらない。波は離れたところで砕けている。
海猫の鳴き声が聞こえる。トラウマという言葉が急に頭に浮かんだけれど、もうそれはないような気がした。あったのはただ、船幽霊としての残酷な本能。海上にいる人間を溺れされたくて仕方がないという渇望にも近い何か。
少しだけ、疲れたのかもしれない。
見知らぬ土地に来て、嫌いな感情を暴露されて。
そりゃ疲れるよ、と温もりに満ちた声が聞こえた気がして。
涙が枯れるまで、泣くのも良いかもしれないと思った。
***
正直に言うなら、ほんの少し恥ずかしかった。
何がなんだか分からないままに抱きつかれて「離さないで」とは、無茶振りにも程があるというものだ。
でも、まぁ……彼女にも何かしら考えがあってのことだろうし――というかそもそも普段の彼女から全く想像もつかない行為だったからこそ驚いているわけだけれど――、実は想像はつかないけれど理解できないわけではない。彼女は船幽霊だから、何かしら……鵺である自分には分からない、船やら海やらに対するものがあるのだろう。解決になっていないけれど、どうでもよかった。正体不明のままの方が、基本的には面白いことばかりだ。自分自身がそれなのだから、よく分かる。
「…………すー……、」
泣き疲れたのか、村紗はぬえに抱きついたままの格好で眠ってしまった。まるで子供のようで、抱き止めているこっちが恥ずかしい。いつもの彼女を知っているからなおさらだ。
「こういうの何て言ったっけ……ギャップ云々?」
「……すー」
返事は寝息だけ。微笑ましいけれど、どうも複雑な気分だ。
そも、これからどうするのか何も考えていない。なるようになると思っているのは事実だが、正直何もしないでじっとしているのは余りにも不毛だし、このまま夜を待つのもどこかつまらないものがある。
「あーあ、つまんない。せっかく妖怪なんだから、悪戯でもしたいものよね」そうぼやいて、船が去った後をジト目で睨みつける。「人間がこんなにたくさんいるのに」
彼女の代わりに沈めてやろうか――一瞬そう思ったけれど、すぐに思い直してやめた。多分村紗自信が嫌がるだろうし、白蓮にも叱られる。それに驚かすのは好きだけれど、命を奪うのは命蓮寺に来てから余り好めなくなってきていた。これが仏門の力か。
「村紗、起きてるでしょ」
「……すー」僅かに頬が紅くなったのをぬえは見逃さなかった。
「もしもあの船が沈んだら、村紗の所為?」
「…………」
「それとも、私の所為?」
「………………私の所為です」ぼそぼそと、返事が聞こえた。
「よし、分かった。幻想郷に帰ろう。この世界に私たちは似合わない」
す、と村紗の頭を抱いたまま、ぬえは静かに立ち上がった。慌てて離れる村紗にニヤリと笑いかけ、歪な翼を揺らす。赤と青が自然に混じらずに、無機質な光を反射した。
「帰るって、どうやって……?」
「そりゃもちろん、今から考える」
「それ、何も変わってないですよね」
「ひとまずここを離れようということだよ。船があれば嬉しい」
「船なんて、ここにはないじゃないですか」村紗は辺りを見回した。砂浜と、流木と、得体の知れない何かしか視界には入って来ない。「どうも……不自然ですけれど」
「砂浜だからね、船が無いなんておかしい。海に面しているんだから、船があって当然」
「……いや、そうじゃなくて」
「でもさ」ぬえは村紗の言葉を遮った。「幻想郷に海はないじゃん。そんなところに船で行けるわけがないじゃん」
「言っていることが矛盾してます」
「だからさ、空を飛んで行くんだよ。天空を翔ける船で帰ろう」
当てずっぽうというか、無茶振りも良いところだと分かっていた。
けれど、無意識に――、本当に無意識に。
ただ、空を飛べば行きたいところに行ける気がして。
「ぬえは何処を目指してるのですか」
「行ける所。今は幻想郷。村紗は?」
「……海のないところ。出来れば、幻想郷」
「はいはいキャプテン、我々妖怪の帰る場所は一様にそこと決まっているわけなのですよ」
おどけた口調でそう言って、さぁ行こうと一歩足を進める。
砂浜に、静かに靴が沈んでいく。
波が貝殻をさらって帰って行くのをぼんやり眺めながら、二人はぼぅっと立っていた。
日は傾き、既に夕日。
橙色の光が真横に光を浴びせてきて、意識すると急に眩しく感じる。
深いトラウマの底で浴びる光は、きっと輝かしいものだろう。彼女の気持ちは、理解出来ないから、推測するしか出来ない。それでも、そうすることには少なからず価値がある。そう思った。
「いろいろ言いたいことはあるけれど……」
村紗が横で苦笑を浮かべた。どこか歪んだ部分はなさそうで、それだけで安心する。隣に居る人が笑顔でいる方が、誰だって嬉しいに決まっているのだ。
妖怪だって、それは同じ。
「船が来るまで、待ちましょうか」
その一言で、
二人は再び砂浜に腰を降ろして。
膝を抱えて、光の差す方を見つめる。
それからいつまでも、夕日を眺めていた。
これは続くのだろうか、それともこれだけで完結してる話なのだろうか。
ちょっと評価に困ったのでフリーレスで失礼します。
続きがあれば是非読みたいところです、このコンビ大好きですから。
二人はべたべたじゃなくて、ある程度の距離がある。あるんだけども、近い。
良かったです。私も飛んでみたい。
ふはwwwこれいいwww
うーん……でも内容は良かったのでこの点で。
誤字報告
>まず――、寝て、起きたら(中略)帰るにはどうすればいいのk、(後略)
aが足りないみたいですよ
誤字報告感謝です。直させて頂きました。
ちなみに、続く予定はありません。元ネタというものはありません、これ自体には。強いて言うのであればらpy
とにかく、ぬえにはもうしばらくムラサの傍にいてあげて欲しいですね。