満月の光が薄く差すだけのあばら屋の中で、妹紅はじぃっと虚空を刺すように見つめていた。
何も居ない。何も存在していない。しかしはっきりと見えるのだ。
人はそれを一般的に後悔と呼ぶ。あるいは折れてしまった矜持の残滓とも呼べる。
どちらにせよ、そのようなものは生きるにあたっては何の価値もない。塵以下だ。
しかし生きる屍に等しい彼女にとっては、それらが身体を形作っているといっても過言ではない。
静けさに耳が痛くなりそうな夜。
りぃん、と鈴の音がどこかで鳴った。
妹紅以外には、聞こえない音だった。
悔いて一秒過去が変わるというのならば、永遠に生きるであろうこれからを全て差し出しても良い。
しかし、進んだ時間のみが全ての者に公平である。そして生まれた結果のみが新たな過程を生み出す礎となる。
人とは簡単に死ぬものだ。頭が割れれば死ぬ。心臓を一突きされれば死ぬ。喉が切られれば死ぬ。
血が流れ出せば死ぬ。はらわたを掻き出されれば死ぬ。息ができないだけで死ぬ。
妖怪にとっては撫でるような衝撃でもあっけなく、死んでしまう。
掌に炎をたゆたわせる。
炎は穢れ。他を傷つけ、失くしてしまう。
千年間私はこうして過ごしてきたのだなと、妹紅は一人自嘲した。
これは、天狗の新聞ですら取り上げられない。
阿礼の子が文にしたためることもない。
歴史の半獣がたった一行書き残す程度の、幻想郷ではごくありふれた一幕である。
幻想郷の人々は、生まれる日が非常に偏っている。というのも人々の大半が農家である限りは仕方がないことなのだが。
田の刈り入れを済ませて、冬の支度を始めようかという頃にもなると、里の女たちは活気付く。
毎晩のようにとはさすがにいかないが、集落ぐるみであれやこれやと腹の大きな者の世話を焼くのだ。
普段は里に顔を出さない妹紅にとっても、この時期は慧音に呼ばれてあれこれと世話を焼かされる。
「女たちも精をつけないとな」
しかしそう言って笑顔でイノシシを持ってくるあたり、普段から里に顔を出せばいいのにと慧音は思うのだ。
「なぁ妹紅」
「なんだよ慧音」
「お前も里に住まないか」
「そりゃ無理な相談だな」
「なんでだ?」
「そりゃ私の生まれた環境ではな、女は男が通ってくるのを待ってなきゃいけないんだよ。な?」
「……ばかっ」
赤面した慧音に対してけらけら笑い声をあげて、そのまま妹紅は去っていった。
その背中を見ながらため息を吐く。
毎度毎度、かわされてしまう。
無論、妹紅はからかっているだけで本当の理由は別にあるのだろう。
けれどもそれは彼女自身の口から語られなければならない。
待つ身というのも、それは辛いものがあるのだけどと、慧音はお茶を沸かすことにした。
客人に出すお茶よりも安い茶である。
幻想郷の出産は現代のそれと比べて過酷であり、そして劣悪な環境で行われる。
産婆が妊婦へと付き添い、お湯を沸かし、何軒もの家を忙しく走り回る。
「お湯沸かして! 早く!」
「急いだって沸かないのさ。待ちなって」
痛みに苦しんで、獣じみた声が部屋に響く。
それでも失神はせず、腹圧で押し出そうと布を噛み、棒を握る妊婦たち。
男は入れない女だけの戦場を、妹紅は美しいとすら感じて、そっと自分の腹を撫でる。
自分の胎は子を孕むことはないだろう。蓬莱人は生の営みからは切り離された存在なのだ。
死なない代わりに、新しく生み出すこともできない。そんなものが果たして、生きていると言えるのだろうか。
「言えないだろうね」
「何か言った? 藤原さん」
「いや独り言。ささ、お湯が沸いたね。私はちょっと他のところ見に行くからさ」
「あいよ。あんたのおかげで大助かりさ」
「なぁに。私にゃこれぐらいしか手伝えないからね。子供を産んだこともないし」
「美人なのにね。結婚する予定はないのかい?」
「あいにくいい男がいなくってね、それじゃあ行くよ」
「うちの坊が大人になったら貰ってくれよ」
「ああ、考えとくよ」
横ばっかり育った血色の良い女はそう言って胸を張った。
そこの坊は確かに、寺子屋へ顔を出すと妹紅にしがみついて離れないのだった。
大方その話を聞いているのだろうと妹紅は苦笑しつつ、彼女と別れた。
彼女は子供が六人も居るそうだ。
いつかはその子らや、孫たちに看取られて逝くのだろう。
それが人として、いや、生あるものが延々と繰り返してきた営み。
妹紅はそれが愛しくて、また堪らなく羨ましかった。
別れて、妹紅は満月の下へと出た。蒼々しく、寒々しい月夜だった。
今夜、慧音は歴史の編纂で出てくることができない。
満月は仕事で一生懸命。そうでないときは率先して里の者に尽くしている慧音。
あいつこそそろそろ身を固めたほうがいいんじゃないかと思うけども、あれほどの女傑を嫁に迎え入れるほどの胆力がある者も里にはいまい。
妹紅は一人で考えて、くくくと一人で笑った。
今夜は三軒の家が生まれそうだということだ。これだけ重なるのは幻想郷では珍しいことで、一人しかいない産婆は目が回る忙しさだった。
それでも上手くまわっていた。初産の娘がその時はまだ、居なかったからだった。
初産で、難産が、まだ。
暇になった妹紅は、ぽぉーっと月を眺めながらおむすびを食んでいた。
満月は妖怪が活発になるという。餅が食べれるのが嬉しいのかね、と指についた米粒を舌で舐め取る。
具だった梅干の種を口の中で転がして、噛んでからぺっと吐くのが妹紅はなんとなく好きだった。
下品だと慧音には言われたが、お世辞にも上品に生きてきたわけではないので気にならない。
「いいとこよなぁ。幻想郷は」
普通に生きている人が居て、普通に死んでいく人がいて。
当たり前がここにはある。自分がとうの昔に失ってしまったそれが、ここにはある。
千年の孤独を埋めてくれるのは、過去の凄惨さを思い返すことではなく、今この瞬間、過ぎていく時間だけなのだ。
ふわぁとあくびをして、目を瞑る。なんだかんだと走り回って疲れてしまったのだ。
「ああここに居た! 藤原さん」
瞑った目を無理やりにこじ開けて身体を起こすと、汗だくで息を切らした女が肩で息をしつつ立っていた。
「その、つなぎんとこが急に産気づいて……」
「あんだって? あそこはまだだって言う話だったろう?」
「それが急に破水したんだって。で、産婆が言うにはまずい風になっちゃってて手に負えないらしくって、急いで永遠亭の医者を呼んできて欲しいって」
「連れて行くことはできないのか?」
「動かせないって。慧音先生は動けないし、頼めるのが藤原さんしかいなくって」
「……」
永遠亭は、妹紅にとってはなるべく行きたくない場所ではあった。仇である輝夜の存在もあって、頼みごとをするというのも癪だ。
けれども、個人の感情を一つの命と、これから生まれようとしている命と天秤にかけられるものだろうか。
「わかった。任せておいて」
「頼むよぉ」
縋るような声だった。我が事ではないとはいえ、集落というのは大きな家族のようなものである。
妹紅は自分もその中に数えられているのだと感じ、胸を熱くした。熱くなった目頭を上を向くことで耐えて、笑いかける。
「今までで一番早いスピードで行ってくるから!」
紅い翼を月明かりの下に燃やして、一路目指すのは竹林の奥、永遠亭。
満月の夜は妖怪の活動が活発である。飲んで、歌い、騒ぎ、当然人間を見つければ襲いかかるもの。
普段人の立ち入らない迷いの竹林などは文字通り、妖怪の楽園であった。
飛ぶたび執拗に身体に絡みついてくる竹の葉を焼く。
竹も時を重ねれば低級ではあるが妖怪に化けるのだ。手を伸ばしてくるのを焼き払っていると、こんどは妖獣が面白がって、竹を倒して進むのを邪魔してくる。
全域焼き払ってしまおうか、そういう考えが頭をよぎったけれども、そんなことをして永遠亭の住民にへそを曲げられてしまったら元も子もない。
べしん、と竹がしなって妹紅の顔を打った。白く端正な顔が赤く腫れ、鼻血がつぅと流れた。
それでも妹紅はそれらの妖怪たちを一瞥せずに、竹林を進んだのだが、永遠亭は一向に見えてくる様子がなかった。
ぼんやりと綺麗だなと思っていた満月が、今は恨めしく思えた。
能天気に輝いてるせいで妖怪たちが調子づいてちょっかいを出してくる。
普段であればもっとマシなのに、なんでこうも間が悪いのか。
「邪魔なんだよ! どけよ! 私は永遠亭に用があるんだよ!」
不死鳥の翼を大きく羽ばたかせ、周辺の竹やぶを焼き払う。それに恐れをなしてか、逃げていく妖獣たち。
妖怪竹もしおらしくなり、妹紅は一息吐いた。いまは一秒でも惜しいというのに、さっきから時間を無駄にばかりしている。
落ち着いて周りを見渡してみても、今夜はなぜか、いつもと雰囲気が違って道がわからない。
竹林の上空に上がって何度も確認しているはずなのに、永遠亭に辿り着くことができないのだ。
「……そうか、今日は例月祭だったか」
妹紅は憎々しげに月を仰ぎ、地面を思い切りに蹴った。
永遠亭では毎月、兎たちがささやかな祭りをして、餅をついている。
彼らはその時間を非常に大事にしており、満月は診療も一切行わないことにしているのだ。
逃げていく妖獣たちの中に、悪戯好きな兎たちの姿が一匹も見えない時点で気づくべきだったと妹紅は舌打ちをした。
一刻を争うというのに、何も打てる手はないのか。かといって熱くなった頭では良い考えも浮かばないと、妹紅はもう一度月を仰いだ。
「なんにもできないのかな、私はさ」
もしも、を語るのは厳禁だけども、もしも自分が永遠亭の住民と仲が良かったのならば、例月祭で部外者だからと締め出されることもなかっただろう。
自分勝手に生きてきたツケがこんな形で支払われようとしているだなんて、考えたくなかった。
父親の仇であることは、それは大事っちゃ大事だけれども、そんなのは蓬莱の薬を飲んでから今まで生きていくときの支え以外の何物でもなかった。
それをずっと、今日まで引きずってきたから今、私のせいで命が救えないかもしれないのだ。
恥よりももっと、大切なものがあると信じている。それは命だ。
私自身の命は鳥の羽よりももっと軽いものかもしれないけれども、人の命はたった一つだけ、そしてこれから生まれる命もまた、かけがえのないものだ。
そう信じている。
「そうだ。この方法なら……」
永遠亭は竹林の上空からなら視認できる。というよりも結界の歪みでわかるものにはわかるのだ。
ならばそこに向かって弾幕を打てば。
「気づけよ輝夜ァァァァァ!」
収束させた炎を弾丸にして打ち出す。結界を突き破らぬよう、周りに被害が及ばぬように力は抑えつつ、けれども気づく程度には脅威になるように。
夜を切り裂く炎の弾丸は一瞬結界を歪ませて、永遠亭をはっきりと浮かび上がらせた。そしてお返しのように飛んでくる光の槍。
妹紅がその場で待っていると、ほどなくして輝夜は現れた。
「今日は例月祭よ? 兎たちが迷惑がってたわ」
「すまない。ただ八意に用があるんだ」
「永琳に? 私でなくって? 浮気?」
「浮気もなにも、お前と結婚した覚えはない」
「じゃあ恋人」
「だから想いあってないって言ってるんだよ!」
「そう? 私は妹紅のこと好きよ?」
くすくす笑う輝夜。彼女はいつだって煙に巻いた言い方をしてくるが、今はそれに付き合って居る時間などなかった。
もう随分と時間が経ってしまった。内心いますぐにでも永琳の首ねっこを引っ張って連れて行きたいが、しかし妹紅はわかっている。
永遠亭の、とくに蓬莱人の二人は、力づくでどうにかなる相手ではないということを。
「人里で娘が死にそうなんだ。初産らしい。里に居るものじゃ手に負えなくて、永琳に来て欲しい」
「あらら? 妹紅は私よりもそんな娘のほうが大事なの?」
「輝夜! いまはお前と遊んでる場合じゃないんだよ。わかってくれ」
「妹紅こそわかってないわ。人の営みは自然の者。初産だろうがなんだろうが、死すべき命を無理やり救うことが美しいことかしら?
私たち永遠亭は幻想郷で認知されるために薬師をしているだけ。慈善事業じゃないのよ」
「金か?」
「お金になにの意味があるのかしら? 私たちはそんなものをほしがっているわけじゃないの」
「頭だったら、いくらでも下げる」
「妹紅。あなたは本当に何も理解していないのね」
輝夜は寂しそうに笑い、手を妹紅へと差し出した。
「私たちは与えるだけの神様なんかじゃない。人間でもないわ、もちろん。そんな私たちがほいほい人間たちの命を救っていたら、どうなると思う?」
「……」
「現に今でも、妖怪の賢者から警告がきてるのよ? バランスをむやみに崩すな、と」
「でも」
「例外なんてないわ。一度許してしまったら、次があってしまう。里の人間は永琳の医術に頼りっぱなしになる。
そうなったら近いうちに幻想郷は人で溢れかえるでしょうね。現に、自分たちの手に負えないと私たちに頼ってきたでしょう。
人間は簡単に、楽なほうへと流れていくものなのよ。
優曇華に売らせてる薬と、ほんのちょっとの診療。ここが私たちと妖怪の賢者とのギリギリの境界線なのよ。
妹紅。これは感情だけでどうにかできることではないの。わかるでしょう?」
「でも、でもさぁ輝夜聞いてくれよ。子供が生まれるんだよ。私はもう産めないんだよ。わかるだろ?
蓬莱人なんて、蓬莱人なんてこんなもん……苦しいだけじゃないか」
「……」
「私だって、子供が欲しかったんだよ。普通に死にたかった。でも、生まれる前に死ぬだなんてそんな、可哀想だろう?」
子供が産めないコンプレックス。
種族として優れている妖怪たちは子を為すということに執着するものはほとんど居ないが、妹紅はそうではなかった。
孤独で気が狂いそうで、せめて子供が居ればと思ったときも、それこそ星の数でも足りない回数。
しかし蓬莱とは終着点。他人と交わっても子を為し、次の世代に託すという選択肢が存在しないということもまた、理解していた。
寂しさを埋めるためでしかない。本能としての部分で子供がほしいと思うことが無い。
自分よりも小さな生き物に愛情を覚えるということが一切ない。
それはもはや、人間ではないということも妹紅は理解していた。
だからこそ、妹紅は死を迎えようとしている若い娘を、生まれいでようとしている子供の命を助けてやりたかった。
憎い相手に頭を下げることなど、天秤にかけるまでもなかった。
しかし輝夜はふぅと大きくため息を吐いて、強い口調で言うのだ。
「妹紅、あなたは愚か者よ。目の前のことしか考えられずに、自分が進んできた道すら省みぬことすらない。
永遠という首輪があなたを縛っているのは事実でしょう。けれど、自分が哀れだとか、我侭が通ると思わないことね。
あなたはこれまで何度、無為に命を奪ってきたの? そんなことが言える立場だと思って?」
「それは……」
「妖怪だけならまだしも、人間だってその手にかけたでしょうに。この、偽善者」
「ぎ、偽善者だって……」
貶されていることはわかっているけれど、怒りどころか足がガクガクと震えた。腿を叩くが震えは止まらない。
縋るようにして輝夜を見た。しかし睨んでくるばかりで、表情一つ変えず、口を開くこともなかった。
妹紅にとって、輝夜は普段から不適な笑みを浮かべているおちゃらけた人物という印象しかなかった。
こちらから怒りをぶつけても暖簾に腕押しで、からかわれてばかりとなってしまう。
だからこそ父のことでの怒りは収まるところを知らなかったのだが、それによって奇妙な安心感もおぼえていたのだ。
いざとなれば、輝夜ならなんとかしてくれる。
しょうがないわね、となんだかんだで自分の助けになってくれると信じていた。甘えていた。
考えてもみれば虫のいい話だった。
普段から憎しみをぶつけている相手に対して、お前の力が必要だから助けてくれだなんて。
なぜそんな単純なことがわからなかったのだろう。
それは、命の前では個人の問題など瑣末なことだと思い込んでいたから。
華奢な体から発せられる怒気が空気を伝わり、ピリピリと頬を撫ぜてくる。
それに対して、何も言葉を紡ぐことはできなかった。
口を動かそうと開いてはみるものの、何も言っても薄っぺらにしかならないと感じて。
手は所在なさげに動くばかりで、足は震える。
所詮、自分は風見鶏なのだ。
人間たちが受け入れてくれたからいい気になっているだけで、受け入れてくれないときは怨嗟の声をあげていたというのに。
妖怪にも人間にも受け入れられずに生きてきた長い間、自分だけが被害者のような面で過ごしてきたのを抑えこんで。
浅薄な善で、その罪を塗り潰して生きていくつもりだった卑怯者なのだ。
「失望したわ」
妹紅がとぼとぼと里へと戻ったのは、それから大分経ってのことだった。
先ほど自分を呼びに来た女が、黙って首を振ったことで事情は察した。
里に背を向けて、自分が庵を構えている竹林まで脇目も振らずに走った。
自分の甘さ、不甲斐なさ、そして、愚かさにいっそのこと、この世から消え去ってしまいたかった。
しかし蓬莱の体はそれを決して許さない。この身体を塵一つ残らないぐらいに粉々にしたとしても、すぐに新しい体に生まれ変わる。
これは業なのだ。永遠を生きていく限り、背負わなければいけない業なのだ。
それでも、理不尽すぎるだろうと、少しぐらい幸せになったっていいだろうと、妹紅は嗚咽を漏らしながら走り続けた。
石に躓き、そのまま坂を転がり落ちて腱を傷めても、しばらくじっとしているだけで痛みは消えうせてしまう体。
痛かっただろう。苦しかっただろう。それでも医者が来る、それまでの辛抱だと待ち続けていたのだろう。
きっと、せめて子供だけはと、懇願したに違いない。
蒼褪めた月光が、突き刺すように妹紅を責めた。
寝転がって空を仰ぎ、声をあげて泣きじゃくる。
泣いたところで何も現実は変わらない。許されることも決してない。
それがわかっていてもなお、人は泣くのだ。人の形をした人形も、人の真似をして泣くのだ。
慟哭は、静寂の中で酷く大きく、そして耳障りに響いていた。
妖怪たちも何匹かが様子を伺いにきたのだが、それが竹林の蓬莱人だとわかるとそそくさに逃げていった。
機嫌の悪い強者の気に障ると、どう因縁をつけられるかわからないからだ。
こんなときに話しかけるのは、よほど腕に自信のある者か、分を弁えない愚か者だけである。
「べろべろばー!」
泣いているのが人間なのか妖怪なのか、判別はつかなかったけれども、そんな些細なことは小傘にとってはどっちでも良かった。
泣いている→周りが見えていない→急に驚かされてびっくりして心臓が止まって死ぬ→桶屋が儲かる。
要するに小傘は後者の部類なのだ。深く考えることもなく、妹紅の前でいないいないばぁをし、そして。
「うるさい」
ぼそりと呟かれただけで、驚くどころかあっちに行けと手で追い払われた。
「ちょー! わちきというものがありながら!」
「帰れ」
大袈裟に地団駄を踏む小傘を、妹紅は心底からうざったいと感じた。
悩んでいるというのに、この化け傘妖怪は一人でああだこうだと喚き散らしている。耳障りだし、余計なお世話だった。
「ほら、妖怪ですよー。怖いですよー!」
「消し炭にするよ?」
「ヒィィ! 冗談だって冗談! ラブ&ピース!」
これはしまったと小傘は思った。
てっきり、外で泣いているような軟弱な妖怪だか人だかよくわからない奴ならば、驚かした瞬間心臓が止まって死ぬ貧弱な奴で、つまりはわちき超ハッピーと思っていたというのに、掌から浮かび上がった炎には、そこらの妖怪じゃ言葉通り消し炭になる妖力が込められていたわけで。
もしかすると自分は悲劇の星の元に生まれた薄幸の美少女で、白馬に乗った王子様がどこかで待っているのではないかと。
しかし、こないだ、白い服の虎に乗った鼠を見たばかりだったので、あまり期待はしないことにしておくことにした。
けれども、こんなにも力のある者がこんな原っぱで泣きじゃくるだなんてと、よっぽど大変なことがあったに違いない。
気になってじぃと妹紅のことを眺めていると、じろりと睨み返されたのでびっくりして尻餅をついてしまった。
「帰れと言ったろう」
「いやー、そのね、なんで泣いているのかなって気になって」
ぽりぽりと頭を掻く小傘。言葉に嘘偽りは一切なかった。
大変そうな事情であれば深入りせずに立ち去ればいいし、大したことがなかったら適当に励ましてやろう。
泣いていたら慰める。だってそっちのほうが気分も良いでしょ? それぐらいの考えだった。
「あのな。私はな。帰れって言ったんだ」
呆れたように妹紅が言う。
いまはセンチメンタルな気分なのだ。
名前も知らない、たぶん、驚かせるのがせいぜいの妖怪に話すことは何もない。
「えーだって、お姉さん泣いてるじゃん? ほらほら、いーって笑ってみてよ、いー」
「いー。これでいいか?」
「ほら、泣き止んだ」
いつのまにか、涙は止まっていた。
小傘のようには笑えはしなかったけれども、ぎこちなくはあっても妹紅は笑えていた。
一度笑ってしまうと、もう一度泣くというのは難しいことで。
「笑ってたほうがいいと思うよ。だって笑う門には福来るっていうじゃん?
いつまで引きずってたってしょうがないと思うンだよ。でしょ?」
よっこらしょっと、と小傘は立ち上がり、月を背負って傘をくるくるっと回した。
「多々良小傘。見ての通りの化け傘妖怪だよ」
「藤原妹紅、だ。竹林に住んでる」
「ふぅーん。べろべろばー!」
不意に舌を出した小傘に、妹紅は唖然と言葉を失った。
「驚いた驚いた!」
ニシシと嬉しそうに顔をくしゃくしゃにしてから、スキップしながら小傘は去っていった。
その背中を見送って、妹紅も家路につくことにしたのだった。
これ以上ここに居ても、何かを掴むことはないだろうから。
原っぱに静寂と、そして時折響く、妖怪の笑い声が戻った。
満月の晩から数日経って、妹紅は里へと来ていた。
亡くなった女の旦那に頭を下げると、体が元々弱かったからと逆に慰められることになってしまった。
子供を産むと決めたときから覚悟はしていたのだと。だから、妹紅に責任はないのだと。
不覚にも妹紅は涙と嗚咽を抑えることができなかったが、時間が経つにつれて心も落ち着いてしまった。
葬儀にも出席し、遺体を焼くのも手伝った。
幻想郷で生きる者にとって、出産とは生と死が隣接している場であり、そしてそれは忌み事として扱われている。
そして、遺体を焼く火もまた、不浄のものとして、忌み嫌われるものである。
だからといって、生きることにおいて、決して切り離すことはできないものであるが。
日が沈みかけていた。燃えさかる夕陽の色は、他を焼き無くしてしまう炎を連想させる。
しかし灰になってそれが風に消えたとしても、失くならないものもあるはずだ。
「なんだ、妹紅じゃないか」
「ん?」
とぼとぼとあてもなく里を歩いていると、後ろから話しかけられた。
慧音だった。寺子屋帰りなのか、荷物を両手に提げている。
「いいところで会ったなぁ。これから一緒に、飲みにいかないか?」
「ん、そうだね」
妹紅は慧音へと笑いかけた。
悔いて過去が一秒変わるのならば、永遠の時間を代償として支払おう。
しかしそれは不可能なことであるから、生きる者は酒を飲み、笑うのだ。
後ろを悔やむのではなく、これからを見据えるために。
今夜もまた、幻想郷のどこかで新しい命が生まれようとしている。そしてそれとは別に、命を終えるものが居る。
それを永遠に眺めていくのが、藤原妹紅の、彼女の幻想郷での役目なのだろう、か。
こういうの書きたいな……
>てっきり、外で泣いているような軟弱な妖怪だか人だかよくわからない奴ならば、驚いて心臓が止まって死ぬ。
「てっきり」と文末が対応してないかも?
意外にありそうでなかったかな?
久しぶりの投稿お疲れさまでした
小傘がとても素敵でした。
直してきましたー
妹紅も良かったです。
この妹紅と輝夜の書き方はすごい好きです
御馳走様
しかしキャラが生きているとはこういうのを言うんだなあ。
小傘みたいな子だって妹紅よりずっとあやかしらしい
短編だけどキャラがみんな魅力でした。
姫カッコイイね。
妹紅は元は妖怪でも月人でもなくただの人間だから、どうしても割り切れなかったんだろうなぁ
でも、仕方ないとしか。
この妹紅好き
輝夜と妹紅が相対したときは、輝夜の言葉が理不尽に思えて腹が立ったのに、
読み終えてみるとそういう流れだったのだと納得せざるを得ないこのお話の持つ説得力は素晴らしい。
それでも、妹紅にはいつまでも揺れ続け、達観することなく
人を救うために奔走する心を持って欲しいと願わずにいられません。
こういう話しすきですわー。