ふと手のひらを見ると、木の枝で引っ掛けたような切り傷があった。赤い筋が一直線に短く走り、血が滲んでいる。
一体どこで怪我をしたのだろうと鍵山雛は考えた。もしかして、山を降りている時に引っ掛かったのだろうか。住み慣れた山に引っ掛かれるとは、随分と幸先が悪い。もしかしたら、山に嫌われたのかもしれないと思った。
雛は妖怪の山を降り、人里を流れる川の上流へ来ていた。この川は、妖怪が立ち入り禁止である。人間の生活水は全てこの川から引かれており、つまりこの川を押さえられると、人間は人里に住めなくなる。
そのために、妖怪は立ち入り禁止なのだ。
川の管理はここを支配する土地神が責任を持つ。人間たちはよく、ここの神をまつる祠にお供え物を置いて、願い事をするという。
神様、どうか洪水だけはご勘弁を。
それが願いの大半だった。しかし、それは川の神に祈っても仕方の無い事ではある。川の水は天気の気分次第。そして天気は彼女の管轄外なのだ。
「私に言われたって、どうしようもないじゃない。ねえそう思わない、雛?」
彼女はよく雛に愚痴をこぼしていた。
「それはそうだけど、人間は藁にもすがる思いで来ているわけだし」
雛が慰めるようにそう言うと、彼女は不満そうな瞳をこちらに向けて返事をした。
「すがる相手が間違っているのよ。私は実体が無いからお供え物なんて食べれないし、そのくせ川は最近汚れてきているし、もう人間はよく分からないわあ」
彼女はその時、呆れているような、匙を投げているような、そんな言い方をしていたが、彼女の本音は別にある事を雛は知っている。
彼女はこう言いながら、自分ではどうしようも出来ない現実を嘆いているのだ。神は祈る者たちを何とか助けてあげたいと思うものだ。
そんな彼女から、ある依頼が来た。最近、川にごみが捨てられていると言う。そして、どうもそのごみを捨てている人間に、厄の気配を感じると言うのだ。
「ねえ、雛。見てあげてよ。私にはそれぐらいしか出来ないから」
雛にはその話を断る理由も無かった。
雛もか弱き神の一人なのだから。
川の上流付近。最近雨が降ったせいか、いつもよりも若干水量が多くなっている。ざあっと大きな音を立てて、水が下流へと流れる。
雛はここからさらに三十分ほど登った所にある、祠へと向かおうと、歩きだした。
彼女の言っていた、ごみとは何だろうか。それが気になった。
雛が巨大な岩の間を縫うようにゆっくりと川岸を歩いて行くと川の中心ほど、流れの緩やかな場所で、白い物を見つけた。空を飛んで、それを丁寧に拾い上げる。
「これは……紙かしら?」
折り鶴だった。これが、彼女の言っていたゴミなのだろう。
折り紙ではない。何かのメモ帳のような紙で折られていた。しばらく先へ進むと、一つだけでなく大きな岩の間や川の岸にあげられているものもあった。
折り鶴を広げてみたが、水に濡れて上手く広げられなかった。途中でどうしても破けてしまう。
一体誰がこんな事を。
それは明らかに何らかの意図を以て捨てられていた。そして雛にはその降り鶴から微かな厄の気配を感じた。厄流しのつもりなのだろうか。
雛はそっと鶴に耳を澄ました。あなたは、この鶴に何を祈ったの?
鶴は右の翼をだらんと垂れ下げたまま、何も返事はしなかった。
気味の悪い事、とまでは言わないが、折り鶴はこの大自然の中で明らかに異彩を放っていた。
心が病んだ者たちの仕業か、ただの酔狂な人間の仕業か。前者だとすればせめて、その厄を払ってあげたいと雛は思った。後者でも同じ事だ。
祠まで川沿いを歩く。上流の方は自分の体の何倍ともある岩が所狭しと並んでいた。その間を、勢いよく水がはねていく。登っていくにつれて道らしい道も無くなり、次第に川をたどっていくのも辛くなってきた。
雛は注意深く川を観察しながら、この不思議な折り鶴について憶測を巡らしていた。
例えばこの折り鶴、折り紙で作られていない。メモ帳のような、雑多な用途の用いられる紙でできている。つまり、何かに使われる予定だった紙をわざわざ折り鶴にしているのだ。
さらに、その折り鶴には文字が書かれていた。雛は出来るだけ折り鶴を集めて、陽のあたる所に干すことにした。
全く意図は分からないが、これがある一種のヒントにはなるだろう、と思っていた。
川からやや森の奥に入った所にある祠につく。小さな祠には、何もなかった。ほとんど手のつけられていない木々の間に、しんと佇んでいる。
祠から人里への道筋は成長の早い草木に覆われ、もうほとんど獣道と化していた。
雛は祠の周辺を歩く。すると、比較的最近と思われる人間の足跡、具体的には靴の跡があった。雛は先ほどの獣道に戻る。
植物は生長が早く、こんな小さな獣道など、一週間もあれば消えてしまうだろう。つまり、少なくともここ一週間の間、ここに通い詰めていた人間がいたと言う事だ。
ふと空を見上げた。もう日は頭の上を通り過ぎ少し傾いている。
今日はここまでだな、と雛は思った。夜の森は、ただ単純に恐ろしい。それはつまり、死に直結するからだ。特にこの森は雛の知らない森である。雛が他の土地を歩きまわる事はあまり良くない。基本的に、神は他の神と干渉するべきではない。
くるりと祠に背を向け、川へと戻る。風が吹いたようだが、背の高い木々が少し揺れただけで、空気の流れを感じる事が出来なかった。
家に帰った雛は、ベッドにどうっと倒れ込んだ。
予想以上に疲れた。
人間はどう思うか知らないが、深い森の中というのは雛にとって、かなり過酷な環境だ。
森と言うのは空気の動きが少なく、淀みやすい。光も少ないため、隠の空気がそこらじゅうに溢れている。
そして、普段は優しく葉を広げている植物たちが、森の中では貪欲に光を求め、何もかもを覆い尽くさんとするほどの生きる気力を発している。その貪欲な力は、雛の力をも奪いつくさんとする。
雛はいつも思う。生きる者たちというのは皆、貪欲なのだと。それは動物、植物などは関係ない。温かい陽だまりの中にいると、そうした事を忘れがちだが、こうして過酷な環境に自分の身を晒してみることでよく理解できる。
雛はそのまま、昼間に乾燥させた折り鶴を広げる。鶴はほとんど乾いていた。雛は改めてゆっくりと、慎重にその鶴を開いていく。
くしゃくしゃになった紙を広げると、そこには達筆な字で文字が書いてあった。鉛筆で書かれているのか、ところどころ、すれたり滲んだりして読みにくい所もあったが、大方の文字は読めた。そして、雛はそれらをじいっと目を凝らして読んでいく。
『×月○日、娘が初めて立ちあがった。まだ頭が重くてふらふらしているようだが、それでも一生懸命、こちらに歩いてくる姿は可愛い……』
雛は他の鶴も丁寧に広げる。それらには日付はバラバラだったが、全て同一人物と思われる日記が書かれていた。小さな子どもの成長日記が話題の中心だった。
文面だけを見れば、幸せな母親のつけた日記とも思えた。それが、鶴になって流されている。とてもまどろっこしくて、よくわからない行為だった。
その文面のいくつかから、今からおよそ、十年ほど前の日記だと思われた。保存状態が良かったのか、良い紙だったのかは分からないが、少なくとも折り鶴にしても十分な強度をもった紙だ。
ろうそくの明かりの下で、雛はこの日記を書いた人の気持ちを想像した。そして、それを折り鶴にして、川へと流すことの意味を考えた。
わざわざ、折り鶴にするのはなぜなのか。消したい日記ならば、焼けばいい。その方が、跡形も無く、瞬時に消えてしまう。
それとも、誰かに拾って欲しかったのだろうか。
やかんが音を立てた。雛は椅子から立ち上がり、やかんから急須にお湯を注いだ。熱い湯に晒されたお茶の香ばしい香りが部屋に充満していく。
明日もう一度、川へ行こう。もしかしたら、会えるかもしれない。
ことりとやかんを机に置いた。
次の日の朝、雛は再び祠へとやってきた。起き上がったばかりの朝の森は、昨日に比べて幾分かましだった。
雛は祠にもたれかかり、昨日の折り鶴を広げる。一番新しいと思われる日記を読んでみた。
その日記の中で、娘は五歳になり、七五三を祝ったと言う。今までの日記からは、少なくとも娘は一人だった。そして家族はとても幸せで、たぶんこれを書いている母親か父親は、今こうして川に捨てられているとは全く考えなかっただろうと思われた。
いったい、この家族はどうなってしまうのだろう、と雛は考えた。良くない事がこの家族に起こっている気がした。それはあまり、間違っているとは思えなかった。
ざざざ、と草をかき分ける音が響いた。雛は辺りを見回す。獣道がある方から影が見える。大きな影だ。
その黒い影はまっすぐに祠に向かっていた。そして、しばらく近づいた時に、雛は小さく声をあげた。
人間の男だ。しかし、かなりの厄に覆われていた。そのせいで、一回り大きく見えたのだ。男はやや痩せており、それは決して健康的とは言えない痩せ方だった。顔には深い皺が何本かあり、森が薄暗いせいだろうか、顔色はやや土気色を呈していた。
雛は直感的に、この男が折り鶴を流している本人だろうと思った。
男は雛に気が付くと、驚いたように立ち止まる。
「この祠に何か御用が?」
雛はわざと威厳のある風に声を出した。しかし、それに怯むことなく男はまっすぐに立って、はっきりと声を出した。
「あなた、ここの神様じゃないですね。あなたこそ、一体何の用でここを訪れたのですか?」
雛は心の中で苦笑いをした。この人間は一目見て、雛を神様だと把握した。そしてたぶん、この祠にも何回か来た事がある。この森になじめない雛の雰囲気をはっきりと感じたとするのなら、この男は妖怪や神によく接する立場に居る人間なのだろう。
「どうして分かったのですか?」
雛が笑って男に尋ねる。男も先ほどの緊張した面持ちから、一転して人懐っこい笑顔を雛に向けた。
「何となく、です。私はこの森によく登りに来る。そこで出会った妖怪や神とは、あなたはまるでオーラが異なっていたから」
「なるほど。確かに私はこの森になじんでいないです。それを一目で見抜けるなんて、素晴らしい観察眼をお持ちですね」
「職業柄、よく人や物を見ていますから」
男はそう言って、雛に近づいてくる。雛は手をまっすぐに差し出して、男を阻んだ。
「私にあまり近づいてはいけません。私は厄神です。この周りにある厄があなたを不幸にしてしまう」
雛がそう言うと、男は半分呆れたように、半分悲しそうに笑って、自虐的な声で呟いた。
「なあに、今さら厄の一つや二つ、どうってことないですよ」
その声には、諦めの雰囲気があった。とても深い悲しみを、体験した者が出す声によく似ていた。ただ異なる点があるとすれば、男の声には、迷いがあった。
まるで灯台を見失った船のような、儚い空気を男から感じた。
「……あなたの厄、引き受けましょう」
雛は男に向かって伸ばした手をそのままに、ゆっくりと目を閉じた。そして、男の周りに漂っていた黒々とした厄をそうっと自分の周りに集める。
「終わりました」
男はしばらく目を閉じていたが、雛の声を聞いて意外そうな顔をしていた。
「あら、それだけですか。意外と簡単なんですね」
「ええ、元からある厄を取り除くのは非常に簡単です。けれど……」
雛は少し俯いて、暗い地面に話しかける様に言った。
「厄の根源までは、私にはどうしようもない。私が行っている事は焼け石に水です」
暗に、厄の原因はあなたにあるのですよ、と雛は伝えたつもりだった。そして、自分が無力な神であると言う事も。
「……そんな事はありません。あなたが行っている事はとても有意義な事だと思います。私はあなたに厄を払ってもらって、とても心がすっきりとしましたよ」
しばらく間があった後、男は雛を励ますように言った。その飾りっけの無い、シンプルな言葉に雛はとても素直になれた。
「ええ、ありがとうございます。何だか人間に慰められてもらうなんて、私は情けない神様ですね」
そのまま、二人して沈黙した。しかし、そこにまどろっこしい感情は無かった。ただ、こうするべきだと二人して感じたのだ。
雛は改めて男の顔を見る。初めて見たときから一転して、表情の豊かさに驚いた。男の表情からは不思議といろいろな感情が読み取れた。
「自己紹介がまだでした。私は鍵山雛と言います」
ひとしきり音の無い世界に浸った後、雛が口を開いた。
「私は……」
男が名前を言うと、雛は驚きを隠せなかった。それは、とても印象的な名前だったからだ。
折り鶴を流していたのは、この男だった。男は最近になって妻を亡くしたのだと言う。
「私には一人娘がいました。しかし、その娘ももういません。そして、妻を亡くし、私は独りになってしまいました。それが一か月前の事です」
男は乾いた笑顔でそう語り始めた。その笑顔が、雛には心苦しかった。
「妻は不治の病でした。一年前からベッドで寝る事が多くなり、最期の一カ月はもう目も当てられないほど衰弱しきっていたのです。そして、妻が居なくなってから、身辺の整理をしていた時に、この日記を見つけました。私に隠れてつけていたようで、私は妻が日記を書いている事をその時初めて知りました」
そう言って、男は鞄から日記をとりだした。
「初めは懐かしい、と思い読んでいたのです。ところが最後になるにつれて、私はとても気が滅入ってしまった。その日記には、妻の、心の奥底に忍ばせたひそかな願望が書かれていました。死んでから、そうしたことを言われても、私にはどうしようもない事でしたけど……」
男は雛に少しだけ期待するように、そっと目配せをした。その目は、不安と期待を半分ずつを織り交ぜた色だった。
「……その……願望というのは……」
雛は上手く声が出なかった。知らず知らずのうちに、緊張していたのだろう。そして、それを後悔した。この問いで、雛は男の大事な部分に触れてしまったのだと言う事に気が付いたのだ。
私は、この男の人生に関わってしまった。
「……家族みんなで、一緒に食事をしたかった、と」
男はわざと明るくふるまうように、両手をあげて、参ったなあ、と呟いた。
「今まで、妻は私の味方だと、思っていました。文句の一つや二つも言うけれど、それは私の許容範囲でした。私は妻の期待を裏切らない夫だと、けっこう自信に思っていたんです。娘の事は、妻自身もあまりよく思っていなかった。だから、私の決断も当時は間違っていない、と。けれど、人間と言うのは時間が経つにつれ、少しずつ変わっていくものです。そして、娘の事はまるで時計の短針のように少しずつ、私たちの精神に影響を及ぼしたのだと思います。私の方は、仕事が忙しく、ここ数年は家にほとんどいませんでした。今考えれば、妻の死は、ある一種の孤独死だったのかもしれませんね。
日記には最後の最後は、私と娘を囲んで、幸せな家族を演じたかった、と書いていました。滑稽ですよね、長年連れ添った妻の心境の変化を見抜けないほどに、私は娘の事をまるで気にしていなかった。いや……気にしないように、必死に五感を閉じて、仕事に没頭していた、と言うべきでしょうか」
男はそこまで話して、多少気分が楽になったのか、雛に向かって、笑顔を見せた。
「娘さんには、母親の事を伝えないつもりですか?」
「伝えたところで、どうしようもないでしょうね。今さら、こんな父親と二人で暮らすことは、娘にも私にとっても、幸せにはならないでしょう」
「しかし、あなたはこの日記を捨て切れずにいる……」
「自分でも何をしているんだろうと、考えますよ。もしかしたら、私は娘に気付いてほしいのかもしれません。もう一度、話をしたい、という事を。いや違うな……」
男は少し戸惑ったように呟いた。まるで、自己暗示をかけるかのように同じ事を繰り返していた。
この人は、娘に戸惑っているのだ、と雛は思った。多感な娘との距離の取り方を知らない、普通の父親の姿がそこにはあった。しかし、決定的に異なる点は、あまりにもこの父娘は離れすぎた事だった。
一緒に暮らすどころか、話をする事すらままならない。
しかし、お互いをまるですれ違う他人のように振舞うにはあまりにも近すぎる。
その長い年月と、いびつな環境の積み重ねが、二人の関係をおかしくしてしまった。
一体どこから、二人は違ったのだろうか。
その原因はきっと、彼ら自身にも分からない事なのだろう。
男はきっと、奥さんの事をすごく責任を感じているのだろう。娘を無視するあまり、大切な奥さんまでも失ってしまった……
実に不器用な男だと雛は思う。
「いやあ、初めてお会いするのに、こんな暗い話をしてしまって、申し訳ない」
「いいえ……あなたは、これから先も折り鶴を流すつもりですか?」
「そうですね……私自身が納得するまで、続けようと思います」
その日記は、男にとって捨てなければならない過去だった。しかし、それはまるで壁に貼り付けたシールのように、男の胸の深い場所にはっきりとした痕跡を残していた。あらゆる物を一瞬で溶かす業火では、男の心までもが焼かれてしまう。
一枚ずつ、ゆっくりと、水の優しい流れに乗せてその過去を捨てていく。
雛は男が独り、電灯一つの暗い部屋の中で鶴を折っている姿を想像した。想像した男の背中はひどく小さく、さびしげに思えた。そう考えると、雛は胸が締め付けられるような痛みに襲われた。
「よろしければ、その日記、私が預かりましょうか?」
脊髄反射のような勢いで言葉が飛び出た。そうするべきだと、咄嗟に思った。
男は驚いたような顔をして、止まった。しばらくして、ゆっくりと物を飲み込むように、落ち着きを取り戻した。
「雛さんのお邪魔でなければ……私としては断る理由も無いし、むしろありがたい申し出です」
男の声には、申し訳ない、という気持ちがこもっていた。だが、その一部に鉛のような枷がある。雛にはとても、男の枷を聞き逃すことは出来なかった。
「私は神様ですから。あなたが、私を頼りにしてくれるなら、私はその祈りにがむしゃらに応えるべきなのです」
思った事をそのまま口にした。そうするべきだと、雛は何となく思ったのだ。
男は静かに頭を下げた。
その日の夜。新月で風の無い、静かな夜だった雛は椅子に座ったまま、動かなかった。目の前の机には、朝に出会った男がくれた折り鶴がある。そして、一冊の赤い表紙の日記帳。その表紙には、金色の刺繍がしており、筆記体でDIARYと書かれていた。
雛は静かに身体を起こして、日記を手に取った。日記はそれなりの重さがあり、それがそのまま故人の想いを体現しているかのように感じられた。
適当にページを開く。日付は今から半年ほど前の物だろうか。そこには、日々病気と闘い、少しずつ、しかし確実に神経をすり減らされていく男の妻の想いがひしひしと書かれていた。
最後の日記は、思い掛けず力強い文字で書かれていた。そこには、男が言ったように、娘と三人で食事したい、そして娘に謝りたい、と書かれていた。最後の力を振り絞って書いたように、その文字には迫力が感じられた。
日記は二年前ほどからその量がぐんと減っている。最後の一年には、三日分ほどの分量しかない。そして、日記帳はあと三分の一ほどを残したまま、その役割を終えてしまった。
雛はそれを閉じて、灰色の雲のようなこの気分をどうにか出来ないかと考えていた。
あの後、男は山を降りた。その後ろ姿は雛が思っていたよりも、ずっと小さく頼りないものだった。
或いは、と思う。自分には行きすぎた問題なのかもしれない。だが、関わってしまった。知ってしまった。心に触れてしまった。
孤独な、しかし、家族の繋がりを捨て切れずにいるある男の物語に、雛は手をかけてしまった。
雛はそっと目を閉じて、天を仰いだ。
あの男は、心の中で、もう一度娘と話をしたいと思っているだろう。その感情は透き通った水晶のように美しい物ではなく、光の当たらぬ洞窟に生える苔のような、ひどく抽象的で形のつかめない濁ったものだろう。
あの男は、妻を失った事で、一つの機会を得た。
今までの過去からの、完全な脱却。それは男が長く願っていたことであり、同じくらい恐れていた事だった。
雛は悩んだ。私は、どうするべきだろうか。
このまま男の背中を押すことは、父娘の縁を完全に断つ事にもつながりかねない。
そこに善悪などはない。
別れる事が、愛でもある。
子はいつか親の元から離れる。それがどんな形であれ、親子愛なのだ。
そこまで考えて、雛は椅子から立ち上がり、やかんからコップにお湯を注いだ。温かい湯気が鼻の奥を刺激した。
難しい問題だ。しかし、このままでは解決にはいけなかった。
娘に母親の死を伝えていない。
父と娘が対等な立場で無ければいけない。
雛は熱いお茶を口に含む。飲み込むと、喉が焼ける様に痛かった。
覚悟を決めるのだ、と自分に言い聞かせた。
朝、人里のややはずれに男の家はあった。雛は正面から入る。
「ああ、雛さん。この前はどうも、ありがとうございました」
男は軽やかに笑っていた。前回会ったときとは雰囲気が違っていた。さすがだな、と雛は思った。
決して人前では辛く悲しい所は見せない、その心の仮面の厚さは、時に強みとなる。そして時に、人を遠ざける。あまりにも強すぎる人間の周りから、弱い人間は離れていく。
雛は直感的に感じた。
なぜ娘が、父親から離れていったのかが、何となく分かったのだ。
たぶん、この人は決して家族に弱いところを見せなかったのだろうな、と雛は考えた。
「今日はどういったご用件で?」
男はそう尋ねた。雛は少しだけ間を開けた後、男にある提案をした。
その瞬間、男の顔から血の気が引いた。
しばらく口を開けたまま、言葉が出なかったようだった。泥水のような沈黙があった後、男は諦めたように呟いた。
「……そうですか……娘と、会う事ができると……」
「あなたは、会うべきです。そして、娘さんと一緒に、あの日記を見るべきだと、私はそう思う」
「……」
男は悩んでいた。いや、葛藤とも言うべきだった。
「今、ある人に頼んで、娘さんをとある場所に呼んでいます。娘さんには、あなたがその場所にくることを伏せています。卑怯かもしれませんが、それでも、あなたと娘さんはこの機会に面と向かうべきだと思います」
それが永遠の別れになるにしろ。雛はその言葉をぐっと飲み込んだ。
「時間はありません。これが最後の機会だと、思います」
男は、こうなる事を心のどこかで望んでいた。
折り鶴に、母親の想いをのせて、自分のメッセージに気付いてほしかったのだ。
おい、一度話をしないか。
そんなメッセージを。
ひどく不器用で、分かりにくく、そのくせ娘に対して非常に臆病な心を持った男の、出来る限りの娘へのアプローチだった。普通の親子なら、こたつを挟んでみかんでも頬張りながら気軽に言えるその一言を、男はそういう風に言えなかった。
だから雛は、背中を押すことに決めた。
その先に、苦しく吐き出したくなるほどの出来事があったとしても、それは娘と父親には必要な事だったのだから。
「さあ、どうしますか?」
雛は尋ねる。男は言葉にならない言葉を呟き、その最後で
「……やっぱり、あなたは厄神だ。私にとって、あなたは厄しか運んでこない……」
力無くそう呟いた。
傷口に入った弾丸を取り除くには、傷口をえぐり返さなければいけない。さもなくば、その傷口が化膿して、人を死に至らしめる。
きっと、人間関係もそんなものなんだろう、と雛は思う。
もう日が沈む。約束の場所は博麗神社。雛は場所を提供してくれた巫女に感謝した。ここなら、誰にも気づかれないだろう。
雛の隣には、男が立っている。厳しい顔をして、佇んでいると言った方がいい。
「……さあ、どうぞ」
雛が小さくそう言うと、男は一歩一歩踏みしめるように、階段を上っていく。まるで死刑囚が絞首台へと登る様に、慎重にゆっくりと登る。
本当に、この男にとってはこの階段の先には死刑台に等しいのかもしれない、と雛は思った。
過去の自分の罪と向き合う事と等しいからだ。
しかし、そこにいるのは人間であり、自分の娘だ。
この父娘の関係は、絵本のようなハッピーエンドなどあり得ない。それはまるで、泥水をかけ合い、相手をののしり、終わりの見えない道に踏み込むような物語の始まりなのかもしれない。
それでも、と雛は思う。それでも、人間だから。
神とは、人間を愛する者たちの事だ。あてにならないと言っても、切っては切れぬ関係なのだ。
だから雛は信じた。二人の心を信じた。
これが今生の別れになろうとも、それでも、二人は親子なのだから。
神社が見えてきた。今日は赤い鳥居が、妙に色っぽく見えた。空が少し暗いせいかもしれない。
人影が二人。一人は雛に相談され、快く汚れ役を買ってでてくれた、付き添いの森近霖之助だ。
そしてもう一人は、男の娘だった。
男ははたと止まった。むこう二人もこちらに気付き、そして沈黙した。
長い沈黙が四人のあいだを駆け抜ける。雛は少しだけ吹いている風がやけに気になった。
これから長い夜が始まる。
雛は泣きそうになった。
もっといい再会の形があったはずだった。しかし、それはもう仮定の話でしかない。
父親と娘がこんな形でもう一度出会う事になろうとも。
それは決して無駄なことではないだろう。
娘は母親の死をどう思うだろうか。
母親が、最後に家族でご飯を食べたいと書いた事をどう感じるだろうか。
喧嘩になるかもしれない。あるいは、何も言葉を交わさないかもしれない。男は、うまく娘に事実を伝えられないかもしれない。長すぎた時間は、父と娘のありとあらゆる心を変えさせた。
雛の胸は、締め付けられるように痛んだ。全身の血液が、指先まで流れていくのをはっきりと感じるほどに、心臓が動いている。
誰もかれも、この問題がきれいさっぱり解決するとは思っていない。これが二人にとって幸せになるとも思わない。
だが、確かな一歩を踏み出した。
父親と娘の、最初の会話。
男は手に持った日記を力強く握りしめ、娘の名を、最初で最後になるかもしれないその名前を、はっきりと言った。
「……魔理沙」
空には一番星が見える。雛は、その一番星に祈った。
言葉も無く、ただひたすらに祈った。
>>「……そんな事はありません。あなたが行っている事に決して意味は無いと思います。私はあなたに厄をとってもらって、とても心がすっきりとしましたよ」
誤字…ですよね?
余りに痛いミスです、話が良いだけに残念。
全体を通して、雛さまの優しさが伝わってきて素敵でした。
しっかし、魔理沙の父親だったとは気が付きませんでしたw
雛が驚いたのはそういうことでしたか。
最後に話が大きく変わって……見事です
普通想定される魔理沙の父親像とはかなり離れていますが、こういうのも良いと思いました。
立つこともままならないことだってあるという。果たして厄神様が
壊れた家族にもたらすものは? 素晴らしいお話でした。
最後の神社の情景描写とかすごくいいなぁ、しんみりとした舞台は最後に相応しい。
そしてとても読後感がいいですねえ。あえて結末をスパッと切っているおかげで余韻がいい感じに生まれていると思います。お見事。
雛の“能力で”出来るのは厄を吸い取ることだけですが、親娘を会わせたのは雛自身の優しさなんですよね。