ドドン、ドドン……と、太鼓を打ち鳴らす音が聞こえてきた。
列の先頭を行くのは、烏帽子に狩衣で正装した神主らしき人だ。
その後をついて行く軽トラックの荷台には、はっぴ姿の老人たちが鈴なりに乗り込み、太鼓や手平鉦を打ち鳴らす光景があった。
まるで違う世界に来たようだった。
軽トラの荷台から打ち鳴らされる太鼓や手平鉦が独特の調子を刻み、北国の山郷に演出された「異界」の印象を強くしている。
その後ろをついてゆくのは神楽姿の男たちや木彫りの獅子頭で、彼らは沿道を埋める見物客から祝儀袋や酒の振る舞いを受けていた。
子供たちは立ち並ぶ露天に目を輝かせている。
老人たちは通り過ぎてゆく神楽の行列に手を合わせている。
厳かでありながら、賑やかな祭りがそこにはあった。
神楽の行列はやがて鳥居に吸い込まれてゆき、沿道を埋める見物客もどやどやと神社の中へ引き上げていった。
沿道に人がまばらになっても、なんとなくそこを離れがたくなっていた。
デジカメを手にぶら提げて、二人がそこらをうろついていると、腰の曲がった老婆が話しかけてきた。
「おたくさんたちは、何処から?」
顔中を皺だらけにして、老婆はニコニコと笑った。どことなく垢抜けない空気を感じ取ったらしい。
「あぁ、二人とも京都から」
最初は何を言っているのか全くわからなかった東北弁も、この三日でだいぶ聞き取れるようになっていた。
蓮子の言葉に、老婆はほぉーと感心したように頷いた。
「ずいぶん遠いとこから来たもんだ。カメラなんぞぶら提げて、神社さは入らないのかね」
「いえ、私たちは……」
蓮子とメリー――宇佐見蓮子とマエリベリー・ハーン――は、顔を見合わせて苦笑した。
無論、鳥居をくぐって中で行われる神事を見たいものだとは思う。思うのだが、なぜかそうする気が起きなかった。
ここの空気――もっと詳しく言えば、この神社一体に漲る何かが、余所者の侵入を許してくれないのである。
言いあぐねている二人の気配を察したのか、老婆はそれ以上何も聞こうとはしなかった。
代わりに、手に持った重箱の蓋を開け、そこからおにぎりを二つ取り上げると、ホレと差し出した。
「お客さんに出すようなものでねぇけどよ、米は京都より美味いべ」
せっかくの好意だった。礼を言って受け取ると、老婆はまたニコニコと笑い、踵を返して神社の鳥居に消えていった。
マイタケや鶏肉を混ぜて炊き込まれたおにぎりはまだ温かく、鼻先へ持っていってみると仄かに醤油の匂いが香った。
「なるほど、異界に来たみたいだ」
妙な点で意見が一致した二人は、顔を見合わせて大笑いした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ねぇ蓮子」
「何?」
バスの後ろの座席に座っている蓮子に話しかけると、蓮子は開いていた手帳から顔を上げた。
さっきコンビニで買い求めた棒つきキャンディのせいか、それともご馳走を前にして目を輝かせているからか。蓮子の顔はなんだかいつもより幼く見えた。
「どうして遠野に行く気になったの? まだ聞いてなかったわよね」
「そうねぇ……」
蓮子はふと考え込む顔つきになった。
蓮子は手帳から地図を取り出して、赤いマルがついている点を指差した。
「ここが遠野の蓮台野。地元の人はデンデラ野って呼んでるみたいだけど」
「デンデラ野? っていうか、遠野にも蓮台野があるの?」
「そう。京都と似たような地名は全国各地にあるみたい。遠野のデンデラ野っていうのは “蓮台野”が訛ったものらしいわ」
まるで書き物を読むような口調だった。
メリーが「またお墓?」と訊いてみると、蓮子は首を振った。
「それが……いいか、聞いて驚くな」
「何よ」
「ズバリ、姥捨て山よ」
姥捨て山。冗談だろう、昔話じゃあるまいに。
そう言って否定したかったが、蓮子の目は真剣だった。
「……本当に?」と念を押すと、蓮子は頷いた。
「昔は結構、全国のどこにでもあったらしいのよ。役に立たなくなった年寄りは、そこに棄てられる。すぐには死ねないもんだから、昼間は家に来て畑を耕したりして死を待つのよ。ま、今はそれなりに豊かになったからね。楢山節考……とまでは行かないみたいだから、安心してもいいわ」
そんなことを言われても。メリーは引きつった顔で蓮子を見た。
メリーの頭の中に、姥捨て山の荒涼とした想像図が広がった。
累々と横たわるしゃれこうべと、座ったまま事切れている死体を啄ばむカラス……今はそんな時代でなくとも、気持ちのいい話でないのは確かだ。
もっとも、蓮子が行きたがるぐらいだから、三文オカルトスポットの類ではなことは確かだ。そんなものはどこぞの物好きに任せておけばいい。我らが秘封倶楽部はプロ集団なのだ。名前とは裏腹に、もっと神秘的なところなのかもしれないし。
蓮子は地図の上を指した人差し指を滑らせ、「それで、ここがダンノハナってところ」と違う点を指差した。
「ダンノハナは大昔の刑場の址で、囚人を斬り殺してたってところでね。今は墓地になってるの」
「それじゃ、京都の蓮台野と同じってこと?」
「微妙に違うわね」
蓮子は地図上のデンデラ野とダンノハナの間に指を往復させた。
「ここの間で何か気がつくことはない?」
そう言われて、メリーはよく目を凝らして地図を見つめた。五千万分の一スケールの地図では、デンデラ野とダンノハナの距離はわずか数ミリしか離れていない。その間に目を惹くものといえば……。
「川が、流れてるわね」
思いついたままに言うと、蓮子は大きく頷いた。
「そう、デンデラ野とダンノハナは川を挟んで向かい合っている。いわばこの川が境界になってるってことね」
「わからないわね。一体なんの境界?」
メリーが聞いた瞬間だった。バスがブレーキを踏み、ぐ、ぐ……という感じで身体に負荷がかかった。
田んぼの真ん中のバス停だった。ぽつねんと立ち尽くしていた老婆は、顔見知りらしいバスの運転手に会釈をしてからバスに乗り込んできた。
老婆が座席に着いたのを確認してから、バスはまたゆっくりと走り出した。
妙な間が可笑しくて、二人は顔を見合わせて笑った。
ひとしきり笑った後、蓮子は「大学の資料を漁ってるうちに見つけた話なんだけど」と前置きしてから話を続けた。
「デンデラ野が棄老伝説の地だってことは言ったわよね? 一方、ダンノハナは昔は処刑場だった。けれど、今は墓地になっている。墓場っていえばすぐに死を連想しがちだけど、遠野には面白い言い伝えがあってね」
そういう蓮子の言葉にはどこか楽しげな雰囲気があった。
「遠野では、故人を埋葬した墓地に木が生えると、その人が生まれ変わったと言うらしいの。つまり、故人が眠る墓に若木が生えれば、その故人はもう既にどこかに転生したって考えるらしいのよ」
「それはつまり――?」
「墓場は人間が生まれる場所でもある、ってこと」
数秒間、思考の海を漂ったメリーは、やがて大きく頷いた。
「つまり、デンデラ野は死の世界、ダンノハナは生の世界ってこと?」
その答えに、蓮子は気恥ずかしそうな照れ笑いを見せた。
「思いつきだけどね。つまり、デンデラ野には生と死の世界が隣接して、しかも実態を持って存在している。ここなら異界への入り口があるのかなと思ってさ」
相変わらず……とメリーは思う。蓮子のこの知識量、洞察の鋭さは、学んだり訓練したりで手に入るものではないだろう。
もっとも、どうも本人はそれを気にしている様子もない。
少しだけ、嫉妬した。真剣な顔で地図を睨んでいる顔を見たら、ちょっといじめてやりたくなった。
「なるほど、ということは蓮子の思いつきにつき合わされるってことか」
「え? あ、まぁ……ごめん」
「でも、私も蓮子のそういうところ嫌いじゃないからなぁ」
瞬間、メリーは蓮子がしゃぶっていた棒つきキャンディにすばやく手を伸ばした。
え? と蓮子が油断した隙を突いて、キャンディを口から引き抜いて自分の口に入れる。
「今日のところは、キャンディひとつで勘弁したげるわ」
呆気に取られている蓮子の顔をケラケラと笑ってから、メリーは自分の座席に座りなおした。
「……なんだよ、このっ」という声が後ろで聞こえ、背を預けるバスの座席が揺れた。どうやら蓮子が殴ったらしい。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
早池峰バス土渕線に乗り込んで約三十分。
赤錆びた『山口』のバス停を降りてしばらく歩くと、目の前に小高い丘が現れた。
丘の上に向かう道を登りきった二人は、しばらく無言で辺りを見回した。
「ここがデンデラ野なの? 蓮子」
「そのはずだけど……なんか想像してたのと違うや」
メリーだけでなく、蓮子すらも首を捻った。
目の前に現れたのは、猫の額ほどの広さしかない、小さな野原だった。
まだ青いススキが夏風に揺れていて、後ろを振り返ればまだ青い水田がある。が、他はそれ以外にはこれと言って目を惹くものもない、あまりにもありふれた景色だった。彼岸花が咲き乱れ、打ち棄てられた墓石が散乱していた京都の蓮台野と比べると、ここは余りにも長閑すぎるといえた。
「道を間違えたんじゃないの?」
「おっかしいなぁ、地図通りに来たはずなんだけど……」
そう言って蓮子は折りたたんだ地図を広げ、視線を目の前の光景に往復させる。
どうやら間違いではないらしいと分かると、蓮子は地図から顔を上げ、「むう……」と唸った。
しばらくの間、二人は無言でと野原を見つめた。
期待を裏切られた――それが偽らざる本心だった。
知る人ぞ知る棄老伝説の地は、傍目にはそこらの景色と何も変ることのない、ただの野原だった。
「京都の蓮台寺はこんなんじゃなかったわよね」
メリーが言うと、蓮子はうんうんと頷いた。
「もう少し奥に行ったらなにかあるのかな」
言い聞かせるように言った蓮子は、そう言ってデンデラ野の奥へと歩いてゆく。
メリーがその後をついて行ってみるが、すぐ奥には杉木立が行く手を阻むように植わっていて、それから奥には立ち入れないようになっている。土台大した広さがないので、奥行きなど求めようがない。
しばらく辺りをうろうろしてみたものの、やはり最初に見たもの以外は何もなかった。
「メリー、何か見える?」
「全然。境界どころか流れもない。本当にただの野原ね」
メリーが言うと、蓮子は頭を掻いた。
「参ったなぁ。遠野くんだりまで来て、これじゃあ間尺が合わないよ」
「仕方ないじゃない。それに、姥捨て山伝説なんて元々なかったのかもしれないし」
「けれど……」
「例大祭も見れたんだし、そんなに落ち込むことはないでしょ」
メリーがよしよしと頭を撫でてやると、蓮子も観念したように「むぅ……」と呻いた。
何もなかった。どこか釈然としない結論を抱いて、二人はもと来た道を引き返そうと踵を返した。
そのときだった。こちらに歩いてきていた男と出くわし、二人はぎょっと足を止めた。
驚いたのは向こうも同じらしく、男はレーキを担いだ身体を棒立ちにさせた。
年の頃は五十付近というところだろうか。紺のポロシャツに作業ズボンといういでたちは、どう見ても現地の村人といった見てくれだった。
こちらが何か言う前に、男の目がすっと細まった。
「ここはよ、そんなものぶら提げて写真撮るようなところでねぇ」
ぼそり、という感じで男が吐き捨てた。蓮子が慌ててカメラを仕舞うと、男はのしのしとこちらに歩いてきた。
「あの、すみません。ここってデンデラ野なんでしょうか?」
おそるおそる、という感じで蓮子が尋ねた。
こんな怖そうな人に、と思ったメリーだったが、男はなおも無言で歩いてくる。
一瞬、カメラを取り上げられるのかと思って身構えたが、男は二人の前に立って、こちらを睨みつけて来た。
「おめぇさんたちは、どこから来たんだ?」
不意に投げつけられた言葉に、一瞬気後れした。
「京都からです」とメリーが言うと、男は怪訝な顔でこちらを見た。
「ウソだろう、そんな遠いところから何しに」
「あの、私たちその、大学で民俗学を研究してまして……」
咄嗟に、思いつきの言い訳を並べてみた。民俗学を研究しているというのはもちろん本当のことでないが、かといってまるきりウソでもない。
男が纏った鎧のような空気が、少しだけ弱まる気配がした。
「学生さんか。カメラなんぞぶら提げるから、どこかの記者かと思ったぜ」
「い、一応、学生です……」
「こんなところに来たって、何も楽しくねぇべ」
取り付く島もない男の言葉に、二人は黙ってしまった。
数秒間続いた沈黙を破ったのは、男のほうだった。
「……ここは確かにそうだ」
「え?」
「ここはデンデラ野だと言ったのよ。どこでその名前を聞いたのかしらねぇけどよ、人様に語るようなことはねぇ」
そう言って、男はしっしっと二人を手で追い払った。
慌てて身体を避けると、男はこちらに背を向けて、レーキで下草を集め始めた。
何となく、邪険にされている気がした。隣に立った蓮子がメリーの太ももをつついた。
帰ろう。蓮子が目で訴える。もうここにはなにもないのだと理解するしかないのかもしれない。
踵を返そうとしたメリーは、そのときあっと声を上げた。
デンデラ野の奥に、杉でない木が一本だけ生えている。その根元に、境界の歪があった。
もやもやと滞留する「流れ」――メリーにしかみえない何か――が、そこで不自然に捩れている。
しかし、何かがおかしい。歪みというよりは、ぽっかり口を空けていた穴を無理やり塞いでいるという感じで、そこだけ空間がよれてぐちゃぐちゃになっているのだった。
「あの木……」と呟くと、男が顔を上げた。
「なんだ?」
馬鹿、と自分を罵りたい気分だった。
どうしたと言われて、なんと説明すればよいのか。私には『境界が見える能力』があるんですと説明したところで、理解できる人間がいるはずがない。
咄嗟に「えっと……あの木の根元に、何か見えて……」と言葉を濁すと、男がメリーをまっすぐに見た。
「お姉さん、見える人か?」
突然発せられた大声に、メリーはびくっと身体を震わせた。
無言でいると、男は肯定と受け取ったらしい。
「何か、見えたか?」
男の顔は少しだけ青ざめているように見えた。
はいとは言えず、メリーは首を振った。
「いえ、そういうわけでは……」
それを見た男ははっとした顔になり、馬鹿な事を言ってしまったというように無言で頷いた。
どういうわけか、男の目は格段に優しくなっていた。決して根は悪い人ではないのだとわかる。
男はレーキを傍に置き、その場に座り込んで二人に向かって手招きした。
二人はちょっと迷ってから、男の傍に腰を下ろした。
男はポロシャツの胸ポケットから煙草を取り出し、一本咥えて火をつけた。
美味そうに煙を吐き出してから、男は語り出した。
「学生さんなら知ってるだろうがよ、ここは昔姥捨て山だったわけさ」
男が勝手に語り出した。二人が顔を見合わせると、男は苦笑を顔に貼りつけた。
「ここがしょっちゅう山背に見舞われる土地だってことは知ってるか」
「やませ……あぁ、そういう話は聞いてます」
蓮子が言うと、男は頷いた。
山背とは、本州から北海道にかけての太平洋側に吹き付ける、東寄りの冷湿な風のことだ。大昔から遠野盆地一帯は山背がもたらす冷害に悩まされ、凶作と飢饉を繰り返す悲惨な歴史を歩んできた。それ故、今だに遠野の人間は山背を「餓死風」と呼んで恐れるのだと、いつか蓮子が言っていた。
「やませが来て冷害がひどくなると、すぐケガツ(飢饉)になってな。そうなったら人間は何でも食うんだと。食えるかどうかわからない野草を摘むところから始まって、それも限界が来ると今度は子供の口減らしだ。減らす口がなくなると、もうダメだ。先に飢えて死んだ人様の肉を、これは馬の肉、これは牛の肉って自分に言い聞かせながら食うんだってな」
男は自嘲するように笑って見せたが、メリーにとってはぞっとするような話だった。
蓮子も口を真一文字に結び、何かを我慢するかのようにじっと無言でいる。
「んで、どうなるかだがよ。ケガツになると、必ず『老人ご遠慮の掟』っつうものが出来る。六十になって、役立たなくなった年寄りには食うのを遠慮してもらう――ここに連れてこられて棄てられるってわけだ」
背の丈ほどもある青いススキが、風にざわざわと揺れた。
もったいぶったように煙を吐き出して、男は続けた。
「いくら歳食ってヨボヨボになったってよ、すぐには死ぬもんでねぇ。だから、ここに連れてこられた年寄りは、昼は家の畑に帰ってきて畑を耕すんだと。……息子は畑に種を蒔いただろうか。嫁は田んぼの植え直しをきちんとやっただろうか。それが心配になって、いても立ってもいられなくなって、歩いて家に帰って来るんだと」
その話は蓮子から聞かされていた部分だが、現地の人間に聞かされると別の重みがある。
遠野では、野良仕事を始めることをハカダチ、仕事を終えて家に帰ることをハカアガリと呼ぶのだと、いつだか蓮子が言っていた。それは口減らしのために棄てられた老人たちは、その時点で墓に入った死人だからで、もう生者の世界に生きてはいないからなのだ。そんな悲しい伝説が、言葉の世界において現代に連続しているのである。
あそこの婆さんは今日も墓を発って里に帰ってきた、あそこの爺さんは今日は野良を上がって墓に帰るところだ……狭い山村のこと、棄てられる老人の多くは顔見知りだったのだろうし、時には自分の年老いた父母であったはずだ。
「それでも、そのうち力を使い果たすと、年寄りたちは帰って来なくなる。そうなると、あぁ、どこそこの爺さん、婆さんはついに命尽きたかとわかるわけだ……惨いことだ」
男の目は、ここではないどこかを見ているようだった。
まだ生きている人間を死人と呼ぶ心苦しさ。自分を守り育ててくれた人間を追いやり、見て見ないふりを決め込むしかない貧しさ。
そんな山里の暮らしは、呪っても呪いきれなかったに違いない。
毎日毎日、残る命を削って生と死の世界を往復する老いた父母。その小さな背中に、山峡に生きる人々は何を見たのだろう。
男は口に咥えた煙草を地面に押し付けた。長い話が終わった。
しばらく、立ち上がることすら出来なかった。その気配を察して、男が照れ笑いをうかべた。
「いやぁ、悪るな。学生さんに、退屈な話聞かせてしまって」
「いえ、そんな……」
「近頃じゃ、ここらの人間も忘れかけた話だ。興味がある人にだけでも覚えていて貰わないと、死んだ年寄りたちも浮かばれないと思ってな……」
男はクシュンと鼻を啜って、寂しそうな笑顔を作った。
「俺も小さい頃、爺さん婆さんからうんと聞かされてよ。雪が降り出すと、白くなった山々が棄てられた爺さん婆さんの白髪頭に見えるって言うんでな。皆泣きながら、なんでこんな貧しく生きなきゃならねぇのかと、そう言い合ったんだと。ずうっと昔、昔のことだ……」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
次の日。メリーは携帯電話の画面に朝四時を確かめた。
空が白み始める頃合だった。隣に寝ている蓮子を見やると、蓮子はすやすやと寝息を立てていた。起きる心配はなさそうだ。
ほつれた髪を解かすのもそこそこに、メリーは食事の用意をしていたおかみさんに一声かけて、民宿を抜け出した。
デンデラ野に行って、昨日見た境界の歪みの正体を突き止めるのだ。
蓮子には黙って行こうと決めていた。ひとりでないと、デンデラ野は本当の姿を見せてくれないような気がしたのだ。
デンデラ野への道を、ひとりで歩いた。時折、車が通り過ぎるだけで、漠と広がる田んぼに人の姿はなかった。
夏だというのにやけに寒い。太陽がまだ出ていないからだと自分を納得させて、メリーは薄暗い道を黙々と歩いた。
――蓮台野で一番彼岸花が多く生えているお墓が入り口よ。
京都の蓮台野で感じた、意図せざる自分の一言。そして見た、冥界に咲き誇る桜。
いまだに脳裏に焼きついていて離れない、妖しい美しさ。それは生涯忘れることができぬ光景だった。
メリーと蓮子は、京都で確かに異界を見つけた。その後のことはよく憶えていない。
気がついたら、すべては幻のように掻き消えてしまっていたのだ。
あそこは違う形で――もっと見えにくく、草木に埋もれてしまうような形ではあるが、この遠野の地には、確かに異界の門がある。
その思いつきは、民宿の布団の中で確信に変わっていた。
今日こそは、異界の入り口を見よう。そう心に決めて、メリーは昨日きた道を寡黙に引き返した。
二十分ほど歩くと、薄闇の中にデンデラ野が見えてきた。
やっぱりあった、境界の歪みだ。昨日と同じように、それはどっしりとした巨木の根元に口を空けていた。
そして、不自然なのも昨日と変わっていない。空間と空間を無理やり貼り付けたように、流れがよじれているのだった。
ススキの原を突っ切り、木の根元にしゃがみこんだ。
境界の歪みをまじまじと見る。触って触れるものではないが、手を伸ばしてもみた。スゥーと手が通り抜けてしまう。
何かが境界を塞いでしまっているのかもしれない。そう思って辺りを見回したメリーは、ふと視線を移した先に何かを認めた。
巨樹の向こう、鬱蒼とした杉木立の中に、数個の墓石が埋もれていた。
それは、杉の葉や雑草に半ば隠されるにして、ちょこんと頭を出している。
あっと、声が漏れた。
藪の中に足を踏み入れ、よく見てみた。
墓石の前には、溶けてちびた蝋燭と、燃え尽きた線香の灰があった。まだ新しい。
あの男だ、とメリーは直感した。昨日、ここでデンデラ野のことを話してくれたあの男が、この墓を弔っているのだ。
「何か見えたか?」と言ったときの、男の青ざめた顔が脳裏に浮かんだ。男とデンデラ野には、なにか浅からぬ関係があるらしい。
メリーは墓石の前にしゃがみ込み、その表面をじっくりと観察した。
この墓石は、おそらくは無縁仏。ここに葬られた数多の老人たちをまとめて回向し、後生の幸福を願うためのものだろう。
境界がねじれているのにも合点が行く。よく供養されたこの墓の存在が、かつてここに開いていた境界を閉じているのだ。
そして、もうこの異界の門が必要な時代は、とっくに過去のものになっただろう。
過去に忘れ去られ、未来に埋もれた人々の思い。それが小さな墓石に染みついている気がした。
しばらく、メリーはその墓石を見つめていた。
たっぷり五分ほど経っただろうか。
それにしても、とメリーは思った。この石、お墓にしては寂しすぎるんじゃないかしら。
墓石とは言っても、それは何の変哲もない、苔むしたただの川石である。
口減らしのために自ら命を絶ったとはいえ、こんな小さな墓石の下に無念を忘れて眠るというのは、いったいどういう気持ちなのだろう。
そう思って、メリーはなんの気なしにその一個に触れようとした。
途端に、ざぁっと風が吹いた。
はっとして顔を上げる。突風だ。冷たく、生臭い風がススキ野を揺らし、杉の木をざわざわとざわめかせる。
風は、ごうごうとうなりを上げて吹きつけた。
風が通り抜けて、静寂が戻った。
急に、寒気がきた。ぶるりと体を震わせて、メリーは立ち上がった。
歓迎されていない――そう思えた。怒られたようで、急に怖くなった。
メリーは、駆け足でデンデラ野を後にした。
やけに暗かった。もうとっくに太陽は顔を出してもいいはずだ。メリーは立ち止まって、背後の山々を振り返った。
山々を越えて、霧がやってきていた。
まるで雪崩だった。霧の白は山の稜線を覆い隠し、山と山の谷間に溜まったりしながら、不気味に揺らめいている。
今まで見たことがないほど、濃い霧だった。それはゆっくりと、液体のように波打ちながら、ざわざわと山を下ってきていた。
寒い。ぞわぞわとした寒気が体の表面を這い回り、毛穴から浸透して体の芯を冷やしていく。
餓死風――あれが山背というものか。ぞっとした。圧倒的な白の奔流に、メリーはしばし言葉を忘れてその光景を見ていた。
コントラストを失わせる曇天の下、山の緑と霧の白の、不気味な対比があった。
それは束の間、メリーに年老いた老婆の白髪頭を連想させた。
了
不気味で素敵なフィールドワークでした。
メリーが見たものを、蓮子と語る光景も見たかったですが、終わらせるには充分足りる箇所でもありましたね。
少し、残念だ。
自然の力ってやつは原理を解明してみたところで、人間にどうのこうのできるわけじゃないんですよねえ。
寂寞とした雰囲気と、荒涼とした死の風やませがより映えるのかもしれない
男の語りとメリーの視点・感情描写が真に迫って恐い恐い
お見事!またこういう感じの読みたいです
また是非こういうSS書いてほしいです。
さあ今から長編な倶楽部の二人を書く作業に取り掛かるんだ
もしかして地元の方でしょうか? 私は岩手の人なのですが……
とにかく、良い作品を有り難うございました。
評価難しいです。
でも面白かったのでこれで
締め方が気にはなりましたが、とてもおもしろかったです。
そして、良い勉強になりました。
本作も、秘封倶楽部を通じてその先の知的探求心を掻き立ててくれる秀作でした。
ただ、伝承を大切にするあまり、歴史の教科書っぽくなっている点が残念かもしれません。
物語の冒頭でショッキングな嘘設定(山背に対する呪い返しの祭りの存在だとか)を押し出して、
蓮子とメリーが民俗学の闇の面に巻き込まれていったりしてくれたら大興奮でした。
それってTRICKっぽい? いいの、個人的に大好物だから。
それはともかく、また秘封倶楽部のフィールドワークを書いてくだされ。
おもしろかったです
こういう雰囲気の話は大好物です
意図してそこで終わらせたのであれば上手い終わり方だと思います。
いろいろと興味深い話を、面白い切り口で東方らしく描き出されていると思います。お見事。
ラストに違和感を覚える人も多いですが、むしろこの締め方は個人的には好きですね。上手い言葉で結んだなあ、と思います。
でもまあ、もっとこの世界観に浸っていたかったという気持ちはもちろんありますが。
遠い地の、観光地でない場所を旅行した時に感じる不思議な感覚を見事に表現していると思います。
この長さでも十分楽しめましたが、蓮子の活躍シーンなどももっと見たいので、
このテイストで長編を書いていただけたら、と思います。
雰囲気は100点で申し分ないのですが、あとの20点分は将来の期待にかけて。
それのみならず、デンデラ野の雰囲気、言い伝えなどから感じるメリーの気持ちがとてもよく伝わってきました。
謂われには必ず意味があるのですね。悪戯、ではないけれど、そうしたもの、そうした場所で無闇な事をしてはいけないのでしょう。
三文オカルトスポットの類ではなことは -> 三文オカルトスポットの類ではないことは
いやぁ、悪るな。 -> いやぁ、悪るいな。
方言でしたらすみません。
半ば隠されるにして -> 半ば隠されるようにして
ところでどうでもいいことだけど、五千万分の一の地図って縮尺おかしくないかな?