コンコン、コンコン――――
紅魔館正門そばの詰め所。
必要最低限のものしか置かれていない質素な部屋に、上品なノックの音が響いた。
春は爛漫。かつての寒さは嘘のように消え去り、冬の間の鬱憤を晴らすかのごとく、季節の花々が色鮮やかな景色を作り出している。
人も妖怪も思わず浮かれ出す季節である。
紅魔館の門番を勤める紅 美鈴は、春の温もりに誘われて、椅子の上でウトウトと居眠りをしていた。
コンコン、コンコン――――
再びノックの音。
夢と現実の境界を行き来していた美鈴は、心地よい睡眠の誘惑を断ち切ってノックの主へと意識を向けた。
(はて、ここに客が来るとは珍しい。)
詰め所に訪れるものといえばせいぜい妖精メイドくらいのものだが、彼女達のノックはお世辞にも上品とは呼べず、というよりそもそもノックしない者も少なくない。
館の主であるレミリア・スカーレットやその妹フランドールが訪ねてきたのかとも考えたが、彼女達は吸血鬼であるため、わざわざ昼日中からこんなところにはまず来ないと思われる。
客分のパチュリー・ノーレッジは滅多に表に出て来ないので、おそらく彼女でもないだろう。
と、なると残るは――
「咲夜さんですか? 開いてますよ~」
安普請の扉が甲高い音をたてて開き、美鈴の予想通りの人物が大きなバスケットを持ってゆっくりと詰め所の中に入ってきた。
扉の開閉から立ち姿に歩く姿、些細なしぐさの一つ一つにまで気品にあふれている。それはまさに完全に瀟洒な従者、十六夜 咲夜にしかなせない技であった。
「ごめんなさいね休憩中に。もしかして寝てたのかしら?」
「はは、ここのところ暖かくなってきましたからね。春眠暁を覚えず、というやつです。しかし咲夜さんがここに来るのは珍しいですね、何かありましたか?」
「私も休憩中ですわ。もしよければ一緒にと思って。これ、お昼の残りだけど食べる?」
咲夜の手にしたバスケットを見て、美鈴がおお、と小さく歓声を上げた。
手渡されて早速中を開けてみれば形のよいサンドウイッチが所狭しと並んでいる。
「サンドウイッチですかぁ。良いですねえ、小腹の空いたときに最適ですよ」
そう言って美鈴はサンドウイッチに手を伸ばした。
中身はハムにチーズ、そしてレタスといったオーソドックスなものだが、隠し味として塗られたカラシが具材の味をより一層引き立てており、シンプルながらもベストといわざるを得ない仕上がりであった。
「咲夜さん、これおいしいですねえ。感激です!」
「オーバーねえ。褒めても何も……、いえ、紅茶くらいは出ますわ。お湯はある?」
「ええ、さっき沸かしたものが。たぶん紅茶に使うにはいい温度になってると思いますよ。あと葉はこの間もらったのがその辺にって、あー、なんかやらせちゃってすいません」
「かまいませんわ。だって私が押しかけたんですもの」
恐縮そうにする美鈴に咲夜は微笑で答えた。
詰め所の炊事場は小さいながらもよく手入れが行き届いている。掃除はもとよりコップ一つ、ナイフ一つの置き場所をみても誰が使っても使いやすいように配置されており、普段からこの詰め所を使用している美鈴の性格が現れていた。
(咲夜さんは何をしてても絵になるなあ)
炊事場に立つ咲夜を眺めながら美鈴はそんなことをぼんやりと考えた。
だが、考えると同時に何か違和感のようなものも感じていた。
咲夜はどんな時でも瀟洒な従者である。それは間違いない。
だが今日の咲夜はどこか、『完全』ではないのだ。
美鈴はすうっと目を細める。
違和感の正体は、なるほど、そういうことか。
「咲夜さん、咲夜さん。やっぱり紅茶は私が淹れますよ。咲夜さんは座っていてください」
やおら立ち上がって美鈴は咲夜のもとまで向かった。
そっと肩に手を置いて、椅子で休んでいるようにうながす。
元々華奢な咲夜の肩がさらに小さく美鈴には感じられた。
「別に気を使わなくていいのよ?」
「いえいえ、実はこう見えてですね、私も結構紅茶の淹れ方には自身があるんですよ。ですから今日は私に腕を披露させてください」
不満げな声を出す咲夜を半ば無理やりに椅子に座らせて、美鈴は再び炊事場へと向かう。
程なくして鼻歌交じりに紅茶の良い香りと、ブレンドティーにするのだろうか、何か紅茶とは別の香りが漂ってきた。
トレイには湯気の立つティーカップが二人分。
優雅な仕草で美鈴は咲夜に紅茶を差し出した。
「冷めないうちにどうぞ」
咲夜は目の前に置かれたティーカップに口をつけた。
うん、おいしい。香りも悪くないし、何より体が芯から温まる。
咲夜の顔に笑みがこぼれた。
「どうですか? 結構おいしいでしょう。滋養のあるとっておきの薬草を混ぜてみたんですよ。咲夜さん、なんだか疲れてるようでしたから」
心配そうな表情で美鈴は咲夜の顔を覗き込んだ。
「気を使ってくれるのは嬉しいけれど、私なら平気よ?」
元気いっぱいというジェスチャーをする咲夜。
だが美鈴には、その顔色はこころなしか青く映った。
「私は疲れてなんかいないわ。自分の体のことは自分が一番良くわかるもの。今日の私は絶好調、押せ押せモードよ」
「咲夜さん、私の前で無理することなんてないんですよ。気脈のほうがだいぶ乱れていますね。今日の咲夜さんは押せ押せモードどころかお疲れモードです」
「美鈴ったら心配性ね。ほら、私はこんなに元気ぴんぴんですわ」
咲夜はすっくと立ち上がり、スカートの端をつまんで一つポーズでも決めようと思った矢先に不意にめまいに襲われた。
ぐらりと世界がゆがむ。
視界の端に、慌てた表情の美鈴が映った。
(そんなに心配しなくてもいいのに……)
崩れ落ちる中、咲夜は薄ぼんやりとした意識の中で考える。
一瞬の浮遊感があって、咲夜は自分が美鈴に抱きかかえられていることに気がついた。
体に力が入らない。
美鈴の顔が近い。
咲夜は急に恥ずかしくなってしまった。
「や……、離して、美鈴……」
「いいえ、離しません。咲夜さんは働きすぎです。このまま少し休んでいってもらいますからね」
美鈴の有無を言わせない言葉に咲夜は押し黙ってしまう。
抵抗する力もないのをいいことに、美鈴は咲夜を抱えたままどっかりと椅子に座った。
「これじゃあ、まるで子供みたいじゃない……」
「何言ってるんですか咲夜さん。私から見たら咲夜さんは子供みたいなものです」
子供みたいなもの、と言われて咲夜はしゅんとなってしまった。
今の咲夜は美鈴のひざに座り、美鈴の胸にもたれかかり、さらに後ろから抱かれている格好だった。
これではまるで本当に子供のようである。
「ごめんなさい美鈴、私――」
「いいんですよ咲夜さん。咲夜さんはまじめですから、きっと疲れがたまってたんですよ。気にしないでください」
優しい言葉をかけられて咲夜はさらにしゅんとなってしまう。
沈黙と、美鈴の淹れた紅茶の香りだけが二人の間を流れている。
何か話題はないだろうか、咲夜が言葉を探していると美鈴がゆっくりと話し始めた。
「ねえ、咲夜さん。咲夜さんが小さいころは、よくこうして私のひざに座ってお話をしましたね」
懐かしむような美鈴の声。
突然の昔語りに、咲夜はひどく狼狽した。
「む、昔の話じゃない……」
「恥ずかしがることなんてないじゃないですか。それに、ほんの数年前までの話ですよ?」
美鈴が少し意地悪く笑っている。
ペースを完全に支配されたと咲夜は感じていた。
「あのころは嬉しいことや嫌なことがあるとすぐにここへやって来て私に甘えてくれたというのに、いつの間にかあんまりここまで顔を出さなくなっちゃったんですよねえ」
私のこと嫌いになっちゃったんですね。しくしく。と、嘘泣きを始める美鈴。
咲夜にもそれが冗談だとはわかっていたが、ここ最近は二人で話す時間もあまりなかったことを考えると、心がちくりと痛んだ。
「それは、私もメイド長としての仕事を任されるようになってからはやることもずっと増えたでしょう? 館全体を見なくちゃいけないんだから責任は重大よ。だからどうしてもなかなか時間が取れなくて……。それに私だっていつまでも子供じゃないもの。ずっと美鈴に甘えているわけにはいきませんわ」
咲夜の言葉からは強い意志が感じられる。
彼女の瀟洒な姿はメイド長としてのプライドから来るものなのだろうかと美鈴は思った。
「なんだか咲夜さんは立派になっちゃいましたねえ、ちょっと寂しいです。私としてはもっと甘えてくれたほうが嬉しいんですけどね」
美鈴は咲夜の頭をなで始めた。
しかし、すぐに遮られてしまった。
「もう、美鈴はどうしても私を子共扱いしたいのね?」
「私くらい長生きしてるとですね、みんな子供みたいに思えてくるんですよ。それにこんな格好で言っても説得力ありませんよ? ああ、大きくなったら美鈴のお嫁さんになるーって言ってた咲夜さんはどこに言っちゃったんでしょう?」
おどけた口調の美鈴。
このままやられっぱなしというのはどうにも癪だ。咲夜の心に火が灯った。
「確かに小さいころよく甘えていたのは事実ですけど、お嫁さんになるなんて言った覚えはありませんわ。まさか美鈴ったら長生きのしすぎで少し呆けてしまったのかしら? まあ、これは大変! 急いで竹林のお医者のところまで行って、おつむの中身をよっく見てもらわなければいけませんわね」
一気にまくし立てて、咲夜はしてやったりという顔をした。
対する美鈴はウムムと唸っている。
「咲夜さんったらいつの間にかこんな生意気まで言うようになって……。これはお仕置きが必要みたいですね」
美鈴が不敵に笑う。
咲夜は自分の置かれている状況を理解していない。
美鈴のひざの上にいるということが何を意味するか理解していない。
生殺与奪は美鈴にあるということを理解していないのだ。
「覚悟はいいですか、容赦なんかしませんからね? そーれ、こーちょこちょこちょこちょー」
「えっ、あ、アハッ、やめて美鈴っ、アハハハハッ、くすぐったいっ! アハハハハッ」
美鈴の苛烈なくすぐり攻撃が始まった。
脇を、腹を、背中を、美鈴の指が間断なく攻め立てる。
咲夜は笑い転げながらも身をよじって何とか抜け出そうと試みるが、美鈴にガッチリとホールドされて逃げることが出来ないでいる。
「だめ、死んじゃうっ、アハッ、アハハハハッ、ちょっ、そこ、やめっ、ひゃうっ!?」
わき腹をつつかれて、咲夜が悲鳴とも嬌声ともつかない声を出した。
一瞬、気まずい空気が流れた。
「……咲夜さん、なんて声出すんですか」
「あ、あんたが変なとこ触るからッ――」
顔を真っ赤にして、涙さえ浮かべた咲夜が美鈴の頭をぺしりとはたく。
美鈴は叩かれたこともまるで意に介さず笑っていた。
「あっはっは、少し元気が出てきましたね?」
「何言ってるの、余計疲れちゃったわよ!」
美鈴のくすぐり攻撃のせいで、咲夜は完全に息が上がっている。頬が上気し、うっすらと汗ばんでいた。
「疲れた……。本当に疲れたわ。美鈴、この責任はとってもらうわよ」
「はい、咲夜さんのためならエンヤコラです。なんなりとお申し付けください」
「そうねえ、それじゃあ……」
咲夜は一瞬迷ったあと、顔を上げてちらりと美鈴の顔を盗み見た。
美鈴は相変わらずニコニコしている。
「それじゃあ、ぎゅーって抱きしめてもらっても、その、いいかしら? 小さいころ、良くしてもらったみたいに……」
少し恥ずかしそうに、ようやく聞こえるくらいの声で、咲夜は言った。
「はい! もちろんです!」
本当に嬉しそうに答える美鈴。
咲夜からは見えなかったが、美鈴のいつものニコニコ顔は太陽のようなまぶしい笑顔に変わっていた。
「それじゃあ行きますよ? 元気、注入ぅ~!」
威勢のいい声とともに咲夜は力強く抱きしめられた。
力強くといっても決して息苦しくはない。むしろ暖かくて、安心感があった。
自分を包み込む美鈴にすべてを預けて、咲夜は静かに目を閉じた。
「ねえ美鈴。実を言うと私ね、仕事が忙しくなるたびに美鈴の顔が見たくなるの。今日もそう。少し休憩をしようと思っただけなのに、我慢できなくて自然とここに足を運んでいたわ。本当にどうしてかしらね」
目を閉じたまま咲夜はぽつりと呟いた。
尋ねるまでもなく、自分でもわかっていたのだが。
「それはきっとあれですよ、咲夜さんの無意識が私を求めていたんですね。ふふ、咲夜さんったら甘えんぼさんですねえ」
やはり図星を突かれたか、と咲夜は思った。
「美鈴はすぐに私を子供扱いするんだから……。私はもう子供じゃありませんわ」
「そう言わないでくださいよ。私にとって咲夜さんは子供みたいなものなんです」
そう言って美鈴は、咲夜の頬に自分の頬をくっつけた。
相変わらずの子共扱いだが不快ではなかった。
こんなにも優しく包み込んでくれるのなら、もう少し子供でいてもいいのかもしれない。
「こうしてもらうのもずいぶん久しぶりね。なんだかすごく落ち着くわ……」
「咲夜さんがそうしてほしいなら、私は毎日だってかまいませんよ?」
「……そんなの、美鈴に悪いわよ」
なんだか、ひどく眠たくなってきた。
美鈴のぬくもりに包まれていると、まるで小さいころに戻ったように咲夜には思えたのだ。
「ねえ美鈴、あなた、もしかして少し小さくなったかしら……?」
「違いますよ。咲夜さんが大きくなったんです。」
「……大きくなった、かしら? ふふ、それじゃあ、いつでも美鈴のお嫁さんになれますわね……」
「あはは、嬉しいですねえ。私はいつでも大歓迎ですよ?」
咲夜は夢と現実の境界にいる。
もう、美鈴の声はあまり届いていないようだった。
(暖かいなあ……。春眠暁を覚えず、か……)
咲夜の意識は夢の世界へと落ちてゆく。
「おや、咲夜さん……?」
返事はない。
胸が規則正しく上下している。
「寝ちゃいましたか。……ねえ、咲夜さん。咲夜さんは本当に大きくなりましたね。本当に綺麗になりましたね……」
美しい咲夜の銀髪をなでながら、美鈴は愛おしそうに呟いた。
「おやすみなさい、咲夜さん」
/
頬に何か暖かい感触があって、咲夜はゆっくりと目を覚ました。
なんだか、ずいぶんと幸せな夢を見ていたような気がした。
「すみません、起こしちゃいましたね」
「やだ……、私寝ちゃってたの……?」
「ええ、ほんの十五分ほどですが」
そっと自分の頬に手を当てる咲夜。
自分の眠りを覚ましたものは、いったい何だったのだろうか。
「そういえば、さっき何か頬に暖かいものが……」
咲夜は美鈴に尋ねる。
「咲夜さんがいけないんですよ。だって咲夜さんの寝顔は食べちゃいたいくらいにかわいいんですから。でも私は理性ある妖怪ですから、我慢に我慢を重ねてちゅーするだけにしておきました。」
美鈴はまるで感謝してくださいよと言わんばかりだ。
さすがの咲夜もこれには苦笑で答えた。
咲夜が笑ってくれたことに気をよくしたか、美鈴はこんなことまで言い出した。
「それじゃあ咲夜さん。さっそく私にもおはようのちゅーをしてください」
むちゅーっと唇を突き出して、美鈴は口付けをせがんだ。
そんな美鈴の顔を咲夜は両手でやさしく包み込む。
美鈴がいよいよわくわくしていると、次の瞬間、咲夜は美鈴の顔をついっと横に背けてしまった。
「馬鹿言ってないの。私はもうそんな子供じゃありませんわ」
「そんなあ、ただの挨拶ですよう。それに咲夜さんは私にとって子供みたいなものですってば」
咲夜が乗ってくれなかったので、美鈴はひどく悲しそうな声を出した。
それでも少し眠ったせいか、この詰め所に来たときと比べて咲夜はずいぶん元気になったようなので、これでよしとするかと美鈴は考えることにした。
「咲夜さん、すっかり元気になったみたいで良かったです」
「ええ、本当に美鈴さまさまね」
屈託のない表情で咲夜が笑う。
「さて、と、仕事に戻ろうかな」
そう言って、咲夜は美鈴のひざの上から降りた。
足取りもしっかりとしている。
「ええー、もう少しゆっくりしていってもいいじゃないですか」
「そういうわけにも行きませんわ。やることはいっぱいあるもの、今日も私は押せ押せモードよ」
咲夜は完全に瀟洒な従者の顔に戻っていた。
これ以上わがままを言って引き止めては、きっと咲夜に対して失礼になるのだろう。
「そうですか……、それじゃあ仕方ないですね」
けれど、美鈴にはこれだけは言っておきたいことがあった。
「ねえ、咲夜さん」
美鈴の声に、バスケットを手にした咲夜が振り返る。
「もし、また何かあったらいつでもここに来てくださいね。咲夜さんのために、いつでも特等席を空けておきますから」
美鈴が自分のひざをポンポンと叩いた。
どんなときでも暖かく咲夜を包む、彼女のための特等席。
本当なら今すぐにでも飛び込んでしまいたいのに。
「もう、美鈴はいつも私を子供扱いするのね……」
瀟洒な顔をほんの少し赤らめて、咲夜はようやくそれだけを言った。
口ではあれこれ言っても心の中ではやっぱり嬉しいのだ。
咲夜は美鈴の言葉を待つ。
お決まりの言葉には、お約束の言葉が返ってくるものである。
美鈴の唇がゆっくりと動く。
優しい言葉がつむぎ出される。
「だって、咲夜さんは私の子供みたいなものですから――――」
「子供」が「子共」になっている箇所が…
咲夜さんかわいい。うぇwww
二人ともかわいいすぎて、ニヤニヤが止まらんww
なんか、いいなぁwこういうのw
俺も……誰かに甘えて、あたたかく包まれたいな
になくてもいいのに?しなくてもいいのに?