Coolier - 新生・東方創想話

ネガティブディスティニー・スカーレットエッヂ

2010/04/05 20:38:46
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 拒絶の夜も、喪失の夜も、いつだって空には満月が浮かんでいた。

 月明かりが眩しくてカーテンを閉めようとすると、いつでも私の部屋を向いて立っている真っ白な墓標が目に入る。

 ――自室の窓から見える彼女の墓には、名前の文字一つ刻まれていない。

 ――――――――

 満月と言うには物足りない、僅かに欠けた月が空に浮かぶ夜。妖怪が跋扈する幻想郷の夜と言っても、紅魔館の周辺にはそうそう近寄ってくる妖もいない。
 幻想郷の一角にある、紅い悪魔の住む紅い館。人々はそこを紅魔館と呼び、そこに住む悪魔をスカーレットデビルなどと呼んで畏怖する。その当事者、スカーレットデビルその物たる私にとっては、その畏怖の念は歓喜以外の何でもない。
 
「ヴァア゛ア゛ア゛ァァァァ」
「ギャーこっち来るなーッ!」
 
 加えて、館の内外には屈強な実力者が揃っている。生半可な侵入者は数分と経たずにぼろ雑巾になって館の外に投げ出されるだろう。余程の無知か命知らずでなければ、紅魔館に侵入しようとする奴なんていない。
 けれど、それは私にとって刺激の無い、退屈な日々の裏返しでもある。部屋で一人、優雅に紅茶を一口。憂いを込めた眼で空を見上げ、欠けた月を目にして溜息をつく……と言ったいつも通りの夜を過ごす。
 過ごしていた。
 過ごす筈だった。

「咲夜! 咲夜助けてーッ!!」
「ザグァァア゛ア゛」
「嫌ぁぁぁぁ」

 仮に私を恐れ敬う人間が今の状況を見たとして、果たしてその畏怖の念を揺らげる事なくいられるだろうか。私は自信が無い。
 優雅に飲む筈の紅茶はティーカップごとおじゃんになり、見上げる月は割れた窓ガラスからでは風情もクソも無い。と言うか、空なんて見上げている余裕が無い。
 私の息の根を止めようと振り回される鋭い爪を掻い潜り、どうにかこうにか部屋の外へと飛び出す。なりふり構わず図書館に向けて全速飛行を開始するが、すぐさま背後で破壊音が響いた。再び私は悲鳴を上げながら逃げ惑う羽目になる。
 もっとも、自業自得だからどうしようもない。今の惨状は、全て私が自分で引き起こした事なのだから。

 事の始まりは、ちょっとした召喚魔法だ。図書館で見つけた本に書いてあった魔法がどうしても試してみたくて、もう数十年は使ってなかった大魔法を使う決心をした。
 部屋に魔法陣を描き、本に書いてあった通りの材料を集め、ところどころ噛みながらも長い呪文を詠唱し続けた。ほどなくして魔法陣は光り輝き、しかし光の形作る輪郭は私の期待していた物とは異なっていて、不安で一杯になりながら魔法を終えた頃には、どう見ても想定外な気味の悪い悪魔が私を睨み付けていた。
 大柄の熊ほどもある身長に不釣合いな、コルセットで締め付けたかの様に細い体。
 赤い体液のような何かが滴っている剣の如き爪と、穴の空いた翼膜がむしろ禍々しい蝙蝠のような翼。
 そして顔の上半分を覆い隠す鉄仮面。視界もほぼ完全に塞がれていると言うのに、しかしその仮面越しの双眸が確かに私を捉えているのを感じる。
 己の魔法の才能の無さに落胆するより、目の前の悪魔が何者かを確かめるより、その何よりも早くに奇怪な魔物は声を上げた。いや、声を上げると言うよりは咆哮に近い。壁がビリビリと震え、思わず私の身が竦む。
 そして腰を抜かした私に対して、この悪魔は容赦なく爪を振り上げたのだった。
 
 図書館へ向けて退避しながら、無駄とわかっていても後ろに向けて弾幕を張る。さっきからこの悪魔、弾幕を避けようとすらしない。けれどその全てが直撃しているにもかかわらず、まるで効いている様子が無い。格闘もしかりだ。魔力を込めた全身全霊の一撃ですら、この悪魔の爪の一振りを弾くに留まってしまった。
 弾幕ごっこのルールの上でならとうに勝利しているのだが、残念ながらこの悪魔には力はあってもルールを理解する知能は無いようだ。
 そうなると、もう私には打つ手が無い。そもそも吸血鬼の戦い方は相手を上回る圧倒的な力で捻じ伏せないと成立しない物なのだから、こんな化け物は想定外。となると、パチェ辺りに弱点を突いて貰うしか無い。そもそも弱点が何なのかすらわからないけれども。
 
「お嬢様、どうしたんですか!」
「美鈴!」
 
 騒ぎを聞きつけて門からやって来たのだろう、美鈴が私の背後の悪魔を目にして面食らう。当たり前だろう、召喚した私が面食らったのだ。
 一瞬呆気に取られた美鈴は、しかしすぐさま臨戦態勢を取った。両の掌を合わせると、途端に美鈴の纏う気迫が強く、鋭い物になる。そのまま深く腰を落とし、強い踏み込み。その勢いのままに七色に輝く拳を突き出して悪魔へと突進する。
 私が手も足も出ないのだから、正直に言って美鈴の手に負える相手では無いのだけれども、しかしそれは美鈴も百も承知なのだろう。
 ここは私に。すれ違い様に美鈴はそう呟き、次の瞬間には背後で凄まじい激突音がした。思わず後ろを振り向いてしまいそうになるけれど、せっかくのチャンス、無駄には出来ない。美鈴に心の中で詫びながら、図書館へと向かう速度を上げる。
 空を駆け壁を蹴り、時には転びそうになりながらも、やがて見えてくる図書館入り口。いつもは何て事の無いその巨大な扉も、今は最後に残った一枚のスペルカードの如し。
 扉を開ける手間すら惜しく、体全体でぶち破るようにして図書館へと転がり込む。突然飛び込んできた私に小悪魔は驚いていたが、対してパチェは表情を変える事もせずに本を読み続けていた。
 
「パチェ、本なんて読んでる場合じゃないのよ」
 
 すぐさま駆け寄って協力を仰ぐが、偏屈な魔女は視線をこちらに向ける事すらしない。無言のままページを捲る。
 その振る舞いに苛立ちを覚えたけれども、それを表に出すわけにはいかない。今に始まった事ではないにしても、それでも時たま見せるこう言った振る舞いが頭に来ないわけではないのだけれど。
 
「お願い手を貸して。危ないのに追われてるの。今美鈴が食い止めてくれてるけど、どれだけ持つかわからな「一体、何の魔法を使ったの?」……ぃ……」
 
 そして、こう言った振る舞いをした後には、必ず何か触れられたくない事に対して質問を投げかけてくるのだ。回りくどい様で、その質問は何よりも核心に近い。私の半分も生きてない癖に、そう言った所は私よりも敏い。
 つまり何の魔法を使ったかと言う事は、私にとって何よりも知られたくない事だと言うわけだ。が、今の口調はただ質問を投げかけるだけのそれではなかった。もっと言うならば、明らかな怒気を孕んだ不機嫌な物言い。何に対して怒っているのかも、当事者である私にはすぐにわかる。
 
 何の魔法を使ったか。それがただの召喚魔法じゃない事も、ただの召喚をしたかったわけじゃない事も、きっとこの魔女にはわかってしまったのだろう。
 
 返答に詰まる。言葉の形を為してないうめきを漏らしかけた所で、しかしその空気を壊すかのような再三の破壊音が背後で響いた。
 振り向くと同時に、私に向けて飛んでくる何か。それを美鈴だと認識して咄嗟に受け止めると、美鈴は苦悶の声を漏らす。手に粘ついた感触を覚え、目をやると美鈴の血が私の手を汚していた。全身の傷を見るに、かなり手酷くやられたらしい。
 視線を破壊音の方に戻す。破壊された図書館の壁の向こう側に、私を察知した悪魔の姿があった。再びの咆哮。本来静寂が支配する筈の図書館に響き渡ったそれは、立ち並ぶ本棚を震わせ、そこに居る者の体を竦ませる。
 そして悪魔は爪を振りかぶった。悪魔の跳躍力なら、図書館の外から私の所まで跳ぶのは雑作も無い。避ける事は叶わないだろう。次の瞬間に私に向けて振り下ろされるであろうそれを目にして、私は咄嗟に美鈴を抱え込んだ。
 私の予想通り、次の瞬間には目の前まで跳んで来た悪魔。
 しかし私の予想とは違い、その爪が振り下ろされる事は無かった。
 
「お言葉ですがお嬢様。使い魔にするには、少々趣味の悪い造形だと思うのですが」
 
 顔を上げる。私の頭に僅かに届かない位置で爪が静止している。
 突然悪魔が動きを止めた理由。それは爪を振り下ろす途中の姿勢のまま、正中線に縦に五本のナイフが突き刺さっているからだろう。
 じゃあそのナイフは何か。刺さっていると言う事は、投げた者がいる。ナイフを投げて私を「お嬢様」と呼ぶ者は、私は私の運命の中において一人しか知らない。
 声のした方に振り向くと、そこには指にナイフを挟んだ咲夜が涼しげな顔で立っていた。
 
「咲夜……」
「それにしても不思議ですね。美鈴が傷一つ付けられないのに、たかだか私のナイフ五本で動かなくなるとは」
 
 動きを止めていた悪魔が、再び動き出す。しかし激しく胸を掻き抱くその様は先ほどのような破壊衝動に任せた物ではなく、胸に刺さったナイフにもがき苦しんでいる様だった。
 死んだわけではないみたいですが、とそれを見た咲夜は続ける。それはそうだ。私でも歯が立たないと言う事は、余程力の強い悪魔なのだろう。幾ら退魔の銀ナイフが刺さったからと言え、そうそう死ぬとは思えない。しかし現に悪魔は痛みを感じ、苦しんでいる。私が手も足も出なかったのに、だ。
 
 しばらく呻きと共に暴れていた悪魔だったが、不意に頭上を見上げ、跳躍。図書館の天井を突き破り、欠けた月の輝く夜空へと消えていった。
 紅魔館中を上へ下への大騒動の終わりは、突然図書館に静寂が戻った事でより一層呆気なく思えた。それから数分が経った頃だったか、もう怒りを隠そうともしないパチェが口を開く。
 
「どういう事なのレミィ、ちゃんと説明して」
「え、ええ……だからあの悪魔は私が魔法に失敗して」
「違う、そっちじゃない」
 
 パチェは私の言葉を遮り、咲夜に目をやってから深く溜息をついた。咲夜は僅かに首を傾げるが、私は気が気じゃない。
 溜息の理由。それはただ単に、かつての従者としばらくぶりの再会を果たしたからと言うだけでは無いだろう。そして魔女が重い口を開く。
 
「どうして咲夜がここにいるの」
 
 ――――――――


 
 ネガティブディスティニー・スカーレットエッヂ



 ――――――――
 
 外の世界で忘れられた者が集う世界、幻想郷。その一角、霧の立ち込める湖を越えた所に、とある悪魔の棲む館がある。まぁ、紅魔館と私の事なのだけれど。
 その悪魔にはとても忠実な人間の従者がいた。主の盾となり剣となり、時に主の我侭に瀟洒な答えを返し、時に館の中を纏め上げ。悪魔が館の頂点だとすれば、その従者は館の中心だったとも言える。つまりは咲夜の事なのだけれど。
 どうして過去形で語っているのかと言えば、その従者はもう既に過去の者になってしまったからで。
 どうしてそれを今語っているのかと言えば、その従者を未だに過去の者にする事が出来ないからで。
 つまるところ、私はいつまで経っても咲夜を忘れられずにいたのだ。
 
「と、大方そんな事を考えてるんでしょう」
 
 ある日の夜、そう言って読んでいた本から顔を上げたのはパチェだ。読んでいた……とは言っても、ずっと私に私が考えていた事と同じような事を語りかけていたのだから、いわゆる格好付けのような物なのだろう。それとも頑なに自身の在り方にこだわっているのだろうか。
 ただ私はパチェの話す内容を聞いてはいても理解してはいなかったし、ついでに言えばここは図書館ではない。私の自室だ。いつから動かない大図書館は、友人の部屋に押しかけて説法を聞かせる尼さんになったのだろうか。そんなの、命蓮寺の魔法使いにでも任せておけば良いのだ。
 
「今日もまた、そうやって呆けるのね」
 
 無関係な思考に耽る私を見て、呟く。苛立ちと言うよりは、悲しみ。パチェの呟きが、散らかった部屋に木霊する。
 片付ける者がいなくなったせいで、私の部屋は一歩間違えればゴミ山だ。だいぶ前にこの世を去った白黒の魔法使いの家だって、こうも無気力な散らばり方はしてなかったと思う。片付けようと思った事は、何度かある。けれど私には衣服のしまい場所一つわからなかった。その度に私は自分の無力さを何割か増しで感じて、またベッドへと倒れこんで呆然と時間が経つのを待つだけだった。
 色々な人妖が塞ぎこむ私を訪ねてきた。けれどどうにも感覚が戻らない。視界がぼやけている。フランが悲しそうな顔で部屋を訪ねてきた時にさえ、私は背中に手を回して抱き締める事すらしなかった。出来なかったのだろうか。そんな私が嫌になり、また引き篭もる。
 そんな有様だから、今でも毎日部屋に来てくれるのはパチェだけだった。そのパチェの話もさして頭に入って来ないのだから、つくづく私はダメになってしまったのだと思う。
 
「今日はせっかくの満月だし、気分転換に外に出てみたらどう」
 
 窓の外を見上げ、パチェは私を促す。私がロクな返事をしない事は、元から承知の上だろう。
 パチェにつられて、私も窓の外に視線を向けた。思わず溜息を漏らしたくなる程に丸い月が真っ黒な夜空に浮かんでいる。いつ見ても幻想郷の夜空は綺麗だ。綺麗過ぎて、白々しく感じる事すらある。
 
「……明日になれば出るわ」
「今までにその台詞を何回聞いたのかしら」
「だって、来ないんだもの。明日」
「……ああ、なるほど。確かにこんなあなたのところには二度と明日は来ないわ」
 
 呆れるパチェ、シーツを握り締めて俯く私。
 私は一体いつまで、死んだ従者の事を待ち続ければいいのだろう。
 
「……咲夜が死んじゃった」
「そうね。もう半年は前の事ね」
「美鈴は? フランは? パチェに小悪魔は、みんなどうしているの」
「美鈴は笑顔をムリヤリ作って仕事してる。フランは寂しいのか図書館によく来るわ。私と小悪魔は誰かさんの姉代わりかしら」
「パチェは、辛くないの?」
「辛くないわけがないでしょう。親しい友人が一度に二人も死んだようなものじゃない、これじゃ」
 
 そうして、再びの沈黙。暗い。パチェの手元の魔法のランタンと、窓から差し込む月明かり。そのどちらの光も私には届いていない。
 今の私が周りに迷惑をかけているのは、痛い程にわかっている。けれどその光をもう一度浴びる気には、まだならなかった。
 
「まったく、こんな風になるのがわかっていたんだったら、どうして眷属にしておかなかったの」
 
 パチェの呆れたような物言いは、もう慣れた。呆れられた理由は初めて口にされた事だったけれど。
 けれど、それは私にとっての何よりも重大な運命の分岐点だ。その分かれ道で、私は咲夜と別の道を進む羽目になってしまったのだから。
 
「しなかったんじゃない。……させてくれなかったの」
 
 その夜はハッキリ覚えている。皮肉にも、今日と同じような満月の夜。
 緊張で破裂しそうになる心臓の動きも、咲夜の顔を見る度に揺らぎそうになった決心も、牙を突き立てようとした白い首筋も。全て鮮明に思い出す事が出来る。
 そこで思考を切った私のその言葉を最後に、再び部屋には気まずい沈黙だけが満ちた。
 
 その日も結局、何かが変わる事は無かった。

 私が部屋の外に出れるようになるのにどのくらいかかったのかは、もう覚えていない。
 覚えているのは、部屋の外に一歩踏み出した時の美鈴の嬉しそうな顔。フランの泣き顔。パチェの安堵の顔。私は笑う事も泣く事もしなかったと思う。
 けれど外に出られたからと言って、私が過去を乗り越えられたかと言えば、そうじゃない。
 ただ在りもしない咲夜の幻影を、部屋の中ではなく、館の中に求めるようになっただけだ。それは多分、今も続いている。
 
 そうして、咲夜がいなくなってからどれ程の月日が過ぎた頃だろう。
 温かな笑顔の中での孤独に耐えられなくなった私は、ある日衝動的に、或いは重みに耐えかねた木の枝がいつかは折れるかのように、運命を捻じ曲げる決心をした。
 
 ――――――――
 
 結論から言えば、私のした決心は全くもって愚かな物だったらしい。
 それは、今図書館で痛い視線を一身に受けている事からも明らかだ。
 
「お嬢様、それは……咲夜さん本人が一番傷つくんじゃありませんか?」
「……そうね、そうよね」
 
 美鈴が私に向ける、悲しみと哀れみの篭もった眼差し。
 
「じゃあ、この咲夜は本物じゃないの?」
「…………ごめんなさい、フラン」
 
 フランが私に向ける、期待を裏切られて今にも泣き出しそうな潤んだ瞳。
 
「本当、あなたがこんなにも馬鹿だったとはね」
 
 そして、辛辣な言葉と共にパチェが私を睨み付ける。
 そのどれもに私は反論する事が出来ない。衝動に任せて事を行えば、必ず失敗するとはわかっていた筈なのに。
 
「乗り越えられたとは思ってなかった。けれど乗り越えようとしてるとは思ってた。それがこんな風に裏切られるだなんて」
「ち、ちが……」
「何が違うの? 一応は本物の前で言うのも何だけれど、あなたがしているのはただの人形遊びじゃない」
 
 声を荒げる事の無いパチェの物言いが、しかしより一層鋭く、かつ的確に私の胸を抉る。
 人形遊び。私のした運命崩しは、そんな児戯にも等しい行為だったのだろうか。
 
 私の決心。それは、「私が咲夜を失う」と言う運命を捻じ曲げる事だった。
 あらゆる瞬間で無数に枝分かれする運命の元を辿り、私が咲夜を失う原因になったある一点まで遡る。そこから更に別の運命を辿り、咲夜が存命している「現在」――或いは「幻在」――へと繋ぎ、そこから咲夜をこっちの運命へと連れてくる。それが私のした事だ。
 部屋に描いた巨大な魔法陣は、その為だ。もう何十年と大掛かりな魔法は使っていなかった上に、やろうとした事自体の難易度が凄まじく高かったせいで、あんなイレギュラーな存在まで召喚してしまったのだけれど。結果的に咲夜がここにいると言う事は、魔法自体は成功していたのだろう。
 しかし、せっかく成功した魔法も、召喚した当の本人が本物でないなら虚しいだけだ。加えて私は従者、妹、ひいては親友からの信頼さえも落とそうとしている。私の決心は、果たして何の意味があったのだろうか。
 
「パチュリー様、その辺りでお止め頂けませんか」
「咲夜、でも」
「レミリア様も、決して悪気があってやったわけではないと思うのです」
 
 横から口を挟んだのは、咲夜だった。いつもの私の悪ふざけを庇う、幾年の年月を経ても忘れられなかった口調で。
 ただ、その変わらない筈の口調に、一点だけ。凄まじく違和感を感じる部分があった。
 
「あの、さ、咲夜……」
「なんでしょう、レミリア様」
「私さ、その……『レミリア様』なんて呼ばれてたっけ?」
 
 違和感を感じる部分は、そのまま危惧している部分でもある。頭でわかっていても、一番言われたくない言葉がある。
 けれど咲夜はどこまでもスマートに、かつ残酷に、私の急所を狙う。馴れ初めからして、そうだった。
 
「私が『お嬢様』と呼ぶのは、私の運命にいるレミリア・スカーレットただ一人ですから」
 
 その言葉がトドメだった。
 心臓に白木の杭を打たれたかのような錯覚。脳天を殴られたような衝撃に視界が揺らぐ。
 結局は、全てパチェの言う通りだ。私が衝動に任せてやった事はただの死者への冒涜。この運命に全く別人の咲夜を呼び出して、そこからどうするかだ何て事すら考えていなかったのに。
 ……そう、私は咲夜に会いたいと言うばかりで、それから何をしたいかがわからない。特別な事は望まない、ただ傍にいて欲しい。そんな風に思うのも確かだけれど、それじゃあ本当にパチェの言う通り、ただの人形遊びだ。私は咲夜を、少なくとも人形と思っているだなんて考えたくはない。
 じゃあ、私は咲夜に何を望んでいる? ……その解答がすぐに見つかるのなら、私がこれほどまでに長い苦痛の時間を味わう事も、衝動的に運命を捻じ曲げる事も無かっただろう。
 
「にしても、厄介な事になったわ」
「さっきの化け物ですか?」
「……そうね、アレがなければ簡単に解決したかも」
「つまり、この状況は簡単に解決しないって事ですね」
 
 うな垂れる私を差し置いて、パチェはぶつぶつ呟く。
 それに対して美鈴が口を挟み、咲夜がパチェの捻った物言いを翻訳する。咲夜の生前は幾度と無く目にしていた光景な気がするけれど、何故だろう、ちっとも嬉しくない。
 
「レミィ。あなた、別の運命に接続して……ってさっき言ったわよね」
「……ええ」
「他の運命が絡むと、やっぱりややこしい事になるんですかね?」
「結んである二本の紐を解くのは簡単でも、絡まった三本の紐を解くのは骨が折れるのよ」
 
 心底気だるそうにパチェは目を細めた。そうして現状を極めて回りくどく、わかり辛い言い回しで説明し始める。
 要約すれば、こうなる。それぞれ独立して干渉する事のなかった平行世界が今ここで繋がってしまったから、下手に事を進めるとそれぞれの運命が有り得ない方向に進む。咲夜を元の運命に戻す為には、少なくともあの悪魔をどうにかしないといけない……と、つまりはそういう事らしい。
 今ここにある運命、召喚された咲夜、異形の悪魔。三つの運命を絡み合わせてしまった当事者は私なのだが、しかしパチェの物言いは理解し辛い。自分でもここまで面倒な事になるとは思わなかった。加えてパチェ自身も初めて立ち会うケースだと言う事で、今言った事はあくまでも推測だと心なしか自信無さげだ。
 平行世界のどこかの紅魔館をも巻き込んで、私は果たして何をやっているのだろう。説明途中のパチェにジト目で睨まれる度にそんな事を思う。
 
「……で、あの悪魔は今どこにいるのかしら」
「こっちの運命のスキマ妖怪がどうかは存じませんけど、あんな悪魔が幻想郷で暴れたら紅魔館は大目玉でしょうね」
 
 パチェと咲夜、二人分の溜息が図書館の静寂を揺るがす。
 が、その二人の言い分に異を唱えたのは、まだ傷の治りきらない美鈴だった。
 
「多分その心配は無いと思います」
「どうして?」
「私がさっき食い止めようとした時も、あの悪魔はひたすらお嬢様だけを狙っていたような気がしたんです。無理矢理足止めしようとしたらこの有様ですけど」
「……解せないわね、あんな知性の欠片も感じられない化け物がそんな風に動くかしら」
「でも、おかしいですよ。図書館に来た時だって、お嬢様以外には目もくれずに突進してきたじゃないですか」
「じゃあ、あの悪魔の狙いはあくまでレミリア様だけって事……?」
 
 美鈴の言い分はあくまでも憶測に過ぎない物だが、しかし私もそれは感じていた。
 最初に召喚してしまった時から最後まで、あの悪魔が明確な殺意を持って爪を振るっていたのは、美鈴の言い分を信じるならば私だけだ。紅魔館の中には妖精メイドも数多くいるが、しかし無差別に目に入るメイドを襲う事はしていなかった。私以外は眼中に無いと言う事だろうか。
 しかし、だとすればどうして私を狙うのだろう。あんな悪魔は今まで見た事も聞いた事も無いし、関わりだって召喚した時が最初だ。恨みを買うような覚えは一切無い。そもそも思考した上で私を狙うような知性は感じられなかったから、本能レベルで私を狙っている事になる。
 
「まぁ、自業自得ね。良いじゃない、どうせ滅多な事じゃ死にはしないんだし、事を収束させる為に囮になるくらいはしたら?」
 
 冗談めかして放たれたパチェの言葉は、しかしパチェ自身がちっとも笑っていないせいで冗談には成り得なかった。
 それに乾いた笑いを返し、私は久しぶりに自分の不甲斐無さに自己嫌悪の念を抱くのだった。
 
 ――――――――

「寂しいですか?」

 その美鈴の言葉に、私はどう言葉を返したのだったっけか。

 門番業務を終えた美鈴が、まだ部屋で塞ぎこんでいた頃の私を訪ねてきた時の事だった。
 咲夜がいなくなってから、季節がちょうど一巡りした頃だったと思う。一年前と同じように幻想郷は色付いていくのに、それを隣で眺めていた従者はもういない。
 花壇の世話をしている美鈴が、庭園の花から見繕って作った花束を花瓶に差しながら他愛ない話をする。今日は何の花が咲いた、門から湖で何々をやっているのが見えた……と。それを私は黙って聞き、時折曖昧な相槌を打つ。
 咲夜を失ってから、館の住人がやたらと私の部屋を訪ねてくるようになった。けれどそれは咲夜の代わりになる事は決して無い。数日おきに部屋に来る美鈴とて、それは変わらない。

「今日みたいな曇りの日は、外にいるとちょっぴり肌寒いんですよ」

 今日もまた、美鈴は私の部屋を訪ねてきた。
 私の部屋の椅子に腰掛け、物言わぬ私に向けて話しかける。いつも通りだ。

「門からは氷精が弾幕ごっこやってるのが見えました。彼女はこう寒いとやっぱり元気なんですよね」
「曇りだものね」
「そうですね」

 私と美鈴は、揃って窓の外に目を遣った。隙間無く空を覆った雲が太陽の光を完全に遮っていて、今なら少しくらい外に出ても大丈夫なのかもしれない。もっとも実際に外に出る気は全くしなかったけれど。
 そのまましばらく、沈黙の時間が続いた。雲がいくら動いても、隙間が出来る様子はない。しばらくは肌寒い日々が続きそうだ……なんて、呆けた頭で考えてみる。
 私の淹れた不味い紅茶が冷めるくらいの時間が経って、ようやく美鈴が口を開く。
 
「お嬢様」
「何?」
 
「寂しいですか?」
 
 窓の外に向けられていた筈の美鈴の視線は、いつの間にか私へ向けられる物へと変わっていた。
 寂しいですか、と問われて、どう返答すれば良い物かは悩みどころだと思う。何がどう寂しいのか、それを美鈴は聞いて来なかった。
 けれど、私の本心をそのまま言うのなら。
 
「寂しい」
 
 私の言葉を受けて、美鈴は微笑んだようにも心を沈ませたようにも見えた。けれど嘘はつけない。皆がいてくれれば咲夜がいなくても寂しくないよだなんて、そんな嘘を平然と吐けるようになるには六百年足らずの人生では足り得ないのだ。
 美鈴は美鈴だし、咲夜は咲夜だ。美鈴がいくら世話を焼いてくれても、咲夜の代わりになる事なんて有り得ない。
 
 それでも私が悔しいのは、俯きがちに部屋を去る美鈴に、何も言葉をかけてあげられなかった事だ。

 ――――――――
 
 かつて紅魔館には、日付の変わる頃に主だった住人が集まって紅茶を飲む習慣があった。
 私やフランにとっては夜こそが活動時間であったし、咲夜や美鈴は仕事の合間の貴重な息抜き。一週間に数回は、図書館から小悪魔を連れてパチェもやってきていた。そうして揃ってテーブルを囲み、紅茶を飲みながら時折他愛ない会話を交わす。
 いつから始まったかもわからない、たったそれだけの習慣だったけれども。
 いつまでも終わらないで欲しい、そんなかけがえの無い習慣でもあったわけで。
 夜の茶会は、始まってからは途切れる事なく続いた。時に場所を変え、時に面子を変えても。ただの一度を除いては。
 その毎日の区切り目の僅かな時間が、忘れられた非日常が集まる幻想郷の中で、私たちが日常を実感出来る数少ない一時だった事は間違いない。
 
 けれど、日常は何よりも容易く壊れる。
 前日の夜には何事も無いように紅茶を口にしながら笑い合っていた咲夜は、次の日の夜には日付が変わっても呼びに来る事は無かった。
 それからの細かい事は、余り覚えてはいない。ベッドに横たわって荒く息を吐く咲夜と、枕元のヒビが入った懐中時計。最後に呟いた言葉。私が思い出せるのはそれだけだ。
 ……ああ、あと一つだけ。咲夜がゆっくりとその呼吸を止めた時に、胸の中に残った言葉に出来ない巨大な後悔。今となっては何を後悔していたのかは、苦痛の余りに風化させたせいで忘れてしまったのだけれど。
 
「レミリア様、紅茶が入りましたわ」
 
 そして今。扉越しに咲夜が私を呼んでいる。半壊した部屋で奇跡的に無事だった柱時計が、時刻がちょうど日付の変わる頃だと教えてくれる。
 私がこの運命に咲夜を引っ張り込んで、数時間。図書館での一件の後、今後の咲夜の一時的な身の置き所なんかはパチェらに丸投げして、私は部屋に戻って途方に暮れていたのだった。あの悪魔が暴れまわったせいで、それなりに整ってはいた部屋も、今はまるで混沌に満ちる魔界のようだ。
 そんな時に、扉の向こうから私を呼ぶ声がした。いつかと変わらない茶会の知らせ、いつかと変わらないイントネーション。丸っきり、生前の咲夜と変わらない。呼称の違いを除けば、だが。
 
「どうかなされましたか?」
「い、いいえ、なんでもない」
「なら良いのですが。早くしないとせっかく淹れた紅茶が冷めてしまいますわ」
 
 それは嘘だ。咲夜の能力をもってすれば、一度淹れた紅茶を冷めないままにしておく事なんて造作も無い。つまりこれは、茶会に来いと言う遠回しな圧力に違いない。或いはそこまで高圧的でなくて、単純に茶会を開きたいと言うだけなのかもしれないが。どっちみち、私が行かない理由が無い。
 ただ、戸惑っていた。咲夜が死んでから瞬く間に自然消滅した夜の茶会が今になって復活した事もだが、本来の咲夜とは別人の筈のこの咲夜が、私の記憶の中の咲夜と同じように振舞う事、それが戸惑いに繋がっていた。
 
「すぐに行くから、先に始めてて」
「……承知致しました」
 
 声の震えは悟られてないだろうか。若干の間を置いた後に咲夜の気配が消え、私はほうと安堵の溜息をつく。
 かつて咲夜が私に茶会の始まりを知らせる度、私の心は軋み。揺らぎ。歪な音を奏でた。何故ならそれは安らぎに溢れる日常ではなく、非日常と言う棘を隠し持った日常に変わってしまっていたからだ。
 非日常の中に見出した日常が、私の手でそれもまた非日常へと塗り替えられたあの日。私は大切な物を幾つも失くしてしまった。日常に棘を仕込んだのは、なんて事はない。私自身だ。
 
 始まってから途絶える事の無かった夜の茶会が、たった一度だけ中止になった夜。
 記憶から洗い落とせない、真っ黒な夜空に白い満月が浮かぶその夜は、私が咲夜を眷属にする決心をした夜――私が咲夜に拒絶された夜だった。
 
 ――――――――

 私が部屋から出られるようになってから、少し月日が過ぎた頃の事だ。
 私はフランに一つ、尋ねた事があった。同じ吸血鬼として、同じ紅魔館の住人として、同じ時間を共有した者として。どうしても聞きたい事。
 
「フランは、誰かの血を吸いたいと思った事はある?」
 
 どんな時に聞いたかは、もう忘れた。食事の時だったかもしれないし、図書館での読書中だったかもしれないし、或いは部屋で他愛ない話をしている最中だったかもしれない。
 確実に覚えているのは、フランが私の目をじっと見返した後に交わした二人きりでのやり取りだ。
 
「無いよ。あんまり好きじゃないから」
「それは血が? それとも吸血が?」
「吸血が。なんでそんな事を聞くの、お姉様なんか変だよ」
 
 何でもないよ、とフランに言うと、フランは納得のいかない様子で首を傾げた。それでもそれ以上追求してくる事は無かったから、私たちは再びそれぞれの時間へと戻ったのだ。
 吸血は好きじゃないとフランは言った。私たちにとって、吸血が意味する物は大きい。誰かの血を吸って、自分の眷属にする事。それは私たちのアイデンティティに直結する物でもあるからだ。
 
 けれど、私もフランも食事以外、つまり食料としてではなく誰かの血を吸う事は無い。それは吸血鬼条約のせいでもある。けれど、私たち姉妹が血を吸う事自体から迂遠な事も否定出来ないと思う。
 誰かを強く自分の物にしたいと思う、そんな場面に出くわした事は殆ど無い。それは恐らくフランもだ。私たちには館があるし、眷属でなくても、人間でなくとも頼りになる配下はたくさんいる。
 一番の頼りになる配下は、もう既にいないけれど……と思考を堂々巡りに突入させようとした私だったが、フランの言葉に現実に引き戻された。
 
「ああ、でも、誰かを壊したいって思った事はあるよ」
 
 淀みの無い、無垢な言葉だった。その口調が、言葉その物の残虐性を対比して一層恐ろしい物に思える。
 "目"を握るだけで、何でも壊せる能力。私の妹は、物質界に在ってはいけない能力を持って生きている。そのフランが、能力を行使したくなった事があると言った。
 普段から厳重に使わないように言い付けてはある。けれど、強すぎる能力は何かしらの代償が伴う。その代償が理性と言う名のリミッターだとするならば、いざとなったら私の言葉など意味を為さないだろう。
 
 ――それは私も同じか。いや、私はそれをいけない事だとすら認識出来ていなかったのかもしれない。
 
「……壊す事と血を吸う事は違うでしょう?」
「そうかな? 握り潰すか噛み千切るかだけの違いじゃないのかな」
 
 私が苦し紛れに漏らした言葉を、フランは甘えを許す事のない素直な言葉で叩き潰した。
 そのフランの物言いに、咄嗟に何かを返す事は出来なかった。何も言葉が思い浮かばなかったのだ。
 どんな物でも壊してしまえる目。どんな人間も人間でなくしてしまえる牙。即座に思い浮かぶ違いなんて幾らでもあるけれど、そんな事を言いたいのではないとはお互いに理解している。
 ……ああ、それでも一つだけ言える事があった。

「だって、その能力じゃ心までは握り潰せないでしょう?」

 心は握り潰す物ではなく、噛み千切る物だった。或いは噛み千切ったのは心ではなく絆か。
 私の自嘲染みた物言いから察したのか、フランもそれ以上この話題を続ける事は無かった。

 ――――――――
 
「お姉様、遅い」
 
 ごめんなさいね、と膨れっ面のフランに謝り、私は席に着いた。私が来た事が茶会の始まりの合図となり、誰ともなしに紅茶に口をつけ始める。
 もう幾年も開かれなかった茶会だが、いざ自分の定位置だった席に座ってみれば、驚くくらいに眼がこの風景を覚えている。
 テーブルの真ん中に置かれた少しのお茶菓子と、それに遠慮なく手を伸ばすフラン。対照的に遠慮がちに手を伸ばすのは美鈴と小悪魔。
 パチェは黙って紅茶を飲むだけで、咲夜は僅かに微笑を浮かべながら、空になった各々のティーカップに即座に紅茶を注ぐ。
 目の前に置かれた紅茶の色ですら、記憶の中のそれと寸分違わない。これは本当に、紛い物の咲夜と紛い物の幸せなのだろうか。
 
「お嬢様、どうかしましたか?」
「え? あ、ああ……紅茶、美味しいなって」
 
 不思議そうな目を向ける美鈴の言葉に対して、慌てて取り繕うように紅茶を口にする。
 濃い目に淹れたダージリンに角砂糖は三つ、隠し味にO型の血液を一滴。苦みと甘みの絶妙なバランスまで、口にした途端に舌が思い出す。直に口にするなら B型だけど、料理に使うならO型ね――と、そんな風に言葉を交わして笑い合った場面まで、あっと言う間に頭の中に広がる。
 
「喜んで頂けたなら光栄ですわ」
 
 そう言って微笑む咲夜の、その存在だけが紛い物だ。
 元を正せば同じ運命から枝分かれした同士なのだから、淹れる紅茶の味が同じだってそこまで不思議ではないのだけれど。それにしたって今のこの様は、巻き戻した過去を見ているような違和感を感じる。だって、あの時に同じ味の紅茶を淹れた咲夜は、とうに冷たくなって地面の下にいるのだから。
 
「そう……凄く美味しい。久しぶりに飲むから、余計に」
 
 不安定な心は、呟きとなって口から漏れた。私のその言葉で、僅かに場の空気が引き攣った気がした。
 カチリ、と皿に置かれたティーカップさえもが不安気な音を立てる。
 
「……それもそうですよね。咲夜さん、向こうではまだこのお茶会は続いてるんですか?」
「そうね。今でもまだ続いているわ」
 
 苦しげな笑顔を作って美鈴が咲夜に話しかける。向こう――この咲夜の元々居た運命。そこでは私も、フランも、パチェも、美鈴も、ずっと変わらずに咲夜の紅茶を飲めているんだろう。
 となると、今この瞬間では向こうの紅魔館は初めてお茶会が中止になっているのだろうか。
 ふと思いを馳せると、それは確かな罪悪感となって私の心をゆっくりと押し潰していく。それは向こうの紅魔館に対して感じる申し訳なさもそうだが、かつて過ちを犯した時の過去の惨めな自分が脳裏に甦るのだ。
 出て行った従者は、全てを許して部屋まで呼びに来てくれる。そう自分に言い聞かせ、茶会の定刻を過ぎ、日付が変わり、陽が昇り、そして沈んでもなおベッドの上で膝を抱えていたあの夜。
 その時の、後悔と恐怖と喪失感の入り混じった体の震え。もう二度と思い出したくないと思った筈なのに。
 
「ああ、でも一度だけ中止になった夜があったかしら」
 
 ガシャン、と耳障りな音が響いた。陶器と陶器がぶつかって割れる音。
 その音の発生源になった私の方に皆が振り向く前には、私が手を滑らせて割ってしまったティーカップは元通りになり、つい数秒前と寸分違わぬ色の紅茶が淹れられている。数十年前には何度も繰り返した光景だった。
 けれど、私は以前のように毅然とした態度を取れない。飲んだばかりだと言うのに喉が渇く。顔では平静を繕っていても、手元が震えてしょうがない。再び落としてしまいそうだったので、ティーカップを握るのは諦めた。
 
「咲夜、それはどうして」
 
 どうして中止になったのかしら。
 それは私以外にしてみれば、取るに足らない質問だったかもしれない。
 けれど私にとっては、お茶会が中止になったあの夜は運命の最大の分岐点だ。傷の一番深い部分に不意打ちを喰らって動揺しないわけがない。
 
「……それは、どうして中止に」
 
 それに、もし咲夜の語る「中止になった夜」が私と同じ物を指すのなら、矛盾が生じる。
 咲夜が存命していると言う事は、私があの夜に咲夜に拒絶される事もないと言う事で、そしてそれならお茶会が中止になる事も無い筈だ。
 或いは、私の仮定する運命の筋道は全て間違っていたのだろうか。
 
「どうして中止に、なったのかしら」
 
 声が震える。舌が麻痺したように動かせない。上手く言葉が紡げず、私の質問は途切れ途切れとなって茶会の場に響いた。
 静まり返った空間を揺らす、私の怯え混じりの声。どうか取るに足らない理由であってくれと、強く願う。
 
「中止の理由ですか。それは、」
 
 咲夜が言葉を切る。さして動揺する素振りもなく、流麗に喋っていたその語り口がどうしていきなり遮られたのか。

 その理由は地震だった。何の前触れも無く、突然ぐらぐらと紅魔館が揺らぐ。それも少々の地震ではなく、館全体が軋んで歪な音を立てる程の大きな物。
 
「地震? 図書館の耐震魔法はまだ残ってたかしら」
「パチェ、何を呑気な事を」
 
 揺れは長い。普通は数秒で落ち着く地震が、何故か僅かに感覚を空けて数十秒続く。
 テーブルクロスには零れた紅茶でシミが生まれ、咲夜も元通りにしても意味が無いと踏んだのか、揺れが治まるのを怪訝そうな顔で待っている。
 シャンデリアが揺れて立てる音が、うるさくて仕方ない。これは一体どうした事かと頭上を見上げ、
 
 落ちてきた天井を、咄嗟に避けた。
 
 一瞬前まで私が座っていた椅子は、落下してきた天井によって押し潰されていた。あと少し反応が遅れていたら要らぬダメージを被っていたに違いない。
 朦々と埃が立ち込め、視界が塞がれる。埃に敏感なパチェがすぐに風を起こして埃を吹き飛ばすが、晴れた煙の向こうに見えた魔女は異常に不機嫌そうな顔をしていた。
 パチェだけではない、咲夜も、美鈴も、フランも、そして私も。クリアになった視界で捉えた物に、一様に眉に皺を寄せている。
 天井を突き破って登場したのは、もっぱら現状の悩みの種の一つである異形の悪魔だったからだ。
 
「ああ、なら揺れてたのはここだけなのね。安心だわ」
「図書館まで無事に戻れるかどうかは安心出来ないわよ」
 
 口調とは裏腹に険しい顔でグリモワールを開くパチェ。魔力で練り上げた無数の剣が頭上に浮かび、今にも悪魔を串刺しにせんと待ち構える。
 狙われているにも関わらず、しかし悪魔は相変わらず私だけを隠された双眸で睨みつけていた。鉄仮面越しに睨み合う私たち。ぶつけられる明確な殺意は、グングニルを手にする事で弾き返した。いかに硬い体とて、その蝙蝠を模した薄い翼膜を魔槍で穿てば少しはダメージにもなるだろう。
 美鈴は小悪魔を庇うように背中に回し、フランはその瞳に狂気を宿す。
 
 ……そう、フランは規格外の化け物を目の前にして、あろう事か楽しそうに頬を引き攣らせている。
 理由は単純。遊びに飽きたら、いつでも「目」を握り潰してしまえるからだろう。けれど、今この相手に対してそれを行うのは不味い。
 パチェの言っていた絡み合った運命と言うのがどれほど厄介なのかはわからないが、足止めや捕獲ならまだしも破壊してしまってから何かが起こっては遅いのだ。
 もっとも、足止めや捕獲を出来るほどこっちが優位に立っているわけではなさそうなのだが。
 
「一応念を押すけど。フラン、こいつは壊しちゃダメな相手よ」
「なんだつまんないの」
 
 つまらなそうなのは口調だけで、フランはすぐさま歪な杖を構える。
 敵味方入り乱れる混戦でレーヴァテインを振り回すような真似は、さすがにしないと信じたい。
 
 全員が臨戦態勢を取ったとほぼ同時に、待ちくたびれたかの様に化け物は咆哮を上げた。獣じみたその汚い雄叫びが夜を揺らすかのよう。
 そうして次の瞬間には私の首を刈り取らんと振りかぶられる爪。認識した時には既に目前まで迫っている殺意。
 けれど、それより先に既に動いていた者がいた。宙に浮かべられた無数のナイフが、飛び掛る悪魔の背中に向けて殺到する――
 
「メイド秘技『殺人ドール』」
 
 ――――――――
 
 落ちた天井によって半壊状態になった紅魔館のロビー。茶会の席は台無しになり、私たちは揃って壊れたテーブルを前に立ち尽くしていた。
 
 襲撃してきた悪魔を退けるのは、思っていたよりも遥かに容易だった。拍子抜けだったと言っても良い。
 何せあの規格外な力を持つ筈の悪魔が、咲夜の放った牽制代わりの殺人ドールを喰らった途端にあっさりと逃走してしまったのだから。
 
「伝説の神槍すら凌ぐナイフ投げって、とんだメイド秘技もあった物だわ」
「お褒め頂き光栄ですわ」
 
 恐らくは私に向けての皮肉交じりのパチェの言葉に、咲夜は優雅に微笑み、爽やかで淀みの無い返答をする。
 次いで、二人の視線が私に向けられる。……グングニルを投げる間もなく戦闘が終わってしまったのだから、ある意味仕方ない事だとも思うのだが。
 悪魔が私に飛び掛ってから逃走するまで、わずか十秒。或いはもっと短かったかもしれない。その内の殆どは咲夜のナイフが刺さってもがいていた時間なのだから、実質的な戦闘時間は一秒か二秒あったかどうかだろう。
 やはり、咲夜から受ける攻撃に対するあの悪魔の反応は不可解だ。最初の図書館での一戦だって、それまでは何とも無かったのに咲夜のナイフが刺さった途端に苦しみだした。それでいてさっきの襲撃には特に肉体的ダメージを残していた様子も無い。
 
 考えれば考えるほど、あの悪魔に対する謎は深まるばかりだ。
 
「パチェ、さっきのあいつの様子を見て何かわかった?」
「見れば見るほど強大な悪魔って感じね。それでいて何ら正体に見当がつかない。今まで読んだどの本にもあんな悪魔載って無かったと思うけど、グングニル程度なら簡単に弾き返してしまいそう」
「最後のは余計よ」
 
 いつになく饒舌なのも、いつになく皮肉がしつこいのも、それらも不可解と言えば不可解なのだが。
 
 ひとまずここを片付けませんか、と言う美鈴の言葉に誰とも無く頷き、私は見るも無残な姿になったテーブルの代わりを持ってくる事にした。
 力仕事は咲夜一人に任せるのは荷が重いと言うのと、少し一人になりたいと思ったからだ。吸血鬼の腕力ならテーブル一つ持ち上げるのは造作も無いし、今の館の空気は若干息苦しい。それは私が一人で勝手に息苦しくしているだけなのだが、だからと言ってそれを自覚すれば呼吸が楽になるわけじゃない。
 倉庫へ続く廊下を飛びながら、私は窓の外を見た。夜空に浮かぶ月は、満月と言うには僅かに足りない。昨日も似た形の月を見たから、明日になればきっと満月が見られるのだろう。
 
 ――じゃあ、明後日には月はどうなっている?
 
 かつて咲夜を失ってから、私が閉じ込められていた日々の終わらない満月。いつになっても欠けてくれない月に、私は何度後悔の念に駆られたのかわからない。
 いつだったか、満月が失われた異変を咲夜と一緒に解決しに走った事があった。竹林には今でも変わらず蓬莱人どもが住んでいるし、あの夜の思い出は今でも風化せずに残っている。
 あの夜を共に駆けた従者だけが、いない。
 あの夜の異変を誰も解決しなければ、私は今でも十六夜の月に向き合えていたのだろうか――くだらないと自分に言い聞かせてやめた筈の思考が、今になって再び私の心を揺さぶる。
 
「くだらない」
 
 結局は、以前と変わらない言葉を自分に言い聞かせる。
 
「くだらない……くだらない。本当に」
 
 何度も、何度も、繰り返して。


 倉庫から使っていなかったテーブルを引っ張り出してロビーに戻った時には、既に殆ど瓦礫の類は片付けられていた。
 独りで思索に耽っている間に皆を待たせてしまったかと思ったが、ちょうど屋根の残骸を捨ててきたらしい美鈴が戻って来たから、タイミングは悪くなかったらしい。
 細かい掃除をしていた咲夜と小悪魔はとうに仕事を終えており、フランとパチェを交えて会話に花を咲かせていた。四人が何を話しているのかは見当もつかないが、時折楽しげに笑っているのだから、話題は先ほどの物騒さとは無縁な何かなのだろう。
 その光景を見て、無性に胸が苦しくなった。いつか私が自分の手で壊してしまった光景が、まるでそこにそのまま再現されていたような錯覚を覚えたからだ。
 
「あー、皆さん何話してるんですかー?」
「聞いて聞いて美鈴、こないだ小悪魔ったらね……」
「やめてください妹様ーッ!」
 
 そこに何の違和感も無く美鈴が溶け込んでいく。いつも気楽さ、いつもの気さくさそのままで。
 知らず、体が震えていた。
 自分もそこに混ざりたいと、思ってしまった。
 今なら過去を無かった事にして貰えるんじゃないか、そう思ってしまった。
 震える足で、一歩一歩近付く。口から出る声に怯えが混じっていないかどうか、それだけが不安でならなかった。
 
「フランにこうまで言われたら庇いようが無いわね」
「ああもう、どうせ私は司書業務もロクに出来ない使い魔失格ですよぅ……」
 
 息を吸い込む。会話の輪の中に一歩を踏み出すのは、思ったよりも遥かに勇気が要った。
 いつかのように、自然に振舞えばいい。意を決して最後の一歩を踏み出した。美鈴が自然に一歩下がり、私の入るスペースを作ってくれた。

「あら、ならパチェの所をやめて門番にでもになったらどう?」
「お嬢様、そしたら私の仕事が……」
「仕事をやめたくないなら、塀に新技の試し撃ちをするのはやめたら? こないだまた東側の一部壊したでしょう」
「……何それ、聞いてないわよ」
「ああいえ、あれは事故、そう事故なんです。ですから出来ればそのグングニルをしまって頂ければ嬉しいなーなんて」
 
 狼狽する美鈴を見て、クスリと咲夜が笑い声を漏らした。その微かな笑いは小悪魔に伝染し、フランが噴き出し、パチェも頬を緩ませて顔を逸らして。
 いざ言葉を口に出してみれば、誰も私を拒絶する事は無かった。何て事はなく会話は流れ、私がグングニルを仕舞うと美鈴も頭を掻いて誤魔化すように笑う。
 それに私も笑っていた。笑顔を作る事なく、無意識に頬が緩んで笑い声を上げてから、私は私が笑っている事に気が付いたのだ。
 
 日付が変わって、今は半刻ほど経った頃だろうか。シャンデリアの壊れたロビーで、月明かりだけを光源に私たちは談笑する。
 紅茶もお茶菓子も、テーブルすらセッティングされてない無惨なお茶会だけれど、そこで久し振りに私は心から笑う事が出来た気がした。
 
 ――――――――
 
 パシン、と。
 甲高い音を部屋に響かせてから、咲夜は一切表情を変えずに頭を下げる。
 
「ご無礼をお許しください、お嬢様」
 
 一向に頭を上げない咲夜を視界に捉えながら、しかし私は今の状況を認識出来ずにいた。
 
 昨日の夜に私の部屋を飛び出した咲夜は、今日になって陽が沈んでから館に戻ってきた。
 咲夜が帰ってきたと言う知らせを妖精メイドから聞いた時には、私は安堵を覚える反面不安にもなった。昨日の一件があった手前、一体どういう顔で咲夜に会えば良いんだろう、と。
 やがて咲夜がやって来る。いつものように扉をノックした後、私が震える声で入室を許可した後にはいつもと変わらない足取りで部屋に入り、真っ直ぐに私の許まで歩いてきて、
 
 ――私の頬を、思い切りひっぱたいた。
 
 余りにも予想外な咲夜の行為に対して、私は衝撃に任せて横を向いたまま、目を見開いて動きを止める事しか出来ない。
 そんな風に私が硬直しているのをてんで意に介さない様子で、咲夜は謝罪の言葉を吐いて頭を下げた。その声は心からの謝罪にも聞こえたし、感情を孕まない機械的な物にも聞こえた。咲夜の気持ちが、わからない。
 客観的に事の流れを整理するのは、簡単に出来た。
 けれど咲夜の心を想像するのは、もう私には踏み込んではいけない領域に思えた。
 
 人間の張り手くらい、吸血鬼からしてみれば大したダメージではない。
 けれど私は、「咲夜が」「私に対して」「手を上げた」と言う事実に対して、後悔と困惑以外の感情を抱く事が出来なかったのだ。
 震える手で、叩かれた部分に触れてみる。まるで日光が当たって皮膚が焼け爛れているかのように、頬が熱を持っている。
 
 私がした事は、咲夜をそこまで失望させ、怒らせてしまう事だったのだろうか。いや、事実そうだったのだろう。
 人間として死んでいきたいと言う咲夜の望みを、私が勝手に捻じ曲げてしまおうとした。それが間違っている事は、わかっている。
 その間違いも、咲夜なら受け止めてくれると思っていた。けれど、そんな私の考えはやっぱり独りよがりだったのだ。
 
「顔を、上げて。咲夜」
 
 私の言葉を受けて、咲夜は下げていた頭を上げた。声の震えを隠す事は出来そうになかった。
 いつもはそんな事は気にならないのに、咲夜のメイド服は所々に皺が目立つ。寝ていないのか泣いていたのかはわからないけれど、僅かに目も腫れぼったい気がする。毅然とした姿勢で真っ直ぐに立っていても、その姿は普段の瀟洒さからはかけ離れた物のような気がした。
 一晩どこで過ごしていたのだろうか。それは多分、今聞くべき事じゃない。重要な事は、それじゃない。
 
「……怒ってる、よね?」
「はい、先ほどまでは」
 
 怯えを孕む私の質問と、淀みの無い咲夜の返答。
 部屋に入ってきた時には無表情だった咲夜の顔も、今はもういつも通りの笑顔だ。
 それが尚更、恐ろしい。
 
「あ、あの、私………」
 
 何かを言おうとして、言葉に詰まった。何を言うべきか、何を言いたいのか、頭の中で言葉と言う言葉が出鱈目に絡み合って解けてくれない。
 言葉は出てこないのに、口が動かない代わりに涙腺が緩む。見上げる咲夜の顔が次第に滲んでいって、言わなければいけない何かも忘れて私は涙を流してしまった。
 違う、今私がするべきなのは泣く事じゃないのに。それはわかっているのに、体が言う事を聞かない。
 しゃくりあげて嗚咽を漏らす私の背中を、咲夜の柔らかい手がゆっくり擦る。
 
「……お茶会の用意をしますので、またすぐに呼びに来ますね」
 
 そう言った咲夜の微笑みも、視界が滲んでちゃんと見れなかった事。
 長い時を経た今でも、後悔している。
 
 ――――――――
 
「美鈴!」
「ハイッ!」
 
 私の声に美鈴が応じ、力強く地面を踏み鳴らす。
 それと同時に虹色のオーラが間欠泉の様に湧き出て場に満ち溢れ、私を追い回す悪魔の姿勢を僅かに崩した。
 その時には私はもう力の溜めを終えている。凝縮した魔力を爪先に集め、標的を引き千切る全身全霊の一撃を振るう。
 
「虹魔――」
 
 姿勢を崩した悪魔の、その不自然に細い体躯を粉砕する勢いで。
 私は掲げた右腕を思い切り振り下ろした。
 
「――『虹色ストレッチ』!」
 
 私と美鈴の、寸分の狂いも無い完璧な連携。咄嗟に宣言した連携名もバッチリ決まり、私は右腕に残る僅かな痺れと共に確かな手応えを感じていた。
 観戦に徹しているパチェと小悪魔は肩を震わせながら後ろを向いたが、一体どうしたのだろうか。
 しかし、今は傍観者に気を配っている余裕は無い。特に私は常に標的の悪魔のターゲットなのだから、油断した次の瞬間には頭から壁に叩きつけられてもおかしくないのだ。
 即座に標的に振り返ると、やはり悪魔は倒れてはいなかった。衝撃で体勢を崩してはいた物の、その体には深刻なダメージを与えられた気配は微塵も無い。
 ゆっくりと私に向き直って、私と同じように右腕を振りかぶる。その爪に腕が紅黒く変色する程の魔力が集まるのを見て、私は背筋に冷たい何かが伝うのを感じた。
 が、その直後にナイフが肉に突き刺さる音が聞こえた。トトト、と小気味よく悪魔の背中をナイフが穿つと、その腕に集まっていた魔力も即座に雲散霧消する。
 後はもう、お決まりのパターンだ。悪魔は急に取り乱した様に暴れだし、天井を破壊して夜の闇に消える。
 悪魔が突き破った天井を見上げると、雲一つ無い星空が見えた。
 
「……結局咲夜のナイフだけね、ダメージになるのって」
「お姉様が弱いだけなんじゃないのー?」
「レーヴァテインを片手で振り払われておいてそれを言うか」
「全力じゃないもん、手加減したもん」
 
 ニヤニヤしながら近寄ってくるフランに軽口で応じながら、私は頭を掻いた。結局今日もまた、悪魔の撃退は咲夜頼みになってしまったからだ。
 しかし、そうは言ってもそもそも攻撃が通じないのだから仕方ないだろう。それとも私たちも銀ナイフよろしく退魔グッズを振りかざすべきだろうか。吸血鬼のプライドが許す筈も無いが。
 
 昨夜に引き続き、今日も悪魔はお茶会の時間に襲撃してきた。テーブルは割れティーカップは引っ繰り返り、急ピッチで応急修理を施した天井には再び巨大な穴が開いた。修理担当の妖精メイドはさぞかし涙目な事だろう。
 昨夜にあらかじめ話し合っていた事だが、今回は即座に咲夜が出張るのではなく、私や美鈴、フランがしばらく戦闘を続けて様子を見ようと言う事になっていた。
 動きや外見的特徴から正体を探れないか気になるとはパチェの談だ。正体がわかれば対応策がわかるかもしれないし、それはあの悪魔を元の運命に送り返す手がかりになり得る。そうすれば咲夜もまた、元の運命へと戻る事が出来るのだ。
 私もまた、私の事しか狙わない悪魔の事が気になっていた。果たして何故私に執着するのか、心当たりが無いのに付け狙われるのは気分が悪い。例えそのおかげで私以外の誰も被害を被っていないとしても。
 
「で、パチェ。何か手がかりは掴めたの?」
 
 私の言葉に、パチェは眉に皺を寄せながらも頷いた。

「手がかりと言うか、推測? 正体の特定には程遠いかもしれないけど」
「何でも良いわ、ゼロよりはマシよ」


「あの悪魔は、多分吸血鬼の類じゃないかしら」


 へ? と私は何とも間抜けな声を上げた。見ればフランも驚いたように口を開け放している。
 吸血鬼……と言えば、当たり前だが私やフランと同族だ。狭い種族コミュニティの中、あんな化け物がいるのならとっくに知れ渡っているだろう。
 
「吸血鬼って、いや、あんなのいるなら知ってるわよ」
「真祖の類とは限らないじゃない。血を吸われた人間のイレギュラーとか、キメラみたく人工的に作られた吸血鬼とか」
「……だとすれば、他の運命にいる同族は一体何を考えているのかしら」
 
 頭が痛くなってくる。仮にでも、私とあの悪魔が同じ種族だとは思えないし思いたくないからだ。
 あの悪魔が、吸血鬼だって?
 
「じゃあ、そう考える理由を聞かせて貰いましょうか」
「翼膜の形状、非常に高い身体能力、弱点の銀ナイフ、昼間は襲撃して来ない」
「どれも決定的って程じゃないわね」
「そうですか? 私は中々良い発想だと思いますが」
 
 横から口を挟んだのは咲夜だ。現状、唯一あの化け物に対応出来る存在。
 意見を無視する事が出来ないのは、私もパチェも言葉を交わさずとも理解していた。
 
「根拠は?」
「所々、レミリア様にそっくりじゃないですか」
「どういう所が」
「ナイフが刺さった時の手応えとかです」
 
 冷静な顔で何とも嫌な事を口にする咲夜。向こうの世界の私は、ひょっとしたら日々従者の反逆に怯えているのかもしれない。
 ただの弾幕ごっこの範疇なら幾度もナイフを身に受けた事はあるが、その程度である事を祈る。
 
「他には動きの細かい部分とかですかね」
「例えば?」
「爪の振りかぶり方とかです。右手をこう振り上げて、同じタイミングで力を溜めて……」
 
 更にそこに美鈴が会話に加わる。武人の性か、攻撃の形がどう似ているかを身振り手振りを付け加えて説明する。
 フランがぽつりと「虹色ストレッチ……」と呟くと、再びパチェと小悪魔は口に手を当ててそっぽを向き小刻みに震えだした。美鈴の解説はとてもわかりやすいと思うのだが、何がそんなにおかしいのだろうか。
 二人は放っておくとして、美鈴の説明を参考に考えてみると、確かに吸血鬼説が信憑性を持ったように感じられる。咲夜の話は内容は心穏やかではないにしても真剣その物な口調で言っているし、私の動きは身体能力を活かした吸血鬼の戦い方その物だと思っている。美鈴の話を聞く限り、同じ吸血鬼なら私とあの悪魔の動きが似てくるのも自然なのかもしれない。
 
「じゃあ、一応はその仮説を元に対応策を取ってみましょうか」
 
 私のその言葉に、パチェが面倒臭そうに頷いた。ともあれ、本当に吸血鬼なら弱点だけは幾らでもある。パチェの二百年近い研究の成果があれば、弱らせた隙に元の運命に送り返すくらいは何とかなるかもしれない。
 ようやく事が一段落する兆しが見えて、私は安堵の溜め息をつくと同時に咲夜を見た。咲夜が私に視線を返して微笑む。事が解決したら、咲夜も元の運命に帰る。今度こそ咲夜には二度と会えなくなる。
 例え、それが互いにとっての紛い物でも。
 私は、自らの手で喪失を繰り返す。
 
 ――――――――
 
 夕方、いつもよりだいぶ早く私は目を覚ました。
 既に陽は傾きつつあり、紅魔館から見える湖は夕陽に照らし出されて輝く。太陽は私の天敵だし決して好きにはなれないけれど、時折こう言った美しい風景を目にするのは、何と言うか、自分の趣味と合わない芸術の傑作を見ているような気分になる。
 再びベッドに横になるには遅く、しかしはしゃぎ回るにも億劫な時間。何とも中途半端な時間に目を覚ましてしまった物だと思うが、さて何をしようか。
 図書館。……今日の夜の襲撃に備えて、パチェが準備をしている。邪魔は出来ない。
 地下室。……恐らくフランはまだ寝ている。
 外出。……と言ってもそんなに時間が無い。
 服を着替えながらあれこれと行動計画を立ててみるも、どれもこれもピンと来ない。
 そうこうしている間に陽は殆ど沈んでしまった。山の向こうに太陽が消えるのを見届けてから、私は外から私を見つめている物に気が付いた。
 
 ――そうだ。たまには咲夜に会いに行こう。
 
 それは結構な名案に思えた。ここのところは自分に引け目を感じて墓参りも碌に出来なかったけれど、今なら少しは昔のように咲夜と向き合える気がする。
 すぐさま部屋を出て、広大な庭の一角へと向かう。廊下を早足で進み、丁寧に整えられた花畑を抜け、豪華絢爛な庭園の片隅にある、瀟洒で完全だった彼女とはまるで縁遠い地味な真っ白い墓へ。
 石のプレートが置いてある以外には「十六夜咲夜」の名前すら刻まれていない、質素と言うには虚無過ぎる咲夜の墓。何も知らない者からすれば、ただ庭の片隅に場違いな石板が置いてあるようにしか見えないだろう。
 
 それでもこの下には咲夜が眠っているのだ。
 
 今までに何度ここを訪れては涙を流していただろう。部屋から出られなかった時には窓の外から墓を見つめ、部屋を出た後には日傘を広げて朝から晩までここにいた事もあった。その日傘を代わりに持ってくれていた誰かさんは、もう冷たくなって目の前の石の下だ。
 今でもまだ、何度もここを訪れる。日課と言っても良い。私が咲夜から離れられる日はまだ程遠い。もしかしたら永遠に来ないかもしれない。それでも構わないと思ってしまえるから、きっと私の中の抜けたパーツはもう埋め合わせる事が出来ないのだろう。
 けれど、石は何も語らない。私が話しても話さなくても、笑顔一つ返してはくれない。名前の文字一つさえ、咲夜は私には残してくれなかった。
 何度来ても、襲ってくる寂寥感に慣れる事は無い。嗚咽のように、かつての従者を呼ぶ声が滲み出た。
 
「咲夜……」
「お呼びですか」
 
 声に驚いて振り返った。そこにいたのは咲夜だった。紛れも無い現実の、それでも私にとっては本物足り得ない咲夜が私のすぐ後ろに立っていた。
 
「いつからそこに」
「たった今ですわ」
 
 私を見る咲夜の瞳は一切の淀みが無い。同じ瞳だった。
 ともすれば、生前の咲夜の姿と重ね合わせてしまいそうになるくらいに。
 
「そう」
 
 追い払う気には、なれなかった。
 陽の落ちた庭園の片隅に沈黙が満ちる。私と咲夜と咲夜。三人の無言の時間には、不思議な事に気まずさは無い。
 
 咲夜は果たして、別の運命の自分が眠る墓を見て何を考えているのだろうか。
 一歩運命を間違えれば、ここに眠っているのはこの咲夜だったもしれない。いや間違いなく咲夜なのだけれど咲夜ではない。運命とはかくもややこしくて、そして不愉快な物だ。少なくとも、自分の想いを間違った方向に吐き出させる程度には。
 
「ねぇ咲夜」
「何でしょう、レミリア様」
 
 一つ、気になっている事があった。
 
「あなたはやっぱり、人として死ぬつもり?」
 
 咲夜が死んだ時から、ずっと気になっている事だ。

「そう……ですね。これまで人として生きてきましたから、最後までそれを貫きたいと思います」

 僅かに咲夜の歯切れが悪くなった気がした。一瞬言葉を詰まらせたように見える。
 すぐに元の物言いに戻ったけれど、やはりこの話題は私たちにとってのタブーなのだろうか。

「それはどうして?」
「どうして、と言われましても……」
「じゃあ、もっと具体的に言い換えましょうか」

 きっと私がしている事は、単なる恥の上塗りだ。
 私の能力でも、咲夜の能力でも、過ぎ去った時間は巻き戻せない。それなのに今更こんな事を知ろうとしても、自分で自分の傷を抉るだけなのに。
 それでも、勝手に言葉を吐き出す口を止める事は出来なかった。しなかっただけなのかもしれない。

「人として死ぬ事が、あなたの『お嬢様』に仕え続ける事よりも大事な理由を教えて」
 
 空気がだんだん重苦しくなっているような気がして、否、間違いなく重苦しい空気が私たちを取り巻いているけれど。それでも私は無理に笑顔を作り出して咲夜に向けた。
 咲夜は変わらず無表情だけれど、その瞳が僅かに彷徨っている。何か思うところがあるのだろうか。
 
「だって……」
「だって?」
「だって、私が少しずつお嬢様その物になっていってしまってるんですよ」

 咲夜のその言葉の意味はよくわからなかった。けれど咲夜は、私の事を意に介する様子もなく話し続ける。

「私は私だし、お嬢様はお嬢様です。けれど、おこがましいかもしれませんけれど、だんだんお嬢様が私に依存してきている。そう思うんです」

 私がいないと何も出来ないお嬢様なんて、見たくないんです。
 そう言って咲夜は言葉を切った。今私は何を言うべきなのかがわからない。咲夜に何と言えば良いのかもわからない。
 依存。咲夜が私の事をそう表現した。そしてその表現は、そのまま過去の、或いは今の私にも当てはまる。咲夜がいなくなった後に引き篭もり、未練を断ち切る事も出来ず、挙句の果てにこの咲夜を呼び寄せてしまった。それを依存と呼ばずして何と言う。
 どこかの運命にいる私も、きっと私と同じ道を辿る。結果的に運命を捻じ曲げて惨めな気分を味わうかはわからないけれど、いつ終わるとも知れない喪失の苦しみにもがき続けるんだろう。

「……だから、人として死ぬ事を選ぶのね?」

 搾り出すような声の私の問いかけに、咲夜は小さく首を縦に振った。

「そう、そうなの。それなら……良くはないけど。でもずっと私は不安なのよ」
「不安?」
「そう、不安。本当は咲夜は私から逃げたかったんじゃないか。別れる事が出来て幸運だった、そう考えてるんじゃないかって」
「……それはちょっと同意しかねますが」
 
 僅かに表情を曇らせる咲夜に、苦笑いを返して頷く。
 わかっている。咲夜は最後まで心から私に忠誠を誓ってくれていた。
 咲夜を信じられなかったのは、咲夜から逃げたがっていたのは、本当は私の方だ。
 
「私がね、咲夜の気持ちを台無しにしたのよ。いつだったかの満月の晩」
「何があったんですか?」
 
 心なしか、咲夜の声も震え始めていた。
 視線を咲夜の墓に戻す。言葉にするだけでも、胸が苦しい。
 けれど、言わないと。この咲夜には、きっとそれを聞く権利がある。
 
「血を吸おうとした」
 
 刹那、冷たい風が駆け抜けた。まるで世界が私たちを冷たく嘲笑ったかの様だった。
 その言葉が日暮れの庭園の静けさを不自然に揺るがして、私は苦笑いを保ったまま俯く。
 あの夜の事を事細かに誰かに話す決意をしたのは、初めてだ。
 
「咲夜が私の傍にいるって言うのが、もう当たり前だと思ってたんだ」
 
 太陽はもう隠れたのに、日光で焼かれているかのように肌が痛い。
 
「けれど咲夜が人間である限り、それが当たり前じゃなくなる時が絶対に来る。別れこそが当たり前になる。私はそれが耐えられなかった」
 
 違う。これは私の内側から来る痛みだ。
 
「だけど、あの時咲夜は私に抵抗した」
 
 心臓を刺し潰されているような痛覚を堪えて、何かに憑かれているとしか思えない勢いで言葉を紡ぐ。
 ああ、やっぱり私も咲夜に依存していたのだ。

「嫌です、と。やめてくださいお嬢様、と。その声が、今も耳に残って離れない」
 
 咲夜は何を言う事もなく、ただただじっと私に視線を向けていた。
 侮蔑も哀れみも無い、純粋に私だけを見る瞳だった。
 
「結局、私は弱いんだ。運命を操るだなんて謳っておいて、『当たり前』一つ覆せやしない」
 
 その瞳を正面から見返す事さえ苦しくなって、私は逃げるように視線を空に向けた。
 自然と、笑いが零れた。自嘲と自虐に満ちた情けない笑い。ハハ、と乾いた声を虚空に響かせる。
 
「咲夜だって、私みたいなのと出会ったのが間違いだったんだ。ハナから私なんかと出会わなければ、もっと人間に囲まれた人間らしい最期が送れただろうに」
「『お嬢様』」
 
 私の懺悔か愚痴かわからない独白を遮って、ようやく咲夜が声を発した。
 その呼び方が余りにも本物の咲夜とそっくりだったので、思わず私は振り向いた。自己嫌悪溢れる笑みと共に。
 
 聞き覚えのある甲高い音が庭園に響く。
 
「……『私』だって、そんな事は考えていなかったと思います」
 
 吐き捨てるようにそう言って去っていく咲夜の後姿を見ながら、私は遅れてやってきた頬の痛みを感じる。
 理解した。せっかく取り戻したと思ったのに、どうやら私はあの夜と同じく、再び咲夜を失ってしまったらしい。
 どうすれば良いのかわからなくなって、咲夜の墓に目を向けた。冷たくなった咲夜は、それでもやっぱり何も言ってはくれなかった。
 
 ――――――――
 
 ――お茶の用意が出来ましたわ。
 
 私の頬を張り飛ばしておいて、その数時間後には何事も無かったかのようにお茶会の始まりを告げに来る咲夜。
 どんなに運命が変わろうとも、このやり取りだけは変わらないらしい。何度繰り返しても慣れはしないけれど、もう自己嫌悪すら通り越した。笑いを堪えながら、すぐに行くとだけ返事をする。扉の向こうの気配はすぐに廊下の向こうへ去っていった。
 今にも溢れ出しそうな笑いを噛み殺しながら、ベッドに背中から倒れこんだ。見上げる天蓋が次第に朧になってくる。笑いの代わりに溢れ出る涙が、妙に熱い。
 
 ロビーに向かう廊下を一人歩く。妖精メイド一人いない夜の廊下は、私の歩く音以外は何も聞こえない。
 飛べば速い。皆を待たせている現状、少しでも早く向かうべきだろう。けれど私は、少しでも現実から目を逸らす事を選んだ。
 結局最後の最後まで咲夜に拒絶されたままだなんて、そのまま二度と会えないだなんて、苦しすぎる。狂ってしまいそうだ。それが自業自得だから、尚更。
 お茶会が始まって、日付が変わる頃にあの悪魔が襲撃してきて、パチェが魔法で弱らせた隙に私が元の運命に送り返して、それで一件落着。咲夜は元いた紅魔館に帰る。それが私の『運命』で、私が咲夜に見放されるのが『当たり前』なんだろう。
 
「お姉様、遅い」
 
 そして、私はその運命に抗う気も失せた負け犬だ。悪魔は私だけを狙っていて、毎回現れる時間は同じ。それなら、お茶会を開かずに一人であれと決着を着ければ良いだけではないか。
 けれど私はロビーに辿り着いた。咲夜に嫌われたままなのは、辛い。だけど私は咲夜がいないと何も出来ないし、私一人ではあの悪魔を倒す事も出来ない。ただボロ雑巾になるまで嬲られて終わりだ。
 
「……ごめんなさいね」
 
 だから私は考えるのをやめた。一人では何も出来ない、運命一つ変えられない、血も吸えない無力な吸血鬼もどき。そんな私が咲夜を幸せに出来る筈が無かった。
 咲夜を幸せにするのは、私よりも優秀などこかのレミリアだ。『お嬢様』失格な私は、ただ咲夜を元の運命に送り返せば良い。
 私が来た事で皆が紅茶に口をつけるけれど、私は一口も飲む気になれなかった。ただただティーカップの中で揺らぐ紅茶を見つめ、来るべき時を待つ。
 
 やがて、もう慣れた震動がロビーを揺らす。
 
 美鈴が紅茶を一気に流し込んで立ち上がる。
 フランは勿体無さそうにティーカップを見つめてから、諦めたようにソーサーにカップを置く。
 それらのカップやお茶菓子が瞬時に消えて、咲夜が臨戦態勢を取る。
 小悪魔が取り出したグリモワールをパチェに手渡し、面倒臭そうにパチェが溜め息をつく。
 手荒い応急修理をしただけの天井の向こうには、今にも天井を突き破って落ちてこようとする悪魔が見える。
 
 もしも、あの夜に私が血を吸おうとしなければ。
 もしも、私が咲夜の思いに対して理解を示せたのなら。
 もしも、出逢った夜に咲夜を自分の従者にしようと思わなければ。
 
 ――もしも、咲夜の事を少しでも理解しようとしていたら。
 
「終わりにしてやる」
 
 椅子を蹴飛ばし立ち上がる。天井を見上げ、ありったけの力で悪魔を見据えた。
 抱く激情の全てを籠めて、グングニルを握り締める。抑えきれない感情が迸り、神槍が紅い火花を散らす。
 それは自分の弱さに耐え切れないだけの、全身全霊の壮絶な八つ当たりだった。
 
「―-今夜で全部、終わりにしてやるッ!」
 
 天井目掛けて、全力でグングニルを投げつけた。一筋の紅い閃光が走り、天井を破壊して悪魔の体に突き刺さる。
 けれど次の瞬間には何事も無かったかのように悪魔はグングニルを引き抜いて握り潰し、崩れていく天井を思い切り踏み抜いた。
 轟音と共に落下してくる巨体。
 真っ二つに割れて破片を撒き散らすテーブル。
 私に向けられた、鉄仮面越しの濁った瞳。
 その瞳を真っ向から睨み返す。この悪魔が発するのと同じくらいの殺意を瞳に籠める。この悪魔を叩き返して咲夜と別れたら、すぐにでも自我を失う位に狂ってしまえるように。
 
「三分よ」
 
 パチェがグリモワールを開きながらそう口にした。
 早くも展開されつつある魔法陣の中で、色とりどりの魔力がうねり、絡み合い、複雑な形を為していく。
 
「三分で動きを止めるだけの魔法が出来る。それまで持ち堪えて」
 
 返事をするのも億劫だった。
 視線を悪魔から離す事もなく、首を僅かに縦に振るだけ。
 
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッッッ!!」
「うああああッッ!!」
 
 夜の闇を引き裂かんとする咆哮に負けじと声を張り上げ、爪をかざして殴りかかる。
 即座に飛んできた太い腕の一撃に私の体は宙を舞う。きりもみ回転しながら壁に叩きつけられたが、血反吐を吐く時間すら惜しい。瓦礫を弾き飛ばして再び飛び掛った。
 斬っても衝いても殴っても、相変わらず怯む素振りすらない。私の無力さを見せ付けるかのように。
 斬られて衝かれて殴られる度、私の体は簡単に傷ついていく。私の無力さを見せ付けるかのように。
 それでも、体を即座に再生して再び挑みかかる。再生する傍から肉を削り取られ、骨をへし折られる。それでも私は死なない。どんなに醜い姿になっても、咲夜のいる場所まで辿り着くには程遠いのだ。
 視線の隅で捉えたフランが怯えたような顔をしていた。美鈴は加勢しようにも出来ないのか、所在なさげに歯噛みしている。小悪魔はただただ唖然とするばかりだ。
 咲夜は、咲夜だけは、いつも弾幕ごっこをしていた時と変わらない顔で、ただじっと私と悪魔の闘いを見つめていた。
 そうだ。それでいい。
 
「レミィ!」
 
 パチェの声に応え、大きく飛び退いて距離を取った。
 すぐさま距離を詰めようと悪魔が突進してくるが、その時にはもう必要な魔力は手の中にあった。
 
「『ミゼラブルフェイト』ッ!」
 
 魔力で練り上げた無数の鎖が、何重にも悪魔に絡みついて動きを止める。
 私一人では即座に破られてしまいそうな力量の差があるが、悪魔が鎖を砕くよりも、パチェの魔法が鎖ごと悪魔を包み込んだ方が早かった。
 オレンジ色に輝く水球の様な物が、まるごと悪魔を覆っている。その中で悪魔は、僅かに動きを鈍くしてもがいていた。
 
「後は任せたわ。そんなに長くは保たないから早くして」
「わかってるよ」
 
 そのまま私は、鎖を通じて触れた悪魔の運命を辿る。
 どこから来たのかもわからないイレギュラーな存在、正確に元の運命に送り返すにはこの悪魔の過去を辿る必要があった。
 私の頭の中で、どんどん巻き戻されていくこの悪魔の運命。過去を探る旅の中、時折ノイズを走らせながらもこの悪魔の視点で破壊と暴虐の日々が再生される。
 
 本能に任せたまま、廃墟と化した洋館で一人暴れている光景。もう人がいる気配はしない。更に辿る。
 古びているものの、かろうじて形と自我を保った洋館と悪魔。……この洋館は紅魔館か? 更に辿る……。
 誰もいなくなった紅魔館の中を、一人歩く悪魔。だんだん、嫌な予感が湧き上がってくる。更に辿る…………。
 沈んだ空気の中、美鈴やフラン、パチェと会話をする悪魔。予感は確信になりつつあった。更に辿る………………。
 
 次の運命を見た瞬間、ブツリ、と。突然見ていた世界が消え去った。
 
「レミィ、何してるの!? もう保たない!」
 
 パチェの悲痛な声に答える事も、再び運命を見る事も出来なかった。
 震えながら顔を上げる。ミゼラブルフェイトはとうに砕かれ、水球の中で激しく暴れる悪魔がいる。
 まさか、この悪魔は――
 
 次の瞬間、ガラスが割れるような音を立てて魔法が破られた。
 咲夜がナイフを投げて動きを止めるよりも早く、振り回された悪魔の拳に私は吹き飛ばされる。
 さっきまでは殺意に燃え上がっていた心も、今は立ち上がる気力すらない。薄れていく意識の中、見てしまったこの悪魔の過去の光景だけが視界に広がっている。
 
 私が最後に見た悪魔の運命。それは悪魔自身がこの悪魔に立ち向かっていく光景。
 視界の隅に映った、怯えるフラン。困惑する美鈴。魔法を唱えるパチェ。
 ただ一人、咲夜だけが見えなかった。けれどもう、間違いないだろう。
 
 ――この悪魔は、未来から来た、私の成れの果てだ。
 
 ――――――――
 
 夢を見ていた。もう何度も繰り返し見た夢だった。


 ボロ雑巾になるまで嬲られた体は、夢の中だからなのかもう再生が済んで何とも無かった。
 もっとも夢の中だから現実ではどうかわからないのだが、いっそこのまま夢の中にいられるならそれでも良いと思う。
 
「お嬢様、咲夜さんが、もう……」
「今行くわ」
 
 前言撤回だ。この夢の中に閉じ込められるのだけは絶対に嫌だ。
 前日の夜には何事も無かったかのようにお茶の用意が出来た事を知らせに来る咲夜が、今日に限ってはベッドで寝たきり、起きて来る気配が無い。
 何度も夢に見た、私の中の何かが永遠に失われた日。
 
 この夜は、咲夜が死んだ夜だ。
 
 私が起きても咲夜がやって来なくて、代わりに美鈴が咲夜の様子がおかしい事を知らせに来た後、私は何をしていたのだったか。
 来るべき時が来た、と感じたのだったか。
 最後に言うべき言葉を捜していたのだったか。
 それとも――今ならまだ間に合うと、吸血衝動が鎌首をもたげたのだったか。
 
 そのどれもが間違いだった。
 もうすぐ咲夜が死ぬと言う現実が受け入れられずに、けれど何をすれば良いのかも思い浮かばずに、再び美鈴が呼びに来るまで、ずっとベッドの上で膝を抱えて震えていた。
 最後の一日を、死に行く従者の部屋で共に過ごそうとすら思えなかった。顔を見るのが怖かった。泣けば良いのか笑えば良いのか、それさえも自分では決められない。
 思えばこの時から、私は現実に抗う事を忘れていた気がする。いつもの夢と全く変わらない情けない行動を取る私を、どこか醒めた私がいやに冷静になって観察している。
 そして美鈴が呼びに来て、私は鉛のような足を引き摺るようにして咲夜の部屋に向かう。残された時間はもう、砂時計の最後にこびりついた数粒ほどしか残されていないと言うのに。
 それでも現実からは逃げられないように、咲夜の部屋には辿り着いてしまう。震える手でドアをノックして、奥から微かに聞こえた声に決意を揺るがせながらもドアを開く。
 
「お嬢様、この様な姿をお見せするのをお許しください」
「そんな事はいいのよ……」
 
 ベッドに寝巻きのまま横たわり、静かな呼吸と弱々しい発声を繰り返す咲夜。
 相対すれば言葉は自然に出てくるのかとも思ったが、そんなに現実は甘くなかった。顔を逸らさないようにするだけで精一杯で、何かを伝える余裕なんて無い。
 
「もう時間がありませんから、一つだけお願いしたい事があります」
 
 黙って頷く。言葉を紡ぐ声は普段の振る舞いと違って脆くて今にも壊れそうで、耳を澄まさないと聞き逃してしまいそうだった。
 言葉一つ漏らすのが許されない。私の喉を締め付ける鎖。
 
「庭園の西の隅に、私の墓を作って貰えないでしょうか。出来るなら、お嬢様の部屋が見える場所に」
「……作る。どんな豪華な墓でも作る。だから、」
 
 その先が出てこなくて、ただ私は咲夜のか細い手を握り締めた。
 私は何を咲夜に望んでいたのだろう。多分、考えなんて無かったのだ。私はただ、『当たり前』を覆したくなくて駄々を捏ねていたに過ぎないのだから。
 咲夜は私の目を見ると穏やかに微笑み、そしてゆっくりと首を振った。
 
「豪華な墓なんていりません。名前も十字架も。ただ白い御影石の墓標を一枚置いて頂ければ充分ですわ」
 
 私はもう、馬鹿みたいに黙って首を縦に振っていた。口を開いたら、また咲夜を汚してしまいそうな何かを言ってしまいそうで。
 縋り付くように、握る手に力を込める。昨日まではきめ細やかな美しい手をしていたのに、今はもう筋張って老婆のようだ。
 それが尚更、別れを象徴しているようで辛い。
 
「お嬢様は、強いお方です。私がいなくなっても、きっと立派な吸血鬼になれますよ」
「そんな事ない、そんな事ないよ」
「大丈夫です。私が保証します。そのお姿が見れないのだけが、残念です」
 
 最後の方は、もう声が掠れて殆ど聞き取れなかった。
 砂時計の最後の一粒が、落ちていこうとしている。
 
「さようなら。楽しい日々を、ありがとうございました」
 
 私の頬に伸ばした手が届く前に、咲夜はその瞳を閉じた。
 穏やかに聞こえていた呼吸音はもう聞こえなくて、咲夜の部屋にはもう何の音もしない。
 
 机の上に置かれた、ヒビの入った咲夜の懐中時計。
 それを目にして初めて、私は咲夜が死んだ事を理解し、慟哭した。
 
 ――――――――
 
 目を覚ますと、やっぱり傷は治りきっていたわけではなかった。全身に感じる鈍い痛み。さすがに一日やそこらで治るようなやられ方はしなかったのだろう。
 窓の外に目をやると、もう陽は暮れかかっていた。丸一日近く眠っていたらしい。それを差し引いて考えれば、多少なりとも動けるくらいに回復している事も、あれだけ長く、かつ鮮明な夢を見た事も納得出来る。
 
 あの夜に咲夜を失ってから、いや多分その前から、私は緩やかに壊れていっていたのだと思う。
 血を吸おうとしたあの夜か、それとも壊れていたから血を吸うだなんて馬鹿げた衝動を抑えられなかったのか。
 
 そんな自問自答ももう、私自身のああも悲惨な成れの果てを目にした後では何の意味も無い。
 咲夜だけではない、パチェもフランも美鈴も巻き込んで紅魔館を壊してしまう、それが他でもない私だと言うのだから。
 心の在り方が変わってしまえば、身体だってそれに合わせて変わり行く。誰もいない紅魔館の中で一人、やり場の無い後悔を破壊衝動に変えて暴れまわるだけの私。自己嫌悪の余りに顔を鉄の仮面で隠して、思い出も温もりも全て忘れて、本能に任せて孤独を享受する事がいかに悲惨か。
 そしてそれももう、見えてしまった運命だ。
 溜め息をついて、部屋を出た。昨夜私が見た運命について、まだ私は誰にも説明していない。当主たる私にはそれを説明する責任がある。
 夜のお茶会では説明しないといけないだろうが、その前にどうしても二人きりの場で打ち明けたい人がいた。
 暗い廊下を、咲夜の部屋に向けて歩き出す。
 
 咲夜はどんな反応をするだろうか。失望するだろうか、同情するだろうか。
 失望にしたって、もう嫌になるくらいさせている気がするのだけれど。
 
『……『私』だって、そんな事は考えていなかったと思います』
 
 それでも昨日の庭園での咲夜の言葉を信じるのなら、いつだって咲夜は私の事を考えてくれていたのだ。
 十六夜咲夜がレミリア・スカーレットの一番の理解者であった事、それは運命操作の結果でも何でもない。
 ただ長いようで短かった日々の中で、咲夜が傍にいる事が自然になっていっただけだ。咲夜は私を理解しようとしてくれていた。そして確かに一番の理解者だった。だから傍に置いていた。それだけだ。
 だけど、私は咲夜の事を理解していただろうか? 咲夜の一番の理解者であっただろうか? 首を縦に振る事は、出来ない。
 
 扉をノックすると、どうぞ、と言う澄んだ声が中から聞こえた。
 
「入るよ」
 
 扉を開くと、咲夜は椅子に座って紅茶を飲んでいる所だった。
 メイドの仕事は、もう随分前から妖精メイドだけで賄える位に教育が行き届いている。咲夜は最初に客人として扱われる事を渋ったが、今再びかつてのメイド長が顔を出しても、屋敷の中が混乱するだけだ……と説得すると、渋々諦めてくれた。
 だから今この咲夜がする仕事は、真夜中の茶会の準備だけだ。
 
「レミリア様、お体は大丈夫ですか」
「もう大丈夫だよ、心配ない。それより……」
「それは良かったです。茶会にはまだ時間がありますけど、良ければ」
 
 私の言葉を遮って、咲夜はテーブルの上に私の分の紅茶を出した。
 立ったまま話をするのも間抜けだと感じ、私は素直に出された紅茶の前に座る。口にすると、普段飲む紅茶とは違った味わいが舌を撫でた。
 茶会の為に私たちの好みに合わせて淹れられる紅茶と違って、この紅茶は咲夜が自分で飲む為に淹れた、自分好みの紅茶だ。血は入っていないし私には苦いけれど、何よりその一杯が何故だかとても貴重な、勿体無い物に思えてしまって、私は一口飲んでカップを置いた。
 カチャリ、と陶器が音を立てた後は、部屋に沈黙が満ちる。
 話し始めてしまえば、あとは勝手に口が言葉を紡ぐ。けれどその一歩が踏み出せない。
 私が咲夜に向き合う時は、いつだってそうだ。最初の一歩が踏み出せなくてグズグズして、そうしている内に咲夜は遠くに行ってしまう。追いかけようとして焦って、そして決まって何か過ちを犯す。
 
「幻想郷は、変わりましたか?」
 
 沈黙を破ったのは咲夜だった。
 窓の外、暗くなりゆく幻想郷を一瞥して、呟くように私に問いかける。
 
「いつから見て?」
「『私』がいなくなってからです」
 
 咲夜は、この世界の自分が死んでいる事に大して動揺する素振りも無い。そう思い始めたのは今に始まった事ではないけれど、やはり会話の矛先が咲夜自身に関する事になると、一番に感じる違和感だ。
 
「変わったね。あれから何度も異変が起きて、面子も少しずつ変わって」
 
 咲夜が死んでから、もう何十年経ったのか。私の知っている大きな異変だけでも、片手で数え切れないくらいは起きた。
 その度に幻想郷に新しい面子が増え、代替わりした巫女が飛び回る。魔法使いとメイドの代わりは、もういない。
 
「……本当に変わった。変われてないのは、私だけだ」
「そう言ってずっと一人で抱え込むのは、確かに変わらないんですね」
 
 思わず口をついて出たネガティブな発言を、即座に咲夜は混ぜ返した。俯きがちだった視線を咲夜の方に向ける。
 口調こそ厳しかったけれど、目の前の咲夜が浮かべていたのは、どちらかと言えば憂いを帯びた笑みだった。
 
「お嬢様も、そうなんです。些細な事でも話してくれれば良いのに、見栄を張って何でも抱え込んでて」
「そう、な、の?」
「私だって、お嬢様の事は何も知らない。もっと本当の意味で頼ってくれても良いんですけどね」
 
 咲夜の言葉は、私にとっては衝撃的だった。
 咲夜が私の事を何も知らない? そんな事はないだろう、無いに決まってる。
 だって、私は咲夜に依存しきっていたのだ。自分の事を何も知らない人間なんかに心を許せるわけがない。
 
「元の運命に戻ったって、お嬢様はやっぱり一人で抱え込み続けると思うんです。私に嫌われたんじゃないか、って」
 
 しかし今咲夜が私に対して漏らしたぼやきは、確かに咲夜の抱えている不安の一部に思える。
 この咲夜と、向こうの私との間に何があったのかはわからない。それでも、咲夜は向こうの私を『お嬢様』と呼び続けている。それだけ向こうの私を慕っているのかもしれない。
 私と咲夜はどうだった? 私は確かに、咲夜に否定され続けるんじゃないかと思って、けれどそれを誰に言う事も出来ずに一人で思い悩んでいた。
 なら、咲夜も同じように思い悩んでいたとしたら? だとしたら、私たちはすれ違ってしまっている。それも、今となって知っても全てが手遅れの状態で。
 
 ――私は最後まで、咲夜と向き合って対話なんてしてなかったんだ。

「言いたい事があるんじゃないですか?」
 
 混乱する私の思考を落ち着かせたのは、やっぱり咲夜の穏やかな声だった。
 
「何でも良いです、レミリア様の考えている事を話して貰えませんか」
 
 私を否定するつもりなんて無い、全てを受け入れようとする声だった。
 
「聞いて、軽蔑したりしない?」
「しません」
「見捨てたりもしない?」
「しません」
 
 思わず確認してしまうのは、この数十年で私がすっかり卑屈になっているのを見せ付けてしまうようで恥ずかしかった。
 けれど、それにも咲夜は動じない。ただただ静かに私に視線を向けて、私が何かを言うのを待っていた。
 その瞳を見つめ返す。いつの日だったか、最初に咲夜と出会った時に魅せられた水晶玉のような瞳。私の運命も映し出せる気がした。
 
「あの悪魔は、私の未来の姿なんだ」
 
 それを口にするのには、強い決心も自分を奮い立たせる勇気も必要なかった。
 まるで最初から言葉が用意してあったかのように、スルリと言葉が出た。
 
「だから、咲夜を元の運命に戻すには、未来の私をどうにかしなきゃいけない」
「どうするつもりですか?」
「また、パチェに動きを止めてもらう。その隙に呼び寄せた時と同じ魔法を使って送り返す」
 
 やるべき事はわかっている。あとはそれを決心するだけだった。
 あの私を未来に送り返した所で、私がああなってしまう末路は変えられないのかもしれないけれど。
 
「今度はもう、迷わないよ……」
 
 言葉に出しておかないと、不安に押し潰されてしまいそうだった。
 咲夜だけでない、この紅魔館の全てに裏切られて見捨てられる運命が待ち構えている。それも全て自分が起こした過ちによって。私はそれに耐えられない。
 どんな苦痛の日々が続くのか、見当もつかない。それとも、理性を失ってしまえば楽になれる物なのだろうか。
 
「また一人で抱え込む、悪い癖ですよ」
 
 咲夜の声で我に返った。
 窓の外には闇が広がっていた。あと数時間もしたら、あの私がまたお茶会の場に降り立つだろう。
 それを一人で対処出来るわけないのはわかっているのに。それでも一人で向かおうとしている私は、やっぱり咲夜からしたらただの意地張りにしか見えないのだろうか。
 頭を抱えて考え込む。私一人でどうにか出来る問題ではないけれど、ならどうすれば良い?
 
「どうしてレミリア様がああなってしまうのか、心当たりは?」
 
 頭を抱えたまま動かない私を見かねたのか、咲夜は核心その物の質問を投げかけてきた。
 その質問は、確かに私の変貌に直結する物だけれど。どうして心が壊れてしまうのか、どうして心を壊してしまったのか。それに向き合うのは、勇気が要った。
 けれど今ここで逃げたら、それこそ私は咲夜から最後まで逃げ続ける事になる。今ここが運命のターニングポイントになるのだと言うのなら、私は私と向き合わなければいけない。
 
「……咲夜の事しか思い浮かばない」
 
 咲夜を失いたくなくて、血を吸ってしまおうとしたあの夜。
 その過ちを償いたくても、また拒絶されるのが怖くて逃げ回っていた日々。
 向き合う決心を固める前に咲夜を失い、喪失感が私の中の全てを塗り替えていった月日。
 「会いたい」の衝動の裏に隠してしまっていた、自分の中で形を失っていた理由。
 
「……ああ、そうだ。私は、」
 
 最後まで言えなかった「ごめん」がずっと言いたくて、けれどもう適わないそれはだんだん形を忘れていって、最後にはただ漠然とした後悔として覚えていたのだ。

「私は、咲夜に謝りたかったんだ」

 ただその一言を、咲夜が私の頬を張り飛ばした時に言えていたなら。最後の別れの時に言えていたなら。こんなにも運命を掻き乱す事は無かったのに。
 私が答えに辿り着いた時、咲夜はただ穏やかに微笑むだけだった。その言葉があれば充分だとでも言うように。もう数十年ぶりに見た、私の全てを受け入れて赦してくれる笑みを見て、私の涙腺は少しだけ緩んだ。
 
 ――――――――
 
 咲夜と話し合った末に実行する事にした計画。それをパチェに話すと、彼女はあからさまに不審そうな顔をした。
 「見込みはあるの?」と言うその言葉に、私は咲夜と顔を合わせ、一度だけ頷く。
 あんな成れの果てでも、私は私だ。何がしたいかぐらいは、察してあげたいと思っている。
 
 真夜中のロビー、ここ数日で何個も台無しになってしまった同型のテーブルの上に、やはりいつも通り人数分の紅茶が置かれている。
 あの悪魔が毎晩お茶会の時間に襲撃してくる理由。それはきっと、このお茶会が私にとって何にも変えがたい物だったからではないだろうか。
 美鈴のだらしなく緩んだ顔も、フランの楽しそうな顔も、口数は少なくても上機嫌に見えるパチェも、傍で紅茶を注ぐ咲夜も、その全てが紅魔館での大切だった思い出に直結している。だから、とうに葬り去られた理性の残滓が、未来の私の足を真夜中のロビーに向けたのだろう。
 そして、私は私を憎んでいる。自分を壊したのは他でもない自分でしか有り得ないのだから、私へ向けられた破壊衝動は全て自己嫌悪の為せる業。咲夜からの攻撃に戦意を喪失していたのは、拒絶されたトラウマの想起。
 これが覗き込んだ運命と幾許かの想像で辿り着いた、未来の私の内面だった。
 
「だから最初、お嬢様を庇った私を攻撃したわけですね」
「その筋は本当に悪いと思ってる」
 
 苦笑いを浮かべながら言う美鈴に、私は神妙に頭を下げた。快く手を振って赦してくれたけれど、それでも私の中の罪悪感は拭い切れない。
 でも、それなら尚更この計画を成功させなければいけないのだ。私がもう二度とあんな運命を辿らないように、今度こそ本当の意味で運命を捻じ曲げる。
 
「そろそろ来るわよ」
 
 パチェが言うが早いか、ロビーをここ数日で馴染みの震動が襲った。
 館全体が大きく揺れ、ティーカップが耳障りな音を立てる。
 
「あれ、今日は片付けないの?」
「良いのよ、このままで」
 
 不思議そうな顔をするフランだけれど、もう説明している時間は無さそうだ。
 吹きさらしに近い天井の向こう側には、相変わらずの巨体が見える。それが天井を突き破って落下してくるまで、そう時間はかからなかった。
 館全体を揺るがして着地する悪魔。土煙の向こう側で首を動かし、私を探っているのが感じられる。
 それでも私は、動かない。
 置いてあった紅茶もお茶菓子も引っ繰り返って、ロビーは見るも無残な姿になっているけれど。
 私はただ、いつもとは違う席に座ってその時を待つだけだ。

 やがて土煙が晴れ、その忌々しい姿が露わになった。
 けれど、今日は私目掛けて飛び掛ってくる事は無い。ただただ硬直して立ち尽くすばかりで、首一つ動かそうとしない。
 その理由は一つ。未来の私が私を見つける前に、咲夜が未来の私と向き合っているのだ。
 
「お嬢様」
 
 咲夜のその言葉にも、未来の私が硬直したまま動く事は無い。
 
「お茶が入りましたわ」
 
 剣のような爪に隠された手を優しく手に取り、咲夜が紅茶を注いだティーカップを握らせる。
 直立すれば自分の二倍はあるであろう背丈の悪魔を前にして、ただ紅茶を注ぐメイド。その紅茶を黙って掴ませられる異形の悪魔。
 傍から見れば奇妙を通り越して滑稽に見えるかもしれない光景だけれど、その場の誰も何も言葉を発する事はなかった。
 そのまま訪れる沈黙。時間が止まったかのようなロビーで、私たちは咲夜と悪魔をじっと見つめていた。
 
「――ァグゥヤ」
 
 ティーカップが悪魔の手から滑り落ち、床に当たって耳障りな音と共に砕け散る。
 けれど私たちが驚いたのはそれではなく、悪魔が咲夜に向けて言葉を発したと言う事だ。
 
「ザク、ァ、ァアアァアァ」

「お嬢様、大丈夫ですよ」
 
 しなやかな手が、悪魔の二の腕に触れた。大丈夫と咲夜が声をかけても、悪魔が呻きを止める事は無い。
 悪魔は声にならない呻きで、しかし確かに感情を表現しようとしている。目の前の咲夜に何かを伝えようとしている。
 咲夜が悪魔にしたように、悪魔もまた丸太のような腕を持ち上げて咲夜の頬に触れる。咲夜はそれを払いのける事もせず、両腕を頭の後ろに回し、鉄仮面のネジを緩めていく。
 
 ゴトリ、と鈍い音を立てて鉄仮面が床に転がり。
 そうして現れた私と同じ深い青をしている筈の髪は、しかし埃のせいか、或いはひしゃげた心のせいか真っ白になっていて。
 
「ザグヤァ、ザグヤ……ァァ」
 
 けれどその顔は、咲夜を呼ぶ声は、確かに今の私の面影を残している物だった。
 
「大丈夫、落ち着いて。ゆっくりで良いです、焦らないで」
 
 咲夜のその声に応じるように、ようやく呻き声が止んだ。だらしなく開けた口からは瘴気が漏れ出ているけれど、咲夜がそれを意に介する様子は無い。
 やがて悪魔はゆっくりと、けれど確実に、自分の意思で自分の言葉を紡ぎ始める。
 
「ザクゥ……ヤ、ァ、オ゛メ、オ゛エンナ゛」
「ゆっくり、ゆっくりで良いんです。平気です、ちゃんと聞いてますよ」
 
 呻きと言うよりは、嗚咽に近い発声。なら何故この悪魔は泣く?
 それはきっと、未来の私はこの言葉を言う事だけを望みとして生き永らえていたからだろう。
 異形の悪魔の背中を擦って言葉を促す咲夜を見て、思う。咲夜は私を理解しきれなくても、心から私を理解しようとはしてくれていたのだ、と。
 それなら、私だって精一杯咲夜を理解しようとしなきゃいけないじゃないか。
 
 
「サク、ヤ゛、ゴメ゛ン゛、ナ゛、ザイ」
 
 
 その言葉を聞いた咲夜は、何度も首を縦に振り、硬直して物言わぬ悪魔を両手で抱き寄せていた。
 無機質な悪魔の瞳から流れ落ちた滴が、頬を伝って咲夜のスカートの端を濡らす。その涙を零したのを皮切りに、悪魔の身体が少しずつ薄れていく。霊魂が成仏する様に似ているその光景に、黙って経緯を見届けていたパチェが口を開いた。
 
「……どういう事なの、レミィ」
 
 不機嫌と不可解と驚愕が混ざり合った声を発しながらも、視線は消え行く悪魔に釘付けだ。
 それも当たり前か。知識と日陰の魔女にとって、目の前の光景は何より貴重な光景だ。運命が変わる瞬間なんて、永遠に等しい生涯でもそう見られる物ではないのだから。
 
「可能性を失くした運命は消失する、それだけの事よ」
 
 もう既に殆どが消えかかっている悪魔に、咲夜が潤んだ瞳を向けて微笑みかける。
 その微笑を受けて、無機質だった悪魔が、気の遠くなる程の年月を鉄仮面で覆い隠していたその顔が、消滅の瞬間、僅かに笑えていたように見えたのは――私の錯覚ではなかったと思う。
 
 ――――――――

「これでもう、お別れになっちゃうんですね……」
「仕方ないのよ、私は元々ここにいない存在なんだから」
 
 涙を滲ませる美鈴の肩を咲夜が抱く。美鈴は一層顔を赤くして、だらしなく鼻水を啜り上げながら嗚咽を漏らすけれど、それは何も可笑しい事ではなかった。
 未来の私である悪魔が消滅した今、咲夜がこの運命に留まる理由は無くなった。向こうの紅魔館では咲夜の帰りを首を長くして待っているのだろうから、これ以上引き留めておくわけにもいかない。
 それに咲夜の言う通り、本来咲夜はここにいてはいけない存在なのだ。私たちがどんなに咲夜が残る事を希望しても、捻じ曲がった運命は元に戻さなければいけない。
 フランは泣いて咲夜の足にしがみついた。
 パチェはそっぽを向きながらも、別れを告げる声が震えていた。
 小悪魔は寂しそうに微笑みかけていた。
 この咲夜は死んでいった咲夜とは別人なのに、誰もがこの咲夜との別れを惜しみ、悲しんでいる。けれど、それは仕方が無い事なのかもしれない。どこからどう見てもこの咲夜は生前と同じだし、私だけではない、この紅魔館の誰もが咲夜と言う欠けたピースを心の何処かで求めていたのだろうから。
 だけど、いや、だからこそ。私は涙を流してしまわぬように、ただ一人黙々と魔法陣を描く作業を続けているのだ。きっと今涙を流したら、変えた運命が全て台無しになってしまう、そんな気がして。
 
「……出来たよ」
 
 準備が永久に終わらなければ良い、そんな考えが脳裏を掠めたりもする。
 けれど手を動かしている限り現実は残酷で、半刻と経たずに私の部屋には数日前と同じ魔法陣が描かれてしまった。
 完成を告げる私の声に、咲夜は振り返って魔法陣を眺めた。その瞳に宿っていたのは、確かに別れを惜しむ寂寥の念に見える。けれど、元の運命に戻れると言うのに、どうしてそんな切なさを感じるのだろう。咲夜もこの紅魔館に対して惜別の憂愁を感じてくれているのなら、それはとても素晴らしい事にも思えた。
 魔法陣の中央に立つ咲夜。その周りを囲うようにして私たちは立ち、咲夜との二度目の別れをこの眼に焼き付けんとする。

「それじゃ、始めるね」
「はい」

 発端となった因縁のグリモワールを片手に、一言一言ゆっくりと呪文を詠唱していく。
 それは何も、呪文を噛んで間違えてしまわないようにする為だけじゃない。この詠唱が終わるのを少しでも先に延ばせれば、その分咲夜と少しでも一緒にいられる。そう考えている節も、否定出来ない。
 けれどそれはこの期に及んでも私の我侭でしかない。未練は断ち切らないといけない、変えた運命は元に戻すわけにはいかない。私がここで完全に変われなければ、それはまた何処かの運命の私と咲夜に面倒事と再度の別れを押し付ける羽目になる。
 それが嫌だから、せめて私は呪文を途切れさせてしまわないように必死に口を動かし続けた。

 やがて光り輝き始める魔法陣。私が最初に未来の私を召喚した時と同じその光は、咲夜との永遠の別れがものの数分で来てしまう事を意味する。
 私がこれから生きる時間は永遠に等しいくらいに長いのに、これから先はもう咲夜に会う事は出来ない。咲夜を失い、後悔の余りに変貌を遂げる未来は失われた。だとしたら、私の辿る運命は果たしてどう言った物なのだろう?
 咲夜の事を忘れ、また知らない誰かを傍に置いて何事も無かったかのように日々を送る――考えたくない事だけれど、嫌悪の念を抱いてしまえる程だけれど、しかし有り得るかもしれない運命だ。

「一つ、お願いしたい事があります」
「何?」

 俯く私に、光に包まれつつある咲夜は声を投げかけた。まるで、私はここにいるのだと言わんばかりに。

「これからの運命を見て貰えませんか」
「どうして」
「手土産の代わりです」

 そう言って咲夜は真っ直ぐに私の瞳を見つめる。手土産の代わりだなんてふざけた言い回しをする癖に、その瞳には一切の迷いがない。
 元の運命に帰ってから、咲夜は向こうの私に何をどう説明するのだろう。どこかで道を違えたお嬢様が、寂しさの余りに別人の私を呼び出して、紅茶を飲むついでに運命を変えてきました……だなんて、そんな奇天烈な話をして向こうの私の失笑を買うのだろうか。咲夜は冗談が下手だね、だなんて返事もつけて。
 それなら、手土産の一つくらい持たせるべきか。これが咲夜との最後のやり取りになってしまうのなら、それでも構わない。私と咲夜との話なんて、いつだって馬鹿げた事で盛り上がり、日常の他愛ない事に笑い合っていた。それはくだらないかもしれないけれど、そう言ったやり取りこそが何よりも幸せだったのだから。

「良いよ」

 それなのに、どうして私は泣きそうになっているのだろう。違う、これは嬉し涙だ。咲夜が元の運命で幸せになれる事への祝福の涙だ。きっとそうだ。そうに違いない。
 運命視に力を集中する。本当は悔しくて悲しくてたまらなかった。運命を視る事で少しでも気が紛れるなら、それで良かった。

「ああ、繋がった。……へぇ、お茶会の直前で呼び出しちゃったのか。悪かったね」

 脳裏に映し出した光景は、咲夜がお茶会の準備を終えて私を部屋に呼びに行く所だった。この運命に来る直前の、咲夜視点での咲夜の運命。
 きっとこれから咲夜は、お茶会を心待ちにしている主を尻目にこっちの運命へと呼び出されてしまう。何と言う災難だろう。

 けれど、咲夜は何事も無く私の部屋に通された。

「あ、あれ?」

 そのまま、私と何やら談笑を始めた咲夜。何を話しているのかはわからないけれど、それはどうせ他愛の無い事なんだろうと推測する。
 けれどそうして笑う向こうの私は、どこか余所余所しく、何か緊張しているように見えて、私は違和感を拭い去る事が出来ない。私はこんな風にして笑っていただろうか?
 会話が、途切れた。部屋に満ちる沈黙。元から運命で辿れるのは視覚だけだけれど、それでも感じる不自然な無音の時間が続いた。向こうの私は相変わらず違和感を感じる振る舞いをしている。
 不意に咲夜が視線を外に移す。窓の外に浮かんでいたのは、非の打ち所の無い、白々しく感じてしまうくらいに綺麗な満月だった。
 そして咲夜が視線を私に戻す。数秒前まで様子がおかしかった向こうの私は、今は吹っ切れたかのように目付きを鋭く変えている。
 
「そんな、まさか」
 
 向こうの私?
 違う。これは過去の私だ。
 
 咲夜は飛び掛ってきた私に押し倒される。咲夜を押さえつける私の瞳の何と醜い事か。ただ置いていかれたくないと言う焦燥の色に染まった瞳は、咲夜の濁りの無い瞳とはとても比べられない。

 私を押し戻す咲夜、しかし単純な力で吸血鬼を押し返せるわけもなく、私は咲夜の首筋に剥き出した牙を突きたてようとして――

 ――嫌です。
 
 無音の筈なのに、咲夜が私に向けてそう言うのが確かに聞こえた。
 それは拒絶だった。これ以上ない純粋な、不様な吸血鬼を、レミリア・スカーレットを拒絶する言葉だった。
 
「咲夜、あなた」
 
 私の力が弱まった隙をついて、咲夜は私を跳ね飛ばして時間を止めた。そこで運命は一旦途切れる。
 現実に引き戻されて、私は光に包まれている咲夜に目を向けた。魔法陣の中心にぶれる事なく直立して、咲夜は微笑む。

「『未来』は見えましたか?」
「……違う、私に見えたのは未来じゃなくて」
 
 未来じゃない、私が見たのは過去だ。どうしようもない自分の、一番みっともない部分を咲夜に見せてしまった過去だ。
 けれど咲夜は、そんな事は百も承知だと言わんばかりに頷き、言葉を続ける。

「私はいいんです。ご自身の未来は見えたのですか?」
「自分の……未来?」
「運命が変わったのなら、その変わった運命はどうだったのですか?」
 
 そうして私は理解した。咲夜の言葉の真意を。喪失を悲しみ嘆く未来の私が消滅したのなら、私は咲夜をどう乗り越えて生きているのか。
 けれどそれは、運命を視る事で知る物では無いと思った。私がこれから創り上げていく運命こそが答えになる。
 
「……勿論、咲夜の言葉通りに立派な吸血鬼になってたさ。紅魔館は幻想郷で一番の勢力を持っているし、図書館は今の何倍も広くなって、フランは落ち着きのある淑女と呼べる吸血鬼に育って、美鈴だって幻想郷じゃ敵う相手がいないくらい強くなってる」
「そう、ですか。それはとても良かったです」
 
 咲夜が、笑う。
 私が未来を見ていない事なんて全てわかっているだろう。けれど、私は今語った紅魔館の未来を嘘にするつもりはない。今ここで咲夜に約束する。

「それに、私の事を見ていてくれる従者もいるんだ。何も言わないしやってくれないけれど、いつだって私の傍にいてくれる」

 一瞬驚いた表情を見せた後、咲夜が目尻に涙を滲ませる。
 だってそんなの、未来を見なくたってわかる事なのだ。いつだって私には咲夜がいてくれるじゃないか。庭の片隅から私を見守ってくれてるじゃないか。
 そんな従者がすぐ傍にいてくれるのに、それに気付けなかった愚かな私はもういない。運命は変わった。運命は変わる。運命を変える。
 
「咲夜」
 
 だから、最後にちゃんと伝えなければ。
 血を吸うなんて事をする前に言うべきだった。
 死にゆく咲夜にちゃんと言葉で伝えるべきだった。
 謝罪の言葉なんて、本当はいらなかったのだ。私が咲夜に言わなかった、けれど言わなければいけない事はただ一つだけ。
 
「ありがとう」
 
 光が一層強くなる。咲夜が過去へと戻ってしまう。
 それでも、もう悔いはなかった。一番大切な言葉を伝えられた、ただそれだけで充分だ。
 
「帰ったら、馬鹿な主の頬をひっぱたいてやりなよ。私が許可する」

 震える声で、私は精一杯強がって笑って見せた。
 零れ落ちる涙を拭き取る事もせず、咲夜は泣き笑いを見せながら頷く。

「私からも、ありがとうと言わせてください。そしてお元気で」
 
 咲夜の姿が、光の向こうで薄れていく。
 
「さようなら、お嬢様」
 
 その言葉を最後に、魔法陣は発光するのを止めた。
 光が消えた時には既に咲夜の姿は無く。後にはただ、言葉を発する事も出来ずにしゃくり上げる私たちが残されているだけだった。
 
 ――――――――
 
 満月が、少しだけ欠けてしまって空に浮かぶ夜。星の光は雲で覆い隠されて、それなのに月は消える事無く輝いている。
 曇りだけど、雨は降りそうにない夜。私は庭に出ていた。
 
 咲夜が過去に戻っていってから一日。あの後、不思議と私たちは涙を流しながらも笑う事が出来た。
 夜が明けるまで咲夜との思い出話に花を咲かせて、陽が昇っても眠る事もせずに喋り続けた。あの時咲夜はこうした、なにをしていたら咲夜はこう言った…… と。
 咲夜と過ごした時間はたったの数十年足らずの物だったけれど、これから先何百年でも何千年でも飽きる事無く話す事が出来る。そう思った。
 
 それからまた陽が沈んで、今。庭園を歩く私が向かっているのは、咲夜の墓だ。
 全てを理解し乗り越えた今なら、きっと本当に正直な気持ちで咲夜に向き合える。後悔も自己嫌悪もせずに、ただただ咲夜を抱き締められる。
 夜の闇の中、月の光がまるで咲夜がそこにいるかの様に咲夜の墓を照らし出していた。美鈴に作ってもらった花束を備え、その白い御影石を頬を撫でるようにそっと触れて――
 
 ――何かが彫りこまれている事に気が付いた。
 
 驚いて、目を凝らしてよく見てみる。名前一つ刻まれていなかった御影石に、今はしっかりと何かを彫った跡がある。
 誰かが悪戯をするわけもないから、きっとこれを刻んだのは過去へと帰って行った咲夜自身だろう。もう会う事のない咲夜が、一体私に何を考えて何を残したと言うのか。

「"親愛なる我が紅い月へ"……"あなたの忠実で瀟洒な従者より"?」
 
 それは、咲夜から私に向けて書かれた一言のメッセージだった。
 
「……何よ、咲夜ったら」

 いつだって欠点ばかりで、咲夜に迷惑をかけ通しだった私。
 そんな私を文句一つ言わずに助けてくれていた咲夜。

「何が瀟洒よ、気障ったらしいったらないわよ、ほんと」

 咲夜がいたからこそ今の私がいて。
 私がいたからこそあの咲夜がいた。

「それでも、」

 そしてそれは、これからも変わらない。
 咲夜がこの場所で私を見守っていてくれる限り、十六夜の月が見えなくなる事はもう無い。

「言葉にしなくちゃ伝わらない物もあるよね……」

 "変わらない愛と忠誠を ここに誓います"、だなんて。
 少しでも暗くなってしまえば見落としてしまいそうな短いメッセージは、しかし私にとって何よりも大切な言葉だった。
 咲夜の墓に、そっと手を触れる。冷たい石の感触が伝わってくるけれど、私は今この瞬間、咲夜が愛しくて愛しくてたまらなかった。
 ポツリ、と。墓を濡らしてしまう事に気付いて、私は慌てて顔を上げる。空に浮かぶ十六夜の月が、私を優しく照らし出してくれる。前を向くには、充分過ぎた。

 ――――――――

 拒絶の夜も、喪失の夜も、いつだって空には満月が浮かんでいたけれど。

 月明かりが眩しくてカーテンを閉めたくなる時には、私は少しだけ弱気になって窓の外に目を遣るのだ。

 ――自室の窓から見る庭の片隅には、いつでも私の傍にいてくれる従者がいる。
 ――――――――

 あれは、ちょうど満月の夜の次の日だったと思います。ええ、確かに十六夜でした。白々しいくらいに綺麗だったもので、思わず本を整理する手を止めて見惚れてしまったのを覚えていますから。
 その前の日はいつもお茶会の始まりを告げに来る咲夜さんも来なかったから、一層印象に残っています。お茶会の音沙汰も無かったのなんて、私が覚えている限り、咲夜さんの生前はあの満月の夜だけでした。
 だからこそ、その翌日に咲夜さんを図書館で見かけた時には少なからず驚きました。昨夜は何かあったんですか、と聞こうとも思いました。
 けれどそれを口にするよりも先に、咲夜さんが一冊の蔵書に何かを書き加えているのを見たんです。何かのグリモワールのようでした。何処か寂しそうな、けれど満足気な顔で万年筆を走らせる咲夜さんなんてそれまで見た事もありませんから、私は黙ってそれを見ていたんです。ひょっとしたら、月と同じように見惚れていたのかもしれません。
 インクは時間を進めて乾かしたのか、書き終えるとすぐに咲夜さんは本を閉じて棚に戻し、そこで初めて私に気付いたようでした。よく見ると服は皺だらけで、目も泣いた後みたいに赤くて、そんな様子で驚く姿はまるで咲夜さんらしくは無かったのですが、私が笑うと咲夜さんもいつも通り笑いかけてくれました。
 
「ちょっと、お嬢様に悪戯を、ね」
「……なるほど。大丈夫です、私は咲夜さんがグリモワールに仕掛けをしたのなんて見てませんから」
「あら、ちゃんと仕事しないとパチュリー様に怒られるんじゃないの?」
 
 そんな軽口を交し合って、私たちは再度笑みを零したんです。
 
「お互い、気難しい主を持つと苦労しますよね」
「それもまた人生の調味料だけどね」
「ごもっともです」
 
 それだけ言葉を交わして、次の瞬間には音も無く咲夜さんは図書館から消え去りました。このやり取りは、私と咲夜さんだけが知っている二人だけの秘密です。
 果たして、咲夜さんはお嬢様にどんな悪戯をしたのでしょう。それでも咲夜さんの事ですから、最後にはお嬢様が笑顔になったのは間違いないでしょうけれど。
バーボン
http://2style.net/bourbon/
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コメント



0.3130簡易評価
9.100名前が無い程度の能力削除
よかったです。
12.100名前が無い程度の能力削除
血を吸われた咲夜さんかと思いきやお嬢様だったとは。
面白かったです。ありがとうございました。
19.無評価名前が無い程度の能力削除
なんだこの読後の充足感…
20.100名前が無い程度の能力削除
色々思うところもありましたが、読後に久々に充足感があったので。面白かった!
27.100名前が無い程度の能力削除
黄泉がえりみたいだな。かなり面白かったです。
31.100名前が無い程度の能力削除
グリモアールにはいったいどんな仕掛けが…
お嬢様も立ち直ってくれて本当に良かったです
36.100名前が無い程度の能力削除
言葉にして伝える事ができて、
澱んだ運命が浄化されたということなんでしょうね。
完璧で瀟洒な従者の看板には、一片の偽りもない。
37.100名前が無い程度の能力削除
タイトルに釣られたのにこの満足感…良いものを有難うございました
41.100名前が無い程度の能力削除
こうして過去のお嬢様も咲夜さんが細工したグリモワを使って未来の自分を召喚して・・・
という同じ流れを辿ることになるのですね
いやはや面白かったです
43.70スポポビッチ削除
うーむ、『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』は違うと思います。
あれは生と正義な無限の肯定の話でした。改悛というか、この内容でこのパロタイトルは
少し勿体ない気がします
44.100名前が無い程度の能力削除
とてもいいお話でした。
47.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
48.100夜空削除
原作への丁寧なリスペクトと氏のオリジナリティが
いい塩梅で絡んでてとても面白かったです
読みごたえ抜群で素晴らしい作品!
51.100ずわいがに削除
俺が今流してるのは感動の涙じゃない。レミさんの不甲斐なさ、情けなさ、そしてどこまでも人間に感化されてしまったその優しさにだ。
弱かったんだなぁ。ホント、不器用で、バカだったんだなぁ……。
53.100名前が無い程度の能力削除
咲夜が死の間際に墓石に何も刻まないで欲しい、と言ったのは既に刻んでいたからなんですね。
お嬢様はこれからどんな新しい運命を紡いでいくのだろう。
56.100名前が無い程度の能力削除
面白い作品だった。ありがとう。
57.100名前が無い程度の能力削除
巧くて、面白い。
途中から長さが気にならなくなった。
でも……切ないなあ……
66.100名前が無い程度の能力削除
\すげえ!/
68.100名前が無い程度の能力削除
途中から時間を忘れました。素晴らしい作品をありがとう。
69.100名前が無い程度の能力削除
読み物で感動したことはあれど、涙を流したのは初めてです
何から何まで素敵です
72.100霧雨の代理(違削除
ポイントは置いていくぜ!
正直今はちゃんとした評価ができる程頭が回らんw

ただ一つ言わせてもらうと、次回作 も 頑張れ
75.100名前が無い程度の能力削除
血を吸われた咲夜さんだと思ってました。
並行世界ではなく、過去の咲夜さんだったとは。
面白かったです。ありがとうございました。
83.90楽郷 陸削除
後半のたたみかけが素晴らしかった。