……それにしても不可解なるは、幻想郷における絶対者ともいうべき龍の神であろう。
博麗大結界の成立時、その姿を見せたという龍神は、しかしこのあらゆる人妖を巻き込んだ大乱において、ついに現れることはなかった。
その後の百数十年、幻想郷に平穏をもたらした博麗大結界、その幕開けを看過はせず、しかしていざこの郷がかつてないほど乱れたときには黙して現れぬ。
あるいは龍神は、この郷を、よるべなき哀れな幻想たちを見限ったというのか?
大結界の成立時、八雲の大妖と交わしたという誓約――それが破られたとしてすべてに失望し、この幻想郷から去ったというのか?
人でなく妖でもない龍神の真意を語れる者は、この幻想郷にも絶えて久しい。
だが、私はこうも思うのだ。
幻想郷の龍神にとって、人も妖も、生も死も、すべては等価値なのではなかろうかと。
ちょうど、かつてこの幻想郷の守護者として人妖に慕われたあの巫女が、まさにそのような存在であったように。
龍の神は先の大乱をも、人と妖の本能の一端として受容したのではなかろうか。
そうであるとするならば、龍の神とは、いや、幻想郷とは、何と残酷で冷酷な存在なのか。
外の世界では忌まれ、あるいは忘却されたすべてを受け入れる理想郷。
それはしかし、戦を求める猛々しい戦意、殺意をも、当然のものとして受容する。そこに一切の例外はなく、慈悲もない。
そうであるならば、先の大乱は……いや、そもそも博麗大結界そのものが……
いや、やめよう。
すべては私の描いた絵空事。他愛のない空想に過ぎない。
今はただ、和睦が成り復興を始めた幻想郷の姿を、静かに見つめよう。
――第一三一季、長月に記された稗田阿求の日記より
――第一二八季、弥生。
地霊殿を筆頭とする地底の妖怪たちが西軍に参加。
同月末、永遠亭が東軍へ参加。
人里は中立を宣言するも、永遠亭と双務的な同盟を結び、一定の距離を保ちつつ東軍寄りの姿勢を選択する。
【幻想郷動乱記 第参章より抜粋】
伊吹萃香・風見幽香の西軍加入により長期化の様相を呈し始めた戦は、年が開けた弥生において、驚愕すべき局面を迎えた。
地霊殿の主たる古明地さとりが、鬼族を含む地底の妖怪すべてを引き連れ、西軍について参戦したのである。
非戦・不干渉の約定を結んでいたはずの地底勢力が地上の戦乱に介入したのは、やはり山の自業自得ともいうべき面があった。
長の復仇に燃える天狗たちの一部が地底すらも調査対象の一つとし、地霊殿に乗り込んであれこれと調べ回っていたのである。
いかに先の間欠泉騒ぎ以降、地底と地底の間でいくらかの交流が生まれつつあったとは言っても、たしかにこれは山の過失であった。馴れ合いじみた平和の中では看過されるようなことでも、戦においては立派な大義名分になる。先に盟約を破ったのは山の方である、という論理がたしかに成立してしまう。
直接的なきっかけは、紅魔館からの働きかけであったという。動乱が終息すれば、地底との全面的な友好を約し、望むならば地上に居所を与える――レミリア・スカーレットはそう明言したと伝えられる。幻想郷においては新参の勢力であり、地底への偏見をまったくといっていいほど持たないレミリアの約束には説得力があった。
地底の環境は、妖怪にとっても決して住みよいものではない。何せもとは地獄だったのである。住めば都とはいえ、地上への漠然とした憧憬はたしかにあった。
地霊殿の主であり、地底妖怪の筆頭格でもある古明地さとりは、レミリアの誘いに乗った。
山におわす守矢の二神の協力で、旧灼熱地獄跡に革新的な動力炉が建設されつつあったことを考えれば意外な選択であったが、逆にいうならばそれもまた紅魔館の手を取る理由の一つであった。下手をすれば地底の妖怪たちは動力炉の管理人として、永劫に地底に留め置かれることにもつながりかねないからだ。
この機を逃せば地底の妖怪はすべて文字通りの日蔭者として生涯を終える。それは、古明地さとりの看過しうる未来ではなかった。
かくして地霊殿は、鬼族を含む地底の全勢力を挙げて紅魔館に加勢した。
妖怪の山の衝撃は、想像に難くない。
伊吹萃香のみならず、地底に移住していた鬼族が一族を挙げて敵に回ったのである。
それまでの自分たちの大義、統治を全否定されたに等しい。
戦力的にも、まったくの脅威であった。鬼族の戦闘能力は今更論じるまでもないが、古明地さとりを筆頭とする地底妖怪たちの戦力もあなどれるものではなかった。地底妖怪の大半は、すべてを受け入れるはずの幻想郷ですら持て余され、忌まれてきた連中だ。戦い方次第では鬼にすら匹敵する特異な能力を持つ者、気まぐれで扱いづらいが純粋に地力はある者も少なくなかった。
開戦当初は山の圧倒的優位であったはずの戦力差は、ここにおいて完全に逆転するかに思われた。
史上最大の危地に陥った妖怪の山を救ったのは、永遠亭であった。
蓬莱山輝夜を頂く永遠亭、幻想郷の歴史においては新参とされながらもその実力を噂されていた勢力が、戦線を果てしなく拡大しようとする紅魔館・地底勢力に公然と敵意を表明したのである。
永遠亭が妖怪に山に味方した理由は、明快なものだった。蓬莱山輝夜は怠惰な安寧に満ちた幻想郷を愛していたし、大結界によって月の追手から守られてもいた。その平穏を揺るがす西軍の存在を、見過ごすわけにはいかなかったのだ。
時を同じくして人間の里でも激論が交わされていた。
かつて博麗大結界が成立した折、妖怪たちはその是非を巡って争いを繰り広げた。そして人間の里は、自分たちを襲うことすら忘れて相争う妖怪たちの闘争を黙認するどころか手を打って喜びすらした。人里には対妖戦闘に長じた術者や剣士も多くいたが、それでも身体能力において優れる妖怪たちはそれだけで十分な脅威であり、同族争いで妖怪たちが弱ってくれるなら願ったりであったからだ。
その前提からすれば、今回の動乱も、人間の里にとってはまったく喜ばしい事態とはいえた。妖怪たちが相食むならば勝手にさせておけばよいのだ。
だが、博麗大結界の成立以降、長きにわたった平穏な日々は、人間の里にも新たな価値観を持ち込んでいた。
妖怪相手に商売をしていた者もいたし、個人的に妖怪たちと友誼を結んだ者もいた。妖怪の山との関係に限っていうならば、閉鎖的な気風に辟易している者もむろん多かったが、山に住まう豊穣の姉妹神は人里にとってもっとも馴染み深い神であったし、厄神の恩恵を知る者もいた。ついでに付け加えるならば、射命丸文の発行する文々。新聞は人里の少女たちによく好まれていた。
そうした者たちは、ただ座して隣人たちの争いを眺めているだけでよいのか、と論じた。
永遠亭が妖怪の山側に立って参戦したことも、大きな要素だった。
迷いの竹林にそびえる永遠亭は、希代の名医・八意永琳と、その処方する置き薬によって、よき隣人としての関係を築いていた。
対して紅魔館はというと、お人好しの門番が人里でも親しまれてはいたが、全般的に「吸血鬼事変を引き起こした悪魔の館」というイメージが強い。地底勢力にしても、嫉妬を操る橋姫やら疫病を振りまく土蜘蛛やらと、人間の価値観からすればひどくタチの悪い妖怪ばかり。
どう考えても、西軍、つまり紅魔館・地底勢力(ちなみに西軍・東軍という呼称は、この頃から誰彼ともなく使われ始めていた。これは地理的な関係からなる呼称ではなく、紅魔館陣営が西洋悪魔を兵力の主体としていたこと、対する妖怪の山が日本国古来の神妖を中心としていたことによる)が勝利してしまっては、ろくでもないことになりそうだった。
議論が紛糾し、最終的には人里の守護者として声望を集めていた上白沢慧音に判断が委ねられた。老齢の里長は、彼女の均衡の取れた判断力、愚直に人間を愛する誠実な人柄に全面的な信頼を寄せていた。
とはいえ、慧音も困惑していた。半人半妖である彼女は、人間というものを我が身に代えても守ろうするほどに好んでいたが、同時に人と妖怪のパワーバランスというものをひどく重視していた。
長く続いた平穏を打ち壊した西軍への怒りはたしかにあったが、といってそれとの全面戦争をためらうのは彼女も同じだった。
結果、彼女が里長に進言したのは、基本的には中立を保ちつつ、安全保障のために永遠亭と(東軍ではなくあくまで永遠亭と、である)盟約を結ぶことだった。どっちつかずといってしまえばそれまでだが、なかなかに巧妙な外交策といえよう。
とはいえ、物事にはすべからく長短が同程度に絡むものである。
中立派である人里は、紅魔館・地霊殿連合にも妖怪の山にも本格的な攻撃対象とされない代わりに、動乱に巻き込まれたからといって支援を求められる立場にもなかった。
その短所を顕著に表したのが、翌第一二九季の如月、人里の近くで行われた東西両軍による会戦である。
この戦いにおいて、人里は中立を宣言し、防備を固めた。いかに永遠亭とは同盟者であるとはいえ、本格的な会戦に参加するほどはっきりとした軍事同盟ではなかったし、永遠亭もまた人里の参戦を求めはしなかった。
激戦は三日間続いた。その激しさは、翌年に行われた無名の丘の会戦に次ぐほどのものであった。
このとき、両軍共に人間の里を攻める意思は微塵もなかったのは事実である。
本来、人間の里に手出しをすることは固く戒められていたし、対妖戦術の専門家を多く擁する人里を敵に回すつもりもまた両派にはなかった。
だが、複数の大妖が入り乱れたこの会戦において、一つの事故が起こる。
両勢力の天狗と蓬莱人、鬼族、そして吸血鬼が、互いに大出力の術式を展開。激突した破壊力は行き場を失い、暴走――そしてその軌道上に、人間の里が存在したのである。
戦局の推移を最大限の警戒とともに見守っていた人里の自警団は、迅速に反応した。全術者を動員しての防衛結界を張り、不幸な事故ともいうべき惨事が起こるのを防ごうとした。
しかし、暴走した術式の破壊力は、人間の術者たちの努力をわずかに上回った。
上白沢慧音が生死をさ迷う重傷を負ったのはこの時である。
彼女は防ぎ切れないと見るや、躊躇なく莫大な妖力の渦の前にその身をさらし、自身の全生命力をかけて防壁を展開した。
時間にしてほんの数瞬の、熱く激しい、そして絶望的な戦い。
上白沢慧音は右腕を完全に失い、残る右半身にも重傷を負いながら、彼女の愛した人間の里を守り切った。
人間の里が本格的に東軍に傾いていくのは、まさにこのときを契機としている。
伍の頭 〈角なき鬼〉
過日、稗田阿求の招聘に当たり、七頭会は〈御山の千年鴉〉という最上級のカードを切ってその誠意の証とした。
七頭が自分をそこまで評価した理由について、当の阿求は頭を抱えて悩みもしたのだが、生憎と彼女の認識はまだまだ甘かったというべきだろう。
射命丸文が稗田家を訪れ、そして阿求が七頭に了承の意を伝えた半月後――
七頭の会合に彼女を迎えに現れたのは、やはり七頭の一角であったのだから。
「いやー、それにしてもよく引き受けてくれたよ。他の連中に代わって礼をいっとく」
博麗神社に至る山道を歩きつつ、からからと笑うのは一見童女のような姿をした妖の娘。
幻想郷最強最大の大妖たる七頭、その中でもさらに純粋な戦闘能力においては随一とされる怪物。
〈角なき鬼〉伊吹萃香。
先の大乱においては西軍最強戦力のひとりとして、暴風の如く戦場を蹂躙した鬼神である。
「……萃香さんが来られるとは、さすがに思っていませんでしたよ」
半ばは悟りの心境に達しつつ、阿求はいう。萃香は何を言ってるんだい、とばかりに片目を瞑った。
「無理を言ったのはこっちだからね。本来なら私たち全員が頭を下げて迎えるのが筋ってもんだ」
「それをされたら我が家の周辺はパニックになっていましたよ」
「どうかねぇ。人里の連中はそれほど軟弱でもないさ」
相変わらず楽しげな伊吹萃香――〈角なき鬼〉。
その異名が示す通り、今の彼女の頭部には、かつて隆々とそびえていた二本の角がない。より正確には、根元近くでへし折れている。
幻想郷の歴史上、最大の戦とされた無名の丘の会戦。その激戦において、東軍の陣頭に立って突撃してきた魂魄妖夢の遺した傷痕だ。
無名の丘の会戦で初めて本格参戦した白玉楼の妖夢はこのとき、東軍の作戦においてひどく重要な役目を帯びていた。西軍最強戦力たる伊吹萃香を足止めし、霧雨魔理沙率いる主力の突撃を支援することだ。
半人半霊の剣士はその意地と剣技と生命のすべてをもって、戦闘者としては明らかな格上である幻想郷最強の鬼神に挑み、若木のしなやかさと金剛石の硬度を持つといわれたその双角を叩き斬った。まさしく、武門魂魄家が末裔に相応しい事績といえよう。
記録によれば、魂魄妖夢は鬼の全力の打撃を幾度も受けながらその二刀を手放さず、恐るべき斬撃を事切れるまで放ち続けたと伝えられる。
数時間に及ぶ激闘の果て、全身を朱に染めた剣士が立ったまま絶命しているのを見届けたとき、萃香もまた限界に達して膝をついたほどである。
堂々たる立ち往生。
魂魄妖夢はその命が尽きてなお、二刀を握り締めたままであったと記録は語る。
霧雨魔理沙とレミリア・スカーレットの訃報が戦場を駆け巡ったのは、まさにその直後であった。剣士は己の命と引き換えにその役目を果たしたのだ。
「今の幻想郷に、萃香さんのお目に適う強者など残っているんですかね」
ため息交じりに阿求は呟いた。
レミリア・スカーレット、風見幽香、比那名居天子、八雲紫、天魔、そして博麗霊夢。
かつて萃香と並び最強の名で呼ばれた強者たちの多くはもはやない。
何よりも、鬼族それ自体が、伊吹萃香ただひとりを残して絶滅している。
「どうも私を過大評価してくれているようだけど、強さという点からすれば私に並ぶ奴は結構いるよ。特に、私と一緒に七頭なぞと呼ばれている連中は、ね」
気楽な調子で萃香はいう。
鬼族の最後のひとりという事実も、彼女の表情に陰りを落としたことはない。星熊勇儀ら同胞すべてが死に絶えたその夜、月を肴に無言で杯を傾けたのが、彼女のなした供養のすべてであったと聞く。
「……七頭の方々が図抜けた大妖ばかりという意見には賛同しますが」
「そうだろうさ。フランドールや藍はいうまでもなく、慧音も実はあれでかなりの手練れだよ。半獣なぞと呼ばれちゃいるけど、長らく人里を守り続けていた実戦経験、その積み重ねはある意味で私をも超える。本気でやれば負けるとはいわないけれど、ただですまないのは確実だね」
事実であった。
上白沢慧音はその誠実な人柄のみで七頭の筆頭格に挙げられているのではない。純然たる実力を認められてのことだ。
長く人里の守護者を務めた彼女は、道理を知らぬはぐれ妖怪、無法者との間に無数の実戦を経験している。
萃香も実戦経験では人後に落ちないが、慧音の強みは常に多数の、しかも互角以上の力量を持った相手と、負ければ後のない戦いばかりを続けてきた点だ。
戦闘に特化した身体能力故、いかな殺し合いもお遊びじみた感覚で切り抜けて来れた萃香とは、その点が決定的に異なる。
持たざる者が必死の努力で積み上げた経験の蓄積は、時に持って生まれた実力差をも覆す。そのことは、先の大乱で幾度も証明された。人里の軍勢が常に最小限の被害で最大限の戦果を叩き出して来たのは、用兵や仙術・武術の類が発達していたからだけではない。
「……まあ、そんな七頭にしても、結局のところはたまたまの偶然で寄って集った連中なんだけどね」
歩きながら、ふと萃香の表情が沈んだ。
阿求は訝しい気分でその顔を眺める。
この方もか。そう思った。最近、阿求は七頭の面々と顔を合わせる機会が多かったが、どうも彼女らは揃って自分たちを過小評価しているように思う。
実質的な幻想郷の統治機関たる七頭会。畏敬をもって囁かれるその名。讃えられる成果。動乱終結より四年、疲弊した幻想郷がさほどの混乱も見せずに復興を続けているのは、紛れもなく七頭の和合と統治が機能している結果だというのに。
それが、彼女たちにとっては何の誉れになっていないというのか。
半月前、射命丸文に対して手厳しい言葉を発したように、阿求には政を担う者に対して峻厳なまでに威風を求める部分がある。政嫌いではあるが、それ故にこそ政の重要性を知悉してもいる。ただ気楽に為政者の欠点をあげつらって批判を並べたてるような了見は、知者たることをもって任ずる稗田家当主にはない。
その価値観からすれば、文や萃香のような、為政者としての業績を卑下するがごとき態度はまったく気に食わないものだった。
七頭会はたしかに幻想郷の統治機関として確固たる成果を築いており、それは決して不当に賎しめられるべきものではない。それは七頭の統治を受け入れ、享受する人妖たちをも賎しめることにもつながるからだ。
それにしても、と阿求は思う。
かつて幻想郷において、何らかの組織・勢力の長として君臨していた者は、相応の威厳と誇りを持ち合わせていた。少なくとも、阿求が求める類の気高さは十二分にあった(中には増長が入っていないかと思える者も多々いたが)。
それが今の七頭は――
阿求は萃香の横顔を見つめた。
現時点において、間違いなく幻想郷最高峰の戦闘能力を誇る〈角なき鬼〉は、ここにはない何かを眺めている風で宙空を睨んでいた。
――第一三○季、如月。
旧都の会戦が勃発。
天狗族と鬼族の激戦に耐えかねた地底の地盤は完全に崩落し、会戦の当事者双方が壊滅する。
【幻想郷動乱記 第肆章より抜粋】
血で血を洗う幻想郷動乱は、第一三○季においていくつかの転機を迎えた。
この年のはじめ、四季映姫・ヤマザナドゥの依頼を受けた白玉楼が戦乱への介入を開始。当初は西軍・東軍双方へ停戦を呼びかけ、和睦の仲立ちを試みるも、西軍がまったく聞き耳を持たなかったために無為に終わった(東軍は、いくらかの条件つきではあったが話し合いに応じる構えを見せていた)。
さらに、第一三○季の終りには幻想郷の歴史上最大の戦とされる無名の丘の会戦が行われている。
だが、後の幻想郷にもっとも顕著な影響を残したのは、前年より続いていた地底戦役の衝撃的な終焉であろう。
第一二九季の半ば、かつての支配者であり現在の敵手である鬼族との完全な決別、そして全面攻勢を決断した山の天狗族は、一族の総力を挙げて鬼族の本拠たる旧地獄跡へ急襲をかける。
後代において地底戦役と呼ばれた一連の戦は、第一三○季の如月、旧都で行われた会戦において唐突に終わった。それも、誰もが予想しなかった恐るべき破局で。
――地底の完全な崩落。
種族として決死の覚悟を決めた天狗族。幻想郷でも最強クラスの妖怪として知られたその戦力は、旧支配者であった鬼族に劣るものではなく。
鬼たちもまた、かつて自分たちが配下に置いていた天狗族が初めて見せる「本気」に対し、全力をもって応えた。
本来、捨てられた都であった旧地獄跡の地盤は、戦いの当事者双方の繰り出す力に耐え切れなかったのである。
崩れ落ちた大量の土砂は、まつたく単純明快な破壊力そのものとして天狗・鬼の双方を地の底へ葬り去った。
……皮肉というならこれほど皮肉な話もない。
結局のところ天狗族は、かつての支配者であった鬼族と最後まで運命を共にしたのだ。
救いがあるとすれば、鬼族以外の地底妖怪のほぼ全員が、このとき古明地さとりに従い地上にいたこと。西軍の首脳のひとりとして伊吹萃香もまた地上で紅魔館と行動を共にしていたこと。そして、大天狗たちが最期の瞬間にその力を振り絞り、射命丸文や犬走椛ら数名の天狗を地上へ転移させたことだろう。
かつて幻想郷において最大勢力を誇った妖怪の山、その中枢を担った鬼と天狗の一族はここに消滅した。
山の指導部を構成した大天狗もむろんひとり残らず死出の旅についており、残された山の妖怪たちは生き残りの天狗の中でもっとも閲歴・実力ともに優れていた射命丸文を長として選任する。
後に七頭の一、〈御山の千年鴉〉として君臨する文は、まず優れた外交能力をもって戦力の立て直しに奔走した。
かねてからの盟友であった永遠亭はもちろん、曖昧な味方ともいうべき関係にあった人間の里、そして当初は仲介者として接触してきた白玉楼と全面的な軍事同盟を締結することに成功したのである。
さらに天界にも昇り、比那名居一族の暗黙の了解のもと、比那名居天子と永江衣玖の協力までも取り付けた上、人里以上に徹底した中立派である命蓮寺とも「好意的中立」を取りつけた点は、まったく全面的な称賛に値する。それまでの慇懃無礼の仮面を捨て、為政者として脱皮した射命丸文には、ネゴシエイターとして天性の資質があった。
ちなみにこのとき、文とともに各勢力を口説き、東軍を大同団結させたのが、霧雨魔理沙である。というより、大同盟という構想自体が、そもそも魔理沙によるものであるともいわれている。
射命丸文の外交手腕は間違いなくかつての山長・天魔にすらないものであったが、その成功は各勢力に政治的事情抜きの友人知己の多かった魔理沙の存在なくしては語れない。以後の東軍が、実質的に霧雨魔理沙を精神的支柱として纏まりを見せたことを考えても、それは明らかだろう。
またこれは、それまで永遠亭と同盟を結びつつ、根本的な部分では排他的な孤立政策を捨てられなかった妖怪の山の、完全な政策転換を意味するものでもあった。
かくして、天狗族の壊滅という惨禍から半年足らずで戦力を回復させた東軍は、同年末の無名の丘の会戦に臨む。
もしも大同盟がなくば、東軍には大規模な会戦を行うような余力はなかったろうし、それどころか動乱そのものに一方的な敗北を喫した可能性も高い。
動乱後の妖怪の山が、数年前からは想像もつかぬほど外部へ門戸を開くようになった点を鑑みても、地底戦役とその破局が幻想郷の歴史に与えた影響は計り知れない。
無名の丘の会戦が幻想郷動乱の最終決戦に連なる道程であったとすれば、地底戦役はさらに以後の歴史に大きな布石を打つ転機であった。
陸の頭 〈無地領主〉
かつて、博麗の巫女のおわす聖域とされた博麗神社。
この社は、第一二七季以降、ひどく数奇な運命をたどった。
主たる巫女が消えてしまったこともそうだが、動乱を引き起こした西軍こと紅魔館・地霊殿連合が第一二八季の秋、合同作戦司令部をこの地に置いたのである。
幻想郷の中でもさらに奥地――外の世界との境界の挟間に位置し、小高い丘の上に座する博麗神社は、それだけで非常に重要な軍事的価値を有していたからだった(攻める方向が限られ、しかも見晴らしのよい丘上という立地条件にはそれほどの価値がある)。妖怪の山を上回る天然の要塞というに相応しい。
主不在のこの社に司令部を置いた西軍の判断は大胆であると同時にまったく合理的といえた(なお、神社に軍事司令部を置くことを不謹慎と罵るような信心深さは、幻想郷の人妖たちにはない)。これは、西軍の軍師格として名を馳せた古明地さとりの進言によるものともされている。
動乱終結までの四年間、この社は紅魔館・地霊殿連合の中枢として機能し、多数の人妖が駐屯して難攻不落の要塞線を形成した。
そして、第一三一季の夏――最終決戦が行われたのも、この社であった。
動乱終結から四年、第一三五季の現在。この社は幻想郷最高統治機関たる七頭会、その会合が行われる場となっている。
理由はいくつかあった。
第一に、西軍が総司令部を置いたように、この地が非常に重要な軍事的価値を有していたこと。
第二に、幻想郷全域を影響下に置く統治機関の所在地として、博麗神社がこれ以上ないほど相応しい場所であったこと。
そして第三に、かつてこの社の主であった一人の巫女を、幻想郷中の住人たちが偲び、その名を忘れぬようにするため、である。
奇跡的に戦火を免れた鳥居を抜けると、阿求は一種の慨嘆とともに現在の博麗神社を眺めた。
五年に及ぶ大乱の最終決戦の場となった博麗神社は、その建造物の大半が崩壊した。
その後、七頭会の本拠地として再建されたが(ちなみにその工事は伊吹萃香がほぼ独力で、ほんの一晩で仕上げたという)、往時に比べ様変わりしている感は否めない。
従前のものに比べ、一回り大きく造られた新たな社は、手前側が参拝者向けの拝殿、東側は管理用の社務所(ただし、今や正式な住人は存在しないが)、そして奥の本殿がすなわち七頭会の会合の場となっている。
造られて間もないだけあり、以前のそれよりもむしろ壮麗な社となっているわけだが、阿求としてはその点にいささかの寂しさを感じずにはいられない。
かつて古びた神社の境内に腰掛け、自分を迎えてくれた巫女の姿を思い出す――参拝客が来ないことを愚痴りながらお茶をすすっていた娘。あらゆる人妖に好まれ慕われた、歴代最強の博麗。
拝殿へ阿求を案内した後、萃香は野暮用があるから、といって一度姿を消した。
七頭の中では唯一、特定の組織の長という立場にない萃香だが、現在の彼女は自身と同様の立場にある在野の妖怪の顔役というべき立ち位置にある。また、しばしば天界に入り浸っていた関係上、天界と地上の連絡役のような役割も果たしているという。
室内には、先客がいた。
幻想郷最高の大妖ばかりが揃う七頭にあって、もっとも温厚で静かな雰囲気を漂わせたその娘の名を、阿求はむろん知っている。
「お初にお目にかかります、稗田の御当主」
彼女は阿求を認めるや、深々と手をついて一礼した。
「古明地さとりと申します。どうぞお見知り置きの程を」
胸元に第三の眼を光らせながら、七頭の一、〈無地領主〉古明地さとりはそういった。
かつて幻想郷において、「敵にも味方にもしたくない」とされる一族があった。
覚り妖怪。
人であれ妖怪であれ、その心の内をすべて見透かし、読み取ってしまう一族。
大抵の妖怪は、本能のままに生きることを是としている。だが、木石ではない以上、誰にも知られたくない心情、口には決して出せない想い、表に出すべきでない密事というものはたしかにあった。
覚り妖怪はそれを、事もなげに読み取ってしまう。この一族が忌まれ、敬遠されたのは当然の成り行きだった。
当の覚りたちがまた、嫌われるのを承知の上で、その読み取った相手の内心を逆撫でするかのような態度を取ったのが、忌避に拍車をかけた。開き直りなのかただ単に性格が悪かったのかは判別し難いが、ともかくも彼ら彼女らが地底に追われたのも無理はない。
今代の覚り一族の長であり、かつては地霊殿の主として実質的な地底の支配者に君臨した古明地さとりは、歴代の覚り妖怪の中でももっとも情愛に溢れた人格者として知られていた。
総じてタチが悪いと評される地底妖怪の長としては、まったく稀有な評判であったが、かといって古明地さとりをあなどる者もまた存在しなかった。
本来、覚り妖怪は能力的にも身体的にもこれといって戦闘向きの種族ではない。ただ単に心が読めるというだけなら、戦闘においてはいくらでも対処のしようがある。単純に、心を読まれようが関係のないだけの速度と破壊力を叩きつければそれでいいのだから。
だが、さとりは違った。
対峙する相手の心理と記憶を読み取り、そのもっとも苦手とする戦法を選択する。それも、これ以上ないほど緻密に、的確に。
戦い方次第では鬼にも匹敵するという地底の妖怪たち――いや、鬼そのものにすら、古明地さとりが後れを取ったことはなかった。
読心の力を最大限に生かす技術、知性、実行力。
地霊殿の主たる古明地さとりには、まさに地底の支配者に相応しいだけの力量があった。
そして、先の幻想郷動乱。
この戦において、長きにわたり地底に押し込められていた妖怪たちの乾坤一擲の賭けとして、西軍に与することを選択した古明地さとりは、軍略家としての才覚を一気に開花させた。
彼女の立案する作戦、武略は、まさに敵軍の心理を読み取ったかのような恐るべき的確を持ち、数々の戦場において勝利をもたらした。忌避の対象とされていたその出自と、控え目な人柄のため、指揮官というより軍師・参謀的な立ち位置を強いられはしたものの、それが彼女の智略を制限することはなかった。西軍にはレミリア・スカーレットという、積極性と統率力においてはこれ以上ないカリスマがいたからだった。
全軍を統括するレミリアと、緻密な作戦立案を得意とする古明地さとり。このふたりがいたからこそ、西軍は各戦場において猛威を振るった。
「どうぞ。粗茶ですが」
一通りの挨拶がすむと、さとりは阿求に茶を勧めた。
まったく日本的な湯呑であったが、中に満たされていたのは阿求の好きな銘柄の紅茶であった。それもどこをどうやったものか、実に的確な温度と濃度で淹れられている。
驚きつつも香りと風味を楽しむ阿求に、さとりは微笑して、
「こちらから無理をいってお招きしたのです。お茶くらいは取り揃えますよ」
「……お心遣い、いたみいります」
まさに内心を見透かしたようなさとりに、阿求は形ばかりの微笑を向けた。
まったく油断ができない、心の片隅でそう感想を漏らす。
〈無地領主〉。治めるべき地を失った旧地底の女主。
地底戦役の破局に伴い帰る場所を失った地底妖怪たちは、現在、霧の湖の付近に新たな居住地を与えられている。同盟を組んでいた紅魔館の有形無形の協力もあり、かつて忌み嫌われていた妖怪たちは新たな安息の地を手に入れた。その点において、旧地底の支配者は賭けに勝ったといえる。しかし、長らく支配していた地底、それを物理的に失うなどとは、この聡明な覚り妖怪にも予想外であったはずだ。
これはこれで、実に興味深い観察対象ではある。
ただ、間近で観察するにはいささかの労力が必要なのが難ではあるが。
「さすがですね」
いくらかどうでもいいような世間話じみた会話を経てから、さとりはやや唐突にすら思える台詞で阿求を称賛した。
「何がでしょう?」
「伝え聞いていた御阿礼の子の知性、その深さと密度に感嘆しました。これほどに読みにくい相手は久方ぶりです」
「褒められているのでしょうか」
無論です、とさとりは笑う。
社に入ってこの〈無地領主〉の姿を認めた瞬間から、阿求は自身の思考を並列化・加速化させていた。つまり、複数の思考を同時に、かつ高速で進行させている。
読み物に例えるならば、ジャンルも文体も言語もまるで異なる複数の文章が一枚の紙に殴り書きのように羅列されている状況というわけで、これならばいかにさとりが優れた読心の力を有していても、阿求の心理・記憶を読み取るのは困難を極めるはずだった。
もっとも御阿礼の子にとって、このていどの思考作業は児戯に等しい。人間としても特に短い生涯で、求聞持の能力で収集した膨大な知識を整理し、幻想郷縁起という書物へ結集するには、思考というものをより効率的に高速で行わねば始まらない。
「一つ、貴方にも興味のあるはずのことをお教えしましょう。私のような覚り妖怪は、人妖の心理を読み取るとき、まず漠然とした全体像を見定めます」
「全体像、ですか」
「ええ。貴方には今更言うまでもないことかも知れませんが、知性体の思考とはまことに混沌たるもの。普通にしていてすら、『暑い』『腹が減った』『あの人が好き』『明日はこうしよう』『前から心配だったあれはどうしよう』と、取りとめのない思考が湯水の如く浮いて出る。それを体系立てて読み取ろうとしたら、私たちの方が発狂します」
つまり、貴方が今行っていることを、より無秩序に、無作為に、表層的に行っているわけですね。さとりは淡々と説明する。
「故に我ら覚り妖怪が見渡すのは、思考の全体像。方向性。志向性。有象無象一切合切が含まれた心象風景とでもいいますか。その中で、とりわけ強く目を引くものを解析します。覚り妖怪に優劣があるとすれば、どれだけその心象風景から多くを解析できるかに尽きるわけですが」
なかなかに興味深い話なので、阿球も我知らず身を乗り出していた。
「その点において、貴方の求聞持の能力には共感するところもありますよ。見聞きしたすべてを記憶してしまう貴方も、生活に必要な記憶のみを取捨選択し再認して生きておられるのでしょう」
「たしかに、意外な共通点ですね」
阿求も微笑んだ。実際、そこらに歩いている人間の一人を捉まえても、その心理すべてを読み取り説明しようとするのは一大事業になるだろう。さとりの場合、表層的な意識のみならず、相手の記憶を含めたすべてを見通すというから、その解析力たるや底知れない。西軍の軍師格として名を馳せたのもうなずける。
「面白いことに、心の全体像――心象風景というものは、同じような環境に育った人間であっても特色がありましてね。言葉にするのは難しいですけれども、絵画に例えるとわかりやすいかも知れません。一見似たような絵でも、色合いや絵筆の癖はそれぞれに異なり、描き手の人となりを知る材料になるでしょう」
ふむ、と阿求は何度もうなずいた。いつの間にか、普段の温厚な稗田家当主から、好奇心の塊というべき御阿礼の子として考察する態勢に入ってしまっている。
「御阿礼の子」
さとりは一瞬だけ、澄んだ、しかしどこか冷たい眼をしていった。
その眼の色に阿求は覚えがあった。あれは鏡を通して見る自分とよく似ている。
「貴方の中にある絵は、一言でいえば統制された混沌ですね。清濁玉石ありとあらゆる事象を知識として呑み込みながら、それらすべてを整然と包括している。しかもそれらすべてが不完全に見える。溢れんばかりの知識を溜め込みながら、なお未知なるものを求める。貴方の絵は、私が見た中では二番目に恐ろしい絵です」
かつての支配地を失った〈無地領主〉はどこまでもにこやかにそういって、自身の湯呑を空にした。
幻想郷動乱 其の参 終
博麗大結界の成立時、その姿を見せたという龍神は、しかしこのあらゆる人妖を巻き込んだ大乱において、ついに現れることはなかった。
その後の百数十年、幻想郷に平穏をもたらした博麗大結界、その幕開けを看過はせず、しかしていざこの郷がかつてないほど乱れたときには黙して現れぬ。
あるいは龍神は、この郷を、よるべなき哀れな幻想たちを見限ったというのか?
大結界の成立時、八雲の大妖と交わしたという誓約――それが破られたとしてすべてに失望し、この幻想郷から去ったというのか?
人でなく妖でもない龍神の真意を語れる者は、この幻想郷にも絶えて久しい。
だが、私はこうも思うのだ。
幻想郷の龍神にとって、人も妖も、生も死も、すべては等価値なのではなかろうかと。
ちょうど、かつてこの幻想郷の守護者として人妖に慕われたあの巫女が、まさにそのような存在であったように。
龍の神は先の大乱をも、人と妖の本能の一端として受容したのではなかろうか。
そうであるとするならば、龍の神とは、いや、幻想郷とは、何と残酷で冷酷な存在なのか。
外の世界では忌まれ、あるいは忘却されたすべてを受け入れる理想郷。
それはしかし、戦を求める猛々しい戦意、殺意をも、当然のものとして受容する。そこに一切の例外はなく、慈悲もない。
そうであるならば、先の大乱は……いや、そもそも博麗大結界そのものが……
いや、やめよう。
すべては私の描いた絵空事。他愛のない空想に過ぎない。
今はただ、和睦が成り復興を始めた幻想郷の姿を、静かに見つめよう。
――第一三一季、長月に記された稗田阿求の日記より
――第一二八季、弥生。
地霊殿を筆頭とする地底の妖怪たちが西軍に参加。
同月末、永遠亭が東軍へ参加。
人里は中立を宣言するも、永遠亭と双務的な同盟を結び、一定の距離を保ちつつ東軍寄りの姿勢を選択する。
【幻想郷動乱記 第参章より抜粋】
伊吹萃香・風見幽香の西軍加入により長期化の様相を呈し始めた戦は、年が開けた弥生において、驚愕すべき局面を迎えた。
地霊殿の主たる古明地さとりが、鬼族を含む地底の妖怪すべてを引き連れ、西軍について参戦したのである。
非戦・不干渉の約定を結んでいたはずの地底勢力が地上の戦乱に介入したのは、やはり山の自業自得ともいうべき面があった。
長の復仇に燃える天狗たちの一部が地底すらも調査対象の一つとし、地霊殿に乗り込んであれこれと調べ回っていたのである。
いかに先の間欠泉騒ぎ以降、地底と地底の間でいくらかの交流が生まれつつあったとは言っても、たしかにこれは山の過失であった。馴れ合いじみた平和の中では看過されるようなことでも、戦においては立派な大義名分になる。先に盟約を破ったのは山の方である、という論理がたしかに成立してしまう。
直接的なきっかけは、紅魔館からの働きかけであったという。動乱が終息すれば、地底との全面的な友好を約し、望むならば地上に居所を与える――レミリア・スカーレットはそう明言したと伝えられる。幻想郷においては新参の勢力であり、地底への偏見をまったくといっていいほど持たないレミリアの約束には説得力があった。
地底の環境は、妖怪にとっても決して住みよいものではない。何せもとは地獄だったのである。住めば都とはいえ、地上への漠然とした憧憬はたしかにあった。
地霊殿の主であり、地底妖怪の筆頭格でもある古明地さとりは、レミリアの誘いに乗った。
山におわす守矢の二神の協力で、旧灼熱地獄跡に革新的な動力炉が建設されつつあったことを考えれば意外な選択であったが、逆にいうならばそれもまた紅魔館の手を取る理由の一つであった。下手をすれば地底の妖怪たちは動力炉の管理人として、永劫に地底に留め置かれることにもつながりかねないからだ。
この機を逃せば地底の妖怪はすべて文字通りの日蔭者として生涯を終える。それは、古明地さとりの看過しうる未来ではなかった。
かくして地霊殿は、鬼族を含む地底の全勢力を挙げて紅魔館に加勢した。
妖怪の山の衝撃は、想像に難くない。
伊吹萃香のみならず、地底に移住していた鬼族が一族を挙げて敵に回ったのである。
それまでの自分たちの大義、統治を全否定されたに等しい。
戦力的にも、まったくの脅威であった。鬼族の戦闘能力は今更論じるまでもないが、古明地さとりを筆頭とする地底妖怪たちの戦力もあなどれるものではなかった。地底妖怪の大半は、すべてを受け入れるはずの幻想郷ですら持て余され、忌まれてきた連中だ。戦い方次第では鬼にすら匹敵する特異な能力を持つ者、気まぐれで扱いづらいが純粋に地力はある者も少なくなかった。
開戦当初は山の圧倒的優位であったはずの戦力差は、ここにおいて完全に逆転するかに思われた。
史上最大の危地に陥った妖怪の山を救ったのは、永遠亭であった。
蓬莱山輝夜を頂く永遠亭、幻想郷の歴史においては新参とされながらもその実力を噂されていた勢力が、戦線を果てしなく拡大しようとする紅魔館・地底勢力に公然と敵意を表明したのである。
永遠亭が妖怪に山に味方した理由は、明快なものだった。蓬莱山輝夜は怠惰な安寧に満ちた幻想郷を愛していたし、大結界によって月の追手から守られてもいた。その平穏を揺るがす西軍の存在を、見過ごすわけにはいかなかったのだ。
時を同じくして人間の里でも激論が交わされていた。
かつて博麗大結界が成立した折、妖怪たちはその是非を巡って争いを繰り広げた。そして人間の里は、自分たちを襲うことすら忘れて相争う妖怪たちの闘争を黙認するどころか手を打って喜びすらした。人里には対妖戦闘に長じた術者や剣士も多くいたが、それでも身体能力において優れる妖怪たちはそれだけで十分な脅威であり、同族争いで妖怪たちが弱ってくれるなら願ったりであったからだ。
その前提からすれば、今回の動乱も、人間の里にとってはまったく喜ばしい事態とはいえた。妖怪たちが相食むならば勝手にさせておけばよいのだ。
だが、博麗大結界の成立以降、長きにわたった平穏な日々は、人間の里にも新たな価値観を持ち込んでいた。
妖怪相手に商売をしていた者もいたし、個人的に妖怪たちと友誼を結んだ者もいた。妖怪の山との関係に限っていうならば、閉鎖的な気風に辟易している者もむろん多かったが、山に住まう豊穣の姉妹神は人里にとってもっとも馴染み深い神であったし、厄神の恩恵を知る者もいた。ついでに付け加えるならば、射命丸文の発行する文々。新聞は人里の少女たちによく好まれていた。
そうした者たちは、ただ座して隣人たちの争いを眺めているだけでよいのか、と論じた。
永遠亭が妖怪の山側に立って参戦したことも、大きな要素だった。
迷いの竹林にそびえる永遠亭は、希代の名医・八意永琳と、その処方する置き薬によって、よき隣人としての関係を築いていた。
対して紅魔館はというと、お人好しの門番が人里でも親しまれてはいたが、全般的に「吸血鬼事変を引き起こした悪魔の館」というイメージが強い。地底勢力にしても、嫉妬を操る橋姫やら疫病を振りまく土蜘蛛やらと、人間の価値観からすればひどくタチの悪い妖怪ばかり。
どう考えても、西軍、つまり紅魔館・地底勢力(ちなみに西軍・東軍という呼称は、この頃から誰彼ともなく使われ始めていた。これは地理的な関係からなる呼称ではなく、紅魔館陣営が西洋悪魔を兵力の主体としていたこと、対する妖怪の山が日本国古来の神妖を中心としていたことによる)が勝利してしまっては、ろくでもないことになりそうだった。
議論が紛糾し、最終的には人里の守護者として声望を集めていた上白沢慧音に判断が委ねられた。老齢の里長は、彼女の均衡の取れた判断力、愚直に人間を愛する誠実な人柄に全面的な信頼を寄せていた。
とはいえ、慧音も困惑していた。半人半妖である彼女は、人間というものを我が身に代えても守ろうするほどに好んでいたが、同時に人と妖怪のパワーバランスというものをひどく重視していた。
長く続いた平穏を打ち壊した西軍への怒りはたしかにあったが、といってそれとの全面戦争をためらうのは彼女も同じだった。
結果、彼女が里長に進言したのは、基本的には中立を保ちつつ、安全保障のために永遠亭と(東軍ではなくあくまで永遠亭と、である)盟約を結ぶことだった。どっちつかずといってしまえばそれまでだが、なかなかに巧妙な外交策といえよう。
とはいえ、物事にはすべからく長短が同程度に絡むものである。
中立派である人里は、紅魔館・地霊殿連合にも妖怪の山にも本格的な攻撃対象とされない代わりに、動乱に巻き込まれたからといって支援を求められる立場にもなかった。
その短所を顕著に表したのが、翌第一二九季の如月、人里の近くで行われた東西両軍による会戦である。
この戦いにおいて、人里は中立を宣言し、防備を固めた。いかに永遠亭とは同盟者であるとはいえ、本格的な会戦に参加するほどはっきりとした軍事同盟ではなかったし、永遠亭もまた人里の参戦を求めはしなかった。
激戦は三日間続いた。その激しさは、翌年に行われた無名の丘の会戦に次ぐほどのものであった。
このとき、両軍共に人間の里を攻める意思は微塵もなかったのは事実である。
本来、人間の里に手出しをすることは固く戒められていたし、対妖戦術の専門家を多く擁する人里を敵に回すつもりもまた両派にはなかった。
だが、複数の大妖が入り乱れたこの会戦において、一つの事故が起こる。
両勢力の天狗と蓬莱人、鬼族、そして吸血鬼が、互いに大出力の術式を展開。激突した破壊力は行き場を失い、暴走――そしてその軌道上に、人間の里が存在したのである。
戦局の推移を最大限の警戒とともに見守っていた人里の自警団は、迅速に反応した。全術者を動員しての防衛結界を張り、不幸な事故ともいうべき惨事が起こるのを防ごうとした。
しかし、暴走した術式の破壊力は、人間の術者たちの努力をわずかに上回った。
上白沢慧音が生死をさ迷う重傷を負ったのはこの時である。
彼女は防ぎ切れないと見るや、躊躇なく莫大な妖力の渦の前にその身をさらし、自身の全生命力をかけて防壁を展開した。
時間にしてほんの数瞬の、熱く激しい、そして絶望的な戦い。
上白沢慧音は右腕を完全に失い、残る右半身にも重傷を負いながら、彼女の愛した人間の里を守り切った。
人間の里が本格的に東軍に傾いていくのは、まさにこのときを契機としている。
伍の頭 〈角なき鬼〉
過日、稗田阿求の招聘に当たり、七頭会は〈御山の千年鴉〉という最上級のカードを切ってその誠意の証とした。
七頭が自分をそこまで評価した理由について、当の阿求は頭を抱えて悩みもしたのだが、生憎と彼女の認識はまだまだ甘かったというべきだろう。
射命丸文が稗田家を訪れ、そして阿求が七頭に了承の意を伝えた半月後――
七頭の会合に彼女を迎えに現れたのは、やはり七頭の一角であったのだから。
「いやー、それにしてもよく引き受けてくれたよ。他の連中に代わって礼をいっとく」
博麗神社に至る山道を歩きつつ、からからと笑うのは一見童女のような姿をした妖の娘。
幻想郷最強最大の大妖たる七頭、その中でもさらに純粋な戦闘能力においては随一とされる怪物。
〈角なき鬼〉伊吹萃香。
先の大乱においては西軍最強戦力のひとりとして、暴風の如く戦場を蹂躙した鬼神である。
「……萃香さんが来られるとは、さすがに思っていませんでしたよ」
半ばは悟りの心境に達しつつ、阿求はいう。萃香は何を言ってるんだい、とばかりに片目を瞑った。
「無理を言ったのはこっちだからね。本来なら私たち全員が頭を下げて迎えるのが筋ってもんだ」
「それをされたら我が家の周辺はパニックになっていましたよ」
「どうかねぇ。人里の連中はそれほど軟弱でもないさ」
相変わらず楽しげな伊吹萃香――〈角なき鬼〉。
その異名が示す通り、今の彼女の頭部には、かつて隆々とそびえていた二本の角がない。より正確には、根元近くでへし折れている。
幻想郷の歴史上、最大の戦とされた無名の丘の会戦。その激戦において、東軍の陣頭に立って突撃してきた魂魄妖夢の遺した傷痕だ。
無名の丘の会戦で初めて本格参戦した白玉楼の妖夢はこのとき、東軍の作戦においてひどく重要な役目を帯びていた。西軍最強戦力たる伊吹萃香を足止めし、霧雨魔理沙率いる主力の突撃を支援することだ。
半人半霊の剣士はその意地と剣技と生命のすべてをもって、戦闘者としては明らかな格上である幻想郷最強の鬼神に挑み、若木のしなやかさと金剛石の硬度を持つといわれたその双角を叩き斬った。まさしく、武門魂魄家が末裔に相応しい事績といえよう。
記録によれば、魂魄妖夢は鬼の全力の打撃を幾度も受けながらその二刀を手放さず、恐るべき斬撃を事切れるまで放ち続けたと伝えられる。
数時間に及ぶ激闘の果て、全身を朱に染めた剣士が立ったまま絶命しているのを見届けたとき、萃香もまた限界に達して膝をついたほどである。
堂々たる立ち往生。
魂魄妖夢はその命が尽きてなお、二刀を握り締めたままであったと記録は語る。
霧雨魔理沙とレミリア・スカーレットの訃報が戦場を駆け巡ったのは、まさにその直後であった。剣士は己の命と引き換えにその役目を果たしたのだ。
「今の幻想郷に、萃香さんのお目に適う強者など残っているんですかね」
ため息交じりに阿求は呟いた。
レミリア・スカーレット、風見幽香、比那名居天子、八雲紫、天魔、そして博麗霊夢。
かつて萃香と並び最強の名で呼ばれた強者たちの多くはもはやない。
何よりも、鬼族それ自体が、伊吹萃香ただひとりを残して絶滅している。
「どうも私を過大評価してくれているようだけど、強さという点からすれば私に並ぶ奴は結構いるよ。特に、私と一緒に七頭なぞと呼ばれている連中は、ね」
気楽な調子で萃香はいう。
鬼族の最後のひとりという事実も、彼女の表情に陰りを落としたことはない。星熊勇儀ら同胞すべてが死に絶えたその夜、月を肴に無言で杯を傾けたのが、彼女のなした供養のすべてであったと聞く。
「……七頭の方々が図抜けた大妖ばかりという意見には賛同しますが」
「そうだろうさ。フランドールや藍はいうまでもなく、慧音も実はあれでかなりの手練れだよ。半獣なぞと呼ばれちゃいるけど、長らく人里を守り続けていた実戦経験、その積み重ねはある意味で私をも超える。本気でやれば負けるとはいわないけれど、ただですまないのは確実だね」
事実であった。
上白沢慧音はその誠実な人柄のみで七頭の筆頭格に挙げられているのではない。純然たる実力を認められてのことだ。
長く人里の守護者を務めた彼女は、道理を知らぬはぐれ妖怪、無法者との間に無数の実戦を経験している。
萃香も実戦経験では人後に落ちないが、慧音の強みは常に多数の、しかも互角以上の力量を持った相手と、負ければ後のない戦いばかりを続けてきた点だ。
戦闘に特化した身体能力故、いかな殺し合いもお遊びじみた感覚で切り抜けて来れた萃香とは、その点が決定的に異なる。
持たざる者が必死の努力で積み上げた経験の蓄積は、時に持って生まれた実力差をも覆す。そのことは、先の大乱で幾度も証明された。人里の軍勢が常に最小限の被害で最大限の戦果を叩き出して来たのは、用兵や仙術・武術の類が発達していたからだけではない。
「……まあ、そんな七頭にしても、結局のところはたまたまの偶然で寄って集った連中なんだけどね」
歩きながら、ふと萃香の表情が沈んだ。
阿求は訝しい気分でその顔を眺める。
この方もか。そう思った。最近、阿求は七頭の面々と顔を合わせる機会が多かったが、どうも彼女らは揃って自分たちを過小評価しているように思う。
実質的な幻想郷の統治機関たる七頭会。畏敬をもって囁かれるその名。讃えられる成果。動乱終結より四年、疲弊した幻想郷がさほどの混乱も見せずに復興を続けているのは、紛れもなく七頭の和合と統治が機能している結果だというのに。
それが、彼女たちにとっては何の誉れになっていないというのか。
半月前、射命丸文に対して手厳しい言葉を発したように、阿求には政を担う者に対して峻厳なまでに威風を求める部分がある。政嫌いではあるが、それ故にこそ政の重要性を知悉してもいる。ただ気楽に為政者の欠点をあげつらって批判を並べたてるような了見は、知者たることをもって任ずる稗田家当主にはない。
その価値観からすれば、文や萃香のような、為政者としての業績を卑下するがごとき態度はまったく気に食わないものだった。
七頭会はたしかに幻想郷の統治機関として確固たる成果を築いており、それは決して不当に賎しめられるべきものではない。それは七頭の統治を受け入れ、享受する人妖たちをも賎しめることにもつながるからだ。
それにしても、と阿求は思う。
かつて幻想郷において、何らかの組織・勢力の長として君臨していた者は、相応の威厳と誇りを持ち合わせていた。少なくとも、阿求が求める類の気高さは十二分にあった(中には増長が入っていないかと思える者も多々いたが)。
それが今の七頭は――
阿求は萃香の横顔を見つめた。
現時点において、間違いなく幻想郷最高峰の戦闘能力を誇る〈角なき鬼〉は、ここにはない何かを眺めている風で宙空を睨んでいた。
――第一三○季、如月。
旧都の会戦が勃発。
天狗族と鬼族の激戦に耐えかねた地底の地盤は完全に崩落し、会戦の当事者双方が壊滅する。
【幻想郷動乱記 第肆章より抜粋】
血で血を洗う幻想郷動乱は、第一三○季においていくつかの転機を迎えた。
この年のはじめ、四季映姫・ヤマザナドゥの依頼を受けた白玉楼が戦乱への介入を開始。当初は西軍・東軍双方へ停戦を呼びかけ、和睦の仲立ちを試みるも、西軍がまったく聞き耳を持たなかったために無為に終わった(東軍は、いくらかの条件つきではあったが話し合いに応じる構えを見せていた)。
さらに、第一三○季の終りには幻想郷の歴史上最大の戦とされる無名の丘の会戦が行われている。
だが、後の幻想郷にもっとも顕著な影響を残したのは、前年より続いていた地底戦役の衝撃的な終焉であろう。
第一二九季の半ば、かつての支配者であり現在の敵手である鬼族との完全な決別、そして全面攻勢を決断した山の天狗族は、一族の総力を挙げて鬼族の本拠たる旧地獄跡へ急襲をかける。
後代において地底戦役と呼ばれた一連の戦は、第一三○季の如月、旧都で行われた会戦において唐突に終わった。それも、誰もが予想しなかった恐るべき破局で。
――地底の完全な崩落。
種族として決死の覚悟を決めた天狗族。幻想郷でも最強クラスの妖怪として知られたその戦力は、旧支配者であった鬼族に劣るものではなく。
鬼たちもまた、かつて自分たちが配下に置いていた天狗族が初めて見せる「本気」に対し、全力をもって応えた。
本来、捨てられた都であった旧地獄跡の地盤は、戦いの当事者双方の繰り出す力に耐え切れなかったのである。
崩れ落ちた大量の土砂は、まつたく単純明快な破壊力そのものとして天狗・鬼の双方を地の底へ葬り去った。
……皮肉というならこれほど皮肉な話もない。
結局のところ天狗族は、かつての支配者であった鬼族と最後まで運命を共にしたのだ。
救いがあるとすれば、鬼族以外の地底妖怪のほぼ全員が、このとき古明地さとりに従い地上にいたこと。西軍の首脳のひとりとして伊吹萃香もまた地上で紅魔館と行動を共にしていたこと。そして、大天狗たちが最期の瞬間にその力を振り絞り、射命丸文や犬走椛ら数名の天狗を地上へ転移させたことだろう。
かつて幻想郷において最大勢力を誇った妖怪の山、その中枢を担った鬼と天狗の一族はここに消滅した。
山の指導部を構成した大天狗もむろんひとり残らず死出の旅についており、残された山の妖怪たちは生き残りの天狗の中でもっとも閲歴・実力ともに優れていた射命丸文を長として選任する。
後に七頭の一、〈御山の千年鴉〉として君臨する文は、まず優れた外交能力をもって戦力の立て直しに奔走した。
かねてからの盟友であった永遠亭はもちろん、曖昧な味方ともいうべき関係にあった人間の里、そして当初は仲介者として接触してきた白玉楼と全面的な軍事同盟を締結することに成功したのである。
さらに天界にも昇り、比那名居一族の暗黙の了解のもと、比那名居天子と永江衣玖の協力までも取り付けた上、人里以上に徹底した中立派である命蓮寺とも「好意的中立」を取りつけた点は、まったく全面的な称賛に値する。それまでの慇懃無礼の仮面を捨て、為政者として脱皮した射命丸文には、ネゴシエイターとして天性の資質があった。
ちなみにこのとき、文とともに各勢力を口説き、東軍を大同団結させたのが、霧雨魔理沙である。というより、大同盟という構想自体が、そもそも魔理沙によるものであるともいわれている。
射命丸文の外交手腕は間違いなくかつての山長・天魔にすらないものであったが、その成功は各勢力に政治的事情抜きの友人知己の多かった魔理沙の存在なくしては語れない。以後の東軍が、実質的に霧雨魔理沙を精神的支柱として纏まりを見せたことを考えても、それは明らかだろう。
またこれは、それまで永遠亭と同盟を結びつつ、根本的な部分では排他的な孤立政策を捨てられなかった妖怪の山の、完全な政策転換を意味するものでもあった。
かくして、天狗族の壊滅という惨禍から半年足らずで戦力を回復させた東軍は、同年末の無名の丘の会戦に臨む。
もしも大同盟がなくば、東軍には大規模な会戦を行うような余力はなかったろうし、それどころか動乱そのものに一方的な敗北を喫した可能性も高い。
動乱後の妖怪の山が、数年前からは想像もつかぬほど外部へ門戸を開くようになった点を鑑みても、地底戦役とその破局が幻想郷の歴史に与えた影響は計り知れない。
無名の丘の会戦が幻想郷動乱の最終決戦に連なる道程であったとすれば、地底戦役はさらに以後の歴史に大きな布石を打つ転機であった。
陸の頭 〈無地領主〉
かつて、博麗の巫女のおわす聖域とされた博麗神社。
この社は、第一二七季以降、ひどく数奇な運命をたどった。
主たる巫女が消えてしまったこともそうだが、動乱を引き起こした西軍こと紅魔館・地霊殿連合が第一二八季の秋、合同作戦司令部をこの地に置いたのである。
幻想郷の中でもさらに奥地――外の世界との境界の挟間に位置し、小高い丘の上に座する博麗神社は、それだけで非常に重要な軍事的価値を有していたからだった(攻める方向が限られ、しかも見晴らしのよい丘上という立地条件にはそれほどの価値がある)。妖怪の山を上回る天然の要塞というに相応しい。
主不在のこの社に司令部を置いた西軍の判断は大胆であると同時にまったく合理的といえた(なお、神社に軍事司令部を置くことを不謹慎と罵るような信心深さは、幻想郷の人妖たちにはない)。これは、西軍の軍師格として名を馳せた古明地さとりの進言によるものともされている。
動乱終結までの四年間、この社は紅魔館・地霊殿連合の中枢として機能し、多数の人妖が駐屯して難攻不落の要塞線を形成した。
そして、第一三一季の夏――最終決戦が行われたのも、この社であった。
動乱終結から四年、第一三五季の現在。この社は幻想郷最高統治機関たる七頭会、その会合が行われる場となっている。
理由はいくつかあった。
第一に、西軍が総司令部を置いたように、この地が非常に重要な軍事的価値を有していたこと。
第二に、幻想郷全域を影響下に置く統治機関の所在地として、博麗神社がこれ以上ないほど相応しい場所であったこと。
そして第三に、かつてこの社の主であった一人の巫女を、幻想郷中の住人たちが偲び、その名を忘れぬようにするため、である。
奇跡的に戦火を免れた鳥居を抜けると、阿求は一種の慨嘆とともに現在の博麗神社を眺めた。
五年に及ぶ大乱の最終決戦の場となった博麗神社は、その建造物の大半が崩壊した。
その後、七頭会の本拠地として再建されたが(ちなみにその工事は伊吹萃香がほぼ独力で、ほんの一晩で仕上げたという)、往時に比べ様変わりしている感は否めない。
従前のものに比べ、一回り大きく造られた新たな社は、手前側が参拝者向けの拝殿、東側は管理用の社務所(ただし、今や正式な住人は存在しないが)、そして奥の本殿がすなわち七頭会の会合の場となっている。
造られて間もないだけあり、以前のそれよりもむしろ壮麗な社となっているわけだが、阿求としてはその点にいささかの寂しさを感じずにはいられない。
かつて古びた神社の境内に腰掛け、自分を迎えてくれた巫女の姿を思い出す――参拝客が来ないことを愚痴りながらお茶をすすっていた娘。あらゆる人妖に好まれ慕われた、歴代最強の博麗。
拝殿へ阿求を案内した後、萃香は野暮用があるから、といって一度姿を消した。
七頭の中では唯一、特定の組織の長という立場にない萃香だが、現在の彼女は自身と同様の立場にある在野の妖怪の顔役というべき立ち位置にある。また、しばしば天界に入り浸っていた関係上、天界と地上の連絡役のような役割も果たしているという。
室内には、先客がいた。
幻想郷最高の大妖ばかりが揃う七頭にあって、もっとも温厚で静かな雰囲気を漂わせたその娘の名を、阿求はむろん知っている。
「お初にお目にかかります、稗田の御当主」
彼女は阿求を認めるや、深々と手をついて一礼した。
「古明地さとりと申します。どうぞお見知り置きの程を」
胸元に第三の眼を光らせながら、七頭の一、〈無地領主〉古明地さとりはそういった。
かつて幻想郷において、「敵にも味方にもしたくない」とされる一族があった。
覚り妖怪。
人であれ妖怪であれ、その心の内をすべて見透かし、読み取ってしまう一族。
大抵の妖怪は、本能のままに生きることを是としている。だが、木石ではない以上、誰にも知られたくない心情、口には決して出せない想い、表に出すべきでない密事というものはたしかにあった。
覚り妖怪はそれを、事もなげに読み取ってしまう。この一族が忌まれ、敬遠されたのは当然の成り行きだった。
当の覚りたちがまた、嫌われるのを承知の上で、その読み取った相手の内心を逆撫でするかのような態度を取ったのが、忌避に拍車をかけた。開き直りなのかただ単に性格が悪かったのかは判別し難いが、ともかくも彼ら彼女らが地底に追われたのも無理はない。
今代の覚り一族の長であり、かつては地霊殿の主として実質的な地底の支配者に君臨した古明地さとりは、歴代の覚り妖怪の中でももっとも情愛に溢れた人格者として知られていた。
総じてタチが悪いと評される地底妖怪の長としては、まったく稀有な評判であったが、かといって古明地さとりをあなどる者もまた存在しなかった。
本来、覚り妖怪は能力的にも身体的にもこれといって戦闘向きの種族ではない。ただ単に心が読めるというだけなら、戦闘においてはいくらでも対処のしようがある。単純に、心を読まれようが関係のないだけの速度と破壊力を叩きつければそれでいいのだから。
だが、さとりは違った。
対峙する相手の心理と記憶を読み取り、そのもっとも苦手とする戦法を選択する。それも、これ以上ないほど緻密に、的確に。
戦い方次第では鬼にも匹敵するという地底の妖怪たち――いや、鬼そのものにすら、古明地さとりが後れを取ったことはなかった。
読心の力を最大限に生かす技術、知性、実行力。
地霊殿の主たる古明地さとりには、まさに地底の支配者に相応しいだけの力量があった。
そして、先の幻想郷動乱。
この戦において、長きにわたり地底に押し込められていた妖怪たちの乾坤一擲の賭けとして、西軍に与することを選択した古明地さとりは、軍略家としての才覚を一気に開花させた。
彼女の立案する作戦、武略は、まさに敵軍の心理を読み取ったかのような恐るべき的確を持ち、数々の戦場において勝利をもたらした。忌避の対象とされていたその出自と、控え目な人柄のため、指揮官というより軍師・参謀的な立ち位置を強いられはしたものの、それが彼女の智略を制限することはなかった。西軍にはレミリア・スカーレットという、積極性と統率力においてはこれ以上ないカリスマがいたからだった。
全軍を統括するレミリアと、緻密な作戦立案を得意とする古明地さとり。このふたりがいたからこそ、西軍は各戦場において猛威を振るった。
「どうぞ。粗茶ですが」
一通りの挨拶がすむと、さとりは阿求に茶を勧めた。
まったく日本的な湯呑であったが、中に満たされていたのは阿求の好きな銘柄の紅茶であった。それもどこをどうやったものか、実に的確な温度と濃度で淹れられている。
驚きつつも香りと風味を楽しむ阿求に、さとりは微笑して、
「こちらから無理をいってお招きしたのです。お茶くらいは取り揃えますよ」
「……お心遣い、いたみいります」
まさに内心を見透かしたようなさとりに、阿求は形ばかりの微笑を向けた。
まったく油断ができない、心の片隅でそう感想を漏らす。
〈無地領主〉。治めるべき地を失った旧地底の女主。
地底戦役の破局に伴い帰る場所を失った地底妖怪たちは、現在、霧の湖の付近に新たな居住地を与えられている。同盟を組んでいた紅魔館の有形無形の協力もあり、かつて忌み嫌われていた妖怪たちは新たな安息の地を手に入れた。その点において、旧地底の支配者は賭けに勝ったといえる。しかし、長らく支配していた地底、それを物理的に失うなどとは、この聡明な覚り妖怪にも予想外であったはずだ。
これはこれで、実に興味深い観察対象ではある。
ただ、間近で観察するにはいささかの労力が必要なのが難ではあるが。
「さすがですね」
いくらかどうでもいいような世間話じみた会話を経てから、さとりはやや唐突にすら思える台詞で阿求を称賛した。
「何がでしょう?」
「伝え聞いていた御阿礼の子の知性、その深さと密度に感嘆しました。これほどに読みにくい相手は久方ぶりです」
「褒められているのでしょうか」
無論です、とさとりは笑う。
社に入ってこの〈無地領主〉の姿を認めた瞬間から、阿求は自身の思考を並列化・加速化させていた。つまり、複数の思考を同時に、かつ高速で進行させている。
読み物に例えるならば、ジャンルも文体も言語もまるで異なる複数の文章が一枚の紙に殴り書きのように羅列されている状況というわけで、これならばいかにさとりが優れた読心の力を有していても、阿求の心理・記憶を読み取るのは困難を極めるはずだった。
もっとも御阿礼の子にとって、このていどの思考作業は児戯に等しい。人間としても特に短い生涯で、求聞持の能力で収集した膨大な知識を整理し、幻想郷縁起という書物へ結集するには、思考というものをより効率的に高速で行わねば始まらない。
「一つ、貴方にも興味のあるはずのことをお教えしましょう。私のような覚り妖怪は、人妖の心理を読み取るとき、まず漠然とした全体像を見定めます」
「全体像、ですか」
「ええ。貴方には今更言うまでもないことかも知れませんが、知性体の思考とはまことに混沌たるもの。普通にしていてすら、『暑い』『腹が減った』『あの人が好き』『明日はこうしよう』『前から心配だったあれはどうしよう』と、取りとめのない思考が湯水の如く浮いて出る。それを体系立てて読み取ろうとしたら、私たちの方が発狂します」
つまり、貴方が今行っていることを、より無秩序に、無作為に、表層的に行っているわけですね。さとりは淡々と説明する。
「故に我ら覚り妖怪が見渡すのは、思考の全体像。方向性。志向性。有象無象一切合切が含まれた心象風景とでもいいますか。その中で、とりわけ強く目を引くものを解析します。覚り妖怪に優劣があるとすれば、どれだけその心象風景から多くを解析できるかに尽きるわけですが」
なかなかに興味深い話なので、阿球も我知らず身を乗り出していた。
「その点において、貴方の求聞持の能力には共感するところもありますよ。見聞きしたすべてを記憶してしまう貴方も、生活に必要な記憶のみを取捨選択し再認して生きておられるのでしょう」
「たしかに、意外な共通点ですね」
阿求も微笑んだ。実際、そこらに歩いている人間の一人を捉まえても、その心理すべてを読み取り説明しようとするのは一大事業になるだろう。さとりの場合、表層的な意識のみならず、相手の記憶を含めたすべてを見通すというから、その解析力たるや底知れない。西軍の軍師格として名を馳せたのもうなずける。
「面白いことに、心の全体像――心象風景というものは、同じような環境に育った人間であっても特色がありましてね。言葉にするのは難しいですけれども、絵画に例えるとわかりやすいかも知れません。一見似たような絵でも、色合いや絵筆の癖はそれぞれに異なり、描き手の人となりを知る材料になるでしょう」
ふむ、と阿求は何度もうなずいた。いつの間にか、普段の温厚な稗田家当主から、好奇心の塊というべき御阿礼の子として考察する態勢に入ってしまっている。
「御阿礼の子」
さとりは一瞬だけ、澄んだ、しかしどこか冷たい眼をしていった。
その眼の色に阿求は覚えがあった。あれは鏡を通して見る自分とよく似ている。
「貴方の中にある絵は、一言でいえば統制された混沌ですね。清濁玉石ありとあらゆる事象を知識として呑み込みながら、それらすべてを整然と包括している。しかもそれらすべてが不完全に見える。溢れんばかりの知識を溜め込みながら、なお未知なるものを求める。貴方の絵は、私が見た中では二番目に恐ろしい絵です」
かつての支配地を失った〈無地領主〉はどこまでもにこやかにそういって、自身の湯呑を空にした。
幻想郷動乱 其の参 終
心を読む能力はどういうことか考えるのは難しい。
頭の中に浮かんだことが入ってくるだけなのか。それが心なのか疑問ですが。
心というのは他人とはもちろん分かれています。
だから読んだ場合にどう映るものなのか読めない者にはわかりません。
それに感情が心だとしたら感情が読める場合
嬉しい、悲しい、苦しい、その他もろもろの感情、果たして他人と同じものとして存在しているか。
更に 直感、思わず、といったものは読めるのか。また読めればどのように存在するのかも分かりません。
まぁ うれしい なんて考えて生きている人はいないです。
まぁそんなことをツラツラと書いていくとキリがないのは明白ですのでここで切ります。
それに答えはないと思いますし考える必要もないといえばないです。
ただこのSSで少し具体的に書かれていたので 思わず コメントしました。
最後に長々と勝手なコメントですいませんでした。と一言。
『すでに終わったこと』となってるところ
やっぱりどんな活躍をしたのかは気になる
わざとこういうふうなんだろうなー、とは思うけれど
というわけで四に行かせて頂きます。