吹きすさぶ風が余りにも煩く、霊夢はその音に狂い出す前に布団を跳ね上げた。
過呼吸なほどに息を吸い、吐き続ける。心臓の鼓動が激しい。
蒸し暑い夜だった。汗を掻いていて、衣服が肌に纏わり付いている。それがさらに苛立たしい。
寝ていた布団に触れると、汗のせいか、湿っている。何て寝苦しい夜なのだろう。これではまた寝ることが出来ないではないか。
霊夢は溜息を吐いて起き上がり、外へと続く障子を開く。境内は真夜中にあり、誰の姿も無かった。
ふわりと浮き上がり、夜の幻想郷に足を踏み入れる。神社を見下ろすほど上空にまで昇り、周囲を見回した。流れる風が冷たくて気持ち良い。これなら汗も乾くだろう。そう思い、しばらく気ままに飛び続けることにした。
苛立ちは止まない。まるで熱に浮かされたようにふらふらと飛んだ。風はそこそこ強く、雲の流れが早い。もっと上空では、さらに強い風が吹いているのだろう。
ふと、今夜の寝苦しさの原因に気付いた。
夜の月が――紅く染まっているのだ。
すぐに吸血鬼を連想した。またレミリアが何かをしでかしているのだろうか。あの月を見ていると、内なる感情が心の奥底から蘇ってくるようだ。忘れてしまった原初の感情。それは懐かしさと喪失が混ざり合っていて、霊夢の心に一滴の寂しさを発露させた。
神社の裏側に周り、湖のほうに向かう。吸血鬼の館は湖にある。
星の煌く夜だった。発狂する月と同様に、空の星たちも妖しく輝いている。広大な湖は空の星たちを映し出し、湖の上を飛ぶ霊夢は、さながら星の海を移動しているかのようだった。熱に浮かされたようにそれを眺めている。まるで夢でも見ているようだ。
紅い館はすぐに見えた。この夜の原因があそこに居るはずだ。霊夢はふわふわと紅魔館へと吸い込まれていった。
門前に誰かが倒れている。確かめようと近づいてみると、その人物は衣服からして美鈴だと解った。何かあったのか、昏倒させられているようだった。駆け寄って、声を掛けたり頬を叩くが目を覚まさない。ぐっすりと眠っているようだった。
いったい何が起きてるのだろう。美鈴をその場に寝かせたまま、門を抜けて紅魔館の敷地に足を踏み入れる。中は綺麗に整理された花畑があり、近くには噴水もあった。噴水の中心には女神が居り、丸みを帯びた水瓶を慈しむように抱えている。その水瓶は下向きに傾けられ、世界に霊的な泉を注いでいた。
それらを一瞥しながら歩を進め、紅魔館の扉に手を掛ける。だが鍵が掛かっているようで、開くことは出来なかった。押しても引いてもびくともしない。裏から板張りでもされているかのようだった。夜であれば戸締りするのは当然のことなのだが、それは一般的な人間の考え方である。ここは吸血鬼の館だ。夜ならば開放されていないほうがおかしい。少しだけ訝しく思い、何とか中に入れないかと館の周囲を見て回った。
窓は戸締りがされていて開かない。裏口の類も確かめたが、全て施錠されていた。
中庭まで戻ってきて、溜息を吐く。あの月が紅く染まっているのだから、また紅霧でも発生しているのかと思っていたのだが、館はいつもと何も変わらない。夜の静かな空気の中に佇んでいるだけである。門前で昏倒する門番はいくら起こしても起きやしない。
調子の狂った霊夢は次第に飽きてきた。紅魔館が閉ざされていることも、あの月が紅く染まっていることも、どうでもよくなってきた。何より、巫女としての勘がこれは異変では無いと告げている。どうせ、皆揃って何処かに出掛けているのだろう。そう思うことにした。
ふわりと浮き上がり、さらなる夜の旅をはじめる。寝汗などは既に乾き、涼しいぐらいだ。しかし帰る気にはならなかった。この夜に鼓動を感じている霊夢は、何処か楽しむような笑みを浮かべてすらいた。
星空の向こうを目指すように浮上する。そのまま向きを変え、ふらふらと進みだす。行く先は森の方角。知り合いが数人、隠れ住んでいる森だ。
じきに古道具屋が見えた。薀蓄ばかりを無料でばらまき、まったく繁盛していないお店だ。里から離れて森の中に店を開くことだけで売る気が無いのは明白だが、隠れ家のような佇まいが霊夢は気に入っていた。
こっそりと店の前に降りたち、小さく扉を叩く。しばらく待つが、反応は無い。夜中なのだから、当たり前といえば当たり前だ。それでも僅かな期待を込めて取っ手を掴む。しかし、その扉は開けられなかった。窓に廻ってみるが、やはり鍵が閉まっている。施錠は完璧だった。霊夢は残念そうな顔をして息を吐く。それからまたふわりと浮き上がり、次へと進んだ。
魔理沙の家は施錠が甘かった。玄関はきちんと閉まっていたが、窓が開いている。静かな寝息をたてた魔理沙は、お腹を出したまま寝ていた。かみなり様が居たら、へそを持っていかれることだろう。
部屋は見事なまでに散らかっていた。蔵書がそこらに散らばっており、机の上には飲みかけのスープが置かれている。植物の花を模した明かりは今は消えて沈黙を守り、消灯まで彼女が読んでいたであろう書物は開かれたままだ。項が勝手に閉じるのを押さえるために、置物代わりに八卦炉が使われていた。
霊夢はくすくすと笑うと、眠り姫の柔らかい頬を指先でつつく。すると嫌そうに顔を捻らせ、もごもごと口の中で何かを唸った。
毛布の掛けられた魔理沙を残し、霊夢は再び浮き上がった。
次は何処へ行こう?
夜空には煌々と紅い月が輝いている。
まるで、夢でも見ているような気分だ。永い夢を……。
※
ふと、誰かが呼び掛ける声が聞こえた。
確かに呼ばれている。霊夢は水底から湖面に浮上するように目を覚ました。
がたんがたん、と規則的な音が聞こえる。ずっと遠くで……列車が走っているのだ。窓の外を見る。夕焼けに染まる列車が見えた。ずっと遠くからやってきて、ずっと遠くへ向かう列車。それはまるで、何処か幻想的な別世界に連れて行ってくれる乗り物のように思えた。
気がつけば、机で本を読んだまま眠っていた。そうだ、いつのまにか、うたた寝をしていたのだ。そうこうしているうちにこんな時間になってしまった。
ベッドに本を放り投げ、すぐに着替えて階下へと降りる。そこには霊夢の母が居た。
「やっと起きたわね。ほら、そろそろ霧雨さんの来る時間でしょう?」
こくこくと頷いて洗面所に飛び込んだ。顔を洗い、髪を整え、鏡の自分に笑いかける。居間に戻り、起き抜けに淹れてもらったコーヒーを口にする。
台所に立つ母が柔らかく笑って言った。
「ねぇ、今日は紫さんの家に行くんだって?」
霊夢はコーヒーの熱さに舌をひりひりさせながら答えた。
「うん。勉強を教えてもらうの」
「良かったわね。紫さんって、帰国子女でしょう? 飛び級するって聞いたわ。今夜はね、魔理沙ちゃんだって居るし、紫さんの家だから許可したのよ。お泊りなんて、他だったら認めないんだからね?」
「解ってるわ。安心してよ」
母は笑って頷いた。
霊夢の家は神社だった。それほど名が知れているわけではない。神事の際、ぽつぽつと周辺の地域から人が集まるぐらいの位置にはあった。しかしその大半は有名な神社に持っていかれている。傍から見るならば、閑古鳥と言えるような状態だろう。実際に魔理沙にからかわれたりもする。
父は宮司であり、母は元々は巫女だったのだが、父と結ばれてからは父を支える神職になった。霊夢は幼い頃から博麗神社の巫女として教育を受けているが、彼女にとっては神社の巫女など八百屋の息子ぐらいにしか捉えていない。それに少しずつ成長し、遊びたい年頃でもあったのだ。だから今夜のお泊り会は非常に楽しみにしていた。
魔理沙はすぐにやってきた。インターホンを押し、反応を待つまでもなく霊夢を呼ぶ。霊夢は母に見送られて家を出た。
外には、夕焼けを浴びて顔を真っ赤にした魔理沙が立っていた。陽気な顔をしてにこりと笑いかける。
「よう。元気してたか?」
「ええ、元気よ」
「準備万端か?」
「ええ、問題ないわよ」
「じゃあ、行こうぜ」
笑って手を差し出される。その手を繋いだ途端、すぐに引っ張って連れて行かれそうになった。
「ちょっと、何急いでるのよ。行ったことあったっけ? 道は解るの?」
魔理沙は振り返り、顔をくしゃくしゃにして言った。
「解るぜ」
「そう。ならいいけど……」
「ああ」
二人は沈む夕陽を追うように駆け出す。
「あれ、何処行くの? そっち、紫の家じゃないわよ。勉強教えてもらわないと、あんた大変だって言ってたじゃない」
「勉強しに行くんじゃない」
「え? 何よ。じゃあ、何をするの?」
魔理沙は笑って言った。
「眠り姫を起こしに行くのさ」
いつ誰が何をやっているかを表現するのに名前に頼ってると、情景描写が安っぽいし、話の流れも悪くなるしで良い事ないよ?
キツイ事書いてゴメンね。
雰囲気も好きです。
どちらが夢か分からなかったのですが、その辺をもうちょっと踏み込ませた話の続きが見てみたいですね。
いやぁ、なにこの不思議な感じ……ねぇ