『道を歩いていて葬列に出くわすようなことがもしあれば、すぐ親指を隠せ。でなければ親の死に目に会えぬ』。
――そんな話の実行の如何はともかく、人々の間に広く膾炙していることは、まず間違いがない。
ときに、その行為をなすべき相手であろう、すぐ先ほど通り過ぎた葬列は、ひたすらに黒色が固く塗り込められていた。男も女も、大人も子供も、その中には居たようであった。村内で人死にが出たという話は聞いていない。あるいは他村の者たちの通過であったのか。
そうして、それを振り返りながらつぶやく声が、ひとつ。
「なんて、私には、もう死に目に会える親も居ないがね」
陽もようやく天から滑り落ちる道筋をたどり始めるだけの時刻に、上白沢慧音と共に村境の川べりの土手を歩く藤原妹紅の口から、いつの間にか独り言が漏れた。むろん、すぐ隣にいた友人にこの声が届かないはずもない。妹紅のそんな言葉は、すぐさま慧音の銀色の髪を揺らし、自分の横顔に視線を落とさせる結果になる。
最近、普請を終えたばかりの堤は、もう幾年も前に氾濫を繰り返しては里や田畑を水底に喰い尽くしていたものだ。土手は防波堤としてそれなりの高さを保ってはいたが、昼下がりの川は、遠目にもさらさらと絵に描かれたように穏やかな水面の様子を崩さない。
今や、かつては暴れ川と怖れられたのと同じ水が流れている場所とも思えないほどに水面は澄み、透き通る銀色の幕の裏側には、繁殖のころを迎えたらしい小さな魚の群れが、鱗を光の反射で紅色にも青色にも、あるいは黄金色にも染め上げて、いずこかへ泳ぎ回らんとしている。これには最近、外界の優れた土木工事技術が幻想入りし、それを学んだ技術者たちの努力が奏功したのだ――という、もっぱらの評判。
羽を小刻みに震わしては、尾を上下させながら数匹のとんぼが川の上空を飛行していく。細っこいはずの腹がやけに膨らんで見えたのは、ふとした錯覚だったのだろうか。それを許すだけの熱を、太陽が保証しているとも思えなかったのであるが。
不揃いに突っかけられる爪先がザクザクと小刻みな音を発する。
生ぬるい昼日中の大気がぬらりと歪むと、不快げに細められた目の周りの皮膚に、滴に成りきらない汗がべっとりと、“にかわ”のように感ぜられた。
「親指、隠さないのだな。妹紅は」
「あれ、聞こえてた?……ま、隠さないかな。両親とも――なんて、とっくの昔に死別してる。いまさらそんな慣わしを律儀に守ったところで、仕方がないさ」
目の端に笑みを浮かべながら、妹紅は息を吐くように早口で言った。
慧音は、「ふうん」と、それを受けると、妹紅とは逆に、口の端に笑みを浮かべるようにして答える。と、ごほ――と、小さな咳が彼女の白い喉を震わせた。そして、何か気持ちの悪いものが滲んだような不快さを、目尻に溜めた。
「私とて、父も母も逝った後だ。指を隠す道理もないのは、同じことかな」
妹紅の視線が慧音の顔に注がれると、それに気付いたらしい慧音は小さく笑った。妹紅は目をそらす。このところ、めっきり白くなってしまった顔は、何よりも消耗していく体力を証明している。それを、見たくないような気がした。
慧音が石にでもつまづいて転びはしないかと少し心配になったが、案外と足取りはしっかりとしたもので、とても病人の姿とも思えない。
確かに、昔と比べればやはり弱々しい足取りにも思われたのだけれど、少なくとも当たり前に歩こうとする様子だけなら――高くなりがちな熱と、断続的に起こるという胸の痛みと、血混じりの咳と、蠕動する生命の残り火。それらがすべて混ぜこぜになって、肌に拭いがたい兆候を刻みつけようとしている風には、解釈できなかったことだろう。
それに、会うたびに痩せてだっている。
以前、妹紅は湯浴みを手伝ったときに慧音の裸を見た。胸も腹も白くなって、まるで病のせいで一気に年老いたような様相だった。剥き出しになった乳房の真下に病巣と化した器官があるということを、手拭いにあたたかい湯をひたして絞りながら、そのときの妹紅は考えた。
自ら手を貸してやるだけの甲斐を、死ぬときまで慧音が保ってくれるのかと。おそらく、布団から起きられぬようにさえなるであろう未来が見えた気がして、湯が切れてからからになるまで、彼女は手拭いを絞り続けていた。
白くなる身体の反面、慧音の頬だけは血の袋が浮きあがっているように紅色が差し、突っつけば破裂してしまいそうなほどに薄い。剥がれ落ちつつある生命が、日々、残り少ない脈動の情勢を見る者に伝えようとでもしているようにである。
八意永琳の見立てでは、労咳に極めてよく似た病――らしい。
完治させる方法はない。ただ薬によって延命を試みるよりほか、やむなし。一年後か、あるいは五年後か。どんなにゆっくりとでも、確実に余生は削り取られていくという話であった。
妹紅と慧音が出会ってより百幾年。
知識と歴史の半獣も、病を跳ねのけること叶わぬまでに、少しずつ老いていたに違いない。
そろそろ、別れが近いのだな、と、妹紅は漫然と考えた。
けれど――泡立った紅色が、止めどもない咳とともに喉から溢れ出しては、途中まで書きかけた史書の草稿を血の海に歿させた晩より以来、慧音は、ひどく明るく振る舞うようになった。
今日はまだ“まともな”方だったけれど、本当は軽はずみに外出していいような身体では、既にない。それなのに、彼女は周囲の静止など小鳥のさえずりほども気にしていない様子だった。外に出るのは、とくべつ具合の良い日を選んでいるという話だが、いずれ身体に多かれ少なかれ負担をかけているのには違いない。
病勢が進行して寺子屋で教鞭を執るにも支障をきたすようになり、村で唯一の教育機関を閉鎖せざるを得なくなったころ、慧音は自身の世話役にと老女中を雇った。何年も前に夫や子と死に別れ、生活に窮していたというしわがれた婆様だった。
「ひとり者同士、気楽な付き合いができると思っての人選だよ」
と、慧音は妹紅に言ったことがある。
日頃から飯炊き・掃除などをやりつつも、婆様は、日がな一日読書と執筆、腹が減ったら茶を飲みながら菓子を喰い、永遠亭から処方された苦い薬を嫌々ながらに服し、元気があれば知り合いの見舞いやら天狗新聞の取材やらに応じ、暇になったら散歩に出、病人なのに床に入っていない時間の方が長いという、療養とも言えない生活を送る慧音に「先生さん、命が惜しかァないんですかね!」と苦々しい顔をしていた。そう言いながら、何とも難儀な家で働くことになっちまって……と、婆様は決まって合掌する。
ここ数年のうち人々の間で最新流行の宗旨といえば、聖白蓮を筆頭とする命連寺宗であり、婆様もまたそれを信仰しているのだという。噂によると、守矢神社の神様が歯噛みして悔しがっているとか、いないとか。
この信心深い老女中は、常々、雇い主に“白蓮様の説く御仏の教え”とやらに帰依し、殊勝に手を合わせるように勧めていた。そんな折の御利益についての講釈の、異様な長ったらしさったら、ない。おそらく、老人にはさして珍しくもないお節介の賜物だったのだろうが、特に興味のない慧音にとっては、ときに病より厄介な難敵だ。
しかし、食い物やなんぞを持って見舞いに訪れ、傍らでぼうっと聞き流している妹紅には、手を合わせる合わせないで果てしのない攻防を繰り広げる二人のやり取りが、ひどく可笑しい見世物に思えることもある。
で、決まって困り顔の慧音は、やれやれひどい目に遭ったと苦笑しいしい、婆様が買い物に出払った隙なぞを上手いこと見計らって、妹紅と共に散歩に出てしまう。
「家の中に閉じこもってた方が、もっと、ずっと具合が悪くなるからな」
慧音は、見舞いにやって来た妹紅にたびたび語る。しかし誰にも心配をさせまいと無理をしているのではないかと、妹紅は内心で疑わずにおれない。
外出なり散歩なりの翌日に病床の彼女に会うと、忙しそうに立ち働く婆様をじっと眺める顔色は、土を塗り付けでもしたように生気の抜け落ちて、精彩がまるでないのがひと目で解る。
そんなとき、慧音は自分に残った学者としての仕事を続けながら、必ずと言っていいほど冗談を口にするようになった。
「ほら、今日はいつもより吐いた血の量が多かったよ」
と、赤く染まった懐紙の溜まった屑かごを指して、返す言葉に困ってうろたえる妹紅の顔を見ては、けらけらと子供のように笑うのだった。
「笑いごとじゃないだろ。あんた、仮にも病人なんだからさあ。もっと、こう、自分の身体を大事にしてだな……」
「これだけ出るんだからまだまだ大丈夫さ。それより、書きかけの文章や読みかけの本に血をぶちまける方が面倒だな。貴重な文献だと、特に」
何かを噛むように顎を震わせながら、最後の言葉はやがて聞こえなくなる。
以前は、そんな風に歯切れの悪い物言いはしなかったのに。
どこか芝居じみた、本気なのかどうかも判らない悪戯めいた行為を見せられるのは、妹紅にとって、もう千年も前に忘れた病の苦痛を思い出すよりも、はるかに怖気を震わされるのだった。
最近では、床に臥せっていることが少しずつ増えているように思った。
療養に入ったばかりのころの慧音は、会うたび机に向かっていた。
小難しい文献相手に、いつの時代に何が起こったの、誰がどんな業績を残したの、それをどう評価すべきかだの、筆先を墨で真っ黒に湿らせて、咳をしつつも一心に書き取っていた。
それが最近では、枕に頭を埋めながら、落ちくぼんだ眼窩から目玉をキョロキョロと動かして、妹紅を迎えることが多くなっている。外出の回数だって、目に見えて減っているらしかった。
さらに先だって、ふとした拍子に水場に立つ婆様が尿瓶を一心に洗っている様子を偶然、目にして、妹紅はささやかな戦慄さえ覚えた。
それとはまるで反対に、不自然なまでの快活さは、向き合うたびに慧音の眼を潤ませている。傍らで何くれとなく話す妹紅の眼も、いつしか潤む。
今は未だ当たり前に歩くこともできるけれど、そのうちにひとりでの用足しもまともにできぬようになっていくようでは、その笑顔だって、粘土を固めた不出来な人形と、何も変わらぬものと化してしまうであろう。
「胸を病んだということはだな。私にとってはひとつの僥倖かもしれんよ」
「病気なのに? あんたとはそれなりに長く付き合ってきたつもりだけど、そんなワケのわかんないことを言うとは思わなかったよ」
「婆様を真似するわけでもないが……これは案外に、宗教者の悟りの境地みたいなものに近づいているのかもしれない。残された仕事に向き合う気持ちがやけに起きてきてな。精神上に、ばかに活力がみなぎっていると思える。それに、病の中で生きる苦行を知ると、私はそれに最も生かされている気がするんだ」
「……おかしなやつ――おかしなやつだ、慧音は」
「ふふん。変人の度合いでは、おまえの方が、はるかに上だと思うがな」
ある晩にはそんな風にうそぶきながら、妹紅は、何だか薬くさい粥をすすっていかにも不味いという風に眉にしわを寄せる病人の様子を笑った。慧音本人も笑った。二人して大いに笑った。その晩、ずうっとばか笑いを続けたせいで、しまいには婆様に二人そろって大目玉をくらった。
とにかく思い立ったときに、妹紅は慧音と笑っていた。
けれどここ最近の慧音は――特に妹紅相手には――ずっと、虚偽じみた微笑を絶やさない。それは、不安なことだ。裏側に何ものをも隠して、ずっと他人に真意を見せない。そんな、不安だった。
上白沢慧音とは、不思議な女だ、と、妹紅は白髪を揺らして考えてしまう。
学問のある奴は人妖を問わずごまんと居るはずだが、それを誰かに伝授しようだとか、広めようだとかする奴は、幻想郷広しといえども慧音くらいではないだろうか。
基本的に幻想郷の連中は、良かれ悪しかれ、他人を気に掛けずに我意を貫く個人主義者である。
それが慧音は好き好んで(他に史書の編纂という大仕事があるのに)、寺子屋を開いて人にものを教えていた。束脩も雀の涙ほどしか取らなければ、門地門閥で入門者を差別するようなこともない。必要なのは、ただ熱意だけ。それでなくとも彼女は人里の守護者で、人間たちに害意を抱く者あらば、時に自らの命の危険さえある相手に、臆することなく真っ向から立ち向かって行くのである。
だから、彼女の周りには人が集まる。
男も女も、老いも若きも、皆が「先生」「先生」と呼び慕い、笑顔を絶やすことはない。慧音はたったひとりで生きているのでもなければ、誰かひとりのための慧音でもない。
不死者になってから、ひとりぼっちで生きてきた期間の方が長かった妹紅には、出会ったころの友人の姿の何もかもが新鮮だった。けれど、世界でいちばん不器用な女に思えた。
いつだったか、妹紅は上白沢邸に泊まった折に訊いたことがある。
布団を敷いて寝に入る直前、灯明に照らされた影が壁面に揺らめき、観客の居ない演劇を行っているような、そんな夜だった。
美味いものをたらふく食べても良いし、金をうんと稼いでも良い。
誰かに嫁いで、子供を産んで、家庭を作って、そうして平凡に一生を終えるのも、藤原妹紅よりももっとはっきり“人間寄り”の存在である上白沢慧音には、きっと悪くないことだ。命に限りがあるのなら、もっと好きに生きても良いはずじゃないか。
「ふう、ん。私は何故だか、そんな生き方をするつもりにはなれないんだ」
「どうして? こんな狭い村ン中でくすぶってるより、慧音の才覚を活かす道はいくらでもありそうじゃないか。蓬莱人以外はいつかみんな死んでしまう。なら少しくらい好きに生きても、バチは当たらないと思うけどな。“死ぬのだけは、ばかも天才も平等なんだから”」
「何かをやって、“記録”に名を刻むことは難しい。でも、誰かの“記憶”の中に残り続けるのは、もっと難しい。時の流れが最も怖ろしいのは、人の創った概念そのものも、共に風化させずにはおかないからだろう。……私は、誰にも忘れられたくないのかもしれないな。だから皆と共に居る。結局は、自分の好きに生きていることに、変わりはないからな」
はっきりと、慧音はそう言った。
まるで何か、大事なものを振り捨てるような、泣きそうな顔をしていたのを今でも覚えている。
『あんたは、嘘つきだ』
『おまけに、頭は良いけど大ばか者じゃないか』
『何と言っても、嘘をつくのだって、下手くそだ』
そう考えたが、口に出すことはしなかった。
忘れられたくない――たったそれだけの理由で、出来損ないの同情心を誰かに抱けるはずがない。
白髪と赤眼と、何をされても死なない不滅の肉体を持つ『化物』と、対等に語れるようになど、なれるはずがないというのに。
今も昔も、妹紅は猜疑のかたまりである。
人々に迫害された過去がそうさせる、いわば処世術の一端であったが。
それだからこそ『大事な』友人の声にさえ、裏を読み取ろうと勘ぐってしまう。故に、喉に針の突き立ったように、その晩の問答を未だに忘れられない。
妹紅のうちには、個人の生き方そのものがいずれは陳腐な石ころと化すべきものであるという信条が鎮座していたが、それは概して自分ひとりのために生きるのが最善の道であるという考えに繋がっていた。誰にも手を差し伸べられないちっぽけなものが意思を持つなら、好き勝手な方向に飛んでいっても構うまい。が、その先で拾い上げられる相手が果たして自分にとっての好い者とは限らない。だからこそだ。
「永遠を生きているのなら、すべてを快楽と成すべきなのよ」
と、妹紅は父の仇と対峙したときには聞かされたこともある。
日頃、いっぱしのニヒリストめいた生き方を気取っていた妹紅に、蓬莱山輝夜は殺し合いのたびに嘲笑を投げかける。そして、死でさえも生の執着であるのなら、等しく好奇心の対象として見るべきだと説いたことさえある。
いっそのこと掻き消えてしまいたいと望みたくなるような痛みの中、ちぎれ飛んだ右脚の破片をかき集めながら、妹紅はぜえぜえと荒く呼吸をしながら怪訝な顔をしたのである。
このふたりが落ち着いて話をするときといえば、大抵がひととおり互いを殺し、少しずつ戦いに飽き始めてくる頃合いに当たる。激しい殺し合いによって、竹の群れは強力な砲弾が炸裂したように吹っ飛び、迷いの竹林どころか地の果てまでも見渡せそうなほどの更地に化す。
「で、結局は何なわけ」
「極端なことを言えばね。いまあなたがそうして痛みに喘いでいることでさえ、あるいはひとつの悦びとして享受すべきだと、私は思うわ」
「暴論もいいところじゃないか? 哲学者の真似ごとにしては、そんな意見はあんまり知的に見えないぜ」
「哲学なんてものは、限りある身の振り方を考えるためのものでしょう。難しいことを簡単に答えるのが神様で、簡単なことを難しく答えるのが哲学だと、私は思うの。有限な者でなければ、生についての小難しい疑問は生まれてはこないはずだもの。差し詰め、不死人の思想は暇潰し以外の目的には使えないけれど、何ものも――肉体への最高度の侵犯でさえも――従容と受け容れる心持が、理想よね。だって、あらゆるものはひとつも余さず私たち蓬莱人を通り過ぎてしまうのだから。いつまでも一緒に居られるのは、疑いようもなく各々の分かちがたい孤独だけ。そうとでも考えなければ、永夜の生は、魂を腐らせるわ」
臓物の一部が吹き飛んで、青い顔をしながら輝夜は言った。もうすぐ意識が暗転するので、ひどく速く血に濡れた唇を動かしていた。
焼け焦げた自身の爪の破片を指先で弄びながら、妹紅の意識も薄らいでいた。
そのときは、輝夜のことを気でも違ったのかと思ったが、今にして思えば、病を僥倖と言う慧音の姿は――もちろん彼女は不死ではなかったが――死に際して凄艶さを増していく輝夜と相通じるような気がするのも確かだった。
実におかしな符合だ。
以来、妹紅は輝夜との殺し合いに集中できなくなった。
そのたび、病床にある慧音の顔が思い浮かんで、動悸がしてくるからだった。
それにつけても過去というものは、いわば自分を追い抜かしていく走者のようなものでもある。遠ざかっていく背中を見つめることしか、現在に立つ本人にはできないのだから。
誰にも取り残されていく妹紅にも、少なくとも、昔からおおよそは変わっているまいという思いが、なかったわけではないのだ。
日常に残されているすべてのものは、ただ空虚を埋めるためだけの行為であり、精神を延命させるための措置に過ぎなかった。望まれずに産まれた命、公家の落胤にも近いつまらない命。
限りのある命をそのまま燃え尽きさせていたならば、生きることにはすべて意味があっただろうと、このごろの妹紅は考える。
ただ屈辱と悲哀にまみれることだけが、彼女の生を彩る唯一のものではあったのだけれど、確かに、不死人と化すより以前は、その屈辱の故に彼女は藤原妹紅足り得たのだろうと断言ができた。
誰かに望まれるということは、常に疎まれているということに通じている。すべて他者の意識の端に留め置かれるというのは、無数の彼らに『そうであること』を求められているからだ。輝夜への憎悪がそれを裏書きするように、亡き父への思慕が蓬莱の禁薬へと手を伸ばさせたように、だから世界は必要なものだった。
しかし、結果は拒絶でしかないのである。
事実に倦んだ妹紅もまた、拒絶した。
形の合わぬ鍵穴へなどいくら差し込んでも何も起きない。だからこそ、鍵を手にしないままの孤独こそ何よりも尊ばれるべきではあったのだけれど。
しかし、それでも生の旅路というのは不死とそうでないとに関わらず、否応なく続けざる終えないもので、だからこの日のふたりの散歩も、その道程の一部であったのかもしれない。
地面に目を逸らしては、もうだいぶ後方に行き過ぎた祭儀の残滓を、妹紅はゆるやかに思い起こした。
すれ違う瞬間に知った、遺骸の収まった大きな木の棺桶。
ひどくくすんだ茶色をしていたように思う。
大樹の幹じみたかたまりに、これもまた大きなふたがされて運ばれているのを横目でチラと見、すれちがう喪服の列の顔をフと見上げたのだ。
涙を浮かべる者は一人とてなかったが、誰も言葉を発さぬままに草鞋が土と小石を踏みつけ踏みつけ進んでいく。
その情景は、何か、複眼のえぐられて、羽に幾つも穴ぼこの開けられた、朽ちかけた蝶の死骸を巣穴まで運んでいる蟻の行列。そんなものにも似た、奇怪な沈痛さをたたえているように思われた。
彼らのうちの先頭を歩いていた初老の男の顔に、妹紅は見覚えがあるように感ぜられた。
白髪交じりで薄れかけた頭髪が、ほつれながらに揺れている。
腫れたように大きな唇に、歩き通しでかいたのであろう汗がかかって、その部分だけが別の生き物のように生々しいぬめりを放っている。
谷みたいな皺が幾つも幾つも刻まれた広い額に対し、痩せ枯れて骨の浮き出ているみすぼらしく浅黒い顔の肉に、小豆めいて小さな両目が埋まっている。
どこか知らない所に迷い込んだ幼い子供のように、溜息としての慄きを、彼は呼吸しているように見えた。
どこぞの道で行き会ったことでもあったか。
それとも自分が竹林の水先案内を買って出た元病人ででもあったのか。
男が二人の姿を認めて静かに一礼すると、他の者らも倣うようにして、それぞれに頭を下げていた。妙にやつれた最後尾の女は頭を下げるのも忘れて、木の枝のようにがりがりの両手で数珠を必死に揉み動かしながら、何ごとか、経文らしいものを一心不乱に唱えているだけであった。
葬式は済んで――――。
これから墓場に運んでは、皆で土の下に埋めてしまうのであろう。
地面の下で、ただに熱く熱く、かつて生命だった塊はどこまでも腐り落ちてしまう。
妹紅には、最も無縁だ。
路傍に伏せる蛆の湧いた人の形をした肉塊の、くぼんだ眼窩より黄色くにごった眼球が滑り落ちる他者性のものなら、幾度も目にした経験があるが。
人々の生活に満ちる観念はひどくもろく……それでいて、向こう側のよく見えない肉の薄皮だと思った。上手いこと引っぺがしてみると、骸骨の 宮殿が建造されているにも等しいのである。あまり良いにおいを発しているとは思えない光景が、よく広がっている。
「慧音は、さっきの連中の顔を見たかい」
友人の顔を見もせずに訊いた。
……いや、と、慧音は答えた。彼女もまた、妹紅の顔を見なかった。
「どんな人だったんだろうな。さっきの死人はさ。良い人だったのか、悪い人だったのか」
「わからないな」
「じゃあ、死人を運んでた連中は? 何を考えて、死体と一緒に歩いてるんだろう」
「それも、わからないよ」
溜息をひとつ吐くと、慧音は笑んだ。
皮肉のような色合いを帯びた表情が、落ち始めた陽の光に照らされて、濃い陰影を刻んだ彫刻の地に鎮座しているのにも似ていた。
帽子から溢れ出した銀色の髪の毛が光線の吸収を拒絶しては放出する様子が、ひどくまぶしい。少しだけ、この反射を妹紅は煩わしく感じていた。
「彼らとは無関係な者である私たちに、それを知る由などない」
妹紅もまた、それを聞いては溜息をつく。
彼女の息は慧音のよりも、もっとずっと長く、そして何より熱かった。
少しずつ夜に向けて熱を失っていく天と比べて、まるで対照であった。
それがもしも生命の素体と成るべくして存在するものならば、妹紅の心に住まう無限の魂が、少しでも漏れ出ているとでも言えたのかもしれない。しかし、友人の言葉を受けた彼女の顎も歯も舌も、自身から流出する何ものかを押し留めるほどのはたらきを、あえてしているのではなかった。
それは、もしかしたら藤原妹紅流の諧謔だったのかもしれない。しかし今度こそ、誰に示すでもない。
「そいつは当然だな……誰でも自分の知り得る限りの事しか、一生のうちには理解できないもんだ」
歩みをこころなしか速めながら、妹紅はくッくッと笑う。悪戯坊主めいた無邪気さに口の端が鎌みたいに引き延ばされ、頬が切り裂かれる。
少し経つと、川のこちら側と対岸とを渡す橋が、二人の眼の前に近づいてくる。特に何の装飾も施されてはいない、木の板と丸太を繋いだだけの簡素な橋である。
一人の爪先が湿った板を叩くと、もう一人の爪先がまた叩いた。先に慧音が、後から妹紅が進んで行く。カツカツいう足音がどちらの発したものか、それだけでは判別もつくまい。
土手の上からではさらさらと布を擦るような音しかしなかった川が、足の下を流れる状況になってしまった今となっては、まるでゴウゴウと唸り轟く大蛇の雄叫びだ。
さして長くもない橋の上で、妹紅が口を開いた。
「人間は、ただ高潔さのためだけに生きることができると思うかい?」
橋を渡り終えて、対岸に辿り着くあたりで、彼女は歩みを止める。
それを見て、妹紅の後から渡っていた慧音は、呆けたような目で友人の顔を見つめた。弱い風が二人の少女の間を吹きわたり、下手くそな笛の響くがごとき音がした。
「葬送なんてのはさ。どっちみち、“いま生きてる奴”にとっての儀式でしかないはずだ。ふつう生者はたどり着けやしない場所に送り出すんだから。徹底的に――葬り去るための儀式は、死んだ奴を無条件な高潔さに送り出すだけだ。そうやって、全てに区切りをつけるためにある。生きてる連中が、また“いつものところ”に戻るためにね」
「妹紅は、その尊さをまやかしだと思うのか? 死者にのみ、その特徴が認められると」
「生者の高潔が、誰かのために使われて終わるのは綺麗なことだ。でも、あまり哀しい綺麗さだ。そんなのは、きっと欺瞞。自分を偽ってる」
「ならば――誰かのために生きるのは、悪いことか」
妹紅がにわかに嘲笑を発した。
普段、彼女が慧音に向ける笑みにしては、それは、似つかわしくないほど酷薄だった。肩をいからせて、白髪が揺れている。
「だって、抑圧じゃないか。他者のために、なんて。そうしてそれが美しいだなんて。思い上がりも甚だしい。やたらに犠牲を強いる理想なんてのは、結局は不完全なものさ。それを維持するために発明された高潔さは、確かに本物には違いないが、でも、繁栄の根底にあるのは少数者の屈服だ。直視なんてとてもできないくらい、ひどい」
それでも、あんたらしいといえばらしい意見だけどね、と、彼女は笑った。慧音は慧音で、どこかムッとした様子で言葉を継ぐ。
「……だからといって、死者を蔑ろにするのは納得がいかないよ。彼らの生前の行状を、全て遺しておくことはできまい。でも、称えることは、せめてもできる。忘れるのは、とても、とても、寂しいのだから」
「――――ひどく感傷的なんだな、あんたも」
「そんな時だって、あるさ。死人に対して無条件に贈られる高潔が、始めから生者のためのものというのなら、誰かのために、今はもう居ない彼らが生きていたかもしれないということも、生きている者たちが他者のために成し得るあらゆる行為も、始めから、虚しいことではないのか。誰かと関わるということだけが、あまりに哀しいことではないのか」
銀色の髪の毛が流れた。
風のうねりが衣服の裾を、瞬くよりも短い時間だけ揺らした。
両の眼の内奥で、少女の瞳が煌めいた。濡れているようにも見える。触れれば割れそうな、シャボンの泡のような意識を透過していた。
「私は、嫌だよ。そんなのは」
慧音は、泣いているのかも知れなかった。
伏せられた顔がどんな表情をしていたのか、振り向いただけの妹紅にそれと察することはできなかった。ただ、慧音らしからぬ声が発されているのだけが理解された。
ひとつの物語としてならば、世界は最上の完成度を誇る。けれど、克服すべき現実と見るのなら、他には無いほど非情なつくりになっている。すべて高潔を悪徳と見なすなら、それは正しく克服さるべき壁であると、妹紅は確信していた。しかし、それを行うには、この世界は精密でありすぎるのだ。人間や妖怪の造り出したいかなる機械でさえ、その精密さの足下にも及ばない。歯車ひとつ、ねじの一本よりはるかに小さな諸要素が、隙間なく固めて埋め尽くしているのだから。
無理矢理にむしり取ってしまうような生き方しか、妹紅は知らない。
そうせざるを得なかった彼女にしてみれば、慧音の行為は――子供のままごと遊びと幾らも趣を違えない。英雄を夢見ても英雄にはなれぬように、幸福が何であるかもわからない者が幸福を与えることは、できるはずがない。
「……私にとって……“それ”は空虚なんだ。希望はいつも裏切られるためにあった。精巧な嘘のもとに作られた希望は、ただひとつの絶望によってしか滅ぼせない。繰り返される希望が自分自身へ還元されないという事実に倦んだとき、空っぽになった意識を満たすのは絶望だ。希望を喪った心は脱け殻だが、絶望を介してようやく再び眼を覚ます。誠実な絶望でしか、実体の伴わない無意味な希望は撃ち落とせやしない。その真実を飲み込んだ時こそ――大抵のヤツは、気付けないけどな。皆、哀しいくらいに“有限”なんだから“――人は本当を知る。自らの命だって、進んで投げ出す事も厭わない。それでこそ確信できる。“生きているってなんて素晴らしいんだろう”!」
痛烈な悪罵だった。
鋭利な棘でもあった。
それを投じた白髪の少女には、一瞬間とはいえ、確かに優越と軽蔑の感情があったのだ。
妹紅ははっきりと考えている。
慧音の言葉はただの理想だ。
彼女の語る理想、希望では、自分が救われることなど、絶対に有り得ない。けれど、どういう訳か、同じ棘が舌に突き刺さったような感じがする。血管を通っては心臓まで達して、むやみに鼓動を増加させている。きっと、誰にも言ったことのない信条を表した緊張のせいだ。妹紅はそう断定した。否、断定したかった。
慧音の微笑……。
白い上下の歯をよく噛み締めて妹紅を見る友人の表情は、いつもと変わらない、見慣れた優しさだった。
少しだけ歩みを速め、妹紅の隣にやって来る。
彼女は妹紅よりも頭ひとつぶん程も身長が高かった。二人が並ぶと、まるで歳の離れた姉妹が歩いているようであった。光が二人へと注ぐ。慧音の銀色の髪の毛はまた輝き、傍らに立つ妹紅の髪も、またその光を享けているようだった。白いはずの長い長い髪は、その時だけ、よく細工されて磨かれた装飾のように、銀色に輝いている。
慧音が両手を腰の後ろに組み、妹紅より先を歩く。ズボンのポケットに両手を突っ込みながら、爪先に小石を蹴りつけるようにして妹紅は後を追いかける。
言うべきこともなく、思惟すべきこともないままに、地面を見やる妹紅の顔を、慧音が振り向いた。
「妹紅にとって誰かと生きることは、意味のない虚偽なのか? ――いま私と共に、生きているということも?」
妹紅がそうしたように、慧音もまた、相手に対して問いを投げかける。
明確な回答を成すことも叶わずに、ただ白髪が風に揺れているだけである。
視線を、コツコツと爪先で突っつく小石から離さずに、ポケットから引き出した、汗ばんだ右手の指で、かゆくもない頬を掻く。
「わからない」
顔を上げて友人の表情を確かめようとしたが、太陽の介入がそれを阻んだ。逆光になって暗闇に覆い隠された慧音の顔を、妹紅が見ることはできなかった。相手の靴から腰、腰から腹と、順繰りに視線を這わせていく。最後に到達した場所は、真一文字に引き結ばれた唇であった。『何』も、言おうとはしていなかったし、『何』かを表明しなければならないとも思えなかった。
ただ、自分はここに居てはいけないのだと、そのときの妹紅は考えた。
まぶしさに歪む視界の向こう側へと、石と石が打ち合わされるような、硬い声が滲み出る。
「私には、わからないよ」
嘘だった。
鮮烈なまでの嘘なのだ。
上白沢慧音が、藤原妹紅にどんな返答を望んでいるか。
彼女の問いに自分は肯定を返してはいけないのだと、そんな確信だけが、妹紅の顔を悲痛に曇らせたのだった。
さっきの葬列の男。
妹紅はようやくその正体に思い当った。
彼は誰でもあるし、しかし、誰でもない。
死者を見る者は、皆、限定された理想の薄皮をまとっているという事実を、彼女はようやく思い出した。仮初めの永劫へと導かれた死者たちは、いつも、あのようにして尊ばれるものであったから。
「しかし、少なくとも」
と、慧音が再び口を開く。咳混じりの言葉が、断続的に耳朶を刺す。血を吐いたら大変だが、懐紙の用意はあるだろうか、と、妹紅は薄ぼんやりと考える。
「少なくとも、たとえ嘘だと思われても、私は妹紅が居なくなったら、ひどく悲しいよ」
目の端が光っているように見えたのは、きっと錯覚だろうと思った。
こんなところで、そんな理由で慧音が涙を流そうはずはない。
自分は未だここに居るのであるし、相手を悲しませるためになにがしかの能動に訴えてもいないのだから。
けれど、彼女はなぜ、そんなにも哀しい顔をするのだろうか。
居なくなってしまうのは妹紅ではなく自分の方なのだと、彼女は言いたげであった。作り物めいたささやかな笑みを染み出させるように、慧音の声は震えている。
「妹紅が居なくなったら、舌を噛んで、自殺してしまうに決まっている」
「ばか……舌を噛んだだけじゃあ、人は死ねないぜ」
額にひやりとしたものを感じ、妹紅は、はッ……とさせられた。
何か、水に浸して冷たく冴えた刃を、脳天の内奥までも突き立てられたような気がしている。
それが、自分に対して向けられているらしい最善の好意であるのに気がつくのに、それほど長い時間はかからない。
顔が熱くなった。
目頭がウズウズと震えるような気がした。
止めどもない鼓動が手足の先に波及して、熱の塊に抱き止められているような感触だった。
何という、ばかなことを言う奴だ。
他人のために――まして藤原妹紅のために死ぬなど。
妹紅は、自らを取り巻く世界に対して何の意味も見出し得ない。
理解された現実との大きすぎる齟齬を、慧音の言葉は何よりも描き出している。
妹紅が自分以外に対して何らの感慨も抱いていないのなら、それに特別の感情を抱くことなど最も容易い自涜でしかない。沈黙した法悦が、一刹那のうちに千年の経過に根を張るのは、絶頂を通り過ぎた快楽としては最大の愚かしさではなかったか。
仮に少女が他者に存在を肯定されるのは、ただ憎悪の対象となるためだけに違いない。
白髪であるように、歳をとらぬように、どこからやってきたとも知れぬ異邦人が、鬼よ物の怪よと石を投げつけられて、槍持て弓持て刀持て無様に虐殺され、流れ出る黒い血の河こそ求められもし、与えられもする生の意義ではなかったか。それが、当たり前のことではなかったか。
慧音は、あまりに危険すぎる。
妹紅にとっての『当然』に、彼女は強すぎる介入をはたらいてきた。そして、妹紅はもう、何度も犯されている。これ以上もないほどに――離れがたいと、朧気な自覚を思い出すくらいには。
今だけでも――と、慧音は言った。
「今だけでも、忘れられたくないし、忘れたくないよ。それは不安だ。とても、怖いことなんだ。妹紅が、いつか私の前から居なくなってしまうのではないかと。私のことを、忘れしまうのではないかと」
「…………やめときなよ。そんなこと、言うのは」
ばか、と、小さく呟いた。
「病気のせいで、あんたは頭が回らないんだ。きっとそうだろ。それに、もうすぐ永琳が往診にやって来る頃合いじゃないか。例の婆様だって、またいつもみたいに怒ってるだろうさ。家から出歩いてお医者先生をむやみと待たせる患者は、嫌われるぞ」
「――そういえば、そうだったな。彼女も忙しいだろうに、わざわざ私の具合を診るために来てくれるのだし。そろそろ、帰ろうか」
慧音がふと微笑を――慟哭を無理矢理に覆い隠したような、引きつった微笑を――浮かべたような気がしたけれど、まっすぐに見て確かめる勇気が起きなかった。
二人は、歩いた。
しばらく、何も言わなかった。
ただ言葉を弄するよりも、触れ合う肌だけが最も雄弁ということもある。
どちらからということもなく、いつの間にか繋がれた手のひらと指とが、静謐のままに互いの意思を交換し合っていた。
藤原妹紅は、常に自分のためだけに生きている。
ただ、自分一人を充足させるために、尽きぬ生の道程をあれこれと理屈をつけては惰性で這いずり回っている。
蓬莱山輝夜と互いを殺し続けるのも、竹林で道に迷った人間を導くのも、彼女にとっては戦慄すべき怠惰をせめても刹那のうちに無化するものでしかなかったはずだった。
慧音との交友は、いずれ忌々しきものとして唾棄すべき足枷にしか成り得ないというのに。いずれこの友人もまた、自分の手から砂のように零れ落ちてしまうのがよく解っているのに。
厳然たる事実であるはずなのに、何故か、認めてはいけない気がする。
どうして慧音が自分の元に居るのかと自問さえした。
彼女さえ居なければ、出会うことさえしなければ、苦界に自ら飛び込んだ己は、ただ憎悪のためにのみ在ることができたはずなのに。
こんなにも穏やかで、手放したくない苦しみを見出さずにいることが、確かにできたはずなのに。
空いた方の手で己の胸をぎこちなく撫で、小さな咳を繰り返す慧音の姿に、彼女の内に巣食う死病の影を、否も応もなく思わさずにはおれない。
何百何千と見慣れたはずのその姿を、特別に忌むべきものと感じてしまう。
そして、できることなら醜悪に相対したときのように、自らに笑いかける友人の顔から目を背けねばならぬと怖れるのだった。
慧音がこんなにも壊れそうな笑みを浮かべるようになったのは、いつのころからだっただろうか。
血を吐いて倒れた夜からか。
治らぬ病であることを告げられたときからか。
あるいは、限りある生命を持つ者として誕生してしまったときからなのだろうか。
考えるだに無駄なことだと断じて、妹紅の手は慧音の手を、ぎゅッと、強く強く握りしめた。今の自分には、それだけが最善の道であるように思われたからだった。
「本当に心配性なんだから。居なくなる訳がないだろう? 私が、慧音のところからなんて」
「どうかなあ。あんまりフラフラしていると、私の方でおまえを忘れてしまうぞ」
「ふん――良いよ別に。それなら、無理矢理にでも思い出させてやるさ」
握られる手だけは、あたたかいというより熱かった。
病のために高まった手のひらの熱は、それでも、冷たさよりもずっと心地よいものである。
その熱が、怜悧きわまる少女の信条――揺るがないはずの思想を、阿片を吸った酩酊のように、束の間の、姿の見えない幸福で惑乱させていた。
けれども真実かどうかなど、誰にも知れない。
たとえどんな者でも『最後のとき』が訪れるまでは、自分が幸福だったのかなど、知る由もない。そのときが絶対に訪れない妹紅に、今が幸福なのかは、とうとう解らないはずだ。だから、これを幸福と呼んではいけない。そう思わないと、別れはいつも辛すぎる。
もうすぐ――もうすぐ、また離別のときがやって来る。
隣で微笑む友人が、あの葬列と同じように、どこか遠くの高潔に追いやられてしまうときが来る。
幾度となく繰り返し、手垢にまみれた悲哀の波は、とうの昔に慣れたつもりだとは思っていたけれど。
妹紅は、ひとりだ。
生きても死んでも、ひとりぼっちなのだ。
いずれ慧音のことも、何も残さずに忘れてしまうときが来るような気がする。
薄情と、他人は彼女をそう言うだろう。しかし、どうだ。誰にだってひとりでは、自身の記憶を切り捨てることでしか重荷から解放されることはできないものだ。別れが重荷なら、そうなるための幸福だって、重荷には違いないことだろう。
でも、果たして本当のことだったのだろうか?
薄甘さを噛む心の中にまたひとつ嘘をついたことで、妹紅の心にはどうしようもなく鋭く痛い棘が、深く、深く、刺していた。本当でないから、彼女の理性は出会いそのものを、厭うていたのではなかったのか。あらゆる関係には有形無形の終わりが訪れざるを得ないということ。不死だからこそ、誰よりもよく飲み込んでいたはずであったのに。
これだから、エゴイストなのだ、と、妹紅は思う。
だから自分は、いつまで経ってもひとりぼっちなのだ。
村へ着けば、慧音は、また寝床に入る。
学問だとか、読書だとか、飯だとか、診療だとか。あとはばか笑いだとか。
これからも続く何でもないことが、重々しい刃と化して、また妹紅の魂を削ごうとする。こうして彼女は、慧音と共に生きた自分自身を迂遠な手段で殺し続ける。
別れの予感を兆しながら、それでも妹紅は笑うしかできない。もうすぐ慧音が死んだとき、辛さを秘めて、素直に涙を流すためにだ。
それが自分のためなのか、それとも慧音のためなのか、とうとう判らない。
空に目を向けると陽の光が雲間を溶かし込み、はるか地上に白く輝く柱を幾本も現出させていた。妹紅にはそれが、たどり着けるはずもない別世界からの導きのように思えて、不思議な感慨を覚えた。ひどく美しかった。どんなものでも、いつかは塵になって消え去ってしまう。単なる一瞬の偶然で生まれた気象に過ぎない光の姿も、すぐに姿を消してしまうはずである。
しかしその光の柱を初めて目にした瞬間だけは、目蓋の裏に刻みけられて、ずっと、ずっと、忘れられなくなる予感がした。
「綺麗、だなあ。あれは」
妹紅が言うと、慧音も、
「ああ――綺麗だ」
と、言った。
「今のうちに、もっともっと、色んなものを見ておきたい。綺麗なものも。そうでないものも。二人で居られる、今のうちに。なあ、妹紅……」
かすれるような声音だ。
悲痛さはなく、やはり、慧音の言葉には表にも裏にも喜びだけがあったのではないだろうか。きっと、彼女は泣いている。涙を見せずに泣いている。終わりが近いゆえに、あらゆるものが、すべて美しく思えてしまうことが、嬉しく、そして哀しかったのであろうから。
妹紅も、泣きたかった。
しかし、涙は出なかった。今、泣いてしまうと、“そのとき”を、自ら諦めてしまうような、そんな気がする。
「あ、あ、……そうだなあ。慧音。私たちは、ずっと――」
それ以上を口にすると、きっと涙が流れてしまうだろう。
だから、言わない。
言ったら、何もかもを裏切ってしまう。
二人は歩く。どこまでも歩く。
果てもなく、けれど、もうすぐ終わりへ到着する道を、黙々と歩き続ける。
慧音に関するあらゆる事柄――姿も、声も、手のひらの熱も。いま生きているということも。
このまますべてを捨ててしまうには、藤原妹紅は、上白沢慧音を、あまりにも、好きになりすぎていた。
汗ばんで、徐々に緩みつつある手のひらの力が、他にないほど愛おしい。
向こうの力が抜けるのなら、自分がずっと離さない。何と言っても、不死人にはその“権利”がある。
果ての訪れぬ旅路の道半ば。大事な人をその手にすることのできる誇らしい気持ちを奮い立たせようとしながら、この熱が近く消え去るときのことを――今だけはせめて忘れたいと、妹紅は願い始めていた。
――そんな話の実行の如何はともかく、人々の間に広く膾炙していることは、まず間違いがない。
ときに、その行為をなすべき相手であろう、すぐ先ほど通り過ぎた葬列は、ひたすらに黒色が固く塗り込められていた。男も女も、大人も子供も、その中には居たようであった。村内で人死にが出たという話は聞いていない。あるいは他村の者たちの通過であったのか。
そうして、それを振り返りながらつぶやく声が、ひとつ。
「なんて、私には、もう死に目に会える親も居ないがね」
陽もようやく天から滑り落ちる道筋をたどり始めるだけの時刻に、上白沢慧音と共に村境の川べりの土手を歩く藤原妹紅の口から、いつの間にか独り言が漏れた。むろん、すぐ隣にいた友人にこの声が届かないはずもない。妹紅のそんな言葉は、すぐさま慧音の銀色の髪を揺らし、自分の横顔に視線を落とさせる結果になる。
最近、普請を終えたばかりの堤は、もう幾年も前に氾濫を繰り返しては里や田畑を水底に喰い尽くしていたものだ。土手は防波堤としてそれなりの高さを保ってはいたが、昼下がりの川は、遠目にもさらさらと絵に描かれたように穏やかな水面の様子を崩さない。
今や、かつては暴れ川と怖れられたのと同じ水が流れている場所とも思えないほどに水面は澄み、透き通る銀色の幕の裏側には、繁殖のころを迎えたらしい小さな魚の群れが、鱗を光の反射で紅色にも青色にも、あるいは黄金色にも染め上げて、いずこかへ泳ぎ回らんとしている。これには最近、外界の優れた土木工事技術が幻想入りし、それを学んだ技術者たちの努力が奏功したのだ――という、もっぱらの評判。
羽を小刻みに震わしては、尾を上下させながら数匹のとんぼが川の上空を飛行していく。細っこいはずの腹がやけに膨らんで見えたのは、ふとした錯覚だったのだろうか。それを許すだけの熱を、太陽が保証しているとも思えなかったのであるが。
不揃いに突っかけられる爪先がザクザクと小刻みな音を発する。
生ぬるい昼日中の大気がぬらりと歪むと、不快げに細められた目の周りの皮膚に、滴に成りきらない汗がべっとりと、“にかわ”のように感ぜられた。
「親指、隠さないのだな。妹紅は」
「あれ、聞こえてた?……ま、隠さないかな。両親とも――なんて、とっくの昔に死別してる。いまさらそんな慣わしを律儀に守ったところで、仕方がないさ」
目の端に笑みを浮かべながら、妹紅は息を吐くように早口で言った。
慧音は、「ふうん」と、それを受けると、妹紅とは逆に、口の端に笑みを浮かべるようにして答える。と、ごほ――と、小さな咳が彼女の白い喉を震わせた。そして、何か気持ちの悪いものが滲んだような不快さを、目尻に溜めた。
「私とて、父も母も逝った後だ。指を隠す道理もないのは、同じことかな」
妹紅の視線が慧音の顔に注がれると、それに気付いたらしい慧音は小さく笑った。妹紅は目をそらす。このところ、めっきり白くなってしまった顔は、何よりも消耗していく体力を証明している。それを、見たくないような気がした。
慧音が石にでもつまづいて転びはしないかと少し心配になったが、案外と足取りはしっかりとしたもので、とても病人の姿とも思えない。
確かに、昔と比べればやはり弱々しい足取りにも思われたのだけれど、少なくとも当たり前に歩こうとする様子だけなら――高くなりがちな熱と、断続的に起こるという胸の痛みと、血混じりの咳と、蠕動する生命の残り火。それらがすべて混ぜこぜになって、肌に拭いがたい兆候を刻みつけようとしている風には、解釈できなかったことだろう。
それに、会うたびに痩せてだっている。
以前、妹紅は湯浴みを手伝ったときに慧音の裸を見た。胸も腹も白くなって、まるで病のせいで一気に年老いたような様相だった。剥き出しになった乳房の真下に病巣と化した器官があるということを、手拭いにあたたかい湯をひたして絞りながら、そのときの妹紅は考えた。
自ら手を貸してやるだけの甲斐を、死ぬときまで慧音が保ってくれるのかと。おそらく、布団から起きられぬようにさえなるであろう未来が見えた気がして、湯が切れてからからになるまで、彼女は手拭いを絞り続けていた。
白くなる身体の反面、慧音の頬だけは血の袋が浮きあがっているように紅色が差し、突っつけば破裂してしまいそうなほどに薄い。剥がれ落ちつつある生命が、日々、残り少ない脈動の情勢を見る者に伝えようとでもしているようにである。
八意永琳の見立てでは、労咳に極めてよく似た病――らしい。
完治させる方法はない。ただ薬によって延命を試みるよりほか、やむなし。一年後か、あるいは五年後か。どんなにゆっくりとでも、確実に余生は削り取られていくという話であった。
妹紅と慧音が出会ってより百幾年。
知識と歴史の半獣も、病を跳ねのけること叶わぬまでに、少しずつ老いていたに違いない。
そろそろ、別れが近いのだな、と、妹紅は漫然と考えた。
けれど――泡立った紅色が、止めどもない咳とともに喉から溢れ出しては、途中まで書きかけた史書の草稿を血の海に歿させた晩より以来、慧音は、ひどく明るく振る舞うようになった。
今日はまだ“まともな”方だったけれど、本当は軽はずみに外出していいような身体では、既にない。それなのに、彼女は周囲の静止など小鳥のさえずりほども気にしていない様子だった。外に出るのは、とくべつ具合の良い日を選んでいるという話だが、いずれ身体に多かれ少なかれ負担をかけているのには違いない。
病勢が進行して寺子屋で教鞭を執るにも支障をきたすようになり、村で唯一の教育機関を閉鎖せざるを得なくなったころ、慧音は自身の世話役にと老女中を雇った。何年も前に夫や子と死に別れ、生活に窮していたというしわがれた婆様だった。
「ひとり者同士、気楽な付き合いができると思っての人選だよ」
と、慧音は妹紅に言ったことがある。
日頃から飯炊き・掃除などをやりつつも、婆様は、日がな一日読書と執筆、腹が減ったら茶を飲みながら菓子を喰い、永遠亭から処方された苦い薬を嫌々ながらに服し、元気があれば知り合いの見舞いやら天狗新聞の取材やらに応じ、暇になったら散歩に出、病人なのに床に入っていない時間の方が長いという、療養とも言えない生活を送る慧音に「先生さん、命が惜しかァないんですかね!」と苦々しい顔をしていた。そう言いながら、何とも難儀な家で働くことになっちまって……と、婆様は決まって合掌する。
ここ数年のうち人々の間で最新流行の宗旨といえば、聖白蓮を筆頭とする命連寺宗であり、婆様もまたそれを信仰しているのだという。噂によると、守矢神社の神様が歯噛みして悔しがっているとか、いないとか。
この信心深い老女中は、常々、雇い主に“白蓮様の説く御仏の教え”とやらに帰依し、殊勝に手を合わせるように勧めていた。そんな折の御利益についての講釈の、異様な長ったらしさったら、ない。おそらく、老人にはさして珍しくもないお節介の賜物だったのだろうが、特に興味のない慧音にとっては、ときに病より厄介な難敵だ。
しかし、食い物やなんぞを持って見舞いに訪れ、傍らでぼうっと聞き流している妹紅には、手を合わせる合わせないで果てしのない攻防を繰り広げる二人のやり取りが、ひどく可笑しい見世物に思えることもある。
で、決まって困り顔の慧音は、やれやれひどい目に遭ったと苦笑しいしい、婆様が買い物に出払った隙なぞを上手いこと見計らって、妹紅と共に散歩に出てしまう。
「家の中に閉じこもってた方が、もっと、ずっと具合が悪くなるからな」
慧音は、見舞いにやって来た妹紅にたびたび語る。しかし誰にも心配をさせまいと無理をしているのではないかと、妹紅は内心で疑わずにおれない。
外出なり散歩なりの翌日に病床の彼女に会うと、忙しそうに立ち働く婆様をじっと眺める顔色は、土を塗り付けでもしたように生気の抜け落ちて、精彩がまるでないのがひと目で解る。
そんなとき、慧音は自分に残った学者としての仕事を続けながら、必ずと言っていいほど冗談を口にするようになった。
「ほら、今日はいつもより吐いた血の量が多かったよ」
と、赤く染まった懐紙の溜まった屑かごを指して、返す言葉に困ってうろたえる妹紅の顔を見ては、けらけらと子供のように笑うのだった。
「笑いごとじゃないだろ。あんた、仮にも病人なんだからさあ。もっと、こう、自分の身体を大事にしてだな……」
「これだけ出るんだからまだまだ大丈夫さ。それより、書きかけの文章や読みかけの本に血をぶちまける方が面倒だな。貴重な文献だと、特に」
何かを噛むように顎を震わせながら、最後の言葉はやがて聞こえなくなる。
以前は、そんな風に歯切れの悪い物言いはしなかったのに。
どこか芝居じみた、本気なのかどうかも判らない悪戯めいた行為を見せられるのは、妹紅にとって、もう千年も前に忘れた病の苦痛を思い出すよりも、はるかに怖気を震わされるのだった。
最近では、床に臥せっていることが少しずつ増えているように思った。
療養に入ったばかりのころの慧音は、会うたび机に向かっていた。
小難しい文献相手に、いつの時代に何が起こったの、誰がどんな業績を残したの、それをどう評価すべきかだの、筆先を墨で真っ黒に湿らせて、咳をしつつも一心に書き取っていた。
それが最近では、枕に頭を埋めながら、落ちくぼんだ眼窩から目玉をキョロキョロと動かして、妹紅を迎えることが多くなっている。外出の回数だって、目に見えて減っているらしかった。
さらに先だって、ふとした拍子に水場に立つ婆様が尿瓶を一心に洗っている様子を偶然、目にして、妹紅はささやかな戦慄さえ覚えた。
それとはまるで反対に、不自然なまでの快活さは、向き合うたびに慧音の眼を潤ませている。傍らで何くれとなく話す妹紅の眼も、いつしか潤む。
今は未だ当たり前に歩くこともできるけれど、そのうちにひとりでの用足しもまともにできぬようになっていくようでは、その笑顔だって、粘土を固めた不出来な人形と、何も変わらぬものと化してしまうであろう。
「胸を病んだということはだな。私にとってはひとつの僥倖かもしれんよ」
「病気なのに? あんたとはそれなりに長く付き合ってきたつもりだけど、そんなワケのわかんないことを言うとは思わなかったよ」
「婆様を真似するわけでもないが……これは案外に、宗教者の悟りの境地みたいなものに近づいているのかもしれない。残された仕事に向き合う気持ちがやけに起きてきてな。精神上に、ばかに活力がみなぎっていると思える。それに、病の中で生きる苦行を知ると、私はそれに最も生かされている気がするんだ」
「……おかしなやつ――おかしなやつだ、慧音は」
「ふふん。変人の度合いでは、おまえの方が、はるかに上だと思うがな」
ある晩にはそんな風にうそぶきながら、妹紅は、何だか薬くさい粥をすすっていかにも不味いという風に眉にしわを寄せる病人の様子を笑った。慧音本人も笑った。二人して大いに笑った。その晩、ずうっとばか笑いを続けたせいで、しまいには婆様に二人そろって大目玉をくらった。
とにかく思い立ったときに、妹紅は慧音と笑っていた。
けれどここ最近の慧音は――特に妹紅相手には――ずっと、虚偽じみた微笑を絶やさない。それは、不安なことだ。裏側に何ものをも隠して、ずっと他人に真意を見せない。そんな、不安だった。
上白沢慧音とは、不思議な女だ、と、妹紅は白髪を揺らして考えてしまう。
学問のある奴は人妖を問わずごまんと居るはずだが、それを誰かに伝授しようだとか、広めようだとかする奴は、幻想郷広しといえども慧音くらいではないだろうか。
基本的に幻想郷の連中は、良かれ悪しかれ、他人を気に掛けずに我意を貫く個人主義者である。
それが慧音は好き好んで(他に史書の編纂という大仕事があるのに)、寺子屋を開いて人にものを教えていた。束脩も雀の涙ほどしか取らなければ、門地門閥で入門者を差別するようなこともない。必要なのは、ただ熱意だけ。それでなくとも彼女は人里の守護者で、人間たちに害意を抱く者あらば、時に自らの命の危険さえある相手に、臆することなく真っ向から立ち向かって行くのである。
だから、彼女の周りには人が集まる。
男も女も、老いも若きも、皆が「先生」「先生」と呼び慕い、笑顔を絶やすことはない。慧音はたったひとりで生きているのでもなければ、誰かひとりのための慧音でもない。
不死者になってから、ひとりぼっちで生きてきた期間の方が長かった妹紅には、出会ったころの友人の姿の何もかもが新鮮だった。けれど、世界でいちばん不器用な女に思えた。
いつだったか、妹紅は上白沢邸に泊まった折に訊いたことがある。
布団を敷いて寝に入る直前、灯明に照らされた影が壁面に揺らめき、観客の居ない演劇を行っているような、そんな夜だった。
美味いものをたらふく食べても良いし、金をうんと稼いでも良い。
誰かに嫁いで、子供を産んで、家庭を作って、そうして平凡に一生を終えるのも、藤原妹紅よりももっとはっきり“人間寄り”の存在である上白沢慧音には、きっと悪くないことだ。命に限りがあるのなら、もっと好きに生きても良いはずじゃないか。
「ふう、ん。私は何故だか、そんな生き方をするつもりにはなれないんだ」
「どうして? こんな狭い村ン中でくすぶってるより、慧音の才覚を活かす道はいくらでもありそうじゃないか。蓬莱人以外はいつかみんな死んでしまう。なら少しくらい好きに生きても、バチは当たらないと思うけどな。“死ぬのだけは、ばかも天才も平等なんだから”」
「何かをやって、“記録”に名を刻むことは難しい。でも、誰かの“記憶”の中に残り続けるのは、もっと難しい。時の流れが最も怖ろしいのは、人の創った概念そのものも、共に風化させずにはおかないからだろう。……私は、誰にも忘れられたくないのかもしれないな。だから皆と共に居る。結局は、自分の好きに生きていることに、変わりはないからな」
はっきりと、慧音はそう言った。
まるで何か、大事なものを振り捨てるような、泣きそうな顔をしていたのを今でも覚えている。
『あんたは、嘘つきだ』
『おまけに、頭は良いけど大ばか者じゃないか』
『何と言っても、嘘をつくのだって、下手くそだ』
そう考えたが、口に出すことはしなかった。
忘れられたくない――たったそれだけの理由で、出来損ないの同情心を誰かに抱けるはずがない。
白髪と赤眼と、何をされても死なない不滅の肉体を持つ『化物』と、対等に語れるようになど、なれるはずがないというのに。
今も昔も、妹紅は猜疑のかたまりである。
人々に迫害された過去がそうさせる、いわば処世術の一端であったが。
それだからこそ『大事な』友人の声にさえ、裏を読み取ろうと勘ぐってしまう。故に、喉に針の突き立ったように、その晩の問答を未だに忘れられない。
妹紅のうちには、個人の生き方そのものがいずれは陳腐な石ころと化すべきものであるという信条が鎮座していたが、それは概して自分ひとりのために生きるのが最善の道であるという考えに繋がっていた。誰にも手を差し伸べられないちっぽけなものが意思を持つなら、好き勝手な方向に飛んでいっても構うまい。が、その先で拾い上げられる相手が果たして自分にとっての好い者とは限らない。だからこそだ。
「永遠を生きているのなら、すべてを快楽と成すべきなのよ」
と、妹紅は父の仇と対峙したときには聞かされたこともある。
日頃、いっぱしのニヒリストめいた生き方を気取っていた妹紅に、蓬莱山輝夜は殺し合いのたびに嘲笑を投げかける。そして、死でさえも生の執着であるのなら、等しく好奇心の対象として見るべきだと説いたことさえある。
いっそのこと掻き消えてしまいたいと望みたくなるような痛みの中、ちぎれ飛んだ右脚の破片をかき集めながら、妹紅はぜえぜえと荒く呼吸をしながら怪訝な顔をしたのである。
このふたりが落ち着いて話をするときといえば、大抵がひととおり互いを殺し、少しずつ戦いに飽き始めてくる頃合いに当たる。激しい殺し合いによって、竹の群れは強力な砲弾が炸裂したように吹っ飛び、迷いの竹林どころか地の果てまでも見渡せそうなほどの更地に化す。
「で、結局は何なわけ」
「極端なことを言えばね。いまあなたがそうして痛みに喘いでいることでさえ、あるいはひとつの悦びとして享受すべきだと、私は思うわ」
「暴論もいいところじゃないか? 哲学者の真似ごとにしては、そんな意見はあんまり知的に見えないぜ」
「哲学なんてものは、限りある身の振り方を考えるためのものでしょう。難しいことを簡単に答えるのが神様で、簡単なことを難しく答えるのが哲学だと、私は思うの。有限な者でなければ、生についての小難しい疑問は生まれてはこないはずだもの。差し詰め、不死人の思想は暇潰し以外の目的には使えないけれど、何ものも――肉体への最高度の侵犯でさえも――従容と受け容れる心持が、理想よね。だって、あらゆるものはひとつも余さず私たち蓬莱人を通り過ぎてしまうのだから。いつまでも一緒に居られるのは、疑いようもなく各々の分かちがたい孤独だけ。そうとでも考えなければ、永夜の生は、魂を腐らせるわ」
臓物の一部が吹き飛んで、青い顔をしながら輝夜は言った。もうすぐ意識が暗転するので、ひどく速く血に濡れた唇を動かしていた。
焼け焦げた自身の爪の破片を指先で弄びながら、妹紅の意識も薄らいでいた。
そのときは、輝夜のことを気でも違ったのかと思ったが、今にして思えば、病を僥倖と言う慧音の姿は――もちろん彼女は不死ではなかったが――死に際して凄艶さを増していく輝夜と相通じるような気がするのも確かだった。
実におかしな符合だ。
以来、妹紅は輝夜との殺し合いに集中できなくなった。
そのたび、病床にある慧音の顔が思い浮かんで、動悸がしてくるからだった。
それにつけても過去というものは、いわば自分を追い抜かしていく走者のようなものでもある。遠ざかっていく背中を見つめることしか、現在に立つ本人にはできないのだから。
誰にも取り残されていく妹紅にも、少なくとも、昔からおおよそは変わっているまいという思いが、なかったわけではないのだ。
日常に残されているすべてのものは、ただ空虚を埋めるためだけの行為であり、精神を延命させるための措置に過ぎなかった。望まれずに産まれた命、公家の落胤にも近いつまらない命。
限りのある命をそのまま燃え尽きさせていたならば、生きることにはすべて意味があっただろうと、このごろの妹紅は考える。
ただ屈辱と悲哀にまみれることだけが、彼女の生を彩る唯一のものではあったのだけれど、確かに、不死人と化すより以前は、その屈辱の故に彼女は藤原妹紅足り得たのだろうと断言ができた。
誰かに望まれるということは、常に疎まれているということに通じている。すべて他者の意識の端に留め置かれるというのは、無数の彼らに『そうであること』を求められているからだ。輝夜への憎悪がそれを裏書きするように、亡き父への思慕が蓬莱の禁薬へと手を伸ばさせたように、だから世界は必要なものだった。
しかし、結果は拒絶でしかないのである。
事実に倦んだ妹紅もまた、拒絶した。
形の合わぬ鍵穴へなどいくら差し込んでも何も起きない。だからこそ、鍵を手にしないままの孤独こそ何よりも尊ばれるべきではあったのだけれど。
しかし、それでも生の旅路というのは不死とそうでないとに関わらず、否応なく続けざる終えないもので、だからこの日のふたりの散歩も、その道程の一部であったのかもしれない。
地面に目を逸らしては、もうだいぶ後方に行き過ぎた祭儀の残滓を、妹紅はゆるやかに思い起こした。
すれ違う瞬間に知った、遺骸の収まった大きな木の棺桶。
ひどくくすんだ茶色をしていたように思う。
大樹の幹じみたかたまりに、これもまた大きなふたがされて運ばれているのを横目でチラと見、すれちがう喪服の列の顔をフと見上げたのだ。
涙を浮かべる者は一人とてなかったが、誰も言葉を発さぬままに草鞋が土と小石を踏みつけ踏みつけ進んでいく。
その情景は、何か、複眼のえぐられて、羽に幾つも穴ぼこの開けられた、朽ちかけた蝶の死骸を巣穴まで運んでいる蟻の行列。そんなものにも似た、奇怪な沈痛さをたたえているように思われた。
彼らのうちの先頭を歩いていた初老の男の顔に、妹紅は見覚えがあるように感ぜられた。
白髪交じりで薄れかけた頭髪が、ほつれながらに揺れている。
腫れたように大きな唇に、歩き通しでかいたのであろう汗がかかって、その部分だけが別の生き物のように生々しいぬめりを放っている。
谷みたいな皺が幾つも幾つも刻まれた広い額に対し、痩せ枯れて骨の浮き出ているみすぼらしく浅黒い顔の肉に、小豆めいて小さな両目が埋まっている。
どこか知らない所に迷い込んだ幼い子供のように、溜息としての慄きを、彼は呼吸しているように見えた。
どこぞの道で行き会ったことでもあったか。
それとも自分が竹林の水先案内を買って出た元病人ででもあったのか。
男が二人の姿を認めて静かに一礼すると、他の者らも倣うようにして、それぞれに頭を下げていた。妙にやつれた最後尾の女は頭を下げるのも忘れて、木の枝のようにがりがりの両手で数珠を必死に揉み動かしながら、何ごとか、経文らしいものを一心不乱に唱えているだけであった。
葬式は済んで――――。
これから墓場に運んでは、皆で土の下に埋めてしまうのであろう。
地面の下で、ただに熱く熱く、かつて生命だった塊はどこまでも腐り落ちてしまう。
妹紅には、最も無縁だ。
路傍に伏せる蛆の湧いた人の形をした肉塊の、くぼんだ眼窩より黄色くにごった眼球が滑り落ちる他者性のものなら、幾度も目にした経験があるが。
人々の生活に満ちる観念はひどくもろく……それでいて、向こう側のよく見えない肉の薄皮だと思った。上手いこと引っぺがしてみると、骸骨の 宮殿が建造されているにも等しいのである。あまり良いにおいを発しているとは思えない光景が、よく広がっている。
「慧音は、さっきの連中の顔を見たかい」
友人の顔を見もせずに訊いた。
……いや、と、慧音は答えた。彼女もまた、妹紅の顔を見なかった。
「どんな人だったんだろうな。さっきの死人はさ。良い人だったのか、悪い人だったのか」
「わからないな」
「じゃあ、死人を運んでた連中は? 何を考えて、死体と一緒に歩いてるんだろう」
「それも、わからないよ」
溜息をひとつ吐くと、慧音は笑んだ。
皮肉のような色合いを帯びた表情が、落ち始めた陽の光に照らされて、濃い陰影を刻んだ彫刻の地に鎮座しているのにも似ていた。
帽子から溢れ出した銀色の髪の毛が光線の吸収を拒絶しては放出する様子が、ひどくまぶしい。少しだけ、この反射を妹紅は煩わしく感じていた。
「彼らとは無関係な者である私たちに、それを知る由などない」
妹紅もまた、それを聞いては溜息をつく。
彼女の息は慧音のよりも、もっとずっと長く、そして何より熱かった。
少しずつ夜に向けて熱を失っていく天と比べて、まるで対照であった。
それがもしも生命の素体と成るべくして存在するものならば、妹紅の心に住まう無限の魂が、少しでも漏れ出ているとでも言えたのかもしれない。しかし、友人の言葉を受けた彼女の顎も歯も舌も、自身から流出する何ものかを押し留めるほどのはたらきを、あえてしているのではなかった。
それは、もしかしたら藤原妹紅流の諧謔だったのかもしれない。しかし今度こそ、誰に示すでもない。
「そいつは当然だな……誰でも自分の知り得る限りの事しか、一生のうちには理解できないもんだ」
歩みをこころなしか速めながら、妹紅はくッくッと笑う。悪戯坊主めいた無邪気さに口の端が鎌みたいに引き延ばされ、頬が切り裂かれる。
少し経つと、川のこちら側と対岸とを渡す橋が、二人の眼の前に近づいてくる。特に何の装飾も施されてはいない、木の板と丸太を繋いだだけの簡素な橋である。
一人の爪先が湿った板を叩くと、もう一人の爪先がまた叩いた。先に慧音が、後から妹紅が進んで行く。カツカツいう足音がどちらの発したものか、それだけでは判別もつくまい。
土手の上からではさらさらと布を擦るような音しかしなかった川が、足の下を流れる状況になってしまった今となっては、まるでゴウゴウと唸り轟く大蛇の雄叫びだ。
さして長くもない橋の上で、妹紅が口を開いた。
「人間は、ただ高潔さのためだけに生きることができると思うかい?」
橋を渡り終えて、対岸に辿り着くあたりで、彼女は歩みを止める。
それを見て、妹紅の後から渡っていた慧音は、呆けたような目で友人の顔を見つめた。弱い風が二人の少女の間を吹きわたり、下手くそな笛の響くがごとき音がした。
「葬送なんてのはさ。どっちみち、“いま生きてる奴”にとっての儀式でしかないはずだ。ふつう生者はたどり着けやしない場所に送り出すんだから。徹底的に――葬り去るための儀式は、死んだ奴を無条件な高潔さに送り出すだけだ。そうやって、全てに区切りをつけるためにある。生きてる連中が、また“いつものところ”に戻るためにね」
「妹紅は、その尊さをまやかしだと思うのか? 死者にのみ、その特徴が認められると」
「生者の高潔が、誰かのために使われて終わるのは綺麗なことだ。でも、あまり哀しい綺麗さだ。そんなのは、きっと欺瞞。自分を偽ってる」
「ならば――誰かのために生きるのは、悪いことか」
妹紅がにわかに嘲笑を発した。
普段、彼女が慧音に向ける笑みにしては、それは、似つかわしくないほど酷薄だった。肩をいからせて、白髪が揺れている。
「だって、抑圧じゃないか。他者のために、なんて。そうしてそれが美しいだなんて。思い上がりも甚だしい。やたらに犠牲を強いる理想なんてのは、結局は不完全なものさ。それを維持するために発明された高潔さは、確かに本物には違いないが、でも、繁栄の根底にあるのは少数者の屈服だ。直視なんてとてもできないくらい、ひどい」
それでも、あんたらしいといえばらしい意見だけどね、と、彼女は笑った。慧音は慧音で、どこかムッとした様子で言葉を継ぐ。
「……だからといって、死者を蔑ろにするのは納得がいかないよ。彼らの生前の行状を、全て遺しておくことはできまい。でも、称えることは、せめてもできる。忘れるのは、とても、とても、寂しいのだから」
「――――ひどく感傷的なんだな、あんたも」
「そんな時だって、あるさ。死人に対して無条件に贈られる高潔が、始めから生者のためのものというのなら、誰かのために、今はもう居ない彼らが生きていたかもしれないということも、生きている者たちが他者のために成し得るあらゆる行為も、始めから、虚しいことではないのか。誰かと関わるということだけが、あまりに哀しいことではないのか」
銀色の髪の毛が流れた。
風のうねりが衣服の裾を、瞬くよりも短い時間だけ揺らした。
両の眼の内奥で、少女の瞳が煌めいた。濡れているようにも見える。触れれば割れそうな、シャボンの泡のような意識を透過していた。
「私は、嫌だよ。そんなのは」
慧音は、泣いているのかも知れなかった。
伏せられた顔がどんな表情をしていたのか、振り向いただけの妹紅にそれと察することはできなかった。ただ、慧音らしからぬ声が発されているのだけが理解された。
ひとつの物語としてならば、世界は最上の完成度を誇る。けれど、克服すべき現実と見るのなら、他には無いほど非情なつくりになっている。すべて高潔を悪徳と見なすなら、それは正しく克服さるべき壁であると、妹紅は確信していた。しかし、それを行うには、この世界は精密でありすぎるのだ。人間や妖怪の造り出したいかなる機械でさえ、その精密さの足下にも及ばない。歯車ひとつ、ねじの一本よりはるかに小さな諸要素が、隙間なく固めて埋め尽くしているのだから。
無理矢理にむしり取ってしまうような生き方しか、妹紅は知らない。
そうせざるを得なかった彼女にしてみれば、慧音の行為は――子供のままごと遊びと幾らも趣を違えない。英雄を夢見ても英雄にはなれぬように、幸福が何であるかもわからない者が幸福を与えることは、できるはずがない。
「……私にとって……“それ”は空虚なんだ。希望はいつも裏切られるためにあった。精巧な嘘のもとに作られた希望は、ただひとつの絶望によってしか滅ぼせない。繰り返される希望が自分自身へ還元されないという事実に倦んだとき、空っぽになった意識を満たすのは絶望だ。希望を喪った心は脱け殻だが、絶望を介してようやく再び眼を覚ます。誠実な絶望でしか、実体の伴わない無意味な希望は撃ち落とせやしない。その真実を飲み込んだ時こそ――大抵のヤツは、気付けないけどな。皆、哀しいくらいに“有限”なんだから“――人は本当を知る。自らの命だって、進んで投げ出す事も厭わない。それでこそ確信できる。“生きているってなんて素晴らしいんだろう”!」
痛烈な悪罵だった。
鋭利な棘でもあった。
それを投じた白髪の少女には、一瞬間とはいえ、確かに優越と軽蔑の感情があったのだ。
妹紅ははっきりと考えている。
慧音の言葉はただの理想だ。
彼女の語る理想、希望では、自分が救われることなど、絶対に有り得ない。けれど、どういう訳か、同じ棘が舌に突き刺さったような感じがする。血管を通っては心臓まで達して、むやみに鼓動を増加させている。きっと、誰にも言ったことのない信条を表した緊張のせいだ。妹紅はそう断定した。否、断定したかった。
慧音の微笑……。
白い上下の歯をよく噛み締めて妹紅を見る友人の表情は、いつもと変わらない、見慣れた優しさだった。
少しだけ歩みを速め、妹紅の隣にやって来る。
彼女は妹紅よりも頭ひとつぶん程も身長が高かった。二人が並ぶと、まるで歳の離れた姉妹が歩いているようであった。光が二人へと注ぐ。慧音の銀色の髪の毛はまた輝き、傍らに立つ妹紅の髪も、またその光を享けているようだった。白いはずの長い長い髪は、その時だけ、よく細工されて磨かれた装飾のように、銀色に輝いている。
慧音が両手を腰の後ろに組み、妹紅より先を歩く。ズボンのポケットに両手を突っ込みながら、爪先に小石を蹴りつけるようにして妹紅は後を追いかける。
言うべきこともなく、思惟すべきこともないままに、地面を見やる妹紅の顔を、慧音が振り向いた。
「妹紅にとって誰かと生きることは、意味のない虚偽なのか? ――いま私と共に、生きているということも?」
妹紅がそうしたように、慧音もまた、相手に対して問いを投げかける。
明確な回答を成すことも叶わずに、ただ白髪が風に揺れているだけである。
視線を、コツコツと爪先で突っつく小石から離さずに、ポケットから引き出した、汗ばんだ右手の指で、かゆくもない頬を掻く。
「わからない」
顔を上げて友人の表情を確かめようとしたが、太陽の介入がそれを阻んだ。逆光になって暗闇に覆い隠された慧音の顔を、妹紅が見ることはできなかった。相手の靴から腰、腰から腹と、順繰りに視線を這わせていく。最後に到達した場所は、真一文字に引き結ばれた唇であった。『何』も、言おうとはしていなかったし、『何』かを表明しなければならないとも思えなかった。
ただ、自分はここに居てはいけないのだと、そのときの妹紅は考えた。
まぶしさに歪む視界の向こう側へと、石と石が打ち合わされるような、硬い声が滲み出る。
「私には、わからないよ」
嘘だった。
鮮烈なまでの嘘なのだ。
上白沢慧音が、藤原妹紅にどんな返答を望んでいるか。
彼女の問いに自分は肯定を返してはいけないのだと、そんな確信だけが、妹紅の顔を悲痛に曇らせたのだった。
さっきの葬列の男。
妹紅はようやくその正体に思い当った。
彼は誰でもあるし、しかし、誰でもない。
死者を見る者は、皆、限定された理想の薄皮をまとっているという事実を、彼女はようやく思い出した。仮初めの永劫へと導かれた死者たちは、いつも、あのようにして尊ばれるものであったから。
「しかし、少なくとも」
と、慧音が再び口を開く。咳混じりの言葉が、断続的に耳朶を刺す。血を吐いたら大変だが、懐紙の用意はあるだろうか、と、妹紅は薄ぼんやりと考える。
「少なくとも、たとえ嘘だと思われても、私は妹紅が居なくなったら、ひどく悲しいよ」
目の端が光っているように見えたのは、きっと錯覚だろうと思った。
こんなところで、そんな理由で慧音が涙を流そうはずはない。
自分は未だここに居るのであるし、相手を悲しませるためになにがしかの能動に訴えてもいないのだから。
けれど、彼女はなぜ、そんなにも哀しい顔をするのだろうか。
居なくなってしまうのは妹紅ではなく自分の方なのだと、彼女は言いたげであった。作り物めいたささやかな笑みを染み出させるように、慧音の声は震えている。
「妹紅が居なくなったら、舌を噛んで、自殺してしまうに決まっている」
「ばか……舌を噛んだだけじゃあ、人は死ねないぜ」
額にひやりとしたものを感じ、妹紅は、はッ……とさせられた。
何か、水に浸して冷たく冴えた刃を、脳天の内奥までも突き立てられたような気がしている。
それが、自分に対して向けられているらしい最善の好意であるのに気がつくのに、それほど長い時間はかからない。
顔が熱くなった。
目頭がウズウズと震えるような気がした。
止めどもない鼓動が手足の先に波及して、熱の塊に抱き止められているような感触だった。
何という、ばかなことを言う奴だ。
他人のために――まして藤原妹紅のために死ぬなど。
妹紅は、自らを取り巻く世界に対して何の意味も見出し得ない。
理解された現実との大きすぎる齟齬を、慧音の言葉は何よりも描き出している。
妹紅が自分以外に対して何らの感慨も抱いていないのなら、それに特別の感情を抱くことなど最も容易い自涜でしかない。沈黙した法悦が、一刹那のうちに千年の経過に根を張るのは、絶頂を通り過ぎた快楽としては最大の愚かしさではなかったか。
仮に少女が他者に存在を肯定されるのは、ただ憎悪の対象となるためだけに違いない。
白髪であるように、歳をとらぬように、どこからやってきたとも知れぬ異邦人が、鬼よ物の怪よと石を投げつけられて、槍持て弓持て刀持て無様に虐殺され、流れ出る黒い血の河こそ求められもし、与えられもする生の意義ではなかったか。それが、当たり前のことではなかったか。
慧音は、あまりに危険すぎる。
妹紅にとっての『当然』に、彼女は強すぎる介入をはたらいてきた。そして、妹紅はもう、何度も犯されている。これ以上もないほどに――離れがたいと、朧気な自覚を思い出すくらいには。
今だけでも――と、慧音は言った。
「今だけでも、忘れられたくないし、忘れたくないよ。それは不安だ。とても、怖いことなんだ。妹紅が、いつか私の前から居なくなってしまうのではないかと。私のことを、忘れしまうのではないかと」
「…………やめときなよ。そんなこと、言うのは」
ばか、と、小さく呟いた。
「病気のせいで、あんたは頭が回らないんだ。きっとそうだろ。それに、もうすぐ永琳が往診にやって来る頃合いじゃないか。例の婆様だって、またいつもみたいに怒ってるだろうさ。家から出歩いてお医者先生をむやみと待たせる患者は、嫌われるぞ」
「――そういえば、そうだったな。彼女も忙しいだろうに、わざわざ私の具合を診るために来てくれるのだし。そろそろ、帰ろうか」
慧音がふと微笑を――慟哭を無理矢理に覆い隠したような、引きつった微笑を――浮かべたような気がしたけれど、まっすぐに見て確かめる勇気が起きなかった。
二人は、歩いた。
しばらく、何も言わなかった。
ただ言葉を弄するよりも、触れ合う肌だけが最も雄弁ということもある。
どちらからということもなく、いつの間にか繋がれた手のひらと指とが、静謐のままに互いの意思を交換し合っていた。
藤原妹紅は、常に自分のためだけに生きている。
ただ、自分一人を充足させるために、尽きぬ生の道程をあれこれと理屈をつけては惰性で這いずり回っている。
蓬莱山輝夜と互いを殺し続けるのも、竹林で道に迷った人間を導くのも、彼女にとっては戦慄すべき怠惰をせめても刹那のうちに無化するものでしかなかったはずだった。
慧音との交友は、いずれ忌々しきものとして唾棄すべき足枷にしか成り得ないというのに。いずれこの友人もまた、自分の手から砂のように零れ落ちてしまうのがよく解っているのに。
厳然たる事実であるはずなのに、何故か、認めてはいけない気がする。
どうして慧音が自分の元に居るのかと自問さえした。
彼女さえ居なければ、出会うことさえしなければ、苦界に自ら飛び込んだ己は、ただ憎悪のためにのみ在ることができたはずなのに。
こんなにも穏やかで、手放したくない苦しみを見出さずにいることが、確かにできたはずなのに。
空いた方の手で己の胸をぎこちなく撫で、小さな咳を繰り返す慧音の姿に、彼女の内に巣食う死病の影を、否も応もなく思わさずにはおれない。
何百何千と見慣れたはずのその姿を、特別に忌むべきものと感じてしまう。
そして、できることなら醜悪に相対したときのように、自らに笑いかける友人の顔から目を背けねばならぬと怖れるのだった。
慧音がこんなにも壊れそうな笑みを浮かべるようになったのは、いつのころからだっただろうか。
血を吐いて倒れた夜からか。
治らぬ病であることを告げられたときからか。
あるいは、限りある生命を持つ者として誕生してしまったときからなのだろうか。
考えるだに無駄なことだと断じて、妹紅の手は慧音の手を、ぎゅッと、強く強く握りしめた。今の自分には、それだけが最善の道であるように思われたからだった。
「本当に心配性なんだから。居なくなる訳がないだろう? 私が、慧音のところからなんて」
「どうかなあ。あんまりフラフラしていると、私の方でおまえを忘れてしまうぞ」
「ふん――良いよ別に。それなら、無理矢理にでも思い出させてやるさ」
握られる手だけは、あたたかいというより熱かった。
病のために高まった手のひらの熱は、それでも、冷たさよりもずっと心地よいものである。
その熱が、怜悧きわまる少女の信条――揺るがないはずの思想を、阿片を吸った酩酊のように、束の間の、姿の見えない幸福で惑乱させていた。
けれども真実かどうかなど、誰にも知れない。
たとえどんな者でも『最後のとき』が訪れるまでは、自分が幸福だったのかなど、知る由もない。そのときが絶対に訪れない妹紅に、今が幸福なのかは、とうとう解らないはずだ。だから、これを幸福と呼んではいけない。そう思わないと、別れはいつも辛すぎる。
もうすぐ――もうすぐ、また離別のときがやって来る。
隣で微笑む友人が、あの葬列と同じように、どこか遠くの高潔に追いやられてしまうときが来る。
幾度となく繰り返し、手垢にまみれた悲哀の波は、とうの昔に慣れたつもりだとは思っていたけれど。
妹紅は、ひとりだ。
生きても死んでも、ひとりぼっちなのだ。
いずれ慧音のことも、何も残さずに忘れてしまうときが来るような気がする。
薄情と、他人は彼女をそう言うだろう。しかし、どうだ。誰にだってひとりでは、自身の記憶を切り捨てることでしか重荷から解放されることはできないものだ。別れが重荷なら、そうなるための幸福だって、重荷には違いないことだろう。
でも、果たして本当のことだったのだろうか?
薄甘さを噛む心の中にまたひとつ嘘をついたことで、妹紅の心にはどうしようもなく鋭く痛い棘が、深く、深く、刺していた。本当でないから、彼女の理性は出会いそのものを、厭うていたのではなかったのか。あらゆる関係には有形無形の終わりが訪れざるを得ないということ。不死だからこそ、誰よりもよく飲み込んでいたはずであったのに。
これだから、エゴイストなのだ、と、妹紅は思う。
だから自分は、いつまで経ってもひとりぼっちなのだ。
村へ着けば、慧音は、また寝床に入る。
学問だとか、読書だとか、飯だとか、診療だとか。あとはばか笑いだとか。
これからも続く何でもないことが、重々しい刃と化して、また妹紅の魂を削ごうとする。こうして彼女は、慧音と共に生きた自分自身を迂遠な手段で殺し続ける。
別れの予感を兆しながら、それでも妹紅は笑うしかできない。もうすぐ慧音が死んだとき、辛さを秘めて、素直に涙を流すためにだ。
それが自分のためなのか、それとも慧音のためなのか、とうとう判らない。
空に目を向けると陽の光が雲間を溶かし込み、はるか地上に白く輝く柱を幾本も現出させていた。妹紅にはそれが、たどり着けるはずもない別世界からの導きのように思えて、不思議な感慨を覚えた。ひどく美しかった。どんなものでも、いつかは塵になって消え去ってしまう。単なる一瞬の偶然で生まれた気象に過ぎない光の姿も、すぐに姿を消してしまうはずである。
しかしその光の柱を初めて目にした瞬間だけは、目蓋の裏に刻みけられて、ずっと、ずっと、忘れられなくなる予感がした。
「綺麗、だなあ。あれは」
妹紅が言うと、慧音も、
「ああ――綺麗だ」
と、言った。
「今のうちに、もっともっと、色んなものを見ておきたい。綺麗なものも。そうでないものも。二人で居られる、今のうちに。なあ、妹紅……」
かすれるような声音だ。
悲痛さはなく、やはり、慧音の言葉には表にも裏にも喜びだけがあったのではないだろうか。きっと、彼女は泣いている。涙を見せずに泣いている。終わりが近いゆえに、あらゆるものが、すべて美しく思えてしまうことが、嬉しく、そして哀しかったのであろうから。
妹紅も、泣きたかった。
しかし、涙は出なかった。今、泣いてしまうと、“そのとき”を、自ら諦めてしまうような、そんな気がする。
「あ、あ、……そうだなあ。慧音。私たちは、ずっと――」
それ以上を口にすると、きっと涙が流れてしまうだろう。
だから、言わない。
言ったら、何もかもを裏切ってしまう。
二人は歩く。どこまでも歩く。
果てもなく、けれど、もうすぐ終わりへ到着する道を、黙々と歩き続ける。
慧音に関するあらゆる事柄――姿も、声も、手のひらの熱も。いま生きているということも。
このまますべてを捨ててしまうには、藤原妹紅は、上白沢慧音を、あまりにも、好きになりすぎていた。
汗ばんで、徐々に緩みつつある手のひらの力が、他にないほど愛おしい。
向こうの力が抜けるのなら、自分がずっと離さない。何と言っても、不死人にはその“権利”がある。
果ての訪れぬ旅路の道半ば。大事な人をその手にすることのできる誇らしい気持ちを奮い立たせようとしながら、この熱が近く消え去るときのことを――今だけはせめて忘れたいと、妹紅は願い始めていた。
人格者の慧音だからこそ、妹紅とうまくやってこれたんでしょうね
そんな慧音が居なくなった時に、この妹紅は何を思って泣くのでしょうか。
純粋に慧音を悼んでなのか、置いていかれた自分を憐れんでか。
本物のエゴイストではない事を願いたいですね。
じわりじわりと水が澱んでいくかのような展開がツボでした。
圧倒されました。
私もこんな作品が書けるようになりたいものです。
妹紅が感じている距離は、幾もの死を見た彼女ならではのものなんでしょうか。
コメントありがとうございます。
自分の中で、妹紅はあくまでエゴイストを「気取っている」というイメージです。
そうしなければ精神が砕けてしまうから。
慧音との関係が、心を融かしたのかもしれません。
>>6.
コメントありがとうございます。
悲哀の澱みの中にある、
たった一筋の清澄みたいなものが描けていれば幸いと思います。
>>7.
コメントありがとうございます。
過分な賞賛という気もしますが…素直に嬉しいです。
不死だからこそ、誰よりも妹紅は離別と対決しなければならないとも思います。
>>11.
コメントありがとうございます。
死別ネタはもはや東方二次創作の定番ですが、
自分なりに解釈したものを楽しんで頂けたのなら幸いです。
>>12.
コメントありがとうございます。
一ヶ月ほどかけて、書いては修正、修正しては加筆の繰り返しでした。
妹紅と慧音は寿命もそうですが、どれだけ強い絆で結ばれても、
思想的には絶対に交わらない部分がどうしてもありそうな気がします。
やはり妹紅はあまりにも死別を経験しすぎた――ということなのかもしれません。
誰かが重い病にかかると、心の整理が出来るように「あの人は死ぬ」「この人はもういなくなる」というふうに、予め「いなくなる」ことを頭に浮かべるんです。
でもそれで良いんだと思いますよ。相手がいなくなった後のことを考えるから、一緒にいられる時間を大切に出来るんですからね。
……これは果たしてちゃんと作品についての感想になっているのだろうか。なんというか、ごめんなさいです;
究極的にひとりでしかない妹紅だから、
自身の心情と慧音に対する思いの間で板挟みになりそう。
そんな気がしてこの話を書きました。
二人が最後の時間を共有できるのは、束の間であっても幸せであってほしい。
たとえ想いのベクトルが最期まで平行線や漸近線を描こうとも、お互いに相手のことで頭が一杯なのは
傍からみりゃ羨ましい限り。
通じるよりもすれ違った方が、より深く相手の心に刻まれる可能性だってあるわけだし。
死ぬまで忘れられないなんて妹紅にとっては最高に笑えない冗談なのかもしれませんが。
>それなのに、彼女は周囲の静止など小鳥のさえずりほども→周囲の制止
>聖白蓮を筆頭とする命連寺宗であり→命蓮寺宗?
>否応なく続けざる終えないもので、だからこの日のふたりの散歩も→続けざるを得ない
いい歳して死ぬ間際になってまで、こんなしみったれて別れを惜しむような生き方は、人間にしか出来ませんもの。あるいはそれを恋してるとかいう風に考えるのが自然なんでしょうかね。どうなんだろう。