天界から地表に向かい、ふよふよと降下していく巨岩が一つ。
その上にだらしなく寝そべった天子は、小さな要石を数個浮かべて手元で回していた。
今日はどこへ暇潰しにいこうか、行き先と行動を考え中なのである。
お手玉のように回る小さい要石を目で追いかけながら、思案すること少し。
天子は上半身を起こして巨岩に座りなおすと、腰掛けている巨岩をクルクルと回し始めた。
上に乗っている天子自身も回転を始め、その状態のままですぅと目を瞑る。
少しの間回り続けてから、手元の小さな要石の一つをピンと指で弾いた。
それと同時に、巨岩の回転もピタリと静止する。
天子が目を開くと、一気に加速して弾丸のように飛んでいった要石が、
そのまま召還されて消えていくのが見えた。その先には人間の里がある。
今日はあそこに決ーめた、と一人頷いて、天子は巨岩の進路をその場所に定めた。
手元に残った要石を、もう必要ないとばかりにポイと放り投げた、その時。
「わひゃぅっ?」
少し下の方から、随分と間の抜けた悲鳴が聞こえた気がした。
天子が巨岩から顔を出して下を覗き込むと、地面へ向かって落下して行く物体が一つ。
要石は放り投げて少しした時点で召還されている。となればあれが悲鳴の主か。
自分が投げた要石が消えるより早く、あれに当たってしまったのだろう。
周囲に気に留めるほどの霊力は感じていなかったから、恐らくは他愛も無い存在だ。
しかし天子は、なんとなく行き先を遥か足元へと変更する。
大穴が開いてクルクル回りながら落下した紫色の物体。
あれは一体なんなのだろうかと、ちょっとだけ気になってしまったのだった。
「あら、しぶとい」
落下した物体を見つけた天子は、大した感動も込めずにそう呟いた。
見つけたのは先ほど見た紫色の物体、そしてそれにしがみ付いていた水色っぽい少女。
なにが起こったのか分からないといった様子で、目をぱちくりさせている。
どうやら、要石に当たって気絶したりはしていなかったようだ。
「何やってんのよ、意識があったなら墜落する事も無かったでしょうに」
「だって……びっくりした……」
少女が若干怯えた視線を向けてくる。
それにしたって飛行制御を忘れることは無いだろうと思い、天子は肩をすくめた。
見たところ大きな怪我は無いようだ。尤も、多少の怪我をしたところで妖怪なら平気だろうが。
だが、怪我とは別に、天子はこの少女の存在に違和感を覚えた。
「あんた、生まれたての付喪神か何か? 何だか妖力が不安定みたいだけど」
この少女の存在そのものが、どことなくブレて感じられたのだ。
生まれたばかりというのなら、力の扱いが下手なためにそう感じることもあるだろう。
しかし少女は、時間を掛けて天子の質問を飲み込んで、首を横に振った。
「唐傘お化けでそれなりにやってるけど……なんで?」
「はぁ、唐傘お化けねぇ……ああ、だからかぁ」
天子は少女の回答を聞いて納得することが出来た。
彼女の妖力が不安定な理由、それは。
「そりゃあ、半身に大穴開いてれば不安定にもなるわよねー」
「おおあな……? お、おぉっ? な、なにこれぇぇぇーッ!」
紫色の化傘に、先の要石が貫通した穴が開いていたからだった。
些細な疑問が解決した事でスッキリしたので、天子はさっさと巨大要石に乗った。
当初の目的である人間の里に行って、何か暇潰しを探さなくてはならない。
「まぁ、要石が当たったのは悪かったわ。そんじゃあね」
「ちょっ、待ってよぅっ!」
颯爽と飛び去ろうとした天子だったが、ここで少女が思わぬ行動に出た。
慌てて天子に向かって追い縋り、要石に一緒に乗り込んできたのだ。
「ちょっと、何よ」
「これ! どうしてくれるのよ、これッ!」
ずいと傘を差し出して、怒りもあらわに詰め寄ってくる少女。
視界いっぱいに広がった紫色と目玉、そして舌。非常に鬱陶しい。
心なしか潤んでいる傘の巨大な一つ目。
傘にじっと見つめられた天子は、とりあえず目玉にデコピンを見舞った。
その直後、やはりと言うか何と言うか。
凄まじい悲鳴が木霊し、そしてなんとも気の毒な嗚咽が続いた。
§
「ったく、これで良いんでしょ、これで」
「……うん……いい……」
「あぁもう、直すって言ってるんだから泣き止みなさいよ」
「……うん……がんばる……」
すぐ隣で発せられた絶叫に耳を塞ぎ、そして泣き出してしまった妖怪に翻弄されて少し。
要石の上で泣き伏せた少女を蹴落として遊びに行くことは、流石にちょっと出来なかった。
やむなく本日の遊覧を中断し、天子は少女を連れて傘の修繕を試みることになった。
しかし妖怪の治療となると、人里の職人のようなただの人間では心許ない。
かといって純粋な怪我でもないため、永遠亭を頼っても仕方がない。
そこで二人は、とりあえず妖怪の山へとやって来ていた。
どうにか河童の中に傘の修理を行える者を見つけたため、そこに傘を預けたのだ。
修理の技術があり、かつ妖怪である河童であれば、きっと何とかなるだろう。
「ちょっと時間が掛かるってさ。また今度、取りに行きなさい」
傘を預けてきた際、対価は先払いしてきた。
あとは修理が終わった頃に取りに来ればいい。
ここまでやれば十分だろうと、天子は落ち込んだままの少女を置いて立ち去ろうとした。
少女から返事は帰ってこなかったが、気にせずに要石に乗って。
そして浮かんで、妖怪の山を後にしようとして――。
「なによ。まだ何か?」
ずっと付いてくる視線が気になってしまい、天子は振り向いて声を荒げた。
こちらを見つめる少女はなにやら困ったような表情で、じっと天子を見つめ続けている。
「うんもー、言いたい事があるならハッキリ言いなさいよ」
苛立ちを隠そうともせずにそう言うと、少女は頭を下げながら小さな声で答えた。
「ありがと……お代、立て替えてくれて」
この娘は一体なにを言っているのか。天子は呆れたように溜め息をつく。
「そうさせたのはあなたでしょうに。私が穴あけたのも事実ではあるし」
妖怪の一人や二人、別に居なくなったところで関係ないのは確かだ。
しかし自分の非を認めずに放置するなんて、それもまた気分の悪い話。
自分で自分を出来た天人だ、などとは思っていないが、そこまで良識を投げ捨ててもいない。
「やって当然のことをやっただけ、ってやつよ」
「そっか。分かった」
そこで会話が途切れる。しかし少女は相変わらず、天子から視線を外さない。
やる事はやった筈なのでもう去っても良いだろうとは思う。
思うのだが、天子は少女を置いて飛び去る事が出来なかった。
何かを言いたそうな瞳が、天子を捉えて離さない。
この視線を振り切ったとしても、なんだかずっと心について来そうだ。
気分良く今後を過ごす為にも、全ての憂いを断ってから去るべきだろう。
そう考えた天子は、先ほどと同じ内容の言葉を繰り返す。
「だからー、言いたいことは言えっての。言いたい事が無いんならこっち見るな」
天子が睨んでも、少女は目を逸らさなかった。
言いたいことがあるなら聞いてやろうじゃないか。
そんな事を考えつつ、天子は指先で髪を弄りながら反応を待つ。
やがて、少女は思い詰めた様子で重い口を開いた。
「お腹空いてて……傘が直るまでの間、どうやって人間の前に出ればいいのかなぁって……」
修理でもあり治療でもある傘の修繕が行われている現状、ブレは治まらずとも消滅の心配は無い。
だが、半身とも言える傘を失った状態では、妖力も満足に扱えないということか。
彼女とて妖怪、人間を襲えないとなると困る事もあるのだろう。空腹だというなら尚更だ。
「知らないわよ……あぁ分かった分かった、その間の食事の面倒も見てあげればいいんでしょ」
「いいの? 手伝ってくれるの?」
天子の提案に食いついてきた少女が、少しだけ声量を上げて聞き返す。
「ええ、それくらいならね。この私に二言は無いわ」
面倒だとは思ったが、それくらいで後味の悪さが解消されるのであれば安いものだ。
「ただし、私があげられるのは桃とかだからね。人間狩りの片棒担ぐのは御免よ」
少女の言葉に頷きつつも、天子はそう付け加えた。
幾らなんでも、今日出会った奴の為に人間の肉を調達なんてしたくない。
天子の言葉にやっと笑顔を浮かべ、少女は嬉しそうに答えた。
「大丈夫。私は人間のお肉、食べないからっ」
少女の言葉がなにを意味するか思い当たり、一瞬にして安請け合いを後悔する。
しかしつい先ほどに二言は無いと言ってしまった手前、やっぱり止めたとも言えず。
変なところで頑固な自分のプライドを、少しだけ恨めく感じる天子だった。
§
唐傘お化けの小傘は、やはり人間の恐怖心を糧とする類の妖怪だった。
つまり天子は、人間を驚かせる手伝いをしなければならないということだ。
どうせ暇を持て余していたのだから、これはこれで楽しめば良い。
そう考えることで、多少は自分を騙すことが出来た。
飽きても投げ出せないのが悲しいところだが、それはもう仕方がない。
ともあれ、お互いにとって初めての共同戦線。まずは作戦を詰める必要がある。
閃きと直感で行動する方が天子としては楽なのだが、お荷物がいる以上は慎重にならざるを得ない。
要石に二人で腰掛けて幻想郷の空を飛ぶ。日が沈むまでには具体的にどう動くか決めたいところだ。
「で、いつもはどんな感じでやってたの?」
「最近はこんにゃくが多いかなぁ。あとは人間に降りかかる雨を凌いだりとか」
「もういいわ」
聞かなければ良かったと、深い溜め息が出てしまう。
外見と有害度が一致しないのが幻想郷の常だが、小傘に限っては例外らしかった。
小傘の考えに従っていては、目的の達成など成し得ないだろう。
ならば小傘はこれまでどうやって問題解決してきたのかが気になるところだったが、
どうせ聞いても大した答えは返ってこないだろうと思い、天子はその思考を打ち切った。
変わりに、どうすれば人間を驚かせることが出来るかを自分で考え出す事にする。
「とりあえず地震を起こせば、地上の奴らはみんな驚くわよね」
思考開始とほぼ同時に出た結論がこれだった。
気質を全力で地面に打ち込み、大地震を起こしてやるのだ。
そうすれば建物は崩れ、大地は盛大に割れて地底への口をあける。
人間の里などひとたまりもなく全てが無へ帰し、人々は死の恐怖に押し潰されるだろう。
「……まぁ、多少はセーブしておこうかな。あいつ出てきたら面倒だし」
そこまでやれば気持ちはよさそうだが、その後の非難の大きさを想像して一人首を振る。
他人のお腹を満たすのに、また『この大地から往ね!』とか言われては堪らない。
「あいつって?」
「こっちの話よ。じゃ、さっさと地震を起こして驚いてもらいましょうかっと」
そう言って、天子は緋想の剣を取り出し、要石の進路を人里へ向ける。
「あの。地震って、どうやって起こすの?」
「私がやるから、あなたは見てるだけでいいわ」
そんなぶっきらぼうな答えを聞き、小傘は天子の服をクイクイと引っ張った。
訝しげに振り返った天子に対し、申し訳無さそうに首を振る。
「それじゃあ意味ないの、私が驚かせないと私のお腹は膨れないから」
「……」
「……」
「えーと、諦めていい?」
「えぇっ、そんなぁ……」
天子はあからさまに面倒臭そうに『ぅあー』と嘆きの声をあげる。
チラリと小傘のほうを見ると、かなり不安げな目をしているのが分かった。
「あなたを主軸にしないと駄目、ねぇ……むしろその時点でもう駄目よねぇ」
「酷いことを言われている気がする……」
「気のせいよ。改めて聞くけど、今までどんな感じでやってきたの?」
「だから、こんにゃくとか、うらめしやーとか」
要石の前進を止め、緋想の剣も一旦しまう。この話し合いは長引きそうだ。
なおも説明を続けようとする小傘を片手で制して、更に質問を重ねた。
「聞き方を変えるわ。あなたは『人間を驚かせる手段』をちゃんと持ってる?」
「うん、こんにゃくとか……あとは井戸から這い出たり。これ新作で……痛い痛い!」
この会話には長引かせるほどの内容が無いのは明らかだった。
満面の笑顔を浮かべながら、無意識に小傘のこめかみをグリグリする天子。
数秒後に我に返った天子は、諦めたように小傘から手を離して空を仰いだ。
「仕方ない……この子の気質から天候操作して誤魔化すか……」
「いたい……え? なにをどうするの?」
「一旦、地面に降りるわ。私に掴まってなさい」
小傘の疑問には答えず、ちょいちょいと自分の腰を指し示す。
戸惑いながらも天子にしがみ付く小傘。
「行くわよ」
要石が、地表に向けて一気に落下していく。
幻想郷の空に、本日二度目の悲鳴が響き渡った。
轟音と共に土煙が舞い、要石を中心としたクレーターが出来上がる。
パンパンと服を払ってから地面に降り立つと、天子は改めて緋想の剣を取り出した。
ちなみに小傘は急降下に目を回し、要石の上で放心してしまっている。
そんな状態の小傘に向かって緋想の剣を構え、周囲の気質の確認に入る。
「この気質は……なんだろ、雨かな?」
ともあれ、発動してみるのが早いだろう。そう思い、天子は気質を集め体現させた。
その瞬間に空は一気に暗雲に覆われ、ポツポツと雨粒が落ちてくる。
「雨……って、そんなにヌルいものじゃないなぁこれ」
見る見るうちに勢いを増す雨足。それほど離れていないはずの小傘の姿も見え辛い。
視界を奪うほどの激しい豪雨が二人の周りを包み込んだのだ。
「すっご……衣玖の気質から作った台風なんて目じゃないわね……」
予想外な天候に目を丸くしつつ、天啓気象の剣を以って気質を集め直す。
緋色の光となって上空へ放たれた気質は雲を割り、空は元の天気を取り戻した。
「今の……なに?」
何が起こっているのか全く理解できていない様子の小傘が、弱々しく尋ねる。
天子は髪をかき上げながら淡々と答えた。
「あなたの気質を体現してみただけよ」
「私のきしつ……それがさっきの雨?」
「そう。酷い土砂降りだったわね、いつも心の中でメソメソしてるんじゃないの」
からかうようにそう言ってから、ふぅ、と一息ついて続ける。
「これならあなたが大元の現象だし、少し細工をすればいい武器になるんじゃない?」
少なくとも、こんにゃくをくっ付けたりするよりはマシな成果が期待できる。
雨だけで驚かすことは出来ないかもしれないが、これは視界を奪うほどの豪雨。
目眩ましは恐怖を与える要素として十分だろう。
「細工の中身は自分で考えてよね。呆けてないで無い知恵絞りなさい」
「わ、分かったッ! 絞ってみる!」
天子自身が驚かせてはいけないと言われた以上、天子に出来るのはここまでだ。
あとは小傘のアイデアと、それを実行する気力体力に任せるしかない。
実に面倒な事になったものだと今更ながらに溜め息を吐いて、天子はもう一度髪をかき上げる。
「……知恵より先に、服を絞りましょうか?」
「あ、うん。このままじゃ風邪引いちゃうもんね」
先の集中豪雨を傘も無しに被った所為で、天子も小傘も見事にずぶ濡れだ。
これから何をするにしても、まずは一旦うちに帰ってお風呂が先ね。
そんな事を考えながらスカートをギュッと握ると、面白いくらいに水が滴り落ちた。
§
一人の人間が、夜道を歩いている。
すっかり暗くなった風景に多少の焦りもあるのだろうか、やや足早だ。
向かう先は方角からして人里。帰路の最中とみて間違いない。
それなりに見渡しの良い場所を選んで歩いているのは恐怖からか。
周りが見える場所は不意を付かれにくいが、その姿を目に留められ易い。
遮蔽物が多い場所は、身を隠しやすい代わりに不意打ちも受け易い。
どちらが良いとは一概に言えないところではあるが、この人間は前者を選んでいる。
そしてそれは、人間を付け狙う二人にとって格好の的であった。
見晴らしが良いために、何かが近付いてくればすぐに分かる。
実際、人間はすぐに自らの周囲に起き始めた異変に気が付く事が出来た。
あっという間に遮られる月明かり。見上げれば暗雲、そして降り注ぐ大粒の雨。
人間は走る。雨に降られたからだろうか、それとも突然すぎる雨に不安を覚えたからか。
いずれにせよ、既にこの人間が術中に落ちた事には違いない。
視界が悪い。雨の幕だけでも見えづらいというのに、目に雨粒が流れ込むからだ。
それでも前へ前へと進んで行く人間に向かって、一つの影が忍び寄る。
「うらめしやー!」
激しい雨音に掻き消されるかどうかというような、少女の声。
走っていた人間は、突如として横から現れたそれに対応できなかった。
飛び掛るようにして出てきた影とまともにぶつかり、人間と影は揃って地面に転がる。
「いたた……」
人間がそちらへ顔をやると、雨の中に浮かび上がる水色の影が見えた。
目を凝らせばそれはやはり少女であり、ぶつかったのであろう鼻をさすっている。
やがて、土砂降りの雨の中で二人の視線が出会う。
雨音の中で出会った二人は、しばらくの間、ただ互いの事をじっと見つめていた。
「あ……えっと。そうだ、驚けー!」
思い出したように、がばりと立ち上がる少女。
しかしその姿に迫力など無く、むしろ微笑ましい類といってもいいくらいで。
人間はしばし呆然としてからクスリと笑い、そして立ち上がった。
「お化けですよー……お化けなのに……怖くないの?」
少女が悲しそうな顔を人間に向けて、落胆した声色でそんな事を聞いた。
これには人間も苦笑するしかない。首を横に振った人間を見て、少女は俯いてしまう。
「そう。人間の癖に随分と余裕をかましてくれるじゃない?」
声色が変わった。少女から発せられたものではないかのように、辺りに反響する声。
少女は顔を上げ、半ば呆けた表情で人間よりも遠い場所へ視線を移す。
そのぼぅっとした表情がどことなく不気味で、人間は半歩あとずさった。
悲しみと疑念が入り混じった色の違う瞳が、虚空を見つめている。
振り返りその視線の先を辿ろうとした人間だったが、雨が強すぎて煙る風景しか見えない。
「我は傘。我は怨。我は雨。打ち捨てられたモノの痛み、貴様も味わってみると良い!」
ぐん、と二人の足元が揺れ、次の瞬間人間は隆起した地面に打ち上げられた。
せり上がる地面と打ち付ける雨に挟まれて、人間は悲鳴すら上げる事が出来ない。
上昇が終わり、人間がよろよろと顔を上げる。
周囲は切り立った崖のような状態になっており、人間の周囲以外の地面は遥か下。
強い雨の所為で底を見ることは叶わず、この場所がどれほどの高さなのか分からない。
立ち往生した人間の目に前に飛び込んでくる、物凄い速度で迫り来る小さな岩。
その存在に気が付いた時には既に遅く、人間は岩に押し出されるように足場から落とされた。
岩は重石のように人間の身体に密着し離れない。
どれほどの高さか分からない場所から、地面へと向かって急降下している。
この高さから叩きつけられては、もう助かる可能性など無い。
なにが起こっているのかなんて、完全には理解できなかっただろう。
ただ、自分はあの少女に殺されるのだ、と。
それだけを辛うじて悟った人間は、どこまでも落ちていく途中で意識を手放した。
「あ……なんだか、凄く満たされた気分……」
目の前で隆起した地面の柱を見上げながら、小傘は一人呟いた。
やがてゆっくりと降りてくる、大きな要石。
気を失った人間を乗せたそれは、小傘の目の前まで来て消えた。
せり上がっていた地面も音を立てて沈んでいき、大地は程なく元の姿を取り戻す。
残されたのは小傘と、倒れた人間だけ。
不意に、二人を包む雨音がピタリと止む。
上空に走った緋色の光が、暗雲を消し飛ばして綺麗な夜空を引っ張り出した。
雨の幕が消え、周囲の見通しが良くなる。
水滴を滴らせていた小傘は、天子の姿を見つけると勢い良く駆け出した。
「やったぁ! 気絶するほど驚かせたよ、もう私のなか一杯だよ!」
「それは良かったわね! やったの全部私だけどね! 無い知恵絞れって言ったわよね!」
飛びついてこようとした小傘をヒラリとかわしながら、天子は怒鳴り声を上げた。
顔から地面につんのめった小傘を支えつつも、その表情は怒りに満ちている。
「不意打ちに決めたって言うから、どんなものかと思ってれば……なんなのアレは!」
「いきなり出て行けば驚くかなって……基本に立ち直るのも大事かなって……」
「やる前にもっと内容を聞いとくんだったわ。あなたに任せた私が馬鹿だった」
本来、天子の役割は小傘の気質を体現して豪雨を降らせるだけの筈だった。
雨に紛れた不意打ちをすると小傘が言っていたので、威嚇攻撃でも加えるかと思っていたが、
実際はといえばただ出て行って『うらめしやー』とか言っただけである。
いくら妖力が弱まっているからと言っても、これは流石にあんまりだ。
途中で見ていられなくなって、ついつい手を出してしまった。ついでに声真似もした。
予定外の手助けに付いていけなかった小傘が棒立ちになったのは、幸いといえただろう。
あそこで人間と一緒に慌てられていたら、小傘がやったと思われなかったかもしれない。
「……最初からこういう作戦にしとけば良かったわね、考えてみれば」
最終的な結果を見るに、要は相手が小傘を怖がれば良かったのだ。
となれば、こうして小傘の仕業に見せかけて天子が苛烈な脅しを掛ければ効率的だった。
折角、雨の目眩ましもあったのだから。もう済んでしまった事だが、悔やまれる話である。
疲れきった様子の天子に比べ、小傘は実に上機嫌だった。
「手伝ってくれてありがとう。えへへ、すごく良い気分」
「自力では何一つこなせて無いんだけど。そこんとこ分かってるんでしょうねぇ」
ぼやきながら、傍らに落ちていた傘を拾い上げる。
豪雨を見越して用意した、天子の自前の傘である。
「はぁ。傘を持ってきた意味が無かった」
咄嗟に手助けに入った時、緋想の剣と要石を操る為に手放してしまっていたのだ。
おかげさまで、小傘と同じように天子も全身に雨粒を受け止める羽目になっていた。
パタパタと雨水を切って、綺麗に折り畳む。役目を果たせなかった傘が少し寂しげに見えた。
「ごめんなさい……」
小傘のその謝罪は天子に対してか、天子の傘に対してか。
別にそんなものはどっちでも構わないのだが、出来れば前者を望みたいところだ。
今日という短い時間の中、二度目となるずぶ濡れ状態。
案外もの哀しく感じるのは、たぶん気のせいじゃないだろう。
「さ、あの人間を里の入り口に捨ててきましょう」
「うん、分かった! ご馳走様でしたっ!」
「はいはい、お粗末さまでした。とっとと帰ってお風呂入るわよ、お風呂」
「わーい、お風呂ー。お礼に背中流すね!」
「……あんた、どうして私がこんな事してるか忘れてない?」
二人で人間を持ち上げて要石に乗せる。
浮かんだ要石はポタポタと水滴を滴らせながら、悠々と夜空を飛び去っていくのだった。
§
後日、妖怪の山。
二人は再び、傘を預けた場所へとやってきていた。
紫色の化傘は無事に直ったようで、小傘はそれを抱えて嬉しそうに飛んでいった。
帰り際、河童の職人に『付き添いかい?』と聞かれた天子は迷惑そうに顔をしかめ、
妖怪傘の張り替えなどという芸当をどうこなしたのかが少し気になっただけだと答える。
が、先の小傘が土産の桃を大量に持たされていた姿を見るに、微妙に説得力がなかった。
天子は一人になると、すぐさま要石に乗って空へ舞った。
しばらくは寝転がって空を眺めていたが、やがて手持ち無沙汰になって要石を回しだす。
そろそろ今日の行き先を決めようか。
そう思い立って、前にやったのと同じように適当な方向へ要石を飛ばした。
この方角には何があったか。その確認も含めて、今日はあっちへ行ってみる事にする。
移動を開始すると同時に手元に残った要石を投げ捨てようとした天子だったが、
要石が手を離れる直前で、その動きを止めた。
天子の脳裏を、ついさっきまでの出来事が過ぎる。
思考中ずっと止まっていた手が、時間をおいて再び動き出した。
要石は天子の手を離れて落ちていき、そのまま召還され消えていく。
この間と違って、今回は誰の悲鳴も聞こえてこなかった。
天子はそれを特別残念に思うでもなく、次の暇潰しに想いを馳せる。
面倒事にならないように要石の召還は確実にやろうと、一旦は考えたのだが。
その考えはすぐに、別の答えによって上書きされていた。
いや。面倒事ってのもいい暇潰しかな……、と。
おもしろかったです。
かなり楽しめました。
最後のてんこの独り言でニヤニヤ。
いやぁ、行き当たりばったり・自由奔放な天子の漫遊記、面白いですねぇ。願わくば、この天子の別のお話も読んでみたい。