私こと、ナズーリンは最近命の危機を身近に感じている。
それが私自身のものならとっくの昔に逃げているのだが、性質の悪いことに他人のものだから逃げられない。
しかも当の本人が、そのことを気にも止めていないんだ。
おかげで心が休まる日がないよ……。
きっかけは、わかっている。
それは一日の内で、命蓮寺の全員が最初に集まる時に起こったんだ。
「はい、いただきます」
「いただきまーす」
聖白蓮のあいさつの後に、私たちも続く。
朝食の始まりだ。
本日もご飯にお味噌汁、焼き魚にトロロと、健康的な献立だ。
私としてはチーズも欲しいところだが。
「うー」
「おや、随分と眠そうじゃないか」
「どうせ新しいイタズラでも考えて夜更かししてたんでしょ」
私の正面に座った黒い少女、ぬえは寝不足のように見えた。
そして、一輪の言うとおりなのだろう。
ここ数日、ぬえは白蓮にさまざまな悪戯をしかけたが、そのことごとくを、「あらあらうふふ」の一言で済まされてしまった。
恐らくはそれで悔しくなってずっと策を練っていた、というところか。
「ふぁああああ……」
「にゃああああ……」
寝不足のように見えるのはもう一人いる。
私のご主人である、寅丸星様だ。
このお方、朝は低血圧で誰かにここまで連れてきてもらわないといけないほどなのだ。
「うふふ、二人とも大きな欠伸ね」
白蓮はおかしそうにしているが、私はそれほど悠長ではいられない。
「ご主人、ぬえも。 注意してないとこぼすよ?」
「んー? あ」
しかし私の忠告もむなしく、ぬえの伸ばした手はトロロの入った皿をかすり、そのバランスを狂わせる。
「わっわっわ!?」
「んぅ……う?」
ベチャア、という嫌な音が聞こえた。
トラブル×ドジッ娘、それすなわち。
「あちゃあ……」
「あれ、落ちるかしら」
船長は頭に手を当て、伝統的な困惑のポーズを取り、一輪も心配そうな顔をしている。
ちなみに二人とも本日の洗濯当番だ。
それは偶然か、天性の運の悪さなのか。
ご主人のへその辺りにドロドロとした白濁液、じゃなくてとろろがこぼれてしまっていた。
「わわ、ごめん、ごめんよ!?」
「あはは、大丈夫ですよ。 私もよくやりますから……」
あわてて謝るぬえに、笑いながら自分も醤油さしを倒したと告白するご主人。
顔にもちょっぴり付着したトロロを手で拭きとりながら笑うその様子はあまりにも艶やかだ。
グ、また鼻の辺りが……落ち着け、落ち着くんだ私。
クールで頼れる小さな賢将を演じきるんだ!
「むっつり助平め……ほら、布巾」
……ぬえに布巾を差し出した船長にはバレていたようだ。
「ありがとう水蜜!」
「ナイスネームよ、ぬえ!」
ご主人の正面にうずくまり、トロロをせっせとふき取るぬえ。
「自分でやりますから大丈夫ですよ?」
「いーからジっとしててってば!」
「ハイ……すいません」
ぬえが小刻みに腕を動かす度、粘ついたような音が響く。
「ねえ、水蜜……なんか」
「うん……なんか、ね」
「ご主人、……ぐっ」
「「むっつり助平め」」
……一輪と船長に、小さな賢者と呼ばれる日も近いかもしれない。
そんなくだらないことを考えて、ふと気になることができた。
こんな時一番最初に世話を焼きそうな大魔法使いが、妙に静かじゃないか?
(あれ、ひじ……り!?)
目を彼女が座っていた場所に向け、その姿を確認した瞬間、私は信じられないものを見た。
「あ、あら……?」
出遅れたのだろうか、布巾を手にしたまま固まっていた。
あの白蓮が、ぬえの悪戯でアフロになっても動じなかった彼女が唖然としている。
ぬえもそれに気付いたのか、手を止めて見入っていた。
「ぬえ? 疲れたのならもういいですよ?」
「ダイジョブだよ、大丈夫!」
ご主人の気遣いに、作業を再開させつつも、ぬえは心ここにあらずと言ったようだ。
もう一度、白蓮の方を見てみる。
「むぅ……」
何やら少々ご不満な様子。
「もういいですよ。 ありがとう」
「私が悪いからいいんだってばぁ」
ご主人たちの方を見れば、ぬえが頭を撫でられていた。
そして、白蓮。
「む、むうー……」
やはりなにやらご不満な様子。
布巾を両手で握りしめながら、ぬえの方をうらやましそうに見ている。
「なるほどね」
私には、ぬえがそう言ったような気がした。
どうやら、いい玩具を見つけてしまったようだ。
その玩具の腕にはとてつもない力が籠められていたようで、布から発せられるとは思えぬ音がした。
「星ちゃん……」
天寿を全うできずにこの世を去ってしまったかわいそうな布巾に、私は心の中で合掌した。
後で縫い直して雑巾にしてあげようと、現実逃避しながら。
それからというもの、ぬえの新しい形のイタズラが始まった。
例えば、アレはトロロぶっかけ事件の次の日のことだったか。
「ご主人!」
私の大きな声が響いたのは、ご主人の部屋でのことだった。
「玉石混淆もいいところだよ! アレほど押入れの中は整理しろと言っただろう!?」
「すいませんでした……」
ご主人はしっかり者の割に、ものを捨てられない一面も持っている。
何でも後のために取っておこうとするために、どんどん押入れの中は混沌としていくのだ。
だからこうして、時折私がチェックしていたのだが、案の定その日、超局地的なガラクタの津波が発生した。
ちなみにその日の中身に関しては、文やはたての古い新聞の割合が多かったのを覚えている。
もらったのを忘れて、何度も同じものを受け取ってしまったのだろう。
「いざという時、メモ帳代わりに使えると思ったんですけどね」
押入れの中の残留物を引きずり出していくご主人の言い分に、ガラクタを分類しながら反論した。
「『いざ』なんて時が何回もあったら困ってしまうよ……」
「星、いるー?」
「おや、ぬえ……残念ですが、ちょっと今は構ってあげられないので聖のお手伝いでもしててください」
「えー、何してるの?」
「押入れの整理ですよ。 うっかり、また物をため込んでしまったので……」
わざわざ作業を中断して振り向いたご主人と話す彼女の演技力には、感心を通り越して呆れかえった。
ぬえがだいぶ前から入口にいたのを、私は知っていたのだから。
「……私がガラクタの津波に巻き込まれるのを見て笑っていたくせに……」
「ナズちゃんどうしたの?」
「聖!?」
私の呟きと前後してやってきたのは、白蓮だった。
どうやらナズーリンが騒ぐ声を聞きつけてやってきたらしい。
押入れの様子を見て、聡明な彼女はすぐに状況を理解した。
「あらまあ、またやっちゃったのね?」
「あう、ごめんなさい聖……」
尊敬する白蓮にまで見つかったのが、ご主人には堪えたようだ。
現れたもう一対の耳は、その心情を表すかのように揺れていた。
「ほら、私もお手伝いするから、早く終わらせちゃいましょう」
「あたしも! ……二人とも何かな、その目」
「いや、キミに手伝わせると、かえって散らかりそうでね」
「いたずらしないでくださいね?」
しないよ、とぬえは、少女のように頬を膨らませた。
そう、あの時彼女はイタズラなんてしなかった。
聖白蓮以外には。
「星、これ何?」
「おや、なくしたと思ったらこんなところにあったのですね」
ぬえがガラクタの海から取りだしたのは、小さな、しかし高級感あふれるケース。
「ねえ、開けていい?」
などと言っているうちに、既にぬえは蓋を開いてしまっていた。
わぁ、とぬえと白蓮の声が綺麗な和音を奏でる。
中身は私にも見おぼえがあるものだった。
龍の鱗から加工して作り出したらしいそれは、日光を反射して薄い虹色を放っていた。
「綺麗な髪飾りね……」
「毘沙門天様の下で修業している時に、とあるお方からいただきまして……」
そう、確か手先の器用な鬼神様だったか。
ご主人に求婚を申し込む際に、誓いの品として持ってきたものだった。
当然ご主人はその両方を固辞したが、せめてこれだけでも、と泣きつかれ結局受け取ってしまったのだ。
その後に色々ドタバタしたのだが、それは別の機会にでも語ることにしよう。
さて、女性というのは老若関わらず、キレイなものに目がないもの。
妖怪だって例外じゃない。
「ちょうだい!」
「大事にしてくれるのなら、いいですよ」
貴重なものをそんな簡単に、などと言いたくなったがグッと我慢した。
「ズルい」
白蓮が珍しい言葉を呟いたのに気付いたからだった。
(聖白蓮……キミもか)
恐らく同じものを私があげても、機嫌は直らないだろう。
ご主人から、というのが大事なのだから。
この時に、私は確信した。
(聖白蓮は、ご主人に恋慕を向けている……?)
そして、もう一つ。
「つけてつけて!」
「はいはい、ジッとしててくださいね……」
ぬえのわがままに、逐一付き合うご主人。
ご丁寧に膝に載せて、髪飾りをぬえにつけてあげていた。
「あは、ありがとう!」
「いえいえ」
「……」
無邪気に抱きつくぬえと、ご主人の笑顔。
白蓮の表情とそれは、あまりにも対照的だった。
これこそが、ぬえの狙いだと気付くのに、時間はあまり要さなかった。
イタズラじゃなくて、ぬえがご主人に懐いてるだけだって?
だが、これは彼女なりの、白蓮へのリベンジという名のイタズラなんだよ。
事あるごとにご主人の膝の上に座る。
スキンシップも頬に口づけたり、いきなり抱きついたりと、派手になった。
たまに一緒に寝たりもしているらしい。
『誰か』に見せつけるためにやっているのは、明白だった。
その『誰か』という呼び名も、今さらかもしれない。
「えへへ、星、星~♪」
「わわ、くすぐったいですってば」
講釈後の休憩時間。
今日も飽きずにじゃれつくご主人とぬえ。
それを生温かい目で見守っているのは、案外空気の読めない船長だけだ。
私と一輪は震えっぱなしだ。
「ちょっと、どうにかしてよ……」
「一輪こそ……このままでは凍え死ぬ」
「私は心臓がもたないわよ……」
一輪と二人で、恐る恐る振り向く。
「うー……」
涙目になって、袖を握りしめる白蓮がそこにいた。
それだけ言えば、かわいいとしか思えないのだが。
「星ちゃん……」
圧倒的な殺気を放っているため、かわいいだけではすまされない。
ギャップ萌え?
そんなの知らないよ。
(しかし……)
「お返しですよ!」
「やったなっ!」
チューチューキャッキャウフフ。
(ぬえも自分の寿命を縮めていることに気づいていそうななんだけど……)
狙ってやっている以上、自分に向けられているのがどういう感情か、分析ぐらいできるだろう。
一体何を考えているのか。
「星ちゃんのバカァ……」
ああ、ご主人もぬえも大バカだよ本当。
「やあ、いい夜だね」
「なんだ、ナズーリンか」
その日の夜。
白蓮に復讐できて楽しいかどうか、問いただしてみたところ、予想外の答えが返ってきた。
「正直怖い」
おい。
「ちょっと待て。 じゃあなんだってあそこまで白蓮を挑発するんだい?」
「なんかムカつくだよね」
それはわかりきったことだった。
あくまでもこれは、白蓮へのリベンジだ、ということなのか。
しかし私の予想はまたしても覆された。
「だってさ、あたしが星とベタベタしてるのを、聖は黙って見てるだけなんだもん」
そういえば、そうだ。
白蓮は不機嫌にこそなったが、積極的に行動するようなことはしなかった。
それこそご主人を力ずくで奪い返すこともできたのに。
「星のこと好きなら、誰かに取られる前にはっきり言えばいいのに!」
「つまり、キミなりに発破をかけていたわけかい?」
だとすれば、ぬえは命がけで白蓮の背中を押したことになる、のだが。
「初めは怒らせればそれでいいやって思ってたんだけど、聖が何もしないから、ついつい意地になっちゃって……」
つまり、盛大の意地の張り合い。
その程度のことで私と一輪は始終ハラハラさせられていたのか。
全ての謎が明らかになって、怒りの感情の一つでも湧き出るかと思ったが。
呆れしか感じられず、いつものキメゼリフを言うのがやっとだった。
「キミはバカか……」
「はい、バカでした……」
「まあ、反省したのならいいさ」
とっとと白蓮に謝って、ご主人にご機嫌とりをしてもらえればそれで万事解決だろう。
その時までは、そう思っていた。
明くる日、私は渋るぬえに付き合って、白蓮の部屋までやってきていた。
「で、何かしら? ナズちゃん」
相変わらず、ぬえへの殺気をビンビンと感じる。
やはりこれで全て解決するとわかっていても、怖いものは怖い。
だが、ここで勇気を出さなければならない。
平穏な生活を取り戻すために!
「聖白蓮。 ぬえが謝りたいことがあるそうだ」
「……ごめんなさい」
「あら?」
流石の白蓮も予想外だったのだろう。
殺気を少し和らげて、とりあえず話を聞く態勢に入ったようだ。
「えっと、ずっと星とイチャイチャしててごめんなさい」
「……どうして、それが悪いのかしら?」
確かに普通に考えれば、ぬえの言葉はおかしいのかもしれない。
どうやってフォローしたものか、考えていたのだが。
「だ、だって聖は、星のことが好きなんでしょ?」
こら。
思いっきりぬえが地雷を踏んでくれた。
そんなこと言ったら、白蓮の立場がないだろうに。
(まあ、この際ハッキリさせるのもいいかもしれないけどね)
私もじれったいのは苦手だから、そう思っていたのだが。
「いいえ」
「に」じゃなく「が」では?