ユキは嘘を吐くのが苦手だった。
彼女は魔界でも一番といえるくらい、真っ直ぐで純真な少女だった。自分から嘘を吐くことなんて、悪戯をして夢子に怒られるときに、その場しのぎのごまかしをするくらいだろうか。それも大概は簡単にバレてしまい、夢子の怒りが増すものだったから、最近は言い訳をすることもほとんどなくなっていた。
自分が嘘を吐かなければ、相手が嘘を吐くとも思っていない。ユキは魔界のみんなは良い人だと思っていたし、実際そうだったから。かけられる言葉をそのまま受け止め、一喜一憂してきた。言葉の裏を探るのもあまり得意ではなかった。
それだけに。
今日はユキにとって非常に厄介な一日になりそうだった。
* * *
その日もユキはいつものように氷雪世界をふよふよと見回っていた。
いつもと違うことといえば側にマイが居ないことくらい。何か「用事がある」とかで、パンデモニウムへ向かったのだ。それも用事が済んだらこっちへ戻ってくるだろうから、ほんの一瞬の話。
彼女達の仕事場兼学び舎兼遊び場がこの凍てつく世界だった。仕事とは魔界の街からこの世界を通って、創造神の住むパンデモニウムへと侵略しようとする輩を追い返すこと。ただ、昔に人間界からの「来客」があって以降は、そのような侵入者もおらず、最近は魔法の修行くらいしかやることはない。
「ふわぁ……」
マイが居ないと張り合いがない。特に何もすることなく、大きなあくびをしたところで。
「あら、珍しいわ」
街の方角からやってくる人影が一つ。
紫の服に帽子とくれば、魔界中を自由に旅するトラベラーしかいなかった。
「ルイズ姉さん」
「相方はどうしたの?」
「用事があるとかでパンデモニウムへ行ったよ」
その瞬間。ルイズは糸の様な細い目を少し見開いて、ユキを見据えた。
「これは……事件の香りがしますわね」
「えっ」
ルイズの言葉にユキは固唾を呑む。
「男でもできたのかもしれないわ」
「な、なんだって!」
いつも一緒に居るマイがそんなことになっていようとは、ユキは到底信じられなかった。
到底信じられないなら、まず目の前のルイズを疑えばいいのだが、人が良すぎるユキにはその発想には至らなかった。
「ねぇ、ユキ」
もちろんそんなユキの性格はルイズもわかっている。
だから今日ほど面白い日はないのだ。
「今日って何の日か知ってる?」
「今日? 四月一日だけどそれがどうかしたの」
ユキにとっては月が変わったこと以外は何でもない一日。
「知らないのね」
「今日って何か特別な日だったかしら」
「それはね」
ルイズは表情を変えず、さらっと言ってのけた。
「今日はね、嘘しか吐いちゃダメな日なの」
「えっ?」
ユキにとっては初耳だったようで目を丸くする。そんなユキを見てルイズは微笑んだ。
「嘘を吐いて吐いて吐きまくる日なの。今日はみんな嘘しか吐いてないわよ」
「そ、そうなんだ……」
「あっといけない。ついつい本当のことを喋っちゃったわ」
にやりと細長い目のルイズは笑ったが、ユキは彼女を観察する余裕はなかった。
「嘘吐かなくちゃいけないって言われても、私嘘吐くの苦手だし。うー、困ったなー」
「今日はみんな嘘しか吐かないから、本当のことを喋っちゃうと逆に誤解されちゃうかもしれないわ」
あっといけない、ついついまた本当のことを……とルイズは付け加えた。
「そ、そんな。どうしよう、ルイズ姉さん」
日ごろから嘘を吐かない、なおかつ人の言葉を額面通りに受け取るユキにとってこれは死活問題だ。
「じゃぁ練習しましょう」
「練習?」
「そうね。――ユキはマイのことどう思ってる?」
「それは」
次の言葉を紡ぐ前に一呼吸おいて考える。
「――あんな奴、嫌いだよ」
「全然ダメね」
「あれ、おかしい?」
そんな、嘘を吐いたはずなのに。とユキは思ったが。
「おかしいおかしい。あなたの言ってることは間違ってるわ」
ルイズのほうも嘘を吐いているのだ。だから今はユキの嘘回答に対しては「ダメじゃない」、ということになる。
「うー」
なんだか脳が疲れてきた。でも嘘を吐かなくてはいけない日なのであるから仕方がない。これも一つの風習なんだとユキは勝手に納得した。
「頑張らなくていいわ」
「うん、頑張る! ……じゃなくて、頑張らないよ!」
そして勝手に意気込んで。
「そうだ。マイのことは放っておかないと」
勝手に旅立つのであった。
ユキの後姿を見てルイズは思う。馬鹿正直なのも考え物ね、と。
* * *
ユキは魔界の街をうろうろとしていた。
もしルイズの言うとおり、マイに男でもできていたとしたなら。魔界人の大多数はこの街に住んでいるということは、こちらに来ている可能性が高いのだ。パンデモニウムや氷雪世界や魔界の門には、ユキの顔なじみの女性しかいないのだから。
とはいっても、特にあてがあるわけでもない。まさか街中の男を片っ端から捕まえて聞くわけにもいかない。
いや。
一回は聞いてみた。
「マイちゃん? 今日は見てないねぇ」
男はそう言うものの、ユキの頭の中では今日は嘘しか吐いてはいけない日、つまり目の前の男も嘘を吐いている、ということになるわけで。
「嘘だ! きさま、絶対マイがどこにいるか知ってるでしょ! 教えてよ!」
「本当に知らないって!」
「きさまー!」
「うわ、魔法をぶっ放すのはやめてくれよ!」
会話にならなかった。
「うーん」
無駄に時間だけが過ぎてゆく。ただぶらぶらと歩いているだけで、特に何か動きがあるわけでもない。
もう帰ろう。どうせいずれマイとは会うんだから、その時に問い詰めればいいや――ユキが引き返そうとしたその時だった。
彼女の目の内に、白い服を着て白い翼を背に生やした少女が飛び込んできたのは。
「マイ?」
「あ……」
二人の目が合う。
マイの手にはリボンでラッピングされた箱があった。
もしかしてあれが――見知らぬ男からもらったプレゼントだというのか?
「どうしてここに居るの?」
ユキがそう尋ねると、マイは冷や汗を掻きながら視線を横へと逸らした。
怪しい。この上なく怪しい。
「そういうユキこそどうして街まで来てるの……?」
「私はマイを探しに来たんだよ!」
「えっ……」
明らかにマイは動揺している。
これは間違いなく何か隠し事をしているに違いない。そう確信して、ユキは攻勢を強める。
「どうしてここに居るのか白状しなさい!」
「……三十六計逃げるに如かず」
マイはそう呟くなり、一目散に逃げ出した。
「あっこら、待てー!」
ユキもすぐさま後を追う。
「待ちなさい!」
「ごめん、今はあんたに構ってられない」
「何をー!」
後をつけることはできているものの、二人の距離は広がりもしなければ、縮まることもない。
ただの少女の鬼ごっこと言うなかれ。
ユキにとってはマイを正しい道へと連れ戻すための重大な戦いなのだ。
ユキからすれば……やはり「そういうこと」は早いと思うのだ。まだまだ自分達は子供なのに、そんな男の味を今から覚えてしまうだなんて。
少しばかり想像してみる。
………………。
…………。
……。
自然と体が熱くなって、顔が赤くなる。
だめだめ、やっぱりまだ早いよ、こんなの! だめ、絶対!
なんとしてもマイを取り戻さなくては。ずっと一緒に居る親友には間違った道を進んでほしくない。
もっとも。
もしマイが男なんかに夢中になって、自分の傍らから消えてしまったら――そのことの方がユキにとっては怖かった。
いずれそんな日が来るのだとしても。変わらないで、とわがままを言いたかった。
* * *
街を抜け、彼女達の持ち場である氷雪世界を通り越して、やはりというかマイはパンデモニウムの中へと入っていった。
「しまった」
二人の間にはそこそこの距離があったものだから、一度建物の中に入られてしまえば、どこへ向かったのかがわからなくなってしまう。
とはいっても、パンデモニウムはユキにとっては勝手知ったる場所。もちろんそれはマイにもいえるのだが、その気になって探せば見つけられないような場所ではない。
いざ、最終決戦の舞台へ。ユキはパンデモニウムへと足を踏み入れた。
「あら、ユキ?」
が、ここでラスボスの前に立ちはだかる――一部ではラスボスよりも強いと言われている――強力なメイドが一人。
「どうしてここに居るの? あなたはまだ呼んでないわよ」
「マイを追っかけてきたのよ」
何とかして先へ行こうとするが、そのメイド――夢子はまるで通せんぼをするかのように彼女の目の前で仁王立ちしている。
「まだダメよ。氷雪世界に戻りなさい。心配しなくても呼んであげるから」
「ダメだよ。一刻を争う事態なのよ」
一気にユキはまくし立てる。
「マイが知らない男にたぶらかされてあられもないことになる前に、なんとか思いとどまるよう説得しなきゃいけないのよ」
ユキはいたって本気。しかし夢子の反応は冷たかった。
「でたらめなことを――」
でたらめ。この言葉を聞いてユキが、そして発言した本人である夢子も、ある事実を思い出す。
あぁそうか、今日は四月一日。嘘を吐かなくてはいけない日なのだった。マイと出くわしてからヒートアップしてしまって、そのことを完全にユキは忘れていた。
だとしたら。
……何と言えばいいのだろうか。それ以前に、ついつい先程は本当のことを喋ってしまったが、それを夢子はどのように受け止めているのだろうか。嘘しか吐いてはいけない日なのだから、嘘っぱちだと思われてしまったかもしれない。
何が嘘で何か本当なのか。どうしたら本当のことを伝えられるのか。
「あぁもう、面倒くさい!」
頭がこんがらがってしまって、思わずユキは叫んでしまった。
誰よ、こんな面倒くさい風習を作った奴は。絶対後で永遠に休める世界に案内してあげる。そうユキは心の中で誓った。
「面倒くさいのはあんたの方よ」
夢子は額を手で押さえて、はぁと溜め息一つ。
「慣れないことはするもんじゃないわね」
「……そうよね」
夢子にそう言われてユキは割り切った。
もういい。人は人、自分は自分だ。たとえみんな嘘しか吐いてなくても、自分は本当のことしか言わない。
ユキは四月一日も真っ直ぐ突き進む。
「となれば実力行使よ!」
ひらり、と夢子の一瞬の隙を見て彼女の横を潜り抜けた。
「あっ、こらっ」
「急がなくちゃ」
真っ直ぐぶつかれば、きっと向こうも真っ直ぐぶつかり返してくれるはずだから。
ユキはそう信じて、マイを追いかけた。
+ + +
ユキが夢子をかわしていった直後にルイズはパンデモニウムにやってきた。
「お邪魔しますわ」
まだ早かったかしら、などと言いながら、ルイズは中へ進もうとする。
が。
「まさかと思うけど」
彼女の両肩はメイドの手によってがっちりと掴まれた。
「なんですの」
「あんたユキに何か吹き込んだ?」
「え、ちょっと」
パンデモニウムの玄関を短剣が飛び交った。
* * *
パンデモニウム中を探してもマイは見つからなかった。
ユキの気配を察知してまだ逃げ回っているというのか。
それとも、もうとっくにここを出て違うところへと行ってしまったのか。
「むー」
マイの行方はわからないが、この巨大な神殿を回ったことで新たにわかったことが一つ。
主であるこの世界の創造神、神綺の姿を今日はまだ一度も見ていないのだ。
いつもならこの神殿の中央で「夢子ちゃんお腹空いたー」だとか「アリスちゃんに会いたいよー」とぶつくさ言いながら魔界神としての仕事をこなしている彼女を目撃することができる。
だが、今日は居ない。
ということは……。
いやいや、それはないだろうとユキは慌ててその考えを打ち消す。
まさかマイの「非行」に神綺が一枚噛んでいる、だなんて。誰よりも娘達を思う母のような神綺のことだ。そんなことは絶対ありえない。
「マイちゃんに彼氏ができたの! そんなのお母さん、絶対許さないわ!」
こう言うに決まってる。
そう、じゃないとしたら……。
「ぐへへへ。マイちゃん。あなたももう良い年頃だから、お母さんが良い男を紹介してあげるわ。ぐへへへ」
こんな魔界神は絶対嫌だ。正直家出したくなるくらい嫌だ。
とまぁ、こんな感じで悶々とユキの妄想は続いていると。
「あら、ユキちゃん?」
当の魔界神が彼女の目の前に姿を現した。
「し、神綺様!」
ふと我に返ってユキは神綺をまじまじと見つめる。カリスマのかけらも感じず、ぽやーんとしているのはいつもと一緒。
だが、違う点もあった。なんとなく、ではあるがどこか楽しげなのだ。頭の上のアホ毛がぴーんと立っていて何か自己主張している。
しかしユキはそれどころではない。
「神綺様、少しお伺いしたいことが……」
が、神綺もそれどころではなかったようで。
「そんなことよりもねユキちゃん。あのね、ア――」
満面の笑みでユキに語りかけようとしたその刹那。
「……ユキ」
マイが神綺の後を追うようにやってきた。
「マイ!」
「えーと……あの……」
楽しそうで仕方がない魔界神をスルーして、ユキはマイの目の前へと駆け出す。
「探したんだよ!」
がしっとユキはマイの両肩を掴む。
「ねぇマイ。腹を割って話をしようよ」
「……何の話?」
「とぼけたって無駄だよ、マイ」
もう嘘は吐かない。ストレートにユキは問いただす。
「マイ、正直に言ってよ。男ができたんでしょ?」
「……は?」
マイはぽかーんとしている。
その後ろで、神綺が「え、マイちゃんに彼氏ができたの! そんなのお母さん、絶対許さないわ!」と叫んでいるが、二人の耳には入っていない。
「あのね、マイはかわいい子のようで実は何を考えているかわからなくて、裏でこそこそ何かしているかもしれないことはわかってる」
「あ、わかってるんだ、そこは」
ぼそっとマイはユキに聞こえないように呟いた。
「でもマイは私達に隠れてどこの馬の骨ともわからないような奴とあんなことやこんなことする子じゃないって信じてる」
「…………」
「ついでに言うと、私を足手まといするような子じゃないってことも信じてる」
「うっ」
予想外の方角から弾幕が飛んできて被弾したかのような衝撃をマイは覚えた。
「ごめん、今のは関係なかったよね。最近悪い夢をよく見てさ、夢の中でマイが『足手まといがいなくなってやっと、本気を出せるよ』とか言ってるんだよ。そんなことないのにね」
「…………」
マイの顔が微妙に歪むが、幸か不幸かユキは気づいていなかった。ユキの頭の中では、マイは何考えているかちょっとわからないけど、それでも頼れるかわいい相棒、なのだ。
「ねぇ、嘘だといってよ。私達と隠れて男なんかと付き合ってないよね」
「そんなわけないじゃない」
マイは溜め息を吐く。
「私は神綺様と夢子さんとあんたとアリスとルイズ姉さんとサラ以外には知り合いはいないわよ」
「ほ、本当に?」
「あんたが一番知ってるでしょ。四六時中私と一緒に居るのに」
それもそうだ。それはわかっているのだけど。
「でも……」
「でも?」
「嘘吐いてない?」
だって今日は。
「今日って嘘しか吐いちゃダメな日でしょ」
ユキはいたって本気の発言。だがマイの目は点になる。
「あのね、ユキちゃん」
いつの間にか普通のテンションに戻っていたらしい神綺がユキに語りかけた。
「今日はね、エイプリルフールって言って、『ちょっとした嘘を吐いてもいい日』、なのよ」
「……へ?」
今度はユキの目が点になる。
「『嘘しか吐いちゃダメな日』じゃないのよ。みんな普通に本当のことを喋っているわ。だけどちょっとしたジョークを言って楽しむ日、それがエイプリルフールなの」
「えっと、ということは……」
「ねぇユキ。その『嘘しか吐いちゃダメな日』というのは誰が教えてくれたの」
「ルイズ姉さん」
「あー、ルイズちゃんなら仕方ないねー」
神綺は苦笑いを浮かべる。
「まさかと思うけど、私に男が居るとかそういう話も」
「うん。姉さんが教えてくれた」
けろっとユキは言う。
だけど。
「ユキ。これだけは覚えておきなさい」
今度はマイがユキの両肩を掴む格好になる。
「まず一番最初にルイズ姉さんを疑いなさい!」
ハッピーエイプリルフール。
短剣で串刺しにされながらもブイピースをするルイズであった。
さすが世界中を旅するトラベラー、怖い物はないのかもしれない。
* * *
「相変わらずあなたは単純ね」
ぐいっと七色の人形遣いは杯を飲み干した。
「だって本当だと思ったんだもん」
ずずずと黒の魔法使いはアップルティーを口にした。
四月一日の晩。魔界では久々に里帰りしてきたアリス・マーガトロイドを囲んで、盛大に花見が行われていた。パンデモニウムの奥の広場には七部咲きの桜が咲き誇り、その下でアリスが家族と言ってはばからない少女達が思い思いに桜と料理と会話を楽しんでいた。
夢子宛にアリス里帰りの手紙が届いたのは少し前のこと。親馬鹿の神綺や親しい友人だったユキに知れ渡ると大変な騒ぎになるし、それにサプライズにするのも悪くないだろうということで、この日までに夢子と口が硬いということで助手にしたマイの二人がこっそりと歓迎花見の準備をしていたのだ。
マイが今朝にパンデモニウムに呼ばれた用事というのも、街まで買い物を頼まれていたためだった。あの時マイが持っていたのは、ホールケーキの箱。
そこでまさかユキと遭遇したものだから、マイは慌てて逃げたのだ。
もっとも結局神綺には途中でバレてしまい、夢子が止めるのを聞かずに、宴会のための手伝いを鼻歌を歌いながらこなしたわけであるが。
さらにちなみに、の話になるが、ルイズは今回の一件とは全く関係なかった。珍しくユキが一人で居るものだから、エイプリルフールということで嘘八百を吹き込んだ後、街へ向かうマイから今晩パンデモニウムへ来てくれと言われたものだから、行ってみたら夢子に突然短剣串刺しの刑に処せられたのである。
エイプリルフールは人をからかうような嘘を吐いてもいい日。迷惑を撒き散らすような嘘にはそれ相応のお仕置きが待っている、のかもしれない。
「今回は嘘だったかもしれないけど、本当にマイに男ができたらどうするの」
「それは……魔界中が騒ぎになるんじゃないかな」
「だめねぇ」
ぐびっとアリスはまた一杯酒を飲む。
魔界にアリスが居た頃はユキより小さかったのに、人間界に旅立ってからは随分成長して、もうユキを追い抜いてしまったようであった。
外見も、心も。
「男遊びをしろとは言わない。でも、誰でもいつかは好きな人ができるの。それを頭ごなしに否定するのはよくないと思うわ」
「マイにも……」
「マイにも……あなたにもね」
自分に話が振られて、ユキはぽっと顔が赤くなった。
「わ、私にも」
「そうよ。今は想像できないかもしれないけど、いずれは恋の一つや二つでもするわ」
はぁ、とアリスは溜め息を吐いた。
「そういうアリスは……」
「聞くな聞くな」
ちらっとアリスは既に酔いがまわって楽しげに踊っている神綺の方へと目をやった。必死に面倒を見ている夢子の苦労が思いやられる。
「えーつまんない」
「ユキに好きな人ができたら、そのときは喜んで恋愛相談に乗ってあげるわよ」
まだまだ先になりそうだけどね、なんて言いながらアリスは笑みを浮かべた。
桜の花が舞い散るわいわいとした宴の中でユキは思うのだ。
恋なんていつするかはまだわからない。だから今はなんとも言えない。
でも好きな人なら今でも居る。
マイも、アリスも、神綺も、夢子も、ルイズやサラだって。みんな大好き。
やっぱり好きな人には好きって言いたいな、って。
もし本当に今日が「嘘しか吐いてはいけない日」だったとしても。ユキは面と向かって「大嫌い」とは言えないだろう。
「大好き」って言ってしまって、もし「大嫌い」と取られてしまってもそれはそれで構わない。こんなくだらない日が終わったら、次の日に謝ってしまえばいい。そしてもう一度、「大好き」って言ってしまえばいい。
いや。
彼女が大好きな魔界のみんなは、彼女の「大好き」を「大嫌い」とは捉えないだろう。彼女が、嘘を吐くのが苦手で、真っ直ぐに生きている少女だということくらい、知っているのだから。
「たまには里帰りするのも悪くないわね」
真紅の少女は。
「私、魔界のみんなは大好きよ。ね、ユキ」
今日も真っ直ぐに生きる。
「うん。私もみんな大好き」
大好きな人達に囲まれながら――。
彼女は魔界でも一番といえるくらい、真っ直ぐで純真な少女だった。自分から嘘を吐くことなんて、悪戯をして夢子に怒られるときに、その場しのぎのごまかしをするくらいだろうか。それも大概は簡単にバレてしまい、夢子の怒りが増すものだったから、最近は言い訳をすることもほとんどなくなっていた。
自分が嘘を吐かなければ、相手が嘘を吐くとも思っていない。ユキは魔界のみんなは良い人だと思っていたし、実際そうだったから。かけられる言葉をそのまま受け止め、一喜一憂してきた。言葉の裏を探るのもあまり得意ではなかった。
それだけに。
今日はユキにとって非常に厄介な一日になりそうだった。
* * *
その日もユキはいつものように氷雪世界をふよふよと見回っていた。
いつもと違うことといえば側にマイが居ないことくらい。何か「用事がある」とかで、パンデモニウムへ向かったのだ。それも用事が済んだらこっちへ戻ってくるだろうから、ほんの一瞬の話。
彼女達の仕事場兼学び舎兼遊び場がこの凍てつく世界だった。仕事とは魔界の街からこの世界を通って、創造神の住むパンデモニウムへと侵略しようとする輩を追い返すこと。ただ、昔に人間界からの「来客」があって以降は、そのような侵入者もおらず、最近は魔法の修行くらいしかやることはない。
「ふわぁ……」
マイが居ないと張り合いがない。特に何もすることなく、大きなあくびをしたところで。
「あら、珍しいわ」
街の方角からやってくる人影が一つ。
紫の服に帽子とくれば、魔界中を自由に旅するトラベラーしかいなかった。
「ルイズ姉さん」
「相方はどうしたの?」
「用事があるとかでパンデモニウムへ行ったよ」
その瞬間。ルイズは糸の様な細い目を少し見開いて、ユキを見据えた。
「これは……事件の香りがしますわね」
「えっ」
ルイズの言葉にユキは固唾を呑む。
「男でもできたのかもしれないわ」
「な、なんだって!」
いつも一緒に居るマイがそんなことになっていようとは、ユキは到底信じられなかった。
到底信じられないなら、まず目の前のルイズを疑えばいいのだが、人が良すぎるユキにはその発想には至らなかった。
「ねぇ、ユキ」
もちろんそんなユキの性格はルイズもわかっている。
だから今日ほど面白い日はないのだ。
「今日って何の日か知ってる?」
「今日? 四月一日だけどそれがどうかしたの」
ユキにとっては月が変わったこと以外は何でもない一日。
「知らないのね」
「今日って何か特別な日だったかしら」
「それはね」
ルイズは表情を変えず、さらっと言ってのけた。
「今日はね、嘘しか吐いちゃダメな日なの」
「えっ?」
ユキにとっては初耳だったようで目を丸くする。そんなユキを見てルイズは微笑んだ。
「嘘を吐いて吐いて吐きまくる日なの。今日はみんな嘘しか吐いてないわよ」
「そ、そうなんだ……」
「あっといけない。ついつい本当のことを喋っちゃったわ」
にやりと細長い目のルイズは笑ったが、ユキは彼女を観察する余裕はなかった。
「嘘吐かなくちゃいけないって言われても、私嘘吐くの苦手だし。うー、困ったなー」
「今日はみんな嘘しか吐かないから、本当のことを喋っちゃうと逆に誤解されちゃうかもしれないわ」
あっといけない、ついついまた本当のことを……とルイズは付け加えた。
「そ、そんな。どうしよう、ルイズ姉さん」
日ごろから嘘を吐かない、なおかつ人の言葉を額面通りに受け取るユキにとってこれは死活問題だ。
「じゃぁ練習しましょう」
「練習?」
「そうね。――ユキはマイのことどう思ってる?」
「それは」
次の言葉を紡ぐ前に一呼吸おいて考える。
「――あんな奴、嫌いだよ」
「全然ダメね」
「あれ、おかしい?」
そんな、嘘を吐いたはずなのに。とユキは思ったが。
「おかしいおかしい。あなたの言ってることは間違ってるわ」
ルイズのほうも嘘を吐いているのだ。だから今はユキの嘘回答に対しては「ダメじゃない」、ということになる。
「うー」
なんだか脳が疲れてきた。でも嘘を吐かなくてはいけない日なのであるから仕方がない。これも一つの風習なんだとユキは勝手に納得した。
「頑張らなくていいわ」
「うん、頑張る! ……じゃなくて、頑張らないよ!」
そして勝手に意気込んで。
「そうだ。マイのことは放っておかないと」
勝手に旅立つのであった。
ユキの後姿を見てルイズは思う。馬鹿正直なのも考え物ね、と。
* * *
ユキは魔界の街をうろうろとしていた。
もしルイズの言うとおり、マイに男でもできていたとしたなら。魔界人の大多数はこの街に住んでいるということは、こちらに来ている可能性が高いのだ。パンデモニウムや氷雪世界や魔界の門には、ユキの顔なじみの女性しかいないのだから。
とはいっても、特にあてがあるわけでもない。まさか街中の男を片っ端から捕まえて聞くわけにもいかない。
いや。
一回は聞いてみた。
「マイちゃん? 今日は見てないねぇ」
男はそう言うものの、ユキの頭の中では今日は嘘しか吐いてはいけない日、つまり目の前の男も嘘を吐いている、ということになるわけで。
「嘘だ! きさま、絶対マイがどこにいるか知ってるでしょ! 教えてよ!」
「本当に知らないって!」
「きさまー!」
「うわ、魔法をぶっ放すのはやめてくれよ!」
会話にならなかった。
「うーん」
無駄に時間だけが過ぎてゆく。ただぶらぶらと歩いているだけで、特に何か動きがあるわけでもない。
もう帰ろう。どうせいずれマイとは会うんだから、その時に問い詰めればいいや――ユキが引き返そうとしたその時だった。
彼女の目の内に、白い服を着て白い翼を背に生やした少女が飛び込んできたのは。
「マイ?」
「あ……」
二人の目が合う。
マイの手にはリボンでラッピングされた箱があった。
もしかしてあれが――見知らぬ男からもらったプレゼントだというのか?
「どうしてここに居るの?」
ユキがそう尋ねると、マイは冷や汗を掻きながら視線を横へと逸らした。
怪しい。この上なく怪しい。
「そういうユキこそどうして街まで来てるの……?」
「私はマイを探しに来たんだよ!」
「えっ……」
明らかにマイは動揺している。
これは間違いなく何か隠し事をしているに違いない。そう確信して、ユキは攻勢を強める。
「どうしてここに居るのか白状しなさい!」
「……三十六計逃げるに如かず」
マイはそう呟くなり、一目散に逃げ出した。
「あっこら、待てー!」
ユキもすぐさま後を追う。
「待ちなさい!」
「ごめん、今はあんたに構ってられない」
「何をー!」
後をつけることはできているものの、二人の距離は広がりもしなければ、縮まることもない。
ただの少女の鬼ごっこと言うなかれ。
ユキにとってはマイを正しい道へと連れ戻すための重大な戦いなのだ。
ユキからすれば……やはり「そういうこと」は早いと思うのだ。まだまだ自分達は子供なのに、そんな男の味を今から覚えてしまうだなんて。
少しばかり想像してみる。
………………。
…………。
……。
自然と体が熱くなって、顔が赤くなる。
だめだめ、やっぱりまだ早いよ、こんなの! だめ、絶対!
なんとしてもマイを取り戻さなくては。ずっと一緒に居る親友には間違った道を進んでほしくない。
もっとも。
もしマイが男なんかに夢中になって、自分の傍らから消えてしまったら――そのことの方がユキにとっては怖かった。
いずれそんな日が来るのだとしても。変わらないで、とわがままを言いたかった。
* * *
街を抜け、彼女達の持ち場である氷雪世界を通り越して、やはりというかマイはパンデモニウムの中へと入っていった。
「しまった」
二人の間にはそこそこの距離があったものだから、一度建物の中に入られてしまえば、どこへ向かったのかがわからなくなってしまう。
とはいっても、パンデモニウムはユキにとっては勝手知ったる場所。もちろんそれはマイにもいえるのだが、その気になって探せば見つけられないような場所ではない。
いざ、最終決戦の舞台へ。ユキはパンデモニウムへと足を踏み入れた。
「あら、ユキ?」
が、ここでラスボスの前に立ちはだかる――一部ではラスボスよりも強いと言われている――強力なメイドが一人。
「どうしてここに居るの? あなたはまだ呼んでないわよ」
「マイを追っかけてきたのよ」
何とかして先へ行こうとするが、そのメイド――夢子はまるで通せんぼをするかのように彼女の目の前で仁王立ちしている。
「まだダメよ。氷雪世界に戻りなさい。心配しなくても呼んであげるから」
「ダメだよ。一刻を争う事態なのよ」
一気にユキはまくし立てる。
「マイが知らない男にたぶらかされてあられもないことになる前に、なんとか思いとどまるよう説得しなきゃいけないのよ」
ユキはいたって本気。しかし夢子の反応は冷たかった。
「でたらめなことを――」
でたらめ。この言葉を聞いてユキが、そして発言した本人である夢子も、ある事実を思い出す。
あぁそうか、今日は四月一日。嘘を吐かなくてはいけない日なのだった。マイと出くわしてからヒートアップしてしまって、そのことを完全にユキは忘れていた。
だとしたら。
……何と言えばいいのだろうか。それ以前に、ついつい先程は本当のことを喋ってしまったが、それを夢子はどのように受け止めているのだろうか。嘘しか吐いてはいけない日なのだから、嘘っぱちだと思われてしまったかもしれない。
何が嘘で何か本当なのか。どうしたら本当のことを伝えられるのか。
「あぁもう、面倒くさい!」
頭がこんがらがってしまって、思わずユキは叫んでしまった。
誰よ、こんな面倒くさい風習を作った奴は。絶対後で永遠に休める世界に案内してあげる。そうユキは心の中で誓った。
「面倒くさいのはあんたの方よ」
夢子は額を手で押さえて、はぁと溜め息一つ。
「慣れないことはするもんじゃないわね」
「……そうよね」
夢子にそう言われてユキは割り切った。
もういい。人は人、自分は自分だ。たとえみんな嘘しか吐いてなくても、自分は本当のことしか言わない。
ユキは四月一日も真っ直ぐ突き進む。
「となれば実力行使よ!」
ひらり、と夢子の一瞬の隙を見て彼女の横を潜り抜けた。
「あっ、こらっ」
「急がなくちゃ」
真っ直ぐぶつかれば、きっと向こうも真っ直ぐぶつかり返してくれるはずだから。
ユキはそう信じて、マイを追いかけた。
+ + +
ユキが夢子をかわしていった直後にルイズはパンデモニウムにやってきた。
「お邪魔しますわ」
まだ早かったかしら、などと言いながら、ルイズは中へ進もうとする。
が。
「まさかと思うけど」
彼女の両肩はメイドの手によってがっちりと掴まれた。
「なんですの」
「あんたユキに何か吹き込んだ?」
「え、ちょっと」
パンデモニウムの玄関を短剣が飛び交った。
* * *
パンデモニウム中を探してもマイは見つからなかった。
ユキの気配を察知してまだ逃げ回っているというのか。
それとも、もうとっくにここを出て違うところへと行ってしまったのか。
「むー」
マイの行方はわからないが、この巨大な神殿を回ったことで新たにわかったことが一つ。
主であるこの世界の創造神、神綺の姿を今日はまだ一度も見ていないのだ。
いつもならこの神殿の中央で「夢子ちゃんお腹空いたー」だとか「アリスちゃんに会いたいよー」とぶつくさ言いながら魔界神としての仕事をこなしている彼女を目撃することができる。
だが、今日は居ない。
ということは……。
いやいや、それはないだろうとユキは慌ててその考えを打ち消す。
まさかマイの「非行」に神綺が一枚噛んでいる、だなんて。誰よりも娘達を思う母のような神綺のことだ。そんなことは絶対ありえない。
「マイちゃんに彼氏ができたの! そんなのお母さん、絶対許さないわ!」
こう言うに決まってる。
そう、じゃないとしたら……。
「ぐへへへ。マイちゃん。あなたももう良い年頃だから、お母さんが良い男を紹介してあげるわ。ぐへへへ」
こんな魔界神は絶対嫌だ。正直家出したくなるくらい嫌だ。
とまぁ、こんな感じで悶々とユキの妄想は続いていると。
「あら、ユキちゃん?」
当の魔界神が彼女の目の前に姿を現した。
「し、神綺様!」
ふと我に返ってユキは神綺をまじまじと見つめる。カリスマのかけらも感じず、ぽやーんとしているのはいつもと一緒。
だが、違う点もあった。なんとなく、ではあるがどこか楽しげなのだ。頭の上のアホ毛がぴーんと立っていて何か自己主張している。
しかしユキはそれどころではない。
「神綺様、少しお伺いしたいことが……」
が、神綺もそれどころではなかったようで。
「そんなことよりもねユキちゃん。あのね、ア――」
満面の笑みでユキに語りかけようとしたその刹那。
「……ユキ」
マイが神綺の後を追うようにやってきた。
「マイ!」
「えーと……あの……」
楽しそうで仕方がない魔界神をスルーして、ユキはマイの目の前へと駆け出す。
「探したんだよ!」
がしっとユキはマイの両肩を掴む。
「ねぇマイ。腹を割って話をしようよ」
「……何の話?」
「とぼけたって無駄だよ、マイ」
もう嘘は吐かない。ストレートにユキは問いただす。
「マイ、正直に言ってよ。男ができたんでしょ?」
「……は?」
マイはぽかーんとしている。
その後ろで、神綺が「え、マイちゃんに彼氏ができたの! そんなのお母さん、絶対許さないわ!」と叫んでいるが、二人の耳には入っていない。
「あのね、マイはかわいい子のようで実は何を考えているかわからなくて、裏でこそこそ何かしているかもしれないことはわかってる」
「あ、わかってるんだ、そこは」
ぼそっとマイはユキに聞こえないように呟いた。
「でもマイは私達に隠れてどこの馬の骨ともわからないような奴とあんなことやこんなことする子じゃないって信じてる」
「…………」
「ついでに言うと、私を足手まといするような子じゃないってことも信じてる」
「うっ」
予想外の方角から弾幕が飛んできて被弾したかのような衝撃をマイは覚えた。
「ごめん、今のは関係なかったよね。最近悪い夢をよく見てさ、夢の中でマイが『足手まといがいなくなってやっと、本気を出せるよ』とか言ってるんだよ。そんなことないのにね」
「…………」
マイの顔が微妙に歪むが、幸か不幸かユキは気づいていなかった。ユキの頭の中では、マイは何考えているかちょっとわからないけど、それでも頼れるかわいい相棒、なのだ。
「ねぇ、嘘だといってよ。私達と隠れて男なんかと付き合ってないよね」
「そんなわけないじゃない」
マイは溜め息を吐く。
「私は神綺様と夢子さんとあんたとアリスとルイズ姉さんとサラ以外には知り合いはいないわよ」
「ほ、本当に?」
「あんたが一番知ってるでしょ。四六時中私と一緒に居るのに」
それもそうだ。それはわかっているのだけど。
「でも……」
「でも?」
「嘘吐いてない?」
だって今日は。
「今日って嘘しか吐いちゃダメな日でしょ」
ユキはいたって本気の発言。だがマイの目は点になる。
「あのね、ユキちゃん」
いつの間にか普通のテンションに戻っていたらしい神綺がユキに語りかけた。
「今日はね、エイプリルフールって言って、『ちょっとした嘘を吐いてもいい日』、なのよ」
「……へ?」
今度はユキの目が点になる。
「『嘘しか吐いちゃダメな日』じゃないのよ。みんな普通に本当のことを喋っているわ。だけどちょっとしたジョークを言って楽しむ日、それがエイプリルフールなの」
「えっと、ということは……」
「ねぇユキ。その『嘘しか吐いちゃダメな日』というのは誰が教えてくれたの」
「ルイズ姉さん」
「あー、ルイズちゃんなら仕方ないねー」
神綺は苦笑いを浮かべる。
「まさかと思うけど、私に男が居るとかそういう話も」
「うん。姉さんが教えてくれた」
けろっとユキは言う。
だけど。
「ユキ。これだけは覚えておきなさい」
今度はマイがユキの両肩を掴む格好になる。
「まず一番最初にルイズ姉さんを疑いなさい!」
ハッピーエイプリルフール。
短剣で串刺しにされながらもブイピースをするルイズであった。
さすが世界中を旅するトラベラー、怖い物はないのかもしれない。
* * *
「相変わらずあなたは単純ね」
ぐいっと七色の人形遣いは杯を飲み干した。
「だって本当だと思ったんだもん」
ずずずと黒の魔法使いはアップルティーを口にした。
四月一日の晩。魔界では久々に里帰りしてきたアリス・マーガトロイドを囲んで、盛大に花見が行われていた。パンデモニウムの奥の広場には七部咲きの桜が咲き誇り、その下でアリスが家族と言ってはばからない少女達が思い思いに桜と料理と会話を楽しんでいた。
夢子宛にアリス里帰りの手紙が届いたのは少し前のこと。親馬鹿の神綺や親しい友人だったユキに知れ渡ると大変な騒ぎになるし、それにサプライズにするのも悪くないだろうということで、この日までに夢子と口が硬いということで助手にしたマイの二人がこっそりと歓迎花見の準備をしていたのだ。
マイが今朝にパンデモニウムに呼ばれた用事というのも、街まで買い物を頼まれていたためだった。あの時マイが持っていたのは、ホールケーキの箱。
そこでまさかユキと遭遇したものだから、マイは慌てて逃げたのだ。
もっとも結局神綺には途中でバレてしまい、夢子が止めるのを聞かずに、宴会のための手伝いを鼻歌を歌いながらこなしたわけであるが。
さらにちなみに、の話になるが、ルイズは今回の一件とは全く関係なかった。珍しくユキが一人で居るものだから、エイプリルフールということで嘘八百を吹き込んだ後、街へ向かうマイから今晩パンデモニウムへ来てくれと言われたものだから、行ってみたら夢子に突然短剣串刺しの刑に処せられたのである。
エイプリルフールは人をからかうような嘘を吐いてもいい日。迷惑を撒き散らすような嘘にはそれ相応のお仕置きが待っている、のかもしれない。
「今回は嘘だったかもしれないけど、本当にマイに男ができたらどうするの」
「それは……魔界中が騒ぎになるんじゃないかな」
「だめねぇ」
ぐびっとアリスはまた一杯酒を飲む。
魔界にアリスが居た頃はユキより小さかったのに、人間界に旅立ってからは随分成長して、もうユキを追い抜いてしまったようであった。
外見も、心も。
「男遊びをしろとは言わない。でも、誰でもいつかは好きな人ができるの。それを頭ごなしに否定するのはよくないと思うわ」
「マイにも……」
「マイにも……あなたにもね」
自分に話が振られて、ユキはぽっと顔が赤くなった。
「わ、私にも」
「そうよ。今は想像できないかもしれないけど、いずれは恋の一つや二つでもするわ」
はぁ、とアリスは溜め息を吐いた。
「そういうアリスは……」
「聞くな聞くな」
ちらっとアリスは既に酔いがまわって楽しげに踊っている神綺の方へと目をやった。必死に面倒を見ている夢子の苦労が思いやられる。
「えーつまんない」
「ユキに好きな人ができたら、そのときは喜んで恋愛相談に乗ってあげるわよ」
まだまだ先になりそうだけどね、なんて言いながらアリスは笑みを浮かべた。
桜の花が舞い散るわいわいとした宴の中でユキは思うのだ。
恋なんていつするかはまだわからない。だから今はなんとも言えない。
でも好きな人なら今でも居る。
マイも、アリスも、神綺も、夢子も、ルイズやサラだって。みんな大好き。
やっぱり好きな人には好きって言いたいな、って。
もし本当に今日が「嘘しか吐いてはいけない日」だったとしても。ユキは面と向かって「大嫌い」とは言えないだろう。
「大好き」って言ってしまって、もし「大嫌い」と取られてしまってもそれはそれで構わない。こんなくだらない日が終わったら、次の日に謝ってしまえばいい。そしてもう一度、「大好き」って言ってしまえばいい。
いや。
彼女が大好きな魔界のみんなは、彼女の「大好き」を「大嫌い」とは捉えないだろう。彼女が、嘘を吐くのが苦手で、真っ直ぐに生きている少女だということくらい、知っているのだから。
「たまには里帰りするのも悪くないわね」
真紅の少女は。
「私、魔界のみんなは大好きよ。ね、ユキ」
今日も真っ直ぐに生きる。
「うん。私もみんな大好き」
大好きな人達に囲まれながら――。