「現し世に、参りて長くなりにけり。続きが出ない下の句がない」
うつしよ、現し世が日暮れの茜に呑まれていく。蒸し暑さと蝉の声が薄れる。
三途の川辺の岩に胡坐をかいて、あたいは歌を編んでいた。死神の鎌を見せつけるべき乗船客は、待てども来ない。配属されたこの地、幻想郷の住民の大半は、当分川を渡らない長命の妖怪。残りは複数ある里の人間だが、気候の安定した晩夏の現在、没する者は少ない。妖の者は見境なく人を食べはしないらしい。着任から五日、幽霊を一度も舟に乗せていない。霊に話しかけるのが楽しみで、水先案内の職を選んだのに。暇でたまらなくて、手慰み、口慰みに和歌を詠んだ。
幻想郷担当の渡し守は、今のところあたいだけだ。増える予定もない。あたい一人で回せる程度の人口しかいないのだ。数日間休んでも誰にも睨まれまい。むしろ有難いのではないだろうか。彼岸は昨今、急増した霊の裁判で大忙しだ。十王様全員が閻魔王を名乗って個別に審判を始めたけれど、それでも持つかどうか。人の繁殖力は凄まじい。
「かくりよ、隠り世。彼岸。戻る前にこっち、巡ってみようか」
客を待たせまいと、五日間川原を離れなかった。歌を練って時間を潰すにも限界がある。少し、飛んでみようか。あたいの勤め先がどんなところか、高い場所から見てみたい。
涼やかな風に飛び乗って、夕刻の空に上がった。
うつしよの、みどりのくに。
見下ろして、吐息が零れた。瞬きの時間も惜しかった。
彩色絵巻、万華鏡、楽園の具現。あたいの瞳は、多分とてもきれいなものを見ている。もっと早く、この景色を目にすれば良かった。
農作業を終えた里の男衆が、鍬を担いで小屋に入っていく。夕餉の煙が細く流れている。向きを変えれば、妖の山。山頂付近を、天狗が慌しく飛び回っている。妖精がはしゃいで、新任死神のあたいをからかっていく。遠くからでも瘴気を感じられる森、死者のための道、向日葵畑、無縁仏の塚。動く風景全てを包む、樹木の翠緑。幻想郷を真に見守る者は、きっと緑を持っている。そんな気がした。
なんて、生き生きしているのか。生まれ育った地獄とも、今住居のある彼岸とも違う。季節も時間も自然も、優しく移り変わっていく。照明で日夜輝いていたものの、地獄は根底が暗かった。彼岸は春夏秋冬の植物が混在していて、変化がない。昼も夜もなく、穏やかに明るいだけ。霊に不変の死を自覚させるための環境なのだろうが、退屈に感じる。
ここが仕事場で、良かった。深く思った。
伸びをして、夏の終わりの気を吸った。
「おっと」
高下駄の片割れが、緑の楽園に落ちていった。支給されたてで、若干あたいの足には大きいのだ。今度幅の調整を頼もう。
下駄を追って、湖の近くの大地に降下した。空中で掴んで、調子に乗って三回転。赤毛と鎌をぶん回して、片足で着地を決めた。
降り立った場に、人影はなかった。周囲に、藁や木の柱が乱立している。柱は大半が途中で折れて、腐っている。以前は家が建っていたのだろう。雪に潰され、雨風に薙ぎ倒された。畑の跡は干からびていた。滅びた集落のひとつだ。残虐な妖怪や獣に襲われたか、新天地を求めていなくなったか、飢餓か。妖精の力を受けて、村のあちこちの菩提樹は生長していた。
廃村と荒れた道の境に、大人びた枝垂れ桜が一本あった。花盛りを過ぎて、原石のような緑葉を下げている。集落と外との門の役割を果たしていたのだろう。桜の下には、
「何これ」
地獄の本で読んだ、異国の怪物のようなものが転がっていた。黒い糸や布切れを隙間なく巻きつけられた、硬い塊。歩けるようになった子供と、同じくらいの大きさだ。
妖精が悪戯で作った代物だろうか。危険な気は感じない。中に何か入っているのかもしれない。好奇心に動かされて、あたいは黒糸の結び目に手をかけた。途端、
『やめなさい、死神。解いてはなりません』
頭の中に、声にも文字にもならない思念が届いた。先刻まで欠片もなかった、強烈な圧が放たれた。火柱に打たれたかのように、あたいは慌てて手を離した。この像に、礼もなく触れてはいけない。
「貴方は、何者」
『私はこの地を守ってきた地蔵です。その糸の一筋一筋は、私の命脈』
お地蔵様。地獄に落ちた者を救う菩薩の似姿。地の底と人の国の境界、道の守り神。元はただの石人形だが、信仰を集めれば神に相応しい力を発揮する。確か、そう地獄で学んだ。教本にあった絵と違い過ぎて、気づかなかった。このお地蔵様は、結構な神格を備えている。あたいの心に語りかけ、正体を一目で見抜いた。枯れた村で、信仰者もなしに生き続けている。力の温存のために、普段は気を鎮めているようだけれど。
あたいは頭を掻いて詫びた。
「や、すみませんでした。てっきり妖精の罠か何かかなって。あたいここに来たばっかりで、良くわかってないところもあって。知っていればこんなことには、はい」
『謝罪はもう要りません。貴方は言い訳が多い』
お地蔵様に叱られた。きついことを言われているのに、何だか嬉しかった。幻想郷側では、初めての話し相手だ。あたいは言葉のやり取りに飢えていた。
小さな黒い身体を起こして、
「あたい、小野塚小町って言います。名付け親が、歌人の名前を弄ってつけてくれました。彼女みたいに、華麗な女性になれよー、って。実際には、こんなお気楽呑気娘に育っちゃいましたけど。お地蔵様は、何かお名前ありますか? 良かったら、教えてください。それと」
五日分のお喋り欲を、次々声に変えた。
目線を像の頭と思しき部分に揃えて、お願いした。
「あたいと、これからもお話してください。仕事のないとき、来ます」
『いきなり何ですか。私と話しても、楽しいことはありませんよ』
「どんな会話にも意味はあるものです。お地蔵様、色々知ってそうですし。幻想郷のこと、教えてくださると助かります」
大鎌を置いて、手を合わせて拝んだ。お地蔵様は文字通り、神仏の像のように黙り込んだ。唐突な申し出に呆れ迷ったのかもしれない。しばし間を空けて、『たまになら』と応じてくれた。
「ありがとうございます。それで、お名前は? お地蔵様じゃ他人行儀で」
ないなら勝手につけましょうかと提案した。神々しく、親しみやすく綺麗な感じで。桜、さくら、夕霧、夕映え、紡ぎ。乏しい語彙の袋を漁っていると、
『いとひめ』
お地蔵様の念が飛んできた。
「いとひめ?」
『糸車の糸に、姫君の姫。糸姫地蔵。以前、この村の者にそう呼ばれていました』
糸姫。黒い糸と布の覆いの下は、娘の顔なのかもしれない。
お地蔵様改め糸姫様は、簡単に名の由来を説明してくれた。願掛けの際、村人が白い糸や細布を巻いたそうだ。穢れのない祈りだと証明するべく。黒く変色してしまったけれど。
糸の一筋一筋が命脈とは、そういうことか。糸姫様は糸や布に宿った信仰心を啜って、生きているのだ。洗ったり解いたりすれば、急速に衰える。
『似つかわしくない名です。適当に、泥地蔵とでも呼べば良かった』
「またまた」
余計似合わない。糸姫様の想念は、いささか自虐的だった。投げやりなのは、いただけない。
「今度、白い糸持ってきますよ。お供え物も。注文あります?」
『不要です。職務に戻りなさい』
厳しくたしなめ、糸姫様は沈黙した。想いは響かない。
あたいは夕空の道を帰っていった。収穫の多い一日だった。幻想郷飛行、地獄と彼岸にない光景、糸姫様との出会い。
「現し世に、参りて長くなりにけり」
下の句は、浮かばなかった。まだ五日だ。参りて長くなどない。糸姫様は、私よりもずっと長い時間を幻想郷で過ごしている。住む者の消えた、あの静かな村で。
糸姫様の首に、白の木綿糸を巻いた。死神商売繁盛祈願。ご利益はあった。三途の船着場に、霊が現れた。早速報告したら、『ひとはいずれ死にます。自然に来るものでしょう』とそっけなく呟かれた。
幽霊に話しかけるのは面白かった。彼らには口はないけれど、歴史がある。何が起こったのか想像して、物語に仕立てた。そのうちに、霊の考えが朧にわかるようになった。彼らは彼らなりに、心を伝えたがっている。仕草や尾のたなびき方から、未練や情熱が読めた。向き合って、理解した。
たまに、自殺した霊もいた。自ら命を絶つことは、逃避でしかない。理由に関係なく、許さない。死神の掟だ。悪い、ここがお前の終点だ。三途の川の途中で、蹴落とした。
糸姫様も、自尽に反対していた。『罪です』。珍しく、力強く切り捨てた。
『私と話しても、楽しいことはありませんよ』。確かに、糸姫様の話は世間一般の楽しさからは外れていた。けれども、ためになった。幻想郷に張られた幻と実体の境界の話、地底移住中の鬼の事情、無縁塚の罪の妖怪桜の様子。まるで見てきたかのように、整然と説明してくれた。
数多のひとやものや事件を、見届けてきたのだろう。言の葉に悔悟の棒のような重みがあった。道理に背くことは言わなかった。あたいは下っ端だから、閻魔王様の法廷は知らない。でも、閻魔王様も糸姫様と似たような意見を述べるのではないかと、時々考えた。
あたいがおどけた真似をすると、糸姫様は想念で笑った。糸布に塗り潰された顔を、見てみたかった。どんな風に表情を変えて、どんな声を出すのか。いつか糸姫様が人になれますように。願って、白糸の輪を贈った。
彼岸の決定は、あたいの希望に沿ったものだった。
『向こう岸はそこまで人手が足りないのですか』
「あの激務で閻魔王様が生きているのが不思議です」
『不謹慎ですよ』
秋の半ば。煤けた雲の切れ間から、薄青空と日差しが覗く。
あたいは糸姫様を連れて、廃村の末の霧深い湖に来ていた。移動の許可は糸姫様に貰っている。村の領域を離れなければいいそうだ。
色づいた楓が濃霧に漂う中で、あたいは彼岸の新計画を話した。
裁判官の新規募集。対象は、全国のお地蔵様。適性審査に通れば、仮の身分を与えられる。見習い修行を終えて、元いた地の閻魔様になる。地蔵から、肉体のある高位の存在に出世できる。
「糸姫様のところにも、募集告知が来たんじゃないですかね。やってみませんか。適性はあたいが保証します」
幻想郷には、糸姫様以外にもお地蔵様はいる。就任から数ヶ月で、軽く十体は見た。けれども皆、能力と威厳に乏しかった。約半分のお地蔵様は、念話できるほどに成長していなかった。山腹のお地蔵様は妖怪めいていて、殺気の鞭を走らせた。賑やかな里のお地蔵様は、裁判に興味を示さなかった。
仮に糸姫様と同格のお地蔵様がいたとしても、あたいは糸姫様を推しただろう。この方には、彼岸の秤に通ずる何かがある。現し世にあって、隠り世に生きている。
『拒否します』
糸姫様は、読み違えようのない思念を送った。予想済みの返答だった。
「理由を訊いても?」
『向いていません。人物事件を批評するのと、裁くのとでは違いがあるでしょう』
これも想定していた。糸姫様は生真面目で慎重で、頑固なお方だ。最初はこれでいい。彼岸はすぐに募集を打ち切らない。少しずつ、説得していこう。
傍らの籠から木の水筒を出して、温かい焙じ茶を飲んだ。糸姫様には、竹皿に載せた水飴をお供えする。食べていいと許可された。お地蔵様は、瞳で味わうそうだ。
「見た目はともかく、味や匂いまでわかるものなんですか」
『わかります。子供から貰ったこともあります』
棒切れ二本で、うねる飴を左右から回した。紅葉の世界が映る。空気の粒を取り込んで、霞がかっていく。正面の湖も、手で掻き回せそうな霧を吹く。底で葉っぱの紅や橙が、灯篭のように光った。糸姫様には、葉脈の分岐まで見えているのだろう。
『私は、この村を離れたくありません』
「お気持ちはわかりますが、土地に縛られるばかりが生き方ではありませんよ」
幻想郷には、外で弱体化した妖怪を引き入れる結界がある。そのうち、信仰心の枯渇した外界の神様なんかも移り住んでくるのではないだろうか。
『私の生は、終焉に近づきつつあります。糸や布の信仰は、いずれなくなるでしょう。もう満足です。閻魔として新たに生きる気は、ありません。信者のいたこの地で、滅びを待ちます』
「んん」
秋色の水飴は、淡く甘かった。ふやけて融ける。唇で棒を上下させた。
糸姫様は、古の信仰を千切って生きている。新たに信心を寄せる者は、あたいくらいしかいない。水は無限ではない。放っておけば糸巻きの像に戻る。あたいとの会話でも、命を磨耗させているのだろう。
信仰回復のために引っ越させたら、強硬手段に出るかもしれない。自分を曲げないお方だ。
甘味に、淋しい苦味が混ざった。
信者の地を守って、滅びを待つ。尊い郷土愛だが、見方を変えれば消極的な自殺ではないか。
「ねえ、糸姫様」
『はい』
「自己満足の崩壊も、逃げではありませんか?」
自殺は罪だと、糸姫様は断言していた。自ら罪を犯すのは、正しい振る舞いではない。糸姫様らしくない。
糸姫様の身が朽ちて、霊になったとして。三途の水面に放り出すのは、嫌だ。
『詭弁です。貴方はお喋りが過ぎます』
「そうですかね」
元の場所に帰すよう、頼まれた。あたいは糸姫様を抱えて、滅亡の村を歩いた。生活のにおいが、絶えて久しい地。糸姫様は誰に慕われ、何を叶えてきたのだろう。想像していると、
『人を裁くには、私は咎を負い過ぎた』
自嘲のような心が、降ってきた。無意識に出てしまった一言のようだった。暗く漏らした後で、息を呑むように想いに断線が入った。
枝垂れ桜の太い幹を背に、糸姫様は黙していた。
老いた枝葉がさやめいた。
「咎って、何ですか」
私と糸姫様の、意識の繋がりが途切れた。こうなると、撫でても突いても返事がない。
口中に、泥や砂のように謎が残った。
私はお辞儀して、三途の川に帰還した。
現し世に、参りて長くなりにけり。罪を問いたし糸姫の像。
勧誘し、説得を試み、昔話を求めた。糸姫様はあたいの誘いを拒んだ。しつこく要求すると、心の扉を閉められた。
冬の始まりには、一切話してくれなくなった。嫌われたか。あたいと糸姫様の縁は、共に一方的だ。あたいがひたすらに望む。接続の手段は、糸姫様の側にのみある。
念話を拒まれても、あたいは廃村に足を運んだ。くだらないことを、友人のように喋った。歌詠みのような名を持つからだろうか。あたいは言葉を交わすことの価値を妙に信じていた。もちろんありとあらゆるものが、声で伝わるとは考えていない。でも、対話は時に死者の霊を慰め、ひとを結びつけるはずだ。
妖怪の知り合いに、糸姫様の過去を訊ねた。知らないし、詮索して何になるのかと冷たく注意された。
昔を探るのは、難しいことだ。要らない傷を生む原因にもなる。閻魔王様は過去を暴く浄玻璃の鏡を、絶対に他人に触らせない。
朽ちかけたお地蔵様に、どうしてこれほど熱くなっているのやら。幻想郷で初めての、話し相手だから? 知識を授けてくれるから? それだけではないだろう。あたいはあの方に、変わって欲しかった。
渡航する霊に、糸姫地蔵を知らないかと質問した。寿命の短い人間の霊魂は、疑問たっぷりに丸まった。閻魔王様の裁きに怯えていた。当分は順番待ちだと安心させた。数百年彼岸で待たされている霊もいる。
花畑の彼岸で、糸姫様のことを訊ねたかった。廃集落の住民の霊が、残っているかもしれない。問いかけるどころではなかった。地面から空まで霊で飽和状態、誰に何を呼びかけたのかもわかるまい。法廷案内を担当する死神が、群がられてやつれていた。裁きの対象を見つけるだけでも一苦労だ。
幻想郷の前任の死神は、新地獄に異動していた。会えなかった。
裁判書記の死神に、さっさと閻魔候補を用意しろと急かされた。他の地域の裁判官は、順調に決まっているそうだ。
もう、無理矢理に運んでしまおうか。祟られるか。あの方は怒らせたら怖い。
睦月と如月の境に、名の知れた大天狗が亡くなった。天寿を全うしたそうだ。白化粧の山では号外新聞が飛び交い、連日弔いの火が焚かれた。
貫禄のある幽霊が、風のない川を訪れた。宴会の挨拶をするかのように、堂々と宙に留まっている。時代物の手漕ぎ舟に乗せて、運賃を出すよう指示した。渡し賃は全財産。生前、自分に尽くしてくれた者のお金を全て。半透明の幽体から、大判小判がきりなく吐き出された。ぼろ舟が宝船に化けた。
霊にはあたいと交流する気があった。お地蔵様のように、脳に直に思考を届けてきた。幼少期に鬼の支配地に迷い込んだこと、将来の天狗界を背負うべく教育を受けたこと、みなしごの天狗を進んで保護したこと、千里眼の白狼天狗を指揮して侵入者を撃退したこと、古い世の大活躍。自信を持って逝ける、悔いはない。金貨銀貨の山で、大霊は笑ったように見えた。語りの切れが良く、自慢話も楽しんで聞けた。
人徳があるから、彼岸に着くのも速い。虹の花弁が見えてきた。
この霊なら、知っているのではないか。到着前に、あたいは急いで問いを投げかけた。
『糸姫地蔵。彼女は村を壊したのか、救ったのか』
「何したかわかる?」
『皆殺し』
舟の舳先が岸辺を打った。
村落跡は、白い平野になっていた。家の柱と菩提樹の群れ、ただ一本の枝垂れ桜が、胴と頭を覗かせている。数日来ないとこうだ。
桜の下を鎌で掘って、糸姫様を雪原に出した。白と黒が鮮やかにぶつかった。
糸と包帯を、何重にも巻いた。
「教えてください、糸姫様。皆殺しって、何のことですか」
貴方はこの村で、何をしたんですか。今更訊いても無意味かもしれませんが、知りたいんです。単純な好奇心で言ってるんじゃありません。
指先の感覚が凍え薄れた。吐息は灰曇の空に頼りなく上がった。
「咎は清算できるものです。話してください」
黒い肌が、真新しい白に変わる。繋がれ。
あたいの歴史は水筒より浅い。胸を張って語れる武勇伝はない。お喋りが好きで、歌が好きで、言葉遊びが好きな一介の死神だ。まだ何もない。これから増やす。そこには糸姫様もいて欲しい。
「あたいは、貴方と向き合いたい」
包帯の端が曇った。純白の糸と布が、始点から墨に染まる。漆黒の蛇が渦を巻いて、あたいの手元に迫った。
『お節介焼きの、愚か者』
頭を殴られたような衝撃が、内から湧いてきた。喉が固まって働かない。手足も動かない。自力ではどうにもできない。
声と動作を封じられ、世界を映す。
あたいは、糸姫様になっていた。
映す。世の中が低い。幼子になったみたいだ。瞳を通じて、村のざわめきが聴こえてくる。藁葺き屋根の家、雑草摘みの農夫、機織りの女性達。枝垂れ桜が傘になって、初夏の光を遮っている。
粗末な着物の少女が、ほつれた糸を取ってあたいに結んだ。握っていた麦水飴の棒を見て、迷っている。あげようか、食べようか。気合を込めて差し出した。
「いとひめさま、いとひめさま。おとうとがほしいです。いもうとは、『くちべらし』されちゃうかもしれないから」
精一杯、努力しましょう。どんな生でも、祝福されて欲しいけれど。あたいは祈りを受け入れた。
仲夏、女の子は赤ん坊を抱いてきた。おとうとだった、いとひめさまありがとう。笑えるなら笑いたかった。
映す。獣皮の狩り装束の男達が、順に白布を巻いた。秋の夜長の、狩猟旅。松明が眩しい。弓の調子を確かめている。
「糸姫様、狩りの成功を」
「今度こそ頼むぞ。稲も粟も今年は散々だ」
「本当に効くのか? 妖怪に食われるんじゃ」
「こうすればいい」
倒された。上手く行ったら、起こしてやるよ。藁編み靴の足が、村を出て行った。
あたいは腹立たしかった。糸姫様は、努力しますと喜んで応えた。集落の皆を我が子のように大事にしていた。信仰の力を使っても、農作物を育てられなかったことを悔いていた。収穫がありますように。願いの気を授けた。
数刻後に、あたいは立ち上がった。棒に鹿を括りつけて、男衆が帰ってきた。さっきは悪かったと、謝られた。妖の跋扈する夜中だというのに、宴会が始まった。お酒やお茶はない。湖の水と踊りで酔った。
映す。人食いの妖怪が、天空から襲い掛かった。あたいは村の寄合所に連れて行かれた。村人が立て籠もって、熱心に祈りを捧げた。お助けください。私達に、妖怪退治の武器はありません。戦士を雇うお金もない。貴方だけが頼りです。糸と布で飾られた。
白い身体が熱くなった。祈願で、力が高まっていく。あたいは両眼で妖を射た。気圧されて、翼の怪物は去っていった。
あたいの目には、幻想郷の端まで映った。
幸せも感動も、苦悩も罪も映した。
人間は貧しく、日々苦しんでいた。妖怪は独自の文明を展開していた。
幻想郷全体は、自然に囲まれ輝いていた。
あたいは願う者を守りたかった。可能ならば、彼の岸の先まで。
集落の終わりを、映す。赤斑点の疫病が、水溜りのように広がった。倒れ、看病し、倒れる。死は連鎖した。寒気と食糧不足も打撃となった。
働き手を失い、母親を喪い、村は荒れた。他の村に移住する案は出た。他所の村々は、関所を設けて入村を禁じた。
「糸姫様、助けてください」
「薬も買えません」
「おとうとがしんじゃう」
遅れた文明の民は、最後に神に縋る。あたいはかつてないほどの信仰を集めていた。それでも、病魔を村から完全に退散させる域には至れなかった。病の進行を最大限抑えて、自然治癒を待った。
首を絞めるように、白い糸が絡められた。
長引く苦しみは、死を魅力的に見せる。老婆が夫を絞殺しかけた。絞め殺す力もないのなら、縄を作ればいい。村中で、自死の準備が始まった。
『やめなさい。自殺すれば輪廻を外れます。二度と土を踏めなくなりますよ』
「今楽になれればいい」
『死後の生活を善くしようとは、考えられないのですか』
「この世もあの世も地獄だろう」
地獄にも行けない。
心理の書き換え、動作の束縛。複雑な策は持続しなかった。
あたいには、集落の狂乱を止める方法がわからなかった。糸姫様は、凛と決意した。
『では、私が殺しましょう』
一瞬で村人全員の命を奪うほどの、力はなかった。糸姫様は、村全体を眠らせることにした。白布のような霧が、集落一帯に被さった。縄を用意していた未亡人が、老夫婦が、男達が、弟と姉娘が眠りに落ちた。決して目覚めることのない睡眠だ。直に栄養が尽きるか、雪に家ごと潰されるかして死ぬ。骸は獣や妖怪の餌になる。魂は、川を渡る。
ひとりまたひとりと、安らかに命の灯を消した。
村には糸姫様のみが残された。信仰心と共に。
他に手段はなかった。どの子も、楽に逝けた。
ただ、間接的にでも、糸姫様は村人を皆殺しにした。信者を救い切れなかった。
人殺しの地蔵。
己の為したことを罪悪と認識したとき、白い糸と布は黒く澱んでいった。
豪雪に押されて、横に転んだ。
力尽きるまで、愛し子の土地を見守ろう。償いには、ならないかもしれないけれど。
糸姫様は、映し続ける。四季の巡る幻想郷で、死の不変を貫く村落を。現し世の隠り世を。
お地蔵様の夢が明けた。肉体の感覚が蘇った。寒さに歯が鳴った。
「今見たものは、本当にあったことですか」
『事実です。知らない方が、良かったでしょう。あまりにもうるさいので、意地悪をしました』
あたいの善悪の基準は、曖昧だ。閻魔王様の裁定を仰ぎたかった。
自殺も殺人も、大罪で。糸姫様は罪を防ぐために、罪を犯した。彼女は是か、否か。あたいには、裁けない。
『白黒つけるなら、私はこの通り黒です。殺し過ぎた。閻魔には、他の者を据えなさい』
咎は清算できる。きちんと生きて死ねば。糸姫様は、村を守護していなくなる気だ。生きる努力をせずに。許されることではないが、彼女なりの罪滅ぼしであり、義務だ。
あたいに、何ができる。
糸姫様が、心で息を荒げた。肩らしき部位を支えた。
「大丈夫ですか」
『疲れました。悪いことはするものではありませんね』
「あたいが頼んだんです、すみません」
眠りたいと、糸姫様は望んだ。風を凌げる雪穴に立たせた。
迷える今のあたいにできるのは、
「閻魔様の話は、置いておいて。あたいは、貴方になれて良かったと思っています。見せてくれて、ありがとうございました」
正直に感想を告げることだ。
糸姫様の身になって、初めて抱えてきたものがわかった。神仏の愛情や、優しさも。
『眠ります。当分起きません。お喋りにも来ないでください』
「無視できない性質なんですけどね。頑張ります」
あたいのわがままで消耗した力の、回復期間だ。あたいの考える時間でもある。しっかり解きほぐして、自分なりに受け止めよう。
現し世に、参りて長くなりにけり。彼女に相応しい、続きの詩句を。
山奥の雪解けは遅い。冷気は上と下から迫って、身体を麻痺させる。
霊を待ち、舟を操り、残雪の如月と弥生を過ごした。
傘を持っていけば良かったなと、後悔した。同じ白い糸でも、襟巻きにするとか。糸姫様になって、痛みや温度は感じないとわかった。けれども雪は精神にも降る。
彼岸に新顔の裁判官がお目見えした。閻魔王様風の堅苦しい帽子と紺黒の法服に着られて、花の国を歩いていた。短期で修行を完了した、優秀なお地蔵様だそうだ。これから霊は次第に減っていくだろう。
幻想郷の人妖の裁判は、仕方なく閻魔王様が担当されている。適任のお地蔵様が、どこかにいないものか。糸姫様は保留だ。あの方は閻魔様に最も近い。罰にも、最も近い。法廷を通り越して獄舎に行かされるかもしれない。現状のまま死ねば、どこにも行けない。どうすれば、あの方を解放できるのだろう。半人前の死神には、荷が重い。思考は螺旋を描いた。
急に死者が増えたと、別地区の死神が補助要請を出した。余裕のあったあたいは、手助けに向かった。大規模な雪崩があったらしい。老若男女、様々な霊を乗せた。状況をわかっていない幽霊がいた。避難所に逃げる途中で死んだ霊もいた。ある幽霊は、神様を憎んでいた。助けてくれると信じていたのに、と。渡り切るまで長かった。糸姫様の村の民も、彼岸で恨んでいるのだろうか。
大仕事を終えて、死神集団で軽く酒盛りをした。忙しいときには遠慮なく言えと、先輩に肩を叩かれた。
重荷は、皆で。何か見えたように思えた。
卯月の初め、人里の商家の令嬢が亡くなった。風邪をこじらせて、あっけなく息を引き取ったそうだ。舟の上で対価を求めた。娘の霊体は、銅貨を一枚舟縁に載せた。出し惜しみはしていなかった。長い舟旅になる。彼女のために本当にお金を遣ってくれた人は、僅かだったのだろう。私は望む子じゃなかったから。男の子が欲しかったんだって。跡継ぎの。娘の陰る心を、励ました。
「でも誰かはあんたを大切にしてたんだ。考えてみ、そいつのこと」
うん。ばあやかな。腰も背中も曲がってたけど、私をいつも負ぶってくれた。お嬢様は将来お綺麗になりますって、何度も言ってた。見せたかったな、十年後。
「そうそう。明るくのんびり行こう。楽しいことを思い浮かべて」
家族もね、看取ってくれた。言葉はくれたよ。死なないでって。嘘かもしれないけど、嬉しかった。できるだけ頑張ってみようって思った。
「幸せ者じゃないか。言葉にはちゃーんと力が籠もってるんだ。集まれば願いにもなる。あたいは財力だけで判断しないよ。あっちに送ってやるからね、大船に乗ったつもりで」
死神さんって、もっと怖いひとだと思ってた。
「おっかない死神もいるよ。あたいは駆け出しのひよっこだからね。お地蔵様の気持ちも、動かせやしない」
動かせるよ。死神さんなら。私、元気出たよ。
「お、そりゃ良かった。やー、硬い堅いお方でね。死にかけの死にたがりなんだ。自分を悪い奴だと思ってる。いい悪いは、あたいにも良くわからない。閻魔王様の領分だ」
死神さんは、どうしたいの。お地蔵様は、悪いの?
「あたいは、そうだね、うん。悪くないと思いたい。いい方なんだよ。しょい込んで頑張り過ぎた。どんな面も認めて、手を差し伸べたい。生きて欲しいんだ」
言ってみて、ああそうかと笑顔になった。答えは、出ていたじゃないか。
娘の霊は、円を描いた。届くよ、頑張って。
無事に彼岸にやって、あたいは対岸に舟を急がせた。距離を短くし、時を縮める。
目を細めた。此岸の雰囲気が普段と違っていた。
「はて」
一周して、彼岸に帰ってきたのかと思った。
霊が浮遊している。十や百ではきかない数だ。この地の総人口を優に超えている。
四季の花が、等しく咲き乱れている。春に咲かないだろう、紫陽花や女郎花も。妖精が花弁を舞わせている。
幻想郷が、開花した。
こんな異常事態は、見たことがない。引継ぎの際、前任の死神は何も言っていなかった。初めてのことなのだろうか。外も、似たような異変に見舞われているのだろうか。
焦って、霊のひしめく幻想郷の各所を探った。
向日葵畑は日向の色に開いていた。南中する太陽を、一斉に見上げている。統制の取れた地獄の番人のようだった。妖怪が寛いでいたので、何事か訊いた。あの年よ、貴方はたっぷり仕事しなさい。回りくどく言われた。
死者のための道、再思の道は彼岸花三昧。あたいの髪と同化する赤が、線香花火のように広がっていた。
無縁塚には紫の桜。罪の象徴、罪深い人間の霊が宿ると、糸姫様から教わった。
どこの花からも幽霊の気を感じた。縫い物の綿のように、内に座している。
糸姫様なら、正確に原因を把握しているのではないだろうか。はぐらかすことなく、解説してくれる。眠っていても、もともと起こすつもりだった。滅亡の集落に、あたいは飛んだ。
糸姫様の枝垂れ桜は、無縁塚の桜と同色。罪過の紫に沈んでいた。人霊と、糸姫様の罪悪感がそうさせているのだろう。
『話していませんでしたね。この世の暦は自然の三系統……三精、四季、五行の組み合わせから成り、六十年で一巡します。今年は日、春、土の年。幻想郷の生まれ変わり、再生の年なのです』
「生まれ変わり」
『この年、外の世界で大量に発生した幽霊が幻想郷にも出現します。理由はわかりません。大戦か、災害か。これらの霊は死んだことに気づかず、体を求めて自分に合った花に憑依します。四季の花が咲いたのは、そのためです。貴方が霊を運べば、元通りになります』
「あたいの働きどころですね」
『前任者はゆっくり対処していましたよ。激しい害はありませんから』
新人のあたいが、怠ける訳にはいかないだろう。閻魔王様の多忙さはわかるが、霊を放置するのはいけない。悪霊化したり、妖怪に斬られたりしたらどうする。転生できなくなる。
「あたい、この一年くらいで色んな霊を見てきました。あいつらに、次の未来を与える手伝いをしたいなって思います」
『真面目な心がけですね』
「そして、糸姫様にも」
未来を歩ませたい。今年は、許しの年だ。
「糸、忘れちゃいましたけど。力を貸してください。仲間の死神にも、応援を頼みます」
ひざまずいて、祈った。
わかりました。返答と一緒に、鎌に鈍い黒光がかかった。
『幾らか霊を集めやすくなるでしょう』
「ありがとうございます。頼んでおいて何ですけど、体力使い過ぎないでくださいね。話したいこと、ありますから。一段落したら、会いに来ます」
村を去る私に、糸姫様は言葉をかけてくれた。
『無人の村で、幻想郷を眺めて過ごして。私は時に閉じ込められていました。自分が何者で、何をしたのか、忘れたいと念じる日もあった』
糸姫様の加護は見事だった。花に寄り添う霊が、磁石のように吸いついた。お金を持っていそうな幽霊から、先に彼岸に送った。無限の幅を有限に。無風の川に、澪の筋を。幻想郷の死神になってからの約一年間で、最大の働きをした。鎌を繰る一定の動きで、腕は固定され肩が痛んだ。
『そこに、貴方が現れました。会話と教えを乞われて、拝まれて。私は地蔵の己を思い出しました。貴方の来訪は、密かな楽しみになりました。お喋りも、懐かしかった』
補助要請を受けて、先輩が何人も来てくれた。死神の目も先導力も、あたいとは段違い。次はこっち、終わったらそこ三体。的確な指示が飛んだ。
続々と上陸する無縁の幽霊に、彼岸の先住霊達が騒ぎ出した。暦云々を説いて聞かせる暇はなかった。
あたいの鎌を見て、驚愕する霊がいた。
『怒りから、過去の醜態を見せました。すまないことをしました。でも、貴方は怒らなかった。もう来ないかもしれないと思ったのに、今日また来てくれた。嬉しかったです。生の終末期には、過ぎた幸せでした。貴方は良い死神になるでしょう。貴方の舟に乗る霊は、幸せ者です』
何十往復しただろう。彼岸側にいるのか、此岸側にいるのか、区別がつかなくなってきた。乗客の有無で見分ける。
白小菊の彼岸に、霊が集結していた。集団を束ねるのは、あたいの知る霊魂。昨冬に他界した大天狗の霊と、今春病死した少女の霊だった。
『その鎌、糸姫地蔵の磨いたものだろう。あの村の連中が出てきた。お前さんに頼みたいことがあるそうだ』
大天狗が、長鼻を突き上げるように霊の尾を伸ばした。
お地蔵様に伝えて、してあげたいことがあるんだって。少女の霊が、村人達を紹介するように横に引いた。
百はいるだろうか。糸姫様が殺し、来世を授けた霊達。裁判が遅れていて良かった。連れてきてくれて、助かった。
「いいよ、言ってごらん。あたいに任せて」
霊花の波が、弱まっていく。花が残らず散ったとき、幻想郷は蘇生する。
生まれ変わり、やり直す。
月もまっさら、新月だ。
幽霊の第一陣を渡航させて、あたいは夜の廃村に帰還した。
紫の桜片を載せた糸姫様に、鎌のお礼をした。糸姫様は疲労しているようだった。この方、別人になっても仕事一筋に生きそうだ。体力を使い過ぎるなとお願いしたのに。
「彼岸で、この村の人達に会いました。言葉や心や、望みを託されました。叶えてもいいですか」
『どのような恨み言ですか』
あたいは屈んで、糸姫様の黒い糸に手をかけた。誰かのかけた願いの結び目を、爪で掻いた。何重にも結わいてあって、解きにくい。鎌で切ってはいけない。解かなければ。
『死ねということですか。告げたはずです、糸の一筋一筋は私の命脈』
「恨み言は、誰一人口にしていませんでした。逆です。貴方にありがとうと伝えて欲しいと、依頼されました。それから、貴方の糸を余さず解いて、自由にしてやって欲しいと」
『意味がわかりません』
最初の一本が、解けた。糸姫様の身に、目立った損害はない。苦痛の叫びもない。続けられそうだ。
「自殺者の行く末を、彼らも彼岸で知ったのです。自分達も、悲惨な末路を辿ったかもしれないと。それを阻止してくれた糸姫様に、多大な感謝を寄せていました。貴方は村を救ったんです」
四方八方から霊にまとわりつかれて、言の葉を委ねられた。ありがとう、ごめんなさい、ありがとう。死者からも慕われる、立派なお地蔵様だ。罪は、清められる。
『何故、糸を解くのですか。信仰の絆を失えば、私は消滅します。自由にはなりません』
「消えないと思います。あたいもずっと、糸が力の源かと考えてたんですけど。糸なしで、あたいの鎌を強化してのけたでしょう」
『古の信仰心を費やしました』
違うのではないだろうか。糸姫様は、罪悪の黒糸を存在理由にして、依存している。力のありかを、わかっていない。
二本、三本。命脈を外してなお、糸姫様はあたいとの意識の連結を保っていた。
「賭けをしましょうか、糸姫様。解いて死ぬか、生きるか。あたいはもちろん生きる方に賭けます。貴方は生まれ変わって、新たな一歩を踏む。勝ったらそうですね、名前をつけさせてください。自由になった貴方の、新しい名前」
『死んだら? 私は村を見守りたいのです。これ以上の勝手は、力尽くで止めますよ』
「それは貴方の守ってきた、村人の願いに反します。彼らも、あなたが生きる側に賭けるでしょう。万一死んだら、あたいが責任を持って彼岸に送ります。あたいが殺したことになるので、自殺は免れますよ」
卑怯です。糸姫様は想念で唸った。自尽を回避させるために、自ら手にかける。糸姫様だってやったことではないか。
村人の願望を持ち出したのが、効いたのかもしれない。糸姫様は力尽くで止めに入らなかった。眠りにもつかなかった。真っ黒い布帯を巻き取った。痩せ細った端切れも抜いた。石の肌が見えてきた。
「できればね、糸姫様。生きて、閻魔様になって欲しいんです」
『何故、私なのですか。不向きな点を見せてきたでしょう』
「幾千幾万の罪を見、罪を犯した。不変の地の在り方を知っている。貴方ほど、善悪と彼岸に通じる方はいませんよ」
糸姫様になったとき、あたいは幻想郷を俯瞰した。罪を映し、罪ある地蔵となった。糸姫様の言動の重みや、閻魔王様のような心性は、見てきたものと行為、無の時間が形作ったのだろう。
お地蔵様の顔が現れた。目鼻立ちの整った、女性的な顔をしている。糸姫様と呼ばれた所以か。微笑んではいなかった。真っ直ぐ前を見据えていた。
黒い戒めを解いて、紫の花びらを摘み取った。
「貴方は人を救ってきました。裁きも、救いだとは考えられませんか」
『地獄に落とすことも、将来の善き生に至る道だと?』
「はい。幻想郷の霊達が、貴方の裁決を待っています。初めは戸惑うこともあるでしょう。難しいときはあたいが支えます。仲間も助けてくれますよ。貴方はもう、独りのお地蔵様じゃなくていい」
糸姫様の周りに、黒い糸布の山ができた。
これが、最後。
「あたいは、貴方にもう一度生きて欲しい」
首の糸玉を、解いて引っ張った。
――わたしとあなたが、しあわせになれますように。
幼い高い声を聞いた。彼女にかけられた、始まりのお祈り。
糸姫様のことだから、「わたし」の幸せのみ叶えたのだろう。今度は、「あなた」の番。
灰雲色の石像が、あたいの頭上に浮かんだ。全身が白く光り始めた。季節外れの蛍のように弱く、狩りの松明のように明るく、月なき夜の月のように強く。
発光体が幻像のように歪み、うねった。
消えないで、残って。両手を組み重ねていた。
長年彼女に寄り添った紫の枝垂れ桜が、合わせて輝いた。根元から幹、枝先、罪色の花弁のひとひらへ。
割れるように、五弁の花が随所で散った。表に裏に、瞬きひらめく花びらの色は、透けるような白。後悔の紫は、浄化されて抜け落ちた。灯る雨は平等に降り注ぐ。糸と布、鎌、春の土、あたいの上に。
彼女に絡みついていた黒い糸も、新雪の純白に煌めいた。
不浄の色彩の塗り替えられる空間で、あたいの赤髪は存在感を持った。姿を人に変え行く、彼女の髪も。
幻想郷の全景を眺めて、吐息交じりに思ったことがある。この地を真に見守る者は、きっと緑を持っていると。彼女のように。深い森林と木々を映す、翠緑の髪が瞑目した顔にかかった。
顔立ちは糸姫地蔵様の面影を残している。瞳や口元、個々の部分が精巧で柔らかい。全体では、凛々しさや厳しさも感じさせる。頬が仄かに色付いて、生を主張していた。
光の身体が編まれる。細身の輪郭、丸い肩、娘のなだらかな曲線、硝子細工のような四肢を白肌色の刷毛が彩り進んだ。
睫毛が微かに上下する。開け方がわからないのだろうか。皺になるほど瞑って、ばねのように開いた。閻魔様の法服のような、律する青があたいを映していた。
生まれたての無垢な身体が、桜花より遅く降りてくる。両膝をついてくずおれ、白花の絨緞に倒れた。あたいは一歩分寄ってみた。この方の気は、こちら側には属していない。彼岸にいるかのようだ。こんな汚れた手で、触れていいものか。
彼女は両手を握って開いて、指先の動きを確かめた。掌を花の大地につけて、半身を起こした。私を視界に収めて、手を出した。握って欲しいと言わんばかりに。汚くなって、崩れませんように。念じて、右手で握った。血の通った、温かいひとの手だった。
「声、出せますか。ここ、震わせてください」
喉を指差した。彼女は息を吸っては吐き、やがて音を混じらせた。
「あなた、は」
声は澄んで、透き通っていた。不純物がない。でも、植物や魚の棲めそうな暖気も纏っていた。
「貴方は、お喋りが過ぎる。言い訳が酷い」
「すみません」
記念すべき第一声で、叱られるとは。赤髪を垂らして苦笑して、
「真っ先に裁くべきは、貴方でしょうね」
「え、じゃあ」
意志の強い瞳と、向き合った。
白光の花雨を浴びて、彼女は不器用に笑った。口元があたいを真似て、波打っている。
「今一度、生きましょう。閻魔として。無数の心が私をつくる中で、そうしようと決めました。私を彼岸に行かせてください、小町」
喜んで。彼女が自分で、決断してくれた。無数の心の内に、あたいの言葉や霊の謝意も入っていたのかもしれない。言っても認めないだろうけれど。
彼女は間違いなく、このみどりのくにの閻魔様になる。永久に、厳格に。
手を引いて立たせた。着物の上っ張りを脱いで、羽織らせた。早く法服を着せてみたい。頷いて、ふらついた。彼女に寄りかかった。頭の血が足りていない気がする。働き通しで、眠っていない。
「休むことを覚えてはいかがですか。私が上司になったらの話ですが」
「あたい、一遍だらけると際限なしになりますよ」
浄化と変身の雨が、収まっていく。薄闇の下でも、彼女は光って見えた。
「それと」
「はい」
「賭けに負けました。新しい名前をつけてください。賭博ができるのは、今の内でしょう」
閻魔様になって生きる、彼女の名。
遣いたい字や響きが沢山あった。彼女と過ごした時や、彼女らしい面を思い返して、固めた。
姓は、四季。彼岸と此岸の春夏秋冬。あたいと彼女が生きた一年分。糸姫様の、音読み。
名前は、
「えいき」
「どんな字ですか」
現し世に、参りて長くなりにけり。糸は解かれた、
「映し世の、姫」
あたいの上司、幻想郷の閻魔様は、職務怠慢に厳しい。悔悟の棒で殴られた後頭部が、喚いている。
「霊が来なかったのはわかったわ。せめて川辺にいたらどうなの。持ち場を放って優雅に花見、そんな部下にした覚えはないわ」
「四季様、休むことを覚えろって言いましたよね。あたいは忠実に実行してるんですけど。上見て、横見てください。春、晴天、桜、満開、お酒、屋台。これで遊ばないで何しろって言うんですか」
「貴方は言い訳をつきすぎる」
また一撃やられた。
命蓮寺の界隈は、花見客と出店で賑わっている。寺の面々も、読経会や弾幕大会で客を呼び込んでいる。焼き鳥や米菓子の美味しそうな匂いもやってくる。四季様流に言えば、ここには少し誘惑が多過ぎる。
日課のお説教はやめて、はしゃげばいいのに。
「休暇も大事ですよ、どうです軽く一杯。四季様?」
隣にいるはずの四季様が、いなかった。足を止めて、何かを見ている。後ろ歩きで戻って、確かめた。
桜樹の間で、お地蔵様が合掌していた。
彼、あるいは彼女も、彼岸の民となるのかもしれない。
糸姫地蔵は今は昔。四季様は生まれ変わり、裁いて救う。過去を振り返る日も、あるけれど。
「四季様、あれ食べませんか」
袖を引っ張って、一軒の屋台を指し示した。人間の職人が、棒つきの果実に水飴を塗りつけている。完成品が、氷の直方体を抉った器に載っていた。
「たまには、こういう日もありでしょう?」
四季様はこめかみの辺りを指先で突いて、まあ、たまにならと応じてくれた。
「すももと蜜柑とどっちにします」
「蜜柑」
「了解しました」
赤と橙。冷えた飴菓子を二本受け取って、片方を四季様に渡した。
現し世は隠り世に、隠り世は現し世に。過ぎ去っては帰ってくる。
果物の小片に、たっぷりの水飴。映姫様は、透明な飴に桜の幻想郷を映していた。
映し世の姫。名前というものはとても深く、大事なのだと感じました。
次回作も楽しみに待っております。
ナイスなこまえーき。
タイトル、文章ともにうまいなぁとため息が出ました。
「映る」という字にいろんな意味がこもってますね。
長い間幻想郷を見てきた瞳にこれからも綺麗な緑や色鮮やかな景色が映るといいですね。
型抜きは小さい頃よくやったけど、難しいですよねw
書くネタがもっと泥臭い題材でもいいかもしれない。
文章も、ストーリーも
素晴らしい話を読ませていただき、ありがとうございました。
だから、どんな浄化された理屈の世界より清いのでしょうか
ひとかけらのカタルシスを
どんな言葉で応えればいいのかなと、緊張しています。浮いたことを書いていたら、すみません。
>名前というものはとても深く、大事なのだと感じました
名前や言葉のイメージや、深部を考えるのが好きです。どんな語を置くかで、世の中は色を変えるのではないでしょうか。
>タイトル
気に入っていただけたのなら嬉しいです。映姫の名を見ていて、ふっと思い浮かびました。
>書くネタがもっと泥臭い題材でもいいかもしれない
ご指摘ありがとうございます。自分では、少し恥ずかしいお話になったなぁと感じていました。お言葉を受けて、唸りました。もっと泥臭く。ひとりで考えても、惑うばかりです。
>小町が先、ってのは考えたことなかったな
意外と違和感がないかもしれないと思って、書いてみました。しっくり来たと伺って、安心しました。
>美しい
ありがとうございます。きっと、皆様の感じ方が優しいのだと思います。
既に書かれていましたが、こんな素晴らしい作品があるから創想話はやめられない。
最後に作者様に、感動をありがとうございました。
映姫が映し世の姫君とか綺麗なこと言って!……うまい!
小町の歌が完成してよかった。素敵なお話でした。
とても素敵なお話でした!
美しい話でした
私にはそれ以外の言葉が見つからないです。
作者は有罪じゃきに……って深山咲さんじゃねーですかごめんなさいッ
小町が映姫様をスカウトしたんですか。流石は小町、見る目があるなb
素晴らしい。言葉はない。
ありがとうございました。
ストーリーに乗せるとなると尚更。
美しいお話をありがとうございます
欠けた箇所もない珠のような話でした。
いつもあなたのきれいな作品を楽しみにしています、
素敵なものを読ませていただき感謝です。
率直にうまいなぁ、と。
自然の美しさを思い起こさせるお話でした。
実に良かったです。作者に感謝を。
何というか、話の流れが綺麗。オリジナリティの溢れる話なのに、安定して揺らぎの無いストーリー。偏に、世界観の膨らませ方や掘り下げ方が上手いからでしょうか。
この二人の在り方は素敵。
えいきっき可愛いよ
小町の口ずさむ詩も上手く添えられてて良いアクセントになっていました。
罪を知るからこそ、罪を裁ける。