0
「お前なんて大っ嫌いだ!!」
虎よ、虎よ!
3
「ご主人、ご主人!」
声が、聞こえる。
「机で寝るのはやめてくれ。今まで体を壊さなかったのが不思議なくらいだ」
お寺の中に凛と響き渡る、鈴を転がしたような声。
「さあ、いい加減起きるか、きちんと床に就くかするんだ。ご主人」
今しがた見ていた夢に別れを告げ、促されるままに目を覚ました。
無理な姿勢で眠っていたことが祟って、あちこちが痛む。
「く……ぁ……」
上体を起こして大きく伸びをした。
思わず欠伸がもれる。だらしないと非難の声。
「おはよう、ご主人。と言ってももう昼に近いが」
果たしてそこには呆れ顔の従者がいた。
「ご主人?」
「……あの子の……」
「え?」
「あの子の様子はどうでした?」
「あ、ああ。相変わらずだよ、地底のお屋敷にこもりきりだ」
「そうですか」
急な質問に面食らう彼女、ナズーリン。
困惑するのも当然である。つい先程まで『あの子』の夢を見ていた私とは違うのだ。
どうにも頭が冴えていない。思考を整理するために一息つく。
今は―――正午前。私はお堂で寝ていて、ナズーリンは私からの頼まれごとの帰り、か。
ようやく意識が覚醒してきたところで、遅ればせながら、勤めを果たした彼女に挨拶を返す。
「おはようございます、ナズーリン」
「ああ、おはよう」
「……それから、すまないと思っています。貴方の役目は『私を』監視することだというのに」
「まったくだ。こんなこと越権行為もいいところさ」
座っている私と比べても、そう大差ない背丈の彼女は、これで非常に有能な妖怪ネズミである。
よく通る声や、きびきびとした口調から、彼女の辣腕ぶりをうかがい知ることができる。
生真面目というわけではなく、機転も利くため、上役からも一目置かれているようだ。
ここで厳密に言うと、この妖怪ネズミは私の部下ではない。
毘沙門天に命じられ、その弟子を名乗る私を監視しているに過ぎない。
それでもご主人と慕ってくれる彼女を私は信頼していたし、尊敬していた。
「この際だから言わせてもらうけどね、あなたは少し自己を省みるべきだ」
説教癖のあるところが玉に瑕ではある。
「この前だって留守中寺を荒らされたと言っていたばかりじゃないか」
「この寺に盗まれて困るものなどありませんから」
「馬鹿を言え! その槍、その羽衣、毘沙門天様からお借りしている物だということを、よもや忘れたわけではあるまいな?」
「……ナズーリン、顔が怖いです」
「……はぁ。もういい」
「ご主人」
瞬間。
「あなたが近ごろ何事か魔界に出入りしていることは知っている」
張り詰めた空気が流れる。
「あまり派手に動いてくれるなよ? こちらとて立場というものがあるんだ」
これ以上は看過できない。切れ長の赤い瞳が言葉にせずともそう物語っていた。
今の彼女は監視者としての彼女。
―――敵わないな、本当に。
「感謝します」
聡明で勤勉、この賢将に隠し事はできない。
1
昔々。
人々がまだ神を信じ、妖を恐れ、呪を用いた時代。
そんな時代にありながら、妖怪を助ける人間の僧侶がいた。
名を聖白蓮という。
彼女は早くに弟を亡くし、そのことでひどく心を痛めた。
悲しみにくれ、自らの死を恐れるようになる。
その後、妖術の力で老いを克服した彼女は、次第に妖怪へと接近していった。
彼女の若返りを可能にした妖術は、妖怪と同じく不安定なものであったのだ。
妖術と妖怪は、顕現のしかたこそ違えど、その根源を等しくするものであり、
人間が抱く欲望や恐れが形を為した結果であると彼女は考えた。
さらには、意識を持った妖術こそが妖怪であると。
人間の強く想う心が妖術として具現化し、妖術にやがて自我が芽生えて妖怪となる。
そのようにして現れた妖怪に人間は恐怖し、これに打ち勝つがための力を希求する。
ここに奇妙な円環構造が完成するのである。
妖怪がいなくなるということ、すなわち妖怪を恐れる人間がいなくなるということは、
妖術を信奉するこの僧侶にとって望ましいことではなかった。
ならば妖怪を幇助すればよい、聖白蓮は考えた。
呪はこの身に宿した、人が恐れるべき妖もいる、必要なのは信ずべき神だ。
◇
昔々。
妖怪の多く住む山があった。人の滅多に立ち入らない、妖力うず巻く山があった。
麓の人間はこの山を某と呼んで有り難がったが、私にとってはただの山であり、家であった。
その山の一角に、一人の人間が寺を建てたという。参拝客など、いても妖怪くらいだろうに。
中には獰猛な妖怪もいたから、襲われでもしたらひとたまりもない。
そうでなくとも、ひっそりと人知れず朽ちていくのは目に見えている。
そう、思っていた。
ある日、人間の女が私のもとに訪れた。訊けば件の寺の僧侶だという。
私の姿を見てもおびえず、ひるまず、旧い友人に会ったかのような親しさで語りかけた。
「こんにちは。実はあなたにお願いがあるの」
なんでも彼女は毘沙門天を信仰しているのだが、寺の周りの妖怪が、かの仏を恐れてしまっているのだそうだ。
彼女としては、山の妖怪たちを退治する意図はなく、これが果報をもたらすための標となることを望んでいる。
事態を打開すべく、私に力を貸して欲しいという。
なんとも眉唾な話である。
けれど私は彼女の言うとおりにした。
丁度生きるのに退屈していたところだ。戯れに人間の言葉に従うのもよかろう。
もしもの時は、この女の首を噛み切って殺してしまえばいい。それで終わりだ。
◇
昔々。
毘沙門天を信仰する僧侶と、毘沙門天の弟子である妖怪がいる寺があった。
僧侶の人徳と、妖怪の能力により、多くのものたちがこの寺に足を運んだ。
その大半は、やはり妖怪であったのだけれど。
僧侶との邂逅を果たしたあの日、私は妖怪であることをやめた。
妖怪であることを隠して、毘沙門天の弟子を自称するようになった。
さも自らが神仏であるかのように振舞った。
それが彼女の用意した『解決策』であった。
「吾は毘沙門天が弟子」
「恐れるより畏れよ。さすれば功徳をもってあなた方をお救いしよう」
噂を聞きつけやって来た入道があった。人間に害され逃げ込んだ鵺があった。
恩義に報いるため、舟幽霊が舟ごと赴いたときは流石に肝を潰した。
本物の毘沙門天より遣わされた使者があった。
私はこの生活が気に入っていた。
僧侶のことを好ましいとさえ思うようになっていた。
たとえ騙されていたのだとしても、後悔などは毫もない。
集まる妖怪たちも、それぞれがみな彼女を愛していた。
家族が、できたような気がした。
そして彼女はだんだんと、寺を私に預けて出かけるようになる。
おそらくこの山以外の場所でも、妖怪たちを助けていたものと私は考える。
しかし、たまにふらっと帰ってきては、私たちの力となってくれた。
こんな日々がいつまでも続いていくと思っていた矢先、
彼女は突然、私たちの前から姿を消すことになる。
いや、
聖白蓮は世界から姿を消してしまった。
彼女を恐れた、人間たちの手によって。
◇
昔々。
そう。
全てはもう、終わってしまったお話。
5
山と寺を旧友たちに任せ、私は地底へと降り立っていた。一つの決意を胸に秘めて。
あらかじめ場所を聞いていたこともあり、尋ね人は直ぐに見つかった。
「久しいですね、ムラサ」
「星? 星なの!?」
寅丸星。私の名前。
今も変わらず下の名で呼んでくれる友人との再開をしばし噛み締める。
村紗水蜜。今はもういない聖を愛した舟幽霊。
短く癖のある黒髪と、健康的なセーラー服姿が他人の目を惹きつける少女。
幽霊に健康的というのは、いささか言語矛盾な気がしないでもないが。
聖が姿を消したのと時を同じくして、彼女は人間たちに地底へと封印されていた。
いまだ本調子ではないために先般の地上行きを見送ったという彼女だったが、
私にはどうしても彼女の協力が必要であった。
「私……気がついたらここにいて……」
「他の妖怪たちより報告は受けています」
「ねぇ、あれからどうなったの? 聖は……みんなは……?」
「……全てお話しましょう」
◇
時間にして小半刻、彼女は黙って私の話を聞いていた。
聖を想って時折涙を浮かべながら、人間の横暴に顔を険しくさせながら。
最後まで話し終わって、私は彼女に尋ねた。
「ムラサ。貴方に一つ訊きたいことがあります」
「なぁに?」
「貴方は、私を恨んでいますか?」
内にある恐怖を気取られないよう慎重に、出来る限り平静を装って。
「いいえ。どうして恨むことがあるの?」
―――即答か。
私は、またしても―――。
「…………ありがとう」
ふいに熱いものが頬を伝う。
涙はあの時に流し尽くしたものと思っていたのに。
「力を貸してください、ムラサ。みんなで聖に会いに行きましょう」
依然として私は泣き虫だった。
◇
聖がいる場所の見当はおおよそついていた。あとは救うのに要する質量の問題。
話はムラサが船長とも呼ばれる所以である聖輦船に及ぶ。
「貴方の聖輦船で地上に出ましょう」
「聖が、これで本当に聖が助かるのね?」
「ええ。そのためには飛倉が必要なんです」
「飛倉?」
「はい。ここに来るまでに一部を見つけました」
手にした飛倉の破片を見せる。
聖を復活させるためには、聖の弟である命蓮の力が必要である。
彼女の弟もまた僧侶であったのだ。
命蓮は、姉にもまして、僧侶としての実力と人々からの信頼とを兼ね備えていた。
しかし彼の命はとうに尽きており、今は飛倉にその力を残すのみとなった。
その飛倉も、これまで人間たちにより地底へ封印されていたのだが。
するとすぐ背後で物音がした。続けて息をのむ気配。
「誰っ!?」
ムラサが反応するも、そこには既に誰もいなかった。
「今のは……」
「ぬえ、でしょうね」
「気付いてたの!?」
「ええ」
教えてくれればよかったのにと不満げに頬を膨らませるムラサ。
けれどすぐに気を取り直し、喜び勇んで話す。
「事情を言えば協力してくれるかもしれない。あの子も聖のことは好きだったから」
「きっと無理でしょう。私はあの子に嫌われてしまっている」
「そんな……」
ムラサは明らかな落胆の色を隠せないでいた。心の中で彼女に謝る。
期待していなかったと言えば嘘になる。
しかし私は、ぬえの姿が見られただけでも満足するべきなのだ。
もう二度とあの子を危ない目には合わせてはならない。
「ムラサ」
お互い沈みかけていた気持ちに区切りをつけるべく声をかけた。
今は飛倉の破片を探さなければ。間欠泉で地上まで飛ばされているかもしれない。
「貴方は聖輦船を地上に出航させる手筈を整えてください。私はもう一度地底を探ってみます」
2
聖は自らが封印されようとしていることに気がついていた。
知りながらにして、逃げも隠れもしようとはしなかった。
人間たちが血生臭い手段をとるつもりがないと分かり、むしろ喜んでいるようにも思えた。
「だってそうでしょう? 誰も傷つかずに済むのだから」
「ほんのすこしばかり、あなたたちとお別れしなくてはならないけど」
聖を異界へと封じるための術者が麓の集落に集っている。
そのような知らせを受けて、私はただちに山を離れるよう聖へ進言した。
けれど彼女はこの場に残ることを頑として譲らない。
彼女は出会った妖怪の一人一人に思いを馳せるようにして言う。
「私はこれまで、自らのために妖怪を助けてきました」
「けれど旅を続けるうち、妖怪たちが今おかれている状況を知った」
「あるものは力を持たないがために、人間や同じ妖怪から虐げられている」
「あるものは本能に負けて、本人も望まぬ殺戮を繰り返している」
「あるものは人間を愛し、その身を滅ぼすこととなった」
「私は愛してしまったのです。あなたたち妖怪を」
「あなたたちを見て、心から思ったのです。力になりたいと」
「これは私の我侭です。また迷惑をかけてしまうことを赦して下さい」
「あなたたちを見捨て、ここから逃げるだなんてできるわけないわ」
それは私たちだって同じだ。愛しい貴方をみすみす失うだなんて耐えられるわけがない。
しばらくのあいだ身を隠してさえいればいい。そのことで私たちが不平を言うはずがない。
必死の説得もむなしく、彼女は首を横に振るだけだった。
「麓の人間たちだって、山に入って何の成果もなしには帰れない。他の妖怪たちに危害が及ぶかもしれないわ」
聖は悲しそうに笑った。
「あるいは人間たちも愚かではなくて、逃げる私を捕らえてしまうかもね」
聖は悪戯っぽく笑った。
ならば。
ならば私も貴方とともに異界へ参ろう。
私たち二人で始めたことだ、幕引きもともにあるのが筋ではないか。
そう言ってなおも食い下がる私に、聖は優しく諭すように言う。
「星。あなたまでいなくなったら、この山を誰が守るというの?」
「いつかきっと、妖怪と人間が手を取りあって暮らせる時代が来る」
「その時にまた会いましょう」
いつも聖は笑顔だった。
そして私は泣き虫だった。
◇
夜の帳が下りる。
山に足を踏み入れる人間たちは寺を目指して歩く。
招かれざる客に、息を潜める妖怪たち。
私は結局何もできず、事の成り行きを見守るだけ。
ただただ待ち続ける聖。
やがて音もなく寺が包囲される。
抵抗はしない。
術式が始まる。
そしてまさに聖が封印されようとするその時だった。
彼女と人間たちとの間に何者かが立ちふさがる。
「逃げてっ!!」
―――あれは、
「聖を封印するなんて許さない。ここから先は一歩も通さない」
封獣ぬえ。
彼女もまた、聖を慕う妖怪の一人である。途端におそれおののく人間の術者たち。
おそらく人間たちにはあの子が奇怪な合成獣に見えているはずだ。それがあの子の能力。
正体不明の種を用いて自分自身を虚飾し、さもおぞましい妖怪の姿へと相手に錯覚させる。
とかく人間というのは未知を恐れるものだ。無知を恥じて、英知を欲す。
果てのない知識欲が皮肉にも知識の無さを認める結果となり、彼らの未知は終わらない。
未知への恐怖は次第に形を持ち始め、彼らはここに化け物の影を見る。
正体を知らない人間にとって、鵺の存在はさぞかし恐ろしいものだろう。
なにせ目に映るその姿は、各々が恐怖に忠実であるのだから。
しかし、
「退きなさい」
裏を返せば、彼女の正体を知る者にとって、その能力は何の意味も持たないということになる。
私の前に立ちはだかるのは、聖を精一杯守ろうとする健気な妖怪の女の子だった。
私の姿を目にした人間たちは安堵の表情を浮かべる。
彼らに力を貸し、聖を封じると信じて疑わないのだろう。
いつの頃からか、人々の信仰の対象は山から私に変わっていた。
「お前は……」
突如現れた邪魔者に、驚くぬえの表情がみるみる憤怒の色に染まる。
「お前っ! こいつらの味方をするのか!? くだらん地位でも惜しくなったか!!」
語気を荒げるも彼女の声は不安に震えていた。
出来ることなら出てきたくはなかった。
封印される聖を目前にして平気でいられる自信がなかったから。
けれどぬえが、この子が追い詰められた人間たちに傷つけられることがあってはいけない。
聖ならきっとそうしたはずだ。近くて遠い最愛の僧侶を想う。
「なんで……なんでだよぉ……」
近づくにつれ弱々しくなるぬえの声。私を睨んでいた瞳はもはや固くつぶられてしまっている。
ごめんなさい。
あなたが目を覚ます頃には、全て終わっているはずだから。
そちら側にいることができるあなたが、私には少し羨ましい。
「お前なんて」
手を伸ばせば届く距離に来ていた。
私はこれから二つ、大切なものを失うのだ。
「お前なんて―――」
大っ嫌いだ。
4
窓から差し込む光を浴びて、ゆっくりと意識が呼び覚まされる。
どうも時間の感覚がおかしい。最近頓にそれが顕著だ。
聖が封印された日が、つい昨日のように思い返される。
記憶をたどるに、おそらく書き物の途中で眠ってしまったのだろう。
こんなところをナズーリンに見られたら、また怒られてしまうかな。
想像して一人苦笑する。
「お邪魔するよ」
驚いた。
まるで狙いすましたかのように現れるのだから。
くだらないとは思いつつ、神出鬼没な彼女のことだ、
もしかしたら同じ顔の妖怪が何人もいるのかもしれないと邪推してしまう。
「ナズーリン。ぬえは元気でしたか―――」
振り返ってもう一度驚く。
緩みきっていた顔が、一瞬にして緊張でこわばる。
ナズーリン一人ではない。
彼女の後ろにいる妖怪たち、あの子たちは―――。
「やあ、気がついたかい? 今日は客人をお連れしたんだ」
忘れるはずなどない。
彼女たちは聖を慕うがゆえに地底へと封じられた妖怪たちだ。
「私も驚いたよ。先ごろ間欠泉騒ぎがあったろう、あの影響で彼女たちの封印が解けたらしい」
たしか天狗が配っている新聞にそのような記事が載っていた。
地底から地上の神社へと、突如温泉が湧き出したという事件。
「それにしたって、地底の連中に気付かれずにここまで来るのは骨が折れたね」
目を細めて嘆息するナズーリン。
そうだ。何も不思議なことはない。
聖がいなくなったあのときから、いつかこの日がくると私は知っていた。
いや、待ち望んでいたのかもしれない。
彼女たちは聖を庇って、あるいは聖を追って封印されることを選んだ。
私はというと、消えゆく聖を前に何もしないでいることを選んだ。
両者の歩む道は、あのとき決定的に分かれてしまったのだ。
聖を愛する彼女たちにとって、私は聖を陥れた裏切り者に他ならない。
「よく、来てくださいました」
ナズーリンに案内されて、無言のまま寺の中に通される彼女たち。
立ち上がった私は、佇まいを正して彼女たちを迎え入れる。
懐かしい思い出が次から次へと浮かんでは消えていく。
いかんせん私は口下手だから、気持ちを言葉にすることができない。
こういうときに口をつぐんでしまう。
それがとても悔しい。悲しい。
「あなたたちに謝らなければならないことがあります」
意を決し口を開く。
今こそ贖いの時だ。
私が謝罪したところで、失われた時間は戻ってこないけれど。
それで彼女たちの慰めとなるのなら、何度でも頭を下げよう。
どんな仕打ちにも耐えよう。
「私は……」
「私は毘沙門天なんかじゃない! ただの……妖怪なんです……」
吐き続けた嘘、遅すぎた告白。
言った。ついに言ってしまった。
場を支配するのは重苦しい沈黙。
一秒一秒が永遠にも感じられた。
真綿で首を絞められているような気分だった。
そのあとで、
知っていたよ、と一人の妖怪が言った。
あなたは聖の代わりに山を、山の妖怪たちを守ってくれていたんだね、と別の妖怪が言った。
感謝こそすれど、恨んだりしたら聖に怒られてしまうよ、と妖怪たちは笑った。
ああ。
ああ。
私は守られていた。
私が守っていると思っていた彼女たちに守られていたんだ。
堰を切ったかのように涙が流れ落ちる。
誰かの前で泣くだなんて何時以来だろう。
私は赦された。家族を取り戻した。
子どものようにしゃくり上げる私を、愛する妖怪たちが取り囲む。
小さな賢将はいつの間にやら姿を消していた。
6
魔界、その法界上空。
ムラサと再会してからというもの、日々は瞬く間に過ぎ去っていった。
結論から言えば、地底に飛倉の破片はほとんど残っておらず、
聖輦船が地上へ出発したのちに探索を再開することとなった。
助力を得られるかが危ぶまれたナズーリンも、計画を打ち明けた際には、
「仕様のない方だ」
と一言だけ言って、以降私たちに力を貸してくれた。
封印から目覚めた妖怪たちを寺に連れて来た彼女。
その時にはもう、こうなることが分かっていたのではないだろうか。
立場上、私に肩入れするのは認められたものではないはずなのに。
また苦労をかけてしまった。彼女には感謝してもしきれない。
茫漠とした赤。
眼下には、見渡す限り果てしなく広がる魔界。
法界はその一部である。あるものはここに全宇宙を見るという。
空も海も陸も、息づく生命すらも、私たちが生きる世界とは異なる。
もうすぐ、もうすぐだ。
こちらでできる支度は全て終えた。
残るは聖復活の鍵となる宝塔をナズーリンが、飛倉の破片をムラサが持ち寄るのを待つのみである。
飛倉の破片を集めている人間が、私たちの他にも存在していたという番狂わせがあったものの、
そんなことは瑣末な問題に過ぎない。むしろ僥倖ともいえる。
ムラサの聖輦船で、飛倉を持つ人間ごと魔界に運ぶ手筈となった。
その聖輦船も今や魔界に―――。
「ご主人」
思考の渦から私を呼び戻したのは、鈴を転がしたような賢将の声。
「待たせたな。ほら『毘沙門天様の』宝塔だ」
言葉にやや棘を感じるのは、気のせいではあるまい。
もともとこの宝塔は毘沙門天より賜ったものであり、寺に保管されているはずだった。
それがいつの間にやら紛失していたなど、本来あってはならないことだ。
申し開きの余地もない。余すところなく私の手抜かりである。
「申し訳ありません」
この件に関して、ムラサをはじめ他の妖怪に黙っていてくれたことは、彼女なりの優しさなのだと思う。
「本当に申し訳ありません」
「分かったから。そう容易く部下に頭を下げるものではないよ」
謝ってばかりの私を常に支えてくれたナズーリン。
ふがいない私は、正しく主人でいられただろうか。
咳払いを一つして、彼女は了見を述べる。
「まもなく例の人間がここに来るだろう。聖に会いたいのなら下手を打たないようにするんだ。
何度か相見えているが、どうも一筋縄でいく相手じゃない」
彼女が宝塔を届けてくれるあいだ、妖精に足止めさせているという人間は、確かに厄介な人物のようだ。
なるべくなら飛倉の破片を無理やり奪うような事態だけは避けたい。
「それと途中ぬえを見かけたぞ。あの人間に協力しているらしい」
到着した聖輦船から、あの子が飛び出すのを私も目にしている。
「こんなことになるくらいなら、はじめからこちら側につけておくべきではなかったかね?
若しくは地底に閉じ込めておくべきだったか……」
聖が封印されてからというもの、ぬえは地底に行ったきり、地上に現れることがなくなっていた。
大好きな人を守れなかった自分を責め続けていたのだろう、優しい子だから。
そしてナズーリンの言うことはもっともである。
巻き込みたくないというのなら、手元に置いておくか自由を奪うかする方が確実だろう。
だけど。
「私はね、ナズーリン。あの子が再び地上へ出てきてくれたことが嬉しいのですよ」
聖輦船が地底を発つ前、ぬえは船内へと忍び込んでいた。
気付いた時には既に魔界へ到着してしまっていたのだが、
活き活きと空を翔ける彼女の姿を見て、これでよかったのだと今は思う。
私がこれまでしてきたことは、あの子にとって余計な心配だったのかもしれない。
もしも素直に助けを請うていれば、あの子は私に力を貸してくれていただろうか。
そうだとしたら、とても嬉しい。
「……ふぅ」
やれやれと。
「あれは愛されているな。あなたに聖、船長、それから地底の妖怪たち」
手のかかる子ほどってやつかな、そう言って踵を返すナズーリン。
「少し休ませてもらうよ」
「ご苦労様でした」
聖輦船に向かって小さくなっていく彼女に深く頭を下げ、気を引き締める。
安心するにはまだ早い。
聖の復活を待ち望んでいる妖怪たちのためにも。
過去に囚われていた自分と決別するためにも。
後悔したくない、逃げやしない。そう誓ったから。
この数百年、聖は法界で眠り続けていた―――。
EX
「なあ」
「はい?」
「あんたは一体何の妖怪なんだ?」
「ええと。それは、やはり虎なのではないでしょうか」
「なんでそこ自信ないんだよ……」
「あはは」
「なあ」
「はい?」
「人間にはさ、私の手が虎の手に見えるらしいよ」
「…………」
「ふふ」
「おそろいですね」
「お前なんて大っ嫌いだ!!」
虎よ、虎よ!
3
「ご主人、ご主人!」
声が、聞こえる。
「机で寝るのはやめてくれ。今まで体を壊さなかったのが不思議なくらいだ」
お寺の中に凛と響き渡る、鈴を転がしたような声。
「さあ、いい加減起きるか、きちんと床に就くかするんだ。ご主人」
今しがた見ていた夢に別れを告げ、促されるままに目を覚ました。
無理な姿勢で眠っていたことが祟って、あちこちが痛む。
「く……ぁ……」
上体を起こして大きく伸びをした。
思わず欠伸がもれる。だらしないと非難の声。
「おはよう、ご主人。と言ってももう昼に近いが」
果たしてそこには呆れ顔の従者がいた。
「ご主人?」
「……あの子の……」
「え?」
「あの子の様子はどうでした?」
「あ、ああ。相変わらずだよ、地底のお屋敷にこもりきりだ」
「そうですか」
急な質問に面食らう彼女、ナズーリン。
困惑するのも当然である。つい先程まで『あの子』の夢を見ていた私とは違うのだ。
どうにも頭が冴えていない。思考を整理するために一息つく。
今は―――正午前。私はお堂で寝ていて、ナズーリンは私からの頼まれごとの帰り、か。
ようやく意識が覚醒してきたところで、遅ればせながら、勤めを果たした彼女に挨拶を返す。
「おはようございます、ナズーリン」
「ああ、おはよう」
「……それから、すまないと思っています。貴方の役目は『私を』監視することだというのに」
「まったくだ。こんなこと越権行為もいいところさ」
座っている私と比べても、そう大差ない背丈の彼女は、これで非常に有能な妖怪ネズミである。
よく通る声や、きびきびとした口調から、彼女の辣腕ぶりをうかがい知ることができる。
生真面目というわけではなく、機転も利くため、上役からも一目置かれているようだ。
ここで厳密に言うと、この妖怪ネズミは私の部下ではない。
毘沙門天に命じられ、その弟子を名乗る私を監視しているに過ぎない。
それでもご主人と慕ってくれる彼女を私は信頼していたし、尊敬していた。
「この際だから言わせてもらうけどね、あなたは少し自己を省みるべきだ」
説教癖のあるところが玉に瑕ではある。
「この前だって留守中寺を荒らされたと言っていたばかりじゃないか」
「この寺に盗まれて困るものなどありませんから」
「馬鹿を言え! その槍、その羽衣、毘沙門天様からお借りしている物だということを、よもや忘れたわけではあるまいな?」
「……ナズーリン、顔が怖いです」
「……はぁ。もういい」
「ご主人」
瞬間。
「あなたが近ごろ何事か魔界に出入りしていることは知っている」
張り詰めた空気が流れる。
「あまり派手に動いてくれるなよ? こちらとて立場というものがあるんだ」
これ以上は看過できない。切れ長の赤い瞳が言葉にせずともそう物語っていた。
今の彼女は監視者としての彼女。
―――敵わないな、本当に。
「感謝します」
聡明で勤勉、この賢将に隠し事はできない。
1
昔々。
人々がまだ神を信じ、妖を恐れ、呪を用いた時代。
そんな時代にありながら、妖怪を助ける人間の僧侶がいた。
名を聖白蓮という。
彼女は早くに弟を亡くし、そのことでひどく心を痛めた。
悲しみにくれ、自らの死を恐れるようになる。
その後、妖術の力で老いを克服した彼女は、次第に妖怪へと接近していった。
彼女の若返りを可能にした妖術は、妖怪と同じく不安定なものであったのだ。
妖術と妖怪は、顕現のしかたこそ違えど、その根源を等しくするものであり、
人間が抱く欲望や恐れが形を為した結果であると彼女は考えた。
さらには、意識を持った妖術こそが妖怪であると。
人間の強く想う心が妖術として具現化し、妖術にやがて自我が芽生えて妖怪となる。
そのようにして現れた妖怪に人間は恐怖し、これに打ち勝つがための力を希求する。
ここに奇妙な円環構造が完成するのである。
妖怪がいなくなるということ、すなわち妖怪を恐れる人間がいなくなるということは、
妖術を信奉するこの僧侶にとって望ましいことではなかった。
ならば妖怪を幇助すればよい、聖白蓮は考えた。
呪はこの身に宿した、人が恐れるべき妖もいる、必要なのは信ずべき神だ。
◇
昔々。
妖怪の多く住む山があった。人の滅多に立ち入らない、妖力うず巻く山があった。
麓の人間はこの山を某と呼んで有り難がったが、私にとってはただの山であり、家であった。
その山の一角に、一人の人間が寺を建てたという。参拝客など、いても妖怪くらいだろうに。
中には獰猛な妖怪もいたから、襲われでもしたらひとたまりもない。
そうでなくとも、ひっそりと人知れず朽ちていくのは目に見えている。
そう、思っていた。
ある日、人間の女が私のもとに訪れた。訊けば件の寺の僧侶だという。
私の姿を見てもおびえず、ひるまず、旧い友人に会ったかのような親しさで語りかけた。
「こんにちは。実はあなたにお願いがあるの」
なんでも彼女は毘沙門天を信仰しているのだが、寺の周りの妖怪が、かの仏を恐れてしまっているのだそうだ。
彼女としては、山の妖怪たちを退治する意図はなく、これが果報をもたらすための標となることを望んでいる。
事態を打開すべく、私に力を貸して欲しいという。
なんとも眉唾な話である。
けれど私は彼女の言うとおりにした。
丁度生きるのに退屈していたところだ。戯れに人間の言葉に従うのもよかろう。
もしもの時は、この女の首を噛み切って殺してしまえばいい。それで終わりだ。
◇
昔々。
毘沙門天を信仰する僧侶と、毘沙門天の弟子である妖怪がいる寺があった。
僧侶の人徳と、妖怪の能力により、多くのものたちがこの寺に足を運んだ。
その大半は、やはり妖怪であったのだけれど。
僧侶との邂逅を果たしたあの日、私は妖怪であることをやめた。
妖怪であることを隠して、毘沙門天の弟子を自称するようになった。
さも自らが神仏であるかのように振舞った。
それが彼女の用意した『解決策』であった。
「吾は毘沙門天が弟子」
「恐れるより畏れよ。さすれば功徳をもってあなた方をお救いしよう」
噂を聞きつけやって来た入道があった。人間に害され逃げ込んだ鵺があった。
恩義に報いるため、舟幽霊が舟ごと赴いたときは流石に肝を潰した。
本物の毘沙門天より遣わされた使者があった。
私はこの生活が気に入っていた。
僧侶のことを好ましいとさえ思うようになっていた。
たとえ騙されていたのだとしても、後悔などは毫もない。
集まる妖怪たちも、それぞれがみな彼女を愛していた。
家族が、できたような気がした。
そして彼女はだんだんと、寺を私に預けて出かけるようになる。
おそらくこの山以外の場所でも、妖怪たちを助けていたものと私は考える。
しかし、たまにふらっと帰ってきては、私たちの力となってくれた。
こんな日々がいつまでも続いていくと思っていた矢先、
彼女は突然、私たちの前から姿を消すことになる。
いや、
聖白蓮は世界から姿を消してしまった。
彼女を恐れた、人間たちの手によって。
◇
昔々。
そう。
全てはもう、終わってしまったお話。
5
山と寺を旧友たちに任せ、私は地底へと降り立っていた。一つの決意を胸に秘めて。
あらかじめ場所を聞いていたこともあり、尋ね人は直ぐに見つかった。
「久しいですね、ムラサ」
「星? 星なの!?」
寅丸星。私の名前。
今も変わらず下の名で呼んでくれる友人との再開をしばし噛み締める。
村紗水蜜。今はもういない聖を愛した舟幽霊。
短く癖のある黒髪と、健康的なセーラー服姿が他人の目を惹きつける少女。
幽霊に健康的というのは、いささか言語矛盾な気がしないでもないが。
聖が姿を消したのと時を同じくして、彼女は人間たちに地底へと封印されていた。
いまだ本調子ではないために先般の地上行きを見送ったという彼女だったが、
私にはどうしても彼女の協力が必要であった。
「私……気がついたらここにいて……」
「他の妖怪たちより報告は受けています」
「ねぇ、あれからどうなったの? 聖は……みんなは……?」
「……全てお話しましょう」
◇
時間にして小半刻、彼女は黙って私の話を聞いていた。
聖を想って時折涙を浮かべながら、人間の横暴に顔を険しくさせながら。
最後まで話し終わって、私は彼女に尋ねた。
「ムラサ。貴方に一つ訊きたいことがあります」
「なぁに?」
「貴方は、私を恨んでいますか?」
内にある恐怖を気取られないよう慎重に、出来る限り平静を装って。
「いいえ。どうして恨むことがあるの?」
―――即答か。
私は、またしても―――。
「…………ありがとう」
ふいに熱いものが頬を伝う。
涙はあの時に流し尽くしたものと思っていたのに。
「力を貸してください、ムラサ。みんなで聖に会いに行きましょう」
依然として私は泣き虫だった。
◇
聖がいる場所の見当はおおよそついていた。あとは救うのに要する質量の問題。
話はムラサが船長とも呼ばれる所以である聖輦船に及ぶ。
「貴方の聖輦船で地上に出ましょう」
「聖が、これで本当に聖が助かるのね?」
「ええ。そのためには飛倉が必要なんです」
「飛倉?」
「はい。ここに来るまでに一部を見つけました」
手にした飛倉の破片を見せる。
聖を復活させるためには、聖の弟である命蓮の力が必要である。
彼女の弟もまた僧侶であったのだ。
命蓮は、姉にもまして、僧侶としての実力と人々からの信頼とを兼ね備えていた。
しかし彼の命はとうに尽きており、今は飛倉にその力を残すのみとなった。
その飛倉も、これまで人間たちにより地底へ封印されていたのだが。
するとすぐ背後で物音がした。続けて息をのむ気配。
「誰っ!?」
ムラサが反応するも、そこには既に誰もいなかった。
「今のは……」
「ぬえ、でしょうね」
「気付いてたの!?」
「ええ」
教えてくれればよかったのにと不満げに頬を膨らませるムラサ。
けれどすぐに気を取り直し、喜び勇んで話す。
「事情を言えば協力してくれるかもしれない。あの子も聖のことは好きだったから」
「きっと無理でしょう。私はあの子に嫌われてしまっている」
「そんな……」
ムラサは明らかな落胆の色を隠せないでいた。心の中で彼女に謝る。
期待していなかったと言えば嘘になる。
しかし私は、ぬえの姿が見られただけでも満足するべきなのだ。
もう二度とあの子を危ない目には合わせてはならない。
「ムラサ」
お互い沈みかけていた気持ちに区切りをつけるべく声をかけた。
今は飛倉の破片を探さなければ。間欠泉で地上まで飛ばされているかもしれない。
「貴方は聖輦船を地上に出航させる手筈を整えてください。私はもう一度地底を探ってみます」
2
聖は自らが封印されようとしていることに気がついていた。
知りながらにして、逃げも隠れもしようとはしなかった。
人間たちが血生臭い手段をとるつもりがないと分かり、むしろ喜んでいるようにも思えた。
「だってそうでしょう? 誰も傷つかずに済むのだから」
「ほんのすこしばかり、あなたたちとお別れしなくてはならないけど」
聖を異界へと封じるための術者が麓の集落に集っている。
そのような知らせを受けて、私はただちに山を離れるよう聖へ進言した。
けれど彼女はこの場に残ることを頑として譲らない。
彼女は出会った妖怪の一人一人に思いを馳せるようにして言う。
「私はこれまで、自らのために妖怪を助けてきました」
「けれど旅を続けるうち、妖怪たちが今おかれている状況を知った」
「あるものは力を持たないがために、人間や同じ妖怪から虐げられている」
「あるものは本能に負けて、本人も望まぬ殺戮を繰り返している」
「あるものは人間を愛し、その身を滅ぼすこととなった」
「私は愛してしまったのです。あなたたち妖怪を」
「あなたたちを見て、心から思ったのです。力になりたいと」
「これは私の我侭です。また迷惑をかけてしまうことを赦して下さい」
「あなたたちを見捨て、ここから逃げるだなんてできるわけないわ」
それは私たちだって同じだ。愛しい貴方をみすみす失うだなんて耐えられるわけがない。
しばらくのあいだ身を隠してさえいればいい。そのことで私たちが不平を言うはずがない。
必死の説得もむなしく、彼女は首を横に振るだけだった。
「麓の人間たちだって、山に入って何の成果もなしには帰れない。他の妖怪たちに危害が及ぶかもしれないわ」
聖は悲しそうに笑った。
「あるいは人間たちも愚かではなくて、逃げる私を捕らえてしまうかもね」
聖は悪戯っぽく笑った。
ならば。
ならば私も貴方とともに異界へ参ろう。
私たち二人で始めたことだ、幕引きもともにあるのが筋ではないか。
そう言ってなおも食い下がる私に、聖は優しく諭すように言う。
「星。あなたまでいなくなったら、この山を誰が守るというの?」
「いつかきっと、妖怪と人間が手を取りあって暮らせる時代が来る」
「その時にまた会いましょう」
いつも聖は笑顔だった。
そして私は泣き虫だった。
◇
夜の帳が下りる。
山に足を踏み入れる人間たちは寺を目指して歩く。
招かれざる客に、息を潜める妖怪たち。
私は結局何もできず、事の成り行きを見守るだけ。
ただただ待ち続ける聖。
やがて音もなく寺が包囲される。
抵抗はしない。
術式が始まる。
そしてまさに聖が封印されようとするその時だった。
彼女と人間たちとの間に何者かが立ちふさがる。
「逃げてっ!!」
―――あれは、
「聖を封印するなんて許さない。ここから先は一歩も通さない」
封獣ぬえ。
彼女もまた、聖を慕う妖怪の一人である。途端におそれおののく人間の術者たち。
おそらく人間たちにはあの子が奇怪な合成獣に見えているはずだ。それがあの子の能力。
正体不明の種を用いて自分自身を虚飾し、さもおぞましい妖怪の姿へと相手に錯覚させる。
とかく人間というのは未知を恐れるものだ。無知を恥じて、英知を欲す。
果てのない知識欲が皮肉にも知識の無さを認める結果となり、彼らの未知は終わらない。
未知への恐怖は次第に形を持ち始め、彼らはここに化け物の影を見る。
正体を知らない人間にとって、鵺の存在はさぞかし恐ろしいものだろう。
なにせ目に映るその姿は、各々が恐怖に忠実であるのだから。
しかし、
「退きなさい」
裏を返せば、彼女の正体を知る者にとって、その能力は何の意味も持たないということになる。
私の前に立ちはだかるのは、聖を精一杯守ろうとする健気な妖怪の女の子だった。
私の姿を目にした人間たちは安堵の表情を浮かべる。
彼らに力を貸し、聖を封じると信じて疑わないのだろう。
いつの頃からか、人々の信仰の対象は山から私に変わっていた。
「お前は……」
突如現れた邪魔者に、驚くぬえの表情がみるみる憤怒の色に染まる。
「お前っ! こいつらの味方をするのか!? くだらん地位でも惜しくなったか!!」
語気を荒げるも彼女の声は不安に震えていた。
出来ることなら出てきたくはなかった。
封印される聖を目前にして平気でいられる自信がなかったから。
けれどぬえが、この子が追い詰められた人間たちに傷つけられることがあってはいけない。
聖ならきっとそうしたはずだ。近くて遠い最愛の僧侶を想う。
「なんで……なんでだよぉ……」
近づくにつれ弱々しくなるぬえの声。私を睨んでいた瞳はもはや固くつぶられてしまっている。
ごめんなさい。
あなたが目を覚ます頃には、全て終わっているはずだから。
そちら側にいることができるあなたが、私には少し羨ましい。
「お前なんて」
手を伸ばせば届く距離に来ていた。
私はこれから二つ、大切なものを失うのだ。
「お前なんて―――」
大っ嫌いだ。
4
窓から差し込む光を浴びて、ゆっくりと意識が呼び覚まされる。
どうも時間の感覚がおかしい。最近頓にそれが顕著だ。
聖が封印された日が、つい昨日のように思い返される。
記憶をたどるに、おそらく書き物の途中で眠ってしまったのだろう。
こんなところをナズーリンに見られたら、また怒られてしまうかな。
想像して一人苦笑する。
「お邪魔するよ」
驚いた。
まるで狙いすましたかのように現れるのだから。
くだらないとは思いつつ、神出鬼没な彼女のことだ、
もしかしたら同じ顔の妖怪が何人もいるのかもしれないと邪推してしまう。
「ナズーリン。ぬえは元気でしたか―――」
振り返ってもう一度驚く。
緩みきっていた顔が、一瞬にして緊張でこわばる。
ナズーリン一人ではない。
彼女の後ろにいる妖怪たち、あの子たちは―――。
「やあ、気がついたかい? 今日は客人をお連れしたんだ」
忘れるはずなどない。
彼女たちは聖を慕うがゆえに地底へと封じられた妖怪たちだ。
「私も驚いたよ。先ごろ間欠泉騒ぎがあったろう、あの影響で彼女たちの封印が解けたらしい」
たしか天狗が配っている新聞にそのような記事が載っていた。
地底から地上の神社へと、突如温泉が湧き出したという事件。
「それにしたって、地底の連中に気付かれずにここまで来るのは骨が折れたね」
目を細めて嘆息するナズーリン。
そうだ。何も不思議なことはない。
聖がいなくなったあのときから、いつかこの日がくると私は知っていた。
いや、待ち望んでいたのかもしれない。
彼女たちは聖を庇って、あるいは聖を追って封印されることを選んだ。
私はというと、消えゆく聖を前に何もしないでいることを選んだ。
両者の歩む道は、あのとき決定的に分かれてしまったのだ。
聖を愛する彼女たちにとって、私は聖を陥れた裏切り者に他ならない。
「よく、来てくださいました」
ナズーリンに案内されて、無言のまま寺の中に通される彼女たち。
立ち上がった私は、佇まいを正して彼女たちを迎え入れる。
懐かしい思い出が次から次へと浮かんでは消えていく。
いかんせん私は口下手だから、気持ちを言葉にすることができない。
こういうときに口をつぐんでしまう。
それがとても悔しい。悲しい。
「あなたたちに謝らなければならないことがあります」
意を決し口を開く。
今こそ贖いの時だ。
私が謝罪したところで、失われた時間は戻ってこないけれど。
それで彼女たちの慰めとなるのなら、何度でも頭を下げよう。
どんな仕打ちにも耐えよう。
「私は……」
「私は毘沙門天なんかじゃない! ただの……妖怪なんです……」
吐き続けた嘘、遅すぎた告白。
言った。ついに言ってしまった。
場を支配するのは重苦しい沈黙。
一秒一秒が永遠にも感じられた。
真綿で首を絞められているような気分だった。
そのあとで、
知っていたよ、と一人の妖怪が言った。
あなたは聖の代わりに山を、山の妖怪たちを守ってくれていたんだね、と別の妖怪が言った。
感謝こそすれど、恨んだりしたら聖に怒られてしまうよ、と妖怪たちは笑った。
ああ。
ああ。
私は守られていた。
私が守っていると思っていた彼女たちに守られていたんだ。
堰を切ったかのように涙が流れ落ちる。
誰かの前で泣くだなんて何時以来だろう。
私は赦された。家族を取り戻した。
子どものようにしゃくり上げる私を、愛する妖怪たちが取り囲む。
小さな賢将はいつの間にやら姿を消していた。
6
魔界、その法界上空。
ムラサと再会してからというもの、日々は瞬く間に過ぎ去っていった。
結論から言えば、地底に飛倉の破片はほとんど残っておらず、
聖輦船が地上へ出発したのちに探索を再開することとなった。
助力を得られるかが危ぶまれたナズーリンも、計画を打ち明けた際には、
「仕様のない方だ」
と一言だけ言って、以降私たちに力を貸してくれた。
封印から目覚めた妖怪たちを寺に連れて来た彼女。
その時にはもう、こうなることが分かっていたのではないだろうか。
立場上、私に肩入れするのは認められたものではないはずなのに。
また苦労をかけてしまった。彼女には感謝してもしきれない。
茫漠とした赤。
眼下には、見渡す限り果てしなく広がる魔界。
法界はその一部である。あるものはここに全宇宙を見るという。
空も海も陸も、息づく生命すらも、私たちが生きる世界とは異なる。
もうすぐ、もうすぐだ。
こちらでできる支度は全て終えた。
残るは聖復活の鍵となる宝塔をナズーリンが、飛倉の破片をムラサが持ち寄るのを待つのみである。
飛倉の破片を集めている人間が、私たちの他にも存在していたという番狂わせがあったものの、
そんなことは瑣末な問題に過ぎない。むしろ僥倖ともいえる。
ムラサの聖輦船で、飛倉を持つ人間ごと魔界に運ぶ手筈となった。
その聖輦船も今や魔界に―――。
「ご主人」
思考の渦から私を呼び戻したのは、鈴を転がしたような賢将の声。
「待たせたな。ほら『毘沙門天様の』宝塔だ」
言葉にやや棘を感じるのは、気のせいではあるまい。
もともとこの宝塔は毘沙門天より賜ったものであり、寺に保管されているはずだった。
それがいつの間にやら紛失していたなど、本来あってはならないことだ。
申し開きの余地もない。余すところなく私の手抜かりである。
「申し訳ありません」
この件に関して、ムラサをはじめ他の妖怪に黙っていてくれたことは、彼女なりの優しさなのだと思う。
「本当に申し訳ありません」
「分かったから。そう容易く部下に頭を下げるものではないよ」
謝ってばかりの私を常に支えてくれたナズーリン。
ふがいない私は、正しく主人でいられただろうか。
咳払いを一つして、彼女は了見を述べる。
「まもなく例の人間がここに来るだろう。聖に会いたいのなら下手を打たないようにするんだ。
何度か相見えているが、どうも一筋縄でいく相手じゃない」
彼女が宝塔を届けてくれるあいだ、妖精に足止めさせているという人間は、確かに厄介な人物のようだ。
なるべくなら飛倉の破片を無理やり奪うような事態だけは避けたい。
「それと途中ぬえを見かけたぞ。あの人間に協力しているらしい」
到着した聖輦船から、あの子が飛び出すのを私も目にしている。
「こんなことになるくらいなら、はじめからこちら側につけておくべきではなかったかね?
若しくは地底に閉じ込めておくべきだったか……」
聖が封印されてからというもの、ぬえは地底に行ったきり、地上に現れることがなくなっていた。
大好きな人を守れなかった自分を責め続けていたのだろう、優しい子だから。
そしてナズーリンの言うことはもっともである。
巻き込みたくないというのなら、手元に置いておくか自由を奪うかする方が確実だろう。
だけど。
「私はね、ナズーリン。あの子が再び地上へ出てきてくれたことが嬉しいのですよ」
聖輦船が地底を発つ前、ぬえは船内へと忍び込んでいた。
気付いた時には既に魔界へ到着してしまっていたのだが、
活き活きと空を翔ける彼女の姿を見て、これでよかったのだと今は思う。
私がこれまでしてきたことは、あの子にとって余計な心配だったのかもしれない。
もしも素直に助けを請うていれば、あの子は私に力を貸してくれていただろうか。
そうだとしたら、とても嬉しい。
「……ふぅ」
やれやれと。
「あれは愛されているな。あなたに聖、船長、それから地底の妖怪たち」
手のかかる子ほどってやつかな、そう言って踵を返すナズーリン。
「少し休ませてもらうよ」
「ご苦労様でした」
聖輦船に向かって小さくなっていく彼女に深く頭を下げ、気を引き締める。
安心するにはまだ早い。
聖の復活を待ち望んでいる妖怪たちのためにも。
過去に囚われていた自分と決別するためにも。
後悔したくない、逃げやしない。そう誓ったから。
この数百年、聖は法界で眠り続けていた―――。
EX
「なあ」
「はい?」
「あんたは一体何の妖怪なんだ?」
「ええと。それは、やはり虎なのではないでしょうか」
「なんでそこ自信ないんだよ……」
「あはは」
「なあ」
「はい?」
「人間にはさ、私の手が虎の手に見えるらしいよ」
「…………」
「ふふ」
「おそろいですね」
いつも凄いね、どうしたらこんな格好いい話を書けるんだろ。
それにしてもナズーリンが男前すぎるw
前回のヤマメもそうだけど、キャラの魅力を引き出すのが上手いっスね
みんながみんな、お互いを愛し合って、慕い合っているんですよね。
妖怪っていいもんだと思えます。
人物の性格をイメージさせる台詞づくりが上手いですね。