レイラ・プリズムリバーはもうすぐ死ぬ。
じきに、この洋館に生きている者は誰もいなくなる。
ルナサ・プリズムリバーはベッドの傍らに立ち、老婆の口から漏れる、細い細い息を感じ取りながら、そう思った。その息は今にも途切れそうだった。
(諦めているのに)
レイラがひと呼吸終えるたび、ルナサは何か大切なものがこぼれ落ちてしまいそうな気がした。
(私は、もう諦めているのに)
枕元の布は赤く染まっている。
閉められたカーテンの足下に、光がこぼれ落ちた。ルナサはふと気がついて、窓辺に寄ってカーテンを開いた。まだ明けきらない、淡い朝の光が、闇に慣れきっていたルナサの目には眩しい。思わず目を細める。
夜半から今まで、ずっとレイラの呼吸だけを見守っていた。
「ルナサ……」
かすれた声は、やっとのことでルナサの耳に届く。
「ごめん、眩しかったかな、レイラ」
「いいわ。カーテンをそのままにして、こっちに来て」
ルナサは言われたとおりにした。レイラの腕が震えながら持ち上がる。ルナサはそれを支えてやる。かつてのレイラを知るルナサには、ぞっとするほどやせ細った腕だった。レイラはルナサの絹糸のような金髪を指に絡め、それから手のひらをルナサの頬に当てた。
「ほんと、幽霊は冷たいわ。それ以外は、姉さんにそっくり。私の幻想もここまで来ると立派なものね」
慈しむように頬を撫でるレイラの手のひらに、ルナサは手を重ねた。
「かわいいかわいい、私の幻想よ」
ルナサは、柔らかい熱が体中に広がるのを感じた。羽毛に包まれたような心地よさの中、そのまま眠ってしまいたくなる。
「ええ、レイラ。私はあなたの幻想」
幻想の持主が死んだとき、その幻想はどうなるか、ルナサは知らない。しかし想像はつく。レイラの手がルナサの頬から離れ、ぽとりと落ちる。
「レイラ、あなた、死ぬのね」
ルナサは、力の抜けきった老婆の手を取る。
「ええ、死ぬわ」
「私たちも、消えるのね」
「いいえ」
レイラは首を振った。最後の力を振り絞るように、横たわった身でありながら、力強く首を振った。
「いいえ、あなたたちは消えはしない。幻想は消えない。たとえ妄想や仮想や想像が消えても」
「え……私たちは、てっきりあなたと一緒に消えるものと思っていた」
そして、それがレイラの本望なのだろうと。
幻想とは、現実に対する拒否の意思表示だ。もし当人が死ぬのならば、ともに幻想を巻き込んで消えようとするのではないか。少なくともルナサは今までそう考えていた。
「それは、私が、許さない。私の丹精込めた幻想が、私が死んだだけで消えてしまうなんて、そんなのは許せない。ねえルナサ、お願いがあるの」
枯れ枝のような老婆の手が、ルナサの手を強く握りしめる。そこに生命の足掻きを感じ、ルナサは怖くなった。
「お願い。ここにいて」
声はほとんど出ない。囁きともいえぬ、空気の震え。だが、ルナサの耳にその声は刻み込まれた。
「どうかあなたたちと過ごしたこの幾十年の団欒が、ひと時の夢ではありませんように。私たちの悦びや悲しみのすべてが、砂浜に描かれた模様のように、波にさらわれてしまわないように」
誰よりも大切なひとの言葉が、なぜこうも恐ろしいのか。それが理解できないことがまた、さらにルナサの恐怖を増幅させた。
「私がいなくなった後も、ここにいて」
レイラの手の甲に、ルナサは額を当てる。
「お願い。ここに、ずっと、みんなで」
消えてしまう。ロウソクの火が、窓を閉めたときの風で吹き消されるように。なんでもないことで、あっさりと、命が消える。ただ時が過ぎたというだけで。ルナサはぎゅっと目をつむり、さらに強く額を押しつける。
どれくらいそうしていただろうか。
レイラはもう、息をしていなかった。
雀の声が、朝露に濡れた空を横切った。
****
朝から雨雲がたちこめ、空気は鬱々として重たかった。ルナサの部屋からは湖が見渡せる。ただでさえ寝起きが悪いルナサは、起きてから二時間たつというのに、まだ夢現をさまよっていた。何か、いい曲が作れそうな気がするのだけれども、指一本動かすのさえ億劫だ。それに、作ったとしても誰に聴かせていいかわからない。目の前に置かれたティーカップにのろのろと指を伸ばし、口をつける。
「何これ……冷めてるわね」
「姉さんがいつまでたっても飲まないからよ。椅子に座ってもずっと眠ってるんだから」
きびきびとした、利発そうな声がする。壁にかかった姿見の前で、リリカは茶色のショートカットの髪に櫛を入れていた。茶色の瞳が、ころころとせわしなく動き回る。
「寝てなんかいないわよ、リリカ。あなたが食事しているさまを、一部始終、逃さず眺めていたわよ」
「嘘よ、ずっと目閉じてたでしょう」
「閉じてないわ、細めてたの」
「姉さんの糸目は、そういうとき言い訳できていいわね」
「だから寝てなかったってば」
「寝てないなら寝てないでもいいけど、それならひとがご飯食べるのボーッとただ見てたってことでしょ。それも十分変」
リリカ・プリズムリバーは目も動くし口も動く、表情が豊かだ。
赤いチョッキを羽織り、星の飾りがついた赤い帽子を頭に乗せ、鏡の前で念入りに角度を調整する。
「姉さん、もういい加減に忘れたら?」
その言葉を聞くと、ルナサの胸が重たくなる。そして、妹に対するかすかな苛立ちが芽生える。
(この子は、あのときのレイラの言葉を知らないんだ)
忘れないでほしい、という彼女の願いを。だからこんな風に無責任に、忘れろなんて言える……
慌ててルナサは首を振った。
だめだ、この考えは。
でもそう考えることを、止められない。それが余計に気分を沈ませる。
「忘れたくないのは、姉さんだけじゃないよ」
声につられて顔をあげると、鏡の向こうからこちらをじっと見つめるリリカと目が合う。
「思い出したって、いいことなんてひとつもない。どうせレイラは二度と起きないんでしょう? あんな楽しい宴は、もう二度とないんでしょう?」
ルナサは押し黙った。リリカの言うことを否定したかったが、否定できるような材料など何ひとつなかった。妹は、正しい。
ルナサは重苦しいため息を吐き出し、話題を変えた。
「メルランは?」
「メル姉さんはあっち」
リリカは投げやりに窓を指す。そこからは洋風のよく手入れされた庭が見える。ゆるやかにパーマがかった乳白色の髪の少女が、踊るようにトランペットを振り回していた。むしろメルラン・プリズムリバーがトランペットに振り回されているようにも見える。時々宙に浮いて、風に吹かれる木の葉のように自在に回転していた。
「なんだか……楽しそうね」
「今日は空気がほどよく湿ってひんやりしているから練習にも身が入るって、よくわかんないこと言ってたわ、さっき」
「あれ、練習なの」
「みたいね。ただ遊んでるわけじゃないみたい。まぁ、メル姉さんは私たちとは魔力がひとケタ違うから、ぱっと見すごいのかなんなのか、よくわかんないわ」
「そうね……」
ルナサは細めた目をテーブルに戻した。紅茶をひと口啜る。
「やっぱりサビのメインはあの子かしら」
「えっ、なんか言った?」
ルナサはカップをテーブルに置き、立ち上がった。
「ひとりごとよ、益体もない、ね。ごちそうさま。ちょっと出るわ」
「はぁい」
リリカは鏡を見ながら生返事をした。
ルナサは思う。
いったいリリカは、誰のために着飾っているのだろう。
いったいメルランは、誰のために肥大化した魔力を研いでいるのだろう。
なぜ自分のこの指は自然と拍子を取り、脳裏には楽譜が描かれ、耳には弦の調べが聴こえてくるのか。
いったい私は、誰のためにこの曲を作ろうとしているのだろう。
人里にはあまり足を踏み入れない。
今も、中に入っているわけではない。宙に浮いて、空から眺めている。
昼日中の雑踏は、幽霊の身であるルナサには気に障って仕方ない。こうして、距離を取って眺めていてもそうだ。もっと静かにしてほしいと思う。声が大きいとか、物音がうるさいとかいうのではない。
生き物の呼吸が、神経をささくれ立たせるのだ。
あのぬくみが、どうしようもなく厭わしい。
なんと弱々しいのだろう、とルナサは思う。
ぬくみは、ほんのちょっとしたきっかけで忽ち冷えてしまう。痛みで、飢えで、老いで。冷えて冷えて、やがて絶える。
息というものを、幽霊は持たない。なぜあんな弱いものを生き物は持っているのか。息を止めれば苦しい、吸うときに体にとって害をなすものを取りこんでしまうかもしれない。いいことなどひとつもない。息など捨ててしまえばいいのに。
なのに生き物の息は、音を紡ぐ。
それは幽霊であるルナサには、すぐには理解できないことだった。幽霊にとって音とは、自分の内側から感覚を漏らして、外の世界と共鳴させ震わせることによって生みだす。音とは自然に出るものだ。わざわざ生死にかかわるような息とやらで、無理やりにひねり出すようなものではない。
だが、そうとばかり言えないのを、ルナサは知っている。
五十年もの長きに渡って、その反例を目の当たりにしている。
「ブレスが大事なのよ、ブレスが」
不意に背後から声をかけられ、ルナサは弾かれたように立ち上がり、振り返った。
乳白色の髪の妹が、にこやかな笑みを浮かべて、両手を後ろで組んでいる。彼女の顔の周囲を、トランペットがくるくると公転運動をしている。
「メルラン……」
ルナサは驚いていた。その原因は、背後から急に声をかけられたためではない。
「あなた、その言葉……」
「いい言葉だと思うわ。特に、ブレスなんて必要としない私たちにとってはね。他の種族のまねをすると、またいい音が生まれるかもしれないわ。だから最近、ブレスの練習をしているの」
そう言って、口を大きく開け、肩と胸を広げる。それから、旋回するトランペットをつかみ、一気に吹き込んだ。
「ちょっと、こんなところで、待っ……」
不格好な音とともに、トランペットの先から青白い魔力がほとばしった。それはうねりながら突き進み、空間を切り裂く。大風が巻き起こり、眼下の商店街では小さくだが騒ぎが起こっていた。道を転がる商品や、風に飛ばされる暖簾が見える。
魔力自体は、ぐねぐねと蛇のような軌道を描きつつ、山の方へ飛んで行った。もし今のが眼下の商店街に直撃していたら大変なことになっていた。物が壊れるだけではない。かなりの範囲に渡って精神に異常を来す者が現れただろう。
「こんなところで……何考えてるのよ」
ルナサはため息をついた。メルランは素直にぺこりと頭を下げた。
「えへへ、ごめんなさい。姉さんがいるからどうにかなるかなって思って」
だが反省した様子はない。
「あなたねえ……」
「姉さん、最近元気ないね」
目を細め眉間に皺を寄せるルナサと対照的に、メルランはぱっちりと目を開き、正面からその視線を受け止める。
「レイラが死んだから?」
ルナサの、握った拳に力が入る。
(この子も、何も背負うつもりがないっていうの!)
「気が急いている、苛々している、私にはわかっている、そういうとき、ブレスよ」
(私以外、誰もあの子の意志を汲んであげられないなんて。あんまりだ)
「レイラ、人里に行くとき、よくそんな風に言っていたわ」
「えっ?」
自分の考えに囚われていたルナサは、思わず顔をあげた。
「緊張していたのかなあ。言葉、通じないものね。けど、レイラは人間だったから、私たちみたいに何も食べないってわけにもいかない。服も破れるし、病気もする。そういうとき、人里には色々便利なものが売っている。できればいきたい。私たちは通訳だった。私たちは、どっちの言葉もわかる。その意味をレイラにこっそり囁く。だから相手の言っていることはわかる。レイラは無口な湖畔のお嬢さんとして知られていたわ。誰も警戒なんてしなかった。それでもレイラはいつも、人里に行く前には深呼吸をしていたわ。ブレスが大事よ。音楽だけの話じゃないのよって。ええ、人里に行くのが怖かった。どうしてだろう。幽霊を飼いならしているってバレたら、どんな目にあうか思うと、怖かったのかな」
「メルラン、どうして今ここでそんな話をするの」
普段からメルランは陽気で饒舌だ。それにしても、度が過ぎているような気が、ルナサにはした。
「別に。人里と姉さんの背中見ていたら、思い出しただけ。色んなことを」
メルランの目は、ルナサを見ているようで、見ていなかった。彼女の周囲には、白い流体が渦巻いていた。流体の周囲には青白い糸のようなものがチリチリと這いまわっている。音を表す気質、すなわち音の幽霊だ。音楽を奏でる彼女たち姉妹は、力を発揮すればするほど周囲に集まる幽霊は増える。その量自体は、ルナサもメルランもリリカもさほど変わりない。だが、幽霊が帯びる魔力の質は、メルランが図抜けて強烈だった。それだけに不安定だ。
「思い出してみて、どうだった」
「何もない」
噛んで含めるように話しかけたルナサに対して、メルランの応えはあっけらかんとしていた。だがルナサはもう不用意に苛立ったりしなかった。
「頭が空っぽなの。どれだけ思い出しても。何も浮かんでこない」
メルランの視線がどこか宙を泳いでいる。
「胸が空っぽなの。どれだけ息を吸い込んでも。何も入ってこない」
ルナサはようやく理解した。
妹は嘆き方を知らないのだ。
***
レイラが庭に出てきた。メルランはいつものように庭でふわふわと浮かびながら、トランペットと戯れていた。
「レイラ、病気はもういいの?」
仰向けの状態でレイラの方へ浮かんでいく。メルランは首をそらした体勢で話しかけた。お互い顔が逆さまに見える。レイラは穏やかな笑みを浮かべて首を横に振った。
「全然駄目。そろそろ危ないわ。けれど、今朝はほんの少しましね」
「死んじゃうの、レイラ」
「ええ」
メルランは、目を見開いて、まじまじとレイラを見た。
「死ぬと、どうなるの」
「あなたたちと話したり、歌ったり、できなくなるわ」
「そんなの、つまらない。私たち、何もすることがなくなるわ」
「そうかしら」
「存在する意味がないわ」
「そんなことないでしょう、メルラン。私がいなくても、話したり、歌ったりすればいいじゃない」
メルランは体を回転させ、レイラと正面から向き合った。
「駄目。どこにもいかないでよ」
「仕方ないの……」
メルランはレイラの額に、自分の額を合わせる。レイラはほほえみ、メルランのくせのある乳白色の髪を撫でてやる。メルランは目を閉じ、レイラの手のひらの感触を心行くまで味わった。
「ねえ、レイラは死んだらどこに行くの」
「そうね、多分、天国というところ。でも、この世界から行けるのかしら」
「ここから遠い?」
「ものすごく」
「呼んだら応えてくれる?」
メルランは目を開けた。レイラはメルランと目を合わせたまま、ゆっくりと額を離す。
「難しいと思うわ。けれど、このトランペットなら、ひょっとしたら届くかもね」
「じゃあ、練習する。天国に届くまで」
「期待してるわ」
レイラのほほえみを見て、メルランは、ああこのひとはもうすぐ死ぬな、と思った。体に、埋めようのない穴がぼっかりと空いた気がした。
***
庭の花も、もうたいていが幽霊になっている。たったひとつ残っていた生命が消えてしまい、洋館とその敷地内は着々と幽霊化が進んでいた。レイラが館とともにこの幻想郷に移ってきた時点では、まだ半物半幽ともいうべき状態にあった。それが今となっては、朽ちるものはほとんど朽ちてしまった。残っているものは、見た目がただの箪笥や食器であっても、花やそれに群がる昆虫であっても、まず間違いなく幽霊だった。
だから水をやる意味はない。ルナサはそんなことを考えながら、如雨露で水を撒いていた。如雨露に手は触れていない。
朝食を取り、人里に行き、昼下がりに花に水をやる。
なんのことはない。自分は、レイラの一日を忠実になぞろうとしているだけなのだと、自覚はしている。なぞったからといって、それがどうなるともわからない。しかし、やらずにはいられなかった。
如雨露の水がなくなった。
ルナサは足下に如雨露を降ろした。手元にヴァイオリンを現す。
「レイラ、私、やっぱりあなたと消えた方が良かったみたい」
低い、呻くようなヴァイオリンの旋律が、昼過ぎのうららかな庭に鬱々と流れる。レイラのために作った曲だ。今まで、何十年何千回とレイラのために弾いてきたが、自分で作曲したものを演奏したことはなかった。すべて、レイラの知っている曲を弾き直していた。特にそれで不満を感じたりもしなかった。
無意識のうちに指が拍子を取り、新しい旋律を探すようになったのは、レイラが死んでからだった。
ずっと未完成と思っていた。こうして弾いてみると、とっくに完成していたことがわかる。弾くきっかけがなかった。曲というのは、誰かに聴かせるものだと思っていたから。今はただ、弾いてみたかった。
重たい旋律が、次第に動き出す。流れが速くなる。高音を畳みかける。感極まった叫び声のような音が混じる。
ふと、ルナサの首筋を誰かの手が、慈しむように撫でた。まわりには誰もいない。ただ、そういう感触がしただけだ。
〈ぬくみ〉の幽霊だ。
「レイラ……ッ」
確証はない。ただの幽霊のいたずらかもしれない。それでもルナサは確信した。
曲の激しさはいったん頂点を迎え、少しずつ収まっていく。頭は熱に浮かされたようにぼんやりとしている。体の内側から指先に至るまで微弱な痺れが続いている。曲はまだ終わらない。始めのゆったりとした暗い曲調を維持したまま、さらなる高みへ登ろうと、再び動く。
音を生み出し、音に包まれることが、ルナサにはこの上なく幸せだった。再度ピークを迎え、それをなだめるように落ち着いた旋律になり、やがて消えていく。弾き終わった後も、ルナサの体から火照りは去らなかった。
この曲で、レイラに届くかもしれない。
届いたら、それで自分も消えよう。
ぱち、ぱち、と誰かが手のひらを叩いている。ぼんやりした目でそちらを見ると、リリカが拍手をしていた。
「リリカ……」
「悪くないわね。いえ、正直言って、かなりいいわ。今まで私たちが演奏してきた曲に似ているんだけど、聴いたことない曲ね。姉さんが作ったの?」
「みたい」
「曲を作るのも楽しそうね。まあ私はその前の段階、音を作る方が性に合っているけど」
キーボードを目の前に現す。周囲に浮かぶ幽魂が震えるたびに、音が弾ける。ピアノの音ではない。風の声、生き物の鼓動、川のせせらぎ、月の光、電子音、そういった捉えどころのない音が庭に響く。
「いいわね。こういうの、私じゃ作れない」
「どう、姉さん、この素材で何か作れそう」
「やってみるわ。この幽魂、貸してくれる?」
「えへへ、いいわよ」
リリカからルナサへ、幽魂が移されていく。
「姉さん」
「ん」
「レイラって、もういないの?」
ルナサは幽魂のひとつに耳を傾ける。
どくん、どくん、と血の流れる音が聞こえる。リリカはこれをどこで拾ったのだろう。人里か、妖怪の山か、それとも……
「ここには、いない」
「じゃあどこに行ったの」
「わからない」
「どこかにいるんだよね」
縋るようなリリカの言葉に、ルナサは応えるすべがない。
「だって、私たちもはじめからここにいたわけじゃないでしょう。レイラが呼んだんでしょう。だったら、私たちが呼べば、レイラも来るんじゃないの、姉さん」
鼓動は大きくなる。リリカの言葉は、ルナサの心を掻きまわし、ほつれた糸のように乱してしまう。だがルナサが口に乗せたのは別の話題だった。
「この鼓動をモチーフにしたピアノがいいわ。出だしは、リリカね」
「姉さん!」
「リリカ、私たちは、レイラが生んだ幻想よ」
「そんなの、言われなくたってわかってるわよ」
「幻想に幻想が生めるの?」
「やってみなくちゃ、わからないでしょ」
「……そうね」
ルナサはリリカに背を向け、幽魂を身にまとい、音に包まれ、館の中へ戻っていく。ひとり残されたリリカは、キーボードに指を這わせる。まとまりのない音がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「レイラって、どんな風に笑っていたっけ」
リリカは呟く。応える者はない。
「弾けば、思い出すかな」
***
病床のレイラは、リリカが思っていたよりずっと痩せていた。リリカはそれを見ないふりをした。その代わり、レイラを楽しませようと、最近あちこちで集めてまわった音を、彼女の前で披露した。
「リリカ、それはなんの音? 風や水、雨、雷の音とも違うわ。自然の音ではないみたい。でも、弦でもない、管でもない」
「電子の音よ。外の世界の式神が出す音。単調な音で種類も少ないんだけれど、その少ない音の組み合せで、色んな幻視ができるの。もちろん、誰にでもできるってわけじゃないわ」
「物知りね、リリカは」
「えへへ、まあね」
本当は昨日、年経た妖怪にそのことを聞いたばかりだったのだが、特に言う必要も見当たらなかったので、リリカはそのままレイラの賞賛を受け入れた。
「また、外に出て遊ぼうよ」
リリカが言うと、レイラは無言でほほえんだ。そのほほえみはやさしく、リリカを温かい気分にさせたが、満足はさせなかった。なぜならそれは、肯定ではないからだ。
「ねえ、レイラ」
ベッドに横たわるレイラの肩に触れる。ごり、とリリカの手のひらに不気味な感触が生じる。皮膚越しに、レイラの肩の骨を感じる。もう肉はほとんど残っていなかった。そのなまなましさに、リリカは考えるのをやめた。そっとレイラから距離を置く。レイラと、自分やルナサ、メルランが違う存在であるというのは理解していたが、実感を持ってそのことを考えることは、これまでリリカは避けてきた。
「ごめんなさい、それは諦めてもらうしかないわ」
自分たちと同じような少女だったレイラが、徐々に背が伸び、肌の張りが失われ、目に思慮深い光が宿るようになっても、なるべく意識しないようにしていた。それで今までやってこれた。
少女のときも、中年のときも、老婆になっても、レイラの声は美しかったし、その手のひらはいつだって、ぬくみと慈しみに溢れていた。リリカにはそれで十分だった。レイラさえいれば。
今、その前提条件が崩れつつある。最近、姉たちのレイラに対する態度が違ってきている。誰よりも周囲に目配りが利くリリカに、それがわからないはずがない。自分は、殻に閉じこもりがちな長女や、マイペースで図々しい次女とは違うのだ。それなのに、自分ひとりだけが、乗り越えられないでいる。他の三人が乗り越えているところを。
「嫌だ」
リリカは俯いた。涙声になる。
「嫌だっ、レイラ」
レイラは深いため息をついた。リリカの手を取る。安らぎが、手から体全身に広がっていく。けれど、今はその安らぎが怖い。
「嫌だよ……」
リリカはレイラの手から離れた。そのまま部屋を出ていこうとする。背中にレイラの声がかかる。
「ルナサを呼んで。それからリリカ、心配しなくても、私はずっとここにいるわよ。あなたは、私が生んだ幻想なのだから。あなたがいる限り、私もいるわ」
***
リリカはキーボードの音を止めた。夕陽が庭と館と自分を赤く染めていた。袖で目元をぬぐった。ほとんど無意識のうちに弾いていたので、今の曲がなんだったのか、はじめわからなかった。さっきルナサがヴァイオリンで弾いていたものだと、しばらくして気づいた。ルナサの曲を、キーボードと彼女が収集した幻想の音で、再演奏したのだ。
「何これ……すっごい楽しい」
悲しさも寂しさもなくならない。だが、抑えようのない快楽が、リリカの中で熱っぽく疼いていた。
洋館は夜に黒く塗られた。夜と同じように黒色の帽子とベストを身に付けたルナサは、館の窓から飛び出した。
魔法の森を越えた辺りで高度を低く取る。道らしきものがあるが、草で大半が覆われている。再思の道と呼ばれているここは、今はまだ彼岸花が咲く季節ではない。
闇が少しずつ濃くなっていく。魔法の森にはわずかに見られた人間の灯りも妖怪の灯りも途絶える。もうすぐ春になるというのに、この辺りの夜は冷え切っている。弔ってくれる縁者もなく死んでいった魂が、物悲しい冷気を漂わせている。
道の突き当たりには、木々に囲まれた空間がぽっかりと空いている。無縁塚と呼ばれている。行き場のない死者が、ここに葬られる。行き場のない死者とは、縁者もなくひとりで逝った者や、外から迷い込んだ人間だ。
ルナサは、地に降り立ち、ヴァイオリンを肩の辺りに浮かべた。
「やっぱりね」
その声は前方から聞こえた。見ると、闇と木に紛れて青白い幽魂が漂っている。幽魂とともにふわふわと揺れているのは、乳白色の髪の少女だった。
「メルラン」
「時々夜に抜けるから、どこに行っているんだろうと思ってたの」
トランペットを指の先で回す。
「レイラは見つかった?」
「わからない。探しているんだけど。見つからない。いないのかもしれない」
「どうしてここに」
「ここは、誰にも見送ってもらえなかったひとたちが葬られる場所って聞いたから」
「ヴァイオリンを出しているのは?」
「曲が、思い浮かぶの。ここに来ると。今まで私たちは、レイラの知っている曲を、レイラから教えられて演奏していた。自分で曲を作るなんて思いもよらなかった。なのに、ここに来たら、曲の断片が勝手に浮かび上がってくる。レイラが分けてくれてるんじゃないかって、おかしな話かもしれないけど、思うようになったの」
「全然おかしくないわ、きっとそうよ」
そう言って、メルランはトランペットから軽く音を出した。濃く冷たい闇の中、場違いに陽気な音の幽魂が放たれる。それを見ながら、ルナサは言う。
「でも、もし……レイラがここにいるとすると、誰からも見送られていないってことよね」
「レイラは外から来たって言ってたからね。人里の知り合いもほとんどいないみたいだったし」
「私たち、レイラの弔いをしてない」
「ええ、してないわ」
「したら、レイラが本当にいなくなってしまう気がしたから」
いつかレイラが戻ってくる、その考えに囚われていたのは、リリカだけではなかった。
「姉さん、レイラはもういないわ。この無縁塚に、レイラの魂があるのかどうか、それもわからない。だからしましょうよ、葬式。それで、どこにいるかわからないレイラに私たちの音を届けるの。〈天国〉なんて地名、ここにはないもの」
「そうね……レイラを送りましょう」
「送るとなったら、決まりね。演るわよ、姉さん」
「ええ」
「ちょっと待ちなさいよ」
もうひとつの声が、再思の道からやってくる。ふたりの姉は、同時に声の方を見る。
「メル姉さんの乱暴な音をルナ姉さんだけでさばききれると思う? それにふたりだけの音だったらどうしたって単調になるわ」
「あ……」
ルナサは驚き半分、嬉しさ半分、顔に浮かべる。メルランはきょとんとした顔で言い放った。
「あらリリカ、何しに来たの? もう遅いから帰りなさいな」
「ッな!」
「冗談よ~」
「ああもう何よ、ひとが意気込んで来たっていうのにさ」
「ごめんごめん。こんなにたくさんの幽霊を従えているリリカ見るの、初めてだったから。頑張る気満々ね」
リリカの周囲には多くの幽魂が漂っている。そのどれもが生き生きとしていた。
「そりゃまあ、ね。レイラは特別よ。恩返しくらいしてあげたって、いいかなと思うわよ」
リリカはメルランから顔をそむけ、そっぽを向いた。そのまま、無縁塚の闇を見つめる。
「特別よ。だって、レイラは、私たちにすべてをくれた……」
リリカの語尾に、ヴァイオリンの旋律が絡みつく。妹ふたりは、その音の出所を見る。ルナサは目を細め、ヴァイオリンに視線を落とし、少しずつ浮き上がっていた。ルナサを中心に、音の河が生まれる。それはゆるやかに渦を巻く。メルランはその河に乗り、くるりくるりと縦回転しながら、ルナサよりもさらに高く飛んで行った。
「もう、姉さんったら落ち着きがないんだから」
リリカは飛んで行った姉を眺める。
「リリカ」
もうひとりの姉が、声をかける。リリカは自然と背筋を伸ばした。いつになく緊張している妹に、ルナサは緊張を解きほぐすようにほほえみかける。
「まだリハーサルよ……落ち着いて。リリカ、あなたの音を、いくつか聴かせてほしいの。音合わせをしないといけないから」
その包み込むような笑みは、リリカに、かつてあの洋館に住んでいた人間を思い出させた。不覚にも視界がぼやける。慌てて首を振る。いつまた、上に飛んで行ったメルランが戻ってきて冷やかすか知れたものではない。
リリカは周囲に漂う幽魂を震わせた。
ルナサはじっとその音に耳を澄ませた。リリカは試されるような気持ちで音をひとつひとつ姉に差し出していく。気は張っているが、不快ではなかった。むしろ、ほどよい緊張感が、リリカには心地よかった。音を吟味しているルナサもまた、頬をかすかに興奮で染めていた。ふたりの頭上では、メルランがますます激しく回っている。回るだけで音はまだ出していない。ルナサの吟味の邪魔にならないようにしているのだ。
リリカは、自分の中で旬と思う音をひと通り出し終わった。無縁塚の闇は変わらず暗かったが、今までよりも血の通った黒さを持っていた。何かが、姉妹のまわりに集まっていた。妖怪でもない、もちろん人間でもない。そして、レイラでもない。もっと不特定で曖昧な存在。悦び、悲しみ、恐れ、望み、つまり気質。幻想郷において、幽霊と呼ばれるもの。
幽霊たちが、彼女ら姉妹の音を、今か今かと待ち構えている。
そう思うと、リリカの総身に震えが走った。
弦の音が、閃光のように闇夜を駆け抜ける。回っていたメルランが、ぴたりと止まる。トランペットを胸元にそえる。莫大な魔力が頭上で展開される。リリカは息を呑んだ。この魔力をうまく操縦しきれるのか、心配になった。だが、すぐにその心配を打ち消す。それはルナサがすることだ。自分は、姉に求められる音を生めばいい。
「リリカ」
ルナサが言う。ほほえみの中にも、厳しさがある。それは、やさしい厳しさだ。
「楽しんでね」
メルランが言う。ルナサはちらりと頭上を見る。
「セリフ、盗られたわね」
「うふふ」
リリカは息を吸い込んだ。それから、深く吐く。
力強くもなめらかなピアノの音が、無縁塚に流れる。一小節が終わると、そこにヴァイオリンと、打楽器が入った。打楽器の音はリリカが拾ったものだが、展開しているのはルナサだ。自分の音が、自分では思いもつかないようなアレンジで表現されているのを感じ、リリカは驚き、また悦んだ。
周囲の闇が蠢く。いよいよ幽霊たちの存在が明確になっていく。彼らはみな、リリカの、ルナサの音を貪欲に聴いていた。
小節は繰り返される。ますます賑やかさを増す。登っていく。行先はどこかわからない。ただリリカは、ルナサのリードに従い、ピアノを弾き続けていく。頂上が次第に見えていく。
軽やかにドラムが跳ねる。
一瞬の沈黙。
リリカは身をのけぞらせた。上空の闇を見上げる。
メルランが高らかにトランペットを吹き鳴らした。今まではしゃいだり回ったりして、溜めて溜めて、溜めこんでいたメルランが、一気に音を開放した。
そこにヴァイオリンがなまめかしくも軽やかに、からみつく。
場の主導権を、メルランが一気に握った。闇にたゆたう幽霊たちが膨張する。歓喜し、渦巻く。リリカは自制が利かなくなり、周囲を流れるルナサの河に、手持ちの音をありったけぶち込んだ。それは河を壊すことなく、ルナサの精密とメルランの豪快に乗って、むしろ勢いを増幅していく。
音は留まることを知らない。統制は取れなくなってきている。ルナサももう、一心不乱にヴァイオリンを弾き鳴らしている。三姉妹を結ぶ河が完全に出来上がったため、周囲に被害が及ぶこともない。彼女たちのありったけの魔力が、音のテンションを増幅するためだけに使われる。
「レイラ! 聴いて、この音を、音楽を!」
トランペットから口を離し、メルランが叫んだ。
「あなたが私たちを生んで、私たちに教えてくれた、この素晴らしい、最高の遊戯を!」
闇夜高く、幽魂を解き放つ。それは流星のように空を駆けていく。
「見えるよ、レイラ。あなたが笑っているところ、歌を歌っているところ、私たちを叱っているところ。はっきりと、思い出せるよ!」
リリカのキーボードは形を崩していき、ばらばらの光る板になった。板のそれぞれに、レイラの顔が映る。リリカの記憶が、それぞれのレイラを動かす。
三姉妹は自分たちの作り上げた強力な河の流れに身を投じ、ぐるぐると回る。
ルナサは両手を広げ、周囲の観客に向かって高らかに宣言した。
「ようこそ……〈幽霊楽団〉へ!」
***
朽ちてゆく館に、少女はひとり残った。髪は伸び放題で、手入れもされず、少女らしい丸みのある体は少しずつ削ぎ落とされていった。
皿洗いの仕事をした、ブドウ園の収穫もした、物乞いもした。盗みだけは、できなかった。
ひとりでも生きていけるという夢想は、一年もしないうちに端からぼろぼろと崩れていった。やがて少女の日常は、外へ動き回り何かを求めることから、家へ籠り何も漏らさないことへと変わっていった。床に横たわり、必要がなければ指一本動かさない。そうして体の感覚を極限まで鈍磨させ、ぼんやりした頭と目で壁を眺めていると、やがて音が聞こえ、親しい者たちの姿が浮かび上がってくる。
昔、童話で読んだ、マッチの灯に幻覚を見た少女のことを想起する。
あれは、私なのだ。少女はそう思う。
ここに灯はない。代わりにあるのは、音。
かつてこの館に溢れていた幸せと笑いと、豊かな音楽。
少女は、楽器の扱いは姉たちに比べると苦手だったが、歌は誰よりも巧かった。
長女のヴァイオリンと、次女のトランペットと、三女のピアノに合わせて、彼女は伸びやかに歌った。
あのとき花瓶に生けられていたチューリップ、今はもうない過去の花の、ぞっとするほど艶めいた赤い花弁を思い出しながら、少女は今また歌う。
しゃがれた声で、歌う。
おぼろげだった姉たちの姿が鮮明になる。それは、姉ではない。わかってはいるが、少女は歌うのをやめない。それでも構わない。目の前で陽気に飛び跳ねる彼女たちが、本当の姉でなくても構わない。
私の幻想よ、生まれよ……!
***
河はまばゆく、万華鏡のように輝く。
「これでいいのかな、レイラ」
ルナサは思う。熱狂する自分とは別に、冷静に今の自分たちを眺める自分がいた。
「私たちはあなたを忘れないし、こうして音を奏で続けることで、あなたのことも忘れさせない。このまま、いつまでもずっと、この地に留まり、弾き続けるわ……」
気が遠くなってくる。
熱狂の果てに、自分たちの存在が音に消える。それでもいい、とルナサは思う。
「少しだけ、思ったの。かつてあなたが、あなたの親しい人たちを元にして私たちを生んだように、私たちが、好きだったあなたを元にして、私たちと同じような存在であるあなたを生もうかな、って。そのレイラはあなたじゃないかもしれないけど、私たちは新しいレイラもきっと好きになれる。そんなことも、考えた。人間が幻想を生むなら、幻想が幻想を生んだっていい。そうして、曖昧な存在が、鏡合わせのように増殖していく、そういうのもいいなって」
音の奔流に、リリカが呑み込まれた。一瞬のことだった。リリカの音が消えてしまった。轟々と流れる河の勢いは、それほどまでに強くなっていた。メルランが、怪訝そうな顔をした。
「けれど、やっぱり、幻想するのは人間の特権かもしれないわ。幽霊も、そして妖怪も、幻想される存在ではあっても、する者ではない。幻想する妖怪や幽霊というのがもしいたら、それだけでもう規格外、突然変異の化物ね」
メルランの下半身が流れに呑まれる。メルランはルナサを見た。楽しそうに笑った。ルナサもほほえみ返した。直後、メルランの頭は河に沈んだ。
「だから、あなたのレプリカを作ることは諦める。その代わり、あなたを永遠に弔い続ける……」
ルナサもまた、回る河に呑まれようとしていた。河の中は音と霊に満ち満ちている。そこに溶けていく。
そこで、強い拒絶に遭った。
「ッッッ!」
音が歪む。途端、今までの浮遊感が嘘のように、重力が体にのしかかる。
円環する河は弾け散り、ルナサはまっさかさまに地面に落ちた。そう遠くないところに、メルランもリリカも落ちる。
音が途絶えた。緊張、絶頂、惑乱、激情、そういった快楽が悉く、消えうせた。あとには白けた空気ばかりがあった。闇に蠢く幽霊たちは、突然演奏が終わったことに戸惑いを隠せないようだった。しばらくはうじうじとその場に残っていたが、三姉妹が完全に沈黙してしまったのを見て、三々五々、帰って行った。
「どうして……ッ」
ルナサは暗い空を仰いだ。誰かが邪魔をしたのだと、本能的に悟った。
「レイラを語ることを邪魔するのっ! 私たちが存在するのは、レイラのためなの。レイラが死んだら、レイラを生かさないといけない。音楽の中だけでも。どうしてそれすらさせないの! なぜ……」
ルナサは立ち上がる。肩にかかる重力に耐え、空に吼える。
「なぜだ!」
メルランもリリカも倒れたままだ。ピクリとも動かない。ルナサの足下に幽魂が這い寄る。ヴァイオリンを現す。今までの輝きはどこにもなく、黒ずんでぼろぼろになっている。それでもルナサはその楽器に縋る。縋るしかない。
「いいだろう。誰かが、私たちが奏でるのを邪魔するというのなら。瑞々しい調べを調子外れの金切り声に、悦びに満ちた音を耳障りなノイズに変えるというのなら、その金切り声でわめきちらし、ノイズをふりまき、ありったけの騒音で残してやる。レイラの全存在を! 他のあらゆる生き物の鼓膜に呪いを刻みこんででも残してやる! レイラの生きた証を!」
どす黒い幽魂がルナサを包み込む。
再び周囲に幽霊が集まり始める。先ほどよりも、重苦しく、陰気な幽霊たちが。
ルナサは笑った。今までのほほえみよりも、何倍も大きく口を開いて。腹から笑った。
「……やめときな」
綿のように濃い霧が、辺りにたちこめる。それは緩慢に、だが確実にルナサと黒い幽魂を取り囲んでいく。陰気な幽霊たちはたちまち退く。
「お願いだから、怨霊になるのだけはやめといてくれ。あんただって苦しいし、渇くし、苛々するし、眠れない。それに何よりも……」
長身の女が、霧の中から姿を現す。赤髪に青い和服。肩には巨大な鎌を担いでいる。
「あたいが、面倒だ」
風を切って、瞬時に鎌を前方に構える。ルナサは目を細める。
「死神か」
「まだ、話はできそうだね。安心したよ」
「話ぐらいは聞くわ。曲でも聴きながらね」
ヴァイオリンから、禍々しい音が生まれる。死神の女は顔を歪めた。
「い、いいかい……レイラは、あんたらの妹は、解放してあげなきゃいけないんだ」
「私たちがあの子を縛っているっていうの」
「そうじゃない。でも、そうなりそうだよ。レイラは、もう弔われたんだ。外の世界で」
「え……」
ルナサの表情に、戸惑いが生まれる。禍々しい音は少し軽くなる。
「だから、こっちでいつまでもレイラを語り続けると、レイラは成仏できない。いや、普通に思い出話で話す分には一向に構わないんだよ。けど、幸か不幸か、あんたたちは力が強すぎた。あんたたちが音楽を媒介にして本気で回想しようとすると、生と死の境界を越えちまいかねないんだ。せっかく無事に弔われて落ち着いたレイラの魂が、また乱されてしまう」
「レイラは、私たちの元に帰りたくないってこと……そう、それなら、もう私たちがどうこうする問題じゃないわね」
「ああ、違うんだ、違うんだよ、そんな落ち込むな。あたいまで陰気になっちまう。そうじゃなくて、レイラはあんたたちにも物凄い執着を持っているからこそなんだ。外と幻想郷、どっちに対しても強く心を惹かれたら、まずいんだよ、色々と」
「どうまずいの」
「そこはそれ、あたいもまあ上のことはよくわからないけど。とにかく、事情があるんだ」
「事情が何なのかわからないけど、どっちにしろレイラが外を選んだのなら、それでいいわ」
ルナサの周囲の幽魂からは、黒が薄れていった。音は先細りになり、やがて途絶えた。赤髪の死神は、安心したようにひと息ついた。
「何度も言うけど、レイラの魂はあんたたちを忘れるなんてことはないし、他の誰かを優先させたからといって、あんたたちを大切に思ってないなんてことは、絶っっっ対にない。あたいが誓ってやる。だから、な、機嫌直して、これからも幽霊やってておくれよ。消えるなんて言わないで。さっき遠くからあんたたちのライブ見てたけど、いやあ、よかったよ。このまま消えるなんて勿体ないよ」
鎌を担ぎ直して、ルナサに近づく。その肩を両手でばしばしと叩く。
「それはあなたの知ったことじゃないわ」
ルナサは死神に背中を向ける。
「あ、そうだ。あたい、小野塚小町ってんだ。せっかくだからあたいに曲を聴かせておくれよ。おひねりは結構持ってるよ」
小町はルナサの袖を引っ張る。ルナサは振り返って迷惑そうな顔をした。だが、嫌悪感とはまた違った。ルナサは戸惑っていた。
「ううん……なんだか騒がしいわね」
リリカは目をこすりながら起きた。頬は泥で汚れている。涙の跡だとわかるくらいまでは、辺りはもう明るくなっていた。夜明けが近い。
ルナサの姿を認めると、リリカは悲しそうに笑った。
「私たちがまだいるってことは……うん、わかった。もう、あまり思い出さないようにする。思い出したら、一緒になって消えちゃうんだよね」
「だあああっっっからなんでそんな風にネガになるかねえ。ちょっと今はあっちも弔われたばかりで魂が不安定なんだよ。時期を待ちなって時期を。いやいつになるかわかんないけど。とにかく、諦めるのは早すぎるの。なんでこんな暗いんだよ」
「姉さんのせいかな」
「え、私のせい?」
「姉さん暗いもん」
「それというのもさっきから音楽がないからだ。ほら、演った演った!」
突き抜けるようなトランペットの音が響く。メルランは仰向けに横になったまま、宙に浮いていた。
「整理すると~、今、思い出しちゃいけない」
「駄目だとは言ってないよ。ただ、全力でやるのはもうちょいと待った方がいいかねえ」
「そのうち、よくなるのね。全力で思い出しても」
「ああ、多分ね。そんな気がする」
「あなた、死神のくせに頼りないわねえ、下っ端?」
「うるさいな、騒霊のくせに。いいからとっとと演り……」
ヴァイオリンが奏でられると、途端に場は引き締まった。小町もすぐに口を閉ざした。曙光が射す中、真夜中よりも静かなテンションで曲は始まった。ゆるやかな河の流れが再び出来上がる。それを見て、小町は慌てて止めに入ろうとしたが、河の中を見て、立ち止まった。
「へえ……こりゃ、すごい。境界が開いてらぁ。しかもこんなに静かに。なぁんだ、あたいの出る幕じゃなかったのかな、この分じゃ。でもまあ、いいものを聴かせてもらったからよしとするか」
三人が作る河は、円環を象る。そこに、映像が浮かび上がる。
向こうの、外の世界への扉が、一時的に開かれる。
音が風に乗り、河の中へ吸い込まれていく。
*****
ドアが開くと鐘が鳴り、外の風が店内に吹き込んできた。
「今日はやけに冷えるわね。風も強いし」
帽子を壁際にかけ、栗色の髪を撫でつけながら、老婆は呟いた。
「あら、その分、中は暖かくて快適よ。得した気分だわ」
テーブルの老婆は、カップをソーサーに置き、ショートケーキのかけらを口に運び、幸せそうに笑った。
「ああ、おいしい」
「まったく……相変わらず得な性分ね、メル姉さんは」
マフラーをほどきながら、栗色髪の女はため息をつく。
「そうね、おかげで私に悩み相談をするひとたちは、みんなハッピーな顔で部屋を出ていくわ。ほんと、得な性分でよかったわ」
「それを商売にできるんだからたいしたもんだわ」
実際には、単に口当たりのいい出まかせをいうだけでなく、細かい生活上の具体的なケアや解決策まで提出しているからこそ、メルランの商売は成り立っている。適当にやっているようでいて、自分に足りない部分は他者の力を借りるようにして、組織的に動く術も身につけている。
「リリカは? 舞台を企画したり、音楽家を育てたり、ホールを経営したり、ずいぶん手広くやってたみたいだけど」
「うーん、一時期全然駄目だったけどね。聴こえる音がみんなありきたりの、陳腐なものに思えてきてね。演出家として私が駄目になったのか、世界中の音楽家が駄目になったのかどっちかわからなくて正直かなりきつかったけど、結局単なる私の体調不良だってわかってからは吹っ切れたわ」
「ほんとに体調不良だったの?」
「まあそういうことにさせてよ。規模は縮小したけどね。前よりは音楽を聴ける耳になったかなって思っているわ」
テーブルを挟んで姉妹は向かい合う。それから、口を閉じて、店内に静かに流れる音楽に耳を澄ませた。やがて喪服に身を包んだ老婆が現れる。三人とも、並の若い者より、はるかに背筋がしゃんとしていた。
「あら、マスターのお出ましね」
「別に、経営しているわけじゃないわ。それは他の子に任せているもの。私は弾いたり作ったりしているだけ」
「この店、普通は〈ルナサの店〉で通るんだけどねー。まあいいわ。もうゆっくりできるの」
「ええ」
三人はテーブルにつく。また、やさしい沈黙が流れる。
「……うーん、こうやってまったり音楽を聴くのもいいけれどね。せっかくレイラのこと知っている三人が集まったんだから、あの子の話をしない?」
「元からそのつもりだったものねー。やっぱりあの子も、私たちみたいにお婆ちゃんになっているのかしら」
「そりゃそうでしょ」
「あの子、なんだかお伽話の女の子みたいで、年を取りそうになかったわね」
「そりゃまあ私たちが知るあの子は、ちょうどそのくらいの女の子だったから、そう思ってしまうものよ」
「でも、こうしてリリカや姉さんを見ているから、どういう風に人が年を取るかはなんとなくわかるでしょう? でも、レイラはよくわからないの」
「夢を見ているのよ、メルランは。レイラも私たちと同じ、生まれて老いて死ぬ、人間よ」
「あんな、夢みたいに消えても?」
「私たちは、消えたところを見たわけじゃないわ」
リリカが口を挟む。メルランは目を大きく開いて、一言で言い返す。
「消えていたわ」
「そうね、不思議なこともあるものね」
ルナサは落ち着いて言う。
「レイラ、どこにいったのかしら。父さんの思い出の館と一緒に……」
「ええ、一番、父さんに懐いていたものね」
メルランの呟きに、リリカが同意する。
三人はそれぞれに飲み物を口にする。
「普通に考えれば」
次に口火を切ったのはルナサだった。
「あの状況なら、レイラは餓死する運命しか残されていなかった。私たちだって、生きることに精一杯だった」
ふたりの妹はうなずいた。
「けれど、館ごと消えていた。どういう原理で、とかはもうどうでもいいわ。とにかく、レイラと館は消えた。私たちは何度か同じ夜に、同じ内容の夢を見たりした。昔の姿で、レイラと話す夢を。それも事実。それにも説明はいらないわ。どうせ考えたってわからないから。そして、確証はないんだけれど、それでも、確かにわかることがある」
「レイラ、もういないわよね」
「どこかで、きっと、もう」
ルナサはうなずく。ひと月ほど前のことだった。三人には〈わかった〉のだ。十分だった。それ以上のことは〈わから〉ない。それぞれの予定を合わせて、こうして三人で集まった。
「送りましょう」
ルナサが立ちあがる。ふたりの老婆は続く。店の奥に、こじんまりとした、しかししっかりとした作りのホールがある。すでにそれぞれの楽器が用意されている。
チェロ、フルート、オルガン。
三人がそれぞれの楽器を手に取る。ふたりの妹は、長女を見る。長女が今まさに弦を奏でようとしたときだった。
「……あら?」
メルランがフルートから口を離し、不思議そうに呟いた。
「これは……」
続いて、リリカも顔を上げる。
どこからともなく、音が流れてきていた。懐かしいのに、聴いたことのない曲。けれど、彼女なら、こんな曲を作ったのかもしれない。
「あ……あ……」
ルナサの頬を、涙が伝う。
「なんて……懐かしい。これは、私たちの音……」
幻想から呼びかけてくる音楽に応えるようにして、三人の協奏曲は始まった。
プリズムリバーのシリアスなお話は最高です。
ルナサもメルランもリリカも魅力的に書いてくれてて嬉しいです。
東方で一番好きなのが三姉妹なので、有り難いです!!100点しか入れられないのが悔しく思えるくらい素敵でした。
出来れば、また貴方の書く三姉妹のお話を読んでみたいです!!
最近好きなんですよ、プリズムリバー。
100点もってきな!
愛があるなぁ。
最後のシーンが特に気に入りました。繋がる世界。
きっと、外の世界に残された三姉妹も死んでいくのでしょうが、魅力的な時間を過ごしたのでしょう。
ああもう、くそぅ。私も頑張らないとなぁ。
良い雰囲気でした~
しんみりとして暖かい素敵なお話でした。
>5さん
その言葉、ありがたくいただきます。次の作品への糧とさせてもらいます。
次はルナサは出ますが、申し訳ないことにメルラン、リリカは出ないのですよーorz
が、おもしろいものにがんばってしますので出来たら読んでください。
>6さん
三人そろったときのあの華やかな感じは、プリズムリバーならではの美味しさです。
>10さん
受け取ったァ!
>13さん
東方は愛だらけです。もう抜けられないです。
>17さん
現実のプリバとつながるラストシーンは例大祭後、
早い段階で決まっていたんですが、それまでの三姉妹のじめじめしたやりとりに
気力を裂かれました。
メインを盛り上げる前段階が苦労します……だからこそ、当のシーンに行きついたとき
テンションがマックスになるのですが。
>18さん
これ以上ないくらいストレートに行こうと思いました。
ちなみに私の書いた作品の中で一番エロ成分が少ないと思います。
>20さん
妖々夢といえば幽々子! ばかりではないのです。
いくら私が幽々子好きとはいえ。
>23
実は私もそう思ってましたw
書いてるときのひとりよがりの陶酔でなくてよかったです。
ありがとうございます。
三人のメロディは、しっかりとレイラに届いていたのだと、そう思います。
催促してスミマセン! 超楽しみに待ってます!
皿を叩くAAを出したかったのですが見当たりませんでした。
コメントエネルギー補給ありがとうございます。
24時間後には執筆開始します。
これから8時間ほどはサラリーのために時間を消費しないといけないので……
そのあと10時間ほどビジョンするので……
短編なので15日20時までにはアップします。宣言してしまいました。
「背水の陣だ!」
登場キャラのことあんまり詳しく知らないんだけど
それぞれの個性や背景にある設定などいい感じに把握できた気がします。
というか勝手に脇役的なポジションだと思ってた分
こんなストーリーが生まれることにびっくり。
失礼しましたほんとごめんなさい。
個人的にはバトル物が大好きなんですがこういうシリアス系もいいですねぇ。
なんというか短めの映画を観終えたかのような気分です。
そろそろ執筆開始とのことなのでがんばってくださいね。
どうでもいいですが野田さんや設楽さんの書く東方キャラが
自分の中でのオリジナルになっていきそうですw
たけうさぎのてゐがいいキャラしてたなー・・・っとこれはまた別の話か
有り難うございます!!!
幸せだ! ルナサに会えるwww
背水の陣を敷かせてしまい、申し訳御座いません。
……が、あまりに魅力的なお話を書かれる貴方がいけないのです(笑)
最近こっち側のウェブ上の行動範囲が広がっているようでなによりw
コメントありがとうございます。
プリズムリバーはカードでは強いけど、確かに原作ではあまり目立たない位置……
一応パチェと同じ4ボスのはずですが。
レイラの話は、東方の中ではド定番のひとつなので、それをどう表現するかに心を砕きました。
>32さん
まずったな、ずいぶんハードルをあげてしまった……(汗
ですがそう言ってもらえるのは書く者にとって一番の悦びなので
ちょっくら知恵と心を絞ってきます。ぎゅぎゅっと。
あの世界がとても良く表現されていると思います。