飛ぶ、飛ぶ、飛ぶ。
視界に映る世界を縦横無尽に。
ときおり吹く強い突風に驚き、空中で体勢を崩しそうになるけれど。少女は漆黒の羽を広げて耐え、再び高く、より高く舞い上がる。
「あは、あはははははっ!」
新鮮な空気を肺に送り。
羽で空気を叩いて宙返り。それだけで世界が変わる。ゴツゴツとした岩場の多い地底とは比べ物にならないほど、飛び回っているだけで多様な風景の変化を見せてくれる、天井のない世界。
そうやって飛びながら、お空は一度やってみたいことを実行することにした。
地底でこんなことをすると大怪我をしかねないから、一度も試したことすらなかったことを。
さあ、そうと決めたら行動あるのみ。
お空は一度空中を大きく旋回し。
その眼前の遥か彼方にそびえ立つ山を目標として。妖力を推進力に変換すると同時に、風を打ち、急加速。音速の壁を掠めているせいで、周囲に微かな衝撃波を撒き散らしながら炎を纏い、突き進む。
一度、やってみたかったのだろう。
誰にも文句を言われることのないほど広い場所で、自分の好きな速さで真っ直ぐ飛ぶ。
たったそれだけのことが、気持ち良くて。お空は直進に回転を加えて遊んだ。
しかし――
お空は知らない。
地上にもしっかりとした天井があるということを。
そしてそのお空が目指した山という場所こそ、その厳格なる規制を持った場所であることを。
「止まれっ! ここは許可ない妖怪がそう易々と入れる場所ではない! どうしてもと言うのであれば、この犬走 椛がお相手します!」
一人の白狼天狗がその眼前に立ち塞がり、盾を構え不意の侵入者を迎え撃つ。妖怪の中でも上位に組みする天狗がそう意気込めば、大抵の妖怪はその前進を止め頭を下げるのが通例である。が――
「え、あのっ! だから止まれって言って――」
「んにゅ?」
くるくるっと激しく回転を繰り返し。
ものすごい勢いで直進する。
そんなものがすぐ停止するわけもなく。
「はぅっ!」
「んにゅふっ!」
ごつんっと二つの影が勢い良く重なり。
重く、鈍い音が空中で響き渡らせ。
痛々しい音の余韻が残る中、二つの影はゆっくり地表へと落下していくのだった。
◇ ◇ ◇
「んー、遅いですねぇ、お空」
お空が夕食の時間に遅れる。
そんな通常ではありえない現象にお燐は首を傾げ、対面のテーブルに腰掛けるさとりを上目遣いで見る。いつものように無表情で座っていたので、どうやらお燐は『お空が帰るのが遅いから怒っている』そう思っているようだ。
「大丈夫ですよ、気にしてませんから。お空だって外に出られるようになって遊びたい盛りなのでしょうし」
「そ、そうですか。じゃあ、もうちょっと待ちます? お忙しいならさとり様はお先に召し上がります?」
お燐は最近、ずる賢いことを覚え始めている。
口調では選択肢を残しつつも、心の中では一つのことしか考えない。できれば一緒に食べて欲しいと、強く心に描きつづけるのだから。
「いえ、そうするとお空が落ち込むでしょうし、待ちましょう」
自動的にさとりが一つしか選べないように。
他人の心を読む、第三の眼にしか見えないように訴えるのだ。しかもちゃんと、さとりが忙しくないことを確認した上で。
外見は無邪気に見えるのに、中身はしたたか。特にお空のことになると面倒見のいい姉のよう。それでも、さとりはしっかりと手綱を握ることを忘れない。
「そうね、お空と一緒なら、勢いに任せておかわりもできるものね」
「いやだなぁ、さとり様。あたいがお空みたいに食い意地張ってるわけないじゃないですか」
「でも、最近、太ったでしょう?」
「な、何故それを!!」
「あ、やっぱりそうでしたか。最近活きの良い地上の食材も入ってきたせいか、よく食べるとは思っていましたが」
「……あちゃぁ、さすがさとり様。一本取られました」
地霊殿の中でも、外見はキスメに次いで華奢なお燐。
そんな彼女の肉付きが良くなったということは、それだけ地底世界が豊かなことになった証明と言っていい。なので、喜びはしても、悲しむべきことではない。
が、主人に対してずる賢いことを仕掛けたお返しとして、お燐のお腹あたりを指差した。するとお燐は困ったように笑いながら、顎をテーブルの上に乗せた。その上には地上と交流を持つようになってから入るようになった、色取り取りの食材を使った料理が並ぶ。
「だって、こういうの目にしたら。食べちゃいますって。あっ! そういえばさとり様だって! この前服を縫い直してたじゃないですか! ちょっときつくなったんでしょう?」
「……記憶にないわ」
「あー、嘘です。絶対嘘です! だって私見たの三日前ですもん。そんな最近のことさとり様が忘れるはずないじゃな――」
ぎぎっ
「ただいまー」
「おかえり、お空。さぁ、すぐにご飯にしましょうか♪」
「……おかえり、お空」
自分が振った話題で墓穴を掘りそうになったのを、ゆっくりと入ってきたお空によって救われたさとりは、満面の笑みでテーブルに迎えた。しかし、さとりを指差した状態で身を止めたお燐は、あからさまに不機嫌な声をお空に向けた。
そんなよくわからない空気に首を傾げながらも、お燐の横に腰掛ける。
なぜか、少しだけお腹を気にしながら。
「ん? どうしたの? お腹まわりが気になる?」
「お腹まわり?」
さっきまで話題に上がっていたので、ついお空にも聞いてしまったお燐だったが。気の利いた言い回しが通じず、顔をしかめるばかり。
「太ったか? ってことらしいわよ」
「ああ! さっすがお燐、難しい言葉知ってるなぁ。でもたぶん私は太ってない気がするよ。お燐よりは」
「……♪」
ちくっと。無言の一撃がお空の額に襲い掛かる。
「いたっ! 痛ぁっ! なんでいきなり爪で突くかな!」
「なんとなくっ!」
「難しい乙女心というものよ、お空」
「……乙女心、難しい。んむぅ」
たぶん自分がどんな地雷を踏んだのか、乙女心という言葉すら理解していない。
そんなお空を見つめながら、さとりは手を合わせ。
それに二人のペットが続く。
『いただきます』
ぺこりっと頭を下げてから、彩り鮮やかな料理に手を伸ばしたのだった。
「……お空の嘘つき。やっぱり一番太ってる」
「にゅ、らにあ?」
もぐもぐ、と。口の中にサラダを詰め込みながら言葉を発しようとしたため、何を言っているかはわからない。が、首を傾ける仕草から何を示しているかはよくわかる。
「ほら、そこ。ぽっこりお腹」
「む?」
お空がご飯を食べながらお腹をすりすりっとさすっていたので、お燐が気になって横目で見たところ。何故さっきは気が付かなかったんだろうと、自分の目を疑うほど膨らんでいた。この三人の中では一番良く食べるのだからどうしようもないとは思うが、お燐から言わせればさっき誤魔化したのが少々気に障った。
だって本当に、目立ってしまうのだから。
これじゃあまるで。
「ん? ああ、これね」
お空はお燐の見つけた膨らみを、また優しく撫でて。
『ん~』と上を見上げながら唸り声を上げ始める。
その瞬間。
さとりが咽た。
あまりに唐突に咳き込んだので、料理が変なところに入ったのかと思いながら、お燐は手近に合ったお茶に手を伸ばした。
その直後に、お空の表情がぱっと明るくなり。
「そうそう、これ、私の子供♪」
無邪気に言い切る。
そんな笑顔をまともに受け、ぐびっとお茶を喉に流していたお燐は。
ごふっ
盛大に咽た。
さとりが咳き込んだ原因は、料理ではなく。
唐突に『子供』というイメージが襲い掛かってきたから。
それでも、しばらくすると咳は収まる、が。
「こ、こど、どどど。どどどどどどど?」
「お燐、落ち着きなさい。奇声を上げている場合じゃないわ」
咳が収まっても、あまりの衝撃に思考回路がどこかすっ飛んでしまっている様子。お空のお腹を指差して、カクカクと体を大袈裟に揺らす。
「まさか、お空を自由にさせたら……こんなことになるだなんてね。私の知らないところでお大人の階段を上っていたとは」
「さ、さと、さとりさまっ! おちちゅぃてりゅびゃぁいじゃにゃいですよ!」
「あなたはもう少し落ち着きなさいね、お燐。噛み過ぎよ」
壊れたブリキのおもちゃのように、硬い動きで首を向けてくるお燐の意見を冷静に聞き流し、静かに椅子から立ち上がる。対面からでは机が邪魔でそのお腹の様子が見えなかったから。
そうやって覗き込むと、確かにお腹の下あたり。ちょうど股より上の部分が不自然に膨らんでいる。ただ、その膨らみは内部から膨らんでいるというより。
「服の、中?」
何かを布とお腹の間に入れているようにしか見えない。
そのさとりの指摘に、お燐はもう一度じっとその部分を見つめて安堵のため息を吐いた。
「なんだい、お空。いたずらはやめてよね。本当に信じちゃったじゃないのさ。さあ、はやく隠してる中身を見せてみなよ」
捨てたくない何かを拾ってきて、自分の子供と嘘を付いたのだろう。
そう思ったお燐は、笑みを浮かべながらぽんぽんっとお空の肩を叩く。
「ん? 見せればいいの? 少しだけだよ?」
ただし、忘れてはいけない。
さとりが咽たことを。
心を読めるはずの彼女が、そんな反応を示したということが何を意味するか。すべてはごそごそと、服の中をまさぐる彼女の手の中の物体が証明する。
「はい、これ♪」
真っ白い、大きな。
両手で包み込むのが難しいほど大きな『卵』。
言わずと知れた、鳥類の子供だ。
「ほーら、やっぱり! そんなことだろうとおもったよ」
お燐は、安心したようにそっと胸を撫で下ろし。
「卵、卵って、お空。有性卵的な無性卵と見せかけて半熟卵でスクランブルエッグ的な危機的状況かと思ったけど、黄身と白身のハーモニーが奏でる素敵なコントラストが賛美のゆで卵を割ったときのような感動的要素で」
「落ち着きなさい、お燐。支離滅裂すぎるわ」
「だ、だだだだだだだ、だって! さちょりたま!」
「それと、噛まないように」
鳥の子供、イコール、卵。
そんなものをお空があまりにあっさり取り出したことで、お燐の混乱度数はうなぎのぼり状態である。そんなお燐の状態など気にせず、お空は取り出した卵を再び服の中に仕舞い込んだ。
その様子を眺めつつ、さとりは思考を繰り返す。額に少々冷や汗を浮かべながらも、冷静に過去の記憶を辿る。今朝の様子、昨日の様子。それ以前の、もっと前の。そこまで考えてみても、やはり違和感しか残らない。
「お空、恥ずかしかったら答えなくてもいいのだけれど。その卵に関係した記憶は残っている?」
口にしなくても思考してくれればそれでいい。
悟ることのできるさとりなら、それで十分だから。何せ行為が行為である。今の状況のお燐にそんなことを聞かせると大変なことになるに違いない。
そう考慮したというのに。
「はーい、私もこういう経験があまりないのでどうやって説明したらいいのかわからないですが」
さとりが止める前に口に出してしまっていた。
しかも、その内容が。
「えっとですね、やっぱり最初はすっごく痛かったんですけど。その前はすっごく気持ちよかったです」
お燐が、椅子から転げ落ち。
さとりは頭を押さえる。
「その後は、もう何がなんだかわからない感じで。なんかこう、ふわっていうのか。落ちてるのかどうなのか、全然で。えへへ、あんまり記憶がないんですが」
お燐は転げ落ちた状態から床で丸くなり、お空に背を向け。
さとりはすうっと目を細める。
「気が付いたら、中にありました。卵」
お燐は丸くなったまま耳を押さえ、力なく顔を横に振り。
さとりはコンコンっと指でテーブルを鳴らす。
まったくもって対照的な二人の態度を見比べながら、お空はまた大事そうにそのお腹の卵を優しく撫でたのだった。
◇ ◇ ◇
「――えっと。何? じゃあこういうことかい、お空? 地底の、温泉用の熱の調整をした後に、地上に遊びに行って。気持ちよく空を飛んでいたときに、天狗とぶつかった」
「うん」
あのままでお燐の精神に以上を来たしてしまうのではないかと心配したさとりは、もう少し困らせてみようかという欲求を抑えて、教えた。お空が本当に経験した今日の出来事を。
そうやって、さとりが順を追って教えていくたびにお燐の目が丸くなるのだから。
それはそれで面白い反応だった。
「で、その後、気を失ったような、よくわからない状態で地上に墜落した」
「うん、コブできちゃった」
何故、落下してコブ程度ですむのかは疑問である。
しかし実際その程度なのだから仕方ない。
ただ、お空の全速力に近い速度で体当たりを受けた天狗がどうなったかはあまり考えたくはないが。
「はっきりと意識が戻ったときはもう、地面の上で、スカートの中に卵があった。と?」
「そうだよ? さっき言ったし」
「全然っ! まったく伝わらなかったのよ!」
「むー? お燐、なんでそんなに怒ってるの? やなことあった?」
「あぁぁぁぁぁっ! もう! なんで、なんでこう、あんたって奴はぁぁぁ……」
何度も何度も地団太を踏み、怒りを表現してみても。
目の前の烏はどこ吹く風。
食後に出された紅茶を鼻歌交じりでかき混ぜている。ただし何かお燐の中で不満が爆発していることは知ったようで。
「大丈夫? 何かお薬飲む?」
「いらない! もうなんにもいらない!」
心配して声をかけたつもりが。
余計にお燐が背負う空気を重くする。
そんな自分の暗い気分を振り払うように、お燐は紅茶を一気に口の中に押し込み。
「……お燐、それ、出来たて」
テーブルの上で悶絶する。
何かを掴もうとわきわきと手を動かすがそこには何もなく、冷たい飲み物も近くに存在しない。はぁはぁっと口を広げてなんとか空気で冷やそうとし、合わせて身振り手振りで何かをお燐に伝えようとした。
まず地面を指差し。
次に何かを両腕で拾う仕草を見せ。
丸い輪を手で作って何かを表現した後で。
お燐を指差し、バッテンを両腕で作る。
普通はそのジェスチャーではほとんどわからないとは思うが、そこはやはり長年の付き合い。種族は違えど、相手のことはよくわかっている。お空は『はいっ』と元気良く手を上げる。
「わかった! 地底で、死体から怨霊を作ってたときに、怨霊の一匹が、逃げちゃったことを黙ってて欲しいって言ってた昨日のことだね!」
「――っ!?」
勘違いするだけならまだしも、内緒話を簡単に漏らした。
さすがお空だ、他人にできないことをあっさりとやってのける。
そんなお空の話を聞き、冷たい視線を向けるさとりに、ふるふるっと小刻みに首を横に振った。
「お燐、旧都の勇儀さんが怨霊が地上に出てるって苦情を聞いたそうだから、後で一人で謝りに行きなさいね」
「……ぁい」
火の妖怪なのに、熱い飲み物に弱い。旧灼熱地獄の熱は呼吸しても平気だというのに。
そんな奇妙な特性を持つ、お燐は。さとりの指摘になんとか痺れから開放された舌で返事をした。
「さて、じゃあその怨霊の話は良いとして。お燐がさっきあなたに伝えたかったことを私の口から言うわ。その子はただ森で拾ってきただけで、あなたが産んだわけではないのでしょう?」
「はい、でも。その誰も卵を探してるような気はしなかったので。この子のお父さんも、お母さんもいませんでした」
「それで持ってきてしまった、と?」
「はい、私の卵にしちゃいました」
その発言に、さとりは顔を歪める。
お燐が、何もわかっていないから。
元は同じ鳥類だというのに。
その卵の意味をまったく理解していなかったから。
本当ならそれは、すでに命をなくすべきものだというのに。
「お空、本当に親鳥が巣に戻そうとか、そういう素振りはなかったのね?」
「はい、全然。それに、中でたまに音がするんですよ。こつこつって♪」
「え、本当かい? お空」
「うんうん、聞いてみてよ」
お空のお腹に耳を当て、お燐は思わず感嘆の声を漏らしてしまう。その白いものの中でコツコツと。
もうすぐ出て行くから待っていて、と。
小さな命が、その存在を必死に訴えているように。
親鳥へと伝えているかのように。
何度も何度も、殻を叩いていた。
「その音は、そんなにはっきりと聞こえる?」
「は、はい! さとり様、凄いはっきり聞こえますよ! 聞いてみます?」
「いえ、遠慮しておくわ」
さとりが首を横に振ると、少しだけお空が寂しそうな顔をするが。再びお燐が話し掛けたせいでまた笑顔に戻る。
もうすぐ生まれてくるはずの。
新しい生命について語り合って。
でも、さとりは知っている。
それは生きてはいけない生命。
本来、産まれることを許されないはずの。
山の中で朽ち果て、他の者の養分としてならなければいけなかったもの。
だって、それは捨てられた子供だから。
もうすぐ生まれそうだという事実がそれを告げている。
鳥の中には、初めに生まれた一匹、または多くて二匹だけを育て。それ以外の卵は捨ててしまう。そういう種族がいる。生存競争に勝つため、より強い雛を残すための、命の選定。
そこから抜け落ちたものは、巣の中から捨てられ地面に落ちて、他の動物の餌となる。
きっとそれを、お空は知らない。
一般的な鳥の成長しか知らないから。
それを見捨てられず、拾ってきてしまった。
ただ、落ちてたから拾ったと簡単に言っているけれど。
葛藤したはずだ。
木の上の巣から奇跡的に割れずに残った卵とを見て。
どうしてもその場に残しておくことが、できなくなってしまった。
「あの、その、それで、ですね。さとり様。この子のことなんですが……」
「……わかっています。育てたいのでしょう? でも、仕事はどうするのです?」
「あ、それは……」
灼熱地獄の管理は、ほとんどお空一人でやってきた。
地上との交流のため温泉の経営を始めたさとりは最近大忙しだし、人の姿を取れるようになったさとりのペットたちも、同じように毎日働いている。
それなのに、自分の仕事を放って卵を温め続けるのは。
他のペットに対して示しがつかない。
だから、諦めるしか――
「あたいがやる」
お空が、肩を落とし顔を俯かせた、そのとき。
お燐がテーブルにばんっと手を乗せて立ち上がる。
「あたいはお空と長い付き合いだから、死体がいくつ必要とかそういうのはわかります。だから、えっと、卵から雛が帰るまで私が温度調整やりますよ! それさえできれば、いいんでしょう? いいんですよね!」
「しかし、お燐。わかっていますか、育てるというのはそんなに簡単なことでは」
「お空が忙しいときは私が面倒を見る。そうやって困ったときに助け合うのが地底では一番大事だと、さとり様はおっしゃってました。だから何があろうとそれが一番のはずです!」
困ったときは、助け合う。
忌むべき妖怪や獣として追われた者たちはそうやって生きていた。地上とは違う、閉鎖された空間で、必然として肩を寄せ合うことしかできなかった。
「そうですね、地底ではそれが一番。そういうことでしたね」
だからお燐の今の言葉は屁理屈に過ぎない。
お空に世話をさせるためだけに言ったこと。
必然性のまるでない、単なる自己満足。
「いいでしょう、やってみなさい」
それでも、さとりは頷いていた。
さとりだって、昔、馬鹿なことをした妖怪を知っているから。
見捨てられた動物たちが見過ごせずに引き取り、自己犠牲の精神と言いながらも寂しさを紛らわせていた。
他の妖怪から理解されない。
そんな悲しさを誤魔化してきた。
愚かな妖怪をよく知っていた。
そんな『愚かな妖怪』の前で、二人のペットは両手を繋いで喜んでいた。
◇ ◇ ◇
母性というのは、自分がお腹を痛めて産んだ子供でなくても生まれるもの。
そんな俗説を、信じてもいいかと最近思います。
お空が最近、ご飯も早々に自分の部屋に戻ってじっと卵を温めているのですから。あれだけやんちゃで、待てといっても数秒間しか動きを止められない。そんなあの子が布団の上で微動だにしないのですから。
誰に教わったのかは知りませんが、時折羽をばたつかせて卵の周囲の空気を入れ替え再び体を丸めてお腹で暖める。
そんな姿に、お燐も感化されているようで。
私に笑顔で報告してくるのです。今日はまた一段と卵を突く音が大きくなったと。明日あたりに生まれるかもしれない、と。まるで自分の子供のように大喜び。自分も子供が欲しい言い出さないかが不安の種ではありますが、まだ卵に夢中になっている今なら問題はないのかもしれません。
それでいいのかもしれません。
このまま何事もなく卵から成鳥まで育て、生命の大切さを学ばせてみるのもいいのかもしれません。
その大切さを改めて知ることで。
お空がその力を無闇に振るうことがなくなるのではないかと。
そんな希望的な机上の空論まで思い描いてしまいます。
さて、こうやって感情のままに筆を走らせていたら、誰かが部屋をノックしてきました。おそらくお燐でしょう。声でわかります。
昨日卵にヒビが入ったと言っていたので、もしかしたら。
では、続きはまた。明日。
そうやって私が日記を閉じて、お空の部屋に向かうと。
「ぴぃっ! ぴぃっ!」
小さな、羽を力なく動かし。
ただお空の姿だけを見つめ鳴き声をあげる。
そんな小さな命がお空の布団の上にいて。
お空は、ただ泣いていました。
新しく生まれた雛に、頬擦りをしながら。
そんな幸せそうな、親鳥のようなお空を見て。
私は少しだけ、不安になったのです。
◇ ◇ ◇
「ほらほら。ここに美味しそうな、ちっちゃなミミズがあるよ~、ほ~ら、ほら!」
「ぴぃっ! ぴぃっ!」
「じゃあ、いくよ♪」
お燐は、地霊殿の床に座らせた『ぴぃ』に元気に動くミミズを見せて。口を明けさせる。大きく開けられた赤い口の中が早く入れて、と訴えていた。
それを見たお空は満足そうにうんうんっと頷くと。
ぶぉんっ!
投げた。
10メートルほど遠くに。
「よし! ぴぃ! 取って来い!」
「ぴぃっ……」
「……お空、それ絶対幼児虐待だから」
ため息をつきながら、お燐は台車を動かし。お空が投げたミミズのところまで行って摘み上げる。その台車の上では今死者ではなく、同じようなミミズが20匹ほどくねくねと動き回っていた。
「え? 子育てってこういうのじゃないの?」
「たぶん、種族によって違うんだろうけど、お空のって絶対鳥向けじゃないと思うよ」
ましてや、この『ぴぃ』と名づけられた雛はまだ生後5日ほどなのだから。
ほとんど餌に反応して口を開けることしかしない。
よちよち歩きもいいところである。
「そうかぁ、難しいなぁ」
「いや、お空の場合考えた結果間違った方向に突き進んでるだけな気がするんだけど」
そうやってお燐に注意されたお空は、少々むっとしながらもミミズを指で摘み上げて赤ちゃんの口へと運んでいく。飲み込もうとするときに目をパチパチとさせる仕草なんて実に愛らしい。
そんな姿を見ているとついつい手も進んで。
あっというまに後二匹。
その台車のミミズに手を伸ばすが。
「あれ?」
いない、さっきまで確かにあったはずなのに。
落としたかと思って周囲を見渡してみても、いないし。
お燐も知らないと首を振る。
二人ともわからないのに。
物が消えた。
ということは。
「……こいし様、いたずらはやめてくださいよ。お空夢中なんですから」
「あ、ばれたか。さすがお燐。お姉ちゃんの右腕、右尻尾」
「なんで尻尾ですか?」
「なんとなく」
さっきまでは何の気配もなかった空間に。
すっと、一人の少女が姿を表す。まるで水面に空気の泡が向かってくるときのように、ぼんやりと。
その少女はミミズを右手に持っており、それを不思議そうに見つめていた。
「鳥の子供ってこんなの食べるんだ。美味しくないのに」
「……そうですか? 私、そんな嫌いじゃないですけどって、食べたことあるんですか、こいし様?」
「私、昔結構食べた覚えあるけど、美味しかったよ?」
「ふーん、二人とも食べるのね、どれどれ」
ぱくっ
「あ、ああぁぁぁっ! ぴぃちゃんのご飯……」
二人が静止するまえに、こいしはくるっと背を向けて。ミミズを持った右腕を上げて。口の上あたりから落とす。
そしてもぐもぐっと口を動かして。
「あー、まずい、もう一匹」
「駄目です! いくらこいし様でも絶対駄目です!」
「まあ、あたいはこいし様が欲しいって言うなら、もっと集めてきてもいいですけど。できれば、この子の分はとらないで欲しいかなと」
「ふーん、そうなんだ」
二人から責めるような視線を向けられても、こいしはニコニコと笑いながら後ろで手を組み。その左手がいきなりお空の前に差し出されて。
「はい、どうぞ」
ぱっと開いたときにはさっきのミミズが手から落ちてくる。
てっきり食べられたとばかり思っていたお空は、慌ててそのミミズを両手で掴み。こいしに疑問の視線を向けた。
「手品ってやつだよ。ちょっと人のいる里でうろうろしてたら、そういうのやってたから。真似しただけ」
ただし、こしいが無意識を操って本気で手品をはじめたとすれば。
人里の芸人たちは店を畳むことになってしまうに違いない。
「もぅ、こいし様もお人が悪い」
「『彷徨い歩く知識の探求者、ミスこいし嬢』って言ってくれてもいいんだよ?」
「長いですし、言いにくいです」
「じゃあ仕方ない。こいし様で許してあげよう」
どこまで本気なのかまったくわからない。
そうやって二人に微笑を向けたこいしは、ばいばいっと背中を向けて手を振った。
「あ、そうだ」
そのまま部屋に戻るのかと思ったら、また二人を振り返って。
「ちゃんと、飛び方も教えてあげなきゃダメよ? じゃあね」
当たり前のことを告げて、去っていった。
でもそんな当たり前のことで。
お空は、何故か俯いていた。
◇ ◇ ◇
その後も、『ぴぃ』と名づけられた鳥のお世話は続いた。
お空一人ではどうにでもならないところも、お燐が知識でカバーして。どうしようもないときは、さとりやこいしに頼る。そんな世話の係るお空親子であったが、4ヶ月ほどそれを繰り返しただけで、『ぴぃ』は名前に似つかないほど大きな鳥になった。
鷲や鷹といった猛禽類に属するような、お燐の腰の高さを優々と超える鳥に。
でも母親が大きすぎるので、そんな怖いとかいう印象はほぼない。
どちらかというと。
「ほら、ぴぃ! そこは走る!」
母親の後ろをよたよたと歩いてついていく甘えん坊にしか見えないから困った物だ。羽でバランスをただ側で見守るお燐はもっと根本的なことを疑問に持ち始めていた。じっとそのぴぃの姿をみて私の名残、猫という動物だったときの部分が違和感を唱えている。
あれは、一体なんだろう。
そうでなければいけないということはない。
だって私たちは普通の生を持つものとは異なるから、通常の命を持つものと同じ教えをする必要はない。そうお燐は自分に言い聞かせた。
あれが普通だ、と。
でも、やはりその姿を見ているだけで、こう頭の中から違うという言葉が浮かんでくる。
だからお燐は部屋の中で一緒にかけっこのようなことを繰り返すお空に近づいて。
「お空、あの、そろそろ、さ。飛び方を教えてもいいんじゃないかい?」
「飛び方?」
「うん、ほら、あの子の羽も大分立派になったろう。練習すればきっと、飛ぶことが出来るようになるよ」
走る度に人が手を振るように、ぴぃは翼を中途半端に開いてばさばさと動かしている。本来はそうやって使うものではないのだが、母親がわりのお空がずっと走ってばかりいるのでそうやって覚えてしまったのだろう。
体の何倍もある羽は地上を歩くには邪魔でしかない。
だってあれは本来大空を飛ぶためにあるのだから。大空を舞い、大気を打つ。そのために種族として持つ特徴の一つなのだ。
「うん、でもさ、ほら。私の羽って大きいじゃない。羽ばたくとさ、ちょっと怖がるから」
「怖がるからって、そんなんじゃいつまでたっても飛べないよ?」
「うん……」
そんな陰を帯びた表情をするお空を見て、お燐は感じた。
ぴぃが怖がるのではなく。
怖がられることをお空が恐れているような。嫌われたくないという感情が強くなっているように思えたから。
「大丈夫、うん、絶対教える。教えるから、今はちょっと待っててよ」
急に立ち止まったお空を、心配そうに見上げるぴぃの姿と、困ったように笑うお空を見てお燐はそれ以上何も続けられない。ただ『わかったよ』と微笑を返すことしか出来なかった。
お空にとって初めての経験だから、手探り状態に違いない。
だから仕方ないんだ。
お燐は少しだけの不安を胸に抱えて、そんな二つの影を残して死体探しへと出掛けた。後もう一ヶ月もすればきっと、空を飛ぶことを教えるだろう。
そう楽観してその場を後にした。
けれど、お空は二ヶ月以上経っても、ぴぃに飛ぶことを教えなかった。
お燐だけでなく、見兼ねたさとりも注意を始めたが。
暗い顔で首を横に振るか。
ぴぃを抱えて逃げてしまう。
そればかりか……
「もう、さとり様も! お燐も、ほっといて!」
ぴぃのことを話しただけで過敏に反応し、心配して声を掛けても噛み付くように怒鳴るようになってしまった。何気なく日常会話も交わすのに、どうしてもその話題になると怒気を放つようになっていた。
それもすべて、飛ぶことを教えようとする試みから始まったこと。たったそれだけなのにどうしてそんなに頑なに断るのか。羽のない妖怪だって空を飛んでいる。人間だって飛んでいる時代だ。
お空は、どうしても空を飛ぶのを教えようとしない。
そしてそのまま、ぴぃが生まれて一年が経過しようとしたとき。
お燐とさとりは午後のひとときの中で、そのことについて話し合っていた。今まではしょうがないと苦笑をするだけで終えていたけれど、最近のお空の不安定さは何かよくないことを想像させるから。
「……そうね、お燐の言うとおり。あの子は何かを怖がっている。たぶん本人も何かわからないのでしょうけれど、飛ぶ、ということを極端に恐れている」
「え? 暇があれば地上に出て、飛び回っていたお空がですか?」
「そうね、あの子は羽を広げて飛ぶのが大好き。だから私もよくわからないのです」
さとりは困ったように肩を竦めて、ティーカップに口を付けた。
「自由に空を飛ぶ楽しさを知ったお空が、何故それをあの子に教えたがらないのか」
かちゃりっと、さとりがカップをテーブルの上に置くと。
軽く握っていた指の間からそれが一瞬のうちに消えた。
取っ手から指を外した覚えなんてないというのに。
ということは、カップを奪った犯人は……
さとりはふぅっと息を吐くと、瞳を細めながら後ろを振り返る。すると、さっきまでいなかったはずの少女がちびちびと紅茶を口にしていた。
「ふーん、わかんないんだ。おねーちゃん」
「……人の紅茶を盗み飲みしないでくれる?」
「いいじゃない、別に。姉妹なんだから。あ、お燐、紅茶。砂糖ましましで♪」
半分ほど飲み干してからカップをさとりに返し、さとりの横に座りながらお燐に自分用の紅茶を要求する。
「太るわよ?」
「お姉ちゃんこそ、そんな苦い紅茶よく飲めるね。それに頭を働かせるには糖分が一番だって、誰かが言ってたよ」
『頭が働いていない』と、実の妹に遠まわしに言われ、さすがにむっとしたさとりは、テーブルの上を左手の指で叩き。もう片方の腕で頬杖をつく。
「その言い方だと、お空が飛び方を教えたがらない答えを知っているようだけれど?」
「当然よ。あれだけペット飼ってるのに、わかんないほうがおかしいね。知りたかったら心読んでみれば?」
「あなたの心が読めればとっくにそうしてるわ」
「その第三の目に頼ってばっかりだから、簡単なこと忘れるんじゃない? あ、お燐ありがと♪ ん~、そうそう、この甘さが大事ね」
紅茶を啜り、頬に手を当てる。
こいしのそんな様子を見ていたお燐は、あることを思い出した。
一度だけ。たった一度だけ。こいしがお燐の様子を見に来たときのことを。そのときはミミズ騒動で頭が回らなかったお燐だったが、あのとき、こいしはこんなことを言っていたはずだ。
『ちゃんと飛び方を教えないといけないよ』と。
もしかしたらそのときから、こいしは何かを感じていたのかもしれない。お空にゆっくりと迫っていた暗雲を。何者にも囚われない、そんなこいしだからこそ気付き、それを暗に示した。
「お姉ちゃんが気付かないって事は、お燐もわからないのかな? 忘れちゃったのかな? たぶん、知らないなんてことはないと思うのよ」
こいしの言うとおり、お燐には皆目検討もつかない状況だった。知らないことはないと言われても、両手の指を合わせていじることしかできないし。さとりはさとりで妹に馬鹿にされているのがおもしろくないようで、頬を膨らませている。
そんな二人を見て、こいし。くすり、と笑う。
「お姉ちゃんは、捨てられていた動物や妖獣を拾って一緒に暮らしてきた。だからその怖さがほとんどわからない。だってみんな、体がほとんど大人のときに拾われている。飼われているから視えないことだって、あるんじゃないの? と、ご馳走様。また遊んでくるよ♪」
「あ、こいし様! さっきのはどういうっ!」
お燐の静止の声も聞かず、すっとまた空間に解けて消えてしまう。
せっかく手がかりが貰えると思って期待していたのに、残されたのはよくわからない言葉だけ。飼われているとは言っても、仕事以外ではみんな気ままに生活している。束縛なんて受けた覚えがないというのに。何が違うというのか。
困惑しながらも、こいしのカップを片付けようとしたとき。
「そうね、みんな大人になってから。拾ったから……」
さとりがつぶやいた。
「本来、命はそうあるべきだもの……」
ぼそり、と。
何かを自分の中で確認するように。
「お燐。明日、夜になったらお空を連れて私の部屋にいらっしゃい。そのときに、こいしが言っていたことを教えてあげるから」
ぴぃ、という新しい住人を加えて。たったの一年。
それでも地霊殿の中は目まぐるしく動いた。
その中心にいたお空と、その側にいたはずのお燐。
「はい」
お燐は、首を縦に振り。
椅子に座ったまま、膝の上の布地をぎゅっと掴む。
一番側にいたのに、気付けない。
そんな自分が、悔しかったから。
◇ ◇ ◇
次の日の朝。
お燐はお空の部屋に行った。さとりが呼び出した件を伝えるため、朝の仕事よりもちょっと早い時間帯に。とりあえず、いつも起きているから大丈夫だろう、と何気なく扉を開けた。
そのとき――
ばふっ
「にゃぅ!?」
散乱した茶色と黒の毛が扉を開けた風圧で舞い上がり、お燐の視界を覆う。驚いたお燐が一歩入り口から下がり、半分以上開いているその部屋の中を恐る恐る覗き込めば。
汚いどころの話じゃない。
足の踏み場もないくらいの、羽毛空間になっていた。絨毯が羽で半分ほど覆われているとかそういう話じゃない。もう、床に何が敷かれていたのかすらわからない状態だった。無事なのは入り口くらいで、ベッドの周りなんて、脛の高さまで羽が重なり合っている。
一度、お空が。『羽とか、自分の匂いのするものがあったりすると落ち着く』とは言っていたものの。さすがにこれは不味い。
いや、それより不味いのは。
「お空ぅ……」
寝てる。
熟睡だ。
もうすぐ、さとりが経営する温泉の火力調整をしないといけないというのに、布団の上でぴぃと一緒に幸せそうな顔で寝息を立てている。そのあまりの呑気さに邪気を奪われたお燐は、肩を落としてつかつか、とお空に歩み寄り。
いや、ベッドを素通りして。何故か窓ガラスまで直進し。
そこに指先をあてがい。
爪を、ガラスに触れさせたまま、引いた。
「秘奥義、怨霊の目覚め!」
ぎ、ギギギャギギョォ☆◇%#”$っ!
「うにゅぉぉぉぉぉっ!」
苦手な人は、鳥肌が立ち寒気すら感じるという。
ガラス、爪引っかき。
不快感を運ぶ大音量は狭い部屋の中を駆け巡り、熟睡していたお空はベッドから転げ落ちてしまった。ぴぃなんて、びくっと体を動かしてから、体を痙攣させてしまっている。どうやら苦手のようだ。
「うー、痛い……頭打った」
「そんなゆっくり頭触ってる場合じゃないよ! お空! 早く準備して!」
「えー、準備ってぇ?」
ぼりぼり、っと寝ぼけた様子で後ろ頭を掻く。
瞳はとろんっとしていて、まだ現実世界に戻っていないようだ。
だが、お燐の慌てる姿と、さとりから貰った懐中時計の時間の針を確認して。
「ぇ、ぇぇぇえええええっ!?」
見事に悲鳴を上げた。
おたおた、と。ベッドの上であっちを見たりこっちを見たり。もう時間が無さ過ぎて何をしていいのかわからない、混乱状態に陥っている。だからお燐は、ぽいっと壁に掛けてあった服をお空の近くへと放り投げて。
「先、行ってるからね」
それだけ残して、部屋を出て行った。
「あ、わ、私も行く! 今行くから!」
お空は、素早く服に袖を通し。寝癖の残った、リボンすら付けていない頭で駆け出そうとして。ふと、ベッドの上で気絶したままの愛しいぴぃを振り返り。
「じゃあ、いってくるね……」
つぶやき、ゆっくりと入り口のドアを閉めた。
が――
そのドアに。
弾力のあるお空の抜け落ちた羽が挟まった。
◇ ◇ ◇
「あー、言い忘れちゃったね。あたいとしたことが……」
まさか、朝のあの騒動で大事なさとり様からの伝言を忘れちゃうなんてさ。あたいらしくないね、本当に。少し前のお空なら、午後からはもう外に遊びに行くから伝言は間に合わないところなんだけどね。最近はずっと地霊殿の中をぴぃと走り回っているから、捜すのが簡単なのが救いかねぇ。
あたいは、尻尾をゆっくりと左右に振りながら廊下を歩いていた。
どこに行くつもりかって?
そりゃあ当然お空の部屋だよ。
きっともう火力調整の仕事が終わって、あの子と遊んでる頃だからね。まず部屋に寄って、いるかどうか確かめないと。たぶんいないとは思うんだけどさ。
そうやって廊下を歩く自分の足音だけを聞いてしばらく進めば。
すると、ほら、見えたよ。
あの一番手前の。
おや?
扉が何故か半開きだね。
やっぱり出掛けたかな。
それにしても、開けっ放しなんて無用心すぎやしないかい、お空。
さとり様にあの部屋の状況が見つかったらもう、大目玉どころじゃすまないと思うし。ここは一つ、お燐お姉さんがしっかり閉めておいてあげようか。
あたいは、廊下に他の人影がないか探ってから素早く移動し。お空の部屋を目指す。もしさとり様に出会おうものならその時点で終わりだからね。あたいがドアを閉めることに成功しても、心の中を見られたらそれでお終い。
だから行動は迅速に、確実に。
軽いステップから、一気に前方に飛び。
ドアノブに手を掛け――
「お燐……?」
と、あたいが部屋を覗き込むよりも早く。
ドアを掴んだ音にお空が反応して、こっちを見つめていた。まさか開きっぱなしの部屋にいるとは思わなかったから。正直驚いたね。うん。
ベッドの上に座りながら、その足の上にぴぃを乗せ、その毛を優しく撫でている。
その横顔はあたいがあまり見たことがない表情だったから、少しドキッとしちゃったよ。
「おや? これは静かに退散した方がいいかな?」
昼寝を邪魔しては不味い。
けれど、伝言だけは残したい。
なので簡単な会話を交わした後で、話そうか。
あたいはそう思って、お空の返答を待つけれど。お空から返ってきたのは意外な言葉。
「ううん、ゆっくりしていってよ。ちょっと、私もお燐に伝えないといけないことがあったんだ」
穏やかな表情で、お空があたいを手招きする。
いいのかな、って思ったけどさ。
正直、嬉しいよね。うん。
だって最近、お空の中ではずっとあの子が一番で。あたいは二番か、それ以下。だから会話をゆっくりする機会なんて、随分久しぶりな気がしたから。
あたいは促されるままにお空のすぐ隣、ベッドの上で胡坐をかいた。
「どうしたんだい? ちょっとはあたいの声が聞きたくなったとか?」
おどけて見せるけれど、きっとあたいの尻尾の先は機嫌良くパタパタと布団を叩いているに違いない。顔だって、自然に笑みを作っているかも。
「そうだね、少しだけ話がしたくてさ」
でも、お空は何かを躊躇うようにあたいに背中をくっつけてきた。顔は見えなくなったけど、お空の温もりが伝わってくるようで、一瞬だけ心臓が跳ね上がっちゃったよ。何も考えずにこんな大胆なことをするのが実にお空らしいんだけど。
トクンッと。背中から伝わる音が。
少しだけ弱々しく感じたんだ。
「ぴぃ、にさ。あたいが空を飛ぶのをなんで教えなかったかってこと、今なら言える気がして」
「今じゃないと言えそうにないのかい? さとり様の前で一緒に聞いてもいいけど?」
「さとり様の前は、ちょっと嫌かな……」
やっぱりその話か、という納得と。
何故、という疑問があたいのなかでごちゃごちゃになる。話の内容は予測できたけれど。お空がさとり様に話をするのを嫌がるなんてあまりなかったから。でも、最近のお空の態度からして、顔を合わせにくいのかもしれない。
「ふーん、じゃああたいのために語っておくれよ」
そうあたいが言うと、お空はあたいより大きな背中を預けるように。
そっと体重を掛けてくる。
今がさとり様の伝言を伝えるチャンスだというのに。あたいはお空の言葉だけを待った。久しい親友の言葉を独り占めしたかったから。
「私はね、きっと考えたくなかったんだと思う……」
躊躇うように、言葉を捜すように。
お空はぽつりぽつり、とつぶやき。
そっと天井を見上げた。
「飛ぶってことが、ぴぃとお別れすることになるって思って」
あたいは、やっと気がついた。
大人の動物を飼うだけじゃわからないことの、本当の意味を。
あたいたちみたいに、成長しきったときにさとり様に拾われたなら。離れる必要なんてない。だってそこが気に入っちゃったら、出て行く理由なんてないしね。
でも、自然界は違う。
幼い雛はいつか鳥になって、大空を羽ばたく。
「羽を動かすことだって教えなかった」
しかし、そうやって空を飛ぶということは。
親元を離れるということ。
それが巣立ち。
「綺麗に翼を広げることだって教えられなかった」
でも、お空は離れたくなかった。
大好きなぴぃを、手元から飛び立たせなくなかった。
だから――
「空を飛ぶっていう幸せを、教えてあげられなかった……」
ぴぃから、幸せを奪ってしまった。
鳥として生まれたことの喜びを、感じさせてあげることができずにいた。
親鳥が、巣立ちを恐れたのだ。
でも、大丈夫。
まだ、大丈夫。
お空は気づけた。
自分の間違いに気づいて、反省している。
「お空、まだ間に合うよ! 少し遅くなっちゃったかもしれないけど。立派なお母さんとして、がんばろうじゃないか。絶対あたいが支えるから」
あたいは、ぴょんっとベッドの周りの羽毛の中に飛び込んで。
お空の前に回り込んだ。
急にあたいっていう壁が消えて、ベッドの上でバランス崩すお空の肩を支え。
つんっと、人差し指でおでこを突付く。
「……あ、久しぶりだ。この感触」
「能ある猫は爪を出すんだよ、さあ、そんな暗い顔してないでさ。ぴぃが起きたら特訓しようじゃないか」
あたいの視界の中で、お空はまだ膝の上でぴぃを抱いていた。
今ので上半身が動いたものの、ぴぃはまだその全体重をお空に預けている。
まったく、親も甘えん坊なら、子供も甘えん坊ときたもんだ。
顔は、おもいっきり強面なんだけどねぇ。
「いままでごめんね、お燐」
「いいよいいよ、気にしないって。あたいとお空の中じゃないか」
「ホントに、ごめん……」
「もう、しんみりしちゃって、いやだねぇ。お空はこう、笑ってないと可愛くないよ。あ、でも、あたいの可愛さには敵わないけど」
おどけて見せた。
お空が少しでも笑顔になるように。
少しでも元気になるように。
少しでもその翼で飛び上がれるように。
けれど――
「……ごめん、ごめんね」
お空の表情は、晴れない。
いや、どんどん曇っていくように見えた。
失敗しても、次頑張ればいい。そんな前向きな、いつものお空が嘘のように。項垂れたままずっとぴぃを撫で続けている。
「私、お燐がやったんじゃないかって。酷いこと、考えたんだ」
酷い、なにがだろうか。
確かにぴぃのことではあたいに迷惑はかけたと思うよ。でもね、そういうのじゃないんだ。お空が気にしているのはもっと別の何か。もっと黒くて粘っこいものだと思ったね。
「部屋が、開いてたから、お燐がやってきて開けっ放しにしたのかなって」
部屋を開けっ放しにした。ふむ。
よくわからない。
実際、お燐が朝お空を起こしてから今日やってきたのは二回目なので。お空が勘違いしたんだろう。でもそれが何故酷いことになるのか。
あたいがお空の話に耳を立てていたら、ふと、もやもやした感覚が浮かんできた。
「だから、ぴぃが一人でお出かけしちゃったのかなって」
変だ。
あたいの嗅覚が、何かを見つけている。
火車の能力が、疼いている。
「私を探して、地霊殿の中を歩き回って」
でも、あたいはそれを一度否定する。
あるはずはないと。
そんなことが、起こるはずがない、と。
「そうやって、地霊殿から外に出てさ……」
それでも、決定的なことがあった。
だって、お空はずっと。
過去形でしか、言葉を発していない。
もう、戻らない、思い出を語るように。
「ぴぃ、ね。旧灼熱地獄にさ……落ちちゃった……」
「ぇ……?」
あたいがさっきから疼いていた理由、それは、死体を見つけたから。
目の前にある、まるで眠っているだけのような。
母親のひざの上で、幸せそうに瞳を閉じているようにしか見えない。
そんなぴぃから、死臭を感じたんだ。
「ぴぃ、さ。目が覚めて私がいないことに気づいて。きっと慌てたんだと思う。いつもはお出かけしてくるよって言ってから、火力調整のお仕事するから。でも今日は、寝坊して、慌てて。それを言わなかったから。ちゃんとドアが閉まったかの確認もしなくて……」
淡々と語ろうとしているのに、声が震え、羽が痙攣を始めていた。
「今日もね、遊べるって思ったんだ……」
感情を抑えようとしても、雨で氾濫した川のように。
「これからもずっと、遊べるって思ってた」
お空の中ではもう抑えきれなくなってきているんだ。
その強すぎる感情で。
「でもね、灼熱地獄からの帰り道でね。見つけちゃったんだよ」
その胸を、痛めていたんだ……
子を抱きしめながら。
「ぴぃ、がね、倒れてるの……」
あたいは、思わずお空を抱きしめていた。
おもいっきりお空の顔を、小さなあたいの胸に押し付けて。だって、もう、そんなに悲しい言葉を口にして欲しくなかったから。
無理やり、息ができなくなるほど強く、押し付ける。
「冷たいんだよ、お燐」
でも、お空は口を動かし続ける。
「ごはん、食べてくれないんだよ」
あたいの服に顔を擦り付けながら、想いを嘆く。
「甘えて、鳴いたりもしてくれないんだよ! なんで、なんでかな! 火の中に落ちたわけじゃないのに、岩場にいただけなのに、妖怪だったら熱くても耐えられるのに! ぴぃは……ぴぃは……耐えられなかった。だって、そうだよね? 私、飛ぶこと教えてないもん! 飛べたら逃げられたのにさ! 私、馬鹿だから、教えなかった! ぴぃが離れてくって思って、教えなかったら……きっと、ぴぃは苦しんだんだよ。苦しんで、私を恨んで……」
「違うよ、そうじゃない!」
その後に続く言葉は、さとり様じゃないあたいでも理解できた。
だからあたいは必死で止めようとした。
でも、お空は、嗚咽を零しながら。
「ね……? ほらね……私のせいだ……私が全部悪いんだ、私がね、ぴぃを、殺しちゃった」
「違うよ! 絶対に違う! お空は一生懸命お母さんやってたよ。だって、そうじゃなかったら。そうじゃなかったら……」
少しだけ、間違っていたかもしれない。
甘やかし過ぎていたかもしれない。
怖がり過ぎていたかもしれない。
でもそれは、お空があの子を本当の子供のように思っていたから。
そうじゃなかったら、報われない。
こんな終わり方なんて、あたいは認めたくない。
「でもね、お燐、私、馬鹿だから……こうやって撫でてたら、起きてくれるんじゃないかなって……」
「お空……」
「もう一度、元気に飛び跳ねてくれるんじゃないかなって……思……って……」
でも、残酷な現実はお空に告げる。
冷たくなった、ぴぃの肉体が、お空を現実に引き戻す。
「お空、泣いていい。あんたは今、泣いていいんだよ」
あたいが、そっと頭を撫でてやると。
その後は、もう。言葉にすらなっていなかった。
必死で抑えていたんだろう。
涙が洪水のように流れ出し、お空はめちゃくちゃに泣き叫んだ。
あたいの体が引きちぎれるんじゃないかって思うほど、強く抱きついてさ。
その痛いのなんの。
でもね、きっと、痛くないんだよ。
お空の、心の痛みと比べたら、全然。
痛く、ないんだ。
◇ ◇ ◇
今度生まれてくるときも、ぴぃがお空の子供でありますように。
あたいは、そう願いながら。
ぴぃの亡骸を地上へと運んだ。
あたいがここで死体を処分したら、怨霊になっちゃうからね。
死体運びが死体を捨てる、なんてさ。
笑い話にもならないけど。
あたいはそれでいいと思った。
お空も地底の入り口でそれを見守っていたし。
何か言いたそうにしていたけれど、ぐっと唇を噛んで我慢していた。
あのお空が、一言もしゃべらずに我慢したんだ。
それだけで凄い成長だと思うよ、あたいは。
「……お空、これを」
あたいが、地面にぴぃの死体を転がす。
それをじっと見ていたお空に、さとり様が何かを手渡した。そして私に聞こえないようにこっそりと、お空に耳打ちをする。
するとお空は、羽を大きく動かして。戸惑っていた。
慰められて、それを素直に受け入れられなかったのかな。
それから、10日間、お空は仕事中も、私生活でも、ぼーっとしていた。
大事なものが欠落した余韻が、大きすぎたんだろうね。
火力を間違えて2倍に設定しようとしたときは、地底壊滅の危機だったし。
それでもさ。
あの子は強い。
たった10日間で、笑うようになった。
まだぎこちないところもあるけど、元気におはよう、って笑いかけてきたよ。そしてさ、朝食も早々に地上へと出かけていっちゃった。仕事は終わったのかって聞いたら、『お願い、お燐。後やっといて』だって。まったく猫使いの荒い烏だこと。
でも、お空は地上で何をするってわけでもないんだよ?
空を、飛ぶだけ。
翼を動かして、目一杯飛ぶ。
お空はそれが大好きだから。
あたいは苦笑しながらそれを見送って、まだ朝食途中のさとり様に問い掛けた。
「そういえば、さとり様。お空、最近何か首からぶら下げてますけど、なんですあれ?」
「大事なお守り、ただそれだけ」
んー、お守りか。
えっと、まさか。
「……安産とか、子宝のお守りじゃないですよね?」
「あなた、私をなんだとおもっているの? そんな追い討ちをするようなことするはずがないでしょう?」
で、ですよね。
さとり様ともあろうお方が、そんな妙なことをするはずがありませんよね。
いやぁ、安心安心。
「お空にね、あの子も連れて行ってもらおうかと思って」
「あの子? ですか? 勿体ぶらないで教えてくださいよ」
「駄目よ、私を妙なことで疑った罰」
「ぇ、ぇぇぇぇえええええええっ!」
仕方ない。
お空が帰ってきてから聞いてみ――
「一応、お空には内緒にするようにって言ってあるから」
「……読心、凄いですね」
「それほどでもないわ」
あたいは、ちょっとだけ悶々としながら。
目の前にある朝食にかぶりついた。
地底でそんなやり取りが行われているなんて知らないお空は、広い空を自由に飛ぶ。
突き抜けるような青空へと、垂直に向かっていったかと思うと。今度はわざと翼を動かすのをやめて、重力を感じる。大気の中に自分の体を預け、自由落下の感覚を楽しみ。
地上数メートル上で、急停止。
「こら、またあなたですか! 勝手に妖怪の山に入ってはいけないと」
「はぁ~い、ごめんなさい」
「へ? あ、あれ? わ、わかればいいのです。わかれば!」
白狼天狗に注意を受ければ、そこからすぐに飛び退き。また空へと舞い上がる。その動きは空を生きる天狗と同じか、それ以上に。優雅に、空を飛ぶこと純粋に喜びとしているように見え。
だから白狼天狗は見蕩れてしまった。
思わず、感嘆の声を上げそうになってしまうほど。
それほど、空を飛ぶお空が、輝いて映った。
そんなお空の首には、耐熱加工が施された、赤いお守りが下げられていて。
飛びながら、お空はそれに何度も触る。
「ぴぃ、これが飛ぶってことだよ……」
古ぼけた卵の殻、その破片が入ったお守りに囁き。
お空はまた、空を翔ける。
力強く風を打つ音を、その場に残して。
…うん。何だかんだ言っても難しい事はあまりわからないのだけど、楽しませて頂きました。
読みやすさは別として、話の流れは良いと思います。一気に読めたのでね。
シリアス成分に作者が堪えられなかったかなw
なんかおかしくないですかこの文章。
あと、ほんとに後書きは余計だった。
まぁ俺はあとがきで評価が上がることはあっても、下がることはありませんからこの点数ですが、「余計だった」という方の気持ちもわかりますよ;w
空はあまりに迂闊、そして愚かだったと言わざるを得ませんね。もともと助からなかっただろう命が少しでも長く生きられた、と考えればあんまりかもしれませんが。
自分のエゴで死なせてしまったのもまた事実ですからねぇ。だからお空は飛ばねばならんのです。飛べなかったぴぃの代わりに、そりゃあもう自由にねぇ。
あとがきを修正しました。
ご意見ありがとうございます。