「ねえねえ、永琳」
いつものように薬草を調合していると、後ろから声が。
「どうかした?輝夜」
見ると、輝夜が忙しない様子で私を見つめていた。なにか面白いことを思いついたらしい。
私は匙を置いて、腰を上げて輝夜の話を聞く体勢を整える。輝夜は瞳を僅かに楽しそうに光らせながら、私に用件を言った。
「私にもっともっと文学について教えてほしいの」
「文学…?」
輝夜が勉強とは珍しい。
しかし文学といっても種類が豊富で、そもそも輝夜がおとされた当時の地上の文学、いまの地上、つまり外の文学、ここ幻想郷の文学、はたまた月の文学なのかもわからない。…ひょっとして、全部なのだろうか。そうなると私は構わないが輝夜が疲れてしまわないか心配だ。
私がそう悶々と思案していると、輝夜はにっこりと微笑んで『文学を学ぶ目的』を語った。
そして、私の思考はしばし止まることになる。
「私だって読み書きはできるし、歌だって詠めるわ。でもそれだけじゃ足りないの。—私、物語を書きたいのよ!」
姫と従者と芥川賞
輝夜が寝静まったあと、私は薬品などを開発する私室で一人机に向かっていた。
ランプの明かりのもと、今日開発した薬の概要を紙にまとめる、のだが、筆は遅々として進まない。
普段だと字面を眺めているだけで落ち着く薬の原料名も、服用に当たっての注意事項も、少しも私の心を擽らなかった。
「参ったわ…」
私は溜め息をついて、筆を硯に置いた。医者が匙を投げるとはまさにこのことだろう。投げるというより置いたのは筆だが。
輝夜が物語を書く。どう考えても失礼だが事実か疑ってしまう。
月にいたころは教養として月の有名な歌人の歌を教えたりしたものだが、その時の彼女はあまり楽しそうにしていなかったことを覚えている。
文(ふみ)だって、つける香を選ぶのは好きだったが肝心の文章になると逃げていた。呑み込みは悪いわけではなくむしろいいほうで、ただ意欲がないだけであった。
それに、いくらなんでも急だ。予兆というものを感じなかった。最近だっていつものように柔らかく微笑んで鈴仙らがつくった団子を食べたり、盆栽を眺めたりしていたから。
…まあ、それはそれでいいだろう。輝夜に何らしかの意欲が湧いて来たのは良いことだ。ようやく人間として生きるために動き出したかもしれない。
これは喜ばしいことなのだ。いつ咲くかわからない花を見つめるよりよっぽど建設的なことを彼女はやろうとしている。私も彼女の従者として喜び、手助けしてやらねばならない。
だが、ここで問題が一つ。
私は薬帳をしまい、代わりに一冊の作文帳を出した。筆に改めて墨汁を付け、深呼吸。
小説は、まず最初の切り出しが重要だと聞く。そのとおりに斬新な出だしを書こうと手を高速で動かした。
題名は、医療のこれから
中身は、医療の更なる発展と人間のモラルについて
書き終えて、再び溜め息。
「物語ではないわ、これ…」
そう。私は心を動かす物語、小説といったものがまったくわからないのだ。
ーーーーーーー
「お早う、永琳…って、どうしたの?その顔」
雀が囀ずるころ起きてきた輝夜は、私を見るなり驚愕で目を丸くした。
「大したことではないです。ちょっと眠れなくて…」
結局あのあと、輝夜のお願いを聞いたあと里と香霖堂で仕入れた大量の小説を読破したため睡眠がとれなかった。残念なことに私の心を揺さぶるものはなく、そもそも物語とは何だという点から始めなくてはいけなくなったのでお手上げであったのだが。
しかし、そんなこと輝夜に言える筈がない。私は彼女にとって、永遠に支えてくれる存在なのだから。
そんなことを思いつつ、やや疲れているであろう笑顔で茶碗に飯を盛る。
今日の献立は白米となめたけ入りの卵焼き、かぶの酢漬け、鰹の角煮。私としたことが卵焼きを作るときに軽く失敗してしまった。
手伝いをしていた鈴仙にも驚かれた。信じられない失態である。彼女は私が心配らしく、いまも傍にいる。大きなお世話であるが気遣いは普通に嬉しい。
「寝れなかったの?…もしかして、『あの夜』のこと…」
「姫様は心配性ですね。そんなのじゃあありません。ちょっと寝付けなかっただけですよ。…あ、そうだ。文学についてですけれど、いつから始めましょうか?」
「できるだけ早いほうがいいから、今日からお願い。—永琳は厳しいからいまから覚悟しておくわ」
「あら、私はとても優しく教えてるはずなのですが」
私が冗談めかしてそう言うと、輝夜は愉快そうに「ふふっ」と笑った。しかし心境まではわからない。いまのくだりで『あの夜』で寝れなかったという考えは杞憂だと悟ってほしかったのだが。
今日からか。
始まってしまったのは仕方がない。全力を尽くすだけだ。
それに、『教える』ことはできるのだ。名作といわれている小説は全て読んできているし、その内容も背景も全て理解している。
けれどそれらは全て理路整然としていて、それで泣いたり、笑ったりというようなことはしなかった。私にとっての本は知識を仕入れるものであり、いちいち感動したりするものではないからだ。
私は輝夜を見る。にこやかな顔で卵焼きを頬張っていた。良い表情だ。毎日これを見るとやる気がでてくる。
その笑顔を一度は奪った。だからもう二度と曇らせてはならない。
私は決意と共に後片付けを鈴仙に任せ、私室に向かった。
ーーーーーーー
「つまりこの作家は生温く押しかかってくる不安を払い除けようと自害した。この作品にも彼のそんな鬱蒼とした思いが如実に表れている…とすると?」
「とすると…この男は自分自身を心のない道化師と称した、と?」
「御名答。すごいわ、これだけ読解力がついてるのなら、私がいなくても安心ね」
「永琳はおだてるのが上手いんだから。でも、いくら読めても書けなきゃ意味ないわよ」
昼下がりの床の間。
今日は長閑で、急患も来なさそうだったから輝夜につきっきりで幻想郷で名作と言われている本を教えている。鈴仙は薬を売りに里へ。ほかの兎達は思い思いに竹林へ。—二人きりで授業なんて、何千年ぶりだろうか。
輝夜は疲れるどころか瞳を爛々と輝かせながら本を読み、頭を悩ませ私の質問に答えていた。こんなに好奇心溢れる輝夜は見たことがない。それほど自分の作品を形にしたいのだろう。
前にも書いたが、喜ばしいことである。だがその指導には正直自信がない。勿論、逃げるつもりも毛頭もないが。
「それにしても、どんな話を書きたいの?それで、書いたあとは?文筆家としてデビューするの?」
「大袈裟に物事を見るのが好きなのね。…書いたら、永琳に見せるわ」
輝夜は筆で紙に奇妙な模様を描きながら、呟くように言った。
「私に?」
「ええ。私の文章なんて、貴方にとっては稚拙だとは思うけど…永琳?」
輝夜が私の顔を覗き込む。その顔は不安げで、あんなに幸福を讃えていた瞳も翳ってしまっている。まずい。こんな顔は絶対させないと。二度とさせないと誓ったばかりなのに。
「永琳、何で泣いてるの?私のせい?私がへんなお願いなんか—」
輝夜も泣きじゃくる。嗚呼、滅茶苦茶だ。何故急に落涙するんだ。意味がわからない。
それでも胸は不安でいっぱいだった。喜ぶべきことなのに、本当に何故だろう。
よくわからないもやのような不安が、身体中に広がっていくのがわかる。まさにいま教えたこの小説の作者と同じである。こんな形で虚構と同調するとは思ってもみなかった。実に不本意だ。
「ごめんなさい、私、永琳を悲しませたのね。永琳が悲しむのなら文学なんて忘れるから。だから泣かないで」
言ってる方も泣いている。
実際、輝夜の言葉は言葉になっていなかった。嗚咽を繰り返し、溢れる感情の波を留めることすらせずにただ私にしがみつく。
理解した。私が輝夜の成長を素直に喜べないのにはちゃんとした理由があった。
手離したくないのだ。
ずっと昔から一緒にいて、遂に永久の安息を手に入れた私たち。
時が動いても、それだけは変わらない。
けれど、一緒にいられる保証は消えたのだ。時を動かして穢れを受け入れ始めたあの時から、輝夜のなかの時間も動いている。
成長した輝夜が私の元を離れる。
その可能性を、本に囲まれいきいきとしている輝夜に見いだしてしまったから。
私は、いつの間にか輝夜ありきの人生を歩んでしまっていたのだ。
ーーーーーーー
「あなたは書いた方が良いわ。私の心配はしなくていいから。楽しみにしてるわよ」
こう言い残し、今日の授業はお開きとなった。けれど輝夜の顔は依然として強い不安に覆われていた。—嗚呼、何でこんなことに。
私室に行き、薬箱から適当に錠剤を取り出す。そしてしまう。意味のない行動なのは重々承知だ。こんな気分になるのははじめてだ。
「お師匠様。今日の売り上げですが…あとにしたほうがよかったですか」
「そこに置いといて頂戴」
いつになく不安げな鈴仙が退室し、私は、
「なんなのよ、もう…」
いつになく、弱気であった。
ーーーーーーーー
あの日以降も、授業は続いた。私はいつもの風を装って様々な小説の解説をし、輝夜もこれに応えてくれた。
…それはそれでいいのだが、やはりその表情は無理に明るく振る舞っているようで、時々心配そうに私を見上げる。小説も書き始めたようだが、筆はあまり進んいないようだった。
私も私で輝夜をサポートしようと努力しているが、心の根底にはまだ漠然とした不安がこびりついていて、なかなか軌道に乗れない。
今日も薬の配分を間違えそうになって、鈴仙に驚かれた。最近彼女の前で失態を晒してばかりなので、いい加減立ち直らねばいけない。
そう、立ち直らなければならないのだ。輝夜の成長は喜ぶべきもの。私もそれを応援する。何度もその構図を頭に浮かべるが、実行できないのが歯がゆい。
何回目かわからない溜め息をついて、肩を軽く揉む。なんだか最近からだがだるくなったような気がするのだ。それほど疲れてるのか、自分に苛立っているのか。
すると見慣れた兎のシルエットが薬瓶越しに見えた。
「失礼します、お師匠様」
「‥どうしたの?ウドンゲ」
今日の販売票はもう渡された筈だが。
「その‥輝夜様から伝言で」
輝夜から。鈴仙経由。もう授業はよいという知らせだろうか。だとしたら空しい。
鈴仙は少し困った表情で輝夜に渡されたであろう長い紙の束を開いて読み上げた。
「えっとその‥『題名、永遠の竹林。 __その竹林に生命は無かった。私がいくら歩いても竹の群れはつんと澄まして‥」
「貸しなさい」
奪い取り、字面を目で追う。落ち着いた気分にさせる竹の香の付いた紙にのってるのは、確かに流麗な輝夜の字。しかもちゃんと小説になっていた。生命を感じさせない竹林に迷ってしまった少女が、心優しい竹林の住人に救われ、そこで彼女と一緒に暮らす___。比喩表現も秀逸である。間の取り方も自然で、とても素人の作品に思えなかった。
いつの間にか鈴仙は去っていた。空気を読んだのであろう。私は薬の開発も忘れて輝夜の小説に没頭した。
少女は竹林での暮らしを楽しむようになるが、そこで問題が一つ起こる。彼女を助けてくれた女性の顔が寂し気なのだ。少女は女性を、自分が救われた時のように助けようとありとあらゆる手を尽くすが報われない。それどころか女性との距離は開く一方だ。
『私はとても悩んだ。彼女はなにが不安なのだろう。喜ばせようと思って綺麗な着物をあげても、歌を歌っても、彼女は表面だけ笑うだけだ。私はただ仲良しになりたいだけなのに。なにが足りないのだろう』
小説はそこで終わっていた。少し目を丸くして見渡すと、紙の端に申し訳なさそうな字で『続く』と書いてあった。私はその紙を丁寧にたたみ、机の引き出しに入れた。薬瓶を見ると、口元がほころんでいた。
目が痛い。運動させ過ぎたようだ。心臓がいつになく動いている。いつもは冷たくて輝夜に温められる手も、しっとり湿っていた。
輝夜に伝えなければ。この感動を。私が初めて感じた感動を。
私は重かった腰を上げ、輝夜の元へと急いだ。
ーーーーーーーーーーーー
部屋に行くと、机に頭を突っ伏している輝夜を見つける。
「‥輝夜」
寝ているところを起こしては駄目だ。けれどこの機会を失ったら私達は二度とわかり合えないような気がする。
部屋中にちらばった紙を踏まないように回収して回る事にした。小説の没作であることはすぐわかった。例えお蔵入りでも竹林の少女はいきいきと呼吸をし、日々を楽しみ悩んでいる。
輝夜には才能がある。これを生かさなければいけないと考えていた。しかし、そこでまた臆病な心が足枷になる。これを生かせば、輝夜は確実に私から離れる。
と、一枚の紙に文字ではないものを発見した。見ると、やはり墨で絵が描かれている。線がのびやかで無邪気だ。
「‥私?」
絵には、にっこりと笑って本を読んでいる髪の長い女の子__おそらく輝夜__と、その横で同じく笑顔でたたずんでいる女性がいた。長い髪を三つ編みにして、小さな帽子をかぶっている。まごうことなき自分だ。
輝夜の格好がいまより古めかしい。おそらく、月に居た頃を思い出していたのだろう。あの頃からよくなつく、可愛い生徒だった。
「‥永琳?」
間の抜けた声がする。輝夜は寝ぼけ眼を擦りながらこちらを見つめていた。目の下に、疲労のあとが伺える。
「輝夜‥」
伝えたい事は山ほどあった。
小説がとても素晴らしかった事。
不安にさせてしまいすまなかったという事。
この絵を貰っても良いかという事。
しかしいざとなると言葉に詰まってしまう。こんな経験も初めてだ。
私が言葉に窮していると、輝夜が先に口を開いた。
「小説、読んでくれた?」
「ええ」
「‥つまらなかったでしょ」
「面白かったわとっても。つまらないなんてそんなことは全くなかったもの。私、小説を面白いなんて思った事が無かったのだけれど貴方のは最初から引き込まれたわ。それと」
「ありがとう。でもいいの。永琳を困らせちゃったみたいだし‥。明日から、また普通にするね」
輝夜は微笑んでそう言った。思わず抱きしめる。輝夜は驚いたようだったが、一寸置いて落ち着いた声を紡いだ。
「永琳に楽しんで欲しかったの。だって貴方、娯楽とかそういうのに疎いじゃない。それに私は永琳にとても感謝してるから、それも伝えたいって」
幼い頃から能天気で、天然で、興味のある事には熱心だった輝夜。恥ずかしそうにはにかむ笑顔がとても可愛らしかった。
「でも、私が何か始めると貴方とても哀しそうで‥。無理しちゃいけないんでしょ?勝手な事をすると、また貴方に罪を負わせるかもしれない。反省したわ。だから、その、ごめん」
成長した貴方はとても美しくなった。ある種冷酷だった昔と比べれば表情は随分柔らかくなった。
それを私がずっと閉じ込めているとどうなる?逆戻りになるのではないのだろうか。これでいいのだ。輝夜は動いている時に身を任せ、時には笑い時には泣くほうがいいのだ。__なにを躊躇っていたのだろう。
「違うわ、輝夜」
「え?」
「私は貴方が離れて行ってしまいそうで怖かっただけ」
私がそう言うと、輝夜は一瞬言葉を失ったようだった。
「なにそれ。私が離れる訳___」
「わかってる」
輝夜の髪に触れる。艶やかで滑らかなそれは妙なつっぱりがなく、素直に私の手に絡みついた。
「でも、やっぱり不安になっていたの。不思議ね。でも、貴方の小説を読んで変われたわ」
「あれで?」
「そう、あれで。貴方は不器用ね。__かまって欲しいのなら、ちゃんとそう言えばいいのに」
腕の中で輝夜が硬直するのがわかる。可愛いと思う。
私は幸せ者だ。この竹林で、輝夜と一緒に居れて。
いまこの瞬間、強くそう思った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
『私の考えは杞憂に終わった。それでとてもよかった。結局竹林は永遠を失い枯れ果てた。彼女はやっと呪縛から解き放たれたのだ。
竹林で身を隠す事がなくなったいま、私は彼女と数名で暮らしている。今日はみんなで森に出かけるらしい。私もなんとかお弁当をつくってみた。美味しいかどうかはわからないけれど。
彼女の声が聞こえる。そろそろ行かなくてはいけない。哀しさが抜けた声は耳に優しく、私の心を浮き立たせた。
私の人生はまだまだ続くのだ。だから地に足を踏みつけて、元気を出して生きなくちゃ。
『完』
追伸、永遠の先生へ
ここまで私を支えてくれてありがとう。拙いながらもなんとか完成できました。読んでくれると嬉しいです。
と言う事で明日はお花見に行かない?実はもうとびきりのお酒を用意してるの。神社はいろいろ五月蝿いから、別のスポットが良いわ。かといって、『小説と同じように貴方がお弁当を作ってくれるのね?』なんて言わないでね。食中毒になりたいならいいけど。‥貴方はここだとお医者さんだから大丈夫かしら?
とにかく、いままでありがとう。これからもよろしく
ヘマを踏んでばかりの生徒より
いつものように薬草を調合していると、後ろから声が。
「どうかした?輝夜」
見ると、輝夜が忙しない様子で私を見つめていた。なにか面白いことを思いついたらしい。
私は匙を置いて、腰を上げて輝夜の話を聞く体勢を整える。輝夜は瞳を僅かに楽しそうに光らせながら、私に用件を言った。
「私にもっともっと文学について教えてほしいの」
「文学…?」
輝夜が勉強とは珍しい。
しかし文学といっても種類が豊富で、そもそも輝夜がおとされた当時の地上の文学、いまの地上、つまり外の文学、ここ幻想郷の文学、はたまた月の文学なのかもわからない。…ひょっとして、全部なのだろうか。そうなると私は構わないが輝夜が疲れてしまわないか心配だ。
私がそう悶々と思案していると、輝夜はにっこりと微笑んで『文学を学ぶ目的』を語った。
そして、私の思考はしばし止まることになる。
「私だって読み書きはできるし、歌だって詠めるわ。でもそれだけじゃ足りないの。—私、物語を書きたいのよ!」
姫と従者と芥川賞
輝夜が寝静まったあと、私は薬品などを開発する私室で一人机に向かっていた。
ランプの明かりのもと、今日開発した薬の概要を紙にまとめる、のだが、筆は遅々として進まない。
普段だと字面を眺めているだけで落ち着く薬の原料名も、服用に当たっての注意事項も、少しも私の心を擽らなかった。
「参ったわ…」
私は溜め息をついて、筆を硯に置いた。医者が匙を投げるとはまさにこのことだろう。投げるというより置いたのは筆だが。
輝夜が物語を書く。どう考えても失礼だが事実か疑ってしまう。
月にいたころは教養として月の有名な歌人の歌を教えたりしたものだが、その時の彼女はあまり楽しそうにしていなかったことを覚えている。
文(ふみ)だって、つける香を選ぶのは好きだったが肝心の文章になると逃げていた。呑み込みは悪いわけではなくむしろいいほうで、ただ意欲がないだけであった。
それに、いくらなんでも急だ。予兆というものを感じなかった。最近だっていつものように柔らかく微笑んで鈴仙らがつくった団子を食べたり、盆栽を眺めたりしていたから。
…まあ、それはそれでいいだろう。輝夜に何らしかの意欲が湧いて来たのは良いことだ。ようやく人間として生きるために動き出したかもしれない。
これは喜ばしいことなのだ。いつ咲くかわからない花を見つめるよりよっぽど建設的なことを彼女はやろうとしている。私も彼女の従者として喜び、手助けしてやらねばならない。
だが、ここで問題が一つ。
私は薬帳をしまい、代わりに一冊の作文帳を出した。筆に改めて墨汁を付け、深呼吸。
小説は、まず最初の切り出しが重要だと聞く。そのとおりに斬新な出だしを書こうと手を高速で動かした。
題名は、医療のこれから
中身は、医療の更なる発展と人間のモラルについて
書き終えて、再び溜め息。
「物語ではないわ、これ…」
そう。私は心を動かす物語、小説といったものがまったくわからないのだ。
ーーーーーーー
「お早う、永琳…って、どうしたの?その顔」
雀が囀ずるころ起きてきた輝夜は、私を見るなり驚愕で目を丸くした。
「大したことではないです。ちょっと眠れなくて…」
結局あのあと、輝夜のお願いを聞いたあと里と香霖堂で仕入れた大量の小説を読破したため睡眠がとれなかった。残念なことに私の心を揺さぶるものはなく、そもそも物語とは何だという点から始めなくてはいけなくなったのでお手上げであったのだが。
しかし、そんなこと輝夜に言える筈がない。私は彼女にとって、永遠に支えてくれる存在なのだから。
そんなことを思いつつ、やや疲れているであろう笑顔で茶碗に飯を盛る。
今日の献立は白米となめたけ入りの卵焼き、かぶの酢漬け、鰹の角煮。私としたことが卵焼きを作るときに軽く失敗してしまった。
手伝いをしていた鈴仙にも驚かれた。信じられない失態である。彼女は私が心配らしく、いまも傍にいる。大きなお世話であるが気遣いは普通に嬉しい。
「寝れなかったの?…もしかして、『あの夜』のこと…」
「姫様は心配性ですね。そんなのじゃあありません。ちょっと寝付けなかっただけですよ。…あ、そうだ。文学についてですけれど、いつから始めましょうか?」
「できるだけ早いほうがいいから、今日からお願い。—永琳は厳しいからいまから覚悟しておくわ」
「あら、私はとても優しく教えてるはずなのですが」
私が冗談めかしてそう言うと、輝夜は愉快そうに「ふふっ」と笑った。しかし心境まではわからない。いまのくだりで『あの夜』で寝れなかったという考えは杞憂だと悟ってほしかったのだが。
今日からか。
始まってしまったのは仕方がない。全力を尽くすだけだ。
それに、『教える』ことはできるのだ。名作といわれている小説は全て読んできているし、その内容も背景も全て理解している。
けれどそれらは全て理路整然としていて、それで泣いたり、笑ったりというようなことはしなかった。私にとっての本は知識を仕入れるものであり、いちいち感動したりするものではないからだ。
私は輝夜を見る。にこやかな顔で卵焼きを頬張っていた。良い表情だ。毎日これを見るとやる気がでてくる。
その笑顔を一度は奪った。だからもう二度と曇らせてはならない。
私は決意と共に後片付けを鈴仙に任せ、私室に向かった。
ーーーーーーー
「つまりこの作家は生温く押しかかってくる不安を払い除けようと自害した。この作品にも彼のそんな鬱蒼とした思いが如実に表れている…とすると?」
「とすると…この男は自分自身を心のない道化師と称した、と?」
「御名答。すごいわ、これだけ読解力がついてるのなら、私がいなくても安心ね」
「永琳はおだてるのが上手いんだから。でも、いくら読めても書けなきゃ意味ないわよ」
昼下がりの床の間。
今日は長閑で、急患も来なさそうだったから輝夜につきっきりで幻想郷で名作と言われている本を教えている。鈴仙は薬を売りに里へ。ほかの兎達は思い思いに竹林へ。—二人きりで授業なんて、何千年ぶりだろうか。
輝夜は疲れるどころか瞳を爛々と輝かせながら本を読み、頭を悩ませ私の質問に答えていた。こんなに好奇心溢れる輝夜は見たことがない。それほど自分の作品を形にしたいのだろう。
前にも書いたが、喜ばしいことである。だがその指導には正直自信がない。勿論、逃げるつもりも毛頭もないが。
「それにしても、どんな話を書きたいの?それで、書いたあとは?文筆家としてデビューするの?」
「大袈裟に物事を見るのが好きなのね。…書いたら、永琳に見せるわ」
輝夜は筆で紙に奇妙な模様を描きながら、呟くように言った。
「私に?」
「ええ。私の文章なんて、貴方にとっては稚拙だとは思うけど…永琳?」
輝夜が私の顔を覗き込む。その顔は不安げで、あんなに幸福を讃えていた瞳も翳ってしまっている。まずい。こんな顔は絶対させないと。二度とさせないと誓ったばかりなのに。
「永琳、何で泣いてるの?私のせい?私がへんなお願いなんか—」
輝夜も泣きじゃくる。嗚呼、滅茶苦茶だ。何故急に落涙するんだ。意味がわからない。
それでも胸は不安でいっぱいだった。喜ぶべきことなのに、本当に何故だろう。
よくわからないもやのような不安が、身体中に広がっていくのがわかる。まさにいま教えたこの小説の作者と同じである。こんな形で虚構と同調するとは思ってもみなかった。実に不本意だ。
「ごめんなさい、私、永琳を悲しませたのね。永琳が悲しむのなら文学なんて忘れるから。だから泣かないで」
言ってる方も泣いている。
実際、輝夜の言葉は言葉になっていなかった。嗚咽を繰り返し、溢れる感情の波を留めることすらせずにただ私にしがみつく。
理解した。私が輝夜の成長を素直に喜べないのにはちゃんとした理由があった。
手離したくないのだ。
ずっと昔から一緒にいて、遂に永久の安息を手に入れた私たち。
時が動いても、それだけは変わらない。
けれど、一緒にいられる保証は消えたのだ。時を動かして穢れを受け入れ始めたあの時から、輝夜のなかの時間も動いている。
成長した輝夜が私の元を離れる。
その可能性を、本に囲まれいきいきとしている輝夜に見いだしてしまったから。
私は、いつの間にか輝夜ありきの人生を歩んでしまっていたのだ。
ーーーーーーー
「あなたは書いた方が良いわ。私の心配はしなくていいから。楽しみにしてるわよ」
こう言い残し、今日の授業はお開きとなった。けれど輝夜の顔は依然として強い不安に覆われていた。—嗚呼、何でこんなことに。
私室に行き、薬箱から適当に錠剤を取り出す。そしてしまう。意味のない行動なのは重々承知だ。こんな気分になるのははじめてだ。
「お師匠様。今日の売り上げですが…あとにしたほうがよかったですか」
「そこに置いといて頂戴」
いつになく不安げな鈴仙が退室し、私は、
「なんなのよ、もう…」
いつになく、弱気であった。
ーーーーーーーー
あの日以降も、授業は続いた。私はいつもの風を装って様々な小説の解説をし、輝夜もこれに応えてくれた。
…それはそれでいいのだが、やはりその表情は無理に明るく振る舞っているようで、時々心配そうに私を見上げる。小説も書き始めたようだが、筆はあまり進んいないようだった。
私も私で輝夜をサポートしようと努力しているが、心の根底にはまだ漠然とした不安がこびりついていて、なかなか軌道に乗れない。
今日も薬の配分を間違えそうになって、鈴仙に驚かれた。最近彼女の前で失態を晒してばかりなので、いい加減立ち直らねばいけない。
そう、立ち直らなければならないのだ。輝夜の成長は喜ぶべきもの。私もそれを応援する。何度もその構図を頭に浮かべるが、実行できないのが歯がゆい。
何回目かわからない溜め息をついて、肩を軽く揉む。なんだか最近からだがだるくなったような気がするのだ。それほど疲れてるのか、自分に苛立っているのか。
すると見慣れた兎のシルエットが薬瓶越しに見えた。
「失礼します、お師匠様」
「‥どうしたの?ウドンゲ」
今日の販売票はもう渡された筈だが。
「その‥輝夜様から伝言で」
輝夜から。鈴仙経由。もう授業はよいという知らせだろうか。だとしたら空しい。
鈴仙は少し困った表情で輝夜に渡されたであろう長い紙の束を開いて読み上げた。
「えっとその‥『題名、永遠の竹林。 __その竹林に生命は無かった。私がいくら歩いても竹の群れはつんと澄まして‥」
「貸しなさい」
奪い取り、字面を目で追う。落ち着いた気分にさせる竹の香の付いた紙にのってるのは、確かに流麗な輝夜の字。しかもちゃんと小説になっていた。生命を感じさせない竹林に迷ってしまった少女が、心優しい竹林の住人に救われ、そこで彼女と一緒に暮らす___。比喩表現も秀逸である。間の取り方も自然で、とても素人の作品に思えなかった。
いつの間にか鈴仙は去っていた。空気を読んだのであろう。私は薬の開発も忘れて輝夜の小説に没頭した。
少女は竹林での暮らしを楽しむようになるが、そこで問題が一つ起こる。彼女を助けてくれた女性の顔が寂し気なのだ。少女は女性を、自分が救われた時のように助けようとありとあらゆる手を尽くすが報われない。それどころか女性との距離は開く一方だ。
『私はとても悩んだ。彼女はなにが不安なのだろう。喜ばせようと思って綺麗な着物をあげても、歌を歌っても、彼女は表面だけ笑うだけだ。私はただ仲良しになりたいだけなのに。なにが足りないのだろう』
小説はそこで終わっていた。少し目を丸くして見渡すと、紙の端に申し訳なさそうな字で『続く』と書いてあった。私はその紙を丁寧にたたみ、机の引き出しに入れた。薬瓶を見ると、口元がほころんでいた。
目が痛い。運動させ過ぎたようだ。心臓がいつになく動いている。いつもは冷たくて輝夜に温められる手も、しっとり湿っていた。
輝夜に伝えなければ。この感動を。私が初めて感じた感動を。
私は重かった腰を上げ、輝夜の元へと急いだ。
ーーーーーーーーーーーー
部屋に行くと、机に頭を突っ伏している輝夜を見つける。
「‥輝夜」
寝ているところを起こしては駄目だ。けれどこの機会を失ったら私達は二度とわかり合えないような気がする。
部屋中にちらばった紙を踏まないように回収して回る事にした。小説の没作であることはすぐわかった。例えお蔵入りでも竹林の少女はいきいきと呼吸をし、日々を楽しみ悩んでいる。
輝夜には才能がある。これを生かさなければいけないと考えていた。しかし、そこでまた臆病な心が足枷になる。これを生かせば、輝夜は確実に私から離れる。
と、一枚の紙に文字ではないものを発見した。見ると、やはり墨で絵が描かれている。線がのびやかで無邪気だ。
「‥私?」
絵には、にっこりと笑って本を読んでいる髪の長い女の子__おそらく輝夜__と、その横で同じく笑顔でたたずんでいる女性がいた。長い髪を三つ編みにして、小さな帽子をかぶっている。まごうことなき自分だ。
輝夜の格好がいまより古めかしい。おそらく、月に居た頃を思い出していたのだろう。あの頃からよくなつく、可愛い生徒だった。
「‥永琳?」
間の抜けた声がする。輝夜は寝ぼけ眼を擦りながらこちらを見つめていた。目の下に、疲労のあとが伺える。
「輝夜‥」
伝えたい事は山ほどあった。
小説がとても素晴らしかった事。
不安にさせてしまいすまなかったという事。
この絵を貰っても良いかという事。
しかしいざとなると言葉に詰まってしまう。こんな経験も初めてだ。
私が言葉に窮していると、輝夜が先に口を開いた。
「小説、読んでくれた?」
「ええ」
「‥つまらなかったでしょ」
「面白かったわとっても。つまらないなんてそんなことは全くなかったもの。私、小説を面白いなんて思った事が無かったのだけれど貴方のは最初から引き込まれたわ。それと」
「ありがとう。でもいいの。永琳を困らせちゃったみたいだし‥。明日から、また普通にするね」
輝夜は微笑んでそう言った。思わず抱きしめる。輝夜は驚いたようだったが、一寸置いて落ち着いた声を紡いだ。
「永琳に楽しんで欲しかったの。だって貴方、娯楽とかそういうのに疎いじゃない。それに私は永琳にとても感謝してるから、それも伝えたいって」
幼い頃から能天気で、天然で、興味のある事には熱心だった輝夜。恥ずかしそうにはにかむ笑顔がとても可愛らしかった。
「でも、私が何か始めると貴方とても哀しそうで‥。無理しちゃいけないんでしょ?勝手な事をすると、また貴方に罪を負わせるかもしれない。反省したわ。だから、その、ごめん」
成長した貴方はとても美しくなった。ある種冷酷だった昔と比べれば表情は随分柔らかくなった。
それを私がずっと閉じ込めているとどうなる?逆戻りになるのではないのだろうか。これでいいのだ。輝夜は動いている時に身を任せ、時には笑い時には泣くほうがいいのだ。__なにを躊躇っていたのだろう。
「違うわ、輝夜」
「え?」
「私は貴方が離れて行ってしまいそうで怖かっただけ」
私がそう言うと、輝夜は一瞬言葉を失ったようだった。
「なにそれ。私が離れる訳___」
「わかってる」
輝夜の髪に触れる。艶やかで滑らかなそれは妙なつっぱりがなく、素直に私の手に絡みついた。
「でも、やっぱり不安になっていたの。不思議ね。でも、貴方の小説を読んで変われたわ」
「あれで?」
「そう、あれで。貴方は不器用ね。__かまって欲しいのなら、ちゃんとそう言えばいいのに」
腕の中で輝夜が硬直するのがわかる。可愛いと思う。
私は幸せ者だ。この竹林で、輝夜と一緒に居れて。
いまこの瞬間、強くそう思った。
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『私の考えは杞憂に終わった。それでとてもよかった。結局竹林は永遠を失い枯れ果てた。彼女はやっと呪縛から解き放たれたのだ。
竹林で身を隠す事がなくなったいま、私は彼女と数名で暮らしている。今日はみんなで森に出かけるらしい。私もなんとかお弁当をつくってみた。美味しいかどうかはわからないけれど。
彼女の声が聞こえる。そろそろ行かなくてはいけない。哀しさが抜けた声は耳に優しく、私の心を浮き立たせた。
私の人生はまだまだ続くのだ。だから地に足を踏みつけて、元気を出して生きなくちゃ。
『完』
追伸、永遠の先生へ
ここまで私を支えてくれてありがとう。拙いながらもなんとか完成できました。読んでくれると嬉しいです。
と言う事で明日はお花見に行かない?実はもうとびきりのお酒を用意してるの。神社はいろいろ五月蝿いから、別のスポットが良いわ。かといって、『小説と同じように貴方がお弁当を作ってくれるのね?』なんて言わないでね。食中毒になりたいならいいけど。‥貴方はここだとお医者さんだから大丈夫かしら?
とにかく、いままでありがとう。これからもよろしく
ヘマを踏んでばかりの生徒より
素敵な二人ですね、鈴仙も優しくて性格の良さが伝わってきました。
ついつい共感してしまいました。もちろん、すれ違う二人の両方に。
蓬莱の薬を飲んでも人間失格ではなく、あくまでも二人は人間側の存在なんですね。人間らしさに溢れている。
今まで永琳の「輝夜ありきの人生」には依存のような悪いイメージを持っていたのですが、それも消えました。
・過去の名作を読んでも感動しなかった永琳が、輝夜の小説で心を動かされることについて。
もしかすると、この部分を都合が良すぎると言う人がいるかもしれません。
しかしこの箇所こそが、私が最も良いと感じた部分です。
名文、名作から与えられる物は大きいでしょう。けれど、大切な人の書き綴った言葉はその比ではない、と。
無関係の人間の名作を読んでも感動しない永琳がイメージどおりだったのもありますね。
>『小説と同じように貴方がお弁当を作ってくれるのね?』なんて言わないでね。
まさにそう突っ込まれたらどうするのかな、という感想が浮かんだ直後に出てきて思わず笑みがこぼれました。
展開が読めてしまうのではなく、ごく自然な感じでした。
これが正しい終わり方なのだと。そんな風に後から納得がついてくる。
良い物語をありがとうございました。(でも、タグの「えーてる」は違うというか、不要な気もするのです)
いい関係だなあ。
よかったです。
良いお話でした。
個人的には、“手離したくないのだ。”に至る前に、そういった感情に対する伏線の一つでもあれば良かったのではないか、と思いました。
睡眠時間を削ってまで指導方法を考えたり「喜ばしいことである。だがその指導には正直自信がない。勿論、逃げるつもりも毛頭もないが。」と考えていた永琳が突然そういった想いを露わにしたのは少なからず違和感を感じたからです。
あと、おせっかいかもしれませんが、
“‥”ではなく“……”、“__”ではなく“――”と記す方がスタンダードでウケが良いかもしれないですよ。
ちょっと描写が淡白に感じたかな…
大切な人を支えることと縛ることは紙一重。
関係性って難しいけど、だからこそ大事にしたくなるのかもしれませんね。
えーてるはこうでなきゃ。