※
『おや貴方は……龍宮の使いの……えーっとなんだっけ?』
『お初に御目にかかります。永江の衣玖と、申します』
『永江衣玖……衣玖?』
『お名前を伺っても、宜しゅうございましょうか?』
『ああ……ちょっと前までは地子、でもこっち来てからは天子よ。天の子と書いて、比那名居天子』
『天子様……天の子……なるほど』
『あれ、おかしい?』
『いえ? 天に愛された娘に相応しい、良き名でいらっしゃいますね……』
§永江衣玖§
腕時計に目を落としたのと、地子の足が地を蹴るのは同時でした。
比那名居の娘が駆けてくる。
連携があるかと思ったが、この子にそんな芸当は無理か。
両横の天狐と巫女を置き去り、一人で死地に飛び込んでくる。
私に撃たぬ理由はない。
時間を確認した視線を、地子へ。
見つめるだけで龍は応え、私の意をその場に示す。
降り注いだ雷は三十。
私の周囲に展開し、帯電した雷球から紫電が吼えて迸る。
「衣玖!」
はい。
聞こえておりますとも。
笑みだけでそう返したとき、紫電はすでに地子の体を焼いていた。
十六は捨て弾。
偶数弾にして地子の横移動を牽制し、さらには後ろの二人への嫌がらせ。
あの子はまったく意識を裂かず、私だけを睨んで駆け抜ける。
九は足止め。
駆けてきた地子の足を縫いつけ、四肢を傷つけて機動力を奪う。
右足を打ち抜かれ、よろめいた地子に降り注ぐ八又の雷。
緋想の剣を一振りし、生み出された赤光が私の紫電と噛み合った。
その間隙に絡みついた五筋の雷。
これこそが私の本命である。
それは正確に地子の心臓の不随意筋を麻痺させ、横隔膜の動きを止め、脳と脊髄の電気信号を寸断し、筋肉の筋を痙攣させ、熱で全身を焼き払った。
相手は丈夫な天人様。
これで死ぬことはないにしても戦闘力は奪ったろう。
すでに私の意識は、次の敵へ向いていた。
「よく凌いだね小娘」
獣臭い声がする。
私が地子を一蹴したために生まれた、小さな間。
その間隙を逃さずに、八雲の式が踏み込んでくる。
一足で地子の横に並び、続く二歩目で置き去りに。
躊躇無く味方を捨て駒の盾に使うその姿勢が、私の苦笑を誘った。
地子は止まらなかっただろう。
だから、藍様の選択は正しい。
正しいが、それを選ぶのにまったく躊躇わないというのは些か問題ではなかろうか?
無意識の思考は苦笑でも、意識の領域は戦闘判断である。
残る敵は藍様と霊夢様。
そして藍様とじゃれ合ってしまうと、私でも意識の大半は其処に持っていかれるだろう。
敵が二人いる現時点では、まだ彼女と接近戦はしたくない。
獣の足を止める。
そう思考するだけで、その結果が顕現した。
今の私は、龍なのだ。
「ふふ」
私の笑みを、藍様は見たか?
それは私にもわからない。
私達が共通に認識したのは、両者の間に二百を超えた雷弾が現出したこと。
その全てが大小無数の雷を生み出し、撒き散らし……私達の距離を埋め尽くした。
驚愕すべきであったろう。
藍様はその中にあり、今だ紫電の直撃を受けていない。
攻撃が前方に限定されているとはいえ、三桁に及ぶ光速の雷閃。
その悉く、自らの体に障るものを選んで切り伏せている。
彼女が袖から手にした西洋刀は、長身の彼女と同等の長さの長剣。
その間合いの中にだけ、雷が存在を忘れたかのように空白を保たれていた。
足こそ止まってくれたものの、本当に足止めにしかならぬとは……
化け物め。
そうつぶやくのはやめて置く。
今は私も、きっと似たようなものなのだろうから。
「おーい? いきてるー?」
のんびりとした声は霊夢様。
藍様の後ろに倒れた地子に、符術で何かをかけていた。
好都合。
そう意識した時に、私を取り巻く雷球はその数を数倍に跳ね上げた。
三人の足が止まったこのとき、私は思考を切り替える。
一斉射撃から絨毯爆撃。
いかに藍様が神業の刀技を誇ろうと、私に突破は容易である。
霊夢様の動きのみ未知数であったために裂いていた意識の視野を、このとき全て攻撃に傾斜した。
巫女は地子へ足を止めた。
敵の行動が全て私の意識に入ってくれた。
だが……。
「ん……」
眉をひそめたのは私のほう。
上空から降り注ぐ緑雷と、空間の雷球から迸る紫電。
その全てが、三人にわずかも届かない。
地子を基準に伸びた霊力の箱。
結界によって、私の雷が払われている。
……異変解決を生業とする博麗の巫女。
以前の地震騒動で単身、不良天人を叩きのめした彼女。
その後の彼女の、ともすれば攻撃的と取れる気性……
私はどこかで勘違いしていたのかもしれない。
霊夢様の本質は攻め落とすことだと。
だけど藍様の後ろで地子を癒し、結界で仲間を覆うその手際。
集団の二列目にいるその姿が、妙に馴染んで私には見えた。
結果として、再び生まれた空白の時。
私は結界を突破しようと意識を己の内側へ。
藍様は洋剣を捨て、左右両手に蒼赤の狐火を創造する。
霊夢様は……既に七色の霊気を球形に展開していた。
「神霊・夢想封印」
空白を圧した最初の声は、やはりというか霊夢様。
彼女の速度はこの場にいる誰よりも遅いだろう。
だが、彼女の動きは私達の誰よりも早かった。
最初に地子を癒し、最初に敵の雷を無力化し、最初に私に届かせた。
あらゆる速度を超越し、全てを先制した博麗霊夢。
彼女の力の一端を、こんなところで見せてもらった。
ああ、きっと、だから彼女は強いのだろうな。
「珠符・五爪龍の珠」
次いで発動できたのが私。
意識のみで放つ空間制圧雷撃を止め、一点の破壊力を構築する。
制圧から突破へ。
術式を編み、編んだ構成に妖力を流して発現した私の術。
それは龍の意図というブースターを得てその火力を天井知らずに跳ね上げる。
訂正。
天井はある。
しかしだれも知覚できない領域の破壊力なら、それは天井知らずと称せるだろう。
五つの頂点を持った星型に雷球を繋ぎ、終末へ向けて解き放つ。
霊夢様の術と私の術。
出力の桁は私が上。
冗談ではなく本当に桁が違うのだから仕方ない。
両者の術式がぶつかった時、彼女の術はシャボン玉のように爆ぜるだろう。
終末へ歩む私の術は、彼女には止められない。
一度だけ目を瞑る。
「式輝・狐狸妖怪レーザー」
このままでは終わるまいて。
分かってはいた。
この場で、おそらく一番手強い妖狐の事。
再び目を開いたとき、私の雷星と青赤の極光が噛み合っている。
極光の周囲には七色に輝く霊弾が飛び交い、凄まじい余波を撒き散らしながらも私の意図を食い止めていた。
龍をおろした私の術が、人と妖怪に止められたのだ。
呆れるほどに非常識。
だが、認めるより他はあるまい。
博麗の霊夢様と八雲の藍様。
彼女達は強く、私の予想した通りであると。
一度解き放った術式に、現状で手を加えて威力をさらにあげる真似はできない。
その点は彼女達も同じである。
ではどうするか?
決まっている。
「もう一度、いきますね。そちらの用意は宜しいですか?」
「え!?」
「っちょ! おま……」
第二撃。
追撃にしてとどめ。
右手で放った術が終わる前に、左手でもう一つ同じ術を。
溜めも硬直もありはしない。
大地から強引に吸い上げる力だけで、無理やり発動させた術である。
星の形は歪だが、威力はさほど変わらない。
龍とは森羅万象にして世界そのもの。
そんなものと一つになった今の私に、妖力の際限などあってないようなものである。
耐えるのならば、この世界から命が枯渇するまで凌いで見せろ。
「珠符・五爪龍の珠」
今度響いたのは私の声だけ。
最初の雷星に辛うじて拮抗していた二人の術は、新たに現れた雷星に押され霧散した。
私の初太刀を防いだのは、貴女方の強さと認めましょう。
だけどそこまで。
最低限、この程度強いことはちゃんと織り込んでいましたよ?
二つの雷星に巻き込まれる三つの影。
視界の端の捕らえつつ、私は腕時計に目を落とす。
短い針が、七と八の間。
長い針が、丁度六の所。
そして秒針は、一回りと九秒ほど進んでいる。
地子が最初の一歩を踏み出してから六十九秒。
一分強の時間において、一つの決着がついてしまった。
※
§比那名居天子§
「珠符・五爪龍の珠」
衣玖の声がする。
起き上がろうとしたんだけど首が回らない。
というか、息もできない。
私は生きているのかなこれ?
なんか心臓も動いてなさそう。
「いったー……」
走り出した時、初めて衣玖が化けたのが実感できた。
十数歩で届くはずの距離が、無限に近いほど遠くに見えたから。
遊び感覚で立ち向かって勝てる相手じゃなかった。
三対一でも、勝てる気がしない。
「んぅ……」
こうなる前の感覚を思い出し、体を必死に動かしてみる。
なんとなく、起き上がることは出来た様だ。
全身に引きつるような違和感があるが。
ぼんやりとした視界に移るのは、私の頭上を越える勢いで吹っ飛ばされる霊夢と藍。
あの二人を同時にとか、凄いな衣玖は。
「あれ?」
とりあえず、動けるのなら戦わないと。
そう思って動かした足が、膝からカクンと崩れてしまう。
ちょっとだけ背筋が凍る。
両手両足、ちゃんとあるよね?
なんか感覚がないんだけど。
「無事ですか? 総領娘様」
「衣玖? なんか全身引きつってる」
「そうでしょう。ご無理はよくありません」
いつもの感じで、いつもの色。
衣玖の声は、淡い青。
こんな声を聞いていると、衣玖と戦ってるとか忘れそうになる。
私が忘れたいんだろう。
衣玖を見る。
微笑んでる。
でも、雷でパリパリしてる。
私の身体も、ぼろぼろになってる。
藍と霊夢が吹っ飛ばされたのも覚えてる
夢では、ないのね。
「ん」
緋想の剣を杖代わりに、無理やり身体を起こしてみる。
夢じゃないなら頑張らないといけない。
頑張るとか好きじゃないけど。
やらないと衣玖はいなくなってしまう。
そんなのは嫌だな。
身体がつらい。
こういうときはお呪い。
私の秘密の合言葉。
「あら……貴女は、確か……」
「衣玖です。永江の」
独り言だったんだけど、律儀な衣玖は返してくれた。
もう何度と無く繰り返した問いと答え。
衣玖の色は、やっぱり青。
この色じゃない。
私の原初に焼きついた、世界で一番美しい緋色。
かつて衣玖の中に一度だけ、それに近い色を見た。
初めて、何気なくこの問いをかけたとき……
衣玖は確かに上気してた。
どんな感情なのか分からないけど、溢れる熱が篭った声は確かに緋色をしていたのだ。
「駄目女」
「なんですと?」
「衣玖の馬鹿。駄目女」
もう一度、衣玖の緋色が見たかった。
衣玖は本当にやる気がない。
今だってそう。
こんなに強いのに、その強さで何がしたいってわけじゃない。
私が衣玖くらい強かったら、世界征服とかできるのにな。
「やる気の欠片もない空虚な青。衣玖に似合う色じゃないわ」
「そうでしょうか……私は今の自分でそれなりに満足しておりますのに」
「昔の衣玖はもっと情熱的だったわ。老いたの?」
「私の熱をとことんまで冷ましてくださった総領娘様が、そんな風におっしゃいますか……」
あー……そうなんだ?
ごめんね。
「私にじゃなくてもいいからさ。もう少しやる気出してみてよ」
「貴女以外の前では、出しておりますよ」
「嘘。私ずーっと見てたもの。衣玖はいつも同じ。やる気の欠片もない駄目女」
「見ていたんですか?」
「うん。ずっと見てた」
「……」
「私がいないほうが良いのか、いたほうが良いのか。天界でも地上でもずっと見てた。いてもいなくても同じっぽいから、私も衣玖に関わる事にした」
杖にしていた緋想の剣を引き抜き、二本の足で立ってみる。
痺れはかなり抜けてきた。
霊夢がいい感じに治してくれたんだろう。
感謝に後で桃をやろう。
というか癒してくれなきゃ死んでいたかもしれない。
桃は二つにしてやろう。
狐は……いいや別に。
剣に霊気を回す。
緋色の燐光が剣を包み、その力が空間に満ちる。
剣を通して回った霊気が、私の中に帰ってくる。
持ってるだけで身体が少し楽になった。
いい仕事してる、緋想の剣。
「攻めていい?」
「どうぞ。出来ればその剣は、置いてくださると助かります」
「んー、却下ね。これないと、衣玖に触れないわ」
衣玖のお願いなら、聞いていいかなと一瞬思った。
とんでもない話だ。
龍を降ろした衣玖は意思を持った自然であり世界そのものと言っていい。
そんな彼女を制するとすれば、この剣を使える私だけ。
相手の気質を取り込み、その弱点をつける天界の秘宝。
緋想の剣を使い、龍に仕える衣玖を倒す。
そんなことが出来れば、天地人全てを操ることも出来るかもしれない。
というか、そっちのほうが楽じゃないかな?
今の衣玖に勝つくらいなら。
「むうぅ……」
踏み込めないでいると、衣玖はその場に座り込んだ。
正座してる。
その姿勢のまま、衣玖の視線が絡み付いてくる。
剣が当たるイメージが全くわかない。
私の全てが衣玖に見透かされてるような気がする。
気圧されてるって事なのか。
なんか、ちょっと嫌だな。
「来ないので?」
「んー……」
「総領娘様を想って、雷撃は控えているのです。あまり焦らさないでやってくださいな?」
「あ、あー……そうだね」
さっきみたいな雷をいっぱい使われたら私には捌けない。
衣玖はずるいな。
やる気もないのにあんなに強い。
ちょっとイラッとした瞬間に、私の足が前に出た。
ああ、もう本当に、堪え性のない私。
むかつくと同時にぶん殴りに行くとか何考えているのだろう?
私だって結構怖いし、痛いのだって嫌なんだよ?
でもきっと、それより衣玖がむかつくんだろう。
すごいむかついて、それと同じくらいたぶん好きで。
思考が纏まらない内に剣の間合いに入ってしまう。
「おや、早い?」
きょとんとした衣玖の声。
これは好機ではなかろうか。
衣玖は正座してる。
湯飲みを持っててもおかしくない位に脱力してる。
私は既に剣を振り上げ、なんと振り下ろしてさえいる。
あれ? なんか私勝てちゃわない?
理性は逃げとけって悲鳴を上げてる。
でも現状は絶対私に有利。
どうしよう。
これどうなっちゃうんだろう。
衣玖はゆっくりと立ち上がりつつ右手を頭上に翳して来る。
次の瞬間、私の目の前が真っ暗になった。
何かされたんだろうな。
当たるイメージ、なかったもんね。
カクンと膝が折れたっぽい。
今度は身体を支えられず、そのままなんか倒れたみたい。
やっぱり衣玖は強かった。
やる気なんかぜんぜん、ないくせに。
自分の生き死にだって、興味の中に無いくせにさ。
※
§博麗霊夢§
「うぅ……」
身体が痺れる。
めっちゃ痛い。
後ろに倒れた馬鹿天人がいなかったら、間違いなく避けていただろう。
焼きが回ったって事だろうが、藍もそうしたんだからきっと間違いじゃないと思う。
しばらくとんだ意識が戻ったとき、目に映ったのは天子の突進。
ど阿呆である。
最初にそれやって真っ先に倒れたんだろうがあんたは。
正座した衣玖に緋想の剣を振り上げ、振り下ろす天子。
当たると思っていないのだろう。
惰性で動いているのがよく分かる。
剣は衣玖の翳した手の甲に触り、そのまま腕を舐めるように滑ってゆく。
そして剣が肘を通り抜けた瞬間、彼女は手首を内側に捻る。
連動して回った肘が、ものの見事に天子の顎をかち上げていた。
綺麗に脳が揺らされたろう。
そのまま無様に倒れていた。
「お遊戯にしても、いささか雅さにかけるかと」
そう言って、完全に正座から立ち上がった衣玖。
見下ろすその視線には嘲笑とか憐憫はない。
純粋に戸惑っているのだろう。
どさくさに紛れて勝敗が決まってしまった。
そんな思いがあるのかもしれない。
……まぁ、あいつがちゃんと実力出して挑んだ所で結果が変わるとは思えない。
私が苦笑したところで、天子は目を覚ましたらしい。
何とか立ち上がり、衣玖を睨む。
「まだ負けてないんだけど?」
「よろしい。お稽古の時間と参りましょうか」
がむしゃらに切りかかる天子に対し、のらりくらりと避ける衣玖。
緋想の剣を持ったことはないが、おそらく重さは無いのではないか。
そうとしか思えないほどめちゃくちゃな斬撃と切り替えし。
当てる事が目的ならば、確かに悪くないだろう。
もっとも、衣玖はそんな天子の剣をそれ以上の速度で避けている。
振るも避けるも、尋常な速さではない。
化け物共め。
人間に謝れ。
「藍……どこ?」
「……やっと気がついたかい……退け」
不機嫌そうな声は、お尻のしたから聞こえてくる。
気づいたというのは適切ではない。
私はちゃんと知っている。
受身も取れずに吹き飛ばされて、頭も打たずに無事でいる。
私が天子を庇った様に、藍も私を庇ったのだろう。
いい仕事をしてくれる。
本当に、紫にはもったいない。
「嫌よ。もう……そんなに動けないもの」
ぼろぼろになった手に掴んだのは御札。
使い主が瀕死なのに腹立たしいくらい無傷である。
だけど今だけは。その丈夫さに感謝した。
私の霊気を流した御札は、淡い緑光に解けて行く。
そのまま下の狐に触れると、彼女の傷が少し消える。
「悪いね」
「いいわ。その分働いてもらうもの」
「……承知したよ」
丁重に抱え上げられた身体が、やはり丁重に下ろされた。
熱っぽい身体だが、他人の熱から離れるととたんに寒く感じられる。
……本当に焼きが回ったとしか思えない。
何でこんなときに、体調を万全に持って来れないんだ私は?
「今は休め。とりあえず終わったら、家に下宿すればいいから」
「あー……」
神社は最初の衣玖の雷で、完膚なきまでに壊れている。
ひどいもんだ。
また萃香に直させないといけない。
それにしても、本当に昔から、何かあるたびに壊れてくれる神社である。
少し根性が足らないのかもしれない。
本当に嫌になる。
まるで私にそっくりだ。
「そうするわ。生き残ったら」
「そうなさい。生き残ったら」
座り込んだ私が最初に見たのは、羽衣で横っ面を張り飛ばされる天子だった。
やはりというかなんと言うか、相手になっていない。
天子は絶対弱くない。
天賦は私と勝負できる。
私が他人にそう思ったのは、とりあえずあいつが初めてだし。
だけど衣玖にはちょっと勝てない。
衣玖はいつでも龍の力を使えただろうに、それをしないでやってきたらしい。
自分より強い相手を、才能のある相手を、自分の引き出しだけで覆してきたのだろう。
そういう戦い方が出来る衣玖が、今誰よりも強い力を手に入れてしまった。
力と技と知性とが、衣玖の中で一つになっているのである。
こんな相手に勝てるとしたら……
「よう衣玖さん。小娘ばかり構ってないで、私と遊んでくれないかね?」
「はい。丁度退屈しておりましたし」
駆け寄る藍の姿は見ないまま、微笑を浮かべて応える衣玖さん。
至近距離でふらつく天子に迷わず踏み込み、その両手を掴み取る。
そのまま手首を一つ捻り、重力を無視したように天子の身体を振り回す。
「ふえ!?」
天子の身体が冗談のように半回転し、衣玖と顔を合わせたまま逆立ちのように吊り上げられる。
その勢いを殺さず、むしろ捻った手首を倍する速さで戻した衣玖。
やはり冗談のように天子の身体が振り回され、そのまま藍に投げつけられる。
「おっと?」
藍は天子を止めずに避ける。
「ぎゃぴ!」
無様な悲鳴は天子のもの。
藍と天子がすれ違った瞬間、二人に向けて放たれた雷。
それが着弾したのだろう。
藍が天子を受け止めていたら、巻き込まれていたに違いない。
だから、藍は正しいのだろう。
非道というわけではない。
洒落にならないと判断したとき、藍はちゃんと味方を庇う。
出来る範囲で、先ほどの私にしたように。
そんなあいつが放置したということは、命に別状は無いのだろう。
最初の時といい、無駄に頑丈な天人である。
「こうして向き合うのは半年振りか」
「さようでございますね。この際、後腐れのないように決着と洒落込みましょう?」
今の衣玖がどれだけ強かろうと、あいつも八雲の一人である。
勝てないにしても簡単に負ける事はありえない。
そうなると……
とりあえずあっちで焦げてる馬鹿天子。
あいつを治してやらないとか。
「……」
さほど遠くない位置。
だけど今の私には果てしなく遠く見える先に、倒れている天子が見える。
私は立ち上がろうと足掻き、深刻な悪寒に膝を突く。
……真剣にやばいわこれ。
足で歩くことを諦め、這うように進む。
私は、なんでこんなことしてるんだろう……?
目が……霞む……
※
§八雲藍§
そもそもからして、この場では私だけが知っていた。
衣玖の切り札。
龍降ろし。
かつて萃香が天人を倒す宴を催したときの事。
友人たる紫様も当然のように招かれて……
出かける前に、衣玖が来た。
彼女は八雲紫が比那名居天子に会うことを恐れ、単身足止めに来たのである。
結果として、衣玖の判断は間違いだった。
紫様は天子を嫌い、会いに行くつもりなど無かったのだ。
だけど衣玖が来てしまうものだから興味を持った。
そしてそれを阻むべく、衣玖は対峙してしまい……
永江は、八雲を止めて見せた。
龍を降ろした衣玖と紫様は一刻ばかり睨み合い、両者は無言で背を向けた。
天界で宴が終わったんだろうなと、なんとなく私はそう思った。
「来ないので?」
「どうしましょうね?」
要するに、私の相手はそれくらいの化け物なのである。
霊夢の戦力減と紫様の冬眠が本当に痛い。
紫様がいれば手伝ってくれた。
衣玖が犠牲に埋まったとしても、要石の地震を緩和し切れる保障が無いからだ。
だが、此処で止められなければ、衣玖はやるだろう。
天子が痺れて霊夢が動けない今、私が倒さないと行けないわけだ
「……」
私が半歩踏み込むと、衣玖は僅かに退いた。
中間距離でにらみ合う私達。
この距離は、衣玖の得意な間合い
計算する。
八雲藍が永江衣玖に完勝を収めえる場合……
最低でも、賭けに三つは勝たないといけない。
何処か一つでもはずしたら、最初からやり直し。
そしてその度、私は削られてゆくだろう。
やるのなら開幕が一番成功しやすい。
私は懐から左手で、瓢箪を一つ取り出した。
「あの時、君が家に来た日の事さ」
「……ふむ」
衣玖の目が細くなる。
私は構わず栓を抜き、右手に中身を注いで行く。
無色透明な液体が右手に溢れ、零れたそれも落ちずに絡む。
やがて瓢箪の中身は全て右手に纏わりつき、一尺程の直径を持った球形で掌の上に落ち着いた。
「ショックだったよ? 私は以前相当に本気だったのに、君は手加減してくれていたのだもの」
「……」
「ああ、良かった。そこで謝られたら、私も立つ瀬が無かったよ」
紫様と向かい合う衣玖。
其の二人を見て嫉妬した。
まだ、今の私には届かない領域の戦であったから。
そしてもしかしたら、私には一生掛かっても届かない世界を見せられたのかもしれなかったから。
「あの時からね? 君の事ばかり考えてきたの」
「……光栄でございます」
衣玖が右手で私を指差す。
同時に奔る稲光。
雷閃は一直線に私に飛来し……
右手の液体に弾かれた。
「あの手なら通じるか、あれを使ったら隙が出来るか、あそこを攻めたら当たるか……」
「……」
「衣玖は私をどう攻めるか、どう切り返すか、どう受けるかどう守るかどう流すか……」
仮想敵は常に君だ。
私の目標は紫様で、其の途中には必ず君にぶつかるから。
永く生きてきた私だが、紫様と出会って以降は初めてだった。
初めて私は、途中経過を試せる相手に出会ったのだ。
嫉妬は、歓喜と同義であった。
衣玖が口元で笑みを作る。
それは何時もの微笑よりも尚魅力的な、彼女の喜質から生まれた笑み。
良かった。
彼女はこの状況を、私を楽しんでくれている。
「純水ですか、その水は」
「ええ、八雲藍考案の、対永江衣玖用の秘密兵器よ」
科学的には絶縁体である純水は、電気を全く通さない。
衣玖が操る雷なら指向性で突破するだろうが、この純水自体も私が妖気で操る妖水。
属性相性を考えれば非常に有効な盾に化ける。
私は右手を前に残し、左足を引き半身にする。
物が水である事を除けば、盾を翳した姿勢になる。
「はぁ……」
吐いた息は私達、どちらのものか。
中間距離なら衣玖が有利。
近接距離だと……やはり衣玖が有利だろう。
しかし純水を盾に飛び込んだ場合、近接で私は一度だけ、衣玖の攻撃に耐える。
それも、かなりの高確率で。
一撃で仕留め切れない場合、反撃は確実に衣玖を傷つける。
この状況で衣玖が確実に完勝する方法。
それは中間距離で私を一蹴するしかない。
「……」
私の右手には水の球。
そして引いた左手には圧縮冷気。
衣玖の額から一筋の汗が伝う。
右の水を盾に、左の冷気で仕留める。
私の意図を、彼女は正確に読み取っているだろう。
これ以上進んでも、退いても私の必殺の間合いに入る。
この中間距離だけ、衣玖が確実に先制できる間合い。
先に手を出して欲しい。
コレが最初の賭け。
衣玖が手を出してくれさえすれば、其の先の賭けは追い詰めながら選択を強いてゆける。
『……』
こいつと睨みあうのは本当に疲れる。
空気を読まれるから内心で焦ることも出来ない。
乗せるには『やっておいて損は無い』くらいの気持ちで、身命を賭した勝負を仕掛ける事である。
集中力は切らすことは出来ず、されどがっつくことも許されず……
風が凪いだ。
「其の羽衣は―――」
「―――っ!」
衣玖が動く。
初動の踏み込みから繰り出される初撃。
それこそが必殺である。
其の確信がなければ、衣玖は一時間でも一日でも動かないだろう。
前回でそれは見せてもらった。
何がくるか。
それも解る。
雷撃では私を一撃で倒せない。
この場で、私に対して必殺たり得る衣玖の武器それは……
「水の如く」
羽衣の一撃しかあり得ない。
雷気に強くとも所詮水。
神速の羽衣で切り裂けば、盾にもならず私に届く。
胴体やや上を狙って繰り出される衣玖の……斬撃。
一つ目の賭は私の勝ち!
右手を落とし、球形の水が形を崩す。
歪な円柱と化した水塊。
其処に左の冷気を叩き込む。
身を屈めた私と衣玖の中間に突如出現した氷柱。
羽衣は腹に氷柱を巻き込み、其処を巻き付き半回転。
私は頭上で羽衣の流れる音を聞く。
「あ!?」
繰り出した時と等速で、衣玖の羽衣が自身に返る。
切り返しは成功した。
しかしその結果が出る前に、次の行動は始まっている。
私は更に身を屈め、右足を支点に裏回り。
そのまま衣玖が踏み込んだ足を目算で狙い、刈り取るための水面蹴り。
当たる感触が無い。
衣玖はおそらく避けたのだろう。
此処からが二つ目の賭け……
「っふ!」
「お?」
きょとんとした衣玖の声。
中段に切り替えした羽衣、下段に私の蹴り。
この二つで衣玖の身体を空に逃がす。
本命は……
衣玖が居た位置のやや上方を薙いだ、九尾である。
その一つが、彼女の足首に絡み付いた。
二つ目も私の勝ち!
尻尾を振り上げ、石畳の角に向けて衣玖の後頭部を叩き付ける。
遠慮会釈は無しである。
石畳ごと頭を粉砕するつもりで、彼女の頭を打ち付けた。
三つ目の賭けは、衣玖が頭を庇う事。
だが、此処までくれば状況が限定されている。
攻撃に対する防御行動に優れた衣玖の事。
振り上げて振り下ろすというアクションがあるならば、あいつは必ず護るはず。
詰み!
「っ!」
無言のままに、踵を天高く振り上げる私。
前段階において、もし後ろを守っていなければ、衣玖の頭といえど粉砕出来る威力は出した。
其の時点では頭を砕く感触は無かったから、衣玖は其処を守ったはず。
後頭部を庇った衣玖に、この踵落しは守れない。
骨が骨を砕く感触が、私の足に伝わった。
あいつの顔、綺麗だったな……
自身で潰してしまったけれど、本当に良い女だった。
癒えるまでは見れたものではないだろう。
人間なら即死の威力。
頬骨に当たれば其処を砕き、鼻に当たれば突起は凹字に窪んだはず。
美しいものを自分の手で汚しつくす、背徳感に背筋が泡立った時……
不意に、今度は私の足が払われた。
「え?」
羽衣!?
私の両足を払ったのは、瀕死のはずの衣玖の羽衣。
尻尾を使い転倒は避ける私だが、其の眼前に詰め寄る衣玖の姿。
「あら?」
しかし衣玖は私が倒れず踏みとどまると、一度後ろに退いた。
顔は……無傷だ。
「同じことをしてみるつもりだったのですが、巧くいかないものですねぇ」
苦笑した衣玖。
顔は……無事だ。
では私が砕いたのは……?
「すごく痛かったのですよ? 後ろ頭と……手首ですけど」
衣玖は帽子を取って、やや出血している後頭部を摩っている。
そして彼女が纏う羽衣にも、微量の血痕が付着していた。
ああ、こいつ羽衣を枕にして……
私の踵は、両手首を交差させて受けたのだろう。
腹立つなぁ……本当に。
賭けは上手くいっていた。
それだけに腹が立つ。
だってこの女、私が其処までリスク犯して、その代償を貰っても尚上を行った。
私ではどうやっても、彼女には勝てないってことじゃない?
「踏み抜いたときに油断せず、止めを刺しておくべきでしたね」
「別に油断したわけじゃないんだがね?」
私に衣玖を殺すまで、加害する意思が無いだけである。
顔を砕いた時点で戦闘不能と判断したから、それ以上攻めなかったのだ。
結果だけ見れば、それは計算違いの極地だったわけだが。
「……霊夢様も、藍様も、本当にお優しい」
「……」
「貴女方のような御仁と面識を持てましたこと、衣玖の幸福にございます」
朗らかな、本当に幸せそうな笑みでそう言った永江衣玖。
天子に色を見てもらいたいもんだ。
この笑みと台詞と情感を、全て張りぼてで出せるとしたら、私は他人不信に陥るだろう。
「……私達は未だに、お互いを理解する余地が多くあるよ。なんなら、今夜辺り一杯どうかしら?」
「まぁ、またお誘いくださるので?」
「えぇ、口説いてるのよ」
衣玖は一つ天を仰ぎ、同時に降り注いだ双筋の雷。
それは這いずって動こうとした天子に直撃し、ぷすぷすと煙を上げている。
本当に、色気の無い場所で巡り合うね私達は。
本格的に口説きたい心情もあるんだけどなぁ……
「今少し雰囲気のある所で口説かれたいモノですね」
「あら、私に口説かれること事態に、拒否は無いの?」
「……昨日も拒まなかったではありませんか。私の様な醜女には、勿体無いお誘いでございます」
里に出れば十に八の男が振り向くだろう顔してるくせに何言ってんだこのアマ。
私は衣玖のように空気は読めないし、馬鹿天人の様な音を視る眼は持っていない。
だけど今、穏やかに苦笑している衣玖を見ていると多少は気を持っていいのではないか。
そんな気にさせてくれる。
だって今の衣玖、半年前この四人で宴を囲った時と同じ雰囲気で笑ってるから。
だからこの瞬間、其の笑みを消して悲痛なまでの声音で言ったことも本音なのだと理解した。
「総領娘様が暴挙に出る前にお誘いくだされば……」
「……」
「衣玖は古の天狐様に焦れる、一人の娘でいられたでしょうに」
「衣玖……」
「あの夏の日より一日でも早く、わたくしを見つけてくださればよかった。そうすれば、衣玖は……」
そこで声を切り息を吐き、彼女は微笑の仮面を被る。
もう声は、届かない。
衣玖は一つ手首を摩る。
それだけで、青く腫れた彼女の手首は健康な色素を取り戻した。
「少し語りすぎましたね、お互いに」
「そうね……この先は力ずくにしましょうか」
衣玖は何時もの微笑で、何時もの脱力した姿勢になる。
それは互いの実力差を考えると、私にとって最悪の戦術。
攻めてきてくれるなら、私も其処をきっかけに切り返せる。
賭けに出ることになろうとも、其の賭けが幾つ重なろうとも、衣玖に届かせる自信があった。
だが、これは衣玖の本来の構え。
後の先を極めた切り替えしの型。
もう衣玖は、自ら攻めては来ないだろう。
構えが雄弁に物語ってくれる。
そのまま、大地を滑る様に。
徐々に、徐々に間合いを詰めて来る。
通常なら、純粋な腕力で私は衣玖に勝るだろう。
だが、今の衣玖に勝てるかというと心底心もとない。
衣玖が近寄ってくるということは、最終的に組み合いになることまで望んでいるようにすら見える。
「こぉぉ……」
仕方ないか……
吸気を溜めつつ覚悟を決める。
腰を深く落とし、右手に狐火を這わせて腰に溜める。
逃げるという選択肢が無い以上、衣玖が自分の間合いにいる時に攻めるしかない。
衣玖が寄って来る。
以前もこんな事があった。
あの時との違いは、衣玖が雷を纏っていないこと。
散歩でもするような足取りは、以前と異なるものじゃないが。
衣玖は足を止めない。
悠々と私の間合いに入ってくる。
長身の私達の間合いは相当に広いが、其の外周が触れ合う刹那……
「はあぁぁっ!」
呼気と共に私が爆ぜる。
衣玖の深い懐まで、一足で。
極限までたわめられた全身のバネ。
それを踏み足の一点に込めて私は速度を稼ぎ出す。
あり得ない遠間合いからの踏み込み。
同時に腰に溜めた右手を、拳の形で解き放つ。
軌道は先と同じ、衣玖の顔面。
衣玖は微笑を崩さず、しかし流石にコレを受ける気はないのだろう。
間髪いれずに両腕で庇う。
……世間には、多少実力差があろうとも掛かってしまう虚実がある。
コレもそう。
私は衣玖の顔など狙っていない。
狙いは顔を庇った衣玖の右腕!
肘のやや上、腕の付け根側に親指を当て、そのまま一気に握りつぶす。
「っつ」
一瞬で振り払われる私の腕。
しかし同時に、私の全体重を乗せた右足が衣玖の脇腹に迸る。
渾身の蹴りだった。
人間でなくとも、並以上の妖怪でも即死させられる威力はあろう。
惜しむらくは……
「良き闘争、ご馳走様でございました」
惜しむらくは、彼女の羽衣によって柔軟な防御に絡めとられていたことか。
私の足は羽衣に、緩く受け止められていた。
衣玖の身体にはほんの僅か、届いていない。
衣玖は左手を大きく振り上げ、其処に羽衣を撒きつかせる。
螺旋を描く起動に気流を這わせ、羽衣を靡かせたその一撃。
それは私の胸の真ん中を正確に穿った。
「げふっ」
その場に膝を折って崩れ落ちる私。
当たった瞬間すごく嫌な音が体内に響いた。
血の塊を吐き出しながら悶絶する。
即死しなかったのは、彼女の手心かそれとも……
「腕が……」
出来なかったのだろう。
利き手は先ほど潰したから。
腱と筋肉の間を焼ききり、爪で血管を押しつぶした。
妖怪の衣玖にはそうそう効果が続くはずも無いが、それでも人型を取っているのである。
内部構造もある程度、人型を模しているはずなのだ。
だからこういう局所攻撃もある程度通用する場合がある。
機能を破壊する際に必要な攻撃力は、対人間の比じゃないけど。
「……まだ続けるのですか?」
「おう…よ」
頭上から聞こえる衣玖の声。
私は胸を押さえて立ち上がった。
風穴が開いている。
しばらくは橙に会えなくなった。
会ったら絶対、泣かれるから。
意識が遠くなりかけた時、私の頬に触れるものがある。
「右手が使えれば、もう少し楽にして差し上げたのですが……」
申し訳なさそうに衣玖が言う。
いつの間にか、頬に添えられた衣玖の左手。
其の手にはハンカチが握られ、脂汗を拭ってくれている。
目が合うと、微笑の中に一瞬漣が走るのが見て取れた。
気に病んでくれているのかしら?
だったら嬉しいのだけれど。
「ぐえええ!」
潰れた蛙の様な声。
私って、こんな声上げられたんだ……
何が起こったかは簡単だろう。
衣玖が私の髪を掴み、脇腹に膝を入れたのだ。
しかもご丁寧に、空気塊までぶち込んで内臓も壊していきやがった。
もう一度膝が折れるが、今度は倒れこまない。
いや、倒れられない。
衣玖は未だに私の髪を離さず、そこで吊られているのだから。
「本当に、どうして中途半端に右手だけ……」
まだ上手く動かせないのだろう。
痙攣が治まらないその腕を、忌々しげに見つめる衣玖。
おかげで私が必要以上に痛い目を見ている。
でも気にしないでいいんだよ?
それは私が望んでやっていることなのだから。
「ぐ、うぅ……」
「もう、ご無理をなさらず」
立ち上がろうとした私だが、衣玖は髪を掴んだまま本当に宙吊りにする。
この勝負は、衣玖の勝ちで揺るがない。
私は衣玖に勝てない。
最初の賭けに負けた時点でそれは決まっていたことだ。
なら、私に出来ることは時間を稼ぐことだろう。
現に、衣玖はまだ私に手を焼いているのだから。
……そう思ったのが間違いだった。
「……ああ、時間を稼いでいらしたので?」
おい……
お前本当は空気なんぞ読んでないだろ?
サトリだろ本当は?
怒らないから本当のこと言って見ろ。
「何故解ったか? いえ、たまたまわたくしの腕時計が目につきまして、それで時間と連想が……」
「……ぐふ」
血の塊がせり上がり、満足に話せない。
不条理だと思う。
遣る瀬無さに涙もでねぇ。
紫様といいこいつといい、世界とか神とか、何か大きなものに愛されてる連中は本当にコレだから……
「もう、お休みくださいな天狐様。一夜妻でも、衣玖を見初めてくださった方……」
黒雷が一筋降り注ぎ、衣玖に吊られた私を焼いた。
消し炭にならなかったのが不思議でしょうがない。
ほぼ炭になった私を、横たえた衣玖。
霞む視界にその背中が遠ざかる。
其の先には……天子……か……?
「一つだけ、龍神様に誓ってお約束をいたします」
「……」
「貴女が終わりを望むとき、私は速やかに従います」
「……っ」
「どうか、ご決断はお早めに。口が利けなくなって参りますと、不要な加害が起きてしまうやも知れません」
「衣玖……いくぅ……」
「それでは……少し痛い目に遭って勉強しましょう?」
事務的な口調で一方的な宣言が聞こえる。
耳が良いのも考え物だ。
解体の音と悲鳴が聞こえる。
耳を塞ぐ事も出来ない、動けぬ体が呪わしかった。
※
お初に……どか
御目に……ぼき
かかります……ぶち
永江の……がん
衣玖と……ごり
申します……みち
まだ続きをご希望ですか?
そうですか。
お名前を……ぽき
伺って……ぐちゅ
も……ぱか
宜しゅ……がりがり
う……ざりざり
ございま……じゃりじゃり
しょうか……ぱしゃ
総領娘様? 総領娘様?
聞こえておりましょうか?
まだ続きをご希望でしょうか?
そうですか。
天子様……ぐちゃ
天の子……ぶちゅ
なるほど……けちゃ
いえ……くちゅ
天に……ごきゅ
愛……ぱちゅ
され……ぐちゃ
た……ぐちゃ
娘に……ぐちゃ
相応しい……ぐちゃ
良き……ぐちゃ
名……ぐちゃ
で……ぱりぱり
いらっしゃいますね…………じゅーじゅー
※
§比那名居天子§
私の頭を膝に乗せ、衣玖の処刑が続いていた。
ここまでするのかなって言うくらい、私の身体が引き潰される。
天人でよかった私。
意識して痛覚を遮断出来なかったら……
痛覚が正常に作動していたら、気が狂うと思う。
胸から下。
正確に鳩尾から下を集中的に加虐してくる衣玖。
胸から上が無事なのは、命乞い出来るようにだろう。
いや、この場合は止め乞いか?
「……い……きゅ……」
「総領娘様? 続けますか? 終わりますか?」
内臓がしっかり遣られてる。
食道を通って黒い血の塊が溢れて来た。
私にここまでするほど、嫌だったの?
要石をこの世界に挿すことは、それほどまでに彼女の禁忌だったのだろうか。
衣玖に生きてて欲しいから、私は彼女を止めに来た。
翻意してくれるなら感謝すらいらないけれど、この仕打ちはあまりじゃないかな。
「……も……やめ…やめて……」
「……一つ、伺っても宜しいでしょうか?」
「……」
「私は、緋色に揺らぎましたか?」
どうしよう。
これどうしよう言ってもいいかな?
衣玖の音は緋色じゃない。
でも、最初のだっさい青でもない。
青に黒の点が染み付き、其処から斑に広がってる。
そして二つは混ざり合って、土留め色に響いてて……
あんまり見たくなかったけど、下半身に目を向ける。
やっぱり止めればよかった。
でも目に焼き付けておきたかった。
コレをやったのは衣玖であり、彼女はきっと同じくらい痛い思いをしてコレをした。
私じゃない誰かの痛みなんて、考えたことは無かったけれど。
あんなに悲痛な音を『視た』ことがない。
そう思ったら……涙が出てきた。
目元を手で隠したかったけど、骨も腱も引き千切られてて出来なかった。
「……揺らぎませんか。そうでしたか……」
「……うくっ……う…うぅ……」
違うと怒鳴りつけてやりたい。
というか、あんた自分で気づいてないの?
お前が泣かないから私が泣いてやってるんだ。
顔の繊維はいつもの微笑から1ミクロンもずれてない。
声のトーンも、普段とまるで変わらない。
衣玖は一遍の感情も動かさず、毛虫を潰したようなつもりで私を潰した……様に見える。
ただ、色だけが彼女の異常を教えてくれた。
くそったれ。
忌々しい私の眼。
こんなものさえなければ、私は勘違い出来たんだ。
衣玖は私になんの感情も抱かないって。
私をそこらの小石と、同じように始末できる他人なんだと……
もしそうなら、私は衣玖を諦める事が出来たかもしれない。
衣玖の中にある緋色は、もう視ることが出来なくなるけど。
また別の人の中にそれを見つければ良いやって。
最初は凹むかも知れないけど、私の得意な飽きっぽさで立ち直れたかもしれないのに。
「お……ねが…い、ぃく……も、やめ……て」
「……もう一度、続けましょうか? それとも終わりにしましょうか?」
淡々と紡ぐ永江衣玖。
冷酷な言葉、でも冷静さのかけらもない土留め色。
こんな色を、私に見せるあんたが悪い。
期待しちゃうじゃない?
執着しちゃうじゃない?
私は飽きっぽいけれど、自分の思い通りにならないうちはしつこいよ。
第一なによ、衣玖の癖に。
あんたが変に気を回して、自殺しようとしてるって言うから止めに来てやったのに。
私がこんなに頼んでるのに、衣玖は止めてくれない。
衣玖は自分を大事にしてくれない。
そもそも何で、衣玖が要石抜かないといけないのか?
あれで龍宮の使いが困っているというのなら、衣玖だけの問題ではないだろうに。
あんた、良い様に使われてるだけじゃないの?
衣玖は同僚に対してだって、ほとんど執着なんかないくせに。
誰も大事じゃないくせに。
大事でもない他人の為に、なんで死ぬかもしれない仕事なんか受ける?
……なんだろう?
だんだん腹が立ってきた。
「……っちょ、ぐ……がぁああ!」
「え?」
血の塊を吐き出しながら、衣玖の膝から身を捩る。
手は力なく垂れ下がり、もはや肩にくっ付いているだけだ。
足はほとんどぺっちゃんこで、いくら私が軽くても体重支えてくれそうにない。
私は衣玖の膝枕から、無様に境内の石畳に転がった。
衣玖の膝、暖かくて柔らかかった。
それに比べてこの石畳の、なんと固く冷たい事か。
私に許された最後の楽園から、自ら飛び出してしまった。
そんな想いが頭をよぎる。
衣玖の膝枕は気持ちよかった。
あのまま終れれば、それはそれでありかなって思う。
だけど……
だけど、私の望むものはあそこにない。
楽園を棄て、現実に帰る。
痛くて冷たくて硬い石の感触。
じわじわと痛覚も戻ってきてしまう。
芋虫のように転がりながら、瞳だけは負けないように衣玖を睨む。
事此処にいたり、私は始めて衣玖を敵だと認識した。
衣玖はまだ、私に緋色を見せていない。
彼女が私の原初を持っているのなら、あいつは私の傍にいるべきなのだ。
それを邪魔するのなら、衣玖自身だって倒す。
そして、私のものにすればいい。
「総領娘様?」
「わた、しが……こっ」
「ご無理なさらず……」
「こん…なにた……の…んでも、いくは……きい、てくれな……」
「……少し黙りなさい地子」
「…な、ら……あなた…でも……」
戦う。
そして勝つ。
懇願しても哀願しても、衣玖は翻意してくれない。
なら戦って勝つ。
力づくで、衣玖にいうこと聞かすしかないじゃないか。
開き直ってしまえば、こんなに楽なことはなかった。
なんで気がつかなかったんだろう?
力づくとか、私が一番得意なやり方なのに。
「……腹を括ったようですが、少しばかり遅かった」
衣玖は立ち上がると、地を這う私に歩み寄る。
緋想の剣は……どこ?
衣玖は私を見下ろしている。
おそらく殺意の雷を侍らせて。
彼女がそれを振り下ろす前に、あの剣を持たないと勝てない。
何処?
何処よ!?
「永江衣玖」
「霊夢様!?」
私が異変を知覚したのは、声が聞こえた後だった。
比較的無事な首を巡らす。
そこには衣玖の真上から出現した霊夢が、その頭を蹴り飛ばす所。
寸での所で飛び退き、霊夢の足から身を逃がす衣玖。
衣玖は戦いの中で、距離を空けながら牽制に紫電を飛ばす癖がある。
避け様にとった切り替えしは、衣玖にとっては脊髄反射に近い行為。
霊夢だって、それは知っていたはずなんだ。
避けることだって出来たと思う。
衣玖に当てるつもりは、きっとなかった。
だって。
「ぁ!?」
自身に背を向け、ボロ雑巾みたいな私に苦笑しながら……
その手に緋想の剣を持ち、背中に雷撃を背負った霊夢を見た時、悲鳴を上げたのは衣玖自身だったもの。
「れいむ?」
「こら天子。忘れ物」
霊夢の顔色が、かなりおかしい。
背中とか焼けどしてるはずなのに、寒そうに震えてる。
それでも、踏みしめるように私に歩み寄ってくれる霊夢。
その背に、衣玖はまっすぐに指を伸ばす。
黒い雷を纏った指を。
「れい……!」
「天子」
私の悲鳴を遮って、霊夢の声が場を圧す。
声は大きくないのに、聞き違えたり逃したりはきっとしないと解る声。
相変わらず、色が見えない。
そして衣玖は黒雷を、放たなかった。
霊夢は私の傍に座り……いや、倒れこむ。
「ほら、あんた弱いんだから、せめて武器くらい手放さないの」
「霊夢? 霊夢大丈夫?」
「だめ。それよりほら」
霊夢から燐光が私に伝い、ぼろぼろの傷を少し癒す。
右手一本分の自由。
だけどそこに握らされた緋想の剣から、無尽蔵に流れ込んでくる霊夢の気質。
晴天……放射冷却……
ああ、道理で今日は寒いわけだ。
「……ふむ」
ふと衣玖に目を遣ると、あいつは狐の元に歩み寄っている。
ちょっと手を翳すと、狐の傷が瞬く間に消えていった。
衣玖がずるい
壊すも治すも自由自在って本当にずるい。
「サービス、いいね」
「ん……なんとなくあっちに当てられた気がしまして」
「そうねぇ……」
藍はにこりと笑んで私と霊夢を一瞥する。
この間にも、緋想の剣から流れ込む気質を取り込む作業は止められない。
足の傷が癒える。
身体の破損が消えてゆく。
「見届けてくださいな。衣玖は、頑張ってきますので」
「お前一人が頑張らなくても良いんだと、昨日言ったろうが」
藍が衣玖の帽子を取ると、その頭にぽんと手を置く。
そして乱暴に撫でていた。
「お前さんはあいつに、何かの罪悪感持ってるようだが私から見りゃ、それはずいぶん見当違いの罪科だよ」
「そう、思われますか?」
「うん。君を攻めるのも罰を与えるのも、全て君自身しかいないのさ。」
「……」
「だから、罰の下し方を誤るな。想い人の罪を一つ背負って、自分は楽になろうなんて逃避だ、それは」
「……手厳しいことで」
「言い足りないくらいだよ? だけど……」
狐は其処で言葉を切ると、私を一度流し見る。
「私は所詮、脇役だからね。主役がやる気を出してる以上、此処は譲ってやるとしよう」
「藍様……」
「君も想いは残すなよ。特等席で、見物させてもらうから」
「はい。見ていてくださいませ」
年寄り共が好き勝手言ってるのは、とりあえず今は無視しようか。
動くようになった左手で、霊夢の身体を抱き寄せた。
すごく冷たい。
全身は剣が治してくれた。
でも、その呼び水になった右手だけは、霊夢が治してくれたんだ。
「ねぇ霊夢、私勝てるかな?」
「勝てるわよ」
「相手衣玖だよ? すっごく強いよ?」
「あんたが本気で勝とうとすれば、負けない。だって……」
「だって?」
「あんたは、天に愛されてるもの」
―――天に愛された娘に相応しい、良き名でいらっしゃいますね……
ああ、そうか。
私は天に愛されていたんだ。
衣玖だってそう言ってた。
そして今、霊夢も同じことを私に言った。
他の誰に否定されても、この二人が認めてくれるなら私は自覚しよう。
私は、天に愛されている。
だけど私の相手も……
衣玖は間違いなく、龍神に愛されてる。
「……あぁ、そういうことか」
私は衣玖が必要で、衣玖は私を気にしてる。
両想いになってもおかしくないのに、私達はそうならなかった。
はじめに掛け違えたボタンを直せず、此処まですれ違って傷つけあってきた。
なんとなく、私はその理由がわかった気がする。
きっと、龍神と天は仲が悪いんだろう。
あいつらが喧嘩してるから、私と衣玖がそのとばっちりを受けたんだ。
そういうことにしてしまおう。
全部あいつらが悪いんだ。
「動ける?」
「ん。いけるかな」
私は霊夢を抱え上げた。
お姫様抱っこというやつである。
そのまま、まだくっちゃべってる衣玖と狐の傍に向かう。
用があるのは、狐だけど。
「ちょっと狐」
「藍だテンコ」
「天子よ狐」
「そうかいテンコ」
会話が進まない。
半年前もこうだった。
終いには殴りあいになったけど、触れなかったな私。
いずれ復讐してやろう。
でも今は下手に出ておいてやる。
腕の中の霊夢を差し出すと、彼女は黙って受け取ってくれた。
それを見届けた衣玖は、すっと私たちの傍から離れて行く。
一人でいることに慣れているのだろう。
離れてゆく背中は、あまり寂しそうじゃない。
それがなんとなく気に食わなくて、私はあらん限りの声で叫ぶ。
「ねぇ、ちょっと、衣玖さんよぉ!?」
衣玖は振り向かない。
静々と、というべきか。
上品な足取りで、速くは無く、しかし止まる事も無い。
今のところ壊れていない手水舎の方へ向かってゆく。
シカトしてんのかこいつ?
聞こえてない筈はないのだが。
「ちょっ」
堪え性のない私があげ掛けた抗議。
それは強制的に寸断された。
声が途切れる。
衣玖がやっとこっちに振り向いたから。
微笑してる。
背筋が快感で泡立った。
やばい。
衣玖が笑ってる。
初めて……いや、二回目か。
初対面のとき以来、『私』に向けて微笑んでる。
今、やっと衣玖が私を見てる。
「はい、総領娘様」
あん?
総領娘……?
「さっきは地子って言ったよね」
「言ってません」
「言いました。絶対さっき言いました」
忘れてなどやるものかよ。
こんな弱点を見つけたら、すっぽんよりしつこく喰らいつくのが不良天人である。
……だから友達いないんだろうなぁ。
まぁ、あまり困った記憶もないから今は保留である。
「いいよ、地子で」
「……」
「この世界でただ一人、衣玖にだけ、そう呼ぶことを許してあげる」
「……そうですか」
「うん、だからその代わり、私の言うことを一つ……うん。一つだけ、聞いてちょうだいな」
緋想の剣が静かに唸る。
音無き咆哮を轟かせ、私の気質と衣玖の気質を吸い上げている。
晴天の空は私の極光に傾くか、衣玖の台風に傾くか。
今だ勝者を定めえず、ただ気質のみを蓄積している。
「これから、私の天威と、貴女の神威が争って、決着もつくんだと思うのよ! その後で、もし私が立っていて貴女がまだ生きていたら……その時は、私のモノになってくれる?」
「それは、永江に名居に下れという意味で?」
「衣玖を名居になどやらない。そして他の誰も、何も要らない。唯、永江衣玖だけは、比那名居天子のものであれ」
台本のない決め台詞を、何とかかまずに言えたと思う。
安堵する。
きっと今日のこの告白は、この場にいる全員に永く残るものだから。
少なくとも、私はこの日を忘れない。
衣玖は一つ天を仰ぎ、その視線を滑らせる。
始に狐、次にその腕に抱えられた霊夢。
最後に、私へ。
真っ向から睨み返したとき、不意に何かを噴出すように苦笑した衣玖。
「ああ……面倒ですこと……」
あ……今……?
はき捨てた衣玖は、再び背を向けてしまう。
そして手水舎の柄杓を使って左手を漱ぐ。
続けて右手を漱いだ後に、手に水を溜めて口を漱いでる。
そうして再び左手を漱ぎ、残りの水で柄杓を漱ぎ、手水舎に戻した。
「本当に、面倒臭い」
手にしたハンカチで手と口をぬぐう衣玖。
面倒とかそれは嘘だ。
衣玖の声音が緋色に揺らぐ。
一点に沸いた緋色は瞬く間に青を駆逐し、彼女の気質とともに衣玖自身を緋色に染める。
私は全身から狂ったように吹き出る汗に困った。
下着までびっしょりだよ?
あぁもう、惚れそうじゃない。
「目覚めなさい、大地よ」
そう呟いた衣玖の声は緋色。
一瞬だけ、私達の踏みしめたる大地が鳴動する。
龍の呼び声に応じ、本当に大地が目覚めたのか。
「吼えなさい、天よ」
衣玖は緋色。
雷鳴が晴天の空を迸り、轟音と光を撒き散らす。
緋想の剣が震えてる。
気質の吸い過ぎで壊れるんじゃないかこれ?
たぶんこの先、衣玖は初めて本気と全力を同時に使って見せてくれる。
私は祖先に、戦闘民族の血でも受け継いでいるのだろうか。
快感に泡立った脳髄が焼き切れそう。
衣玖が、私に構ってくれる。
私の相手をしてくれる。
「そして、降りてきなさい……龍よ」
左手を腰に置き、まっすぐに天を指差した右手。
何時ものポーズを何時に無い本気で決めた衣玖さん。
天より降り注ぐ漆黒の雷を右手に集め、全身に纏って行く。
晴天の空は今だ曇らず、されど強い風が吹き荒ぶ。
徐々に衣玖の気質に飲み込まれつつある。
此処で押し負けると、最終決戦前にリタイアになりそう。
両手で剣を持ち直し、微笑を浮かべる衣玖を睨む。
目が合った。
微笑が消える。
笑ってない衣玖が私を見てる。
これは初めてかもしれない。
「あらゆる事象、数多の生命、龍司りし森羅万象、今わたくしの為に、悉く此処で滅びなさい」
物騒なことを言っている。
だけど衣玖が吸い上げている生命力は世界。
遠慮なく此処で使い潰すつもりだろう。
そして衣玖が強大に成れば成るほど、緋想の剣はその力を吸って出力を増す。
何処まで行っても、この勝負は私の不利にはならないのだ。
卑怯? 卑劣? 好きなように言うが良い。
端から聞くつもりなど在りはしない。
「私の敵は非想非非想天の娘。天にもっとも愛された天人。此処こそが、永江衣玖の死地である!」
もう、これ以上は無いと思ったところから、更に衣玖の緋色が艶を増す。
もっと魅せて。
もっと……もっと。
あの時『視た』緋色は、私の原初に残った緋色は、コレくらい刺激的だった!
もう少し、もう少しではっきり視える、思い出せる!
「全人類の……」
「其の、羽衣は……」
晴天が砕け散り、極光が世界を埋め尽くす。
しかし空は同時に雷雨を表し、暴風が私達に吹きつける。
気質は互角。
衣玖が纏ったのは空気流であり雷気流じゃない。
ならば先手は私のものだ。
この私闘の最後にして最大の衝突が始まる。
そして、始まったなら私が勝つ!
「緋想天―――!」
「空の如く―――!」
※
§永江衣玖§
歪な空に彩られた地上では、音は既に消えていた。
雷鳴も、風の音も。
ただ、地子がいて私がいる。
確かにこのとき、世界には私達二人しかいなかった。
そんな世界で、両者が同時に解き放ったのは力。
「緋想天―――!」
「空の如く―――!」
私の前方の空気が歪む。
地子の先手に対し、私が選んだのは後手
「……っ」
周囲の空気を其処にある異能力ごと収束させる第一層。
その集めた空気を透過させ、減衰させる真空の第二層。
貫通してきた力を空気ごと分散し、拡散させる第三層。
「ぅう……ぐぅっ、うぅ……」
この三層の組み合わせを八組まで重ね合わせ、計二十四層の遮断壁を構成する。
わたくしの最大の防御術。
本来は私の全身を球形に覆い、全展に死角なく防御するこの術。
今は完全に前方に特化させ、地子の力を阻んでいる。
私の守りを突破するなど、ありえない。
地子の放った気質の奔流がどれ程非常識な出力であろうとも。
龍宮の使いは、時に自身の存在すら消し、相手の攻勢を受け流す。
それだけのことだ。
なのに……
「―――くぅう、う、う、……っぐ……」
遮断できない。
受け流しきれていない。
地子の全霊であろう、全人類の緋想天。
それは私の守りを突破し、徐々に私を焼きだした。
始に極々小さな穴が空いた。
其処から浸透してきた気質が私の身体を焼いてゆく。
同時に小さな穴を少しだけ大きな穴に。
そして、少しだけ大きな穴をより大きな穴に。
ひりつく気質が肌を焼く。
舞い上がった小石が、私の頬を掠めて傷を作る。
空気を読むまでも無い。
この情勢のまま事態が推移していけば、永江衣玖は敗北する。
「ちょっと衣玖!? あんたまさかこのまま死んだりしないよね?」
喧しい声が聞こえてくる。
子供は、コレだから好きじゃない。
耳触りなキャンキャン声は、本当に気分不快にしてくれる。
あぁ、でも不思議なものでございまして……
「まだ消えないでよ! 衣玖は私のものになるの。そうなるまで、あんたは生きなきゃいけないの!」
勝手なことを言うな不良天人。
この先、私がどうなろうとも……
私が歩んだ軌跡、生と死だけはわたくしのものです。
嗚呼、だけど本当に不思議なことではあるのだけど。
―――衣玖!
貴女の鬱陶しい、耳障りな子供の声。
私がもういいかなって、何もかも面倒になってしまった時。
いつももう少し頑張ろうかなって、そう思い直らせてくれたのは……
「貴女の品の無い叫びだった気がしますねっ」
遮断壁を修復する。
開いた穴を塞ぎ、密度を均一に保ち、徐々に削り取られる外周の一層目を補強して行く。
現状は持ち直した。
だが……それでもなお、足りない。
防壁強化とその補修速度は、地子の誘う破滅の速度にほんの僅か届かない。
完全な拮抗状態であるのなら、私はあの子が焦れるまで……
それこそ、一時間でも一日でもコレを続ける自信がある。
だが現状では私が持つ時間は五分も無い。
僅か三百秒を続ければ地子の勝利に終わるだろう。
「……」
緋色の羽衣が、緋色の気質に蝕まれる。
やはり緋色の煙が昇り、少しずつ、本当に少しずつ塵に還っていく。
そして、掲げた私の右手も。
素肌な其処は守るものも無く、指先からちりちりと痛覚を伝えてくる。
自分の肌から煙が立ち上って削られてゆく光景は、私の精神を激しく磨耗させてくれた。
これは……続けてもよいものか?
地子が放つ緋想天。
その破壊力はもはや天人や妖怪の種差すら越えて、最強と称して良いかも知れない。
そんな秘術を、後三百秒。
正確には二百六十六秒も続けることが出来るのか?
私は普通に撃ったこの術さえ、地子が一分続けられたことは見たことが無い。
ならば、今の状態を後二十秒も凌げば、地子の方が力尽きるのではないだろうか……?
「……地子」
私自身が歪めた空気と、地子が放つ極光が邪魔だ。
あの子の顔が見たいのに、視線が届かない。
何故だろう。
何故、地子の術は出力が落ちてこない?
この放出を、まさか延々と続けることが出来るのだろうか。
―――耐えるなら
あれ……
私はあの時なんと言った?
大事なことを言った気がする。
混乱しかける思考をまとめ、現状把握に努めないと。
危地にあるとき、それを潜り抜けるために必要なこと。
それは思考を止めないこと。
諦めないこと。
工夫すること。
思い付きを何でも試すこと。
私は龍宮の使いである。
今、龍を降ろして対するは、天界最高の天人様。
私の力は、世界である。
天人は緋想の剣を用いて私に牙をむいている。
私の力の貯金は世界にある。
それはほぼ無尽蔵で……
ではそんな私から気質を吸い上げて、己の力に転化するあの剣の底は……
無い?
―――耐えるのならば、この世界から命が枯渇するまで凌いで見せろ。
背筋に寒い何かが走った。
そうでした。
私が言ったことでした。
地子のしたり顔が見えた気がして腹が立つ。
互いの奥義の打ち合いなどと言う、一発勝負に持ち込まれた時点で正しい道は一つだった。
攻撃力を持って相手の攻撃を粉砕する。
其の選択肢を選んだ時、ようやく勝率は五分と五分。
受け流して、返す一太刀で勝ちを拾おう等、考えが甘すぎたとしか言いようが無い。
私の劣勢は自分が判断を間違えたために起こった、当然の結果といえるかもしれない。
世界から膨大な力を吸い上げ、その力を用いてしたことは壮絶な回り道……
苦い笑いをかみ殺し、私は防壁を編成する。
「……邪魔ですねぇ」
防壁の内側を解除。
地子の緋光が一瞬だけ密度を増すが、致命になる前に外周へ一つ防壁を創る。
一枚解除し、一枚創り。
少しずつその距離を私から離す。
地子の術は減衰率もかなりの物で、あの子に寄れば寄るほど威力も増す。
苦しい綱引きだが、私は乏しい根性を一生分使い果たすつもりで、その作業を実行する。
右手が本格的に炭化してきた。
集中的に癒しも回しているのだが、やはり少しずつ追いつかない。
追い詰められているのは私。
でも、この状況を楽しんでいるのもやはり私。
綱渡りの攻防の末、ようやく私は自身の術を転換させる距離を稼ぎ出した。
私と内側の防壁に、約三間の距離が生まれる。
ここで……
『すいませんねぇ、コレも仕事なものでして』
え?
コレは……なに?
うそ?
うそなにこれ?
喀血と共に崩れる私の膝。
コレハナニ?
私の左脇から見えるのは……
さっきまで藍様が持っていたあれだ、剣の柄で……
「止めろテンコ!」
「其処ま…げふっごほ……」
「え? あれ?」
三人の声が聞こえる。
術者を失った防壁は、地子の術に一瞬たりとも持たずに霧散した。
緋光が私を飲み込む。
不条理だなぁ……
私はこんなに頑張ったのに。
たぶんはじめて頑張ったのに……
事此処に至り、私に悪意あるものに拠って邪魔されるとか。
心当たりは無いのだが、せめて手がかりが欲しくて……
左脇から、人間で言う心臓と肺を串刺しにした短剣を引き抜いた。
十字架の形を模した……懐剣……か?
やっぱり心当たりが無い。
ああ、だけど……
「神様にも、嫌われたということでしょうかね」
苦笑と共に、永江衣玖が溶けて行く。
緋色の光の中で私が希薄になってゆく。
どうか、どうか次こそは……
愛しい人と共に在れますように。
※
§八雲藍§
早春の竹の香りが、柔らかく鼻腔を擽った。
梅の終焉と桜の開幕が重なるこの時期。
長かった冬の帳が開け、幻想郷にも、春が来る。
それは時に置き去りにされたような此処……
永遠亭においても同じことらしい。
長い廊下に目的地を目指し歩いていると、青赤左右対称の、珍妙な服装の女が一人。
彼女の名は、八意永琳。
この旧日本屋敷の実質を取り仕切る女にして、私らも大恩ある薬師である。
「こんにちわ先生、相変わらずお美しい」
「あら、ありがとう藍さん。本日はご面会で?」
私の社交辞令を、微笑で受け流す八意女史。
大人の外面で対応できる相手というのは本当に楽で宜しい。
「ええ、今日で引き払うと伺ったもので……顔を合わせておこうかと」
「そうねぇ……寂しくなるわ」
「コレだけウサギ飼ってるのに寂しいは無いでしょうに」
「そうですわね。それでは少し調べ物がございますので、何かあればそこらのウサギにお申し付けを」
「ありがとう。貴女には本当に、世話になった」
すれ違って歩く私達。
あの後……衣玖が崩れ落ちた時。
私と霊夢は事態を理解していない馬鹿天人に組み付いて、術を無理やり中断させた。
暴走した緋想の剣が持ち主に向けて爆発とかしたけど、それはきっと些細なことであったろう。
数秒とは言え、あの火力にさらされた衣玖は……生きていた。
炭化した左手には、やはり炭化した何かを握り締めて。
全身を赤く削られ、見るも無残な状態だったがそれでも彼女は生きていた。
これでも彼女は妖怪である。
生きてさえいれば、打てる手段は無数にあった。
其の中で私が選んだ方策は此処に担ぎ込むこと。
重症だった娘は二人。
永江衣玖と、博麗霊夢。
衣玖はまだいい。
しかしおそらく肺炎くらいには陥っていそうな霊夢は、専門知識のあるものに見せねば非常に危険であったのだ。
当時のことを思い出すと、眉間に皺が寄る思いである。
大変だったなあれは。
「あ、そうだ」
背中越しにかけられた声に振り向く。
八意女史も、やはり背中越しに振り向き口元に手を当て笑んでいた。
「あの天人の子も、来ているわよ」
「ふむ、あいつ毎日来ているのかな?」
「毎日『来てる』わけではないわね」
「泊り込んでおりますか……ご迷惑をおかけいたします」
「貴女が謝る事でもないけれど……」
微笑する八意女史。
やはり迷惑を被っているのだろう。
彼女の笑みには、ほんの僅か苦みばしったものがある。
無原則に寛大にはなれない、されど何処か憎みきれない。
なんとなく、私があの子に抱いたものと近しい感情があるのかもしれない。
「本当に、申し訳ないです。後できつく言っておきますので……」
「ああ、良いのよ私は? ただ、ウドンゲと仲が悪いのよねぇ……なぜか」
「ふむ」
あの天人が好きだというような物好きが、この世界にいるのだろうか?
あいつほど迷惑な純粋悪はおるまい。
この幻想郷では、数々の大物が異変を起こす。
しかしあの馬鹿ほど、意味も無く、そして下手糞に異変を真似たものもいない。
目的のために結果として幻想郷の根幹を揺るがした大多数とは絶対的に違うこと。
あの馬鹿は壊して遊ぶために壊したのだ。
紫様も、あの天人を好いていない。
基本人懐っこい(但し、相手には伝わらない)我が主にしては、本当に珍しい事例であったのだ。
「それは、お弟子さんの感性が正しいと思いますよ。紫様も、あの娘を嫌っている」
「貴女は?」
「私?」
「ええ。貴女は、ああいう手の掛かる娘はお嫌いかしら?」
「……ああ、そういえば一人いたわねぇ……」
話を変えたわけじゃないが、ふと心当たりがあったのだ。
天子と馬の合いそうなやつ。
もしかしたら、近親憎悪で憎みあうかもしれないけど。
目的=遊びで異変を起こした馬鹿野郎を、私はもう一人知っていた。
「あの我侭なお嬢様なら、我侭天人と馬が合うかも知れんわな」
「あら、そんな子がいるの?」
「ええ。真、世の中は広いものでして」
質問に答えなかったことは追求しないでくれた。
別に正直に答えたって良いのだけれどね。
ええ、私もあの馬鹿は大嫌いだと。
満面の笑みで答えたろう。
それきり、私達は別れた。
苦笑いを収めきれないまま、長い廊下をただ歩く。
やがて幾らも行かないうちに、見知った影が見えてくる。
紅白の巫女、博麗霊夢。
「よう、霊夢。もう良いのかい?」
「ええ。随分とまぁ、長い風邪になったもんだわ」
溜め息を吐く霊夢。
能天気な君に教えてやりたい。
風邪と肺炎は全く違い、後者は死んでもおかしくない大病だということを。
それにしても、この子が無事で本当に良かったとは、私の偽らざる気持ちである。
「あんたには世話になったわね」
「気にするな。博麗の為は幻想郷の為であり、ひいては紫様の為だからな」
偽らざる私の本音。
それを聞いた霊夢は、一瞬固まったように見える。
感情も途切れたように、その表情が刹那に消えうせる。
君の為かと思ったかい?
まぁ、それでもいいんだけどさ。
私の無償の好意を引き出すには、君に足りないものがある。
今日の私は機嫌が良い。
『君の為』に、一つだけコツを教えようか。
私は右手で霊夢の前髪を摘み、緩く捩るように弄ぶ。
「紫様が何故、あの性格で多くに好かれるかご存知かい?」
「あいつ、好かれてたの?」
「おうさ。そして私、八雲藍も、式神云々以前の問題で博麗霊夢より八雲紫を好ましく思う。この差は、なんだと思うかね?」
「さぁ、私にはとんと解んないわね」
こんな問いには意味が薄い。
体調を崩せば誰しも弱気になるものだし、今の霊夢も例外じゃない。
常の彼女なら誰に好かれようが嫌われようが、彼女の流儀を通すだろう。
だけど、せっかくだからもう少し、別の物差しも持って欲しくて。
実際に使わなくてもいいから、違う物差しの存在も知って欲しくて。
私は彼女の弱気に付け込んでいる。
「紫様は君より遥かに、他人のことが好きなんだよ」
「……」
「紫様は皆が好きだから、皆も紫様を好きになるの。私が追いつきたいって思うあの人の、大きな塊の中の一つだね」
本当に、紫様は近くて遠い私の目標。
力でも、器でも、私如き凡婦が見上げることすらおこがましい太陽である。
妖怪の癖に。
「妖怪の癖に」
「全くだよ、其処は真剣に同意しよう」
私は霊夢の前髪で遊ぶの止め、リボンが崩れぬように注意しつつその頭を撫でる。
こんな小さくて細い小娘が、あんな寂れた神社で一人きり。
決して良いことではない。
彼女が、例えどれだけ早熟であったとしても。
「まぁ、だからさ。君も身近から始めてみるといいと思うよ? さしあたり、あの天人辺りで」
「天子? 何をよ」
「好きになってみると良いよ。あいつは天人である前にガキだから、好意には好意でしか返せないし」
走ったり転んだり、泣いたり笑ったり……
そうやって大きくなるが良い子供らよ。
あの天人は、きっとあの騒動で一皮向けたろう。
それに最後まで付き合った霊夢が、何も変わらぬはずは無い。
根拠は無いが、私はなぜか自信があった。
だって……
「ねぇ藍、私頑張れてた?」
「死に掛けるほど天子に協力してただろうが。今更何言ってんのよ」
「そっか。私は、頑張っていたのか」
言って微笑し、霊夢は私の手を払いのける。
そのまま振り向かず、私に背を向けて歩む博麗の巫女。
だって、その背中はやはり、少しだけ大きく見えたから。
「……ま、神社はまだ直っていないのだがね」
帰って吠え面をかくが良いよ。
そのときの霊夢の顔を、間近で見れないのが残念である。
私もたいがい、人が悪い。
狐だけど。
萃香がどんなに頑張っても、物理的な限界がある。
しかも今は地底の鬼と、やたら凝った建築技法で再建しているものだから、その作業は遅々としてしか進んでない。
ま、しばらくは花見の宴会続きだから飢える事も無いだろう。
本当にやばくなりそうなら、拾いにいくつもりだしね。
浮き沈みの激しさも人生の醍醐味。
世の荒波を乗り越えて大人になれよ霊夢。
こみ上げる笑いを食い殺し、私は更に奥へと進む。
やがて辿り着いたのは、衣玖が療養している一室である。
襖の前に立つと、中から聞こえる子供の声。
どうやら二人一緒らしい。
「衣玖さん? 衣玖さん?」
「はい、天狐様」
中から聞こえた声を確認し、私は襖を静かに開く。
一応は怪我人の病室である。
埃は立てず、五月蝿くないように……
「あ! 狐じゃない」
静かに……五月蝿くならないように……
固まる私に、衣玖が苦笑してくれる。
そうよね。この馬鹿がいるんだものね。
大人しくとか出来るわけないよね。
「藍だと言っているのが解らんかテンコ? 君は鳥頭なのか?」
「天子だって言ってるでしょ? ヒラ式神。ヒラはヒラらしく土に還れ」
「ヒラとか言うな、まな板娘。肋骨で衣玖の羽衣でも洗濯していろ」
「ふん。下品な乳牛胸女には、今をトキメク慎ましやかな胸の良さが解らないのね」
無い胸を反らして自慢げにほざく天人様。
あまりに痛ましくて見ていられない。
その点は衣玖も同じだったらしく、溜め息を吐いて目を反らす。
そこで、私は衣玖の見舞いに来た当初の目的を思い出した。
不良品天人をからかっている場合じゃないのである。
「お加減いかが? もう、痛いところとかは」
「はい、お蔭様で……」
衣玖は最初から寝ておらず、居住まいを正して正座していた。
敷布団は綺麗に畳まれ、私物を整理し、小さくまとめて何時でも引き払えるように。
そうした上で、天子の相手をしていたのだろう。
あの後からこの二人は、少しだけ距離が近くなった。
「竹の香りが随分と柔らかくなりましたが、季節は一つ移ろったので?」
「ああ、今は早春。紫様も、あと少しでお目覚めになるよ」
「ちょっと、あんた達何無視してるわけ!?」
……うるっせぇな。
額を押さえて俯く私にの肩に、衣玖の手が置かれる。
ありがとうね。
しかし彼女の身体は、羽衣を思い切り引っ張った天子に持っていかれる。
一応怪我人になんて真似だか。
「おい天子」
「だからテンコ……」
真っ赤。
ニヤソ。
私は天子が復帰する前に天子の眼前に顔を寄せる。
「お前、怪我はもう無いの?」
「……怪我?」
「うん、緋想の剣暴発したろ?」
「あ……あんなので天人が参る訳無いでしょ!?」
「そっか、無駄に頑丈だなお前は」
「あんたら妖怪が脆過ぎるのよ」
それは仕方ないだろうて。
妖怪なんて所詮人間の想像物。
その実体だって常にメンタル依存なのだから。
特に滅びを受け入れていた当時の衣玖の破損の度合いたるや……止めよう。
あまり思い出したくない。
最後に衣玖の勝利を許さなかった存在。
あの剣の様なものの持ち主は何者なのか。
手がかりの剣は緋光の中に崩壊し、衣玖自身も心当たりが無いという。
二人の勝負が、あんな形でうやむやにされたのは私自身納得がいかない。
当事者たる両者の心境は、押して知るべしである。
衣玖はそんな私を見て、何故かたおやかに微笑した。
「あまり、お気になさらず」
「うむ……」
「当時ならいざ知らず……今はあまり、気にしてはおりませぬゆえ」
「そうなのかい?」
「ええ」
そう断言する衣玖の微笑は美しく、何かを整理した女の笑み。
ますます磨きが掛かった。
いろいろと……
ふと気になって、衣玖の横で畳みに寝っ転がる天子を見やる。
本気でこいつには勿体ねぇ……
「あの時、私は持てる全てを尽くし、皆様と対峙しました。そして、皆様もそうであったと、信じております」
「うん」
「ならば、あの時わたくしを穿った刃も……それは私と皆様の半生が、呼び込んだものであると考えます」
衣玖は苦笑して左の脇をさする。
其処に刺さった刃物の感触は今も彼女にあるという。
夜中に幻痛で目覚めることも、まだあるという痛ましい爪痕。
しかし、彼女はそんな傷さえもいとおしげになぞるのだ。
「私への恨みか、皆様への加勢か……それは私にも解りませんが」
静かに衣玖は立ち上がる。
そして自然に天子に手を差し伸べる衣玖。
当たり前のようにその手を掴み、天子は吊られて立ち上がった。
「遠い過去から今に至るまでに、私達の歩んできた導……その積み重ねが、わたくしの勝利を許さずあの短刀に込められた。きっと、あそこで戦った時から、私の勝利は無かったのでしょう」
「では、要石はどうする? 今一度、君は同じ事を試みるか?」
この質問は、衣玖を傷つける事になると知っている。
しかし、聞いておかなければならないことだ。
彼女はそのまま歩き、私とすれ違ったとき振り向かずに言った。
「わたくしに取り、身命を賭して事を為す……などという覚悟は、一生に一度、あるかないかでございましょう」
「……」
「その一度に失敗をしたのですから、今一度は、ございません」
「そうか……良かった」
衣玖の答えに満足し、私も立ち上がる。
そう多くない彼女の私物は、私が持つ事にする。
一つ会釈する衣玖だが、先を走る天子に引きずられて小走りになって行く。
あの二人は、もう大丈夫なのだろう。
「勿体無かったなぁ……」
一人呟いた私の声は、誰の耳にも届かずに長い廊下に消えてゆく。
少し先を行く、衣玖と天子の背中。
それが今の私には、少しだけ遠く写るのだ。
あの日……決戦前夜。
衣玖の寝顔を見ながら、私はこの件に天子を巻き込むか真剣に葛藤した。
時間は短く、ほんの数秒だったろう。
でも確かに、想ったのだ。
このまま衣玖の死に際を、私のものにしてしまいたいと。
暗い情動だったろう。
しかし魅力的な思い付きだった。
私は、あと数時間を流され、傍観するだけで……
あの美しい妖怪を看取ることが出来たのに。
「本当に、勿体ねぇ」
今の幸せに文句などつけ様も無い。
ハッピーエンドで良いのだろう。
八雲藍は真剣に願う。
―――長いすれ違いの果てに結ばれた二人の縁に、幸多からん事を。
八雲藍は真剣に祈る。
―――いつか、遠き日に、私が、衣玖の死に場所を奪ったことを、後悔する日が来ないように……
「あの時、殺して置けばよかった……か」
衣玖を蝕んでいた心の病。
それに犯される芽を、私も持った。
肥料は君達の不幸だ。
どうか、どうか育ててくれるなよ……
「……ま。心配ないか」
内心の意識を切り替える。
これから、この荷物を衣玖の住処へ届ける。
そうしたら、私も家へ戻れるだろう。
長かった冬が終わり、紫様がお目覚めになる。
休暇は終わり、私もようやく『日常』へ帰れると言う訳だ。
「冬眠明けのご馳走、用意しないとなー」
そう一人ごちた時、廊下の先で待っている三つの影。
霊夢も合流したか。
これは置いていかれるわけには行かない。
早足で友人の下へ向かう私はこの時きっと、幸せだった。
END?
藍さまが相変わらずすぎてさすがおやつさんとしか言えないッス。
イクさんこえぇ…
しかしよく生きてたな霊夢。あの中で一人だけ人間だッつーのに…
相変わらずな藍様、やや丸い霊夢、想い込んだら一直線な天子、そして洒落になんないイクさん……。
誰も彼も格好良かった!
しかしながら、後書きのレミ様、あんたが最強だわ!
あなたの書く美鈴と藍が好き過ぎて生きるのが辛いです!
あなたのかっこいい幻想郷をずっと待っていました
いい女な藍様や、妖怪らしい美鈴が大好きです
作者さんの愛にあてられて、登場したキャラ全員の株が軒並みストップ高です。ゆかりんは寝ていたのでそのまんま。
素晴らしい作品、ごちそうさまでした。
あと馬が合っていそうな霊夢と天子ってのに目から鱗。確かにしっくりくるわぁ。
登場するキャラが、皆、真っ直ぐで、情熱的で、かっこいい。
あぁ、この胸を焦がす感想を文字にできない自分の凡才が憎い。
とにかく、凄ぇ面白かったです!!!
ぜひまた気が向いたらそそわに投稿してくださいな。一ファンの私が非常に喜びます。
いやー、とても面白かったです。貴方の書く全ての東方キャラが自分にはツボでした。
特に衣玖さんや藍様が、もうたまらないです。あぁ、この御二方に膝枕してもらいたい。
天子と仲良くなっていく霊夢……見てみたいものです。
個人的に、敢闘賞・霊夢さん 技能賞・藍様 最優秀選手賞・テンコちゃん SNF……改め、最後やっちまったで賞・衣玖さん
最後、衣玖さんにかなりマジだった藍様が切なくて素敵でした。
天子に委ねた彼女は、大人だったと思います……
自分が主役だと、私がやるんだと自覚してからの彼女の覚醒っぷりが最高にツボでした。
その熱に当てられた衣玖さんん、追い風を呼んだ霊夢、そして彼女を舞台に導いた藍様……
あんたら皆いい女すぎるっす!
こっちまで熱くなりました。
誤字とかもあった気がするんですが……一気読みしてたらわかんなくなっちまったorz
過ぎます。この勢いで紫煙の続きが読めると最高なんですが。