暖かな風が此方から彼方へと駆け抜ける。
澄んだ青空の下で賑わう人里に見えるは幽かな紅梅。
淡い春の色が、少しずつ世界を染め上げ始めたのだ。
「お姉ちゃん」
隣から我が妹、秋穣子がセンチメンタルな声で私を呼ぶ。
……彼女の気持ちはよく分かる。
秋を冠する我々にとってこの景色は、誤解を恐れずに言うならば、目の毒と言ってもいいだろう。豊かな恵みをもたらす大いなる秋、鮮やかな彩りを残す美しき秋、そのどちらもが梅の花を見上げる者達の記憶からは消え失せてしまっているのだ。神として存在する我々だが、……妬心を抱くのを抑えることができないというのが本音である。
だがしかし、この風景を否定することなど勿論できない。
四季が廻ることでこの世界が成立していることは万人が知る真理である。誕生を意味する春、成長を意味する夏、成果と衰退を意味する秋、死を意味する冬。これらが巡ることで世界は躍動をするのだ。
そうして回る世界であるからこそ、秋は色彩を帯びるのだ。
次の一年の為にその身に込めた生命の全てを大地へと還すがゆえに、紅葉たちはあんなにも美しいのだ!
あぁ、回る世界の、なんと美しきことか!
……我が心を追いたてる眼前の春の光もその雄大な流れの一つと思えば、なんとも微笑ましいものではないか。
あぁ、こんな春の日にジッとしてなんかいられない。
回ろう。
この穏やかな景色がそうそう簡単に移ろわないであろうことは自明。
ならば私自身が回り、そうして巡り回る四季を、そして世界を体現し、我が心に刻めば良いではないか。
さぁ、回ろう。
「…………お姉ちゃん?」
側転だ。
側転が、最もこの春の景色を美しく魅せてくれるに違いない。
「お姉ちゃん??」
上半身を軽く左に傾け、その態勢から、右足を右に踏み込むと同時に上半身を素早く右へと振って獅子の如く大地に右手を着け間髪を入れず左手も接地し、そして左脚と右脚でスラリと空を斬り、右手、左手の順に地から手を離して、着地。
完璧だ。
パーフェクトな側転だ。
おそらく次の五輪で表彰台を狙えるのでは、と思える程にビューティフルな側転だ。今の内にパスポートを発行しておくのも悪くはないかもしれない。ドロワーズを穿く我が身の回転に不埒な箇所があるわけでもない。全く以って世界の真理を体現するに相応しい円運動なのである。
これは、いける。
「お姉ちゃん!?」
あぁ、そんな顔をするな、妹よ。
分かっている。
この麗しき側転を何度もできる程の強い身体を持っていないことなんて、勿論私は分かっている。
他でもない自分の身体なのだ。
分かっている。分かっているのだ、妹よ。
本当ならば、この側転運動を以ってしてこの郷中の春を見て回りたいのだが、……それはこの華奢な我が身にはあまりにも酷。
残念だが、それは、分かりきっていることなのだ。
ゆえに、今日は側転でこの人里を見て回るだけに留めよう。
「お姉ちゃん!!」
心配をするな、妹よ。
末席ではあれど、この秋静葉も八百万の神の一柱。このさして広くない人里の中を側転運動でもって旅することなど叶わぬことではない。
さぁ、回ろう。
○○○
クルリクルリと世界が回る。
ヒラリヒラリとドレスが舞う。
南中の太陽が下方にあったかと思うと今は我が頭上にあり、右から強い春風が吹き付けたかと思うとその次の瞬間には左から我が髪をなびかせた。
道行く人々が私を見て笑顔を作る。
その笑い顔も上に下にと元気に弾み、私の心をよりいっそう暖かいものにしてくれる。
あぁ、回る世界のなんと美しきことか。
「お姉ちゃん……」
側転をする私の後をトボトボと付いてくる妹の声には、未だ若干の戸惑いが含まれていた。
……ふむ。彼女はまだ、この所業の風雅を解するだけの精神を持っていないということか。
私に対して偉そうな顔をすることが多々ある妹だが、その正体はまだまだ未熟な豊穣神。胸だってようやくCカップになったばかりだ。私の域に達するまでに学ばなければいけないことなど山の様にある。そんな彼女に無理矢理この回転を実行させたところで得られるものなど少ないだろう。それどころか、その身に不釣り合いな経験は彼女の健全な精神を汚す可能性すらある。シューティングゲームはそれまで『パロディウス』しかやったことがないという者にいきなり『東方地霊殿』をプレイさせてもコントローラーを投げつけられるのがオチなのだ。
まだまだ彼女にはこの回転を勧めるべきではない。
こうやって春の空気の中を歩むだけでも彼女は成長してくれる筈だ。
大切な我が妹なのである。急いて事を仕損じるなど、絶対にあってはいけない。
彼女は彼女のリズムで四季を感じれば良いのだ。
「お姉ちゃん……」
そう。貴女は、ゆっくりと成長すればいいのよ。
今はただ、この回る姉の姿を見ていればそれで良い。
クルリクルリと回る世界の中心に、眉尻を下げてこちらを見る妹の顔がある。
……なんて幸せなことであろう。
あぁ、回る世界の、なんと美しきことか。
「……お姉ちゃん」
妹がふと、なにかに気付いたように呟きを漏らした。
はて、なにかあったのだろうか。
彼女の視線の先には……、――あぁ、そうか。今は丁度昼休憩の時間なのか。
私の目の前にある建物は寺小屋。
その窓から、多くの子供たちが無邪気な笑顔をこちらに向けていた。
「アハハ」という笑い声が穏やかな日の中に響く。
こちらに手を振る子、こちらを指差す子、こちらを見て牛乳を噴く子……。リアクションは寺子の数だけあった。
なんとも可愛いものだ。
私は彼らに手を振ってやりたい思いに駆られたのだが……、あいにく今は側転中。この運動をしている最中に片手を振ることができる程、私は強い女ではない。一度チャレンジしてみたことはあったのだが、その際は左半身を綺麗に大地へと叩きつけてしまった。あれは、痛い。
そんな私にできることは、精々彼らに笑顔を作ってやること。
ニコリ、と笑顔を作りウィンクを一つプレゼントしてあげると、子供たちはいっそう笑い声を大きなものとした。
私の心が暖かい想いで満たされる。
彼らの笑顔のなんと……、なんと眩しいことか!
いずれ彼らが大人になり、この里での労働に追われる毎日に身を置いた時にはきっと寺小屋でのこの眩しき笑いを思い出すことだろう。そうして、昔日を振り返りつつ前へと進み、そのうちに彼らにも子ができ、そして彼らの子は寺小屋に通い、きっと今の彼らの様に笑うことであろう。そしてその子らがまた大人になり、子を成し、その子らもまた寺小屋に通い、笑い……、と世界は回るのだ。
あぁ、回る世界の、なんと美しきことか。
梅の花咲くこの時節、今笑っている子供たちの中には寺小屋の卒業を寸前に控えた者もいる筈だ。否でも応でも、大人の階段を上らざるをえない状況にあるその子の心境は如何程のものか。
……側転中である私は、そんな子らにしっかりと笑顔を贈ることができたであろうか。
側転運動をやめ、大地に二本足でしっかりと立ち、自慢の自虐ネタ、“シズハです……”を演ってあげれば彼らはよりいっそう笑ってくれるのではないだろうか。……そうだな、「シズハです……。先日、妹にシャンソンの名曲である『枯葉』を歌い聴かせてあげたところ、“……暗い。ストーカーの曲みたい”と言われたとです……」なんてどうだろうか? 即興で考えたものだが、かなり良い出来であるような気がする。……子供たちには少し高尚過ぎるネタか? いやいや、あの知識と歴史の半獣の下で学んできた彼らだ。この程度のジョークを解するだけの教養はあるだろう。きっと爆笑してくれるに違いない。
では、早速彼らに――
「お姉ちゃん」
――思い悩んだ私の気配を感じ取ったのだろうか、妹がそっと私を制す。
その眼には、優しさと厳しさがない交ぜになったような色がある。
まるで子を信じる母の様な眼だ。
……なるほど。私は、妹に比べて子供たちを信じられていなかった、ということか。
側転運動をする私に向けられる笑顔に遠慮などは一切無いように見える。
彼らの誰もが本心から笑っている筈だ。
ならば、信じよう。
これ以上の笑いを贈ってやらなくても、彼らはちゃんとこの瞬間の出来事を大切にしてくれるだろうと。
自虐ネタによるダメ押しなど不要なのだと。
そのようなことを考えている内に、我が身はクルリクルリと寺小屋から離れていく。
当然だ。私は今、側転中なのだから。
一つ所に留まり続けるなどできる筈のないことなのである。
悲しくもあるが、それは避けることのできない世界の真理。
終わりがあるから始まりがあり、別れがあるから出会いがあるのだ。
あの寺子たちの笑顔をもっと見ていたいとも思うが、だからといって寺小屋の前で延々とアクセルターンをし続けようものなら小兎姫がカッ飛んでくるだろう。卒業間際の寺子の脳裏に警察沙汰の光景を刻むわけにはいくまい。
……寺子たちよ、さよならだ。
だが、これは今生の別れなどではない。大人となった彼らはいずれまた我々秋姉妹と顔を合わせることもある筈だ。
なぜなら、世界は回っているのだから。
巡る季節に歩調を合わせて大人となりこの里を背負って立つ人間となった時、彼らは収穫祭の席にて我々と酒を酌み交わすだろう。
私たちと共に郷の豊作を喜ぶ彼らの笑顔はきっと、今の彼らの笑顔にも負けぬ程に眩しい筈である。
あぁ、なんと……、なんと!
回る世界の、なんと美しきことか!!
ふと見ると、寺小屋の窓の向こうには上白沢慧音がおり、こちらにペコリと会釈をした後、ジャッと簾を下げた。
……失礼なワーハクタクである。
○○○
クルリクルリと世界が回る。
ヒラリヒラリとドレスが舞う。
少し西に傾いた太陽が左に下に右に上に。眩い光が青空というステージで軽やかに踊る様はなんとも楽しく美しい。
「お姉ちゃん……」
――ふと、妹が切なげな声を上げる。
はて、どうしたのであろうか? と私が疑問を浮かべた瞬間、妹の腹からクゥという小さな鳴き声が聞こえた。
所在無いように視線を地面に落とす妹の顔を見て、私は彼女が空腹を我慢していたことに気付いた。そして、自らが姉として配慮を欠いていたことを自覚する。
我が妹、秋穣子は食物を食べる神である。
勿論我々は神霊であるから、食事によって栄養素を摂取する必要などは無い。だが、穣子は豊穣を司る神であり、その神性から“大地の恵み”に対して常に感覚を研ぎ澄ませておかなければならないのだ。その為彼女は人間と同じように食べ物に対する感謝の念と、そしてある種の食欲を有している。長きにわたって食物を口にしなければ死に至る、と神の身でありながら本気で考えているのが彼女なのだ。私などにとって食物は奢侈品に等しいのであるが、彼女にとって食物は必需品であるらしい。
一柱の神として見るにはなんとも子供っぽい彼女ではあるが、神としての在り方には確かな矜持を持っている。
それはとても、輝かしいことだ。
姉としてその姿勢を応援しない筈がないのである。
ゆえに私は今の自分の迂闊な脳を恥じた。
昼を過ぎてもう随分な時間が経過したにも関わらず、妹は未だ昼食をとっていないという事実。
側転に夢中になっていたばかりにそれ程のことを失念するとは……、不覚であった。これでは、豆電球を片手にアブソリュートジャスティスを放つどこぞの毘沙門天の弟子のことを笑えないだろう。
「お姉ちゃんっ」
急かすように私を呼ぶ穣子。
その視線の先には一件の茶屋があった。
遠慮をする必要は無いわ。行ってきなさい、穣子。
私が浮かべた笑顔を見た瞬間、妹はパァっと笑顔を作り、そうしてタタタッと茶屋の店先へと走って行った。
可愛い子である。
彼女を急かすわけにもいくまい。回転のスピードを六割程落とそうか。
世界は常に淀みなく回るものだが……、機械の様に少しのズレも無く運行するものでもない。仕組みに囚われるがあまりその仕組み通りの行動しかできなくなるなど滑稽の極みであるということは、外界においても七十年以上も前にチョビヒゲの喜劇王が主張済みだ。そんなことを寂しさと終焉を嗜むこの秋静葉が解してない筈がない。この精神的財産が豊富な幻想郷という地にあって、ツマラナイ常識に囚われていてはいけないのである。いつぞやこの話を外界から来た風祝に語ったことがあったが、その時の彼女の憑き物が落ちたかのような爽やかな姿は今でも忘れることができない。客星のように眩しい笑顔で「やっぱり……! やっぱり幻想郷では常識に囚われてはいけないのですねっ!!」と言ったあの少女は今頃どこでミラクルを巻き起こしているだろうか。
……む?
ふと意識を現実に戻して妹の姿を追うと、彼女は誰かとお喋りをしていた。
あの方は……、西行寺幽々子嬢ではないか。
茶屋の軒先にある長椅子に座って梅羊羹を食べているのは、紛うことなき華胥の亡霊。
そんな彼女は妹と軽い会話をした後、ふとこちらに顔を向け、そしてフワリと笑った。
相も変わらず優雅な女性だ。
彼女の傍らに積み重なる十を超える菓子皿も、彼女の美しさを損なわせる要因には成り得ていない。
この郷で最も春が似合う者は誰か、と聞けば、春を司る神や春告精を抑え、多くの者が西行寺幽々子の名を挙げる。
彼女は霊という身でありながら春の如く柔らかく、かつ、霊という身であるからこその春の如き儚さを有する。
そしてなにより西行寺幽々子と言えば連想されるのが彼女が管理する世界最高の桜、西行妖であろう。
花も蕾も身につけないあまりに寂寥としたその大樹は、その周辺に咲く広大な桜との対比もあって非常に強い“サビ”を醸し出す名樹である。そんな樹を望む桜の園は他の花見場とは凄絶なまでに風雅の深みが異なり、現在では幻想郷で一番の花見の名所として現世に生きる人々の間においても羨望の地とされている。
しかし、その樹には人々が知り得ぬエピソードがある。
それは、“西行寺幽々子が西行妖を咲かせる為に幻想郷中の春を集めた”という事実。
言い換えるならばそれは、数年前の春雪異変の首謀者は彼女であった、ということ。
そう。春の到来が遅れたあの年の混乱は、彼女の仕業によるものなのであったのだ。
あの時は本当に大変であった。
芽吹きの時節を遥かに過ぎても勢いの衰えることがなかった豪雪は郷の生態系に多大なダメージを与え、あらゆる農作物が不作の危機に晒されたのだ。後日、彼女が郷から奪っていた春を何倍にもして郷中に返還したことでその危機は回避されたが、多くの者の寿命を縮ませたことは疑いようがない。
季節のリズムの歪みが人々の生活を脅かした、近年では珍しい出来事であった。
だがしかし、次の年には例年通りの春が何事も無く訪れた。
世界が予定通りの運行をしない時は、稀にだが、確かにあるだろう。
人為的な異変の場合もあれば、純然たる自然現象によって異常気象が生じることも多々ある。
だがしかし、そのような年があったとしても、それに躓くことなく世界は回り続けるのだ。
それゆえに世界は今日まで膨大な歴史を築き続け、そして今この時も輝いているのだ。
それゆえに、世界は美しいのだ!
あぁ、回る世界の、なんと美しきことか!
そう。私は今、あたかもあの年の今時分の季節のようにゆったりとしたテンポの回転運動をしているのである。
皐月に及ぶまで続いたスロウな冬は巫女のリフトオフによりすぐさまに去り、そして季節は通常のリズムへサラリと戻った。
それと全く同様に、今は巡りを遅らせているこの側転運動も妹が食事を終わらせると共にすぐに元の回転速度へクルリと戻るのだ。
不自然なことなど、何も無い。
そのような思考運動を行っている内に、我が身はクルリクルリと長椅子に座る幽々子嬢の前に差し掛かろうとしていた。
傍に見る幽々子嬢の顔はとても柔和だ。まるで萌え木を眺めるが如く私を見て、そして暖かく微笑んでいる。彼女は私の行っている側転運動からしっかりと巡る四季を感じ取ったのであろう。
ごう、と一陣の春風が吹いた。
幽々子嬢は桜色の髪を押さえて目を細めながらもこちらを見て、――そして何かに満足したようにクスリと笑った。
その様のなんと優雅なことか。
紅葉と桜。私と彼女が扱うものは異なれど私と彼女にある四季への尊重の想いは同程度に深いものであるだろう。
巡る世界の中で私と彼女が邂逅したこの瞬間はきっと、ある種の奇跡に違いない。
この奇跡に私はありったけの感謝をしたい衝動に駆られた。だが、今の私は側転中の身。世界に対して祝詞をあげるには少し体力に余裕が無い。残念だが、今は諦めよう。
そんな私の心のブレを感じ取ったのか、幽々子嬢は袖で口元を押さえてクスクスと笑う。
彼女の横を見れば、そこにはいつのまにか三十に及ぶ菓子皿が積み重なっていた。
私の側転運動を見て、回る世界に想いを馳せながらも、彼女は数十個の梅羊羹を食していたのだ。
……まったく、この方には敵いそうにないな。
そうして苦笑を浮かべながら、クルリクルリと私は幽々子嬢の前を通り過ぎる。
その瞬間、彼女は口を開いて何かを言いかけ――、そして、袖でフワリと口元を隠した。
……? はて、どうしたのだろうか。
確かめるように見た彼女の表情は、相も変わらず春の如き笑顔。
私には見えない何かを見ていて、そして、私がそれに気付くのを信じている。そんな表情だ。
……側転運動をする私からは見えない、彼女なりの世界があるのかもしれない。また、側転運動を続けることによってこそ見える世界があるのかもしれない。
いずれにせよ、私がいつかは辿り着くであろうと考えたがゆえに彼女は言葉を呑み込んだのだろう。
ここで私が彼女に質問をするのは無粋。
私にできることは、側転を続けることだけだ。
この回転運動でもって里中を見て回ることができた暁には彼女が言おうとしたことが分かるかもしれない。
今はただ、回ろう。
ごちそうさまー、という妹の声が店の奥から聞こえた。直に軒先に出てくることだろう。
この緩やかなスピードの側転運動もそろそろ終わりだ。
通常の速度に戻せばすぐにこの店は見えなくなってしまう。――それはつまり、幽々子嬢との邂逅の終焉を意味している。
寂しいことだが、回る世界においてそれは仕方のないことだ。
そのことは勿論目の前にいる亡霊嬢とて理解をしているだろう。
彼女は笑顔を浮かべたまま小さく手を振った。
お返しに私はウィンクを一つ、パチリと贈る。
そんな私を見て満足したのか、彼女は視線を正面にある梅の木へと移した。
そして、ほぅ、と一息をついた後、胸元から包装紙に包まれた一本の羊羹をスッと取り出した。
おそらく、白玉楼にいる従者への土産の一本なのであろう。
彼女はその羊羹の包み紙をスルリスルリと剥き、いただきます、と小さく呟いて日の下に晒された梅羊羹にカプリと齧りつき、そしてモクモクと食べはじめた。
「お姉ちゃんっ」
戻って来た妹が私に声を掛ける。
さて……、回転を本来のリズムに戻そうか。
少し離れた茶屋の軒先を見ると、亡霊嬢は梅の木を眺めてほんのりと微笑んでいた。
彼女の傍にあるのは高く積み重ねられた菓子皿とクシャクシャになった一枚の包装紙。
その光景は、えも言われぬ程に幽雅であった。
○○○
クルリクルリと世界が回る。
ヒラリヒラリとドレスが舞う。
朱に染められた里の人が、妖怪が、建物が、神が、休むことなく踊り続ける。
夕方に差し掛かり、気温は顕著に低下をしていた。
草木が萌える季節ではあるが、おやつどきから一時も過ぎればこの山間の郷にはまだまだ冷たい風が吹く。
目覚めたばかりの春にしかない、独特の寒暖差のある空気だ。
ひゅう、と鋭い風が彼方より吹く。
熱の籠もった今の我が身体にとって、その風は自然からの恵贈に等しかった。
「お姉ちゃん……?」
……姉妹ゆえ、だろうか。穣子が私に対して不安げな声を発した。
おそらく、私の身体の不具合に気付いたのであろう。
この側転運動を始めてからおおよその時間で四、五時間が経過した現在、我が体躯は僅かながらも確実に疲労を蓄積していた。
体内にてカリウムイオンが暴れ、身体のそこかしこで鈍い痺れが生まれる。
アストラルバディに生じた違和感は一回転毎に明瞭なものとなっていく。今はまだスタート時と変わらない快活とした回転を行っているが、このリズムを永劫に維持するのは、……悔しいが、不可能だろう。
「お姉ちゃん」
……そんな辛そうな顔をするな、妹よ。
大丈夫。そこまで心配をする必要なんて無い。
側転運動にて里を見て回るというこの所業は既に行程の八割を踏破している。
辛くない、不安が無い、……そう言えば確かにそれは嘘になる。
だがしかし、それ以上に私の心に存在しているのは確固たる喜びの気持ちなのだ。
私は回る世界の体現を四時間も行い、そしてその間に視認した世界の美しさは我が心をどこまでも豊かにしてくれた。使ったエネルギーはかなりのものだが、得られたマナはそれと比較にならぬ程に深大。現実問題として、我が身体は直に痛みを訴えて正常なコントロールのきかないものとなるだろうが、それを無理やりにでも回転させるだけの気力は私の中に確かにある。
ゴールは遠くない。
この所業は、絶対に完遂してみせる。
……だから心配なんてしなくていいのよ、穣子。
「お姉ちゃん……」
そう、やはり貴女には笑顔が一番似合う。
願わくば、そうやって朗らかな表情のまま私を応援してほしい。
回る世界はそれだけで美しい。けれど、その中心に貴女の笑顔があれば私の眼に映る世界はもっともっと輝くのだ。……分かっている、これは私のエゴだ。しかし、世界にたったふたりきりの姉妹なのである。これくらいのワガママを言ったってバチはあたらないだろう。
……さて、穣子の笑顔を崩さない為には、苦しむ姿などを露わにするわけにはいかないわね。
紅葉を眺めながらダージリンを飲む私のお茶受けにそっと焼き芋を置きやがる彼女だが、それは嫌がらせなどではなく私を想っての行動であることを私は知っている。好みこそ違えど彼女は私を深く慕ってくれているのだ。私が顔を歪ませれば、彼女も顔を歪ませる。私が筋肉疲労を訴えれば、彼女だって胸を痛めてしまう。……妹にそんな苦しい思いをさせるわけにはいかない。
今の私に必要なものは、想いを力とするだけのブレない覚悟だ。
再び、ひゅう、と春寒の風が我が身を後押しした。
吹く風は道の向こうへと奔って行き、そして木に咲く梅の花を揺らした。
彼方では夕日に照らされた雲が東へと流れていた。
――ふと見ると、朱に染まった雲の下、往来の隅にて霧雨魔理沙が買い物をしていた。
向こうは既にこちらに気付いていたのか、どこか照れたような仕草でグイと三角帽子の鍔を掴んで目元を隠している。
心なしか、だが……、彼女の頬が朱の色に染まっているように見える。
……なんとも珍しい光景に出くわしたものだ。
幻想郷のヒロイン兼シーフとして悪名高い彼女だが、それはこの里を飛び出してから得た姿であることを私は知っている。元々彼女はこの里の万屋の娘として何不自由無い里人ライフを送っていたのだ。それが、どのような経緯があったかは知らないが、彼女は実家から出て魔の道に身を置いたのである。大手万屋、霧雨店の娘が勘当されたというニュースに里の人々は驚き、そして多くの者が夢見がちな少女の暴走を指で差して笑った。それからというもの彼女はまったくと言っていい程に里に寄り着くことはなく、自らの力でもって生活を切り盛りし続けたのである。
その大胆不敵でストイックな様は彼女の負けず嫌いな性格を分かりやすく表していた。
「里で買い物をするくらいなら知り合いの家から借りた方が千倍マシだ」という彼女の信条は迷惑極まりないものだが、そこには確かに彼女なりのプライドが輝いている。
十歳にも満たなかった少女が有するにはあまりにも強大過ぎる覚悟。
彼女はソレをずっと胸に抱き続け、そうしてこの郷でその名を知らぬ者はいない程の魔法使いとなったのだ。
その姿勢は、尊敬に値すると言っても良い。
自己実現の為に他人に迷惑を掛け続けて生きる彼女の姿は確かに粗暴で、そして不道徳なものである。
だがしかし、その内にある覚悟のなんと眩しいことか。
今の私は、彼女を見習うべきだろう。
目標達成の為に真に必要なものは、天性のセンスでも恵まれた環境でも無く、確固たる覚悟であるということを彼女はその生き様を以って証明している。
たった十年でただの道具屋の娘だった少女がオールトの雲を表したハイレベルスペルを放つようになったのだ。
誰が彼女の想いを笑うことができよう。
ただの人間がそこまでの根性を見せたのである。
神である私が弱気になるなど言語道断。
“辛い顔をせずに回転運動を完遂する”という、ただ一つの覚悟。
今一度、その想いを胸に装填する。
さぁ、もうグダグダとしたモノローグは切り上げよう。
後は只、“やる”だけだ。
――だが、
どうにも、今の魔理沙の朱を帯びた顔が気に掛かる。
はたして、彼女のあの姿は、無視をしても良いものなのだろうか。
あれ程に負けず嫌いであった彼女が、人里にて買い物をしている。
それはいったい、どういうことか。
只の気の迷い、安定した日々の中での気の緩み、郷愁の念……、
そういったものから彼女はこの里に来ているのだろうか。
意地を貫き通していた者が不意に現した心の隙。――確かにそんなものを見られてしまえば、あの負けず嫌いの少女は赤面をするだろう。しかし、その場合は問答無用でこちらにウィッチレイラインをぶちかまそうともする筈である。誰よりも弱みを見せることを嫌う彼女が知り合いたる私にその姿を見られてただ赤面するだけというのは、なんとも“らしくない”ことだ。
見れば、彼女は私に姿を見られたにも関わらず、未だに買い物を続けていた。
照れた様子ではあるが、しかしそれでも店主と笑いながら話をしたりしている。憎まれ口の一つでも叩いているのだろうか。
顔に朱の色こそあれど、その姿にはある種の思い切りの良さが感じられた。
後ろめたい感情など僅かにも見えない。
あの店は霧雨店の関係する店ではないが、しかし、確かあの店主は彼女が家出をした際に彼女のその暴走を笑った者の一人であった筈だ。これまで、彼女が頼ろうとする筈もなかった相手だろう。
十年もの間、魔の道以外では無頼を貫いてきた彼女が、なぜ、あのように買い物を……?
彼女の真っ直ぐな心は幼少の頃から微塵もブレていないようには思える。しかし、歯も生え揃っていなかった頃の少女には似つかわしくなかったあの鋭い眼光は、今の彼女の目元にはどうにも見えない。
あの頃に比べ、今の彼女は僅かながらも女性らしい顔つきに――、
――あぁ、そうか。
唐突に、理解をした。
彼女が里を飛び出した時から十年が経ったのだ。
彼女はあの頃から、十も歳をとったのだ。
それはつまり、
彼女も大人になった、ということだ。
彼女は、子供心に得た荒唐無稽な覚悟を振り回さなくても夢の実現に支障はないと判断したのであろう。
事実、彼女が大魔法使いになる上で、里の人々の力添えを得ないということはなんのメリットもないことだ。むしろ一日の中での貴重な時間を有効活用するには他所の家に押し入り強盗をしに行くより里にて買い物をした方が効率が良いということは明らかだ。
子供の頃に得た意地を自ら添削して、そして真っ直ぐに夢へと向かおうとする心。
それもまた、素晴らしい覚悟である。
意地っ張りで天の邪鬼で他者に弱みを見せたがらないという彼女の性質は昔から変わらないが……、しかし、無駄な意地を張り続けることを省みる程度には彼女は成長したのだ。
十年という月日。
人間にとってその時間は長い。
胸中にある意地を融解させ、そしてその奥にある本質を知るようになるには十分な時間だ。
四季が十度巡る内に彼女は何かを悟ったのだろう。そして少し、彼女は大人の見地を身に付けたのだろう。
そう、つまり、彼女もまた回る世界において美しく己を成長させた者なのである。
私はそんな彼女を“ただの覚悟がある奴”として話を終わらせかけたのだ。なんと愚鈍な我が脳であることか。
彼女はただの覚悟がある者ではない。回る世界の中で、“覚悟を研磨し続けた者”なのだ。
店にて買い物をする魔理沙は夕日に照らされて見事に朱に映えている。
その影は里を飛び出した頃とは異なり、とても綺麗だ。
ダイヤの原石が十年という月日を掛けて磨かれたことによる健やかな輝き。
今の彼女からはそんな美しさを感じる。
あぁ、回る世界の、なんと美しきことか。
時の流れとは本当に情緒深いものだ。
今の彼女の成長した姿を見て心からそう感じる。
――そして、今の私の衰えていく姿もまた、情緒深いものである。
時の流れは成長も衰退も同時に巻き起こす。
彼女がその身を磨いている今、身を削っている私がいるのだ。
だんだんと体力を減少させていく私の向こうで、彼女は笑っているのだ。
もしかしたらそれは、残酷なことなのかもしれない。
しかし、衰退無き世界に成長も生じないことは明らか。
切ない想いはあれど、回る世界において衰えというものは絶対に必要なものだ。
衰退を否定するなど、例え神であっても許されないことである。
有限なる我々が衰退に差し掛かり行うべきことは、――最後の輝きを見せること。
それまで得てきた想いを力として、それを精一杯表現すること!
あらん限りの彩りをその身に宿して地に落ちる、秋の枯葉のように!
あぁ、回る世界の、なんと美しきことか!
店主に支払いをする魔理沙の姿が見えた。
直に彼女は箒に乗ってどこかへと飛んで行ってしまうだろう。
この邂逅も、もう終わりである。
心惜しくもあるが、回る世界にてそれは文句を言っても詮の無いこと。
今は只、この出会いに感謝をしよう。
彼女と出会うことにより私は得も言われぬパワーを得て、そして回る世界の素晴らしさの一端を知ることができた。
疲労を蓄積していくばかりであった我が身にとって、この邂逅のなんと僥倖であったことか。
ありがとう、霧雨魔理沙。
さぁ、行こう。
ゴールまで満足に側転を続けるだけの力は十分に得られた。
後は真に、“やる”だけだ。
箒に跨った魔理沙がチラリとこちらに眼を向けた。
私はニコリと笑顔を作り、ウィンクを一つ彼女に贈った。
彼女は、なにか見てはいけないモノを見たかのように視線をバッと逸らし、そして脱兎の如く空の彼方へと飛んで行った。
……まだまだ彼女も子供、ということか。
○○○
クルリクルリと世界が回る。
ヒラリヒラリとドレスが舞う。
夕日は既に西の山尾に掛かっていた。
彼方に朱を僅かに残した空の色は鈍色を混ぜ込んだ暗い青。
黄昏であった。
悲鳴を上げる身体をどうにか制御し、私は一生懸命に回る。
「お姉ちゃん……!」
妹が悲痛な声を私に掛けた。
……今の私の姿を直視するのは、妹にとっては苦行であろう。
凝り固まった腕、マグマのように熱い腰部、力の入らない膝。既に我が身は満身創痍と言っても過言ではない状態だ。可能な限りブレの無い回転をしているつもりだが、この旅を始めた時の体勢に比べればバランスは残酷な程に崩れているだろう。
魔理沙と別れてからの一時間で、私の身体に生じたダメージは加速度的に増大していった。
体力はもう底を尽きかけている。
一度倒れてしまえば、きっともう側転運動に復帰することなど無理だ。
心臓が早鐘の様に胸を打つ。
吐く息がどこまでも熱い。
体中が、軋む。
だがしかし、ゴールはもう近い。
この運動をスタートさせた地へと私は着実に近づいていた。
里の全ての道は制覇した。あらゆる場所を見て回った。
あとは、スタート地点に戻るだけ。
終焉の時はすぐそこまで来ているのだ。
「お姉ちゃん!」
あぁ……、ありがとう、妹よ。
今の私の姿を見ることは辛い筈なのに、穣子は私から目を逸らさずに必死に応援をしてくれている。
その想いが、私に力を与えてくれる!
直にゴールは見えてくる筈だ。
道はもう、長くない!
四季の一を司る者として……、私は絶対にこの所業を完遂させてみせる!!
その時、ごう、と強い風が地面を打ちつけた。
――射命丸文。
幻想郷最強の新聞記者と呼ばれる彼女が、そこに立っていた。
……このタイミングで来たか。
彼女にしては随分と音速が遅いが……、まぁ、今回に限っては不思議なコトではないだろう。秋の神が里の中で回転をしているなんて、さほどおもしろい光景でもあるまい。他にニュースやハプニングがあればそちらの記事に力を注ぐのは自然なことだ。
おそらく彼女は新聞のメインになるネタを収集し終わってからストック用のネタを求めてこちらに来たのだろう。
そうであるなら、執拗にこちらに絡んでくることはない筈だ。
邪険にする必要もあるまい。
……いや、むしろ、我が世界の体現が完了する様を記録に残してもらうのも良いかもしれない。
この回転運動をファインダーに映写し、そして回る世界をその眼で以って認知すれば、読者に喜ばれる記事ができあがるかどうかは別として、彼女のくたびれた新聞にも少しは高尚な色が差すであろう。
同じ山に居を構える間柄だ。親切心を働かせてあげても良いだろう。
――その時、ゴール地点が見えた。
六時間前に回転運動をスタートさせた、あの場所が不意に、そしてついに見えた。
クルリクルリと、私は彼方の地へと近づいてゆく。
――ふと見れば、射命丸は何かに迷ったような様子でこちらを見ていた。
その手にカメラを持ってはいるが、撮影態勢には入っていない。
……遠慮をしているのか? あの射命丸文が?
それとも、彼女はこの雅なる行いに対してフラッシュをたくことが無粋であると考えているのであろうか。
……なるほど、それならば筋も通っている。彼女は一匹のパパラッチである前に一匹の千年を生きた妖怪。それなりに長い時を生きてきた彼女なら、悠久の時にわたって回る世界に対し感慨深く思うこともあるだろう。
私は別に構わないのだが……、彼女は我が回転運動にカメラをむけることを良しと思っていないのだろう。まぁ、分からなくもない。見事な紅葉が映える寺社にて落ち着きなくカメラをパシャパシャと撮る者の姿はどうにも無粋なもの。そんな輩がその場にいることで景観の美しさが僅かながらも損なわれることはしばしばある。彼女はそういった考えを持っているのだろう。
新聞記者としての仕事より、自然に生きる妖怪としてのプライドに身を委ねているのだ。
なかなかどうして、おもしろい子じゃないか。
彼女の眼にあるのは、……戸惑いの色?
彼女はあたかも我が所業に気押されているかのように、行動をとりあぐねている。
私の後方5メートルの距離を保ってついて来る彼女だが決してそれ以上になにかをしようとはしていない。
私の意識を乱さないように気を配っているのだろう。
……彼女の意思を無下にするわけにはいかない。
これ以上私が彼女を気にかけることは、彼女の配慮への冒涜だ。
あの射命丸文が黙って見守ってくれているのである。
それが何を意味しているのか分からない程、私は馬鹿ではない。
集中しろ、私。
今、意識を向けるべきは射命丸文ではなく、我が所業、側転運動だ。
ゴールまでの距離はおおよそ100メートルを切っている。
今は只、この回転運動に想いを馳せていれば良いのだ。
意識を、この回る世界に、向けろ。
この回る世界の体現はもう――、
――もう、直に、“終わってしまう”のだ。
……そう。
もう、100メートルも、ない。
この旅の終わりまで、もう、五十回転もないのだ。
ただただ、――ゴールが近づく。
回転の、終わりが近づく。
鈍い回転によって終焉が接近する。
胸の鼓動が大きくなるのを感じる。
……なんだ?
やけに世界の巡りがスロウに感じる。
……私は、惜しんでいるのか?
心が、ざわめく。
……?
この感情は、……寂しさ?
勿論、喜びの気持ちはある。
だが……、我が胸にはそれ以上の寂しい想いが……、確かに存在している。
困難な所業ではあったが、終わりが見えるとなるとやはり、
やはり、――寂しい。
――……。
……本当は――、
本当は、もっと長く側転をし、もっといろんな場所を、時を、世界を見ていたい。
もっと世界の美しさを知りたい。
もっともっと、回る世界を感じていたい。
私はもっと、回っていたいのだ。
だが、非力なる我が体躯ではそれは過ぎた望み。
現実問題として、それは不可能だ。
私はゴールを設定せねば回転運動など出来ぬ程、弱い存在なのだ。
それは、なんて――
――なんて寂しいことだろう。
本来、世界の回転に終焉などは無い。
ゴールなどというモノは無いのだ。
悠久の時を回り続けるのが世界なのだ。
なのに、今、回転している私は、ゴールに辿り着こうとしているのだ。
あぁ、なんて……、なんて!
――――なんて、寂しいことだろう!!
結局私は、この回転する世界を欠片ほども体現できていないのだ!!
全力を尽くしたとしても、巡る世界のレプリカにも成り得ていないのだ!!
なんて……! なんて……!!
だが、しかし、
そんな私の想いを歯牙にもかけず、世界は回るのだ。
矮小な私の行いが在ろうと無かろうと、世界は今日も、明日も、明後日も、ずっと、ずっと回るのだ!
我が行いがなんの意味も持たぬことが自明であるほどに世界は雄大で、そして悠遠なのだ!
あぁ――、回る世界の、――――なんと美しきことか――――――
ゴールが、近づく。
クルリクルリと、ゴールが近づく。
寂しさと終焉を有したその場所に私はもうすぐ至る。
だが悲観することなどない。
寂しさがあるから嬉しさがあり、終わりがあるからこそ始まりがあるのだ。
私が得た今日の数々の邂逅に見た答え。
この世界の真理。
儚さを抱いたまま、それでもクルクルと回るこの世界。
今はただ、そんな世界が、どこまでも愛おしい。
風が吹いた。
私はゴールをした。
「お姉ちゃん……!!」
妹がこちらに声を掛けるのを合図に私はペタリと地面に尻もちをついてしまった。
側転中は決して得ることのできなかった虚脱感に身の全てを委ねたくなるが……、それを寸前で神としての矜持が拒否をする。私は世界を構成する四季の内の一を司る神。往来の中で座り込むなどという無遠慮な行為をするわけにはいかない。
震える脚に気を入れて、私は立つ。脚はどうにか使い物になるようだ。
しかし、腕は本当に棒の様で、もうなにも持つことも支えることもできない。上半身の関節も、どこもかしこも鈍く痛む。
……やはりこれが限界、か。
寂寥とした感情が心の中に風を吹かせる。
だがしかし、私の胸にあるのは暖かく、そして確かな達成感だ。
もちろん、完璧な回転などではなかった。
だが、この行為は決して無駄な行いではなかった。
私が行ったこと――。
――それは世界の美しさの再認識。
我が身と世界との間にある計りようもない隔絶した差を、私は側転運動を終えたことで真に理解をすることができた。
私が体現するなど限り無くおこがましいと思える程に、世界は大きく美しい。
そんな世界だからこそ、どこまでも愛おしい。
……きっと幽々子嬢は、私がこの想いを抱くことを見越していたのだろう。
私の行為が世界の体現という深遠な行いに遠く及んでいないことを知りつつ、しかしその行為の辿り着く先、寂しさと悔しさの想いの先にこの答えが存在することを分かっていたがゆえに彼女は優しく微笑んだのだ。
彼女に比べて自分のなんと滑稽なことか、とも思う。
だがしかし、卑屈な感情に浸る気にはとてもなれない。
今は只、この美しき世界を感じたい。
小さな自分に眼を向けるくらいであれば、この大きな世界に眼を向けていたいのだ。
太陽は既に西の山の向こうに隠れてしまっていた。
東の空には、幽かな月が浮かんでいた。
夜の色を含んだ雲が東へと流れていた。
闇が混じった鈍い青の空の下で、ごう、と冷たい春の風が吹いた。
それがとても、気持ち良かった。
鳥たちが空を飛ぶ。
往来にて人々がガヤガヤと行き交う。
そして、梅の花が小さく揺れた。
あぁ、回る世界の、なんと美しきことか。
ふと見ると、射命丸文が困惑した様子でこちらに近づいてきた。
いったいどうしたのだろうか。
数秒程迷った挙句、ようやく彼女は口を開いた。
はて、いったいなにを――
「あの、静葉さん……、パンツを穿いてないのは、わざとですか……?」
――え?
澄んだ青空の下で賑わう人里に見えるは幽かな紅梅。
淡い春の色が、少しずつ世界を染め上げ始めたのだ。
「お姉ちゃん」
隣から我が妹、秋穣子がセンチメンタルな声で私を呼ぶ。
……彼女の気持ちはよく分かる。
秋を冠する我々にとってこの景色は、誤解を恐れずに言うならば、目の毒と言ってもいいだろう。豊かな恵みをもたらす大いなる秋、鮮やかな彩りを残す美しき秋、そのどちらもが梅の花を見上げる者達の記憶からは消え失せてしまっているのだ。神として存在する我々だが、……妬心を抱くのを抑えることができないというのが本音である。
だがしかし、この風景を否定することなど勿論できない。
四季が廻ることでこの世界が成立していることは万人が知る真理である。誕生を意味する春、成長を意味する夏、成果と衰退を意味する秋、死を意味する冬。これらが巡ることで世界は躍動をするのだ。
そうして回る世界であるからこそ、秋は色彩を帯びるのだ。
次の一年の為にその身に込めた生命の全てを大地へと還すがゆえに、紅葉たちはあんなにも美しいのだ!
あぁ、回る世界の、なんと美しきことか!
……我が心を追いたてる眼前の春の光もその雄大な流れの一つと思えば、なんとも微笑ましいものではないか。
あぁ、こんな春の日にジッとしてなんかいられない。
回ろう。
この穏やかな景色がそうそう簡単に移ろわないであろうことは自明。
ならば私自身が回り、そうして巡り回る四季を、そして世界を体現し、我が心に刻めば良いではないか。
さぁ、回ろう。
「…………お姉ちゃん?」
側転だ。
側転が、最もこの春の景色を美しく魅せてくれるに違いない。
「お姉ちゃん??」
上半身を軽く左に傾け、その態勢から、右足を右に踏み込むと同時に上半身を素早く右へと振って獅子の如く大地に右手を着け間髪を入れず左手も接地し、そして左脚と右脚でスラリと空を斬り、右手、左手の順に地から手を離して、着地。
完璧だ。
パーフェクトな側転だ。
おそらく次の五輪で表彰台を狙えるのでは、と思える程にビューティフルな側転だ。今の内にパスポートを発行しておくのも悪くはないかもしれない。ドロワーズを穿く我が身の回転に不埒な箇所があるわけでもない。全く以って世界の真理を体現するに相応しい円運動なのである。
これは、いける。
「お姉ちゃん!?」
あぁ、そんな顔をするな、妹よ。
分かっている。
この麗しき側転を何度もできる程の強い身体を持っていないことなんて、勿論私は分かっている。
他でもない自分の身体なのだ。
分かっている。分かっているのだ、妹よ。
本当ならば、この側転運動を以ってしてこの郷中の春を見て回りたいのだが、……それはこの華奢な我が身にはあまりにも酷。
残念だが、それは、分かりきっていることなのだ。
ゆえに、今日は側転でこの人里を見て回るだけに留めよう。
「お姉ちゃん!!」
心配をするな、妹よ。
末席ではあれど、この秋静葉も八百万の神の一柱。このさして広くない人里の中を側転運動でもって旅することなど叶わぬことではない。
さぁ、回ろう。
○○○
クルリクルリと世界が回る。
ヒラリヒラリとドレスが舞う。
南中の太陽が下方にあったかと思うと今は我が頭上にあり、右から強い春風が吹き付けたかと思うとその次の瞬間には左から我が髪をなびかせた。
道行く人々が私を見て笑顔を作る。
その笑い顔も上に下にと元気に弾み、私の心をよりいっそう暖かいものにしてくれる。
あぁ、回る世界のなんと美しきことか。
「お姉ちゃん……」
側転をする私の後をトボトボと付いてくる妹の声には、未だ若干の戸惑いが含まれていた。
……ふむ。彼女はまだ、この所業の風雅を解するだけの精神を持っていないということか。
私に対して偉そうな顔をすることが多々ある妹だが、その正体はまだまだ未熟な豊穣神。胸だってようやくCカップになったばかりだ。私の域に達するまでに学ばなければいけないことなど山の様にある。そんな彼女に無理矢理この回転を実行させたところで得られるものなど少ないだろう。それどころか、その身に不釣り合いな経験は彼女の健全な精神を汚す可能性すらある。シューティングゲームはそれまで『パロディウス』しかやったことがないという者にいきなり『東方地霊殿』をプレイさせてもコントローラーを投げつけられるのがオチなのだ。
まだまだ彼女にはこの回転を勧めるべきではない。
こうやって春の空気の中を歩むだけでも彼女は成長してくれる筈だ。
大切な我が妹なのである。急いて事を仕損じるなど、絶対にあってはいけない。
彼女は彼女のリズムで四季を感じれば良いのだ。
「お姉ちゃん……」
そう。貴女は、ゆっくりと成長すればいいのよ。
今はただ、この回る姉の姿を見ていればそれで良い。
クルリクルリと回る世界の中心に、眉尻を下げてこちらを見る妹の顔がある。
……なんて幸せなことであろう。
あぁ、回る世界の、なんと美しきことか。
「……お姉ちゃん」
妹がふと、なにかに気付いたように呟きを漏らした。
はて、なにかあったのだろうか。
彼女の視線の先には……、――あぁ、そうか。今は丁度昼休憩の時間なのか。
私の目の前にある建物は寺小屋。
その窓から、多くの子供たちが無邪気な笑顔をこちらに向けていた。
「アハハ」という笑い声が穏やかな日の中に響く。
こちらに手を振る子、こちらを指差す子、こちらを見て牛乳を噴く子……。リアクションは寺子の数だけあった。
なんとも可愛いものだ。
私は彼らに手を振ってやりたい思いに駆られたのだが……、あいにく今は側転中。この運動をしている最中に片手を振ることができる程、私は強い女ではない。一度チャレンジしてみたことはあったのだが、その際は左半身を綺麗に大地へと叩きつけてしまった。あれは、痛い。
そんな私にできることは、精々彼らに笑顔を作ってやること。
ニコリ、と笑顔を作りウィンクを一つプレゼントしてあげると、子供たちはいっそう笑い声を大きなものとした。
私の心が暖かい想いで満たされる。
彼らの笑顔のなんと……、なんと眩しいことか!
いずれ彼らが大人になり、この里での労働に追われる毎日に身を置いた時にはきっと寺小屋でのこの眩しき笑いを思い出すことだろう。そうして、昔日を振り返りつつ前へと進み、そのうちに彼らにも子ができ、そして彼らの子は寺小屋に通い、きっと今の彼らの様に笑うことであろう。そしてその子らがまた大人になり、子を成し、その子らもまた寺小屋に通い、笑い……、と世界は回るのだ。
あぁ、回る世界の、なんと美しきことか。
梅の花咲くこの時節、今笑っている子供たちの中には寺小屋の卒業を寸前に控えた者もいる筈だ。否でも応でも、大人の階段を上らざるをえない状況にあるその子の心境は如何程のものか。
……側転中である私は、そんな子らにしっかりと笑顔を贈ることができたであろうか。
側転運動をやめ、大地に二本足でしっかりと立ち、自慢の自虐ネタ、“シズハです……”を演ってあげれば彼らはよりいっそう笑ってくれるのではないだろうか。……そうだな、「シズハです……。先日、妹にシャンソンの名曲である『枯葉』を歌い聴かせてあげたところ、“……暗い。ストーカーの曲みたい”と言われたとです……」なんてどうだろうか? 即興で考えたものだが、かなり良い出来であるような気がする。……子供たちには少し高尚過ぎるネタか? いやいや、あの知識と歴史の半獣の下で学んできた彼らだ。この程度のジョークを解するだけの教養はあるだろう。きっと爆笑してくれるに違いない。
では、早速彼らに――
「お姉ちゃん」
――思い悩んだ私の気配を感じ取ったのだろうか、妹がそっと私を制す。
その眼には、優しさと厳しさがない交ぜになったような色がある。
まるで子を信じる母の様な眼だ。
……なるほど。私は、妹に比べて子供たちを信じられていなかった、ということか。
側転運動をする私に向けられる笑顔に遠慮などは一切無いように見える。
彼らの誰もが本心から笑っている筈だ。
ならば、信じよう。
これ以上の笑いを贈ってやらなくても、彼らはちゃんとこの瞬間の出来事を大切にしてくれるだろうと。
自虐ネタによるダメ押しなど不要なのだと。
そのようなことを考えている内に、我が身はクルリクルリと寺小屋から離れていく。
当然だ。私は今、側転中なのだから。
一つ所に留まり続けるなどできる筈のないことなのである。
悲しくもあるが、それは避けることのできない世界の真理。
終わりがあるから始まりがあり、別れがあるから出会いがあるのだ。
あの寺子たちの笑顔をもっと見ていたいとも思うが、だからといって寺小屋の前で延々とアクセルターンをし続けようものなら小兎姫がカッ飛んでくるだろう。卒業間際の寺子の脳裏に警察沙汰の光景を刻むわけにはいくまい。
……寺子たちよ、さよならだ。
だが、これは今生の別れなどではない。大人となった彼らはいずれまた我々秋姉妹と顔を合わせることもある筈だ。
なぜなら、世界は回っているのだから。
巡る季節に歩調を合わせて大人となりこの里を背負って立つ人間となった時、彼らは収穫祭の席にて我々と酒を酌み交わすだろう。
私たちと共に郷の豊作を喜ぶ彼らの笑顔はきっと、今の彼らの笑顔にも負けぬ程に眩しい筈である。
あぁ、なんと……、なんと!
回る世界の、なんと美しきことか!!
ふと見ると、寺小屋の窓の向こうには上白沢慧音がおり、こちらにペコリと会釈をした後、ジャッと簾を下げた。
……失礼なワーハクタクである。
○○○
クルリクルリと世界が回る。
ヒラリヒラリとドレスが舞う。
少し西に傾いた太陽が左に下に右に上に。眩い光が青空というステージで軽やかに踊る様はなんとも楽しく美しい。
「お姉ちゃん……」
――ふと、妹が切なげな声を上げる。
はて、どうしたのであろうか? と私が疑問を浮かべた瞬間、妹の腹からクゥという小さな鳴き声が聞こえた。
所在無いように視線を地面に落とす妹の顔を見て、私は彼女が空腹を我慢していたことに気付いた。そして、自らが姉として配慮を欠いていたことを自覚する。
我が妹、秋穣子は食物を食べる神である。
勿論我々は神霊であるから、食事によって栄養素を摂取する必要などは無い。だが、穣子は豊穣を司る神であり、その神性から“大地の恵み”に対して常に感覚を研ぎ澄ませておかなければならないのだ。その為彼女は人間と同じように食べ物に対する感謝の念と、そしてある種の食欲を有している。長きにわたって食物を口にしなければ死に至る、と神の身でありながら本気で考えているのが彼女なのだ。私などにとって食物は奢侈品に等しいのであるが、彼女にとって食物は必需品であるらしい。
一柱の神として見るにはなんとも子供っぽい彼女ではあるが、神としての在り方には確かな矜持を持っている。
それはとても、輝かしいことだ。
姉としてその姿勢を応援しない筈がないのである。
ゆえに私は今の自分の迂闊な脳を恥じた。
昼を過ぎてもう随分な時間が経過したにも関わらず、妹は未だ昼食をとっていないという事実。
側転に夢中になっていたばかりにそれ程のことを失念するとは……、不覚であった。これでは、豆電球を片手にアブソリュートジャスティスを放つどこぞの毘沙門天の弟子のことを笑えないだろう。
「お姉ちゃんっ」
急かすように私を呼ぶ穣子。
その視線の先には一件の茶屋があった。
遠慮をする必要は無いわ。行ってきなさい、穣子。
私が浮かべた笑顔を見た瞬間、妹はパァっと笑顔を作り、そうしてタタタッと茶屋の店先へと走って行った。
可愛い子である。
彼女を急かすわけにもいくまい。回転のスピードを六割程落とそうか。
世界は常に淀みなく回るものだが……、機械の様に少しのズレも無く運行するものでもない。仕組みに囚われるがあまりその仕組み通りの行動しかできなくなるなど滑稽の極みであるということは、外界においても七十年以上も前にチョビヒゲの喜劇王が主張済みだ。そんなことを寂しさと終焉を嗜むこの秋静葉が解してない筈がない。この精神的財産が豊富な幻想郷という地にあって、ツマラナイ常識に囚われていてはいけないのである。いつぞやこの話を外界から来た風祝に語ったことがあったが、その時の彼女の憑き物が落ちたかのような爽やかな姿は今でも忘れることができない。客星のように眩しい笑顔で「やっぱり……! やっぱり幻想郷では常識に囚われてはいけないのですねっ!!」と言ったあの少女は今頃どこでミラクルを巻き起こしているだろうか。
……む?
ふと意識を現実に戻して妹の姿を追うと、彼女は誰かとお喋りをしていた。
あの方は……、西行寺幽々子嬢ではないか。
茶屋の軒先にある長椅子に座って梅羊羹を食べているのは、紛うことなき華胥の亡霊。
そんな彼女は妹と軽い会話をした後、ふとこちらに顔を向け、そしてフワリと笑った。
相も変わらず優雅な女性だ。
彼女の傍らに積み重なる十を超える菓子皿も、彼女の美しさを損なわせる要因には成り得ていない。
この郷で最も春が似合う者は誰か、と聞けば、春を司る神や春告精を抑え、多くの者が西行寺幽々子の名を挙げる。
彼女は霊という身でありながら春の如く柔らかく、かつ、霊という身であるからこその春の如き儚さを有する。
そしてなにより西行寺幽々子と言えば連想されるのが彼女が管理する世界最高の桜、西行妖であろう。
花も蕾も身につけないあまりに寂寥としたその大樹は、その周辺に咲く広大な桜との対比もあって非常に強い“サビ”を醸し出す名樹である。そんな樹を望む桜の園は他の花見場とは凄絶なまでに風雅の深みが異なり、現在では幻想郷で一番の花見の名所として現世に生きる人々の間においても羨望の地とされている。
しかし、その樹には人々が知り得ぬエピソードがある。
それは、“西行寺幽々子が西行妖を咲かせる為に幻想郷中の春を集めた”という事実。
言い換えるならばそれは、数年前の春雪異変の首謀者は彼女であった、ということ。
そう。春の到来が遅れたあの年の混乱は、彼女の仕業によるものなのであったのだ。
あの時は本当に大変であった。
芽吹きの時節を遥かに過ぎても勢いの衰えることがなかった豪雪は郷の生態系に多大なダメージを与え、あらゆる農作物が不作の危機に晒されたのだ。後日、彼女が郷から奪っていた春を何倍にもして郷中に返還したことでその危機は回避されたが、多くの者の寿命を縮ませたことは疑いようがない。
季節のリズムの歪みが人々の生活を脅かした、近年では珍しい出来事であった。
だがしかし、次の年には例年通りの春が何事も無く訪れた。
世界が予定通りの運行をしない時は、稀にだが、確かにあるだろう。
人為的な異変の場合もあれば、純然たる自然現象によって異常気象が生じることも多々ある。
だがしかし、そのような年があったとしても、それに躓くことなく世界は回り続けるのだ。
それゆえに世界は今日まで膨大な歴史を築き続け、そして今この時も輝いているのだ。
それゆえに、世界は美しいのだ!
あぁ、回る世界の、なんと美しきことか!
そう。私は今、あたかもあの年の今時分の季節のようにゆったりとしたテンポの回転運動をしているのである。
皐月に及ぶまで続いたスロウな冬は巫女のリフトオフによりすぐさまに去り、そして季節は通常のリズムへサラリと戻った。
それと全く同様に、今は巡りを遅らせているこの側転運動も妹が食事を終わらせると共にすぐに元の回転速度へクルリと戻るのだ。
不自然なことなど、何も無い。
そのような思考運動を行っている内に、我が身はクルリクルリと長椅子に座る幽々子嬢の前に差し掛かろうとしていた。
傍に見る幽々子嬢の顔はとても柔和だ。まるで萌え木を眺めるが如く私を見て、そして暖かく微笑んでいる。彼女は私の行っている側転運動からしっかりと巡る四季を感じ取ったのであろう。
ごう、と一陣の春風が吹いた。
幽々子嬢は桜色の髪を押さえて目を細めながらもこちらを見て、――そして何かに満足したようにクスリと笑った。
その様のなんと優雅なことか。
紅葉と桜。私と彼女が扱うものは異なれど私と彼女にある四季への尊重の想いは同程度に深いものであるだろう。
巡る世界の中で私と彼女が邂逅したこの瞬間はきっと、ある種の奇跡に違いない。
この奇跡に私はありったけの感謝をしたい衝動に駆られた。だが、今の私は側転中の身。世界に対して祝詞をあげるには少し体力に余裕が無い。残念だが、今は諦めよう。
そんな私の心のブレを感じ取ったのか、幽々子嬢は袖で口元を押さえてクスクスと笑う。
彼女の横を見れば、そこにはいつのまにか三十に及ぶ菓子皿が積み重なっていた。
私の側転運動を見て、回る世界に想いを馳せながらも、彼女は数十個の梅羊羹を食していたのだ。
……まったく、この方には敵いそうにないな。
そうして苦笑を浮かべながら、クルリクルリと私は幽々子嬢の前を通り過ぎる。
その瞬間、彼女は口を開いて何かを言いかけ――、そして、袖でフワリと口元を隠した。
……? はて、どうしたのだろうか。
確かめるように見た彼女の表情は、相も変わらず春の如き笑顔。
私には見えない何かを見ていて、そして、私がそれに気付くのを信じている。そんな表情だ。
……側転運動をする私からは見えない、彼女なりの世界があるのかもしれない。また、側転運動を続けることによってこそ見える世界があるのかもしれない。
いずれにせよ、私がいつかは辿り着くであろうと考えたがゆえに彼女は言葉を呑み込んだのだろう。
ここで私が彼女に質問をするのは無粋。
私にできることは、側転を続けることだけだ。
この回転運動でもって里中を見て回ることができた暁には彼女が言おうとしたことが分かるかもしれない。
今はただ、回ろう。
ごちそうさまー、という妹の声が店の奥から聞こえた。直に軒先に出てくることだろう。
この緩やかなスピードの側転運動もそろそろ終わりだ。
通常の速度に戻せばすぐにこの店は見えなくなってしまう。――それはつまり、幽々子嬢との邂逅の終焉を意味している。
寂しいことだが、回る世界においてそれは仕方のないことだ。
そのことは勿論目の前にいる亡霊嬢とて理解をしているだろう。
彼女は笑顔を浮かべたまま小さく手を振った。
お返しに私はウィンクを一つ、パチリと贈る。
そんな私を見て満足したのか、彼女は視線を正面にある梅の木へと移した。
そして、ほぅ、と一息をついた後、胸元から包装紙に包まれた一本の羊羹をスッと取り出した。
おそらく、白玉楼にいる従者への土産の一本なのであろう。
彼女はその羊羹の包み紙をスルリスルリと剥き、いただきます、と小さく呟いて日の下に晒された梅羊羹にカプリと齧りつき、そしてモクモクと食べはじめた。
「お姉ちゃんっ」
戻って来た妹が私に声を掛ける。
さて……、回転を本来のリズムに戻そうか。
少し離れた茶屋の軒先を見ると、亡霊嬢は梅の木を眺めてほんのりと微笑んでいた。
彼女の傍にあるのは高く積み重ねられた菓子皿とクシャクシャになった一枚の包装紙。
その光景は、えも言われぬ程に幽雅であった。
○○○
クルリクルリと世界が回る。
ヒラリヒラリとドレスが舞う。
朱に染められた里の人が、妖怪が、建物が、神が、休むことなく踊り続ける。
夕方に差し掛かり、気温は顕著に低下をしていた。
草木が萌える季節ではあるが、おやつどきから一時も過ぎればこの山間の郷にはまだまだ冷たい風が吹く。
目覚めたばかりの春にしかない、独特の寒暖差のある空気だ。
ひゅう、と鋭い風が彼方より吹く。
熱の籠もった今の我が身体にとって、その風は自然からの恵贈に等しかった。
「お姉ちゃん……?」
……姉妹ゆえ、だろうか。穣子が私に対して不安げな声を発した。
おそらく、私の身体の不具合に気付いたのであろう。
この側転運動を始めてからおおよその時間で四、五時間が経過した現在、我が体躯は僅かながらも確実に疲労を蓄積していた。
体内にてカリウムイオンが暴れ、身体のそこかしこで鈍い痺れが生まれる。
アストラルバディに生じた違和感は一回転毎に明瞭なものとなっていく。今はまだスタート時と変わらない快活とした回転を行っているが、このリズムを永劫に維持するのは、……悔しいが、不可能だろう。
「お姉ちゃん」
……そんな辛そうな顔をするな、妹よ。
大丈夫。そこまで心配をする必要なんて無い。
側転運動にて里を見て回るというこの所業は既に行程の八割を踏破している。
辛くない、不安が無い、……そう言えば確かにそれは嘘になる。
だがしかし、それ以上に私の心に存在しているのは確固たる喜びの気持ちなのだ。
私は回る世界の体現を四時間も行い、そしてその間に視認した世界の美しさは我が心をどこまでも豊かにしてくれた。使ったエネルギーはかなりのものだが、得られたマナはそれと比較にならぬ程に深大。現実問題として、我が身体は直に痛みを訴えて正常なコントロールのきかないものとなるだろうが、それを無理やりにでも回転させるだけの気力は私の中に確かにある。
ゴールは遠くない。
この所業は、絶対に完遂してみせる。
……だから心配なんてしなくていいのよ、穣子。
「お姉ちゃん……」
そう、やはり貴女には笑顔が一番似合う。
願わくば、そうやって朗らかな表情のまま私を応援してほしい。
回る世界はそれだけで美しい。けれど、その中心に貴女の笑顔があれば私の眼に映る世界はもっともっと輝くのだ。……分かっている、これは私のエゴだ。しかし、世界にたったふたりきりの姉妹なのである。これくらいのワガママを言ったってバチはあたらないだろう。
……さて、穣子の笑顔を崩さない為には、苦しむ姿などを露わにするわけにはいかないわね。
紅葉を眺めながらダージリンを飲む私のお茶受けにそっと焼き芋を置きやがる彼女だが、それは嫌がらせなどではなく私を想っての行動であることを私は知っている。好みこそ違えど彼女は私を深く慕ってくれているのだ。私が顔を歪ませれば、彼女も顔を歪ませる。私が筋肉疲労を訴えれば、彼女だって胸を痛めてしまう。……妹にそんな苦しい思いをさせるわけにはいかない。
今の私に必要なものは、想いを力とするだけのブレない覚悟だ。
再び、ひゅう、と春寒の風が我が身を後押しした。
吹く風は道の向こうへと奔って行き、そして木に咲く梅の花を揺らした。
彼方では夕日に照らされた雲が東へと流れていた。
――ふと見ると、朱に染まった雲の下、往来の隅にて霧雨魔理沙が買い物をしていた。
向こうは既にこちらに気付いていたのか、どこか照れたような仕草でグイと三角帽子の鍔を掴んで目元を隠している。
心なしか、だが……、彼女の頬が朱の色に染まっているように見える。
……なんとも珍しい光景に出くわしたものだ。
幻想郷のヒロイン兼シーフとして悪名高い彼女だが、それはこの里を飛び出してから得た姿であることを私は知っている。元々彼女はこの里の万屋の娘として何不自由無い里人ライフを送っていたのだ。それが、どのような経緯があったかは知らないが、彼女は実家から出て魔の道に身を置いたのである。大手万屋、霧雨店の娘が勘当されたというニュースに里の人々は驚き、そして多くの者が夢見がちな少女の暴走を指で差して笑った。それからというもの彼女はまったくと言っていい程に里に寄り着くことはなく、自らの力でもって生活を切り盛りし続けたのである。
その大胆不敵でストイックな様は彼女の負けず嫌いな性格を分かりやすく表していた。
「里で買い物をするくらいなら知り合いの家から借りた方が千倍マシだ」という彼女の信条は迷惑極まりないものだが、そこには確かに彼女なりのプライドが輝いている。
十歳にも満たなかった少女が有するにはあまりにも強大過ぎる覚悟。
彼女はソレをずっと胸に抱き続け、そうしてこの郷でその名を知らぬ者はいない程の魔法使いとなったのだ。
その姿勢は、尊敬に値すると言っても良い。
自己実現の為に他人に迷惑を掛け続けて生きる彼女の姿は確かに粗暴で、そして不道徳なものである。
だがしかし、その内にある覚悟のなんと眩しいことか。
今の私は、彼女を見習うべきだろう。
目標達成の為に真に必要なものは、天性のセンスでも恵まれた環境でも無く、確固たる覚悟であるということを彼女はその生き様を以って証明している。
たった十年でただの道具屋の娘だった少女がオールトの雲を表したハイレベルスペルを放つようになったのだ。
誰が彼女の想いを笑うことができよう。
ただの人間がそこまでの根性を見せたのである。
神である私が弱気になるなど言語道断。
“辛い顔をせずに回転運動を完遂する”という、ただ一つの覚悟。
今一度、その想いを胸に装填する。
さぁ、もうグダグダとしたモノローグは切り上げよう。
後は只、“やる”だけだ。
――だが、
どうにも、今の魔理沙の朱を帯びた顔が気に掛かる。
はたして、彼女のあの姿は、無視をしても良いものなのだろうか。
あれ程に負けず嫌いであった彼女が、人里にて買い物をしている。
それはいったい、どういうことか。
只の気の迷い、安定した日々の中での気の緩み、郷愁の念……、
そういったものから彼女はこの里に来ているのだろうか。
意地を貫き通していた者が不意に現した心の隙。――確かにそんなものを見られてしまえば、あの負けず嫌いの少女は赤面をするだろう。しかし、その場合は問答無用でこちらにウィッチレイラインをぶちかまそうともする筈である。誰よりも弱みを見せることを嫌う彼女が知り合いたる私にその姿を見られてただ赤面するだけというのは、なんとも“らしくない”ことだ。
見れば、彼女は私に姿を見られたにも関わらず、未だに買い物を続けていた。
照れた様子ではあるが、しかしそれでも店主と笑いながら話をしたりしている。憎まれ口の一つでも叩いているのだろうか。
顔に朱の色こそあれど、その姿にはある種の思い切りの良さが感じられた。
後ろめたい感情など僅かにも見えない。
あの店は霧雨店の関係する店ではないが、しかし、確かあの店主は彼女が家出をした際に彼女のその暴走を笑った者の一人であった筈だ。これまで、彼女が頼ろうとする筈もなかった相手だろう。
十年もの間、魔の道以外では無頼を貫いてきた彼女が、なぜ、あのように買い物を……?
彼女の真っ直ぐな心は幼少の頃から微塵もブレていないようには思える。しかし、歯も生え揃っていなかった頃の少女には似つかわしくなかったあの鋭い眼光は、今の彼女の目元にはどうにも見えない。
あの頃に比べ、今の彼女は僅かながらも女性らしい顔つきに――、
――あぁ、そうか。
唐突に、理解をした。
彼女が里を飛び出した時から十年が経ったのだ。
彼女はあの頃から、十も歳をとったのだ。
それはつまり、
彼女も大人になった、ということだ。
彼女は、子供心に得た荒唐無稽な覚悟を振り回さなくても夢の実現に支障はないと判断したのであろう。
事実、彼女が大魔法使いになる上で、里の人々の力添えを得ないということはなんのメリットもないことだ。むしろ一日の中での貴重な時間を有効活用するには他所の家に押し入り強盗をしに行くより里にて買い物をした方が効率が良いということは明らかだ。
子供の頃に得た意地を自ら添削して、そして真っ直ぐに夢へと向かおうとする心。
それもまた、素晴らしい覚悟である。
意地っ張りで天の邪鬼で他者に弱みを見せたがらないという彼女の性質は昔から変わらないが……、しかし、無駄な意地を張り続けることを省みる程度には彼女は成長したのだ。
十年という月日。
人間にとってその時間は長い。
胸中にある意地を融解させ、そしてその奥にある本質を知るようになるには十分な時間だ。
四季が十度巡る内に彼女は何かを悟ったのだろう。そして少し、彼女は大人の見地を身に付けたのだろう。
そう、つまり、彼女もまた回る世界において美しく己を成長させた者なのである。
私はそんな彼女を“ただの覚悟がある奴”として話を終わらせかけたのだ。なんと愚鈍な我が脳であることか。
彼女はただの覚悟がある者ではない。回る世界の中で、“覚悟を研磨し続けた者”なのだ。
店にて買い物をする魔理沙は夕日に照らされて見事に朱に映えている。
その影は里を飛び出した頃とは異なり、とても綺麗だ。
ダイヤの原石が十年という月日を掛けて磨かれたことによる健やかな輝き。
今の彼女からはそんな美しさを感じる。
あぁ、回る世界の、なんと美しきことか。
時の流れとは本当に情緒深いものだ。
今の彼女の成長した姿を見て心からそう感じる。
――そして、今の私の衰えていく姿もまた、情緒深いものである。
時の流れは成長も衰退も同時に巻き起こす。
彼女がその身を磨いている今、身を削っている私がいるのだ。
だんだんと体力を減少させていく私の向こうで、彼女は笑っているのだ。
もしかしたらそれは、残酷なことなのかもしれない。
しかし、衰退無き世界に成長も生じないことは明らか。
切ない想いはあれど、回る世界において衰えというものは絶対に必要なものだ。
衰退を否定するなど、例え神であっても許されないことである。
有限なる我々が衰退に差し掛かり行うべきことは、――最後の輝きを見せること。
それまで得てきた想いを力として、それを精一杯表現すること!
あらん限りの彩りをその身に宿して地に落ちる、秋の枯葉のように!
あぁ、回る世界の、なんと美しきことか!
店主に支払いをする魔理沙の姿が見えた。
直に彼女は箒に乗ってどこかへと飛んで行ってしまうだろう。
この邂逅も、もう終わりである。
心惜しくもあるが、回る世界にてそれは文句を言っても詮の無いこと。
今は只、この出会いに感謝をしよう。
彼女と出会うことにより私は得も言われぬパワーを得て、そして回る世界の素晴らしさの一端を知ることができた。
疲労を蓄積していくばかりであった我が身にとって、この邂逅のなんと僥倖であったことか。
ありがとう、霧雨魔理沙。
さぁ、行こう。
ゴールまで満足に側転を続けるだけの力は十分に得られた。
後は真に、“やる”だけだ。
箒に跨った魔理沙がチラリとこちらに眼を向けた。
私はニコリと笑顔を作り、ウィンクを一つ彼女に贈った。
彼女は、なにか見てはいけないモノを見たかのように視線をバッと逸らし、そして脱兎の如く空の彼方へと飛んで行った。
……まだまだ彼女も子供、ということか。
○○○
クルリクルリと世界が回る。
ヒラリヒラリとドレスが舞う。
夕日は既に西の山尾に掛かっていた。
彼方に朱を僅かに残した空の色は鈍色を混ぜ込んだ暗い青。
黄昏であった。
悲鳴を上げる身体をどうにか制御し、私は一生懸命に回る。
「お姉ちゃん……!」
妹が悲痛な声を私に掛けた。
……今の私の姿を直視するのは、妹にとっては苦行であろう。
凝り固まった腕、マグマのように熱い腰部、力の入らない膝。既に我が身は満身創痍と言っても過言ではない状態だ。可能な限りブレの無い回転をしているつもりだが、この旅を始めた時の体勢に比べればバランスは残酷な程に崩れているだろう。
魔理沙と別れてからの一時間で、私の身体に生じたダメージは加速度的に増大していった。
体力はもう底を尽きかけている。
一度倒れてしまえば、きっともう側転運動に復帰することなど無理だ。
心臓が早鐘の様に胸を打つ。
吐く息がどこまでも熱い。
体中が、軋む。
だがしかし、ゴールはもう近い。
この運動をスタートさせた地へと私は着実に近づいていた。
里の全ての道は制覇した。あらゆる場所を見て回った。
あとは、スタート地点に戻るだけ。
終焉の時はすぐそこまで来ているのだ。
「お姉ちゃん!」
あぁ……、ありがとう、妹よ。
今の私の姿を見ることは辛い筈なのに、穣子は私から目を逸らさずに必死に応援をしてくれている。
その想いが、私に力を与えてくれる!
直にゴールは見えてくる筈だ。
道はもう、長くない!
四季の一を司る者として……、私は絶対にこの所業を完遂させてみせる!!
その時、ごう、と強い風が地面を打ちつけた。
――射命丸文。
幻想郷最強の新聞記者と呼ばれる彼女が、そこに立っていた。
……このタイミングで来たか。
彼女にしては随分と音速が遅いが……、まぁ、今回に限っては不思議なコトではないだろう。秋の神が里の中で回転をしているなんて、さほどおもしろい光景でもあるまい。他にニュースやハプニングがあればそちらの記事に力を注ぐのは自然なことだ。
おそらく彼女は新聞のメインになるネタを収集し終わってからストック用のネタを求めてこちらに来たのだろう。
そうであるなら、執拗にこちらに絡んでくることはない筈だ。
邪険にする必要もあるまい。
……いや、むしろ、我が世界の体現が完了する様を記録に残してもらうのも良いかもしれない。
この回転運動をファインダーに映写し、そして回る世界をその眼で以って認知すれば、読者に喜ばれる記事ができあがるかどうかは別として、彼女のくたびれた新聞にも少しは高尚な色が差すであろう。
同じ山に居を構える間柄だ。親切心を働かせてあげても良いだろう。
――その時、ゴール地点が見えた。
六時間前に回転運動をスタートさせた、あの場所が不意に、そしてついに見えた。
クルリクルリと、私は彼方の地へと近づいてゆく。
――ふと見れば、射命丸は何かに迷ったような様子でこちらを見ていた。
その手にカメラを持ってはいるが、撮影態勢には入っていない。
……遠慮をしているのか? あの射命丸文が?
それとも、彼女はこの雅なる行いに対してフラッシュをたくことが無粋であると考えているのであろうか。
……なるほど、それならば筋も通っている。彼女は一匹のパパラッチである前に一匹の千年を生きた妖怪。それなりに長い時を生きてきた彼女なら、悠久の時にわたって回る世界に対し感慨深く思うこともあるだろう。
私は別に構わないのだが……、彼女は我が回転運動にカメラをむけることを良しと思っていないのだろう。まぁ、分からなくもない。見事な紅葉が映える寺社にて落ち着きなくカメラをパシャパシャと撮る者の姿はどうにも無粋なもの。そんな輩がその場にいることで景観の美しさが僅かながらも損なわれることはしばしばある。彼女はそういった考えを持っているのだろう。
新聞記者としての仕事より、自然に生きる妖怪としてのプライドに身を委ねているのだ。
なかなかどうして、おもしろい子じゃないか。
彼女の眼にあるのは、……戸惑いの色?
彼女はあたかも我が所業に気押されているかのように、行動をとりあぐねている。
私の後方5メートルの距離を保ってついて来る彼女だが決してそれ以上になにかをしようとはしていない。
私の意識を乱さないように気を配っているのだろう。
……彼女の意思を無下にするわけにはいかない。
これ以上私が彼女を気にかけることは、彼女の配慮への冒涜だ。
あの射命丸文が黙って見守ってくれているのである。
それが何を意味しているのか分からない程、私は馬鹿ではない。
集中しろ、私。
今、意識を向けるべきは射命丸文ではなく、我が所業、側転運動だ。
ゴールまでの距離はおおよそ100メートルを切っている。
今は只、この回転運動に想いを馳せていれば良いのだ。
意識を、この回る世界に、向けろ。
この回る世界の体現はもう――、
――もう、直に、“終わってしまう”のだ。
……そう。
もう、100メートルも、ない。
この旅の終わりまで、もう、五十回転もないのだ。
ただただ、――ゴールが近づく。
回転の、終わりが近づく。
鈍い回転によって終焉が接近する。
胸の鼓動が大きくなるのを感じる。
……なんだ?
やけに世界の巡りがスロウに感じる。
……私は、惜しんでいるのか?
心が、ざわめく。
……?
この感情は、……寂しさ?
勿論、喜びの気持ちはある。
だが……、我が胸にはそれ以上の寂しい想いが……、確かに存在している。
困難な所業ではあったが、終わりが見えるとなるとやはり、
やはり、――寂しい。
――……。
……本当は――、
本当は、もっと長く側転をし、もっといろんな場所を、時を、世界を見ていたい。
もっと世界の美しさを知りたい。
もっともっと、回る世界を感じていたい。
私はもっと、回っていたいのだ。
だが、非力なる我が体躯ではそれは過ぎた望み。
現実問題として、それは不可能だ。
私はゴールを設定せねば回転運動など出来ぬ程、弱い存在なのだ。
それは、なんて――
――なんて寂しいことだろう。
本来、世界の回転に終焉などは無い。
ゴールなどというモノは無いのだ。
悠久の時を回り続けるのが世界なのだ。
なのに、今、回転している私は、ゴールに辿り着こうとしているのだ。
あぁ、なんて……、なんて!
――――なんて、寂しいことだろう!!
結局私は、この回転する世界を欠片ほども体現できていないのだ!!
全力を尽くしたとしても、巡る世界のレプリカにも成り得ていないのだ!!
なんて……! なんて……!!
だが、しかし、
そんな私の想いを歯牙にもかけず、世界は回るのだ。
矮小な私の行いが在ろうと無かろうと、世界は今日も、明日も、明後日も、ずっと、ずっと回るのだ!
我が行いがなんの意味も持たぬことが自明であるほどに世界は雄大で、そして悠遠なのだ!
あぁ――、回る世界の、――――なんと美しきことか――――――
ゴールが、近づく。
クルリクルリと、ゴールが近づく。
寂しさと終焉を有したその場所に私はもうすぐ至る。
だが悲観することなどない。
寂しさがあるから嬉しさがあり、終わりがあるからこそ始まりがあるのだ。
私が得た今日の数々の邂逅に見た答え。
この世界の真理。
儚さを抱いたまま、それでもクルクルと回るこの世界。
今はただ、そんな世界が、どこまでも愛おしい。
風が吹いた。
私はゴールをした。
「お姉ちゃん……!!」
妹がこちらに声を掛けるのを合図に私はペタリと地面に尻もちをついてしまった。
側転中は決して得ることのできなかった虚脱感に身の全てを委ねたくなるが……、それを寸前で神としての矜持が拒否をする。私は世界を構成する四季の内の一を司る神。往来の中で座り込むなどという無遠慮な行為をするわけにはいかない。
震える脚に気を入れて、私は立つ。脚はどうにか使い物になるようだ。
しかし、腕は本当に棒の様で、もうなにも持つことも支えることもできない。上半身の関節も、どこもかしこも鈍く痛む。
……やはりこれが限界、か。
寂寥とした感情が心の中に風を吹かせる。
だがしかし、私の胸にあるのは暖かく、そして確かな達成感だ。
もちろん、完璧な回転などではなかった。
だが、この行為は決して無駄な行いではなかった。
私が行ったこと――。
――それは世界の美しさの再認識。
我が身と世界との間にある計りようもない隔絶した差を、私は側転運動を終えたことで真に理解をすることができた。
私が体現するなど限り無くおこがましいと思える程に、世界は大きく美しい。
そんな世界だからこそ、どこまでも愛おしい。
……きっと幽々子嬢は、私がこの想いを抱くことを見越していたのだろう。
私の行為が世界の体現という深遠な行いに遠く及んでいないことを知りつつ、しかしその行為の辿り着く先、寂しさと悔しさの想いの先にこの答えが存在することを分かっていたがゆえに彼女は優しく微笑んだのだ。
彼女に比べて自分のなんと滑稽なことか、とも思う。
だがしかし、卑屈な感情に浸る気にはとてもなれない。
今は只、この美しき世界を感じたい。
小さな自分に眼を向けるくらいであれば、この大きな世界に眼を向けていたいのだ。
太陽は既に西の山の向こうに隠れてしまっていた。
東の空には、幽かな月が浮かんでいた。
夜の色を含んだ雲が東へと流れていた。
闇が混じった鈍い青の空の下で、ごう、と冷たい春の風が吹いた。
それがとても、気持ち良かった。
鳥たちが空を飛ぶ。
往来にて人々がガヤガヤと行き交う。
そして、梅の花が小さく揺れた。
あぁ、回る世界の、なんと美しきことか。
ふと見ると、射命丸文が困惑した様子でこちらに近づいてきた。
いったいどうしたのだろうか。
数秒程迷った挙句、ようやく彼女は口を開いた。
はて、いったいなにを――
「あの、静葉さん……、パンツを穿いてないのは、わざとですか……?」
――え?
本当にあなたの作品大好きです
しかし、彼女の犯した罪は別にある!!純真だった早苗さんを非常識の道へと堕とした事である、よって有罪!
PS. 桜色との証言、誠に有難うございました幽々子様、秋なのに桜色(妄想)
こいつはやられた
バンソーコーがなければアウトであった。
里の奴らはみんな黒です。早急に処置を。
そんなバカに溢れんばかりの語彙と表現力をもたせるとこうなるという好例。
いや、本当に脱帽です。素晴らしい。
と思っていたらオチがひどすぎるー!
誰か教えてあげてwww
特にゆゆ様の描写が素晴らしかったです。
静葉様はそれを身体で示してくださったのだよ!
やっぱりこういった事件が起きないように、最初からパンツをはかないようにすべk(ry
春とは発情も含めた“盛り”の季節であり、頭にアドレナリンや春度がもりもり湧いちゃって大変なのね。
要するに「俺にも見せろ」