春眠暁を覚えず。
春を迎えつつある幻想郷も、漸くこの言葉が合う季節になってきた。
人も妖怪も皆その暖かさが待ち遠しかったのだろう、それぞれの朝が遅くなりつつある。
ナズーリンもその例に漏れず、その日も布団でごろごろしていた。
大変な仕事もなく、ゆっくり寝ていられるのは幸せだと夢見心地で思った直後、ナズーリンは廊下をドタドタと歩く音を聞いた。どうやらその足音の主は彼女の部屋に向かっているらしく、その足取りはまるで喜びに胸を弾ませているように聞こえる。
その様子で、ナズーリンには誰がやってくるのかが大体わかっていた。そして、自分が面倒なことに巻き込まれるであろうことも。
こういう場合は大抵彼女の妙な提案に付き合わされるのを、ナズーリンは経験上知っている。今回もいつも通り彼女の思いの篭った妙ちくりんな提案を持ち込んでくることだろう。
困ったご主人様だ、と溜息を吐きながら、ナズーリンは布団の中で彼女が部屋に着くのを待っていた。
その直後、ナズーリンの部屋の襖が勢いよく開いた。先程の足音の主は彼女の布団にまっすぐ歩いていくと、狸寝入りを決め込んでいた彼女から布団を引き剥がした。
「ナズーリン! 寝ている場合ではありませんよ!! さあ起きて起きて!!」
「何するんですか、もう!」
「大事な話があるんです、寝ている場合ではないのです!!」
「はいはい、起きましたよ。それで、話というのは何ですか、ご主人様?」
ナズーリンが訊ねると、星は少し躊躇った後誇らしげに胸を張ってみせながらそれに答えた。
「ええ、あなたに相談なのですが……今日一日だけ、お互いの仕事を交換しませんか?」
「……すみません、意味が分からないんですが。まず目的から聞きましょう。交換して何がプラスになるんですか?」
「ナズーリン、自分で言うのも変ですが、私はあなたにいつも助けてもらっていると思うんです。そのせいでいつも苦労をかけてしまってますから、お互いの仕事を体験してみればそれがいい気分転換になるんじゃないかって思ったんです」
「はあ。それならまず、ご主人様がもっとしっかりなさってくれればいいのではありませんか? そうすれば自然と私の実労も心労も減るでしょうに」
「うぅ、それは……」
ナズーリンが少し意地悪な口調でそう言うと、星はあからさまに悲しそうな顔をした。
それを見てほんの僅かにニヤリと笑いながら、ナズーリンは落ち込んでいる彼女にわざとらしく語りかける。
「でも、ご主人様らしいですね。どこか道筋が間違っているような気はしますが、お気持は十分伝わりましたよ」
「ほんとう、ですか?」
「ええ。それで、どの程度交代すればいいですか? さすがにご主人様に失せ物探しをさせるわけにはいきませんし」
「いえ、お互いの仕事を一日分全て交換しましょう。そうしないと意味ありませんから」
「大丈夫ですか? ちゃんと見つけられないと頼りにしてくれた者に迷惑ですから、くれぐれも気をつけてくださいね」
「ええ、わかってますよ。ナズーリンも、動いちゃ駄目ですよ?」
「ええ、わかって……ます」
ナズーリンの言葉に星は多少不安を感じたが、あまり気にしなかった。
それよりも、自分の提案を彼女が受け入れてくれたことがうれしかった。
さて、お仕事頑張るぞ!
一人気合を入れながら、星はナズーリンが普段いる本堂裏の縁側へと向かった。
部屋でいつもの服に着替えながら、ナズーリンは星の提案をそのまま受け入れてしまったことを後悔していた。
星が心を篭めて考えてくれた提案だから、彼女としてもなんとかそれを受け入れてやりたかったのは事実だ。
けれども、星に意地悪をして楽しんでいた彼女はつい大事なことを忘れていたのだ。
彼女には、本堂で数時間もただじっとしている自信がなかった。
星の仕事は、言うまでもなく毘沙門天の代理である。その具体的な内容はというと、実は特に決められていないのだ。毘沙門天として人々からの信仰を受ける事。それが代理としての仕事であり、何か特別なことをしなければならないというわけではない。
しかしながら、その「何もしないこと」というのがナズーリンは苦手だった。毘沙門天としてじっとしているわけだから、縁側でやることもなくのんびりお昼寝しているようにはいかない。姿勢を正し、ただそこに静かに座し続ける。それは行動的なナズーリンにとって、最早拷問であった。
しかし、仕事を交換する以上彼女が毘沙門天の代理をしなければこの日の信仰はなくなってしまう。そんな事態は彼女のためにも避けなければならない。
仕方ない、と一人呟いて、ナズーリンは本堂へと向かった。
朝の本堂は静寂に包まれていた。
まだ参拝に来る人もおらず、春の木漏れ日が僅かに差す中はとても過ごしやすい空間になっている。
その奥に敷かれた座布団の上に、ナズーリンはゆっくりと座した。
外の入り口から来るとちょうど正面に当たるこの位置には、普通は仏像が置かれていたりする。
しかし、この寺には信仰の対象となる毘沙門天の代理がいるわけで、人々は直接彼女に信仰心を捧げることで毘沙門天への信仰をなす、という形を取っていた。そんな人々が拝みやすいように、星はいつもこの場所に静かに座し、何をするわけでもなくただその信仰を受け止めているのだ。
お互いの仕事を交換したのだから、今日はナズーリンがその仕事をしなければならないのである。“小さな小さな毘沙門天代理”の誕生というわけだ。
何事もないといいなあと思いつつナズーリンは静かに座っていたが、暫く待ってみても人が現れる気配はなかった。
参拝に来る人も時間もそれぞれだから、こうして人がある程度の間やって来ないこともある。
これはチャンスだ。
ナズーリンはそう呟くと、正していた姿勢を崩すとそのまま横になってしまった。
彼女は、基本的に何もしない状態が嫌いである。何か目的をもって活動しているか、或いはのんびりとごろごろ過ごすか。そのどちらかを好む彼女にとっては、誰もいない本堂でわざわざ馬鹿正直に姿勢を正し座している義理などない。
敷いてある座布団を枕にしながら、ナズーリンは目を閉じた。気候も手伝って、彼女の意識は思いのほか早く沈んでいく。
このまま久しぶりの昼寝といこうか。仕事をする気がないわけではないし、ご主人様に申し訳ないことをするわけでもない。それより、こんなきもちのいい天気の中寝ないほうがまちがってる……よ……
パシャッ!!
静かな本堂に響くシャッターを切る音で、ナズーリンは飛び起きた。
反射的に身構えながら盗撮者を見つけようと辺りを見渡すも、その姿は捉えられない。
いくら見渡しても見つからない犯人に、ナズーリンの顔にも不安の色が浮かぶ。
その刹那、彼女の背後から急に声がした。
「はい、こっち向いて!!」
その声には聞き覚えがあった。一度しか会ったことはないが、彼女のしつこさや図々しさはナズーリンの頭に十分すぎるほど焼き付いている。
だから、彼女の言葉に対してナズーリンは手元にあった愛用のロッドのフルスイングで応えた。
はじめから当たると思っていなかったその振りはやはり空を切り、その位置より少し後ろに漸く彼女は姿を現した。
「つれないですねぇ」
「君みたいな失礼な天狗にまともな礼儀を通す必要性なんて皆無だと思うんだがね」
「あやや、そんな事言っちゃっていいんですか? 今私はナズーリンさんのとっても可愛らしい寝顔写真を押さえている訳ですが」
「それなら君も分かっているだろう? 私がその気になれば、君の持っているネガを見つけることなんて容易い。見つかってしまえば、いくらでも方法はある。君の手からそれを奪うなんて簡単さ」
「まあ、そういうことにしておきましょうか。今日は聞きたいこともありますし。もちろん、取材受けていただけますよね?」
そう言うと文は手帖を開き、万年筆を走らせ始めた。
無視してもいいか、と思ったナズーリンだが、どうやら参拝客も来ないようだし文の取材に付き合ってやることにした。
「まあ暇だからね。参拝客が来たらお終いにしようか」
「それそれ、まずはそこですよ! どうしてあなたがここにいるんですか? いつもは星さんがいるはずでしょう?」
「まあ、色々あってね」
「成程。とても他人の耳に入れるのは憚られるような事があって、それでここにいる……っと」
「誤解を招く書き方はよせ! ただ、ご主人様がそう提案してきただけだよ」
「と、いうと?」
「お互いの仕事を交換すれば、いい気分転換になるとご主人様は考えたようなんだ。まったく、ご主人様らしい、とぼけた提案さ」
「ふむふむ、ナズーリンさんはどこかずれている星さんが可愛くて仕方ない……っと」
「い、いい加減なことを書くのは止めてくれないか!?」
「迷惑だと? 本当にそう思ってますか? 先程の感じだと、とても提案を嫌がっているとは思えないんですが」
「それは……まあ……私はただ、ご主人様のためにそうしているだけだ。別に可愛くて仕方ないとか、普段しっかりしてるのに偶に起こすドジが可愛いだとか思ってなんかいないぞ!」
ナズーリンの顔は大分紅潮していた。これなら他人の心情の変化に敏感な文でなくとも、彼女の本心を推し量るのは容易であろう。
そんな様子をニヤつきながら存分に眺めた後、文は手帖を閉じた。
「成程。よく分かりました。ご協力ありがとうございます、ナズーリンさん」
「も、もういいのか?」
「ええ。もうよく分かりましたから。よーく、ね」
そう言うと、文はニヤニヤしながら本堂を飛び出していった。
戦利品を既に手にしていた彼女にとっては、いつも冷静で落ち着いているナズーリンの恥ずかしがる表情が見られただけで十分価値があることだったのだろう。
文のそんな様子を見て、ナズーリンは一つ溜息を吐いた。
彼女が星の事を主従の関係以上に思っているのは、紛れもない事実である。しかしながら、恋人のように愛おしく思っているわけではないのもまた事実であった。
互いに惹かれ合う関係よりも、どちらかというと仲の良い相棒のような関係。そういう位置を、ナズーリンは望んでいた。
だからこそ、文にその事実を知られた事は相当な痛手であった。本当に困ることはしない彼女のことだから、きっとその話を茶化しながら記事にすることはないだろう。しかし、それをネタにナズーリン達に協力を仰ぐ可能性は十分に有り得る。
やれやれ、しばらくはあの天狗に頭が上がらなくなりそうだ、と肩を落としながら、ナズーリンは再び奥に戻っていった。
それから暫くして、ナズーリンは昼食を摂るため本堂を後にした。
食堂に向かうと、そこに丁度星がやって来るところだった。
「ああ、お疲れ様です、ご主人様」
「お疲れ様です、ナズーリン。毘沙門天様の代理はどうですか?」
「正直退屈で困りますね。ただ座っているだけというのも辛いものです。ご主人様の苦労が窺えますよ」
「そうですね、流石にじっとしているのは堪えます。でも、静かに座していると、心が落ち着くでしょう? そうすると色々考えるのにも丁度良くて、有意義な時間ですよ」
「なるほど……ところで、他の皆はどうしたんでしょうね」
「ああ、皆用事で出払っているみたいです。聖は里の集会に呼ばれてらっしゃるし、一輪達は地底でお世話になった方々にご挨拶に行ったそうですから」
「そうですか。なら、早く二人で済ませてしまいましょうか。参拝に来る人がいるかもしれませんし」
「そうですね、そうしましょう」
そう言って星は二人の食器を出し始めた。それを手伝いながら、ナズーリンは感慨深い表情を浮かべている。
以前にも、こうして二人だけで食事をしていた時代があった。星が一人で全てを背負って待っていた頃、ナズーリンはいつも彼女を、彼女の心を支えていた。具体的に何をしたわけでもないが、ただ彼女の傍にいてやることが星には何よりの支えになっていたようだ。
その頃と比べると、ご主人様もよく笑うようになってくれた。ナズーリンがそんな事を考えていると、星が思い出したように声を上げた。
「そうだ! ナズーリン、私でもあなたの仕事を出来そうですよ」
「えっ? いや、それは無理でしょう。ご主人様は失くす方が専門ですから」
「ひ、酷いじゃないですか……私だって、いつも何かを失くしているわけじゃありません!」
「ふふ、分かってますよ。でも、どうやって探すんですか?」
「それはですね、困っている人に私の力を少し分けてあげるんです。そうすると、結果的にその人にいい事が起こる、というわけです」
「ええと……つまり、失くした物を探すのではなくその人に付与した力で宝物を自分で見つけてもらう、と?」
「ええ、そういうわけです」
「なんだかすごく他人任せなやり方ですね……」
「そんなことはありませんよ。さっきだって、老眼鏡を失くしてしまったご老人に力を貸してあげたんですが、探している途中でもう見つからないと思っていたご主人の形見が見つかったって、泣いて喜んでらっしゃいましたよ?」
「でも、結局その老眼鏡は見つかっていないわけですよね?」
「それは、そうですが……」
「でもまあ、ご主人様らしくていいですね、その方法。ちゃんと解決できてないのに、何故か人を幸せにできている。ご主人様でないと出来ないやり方でしょうね」
「な、なんだか褒められている気がしないんですが……」
「ええ、褒めてませんよ?」
「もう、ナズーリン!」
互いに軽口を叩き合いながら、二人は昼食の時間を楽しく過ごした。
自分の求めていた関係に近づけたような気がして、ナズーリンは思わずうれしそうに微笑んでいた。
「さて、そろそろ私は行きますね」
「あ、食器は置いておいてくださいね。一緒に片付けますから」
「でも、それじゃご主人様が」
「気にしないでください。もし参拝したい方がいらしていたら困るでしょう? ですからナズーリンは早く行ってあげてください」
「……わかりました。すみません、ご主人様」
星にそう告げて、ナズーリンは立ち上がる。
ご主人様は何とか仕事をうまくこなしているようだし、彼女のためにも頑張らなければ。
そう心に誓って本堂に向かうナズーリンの表情は珍しくやる気に満ち溢れていた。
本堂に帰ってきたナズーリンを迎えたのは、午前中と何ら変わらない静寂であった。
もしかすると一人くらいは待っている者もいるかもしれない、と考えていた彼女は、なんだか肩透かしをくらったような感覚を覚えていた。
静まり返った本堂で一人座しながら、ナズーリンは先程の星の言葉を思い出していた。
ご主人様なら、こんなときにどうするだろう。静かに座していて心が落ち着くとは言っていたが、いくら彼女でも一日中静かに物思いに耽っているわけでもないだろう。
そういえば、ご主人様とは長い付き合いになるが、お互いに知らない事もまだまだあるものだ。普通の者なら退屈に思ったり嫌がったりする仕事も、彼女は嫌な顔一つせずに引き受ける。そういう時はどういう心境なのかなんて、私には到底分からない。そういった部分も彼女の仕事を経験してみれば何か気づくかと思ったが、やはりそちらに関しては何の収穫もなかった。気にはなるが、本人に直接聞くのも気が進まないし、どうしたものか。
ナズーリンがそんな事を考えていると、境内から本堂のほうに向かってくる人影が見えた。
いよいよ参拝に来たかと彼女は身構えていたが、やって来るその姿を見てすぐにその緊張を解いた。
「ただいまー……あら? 今日はナズちゃんが毘沙門天様の代理なの?」
「おかえり、白蓮。今日はご主人様と一日だけ仕事を交代したんだ。だから今日だけはお互い仕事が逆なのさ」
「へえ、なんだか面白そうね! 私も混ぜてもらえるかしら?」
「いや、君は交換できる仕事を持ってないだろう。白蓮の代わりとして信仰を捧げても意味のないことだし」
「ああ、そうね、残念だわ……あ、でもナズちゃん、今日のお仕事はもうなさそうよ」
「え? どうして?」
「今日はお花見があって、里の皆さんは殆どそちらに行くんですって。だから本堂を閉める夕方になるまでこっちに来る人自体が少ないのよ」
「そうか、通りで午前中も誰も来なかったわけだ」
「だから、ナズちゃんは星のところに行ってあげたら? 探し物の依頼なんてきっと困っているでしょうし。尤も、本堂にも探し物相談にも来る人はいないでしょうけど」
「うーん……」
白蓮の提案を、ナズーリンは素直に承諾できずにいた。
彼女も星の仕事ぶりが気にかかってはいたが、何より気がかりなのは星自身のことだ。いつも真面目な彼女にしてはあまりに急で妙な予感のする提案をしてきたことを、ナズーリンはずっと気にしていた。だから、もう少し彼女に話を聞いてみたいというのが彼女の本音であった。
けれども、今様子を見に行っては彼女に任された仕事を放棄したのと同じ事なのではないかという思いがその気持を妨げている。どんな理由があれ、主に任された事を途中で辞めるというのは彼女には出来ない選択であった。
悩むナズーリンに、白蓮は優しい口調で話しかける。
「行ってあげるといいわ。心配なんでしょう? 仕事だけじゃなくて、あの子本人のことも」
「え? ど、どうしてそれを?」
「だって変ですもの、あの真面目な星が急にお茶目な提案をするなんて。本堂は一応私が見てますから、行ってらっしゃいな」
「……わかった、行ってくるよ。白蓮、ありがとう」
柔らかい微笑を浮かべる白蓮にそう伝えると、ナズーリンは裏の縁側へと急いだ。
白蓮も感じていたのだから、やはりご主人様に何かあったのかもしれない。だとしたら、早く行ってやらなければ。それが、彼女の従者である私の本当の仕事なのだから。
でも、どうか何事もないように。そう願いながら進むその足取りは、自ずと早くなって言った。
「ご主人様!! お話があります、どうか少しお時間を……ご、ご主人様!?」
駆けつけたナズーリンが見つけたのは、縁側に倒れている星の姿だった。
慌てて彼女に駆け寄り、涙目になりながら彼女の名を叫ぶナズーリン。
しかしながら、彼女は一切の反応を示さなかった。
「星! お願いだ、目を開けてくれ、星……どうして、どうしてこんな……」
ナズーリンの心には後悔の念が渦巻いていた。
もう少し早く彼女の異変に気づいてやることが出来ていれば、こんな結末を迎えずに済んだのに。主の力になれないとは、自分はなんて駄目な従者なんだ。
いくら嘆いても、彼女はもう戻ってこない。彼女はもう――
その時、星の体がぴくりと動いた。
びっくりしてナズーリンが彼女の顔を覗きこむと、彼女はそれはもう気持良さそうな表情をしていた。
なんていい表情だ、と感心していたナズーリンは、星の口元に光る筋があるのに気がついた。
それを見た瞬間、ナズーリンは一つ大きく溜息を吐くと、掴んでいた星の体を離して温かい陽だまりの篭る床に寝かせてやった。
そう、ナズーリンが勘違いしただけで、星はただ眠っていただけだったのだ。
力が抜けたようにペタリとその場に座り込みながら、ナズーリンは星の寝顔を見つめていた。
とりあえず、大事ではなくてよかった。あれだけ呼びかけても気がつかなかったのが気になるが、おそらくそれだけよく眠りに落ちていたからだろう。
しかし、そこまで深い眠りにつくということは、それだけ疲れが溜まっているということになる。
もしかすると、これが彼女の急な提案の理由なのかもしれない。
彼女はいつも真面目だから、疲れても誰にも言わずにずっと頑張ってきたのだろう。だから余計に疲れを溜めてしまって、それでも疲れたなんて言い出せないからどうしようもなくて。それの繰り返しで、きっとご主人様は自分でも耐え切れないような疲れを溜めてしまっていたのだろう。
今回の提案は、そんな彼女が無意識に出していたサインだったのかもしれない。いくら彼女でも、毎日同じ事をただやり続けるのは苦痛になっていたのだと思う。なんとか息抜きがしたくて、あんな事を言い出したに違いない。
そんなふうに思って、ナズーリンは星の頬をつついてみた。彼女の頬は程よく弾力があって柔らかく、ナズーリンの指に心地良い感触を返してくる。
「まったく、君は本当に困ったご主人様だね。言ってくれれば、色々助けてやれるのに」
「ふにゃー……ナズーリン……」
寝言で頼られても困るよ、と寝惚けた星に言いながら、ナズーリンは星に体を寄せた。
温かな陽だまりに心まで温められて、彼女は静かに寝息を立て始めた。
夕方になり柔らかい日差しがなくなった頃、二人は本堂へと向かっていた。
「すっかり遅くなってしまったじゃないですか! ナズーリンが起こしてくれないからですよ!」
「私のせいですか? そもそもご主人様が寝ていたからいけないんですよ。あんな気持のいいところで寝ているから、私もつい魔が差して一緒に寝てしまったんです」
「だって、依頼に来る方もいないし、あんまり気持いいものだから……で、でも、ちゃんと仕事はしていましたよ?」
「ああ、例の解決にならない解決法ですか?」
「むぅ、そういう言い方しないでくださいよ」
「あらあら、二人とも遅かったわね」
二人が前を見ると、白蓮が本堂のほうからやってくるところだった。
「すみません聖、結局お手を煩わせることになってしまって」
「いいのよ星、それよりあなたが元気になってくれてよかったわ」
「え? 別に私、普段と変わってませんけど?」
星の反応を見て、やはり彼女は自分が気分転換したいが故にあの提案をしたわけではないのだとナズーリンは確信した。
全部一人で背負おうとする彼女を少しいじらしく思いつつもそんな彼女が気に入っているナズーリンは、いつもと変わらない口調を意識しながら言う。
「そんな事はないでしょう。私は楽しかったですよ、毘沙門天様の代理も」
「ああ、そういう事なら私もいい気分転換になりました」
「さて、そろそろ夕飯の準備に行きましょうか。地底に行った三人も帰ってくるでしょうし」
二人の様子を見てニコリと笑うと、白蓮は先に食堂へと歩いていってしまう。どうやら彼女なりに気を遣ってくれているようだ。
その姿を見送った後、ナズーリンは星に静かな口調で訊ねた。
「ご主人様、困ったことがあったら気兼ねなく何でも言ってくださいね」
「え? どうしたんですか突然」
「基本的にご主人様は何でも一人で背負いすぎなんです。もう少し私を頼ってくれていいんですよ。主に頼られないで、従者だなんて言えませんから」
「で、でも……」
ナズーリンの言葉に、星は少々言い淀んでいるようだった。
それが心配させまいとする彼女なりの心遣いから来るものであるとナズーリンは知っていたから、アプローチの方法を変えてみることにした。
あの時と変わらない、互いが自然体でいられる口調でならば、彼女も気兼ねせずに私の思いを聞いてくれるだろう。
そう考えて、ナズーリンは更に落ち着いた口調で話し始めた。
「……君は真面目すぎるんだよ。いつもしっかりしていようと頑張りすぎて、それが失敗するとひどく落ち込んで。もう少し、肩の力を抜いてもいいんじゃないかな? だらしなくしろ、とは言わないが、偶にはゆっくり休むことも必要だよ」
「でも、私が休んだら参拝にいらっしゃる人達は……」
「だけど君が参ってしまっては元も子もないだろう? ほら、休日は遊覧船の関係で本堂がなくなるわけだし、そういう日には休みを取っていいんじゃないかと思うよ、私は」
「そう、ですかね」
「ああ。だからもう、あんなに疲れを溜めるような無茶をしないでくれないか」
「ええ、わかりました。すみませんナズーリン、心配をかけてしまって」
「いいんですよ。主従の関係に遠慮なんて要りません。お互いに頼りあってこそでしょう?」
口調が変わった瞬間星は少し残念そうな顔をしたが、すぐにナズーリンの言葉に答えた。
「そうですね。じゃあ早速ですがナズーリン、今夜のおかずはハンバーグにしたいのですが」
「ええ、ばっちりお手伝いしますよ」
そう言いながら二人は食堂へと歩いていく。
どこかうれしそうなナズーリンを見つめながら、星は思わず笑みを零していた。
せっかくのお休みだし、思い切ってナズーリンを誘ってみようか。
それにしても、ナズーリンは本当に私のことをよく見ていてくれる。本当にありがたい従者だ。
私がしっかりしていられるのは、ただの妖怪でしかない私が毘沙門天様の代理などという重圧に耐えていられるのは、何より彼女が色々なところで支えていてくれるからだ。現に今も自分では気づかずに無理をしていた私に気づいて、彼女は私が疲れを溜めないように考えてくれた。
今では二人きりでいたあの頃のように名前で呼んでくれないけれど、彼女の態度もその心も、あの時とまったく変わってない。
だから、ありのままの彼女を、私は大切にしたい。
従者というより、私にとって彼女はもう大切な存在になっている。お互いを思いやりで満たしながら、彼女とずっと一緒にいたいなと思う。そのためにも、無理せずにいっぱい頑張ろう。他でもない、あなたのために。
ありがとう、ナズーリン。
そう心の中で呟いた星の顔は、いつも以上に温かな微笑で輝いていた。
ちょっと無理やりな所があった気がするのは気のせいですねわかります。
ナズ星GJ!!
いや、二回言ったのは別に大した意味はありません。
やんわりと暖かい話、ありがとうございました。