「うわっ、汚っ」
私の家にやってきたアリスの第一声は失礼極まるものであった。全く、私の研究成果が見たいというから招いてやったというのに、なんという言い草だろうか。
「またえらく礼儀のなってない都会派がいたもんだな? まあ座れよ、茶でも出そう」
「うん、ありがとう」
妙に素直に礼を言われたものだから、もう一つ二つ皮肉を言ってやろうと思っていた気持ちが失せてしまう。妖怪というのはこういうところで拘りがないからやりにくい。
たまの来客ということで、せっかくだからと幻想郷では珍しい紅茶を淹れることにした。これは咲夜から先の宴会のときに貰ったものだが、機会がなかったもので私も今日初めて飲むことになる。
湯を沸かしている間、アリスは興味深そうに家にあるものを見回していた。暫くして、アリスは何かを指差して私に声をかける。
「ねえ魔理沙。この本って、あなたのもの? 結構なレア物だと思うんだけど」
見てみると、それは紅魔館の地下にある魔法図書館から借りてきたものであった。
「ああ、それは借り物だな。パチュリーからの」
「え? あの図書館って本の貸し出しもやってるの? だけどこの前――」
「おう、私のような才能ある後進の魔法使いの育成のために蔵書を開放してるんだとさ」
何だかこのままだと話がややこしくなりそうだったので、私は適当に話を切り上げようとする。しかしアリスは何かに気がついたという様子で私をにらみつけて言った。
「この前パチュリーが、最近ネズミが蔵書を荒らして困ってるって言ってたんだけど、もしかして……」
なぜ私の知り合いには霊夢といい勘の鋭い奴が多いのだろうか。面倒なことになったなと思いつつ、私はいつもの決まり文句を口にする。
「死ぬまで借りてるだけだぜ。いいだろうが、私の寿命なんてお前たちにしてみたらあっという間だろう?」
「……まあそうだけどね」
アリスはもうそのことには興味を失ったという顔で再び家にあるものを物色し始めた。アリスがあまりにあっさりと引き下がったからか、私は少し拍子抜けするとともに何か釈然としないものが心に残ってしまった。
そうこうしている間に湯が沸き、やかんがぴいと音をたてる。私は紅茶の葉を急須に入れ、少しだけ湯が冷めるのを待つ。霊夢に教わった、美味しいお茶を入れる秘訣だ。
「急須から紅茶が出てくるのってちょっと不気味ね」
「本当に口の悪いやつだなあ。せっかくこの魔理沙さんが淹れてやったんだからありがたく飲め」
「ええ、頂くわ」
さっきとまるで同じようなやり取りが繰り返され、何だか馬鹿にされているような気持ちになる。嫌な気分を忘れるために私は一口紅茶を啜った。
「あら美味しい」
アリスが感心したように声を漏らす。私もまた、緑茶派としての矜持が揺らいでしまいそうになっていた。
「まあ八十……八十五点ってところだな。紅茶も中々美味しいじゃないか。緑茶には適わんが」
「それにしても紅茶なんて。人里にはよく行くけどどこにも売ってなかったのよ。どこで買えるの?」
「うん? ああ、紅魔館だよ。この前ちょっとだけ貰ってな。中々飲む機会がなかったんだが、丁度よかったよ」
「じゃあこれも盗品?」
本当に何気ない表情でアリスが言った。ここまで無表情に嫌味を言えるものだろうかと私は内心眉を顰める。
「違うよ。この前の宴会の時に咲夜に貰ったんだ。まあ私の人徳の為せる業だな」
「ああ、そう」
適当に軽くあしらわれたような気がして、私は無性に腹が立った。別にそれほどのことでもないだろうと頭では理解しているのだが、私は何とかしてアリスをあっと言わせてやりたいと思っていた。
「おい、アリス。それで私の研究成果が見たかったんだろ? 奥の研究室に色々あるから、飲み終わったらそっちに行こう」
そう、私の研究はアリスやパチュリーのものに引けをとらないと自負している。これならばアリスを驚かせてやれるだろうと思い、早く見せてやりたくてうずうずしていた。
「紅茶くらいゆっくり飲ませてよ。別に焦るようなことじゃないでしょ?」
どうやら墓穴を掘ってしまったらしい。私が焦っていることまで見透かされている。私は顔が赤くなっているのを悟られないために紅茶を冷ます振りをして誤魔化した。
「うん、ご馳走様。それじゃああなたの研究、見せてもらおうかしら」
漸く飲み終えてアリスが言った。私はアリスを伴って研究室の戸を開ける。
「流石にこっちは綺麗にしてるのね……あ、これってもしかしてこの前言ってた外の世界の機械を使ってるってやつかしら?」
前半が少し癪に障ったが、あるものを見つけて目を輝かせるアリスを見ると、さっきまでの嫌な気分が吹き飛んだ。私は得意になってそれの説明をする。
「ああ、それは『除湿機』っていう空気中の水を集める道具を使ったものでな。この瓶があれば近くに川なんかがなくても、空気から綺麗な水が作れるんだぜ。それから、こっちは『冷蔵庫』から作った魔法触媒だな。八卦炉に仕込んで冷気の魔法なんかも理論上は使えるはずだ。それはまだ実験段階だが」
「空気中の水……? 結露みたいなことかしら。うん、これは大したものだわ。外の世界の機械そのものもだけど、こういう発想は私にはない。呪術的なものかしら」
「ふふん、もっと讃えたまえ。まあ香霖が八卦炉に『空気清浄機』ってのを仕込んだってのがアイデアの元だけどな、理論を体系化するまで結構苦労したんだ」
私はその他の研究成果についても説明する。アリスは興味深そうに、また時には感心したようにそれらについての感想を口にした。私はその度にとても誇らしい気持ちになった。やはり自分の努力が認められるというのは何物にも代えがたい快感である。
「……あら? これは何? えらく厳重に封をしてあるけど」
私がすっかり上機嫌になったころ、アリスは目ざとく一つの木箱を見つけ出した。見てみると、そこまで古いものではないようで、また箱の上の張り紙には『失敗作』と書かれている。封を破って開けてみると、中には小さな枇杷ほどの大きさの丸薬が入っていた。
「ああ……思い出した。今年の冬に家に篭って作った仙丹だ。作ったはいいがでかいわ堅いわで飲み込めなくてな。捨てるのも勿体ないしとりあえずとってあるんだ」
「仙丹……っていうと不老の薬? そんなもの何のために作ったのよ」
「そりゃあ、自分で飲むためさ。研究の時間がいくらでも取れるってのはやっぱり魅力だからな」
発想の閃きが肝という類のものならともかく、長期的な研究が必須となるようなマジックアイテム作り――特にパチュリーの賢者の石などがそうなのだが、それはやはり妖怪に分があると言わざるを得ない。人間に与えられた時間は限られているのだ。しかしアリスはその答えが意外だったとでも言いたげに、目を見開いて私を見つめてきた。
「私はてっきりあなたは人間を辞めるつもりはないんだと思ってたんだけどね」
「そりゃまたどうしてそう思ったんだ?」
「んー? 死ぬまで借りる、とか、私は普通だ、とかいつも言ってるからさ。人間として死ぬつもりなのかなって」
「そ、それはあれだ。言葉のあやってやつだ。もし人間を辞めることになったら借りてるものはすぐ返すつもりだぜ」
「ふーん。でもさ、本気でそう思ってるなら捨食の魔法は使わないの? なんだかんだで才能あるし、五年……いや、三年も集中すればあなたなら習得できると思うけど」
その話をしている間、なぜか心がズキズキと痛んだ。才能がある、と褒められたことさえ殆ど耳に入っていなかった。考えてみれば、そのことは無意識に考えないようにしてきたような気もする。この仙丹だって、今見ると無理をすれば飲み込めるように思えた。それなのになぜすぐに飲もうとしなかったのだろうか。あるいは気がついていないだけで、自分は人間であることに拘っているのか?
「えっと……何だ、三年も一つのことにかかずらわってられるほど暇じゃないんだよ。その間色々研究したいことだってあるし」
「暇ってあなた、寿命さえなくなればいくらでもできるでしょう? それに、捨食の修法だってそれをしてる間他に何もできないってわけじゃないし……」
私は的外れなことを言って誤魔化そうとする。アリスはなおも疑念めいた視線を送ってきて、私はいたたまれない気分になって目をそらした。
「……まあいいわ。別に好きにすればいいことだし。私が踏み入るようなことじゃあないわよね。ごめん」
アリスが話題を終わらせ、再び私の作ったものに視線を移す。正直ほっとはしたが、妙にもやもやしたものが胸に渦巻いていた。
「それじゃあ今日はありがとうね。人形作りの参考にできそうなものもあったし、楽しかったわ。またいつか暇があったら私の家にも来るといいわよ」
アリスが帰ったあとも、私の気分は晴れなかった。一度気にし始めると、胸のもやもやは大きくなる一方で、何だか心が潰れてしまいそうな感じがした。
「捨食の魔法、か……」
誰に聞かせるともなく呟く。それを今すぐ習得しようとしないということは、少なくとも自分の中に人間を辞めることに対するためらいがあるのだろう。それは自分でも意外だったし、何がそうさせるのかもわからなかった。
いや――きっとわかっているのだ。ただ、それをはっきりと言葉にして認識することが怖ろしいのではないか。そうしてしまうと、自分の弱さをまざまざと見せ付けられてしまうのではないだろうかという、漠然とした不安があった。そして、きっと実際そうなのだろう。
それでも何か答えが欲しくて、私はできるだけ核心に触れないように思考を進める。
私は寿命をなくし、時に縛られることのない研究を望むか? これは間違いない。魔法使いとして無限の研究時間というのは他に代えがたい魅力的な代物である。
では、私は人間であることに拘っているのか? 確かに人を辞めてしまえばもう後には引けない。それが少しだけ怖ろしくはある。しかし私が『霧雨魔理沙』であることは変わらないのだ。その前には種族の差など大したことではない、と私は思う。例えば仮に霊夢が人間を辞めたとして、それで私たちの友情がなくなってしまうかと聞かれれば、自信を持って否と答えられる。
ならば、人間を辞めた先、いつか何もかもに飽きてしまうことを怖れているのだろうか? ……それは確かに怖ろしい。人間であるからこそ今を楽しめているのではないかとは思う。私に人間を辞めることをためらわせているのは、このことかも知れないと思った。だがだとすると――
「結局私が臆病なだけ、か」
きっとその結論も核心ではないと心のどこかでは思いつつ、ひとまず納得する。言い訳の結論でさえ自分が臆病であることを認めなければいけないという事実に私は苦笑した。
「もういいや。今日は寝よう」
明かりを落とし、布団をかぶる。本当の答えを見つけることから逃げ出すために、必死で頭を空にして、私は眠りについた。
「くくく。つくづくあんたは人間だなあ」
朧になった意識にそんな声が聞こえた気がした。
*
次の日の朝――というか、寝つきが悪く、起きたらすでに昼頃になってしまっていたのだが、私は香霖堂に足を向けていた。一人でいるとやりきれない気分になってしまうが、霊夢やアリス――友人たちに会いに行くのは気が引けたからだ。勿論香霖堂でばったり出くわすということもあるかも知れないが、偶然会っただけというならまだ自尊心が保たれる。寂しくて会いにきたのだなどと思われては気恥ずかしい。
「しかし、今日はえらく涼しいな」
真夏だというのに、少し肌寒いほどである。今日の魔法の森は普段と比べても随分と霧が深く立っていた。沈んだ気分ごとうだらせてくれるような暑さを期待していたので、少しだけ落胆する。
――それにしても、香霖に会っても何を話せばいいだろう?
正直、この悩みの話は今はしたくない。かといって、それを忘れていつも通りに振舞えるかと聞かれると、首を横に振るほかなかった。それにあいつは朴念仁のくせに妙に鋭いことがあるから、この悩みも見抜かれてしまうのではないだろうかという不安もある。
――やっぱり帰ろうかな。
臆病風に吹かれて足を止める。それでも一人でいるのは嫌で、私は何も決断できないまま呆然と立ち尽くしていた。
「昨日から随分とお悩みのようじゃあないか、お嬢ちゃん?」
突然、どこからともなく声が聞こえた。私は身構えてポケットの中のミニ八卦炉を握り締める。そうしていると、魔法の森を覆っていた霧が一箇所に集まっていき、頭に大きな角を生やした少女を形作った。
「お前は――確か」
「萃香、伊吹萃香よ、臆病者の魔法使いさん」
その少女は、ついこの間に起こった異変の犯人だった。彼女は幻想郷からは既にいなくなってしまったはずの、鬼の一族なのだという。その彼女が、私に一体何の用だというのだろうか。
「そう身構えないでおくれよ。私はただ親切にも、あんたを悩ませてるものを教えてやろうってんだ」
私はその言葉に息を呑む。なぜこいつがそんなことを知っているのだろうか。そんなはずはないと思いつつ、私は目の前の少女が発する妙な威圧感に圧倒されていた。
「……何のことかわからんな。魔理沙さんに悩みなんてないぜ」
「くくく、本っ当に嘘吐きねえ」
虚勢を張る。しかし彼女の目ははっきりと私の心の内を見透かしていた。私はその目が怖ろしく、直視できないでいた。逃げ出してしまいたいが、足がすくんで動けない。
「あんたのことはよおく知ってる。ずっと見てきたからね。今だって本当は逃げ出してしまいたいんだろう? 今まであんたがそうしてきたように」
その言葉は私の胸を貫き、声を奪った。駄目だ。こいつは本当に何もかも見通している。私の心の奥深くに巣くったものを、はっきりと見透かしている。
「さて、本題だ。何があんたを苦しめているのか、あんたの胸を締め付けている鎖は何なのか」
嫌だ、聞きたくない。私は弱くなんかないんだと信じていたい。しかし耳を塞ぐことさえできず、私はただ立ちすくんでいた。
「あんた、怖いんだ」
鬼が言葉を紡ぎだす。冷たくもどこか湿り気のあるその声は、私の心臓を鷲掴みにした。
「人を辞めてまでして、それでも皆に追いつけなかったらどうしようかってことが怖くて怖くてたまらない。人間のままでいれば、敵わなくても仕方ないって言い訳できるからね。だけどそのせいで、たまに他の連中と勝負して勝ったり、誰かに褒められたとしても、心の奥のほうではもしかしたら手を抜かれてるんじゃないかとか、本当は馬鹿にしてるんじゃないかなんて疑ってる。あんたはどんな成功をしても、心の底から満たされたことはない」
「ち……が」
「違わないわよ。……そのくせ自尊心だけは人一倍強いから、他人の視線が気になって仕方ない。自分なりに努力は精一杯してるつもりだけど、人を辞めないってことが自分の怠惰の表れだと感じてる。だからそこに突っ込まれるのが嫌で逃げ出してしまう。だけど逃げてばかりいる自分自身が嫌いで嫌いで、深く考え出すとどこまででも落ち込んでしまうから、自分を保つために必死で軽薄に生きている」
顔が熱い、胸が痛い。彼女が言ったことはどれも本当のことだった。私は声を出すと泣き出してしまいそうで、一言も喋れないままでいた。
「……さて、魔理沙よ。これがあんたを苦しめていたものの正体だ。自らの弱さを認められぬ傲慢が生んだ心の中の怪物だ」
「……るさい」
「うん?」
「うるさいんだよ! お前に私の何がわかるっていうんだ。人の弱さを暴き立てて、何が楽しいんだ! 私だってなあ、こんな弱い自分は大っ嫌いだよ。だけど、そんなこと言われても、すぐに強くなるなんて無理だろうが!」
心の堤防が決壊する。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、私は思いの丈を叫んだ。
「怖いものから逃げ出して何が悪い。努力が足りないなんて言われてもなあ、私は一生懸命やってるんだ。それのどこが悪いんだよ!」
そこまで吐き出すと、少しだけ心が軽くなった。ただの言い訳を並べ立てて心が安らぐ自分自身にさえ腹が立ったが、それでもほんの少しだけ落ち着くことができた。鬼の少女はそんな私を見て話を続ける。
「悪かあない。それに努力が足りてないなんて誰も思っちゃいないわよ。……そうさな、魔理沙よ、我らは人間を喰うものだが、人間の一等美味いのは何かわかるかね?」
「いきなり何の話だよ、馬鹿にしやがって。人肉のどこが美味いかなんて聞きたくもないぜ」
「人肉ぅ? ……あー、かかか。そっかそっかそう考えるわな。悪い悪い。うん、肉は美味いね。次が敗北感でその次が恐怖ってところかな? そいつは今日たっぷりと味わわせてもらったが」
「……どういうことだよ」
「心まで合わせて人間だってことだ。さて、しかしどれも一番じゃあない。人間で一番美味いのはね」
少女はそこまで言うと一旦言葉を切り、私の胸に拳を当てた。私はそれを振り払おうとするが、異常な力で動かない。彼女は再び口を開く。
「勇気だ」
「ゆう……き」
それは私から一番遠いところにある言葉だ。そんな話を聞かせて、こいつは何のつもりなのだろうか。私をからかっているだけのようにしか思えなかった。
「人の勇気は我ら鬼を酔わせる美酒。生憎私はまだ喰ったことはないが、親父や星熊のおっちゃんがよく言っていたよ。あれが喰えるなら命だって惜しくはないってね。……私はそいつを味わってみたいのさ」
「だったら何で私なんかのところに来るんだよ! こんな弱虫が勇気なんて、笑い話にもならないぜ」
「ああ、私もそう思う。なあ魔理沙、私はあんたが大っ嫌いなのよ。嘘吐きで、自分勝手で、臆病で、卑怯なあんたのことがね。……だけど、そんな奴が見せるんだそうだ。とびっきりの勇気ってやつを」
真っ直ぐに見つめてくる彼女の目が、一切の偽りがないことを雄弁に語っていた。私は、以前彼女が鬼は嘘を吐かぬと豪語していたことを思い出す。
「勇気ってのは恐怖を乗り越える一瞬の輝きだ。その為にはまず自分の闇と向き合う必要がある。妖怪連中はそもそも怖がらないし、霊夢は諦めが早すぎるのよ。人里に行けば骨のあるやつもいるんだろうが、とりあえず知り合いの中ではあんただけだったからね」
「……何がだよ」
「鬼退治の英雄になれるのが」
期待を込めた目が私を見つめる。これほど私のことを買ってくれているというのは、ほんの少しだけ嬉しかった。でも――
「……無理だよ、そんなの。私は――」
「まあ無理なら他を当たるさね。あんたは期待されすぎると潰れちゃうからね。気楽に考えてくれりゃあいい。心の闇を真っ直ぐ見据えて、折れずにいられる奴なんてそうはいない」
そうだ、他にも沢山いるはずだ。私なんかより勇気のある人間は。こんな私に、英雄になれなんて、あまりに無責任じゃあないか。
「だがもしもあんたが、それを調伏できたなら、そのときはまた私のところへ来ておくれ。そして、一等美しく輝いた勇気を、私にご馳走しておくれ」
「……そんなことのために、無理矢理人を心の闇に向き合わせて、それで満足かよ。私が、私なんかが、英雄になんてなれるもんかっ!」
私は走って逃げ出した。恐怖から、そして、現実から。鬼の少女が後ろで何か言っている。構うものか。今の私には関係ない。
「魔理沙よう。何でそんなものを怖がらにゃあならんのか、本当にあんたが怖れているのは何なのか、ようく考えてみることだな」
家にたどり着き、すぐに鍵をかける。誰にも会いたくない。こんな顔は誰にも見せられない。
「うっ……く。ちくしょう。う、ひっく」
涙がどんどん溢れ出してくる。悔しいのか、悲しいのか、怖いのか。それすらもわからないが、私はただただ泣いた。
「馬鹿に、馬鹿にしやがって」
どんなに努力しても、いつでも誰かがその一歩先を進んでいる。その度に、自分がしていることは無意味で滑稽なだけのことなんじゃないかと思ってしまう。それでも無意味なんかじゃあないと信じて努力するしかないのだ。それはわかっている。それでも怖いのだ。結果が出せないのは努力が足りなかったからだと、誰かに指摘されるのが怖い。だからその傷を浅くするために、誰かに言われるより先に自嘲してみせる。私は、いつでも言い訳を考えて生きている。
「わかって、るんだよぉ。そんな、ひっく、ことくらい」
こんな自分が大嫌いで、変わらなくちゃいけないと思っている。それでも変われない。簡単に変わってしまえるほど私は強くないのだ。それに――それは自分の今までを否定することだ。私は意地汚くも、今までの自分にしがみついていたがっている。私のこれまでが無意味だったなんて、そんなこと認めたくない。
「もう、嫌だ。もう……もう」
私は泣き疲れて、そのまま眠りに落ちていった。誰もいない暗闇の中で、このまま静かに消えてしまいたいと願いながら。
*
目を覚ますと真っ暗だった。どうやら夜中に目を覚ましてしまったらしい。実はあの後そのまま死んでしまっていて、あの世に来てしまったのだったらいいのに、などと益体もないことを考える。
「……お腹、空いたな」
その期待とも不安とも取れない感情は、ぐぅと鳴いた腹の虫に裏切られた。どんなに気持ちが沈んでいても腹は減る。そのことを恨めしく思いながらも、私は八卦炉を使いランプに火を灯して台所に向かった。
「南瓜があるな……煮物にするか」
包丁を取り出して南瓜を食べやすい大きさに切っていく。とんとんとん、と乾いた音が薄暗い部屋の中にこだました。
不意に、怖ろしい感覚が私を襲った。刻まれる南瓜たちが、私に怨み言をぶつけてくるのだ。こんなところで死にたくなかった、もっと生きたい――と。
――こいつらも、折角ならもっと一生懸命生きてる奴に食べられたかっただろうな。
自分の人生に対する不実さを省み、私は自嘲する。結局食べるつもりには変わりないのにそんなことをするのは、それこそ食物に対する冒涜ではないだろうかと思いながら。
「ごちそうさまでした、と」
米を炊く気力すらなかったので南瓜の煮物に、作りおきの干飯だけの簡単な夜食を済ませる。ひとまず腹は膨れたが、気持ちは一向に晴れる予感もなかった。
――どうして私は魔法使いを目指したんだっけ。
揺れるランプの灯を見つめながらそんなことを考える。私には導いてくれた師がいた。そして今は私のことを認めさせたいライバルたちがいる。だけどそもそも魔法使いを目指した理由は何だっただろう? そんなことを考える。
自分の弱さはもう痛いほどに突きつけられた。今なら、弱さを覗き込むことを怖れずに考えることができるんじゃないだろうか。
――初めは、そうだ。悔しかったから、だったような気がする。
十歳くらいのときに、父と大喧嘩をした記憶がある。道具屋の娘として生きるのが幸せなんだと言われて、酷く悔しかったような記憶がある。私は私の好きなように生きるんだと、父に怒鳴っている小さな私が脳裏に浮かんだ。父は売り言葉に買い言葉で、私に向かって、勘当だ、などと叫んでいる。それから家を飛び出して、魔法の森に迷い込んで野垂れ死にそうになっていたところを師に拾われたのだ。
――いや、違うな。そのときはまだ――
少しずつ記憶が鮮明になってきた。その時は、この近くに香霖堂という家があるはずだと言って送ってもらったのだ。悪霊に手をとられてやってきた私を見た香霖は、随分と驚いていた。
――その後、こっぴどく叱られたっけな。
命を粗末にすることだけは絶対にしてはいけないと、香霖が珍しく感情を露にして怒っていた。本当に、よくあの時死なずに済んだものだ。今、消えてしまいたいなどと思ったことを少し香霖に申し訳なく思った。
それからしばらくの間、香霖堂で暮らした。確か霊夢と出会ったのもその頃だったはずだ。それから何かの切っ掛けがあって、あの時の悪霊に弟子入りしようと思い立ったのだ。
――その切っ掛けが、何だったかな……?
深く、深く自分の心を探る。たどり着いた原風景は、香霖堂の窓から見える、夜天を彩る沢山の星屑だった。
そうだ、思い出した。私は、星になりたかったのだ。沢山あるうちのたったの一つ。しかしどれが欠けても同じ夜空を見ることはできない。そんな世界の彩りに、私はなりたかったのだ。
大好きな星空の魔法を使う、そんな素敵な魔法使いとして輝きたかったのだ。
少し、星空を眺めようとして、私は外に出る。鬱蒼と茂る植物が邪魔でよく見えなかったので、立てかけてある箒にまたがって、屋根の上に登った。
「ああ……」
見上げると、満天の星空だった。東の空には綺麗な半月が浮かんでいる。その夜空は、何の打算もなく心から美しいと思えた。
一つ一つの星々が、世界に彩りを加え、そして大きな夜空を作り上げる。それはこの世界の縮図のようにさえ思われた。
――でも、と私は暗い考えに囚われる。少し前、パチュリーの所を訪れたとき、私は星についての外の世界の知識が書かれた本を見つけた。それが先日、アリスが目ざとく見つけた本だったのだが――その本によると、空の彼方からこの地上まで届くほどの光を放てる星というのは、ごく僅からしい。恒星と呼ばれる太陽の仲間と、地上からほど近くにある大きな星――たったのこれだけで、この夜空はできている。そしてその何千倍何万倍、いや、もっと沢山の数の星が、この空の彼方に浮かんでいるそうだ。
ならば、私はその輝けない星なのだろう。あってもなくても変わらない、意味もなくただ浮かんでいるだけの星。どんなに必死で輝こうとしても、決して誰にも省みられることのない、孤独な存在。
「……ははっ」
もう笑うことしかできなかった。よくもまあここまで悲観的になれるものだと自分でも感心する。そのくせ心の奥では、優しい誰かがやってきてこう言ってくれるのを待っているのだ。
そんなことはない。お前は眩しいくらいに輝いている、立派な星だ――
つくづく嫌な奴だと思う。自分からは何もしないくせに、他人に認めてもらいたい褒めてもらいたい愛して欲しい。こんな卑怯者を愛してくれる人なんているわけもないのに。
「本当に、あいつの言ったとおりだよな。嘘吐きで自分勝手で、臆病で卑怯で……何が、勇気だよ」
涙がぽろぽろとこぼれる。美しい夜空もにじんで見えなくなってしまった。生温い夜風に吹かれながら、私はただ泣いていた。
*
それから五日ほど、、一歩も外に出ずに無為な時間を過ごした。魔法の研究さえ何だか空しいことのように思えて、ただ寝ては覚め、腹が空いては少しだけ物を食べる、そんな意味のない私に相応しい意味のない時間を過ごした。
ベッドの上で膝を抱えて、延々と自虐を繰り返す。誰かに会いたいとは思うが、こんな私を見られたら、きっと嫌われてしまう。それが怖ろしくて誰にも会いにいけないでいた。
そのとき、突然家のドアノブを回す音が聞こえた。続いて酷く聞きなれた、あっけらかんとした友人の声が聞こえてくる。
「おーい、魔理沙ぁー。いるんでしょー? ちょっと入れてよ。あのさ、この前すんごい美味しいお酒貰っちゃって、今日開けてみたんだけどほんっと美味しくってさー。舌が蕩けちゃうみたいで。一人で呑むの寂しいからさ、一緒に呑もうよー」
霊夢、だ。私の胸に喜びと恐怖が綯い交ぜになった奇妙な感情が湧き上がった。
会いにきてくれた。こんな私を、わざわざ訪ねてきてくれた。そんな喜びと同時に、霊夢が求めているのはきっと今の私ではないだろうという思いと、今の私を見て落胆されるのではないかという怖れがあった。それと同時に、美味い酒があるという言葉にさえ心が動かないということに驚愕した。今の私は、酒ですら満たされないらしい。これでは酒に酔って現実逃避することさえできないではないか。
霊夢はなおもドアを叩き続けている。私は結局恐怖に負け、霊夢に応えることができないでいた。
「あれー? いないのー? ……霖之助さんのとこかな?」
そう言って霊夢は立ち去っていった。私は胸を撫で下ろす。しかし同時に寂しさもあった。無理やりドアを蹴破って、ここから連れ出して欲しいという気持ちがあったのだ。勇気を出せない私の代わりに、手を引いて私を外に出して欲しかった。
臆病者め、と私は自虐する。誰かに手を引かれなければ外にも出られないのか。そんなことを考えていると、やはりこんな自分を見れば誰もが私のことを嫌いになるだろうな、という実感が起こり、やはり外に出なくてよかったという風にも感じてしまうのだ。
結局私は人に嫌われたくないだけなのだ。皆に私のことを好きでいて欲しい。大切にされたい。普段人のものを平気で盗む人間が何を言うのだと思われるだろうが、私はいつでも、きっと笑って許してくれるはずだなんて甘えているのだ。だから平気で人の嫌がることができてしまう。考えてもみろ、誰がこんな卑怯者を好きでいてくれる? 私は変わらなければならないのだ。前向きで、いつも笑顔で、魔法の研究に真摯に取り組む、真面目で一途な魔法使いに。
私は研究室の扉を開け、仙丹の入った箱を取り出した。蓋を開けるとあの時の『失敗作』が姿を現す。しかし改めて見てみると、やはり少し苦労はしそうだが、何とか飲むことはできるように見えた。
そうだ、私はここで人を辞めるのだ。そしていつまでも輝ける星になる。そう決意した。
箱の中から仙丹を取り出す。指先が少し震えていた。何が怖いというのだろう。これを飲めば私の望むものは全て手に入る。それの何を怖れればいいというのだろう。
仙丹を持った手を口元に近づけていく。ほんの少しの動作だったはずなのに、随分と長い時間が流れたように感じる。それは実際にゆっくりとしか手を動かせなかったからなのか、それともその動きがもたらす結果を怖れていたからなのか。
唇に仙丹が触れ冷たい感触が走る。その瞬間、私はなぜかとてつもない吐き気に襲われた。胃から酸っぱいものがこみ上げてくる。それを丸ごと床にぶちまけると、どうにも嗚咽が止まらなくなった。
「お、え……っ。何だ、なんで、なん……っ」
涙があふれて止まらない。なぜだ。私の決意なんてものはそんなにちっぽけなものだったのか。
もう何もわからない。自分が何を望んでいるのかさえも。私はそのまま倒れ伏して意識を失った。
*
「うえっ……くさ」
取り戻した意識に一番に入り込んできたのは中途半端に乾いた吐瀉物の汚臭だった。頭がくらくらする。何とか取り直すと、酷い気分を引きずりながら、私は研究室の掃除をする。吐瀉物にまみれた仙丹を摘み上げて綺麗に拭くと、少しだけ考えてからまた箱にしまい直した。
手を動かしながら、私は考える。なぜあんなに取り乱したのだろう。せっかくなけなしの勇気を振り絞ったというのに、私は一体――
考えても考えても答えは出ない。掃除が片付くころには、日も随分と傾いていた。
そうしていると、再び玄関のドアを叩く音が聞こえた。今度は一体誰だろうか。霊夢がまた来たのだろうかと、私は心臓の鼓動を早めていた。
「魔理沙。いるんだろう?」
香霖の声だった。私は霊夢が香霖堂に行くというようなことを言っていたのを思い出した。霊夢に呼ばれてやってきたのだろうか。
「大方何か嫌なことでもあったんだろう。構えなくていいぞ。今は僕一人だ」
とても優しい声だった。心の奥に溜まった何か黒いものを溶かしてくれるような、そんな声。だけど、だからこそ甘えてはいけない気がした。自分の力だけで立ち上がらなくては、何も解決しないのではないかと思った。
「……魔理沙。ひょっとしたら少し出かけているだけかも知れないが、聞いていると思って話をするよ。さっき霊夢が来てね、いつもなら美味しいお酒があると言えば何をおいても飛び出してくるはずなのにおかしい、様子を見てきてくれないか、と頼まれたんだ。……きっと、友達に今の自分の姿を見られるのが嫌だったんだろう? 今の自分を見られて、嫌われたらどうしようかと」
私は黙って香霖の言葉をドア越しに聞いていた。少しだけ気恥ずかしいのと同時に、嬉しくて胸が張り裂けそうだった。私のことを理解してくれている。それがたまらなく嬉しかった。
「……なあ魔理沙。実は三日ほど前にアリス君からも話を聞いていてね。捨食の魔法――不老不死の法の話題になると君が随分と取り乱していたとね」
「……私は、臆病者なんだ香霖。人を辞めても皆に追いつけなかったらどうしようって」
言葉を搾り出す。結局他人に縋ってしまった。情けないと思いながら、それでも救われた心地がした。
「私、私は、言い訳ばっかりで、自分からはさ、何にもできなくて。でもさ、こんな、こんな卑怯者、好きになってくれる奴なんていないよな。香霖の店からも色んなもの盗んで反省もしないでさ。本当に、どうしようもないんだ、私なんか」
嗚咽交じりに言葉を紡ぐ。自分の弱さを吐き出して、誰かに重荷を押し付けて、そんなことでしか自分を保てない。そんな自分が嫌になる。
「ああ、そうだな。君は臆病で卑怯だな。そんな君を嫌う人も多いだろう」
ちくりと心が痛む。なぜだろう、私はまだ、私はそんな人間ではないとでも言って欲しかったのだろうか。
「だけど」
と、香霖が続ける。その先にある言葉が何であるのか、私には見当もつかなかった。
「……だけど、それが君なんだから仕方ないじゃないか。それに僕はそんな魔理沙が嫌いじゃない」
――ああ。
そうだ、それだったんだ。私が一番欲しかった言葉は。今ここにいる私を受け入れてくれた。こんな私を、そのままで受け入れてくれるその言葉が。
ずっと私の胸を締め付けていたものが、音もなく消えていった。
「……なあ、香霖。私は――私のままでいいのかな?」
「当然だ。……というより、君は君でしかないよ。他の何にもなれるわけがない」
心の奥で絡まっていたものが、綺麗に解けたような気がした。
ああ、そうだ。ようやくわかった。私は自分が嫌いだったんじゃない。大好きだったから辛かったんだ。私のままでは誰にも愛してくれないと思い込んで、必死で今の自分を憎もうとしていた。そんな馬鹿げたことをしていたということに、ようやく気が付けた。
今だったらはっきりとわかる。私は、人間でありたかったのだ。そう、初めに思い至ったように、ただ今を楽しむために。それは振り切るべきものなんかじゃなく、大切な私自身の思いだった。
「……ありがとう、香霖」
「どういたしまして。……僕も自分自身として生きられない辛さはよく知っているからね。誰かに救ってもらわないとどうしようもないってことも」
「え? 香霖、も?」
「まあ、昔の話だよ。半人半妖ってことで色々あってね。そのときにある人に救ってもらった」
「ある人って……」
「……それを言うのは少し恥ずかしいかな。悪いね、魔理沙」
冗談めかして香霖が言う。私は、香霖が自分と同じように悩んだことがあるということが妙に嬉しかった。その上で今の私を認めてくれているということが、どうしようもなく嬉しかった。
私は、私のままでいいのだ。背伸びをすることなんてない。自分が好きなこの自分のままで。
だけど、と思い返す。今のこの自分が好きだというのは確かだ。だけれど、空に輝く星のように、誰かに認めてもらいたいという気持ちも確かにあるのだ。それは両立できるのだろうか。
「……なあ、香霖。もう一つ」
「何だい?」
「私は……私は輝けない星なんだ。それは、よく知ってる。そんな自分が好きだったってことも、今気付かせてもらった。だけど、私は輝きたいんだ。皆に……認められたい」
しばらく沈黙が流れる。扉の向こうの香霖は、いいことを思いついたというように、うん、と一言。そしてまた優しい声音でこう言った。
「君が夜空の主役と呼んだのは一体何だったか、覚えているかい? 忘れてしまったなら、今夜月が昇る前に夜空を見上げてみるといい。君の望む答えがあるはずだ」
夜空の、主役。何だっただろう。確かにそんなことを言った記憶がある。小さな頃に――
「僕が手助けしてあげられるのはここまでだ。あとは魔理沙が自分で決めることだよ。……それじゃあ、また元気な顔を見せてくれるのを待っているよ」
「うん。……本当に、ありがとうな」
結局最後まで扉越しではあったが、香霖からは確かに大切なものを受け取った。そして最後に香霖が伝えたかったこと、それが今日の夜に見られるという。時が過ぎるのが待ち遠しいという感覚が、随分と久しぶりのような気がして、私は苦笑した。
*
夜。宵を過ぎて暗闇の帳が降りた頃、私は前のように屋根に上って空を見上げていた。空には変わらず美しい星々が瞬いている。
しかし私の心はその向こう側、輝けもしないちっぽけな星屑たちに向けられていた。それにどんな救いがあるのだろうかと、自分を重ねて眺めていた。
十分が過ぎ、二十分が過ぎても何も起こらなかった。私は少しだけ不安になる。もしかしたら香霖は、輝けない星はどうしたって輝けないのだから諦めろということが言いたかったのかも知れない、と。
だけど、ともう一つ香霖が言っていたことを思い出す。私が夜空の主役と呼んだものは何だったのか。今は忘れてしまったそれを確かめるまでは、私はここから離れるわけにはいかないのだ。
そう決意したまさにそのときだった。視界の端にきらめくものがあった。驚いてそっちを見ると、もう一つ、さらにもう一つ。そうだ、なぜこんなことを忘れていたのだろう。私が夜空の主役と呼んだもの、それは――
「流れ……星」
夜空の奥、いつもは輝けない星たちが一瞬のきらめきを見せる。誰にも見られることもなく燃え尽きるかも知れない。その輝きに意味なんてないのかも知れない。それでも、いや、だからこそ。
「綺麗、だ……」
輝けない星だからこそ放てる光がそこにはあった。ああ、そうだ。私もあんな風になろう。もしも誰にも認められず終わることになろうとも、私はこの流星の美しさを知っている。それだけで十分だ。
思えば、初めから私は流れ星をこそ美しいと思っていたのだ。全く呆れた勘違いをしていたものだと思う。
そうだ、こんな私でも、きっと一瞬くらいなら輝ける。そしてその輝きは、誰にも真似のできない輝きなのだ。この夜空に浮かぶ、輝ける星たちのそれと同じように。
そして、また一つ星が流れた。それはまるで私を祝福してくれているようで、私の顔には自然と笑みが浮かんでいた。
*
「やあ、魔理沙。……いい顔をしているな。答えは見つけられたみたいだね」
「ああ、香霖のおかげだよ。全く、私も最近はいい加減な気持ちで夜空を見てたもんだ。あんな大切なことを忘れてるなんて。……本当に、ありがとうな。しかし出来過ぎだぜ、昨日が流星群の日だったなんて。香霖はひょっとしてわかってて来たのか?」
「いや、本当に偶然だよ。君が星の話をするまではすっかり忘れていた。……まあ、天竜の思し召しってところかな」
次の日、私は香霖堂を訪れていた。一つは香霖にお礼を言うため。そしてもう一つ。
「なあ、ところでさ香霖、聞きたいことがあるんだ。……私はこの前、鬼退治の英雄になれるって言われた。鬼退治って、一体何だ?」
そう、あの時鬼の少女に言われたこと。その真意がわからず、香霖に何か知恵を貰おうと思ったのだ。
「そんなことを一体誰に――ふむ、まあいいさ。そうだな、鬼とは、『隠れたもの』を意味する『おん』という言葉が転訛したものだと言われている。隠れたもの――見えないもの、聞こえないもの、触れられないもの――つまりはわからないものだ」
得意の薀蓄が始まる。普段は話半分に聞いているが、今日は真剣に聞き入る。もしかしたらその中に混じっているかも知れない、私の知りたい答えを聞き逃さないために。
「わからない、理解できないということは恐怖をもたらす。つまり鬼とは人間に恐怖を与えるものなわけだ。さて、それはいいとして、なぜわからないということが恐怖をもたらすかだが、それはつまり、実際に見て、聞いて、触れたとき、それがもしかしたら自分にとって好ましくない結果をもたらすかも知れないからだな」
「だけど、好ましい結果が待ってるかも知れないじゃないか」
「その通りだよ。それはまさしく『わからない』。ならば、鬼を退治するための方法、わからないということを調伏する方法とは何であるか――それは、自分にとって好ましくない結果をも怖れず、わからないものを受け入れることだ。好ましい結果ばかり思い描いて中身の見えない箱を開くのはただの無謀に過ぎない。それでは箱の中に怪物がいたときに対処ができないからね。――どんな結果が待っていても受け入れようという覚悟。それこそが勇気なんだ」
勇気。その言葉で私は彼女が言っていたことを思い出す。
「そうだ、香霖。あいつは、勇気は鬼を酔わせる美酒だ、みたいなことを言っていた。それはどうなんだ?」
「何? ……ふむ、それは興味深いな。昔話の鬼退治というのは、人間が鬼を酒に酔わせて退治するものだと相場が決まっているが、もしかすると――もともとは勇気という心を見せつけ、鬼を、恐怖を乗り越えたという話だったのかも知れないな。……しかし魔理沙、その話は一体誰から聞いたんだ?」
「あー、いや、それは内緒だ。香霖だって内緒にしただろ? 香霖の恩人の話さ。だからおあいこだ」
香霖は少し釈然としないという態度だったが、何だか満足そうな顔をしていた。薀蓄を語っているときに新しくいいことを思いつけたときにする顔だ。
「そうか、勇気は鬼を酔わせる美酒、か。なるほどね……」
そして私も、欲しかった答えにはたどり着けた。自分を晒すことが怖かったのは、誰かに嫌われるかも知れないからだ。だけど本当に嫌われるかどうかはわからないし、それに自分を晒して嫌われても、今ならきっと受け入れられる。私はこの私が大好きなのだから。誰に嫌われようとそれは変わらない。私が今までしようとしていたように、自分を曲げて誰かに好かれたとしても、その自分は私が好いて欲しい自分ではないのだ。
だからもう、私は私であることを怖れない。それが勇気というのなら、なるほど私は英雄になれるのだろう。香霖に手を引いて貰ったおかげではあるが、何、昔の鬼退治の英雄だって沢山の仲間たちに支えられているのだ。恥じるようなことではない。
「霖之助さん、こんにちはー。……あら、魔理沙! どうしてたのよ、魔法の研究でもしてたの?」
そのとき、静かになった店内に霊夢の声が響いた。久しぶりに見た友人の顔は、心配の色を浮かべていた。
「あー、うん、そうだな。……ちょっと辛いことがあって落ち込んでてな。霊夢にそんなところ見られたら嫌われるんじゃないかって思って出られなかったんだ。悪い」
「何よそれ、水臭いなあ。そんなことくらいで魔理沙のこと嫌いになるわけないじゃない」
「それでも怖かったんだよう。霊夢のこと信じられなかったのは悪いと思ってるってば」
「うん、ごめんごめん。お酒でも釣られなかったもんね。よっぽど辛かったのよね」
ああ、大丈夫だ。霊夢は私を受け入れてくれている。こんな友達がいて、私は幸せだ。
ふと視線を下にやると、霊夢が酒瓶を持っているのに気が付いた。これがこの前言っていた酒だろうかと、私はそれを凝視する。
「おっ、気が付いたわね。今日は何だか魔理沙に会える予感がしたから持ってきたのよ。アリスも呼んであるわ。何か魔理沙に言いたいことがあるんですって」
「ちょっと待て、私がまだ出てきてなかったらどうするつもりだったんだよ」
「その時は二人であんたの話でも肴にして呑むだけよ」
「おい、家主を無視して盛り上がるつもりだったのか? 感心しないな」
軽口を叩き合う。ただのそれだけで心が暖かくなった気がした。しかし、霊夢があれほど美味いと太鼓判を押す酒とはどれほどのものなのだろう。期待しながらアリスが来るのを待った。
「失礼します。霊夢は来てますか? ……あ」
アリスがやってくる。私を見ると、随分と気まずそうにしていた。
「えーと、この前さ、あの……話した後、あなた全然外に出てなかったみたいじゃない? その……大丈夫かなって」
「ああ、もう大丈夫だ。それとな、せっかくだから今ここではっきりさせておくよ。私は人間を辞めるつもりはない。……不老不死ってのはやっぱり魅力だけどな。それ以上に私は人間でいたい」
人を辞めないのは怠惰なんかじゃない。言い訳にできるようなことじゃない。それは、私が望んで選んだ道なのだ。そう思うと、本当に気が楽になった。
「……そう。そっか、それは良かった」
それを聞いたアリスは、なぜかとても嬉しそうだった。不思議に思った私はアリスに聞いてみる。
「何だ、えらく嬉しそうじゃないか。何がそんなに嬉しいんだ?」
「……そうね、うん、今日はそれが言いたくて会いに来たんだけどね、私が昔人間を辞めたとき……私を育ててくれた人が言ってたのよ、人間として幸せになって欲しかった、って。私自身は別に後悔もしてないけどね。ただ、見てみたかったのよ。人間としての幸せっていうのがどういうものなのか。あなたならそれを見せてくれるんじゃないかって」
「……おう、見せてやるよ。人間の自分が大好きな普通の魔法使い、霧雨魔理沙さんがな」
「さあ、湿っぽい話はその辺にして、呑みましょう! 霖之助さん、ぐい呑み四つ持ってきて頂戴」
と、霊夢が声を張り上げる。香霖は渋々といった顔で、しかし満更でもなさそうに奥から持ってきたぐい呑みを皆に配った。
霊夢が透き通った酒を注いでいく。これは期待できそうだ。私はごくりと喉を鳴らした。
「はいっ、それじゃあね、魔理沙の――快復、とはちょっと違うかな、とにかく、元気になったのを祝しまして、乾杯っ!」
ぐい呑みがぶつかる音が鳴り響く。私は、まずは香りを楽しもうと、鼻を近づけて嗅いでみた。
――これは。
香りだけでわかる。これは本当に良い酒だ。優しく深みのある香りが立ち上ってくる。私はぐい呑みを傾け、一口すすった。すると、素晴らしく芳醇な香気が口一杯、いや、体中に広がった。深いコクがあるというのに引っかかることもなく、自然と体に染み込んでいくようで、あまりの美味さに感動して涙が出そうになった。
「これは……美味い! 何だこりゃ、こんな美味い酒呑んだことないぜ」
「うん、日本酒ってあんまり好きじゃなかったけどこれはすごいわ」
「ああ、素晴らしい香りだ。霊夢、こんなもの一体誰に貰ったんだ?」
「ふふん、そうでしょう美味しいでしょう。うんとね、話すと長くなるんだけど、去年さ、レミリアが霧を出して日光が当たらなかった時期があるじゃない? それで稲の生育が遅れちゃって、これはまずいってことで豊穣の神様をお招きしたらしいのね。それでえらく張り切っちゃったらしくて、普段より数段いいお米が取れたらしいのよ」
言われてみれば去年は随分と米が美味かったような気がする。しかし人里でそんなことがあったとは知らなかった。
「それで、酒蔵の旦那さんがこれならいけるんじゃないかって、大昔から伝わってる、秘伝の酒の造り方が書いてある古文書を引っ張り出してきたんだって。それで何度も失敗したらしいんだけど、この前ついに完成したからって、私にも分けてくれたのよ。それでこんな美味しいもの独り占めしちゃいけないと思ってさ」
「へえ……人里でそんなことがあったなんてね。吸血鬼様々ってところかしら」
「いやいや、感謝する相手はその豊穣の神様だろ?」
「そーよ、信心なさいな。それでね、えーっと、このお酒ね、何かすごく素敵な名前がついてたんだけど……」
そう言って霊夢は考え込む。私はその酒の名前が、なぜか気になって仕方がなかった。
「あ、 そうだ思い出した!」
と、霊夢は少し溜めを作る。私たちはじっと霊夢を見つめた。
「博麗大吟醸『勇気の雫』! どう、洒落た名前だと思わない?」
それを聞いて私は思わず噴き出した。香霖も少しにやついている。霊夢とアリスは不思議そうな顔でこっちを見てきた。
「そうかそうか、勇気、か。なるほどなあ。こんな美味いものは独り占めしちゃあいかんわな」
こんなに美味いものをご馳走できるというのなら、本当に英雄になってみるのも悪くはない。今は怖れるようなことは何もないが、いつかまた同じように壁にぶつかったときは、そのときは彼女に会いに行こうと思った。そして、勇気を見せ付けてやるとしよう。
「かー、美味かった。ご馳走様」
「家にまだもう一本あるからね。今度は宴会ででも出すわ」
「おー、楽しみにしてるぜ」
酒瓶に八分ばかりあった酒があっという間に無くなってしまった。しかし大変に気分が良く、残念に思うような気にもなれなかった。ここまで気持ちよく酔えたのは本当に初めてである。
「……さてと、霊夢、アリス。ちょっと弾幕ごっこでもしようじゃないか。時間あるか?」
「あら、別にいいけど、スペルカードはっと……うん、持ってきてたわね。霊夢は?」
「魔理沙がそう言うんじゃないかと思って持ってきてるわ。言っとくけど、手加減なんかしないからね」
「おう、望むところだぜ」
「気を付けて行ってくるんだよ、三人とも。この店に被害が出ないように」
「わかってるってば香霖。それじゃあ、行ってきますっと」
香霖堂から少し離れ、開けた場所に出ると、箒にまたがって空を飛んだ。霊夢とアリスも後をついてくる。
「さてと、どうしましょうかね。一人ずつ相手すればいいかしら、魔理沙?」
「おう、頼む。さてと、私は『スターダストレヴァリエ』一枚でいいぜ」
私はそう宣言する。私の、私としての輝きを込めた最愛のスペルカードだ。
「あら、随分な自信じゃないの。手加減はしないからね。私は五枚ほど使わせてもらうわよ。それでもいい?」
「もっちろん」
その声を合図に、アリスはスペルカードに書かれた式を構築し始めた。さあ、久しぶりの弾幕ごっこだ。ちゃんと箒を扱えるか一通り試してみる。よし、問題なしだ。横で見ている霊夢が私に声をかけた。
「一枚だけなんて勝負に出るわねー。負けるのが怖くないのかしら?」
「ああ、負けるのなんて怖くないね。何せ私は――」
私もまた弾幕を構築する。そこに描かれたのは私の愛した流星の魔法。いつか燃え尽きる運命を見据えながら、それでも懸命に輝こうとする生命の叫び。
「――普通の魔法使いだからな!」
私の家にやってきたアリスの第一声は失礼極まるものであった。全く、私の研究成果が見たいというから招いてやったというのに、なんという言い草だろうか。
「またえらく礼儀のなってない都会派がいたもんだな? まあ座れよ、茶でも出そう」
「うん、ありがとう」
妙に素直に礼を言われたものだから、もう一つ二つ皮肉を言ってやろうと思っていた気持ちが失せてしまう。妖怪というのはこういうところで拘りがないからやりにくい。
たまの来客ということで、せっかくだからと幻想郷では珍しい紅茶を淹れることにした。これは咲夜から先の宴会のときに貰ったものだが、機会がなかったもので私も今日初めて飲むことになる。
湯を沸かしている間、アリスは興味深そうに家にあるものを見回していた。暫くして、アリスは何かを指差して私に声をかける。
「ねえ魔理沙。この本って、あなたのもの? 結構なレア物だと思うんだけど」
見てみると、それは紅魔館の地下にある魔法図書館から借りてきたものであった。
「ああ、それは借り物だな。パチュリーからの」
「え? あの図書館って本の貸し出しもやってるの? だけどこの前――」
「おう、私のような才能ある後進の魔法使いの育成のために蔵書を開放してるんだとさ」
何だかこのままだと話がややこしくなりそうだったので、私は適当に話を切り上げようとする。しかしアリスは何かに気がついたという様子で私をにらみつけて言った。
「この前パチュリーが、最近ネズミが蔵書を荒らして困ってるって言ってたんだけど、もしかして……」
なぜ私の知り合いには霊夢といい勘の鋭い奴が多いのだろうか。面倒なことになったなと思いつつ、私はいつもの決まり文句を口にする。
「死ぬまで借りてるだけだぜ。いいだろうが、私の寿命なんてお前たちにしてみたらあっという間だろう?」
「……まあそうだけどね」
アリスはもうそのことには興味を失ったという顔で再び家にあるものを物色し始めた。アリスがあまりにあっさりと引き下がったからか、私は少し拍子抜けするとともに何か釈然としないものが心に残ってしまった。
そうこうしている間に湯が沸き、やかんがぴいと音をたてる。私は紅茶の葉を急須に入れ、少しだけ湯が冷めるのを待つ。霊夢に教わった、美味しいお茶を入れる秘訣だ。
「急須から紅茶が出てくるのってちょっと不気味ね」
「本当に口の悪いやつだなあ。せっかくこの魔理沙さんが淹れてやったんだからありがたく飲め」
「ええ、頂くわ」
さっきとまるで同じようなやり取りが繰り返され、何だか馬鹿にされているような気持ちになる。嫌な気分を忘れるために私は一口紅茶を啜った。
「あら美味しい」
アリスが感心したように声を漏らす。私もまた、緑茶派としての矜持が揺らいでしまいそうになっていた。
「まあ八十……八十五点ってところだな。紅茶も中々美味しいじゃないか。緑茶には適わんが」
「それにしても紅茶なんて。人里にはよく行くけどどこにも売ってなかったのよ。どこで買えるの?」
「うん? ああ、紅魔館だよ。この前ちょっとだけ貰ってな。中々飲む機会がなかったんだが、丁度よかったよ」
「じゃあこれも盗品?」
本当に何気ない表情でアリスが言った。ここまで無表情に嫌味を言えるものだろうかと私は内心眉を顰める。
「違うよ。この前の宴会の時に咲夜に貰ったんだ。まあ私の人徳の為せる業だな」
「ああ、そう」
適当に軽くあしらわれたような気がして、私は無性に腹が立った。別にそれほどのことでもないだろうと頭では理解しているのだが、私は何とかしてアリスをあっと言わせてやりたいと思っていた。
「おい、アリス。それで私の研究成果が見たかったんだろ? 奥の研究室に色々あるから、飲み終わったらそっちに行こう」
そう、私の研究はアリスやパチュリーのものに引けをとらないと自負している。これならばアリスを驚かせてやれるだろうと思い、早く見せてやりたくてうずうずしていた。
「紅茶くらいゆっくり飲ませてよ。別に焦るようなことじゃないでしょ?」
どうやら墓穴を掘ってしまったらしい。私が焦っていることまで見透かされている。私は顔が赤くなっているのを悟られないために紅茶を冷ます振りをして誤魔化した。
「うん、ご馳走様。それじゃああなたの研究、見せてもらおうかしら」
漸く飲み終えてアリスが言った。私はアリスを伴って研究室の戸を開ける。
「流石にこっちは綺麗にしてるのね……あ、これってもしかしてこの前言ってた外の世界の機械を使ってるってやつかしら?」
前半が少し癪に障ったが、あるものを見つけて目を輝かせるアリスを見ると、さっきまでの嫌な気分が吹き飛んだ。私は得意になってそれの説明をする。
「ああ、それは『除湿機』っていう空気中の水を集める道具を使ったものでな。この瓶があれば近くに川なんかがなくても、空気から綺麗な水が作れるんだぜ。それから、こっちは『冷蔵庫』から作った魔法触媒だな。八卦炉に仕込んで冷気の魔法なんかも理論上は使えるはずだ。それはまだ実験段階だが」
「空気中の水……? 結露みたいなことかしら。うん、これは大したものだわ。外の世界の機械そのものもだけど、こういう発想は私にはない。呪術的なものかしら」
「ふふん、もっと讃えたまえ。まあ香霖が八卦炉に『空気清浄機』ってのを仕込んだってのがアイデアの元だけどな、理論を体系化するまで結構苦労したんだ」
私はその他の研究成果についても説明する。アリスは興味深そうに、また時には感心したようにそれらについての感想を口にした。私はその度にとても誇らしい気持ちになった。やはり自分の努力が認められるというのは何物にも代えがたい快感である。
「……あら? これは何? えらく厳重に封をしてあるけど」
私がすっかり上機嫌になったころ、アリスは目ざとく一つの木箱を見つけ出した。見てみると、そこまで古いものではないようで、また箱の上の張り紙には『失敗作』と書かれている。封を破って開けてみると、中には小さな枇杷ほどの大きさの丸薬が入っていた。
「ああ……思い出した。今年の冬に家に篭って作った仙丹だ。作ったはいいがでかいわ堅いわで飲み込めなくてな。捨てるのも勿体ないしとりあえずとってあるんだ」
「仙丹……っていうと不老の薬? そんなもの何のために作ったのよ」
「そりゃあ、自分で飲むためさ。研究の時間がいくらでも取れるってのはやっぱり魅力だからな」
発想の閃きが肝という類のものならともかく、長期的な研究が必須となるようなマジックアイテム作り――特にパチュリーの賢者の石などがそうなのだが、それはやはり妖怪に分があると言わざるを得ない。人間に与えられた時間は限られているのだ。しかしアリスはその答えが意外だったとでも言いたげに、目を見開いて私を見つめてきた。
「私はてっきりあなたは人間を辞めるつもりはないんだと思ってたんだけどね」
「そりゃまたどうしてそう思ったんだ?」
「んー? 死ぬまで借りる、とか、私は普通だ、とかいつも言ってるからさ。人間として死ぬつもりなのかなって」
「そ、それはあれだ。言葉のあやってやつだ。もし人間を辞めることになったら借りてるものはすぐ返すつもりだぜ」
「ふーん。でもさ、本気でそう思ってるなら捨食の魔法は使わないの? なんだかんだで才能あるし、五年……いや、三年も集中すればあなたなら習得できると思うけど」
その話をしている間、なぜか心がズキズキと痛んだ。才能がある、と褒められたことさえ殆ど耳に入っていなかった。考えてみれば、そのことは無意識に考えないようにしてきたような気もする。この仙丹だって、今見ると無理をすれば飲み込めるように思えた。それなのになぜすぐに飲もうとしなかったのだろうか。あるいは気がついていないだけで、自分は人間であることに拘っているのか?
「えっと……何だ、三年も一つのことにかかずらわってられるほど暇じゃないんだよ。その間色々研究したいことだってあるし」
「暇ってあなた、寿命さえなくなればいくらでもできるでしょう? それに、捨食の修法だってそれをしてる間他に何もできないってわけじゃないし……」
私は的外れなことを言って誤魔化そうとする。アリスはなおも疑念めいた視線を送ってきて、私はいたたまれない気分になって目をそらした。
「……まあいいわ。別に好きにすればいいことだし。私が踏み入るようなことじゃあないわよね。ごめん」
アリスが話題を終わらせ、再び私の作ったものに視線を移す。正直ほっとはしたが、妙にもやもやしたものが胸に渦巻いていた。
「それじゃあ今日はありがとうね。人形作りの参考にできそうなものもあったし、楽しかったわ。またいつか暇があったら私の家にも来るといいわよ」
アリスが帰ったあとも、私の気分は晴れなかった。一度気にし始めると、胸のもやもやは大きくなる一方で、何だか心が潰れてしまいそうな感じがした。
「捨食の魔法、か……」
誰に聞かせるともなく呟く。それを今すぐ習得しようとしないということは、少なくとも自分の中に人間を辞めることに対するためらいがあるのだろう。それは自分でも意外だったし、何がそうさせるのかもわからなかった。
いや――きっとわかっているのだ。ただ、それをはっきりと言葉にして認識することが怖ろしいのではないか。そうしてしまうと、自分の弱さをまざまざと見せ付けられてしまうのではないだろうかという、漠然とした不安があった。そして、きっと実際そうなのだろう。
それでも何か答えが欲しくて、私はできるだけ核心に触れないように思考を進める。
私は寿命をなくし、時に縛られることのない研究を望むか? これは間違いない。魔法使いとして無限の研究時間というのは他に代えがたい魅力的な代物である。
では、私は人間であることに拘っているのか? 確かに人を辞めてしまえばもう後には引けない。それが少しだけ怖ろしくはある。しかし私が『霧雨魔理沙』であることは変わらないのだ。その前には種族の差など大したことではない、と私は思う。例えば仮に霊夢が人間を辞めたとして、それで私たちの友情がなくなってしまうかと聞かれれば、自信を持って否と答えられる。
ならば、人間を辞めた先、いつか何もかもに飽きてしまうことを怖れているのだろうか? ……それは確かに怖ろしい。人間であるからこそ今を楽しめているのではないかとは思う。私に人間を辞めることをためらわせているのは、このことかも知れないと思った。だがだとすると――
「結局私が臆病なだけ、か」
きっとその結論も核心ではないと心のどこかでは思いつつ、ひとまず納得する。言い訳の結論でさえ自分が臆病であることを認めなければいけないという事実に私は苦笑した。
「もういいや。今日は寝よう」
明かりを落とし、布団をかぶる。本当の答えを見つけることから逃げ出すために、必死で頭を空にして、私は眠りについた。
「くくく。つくづくあんたは人間だなあ」
朧になった意識にそんな声が聞こえた気がした。
*
次の日の朝――というか、寝つきが悪く、起きたらすでに昼頃になってしまっていたのだが、私は香霖堂に足を向けていた。一人でいるとやりきれない気分になってしまうが、霊夢やアリス――友人たちに会いに行くのは気が引けたからだ。勿論香霖堂でばったり出くわすということもあるかも知れないが、偶然会っただけというならまだ自尊心が保たれる。寂しくて会いにきたのだなどと思われては気恥ずかしい。
「しかし、今日はえらく涼しいな」
真夏だというのに、少し肌寒いほどである。今日の魔法の森は普段と比べても随分と霧が深く立っていた。沈んだ気分ごとうだらせてくれるような暑さを期待していたので、少しだけ落胆する。
――それにしても、香霖に会っても何を話せばいいだろう?
正直、この悩みの話は今はしたくない。かといって、それを忘れていつも通りに振舞えるかと聞かれると、首を横に振るほかなかった。それにあいつは朴念仁のくせに妙に鋭いことがあるから、この悩みも見抜かれてしまうのではないだろうかという不安もある。
――やっぱり帰ろうかな。
臆病風に吹かれて足を止める。それでも一人でいるのは嫌で、私は何も決断できないまま呆然と立ち尽くしていた。
「昨日から随分とお悩みのようじゃあないか、お嬢ちゃん?」
突然、どこからともなく声が聞こえた。私は身構えてポケットの中のミニ八卦炉を握り締める。そうしていると、魔法の森を覆っていた霧が一箇所に集まっていき、頭に大きな角を生やした少女を形作った。
「お前は――確か」
「萃香、伊吹萃香よ、臆病者の魔法使いさん」
その少女は、ついこの間に起こった異変の犯人だった。彼女は幻想郷からは既にいなくなってしまったはずの、鬼の一族なのだという。その彼女が、私に一体何の用だというのだろうか。
「そう身構えないでおくれよ。私はただ親切にも、あんたを悩ませてるものを教えてやろうってんだ」
私はその言葉に息を呑む。なぜこいつがそんなことを知っているのだろうか。そんなはずはないと思いつつ、私は目の前の少女が発する妙な威圧感に圧倒されていた。
「……何のことかわからんな。魔理沙さんに悩みなんてないぜ」
「くくく、本っ当に嘘吐きねえ」
虚勢を張る。しかし彼女の目ははっきりと私の心の内を見透かしていた。私はその目が怖ろしく、直視できないでいた。逃げ出してしまいたいが、足がすくんで動けない。
「あんたのことはよおく知ってる。ずっと見てきたからね。今だって本当は逃げ出してしまいたいんだろう? 今まであんたがそうしてきたように」
その言葉は私の胸を貫き、声を奪った。駄目だ。こいつは本当に何もかも見通している。私の心の奥深くに巣くったものを、はっきりと見透かしている。
「さて、本題だ。何があんたを苦しめているのか、あんたの胸を締め付けている鎖は何なのか」
嫌だ、聞きたくない。私は弱くなんかないんだと信じていたい。しかし耳を塞ぐことさえできず、私はただ立ちすくんでいた。
「あんた、怖いんだ」
鬼が言葉を紡ぎだす。冷たくもどこか湿り気のあるその声は、私の心臓を鷲掴みにした。
「人を辞めてまでして、それでも皆に追いつけなかったらどうしようかってことが怖くて怖くてたまらない。人間のままでいれば、敵わなくても仕方ないって言い訳できるからね。だけどそのせいで、たまに他の連中と勝負して勝ったり、誰かに褒められたとしても、心の奥のほうではもしかしたら手を抜かれてるんじゃないかとか、本当は馬鹿にしてるんじゃないかなんて疑ってる。あんたはどんな成功をしても、心の底から満たされたことはない」
「ち……が」
「違わないわよ。……そのくせ自尊心だけは人一倍強いから、他人の視線が気になって仕方ない。自分なりに努力は精一杯してるつもりだけど、人を辞めないってことが自分の怠惰の表れだと感じてる。だからそこに突っ込まれるのが嫌で逃げ出してしまう。だけど逃げてばかりいる自分自身が嫌いで嫌いで、深く考え出すとどこまででも落ち込んでしまうから、自分を保つために必死で軽薄に生きている」
顔が熱い、胸が痛い。彼女が言ったことはどれも本当のことだった。私は声を出すと泣き出してしまいそうで、一言も喋れないままでいた。
「……さて、魔理沙よ。これがあんたを苦しめていたものの正体だ。自らの弱さを認められぬ傲慢が生んだ心の中の怪物だ」
「……るさい」
「うん?」
「うるさいんだよ! お前に私の何がわかるっていうんだ。人の弱さを暴き立てて、何が楽しいんだ! 私だってなあ、こんな弱い自分は大っ嫌いだよ。だけど、そんなこと言われても、すぐに強くなるなんて無理だろうが!」
心の堤防が決壊する。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、私は思いの丈を叫んだ。
「怖いものから逃げ出して何が悪い。努力が足りないなんて言われてもなあ、私は一生懸命やってるんだ。それのどこが悪いんだよ!」
そこまで吐き出すと、少しだけ心が軽くなった。ただの言い訳を並べ立てて心が安らぐ自分自身にさえ腹が立ったが、それでもほんの少しだけ落ち着くことができた。鬼の少女はそんな私を見て話を続ける。
「悪かあない。それに努力が足りてないなんて誰も思っちゃいないわよ。……そうさな、魔理沙よ、我らは人間を喰うものだが、人間の一等美味いのは何かわかるかね?」
「いきなり何の話だよ、馬鹿にしやがって。人肉のどこが美味いかなんて聞きたくもないぜ」
「人肉ぅ? ……あー、かかか。そっかそっかそう考えるわな。悪い悪い。うん、肉は美味いね。次が敗北感でその次が恐怖ってところかな? そいつは今日たっぷりと味わわせてもらったが」
「……どういうことだよ」
「心まで合わせて人間だってことだ。さて、しかしどれも一番じゃあない。人間で一番美味いのはね」
少女はそこまで言うと一旦言葉を切り、私の胸に拳を当てた。私はそれを振り払おうとするが、異常な力で動かない。彼女は再び口を開く。
「勇気だ」
「ゆう……き」
それは私から一番遠いところにある言葉だ。そんな話を聞かせて、こいつは何のつもりなのだろうか。私をからかっているだけのようにしか思えなかった。
「人の勇気は我ら鬼を酔わせる美酒。生憎私はまだ喰ったことはないが、親父や星熊のおっちゃんがよく言っていたよ。あれが喰えるなら命だって惜しくはないってね。……私はそいつを味わってみたいのさ」
「だったら何で私なんかのところに来るんだよ! こんな弱虫が勇気なんて、笑い話にもならないぜ」
「ああ、私もそう思う。なあ魔理沙、私はあんたが大っ嫌いなのよ。嘘吐きで、自分勝手で、臆病で、卑怯なあんたのことがね。……だけど、そんな奴が見せるんだそうだ。とびっきりの勇気ってやつを」
真っ直ぐに見つめてくる彼女の目が、一切の偽りがないことを雄弁に語っていた。私は、以前彼女が鬼は嘘を吐かぬと豪語していたことを思い出す。
「勇気ってのは恐怖を乗り越える一瞬の輝きだ。その為にはまず自分の闇と向き合う必要がある。妖怪連中はそもそも怖がらないし、霊夢は諦めが早すぎるのよ。人里に行けば骨のあるやつもいるんだろうが、とりあえず知り合いの中ではあんただけだったからね」
「……何がだよ」
「鬼退治の英雄になれるのが」
期待を込めた目が私を見つめる。これほど私のことを買ってくれているというのは、ほんの少しだけ嬉しかった。でも――
「……無理だよ、そんなの。私は――」
「まあ無理なら他を当たるさね。あんたは期待されすぎると潰れちゃうからね。気楽に考えてくれりゃあいい。心の闇を真っ直ぐ見据えて、折れずにいられる奴なんてそうはいない」
そうだ、他にも沢山いるはずだ。私なんかより勇気のある人間は。こんな私に、英雄になれなんて、あまりに無責任じゃあないか。
「だがもしもあんたが、それを調伏できたなら、そのときはまた私のところへ来ておくれ。そして、一等美しく輝いた勇気を、私にご馳走しておくれ」
「……そんなことのために、無理矢理人を心の闇に向き合わせて、それで満足かよ。私が、私なんかが、英雄になんてなれるもんかっ!」
私は走って逃げ出した。恐怖から、そして、現実から。鬼の少女が後ろで何か言っている。構うものか。今の私には関係ない。
「魔理沙よう。何でそんなものを怖がらにゃあならんのか、本当にあんたが怖れているのは何なのか、ようく考えてみることだな」
家にたどり着き、すぐに鍵をかける。誰にも会いたくない。こんな顔は誰にも見せられない。
「うっ……く。ちくしょう。う、ひっく」
涙がどんどん溢れ出してくる。悔しいのか、悲しいのか、怖いのか。それすらもわからないが、私はただただ泣いた。
「馬鹿に、馬鹿にしやがって」
どんなに努力しても、いつでも誰かがその一歩先を進んでいる。その度に、自分がしていることは無意味で滑稽なだけのことなんじゃないかと思ってしまう。それでも無意味なんかじゃあないと信じて努力するしかないのだ。それはわかっている。それでも怖いのだ。結果が出せないのは努力が足りなかったからだと、誰かに指摘されるのが怖い。だからその傷を浅くするために、誰かに言われるより先に自嘲してみせる。私は、いつでも言い訳を考えて生きている。
「わかって、るんだよぉ。そんな、ひっく、ことくらい」
こんな自分が大嫌いで、変わらなくちゃいけないと思っている。それでも変われない。簡単に変わってしまえるほど私は強くないのだ。それに――それは自分の今までを否定することだ。私は意地汚くも、今までの自分にしがみついていたがっている。私のこれまでが無意味だったなんて、そんなこと認めたくない。
「もう、嫌だ。もう……もう」
私は泣き疲れて、そのまま眠りに落ちていった。誰もいない暗闇の中で、このまま静かに消えてしまいたいと願いながら。
*
目を覚ますと真っ暗だった。どうやら夜中に目を覚ましてしまったらしい。実はあの後そのまま死んでしまっていて、あの世に来てしまったのだったらいいのに、などと益体もないことを考える。
「……お腹、空いたな」
その期待とも不安とも取れない感情は、ぐぅと鳴いた腹の虫に裏切られた。どんなに気持ちが沈んでいても腹は減る。そのことを恨めしく思いながらも、私は八卦炉を使いランプに火を灯して台所に向かった。
「南瓜があるな……煮物にするか」
包丁を取り出して南瓜を食べやすい大きさに切っていく。とんとんとん、と乾いた音が薄暗い部屋の中にこだました。
不意に、怖ろしい感覚が私を襲った。刻まれる南瓜たちが、私に怨み言をぶつけてくるのだ。こんなところで死にたくなかった、もっと生きたい――と。
――こいつらも、折角ならもっと一生懸命生きてる奴に食べられたかっただろうな。
自分の人生に対する不実さを省み、私は自嘲する。結局食べるつもりには変わりないのにそんなことをするのは、それこそ食物に対する冒涜ではないだろうかと思いながら。
「ごちそうさまでした、と」
米を炊く気力すらなかったので南瓜の煮物に、作りおきの干飯だけの簡単な夜食を済ませる。ひとまず腹は膨れたが、気持ちは一向に晴れる予感もなかった。
――どうして私は魔法使いを目指したんだっけ。
揺れるランプの灯を見つめながらそんなことを考える。私には導いてくれた師がいた。そして今は私のことを認めさせたいライバルたちがいる。だけどそもそも魔法使いを目指した理由は何だっただろう? そんなことを考える。
自分の弱さはもう痛いほどに突きつけられた。今なら、弱さを覗き込むことを怖れずに考えることができるんじゃないだろうか。
――初めは、そうだ。悔しかったから、だったような気がする。
十歳くらいのときに、父と大喧嘩をした記憶がある。道具屋の娘として生きるのが幸せなんだと言われて、酷く悔しかったような記憶がある。私は私の好きなように生きるんだと、父に怒鳴っている小さな私が脳裏に浮かんだ。父は売り言葉に買い言葉で、私に向かって、勘当だ、などと叫んでいる。それから家を飛び出して、魔法の森に迷い込んで野垂れ死にそうになっていたところを師に拾われたのだ。
――いや、違うな。そのときはまだ――
少しずつ記憶が鮮明になってきた。その時は、この近くに香霖堂という家があるはずだと言って送ってもらったのだ。悪霊に手をとられてやってきた私を見た香霖は、随分と驚いていた。
――その後、こっぴどく叱られたっけな。
命を粗末にすることだけは絶対にしてはいけないと、香霖が珍しく感情を露にして怒っていた。本当に、よくあの時死なずに済んだものだ。今、消えてしまいたいなどと思ったことを少し香霖に申し訳なく思った。
それからしばらくの間、香霖堂で暮らした。確か霊夢と出会ったのもその頃だったはずだ。それから何かの切っ掛けがあって、あの時の悪霊に弟子入りしようと思い立ったのだ。
――その切っ掛けが、何だったかな……?
深く、深く自分の心を探る。たどり着いた原風景は、香霖堂の窓から見える、夜天を彩る沢山の星屑だった。
そうだ、思い出した。私は、星になりたかったのだ。沢山あるうちのたったの一つ。しかしどれが欠けても同じ夜空を見ることはできない。そんな世界の彩りに、私はなりたかったのだ。
大好きな星空の魔法を使う、そんな素敵な魔法使いとして輝きたかったのだ。
少し、星空を眺めようとして、私は外に出る。鬱蒼と茂る植物が邪魔でよく見えなかったので、立てかけてある箒にまたがって、屋根の上に登った。
「ああ……」
見上げると、満天の星空だった。東の空には綺麗な半月が浮かんでいる。その夜空は、何の打算もなく心から美しいと思えた。
一つ一つの星々が、世界に彩りを加え、そして大きな夜空を作り上げる。それはこの世界の縮図のようにさえ思われた。
――でも、と私は暗い考えに囚われる。少し前、パチュリーの所を訪れたとき、私は星についての外の世界の知識が書かれた本を見つけた。それが先日、アリスが目ざとく見つけた本だったのだが――その本によると、空の彼方からこの地上まで届くほどの光を放てる星というのは、ごく僅からしい。恒星と呼ばれる太陽の仲間と、地上からほど近くにある大きな星――たったのこれだけで、この夜空はできている。そしてその何千倍何万倍、いや、もっと沢山の数の星が、この空の彼方に浮かんでいるそうだ。
ならば、私はその輝けない星なのだろう。あってもなくても変わらない、意味もなくただ浮かんでいるだけの星。どんなに必死で輝こうとしても、決して誰にも省みられることのない、孤独な存在。
「……ははっ」
もう笑うことしかできなかった。よくもまあここまで悲観的になれるものだと自分でも感心する。そのくせ心の奥では、優しい誰かがやってきてこう言ってくれるのを待っているのだ。
そんなことはない。お前は眩しいくらいに輝いている、立派な星だ――
つくづく嫌な奴だと思う。自分からは何もしないくせに、他人に認めてもらいたい褒めてもらいたい愛して欲しい。こんな卑怯者を愛してくれる人なんているわけもないのに。
「本当に、あいつの言ったとおりだよな。嘘吐きで自分勝手で、臆病で卑怯で……何が、勇気だよ」
涙がぽろぽろとこぼれる。美しい夜空もにじんで見えなくなってしまった。生温い夜風に吹かれながら、私はただ泣いていた。
*
それから五日ほど、、一歩も外に出ずに無為な時間を過ごした。魔法の研究さえ何だか空しいことのように思えて、ただ寝ては覚め、腹が空いては少しだけ物を食べる、そんな意味のない私に相応しい意味のない時間を過ごした。
ベッドの上で膝を抱えて、延々と自虐を繰り返す。誰かに会いたいとは思うが、こんな私を見られたら、きっと嫌われてしまう。それが怖ろしくて誰にも会いにいけないでいた。
そのとき、突然家のドアノブを回す音が聞こえた。続いて酷く聞きなれた、あっけらかんとした友人の声が聞こえてくる。
「おーい、魔理沙ぁー。いるんでしょー? ちょっと入れてよ。あのさ、この前すんごい美味しいお酒貰っちゃって、今日開けてみたんだけどほんっと美味しくってさー。舌が蕩けちゃうみたいで。一人で呑むの寂しいからさ、一緒に呑もうよー」
霊夢、だ。私の胸に喜びと恐怖が綯い交ぜになった奇妙な感情が湧き上がった。
会いにきてくれた。こんな私を、わざわざ訪ねてきてくれた。そんな喜びと同時に、霊夢が求めているのはきっと今の私ではないだろうという思いと、今の私を見て落胆されるのではないかという怖れがあった。それと同時に、美味い酒があるという言葉にさえ心が動かないということに驚愕した。今の私は、酒ですら満たされないらしい。これでは酒に酔って現実逃避することさえできないではないか。
霊夢はなおもドアを叩き続けている。私は結局恐怖に負け、霊夢に応えることができないでいた。
「あれー? いないのー? ……霖之助さんのとこかな?」
そう言って霊夢は立ち去っていった。私は胸を撫で下ろす。しかし同時に寂しさもあった。無理やりドアを蹴破って、ここから連れ出して欲しいという気持ちがあったのだ。勇気を出せない私の代わりに、手を引いて私を外に出して欲しかった。
臆病者め、と私は自虐する。誰かに手を引かれなければ外にも出られないのか。そんなことを考えていると、やはりこんな自分を見れば誰もが私のことを嫌いになるだろうな、という実感が起こり、やはり外に出なくてよかったという風にも感じてしまうのだ。
結局私は人に嫌われたくないだけなのだ。皆に私のことを好きでいて欲しい。大切にされたい。普段人のものを平気で盗む人間が何を言うのだと思われるだろうが、私はいつでも、きっと笑って許してくれるはずだなんて甘えているのだ。だから平気で人の嫌がることができてしまう。考えてもみろ、誰がこんな卑怯者を好きでいてくれる? 私は変わらなければならないのだ。前向きで、いつも笑顔で、魔法の研究に真摯に取り組む、真面目で一途な魔法使いに。
私は研究室の扉を開け、仙丹の入った箱を取り出した。蓋を開けるとあの時の『失敗作』が姿を現す。しかし改めて見てみると、やはり少し苦労はしそうだが、何とか飲むことはできるように見えた。
そうだ、私はここで人を辞めるのだ。そしていつまでも輝ける星になる。そう決意した。
箱の中から仙丹を取り出す。指先が少し震えていた。何が怖いというのだろう。これを飲めば私の望むものは全て手に入る。それの何を怖れればいいというのだろう。
仙丹を持った手を口元に近づけていく。ほんの少しの動作だったはずなのに、随分と長い時間が流れたように感じる。それは実際にゆっくりとしか手を動かせなかったからなのか、それともその動きがもたらす結果を怖れていたからなのか。
唇に仙丹が触れ冷たい感触が走る。その瞬間、私はなぜかとてつもない吐き気に襲われた。胃から酸っぱいものがこみ上げてくる。それを丸ごと床にぶちまけると、どうにも嗚咽が止まらなくなった。
「お、え……っ。何だ、なんで、なん……っ」
涙があふれて止まらない。なぜだ。私の決意なんてものはそんなにちっぽけなものだったのか。
もう何もわからない。自分が何を望んでいるのかさえも。私はそのまま倒れ伏して意識を失った。
*
「うえっ……くさ」
取り戻した意識に一番に入り込んできたのは中途半端に乾いた吐瀉物の汚臭だった。頭がくらくらする。何とか取り直すと、酷い気分を引きずりながら、私は研究室の掃除をする。吐瀉物にまみれた仙丹を摘み上げて綺麗に拭くと、少しだけ考えてからまた箱にしまい直した。
手を動かしながら、私は考える。なぜあんなに取り乱したのだろう。せっかくなけなしの勇気を振り絞ったというのに、私は一体――
考えても考えても答えは出ない。掃除が片付くころには、日も随分と傾いていた。
そうしていると、再び玄関のドアを叩く音が聞こえた。今度は一体誰だろうか。霊夢がまた来たのだろうかと、私は心臓の鼓動を早めていた。
「魔理沙。いるんだろう?」
香霖の声だった。私は霊夢が香霖堂に行くというようなことを言っていたのを思い出した。霊夢に呼ばれてやってきたのだろうか。
「大方何か嫌なことでもあったんだろう。構えなくていいぞ。今は僕一人だ」
とても優しい声だった。心の奥に溜まった何か黒いものを溶かしてくれるような、そんな声。だけど、だからこそ甘えてはいけない気がした。自分の力だけで立ち上がらなくては、何も解決しないのではないかと思った。
「……魔理沙。ひょっとしたら少し出かけているだけかも知れないが、聞いていると思って話をするよ。さっき霊夢が来てね、いつもなら美味しいお酒があると言えば何をおいても飛び出してくるはずなのにおかしい、様子を見てきてくれないか、と頼まれたんだ。……きっと、友達に今の自分の姿を見られるのが嫌だったんだろう? 今の自分を見られて、嫌われたらどうしようかと」
私は黙って香霖の言葉をドア越しに聞いていた。少しだけ気恥ずかしいのと同時に、嬉しくて胸が張り裂けそうだった。私のことを理解してくれている。それがたまらなく嬉しかった。
「……なあ魔理沙。実は三日ほど前にアリス君からも話を聞いていてね。捨食の魔法――不老不死の法の話題になると君が随分と取り乱していたとね」
「……私は、臆病者なんだ香霖。人を辞めても皆に追いつけなかったらどうしようって」
言葉を搾り出す。結局他人に縋ってしまった。情けないと思いながら、それでも救われた心地がした。
「私、私は、言い訳ばっかりで、自分からはさ、何にもできなくて。でもさ、こんな、こんな卑怯者、好きになってくれる奴なんていないよな。香霖の店からも色んなもの盗んで反省もしないでさ。本当に、どうしようもないんだ、私なんか」
嗚咽交じりに言葉を紡ぐ。自分の弱さを吐き出して、誰かに重荷を押し付けて、そんなことでしか自分を保てない。そんな自分が嫌になる。
「ああ、そうだな。君は臆病で卑怯だな。そんな君を嫌う人も多いだろう」
ちくりと心が痛む。なぜだろう、私はまだ、私はそんな人間ではないとでも言って欲しかったのだろうか。
「だけど」
と、香霖が続ける。その先にある言葉が何であるのか、私には見当もつかなかった。
「……だけど、それが君なんだから仕方ないじゃないか。それに僕はそんな魔理沙が嫌いじゃない」
――ああ。
そうだ、それだったんだ。私が一番欲しかった言葉は。今ここにいる私を受け入れてくれた。こんな私を、そのままで受け入れてくれるその言葉が。
ずっと私の胸を締め付けていたものが、音もなく消えていった。
「……なあ、香霖。私は――私のままでいいのかな?」
「当然だ。……というより、君は君でしかないよ。他の何にもなれるわけがない」
心の奥で絡まっていたものが、綺麗に解けたような気がした。
ああ、そうだ。ようやくわかった。私は自分が嫌いだったんじゃない。大好きだったから辛かったんだ。私のままでは誰にも愛してくれないと思い込んで、必死で今の自分を憎もうとしていた。そんな馬鹿げたことをしていたということに、ようやく気が付けた。
今だったらはっきりとわかる。私は、人間でありたかったのだ。そう、初めに思い至ったように、ただ今を楽しむために。それは振り切るべきものなんかじゃなく、大切な私自身の思いだった。
「……ありがとう、香霖」
「どういたしまして。……僕も自分自身として生きられない辛さはよく知っているからね。誰かに救ってもらわないとどうしようもないってことも」
「え? 香霖、も?」
「まあ、昔の話だよ。半人半妖ってことで色々あってね。そのときにある人に救ってもらった」
「ある人って……」
「……それを言うのは少し恥ずかしいかな。悪いね、魔理沙」
冗談めかして香霖が言う。私は、香霖が自分と同じように悩んだことがあるということが妙に嬉しかった。その上で今の私を認めてくれているということが、どうしようもなく嬉しかった。
私は、私のままでいいのだ。背伸びをすることなんてない。自分が好きなこの自分のままで。
だけど、と思い返す。今のこの自分が好きだというのは確かだ。だけれど、空に輝く星のように、誰かに認めてもらいたいという気持ちも確かにあるのだ。それは両立できるのだろうか。
「……なあ、香霖。もう一つ」
「何だい?」
「私は……私は輝けない星なんだ。それは、よく知ってる。そんな自分が好きだったってことも、今気付かせてもらった。だけど、私は輝きたいんだ。皆に……認められたい」
しばらく沈黙が流れる。扉の向こうの香霖は、いいことを思いついたというように、うん、と一言。そしてまた優しい声音でこう言った。
「君が夜空の主役と呼んだのは一体何だったか、覚えているかい? 忘れてしまったなら、今夜月が昇る前に夜空を見上げてみるといい。君の望む答えがあるはずだ」
夜空の、主役。何だっただろう。確かにそんなことを言った記憶がある。小さな頃に――
「僕が手助けしてあげられるのはここまでだ。あとは魔理沙が自分で決めることだよ。……それじゃあ、また元気な顔を見せてくれるのを待っているよ」
「うん。……本当に、ありがとうな」
結局最後まで扉越しではあったが、香霖からは確かに大切なものを受け取った。そして最後に香霖が伝えたかったこと、それが今日の夜に見られるという。時が過ぎるのが待ち遠しいという感覚が、随分と久しぶりのような気がして、私は苦笑した。
*
夜。宵を過ぎて暗闇の帳が降りた頃、私は前のように屋根に上って空を見上げていた。空には変わらず美しい星々が瞬いている。
しかし私の心はその向こう側、輝けもしないちっぽけな星屑たちに向けられていた。それにどんな救いがあるのだろうかと、自分を重ねて眺めていた。
十分が過ぎ、二十分が過ぎても何も起こらなかった。私は少しだけ不安になる。もしかしたら香霖は、輝けない星はどうしたって輝けないのだから諦めろということが言いたかったのかも知れない、と。
だけど、ともう一つ香霖が言っていたことを思い出す。私が夜空の主役と呼んだものは何だったのか。今は忘れてしまったそれを確かめるまでは、私はここから離れるわけにはいかないのだ。
そう決意したまさにそのときだった。視界の端にきらめくものがあった。驚いてそっちを見ると、もう一つ、さらにもう一つ。そうだ、なぜこんなことを忘れていたのだろう。私が夜空の主役と呼んだもの、それは――
「流れ……星」
夜空の奥、いつもは輝けない星たちが一瞬のきらめきを見せる。誰にも見られることもなく燃え尽きるかも知れない。その輝きに意味なんてないのかも知れない。それでも、いや、だからこそ。
「綺麗、だ……」
輝けない星だからこそ放てる光がそこにはあった。ああ、そうだ。私もあんな風になろう。もしも誰にも認められず終わることになろうとも、私はこの流星の美しさを知っている。それだけで十分だ。
思えば、初めから私は流れ星をこそ美しいと思っていたのだ。全く呆れた勘違いをしていたものだと思う。
そうだ、こんな私でも、きっと一瞬くらいなら輝ける。そしてその輝きは、誰にも真似のできない輝きなのだ。この夜空に浮かぶ、輝ける星たちのそれと同じように。
そして、また一つ星が流れた。それはまるで私を祝福してくれているようで、私の顔には自然と笑みが浮かんでいた。
*
「やあ、魔理沙。……いい顔をしているな。答えは見つけられたみたいだね」
「ああ、香霖のおかげだよ。全く、私も最近はいい加減な気持ちで夜空を見てたもんだ。あんな大切なことを忘れてるなんて。……本当に、ありがとうな。しかし出来過ぎだぜ、昨日が流星群の日だったなんて。香霖はひょっとしてわかってて来たのか?」
「いや、本当に偶然だよ。君が星の話をするまではすっかり忘れていた。……まあ、天竜の思し召しってところかな」
次の日、私は香霖堂を訪れていた。一つは香霖にお礼を言うため。そしてもう一つ。
「なあ、ところでさ香霖、聞きたいことがあるんだ。……私はこの前、鬼退治の英雄になれるって言われた。鬼退治って、一体何だ?」
そう、あの時鬼の少女に言われたこと。その真意がわからず、香霖に何か知恵を貰おうと思ったのだ。
「そんなことを一体誰に――ふむ、まあいいさ。そうだな、鬼とは、『隠れたもの』を意味する『おん』という言葉が転訛したものだと言われている。隠れたもの――見えないもの、聞こえないもの、触れられないもの――つまりはわからないものだ」
得意の薀蓄が始まる。普段は話半分に聞いているが、今日は真剣に聞き入る。もしかしたらその中に混じっているかも知れない、私の知りたい答えを聞き逃さないために。
「わからない、理解できないということは恐怖をもたらす。つまり鬼とは人間に恐怖を与えるものなわけだ。さて、それはいいとして、なぜわからないということが恐怖をもたらすかだが、それはつまり、実際に見て、聞いて、触れたとき、それがもしかしたら自分にとって好ましくない結果をもたらすかも知れないからだな」
「だけど、好ましい結果が待ってるかも知れないじゃないか」
「その通りだよ。それはまさしく『わからない』。ならば、鬼を退治するための方法、わからないということを調伏する方法とは何であるか――それは、自分にとって好ましくない結果をも怖れず、わからないものを受け入れることだ。好ましい結果ばかり思い描いて中身の見えない箱を開くのはただの無謀に過ぎない。それでは箱の中に怪物がいたときに対処ができないからね。――どんな結果が待っていても受け入れようという覚悟。それこそが勇気なんだ」
勇気。その言葉で私は彼女が言っていたことを思い出す。
「そうだ、香霖。あいつは、勇気は鬼を酔わせる美酒だ、みたいなことを言っていた。それはどうなんだ?」
「何? ……ふむ、それは興味深いな。昔話の鬼退治というのは、人間が鬼を酒に酔わせて退治するものだと相場が決まっているが、もしかすると――もともとは勇気という心を見せつけ、鬼を、恐怖を乗り越えたという話だったのかも知れないな。……しかし魔理沙、その話は一体誰から聞いたんだ?」
「あー、いや、それは内緒だ。香霖だって内緒にしただろ? 香霖の恩人の話さ。だからおあいこだ」
香霖は少し釈然としないという態度だったが、何だか満足そうな顔をしていた。薀蓄を語っているときに新しくいいことを思いつけたときにする顔だ。
「そうか、勇気は鬼を酔わせる美酒、か。なるほどね……」
そして私も、欲しかった答えにはたどり着けた。自分を晒すことが怖かったのは、誰かに嫌われるかも知れないからだ。だけど本当に嫌われるかどうかはわからないし、それに自分を晒して嫌われても、今ならきっと受け入れられる。私はこの私が大好きなのだから。誰に嫌われようとそれは変わらない。私が今までしようとしていたように、自分を曲げて誰かに好かれたとしても、その自分は私が好いて欲しい自分ではないのだ。
だからもう、私は私であることを怖れない。それが勇気というのなら、なるほど私は英雄になれるのだろう。香霖に手を引いて貰ったおかげではあるが、何、昔の鬼退治の英雄だって沢山の仲間たちに支えられているのだ。恥じるようなことではない。
「霖之助さん、こんにちはー。……あら、魔理沙! どうしてたのよ、魔法の研究でもしてたの?」
そのとき、静かになった店内に霊夢の声が響いた。久しぶりに見た友人の顔は、心配の色を浮かべていた。
「あー、うん、そうだな。……ちょっと辛いことがあって落ち込んでてな。霊夢にそんなところ見られたら嫌われるんじゃないかって思って出られなかったんだ。悪い」
「何よそれ、水臭いなあ。そんなことくらいで魔理沙のこと嫌いになるわけないじゃない」
「それでも怖かったんだよう。霊夢のこと信じられなかったのは悪いと思ってるってば」
「うん、ごめんごめん。お酒でも釣られなかったもんね。よっぽど辛かったのよね」
ああ、大丈夫だ。霊夢は私を受け入れてくれている。こんな友達がいて、私は幸せだ。
ふと視線を下にやると、霊夢が酒瓶を持っているのに気が付いた。これがこの前言っていた酒だろうかと、私はそれを凝視する。
「おっ、気が付いたわね。今日は何だか魔理沙に会える予感がしたから持ってきたのよ。アリスも呼んであるわ。何か魔理沙に言いたいことがあるんですって」
「ちょっと待て、私がまだ出てきてなかったらどうするつもりだったんだよ」
「その時は二人であんたの話でも肴にして呑むだけよ」
「おい、家主を無視して盛り上がるつもりだったのか? 感心しないな」
軽口を叩き合う。ただのそれだけで心が暖かくなった気がした。しかし、霊夢があれほど美味いと太鼓判を押す酒とはどれほどのものなのだろう。期待しながらアリスが来るのを待った。
「失礼します。霊夢は来てますか? ……あ」
アリスがやってくる。私を見ると、随分と気まずそうにしていた。
「えーと、この前さ、あの……話した後、あなた全然外に出てなかったみたいじゃない? その……大丈夫かなって」
「ああ、もう大丈夫だ。それとな、せっかくだから今ここではっきりさせておくよ。私は人間を辞めるつもりはない。……不老不死ってのはやっぱり魅力だけどな。それ以上に私は人間でいたい」
人を辞めないのは怠惰なんかじゃない。言い訳にできるようなことじゃない。それは、私が望んで選んだ道なのだ。そう思うと、本当に気が楽になった。
「……そう。そっか、それは良かった」
それを聞いたアリスは、なぜかとても嬉しそうだった。不思議に思った私はアリスに聞いてみる。
「何だ、えらく嬉しそうじゃないか。何がそんなに嬉しいんだ?」
「……そうね、うん、今日はそれが言いたくて会いに来たんだけどね、私が昔人間を辞めたとき……私を育ててくれた人が言ってたのよ、人間として幸せになって欲しかった、って。私自身は別に後悔もしてないけどね。ただ、見てみたかったのよ。人間としての幸せっていうのがどういうものなのか。あなたならそれを見せてくれるんじゃないかって」
「……おう、見せてやるよ。人間の自分が大好きな普通の魔法使い、霧雨魔理沙さんがな」
「さあ、湿っぽい話はその辺にして、呑みましょう! 霖之助さん、ぐい呑み四つ持ってきて頂戴」
と、霊夢が声を張り上げる。香霖は渋々といった顔で、しかし満更でもなさそうに奥から持ってきたぐい呑みを皆に配った。
霊夢が透き通った酒を注いでいく。これは期待できそうだ。私はごくりと喉を鳴らした。
「はいっ、それじゃあね、魔理沙の――快復、とはちょっと違うかな、とにかく、元気になったのを祝しまして、乾杯っ!」
ぐい呑みがぶつかる音が鳴り響く。私は、まずは香りを楽しもうと、鼻を近づけて嗅いでみた。
――これは。
香りだけでわかる。これは本当に良い酒だ。優しく深みのある香りが立ち上ってくる。私はぐい呑みを傾け、一口すすった。すると、素晴らしく芳醇な香気が口一杯、いや、体中に広がった。深いコクがあるというのに引っかかることもなく、自然と体に染み込んでいくようで、あまりの美味さに感動して涙が出そうになった。
「これは……美味い! 何だこりゃ、こんな美味い酒呑んだことないぜ」
「うん、日本酒ってあんまり好きじゃなかったけどこれはすごいわ」
「ああ、素晴らしい香りだ。霊夢、こんなもの一体誰に貰ったんだ?」
「ふふん、そうでしょう美味しいでしょう。うんとね、話すと長くなるんだけど、去年さ、レミリアが霧を出して日光が当たらなかった時期があるじゃない? それで稲の生育が遅れちゃって、これはまずいってことで豊穣の神様をお招きしたらしいのね。それでえらく張り切っちゃったらしくて、普段より数段いいお米が取れたらしいのよ」
言われてみれば去年は随分と米が美味かったような気がする。しかし人里でそんなことがあったとは知らなかった。
「それで、酒蔵の旦那さんがこれならいけるんじゃないかって、大昔から伝わってる、秘伝の酒の造り方が書いてある古文書を引っ張り出してきたんだって。それで何度も失敗したらしいんだけど、この前ついに完成したからって、私にも分けてくれたのよ。それでこんな美味しいもの独り占めしちゃいけないと思ってさ」
「へえ……人里でそんなことがあったなんてね。吸血鬼様々ってところかしら」
「いやいや、感謝する相手はその豊穣の神様だろ?」
「そーよ、信心なさいな。それでね、えーっと、このお酒ね、何かすごく素敵な名前がついてたんだけど……」
そう言って霊夢は考え込む。私はその酒の名前が、なぜか気になって仕方がなかった。
「あ、 そうだ思い出した!」
と、霊夢は少し溜めを作る。私たちはじっと霊夢を見つめた。
「博麗大吟醸『勇気の雫』! どう、洒落た名前だと思わない?」
それを聞いて私は思わず噴き出した。香霖も少しにやついている。霊夢とアリスは不思議そうな顔でこっちを見てきた。
「そうかそうか、勇気、か。なるほどなあ。こんな美味いものは独り占めしちゃあいかんわな」
こんなに美味いものをご馳走できるというのなら、本当に英雄になってみるのも悪くはない。今は怖れるようなことは何もないが、いつかまた同じように壁にぶつかったときは、そのときは彼女に会いに行こうと思った。そして、勇気を見せ付けてやるとしよう。
「かー、美味かった。ご馳走様」
「家にまだもう一本あるからね。今度は宴会ででも出すわ」
「おー、楽しみにしてるぜ」
酒瓶に八分ばかりあった酒があっという間に無くなってしまった。しかし大変に気分が良く、残念に思うような気にもなれなかった。ここまで気持ちよく酔えたのは本当に初めてである。
「……さてと、霊夢、アリス。ちょっと弾幕ごっこでもしようじゃないか。時間あるか?」
「あら、別にいいけど、スペルカードはっと……うん、持ってきてたわね。霊夢は?」
「魔理沙がそう言うんじゃないかと思って持ってきてるわ。言っとくけど、手加減なんかしないからね」
「おう、望むところだぜ」
「気を付けて行ってくるんだよ、三人とも。この店に被害が出ないように」
「わかってるってば香霖。それじゃあ、行ってきますっと」
香霖堂から少し離れ、開けた場所に出ると、箒にまたがって空を飛んだ。霊夢とアリスも後をついてくる。
「さてと、どうしましょうかね。一人ずつ相手すればいいかしら、魔理沙?」
「おう、頼む。さてと、私は『スターダストレヴァリエ』一枚でいいぜ」
私はそう宣言する。私の、私としての輝きを込めた最愛のスペルカードだ。
「あら、随分な自信じゃないの。手加減はしないからね。私は五枚ほど使わせてもらうわよ。それでもいい?」
「もっちろん」
その声を合図に、アリスはスペルカードに書かれた式を構築し始めた。さあ、久しぶりの弾幕ごっこだ。ちゃんと箒を扱えるか一通り試してみる。よし、問題なしだ。横で見ている霊夢が私に声をかけた。
「一枚だけなんて勝負に出るわねー。負けるのが怖くないのかしら?」
「ああ、負けるのなんて怖くないね。何せ私は――」
私もまた弾幕を構築する。そこに描かれたのは私の愛した流星の魔法。いつか燃え尽きる運命を見据えながら、それでも懸命に輝こうとする生命の叫び。
「――普通の魔法使いだからな!」
この先どうなるかはわからずとも今この時、確かにまばゆく輝いてます。
魔理沙も、作者様も。
さてさて、鬼退治をなせるくらいに、普通の新星は輝けるかな?
まだ全体的に多少荒削りかなとも思ったけどここまで完成度が高けりゃ良いのかなと。
初投稿でこんな名作とかパルパルしちまうぜwww
次作も期待して待ってます<(`_´)
臆病で弱虫で自分勝手で意地っ張りで卑怯な魔理沙。
けど、臆病ながら虚勢を張っても一生懸命頑張る魔理沙。こんな魔理沙は好きです。
次もお待ちしていますよ。
自分の心と体が噛み合わない状態でぐるぐると回る思考の末、誰かの言葉をきっかけにそれを乗り越える。「普通の人間」の姿を見ました。
ただ、周囲の存在には人間なんて容易く超越してる者ばかりなので、魔理沙の悩みは切実なんでしょう。
はっ、途中自分の事を言われてるような気がして、ちょっと胸が苦しかったな。
ただ、あとがきでの語り過ぎは注意した方が良いと思います。
作品とは関係の薄い自分語りは冷める元ですし、
過去には軽率な発言で頭を下げることになった作者の方もいますので。
もしも作中の魔理沙があなたの分身だとしたら、その弱さや心の闇を真っ直ぐ見据え、客観的に捉えて描写するにはたいそう勇気が要ったでしょうから。
もっとも、客観的に捉える為の分身かもしれませんがね。
当方鬼ではないものの、美しく輝く処女作、ご馳走さまでした。
面白くて内容の濃い作品をご馳走様です