1
雨の日は午後はただでさえ気だるい気持ちになるというのに、慧音先生の授業はよどみなく進んでいきました。
窓の外から視線を教室に戻すと、背中から透明の羽を生やした子、周囲の空間が薄暗い子、頭から変な触覚を生やした子が一緒に授業を受けています。
そんな子達を見ると何か自分だけ場違いな気がして、やはりこの寺子屋の教育方針は変わっていると思わずにはいられません。
「じゃあ、この問題分かる者は手を上げなさい」
「はいはいはーい! せんせー、あたい答えたい!」
「他に誰かいないか?」
「せんせーせんせー、せーんせー!」
「じゃあ、阿求」
私は自分が指された事にも気づかずに、再び窓の外を眺めていました。
薄暗い沈んだ灰色の空から落ちてくる雨粒が、ぬかるんだ地面を跳ねて水溜り波紋を作る。
時折、強い風がふいて窓に無数の粒が打ちつけてくる音が何とも小気味良いのです。
「阿求、どうした余所見なんかして」
「あっ……すみません。わかりません」
「外を見るのもいいが、ちゃんと先生の話は聞くように」
「はい」
「じゃあ、他にわかる人は――」
「せんせぇ……うぅぅ、あたいってばサイキョーなのに」
「はあ……はい、じゃあチルノ」
「はい! わかりません!」
「おしい、正解は9でした。廊下に立ってなさい」
…………。
……。
…。
慌しく他の生徒達が教室を後にする中、私はまだ窓の外を見ていました。
どうしてこうも雨の日はやる気というか、気分というか、そういった人間の意識を行動に移す原動力が極端に減るのでしょうか。
願わくば、このまま日がな一日窓の外をぼんやりと眺めていられたら、と馬鹿な事を思いましたが、仕事のことを考えるとそうも言ってられません。
私は渋々、腰を上げました。
廊下に出ると、チルノちゃんは立ったまま眠っていました。
起こすのも可哀相なので、そのまま通り過ぎることにしましょう。
「チルノちゃん、さようなら」
外へ出ようと戸に手をかけると、思った通り強い風雨が容赦なく入り込んできました。
着物にぽつぽつと染みができたかと思いきや、もう次の瞬間には水を吸った服の重さがのしかかってきました。
これではとても帰れたものではありません。
慧音先生に相談して、せめて雨足が弱まるまで留まらせてくれないかと頼もうと思いましたが、あの先生のことです、きっと
「好きなだけ雨宿りしていくといい。服が濡れているじゃないか、風邪をひいては大変だ。さっ、早く着替えを」
と、屈託の無い親切で受け入れてくれることでしょう。
既に、授業の終了と共にはしゃいで外へと飛び出していった数人の生徒が、ずぶ濡れになって慧音先生への元へと連れられていきました。
これ以上迷惑をかけるのも、心苦しい。
私は少し考えてから、やはりこのまま帰ることにしました。
どうせ既に着物は濡れているのだし、このまま濡れた服を纏ってジッとしているよりはマシな気がします。
それに、少しでもこの倦怠感を払拭するにはいい気つけになりそうですし。
私は袴の端を両手で掴み、地面につかないようにしながら走って家に向かいました。
しかし、すぐに猛烈な後悔が襲ってきました。
顔面と頭に容赦の無い弾丸の如き雨が吹付け、まともに前を向くこともできません。
途中何度も足を止めては軒下を借りてその場しのぎをしました。
しばらくして、ようやく私の家が見えてきました。
降り注ぐ雨のしぶきが靄のように視界にかかり、幾年と見慣れているはずの我が家なのにどこか幻想的に感じました。
幻想的、という言葉に思わず失笑して視線を逸らしたその時、ふと視界に妙な物が映ったことに気づきました。
数歩先の道の端にできた、大きな水溜り。泥水がいっぱいで何も映るはずも無いその水面に、何かが映っているのです。
最初、目に雨水が入って何かを見間違えたのかと思ったのですが、どうやらそうではないようです。
青く揺らめく長い髪。
それが、確かに目の前の水溜りの中をゆらゆらと漂っているのでした。
皮肉なことに、幻想的という言葉で形容するにはあまりにも気味の悪い光景です。
耳には相変わらず雨音と風の吹き荒ぶ音しか聞こえていませんが、ふと耳を澄ますと正面から女の人の恨めしい声が聞こえてきそうな、そんな妄想が頭に浮かびました。
背筋を薄ら寒いものが這い上がるのを感じました。
服は雨でぐっしょりと濡れているのに、はっきりと分かる背中を伝う汗。
私は震える足を叩いて喝を入れながら、ゆっくりと歩を進めました。
だって、そこを通らないと家に帰れないのですから。
逃げ出したい気持ちを抑え、なるべくそっちを見ないようにしていても不思議な好奇心は私の視線を引っ張るのです。
「あれ……?」
いつの間にか、水溜りは元の濁った泥水溜まりになっていました。
ひょっとすると、ただの見間違いだったのかもしれません。
私は間の抜けた「なあんだ」という独り言をわざわざ口にしながら、家の門をくぐりました。
「ばあああぁぁっ!!!」
「くきゅっんっ……………………」
意識が遠のき、視界から光が消えました。
私はその日、多々良小傘という少女に出会いました。
2
それからというもの、雨の日は決まって小傘さんに驚かされるようになりました。
主に寺子屋からの帰り道、一人で歩いているところを狙われ、ある時は水溜りからいきなり手を突き出したり、またある時は空から急降下して、
「ばあっ!」
といった具合に大きな声と真っ赤な舌を出して私の心臓を飛び跳ねさせるのでした。
私は未だに家鳴りでさえ身を強張らせてしまうほど臆病だと言うのに、妖怪である彼女はそれを意にも介さず己の欲求にひたすら忠実でした。
私を驚かせた後は、満面の笑みで近づいてきてケラケラと声を上げ、鼻歌交じりにから傘を回して帰る彼女。
初めは、動悸が去って冷静になった後の不快感でいてもたってもいられませんでした。
人を驚かせて悦にいるなんて、質の悪い妖怪。自動的で古典的で、いかにも古臭い書物の中に出てきそうな妖怪。
罠をしかけて逆に手玉に取ってやろうと考えたこともありました。
しかし、回を重ねるごとに私は自分の中に芽生えつつある一つの感情に気づきます。
驚かされて毎度着物を泥まみれにしているというのに、だからといってその事自体に腹が立っているというわけではないのです。
大げさすぎるほどに用心していても毎回、最後は虚を突かれて相手の思うツボで情け無い、というわけでもありません。
ただ、一方的に接触されてこちらが何もできないのが口惜しいのです。
彼女は私の名すら知らないはずだし、言葉を交わしたこともありません。
その事が私の心に味わったことの無い強い欲求を与えるのでした。
「こら。そんなに外が気になるのか?」
「あっ。すみません」
「最近、雨の日はいつもそうやって外ばかり見ているな。何か面白いものでも見えるのか?」
「いえ、そういうわけでは」
「せんせー、早く答えおしえてよー。あたいってばサイキ――」
「なんで算数の教科書を出しているんだ馬鹿。今は書道の時間だろう」
気づいた時、私は雨の日が待ち遠しくなっていました。
着物も濡れれば部屋も湿気る、気分ものらない暗澹とした空。
良い事なんて何一つも無い、とあれほど毛嫌いしていた雨が降ることを心待ちにしている自分に驚かずにはいられません。
思えば、あの日から私の日記には必ず彼女が現れるようになりました。
どこに住んでいるのだろう、普段は何をしているのだろうか、好きな食べ物は何で、お風呂に入る時どこから体を――。
自分でも何がなんだかわからずに、いえ、あえてわからないように心を偽ってきましたが、日記にはその本心をしっかり吐露していたのです。
『ひょっとすると、私はあの女の人に一目惚れをしてしまったのではないだろうか』
問いかけという体をとって精一杯ごまかそうとしましたが、やはり筆に嘘はつけません。もちろん自信の記憶にも。
気持ちの整理などしていないにも関わらず、小傘さんへの好意だけは軸からぶれることなく私の生活を着々と支配していきました。
授業なんて左の耳から右の耳へと抜けていきますし、家の者が作った夕餉の味などわかりません。
布団に入ったときの冷やりとした感触も、同級生の騒ぎ声も。
一日のうちのほとんどを霧の晴れない思考で生活していると、やる気や活力といった人間にとって必要不可欠な要素が段々と抜け落ちていくのです。
手の平にすくった水が隙間を通り抜け零れ落ちていくように、頭から眼窩を通じて漏れていくように、私のそれは姿を消していきました。
時折、思い出したように書物の編纂に取り掛かっては時間を忘れました。
記憶、という力を大いに活用するためか、その時ばかりはやけに頭がはっきりとするのですが、作業が終わるとまた小傘さん一色に戻ってしまいます。
恋の病、というやつでしょうか。
単に、あの驚愕したときの脈動を胸の高鳴りと勘違いしているという可能性もあります。
とどのつまり、もうわけが分からないのです。ただ、遭って話したいという一心だけが最後に残ります。
そんなことを考えながら、また雨の日。
いつのものように、呆然と泥水にへたり込んで小傘さんの後姿を眺めながら、ついに私は耐え切れなくなって叫んでしまいました。
「……えっ、今、何て言ったの?」
初めて聞いた、まともな台詞を口にする小傘さんの声。
私は嬉しさと恥ずかしさから思わず顔を背けてしまいました。
「ねえ、今、何て言ったの? ……聞き違いかな、なんか……好きです、とか何とか言われた気がしたんだけど」
「好きです!」
「……うわぁ、聞き違いじゃない」
「いや、あの、えっと……その、違うんです」
「えっ、違うの?」
「違いません! あ、だから、えっと、その、そういうことでもなくてその、あの」
自分でも何を言ってるかわからなくなり、段々と声が雨音の中に消えてしまいました。
怖くて顔をあげることができなくて、泥水がピチャピチャと雨に跳ねる映像だけがただただ流れていきます。
何を言ったらいいのでしょう。
それ以前に、何てことを口走ってしまったのだと後悔するのが先かもしれません。
「とりあえず、風邪ひいちゃうよ。早く家に帰ったら?」
愉快な人です。
雨の日に人を驚かせて尻餅をつかせておきながら、あまつさえ、風邪の心配とは。
私は人目もはばからずに涙してしまいました。
もっとも、こんな酷い雨の中、出歩いているのなんて私くらいなものですけど。
「ええっ、一体どうしたの!? 私、何か悪いこと言った? いや、悪いことはしたけどさ」
「ち、違うんです……その、えっと、あの」
「あああ、とりあえず落ち着こう。ね? ほら、背中さすってあげるから」
余計な事をしてくれたおかげで、私は堰を切ったように泣き、嗚咽し、いつの間にか小傘さんの胸を借りて号泣していました。
混乱とは何とも恐ろしいものです。
遭遇した時のパターンをいくつも頭の中に張り巡らせて完璧にしておいたはずなのに、実際に起こってみればこんなものとは。
簡単な自己紹介を済ませてから、お食事のお誘い、色んなことをお話してからまたお会いしましょう……完。
思い描いていた幻想は見事に打ち砕かれました。
けれど、別段、執着はしていません。なぜなら、世の中には結果オーライという魔法の言葉が存在することを私は知っているからです。
「……落ち着いた? まったく、この私が逆に驚かされちゃうなんて。あー、びっくりした」
「すみません。あっ、あの、私、ずっとこうしたいと思ってて、それで」
「こうしたいって……見た目によらずエッチな子なんだね」
「ち、ち、違います! お話、です、私がしたかったのはこうしてお話をすることであって、別にその、あの」
「私とお話? どうして? あー、もしかして説教しようとかそういう――」
「違います! ……あっ、すみません。でも、本当にただお話がしたかったんです。ずっとそう思ってました」
「ふーん……まあ、いいけどね。それより、早く着替えないと本当に風邪引いちゃうよ?」
涙で服を汚してしまったこともあり、思い切って私は小傘さんを家に誘いました。
あっさりと招待を受けた小傘さんの肩を借り、私は屋敷へと向かいました。
少し冷静になってから、気づいたのですが。
息遣いが聞えるほど私は小傘さんに密着していたのです。
…………。
……。
…。
「本当に、最近どうしたんだ……? ちょっと様子がおかしいぞ」
「えっ? あ、いえ、別に。ちょっと思い出し笑いを」
そんなに奇妙な光景に見えたのか、授業中に窓の外を眺めながらクスっとしてしまったが為に、私は教室中の注目を集めてしまいました。
どうにも小傘さんのことを考えるといけません。頬が自然とにやけてしまって仕様が無いのです。
「先生、チルノちゃんが手を上げてますけど」
「あいつは放っておいても大丈夫だ。それより阿求」
「私なら大丈夫です。授業の続きをお願いします」
心配そうな顔をした慧音先生が教卓へと戻っていくのを見届けると、再び私は視線を灰色の空へと向けました。
今日は雨。
早く教室を抜け出して小傘さんに会いに行きたいのです。もはや先生の言う事も教室のざわめきも耳に届く前に消えてしまいます。
私は袂から二つの玉を皆に見つからないように取り出し、そっと机の上へ置きました。
実は小傘さんと一緒に食べるために、お昼にちょっと遠出をしてお菓子を買ったのです。
食べるのがもったいない位綺麗な色をしているので、ひょっとしたら小傘さんを喜ばせてあげる事ができるかもしれません。
「それなあに? おいしそう」
背中をつつかれて振り返ってみると、身を乗り出したルーミアちゃんが、机の上に鎮座しているそれを物欲しそうな瞳で見つめていました。
ルーミアちゃんは食いしん坊で有名なので内心焦りましたが、今は授業中。流石の彼女も手を伸ばすことはなさそうです。
しかながら、口の端から透明の液体がタラタラと溢れてくるのを横目で見ていると、いじましい気持ちになります。
「食べます?」
「いいの!?」
「はい。でも、先生にばれない様にこっそりと食べてくださいね」
「うん! ありがとう!」
ルーミアちゃんは本当に嬉しそうにはにかみなが飴玉を受け取り、乗り出した上半身を引っ込めました。
背中越しに、おいひぃ、という可愛らしい小さな悲鳴を聞いて、私は嬉しくなりました。
全体的にこの教室には妖怪や人間といった種族を問わず、子供っぽい雰囲気を残した子達が多いようです。
「阿求……」
そんな私を見て慧音先生がまた不安そうな顔を浮かべたので、私は授業中であることも忘れ、今のは思い出し笑いではないのだと必死に弁明しました。
授業が終わった後、なぜか、先生方の詰め所に呼び出しを受けてしまいました。
慧音先生が腕組みしてその大きな胸を強調して仰ることには、
「はっきり言って、最近の阿求はおかしい。別に悪気があって言ってるわけではないぞ。本当に、おかしいんだ」
と。
その歯に衣着せぬ物言いに思わずたじろいでしまいました。
なぜこの先生はそんな酷い事を言うのでしょう。
私は謂れの無い一方的な糾弾を噛み砕いて冷静になろうと努めました。しかし、先生はそれを許してくれません。
何でも、ここ数日の間に私がやつれたらしいのです。
「肉体的な事を言ってるんじゃない」
心だ、と先生は私の胸を指差し言いました。
正直のところ、私は先生の言っていることの半分、いえ十分の一も理解できませんでした。
「先生、何を言っているのですか? 私はどこも悪くありませんよ」
「いや、長らく生徒を見てきたからこそ分かるんだ。お前はどこか病んでいる」
「酷いです。それじゃあまるで私がおかしな人みたいじゃないですか。先生は、私が狂人だとでも仰るのですか?」
「そういうわけじゃない。ただ、お前の心には」
「慧音」
急に、後ろから女性の声がして思わず振り返りました。
長い髪を一纏めにした妹紅先生がそこに居ました。
彼女もまた生徒想いの良い先生で、親身になって悩み事を聞いてくれると有名な方です。
それでいて時々子供っぽい仕草や、よくチルノちゃんや大ちゃんと本気になって遊んでいるところを見かけます。
そんな可愛げのある先生が、眉をひそめて慧音先生の方を見つめていたので驚きました。
「お前、その言い方はちょっと酷すぎるんじゃないか? 阿求の話も聞かないでそんな一方的に」
「妹紅、お前はまだ生徒達と触れ合って日が浅い。何も分かってないんだよ」
「分かってないのは慧音のほうだろ。女の子をこんなに怯えさせて、それが先生のやることなのか?」
肩に優しく置かれた妹紅先生の白い手がとても暖かい。
どうやら妹紅先生は、私の釈然としない表情を、恐怖で何も言えないものだと勘違いしたようでした。
あの慧音先生が生徒をいじめている、そんな馬鹿げた想像をするなんて何だかとても滑稽な気がして笑いがこみ上げてきました。
とても笑える雰囲気が漂っていない事が、かえって私の腹膜辺りを刺激するので我慢ができそうにもありません。
「大丈夫、慧音先生は私がやっつけるからな」
「なっ、馬鹿な事を言うな! 私は阿求をなじってるわけじゃないぞ」
「泣かせておいて言い訳か? ホント酷いやつだなお前は!」
笑いを堪えて肩を揺らしていたのを、今度は声を押し殺して泣いている姿に捉えられたようでした。
頭上に二人の先生の喧々諤々を聞き流しながら、私の頭には、早く小傘さんに会いにいきたいという想いしかありませんでした。
慧音先生が言わんとしていることも、それを取り違えて私の擁護に必死になっている妹紅先生の健気さも、もはやどうでもよかったのです。
3
仲良くなるのにそう時間はかかりませんでした。
私は雨の日の一件以来、小傘さんとよく遊ぶようになりました。
遊ぶ、といっても別に里の人を一緒に驚かせたりだとか、寺子屋の皆さんとかくれんぼをするとかそういうわけではありません。
ただ、屋敷に小傘さんを招いて昼食をご一緒して、世間話に花を咲かせたり、幻想郷縁起の資料集めに貢献してもらったりするだけです。
私は頭の片隅で、実際に小傘さんと普通の会話や触れ合いをしたら途端に、日記や燻ぶった心に募らせてきた想いが冷めるのではないか、という寂しい憂いを抱いていました。
事実は小説より奇なりとはよく言いますが、その逆も叱りなのです。
しかし、蓋を開けてみれば全然そんなことは無く、ただの杞憂に終わりました。
私はただ純粋に多々良小傘という一人の妖怪少女に惹かれていた、という事実が判明しただけです。
思わず手で櫛をすきたくなるような、くせのある透き通った雨色の髪や、見ているとその中心に吸い込まれそうになる左右異なる瞳の色、時折見せる妖艶に私を魅了する真っ赤な舌。
未だ殿方の感触や温もりすら知らない私が、種族が違うとは言え、女の子に興味を持ってしまうなんて一体誰が予想できたことでしょう。
なるほど、恋は思案の外とはまさに言い得て妙だと身を以て実感しました。
「どうしたの、阿求ちゃん。さっきからボーっとしちゃって」
この人の為なら、例え驚かされて心臓を止めてしまったとしても良い。
心を喰われて殻になっても本望です。短い一生を身を焦がすような恋慕に捧げるなんて、何だか乙女ですね。
「おーい」
「あっ、すみません……ちょっと考え事をしてました」
「なに、また私のこと?」
「はい……あっ、いえ違います!」
「素直だなぁ阿求ちゃんは。ほら、お姉さんがいい子いい子してあげるからおいで」
「子供扱いしないでください!」
「まあまあ、そう言わずに。ほらほら」
最後まで抗議していても、結局私は誘惑に勝てず小傘さんにもたれかかるのでした。
恋という自分の中で論理的に整理した想いと、思いきり甘えたいという欲動にも似た感情を天秤にかけると、どうしても後者に傾いてしまうのです。
所謂、頭では分かっているのに体が、というやつです。
「可愛いな、阿求ちゃんは。食べちゃいたい」
「冗談に聞こえませんよ。でも……小傘さんになら」
「えっ、なに?」
「食べられても、いいです……なんて」
「ホントに~? ものすごい大胆発言だけど、私、本気にしちゃうよ、いいのかなぁ」
障子の向こうに雨のさざめきを聞きながら、私は無言のまま小傘さんに身を預けました。
すべすべした白い手が私の首元から顎の下へ滑らかに動いていきます。くすぐったくて身をよじろうとしたら、それをもう片方の手で防がれました。
瞳が熱くなりました。何かが体からジワリと染み出てくるような不思議な感覚。
小傘さんの顔を見上げると、色素の薄い唇の端が持ち上がって少しだけ怖いなと思ってしまいます。
けれどすぐに目を細めて優しく見つめてくれるのです。するとまた、体の奥がカーッと熱くなってきます。
触れたい。
手を伸ばしてあの柔らかくて白い頬に触れたい。
もっと強い力でそれを阻まれました。
今度は首を伸ばして顎を前に突き出して唇に触れようとしました。
グッと力が肩に入って床に戻されました。
そうしているうちに、小傘さんが私の上に覆いかぶさるような格好になりました。
耳には依然として雨の音だけが届いています。
「あっ……あの、その、できるだけ優しくお願いします……」
「どうしようかな。私、妖怪だからその辺上手く加減できないんだよね~」
そう言ってニヤリと笑みを貼り付ける小傘さんの表情は、以前に見たあの表情。
人を驚かせて悦びを噛み締めている悪戯っぽい笑み。
私は全てをゆだね、体から力を抜きました。
「好きです」
自然と気持ちが口をついて出ました。
「私も好きだよ……特に」
私は目を閉じました。
「驚いた時の阿求ちゃんは最高だよ!」
「ひゃぁぁっ!?」
いきなり、着物の襟をグイと掴まれたかと思うと、小傘さんがその手を中に滑らせたのです。
その唐突さと冷たい感触に思わず声と悲鳴と、そして、手が出ました。
「いったーい……いきなり酷いよ」
「そ、それはこっちの台詞です! 何するんですか、いきなり!? あっ、あんなに良い雰囲気だったのにそれを……」
妙な期待と得体の知れない感覚は消え失せ、沸々と怒りがこみ上げてきました。
この人は一体何を考えているのだろう。
せっかく何かが始まりそうな流れだったのにそれを、あろうことか悪戯に変えるなんて。
私は頭に血が駆け上がるのを感じながら、必死にそれを御そうとしました。
「ごちそうさま。いやぁ、やっぱり阿求ちゃんの驚きは最高の美味だね」
「何がごちそうさまですか! と、時と場合を考えてください!」
「ん? 時と場合って?」
怒りのあまり、私は小傘さんの口角がまた上がっていることに気がつきませんでした。
「ねえねえ、阿求ちゃんや。一体、何を期待していたのかな?」
「えっ……あっ、えっと別に何かを期待していたとか、そういうことでは無くてですね、つまりえっと――」
「こういうこと?」
唇に湿った熱い感触がしたかと思うと、すぐ目の前に小傘さんの顔がありました。
目を瞬き、今起こっている事が、はて一体何を意味するのか理解するまで、私はぼんやりと雨音と心音に耳を傾けていました。
「……やっぱり阿求ちゃんの驚いた顔は最高だね」
…………。
……。
…。
「だから、悪かったってば。私はほら、妖怪だから、欲望に忠実って言うか衝動を抑えられないというか……そんな拗ねないでよ、ね?」
「そうやって子ども扱いしないでくださいっ」
「って言っても実際子供じゃない。おっぱい小さいし」
頭の奥で火花が散りました。
言うに事欠いて、本人が気にしている身体的特徴を……なんてデリカシーの無い人なのでしょうか。
私は小傘さんをきっと睨み付け、床に放っておいた足袋をいそいそと足に通しました。
手早く着付けを済ませ部屋を後にします。
「ちょっと、ホントに怒っちゃったのー? ねえ、ごめんってばー」
「編纂作業がありますので、これにて失礼します。小傘さんはここでゆっくりしていらしてください。では」
背中に本気かどうか分からない謝罪の言葉を聞きながら、私は書斎へと向かいます。
完全に手玉に取られている事実が私は許せないわけではなく、どうやっても私の本気に答えてくれる気配の無い小傘さんの冗談めいた態度に腹が立つだけです。
こうやってそんな事に一々、ムキになってるところが子供っぽいと言われる理由なのでしょうが、私には関係ありません。
子供だろうと何だろうと、好きという気持ちを適当にあしらわれて頭にこないわけが無いのです。
あんなことまでしておいて。
冗談や悪戯で済ますには度を超えています。
「……もうっ!」
分かっています。
小傘さんは妖怪で人の驚く心を食べる習性があります。特に私のそれは美味だということも幾度と本人の口から伺っています。
ですが、いくらなんでもこの仕打ちはあんまりです。
廊下を歩きながら、いつしか私の瞳からは大粒の涙が零れ落ちていました。
家の者には見られたくないのですが、苛立たしく大きな音を立てて歩いていたせいで否応無しに注目を集めてしまいます。
心配の言葉などいりません。ただ、少し一人にしてほしい。
私は書斎へ入ると、喉がヒリヒリと痛むまで咽び泣きました。
初めは怒りだったはずなのに、いつの間にか寂しい気持ちと悲しい気持ちがごちゃ混ぜになって涙を落としていました。
どこまで深く沈んで行くのだろうと心配しながらも、心が上手く制御できません。
まるで、自分が悲しい恋物語に出てくる主人公になったかのようでした。
恋人に裏切られ、かと言ってその想いを断ち切れずこの世に未練を残していった女。
冷たい暗闇に身を投げる悲恋のヒロインが、妄想の中で私の姿と重なりました。
涙が止まりません。
頭がボーッとしてくる頃にはすっかり雨もやみ、少し開いた障子の隙間から西日が差し込んでいました。
すっかり泣き疲れてしまい、もはや何もする気が起きません。ちょうど、雨が降っているあの気だるい感情に近いものが体中に広がっていました。
うつ伏せになった体を今度はそのまま後ろに倒して、大の字に。
まだはっきりとしない視界で、私は天井の染みを数え始めようと手を伸ばしました。
「わぁぁっ!?」
その手をいきなり掴まれました。
白くて細い女性の手。
「な、な、……何を」
「まあまあ、落ち着いて。あーあ、もうこんな目が腫れるまで泣いてくれちゃって」
「だ、誰のせいだと思っているのですか! もういい加減に」
小傘さんのそう長くないクセ毛が耳をくすぐり、頬に熱い感触が伝わりました。
あ、あ、と喉元まで出掛かった抗議の言葉が声にならずに消えていきます。
いけない、また丸め込まれてしまう。
頭では分かっているのに体が抵抗できませんでした。目の前にある小傘さんの顔を見つめると、いつに無く真剣な表情をしていました。
「なんの、つもりですか」
「何だと思う? 先に言っておくけど、別にこれから驚かせるつもりは無いよ。もうお腹いっぱいだしね」
「……」
「やだな、そんな怖い顔しないでよ」
普段ニヤニヤしてばかりいる小傘さんの無表情は、何かそれだけで私の心に重圧をかけてくるようです。
「私、阿求ちゃんに嫌われちゃったのかー」
嫌われる。
そんな安い言葉を口にされただけで、私の心臓は意味も分からず鼓動を速めていきました。
焦燥が抑えられない。
「そ、そんなわけじゃっ……あっ、えっと、別に私は小傘さんのことが嫌いになったわけじゃなくて、その」
「嫌いなんだぁ……でもまあ」
「だから、嫌いじゃ――」
何を勝手に熱くなっているのやらと思いながらも、私はつい声を荒げてしまいます。
しかし、そう叫ぶ唇は小傘さんの人差し指によって遮られてしまいました。
「阿求ちゃんを好きなのは私なんだから、何の問題もないか」
何を言っているのだろうこの人。
問題は大有りです。
「驚かせたってチューしたって、相手の気持ちを考えて無いんだから結果はどうあっても良いでしょ?」
「い、良い訳ないじゃないですかっ! 何言ってるんですか!? そ、それじゃあ、何ですか、小傘さんは私に嫌われても平気なんですか!?」
「え~、嫌われるのは正直傷ついちゃうな」
「なっ……言ってる事の意味がまるでわかりません。嫌われるのがいやなら、そういう嫌われる事をしなければいいじゃないですか」
「うーん、それもまた難しい話なんだよね。だってほら、私ってこういう妖怪でしょ? 私がやって嬉しい事は相手にとって必ずしも、いや、十中八九で不快になるようなことなんだよ。
だけど、私は自分の欲求を抑えるくらいならいっそ相手の気持ちなんか考えないでいい。そういう考えだから」
「でも、今、私のこと好きだって……」
「そう、好きだよ。だから、私が阿求ちゃんを好きならそれでいいの。それって私が嬉しいと思ったことだからね。
なんかこう誰かを好きでいる気持ちってそれだけで幸せな気持ちになるじゃない。ね?」
まるで、捲くし立てられているかのようでした。
相変わらず小傘さんの言葉は私を混乱させるのですね。
要はそれって単に自己本位の塊じゃないですか。私の気持ちはまるで無視ですか、ああそうですか。
「それでもって、阿求ちゃんに好きって言われた時は、もう、なんか訳がわかんなくなるくらい嬉しかったんだよ」
ああそうですか。
「……私もですよ、ああ、もうっ!」
4
久しく太陽を見ていない気がしました。
頭の中を掘り起こしてみても、思い描くことのできるのは、鈍い灰色に覆われた空。天を仰げば、瞳に冷たい雫が落ちてくる。
私は教室の外を容赦なく照りつける陽射しが本物かどうかを判断することができませんでした。
赤茶けた地面を揺らぐように陽炎ができています。それは目に映る事実。
「おい、阿求。まだ授業中だぞ」
自身の中に芽生えた理由の無い猜疑心――空が晴れている?――を確かめたくなった私は、フラフラと教室の外へと出て行きました。
当然、慧音先生が黙っているわけもありません。
気がつくと、私は廊下の壁を背にして、先生に押さえつけられるような形で立ちすくんでいました。
「なあ、阿求。先生と一緒に診療所に行こう、な?」
慧音先生は、今まで見た中で一番優しい表情でした。
でも私の返答は、具合が悪いので家で休みます、でした。
私の肩を掴んでいた先生の手から力が抜けました。
外に出ると、想像以上の陽光が私を責めるように降り注いできました。
遠くから蝉の鳴き声らしきものや、風の吹く音がしています。私は間違いなく外に出たのだと確信しました。
上を見上げる。
一点の曇りも無い青空が広がっています。
なぜか妙な懐かしさが心の中に広がっていきました。
目を閉じ、大きく深呼吸をしてみます。
空気中に郷愁の粒が混じっているかのように、私は息を吸い込むたびに、自分でもよくわからない気持ちがこみ上げるのを感じました。
不思議な話です。ここは紛れもなく私の故郷だというのに。
ふと、血潮で赤く染まった視界が黒で覆われました。
思わず目を開けると、そこには、
「どうも。お久しぶりですね」
射命丸文さんが太陽を背にして、私の頭上に静止していたのです。
手には相変わらず黒くてゴツゴツした文明の利器、そして、自社出版の新聞のネタを記す手帳。
「お散歩ですか? 今日はまたいい天気ですからね」
ふわりと音も立てずに目の前に着地する彼女。
より高い場所に身を置いているせいか、額には大粒の汗ができていました。
「何か私に御用ですか?」
射命丸さんは目を丸くして、かと思うと、今度はニヤニヤと下卑た笑みを貼り付けていました。
「どうやら噂は本当だったみたいですね」
「何を言っているのですか?」
「いや、実はですね、数日前から人里にちょっと面白い噂が流れてまして。
今日はそれを確かめにやって来たところ、偶然、貴女の姿を発見した次第なのですよ」
意図が分からないのですが、正直、私は彼女の話には微塵の興味も沸きませんでした。
一礼して、私は先生に言った通り、家に帰ることにしました。
「稗田の娘が妖怪に憑かれた……ふむ。わざわざ来た甲斐がありました」
黒い翼を羽ばたかせる音。
振り返るともう彼女の姿はどこにもありませんでした。
さすが、幻想郷最速の名は伊達では無いようです。
…………。
……。
…。
家につく頃には、すっかり日が傾いていて、足が棒のように疲れていました。
いや、実際棒になっている錯覚さえ覚えました。立っているのが不思議なくらいに。
うな垂れた視線の先に、見覚えのある長い影がありました。
「またお会いしましたね」
「射命丸さん? どうしたんですか、こんなところでまで。噂とやらはもう見極めたはずでは?」
「あはは。噂の真偽だけでは民衆の心を掴むことはできませんよ」
こっちはクタクタだというのに、かかと笑う彼女の姿が目に痛い。
一体何の用事でしょう。
「実は取材しているうちに、ある人からどうしても、と頼みごとをされてしまいまして」
「はあ。それは一体どこのどなたで、何を頼まれたというのでしょうか?」
「まあまあ、落ち着いて落ち着いて。どうです、お茶でも飲みながらその辺じっくり――」
「結構です。では私はこれで」
何か言いたそうな彼女の口が開く前に、私は駆け出していました。
家はすぐ目の前にある。
だというのに、
「待ってください」
強い力で肩を掴まれて、思わず手が出てしまいました。
「離してください! 人を呼びますよ!」
「あややや……これは重症ですね。のんびり茶を飲んでる場合ではありませんね」
「離してっ! だ、誰かーっ!!」
必死に射命丸さんの腕を振り解こうとしても、相手は妖怪。私のような非力な人間になす術などありません。
困ったように笑う彼女の表情とは裏腹に、ギチギチという幻聴が聞こえんばかりに腕が締め上げられていきます。
「落ち着いてください」
それでも、私は諦めずに抵抗を続けました。
思い切って、体を捻って地面に身を投げ出した、その時でした。
私の着物の裾から、何か丸いものが2つ飛び出して、そのまま地面をコロコロと転がっていきました。
夕陽を浴びてテラテラと輝くそれは、どこかで見た記憶があるのに、正体は陽炎のように覚束ない。
あれは確か――
「まあ、とりあえず依頼人の名だけ言ってしまいます。多々良小傘さんです」
地面を転がるそれが何だか理解しかけた意識が強引に、射命丸さんの言葉へ引き寄せられました。
確かに、今、
「小傘さん……? なにを言っているのですか」
「ですから、私に貴女を助けて欲しいと依頼してきたのは、多々良小傘さんという妖怪少女で」
彼女の口から小傘さんの名が出たのも疑問でしたが、さらに私は依頼内容が私の救済だということに混乱しました。
射命丸さんに促され、大きく深呼吸をします。
数回ほど宵闇の澄んだ空気を飲み込み、目頭を押さえて頭を整理すると、意外にもあっけなく心に平静が戻りました。
その様子を気取って、射命丸さんが再び口を開きました。
「ちょうど、上白沢慧音さんの寺子屋を訪ねた時でした。入り口に、大きな唐傘をクルクル回した小傘さんが佇んでいました」
話は以下のように続きました。
小傘さんは私の様子を見に寺子屋を訪れたようで、お昼になっても出てこない私が心配になって、中に入ろうか否かを迷っていました。
そこに射命丸さんが声をかけると、彼女はバツの悪そうな表情で事の顛末を話してくれました。
大好きな人が妖怪に取り付かれて心を喰われている。どうにか助ける方法は無いか、と。
「途中から慧音さんも参加してきて、そりゃあもう、てんやわんやになってしまいました。話がこじれたとも言いますね」
「ま、待ってください! 話が全然見えてこないのですが」
「えっ? わかりませんか?」
「ええ、まったく」
「うーん、個人的には実に分かりやすく状況説明をしたつもりなのですが。あれですか、もっと雰囲気が伝わるように周りの描写を」
「そうじゃなくて。私の心が妖怪に食べられている、というくだりです」
射命丸さんの目元にうっすらと笑みが見えました。
はっ、と無意識に惚気を口にしてしまったことを後悔しました。誰も、小傘さんの大好きな人が、即ち私だとは言って無いことに。
「ふふっ、その、『薄命の少女×付喪神の妖怪少女』、という見出しは次の文々。新聞に載せるとして」
「……」
「貴女は妖怪にとり憑かれているのですよ。そして、その妖怪は貴女の心を喰う。そしてそして、その妖怪は多々良小傘さんではありません」
小傘さん以外に一体誰が、と当然沸き起こる疑問を口にしようとした瞬間、
「ばああああぁぁぁぁっ!!!」
おどろおどろしい女性の叫びが、爪先から頭のてっぺんまで響き渡りました。
ふと油断したら途端に腰が抜けてしまうほどの恐怖が全身に走り、体の芯から急速に体温が無くなっていく、そんな感覚に襲われたのです。
声のした先には、青く長い髪を地面にたらした白装束の女性が居ました。
「あれですよ。貴女の心を蝕んでいたのは」
何ですか、あれは。
後ろを向いているのか前を向いているのか分からない動きで、しかし確実にその女性はこちらへ向かってきている様子でした。
骨が入っていないかのように脚は奇妙な方向に曲がり、大きく左右に肩が揺れる度にジャリジャリと嫌な音を響き渡らせています。
あれが私に憑りついていたなどと言う話はまるで信じられませんでした。
「おお怖い怖い。まるで怨念の塊ですね」
あまりにものんびりした口調で言うので、私はなぜそんな余裕で居られるのか、甚だ疑問でした。
ズルズルと足だか手だか分からないものを引き摺りながら、それは私達との距離を狭めんとしているのに。
あんなものがもし体に触れようものなら、途端にその瘴気で皮膚が腐り落ちてしまいそうです。
が、その疑問も恐れも程なくして消えることとなりました。
怨嗟の言葉をお経のように呻くその女性の背後に、遠くからでも分かるほど見覚えのある紅白の巫女装束。
なるほど、射命丸さんの落ち着き払った様子に冗談めかした言葉。全て納得がいきました。
巫女装束から、すっとお払い棒を手にした腕が振るわれたのと、喉の奥から搾り出すような絶叫が聞こえたのはほぼ同時。
髪を振り乱した女性が体を不自然な逆くの字に曲げたかと思うと、あっという間に飴色の夕陽の中に霧散して消えてしまいました。
結局、何が何だか分からないうちに、
「これにて一件落着ですね。うーん、新聞にするにはもう少し色が必要なところですが」
無題の演目は第三者の介入によって幕を閉じました。
一瞬ですが、あの女性が消える間際、その顔をはっきりと確認しました。
その眼窩にあるべきものが無いことに戦慄しつつ、私はぽかりとあいた空間をただただ眺めていました。
5
「じゃあ、この問題を……阿求、解いてみなさい」
先生に言われるがまま教卓へ進むと、私は自信満々に白墨を縦横無尽に走らせました。
背後に感じる好奇の視線と、あちこちからもれる感嘆の吐息。
「よくできました」
先生の拍手を皮切りに、教室中の拍手喝采が私を包みます。
私は一礼して席に戻ると、周りの子達から賞賛の言葉をかけられ頬を熱くしました。
なんて清々しく気持ちの良いことでしょう。
私は思わず小躍りしたくなってしまいました。
「こらこら、はしゃぎすぎだぞ、お前たち」
…………。
………。
…。
お昼になり、隣の子、後ろの子、前の子と席をあわせて昼食をとる私。
家の者が用意してくれた3段になった重箱をお披露目し、
「あーん」
と、ルーミアちゃんにまずは一口。
「ずっるーい! あたいにも、あたいにもー!」
はいはい、と微笑ましい気持ちを胸に、チルノちゃんに一口。
「……」
無言のままの少女に、半ば無理やり一口。
そして、照れくさそうにおいしいと返してくれた笑顔に、くすぐったい気分になる私が一口。
楽しいひと時を過ごしました。
…………。
………。
…。
寺子屋の皆にさよならの挨拶をし、私は帰路へつきました。
家に帰ると、私は真っ先に書斎へ向かいました。
「おかえり」
ただいま、と告げ、そのまま私は鼻息を荒げて彼女に飛び掛りました。
「すごい元気だね。何かいいことでもあった?」
「いえ、特に。私はいつもこんな感じでは?」
「そうだったかな。よく思い出せないんだけど、阿求ちゃんはもっとこう、大人しかったというか、子供っぽかったというか――」
「それはただの記憶違いですよ」
強引にその薄い唇を奪うと、そのまま彼女はそっと目を閉じます。
「……優しくしてね」
「ええ。わかってます」
机に置かれた日記を横目に、私は小傘さんの衣類へと手をかけました。
Fin
雨の日は午後はただでさえ気だるい気持ちになるというのに、慧音先生の授業はよどみなく進んでいきました。
窓の外から視線を教室に戻すと、背中から透明の羽を生やした子、周囲の空間が薄暗い子、頭から変な触覚を生やした子が一緒に授業を受けています。
そんな子達を見ると何か自分だけ場違いな気がして、やはりこの寺子屋の教育方針は変わっていると思わずにはいられません。
「じゃあ、この問題分かる者は手を上げなさい」
「はいはいはーい! せんせー、あたい答えたい!」
「他に誰かいないか?」
「せんせーせんせー、せーんせー!」
「じゃあ、阿求」
私は自分が指された事にも気づかずに、再び窓の外を眺めていました。
薄暗い沈んだ灰色の空から落ちてくる雨粒が、ぬかるんだ地面を跳ねて水溜り波紋を作る。
時折、強い風がふいて窓に無数の粒が打ちつけてくる音が何とも小気味良いのです。
「阿求、どうした余所見なんかして」
「あっ……すみません。わかりません」
「外を見るのもいいが、ちゃんと先生の話は聞くように」
「はい」
「じゃあ、他にわかる人は――」
「せんせぇ……うぅぅ、あたいってばサイキョーなのに」
「はあ……はい、じゃあチルノ」
「はい! わかりません!」
「おしい、正解は9でした。廊下に立ってなさい」
…………。
……。
…。
慌しく他の生徒達が教室を後にする中、私はまだ窓の外を見ていました。
どうしてこうも雨の日はやる気というか、気分というか、そういった人間の意識を行動に移す原動力が極端に減るのでしょうか。
願わくば、このまま日がな一日窓の外をぼんやりと眺めていられたら、と馬鹿な事を思いましたが、仕事のことを考えるとそうも言ってられません。
私は渋々、腰を上げました。
廊下に出ると、チルノちゃんは立ったまま眠っていました。
起こすのも可哀相なので、そのまま通り過ぎることにしましょう。
「チルノちゃん、さようなら」
外へ出ようと戸に手をかけると、思った通り強い風雨が容赦なく入り込んできました。
着物にぽつぽつと染みができたかと思いきや、もう次の瞬間には水を吸った服の重さがのしかかってきました。
これではとても帰れたものではありません。
慧音先生に相談して、せめて雨足が弱まるまで留まらせてくれないかと頼もうと思いましたが、あの先生のことです、きっと
「好きなだけ雨宿りしていくといい。服が濡れているじゃないか、風邪をひいては大変だ。さっ、早く着替えを」
と、屈託の無い親切で受け入れてくれることでしょう。
既に、授業の終了と共にはしゃいで外へと飛び出していった数人の生徒が、ずぶ濡れになって慧音先生への元へと連れられていきました。
これ以上迷惑をかけるのも、心苦しい。
私は少し考えてから、やはりこのまま帰ることにしました。
どうせ既に着物は濡れているのだし、このまま濡れた服を纏ってジッとしているよりはマシな気がします。
それに、少しでもこの倦怠感を払拭するにはいい気つけになりそうですし。
私は袴の端を両手で掴み、地面につかないようにしながら走って家に向かいました。
しかし、すぐに猛烈な後悔が襲ってきました。
顔面と頭に容赦の無い弾丸の如き雨が吹付け、まともに前を向くこともできません。
途中何度も足を止めては軒下を借りてその場しのぎをしました。
しばらくして、ようやく私の家が見えてきました。
降り注ぐ雨のしぶきが靄のように視界にかかり、幾年と見慣れているはずの我が家なのにどこか幻想的に感じました。
幻想的、という言葉に思わず失笑して視線を逸らしたその時、ふと視界に妙な物が映ったことに気づきました。
数歩先の道の端にできた、大きな水溜り。泥水がいっぱいで何も映るはずも無いその水面に、何かが映っているのです。
最初、目に雨水が入って何かを見間違えたのかと思ったのですが、どうやらそうではないようです。
青く揺らめく長い髪。
それが、確かに目の前の水溜りの中をゆらゆらと漂っているのでした。
皮肉なことに、幻想的という言葉で形容するにはあまりにも気味の悪い光景です。
耳には相変わらず雨音と風の吹き荒ぶ音しか聞こえていませんが、ふと耳を澄ますと正面から女の人の恨めしい声が聞こえてきそうな、そんな妄想が頭に浮かびました。
背筋を薄ら寒いものが這い上がるのを感じました。
服は雨でぐっしょりと濡れているのに、はっきりと分かる背中を伝う汗。
私は震える足を叩いて喝を入れながら、ゆっくりと歩を進めました。
だって、そこを通らないと家に帰れないのですから。
逃げ出したい気持ちを抑え、なるべくそっちを見ないようにしていても不思議な好奇心は私の視線を引っ張るのです。
「あれ……?」
いつの間にか、水溜りは元の濁った泥水溜まりになっていました。
ひょっとすると、ただの見間違いだったのかもしれません。
私は間の抜けた「なあんだ」という独り言をわざわざ口にしながら、家の門をくぐりました。
「ばあああぁぁっ!!!」
「くきゅっんっ……………………」
意識が遠のき、視界から光が消えました。
私はその日、多々良小傘という少女に出会いました。
2
それからというもの、雨の日は決まって小傘さんに驚かされるようになりました。
主に寺子屋からの帰り道、一人で歩いているところを狙われ、ある時は水溜りからいきなり手を突き出したり、またある時は空から急降下して、
「ばあっ!」
といった具合に大きな声と真っ赤な舌を出して私の心臓を飛び跳ねさせるのでした。
私は未だに家鳴りでさえ身を強張らせてしまうほど臆病だと言うのに、妖怪である彼女はそれを意にも介さず己の欲求にひたすら忠実でした。
私を驚かせた後は、満面の笑みで近づいてきてケラケラと声を上げ、鼻歌交じりにから傘を回して帰る彼女。
初めは、動悸が去って冷静になった後の不快感でいてもたってもいられませんでした。
人を驚かせて悦にいるなんて、質の悪い妖怪。自動的で古典的で、いかにも古臭い書物の中に出てきそうな妖怪。
罠をしかけて逆に手玉に取ってやろうと考えたこともありました。
しかし、回を重ねるごとに私は自分の中に芽生えつつある一つの感情に気づきます。
驚かされて毎度着物を泥まみれにしているというのに、だからといってその事自体に腹が立っているというわけではないのです。
大げさすぎるほどに用心していても毎回、最後は虚を突かれて相手の思うツボで情け無い、というわけでもありません。
ただ、一方的に接触されてこちらが何もできないのが口惜しいのです。
彼女は私の名すら知らないはずだし、言葉を交わしたこともありません。
その事が私の心に味わったことの無い強い欲求を与えるのでした。
「こら。そんなに外が気になるのか?」
「あっ。すみません」
「最近、雨の日はいつもそうやって外ばかり見ているな。何か面白いものでも見えるのか?」
「いえ、そういうわけでは」
「せんせー、早く答えおしえてよー。あたいってばサイキ――」
「なんで算数の教科書を出しているんだ馬鹿。今は書道の時間だろう」
気づいた時、私は雨の日が待ち遠しくなっていました。
着物も濡れれば部屋も湿気る、気分ものらない暗澹とした空。
良い事なんて何一つも無い、とあれほど毛嫌いしていた雨が降ることを心待ちにしている自分に驚かずにはいられません。
思えば、あの日から私の日記には必ず彼女が現れるようになりました。
どこに住んでいるのだろう、普段は何をしているのだろうか、好きな食べ物は何で、お風呂に入る時どこから体を――。
自分でも何がなんだかわからずに、いえ、あえてわからないように心を偽ってきましたが、日記にはその本心をしっかり吐露していたのです。
『ひょっとすると、私はあの女の人に一目惚れをしてしまったのではないだろうか』
問いかけという体をとって精一杯ごまかそうとしましたが、やはり筆に嘘はつけません。もちろん自信の記憶にも。
気持ちの整理などしていないにも関わらず、小傘さんへの好意だけは軸からぶれることなく私の生活を着々と支配していきました。
授業なんて左の耳から右の耳へと抜けていきますし、家の者が作った夕餉の味などわかりません。
布団に入ったときの冷やりとした感触も、同級生の騒ぎ声も。
一日のうちのほとんどを霧の晴れない思考で生活していると、やる気や活力といった人間にとって必要不可欠な要素が段々と抜け落ちていくのです。
手の平にすくった水が隙間を通り抜け零れ落ちていくように、頭から眼窩を通じて漏れていくように、私のそれは姿を消していきました。
時折、思い出したように書物の編纂に取り掛かっては時間を忘れました。
記憶、という力を大いに活用するためか、その時ばかりはやけに頭がはっきりとするのですが、作業が終わるとまた小傘さん一色に戻ってしまいます。
恋の病、というやつでしょうか。
単に、あの驚愕したときの脈動を胸の高鳴りと勘違いしているという可能性もあります。
とどのつまり、もうわけが分からないのです。ただ、遭って話したいという一心だけが最後に残ります。
そんなことを考えながら、また雨の日。
いつのものように、呆然と泥水にへたり込んで小傘さんの後姿を眺めながら、ついに私は耐え切れなくなって叫んでしまいました。
「……えっ、今、何て言ったの?」
初めて聞いた、まともな台詞を口にする小傘さんの声。
私は嬉しさと恥ずかしさから思わず顔を背けてしまいました。
「ねえ、今、何て言ったの? ……聞き違いかな、なんか……好きです、とか何とか言われた気がしたんだけど」
「好きです!」
「……うわぁ、聞き違いじゃない」
「いや、あの、えっと……その、違うんです」
「えっ、違うの?」
「違いません! あ、だから、えっと、その、そういうことでもなくてその、あの」
自分でも何を言ってるかわからなくなり、段々と声が雨音の中に消えてしまいました。
怖くて顔をあげることができなくて、泥水がピチャピチャと雨に跳ねる映像だけがただただ流れていきます。
何を言ったらいいのでしょう。
それ以前に、何てことを口走ってしまったのだと後悔するのが先かもしれません。
「とりあえず、風邪ひいちゃうよ。早く家に帰ったら?」
愉快な人です。
雨の日に人を驚かせて尻餅をつかせておきながら、あまつさえ、風邪の心配とは。
私は人目もはばからずに涙してしまいました。
もっとも、こんな酷い雨の中、出歩いているのなんて私くらいなものですけど。
「ええっ、一体どうしたの!? 私、何か悪いこと言った? いや、悪いことはしたけどさ」
「ち、違うんです……その、えっと、あの」
「あああ、とりあえず落ち着こう。ね? ほら、背中さすってあげるから」
余計な事をしてくれたおかげで、私は堰を切ったように泣き、嗚咽し、いつの間にか小傘さんの胸を借りて号泣していました。
混乱とは何とも恐ろしいものです。
遭遇した時のパターンをいくつも頭の中に張り巡らせて完璧にしておいたはずなのに、実際に起こってみればこんなものとは。
簡単な自己紹介を済ませてから、お食事のお誘い、色んなことをお話してからまたお会いしましょう……完。
思い描いていた幻想は見事に打ち砕かれました。
けれど、別段、執着はしていません。なぜなら、世の中には結果オーライという魔法の言葉が存在することを私は知っているからです。
「……落ち着いた? まったく、この私が逆に驚かされちゃうなんて。あー、びっくりした」
「すみません。あっ、あの、私、ずっとこうしたいと思ってて、それで」
「こうしたいって……見た目によらずエッチな子なんだね」
「ち、ち、違います! お話、です、私がしたかったのはこうしてお話をすることであって、別にその、あの」
「私とお話? どうして? あー、もしかして説教しようとかそういう――」
「違います! ……あっ、すみません。でも、本当にただお話がしたかったんです。ずっとそう思ってました」
「ふーん……まあ、いいけどね。それより、早く着替えないと本当に風邪引いちゃうよ?」
涙で服を汚してしまったこともあり、思い切って私は小傘さんを家に誘いました。
あっさりと招待を受けた小傘さんの肩を借り、私は屋敷へと向かいました。
少し冷静になってから、気づいたのですが。
息遣いが聞えるほど私は小傘さんに密着していたのです。
…………。
……。
…。
「本当に、最近どうしたんだ……? ちょっと様子がおかしいぞ」
「えっ? あ、いえ、別に。ちょっと思い出し笑いを」
そんなに奇妙な光景に見えたのか、授業中に窓の外を眺めながらクスっとしてしまったが為に、私は教室中の注目を集めてしまいました。
どうにも小傘さんのことを考えるといけません。頬が自然とにやけてしまって仕様が無いのです。
「先生、チルノちゃんが手を上げてますけど」
「あいつは放っておいても大丈夫だ。それより阿求」
「私なら大丈夫です。授業の続きをお願いします」
心配そうな顔をした慧音先生が教卓へと戻っていくのを見届けると、再び私は視線を灰色の空へと向けました。
今日は雨。
早く教室を抜け出して小傘さんに会いに行きたいのです。もはや先生の言う事も教室のざわめきも耳に届く前に消えてしまいます。
私は袂から二つの玉を皆に見つからないように取り出し、そっと机の上へ置きました。
実は小傘さんと一緒に食べるために、お昼にちょっと遠出をしてお菓子を買ったのです。
食べるのがもったいない位綺麗な色をしているので、ひょっとしたら小傘さんを喜ばせてあげる事ができるかもしれません。
「それなあに? おいしそう」
背中をつつかれて振り返ってみると、身を乗り出したルーミアちゃんが、机の上に鎮座しているそれを物欲しそうな瞳で見つめていました。
ルーミアちゃんは食いしん坊で有名なので内心焦りましたが、今は授業中。流石の彼女も手を伸ばすことはなさそうです。
しかながら、口の端から透明の液体がタラタラと溢れてくるのを横目で見ていると、いじましい気持ちになります。
「食べます?」
「いいの!?」
「はい。でも、先生にばれない様にこっそりと食べてくださいね」
「うん! ありがとう!」
ルーミアちゃんは本当に嬉しそうにはにかみなが飴玉を受け取り、乗り出した上半身を引っ込めました。
背中越しに、おいひぃ、という可愛らしい小さな悲鳴を聞いて、私は嬉しくなりました。
全体的にこの教室には妖怪や人間といった種族を問わず、子供っぽい雰囲気を残した子達が多いようです。
「阿求……」
そんな私を見て慧音先生がまた不安そうな顔を浮かべたので、私は授業中であることも忘れ、今のは思い出し笑いではないのだと必死に弁明しました。
授業が終わった後、なぜか、先生方の詰め所に呼び出しを受けてしまいました。
慧音先生が腕組みしてその大きな胸を強調して仰ることには、
「はっきり言って、最近の阿求はおかしい。別に悪気があって言ってるわけではないぞ。本当に、おかしいんだ」
と。
その歯に衣着せぬ物言いに思わずたじろいでしまいました。
なぜこの先生はそんな酷い事を言うのでしょう。
私は謂れの無い一方的な糾弾を噛み砕いて冷静になろうと努めました。しかし、先生はそれを許してくれません。
何でも、ここ数日の間に私がやつれたらしいのです。
「肉体的な事を言ってるんじゃない」
心だ、と先生は私の胸を指差し言いました。
正直のところ、私は先生の言っていることの半分、いえ十分の一も理解できませんでした。
「先生、何を言っているのですか? 私はどこも悪くありませんよ」
「いや、長らく生徒を見てきたからこそ分かるんだ。お前はどこか病んでいる」
「酷いです。それじゃあまるで私がおかしな人みたいじゃないですか。先生は、私が狂人だとでも仰るのですか?」
「そういうわけじゃない。ただ、お前の心には」
「慧音」
急に、後ろから女性の声がして思わず振り返りました。
長い髪を一纏めにした妹紅先生がそこに居ました。
彼女もまた生徒想いの良い先生で、親身になって悩み事を聞いてくれると有名な方です。
それでいて時々子供っぽい仕草や、よくチルノちゃんや大ちゃんと本気になって遊んでいるところを見かけます。
そんな可愛げのある先生が、眉をひそめて慧音先生の方を見つめていたので驚きました。
「お前、その言い方はちょっと酷すぎるんじゃないか? 阿求の話も聞かないでそんな一方的に」
「妹紅、お前はまだ生徒達と触れ合って日が浅い。何も分かってないんだよ」
「分かってないのは慧音のほうだろ。女の子をこんなに怯えさせて、それが先生のやることなのか?」
肩に優しく置かれた妹紅先生の白い手がとても暖かい。
どうやら妹紅先生は、私の釈然としない表情を、恐怖で何も言えないものだと勘違いしたようでした。
あの慧音先生が生徒をいじめている、そんな馬鹿げた想像をするなんて何だかとても滑稽な気がして笑いがこみ上げてきました。
とても笑える雰囲気が漂っていない事が、かえって私の腹膜辺りを刺激するので我慢ができそうにもありません。
「大丈夫、慧音先生は私がやっつけるからな」
「なっ、馬鹿な事を言うな! 私は阿求をなじってるわけじゃないぞ」
「泣かせておいて言い訳か? ホント酷いやつだなお前は!」
笑いを堪えて肩を揺らしていたのを、今度は声を押し殺して泣いている姿に捉えられたようでした。
頭上に二人の先生の喧々諤々を聞き流しながら、私の頭には、早く小傘さんに会いにいきたいという想いしかありませんでした。
慧音先生が言わんとしていることも、それを取り違えて私の擁護に必死になっている妹紅先生の健気さも、もはやどうでもよかったのです。
3
仲良くなるのにそう時間はかかりませんでした。
私は雨の日の一件以来、小傘さんとよく遊ぶようになりました。
遊ぶ、といっても別に里の人を一緒に驚かせたりだとか、寺子屋の皆さんとかくれんぼをするとかそういうわけではありません。
ただ、屋敷に小傘さんを招いて昼食をご一緒して、世間話に花を咲かせたり、幻想郷縁起の資料集めに貢献してもらったりするだけです。
私は頭の片隅で、実際に小傘さんと普通の会話や触れ合いをしたら途端に、日記や燻ぶった心に募らせてきた想いが冷めるのではないか、という寂しい憂いを抱いていました。
事実は小説より奇なりとはよく言いますが、その逆も叱りなのです。
しかし、蓋を開けてみれば全然そんなことは無く、ただの杞憂に終わりました。
私はただ純粋に多々良小傘という一人の妖怪少女に惹かれていた、という事実が判明しただけです。
思わず手で櫛をすきたくなるような、くせのある透き通った雨色の髪や、見ているとその中心に吸い込まれそうになる左右異なる瞳の色、時折見せる妖艶に私を魅了する真っ赤な舌。
未だ殿方の感触や温もりすら知らない私が、種族が違うとは言え、女の子に興味を持ってしまうなんて一体誰が予想できたことでしょう。
なるほど、恋は思案の外とはまさに言い得て妙だと身を以て実感しました。
「どうしたの、阿求ちゃん。さっきからボーっとしちゃって」
この人の為なら、例え驚かされて心臓を止めてしまったとしても良い。
心を喰われて殻になっても本望です。短い一生を身を焦がすような恋慕に捧げるなんて、何だか乙女ですね。
「おーい」
「あっ、すみません……ちょっと考え事をしてました」
「なに、また私のこと?」
「はい……あっ、いえ違います!」
「素直だなぁ阿求ちゃんは。ほら、お姉さんがいい子いい子してあげるからおいで」
「子供扱いしないでください!」
「まあまあ、そう言わずに。ほらほら」
最後まで抗議していても、結局私は誘惑に勝てず小傘さんにもたれかかるのでした。
恋という自分の中で論理的に整理した想いと、思いきり甘えたいという欲動にも似た感情を天秤にかけると、どうしても後者に傾いてしまうのです。
所謂、頭では分かっているのに体が、というやつです。
「可愛いな、阿求ちゃんは。食べちゃいたい」
「冗談に聞こえませんよ。でも……小傘さんになら」
「えっ、なに?」
「食べられても、いいです……なんて」
「ホントに~? ものすごい大胆発言だけど、私、本気にしちゃうよ、いいのかなぁ」
障子の向こうに雨のさざめきを聞きながら、私は無言のまま小傘さんに身を預けました。
すべすべした白い手が私の首元から顎の下へ滑らかに動いていきます。くすぐったくて身をよじろうとしたら、それをもう片方の手で防がれました。
瞳が熱くなりました。何かが体からジワリと染み出てくるような不思議な感覚。
小傘さんの顔を見上げると、色素の薄い唇の端が持ち上がって少しだけ怖いなと思ってしまいます。
けれどすぐに目を細めて優しく見つめてくれるのです。するとまた、体の奥がカーッと熱くなってきます。
触れたい。
手を伸ばしてあの柔らかくて白い頬に触れたい。
もっと強い力でそれを阻まれました。
今度は首を伸ばして顎を前に突き出して唇に触れようとしました。
グッと力が肩に入って床に戻されました。
そうしているうちに、小傘さんが私の上に覆いかぶさるような格好になりました。
耳には依然として雨の音だけが届いています。
「あっ……あの、その、できるだけ優しくお願いします……」
「どうしようかな。私、妖怪だからその辺上手く加減できないんだよね~」
そう言ってニヤリと笑みを貼り付ける小傘さんの表情は、以前に見たあの表情。
人を驚かせて悦びを噛み締めている悪戯っぽい笑み。
私は全てをゆだね、体から力を抜きました。
「好きです」
自然と気持ちが口をついて出ました。
「私も好きだよ……特に」
私は目を閉じました。
「驚いた時の阿求ちゃんは最高だよ!」
「ひゃぁぁっ!?」
いきなり、着物の襟をグイと掴まれたかと思うと、小傘さんがその手を中に滑らせたのです。
その唐突さと冷たい感触に思わず声と悲鳴と、そして、手が出ました。
「いったーい……いきなり酷いよ」
「そ、それはこっちの台詞です! 何するんですか、いきなり!? あっ、あんなに良い雰囲気だったのにそれを……」
妙な期待と得体の知れない感覚は消え失せ、沸々と怒りがこみ上げてきました。
この人は一体何を考えているのだろう。
せっかく何かが始まりそうな流れだったのにそれを、あろうことか悪戯に変えるなんて。
私は頭に血が駆け上がるのを感じながら、必死にそれを御そうとしました。
「ごちそうさま。いやぁ、やっぱり阿求ちゃんの驚きは最高の美味だね」
「何がごちそうさまですか! と、時と場合を考えてください!」
「ん? 時と場合って?」
怒りのあまり、私は小傘さんの口角がまた上がっていることに気がつきませんでした。
「ねえねえ、阿求ちゃんや。一体、何を期待していたのかな?」
「えっ……あっ、えっと別に何かを期待していたとか、そういうことでは無くてですね、つまりえっと――」
「こういうこと?」
唇に湿った熱い感触がしたかと思うと、すぐ目の前に小傘さんの顔がありました。
目を瞬き、今起こっている事が、はて一体何を意味するのか理解するまで、私はぼんやりと雨音と心音に耳を傾けていました。
「……やっぱり阿求ちゃんの驚いた顔は最高だね」
…………。
……。
…。
「だから、悪かったってば。私はほら、妖怪だから、欲望に忠実って言うか衝動を抑えられないというか……そんな拗ねないでよ、ね?」
「そうやって子ども扱いしないでくださいっ」
「って言っても実際子供じゃない。おっぱい小さいし」
頭の奥で火花が散りました。
言うに事欠いて、本人が気にしている身体的特徴を……なんてデリカシーの無い人なのでしょうか。
私は小傘さんをきっと睨み付け、床に放っておいた足袋をいそいそと足に通しました。
手早く着付けを済ませ部屋を後にします。
「ちょっと、ホントに怒っちゃったのー? ねえ、ごめんってばー」
「編纂作業がありますので、これにて失礼します。小傘さんはここでゆっくりしていらしてください。では」
背中に本気かどうか分からない謝罪の言葉を聞きながら、私は書斎へと向かいます。
完全に手玉に取られている事実が私は許せないわけではなく、どうやっても私の本気に答えてくれる気配の無い小傘さんの冗談めいた態度に腹が立つだけです。
こうやってそんな事に一々、ムキになってるところが子供っぽいと言われる理由なのでしょうが、私には関係ありません。
子供だろうと何だろうと、好きという気持ちを適当にあしらわれて頭にこないわけが無いのです。
あんなことまでしておいて。
冗談や悪戯で済ますには度を超えています。
「……もうっ!」
分かっています。
小傘さんは妖怪で人の驚く心を食べる習性があります。特に私のそれは美味だということも幾度と本人の口から伺っています。
ですが、いくらなんでもこの仕打ちはあんまりです。
廊下を歩きながら、いつしか私の瞳からは大粒の涙が零れ落ちていました。
家の者には見られたくないのですが、苛立たしく大きな音を立てて歩いていたせいで否応無しに注目を集めてしまいます。
心配の言葉などいりません。ただ、少し一人にしてほしい。
私は書斎へ入ると、喉がヒリヒリと痛むまで咽び泣きました。
初めは怒りだったはずなのに、いつの間にか寂しい気持ちと悲しい気持ちがごちゃ混ぜになって涙を落としていました。
どこまで深く沈んで行くのだろうと心配しながらも、心が上手く制御できません。
まるで、自分が悲しい恋物語に出てくる主人公になったかのようでした。
恋人に裏切られ、かと言ってその想いを断ち切れずこの世に未練を残していった女。
冷たい暗闇に身を投げる悲恋のヒロインが、妄想の中で私の姿と重なりました。
涙が止まりません。
頭がボーッとしてくる頃にはすっかり雨もやみ、少し開いた障子の隙間から西日が差し込んでいました。
すっかり泣き疲れてしまい、もはや何もする気が起きません。ちょうど、雨が降っているあの気だるい感情に近いものが体中に広がっていました。
うつ伏せになった体を今度はそのまま後ろに倒して、大の字に。
まだはっきりとしない視界で、私は天井の染みを数え始めようと手を伸ばしました。
「わぁぁっ!?」
その手をいきなり掴まれました。
白くて細い女性の手。
「な、な、……何を」
「まあまあ、落ち着いて。あーあ、もうこんな目が腫れるまで泣いてくれちゃって」
「だ、誰のせいだと思っているのですか! もういい加減に」
小傘さんのそう長くないクセ毛が耳をくすぐり、頬に熱い感触が伝わりました。
あ、あ、と喉元まで出掛かった抗議の言葉が声にならずに消えていきます。
いけない、また丸め込まれてしまう。
頭では分かっているのに体が抵抗できませんでした。目の前にある小傘さんの顔を見つめると、いつに無く真剣な表情をしていました。
「なんの、つもりですか」
「何だと思う? 先に言っておくけど、別にこれから驚かせるつもりは無いよ。もうお腹いっぱいだしね」
「……」
「やだな、そんな怖い顔しないでよ」
普段ニヤニヤしてばかりいる小傘さんの無表情は、何かそれだけで私の心に重圧をかけてくるようです。
「私、阿求ちゃんに嫌われちゃったのかー」
嫌われる。
そんな安い言葉を口にされただけで、私の心臓は意味も分からず鼓動を速めていきました。
焦燥が抑えられない。
「そ、そんなわけじゃっ……あっ、えっと、別に私は小傘さんのことが嫌いになったわけじゃなくて、その」
「嫌いなんだぁ……でもまあ」
「だから、嫌いじゃ――」
何を勝手に熱くなっているのやらと思いながらも、私はつい声を荒げてしまいます。
しかし、そう叫ぶ唇は小傘さんの人差し指によって遮られてしまいました。
「阿求ちゃんを好きなのは私なんだから、何の問題もないか」
何を言っているのだろうこの人。
問題は大有りです。
「驚かせたってチューしたって、相手の気持ちを考えて無いんだから結果はどうあっても良いでしょ?」
「い、良い訳ないじゃないですかっ! 何言ってるんですか!? そ、それじゃあ、何ですか、小傘さんは私に嫌われても平気なんですか!?」
「え~、嫌われるのは正直傷ついちゃうな」
「なっ……言ってる事の意味がまるでわかりません。嫌われるのがいやなら、そういう嫌われる事をしなければいいじゃないですか」
「うーん、それもまた難しい話なんだよね。だってほら、私ってこういう妖怪でしょ? 私がやって嬉しい事は相手にとって必ずしも、いや、十中八九で不快になるようなことなんだよ。
だけど、私は自分の欲求を抑えるくらいならいっそ相手の気持ちなんか考えないでいい。そういう考えだから」
「でも、今、私のこと好きだって……」
「そう、好きだよ。だから、私が阿求ちゃんを好きならそれでいいの。それって私が嬉しいと思ったことだからね。
なんかこう誰かを好きでいる気持ちってそれだけで幸せな気持ちになるじゃない。ね?」
まるで、捲くし立てられているかのようでした。
相変わらず小傘さんの言葉は私を混乱させるのですね。
要はそれって単に自己本位の塊じゃないですか。私の気持ちはまるで無視ですか、ああそうですか。
「それでもって、阿求ちゃんに好きって言われた時は、もう、なんか訳がわかんなくなるくらい嬉しかったんだよ」
ああそうですか。
「……私もですよ、ああ、もうっ!」
4
久しく太陽を見ていない気がしました。
頭の中を掘り起こしてみても、思い描くことのできるのは、鈍い灰色に覆われた空。天を仰げば、瞳に冷たい雫が落ちてくる。
私は教室の外を容赦なく照りつける陽射しが本物かどうかを判断することができませんでした。
赤茶けた地面を揺らぐように陽炎ができています。それは目に映る事実。
「おい、阿求。まだ授業中だぞ」
自身の中に芽生えた理由の無い猜疑心――空が晴れている?――を確かめたくなった私は、フラフラと教室の外へと出て行きました。
当然、慧音先生が黙っているわけもありません。
気がつくと、私は廊下の壁を背にして、先生に押さえつけられるような形で立ちすくんでいました。
「なあ、阿求。先生と一緒に診療所に行こう、な?」
慧音先生は、今まで見た中で一番優しい表情でした。
でも私の返答は、具合が悪いので家で休みます、でした。
私の肩を掴んでいた先生の手から力が抜けました。
外に出ると、想像以上の陽光が私を責めるように降り注いできました。
遠くから蝉の鳴き声らしきものや、風の吹く音がしています。私は間違いなく外に出たのだと確信しました。
上を見上げる。
一点の曇りも無い青空が広がっています。
なぜか妙な懐かしさが心の中に広がっていきました。
目を閉じ、大きく深呼吸をしてみます。
空気中に郷愁の粒が混じっているかのように、私は息を吸い込むたびに、自分でもよくわからない気持ちがこみ上げるのを感じました。
不思議な話です。ここは紛れもなく私の故郷だというのに。
ふと、血潮で赤く染まった視界が黒で覆われました。
思わず目を開けると、そこには、
「どうも。お久しぶりですね」
射命丸文さんが太陽を背にして、私の頭上に静止していたのです。
手には相変わらず黒くてゴツゴツした文明の利器、そして、自社出版の新聞のネタを記す手帳。
「お散歩ですか? 今日はまたいい天気ですからね」
ふわりと音も立てずに目の前に着地する彼女。
より高い場所に身を置いているせいか、額には大粒の汗ができていました。
「何か私に御用ですか?」
射命丸さんは目を丸くして、かと思うと、今度はニヤニヤと下卑た笑みを貼り付けていました。
「どうやら噂は本当だったみたいですね」
「何を言っているのですか?」
「いや、実はですね、数日前から人里にちょっと面白い噂が流れてまして。
今日はそれを確かめにやって来たところ、偶然、貴女の姿を発見した次第なのですよ」
意図が分からないのですが、正直、私は彼女の話には微塵の興味も沸きませんでした。
一礼して、私は先生に言った通り、家に帰ることにしました。
「稗田の娘が妖怪に憑かれた……ふむ。わざわざ来た甲斐がありました」
黒い翼を羽ばたかせる音。
振り返るともう彼女の姿はどこにもありませんでした。
さすが、幻想郷最速の名は伊達では無いようです。
…………。
……。
…。
家につく頃には、すっかり日が傾いていて、足が棒のように疲れていました。
いや、実際棒になっている錯覚さえ覚えました。立っているのが不思議なくらいに。
うな垂れた視線の先に、見覚えのある長い影がありました。
「またお会いしましたね」
「射命丸さん? どうしたんですか、こんなところでまで。噂とやらはもう見極めたはずでは?」
「あはは。噂の真偽だけでは民衆の心を掴むことはできませんよ」
こっちはクタクタだというのに、かかと笑う彼女の姿が目に痛い。
一体何の用事でしょう。
「実は取材しているうちに、ある人からどうしても、と頼みごとをされてしまいまして」
「はあ。それは一体どこのどなたで、何を頼まれたというのでしょうか?」
「まあまあ、落ち着いて落ち着いて。どうです、お茶でも飲みながらその辺じっくり――」
「結構です。では私はこれで」
何か言いたそうな彼女の口が開く前に、私は駆け出していました。
家はすぐ目の前にある。
だというのに、
「待ってください」
強い力で肩を掴まれて、思わず手が出てしまいました。
「離してください! 人を呼びますよ!」
「あややや……これは重症ですね。のんびり茶を飲んでる場合ではありませんね」
「離してっ! だ、誰かーっ!!」
必死に射命丸さんの腕を振り解こうとしても、相手は妖怪。私のような非力な人間になす術などありません。
困ったように笑う彼女の表情とは裏腹に、ギチギチという幻聴が聞こえんばかりに腕が締め上げられていきます。
「落ち着いてください」
それでも、私は諦めずに抵抗を続けました。
思い切って、体を捻って地面に身を投げ出した、その時でした。
私の着物の裾から、何か丸いものが2つ飛び出して、そのまま地面をコロコロと転がっていきました。
夕陽を浴びてテラテラと輝くそれは、どこかで見た記憶があるのに、正体は陽炎のように覚束ない。
あれは確か――
「まあ、とりあえず依頼人の名だけ言ってしまいます。多々良小傘さんです」
地面を転がるそれが何だか理解しかけた意識が強引に、射命丸さんの言葉へ引き寄せられました。
確かに、今、
「小傘さん……? なにを言っているのですか」
「ですから、私に貴女を助けて欲しいと依頼してきたのは、多々良小傘さんという妖怪少女で」
彼女の口から小傘さんの名が出たのも疑問でしたが、さらに私は依頼内容が私の救済だということに混乱しました。
射命丸さんに促され、大きく深呼吸をします。
数回ほど宵闇の澄んだ空気を飲み込み、目頭を押さえて頭を整理すると、意外にもあっけなく心に平静が戻りました。
その様子を気取って、射命丸さんが再び口を開きました。
「ちょうど、上白沢慧音さんの寺子屋を訪ねた時でした。入り口に、大きな唐傘をクルクル回した小傘さんが佇んでいました」
話は以下のように続きました。
小傘さんは私の様子を見に寺子屋を訪れたようで、お昼になっても出てこない私が心配になって、中に入ろうか否かを迷っていました。
そこに射命丸さんが声をかけると、彼女はバツの悪そうな表情で事の顛末を話してくれました。
大好きな人が妖怪に取り付かれて心を喰われている。どうにか助ける方法は無いか、と。
「途中から慧音さんも参加してきて、そりゃあもう、てんやわんやになってしまいました。話がこじれたとも言いますね」
「ま、待ってください! 話が全然見えてこないのですが」
「えっ? わかりませんか?」
「ええ、まったく」
「うーん、個人的には実に分かりやすく状況説明をしたつもりなのですが。あれですか、もっと雰囲気が伝わるように周りの描写を」
「そうじゃなくて。私の心が妖怪に食べられている、というくだりです」
射命丸さんの目元にうっすらと笑みが見えました。
はっ、と無意識に惚気を口にしてしまったことを後悔しました。誰も、小傘さんの大好きな人が、即ち私だとは言って無いことに。
「ふふっ、その、『薄命の少女×付喪神の妖怪少女』、という見出しは次の文々。新聞に載せるとして」
「……」
「貴女は妖怪にとり憑かれているのですよ。そして、その妖怪は貴女の心を喰う。そしてそして、その妖怪は多々良小傘さんではありません」
小傘さん以外に一体誰が、と当然沸き起こる疑問を口にしようとした瞬間、
「ばああああぁぁぁぁっ!!!」
おどろおどろしい女性の叫びが、爪先から頭のてっぺんまで響き渡りました。
ふと油断したら途端に腰が抜けてしまうほどの恐怖が全身に走り、体の芯から急速に体温が無くなっていく、そんな感覚に襲われたのです。
声のした先には、青く長い髪を地面にたらした白装束の女性が居ました。
「あれですよ。貴女の心を蝕んでいたのは」
何ですか、あれは。
後ろを向いているのか前を向いているのか分からない動きで、しかし確実にその女性はこちらへ向かってきている様子でした。
骨が入っていないかのように脚は奇妙な方向に曲がり、大きく左右に肩が揺れる度にジャリジャリと嫌な音を響き渡らせています。
あれが私に憑りついていたなどと言う話はまるで信じられませんでした。
「おお怖い怖い。まるで怨念の塊ですね」
あまりにものんびりした口調で言うので、私はなぜそんな余裕で居られるのか、甚だ疑問でした。
ズルズルと足だか手だか分からないものを引き摺りながら、それは私達との距離を狭めんとしているのに。
あんなものがもし体に触れようものなら、途端にその瘴気で皮膚が腐り落ちてしまいそうです。
が、その疑問も恐れも程なくして消えることとなりました。
怨嗟の言葉をお経のように呻くその女性の背後に、遠くからでも分かるほど見覚えのある紅白の巫女装束。
なるほど、射命丸さんの落ち着き払った様子に冗談めかした言葉。全て納得がいきました。
巫女装束から、すっとお払い棒を手にした腕が振るわれたのと、喉の奥から搾り出すような絶叫が聞こえたのはほぼ同時。
髪を振り乱した女性が体を不自然な逆くの字に曲げたかと思うと、あっという間に飴色の夕陽の中に霧散して消えてしまいました。
結局、何が何だか分からないうちに、
「これにて一件落着ですね。うーん、新聞にするにはもう少し色が必要なところですが」
無題の演目は第三者の介入によって幕を閉じました。
一瞬ですが、あの女性が消える間際、その顔をはっきりと確認しました。
その眼窩にあるべきものが無いことに戦慄しつつ、私はぽかりとあいた空間をただただ眺めていました。
5
「じゃあ、この問題を……阿求、解いてみなさい」
先生に言われるがまま教卓へ進むと、私は自信満々に白墨を縦横無尽に走らせました。
背後に感じる好奇の視線と、あちこちからもれる感嘆の吐息。
「よくできました」
先生の拍手を皮切りに、教室中の拍手喝采が私を包みます。
私は一礼して席に戻ると、周りの子達から賞賛の言葉をかけられ頬を熱くしました。
なんて清々しく気持ちの良いことでしょう。
私は思わず小躍りしたくなってしまいました。
「こらこら、はしゃぎすぎだぞ、お前たち」
…………。
………。
…。
お昼になり、隣の子、後ろの子、前の子と席をあわせて昼食をとる私。
家の者が用意してくれた3段になった重箱をお披露目し、
「あーん」
と、ルーミアちゃんにまずは一口。
「ずっるーい! あたいにも、あたいにもー!」
はいはい、と微笑ましい気持ちを胸に、チルノちゃんに一口。
「……」
無言のままの少女に、半ば無理やり一口。
そして、照れくさそうにおいしいと返してくれた笑顔に、くすぐったい気分になる私が一口。
楽しいひと時を過ごしました。
…………。
………。
…。
寺子屋の皆にさよならの挨拶をし、私は帰路へつきました。
家に帰ると、私は真っ先に書斎へ向かいました。
「おかえり」
ただいま、と告げ、そのまま私は鼻息を荒げて彼女に飛び掛りました。
「すごい元気だね。何かいいことでもあった?」
「いえ、特に。私はいつもこんな感じでは?」
「そうだったかな。よく思い出せないんだけど、阿求ちゃんはもっとこう、大人しかったというか、子供っぽかったというか――」
「それはただの記憶違いですよ」
強引にその薄い唇を奪うと、そのまま彼女はそっと目を閉じます。
「……優しくしてね」
「ええ。わかってます」
机に置かれた日記を横目に、私は小傘さんの衣類へと手をかけました。
Fin
二人のただれた生活に幸あれー
好きな人のことを考えすぎて、ポーッとしちゃってるのねん。あっきゅん盲目ねv
でも小傘じゃなかったってのはビックリしました。もっかい言います。ビクッてなりました;ww
二人に幸あれ
こがあきゅに目覚めたぞ!