注意:この作品は『どうして私が!?』と表裏の関係になっている(予定の)作品です。
また拙作『大と並の境シリーズ』の設定を若干引き継いでいますが、読まなくても大丈夫に出来ています。
気になるようでしたら読んでいただけると幸いです。
『ごめんなさい………』
マヨヒガ
ここは幻想郷であって幻想郷ではない曖昧な場所である。
そこには純和風な茅葺屋根の家が一軒あった。
その屋根の上では一人の少女が佇んでいる。
季節は冬と言うこともあり雪が降っているのだがそんなことを気にせずじっとしていた。
その顔には憂いがおび、彼女の周りに悲しさを纏っていた。
ゆっくりと腰を上げお尻に付いた萱草を払った。地面におり、ある部屋の障子を開けた。
「あー寒かったわ。外は寒いわねぇ、藍」
「そりゃ、寒いでしょう。雪は降りますし、ついでにレティ様もお目覚めですから」
「あら、私はついでなのね」
寒い寒いと言いながらその女性―八雲 紫―は藍と呼ばれた式神と同様にコタツに足を突っ込んだ。
前を向くと紫の前にはふわふわした髪の持ち主で、冬の妖怪、レティがコタツに足を入れずに座っていた。
「お目覚めのようね、レティ」
「ええ。大切な季節が来たので目が覚めちゃったわ」
お互いコタツの前にのめり出し、顔を近づけた。
「おはよう、レティ♪」
「おはよう、紫♪」
にっこりとした女性たちの笑顔は少女らしく愛らしさがあった。
そのまま楽しそうに手を絡ませあいながらお喋りをしていた。
「今回はちょっと遅かったんじゃないの?」
「ふふっ、たまには貴方が困る顔が見たくなってね」
「とか言いながら、本当はただ寝坊しただけなんでしょ」
「さぁ、それはどうかしら?」
意地悪ね、と言って紫はまた笑顔になった。
対するレティも笑顔が絶えない。
このままであればせっかく藍が用意した味噌汁も冷めてしまいそうだ。
紫は藍が何を言いたいか分かってはいたが、今はレティと話すことに没頭していた。
藍は躊躇いながらも二人に進言した。
「あの、紫様、レティ様。そろそろ朝食を頂いてくれませんか?まだ私にはやる事がありますので……」
「えー…ケチね、藍は……」
「そんなんだからまだ尻尾が八本なのよ」
「いや、それは関係ないかと思いますが」
とか言うものの、『大妖怪』である二人を前にして藍はこれ以上強く言うことが出来ず、恐縮してしまった。
その様子を見て二人は満足し合唱した。
「「いただきます!」」
「あ、い、いただきます…」
藍の用意するご飯はいつもおいしい。
今回はレティの目覚め祝いと言うこともあってよりおいしく見える。
けれど紫にとっては味わう余裕があまりなかった。
………
……
…
「あーおいしかったわ」
「そうね。今日はいつもよりおいしかったじゃない、藍」
「はい。今日はレティ様が目覚めると思っていつも以上に張り切らせていただきました」
(やっぱり張り切っていたのね)
そう思いながら紫は藍に罪悪感を覚えた。
一方、藍の方は照れた、けれどはっきりした笑顔で答えたので、嬉しそうなレティに頭をなでられていた。
藍もなでられて嬉しくなり、その表情のまま後片付けに取り組んだ。
藍を見送った後、満足そうにしているレティに紫は声をかけた。
「これから、どうするの?」
「そうね……とりあえず目覚めの一発目と言うことで景気良く気温を下げてくるわ。目標は例年比の1.2倍で」
「あ、そう」
「何よ。冷たい反応ね」
「だってレティだし。熱い反応よりかマシでしょ」
「それもそうね」
先ほどまで食事をしながら絶え間なく会話をし、また時には手を握り合うなど傍から見て、熱かったのだが…
(いつの間にか自然に手を握るようになったわね、私たちって)
ひとり誰に言うことなく心の中で考えていた。無意識に紫はぎゅっと握った。レティも握り返してきた。
くすくすと笑うレティを見ながら、紫もまた穏やかの表情でしゃべっていた。
「ま、そういうわけだからちょっと行って来るわね」
「うん、ま、ほどほどにね……」
「ええ、ほどほどに」
そう言って玄関に向かうレティを紫は見送った。
何年来の変わらない会話だったが、紫は無意識に寂しそうな声を出していた。
友人の前でこんな事をするのは失礼だと思った。けれど心が言うことを聞いてくれなかった。
そのことでまた紫は気持ちが沈んでしまった。
今日の様子だと遅くまで帰ってこないかもしれない。
晩御飯まで時間が空いたので紫は藍に出かけてくる、と言ってレティ同様に外に出た。
玄関を開けると雪が舞い込んできた。
雪は床に落ちては直ぐに染み込む。
(こんな早さで雪解け出来たらいいわね)
何か思うところがあるのか紫は雪が染み込む様を見て、静かに立ち去った。
『行き先は人里近く』
◆◆◆
厳しい寒さが紫の肌を突き刺す。
レティもこの近くにいるんだなと思った。
自分が言ったことをレティは約束してくれているだろうか、それが気になって自然と人里に目を向ける。
スキマを使って出てきた場所は人間とは違う集落の入り口であった。
そこには二人の妖怪が佇んでいた。紫に気づくと二人は近づき礼をした。
「今日は、紫様」
「寒い中ご苦労様です」
「こんにちは」
ゆっくりと顔を上げた妖怪には、頭に白い犬のような耳としっぽを持っていた。
彼らは白狼天狗で天狗の仲間である。
紫は天狗の集落に来ていたのであった。
「天魔はいるかしら?」
「はっ、天魔様は屋敷にてお待ちしております」
「そう…」
シャクッ、シャクッと雪を踏みしめながら紫は集落に入っていった。
天狗の集落は人里に比べて規模が二倍近くある。
その中を鴉天狗であったり鼻高天狗が悠々と飛び回っていた。
けれど今日はレティの力がここまで及んでいる所為か、いつもより外にいる数が少ないと紫は思った。
彼らの近くを通り過ぎるたびに翼を止めては礼をしていく。彼らは紫に敬意を払っているのだ。紫はそんな光景になれているのか自然な足取りで目的地に足を運ぶ。
入り口から一番離れたところに大きな屋敷が構えていた。そこにも集落の入り口同様、白狼天狗が一人門番をしていた。彼に話し、紫は屋敷に入っていった。
………
……
…
「ようこそ、紫殿」
「今日は、天魔」
軽く挨拶をし、天魔に勧められて紫は腰を下ろした。机を挟んで紫の前には女性にしては長身な天狗の天魔と、彼女の一歩後ろで傍に座っている大天狗がいた。
「冬の妖怪がお目覚めのようですね」
「ええ」
「部下たちの報告だと彼女は人間を凍りつけていましたよ」
「っ……そう」
紫は体裁気にせず顔をしかめた。
「貴方は冬の妖怪の話になると判りやすいですね」
「そうね、私も気をつけているようにしているんだけどね」
「それで宜しいのでは」
「どうしてそう思うのかしら?」
「それだけ思われる彼女は幸せだと言うことです」
「………私は管理者です。私情を挟まない事が私の中のルールとしていますわ」
「失礼、口が過ぎました」
天魔は深々と頭を下げる。彼女はどんなときも凛としている表情なので、紫にも顔色が伺いにくい。本当に失礼だと思っているのか疑わしい。
「……ま、良いわ。本題に入りましょ」
「分かりました」
お互い再度、身なりを整える。二人からは威圧とも取れるような空気を発しているので並の精神の持ち主だったら泣き出すか、失神するだろう。大天狗はそんな空気の中、さもあらんと言わんばかりに受け流していた。
「私たちの要求は唯一つ、あの『山』を住処にさせていただくことです」
「それは分かっているわ。けれどそう簡単に決めれることではないわ」
天魔の言う『山』とはここから大分離れたところに一つの大きな山が聳え立っている。人間、妖怪でさえ立ち入らないため、手付かずの自然が広がっているのだ。
「貴方はあの山の管理者ですよね?」
「そうよ」
「なら、貴方の一言で一存できるのでは?」
「……あの山はレティのものよ」
「なるほど」
紫の一言で納得したのか天魔は神妙な顔つきで頷いた。
「私は彼女の代わりに管理しているだけ。実質は彼女の『山』よ」
「ふむ。困りましたね」
紫は『レティの山』だと言った。けれど本当は彼女に依頼されているだけで実質は『紫』である。本当は紫もどうにかしたいと思っていた。
紫は管理者である。先ほど紫も言ったように、私情を挟まないに様にしているのだが、実際は挟んでしまっている。レティが絡むと立ち位置があやふやになるのが悪いくせだ。
紫はレティを大切な友人だと思っている。向こうもそう思っているだろうとも思っている。だからこそこの『山』の問題が紫には辛いのだ。
紫は管理者として山を天狗に譲りたい。理由として、天狗の技術である。彼らが使う写真、活版印刷の技術は外の世界の技術に匹敵するほど高度な文明である。そのため、幻想郷にはあまり相応しくない。そのことは霧の湖近くに住んでいる河童にも当てはまる。
そして山への移譲に関する付属の理由として、彼らが人里近くに住んでいることだ。これでは人間たちに近い将来、文明の発達を促してしまうかもしれない。それも幻想郷にとっては拙いのである。
こうした理由から紫は天狗の案を呑みたかったが、レティが関わっている。だから紫としてはそう簡単に譲れないのだ。
一方、天魔は紫の考えなんぞ知らないでいる。彼女はただ山に住むことしか考えていない。
なぜなら、山は人間が簡単に立ち寄る事が出来ないからだ。
天魔の、と言うか天狗達の山への執着は彼ら独自の文化、制度をつくりひっそりとしながらも確実な繁栄を築き上げたいからだ。誰も近寄らせなくすることで外敵から身を守れると考えている。そのためにも山が欲しいのだ。
二人の思惑は合っているが、どうしてもレティが言葉は悪いが邪魔なのである。しかも彼女は並の妖怪をしのぎ、紫とも対等に渡れるほどの強さを誇っている。なので一番強い天魔でさえ、レティに及ぶことは出来ない。
「では、どうすれば私たちの移住を認めてもらえるのだろうか?」
仕方なく天魔は条件をつけてもらう方向で進めるようにした。最終手段なのであまり言いたくはなかったのだろう。
対する紫も慎重になっていた。切り出したのは向こうとは言え、言葉を選ばないと話しがうまく進まないかもしれないからである。
「……三つあります。一つ、天狗は全員山に移ること。一人も残さないようにね。二つ、山には河童も連れて行くこと」
「?どうして河童も連れて行く必要があるのですか?」
「彼らの技術は素晴らしいものを持っています。それらは貴方達の繁栄と言う願いをかなえるのに大いに役立ってくれるでしょう」
「!?気づいていたのですか?」
紫は天魔に微笑み返す。天魔はまさか自分たちの願いなんぞ知らないだろうと思っていたので、驚いてしまった。傍に居る大天狗でさえ、驚きの顔を表している。
「わかりました。ただ彼らとあまりコミュニケーションがありませんので紫殿から伝えていただけますか?」
「わかりました。では、三つ目ですが………」
一瞬、紫は躊躇ってしまった。これから言うことは裏切りに等しいこと。何も知らない大切な、大切な彼女を騙すこと。言ってはいけないと紫の中の本能が叫んでいた。
けれど管理者としての紫が本能の言葉を消していく。
お前は『幻想郷の管理者』なのだ、と……
「三つ目は貴方たちの手でレティを葬ることです」
「!?」
まさか、紫からその言葉が出るとは思わなかった。天満、大天狗共に驚きを隠せないでいる。先ほど以上に彼らは驚いていた。
「……宜しいのですか?」
「ええ、それが出来れば彼女も納得するでしょう。それで納得しないようであれば私も手を下します」
「……………」
天魔は本気なのだと悟った。天狗は仲間意識が高いので、天魔はこの決断の苦しさは分かっているつもりだ。だから、これ以上苦しめないように彼女も決意した。
「分かりました。その三つの条件、全て受け入れさせていただきます」
「……ありがとう」
それを最後に紫は立ち上がりスキマへと消えていった。
天魔には彼女が泣いていた様に見えた。気のせいかもしれないが……
◆◆◆
レティが帰ってくる前に少しでも平静さを取り戻そうとしていた。
彼女に悟らせないようにしないとさっきの決意が無に帰してしまう。
そんなとき、ふとごろごろ転がってみることにした。
なぜこうしたのか自分でも判らないが、とりあえず試していた。
「何をしているのですか、紫様?」
「……猫の気持ちになっていたのよ」
若干顔を赤くした紫は部屋に入ってきた藍に説明した。
はぁーっと小さくため息した藍はかちゃっ、かちゃっと茶碗を並べていた。
「レティ様の夕飯、どういたしましょうか?」
「用意してあげて頂戴」
「分かりました」
台所に戻っていく藍を見送って紫は胸に手を当てた。少し落ち着いてきたことに安心した。
なのでごろごろを続行した。
しばらくして玄関の方で話し声が聞こえた。藍とレティの声であった。
それでも紫は動揺していなかったことにまた安心した。
そして部屋のふすまが開けられると、
「………猫ね」
「にゃ~♪」
レティは体を寝転んだままごろごろしていた紫を見て呟いた。
猫と言われたのでとりあえず、一鳴きして、紫は止まってレティを見た。
「遅かったわね。晩もいらないのかと思ったわ」
「ごめんね。ちょっと気が乗っちゃってね」
そう話しながらレティはコタツの前に座った。
朝と同様足を入れていない。
紫もコタツの前に戻ってきた。
こちらは足を入れ、暖を取っていた。
「どうだったかしら、久々の外は?」
「そうね、とても満足したわ」
それでね、としゃべり始めたレティを見て紫はやっぱりと思った。
彼女が何故人間相手に力を揮っているのか、分かっているつもりでいた。けれど、もう少し力を抑えて欲しいと切に願っていた。
楽しそうに話すレティの顔を見て紫は悲しい気持ちに苛まれながら藍の夕食を待っていた。
………
……
…
「明日暇かしら?」
紫はあまり食べたと言う実感は湧かなかった食事も終え、ゆっくりと消化が始まる頃にレティが声をかけた。
「え?そうね、暇と言えばいつも暇だわ」
「それなら都合が良いわ」
確かに予定はないが、一体何を話すのだろうとレティの方を振り向いた。そこにはぽんと軽く両手を合掌し、顔には楽しそうな表情を浮かべていたレティが見えた。
「明日紫にちょっと付き合ってほしいのよ」
「どこ?デートのお誘いかしら?」
「ふふっ、その通りよ。場所は着いてからのお楽しみね」
「分かったわ」
レティが冬に目覚めている間、何度かデートに誘われる事がある。
連れて行ってくれる場所は湖畔であったり、雪原であったり、迷いの竹林であったりと、二人で静かに過ごせるのがお決まりであった。
今回もその辺りだろうと決め付けて紫は了解を出した。楽しいときを過ごせたらと、この時ばかりは天狗の集落でのことを忘れて、明日を待ち遠しく思っていた。
それから二人は寝るまでしばらくの間、まったりとした時を過ごしていた。
◆◆◆
「場所ってここ?」
「ええ、そうよ」
翌朝、スキマを使っていった場所は紫にとって思いもよらない場所であった。目の前には降り積もった雪が斜面に厚みをもたらし、木にも白い化粧が施されている光景が広がっていた。
昨日天狗と話していたあの『山』である。
「この山って前に私に頼んだ場所よね」
「そうよ」
紫の質問ににっこりとした表情で答えたレティは手を握って歩き出す。
訳が分からず引っ張られる形で山に足を踏み入れていくのだが、
「さぁ、登りましょう、紫」
「登るの?飛ぶんじゃなくて」
「それでは情緒がないわ。せっかく誰も足を踏み入れていないから価値があるのよ。私ね、紫と一緒に足跡を付けようとして昨日は我慢したんだから」
何で我慢していたのか分からなかったが、昨日レティが山に入ったこと、そして誰の足跡が入っていなかったことをしきりに話していたことを思い出した。
(もしかして私と歩くために取っておいたのかしら?)
もしそうであるとすれば、と紫はとても嬉しく感じた。
「そう言えば、昨日そう言っていたわね」
「ならわかったでしょう」
「そうね」
紫は幸福感に満たされながらレティと一緒に足を山に踏み入れた。
シャクッと小気味の良い音をたてた足音は二人を満足させた。
そしてまた一歩と二人は足を中に踏み込んでいった。
シャクッ、シャクッ、シャクッ………
「川があるわね」
歩き始めて大体三合目辺りだろうか。紫はふと目を横に向けると一本の小川が流れていた。
「奥の方にはもっと大きな川があるわ」
何度も足を運んだ事があるレティはどこに何があるか把握しているつもりだ。
一方の紫はレティに頼まれて以来、山に足を運んだ事がなかったのでよく分からなかった。
紫は立ち止まりじっと小川を見た。
(綺麗な小川ね。夏には気持ちよさそうだわ)
そう口にしようと思ったが、紫の心の中で『何か』が心を覆うものがあった。『そいつ』が、じわりじわりと浸食する『何か』が、紫が思ったこととは違う感想を発した。
「河童が住めそうな場所ね」
「そうね…」
言ってから紫ははっとした。無意識に出た言葉は紫を驚かせ、レティの方を向いた。
彼女は少し俯いたまま何も言ってこなかった。
(何でこんなこと言ったんだろう……)
シャクッ、シャクッ、シャクッ………
「何か大きな音が聞こえるわ」
六合目付近で、どどどっと何か地響きのような音が聞こえた。
「さっき話した川があるでしょ。その川を作る滝があるのよ」
「へぇ~」
「その滝には秘密があってね。裏には窪地があるのよ。見つけたときには驚いたわ」
レティはちょっと興奮気味に紫に話しかけていた。確かに滝の横からよく見ると窪地が見えた。さっきのことで少し気まずい雰囲気をつくってしまったので、もう少し話題を広げようと紫はレティに質問をした。
「他には何かないかしら?」
「そうね……この山、木が多いでしょ?実はね滝の頂上部の向こうにはこの辺り以上に背の高い木がたくさん生えているの。群生林と言うものね」
「そう…」
レティの答えを聞いてまた『何か』が紫の中に押し寄せてきた。また無意識に紫は意識を奪われてしまう。そんな紫の状態を知らないレティは不思議そうに伺っていた。
紫の口を通して、『そいつ』は言ってはいけないことを言ってしまった。
「やっぱり彼らには丁度良いかも……」
今度は、紫は早めに気づいたので『そいつ』を抑えようとしたが止められず、小声であったもの言ってしまった。レティに聞こえてしまっただろうかと恐る恐る振り向くと悔しそうな残念そうな顔がありありと表れていた。
なんでこんなことになっているのか紫にも分からない。『そいつ』は一体誰なんだ。
紫は謝罪を口にするものの言う勇気が湧かず、結果としてレティにはぶつぶつと聞きにくい声で届いてしまった。
上に行こう、そう思いながら紫はレティの手を握って歩き始めた。
それを見てレティも歩き始めた。
シャクッ、シャクッ、シャクッ………
登ること一刻。
二人はついに頂上に到着した。
「やっと着いたわね」
「そうね」
レティに悪いことしたなと思いながら相槌をうった。頂上に登る間はお互い無言になり話しても二、三言で終わるような会話であった。まだ何か考え事なのか、紫の反応は少しそ隣のレティは少し顔を不機嫌にさせていたが、急に機嫌を変えた。
彼女は一本の木を見て紫を呼んだ。
「紫。ついて来て」
呼ばれた紫はレティを見ているとふわりと浮き上がり、杉の木の枝に止まった。そこから手招きするレティに倣い、紫も浮き上がって彼女の隣に座った。
ここに来た理由を紫は伺うと、レティは答える前にある一点を指差した。
指差す方向を見ると、
「ほら、見て」
「…………うわぁ」
紫は心底驚いていた。
そこにはまさに『幻想郷』と言う表現が相応しい世界が広がっていた。
時刻は日が沈む手前。
空では闇が陽光を塗りつぶそうと勢力が広げていた。
一方地面に目を向けるとまだ陽光の世界が広がっている。
そして地面と交わる一点で太陽が直視できないほど輝いている。
その為雪の海はオレンジ色に輝いていたのであった。
「どうかしら?」
「…言葉が出ないわ。これほどに自分の口下手が口惜しくなったことなんてないわ」
よく言うわね、と肩をすかしながらもレティは満足していたように思えた。
本当に表現が出来なかった。幻想郷を創った紫が言うのもおかしな話だが、こんな景色一度も見た事がなかったのだ。それはレティに禁じられていたというのもあるが、それならレティが幻想郷入りする前に気づく機会があったはずだったが、今日まで知らなかった。
(ああ、幻想郷を創ってよかった)
紫は自分のしてきたことに心から喜びを感じた。
「貴方がここを誰にも入れさせたくない気持ちがよく分かったわ」
「でしょ!私は誰にもここを邪魔させたくないの。もちろん紫は除いてね。今日まで一緒に見る機会を取っておいて良かったわ」
嬉しそうにレティは話す。道中とは違う紫の反応が見れたからだろう。ここにつれてきて正解だと思った。
だからレティは彼女の本当の表情を見過ごしていた。
嬉しさに満ちていた心は、高まり、鼓動が激しく動く。良く見れば鳥肌も立っている。
だからこそこんなときに『そいつ』が出てきた事が悔しかった。
「だからこそ……他のものと共有すべきね」
紫はレティに悟らせないように一人つぶやいていた。
太陽だけが管理者を見ていた。
◆◆◆
二人が山登りをして数日後、紫はもう一度山に足を踏み入れていた。
しかし隣にはレティがいない。
代わりに無数の天狗と河童が周りにいた。
紫はついに天魔との約束を果たすため、彼らをこの地に招いていたのであった。
「やはり素晴らしい場所ですね」
「私もそう思うわ」
近くに歩み寄ってきた天魔が話しかけてきた。心なしか、表情に柔和さが漂っている。いつもの凛とした空気が纏っていないことに紫は少し心が和らいだ。
「どうかしましたか?少し表情が優れていないようですが……」
「そうね……そうかもしれないわね」
やるせない気力が紫を襲っていた。それもそのはず、大切なレティとの約束を裏切ってしまったからだ。
天魔は彼女の心情に気づき、深々と頭を下げた。
「申し訳ない。貴方の心を汲み取れず、いけしゃあしゃあと……」
「構わないわ、天魔。これは管理者としての努め。公私を挟まないつもりでいるわ」
それは嘘であった。紫はいかにも辛そうな表情でいる。時折、管理者ではない紫の顔が見え隠れしているのは天魔にでも分かる。
(気丈なお方だ)
辛くても管理者として努める様に、天魔は改めて紫の心の強さを知らされた。
「……紫殿、私たちも貴方との約束を遵守します」
「……………よろしくね」
その言葉を最後に紫はスキマへと消えていった。
後に残された天魔は再度深々と頭を下げていた。
…………………
「ねぇ、藍?」
「はい、何でしょうか?」
マヨヒガに帰ってきた紫はコタツにもぐりながら正面に座っている藍に話しかけた。
「貴方はレティがここからいなくなったらどうする?」
「えっ?」
藍にとっては青天の霹靂であった。何故こんな質問をするのか、恐らくいなくなるからだろう、と言うことは悟った。しかし、どうしていなくなるのだろうか、藍は聞きたい衝動に駆られたがそれをぐっと飲み込んだ。
しばらく考えたが、寂しい答えしか出なかった。
「どうも出来ません。私は紫様の式神ですから」
「そうよね……藍は式神だもんね」
もう少し気の利いた言葉を作れなかったのかと藍の心に後悔が押し寄せた。
小刻みに震える体を見せまいと必死に押さえていた藍は、不意に背中に手が回ってくるのが分かった。顔を見上げると、
「ごめんなさいね、意地悪な質問をして」
「ぐすっ………ゆかり……さま………ぐしゅ……」
穏やかな、慈愛に包まれた紫の笑顔があった。
その顔を見て涙がこぼれた。幾筋も流れ、止めることは出来ず、藍は紫の胸に包まれて泣き出した。
藍にとってレティとはもう一人の母親であった。
藍は紫と一緒に幻想郷を作り上げてからは、紫のことを主であり、母親であると思っていた。
ある日、紫はレティをマヨヒガに連れてきた。その日以来、藍は冬限定ながらもレティに修行をしてもらい、また妖怪としての振舞い方を教えてもらった。
藍はレティに憧れた。強さだけでない。存在そのものが憧れであった。
いつしか藍はレティをもう一人の母親と思うようになっていた。
そんな母親がここから出て行く。藍には考えられなかった。
紫も藍の気持ちを知っていた。本来なら聞いてはいけない、もしくは別の言い方があったのかもしれない。でも濁さずストレートに聞いてしまった。
なぜなら、少しでも痛みを分かち合ってもらいたかったからだ。それは紫の我侭であった。
昔はこの役目はレティであった。彼女は紫の言うことを不愉快な気持ちを表すことなく受け入れてくれた。だから紫は幻想郷のことを、プライベートを、様々なことを彼女に相談し、共に生きてきた。
紫はそんな時のレティを藍に幻想を抱いていた。藍なら答えてくれるだろう、傷を癒してくれるだろうと。でも、現実は違った。今彼女は紫の胸で泣いている。
「ごめんね、藍……」
紫は藍を守るように強く抱きしめた。その目は藍と同じであった。
◆◆◆
ついに紫が恐れていた日がやってきた。
その日、レティは山に出かけてくるとマヨイガを後にした。紫はただ、そう、と言ってレティを見送った。
ぴしゃりという玄関が閉まる音がいつもより大きく聞こえた。短い会話のやり取りだったと言うのに掌を見ると汗で濡れていた。緊張か、恐れか、いずれにせよ匙は投げられてしまった。
「行ってくるわね」
「お気をつけて」
藍は玄関に来て畏まった。普段よりお互いのトーンが下がっていた。今日は忘れられない一日になりそうだと、深くため息をついた紫がそこにいた。
…………………
スキマ越しに山の上空から様子を見ていた。
案の定、レティと天狗が弾幕を繰り広げていた。レティは単身で天狗の集団相手にしていた。見るからに優勢である。
「相変わらずね」
ほっとしたような気がした。でも今後の幻想郷のことを考えるならば……
凍りつけられ、砕かれ、そして落ちていく天狗達を見ていると心が痛んだ。自分が言った条件とは言えひどい条件を言ってしまったものだと、後悔もした。
しばらくして天魔が天狗達の代表としてレティと対峙するようになった。
本当なら自分がレティを説得しなければいけなかったのに……でも言えなかった。
『今日まで一緒に見る機会を取っておいて良かったわ』
レティの言葉が脳裏によみがえる。そのたびに目頭が熱くなった。今だってそうである。気を緩めれば、とめどなくいつまでも流れ続けるだろう。
だから紫は故意に『そいつ』に心をゆだねた。
今は天魔が勝利することを祈ろう。
誰もいない雪原の方へ吹き飛んでいくレティの姿が目に焼きついた。
………
……
…
いつまでも雪が降り続いていた。
一日中降り続く雪は永遠を知らないのだろうか。
静かに、静かに、静かに………まるでネクロファンタジアであった。
紫はそんな中を、傘を差して立っていた。優雅にけれどどこか寂しさが漂っていた。
彼女の元に何か音が近づいていた。その音は徐々に近くなってくる。引きずるような音であった。
ちらりと傘を上げて見てみると傷だらけのレティが歩いていた。そして彼女だと分かると紫は再び傘で顔を隠した。
大きくなっていく足音はあるところで止まった。下を見てみるとレティ足があった。
「天狗にあったわ」
「…………」
「こっちからケンカ売ったんだけどね………ふふっ……ご覧の通りよ」
「…………」
傘で顔は見ないようにしているが息は絶え絶え、声もベルのような透き通った声ではなく若干つぶれていた。苦笑しているレティに紫は何も声をかけられなかった。
「ねぇ……何か言ってよ………」
レティの涙声が紫の耳に通る。けれど何も反応できなかった。
言いたいことはあった。けれど言わないようにした。
「………ゆかりぃ~~……」
良く見ると地面に雫が落ちていく。ああ、レティは泣いているんだ、と気づいた。けれど何も言わないようにぎゅっと唇をかみ締めた。
強く噛んだ所為か血が口の端から流れる。
「どうして私が!?」
魂さえも震わすような叫びでも、紫は石像のように佇んでいた。レティはそのまま紫に身を委ねる様に頭を紫の胸に押し付けた。じんわりと暖かくなっていく。涙が服越しに紫の体を濡らしていった。
しばらくしてレティは紫の体から離れ、もと来た道を歩き始めた。
「もう貴方に会うことなんてないわ」
「…………」
「貴方の顔なんて見たくもない!!!」
「…………」
体が万全であればもっと早く立ち去れたのかもしれない。
彼女はゆっくりと歩き、そして紫の目には映らない程になった。
雪が激しく舞っていた
…………………
「お帰りなさいませ、紫様」
「…………」
無言で帰宅した紫を迎えた藍は、崩れかかった紫の体を支えた。
「どうされますか?」
「……布団を敷いて頂戴」
「分かりました」
藍は紫をゆっくりと居間まで運び、座らせてから布団の用意をしに行った。
(こんなに広かったかしら……)
見渡した部屋は誰もいない。いつもならレティか藍がいるのだが……
レティを思い出し、また目頭が熱くなってきたので膝を抱えた。
「紫様?」
そこへ用意をしに行った藍が戻ってきた。
藍は跪き、紫の体を抱きかかえた。
ふと藍は紫の体が思ったより軽いことに気づいた。うずくまる紫の様は『大妖怪』としての威厳が消えていた。
布団の中に入った紫はそれから三日間そこから出ることはなかった。
後日
レティが幻想郷で暴れていると藍から知らされた紫は、藍に指示をして博麗の巫女に解決するように促した。
紫は主に後処理に紛争し、幻想郷の傷痕を少しずつ回復させていった。
後に『幻想郷冬幻郷異変』として、最初の異変として歴史に残るつもりだったが、紫はあえて歴史の闇に葬った。
理由はこの異変が異質であまりにも被害が大きかったためだからである。
しかし紫のこの選択は正しかったのかもしれない。将来起こった『紅霧異変』や『春雪異変』などに比べて残虐性が高かった。もっとも『幻想郷冬幻郷異変』が、死者がゼロだったことは幸いであったが。
「それじゃ、後はよろしくね」
「はっ、お任せ下さい」
紫の部屋の入り口で藍は頭を下げ静かに戸を閉めた。
紫はそれを見送って布団にもぐった。
紫はこの日から『冬眠』に移ることになった。
冬眠なので、いつまでもと言うわけではなく冬の間だけである。
理由は先の異変解決で力を使いすぎたこと。しかしそれは表の理由であって、裏の理由は冬の間しか出られないレティに気遣ってである。
彼女は二度と会いたくないと言っていたので、紫はその間、力を蓄えると言う名目で顔を合わせない様に決めたのだ。
さて布団にもぐっては見たが睡魔は襲ってこない。
紫はふとあの日を思い出してみた。
レティと分かれたあの日、紫は何故弁明をしなかったのか。
それは謝ってしまえば、レティは紫を責めれなくなってしまうからだ。レティとの約束を破った紫は彼女から見ると裏切り者に映る。それなら好きなだけ彼女に言わせようと思ったのだ。
罵声を浴びられようと、弾幕をぶつけられようとも謝らないでおこうと決意した。それが最悪、彼岸に送られようとも……
(これでレティは幻想郷の代わりに私をはけ口に不満をぶつけるだろう)
けれど先ずは、ほとぼりが冷めるまでお互い逢わないようにした。
これは紫なりの不器用な謝罪のつもりであった。
障子越しに見えるシルエットは無数の雪。冬とレティの象徴である。
レティは今頃どうしているだろうか。
彼女を考えていたら、心が揺らいできた。
胸元の服を手で強く握り締め、決意していたのに言ってしまった。
「ごめんなさい………」
彼女たちの雪解けはいつ来るのだろうか。
降り積もる雪は何も答えてはくれなかった。
FIN………..
また拙作『大と並の境シリーズ』の設定を若干引き継いでいますが、読まなくても大丈夫に出来ています。
気になるようでしたら読んでいただけると幸いです。
『ごめんなさい………』
マヨヒガ
ここは幻想郷であって幻想郷ではない曖昧な場所である。
そこには純和風な茅葺屋根の家が一軒あった。
その屋根の上では一人の少女が佇んでいる。
季節は冬と言うこともあり雪が降っているのだがそんなことを気にせずじっとしていた。
その顔には憂いがおび、彼女の周りに悲しさを纏っていた。
ゆっくりと腰を上げお尻に付いた萱草を払った。地面におり、ある部屋の障子を開けた。
「あー寒かったわ。外は寒いわねぇ、藍」
「そりゃ、寒いでしょう。雪は降りますし、ついでにレティ様もお目覚めですから」
「あら、私はついでなのね」
寒い寒いと言いながらその女性―八雲 紫―は藍と呼ばれた式神と同様にコタツに足を突っ込んだ。
前を向くと紫の前にはふわふわした髪の持ち主で、冬の妖怪、レティがコタツに足を入れずに座っていた。
「お目覚めのようね、レティ」
「ええ。大切な季節が来たので目が覚めちゃったわ」
お互いコタツの前にのめり出し、顔を近づけた。
「おはよう、レティ♪」
「おはよう、紫♪」
にっこりとした女性たちの笑顔は少女らしく愛らしさがあった。
そのまま楽しそうに手を絡ませあいながらお喋りをしていた。
「今回はちょっと遅かったんじゃないの?」
「ふふっ、たまには貴方が困る顔が見たくなってね」
「とか言いながら、本当はただ寝坊しただけなんでしょ」
「さぁ、それはどうかしら?」
意地悪ね、と言って紫はまた笑顔になった。
対するレティも笑顔が絶えない。
このままであればせっかく藍が用意した味噌汁も冷めてしまいそうだ。
紫は藍が何を言いたいか分かってはいたが、今はレティと話すことに没頭していた。
藍は躊躇いながらも二人に進言した。
「あの、紫様、レティ様。そろそろ朝食を頂いてくれませんか?まだ私にはやる事がありますので……」
「えー…ケチね、藍は……」
「そんなんだからまだ尻尾が八本なのよ」
「いや、それは関係ないかと思いますが」
とか言うものの、『大妖怪』である二人を前にして藍はこれ以上強く言うことが出来ず、恐縮してしまった。
その様子を見て二人は満足し合唱した。
「「いただきます!」」
「あ、い、いただきます…」
藍の用意するご飯はいつもおいしい。
今回はレティの目覚め祝いと言うこともあってよりおいしく見える。
けれど紫にとっては味わう余裕があまりなかった。
………
……
…
「あーおいしかったわ」
「そうね。今日はいつもよりおいしかったじゃない、藍」
「はい。今日はレティ様が目覚めると思っていつも以上に張り切らせていただきました」
(やっぱり張り切っていたのね)
そう思いながら紫は藍に罪悪感を覚えた。
一方、藍の方は照れた、けれどはっきりした笑顔で答えたので、嬉しそうなレティに頭をなでられていた。
藍もなでられて嬉しくなり、その表情のまま後片付けに取り組んだ。
藍を見送った後、満足そうにしているレティに紫は声をかけた。
「これから、どうするの?」
「そうね……とりあえず目覚めの一発目と言うことで景気良く気温を下げてくるわ。目標は例年比の1.2倍で」
「あ、そう」
「何よ。冷たい反応ね」
「だってレティだし。熱い反応よりかマシでしょ」
「それもそうね」
先ほどまで食事をしながら絶え間なく会話をし、また時には手を握り合うなど傍から見て、熱かったのだが…
(いつの間にか自然に手を握るようになったわね、私たちって)
ひとり誰に言うことなく心の中で考えていた。無意識に紫はぎゅっと握った。レティも握り返してきた。
くすくすと笑うレティを見ながら、紫もまた穏やかの表情でしゃべっていた。
「ま、そういうわけだからちょっと行って来るわね」
「うん、ま、ほどほどにね……」
「ええ、ほどほどに」
そう言って玄関に向かうレティを紫は見送った。
何年来の変わらない会話だったが、紫は無意識に寂しそうな声を出していた。
友人の前でこんな事をするのは失礼だと思った。けれど心が言うことを聞いてくれなかった。
そのことでまた紫は気持ちが沈んでしまった。
今日の様子だと遅くまで帰ってこないかもしれない。
晩御飯まで時間が空いたので紫は藍に出かけてくる、と言ってレティ同様に外に出た。
玄関を開けると雪が舞い込んできた。
雪は床に落ちては直ぐに染み込む。
(こんな早さで雪解け出来たらいいわね)
何か思うところがあるのか紫は雪が染み込む様を見て、静かに立ち去った。
『行き先は人里近く』
◆◆◆
厳しい寒さが紫の肌を突き刺す。
レティもこの近くにいるんだなと思った。
自分が言ったことをレティは約束してくれているだろうか、それが気になって自然と人里に目を向ける。
スキマを使って出てきた場所は人間とは違う集落の入り口であった。
そこには二人の妖怪が佇んでいた。紫に気づくと二人は近づき礼をした。
「今日は、紫様」
「寒い中ご苦労様です」
「こんにちは」
ゆっくりと顔を上げた妖怪には、頭に白い犬のような耳としっぽを持っていた。
彼らは白狼天狗で天狗の仲間である。
紫は天狗の集落に来ていたのであった。
「天魔はいるかしら?」
「はっ、天魔様は屋敷にてお待ちしております」
「そう…」
シャクッ、シャクッと雪を踏みしめながら紫は集落に入っていった。
天狗の集落は人里に比べて規模が二倍近くある。
その中を鴉天狗であったり鼻高天狗が悠々と飛び回っていた。
けれど今日はレティの力がここまで及んでいる所為か、いつもより外にいる数が少ないと紫は思った。
彼らの近くを通り過ぎるたびに翼を止めては礼をしていく。彼らは紫に敬意を払っているのだ。紫はそんな光景になれているのか自然な足取りで目的地に足を運ぶ。
入り口から一番離れたところに大きな屋敷が構えていた。そこにも集落の入り口同様、白狼天狗が一人門番をしていた。彼に話し、紫は屋敷に入っていった。
………
……
…
「ようこそ、紫殿」
「今日は、天魔」
軽く挨拶をし、天魔に勧められて紫は腰を下ろした。机を挟んで紫の前には女性にしては長身な天狗の天魔と、彼女の一歩後ろで傍に座っている大天狗がいた。
「冬の妖怪がお目覚めのようですね」
「ええ」
「部下たちの報告だと彼女は人間を凍りつけていましたよ」
「っ……そう」
紫は体裁気にせず顔をしかめた。
「貴方は冬の妖怪の話になると判りやすいですね」
「そうね、私も気をつけているようにしているんだけどね」
「それで宜しいのでは」
「どうしてそう思うのかしら?」
「それだけ思われる彼女は幸せだと言うことです」
「………私は管理者です。私情を挟まない事が私の中のルールとしていますわ」
「失礼、口が過ぎました」
天魔は深々と頭を下げる。彼女はどんなときも凛としている表情なので、紫にも顔色が伺いにくい。本当に失礼だと思っているのか疑わしい。
「……ま、良いわ。本題に入りましょ」
「分かりました」
お互い再度、身なりを整える。二人からは威圧とも取れるような空気を発しているので並の精神の持ち主だったら泣き出すか、失神するだろう。大天狗はそんな空気の中、さもあらんと言わんばかりに受け流していた。
「私たちの要求は唯一つ、あの『山』を住処にさせていただくことです」
「それは分かっているわ。けれどそう簡単に決めれることではないわ」
天魔の言う『山』とはここから大分離れたところに一つの大きな山が聳え立っている。人間、妖怪でさえ立ち入らないため、手付かずの自然が広がっているのだ。
「貴方はあの山の管理者ですよね?」
「そうよ」
「なら、貴方の一言で一存できるのでは?」
「……あの山はレティのものよ」
「なるほど」
紫の一言で納得したのか天魔は神妙な顔つきで頷いた。
「私は彼女の代わりに管理しているだけ。実質は彼女の『山』よ」
「ふむ。困りましたね」
紫は『レティの山』だと言った。けれど本当は彼女に依頼されているだけで実質は『紫』である。本当は紫もどうにかしたいと思っていた。
紫は管理者である。先ほど紫も言ったように、私情を挟まないに様にしているのだが、実際は挟んでしまっている。レティが絡むと立ち位置があやふやになるのが悪いくせだ。
紫はレティを大切な友人だと思っている。向こうもそう思っているだろうとも思っている。だからこそこの『山』の問題が紫には辛いのだ。
紫は管理者として山を天狗に譲りたい。理由として、天狗の技術である。彼らが使う写真、活版印刷の技術は外の世界の技術に匹敵するほど高度な文明である。そのため、幻想郷にはあまり相応しくない。そのことは霧の湖近くに住んでいる河童にも当てはまる。
そして山への移譲に関する付属の理由として、彼らが人里近くに住んでいることだ。これでは人間たちに近い将来、文明の発達を促してしまうかもしれない。それも幻想郷にとっては拙いのである。
こうした理由から紫は天狗の案を呑みたかったが、レティが関わっている。だから紫としてはそう簡単に譲れないのだ。
一方、天魔は紫の考えなんぞ知らないでいる。彼女はただ山に住むことしか考えていない。
なぜなら、山は人間が簡単に立ち寄る事が出来ないからだ。
天魔の、と言うか天狗達の山への執着は彼ら独自の文化、制度をつくりひっそりとしながらも確実な繁栄を築き上げたいからだ。誰も近寄らせなくすることで外敵から身を守れると考えている。そのためにも山が欲しいのだ。
二人の思惑は合っているが、どうしてもレティが言葉は悪いが邪魔なのである。しかも彼女は並の妖怪をしのぎ、紫とも対等に渡れるほどの強さを誇っている。なので一番強い天魔でさえ、レティに及ぶことは出来ない。
「では、どうすれば私たちの移住を認めてもらえるのだろうか?」
仕方なく天魔は条件をつけてもらう方向で進めるようにした。最終手段なのであまり言いたくはなかったのだろう。
対する紫も慎重になっていた。切り出したのは向こうとは言え、言葉を選ばないと話しがうまく進まないかもしれないからである。
「……三つあります。一つ、天狗は全員山に移ること。一人も残さないようにね。二つ、山には河童も連れて行くこと」
「?どうして河童も連れて行く必要があるのですか?」
「彼らの技術は素晴らしいものを持っています。それらは貴方達の繁栄と言う願いをかなえるのに大いに役立ってくれるでしょう」
「!?気づいていたのですか?」
紫は天魔に微笑み返す。天魔はまさか自分たちの願いなんぞ知らないだろうと思っていたので、驚いてしまった。傍に居る大天狗でさえ、驚きの顔を表している。
「わかりました。ただ彼らとあまりコミュニケーションがありませんので紫殿から伝えていただけますか?」
「わかりました。では、三つ目ですが………」
一瞬、紫は躊躇ってしまった。これから言うことは裏切りに等しいこと。何も知らない大切な、大切な彼女を騙すこと。言ってはいけないと紫の中の本能が叫んでいた。
けれど管理者としての紫が本能の言葉を消していく。
お前は『幻想郷の管理者』なのだ、と……
「三つ目は貴方たちの手でレティを葬ることです」
「!?」
まさか、紫からその言葉が出るとは思わなかった。天満、大天狗共に驚きを隠せないでいる。先ほど以上に彼らは驚いていた。
「……宜しいのですか?」
「ええ、それが出来れば彼女も納得するでしょう。それで納得しないようであれば私も手を下します」
「……………」
天魔は本気なのだと悟った。天狗は仲間意識が高いので、天魔はこの決断の苦しさは分かっているつもりだ。だから、これ以上苦しめないように彼女も決意した。
「分かりました。その三つの条件、全て受け入れさせていただきます」
「……ありがとう」
それを最後に紫は立ち上がりスキマへと消えていった。
天魔には彼女が泣いていた様に見えた。気のせいかもしれないが……
◆◆◆
レティが帰ってくる前に少しでも平静さを取り戻そうとしていた。
彼女に悟らせないようにしないとさっきの決意が無に帰してしまう。
そんなとき、ふとごろごろ転がってみることにした。
なぜこうしたのか自分でも判らないが、とりあえず試していた。
「何をしているのですか、紫様?」
「……猫の気持ちになっていたのよ」
若干顔を赤くした紫は部屋に入ってきた藍に説明した。
はぁーっと小さくため息した藍はかちゃっ、かちゃっと茶碗を並べていた。
「レティ様の夕飯、どういたしましょうか?」
「用意してあげて頂戴」
「分かりました」
台所に戻っていく藍を見送って紫は胸に手を当てた。少し落ち着いてきたことに安心した。
なのでごろごろを続行した。
しばらくして玄関の方で話し声が聞こえた。藍とレティの声であった。
それでも紫は動揺していなかったことにまた安心した。
そして部屋のふすまが開けられると、
「………猫ね」
「にゃ~♪」
レティは体を寝転んだままごろごろしていた紫を見て呟いた。
猫と言われたのでとりあえず、一鳴きして、紫は止まってレティを見た。
「遅かったわね。晩もいらないのかと思ったわ」
「ごめんね。ちょっと気が乗っちゃってね」
そう話しながらレティはコタツの前に座った。
朝と同様足を入れていない。
紫もコタツの前に戻ってきた。
こちらは足を入れ、暖を取っていた。
「どうだったかしら、久々の外は?」
「そうね、とても満足したわ」
それでね、としゃべり始めたレティを見て紫はやっぱりと思った。
彼女が何故人間相手に力を揮っているのか、分かっているつもりでいた。けれど、もう少し力を抑えて欲しいと切に願っていた。
楽しそうに話すレティの顔を見て紫は悲しい気持ちに苛まれながら藍の夕食を待っていた。
………
……
…
「明日暇かしら?」
紫はあまり食べたと言う実感は湧かなかった食事も終え、ゆっくりと消化が始まる頃にレティが声をかけた。
「え?そうね、暇と言えばいつも暇だわ」
「それなら都合が良いわ」
確かに予定はないが、一体何を話すのだろうとレティの方を振り向いた。そこにはぽんと軽く両手を合掌し、顔には楽しそうな表情を浮かべていたレティが見えた。
「明日紫にちょっと付き合ってほしいのよ」
「どこ?デートのお誘いかしら?」
「ふふっ、その通りよ。場所は着いてからのお楽しみね」
「分かったわ」
レティが冬に目覚めている間、何度かデートに誘われる事がある。
連れて行ってくれる場所は湖畔であったり、雪原であったり、迷いの竹林であったりと、二人で静かに過ごせるのがお決まりであった。
今回もその辺りだろうと決め付けて紫は了解を出した。楽しいときを過ごせたらと、この時ばかりは天狗の集落でのことを忘れて、明日を待ち遠しく思っていた。
それから二人は寝るまでしばらくの間、まったりとした時を過ごしていた。
◆◆◆
「場所ってここ?」
「ええ、そうよ」
翌朝、スキマを使っていった場所は紫にとって思いもよらない場所であった。目の前には降り積もった雪が斜面に厚みをもたらし、木にも白い化粧が施されている光景が広がっていた。
昨日天狗と話していたあの『山』である。
「この山って前に私に頼んだ場所よね」
「そうよ」
紫の質問ににっこりとした表情で答えたレティは手を握って歩き出す。
訳が分からず引っ張られる形で山に足を踏み入れていくのだが、
「さぁ、登りましょう、紫」
「登るの?飛ぶんじゃなくて」
「それでは情緒がないわ。せっかく誰も足を踏み入れていないから価値があるのよ。私ね、紫と一緒に足跡を付けようとして昨日は我慢したんだから」
何で我慢していたのか分からなかったが、昨日レティが山に入ったこと、そして誰の足跡が入っていなかったことをしきりに話していたことを思い出した。
(もしかして私と歩くために取っておいたのかしら?)
もしそうであるとすれば、と紫はとても嬉しく感じた。
「そう言えば、昨日そう言っていたわね」
「ならわかったでしょう」
「そうね」
紫は幸福感に満たされながらレティと一緒に足を山に踏み入れた。
シャクッと小気味の良い音をたてた足音は二人を満足させた。
そしてまた一歩と二人は足を中に踏み込んでいった。
シャクッ、シャクッ、シャクッ………
「川があるわね」
歩き始めて大体三合目辺りだろうか。紫はふと目を横に向けると一本の小川が流れていた。
「奥の方にはもっと大きな川があるわ」
何度も足を運んだ事があるレティはどこに何があるか把握しているつもりだ。
一方の紫はレティに頼まれて以来、山に足を運んだ事がなかったのでよく分からなかった。
紫は立ち止まりじっと小川を見た。
(綺麗な小川ね。夏には気持ちよさそうだわ)
そう口にしようと思ったが、紫の心の中で『何か』が心を覆うものがあった。『そいつ』が、じわりじわりと浸食する『何か』が、紫が思ったこととは違う感想を発した。
「河童が住めそうな場所ね」
「そうね…」
言ってから紫ははっとした。無意識に出た言葉は紫を驚かせ、レティの方を向いた。
彼女は少し俯いたまま何も言ってこなかった。
(何でこんなこと言ったんだろう……)
シャクッ、シャクッ、シャクッ………
「何か大きな音が聞こえるわ」
六合目付近で、どどどっと何か地響きのような音が聞こえた。
「さっき話した川があるでしょ。その川を作る滝があるのよ」
「へぇ~」
「その滝には秘密があってね。裏には窪地があるのよ。見つけたときには驚いたわ」
レティはちょっと興奮気味に紫に話しかけていた。確かに滝の横からよく見ると窪地が見えた。さっきのことで少し気まずい雰囲気をつくってしまったので、もう少し話題を広げようと紫はレティに質問をした。
「他には何かないかしら?」
「そうね……この山、木が多いでしょ?実はね滝の頂上部の向こうにはこの辺り以上に背の高い木がたくさん生えているの。群生林と言うものね」
「そう…」
レティの答えを聞いてまた『何か』が紫の中に押し寄せてきた。また無意識に紫は意識を奪われてしまう。そんな紫の状態を知らないレティは不思議そうに伺っていた。
紫の口を通して、『そいつ』は言ってはいけないことを言ってしまった。
「やっぱり彼らには丁度良いかも……」
今度は、紫は早めに気づいたので『そいつ』を抑えようとしたが止められず、小声であったもの言ってしまった。レティに聞こえてしまっただろうかと恐る恐る振り向くと悔しそうな残念そうな顔がありありと表れていた。
なんでこんなことになっているのか紫にも分からない。『そいつ』は一体誰なんだ。
紫は謝罪を口にするものの言う勇気が湧かず、結果としてレティにはぶつぶつと聞きにくい声で届いてしまった。
上に行こう、そう思いながら紫はレティの手を握って歩き始めた。
それを見てレティも歩き始めた。
シャクッ、シャクッ、シャクッ………
登ること一刻。
二人はついに頂上に到着した。
「やっと着いたわね」
「そうね」
レティに悪いことしたなと思いながら相槌をうった。頂上に登る間はお互い無言になり話しても二、三言で終わるような会話であった。まだ何か考え事なのか、紫の反応は少しそ隣のレティは少し顔を不機嫌にさせていたが、急に機嫌を変えた。
彼女は一本の木を見て紫を呼んだ。
「紫。ついて来て」
呼ばれた紫はレティを見ているとふわりと浮き上がり、杉の木の枝に止まった。そこから手招きするレティに倣い、紫も浮き上がって彼女の隣に座った。
ここに来た理由を紫は伺うと、レティは答える前にある一点を指差した。
指差す方向を見ると、
「ほら、見て」
「…………うわぁ」
紫は心底驚いていた。
そこにはまさに『幻想郷』と言う表現が相応しい世界が広がっていた。
時刻は日が沈む手前。
空では闇が陽光を塗りつぶそうと勢力が広げていた。
一方地面に目を向けるとまだ陽光の世界が広がっている。
そして地面と交わる一点で太陽が直視できないほど輝いている。
その為雪の海はオレンジ色に輝いていたのであった。
「どうかしら?」
「…言葉が出ないわ。これほどに自分の口下手が口惜しくなったことなんてないわ」
よく言うわね、と肩をすかしながらもレティは満足していたように思えた。
本当に表現が出来なかった。幻想郷を創った紫が言うのもおかしな話だが、こんな景色一度も見た事がなかったのだ。それはレティに禁じられていたというのもあるが、それならレティが幻想郷入りする前に気づく機会があったはずだったが、今日まで知らなかった。
(ああ、幻想郷を創ってよかった)
紫は自分のしてきたことに心から喜びを感じた。
「貴方がここを誰にも入れさせたくない気持ちがよく分かったわ」
「でしょ!私は誰にもここを邪魔させたくないの。もちろん紫は除いてね。今日まで一緒に見る機会を取っておいて良かったわ」
嬉しそうにレティは話す。道中とは違う紫の反応が見れたからだろう。ここにつれてきて正解だと思った。
だからレティは彼女の本当の表情を見過ごしていた。
嬉しさに満ちていた心は、高まり、鼓動が激しく動く。良く見れば鳥肌も立っている。
だからこそこんなときに『そいつ』が出てきた事が悔しかった。
「だからこそ……他のものと共有すべきね」
紫はレティに悟らせないように一人つぶやいていた。
太陽だけが管理者を見ていた。
◆◆◆
二人が山登りをして数日後、紫はもう一度山に足を踏み入れていた。
しかし隣にはレティがいない。
代わりに無数の天狗と河童が周りにいた。
紫はついに天魔との約束を果たすため、彼らをこの地に招いていたのであった。
「やはり素晴らしい場所ですね」
「私もそう思うわ」
近くに歩み寄ってきた天魔が話しかけてきた。心なしか、表情に柔和さが漂っている。いつもの凛とした空気が纏っていないことに紫は少し心が和らいだ。
「どうかしましたか?少し表情が優れていないようですが……」
「そうね……そうかもしれないわね」
やるせない気力が紫を襲っていた。それもそのはず、大切なレティとの約束を裏切ってしまったからだ。
天魔は彼女の心情に気づき、深々と頭を下げた。
「申し訳ない。貴方の心を汲み取れず、いけしゃあしゃあと……」
「構わないわ、天魔。これは管理者としての努め。公私を挟まないつもりでいるわ」
それは嘘であった。紫はいかにも辛そうな表情でいる。時折、管理者ではない紫の顔が見え隠れしているのは天魔にでも分かる。
(気丈なお方だ)
辛くても管理者として努める様に、天魔は改めて紫の心の強さを知らされた。
「……紫殿、私たちも貴方との約束を遵守します」
「……………よろしくね」
その言葉を最後に紫はスキマへと消えていった。
後に残された天魔は再度深々と頭を下げていた。
…………………
「ねぇ、藍?」
「はい、何でしょうか?」
マヨヒガに帰ってきた紫はコタツにもぐりながら正面に座っている藍に話しかけた。
「貴方はレティがここからいなくなったらどうする?」
「えっ?」
藍にとっては青天の霹靂であった。何故こんな質問をするのか、恐らくいなくなるからだろう、と言うことは悟った。しかし、どうしていなくなるのだろうか、藍は聞きたい衝動に駆られたがそれをぐっと飲み込んだ。
しばらく考えたが、寂しい答えしか出なかった。
「どうも出来ません。私は紫様の式神ですから」
「そうよね……藍は式神だもんね」
もう少し気の利いた言葉を作れなかったのかと藍の心に後悔が押し寄せた。
小刻みに震える体を見せまいと必死に押さえていた藍は、不意に背中に手が回ってくるのが分かった。顔を見上げると、
「ごめんなさいね、意地悪な質問をして」
「ぐすっ………ゆかり……さま………ぐしゅ……」
穏やかな、慈愛に包まれた紫の笑顔があった。
その顔を見て涙がこぼれた。幾筋も流れ、止めることは出来ず、藍は紫の胸に包まれて泣き出した。
藍にとってレティとはもう一人の母親であった。
藍は紫と一緒に幻想郷を作り上げてからは、紫のことを主であり、母親であると思っていた。
ある日、紫はレティをマヨヒガに連れてきた。その日以来、藍は冬限定ながらもレティに修行をしてもらい、また妖怪としての振舞い方を教えてもらった。
藍はレティに憧れた。強さだけでない。存在そのものが憧れであった。
いつしか藍はレティをもう一人の母親と思うようになっていた。
そんな母親がここから出て行く。藍には考えられなかった。
紫も藍の気持ちを知っていた。本来なら聞いてはいけない、もしくは別の言い方があったのかもしれない。でも濁さずストレートに聞いてしまった。
なぜなら、少しでも痛みを分かち合ってもらいたかったからだ。それは紫の我侭であった。
昔はこの役目はレティであった。彼女は紫の言うことを不愉快な気持ちを表すことなく受け入れてくれた。だから紫は幻想郷のことを、プライベートを、様々なことを彼女に相談し、共に生きてきた。
紫はそんな時のレティを藍に幻想を抱いていた。藍なら答えてくれるだろう、傷を癒してくれるだろうと。でも、現実は違った。今彼女は紫の胸で泣いている。
「ごめんね、藍……」
紫は藍を守るように強く抱きしめた。その目は藍と同じであった。
◆◆◆
ついに紫が恐れていた日がやってきた。
その日、レティは山に出かけてくるとマヨイガを後にした。紫はただ、そう、と言ってレティを見送った。
ぴしゃりという玄関が閉まる音がいつもより大きく聞こえた。短い会話のやり取りだったと言うのに掌を見ると汗で濡れていた。緊張か、恐れか、いずれにせよ匙は投げられてしまった。
「行ってくるわね」
「お気をつけて」
藍は玄関に来て畏まった。普段よりお互いのトーンが下がっていた。今日は忘れられない一日になりそうだと、深くため息をついた紫がそこにいた。
…………………
スキマ越しに山の上空から様子を見ていた。
案の定、レティと天狗が弾幕を繰り広げていた。レティは単身で天狗の集団相手にしていた。見るからに優勢である。
「相変わらずね」
ほっとしたような気がした。でも今後の幻想郷のことを考えるならば……
凍りつけられ、砕かれ、そして落ちていく天狗達を見ていると心が痛んだ。自分が言った条件とは言えひどい条件を言ってしまったものだと、後悔もした。
しばらくして天魔が天狗達の代表としてレティと対峙するようになった。
本当なら自分がレティを説得しなければいけなかったのに……でも言えなかった。
『今日まで一緒に見る機会を取っておいて良かったわ』
レティの言葉が脳裏によみがえる。そのたびに目頭が熱くなった。今だってそうである。気を緩めれば、とめどなくいつまでも流れ続けるだろう。
だから紫は故意に『そいつ』に心をゆだねた。
今は天魔が勝利することを祈ろう。
誰もいない雪原の方へ吹き飛んでいくレティの姿が目に焼きついた。
………
……
…
いつまでも雪が降り続いていた。
一日中降り続く雪は永遠を知らないのだろうか。
静かに、静かに、静かに………まるでネクロファンタジアであった。
紫はそんな中を、傘を差して立っていた。優雅にけれどどこか寂しさが漂っていた。
彼女の元に何か音が近づいていた。その音は徐々に近くなってくる。引きずるような音であった。
ちらりと傘を上げて見てみると傷だらけのレティが歩いていた。そして彼女だと分かると紫は再び傘で顔を隠した。
大きくなっていく足音はあるところで止まった。下を見てみるとレティ足があった。
「天狗にあったわ」
「…………」
「こっちからケンカ売ったんだけどね………ふふっ……ご覧の通りよ」
「…………」
傘で顔は見ないようにしているが息は絶え絶え、声もベルのような透き通った声ではなく若干つぶれていた。苦笑しているレティに紫は何も声をかけられなかった。
「ねぇ……何か言ってよ………」
レティの涙声が紫の耳に通る。けれど何も反応できなかった。
言いたいことはあった。けれど言わないようにした。
「………ゆかりぃ~~……」
良く見ると地面に雫が落ちていく。ああ、レティは泣いているんだ、と気づいた。けれど何も言わないようにぎゅっと唇をかみ締めた。
強く噛んだ所為か血が口の端から流れる。
「どうして私が!?」
魂さえも震わすような叫びでも、紫は石像のように佇んでいた。レティはそのまま紫に身を委ねる様に頭を紫の胸に押し付けた。じんわりと暖かくなっていく。涙が服越しに紫の体を濡らしていった。
しばらくしてレティは紫の体から離れ、もと来た道を歩き始めた。
「もう貴方に会うことなんてないわ」
「…………」
「貴方の顔なんて見たくもない!!!」
「…………」
体が万全であればもっと早く立ち去れたのかもしれない。
彼女はゆっくりと歩き、そして紫の目には映らない程になった。
雪が激しく舞っていた
…………………
「お帰りなさいませ、紫様」
「…………」
無言で帰宅した紫を迎えた藍は、崩れかかった紫の体を支えた。
「どうされますか?」
「……布団を敷いて頂戴」
「分かりました」
藍は紫をゆっくりと居間まで運び、座らせてから布団の用意をしに行った。
(こんなに広かったかしら……)
見渡した部屋は誰もいない。いつもならレティか藍がいるのだが……
レティを思い出し、また目頭が熱くなってきたので膝を抱えた。
「紫様?」
そこへ用意をしに行った藍が戻ってきた。
藍は跪き、紫の体を抱きかかえた。
ふと藍は紫の体が思ったより軽いことに気づいた。うずくまる紫の様は『大妖怪』としての威厳が消えていた。
布団の中に入った紫はそれから三日間そこから出ることはなかった。
後日
レティが幻想郷で暴れていると藍から知らされた紫は、藍に指示をして博麗の巫女に解決するように促した。
紫は主に後処理に紛争し、幻想郷の傷痕を少しずつ回復させていった。
後に『幻想郷冬幻郷異変』として、最初の異変として歴史に残るつもりだったが、紫はあえて歴史の闇に葬った。
理由はこの異変が異質であまりにも被害が大きかったためだからである。
しかし紫のこの選択は正しかったのかもしれない。将来起こった『紅霧異変』や『春雪異変』などに比べて残虐性が高かった。もっとも『幻想郷冬幻郷異変』が、死者がゼロだったことは幸いであったが。
「それじゃ、後はよろしくね」
「はっ、お任せ下さい」
紫の部屋の入り口で藍は頭を下げ静かに戸を閉めた。
紫はそれを見送って布団にもぐった。
紫はこの日から『冬眠』に移ることになった。
冬眠なので、いつまでもと言うわけではなく冬の間だけである。
理由は先の異変解決で力を使いすぎたこと。しかしそれは表の理由であって、裏の理由は冬の間しか出られないレティに気遣ってである。
彼女は二度と会いたくないと言っていたので、紫はその間、力を蓄えると言う名目で顔を合わせない様に決めたのだ。
さて布団にもぐっては見たが睡魔は襲ってこない。
紫はふとあの日を思い出してみた。
レティと分かれたあの日、紫は何故弁明をしなかったのか。
それは謝ってしまえば、レティは紫を責めれなくなってしまうからだ。レティとの約束を破った紫は彼女から見ると裏切り者に映る。それなら好きなだけ彼女に言わせようと思ったのだ。
罵声を浴びられようと、弾幕をぶつけられようとも謝らないでおこうと決意した。それが最悪、彼岸に送られようとも……
(これでレティは幻想郷の代わりに私をはけ口に不満をぶつけるだろう)
けれど先ずは、ほとぼりが冷めるまでお互い逢わないようにした。
これは紫なりの不器用な謝罪のつもりであった。
障子越しに見えるシルエットは無数の雪。冬とレティの象徴である。
レティは今頃どうしているだろうか。
彼女を考えていたら、心が揺らいできた。
胸元の服を手で強く握り締め、決意していたのに言ってしまった。
「ごめんなさい………」
彼女たちの雪解けはいつ来るのだろうか。
降り積もる雪は何も答えてはくれなかった。
FIN………..
じんわりくるぜ
賽が投げられたときとかマジ切なかった
あわせて200点置いてきますね
紫の冬眠がこのお話のような意味をもっているのなら、それはなんともやりきれない話ですね。
しかし生きたいに生きられないのは辛いね。