朝、目を覚ました私は、家の外から聞こえてくる雀の鳴き声を聞きながら起き上が……れなかった。
私は寺子屋を営む半獣である。里の守護者などと呼ばれることもあり、みんなから頼りにされている。
だから普段の私なら、目が覚めたならさっさと朝食を済ませ、寺子屋で授業の準備をしているところだ。子供たちの、そして里の未来のために、教えるべきことは山ほどある。
が、今は天井を見上げて横になったままだ。どうにも力が入らない。
「ん゛ん……あ゛ー」
意味も無く声を出してみる。動かせるのは目と口だけ。それにしたって瞼は重いし、出たのは言葉というには程遠い呻き声。
べつに体調が悪いとか、病気を患ったわけではないと思う。これは単に気力の問題だ。
さて、いい加減起きないと本当に間に合わない。授業開始の時刻は着実に迫ってきている。
だというのに、私は布団に横になったままいつまでも起き上がれずにいた。
(どうなってしまったんだ、私は)
今のは独り言を呟いたつもりだった。でも実際には半開きの口から「どー……」という吐息混じりの声が漏れただけだった。重症だ。
(仕方ない。今日は休むか)
情けないが、私だって万能ではない。あくまでただの半獣に過ぎないのだ。たまにはこんなこともある。
しかし休むにしてもやはりその旨を誰かに伝えなくてはならない。どちらにせよ起きなければならないのだ。
「すぅ……ふッ」
息を胸に溜めて、力を込めて一気に上体を起こそうとする。が、体はせいぜい三十度ほど起こせたかというところで止まってしまった。
ぷるぷると震えながらその体勢を維持すると、数秒後にはまたぐったりと布団に埋もれた。
(あぁ、ダメだ~)
まるで体の中に鉛でも詰め込まれたみたいだ。重力が強過ぎて動けない。
これではいつまでも寺子屋に現れない私のために、子供たちが不安になってしまう。下手をすれば騒ぎになりかねない。
(そうなったらまずいなぁ。……あまりこういうことに使うのはよくないんだがなぁ。やむをえんなぁ)
私は自分に言い訳しながら独り頷くと、寺子屋の、そして私の歴史を隠した。
この里にはもとから寺子屋なんてなかったし、上白沢慧音もいなかった――つまりはそういうこと。
自分の歴史を隠して今日で四日目になる。この間、私は家から一歩も出ていない。食事も一日一回だけ。布団もずっと敷きっぱなしだ。
本当にだらけきっている。もし他の者がこのような生活を送っていれば、叱咤して更生させるだろう。実例もある。
そんな私がこのように落ちぶれてしまうとは、なんとも滑稽な話じゃないか。そう思いつつも未だ無気力状態なのは、本心では反省していないからか。
寺子屋で授業をして、子供たちと遊んで、里の人たちの家を訪ねて回り、夜の警備をして。そうしなければならない筈の時間を、この四日間はひたすらにぼんやりと過ごしていた。
普段は忙しくてそんな余裕など無いのだが、いざすべきことを放棄してみれば、一日はこんなにも長いものだったのかと驚いてしまう。
そして気づいたのだが、そういえば近頃寝つきが悪かった。夜中、布団の中で色々と考えてしまうのだ。
明日はああして、明後日はこうして、明々後日は……と、延々と予定を立てていく。そして私はその通りに行動しなければならない。
いつ妖怪が現れるかもわからない。だから常に余力を残しておく。
先のことを考えれば、今を全力で生きるなんて出来ない。私はそういう立場にあるのだ。
しかし今はそれを放棄している。
繋がりとは“しがらみ”でもある。強く深い絆とは、そのまま己を縛る太い鎖にもなるのだ。信頼は心に温かさと、同時に裏切りへの恐怖をもたらす。
期待は大きければ大きい程、その失望もまた大きい。
人は孤独では生きられないというのに、誰かと関わりを持つ度に少しずつ疲労が溜まっていくのだ。
そしてどうやら私は鎖に巻かれすぎて心が折れてしまったらしい。荷が重すぎたのだ。
思い起こせば、その予兆はあった。
寺子屋では授業の合間に休み時間がある。子供たちはそれぞれ好き勝手に過ごす。すると自然に教室は騒がしくなるものだ。
そんな時、私は耳を手で覆う。音が篭り、世界を客観的なものに感じる。どこか遠くなってしまった現実に、私はひどく安心した。
里で声を掛けてくれた者を、聞こえていないふりで無視したこともあった。
夜の見回りを、適当に済ませたこともあった。
去年まではそんなことなど無かったのに。
つらい。逃げたい。楽になりたい。関わりたくない――そういう願望があったのだ。
ずっと心の奥底に沈めていた感情が、日々の何気ない生活の中で少しずつ膨れ上がり、とうとう破裂してしまった。
期待、責任、羨望、嫉妬……重い。笑顔でい続けるのも大変だ。あまりに色んなものがのしかかってきて、ちっぽけな私は身動き出来なくなってしまった。
もしこんな私を知ってしまえば、みんな間違いなく失望の目を向けることだろう。それをずっと恐れていた……数日前までは。
だがもうどうでもよくなった。何も考えたくない、考えるのは嫌だ、面倒なのは嫌だ。
私は、ゆっくり休みたいんだ。
その晩も、私は布団に横になったままボーっと天井を眺めていた。
「いつまでひきこもってるつもりだ」
「も、こう……?」
いつの間に入ってきたのか、私の枕元に彼女は立っていた。
藤原妹紅。迷いの森に住む、不老不死の人間だ。数年前から親しくなった友人である。
それにしても驚いた。突然声を掛けられて、というのもある。何の警戒もしていなかったのだから当然だ。
しかし本当に驚くべきは、歴史を隠してある筈のこの場所へ入ってこれたこと、そして変わらず私に話しかけてこれたことである。
「どうやってここに?」
「普通に玄関から入ったよ」
「そうじゃなくて」
「あぁ、そういうこと? それなら簡単さ。慧音はもう、私の歴史の一部ってこと。慧音が自分の歴史だけ隠しても、私の歴史の中の慧音は消えないよ」
「そんなことがあるのだろうか」
「実際あるんだから認めるしかないでしょ」
だとすると、妹紅が今ここに存在するのは私の存在があってこそ、ということになってしまう。
(あぁ、また重い)
失礼なことに、私は喜びよりも面倒さを感じてしまった。
そんな私の内心など知るよしも無い彼女は、特に気分を害した様子も無く話を続ける。
「どうして四日も家に閉じこもってるんだ。重い病気かと思って心配して来てみれば、割とぴんぴんしてるし。ただ休むだけならそう言えば良いのに、もしかして里のみんなが嫌いになったのか?」
「そういうわけじゃないさ。嫌いになんて、なるわけがない」
「じゃあ、何でさ」
余計な言い回しをせず単刀直入に尋ねてくる彼女に、私は下手な言い訳も出来ず、素直に愚痴をこぼした。
みんなの期待が重い、私はもう耐えられない、責任が大きすぎて潰れてしまいそうだ、と。そんなことをぐだぐだと述べた。
それを聞いた妹紅は怒るでも呆れるでも悲しむでもなく、真剣な顔でうんうん頷いて、
「慧音って馬鹿だったんだな」
などと言ってくれた。
次の瞬間、私は彼女に飛び掛り、その首を両手で掴んだ。馬乗りになって彼女を見下ろしながら、じわじわと手に力を込めていく。
あえて言わせてもらえば、私に殺意は無かった。殺人衝動があったわけでも、妹紅に恨みや憎しみがあったわけでもない。怒りさえ湧いてなどいなかった。
近くに首があったから絞めた。それぐらい自然なことのように思えた。もしかすると狂っていたのかもしれないと、後から思う。
首を絞めつける力はどんどん強くなっていく。妹紅は苦しげに顔を歪めるが、何故か全く抵抗はしなかった。
蓬莱人――どうせ死んでもすぐに生き返るから、だからこんなにも余裕なのだろうか。
そう思った矢先、不意に彼女は笑った。自分が殺されかけているというのに。
その笑顔を見たら、こんなことをしてる自分にひどく違和感を覚えて、全身から力が抜けた。支えられなくなった私の体は彼女の上に重なる。
妹紅はしばらく咽ていたが、やがて両腕で優しく抱きしめてくれた。
「あんま気張るなよ。私がついてるからさ」
私が力を抜かなければ、おそらく妹紅はあのまま死んでいただろう。
仮に彼女が不死の身でなかったとしても、多分殺していた。その後自分も死んで……そんな気がする。
にも関わらず、彼女の声色はとても穏やかなものだった。
「生きることに疲れたか?」
「うん」
「それじゃあ、死にたいか?」
「……わからない」
死ねば楽になるのだろうか。なら、死ぬのも悪くないかもしれない。
「言っとくけど、生きるのも大変だけど、死ぬのも大変だよ」
「じゃあ、死にたくない」
なるほど、不老不死である妹紅はどんなに頑張っても死ねない。その言葉には説得力があった。
しかしそれ以前に、まるで赤子をあやすようにゆっくりと紡がれる彼女の声はとても心地良くて、どんなことでも納得させられそうな気がした。
「昼間、寺子屋の前に子供たちが集まってたぞ。何も見えてないくせに」
「そう、なのか?」
「何故かここに来たくなるんだってよ。そんで寺子屋の前で遊んでる。いつもみたいにね」
「……」
「慧音は、そんな子供たちを見るのが好きだったから、寺子屋を開いたんじゃなかったの?」
「……うん」
「里の人たちが好きだから、頑張って護ろうとしてたんじゃなかったの?」
「うん」
「慧音は、教師をやらされてたの? 警備をさせられてたの? 何かも押し付けられてたの?」
「いいや、違う。そうじゃない」
そうだ、どうしてこんな大事なことを忘れてしまっていたんだろう。何を勘違いしていたのか。確かに私は馬鹿だった。
自分から進んでやっていた筈のことが、いつしかやらなければならないことのようになってしまっていた。
いや、勝手にそう思い込んでただけだ。自分で勝手に作り出した義務感に追い立てられて、本来の目的を見失うなんて。
「先生は必ずしも慧音である必要は無いんだよ。里の警備だって、慧音がいなければみんな自主的にやるだろうね。良くも悪くも、慧音は絶対に必要なわけじゃない。実際、この数日間だって里には何の被害も出ちゃいない」
里を護って、人々と笑い合って、子供たちに授業をして、それで満足していた筈なのに……。
まるで自分が全てを背負っている気になって。とんだ思い上がりだ。
「ならどうして子供たちは寺子屋に来てしまうのか。どうして大人たちは落ち着かないのか。どうしてご老人方は寂しそうなのか」
そう、私なんかいなくても世界は何も変わりはしない。それでも私を求めてくれる人がいてくれる。どうして?
「それは役割を押し付けたり、都合の良いやつがいないからじゃあない。大切な友人がいなくなっちゃったからだよ。みんな純粋に慧音が好きなんだ。私も含めてね」
「うん、私もみんなが好きだ」
寺子屋を開いたのは、みんなに少しでも妖怪に関する知識を持ってもらって、この幻想郷で生き延びる役に立てて欲しかったから。
私が妖怪でなく人間の側につくのは、人々の一日一日を精一杯生きる様が眩しくて、その溢れる力の傍にいたかったから。
里のみんなと色んなことに取り組むのは、賑やかな輪の中にいるのがとても楽しかったから。
(私は、ずっと自由だったんだ)
責任なんて無かった。期待されてるなんて傲慢に過ぎない。失望への不安なんてありえない。だって私は自分がやりたいことをやっていただけなんだから。
「妹紅」
「ん?」
「ありがとう」
「……ん」
(あ、照れた)
それまでずっと落ち着いていたのに、急に赤くなって顔を背けてしまった彼女がなんだか可笑しくて、私は笑ってしまった。
何かしら感情らしい感情が湧いたのは数日振りだった。声を上げて笑うと、生きてると実感する。充実した気分になる。
あぁ、でもこんなことをしてる場合じゃない。そろそろ寝ないと。
私の朝は早いんだ。
数日ぶりの寺子屋。教室に入るのが躊躇われる。まるで初めて授業に臨んだ時みたいだ。
(いや、これでいい)
子供たちとの思い出は確かにここにある。しかしそれを胸に留めた上でやり直すんだ。今度こそ自分を見失わないように。
私は寺子屋を営む半獣だ。里の守護者などと呼ぶものもいるが、そんな大そうなものではない。私は私のやりたいようにしているだけなのだから。
深呼吸して、教室の扉を開ける。
体はもう、重くない。
応援してます慧音先生!!
お前がいなくても世界は回る。平常時に聞かされると自分の存在意義を失ってしまいますが
心が押し潰されそうになっているときにはこれほど解き放ってくれる言葉はありません。
こんなことをズバッと言ってくれる人が傍にいてくれて慧音先生は幸せです。
今現在、こんな気分になっております
もこたんが来てくれるなら今すぐだって仕事に行くのに
全体的にちょっとくどい感じ。
もうちょっと長くしてマイルドにするか、逆に短く切り詰めてワンパンチを重くした方が大事な部分が伝わるかなと思いました。
この作品のおかげで私も体が軽くなった気がする!ありがとう!
カウンセリングは理由を探そうとする動機づけになるらしいから、
非常に現実的な話だと思う。
しかも責任重大な立場にいて結構やばい俺はこの作品を読んで色々思うところがあった
もはや文章としての良し悪しは冷静に評価できないが、とりあえず俺には素晴らしい作品だった
慧音の描写が今の自分といろいろ重なるところがあって、なんだか泣きたくなってしまいました。
とりあえず今日はもう寝ようかな。
いいSS、ありがとうございました。
本人や周りがそれを認識してないのが一番怖いです
慧音や妹紅は気が付けてよかったですね
誤字報告です
>なんとも滑稽な話だじゃないか。
たが外の世界に妹紅はいない。
こういう小説を読んでがんばるしかない。
どこかの蓬莱ニートにも言ってやってほしいぜ。メルランメルラン助けてメルラン。
かくいう俺も明日学校があるのにこの時間まで(お察しください
淡々とやってたりやる気十分だったのが、ふとした瞬間に面倒とかになってる。いろーんなこと考えてしまう作品でした。
ただ。なんとなく駆け足な印象でした。
慧音の無気力感はどこからきてたんだろう、と考えながら読んでました。
なんだか、自由に生きる時間の短い人間のことを慧音は羨ましいと思ってたのかな、なんて。
もし周りより時間の遅い自分が世界に投げ出されたら、その長い時間にどれだけの自由が見つかるのかなあ
でも、このお話を読めてよかったと思います。
自分もそろそろ行動しないと!
ちょっと、風邪気味だったけどもう大丈夫!!!
物凄い元気を分けてもらいました、ありがとう!
でもそれを見つけに来る王子様がちゃんといましたw
ニヤニヤw
これは自分じゃどうにもできない感覚なんだよねー、何か張りつめていた糸が切れちゃったみたいな……
ともあれ慧音がそのまま潰れずにいてほっとしたw
うん、明日がんばろう。
立ち直る気にもならんのは、本当にきつかったなぁ。
たまに四連休くらいしたって良いじゃない
無気力であれば死ぬ気も起こらないが、行動する気力が出てくる=死ぬための行動ができるようになるということでもある。
このため、治ったように見えても油断ができない・・・立ち直るためには相当の時間、
もしくは鬱から立ち直る強いきっかけが必要になる。
自分が以前そういう状態で、周りはずいぶんと気に掛けてくれました。本当に感謝しかない。
周囲だけでなく本人がそれを認識できないというのは、もっとも危険なパターン。
鬱は誰もが持っているもので、症状を悪化させないためには、自分が欝であると自覚することが重要。
・・・なんて事を医者から言われました。
いつしか自分から抱えたってことさえわすれて。
立ち上がる気力もない。
そんなとき、すこしでも支えてくれる人がいればいい
私も誰かを支えたいから
ゆっくりしていってね!
生きられればいいんだろうけど中々そう簡単には行かない。
慧音先生、いつもいつもお疲れ様です。
なんか慧音というキャラクターに親近感を覚える事ができた作品でした。
面白かった……。
支え合ってるから、支え合えるから、続いていくんだろうな。何だかそう思った。
さ、俺もそろそろ寝るか…
人間側の慧音だからこそ、こういう思考も生まれるんでしょうかね。他者との関連性が薄そうな妖怪達はあまりこういったことで悩みそうにないかも。
非常に興味深いお話をありがとうございました。
「必ず理由があるから思い出せ」
なんて言われると、鬱状態に加速がかかるんです。無い物を見つけろなんて無理な話。
そんなとき、的確な言葉をかけてくれる人が一人は欲しいな、なんて。
それを支える妹紅の優しさもまた良いものでした。
素敵なお話ありがとうございました