※
部屋の床いっぱいに、死体を敷き詰めてみたいなあ。
と、古明地こいしは思った。
普段着に着替えるよりも、ベッドから立ち上がるよりも、瞼を開くことすらよりも先に、覚醒一番に彼女は願った。
ぽつり、一滴の雫が大地に沈み滲んでいくように、小感はじんわりと彼女の頭に広がっていく。
瞼を開いたら、頭はそのことで一杯になっていた。
ちょっとだけ冷え冷えとした地霊殿の中で、自分に快い温もりを提供したベッドからこいしは勢い良く立ち上がる。
布団を取り払って、くしゃくしゃになったそれを直そうともせず、彼女は櫛を手にし、鏡の前に立つ。
鼻歌をうたいながら、こいしは髪を梳く。行儀良く寝てるものだから、髪の乱れは余り無い。ただ、一箇所だけぴょこんと跳ねているだけだった。
ぴょこん。
ぴょこん。
梳いても梳いても跳ね上がる髪の毛を、こいしは梳いた、梳いた。
鼻歌は止んでいる。すぅ、すぅと、櫛が髪をすり抜ける音だけが聞こえている。
鏡に映った自分の姿を、こいしは虚ろに遠望していた。
だって。
だってここは地霊殿じゃない。
死体のゴロゴロ転がる地底に佇む、素敵なお屋敷。
死体があるのなら、それを集めないわけにはいかないでしょう。
持って余りある程の力を手に入れて、それを行使せずにはいられないような。
そしてあわよくば、死体の海に溺れてみるのさ。きっと素敵に違いない。
ちょうど、お菓子の家を見つけたヘンゼルとグレーテルみたいに。陶酔と甘美に包まれる。きっと。
それじゃあ、どうやって死体を集めようか。
死体を敷き詰めるほどだから、きっと沢山の死体が必要になる。
――そうだ。
「お燐だ」
こいしの櫛を動かす手が、止まった。瞳が鏡に映った自分を捉える。
跳ね上がった髪は最早先端を丸めているだけで、ぴょこんと可愛らしく跳ねることはない。
「お燐に頼んで、死体を持ってきてくれればいいんだ!」
双眸は無垢にキラキラと輝き、こいしはひらめきを得て両手をぱんと叩いた。
お燐――死体を運ぶ、地霊殿のペット――だったら、この道のスペシャリストだ。死体の五十や百、猫車一つにどーんと乗せることが出来る。
仕事ついでにお願いすればいいのだ。終わったら返せばいいのだし、お燐にとっても、こいしにとっても一石二鳥である。
そうと決まれば、こいしは居ても立ってもいられなかった。
頭の中は密かな野望で一杯。ワクワクの振幅を抑えることが出来ず、普段着に着替えることすら煩わしい。
彼女は寝間着のまま、上機嫌で部屋を出て、お燐を捜しに向かうのだった。
※
お燐を見つけるのに、こいしはかなりの時間を要した。
お燐は客間にいた。こいしの部屋から数十歩分――所要時間一分にも満たない――くらい離れた場所にいた。
別に迷ったわけではなく、こいしは裸足でぺたぺたとスキップを踏み鳴らしては、真っ直ぐにそこへ行ったのだった。
お燐を見つけるのに、こいしはかなりの時間を要した。
気に、なっていた。
ワクワクに浸された彼女の時間感覚は、普段よりも十四倍ほど遅い。
『死体の海』に思いを馳せては陶酔している彼女にとっては、歩くことも、ましてや、息をすることすらも煩わしく思えた。
お燐は古明地さとりの膝の上で丸くなっている。本来の、猫の姿で。
さとりに頭をそっと撫でられ、彼女は気持ち良さそうに目を細めていた。眠たげにも見えた。
「こんなところにいたんだお燐。捜したわよ」
こいしの声に、さとりが反応した。寝間着姿で裸足の妹の姿に、彼女は驚く様子も無く、「おはよう、こいし」と微笑んだ。
さとりの、お燐を撫でている手が止まる。それからお燐が、こいしの方を見た。
にゃあ、と、一声鳴いて、お燐はさとりの上から離れる。すると、黒猫から人間の姿へと変わった。
真っ赤な髪の毛。三つ編みを揺らして、尻尾をぱたぱたと翻しながら、やはり彼女も寝間着姿のこいしに一驚もせず、小首を傾げた。
「どうかしたんですか? こいし様」
「死体を集めて欲しいの。それも、うんと沢山。お願いできるかしら?」
少しだけ、お燐の表情が曇った。視線をこいしから逸らし、唸る。
「今、ですか?」
「うん、今。少しの間でいいの、そしたら、ちゃんとお燐に全部返す。ね、お願い!」
ずいとこいしに詰め寄られて、お燐はあぅ、と息を漏らした。
困った表情をしている彼女の後ろで、さとりが悲しそうにこいしの方を見ていた。けれどこいしは気付かない。
頭の中は、お燐の猫車に隆々と積みあがった死体。そして、それが絨毯のように床に並べている光景。それらで頭が一杯。
姉の様子なんか、気にも留めなかった。
お燐は逡巡していた。こいしの、真っ直ぐな請願の眼差しに射抜かれ、ぷるぷると唇を震わせている。可愛い、とこいしは思った。
二人は見詰め合う。寂が降りる。漸くお燐が重い腰を上げたのは、それの暫し後のことであった。
「……分かりました! ここまでこいし様がお願いしてるんですもの、一肌脱ぎましょう!」
彼女のこの言葉に、こいしは宇宙の彼方に飛んでしまいそうだった意識を、一息に脳内へと引き戻した。
表情に屈託の無い笑みを見せて、彼女は大きく両手を広げる。
「やったあ! お燐大好き!」
こいしはお燐に抱きついた。彼女の頬に、自分の頬をすり寄せた。「く、くすぐったいですよぉ」と、お燐が猫撫で声を上げる。
それでこいしは、ますますお燐のことを好きになってしまった。
「こいし。あなたまた――」
お燐は出かけた。相棒の猫車を押しながら、意気揚々と。
客間には、こいしとさとりの二人きり。お燐の背中を見送ったこいしに、さとりの声がかかる。
こいしはさとりの方を振り返った。
そこで漸く、こいしはさとりの悲しそうな表情に気付いた。
まあ、そうだろうなあとこいしは思った。彼女は、どうしてさとりがそのような表情をしているのか、分かっていた。
お姉ちゃんは、自分が死体を集めているのを、気に入った死体を部屋に飾っているのを、快く思っていないのである。
だから、きっと、自分が『死体を沢山持ってきて』とお燐にお願いしたのを聞いて、何をしようとしているのか察したのだろう。
そして、悲しい顔をした。悲しい顔を、するだけだ。
『止めなさい』とは言わない。手を上げようともしない。だからこいしは、さとりのことが大好きだった。
「床一杯の死体に、飛び込むの」
夢見るこいしは願うように両手を組み合わせ、恍惚の表情を浮かべた。
「お菓子の山に埋もれるみたいで、素敵じゃない?」
「死体とお菓子は全くの別物よ、こいし」
さとりからぴしゃりと言われて、こいしは「あらら」と笑った。
「そうだね。死体とお菓子は違う。でも、一杯のお菓子に囲まれる幸せと、沢山の死体に囲まれる幸せは、おんなじだよ?」
こいしはニコニコしていた。嬉し過ぎて死んでしまいそうだった。気分はさながら、宵闇の星煌く天蓋にロミオを想うジュリエット。
お燐が戻ってくるのを心待ちにしていた。時が経つごとに膨張する、嬉々の爆弾を心臓に抱えて。
さとりはなお、悲しそうな顔をしていた。理解できない、とでも言いたげだった。でも言わない。
大好きなさとりが、自分のことを理解してくれないのを、こいしは寂しく思う。
でも、理解など、してもらえなくてもよかった。
だたいつものように、何も言わず悲しい顔をしてくれるだけで、こいしは十分に幸せだった。
だからこいしはこれから先も、さとりのことを好きでいられる。いや、好きであり続けなければいけないのだ。
「お姉ちゃんは」
だって、こいしは知っているのだから。
「嫌われたくないんだよね。だから怒らない。私からいつまでも好かれていたいから」
さとりはこいしを愛している。同様にこいしからの愛を望んでいる。
それは純粋に、たった一人の妹として。
もう一つ。
さとりは、愛に餓えていた。
彼女は『さとり』と呼ばれる妖怪。
他人の心を水晶のように見透かす『第三の眼』を持つが為に、周囲から忌避の眼差しを向けられる妖怪。
幼い頃から、さとりはそんな怜悧な視線に、冷徹なナイフの痛みに堪え忍んできた。
嫌われ者の少女は、愛を求めた。痛みを彼方へ放ってしまうほどの愛を求めた。
だから地霊殿に篭った。
大勢のペットをそこに住まわせた。
言葉を通わせることが可能なさとりに、ペット達はすぐに懐き、そして、彼女は愛の海を作った。
「私の、ペットの愛に抱かれ続けたいんだよね。――ああ! 私と同じだわ!」
何だ、お姉ちゃんは、しっかり私のことを理解しているんじゃないか。
こいしはそのことに気付いて、語調を上擦らせた。
「お姉ちゃんも私と同じ、溺れたがりなんだ。私は死体の海で、お姉ちゃんは愛の海!」
くるりと回って、こいしはさとりの傍らに腰掛けた。彼女の肩にもたれる。
華奢な体でも、さとりは体重を預けるこいしのことをしっかりと支えた。
さとりの香りと、それから、少しだけお燐の香りがした。
「溺れる幸せを分かっていて、私に隠そうとしてたんだね? もう、お姉ちゃんったら」
「ち、違――」
こいしはさとりに頬擦りをした。お燐と同じように。
さとりの肌はすべすべと滑らかで、ぷにぷにと柔らかかった。
「好きだよ、私。お姉ちゃんのそーいうところ。嫌いじゃないよ」
無意識に、そんな言葉がこいしからこぼれる。
さとりは抵抗せず、ただ黙然としている。やはり、悲しそうな顔をしていた。
でもそんなことは、今のこいしには与り知れぬことだった。
一層のこと、死体の海に溺れてみたいと思った。
さとりと同じ幸福を味わってみたかった。他人に隠してしまうほどの幸せだ、きっと格別に素敵なものなのだろう。
こいしは立ち上がる。
期待に胸が高鳴っていた。
最早、立ち止まってなどいられず、小刻みな心臓の脈拍に同調するようにして、彼女は軽やかな足取りで客間を後にした。
興が逸れたみたいだった。
不意に、さとりだけが取り残される。
客間は、静かになった。
※
「それで、これだけの死体を一体何に使うんです?」
十分と少し経って、お燐が戻ってきた。
猫車に高々と積み上げられた、数多の死体を引き連れて。
それを涼しい顔をして、落とすことなく運んでくるのだから、お燐はやっぱり凄い、とこいしは思った。
「聞きたい?」
どん、と猫車を漸く置いて、死体の柱からひょこっとお燐が顔を出す。
満面の笑みを湛えたこいしに、少しだけ気圧されているようだった。
「え、ええ。これだけの死体、こいし様が欲しがったことなんてありませんでしたから」
よくぞ聞いてくれました、という気分になった。
こいしは目の前の扉を開ける。
ぎぃ、と軋みを上げて、些か埃被った空気が流れ出てくる。
こいしもお燐も、一回だけ咳をした。
「ここにね」
開け放たれたのは、がらんどうとした空き部屋だった。
「その死体を敷き詰めるの」
こいしは、死体の山を指差した。お燐が一瞬だけ、驚いたような表情を見せる。
「それはまた……随分と面白そうな試みですねぇ」
言葉とは裏腹に、お燐の声色は細々としていた。
嬉々としている様子ではなく、こいしにはそれが心外だった。
満面の笑みを浮かべていたこいしの表情が、少し陰りだす。
それを察したお燐が、慌てて弁明しだした。
「あぁ、いや、違うんですよ! 別にこいし様のこと、変だとか思ったわけではなくて。あたいは死体の声が聞こえますから、だからうるさそうだなーって、そう思っただけで」
お燐にそう言われて、こいしははっとした。
そう言えば、お燐は死体の声を聞けるんだった。
それじゃあ死体の海に溺れることが出来ないじゃあないか。お燐にとって死体の海は、雑踏と何ら変わりないんだ。
「そっか。そうだね……ごめんね、何だか私が早とちりしちゃったみたいで」
こいしは、お燐のことをかわいそうだと思った。
彼女は、死体の海に溺れる幸せを、一生感じることが出来ないのだから。
それは、とても、かわいそうなことだと、こいしは頭の片隅で思った。
「いえいえ。そんなことより、これだけの死体を部屋に置くなんて、骨が折れますでしょう? 良かったら手伝いますよ」
「ありがとうお燐。でも大丈夫、ここからは私一人でやるわ。お燐には、これだけ沢山の死体をもってきてくれたのだからね」
ここに来るまでにも、お燐はこの猫車に集積させられた死体の声をずっと聞いていたのだろうか。
そう思えば、お燐にこれ以上助けを求めるのも、何だか気の毒のような気がした。
「そうですか? ……分かりました。それじゃあ、あたいは客間にいますから。何かあったら声をかけてください」
「うん。本当にありがとね、お燐」
笑顔のこいしに、お燐も微笑みで答えると、そのまま彼女は客間へと向かった。
さて。
取り残されたこいしは、改めて、虚に満ちた部屋と、隆々の死体群を交互に見やる。
死体の海を作る為の、土台。
そして、海を形成する十分な材料。
ここに漸く、こいしの望みを叶える為の下地は揃ったわけだ。
「うふふ」
死体を目の前にして、こいしは笑みをこぼした。どの死体を最初に使おうかしら。
ショートケーキにモンブラン、プリン・ア・ラ・モード。様々な種類のデザートを前にどれから食べようか迷っている。
そんな感覚に、似た気分。
ただ彩りも味も多様なスイーツと違って、死体は一様に似たり寄ったりなものばかりであって。
結局どれを選んでも変わりはないと思ったので、こいしは適当に山の中ごろを引っこ抜いた。
どさどさと、バランスを崩した上部の死体が廊下へ流れ落ちる。
廊下に、死体の川が出来上がってしまった。
だが、そんなことには目も暮れず、こいしは部屋の奥隅に、引き抜いた死体を置いた。
全てはここから始まる。何も無い虚無の空間に、一抹の死が浮かぶ。段々と気概が浮ついてきた。
それから駆け足で部屋を出て、今度はこぼれ落ちた死体を摘み上げて、またも隅に置く。
隅から、隅から死体を置く。虚無が中央へ収斂しだす。死が空間を覆いつくしていく。
置いていくたびに、段々とこいしの額に汗が滲んできた。死体は、体重全てをこいしに預けてきた。
疲弊も覚えたが、こいしは決して休まなかった。楽しかった。楽しかったので、休みたくなかった。
体が熱い。
火照った自分を、死の海は冷やしてくれる。その一心に、こいしはせっせと働いた。
――最後の死体を、置いて。
「あら」
こいしが上げたのは、歓喜の声ではなかった。
部屋は死体で埋め尽くされた。
ただ一箇所、部屋の中心を除いて。こいしはそこに立っていた。
猫車には、もう死体は無い。作業が止まったことで、急に体が熱く感じ始める。
つつ、と頬に汗が伝い、静謐なままに、床へと落ちていった。
こいしは足元を見る。
自分の真下だけ、黒と赤のチェック柄をした床が顔を覗かせている。人ひとり立てるほどの小さな虚が、取り残されている。
これではいけない。
ここに死体がなければ、死体の海は完成しないじゃあないか。
だからと言って、お燐にまた、死体を運んできてと頼むのは、それは余りにも申し訳ないような気がした。
ただでさえ、これだけの死体を運んできてくれたのだから、お燐はゆっくりと休んでもらうべきである。
「むぅ」
虚の離島に立ち尽くし、暫時、熟考した後のこと。
「……そうだ!」
こいしは閃いた。あと六秒しても考えが浮かばなかったら、自分が死体になろうとしていたところだった。
自分の部屋に飾ってある、死体を置けばいいじゃないか。
勿体ない気もするが致し方ない。全ては死体の海に溺れるため。
そうとなれば善は急げ。こいしは、死体の顔を、お腹を踏みつけながら部屋を出ると、スキップで自分の部屋へ死体を取りに行くのだった。
※
こいしの部屋に飾られた、素敵な素敵な、死のアクセサリー。
そこから彼女が選んだのは、童の死体だった。両手で抱きかかえることが出来るくらいの、小さな死体。
それでも、あの中央の空白を埋めるには、十分な大きさだった。
これで、これで遂に、死の海が完成するんだ。
こいしはウキウキ気分で、死体とダンスをしながら空き部屋へと向かった。死体はされるがまま、まるで人形のよう。
こいしが部屋に着くと、そこには何故か、さとりがいた。
「こいし!」
さとりはこいしに気付いて、面食らったようにしていた。
「お、お燐から聞いたの。あなたが部屋に死体を敷き詰めようとしているって、だから少し、気になって」
さとりは、中央の空白に立っていた。しどろもどろに言葉を紡いでいる。
何を言っているか、こいしには聞こえなかった。
こいしは、驚いていた。
驚いて、すっかり腕の力を失い、童の死体がこいしの腕の中からずり落ちた。
鈍い音を立てて、死体は首を曲げてこいしの目の前に倒れる。
「……こいし?」
さとりがこいしの名前を呼ぶ。それすらこいしは気付かない。
まるで時が止まったかのように、じっとさとりを見詰めていた。
彼女はこの時、理解した。
御伽噺に出てくる悪役。例えば、『ヘンゼルとグレーテル』に出てくる、兄妹を肥えさせ食べようと企てるあの魔女。
すっごく悪人面していて、いかにも悪い奴って雰囲気を醸し出しているのに、変な事企んでいるってバレバレなのに。
ヘンゼルとグレーテルは最初、そんな魔女のことを寸毫も疑いもしなかった。
それと似ている。いわゆる、当事者と第三者との、ある事物に対する捉え方の違い、というものだ。
あの空白に自ら立っていたとき、こいしは全くの感慨も湧き上がらなかった。
けれど傍らから、その空白にたっている人物を見てみれば、どうだろうか。
それは見渡す限りの死に、たった一つぽつりと浮かんだ生。
皆目消えた蝋燭が群生する中で、健気にも灯り続けている光明。
たとえそれがいかに小さく、弱々しいものだとしても、その朱色は、甚くこいしの目に光輝を放つ。
だからこそ、こいしは、
「お姉ちゃん!」
さとりに、飛びついた。
死体を飛び越えて、自分にダイブしてくる妹を、さとりは受け止めた。
しかし勢いがありすぎて、そのままさとりはこいしに押し倒されてしまう。
「ど、どうしたのこいし――」
戸惑いを隠せないようでいるものの、さとりはこいしのことをひしと抱き締めていた。
こいしはさとりの心臓に耳を押し当てた。さとりが小さく悲鳴を上げる。
どくん。どくん。
少しだけ速い規則で、さとりの心臓が脈打っている。
何故だろう、その音が、こいしにはとても愛しく思えた。
「お姉ちゃんの、心臓の音がする。死体には無い、この空間でたった一つの音」
「心臓の音なら、こいしだって持っているじゃない」
「自分の音は自分じゃあ聞けないから、カウントしません」
ふふとこいしは笑って、今度はさとりのにおいを吸った。
生まれたときからずっと一緒だった、お姉ちゃんの優しい香り。
淡く死臭の立ち込め始めたこの部屋で、唯一心を持ったにおいだった。
「どうしよう」
顔を上げて、こいしはさとりを見据えた。両の掌を、彼女の両頬に添えながら。
温かい。
これも、やっぱり、この空間に佇んでいた、たった一つの温もりなのだ。
さとりの紫色の双眸は、真っ直ぐ自分を捉えていた。頬がちょっぴり赤らんでいて、乱れた髪はとても艶やか。
甘い吐息がかかりそうなくらいの距離で、こいしは惚けてさとりのことを見詰めていた。
「私、今ならお姉ちゃんに、心の底から『大好き』って言えるような気がするよ」
「……まるで今まで、私の事なんか好きじゃなかったって物言いね」
眉を顰めて、口を尖らせるさとり。
「そんな。お姉ちゃんのことは好きだよ? 七割くらい」
こいしの言葉を聞いて、さとりは嫌そうな顔をした。
彼女のそんな表情を見るのは久しぶりだったものだから、こいしは少しだけたじろぐ。
「だ、だって『大好き』って言った方が、お姉ちゃん喜ぶじゃない」
「そりゃあ喜ぶわ。妹にそう言われて喜ばない姉なんかいない。……ただ、ね」
「ただ?」
さとりの眉間に寄った皺が薄れる。
彼女はこいしの背中に回していた両手で、彼女の後ろ髪を梳いた。
温かくて柔らかい、さとりの指と指の間を、こいしの緑じみた銀髪が通り抜けていく。
その心地よさに、こいしは目を細めた。
「……姉としては、正直な妹の気持ちを、一番知りたいものよ」
嫌な顔をする代わりに、さとりは何だか切なげな顔をした。
表情には慈愛が含蓄し、そこにはやんわりとした優しさもあるのだが、同時に、寂しげでもあった。
こいしは胸が締め付けられる思いになった。
何故って、そんなさとりの願いを、こいしは裏切らなければならないから。
自分の気持ちに正直になるには、心を開かなければならない。それは同様に、この胸に携えられた『第三の眼』を開くということ。
それは駄目だ。とにかく駄目なのである。いくら目の前の姉が、世界で一番恋しい姉がそう言っても駄目なのである。
「そうなんだ」
こいしは答えた。それは常套句だった。
『心を開いて欲しい』というさとりの願いから逃れる為の言葉。
何度も、何度も使っているうちに、いつの間にか無意識に出るようになった言葉だった。
了解を示すような素振りを見せながらも、実際それを行う気など毛頭ない。
多分、さとりはそんなこいしの思いを、この言葉から汲んでいるであろう。
こいしはこの言葉を幾度も使っては、結局心を開かずにいるのだから。
さとりはやっぱり、悲しい顔をしただけだった。何も言わず、手も上げることなく、ただ悲しい顔をした。
やっぱりお姉ちゃんは優しいな、とそんなさとりを見てこいしは思った。
決して変えることの出来ない『さとり』という自分の種族。
それに設けられた『第三の目』、『心を読む』という能力。
付随して、目の前に敷かれた『周囲からの侮蔑』という避けられぬ運命。
お姉ちゃんは、それを一心に受けているというのに、自分はそれから逃げている。
怖いから。『第三の眼』を開いたって、何もいいことなんて、無いから。
津波のように襲い掛かってくる周りの心を、どす黒い醜汚の気概を受け止めるのは、こいしには耐え切れないこと。
しかし、そうやって逃げるのは、多分、いけないこと。
『さとり』なのに、心を閉ざしてしまうのは、『さとり』としていけないこと。
こいしはいけないことをしているのに、そんなこいしを、妹を、さとりは黙って、ただ悲しい顔をするだけで、許してくれる。
その、さとりの優しさが、こいしには嬉しかった。
だから、かなしかった。
「こいし」
ギュッと、さとりがこいしを抱き寄せた。
「うん」
「あなたは溺れたがりやだ。この、死の海に」
「そう言えば、そんなこと、言ったね」
「それじゃあ、私はさしずめ――」
少しだけ間を置いて、恥ずかしそうに小声でさとりは口を開いた。
「――人魚、かしらね」
「人魚?」
「この死の蔓延した海で溺れるあなたを助ける、たった一つの命……なんてね」
「『人魚姫』だね。お姉ちゃん」
そうね、とさとりは言って、こいしの服を握った。心臓が速くなっている。
余り聞くことの出来ないような姉の発言に、こいしはニコニコした。
「お姉ちゃん」
「……何?」
「人魚だなんて、ロマンチックなこと言うね」
「貴方のがうつったのよ」
「えへへ」
恥らうさとりのことを、こいしはもっと好きになった。
お燐よりも、うんと、ずっと、好きになった。
それにしても、『人魚姫』の中で人魚は、確かに海で溺れている王子を助けるけれど――結局最後まで、王子はそのことに気付かない。
一方で王子に恋をした人魚は、彼に近付く為に、とても大きな痛みを背負って、報われない恋に胸すらも痛ませ、そして泡になって消えていく。
もし、お姉ちゃんが、その人魚であるのならば――こいしはそこまで考えて、それ以上のことを考えなかった。
多分、どうでもいいのだ。
童話の結末がどうだとか、そんなことを考え、それを今に関連付ける必要なんてないのだ。きっと。
今はただ、お姉ちゃんといつまでもこうしていたかった。未来のことも、過去のことも忘れて。
それこそ、お姉ちゃんの愛の海に、溺れてしまいたいと、こいしは思った。
死の海に凡そが満たされた世界。
その中心にぽつりと浮かんだ生は、静かに、そして心地よく横臥する死体の耳朶を撫でる。
二人はその只中で、身を寄せ合っていた。
二人は、幸せだった。
※
「お姉ちゃん」
それから翌日のこと。
さとりが客間でソファーに座っていると、いつものように笑顔を浮かべたこいしが話しかけてきた。
「なあに、こいし」
こいしの胸元の、青色をした『第三の眼』も、いつものように固く閉ざされたままだった。
「大好き」
何の脈絡のないこいしの告白。けれど、それも、いつものこと。
「私もよ」
柔くさとりは微笑んだ。
こいしも一層のこと笑みを彼女に見せると、「行ってくるね」と言って、ふらふらと客間を出て行った。
昨日の出来事が嘘だったみたいに、地霊殿は『いつものこと』に満ち溢れていた。
何の、変化も無かった。
『姉妹愛、ってやつですねぇ』
にゃーん、と、膝上のお燐が鳴いた。
「そうかしら」
『そうですよぉ』
さとりはお燐の背中を撫でている。ごろごろ、と喉を鳴らして丸くなるお燐。
つややかな彼女の体毛は心地よく、ふかふかのソファーにゆったりと腰掛けていることもあって、頭がぼうっとしてくる。
緩やかに流れている時間の中で、さとりは先程のお燐の言葉を反芻させていた。
姉妹愛。
あれは、『大好き』と自分に言った、こいしのさっきの言葉は、思うに無意識に出たものだろう。
自分を愛の海に溺れさせる為に、自分を哀しませないように、儀礼的に飛び出した言葉。
何と無くではあるが、さとりは、こいしの言葉に潜む意識の有無を、感じることが出来ていた。
しかし姉としては、かように妹の言葉を疑いたくは無かった。
純粋にあの言葉が、こいしの愛情の詰まった、言霊の宿ったものだと、さとりは信じたかった。
けれど、自分の勘など所詮憶測程度で、断定などできないのだ。
こいしの閉ざした心。見通しの悪い暗澹の中に、彼女の言葉は紛れてしまっている。
それは、不確かな愛。
周囲の愛で満ち満ちた海の中でただ一つ、悠然と漂う不確かな愛。
たった一つであるからこそ、そして彼女が、たった一人の妹であることも相まって、その愛は煌々の輝きを放っている。
その輝きは、さとりのとってかけがえのないもの、愛おしいもの。
だけど、たった一つだから。
たった一つだから、その輝きは、とても、とても、かなしいものでもあった。
死の海、愛の海という対比、そしてかけがえのないことがはらむ寂しさ、悲しさの強調がとても印象的でした。
序盤、あまりにさとりが翻弄され気味で、もう少し強く色を出して存在を示してもよいのでは~と思いつつ、個人的好みの範疇。
素敵なお話、楽しく拝読いたしました、次作を楽しみにしています。
集中の語源だっけか
そうすれば美しさは薄れるかもしれませんが悲しさも薄れるんですから。
誤字、と言うか脱字。
>つつ、と頬が伝い、静謐なままに、床へと落ちていった。
頬「に汗」が伝い、では無いでしょうか?
一般的基準ってよくわからないが
フッフフフフ・・・・
でもまぁ確かに死体注意はあった方がいいかな?
ホラーのオブジェクトとしてではなくアート要素として用いられているにしてもね。
こいしのは、人間でいう「たくさんのぬいぐるみに囲まれたい」というようなもんですし。
さとりもこいしも、相手の気持ちがまっすぐ感じ合えれば……ねぇ。
最高だ。