「これは缶コーヒーというものだ」
「知ってます」
「その用途はコーヒーを……」
「ええ、大体分かっていますので。ええと、それで一箱お幾らですか?」
「い、いや、その、外の世界では……」
「お幾らですか?」
「……一箱、30銭だ」
「お安いですね。それでは3箱ばかり貰いましょう」
「毎度、ありがとうございました……」
「あと、そこの隅に積んであるのは缶ビールの箱ですよね?」
「そ、それは……」
「お幾らですか?」
引きつった笑顔を浮かべる霖之助に対し、東風谷早苗はにっこりと笑った。
かのような香霖堂のやり取りの後、東風谷早苗は缶コーヒーが詰まった段ボール3箱と缶ビール1箱背負って、妖怪の山への道程を歩いていた。
それは相当な重量なのだが、流石は現人神というところか。早苗は涼しい顔をして妖怪の山を登っている。
最も、それは現人神の神性というだけでなく、幻想郷に移住してからの大半を妖怪の山という厳しい環境で過ごしていれば、自然と足腰は強靭となるのかもしれない。
「今日は良いものが手に入りました」
にこやかに早苗は笑う。
早苗は、幻想郷の住人の大半がそうであるようにお茶党であるが、外の世界の味が懐かしくなった時にはコーヒーなども嗜む。
そして、インスタントコーヒーや本格的なコーヒーセットなどを神社に用意し、コーヒーが欲しくなった時には喫茶店のマスターよろしく香り立つコーヒーを淹れるのだが、これにはお茶と同様の幻想郷ならではの問題点がある。
お茶やコーヒーはお湯が無ければ作れないのだ。
外の世界であればお湯などはガスを捻ればコンロに火が付き沸かせるし、それを保温しておく技術も豊富にある。
しかし、幻想郷で湯を沸かすには相応の手間暇が掛かり、一杯のお茶を淹れるにも苦労が必要だ。
そこで缶コーヒーである。
缶に詰められたコーヒーであれば湯を沸かす手間を省いて、それを開けるだけでコーヒーを楽しめるのだ。
「そう言えば、外の世界に居た時は缶コーヒーなんて買った事は無かったな……」
早苗が呟いた時に、強い風が吹いた。
風に吹かれて乱れる髪を抑えながら、早苗はふと後ろを振り返る。
麓にある霧の湖、紅魔館、そしてずっと先には人間の里。人里離れた我が家への道の途中にある光景、それを見て現人神はなぜか郷愁を覚えてしまう。
なんとなく、早苗は担いでいた段ボール箱を下ろし、それに腰をかけた。
そしてコーヒーの入った段ボール箱の端をちょっと開けて、缶コーヒーを一本だけ取り出す。
プルトップが切り離されるタイプの、スチール缶の缶コーヒー。
金属が切り離される鋭い音と共にそれは開く。
「けど、見た事もないメーカーですね」
幻想入りした缶コーヒーだけあって、早苗が買った缶コーヒーはかなり古いモノらしい。
少しだけ不安を感じながらも、彼女は缶コーヒーを飲む。
「無意味に甘い……ッ これって本当にコーヒーですか?」
そんな文句を言いながらも、早苗はコーヒーを全部飲みきると、切り離したプルトップを空になった缶の中に入れた。
カラカラと音の鳴る玩具になった缶を振りながら、早苗はしばしの間、幻想郷の景色を見入っていた。
「……ホームシックって奴なのかな」
早苗はぽつりと呟いた。
守矢の神社の本殿には、一つのちゃぶ台がある。
それは昭和の高度成長期を支えた古典的ちゃぶ台であり、幾度となく頑固親父によってひっくり返されてきたちゃぶ台だ。
このちゃぶ台は守矢神社の真の祭神である洩矢諏訪子のお気に入りで、かの神はちゃぶ台の下に潜ってはそこで本を読んだり、ちゃぶ台の上に乗ったりと、デキる女の幻想郷ちゃぶ台ライフを思うがままに満喫している。
本日はちゃぶ台をハスの葉に見立てて、諏訪子はちょこんとそこに乗っていた。
特に何かをしたい訳ではない、本能みたいなものだ。
「何をしてるんだ」
そこに八坂神奈子がやって来た。
どうやら神奈子は、洩矢諏訪子の行儀の悪い仕草におかんむりのようだ。
機嫌が悪そうにしかめっ面をしている。
「神奈子こそ何をしに来たんだ」
しかし、諏訪子はそんな事はどこ吹く風と自分の居場所にやってきた神奈子に対し、非難を浴びせた。
「私か?」
「そりゃ、八坂神奈子はお前しかいないだろう」
「いや、私は……あの湖の上って、風が強くて寒いから。ここは暖かいし」
「……よわっ!」
呆れ顔で諏訪子が叫ぶと、神奈子はくしゅんと可愛らしく嚏(くしゃみ)をする。
どうやら、しかめっ面は機嫌が悪いからではなく体調が悪いからのようだ。
「このところ、空っ風が寒くてなぁ……少し熱っぽいし」
「なあ、神奈子」
「なんだ」
「鼻水垂れてるから、鼻をかめ」
「おお」
ちゃぶ台の下に転がっていたティッシュの箱を差し出され、神奈子は音を立てて鼻をかんだ。
そして「……風邪をひいたかも知れん」と悲しげな顔でボソリと呟く。
「……お前って、風神でもあったよな」
「たぶん。そうだった気がする」
熱が出ているのか、ちょっと赤い顔で神奈子は答える。
それを見て諏訪子は深いため息を吐いた。
「……お前、何処に神性を落っことしてきた」
くしゅんくしゅん、と何度も嚏をする神を見ながら、ずっと昔にそんな神に打ち負かされた土着神は切なそうにしているのだった。
「とりあえず、熱はどうなんだ」
諏訪子は神奈子の額に手を当てる。
「うう、諏訪子の手が冷たい」
「いや、きっとお前が熱いんだよ。というか、こんなに悪化する前に、なんでもっと早く言わないんだ」
「……だって。風雨神が風邪を引いたなんて、かっこ悪いじゃないか」
「大丈夫だ。日頃からかっこ悪いから、これ以上お前の株が下がる事は無い」
「そうか。良かった……」
慰めになっているようで、まったくなっていないのだが、なぜか神奈子は、その言葉に安心する。
そして諏訪子は「イマイチよく分からないな」と言って帽子を取ると、自分の額を使って神奈子の熱を測ろうとした瞬間、
「ただいま戻りましたー。見てください、こんなに缶コーヒーやビールを買ってきちゃいました」
と、早苗が突然、戸を開けた。
そして帰ってきたばかりの東風谷早苗は、二柱の神が額と額をくっ付けてる様を見て絶句する。
「い、いや、ちょっと待て」
「……うん、早苗?」
慌てて弁解する諏訪子と熱を帯びて妙に色っぽい目を向ける神奈子、それを見て早苗は「どうやら、お楽しみだったようですね」と、合点して戸を閉めようとする。
「ご、誤解だ!」
洩矢諏訪子の叫びが、妖怪の山に響き渡った。
布団を敷き、額を冷やす為の濡れタオルを用意し、永遠亭で八意印の薬を貰って来た。
早苗と諏訪子は八坂神奈子の看病をしている。流石に風神の湖は看病に向かないので、神奈子は守矢神社の本殿、諏訪子の寝床に寝かせていた。
「お眠りになられたようですね」
「そだねー、早苗も買い物から帰って早々ごくろうさま」
ほっと一息といった様子の早苗に、諏訪子は労いの言葉をかける。
「けど、神様も風邪を引くんですね」
「引くみたいだねぇ。私は引いた事無いけど。ついでに普通は引かないけど」
感心するように神奈子を見る早苗に対し、諏訪子はどこか遠い目をしていた。
「……まあ、幻想郷に来たから色々とあったし、疲れが出たんだろうけど」
「そうですね、色々とありました」
諏訪子の呟きに早苗が同意する。
「それで倒れるのは、普通は早苗の仕事だと思うんだがなぁ」
「わ、私ですか?」
「少なくとも、神のやる事じゃない」
そう言うと諏訪子は神奈子の額に置かれている濡れタオルを取って、冷水に付けて絞る。
「あ、私が……」
「いいよいいよ。早苗は適当に休んでいなって、これで看護疲れが出て、今度は早苗が病気にでもなったら大変だからね」
そう言うと諏訪子は、冷やしたタオルを神奈子の額の上に戻した。
「病気、ですか……」
「ん、どったの?」
「いえ、そう言えば私もちょっとした病気にかかっているな。と、思いだしてしまいまして……」
早苗は少し苦笑いをする。
今の早苗は、ホームシックという病気にかかって、少しばかり外の世界が恋しくなっているからだ。
「それじゃあ、私は晩御飯の準備をしてき」
「病気って、なんの病気だ!」
「うわっ、びっくりした!」
それまで、熱にうなされて寝込んでいた神奈子が飛び起きる。
「早苗が病気って、どんな病気なんだ! よし分かった、私が神の奇跡によって速攻で治してやるからな! まったく病魔のクソッタレめ、私の可愛い早苗を蝕むとはいい度胸をしている。ハッ、良いから来いよ。ハリー! ハリー! ハリー!」
「良いから寝てろよ」
自分の風邪ひとつ治せない神様は、相方の神様によって眠らされて布団に崩れ落ちた。
「まあ、神奈子の言う事は置いておいて、一体病気ってなんだ? パッと見には早苗は病気をしているようには見えないけど」
「はあ。それがお恥ずかしい話ですが……ちょっと、ホームシック気味のようでして」
少しだけ恥ずかしそうに、早苗は頭を掻きながら答える。
「……ホームシック! 直訳すれば家が病んでいる……だと!?」
諏訪子の慣れないボケに早苗は頭を抱えた。
冷たい空気が守矢の神社を包んでいたのだった。
その頃、八雲紫は優雅なティータイムを過ごしていた。
香り高いアフタヌーンティーを飲みながら、やたら分厚い『午後』という名の漫画雑誌を優雅に読む。
「ふふふ、それじゃあ四季賞をじっくり堪能しようかしら」
そんな事を呟きながら、少し古いアフタヌーンに挟まれた四季賞の別冊を取り出し、それを開こうとした瞬間、声ならぬ声を聞いて、紫は突然立ち上がる。
「私を呼ぶ声がする!」
賢明なる読者諸兄はお気づきの事と思うが、八雲紫は『紫イヤー』という幻想郷全土をカバーする地獄耳を持っているのである。
これにより、紫は幻想郷で起こっている事件を全て把握し、即座に介入する事が出来るのだ。
「それでは行くわよ!」
即座に紫はスキマを開いた。
賢明なる読者諸兄はお気づきの事と思うが、八雲紫は『境界を操る程度の能力』によってスキマを開き、なんだか良く分からない亜空間を通って、幻想郷のいたる所に現れる事が出来るのだ。
「……と、言いたいところだけど、アフタヌーンティーだけは飲んでから行きましょう」
再び紫はティータイムに戻った。
賢明なる読者諸兄はお気づきの事と思うが、八雲紫は少女的思考の持ち主である。
お茶の席を途中で席を立つなどという無作法は出来ないのだ。
「あちち」
急いでお茶を飲みきろうとして、舌を火傷しそうになっている八雲紫は置いておいて、舞台は再び守矢の神社へと戻っていく。
「…………ええと」
どうしよう。突っ込んだ方が良いのだろうか、という苦悩を滲ませながら、早苗は諏訪子に声をかける。
「ほ、ホームシックか! うん、それは大変な事だな。しかし、結局は気の持ちようだし、なんとか克服するしかないな!」
顔を真っ赤にして諏訪子がまくし立てる。
さっきの慣れないボケを打ち消そうと必死なのだ。
「そ、それで諏訪子様はホームシックを治す為には、どうすればいいと思いますか?」
「そうだな。ホームシックは心の問題だし、楽しい事をするのはどうだろう?」
「えっと、楽しい事ですか?」
「そうだ! 楽しい事だ! そうすればきっと早苗のホームシックなんか吹っ飛ぶさ!」
「……楽しい事。私が楽しいと感じる事」
「そう、早苗の楽しい事はなんだい?」
「そうですね……妖怪退治は楽しかったです」
そういうと早苗はニヤリと笑う。
それは、あまり性質のよろしく無い、たとえば博麗神社の巫女がするような笑みだった。
(ああ、染まってるなぁ)
それを見て、諏訪子はなんとなく手遅れな気分を味わっていると、唐突に寝ていた神奈子が起きだした。
「私にまかふぇろ!」
まともに喋れていなかった。
「いや、良いからお前は寝てろよ……」
「私が一番早苗の事を分かっているんだぁ……」
ヘロヘロになりながら、神奈子は布団に沈んでいく。
そんな神奈子を見て、諏訪子は疲れたように溜息を吐いた。
「しかし、ホームシックの解消か……とりあえず、早苗が妖怪退治が楽しいって言うんだったら、妖怪の山で妖怪狩りでもするかい?」
諏訪子は平然と、とんでもない事を言った。
「いや、それはちょっと」
流石に早苗は即座に断る。
あくまでも、早苗が楽しいのは異変解決に向けての正当なる妖怪退治だ。無闇やたらに妖怪に襲いかかりたい訳ではない。
それでは、まるで博麗神社の巫女ではないか。
早苗は、ああはなりたくなかった。
「んー、だったらどんなのが良いんだい? 早苗が望む事だったら大体の事は叶えるぞ?」
そう言うと諏訪子は「ほらほら、なんかないか―い」とか言いながら早苗の周りをグルグルと回る。
少しだけウザいが、反面可愛くもある。
(そうか。これがウザかわいいというものですね)
早苗は、自分の周りをグルグル回る諏訪子を見て、何かを掴む。
「でしたら、私からお願いがあります」
「なんだーい」
「少し見守っていてくれませんか?」
静かに、しかしきっぱりと早苗は宣言する。
「あ、やっぱ少しウザかったかな」
「い、いえ、そう言う事ではないのですが。なんと言いますか、私はしばらくの間、このホームシックを楽しみたいのです」
「楽しむ?」
「はい。私は軽いホームシックにかかっています。いわば過去に郷愁を感じ、外の世界に懐かしさを覚えているのです。ですが、それは耐えきれない寂寞感ではなく、少し後ろ髪を引かれるような心地よいノスタルジィなのです」
そう言って、早苗は自分の胸を抱き締めた。
「たぶん、この郷愁は少しずつ消えていくのだと思います。幻想郷に親しみ、ここが完全に故郷になった日には、外の世界を懐かしむ事はあっても、こんな郷愁を覚える事は無くなるでしょう。だから、今はこの感傷に身を委ねていたいのです」
涼やかな風が本殿の中を撫でた。
そんな風に吹かれている早苗を見て、諏訪子はしみじみと「ああ、大人になったんだなぁ」と感慨を抱く。
「分かった。私はしばらく見守っていよう。でも、本当に寂しくなったら言うんだぞ? 私は早苗の神様なんだから」
「はい、わかりま……ひゃ!」
頷こうとして早苗が声を上げる。
神奈子が眠ったまま早苗の足を掴んできたからだ。
「自分も、って意志表示なのかね」
呆れ顔で諏訪子は神奈子を布団に戻す。
そんな神奈子と諏訪子を見て、早苗はとても嬉しそうにしているのだった。
いまだ、望郷の念は尽きぬ。
外の世界に郷愁を覚える。
しかし、自分の居場所は此処なのだ。
早苗は、自分を幻想郷に導いた二柱の神を見て、それを深く実感するのだった。
「待たせたわね!」
夕方四時近くになって、八雲紫は守矢の神社に現れた。
幻想郷のすべてを愛する少し見境のないこの妖怪は、例え相手が神や悪魔であろうとも、お呼びとあらば即参上するのである。
しかし、現れてみたが少しばかり遅かったようだ。
「あら、まあ」
守矢の神社の本殿に敷かれた一組の布団。そこに寝ているものを見て、紫は思わず笑みが零れる。
布団に寝ている八坂神奈子、それを看病の途中で寝てしまっている東風谷早苗、そして神奈子の上で寝ている洩矢諏訪子と、器用に一組の布団を使って寝ている守矢一家の姿があったのだ。
「このままだと風邪を引くでしょうに」
そう言うと紫はスキマから毛布を取り出して、早苗と諏訪子にかけてやった。
「さて、他にやる事もないようですし。お暇しましょうか……それにしても、健やかな良い寝顔ですこと」
紫は三人の寝顔を見て、クスリと笑う。
「それでは皆様、良い夢を」
了
「知ってます」
「その用途はコーヒーを……」
「ええ、大体分かっていますので。ええと、それで一箱お幾らですか?」
「い、いや、その、外の世界では……」
「お幾らですか?」
「……一箱、30銭だ」
「お安いですね。それでは3箱ばかり貰いましょう」
「毎度、ありがとうございました……」
「あと、そこの隅に積んであるのは缶ビールの箱ですよね?」
「そ、それは……」
「お幾らですか?」
引きつった笑顔を浮かべる霖之助に対し、東風谷早苗はにっこりと笑った。
かのような香霖堂のやり取りの後、東風谷早苗は缶コーヒーが詰まった段ボール3箱と缶ビール1箱背負って、妖怪の山への道程を歩いていた。
それは相当な重量なのだが、流石は現人神というところか。早苗は涼しい顔をして妖怪の山を登っている。
最も、それは現人神の神性というだけでなく、幻想郷に移住してからの大半を妖怪の山という厳しい環境で過ごしていれば、自然と足腰は強靭となるのかもしれない。
「今日は良いものが手に入りました」
にこやかに早苗は笑う。
早苗は、幻想郷の住人の大半がそうであるようにお茶党であるが、外の世界の味が懐かしくなった時にはコーヒーなども嗜む。
そして、インスタントコーヒーや本格的なコーヒーセットなどを神社に用意し、コーヒーが欲しくなった時には喫茶店のマスターよろしく香り立つコーヒーを淹れるのだが、これにはお茶と同様の幻想郷ならではの問題点がある。
お茶やコーヒーはお湯が無ければ作れないのだ。
外の世界であればお湯などはガスを捻ればコンロに火が付き沸かせるし、それを保温しておく技術も豊富にある。
しかし、幻想郷で湯を沸かすには相応の手間暇が掛かり、一杯のお茶を淹れるにも苦労が必要だ。
そこで缶コーヒーである。
缶に詰められたコーヒーであれば湯を沸かす手間を省いて、それを開けるだけでコーヒーを楽しめるのだ。
「そう言えば、外の世界に居た時は缶コーヒーなんて買った事は無かったな……」
早苗が呟いた時に、強い風が吹いた。
風に吹かれて乱れる髪を抑えながら、早苗はふと後ろを振り返る。
麓にある霧の湖、紅魔館、そしてずっと先には人間の里。人里離れた我が家への道の途中にある光景、それを見て現人神はなぜか郷愁を覚えてしまう。
なんとなく、早苗は担いでいた段ボール箱を下ろし、それに腰をかけた。
そしてコーヒーの入った段ボール箱の端をちょっと開けて、缶コーヒーを一本だけ取り出す。
プルトップが切り離されるタイプの、スチール缶の缶コーヒー。
金属が切り離される鋭い音と共にそれは開く。
「けど、見た事もないメーカーですね」
幻想入りした缶コーヒーだけあって、早苗が買った缶コーヒーはかなり古いモノらしい。
少しだけ不安を感じながらも、彼女は缶コーヒーを飲む。
「無意味に甘い……ッ これって本当にコーヒーですか?」
そんな文句を言いながらも、早苗はコーヒーを全部飲みきると、切り離したプルトップを空になった缶の中に入れた。
カラカラと音の鳴る玩具になった缶を振りながら、早苗はしばしの間、幻想郷の景色を見入っていた。
「……ホームシックって奴なのかな」
早苗はぽつりと呟いた。
守矢の神社の本殿には、一つのちゃぶ台がある。
それは昭和の高度成長期を支えた古典的ちゃぶ台であり、幾度となく頑固親父によってひっくり返されてきたちゃぶ台だ。
このちゃぶ台は守矢神社の真の祭神である洩矢諏訪子のお気に入りで、かの神はちゃぶ台の下に潜ってはそこで本を読んだり、ちゃぶ台の上に乗ったりと、デキる女の幻想郷ちゃぶ台ライフを思うがままに満喫している。
本日はちゃぶ台をハスの葉に見立てて、諏訪子はちょこんとそこに乗っていた。
特に何かをしたい訳ではない、本能みたいなものだ。
「何をしてるんだ」
そこに八坂神奈子がやって来た。
どうやら神奈子は、洩矢諏訪子の行儀の悪い仕草におかんむりのようだ。
機嫌が悪そうにしかめっ面をしている。
「神奈子こそ何をしに来たんだ」
しかし、諏訪子はそんな事はどこ吹く風と自分の居場所にやってきた神奈子に対し、非難を浴びせた。
「私か?」
「そりゃ、八坂神奈子はお前しかいないだろう」
「いや、私は……あの湖の上って、風が強くて寒いから。ここは暖かいし」
「……よわっ!」
呆れ顔で諏訪子が叫ぶと、神奈子はくしゅんと可愛らしく嚏(くしゃみ)をする。
どうやら、しかめっ面は機嫌が悪いからではなく体調が悪いからのようだ。
「このところ、空っ風が寒くてなぁ……少し熱っぽいし」
「なあ、神奈子」
「なんだ」
「鼻水垂れてるから、鼻をかめ」
「おお」
ちゃぶ台の下に転がっていたティッシュの箱を差し出され、神奈子は音を立てて鼻をかんだ。
そして「……風邪をひいたかも知れん」と悲しげな顔でボソリと呟く。
「……お前って、風神でもあったよな」
「たぶん。そうだった気がする」
熱が出ているのか、ちょっと赤い顔で神奈子は答える。
それを見て諏訪子は深いため息を吐いた。
「……お前、何処に神性を落っことしてきた」
くしゅんくしゅん、と何度も嚏をする神を見ながら、ずっと昔にそんな神に打ち負かされた土着神は切なそうにしているのだった。
「とりあえず、熱はどうなんだ」
諏訪子は神奈子の額に手を当てる。
「うう、諏訪子の手が冷たい」
「いや、きっとお前が熱いんだよ。というか、こんなに悪化する前に、なんでもっと早く言わないんだ」
「……だって。風雨神が風邪を引いたなんて、かっこ悪いじゃないか」
「大丈夫だ。日頃からかっこ悪いから、これ以上お前の株が下がる事は無い」
「そうか。良かった……」
慰めになっているようで、まったくなっていないのだが、なぜか神奈子は、その言葉に安心する。
そして諏訪子は「イマイチよく分からないな」と言って帽子を取ると、自分の額を使って神奈子の熱を測ろうとした瞬間、
「ただいま戻りましたー。見てください、こんなに缶コーヒーやビールを買ってきちゃいました」
と、早苗が突然、戸を開けた。
そして帰ってきたばかりの東風谷早苗は、二柱の神が額と額をくっ付けてる様を見て絶句する。
「い、いや、ちょっと待て」
「……うん、早苗?」
慌てて弁解する諏訪子と熱を帯びて妙に色っぽい目を向ける神奈子、それを見て早苗は「どうやら、お楽しみだったようですね」と、合点して戸を閉めようとする。
「ご、誤解だ!」
洩矢諏訪子の叫びが、妖怪の山に響き渡った。
布団を敷き、額を冷やす為の濡れタオルを用意し、永遠亭で八意印の薬を貰って来た。
早苗と諏訪子は八坂神奈子の看病をしている。流石に風神の湖は看病に向かないので、神奈子は守矢神社の本殿、諏訪子の寝床に寝かせていた。
「お眠りになられたようですね」
「そだねー、早苗も買い物から帰って早々ごくろうさま」
ほっと一息といった様子の早苗に、諏訪子は労いの言葉をかける。
「けど、神様も風邪を引くんですね」
「引くみたいだねぇ。私は引いた事無いけど。ついでに普通は引かないけど」
感心するように神奈子を見る早苗に対し、諏訪子はどこか遠い目をしていた。
「……まあ、幻想郷に来たから色々とあったし、疲れが出たんだろうけど」
「そうですね、色々とありました」
諏訪子の呟きに早苗が同意する。
「それで倒れるのは、普通は早苗の仕事だと思うんだがなぁ」
「わ、私ですか?」
「少なくとも、神のやる事じゃない」
そう言うと諏訪子は神奈子の額に置かれている濡れタオルを取って、冷水に付けて絞る。
「あ、私が……」
「いいよいいよ。早苗は適当に休んでいなって、これで看護疲れが出て、今度は早苗が病気にでもなったら大変だからね」
そう言うと諏訪子は、冷やしたタオルを神奈子の額の上に戻した。
「病気、ですか……」
「ん、どったの?」
「いえ、そう言えば私もちょっとした病気にかかっているな。と、思いだしてしまいまして……」
早苗は少し苦笑いをする。
今の早苗は、ホームシックという病気にかかって、少しばかり外の世界が恋しくなっているからだ。
「それじゃあ、私は晩御飯の準備をしてき」
「病気って、なんの病気だ!」
「うわっ、びっくりした!」
それまで、熱にうなされて寝込んでいた神奈子が飛び起きる。
「早苗が病気って、どんな病気なんだ! よし分かった、私が神の奇跡によって速攻で治してやるからな! まったく病魔のクソッタレめ、私の可愛い早苗を蝕むとはいい度胸をしている。ハッ、良いから来いよ。ハリー! ハリー! ハリー!」
「良いから寝てろよ」
自分の風邪ひとつ治せない神様は、相方の神様によって眠らされて布団に崩れ落ちた。
「まあ、神奈子の言う事は置いておいて、一体病気ってなんだ? パッと見には早苗は病気をしているようには見えないけど」
「はあ。それがお恥ずかしい話ですが……ちょっと、ホームシック気味のようでして」
少しだけ恥ずかしそうに、早苗は頭を掻きながら答える。
「……ホームシック! 直訳すれば家が病んでいる……だと!?」
諏訪子の慣れないボケに早苗は頭を抱えた。
冷たい空気が守矢の神社を包んでいたのだった。
その頃、八雲紫は優雅なティータイムを過ごしていた。
香り高いアフタヌーンティーを飲みながら、やたら分厚い『午後』という名の漫画雑誌を優雅に読む。
「ふふふ、それじゃあ四季賞をじっくり堪能しようかしら」
そんな事を呟きながら、少し古いアフタヌーンに挟まれた四季賞の別冊を取り出し、それを開こうとした瞬間、声ならぬ声を聞いて、紫は突然立ち上がる。
「私を呼ぶ声がする!」
賢明なる読者諸兄はお気づきの事と思うが、八雲紫は『紫イヤー』という幻想郷全土をカバーする地獄耳を持っているのである。
これにより、紫は幻想郷で起こっている事件を全て把握し、即座に介入する事が出来るのだ。
「それでは行くわよ!」
即座に紫はスキマを開いた。
賢明なる読者諸兄はお気づきの事と思うが、八雲紫は『境界を操る程度の能力』によってスキマを開き、なんだか良く分からない亜空間を通って、幻想郷のいたる所に現れる事が出来るのだ。
「……と、言いたいところだけど、アフタヌーンティーだけは飲んでから行きましょう」
再び紫はティータイムに戻った。
賢明なる読者諸兄はお気づきの事と思うが、八雲紫は少女的思考の持ち主である。
お茶の席を途中で席を立つなどという無作法は出来ないのだ。
「あちち」
急いでお茶を飲みきろうとして、舌を火傷しそうになっている八雲紫は置いておいて、舞台は再び守矢の神社へと戻っていく。
「…………ええと」
どうしよう。突っ込んだ方が良いのだろうか、という苦悩を滲ませながら、早苗は諏訪子に声をかける。
「ほ、ホームシックか! うん、それは大変な事だな。しかし、結局は気の持ちようだし、なんとか克服するしかないな!」
顔を真っ赤にして諏訪子がまくし立てる。
さっきの慣れないボケを打ち消そうと必死なのだ。
「そ、それで諏訪子様はホームシックを治す為には、どうすればいいと思いますか?」
「そうだな。ホームシックは心の問題だし、楽しい事をするのはどうだろう?」
「えっと、楽しい事ですか?」
「そうだ! 楽しい事だ! そうすればきっと早苗のホームシックなんか吹っ飛ぶさ!」
「……楽しい事。私が楽しいと感じる事」
「そう、早苗の楽しい事はなんだい?」
「そうですね……妖怪退治は楽しかったです」
そういうと早苗はニヤリと笑う。
それは、あまり性質のよろしく無い、たとえば博麗神社の巫女がするような笑みだった。
(ああ、染まってるなぁ)
それを見て、諏訪子はなんとなく手遅れな気分を味わっていると、唐突に寝ていた神奈子が起きだした。
「私にまかふぇろ!」
まともに喋れていなかった。
「いや、良いからお前は寝てろよ……」
「私が一番早苗の事を分かっているんだぁ……」
ヘロヘロになりながら、神奈子は布団に沈んでいく。
そんな神奈子を見て、諏訪子は疲れたように溜息を吐いた。
「しかし、ホームシックの解消か……とりあえず、早苗が妖怪退治が楽しいって言うんだったら、妖怪の山で妖怪狩りでもするかい?」
諏訪子は平然と、とんでもない事を言った。
「いや、それはちょっと」
流石に早苗は即座に断る。
あくまでも、早苗が楽しいのは異変解決に向けての正当なる妖怪退治だ。無闇やたらに妖怪に襲いかかりたい訳ではない。
それでは、まるで博麗神社の巫女ではないか。
早苗は、ああはなりたくなかった。
「んー、だったらどんなのが良いんだい? 早苗が望む事だったら大体の事は叶えるぞ?」
そう言うと諏訪子は「ほらほら、なんかないか―い」とか言いながら早苗の周りをグルグルと回る。
少しだけウザいが、反面可愛くもある。
(そうか。これがウザかわいいというものですね)
早苗は、自分の周りをグルグル回る諏訪子を見て、何かを掴む。
「でしたら、私からお願いがあります」
「なんだーい」
「少し見守っていてくれませんか?」
静かに、しかしきっぱりと早苗は宣言する。
「あ、やっぱ少しウザかったかな」
「い、いえ、そう言う事ではないのですが。なんと言いますか、私はしばらくの間、このホームシックを楽しみたいのです」
「楽しむ?」
「はい。私は軽いホームシックにかかっています。いわば過去に郷愁を感じ、外の世界に懐かしさを覚えているのです。ですが、それは耐えきれない寂寞感ではなく、少し後ろ髪を引かれるような心地よいノスタルジィなのです」
そう言って、早苗は自分の胸を抱き締めた。
「たぶん、この郷愁は少しずつ消えていくのだと思います。幻想郷に親しみ、ここが完全に故郷になった日には、外の世界を懐かしむ事はあっても、こんな郷愁を覚える事は無くなるでしょう。だから、今はこの感傷に身を委ねていたいのです」
涼やかな風が本殿の中を撫でた。
そんな風に吹かれている早苗を見て、諏訪子はしみじみと「ああ、大人になったんだなぁ」と感慨を抱く。
「分かった。私はしばらく見守っていよう。でも、本当に寂しくなったら言うんだぞ? 私は早苗の神様なんだから」
「はい、わかりま……ひゃ!」
頷こうとして早苗が声を上げる。
神奈子が眠ったまま早苗の足を掴んできたからだ。
「自分も、って意志表示なのかね」
呆れ顔で諏訪子は神奈子を布団に戻す。
そんな神奈子と諏訪子を見て、早苗はとても嬉しそうにしているのだった。
いまだ、望郷の念は尽きぬ。
外の世界に郷愁を覚える。
しかし、自分の居場所は此処なのだ。
早苗は、自分を幻想郷に導いた二柱の神を見て、それを深く実感するのだった。
「待たせたわね!」
夕方四時近くになって、八雲紫は守矢の神社に現れた。
幻想郷のすべてを愛する少し見境のないこの妖怪は、例え相手が神や悪魔であろうとも、お呼びとあらば即参上するのである。
しかし、現れてみたが少しばかり遅かったようだ。
「あら、まあ」
守矢の神社の本殿に敷かれた一組の布団。そこに寝ているものを見て、紫は思わず笑みが零れる。
布団に寝ている八坂神奈子、それを看病の途中で寝てしまっている東風谷早苗、そして神奈子の上で寝ている洩矢諏訪子と、器用に一組の布団を使って寝ている守矢一家の姿があったのだ。
「このままだと風邪を引くでしょうに」
そう言うと紫はスキマから毛布を取り出して、早苗と諏訪子にかけてやった。
「さて、他にやる事もないようですし。お暇しましょうか……それにしても、健やかな良い寝顔ですこと」
紫は三人の寝顔を見て、クスリと笑う。
「それでは皆様、良い夢を」
了
ちなみに古い缶コーヒーは異様に酸味がキツイような気がした。
囲炉裏の火を絶やさずにおいて炊事や照明に使うなんてことが
出来るようになるのかな
ところで、カームブレイカー連載当時のアフタヌーン?
それはそうと、ハリーはレミリアに言わせましょうよw
ホームシックというものが少し良いものに思えてきました。
早苗の、自分の弱さを肯定できる強さが、切なく、そして格好良かったです。
あと、冒頭の笑顔で交渉する早苗さんが素敵に無敵でドキドキした
やっぱり、雑誌類は古いバックナンバーから
順々に幻想入りしていくんでしょうか……。
紫イヤーが地獄耳なら、紫カッターは熱光線ですねっ!
そして『かぜのかみさま』からナウシカを連想したのは、私と貴方の秘密です。
早苗さんの在り方に憧れる。神様の人間臭さに親近感が沸く。いいお話でした。
それにしても、逞しくなったね、早苗さんwww
紫何故出てきたって感じでしたが、最後いいとこもってった。
一先ずMAXで乾杯しますか。
ところが、いつか消えてしまうこの郷愁を歯がゆくも味わいたいと受け入れる早苗さんを見て、しみじみ関心する諏訪子。
この諏訪子の心情が、読者の抱く感想と自然と同期するのは、なかなか読んでいて気持ちの良いものでした。
ゆかりんかわいい